AdAd
  
ケモナーおっさん転生記(6)

  第26話:英雄の辞退と、勘違いの忠誠

  目を覚ましてから、数週間が過ぎた。

  俺の体は日に日によくなり、今では介助なしで病室を歩き回れるくらいには回復していた。

  獣人の回復力と、【CON:18】という耐久値のおかげだろう。

  酷かった両手の傷も、ようやく包帯が取れた。

  まだ赤黒い傷跡が残り、皮膚が突っ張っているが、「挽肉」と言われた状態から考えれば奇跡的な回復だ。

  「……ッ、」

  指を一本動かそうとするだけで、焼きごてを当てられたような激痛が走る。

  まだ神経が過敏になっているのだ。

  だが、担当の治癒師は鬼のような顔でこう言った。

  『骨も筋も、魔法で正常にくっつけました。あとは、あなた自身が痛みに耐えて、無理にでも動かしていくしかありません。動かさなければ、そのまま固まって二度と動かなくなりますよ』

  リハビリという名の拷問だ。

  だが、このままでは、ウィルに一生あーんしてもらうことになってしまう。

  ……それはそれで悪くない気もするが、自分のことくらいは自分で出来るようになりたい。

  俺は窓の外を見上げた。

  村を出てから、ずいぶんと時間が経ってしまった。

  当初の予定では、とっくに村へ帰っているはずの時期だ。

  (……みんな、心配してるだろうな)

  マーサ院長や子供たちの顔が浮かぶ。

  だが、その点についてはハンスが先手を打ってくれていた。

  俺が昏睡している間に、ハンスが村へ早馬を出し、事情を説明してくれたらしい。

  もちろん「ドラゴンと殴り合って両手が潰れた」などというハードな事実は伏せ、「領主様との親睦が深まり、賓客として冬の間は滞在することになった」と伝えてあるそうだ。

  俺の怪我の具合からして、帰還は早くとも雪解けの春になるだろう、とのことだった。

  コンコン。

  控えめなノックの音がして、病室のドアが開いた。

  「体調はいかがかな、ガク殿」

  入ってきたのは、騎士団長だった。

  彼は椅子を引いてベッドの脇に座ると、真剣な眼差しで俺を見た。

  「本日は、今後のことについて話しに参った」

  「……ホウシュウ、ノ、ハナシカ?」

  「ああ。それと、貴殿の『立場』についてだ」

  団長は居住まいを正した。

  「単刀直入に問おう。……貴殿は、国の英雄になりたいか?」

  団長の言葉は重かった。

  ドラゴンを単独で(正確にはハンスたちの援護があったが)討ち取ったとなれば、国中がひっくり返る騒ぎになる。

  王都へ招かれ、勲章を授与され、貴族として迎え入れられるかもしれない。

  金も名誉も、思いのままだろう。

  だが。

  「……イヤダ」

  俺は即答した。

  そんな生活、俺の望むスローライフとは対極にある。

  貴族の礼儀作法? 派閥争い? 社交界?

  想像しただけで胃に穴が空きそうだ。俺はただ、美味いものを食って、ウィルと昼寝がしたいだけなのだ。

  「……オレ、エイユウ、ガラジャナイ。……シズカニ、クラシタイ」

  俺がそう告げると、団長は「やはりな」と、どこか安堵したように息を吐いた。

  「貴殿がそう申すことは、わかっていた」

  「……ナラ」

  「だが、そうなると……ドラゴン討伐の『公式な功績』は、我々騎士団のものとして処理することになる」

  団長は苦渋の表情を浮かべた。

  「貴殿が命懸けで成し遂げた偉業を、我々が横取りする形になってしまう。……武人として、これほど恥ずべきことはない。申し訳ない」

  団長が深々と頭を下げる。

  実直な人だ。

  だが、俺にとってはむしろ好都合だった。

  「……カマワナイ。……ムシロ、アリガタイ」

  「ガク殿……」

  「……オレ、ナマエ、デル、コマル。……キシダン、タタカッタ。……ソレデ、イイ」

  俺が言うと、団長は顔を上げ、強い決意を込めた目で俺を見つめ返した。

  「……承知した。貴殿の意思を尊重しよう」

  団長は、俺の手――包帯が取れ、傷だらけになった手を見つめた。

  「王都の政治屋どもは、貴殿のような傑物を放ってはおかないだろう。英雄に祭り上げ、自派閥の旗印として利用しようとする輩もいる」

  「……」

  「だが、安心してくれ。私が命に代えても、そんなことはさせない。貴殿の平穏は、アイゼンベルク騎士団の名にかけて守り抜く」

  頼もしい言葉だった。

  この人が味方でいてくれるなら、面倒な貴族たちも手出しはできないだろう。

  「公的な記録には残らないかもしれない。だが……」

  団長が立ち上がり、右手を左胸に当てて敬礼した。

  「真の英雄は、間違いなく貴殿だ。私と、ここにいる騎士団員全員が、その事実を忘れることはない」

  「……レイ、イウ。……ダンチョウ」

  俺も座ったまま、不格好に頭を下げた。

  「この件は、領主である辺境伯様にも報告済みだ。……後日、領主様が貴殿に会いたいと仰っている」

  俺は思わず顔をしかめた。

  領主との面会。それはまた、面倒なことになりそうだ。

  「……リョウシュ、カ?」

  「心配には及ばん。辺境伯様は生粋の武人だ。政治的な駆け引きよりも、個人の武勇を重んじる方でな。貴殿の事情も、人となりも伝えてある」

  団長はニヤリと笑った。

  「公式な謁見ではない。一人の武人として、貴殿と話をしたいそうだ。堅苦しい場にはしないと約束する」

  「……ナラ、ワカッタ」

  それなら断る理由はない。

  俺が了承すると、団長は「助かる」と頷いた。

  「面会に際して、服を仕立てさせている。貴殿の体格に合う服は、市井の店にはないからな」

  「……タスカル」

  団長はそこで言葉を区切り、部屋の隅に視線を移した。

  「それと、ウィル少年の分もある」

  え?

  俺と団長の視線が、同時に部屋の隅に控えていたウィルに向いた。

  ウィルは「えっ、僕も?」と目を丸くして自分を指差している。

  「……ウィル、モ?」

  「ああ、もちろんだ」

  団長は大真面目な顔で頷いた。

  「辺境伯様は、英雄の『主』にも、ぜひお会いしたいとのことだ」

  「……」

  「……」

  病室に沈黙が流れた。

  ウィルはポカンとし、俺は天を仰いだ。

  あの氷山龍討伐の直前、俺は団長に『故郷も過去も失った自分に、居場所をくれたのがウィルだ』と話した。

  ハンスからの報告で、ウィルが孤児院育ちの普通の子供だとは知っているはずだ。

  だが、その時の俺の言葉が、団長の中では『亡国の騎士が、命の恩人である幼き少年に生涯の忠誠を誓った』 という美談として定着してしまっているらしい。

  たとえ社会的地位が孤児であっても、英雄たる俺が「主」と定めた相手ならば、それは敬意を払うべき「英雄の主君」に他ならない――と、勝手に脳内補完され、最大限の敬意を払おうとしているのだろう。

  「命の恩人」というのは間違ってはいないが、忠誠とかそういう堅苦しいものじゃないんだが……。

  ウィルが困惑して俺を見る。

  俺は「諦めろ」と目で合図を送った。

  「……ワカッタ。……ウィル、モ、ツレテイク」

  「うむ。楽しみにしている」

  団長は満足げに頷くと、部屋を後にした。

  パタン、とドアが閉まる。

  「……ねえ、ガクさん。今の、『主』って……」

  「……キニスルナ。……オトナ、ハ、フクザツ、ナンダ」

  俺は深々とため息をついた。

  ただの熊と、ただの孤児。

  そんな俺たちが、なんだか随分と大層な立場に祭り上げられようとしている。

  辺境伯との面会。

  どうなることやら、不安半分、諦め半分といったところだ。

  [newpage]

  第27話:鉄血の執務室と、三つの報酬

  翌朝。

  迎賓館の一室で、俺は慣れない作業に悪戦苦闘していた。

  「……ン、ググ……」

  指が震える。

  団長が用意してくれた特注の礼服を着ているのだが、ボタンがどうしても留まらないのだ。

  怪我は治ったとはいえ、まだ指先の感覚が完全には戻っていない。そもそも、繊細な作業は、骨太すぎるの俺の指にはハードルが高かった。

  「ガクさん、じっとしてて。僕がやるよ」

  見かねたウィルが、部屋の椅子を引きずってきて、その上にぴょんと飛び乗った。

  俺の胸元に小さな手が伸びてくる。

  「……ワルイ、ナ」

  「ううん! 任せてよ!」

  ウィルは楽しそうに鼻歌交じりでボタンを留め、襟元を整えてくれた。

  鏡に映った俺たちの姿は、なかなかのものだった。

  俺が着ているのは、黒を基調とした軍服風のロングコートだ。

  肩幅や胸板は筋肉の隆起にぴったりと沿うように計算されており、それがかえって威圧感を増している。

  ウィルもまた、上質な生地で仕立てられた服を着ていた。いつもの服とは違い、どこぞの良家の子息に見えなくもない。

  「うん、完璧! 行こう、ガクさん!」

  「……アア」

  俺たちは部屋を出て、迎えの馬車に乗り込んだ。

  ***

  案内された場所は、煌びやかな「王城」などではなかった。

  そこは、鉄と石で作られた巨大な「要塞」だった。

  領都の中枢、アイゼンベルク城。

  廊下ですれ違う兵士たちは、一糸乱れぬ動きで巡回しており、俺の巨体を見ても悲鳴を上げたりはしない。ただ、畏怖の混じった鋭い視線を向け、無言で敬礼してくるだけだ。

  ここは政治の場ではない。最前線の軍事基地なのだ。

  「こちらです」

  先導するグスタフ団長が、ある部屋の前で足を止めた。

  そこは「謁見の間」ではなかった。

  重厚なオーク材の扉の前には、全身を鎧で固めた二名の近衛兵が、石像のように直立不動で守りを固めている。

  彼らはグスタフ団長の姿を認めると、無言で踵を鳴らして敬礼し、重い扉を左右から押し開けた。

  「……どうぞ」

  団長に促され、中に入ると、プンと鼻をつく匂いがした。

  インクと古紙、そして微かな機械油の匂いだ。

  部屋の壁には、歴代の主が使ったであろう大剣やハルバードが無造作に飾られ、巨大な暖炉ではパチパチと薪が爆ぜている。

  そして部屋の奥、書類の山に埋もれた執務机に、その男はいた。

  老眼鏡をかけ、不機嫌そうに羽ペンを走らせている初老の犬獣人。

  毛並みは渋いロマンスグレーが混じった黒褐色。ピンと立った耳と、鋭い顔つきは、老いてなお盛んなジャーマン・シェパードそのものだ。

  (……この人が、辺境伯)

  俺とウィルが緊張して立ち尽くしていると、男――ゲオルグ・フォン・アイゼンベルク辺境伯が、ふと顔を上げた。

  金色の鋭い瞳が、俺たちを射抜く。

  怖い。歴戦の将軍だけが持つ、独特の覇気だ。

  俺が慌てて頭を下げようとした、その時だった。

  「おお! 来たか!」

  辺境伯はかけていた老眼鏡を机の上に放り投げると、ドカッと椅子を蹴って立ち上がった。

  「お前さんが噂の熊か! デカいとは聞いていたが、こりゃあ動く城壁だな! ガハハハ!」

  その声は、部屋の空気をビリビリと震わせるほど豪快なものだった。

  さっきまでの気難しそうな雰囲気はどこへやら、彼はニカッと白い歯を見せて笑いながら、机を回り込んで俺の前にやってきた。

  「……エ?」

  「ん? どうした? 呆けた顔をして」

  「……ア、イヤ。……カッカ、ト、キイテタ、カラ」

  もっと厳格で、冷徹な人物を想像していた。

  俺が戸惑っていると、後ろに控えていたグスタフ団長が、やれやれと溜息をついた。

  「閣下。……初対面の賓客相手に、その崩した口調はいかがなものかと」

  「うるせぇよグスタフ。ここは俺の執務室だ。堅苦しい儀礼なんぞ知ったことか」

  辺境伯は鼻を鳴らすと、バシバシと俺の腕を叩いた。

  「それに、コイツを見ろ。この筋肉! 見せかけの飾りじゃねぇ、実戦で練り上げられた『本物』だ。こういう手合いはな、遠回しな貴族言葉よりも、腹を割った話の方が好みなもんだ。……違うか?」

  ニヤリと笑いかけられ、俺は思わず苦笑した。

  「……チガイ、ナイ」

  「だろう? ガハハ! 気に入った!」

  どうやら、この領主様は見た目通りの「現場主義」らしい。

  俺たちは促されるまま、執務机の前にある革張りのソファに腰を下ろした。

  団長だけは座ろうとせず、辺境伯の斜め後ろに直立不動で控えている。

  「さて、本題といこうか」

  辺境伯もソファにドカッと腰を下ろすと、先ほどまでの笑顔をスッと引込め、真剣な眼差しになった。

  「グスタフから聞いたぞ。……英雄の座はいらねぇんだってな?」

  「……アア。……ガラジャ、ナイ」

  「賢明な判断だ」

  辺境伯は短く言い切った。

  「王都の貴族どもは、欲に飢えた亡者の集まりだ。お前さんのような純粋な武人を、派閥争いの道具にするか、あるいは……」

  そこで言葉を区切り、辺境伯の瞳が冷ややかな光を帯びた。

  「扱いづらい『異物』として、始末しようとするか。……どちらにせよ、ロクな結末にはならん」

  背筋がヒヤリとした。

  この男は、豪快に振る舞ってはいるが、その裏で常に冷徹な計算をしている。

  もし俺が、自分の力を過信して権力を欲しがるような俗物だったら、この男も俺を「敵」と見なして排除にかかっていたかもしれない。

  俺の「事なかれ主義」が、結果的に正解を引き当てたようだ。

  「……オレ、タダ、タビ、シタイ。……ソレダケ」

  「ああ、聞いている。グスタフからの報告書にな」

  辺境伯は表情を崩し、俺の隣にちょこんと座っているウィルに視線を移した。

  「そっちのチビ助……いや、ウィルに見聞を広めさせるために、世界を見て回りたいそうだな?」

  「……ハイ!」

  突然話を振られたウィルが、ビクッとして背筋を伸ばした。

  辺境伯は興味深そうにウィルを覗き込んだ。

  「ほう……。この俺の顔を見ても、泣き出さねぇとはな」

  「……ガクさんが、いるから。怖くないです」

  ウィルは震える声ながらも、しっかりと辺境伯を見返して答えた。

  その度胸に、辺境伯は「なるほどな」と感心したように顎を撫でた。

  「報告書には、ただの孤児とあったが……どうしてどうして。この英雄の魂を繋ぎ止める『芯の強さ』がある。

  いい目だ。……頼むぞ、小さな相棒。このデカブツが暴走しねぇように、しっかり舵を取ってやってくれよ?」

  「は、はい! 任せてください!」

  ウィルが胸を張ると、辺境伯は満足げに頷いた。

  「さて、実利の話だ。英雄の称号はやれんが、タダ働きさせるつもりもねぇ」

  辺境伯は引き出しから、ずっしりと重そうな革袋と、豪奢な鞘に収まった短剣、そして一通の書状を取り出し、ゴトリと机の上に並べてみせた。

  「まずはこれだ。……働いてくれた分の『餞別』だと思ってくれ」

  革袋が開かれると、中からとてつもなく巨大な魔石が現れた。

  大人の拳二つ分はあるだろうか。透き通るような蒼色が、部屋の明かりを受けてギラギラと輝いている。

  「氷山龍の魔石だ。換金すれば、小国の城が買えるかもしれん。旅の路銀にでもするといい」

  「お、お城……!?」

  ウィルはあんぐりと口を開け、その輝きに見入った。

  だが、すぐにハッとしたように顔を上げ、興奮気味に俺の袖を引いた。

  「す、すごいよガクさん……! これなら、ガクさんが毎日お肉をお腹いっぱい食べても、ずっと困らないよ!」

  城が買えると言われて、真っ先に出た感想が「食費」だった。

  これには辺境伯も虚を突かれたようだったが、すぐに腹を抱えて笑い出した。

  「ガハハ! よく分かってるじゃねぇか! 頼もしい金庫番がいて安心だな!」

  辺境伯はひとしきり笑った後、真面目な顔に戻って言った。

  「本来なら、討伐の最大功労者であるお前さんには、あのドラゴンの素材を全て手に入れる権利がある。……だが、お前さんの希望通り、公式には『騎士団の総力戦で討ち取った』ことになっている」

  「……」

  「だから、素材を丸ごと譲るわけにはいかねぇんだ。そんな真似をすれば不自然すぎて、王都の諜報員どもに『裏に誰かいる』と探られちまうからな」

  「……ナルホド。……ワカッタ」

  確かにその通りだ。もし俺が大量のドラゴン素材を売り捌いたりすれば、あっという間に足がつく。

  辺境伯は、俺の「平穏な旅」を守るための隠蔽工作として、あえて素材の譲渡を制限したのだ。

  「その代わりと言っちゃなんだが、この魔石と……ここにはねぇが、加工や持ち運びがしやすい牙や鱗をいくらか見繕って、お前さんたちの荷車に積ませておいた。武具の素材にするなり、少しずつ売るなり好きに使ってくれ」

  「……ジュウブンダ。……キズカイ、カンシャスル」

  辺境伯は「気にすんな」と鼻を鳴らし、次に豪奢な装飾が施された短剣を指差した。

  「二つ目は、この短剣だ。アイゼンベルク家の紋章が入っている。俺の直轄部隊の証だ」

  「……コレハ?」

  「通行手形代わりだ。これを見せれば、領内の検問は素通りできる。……そして、他の領でも役に立つはずだ」

  辺境伯は不敵に微笑んだ。

  「この紋章は、この領を越えてもそれなりに顔が利く。これを持つ者を粗末に扱えば、アイゼンベルク家への侮辱とみなされるからな。厄介ごとの魔除けくらいにはなるだろう」

  そして最後に、領主の印章が直接押された、分厚い竜皮紙の書状を差し出した。

  「三つ目は、商業ギルドへの紹介状だ。お前さんたちがこれから行く街にも、ギルドの支部はあるはずだ」

  「……ショウギョウ?」

  「旅をするにも先立つものは必要だ。魔石の換金や、物資の調達……どこの街へ行っても、ギルドの顔役を通すのが一番手っ取り早い」

  辺境伯は胸を張った。

  「ここには『コイツらは俺のツケで動いている』と書いてある。……要は、俺への請求だ。ギルドの支部がある場所なら、どこでも使える」

  至れり尽くせりだ。

  俺たちが「目立たず、かつ快適に旅をする」ために必要なものが、全て揃っている。

  この人は、俺が何を望んでいるのかを完璧に理解している。

  「……アリガトウ。……タスカル」

  「礼には及ばん。……持ちつ持たれつ、だ」

  辺境伯は立ち上がり、俺に手を差し出した。

  「国や立場は関係ねぇ。俺たちは今日から『友人』だ。……何かあったら俺を頼れ。その代わり、ウチがヤバい時は手伝えよ?」

  冗談めかして言っているが、目は真剣だった。

  俺はその分厚い手を、しっかりと握り返した。

  「……ワカッタ。……ヤクソク、スル」

  男同士の、固い握手。

  言葉以上のものが通じ合った気がした。

  「よし、話は終わりだ! グスタフ、二人を丁重に送ってやれ。祭りの期間中は街も騒がしい。警備は抜かりなくな」

  「はっ!」

  辺境伯は満足げに椅子に座り直すと、また不機嫌そうな顔で書類の山と格闘し始めた。

  俺たちは一礼し、部屋を後にした。

  ***

  帰りもまた、騎士団の用意した馬車だった。

  重厚な車輪の音が、石畳に響く。

  行きとは違い、肩の荷が下りたような安堵感が車内には漂っていた。

  「……ふぅ。緊張したぁ」

  迎賓館の自室に戻り、扉が閉まった瞬間、ウィルが大きく息を吐き出して長椅子にへたり込んだ。

  その手には、領主から受け取った「三つの報酬」がしっかりと握りしめられている。

  ウィルは大事そうに魔石と短剣を荷物袋の奥深くにしまい込むと、パンパンと服の埃を払って顔を上げた。

  「でも、いい人だったね、領主様! 顔はすごく怖かったけど……ガクさんのこと、ちゃんと認めてくれてたし」

  ウィルは無邪気に笑う。

  だが、俺は腕組みをして、先ほどの辺境伯の眼光を思い出していた。

  「……アア。……デモ、タダノ、イイヒト、ジャナイ」

  俺たちが望むものを、あそこまで完璧に用意して見せた手腕。それは単なる善意だけではないだろう。

  爵位や領地を与えれば、俺は貴族社会のしがらみに囚われ、いずれ派閥争いの火種になる。

  かといって、冷遇して俺を敵に回せば、ドラゴンをも殺す「暴力」が牙を剥くリスクを抱えることになる。

  だからこそ、あの男は「旅の資金と素材」「身分証」、そして「紹介状」という形をとったのだ。

  これなら俺は満足して旅立ち、貴族たちとも関わらない。それでいて「アイゼンベルク家の友人」という鎖で、緩やかに、だが確実に俺たちを繋ぎ止めることができる。

  豪快さの裏に見え隠れする、領主としての冷徹な計算と、強かな打算。

  (……一筋縄じゃいかないな)

  俺は小さく息を吐いた。

  「……テキ、ナラ、コワイ。……ミカタ、ナラ、タノモシイ」

  「え?」

  「……ナンデモナイ」

  俺は首を振り、思考を切り替えた。

  どんな思惑があろうと、今の俺たちにとって最高の味方であることは間違いないのだから。

  「さて、と。……お仕事も終わったし、これからどうする? ガクさん」

  ウィルが振り返り、悪戯っぽく笑った。

  窓の外からは、微かに賑やかな音楽と、食欲をそそる匂いが風に乗って漂ってくる。

  ドラゴン討伐を祝う祭りが、まだ続いているのだ。

  その匂いに反応したのか、俺の腹が盛大に鳴った。

  ――グゥゥゥゥゥ……。

  「……ハラ、ヘッタ」

  「あはは! やっぱりね」

  ウィルが楽しそうに笑う。

  「行こう、ガクさん! お祭りだよ! 屋台がいっぱい出てるはずだから、美味しいもの食べに行こう!」

  「……オウ。……ソノマエ、ニ」

  俺は首元のボタンに手をかけた。

  「……キガエル。……コレ、クルシイ」

  特注の礼服は格好いいが、全身の筋肉が締め付けられて肩が凝る。

  俺が不器用な指先でボタンと格闘し始めると、ウィルが「もう、無理に引っ張らないで!」と笑って駆け寄ってきた。

  「はい、じっとしてて。……よいしょ」

  ウィルの手助けで、俺たちは堅苦しい礼服を脱ぎ捨てた。代わりに袖を通したのは、いつもの着慣れた服だ。

  肌に馴染む感触に、ようやく呼吸が深くなるのを感じた。

  「……フゥ。……ヤッパリ、コレ、イイ」

  「うん! いつものガクさんに戻ったね!」

  ウィルも旅用の服に着替え、いつもの身軽な姿に戻った。

  鏡の前には、賓客ではない、ただの「ガクとウィル」が並んでいた。

  「よし、準備完了だね! 行こう、ガクさん!」

  「……オウ」

  俺たちは顔を見合わせ、頷いた。

  肩の力も、服装も、すっかり軽くなった俺たちは、賑わう祭りの喧騒へと足を踏み出した。

  [newpage]

  第28話:雪解けの祝杯と、兄からの剣

  迎賓館の重厚な扉を開けると、頬を刺すような冷気と共に、街の喧騒がどっと押し寄せてきた。

  夕暮れの空は蒼く澄み渡り、吐く息は白い。

  けれど、僕の心は不思議と温かかった。懐には領主様から頂いた短剣と、ずっしりと重い魔石がある。そして何より、隣にはいつもの格好に戻ったガクさんがいる。

  「よう、待ってたぞ」

  石段の下で手を上げたのは、ハンス兄ちゃんだった。

  いつもの白銀の鎧姿ではない。厚手の生地で織られた地味な外套を羽織り、腰に剣を下げただけの軽装だ。

  それでも、その大きな体躯と背筋の伸びた立ち姿は、隠しきれない武人の空気を漂わせている。

  「ハンス兄ちゃん! 仕事はいいの?」

  「ああ。団長が気を利かせてくれてな。『弟分との夜だ、羽を伸ばしてこい』と役目を免除してくれたんだ」

  ハンス兄ちゃんは白い歯を見せて笑うと、ガクさんに軽く会釈をした。

  「そういうわけです、ガク殿。今夜は俺がこの街を案内しますよ。……もっとも、俺もこんなに浮かれた街を歩くのは久しぶりですが」

  僕たちは顔を見合わせ、頷いた。

  領都アイゼンベルクの夜が始まる。

  ***

  大通りに出て、僕は目を丸くした。

  すごい人だ。

  石畳が見えないほどの人混み。あちこちで篝火が焚かれ、肉を焼く煙と酒の匂いが充満している。

  行き交う人々も、兵士や職人だけでなく、異国の衣装を纏った商人や、派手な身なりの旅芸人たちが混ざっている。

  「すごい……。討伐からもう随分経つのに、まだこんなに賑やかなんだね」

  僕が驚いて呟くと、ハンス兄ちゃんが苦笑しながら教えてくれた。

  「本来の祝勝会はとっくに終わっているんだがな。……これだけの騒ぎになったのは、外から来た連中のせいさ」

  ハンス兄ちゃんが顎で示した先には、荷物を満載した地竜の車列が並んでいた。

  「『氷山龍が倒された』という噂を聞きつけた商隊が、雪で閉ざされているはずの街道を、地竜を使って強引に越えてやってきたんだ。竜の素材を買い付けたい商人や、浮かれている兵士たちに酒や娯楽を売りたい連中が殺到してな。おかげでこの有様さ」

  季節外れの商隊の波。

  本来なら閉ざされる冬の都が、竜の死という好機によって熱を帯びているのだ。

  「……ヒト、タクマシイ」

  ガクさんが、呆れたような、感心したような声で漏らした。

  あんなに恐ろしい怪物がいたのに、喉元過ぎればなんとやら。人々はもう、その怪物の死すら商売の種にして楽しんでいる。

  「お、あそこを見ろ。噂の屋台だ」

  ハンス兄ちゃんが指差した先には、『名物! ドラゴンの串焼き』と書かれた看板が掲げられていた。

  屋台の前には長蛇の列ができている。

  「ドラゴン……って、まさか」

  「ああ。あの氷山龍の肉だ。解体された肉の一部が、こうして市中に出回っているらしい」

  僕たちは顔を見合わせた。

  あの山のような巨体。その肉の味。

  興味がないと言えば嘘になる。

  並ぶことしばし。僕たちの手には、串に刺さった黒っぽい肉塊が渡された。

  香辛料がたっぷりとかけられ、強火で炙られている。匂いは悪くない。

  僕は意を決して、その肉にかぶりついた。

  ――ガリッ、ギュウゥ……。

  「…………」

  僕は咀嚼を止めた。

  硬い。

  とてつもなく、硬い。

  まるで古くなった革靴の底か、木の根っこを噛んでいるようだ。噛み切れる気配がないし、味もなんだか泥のような風味がする。

  普段食べている竜肉とは、まるで別の物質だ。

  「……美味しくない」

  僕が正直な感想を漏らすと、隣で同じく肉と格闘していたガクさんも、無言で顎を動かし続けていた。ガクさんの強靭な顎をもってしても、飲み込むタイミングを掴めないらしい。

  「ははは! 美味いわけないだろう! 何せ樹齢数百年の大木みたいな生き物だからな」

  ハンス兄ちゃんは愉快そうに笑いながら、自分の分の肉を強引に引きちぎって飲み込んだ。

  「でもな、みんな食べたがるんだ。『あの氷山龍を食ってやったぞ』っていうのが、一番の自慢になるからな。これは味を楽しむもんじゃない。ただの記念だよ。珍しいもん食ったっていう、好奇心を満たすためのな」

  なるほど。

  味ではなく、話の種を食べているのか。

  僕は改めて、口の中の頑丈な肉と向き合った。

  これが、ドラゴンの一部。

  一生に一度あるかないかの珍味だと思えば、不味いのもまた一興かもしれない。

  僕は気合を入れて、ゴクリとそれを飲み込んだ。

  ***

  屋台の食べ歩きを終え、僕たちは大通りに面した酒場に入った。

  暖炉の火が燃える店内は、赤ら顔の男たちで溢れかえっている。

  僕たちは奥の席に陣取った。

  氷山龍の串焼きとは違い、ここで出された草竜の煮込みや、焼き立てのパンは絶品だった。

  「ぷはーっ! これだ、この一杯のために生きてる!」

  ハンス兄ちゃんが、樽杯に入った麦酒を豪快に煽り、口元の泡を手の甲で拭った。

  その顔は、任務中の厳しい騎士の顔ではなく、ただの酒好きの兄ちゃんの顔だ。

  楽しそうに酒を飲む姿を見て、僕も喉が鳴った。

  「ねえ、ハンス兄ちゃん。僕も一口だけ……」

  「ならん!」

  ハンス兄ちゃんが即座に杯を遠ざけた。

  「お前にはまだ早い」

  「えーっ。もうすぐ成人だよ? 春が来たら、村の祭りに出るんだもん」

  僕が抗議すると、ハンス兄ちゃんはニヤリと意地悪く笑った。

  「なら、春までお預けだ。……大人の楽しみを、今から急いで知ることはないさ。楽しみは取っておけ」

  「むぅ……ケチ」

  「……ウィル。……コッチ、ノメ」

  ガクさんが慰めるように、果実水を差し出してくれた。

  僕は渋々それを受け取り、麦酒を煽るハンス兄ちゃんを羨ましげに眺めた。

  酒が進み、宴もたけなわになった頃。

  ハンス兄ちゃんがふと、真面目な顔つきになった。

  兄ちゃんは腰に差していた短剣を鞘ごと外し、ドン、と卓の上に置いた。

  「ウィル。……これは餞別だ」

  それは、飾り気のない無骨な短剣だった。

  使い込まれた革の柄。傷だらけだが、よく手入れされた鞘。

  「これ……ハンス兄ちゃんがずっと使ってたやつ?」

  「ああ。俺が騎士団に入団した時、最初に支給された剣だ。……新しい剣もあるが、こいつには随分と助けられた」

  ハンス兄ちゃんは、愛おしむように鞘を撫でてから、それを僕の方へ押しやった。

  「いいの? 大事なものでしょ?」

  「俺よりも、これから旅に出るお前の方が入り用だ」

  ハンス兄ちゃんは、僕の目を真っ直ぐに見つめた。

  「ガク殿は強い。俺たち騎士が束になっても敵わんほどにな。……だがな、ウィル。いつまでも守られているだけじゃダメだ」

  「……!」

  「お前ももう大人になる。自分の身は、自分で守れるようになれ。……これは、そのための『牙』だ」

  自分の身は、自分で守る。

  その言葉が、胸にすとんと落ちた。

  僕は短剣を手に取った。ずっしりとした鉄の重み。

  それは、ハンス兄ちゃんが積み重ねてきた時間の重みであり、これから僕が背負うべき責任の重さのようにも感じられた。

  「……わかった。ありがとう、ハンス兄ちゃん。……大切にする」

  僕がしっかりと頷くと、ハンス兄ちゃんは満足げに目を細めた。

  そして、居住まいを正し、ガクさんの方を向いた。

  酔いは消え、真剣な眼差しがそこにあった。

  「ガク殿」

  「……ン?」

  「こいつは生意気で、無茶ばかりする弟ですが……どうか、よろしくお願いします」

  ハンス兄ちゃんが深々と頭を下げる。

  それは騎士としてではなく、一人の兄として、大切な家族を託す姿だった。

  ガクさんは、食事の手を止め、穏やかな瞳でハンス兄ちゃんを見つめ返した。

  「……マカセロ。……マタ、ノモウ」

  短い言葉。

  けれどそれは、「まだ別れじゃない」という、ガクさんなりの不器用で温かい約束だった。

  ハンス兄ちゃんが顔を上げ、嬉しそうに、少し泣きそうな顔で笑った。

  「ああ……! 是非! 俺の奢りでな!」

  ***

  酒場を出ると、夜は随分と更けていた。

  冷たい夜風が、火照った頬に心地よい。

  宿への帰り道、僕たちは並んで歩いた。

  腰には、貰ったばかりの短剣。隣には大好きなガクさん。そして背後には、手を振るハンス兄ちゃんの姿。

  冬はまだ続く。

  雪で道が塞がれているし、ガクさんの療養も必要だ。僕たちがこの街を出るのは、雪解けの春になるだろう。

  それまでの間、この鉄の都で冬を越すことになる。

  春になれば、僕は大人になり、そして本当の旅が始まる。

  不安もあるけど、腰に伝わる短剣の重みが、僕に少しだけ勇気をくれている気がした。

  「……帰ろう、ガクさん」

  「……オウ」

  僕たちは白い息を吐きながら、祭りの余韻が残る夜の街を、並んで歩いていった。

  [newpage]

  第29話:春の光と、あふれる荷物

  季節が巡った。

  鉛色の空は、澄み渡るような青空へと変わり、柔らかな陽光が降り注いでいる。

  雪解け水が水路を勢いよく流れ、石造りの街並みが瑞々しい輝きを取り戻していた。

  領都アイゼンベルクに、春が来たのだ。

  この冬の間、俺たちはこの街で穏やかな日々を過ごした。

  俺はと言えば、食っちゃ寝の生活……ばかりしていたわけではない。なまった体を鍛え直すために騎士団の訓練に混ぜてもらったり、警備の真似事を手伝ったりしていた。

  ウィルはウィルで、ハンスに剣や魔法の基礎を教わったり、街に出掛けたりと忙しそうにしていた。

  そして今日、街道の雪が完全に消えたとの知らせを受け、俺たちはついに領都を発つことになった。

  迎賓館の前には、騎士団が用意してくれた送迎用の竜車が待機していた。

  巨大な角を持つ地竜が繋がれた、頑丈な荷竜車だ。村まで送ってくれるという厚意に甘えさせてもらったのだが……。

  

  「……ナンダ、コレ」

  俺は荷台を見て絶句した。

  そこには、俺たちが来た時とは比べ物にならないほど、大量の木箱や麻袋が積み上げられていたのだ。

  荷台の一番奥、外からは見えないように厚手の幌で厳重に覆われているのは、辺境伯から『餞別』として貰った氷山龍の素材だ。公式には騎士団の功績となっている怪物の素材を、見ず知らずの旅人が大量に持っていては道中で怪しまれる。そのため、兵士たちが気を利かせて厳重にカモフラージュしてくれたのだ。

  いくらか見繕って積ませておいたとは聞いていたが、その覆われた空間の広さからして想像以上の量だった。まあ、あれだけ規格外に巨大な怪物だったのだから、これだけ積まれていても、ほんの一部に過ぎないのだろう。

  だが、その奥の素材を差し引き、手前に積まれている荷物の山を見ても、どう見ても二人旅の荷物量ではない。夜逃げか、あるいは行商人の馬車だ。

  

  「あ、ガクさん! 準備できたよ!」

  荷台のチェックをしていたウィルが、満面の笑みで振り返った。

  真新しい革鎧を身に纏い、その腰にはハンスから譲り受けた短剣が誇らしげに帯びられている。

  「……ウィル。……コノ、ニモツ、ダレノ?」

  「え? 僕たちのだよ」

  ウィルは事も無げに言った。

  

  「冬の間にね、村への物資と、これからの旅に必要なものを買い集めておいたんだ。領都でしか手に入らない香辛料とか、丈夫な布とかもね」

  ウィルが得意げに胸を張る。

  

  「辺境伯様の紹介状を見せたら、商業ギルドの人がすごく良くしてくれて。卸値に近い金額で譲ってもらえたんだよ!」

  「……カネ、ハ?」

  「ガクさんから預かってたお金、あらかた使っちゃった!」

  「……リョウシュノ、ツケ、アッタダロウ?」

  「うん。これからの旅で、普通の宿に泊まったり食事をしたりするくらいなら、あの紹介状で辺境伯様に甘えさせてもらってもいいと思うんだけどね」

  ウィルは少し真面目な顔になって、言葉を続けた。

  「でも、自分たちの『商売の仕入れ』や『村への大量の物資』まで、全部辺境伯様にツケにするのはダメだよ。そんなことをしたら、辺境伯様の顔に泥を塗ることになるでしょ?」

  「……ナルホド」

  「だから、あの紹介状は、身分の証明としてだけ見せて、あくまで僕たちのお金で、価格の交渉に使わせてもらったんだ」

  ウィルが悪戯っぽく微笑んだ。

  

  「でも大丈夫! これをよその街で売れば、倍……ううん、三倍の値はつくはずだから!」

  俺は開いた口が塞がらなかった。

  俺が騎士団の連中と筋肉自慢をしている間に、この小さな相棒は、辺境伯の威光と手持ちの資金をフル活用して、義理を通しつつもしっかりと立派な「行商」の準備を整えていたのだ。

  「それに、見て! この装備!」

  ウィルが自分の胸当てをコンコンと叩いた。

  深い藍色をした、艶のある革鎧だ。

  「これ、騎士団の職人さんが作ってくれたんだ。氷山龍の革をなめして作った特注品だって! 軽くて丈夫で、魔法も弾くすごい防具だよ」

  「……スゴイ」

  「ガクさんの分もあるよ。ほら!」

  渡されたのは、俺の体格に合わせた巨大な篭手と、脛当てだった。

  藍鉄の龍の鱗が幾重にも重ねられ、金属よりも硬そうなのに、驚くほど軽い。

  「……イイノカ? コンナニ」

  「ガクさんが倒した獲物だもん。当然の権利だよ」

  ウィルは笑うが、俺は少しだけ居心地の悪さを感じていた。

  この冬、俺はただ飯を食って、騎士団の連中と筋肉自慢をしていただけだ。

  旅の計画も、物資の調達も、全部ウィルが準備を進めていたようだ。

  「……オレ、ナニモ、シテナイ。……ハズカシイ」

  俺がぽつりと漏らすと、ウィルはきょとんとして、すぐに首を横に振った。

  「何言ってるの! ガクさんは、あの氷山龍を倒したんだよ? 一番すごいことをしたじゃないか!」

  「……デモ」

  「こういう細かい計算とか、準備とかは僕の仕事。……ガクさんは、いつも通りどっしり構えていてくれれば、それでいいの!」

  ウィルは背伸びをして、俺の腕をバシッと叩いた。

  その手は小さいが、以前よりも力強く、頼もしくなっていた。

  いつの間にか、守られるだけの子供ではなくなっていたらしい。

  「……ワカッタ。……マカセル」

  「うん! 僕に任せて!」

  ***

  出発の時間が来た。

  見送りには、グスタフ団長とハンス、それに俺と訓練をした騎士たちが集まってくれていた。

  

  「世話になったな、ガク殿。貴殿のような剛の者と手合わせできなくなると思うと……なんとも、張り合いのない日々になりそうだ」

  グスタフ団長が豪快に笑いながら、俺の手を握った。

  「ハンス。……名残惜しかろうが、我々の務めをおろそかにはできん。村までの護衛につけてやれず、すまんな」

  「いえ。春になり街道の魔物も活発化する時期、私だけが休むわけにはいきません」

  ハンスはウィルとガクの方を向き、ニカっと笑って見せた。

  

  「それに……ガク殿と、今のこいつには、もう俺の護衛など不要でしょうから」

  ハンスは少し残念そうに、けれど迷いのない目でウィルを見た。

  彼は騎士だ。領民を守る義務がある。

  かつてのように、ウィル一人に付きっ切りになることはもうできないのだ。

  それが、二人が選んだ別々の道だった。

  「ウィル。剣の稽古、サボるなよ」

  「うん。ハンス兄ちゃんも、怪我しないでね」

  「生意気言うようになったな」

  ハンスは苦笑して、ウィルの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

  涙はない。

  これは今生の別れではないし、互いにやるべきことがある男同士の門出だ。湿っぽいのは似合わない。

  

  「……元気でやれよ」

  「うん。ハンス兄ちゃんもね」

  短い言葉の中に、万感の思いが込められていた。

  「ガク殿。こいつを頼みます」

  「……オウ。……マカセロ」

  俺は短く答え、ハンスと拳を合わせた。

  ゴツッという硬い音が、約束の証だ。

  俺たちは竜車に乗り込んだ。

  御者が鞭を振るうと、地竜が低い唸り声を上げ、ゆっくりと巨大な車輪が回り始めた。

  「行ってらっしゃい!」

  「達者でなー!」

  騎士たちの野太い声援を背に、竜車は進む。

  ウィルは一度だけ振り返り、大きく手を振った。ハンスもまた、銀色の小手を掲げて応えていた。

  その姿が小さくなり、やがて建物の陰に隠れて見えなくなった。

  竜車は石畳の大通りを抜け、アイゼンベルクの巨大な城門をくぐり抜けた。

  その先には、どこまでも続く青い空と、芽吹き始めた草原が広がっている。

  領都での日々は終わった。

  だが、これは終わりではない。

  荷台一杯の希望と、少しの寂しさを乗せて、俺たちの新しい旅がここからまた始まるのだ。

  

  「行こう、ガクさん!」

  隣で前を見据えるウィルの横顔は、春の陽光を受けて輝いていた。

  「……オウ」

  俺は深く頷き、広大な世界へと目を向けた。

  [newpage]

  第30話:凱旋の春、苦い杯

  春の陽気に包まれた街道を、騎士団の紋章が入った巨大な竜車が進んでいく。

  領都を出て数日。見慣れた景色が近づいてくるにつれ、隣に座るウィルの落ち着きがなくなってきた。

  「あっ……。ガクさん見て! 村の入り口が見えてきたよ!」

  ウィルが荷台から身を乗り出し、興奮気味に指差す。

  その身には、あの氷山龍の革で作られた藍色の革鎧が馴染み、腰に差したハンス譲りの短剣が、彼の動きに合わせてカチリと硬質な音を立てた。

  装備だけではない。その顔つきも、出発した時よりずっと精悍になっていた。

  (……良い顔をするようになったな)

  俺は揺れる荷台で腕を組み、その横顔を頼もしく眺めていた。

  ***

  村の入り口が近づいてきた。

  見張り台の上に、人影がある。門番のガントだ。

  彼は遠くから近づく立派な竜車に気づくと、槍を構えて身を硬くした。

  だが、近づくにつれてその表情が驚きへと変わっていく。

  ウィルが竜車の上で立ち上がり、大きく手を振って声を張り上げた。

  「ガントさん! ただいま戻りました!」

  よく通る、ハキハキとした声だ。

  ガントが動きを止め、目を細めてこちらを凝視する。そして、あんぐりと口を開けた。

  「……ウィル!? 後ろに乗ってるデカイのは……ガクか!?」

  ガントが櫓から転げ落ちるような勢いで降りてくる。

  その騒ぎを聞きつけ、畑仕事をしていた村人たちがわらわらと集まってきた。

  「嘘だろ、本当にウィルか?」

  「おい、見ろよ! 騎士様の竜車で送ってもらったのか!」

  「すげぇ……。噂通り、本当に領主様の『賓客』だったんだな」

  「ウィルの恰好を見ろよ。立派な鎧を着てるぞ!」

  竜車が広場に滑り込み、重々しい音を立てて停止する。

  村人たちが感嘆の声を上げる中、ウィルは物怖じすることなく荷台から飛び降り、集まった大人たちを見回してニコリと笑った。

  「皆さん、ご無沙汰しています。……領都から、すごいお土産をたくさん持って帰ってきましたよ!」

  ウィルが竜車の荷台をバァンと叩く。

  そこには、麻袋や木箱が山のように積まれている。

  その圧倒的な物量と、ウィルの堂々とした立ち振る舞いに、村人たちはただ圧倒されていた。

  ***

  荷台から荷物を降ろすと、広場は即席の市場のようになった。

  俺が軽々と木箱を積み上げると、その中から領都で仕入れた質の良い布や、珍しい香辛料、そして大量の保存食が現れる。

  村長とマーサ院長が駆けつけてきた。

  「こりゃあ……たまげたねぇ。これ全部、あんたたちが持ってきたのかい?」

  マーサが目を丸くして荷物の山を見上げている。

  ウィルは胸を張り、村長に向き直った。

  「はい。以前、ガクさんがグラスホーンを倒して稼いだお金……あれを元手に、領都でこれだけの物資を買い付けてきました」

  ウィルは背後の荷物の山――竜車に積まれた大量の木箱や麻袋を誇らしげに指差した。

  「辺境伯様の紹介状のおかげで、卸値に近い金額で取引できたんです。村に必要な食料や道具はもちろん、相場が安いうちに仕入れた『高く売れる交易品』も山ほどあります」

  言いながら、ウィルは懐からずっしりと重い革袋を取り出し、村長に手渡す。

  「こっちは、仕入れで使いきれなかった残りの現金です。……村のために使ってください」

  中身を確認した村長が唸り声を上げる。

  「むぅ……。この残りだけでも、村の一年分の予算になるわい……」

  「あはは。あっちの荷物も商隊に売れば、その数倍の価値にはなるはずです! 村の財政はもう安泰です!」

  「……して、ウィルよ。領都では大事があったと聞く。……ドラゴンが出たそうじゃな?」

  村長が鋭く、しかし静かに尋ねる。

  村人たちの視線が集まる中、ウィルは一度だけ俺の方を見て、それから何でもないことのように明るく答えた。

  「はい。すごい騒ぎでしたけど、騎士団の皆さんがやっつけてくれました! さすがは領都の騎士様たちです。僕たちは安全な場所で応援してただけですよ」

  さらりと言ってのけた。

  村長はウィルの目をじっと見つめ、それから俺の方へと視線を移した。

  その瞳は、すべてを察しているようで、けれど何も言わずに深く細められた。

  「……左様か。アイゼンベルク騎士団の武勇、誠に見事じゃ」

  村長は深く頷いた。

  「なにより、お主らが無事でよかった。……よう帰ったのう、ウィル。立派に役目を果たしたな」

  村長の言葉に、ウィルがホッとしたように表情を緩める。

  上手くなったな、と俺は心の中で苦笑した。

  実直な少年が、俺の秘密を守るために、顔色一つ変えずに大人たちを煙に巻いている。

  その姿は、俺が守るべき子供ではなく、背中を預けられる共犯者のものだった。

  「無事でよかった、ウィル。……本当によかった」

  マーサが感極まったようにウィルを抱きしめた。

  その腕の中で、ウィルは少し照れくさそうに、でも嬉しそうに笑っていた。

  ***

  その夜。

  村の広場には大きな篝火が焚かれ、春の訪れを祝う祭りが始まった。

  そして今夜は、村の若者たちが大人として認められる「成人の儀」も執り行われる。

  俺は村人たちの列に混じり、少し離れた場所からその様子を見守っていた。

  焚き火の明かりに照らされた広場の中央。

  村長の前には、数人の若者が並んでいる。その最後に、ウィルがいた。

  他の若者たちが「村一番の狩人になります!」「親父の畑を継いで、立派な作物を育てます!」と、村での抱負を力強く宣言していく。

  村人たちが温かい拍手を送る中、ついにウィルの番が来た。

  ウィルが一歩前に進み出る。

  炎の光が、彼の着ている藍色の革鎧を艶やかに照らし出す。

  村長が厳かに告げた。

  「ウィルよ。成人を迎えた今、お主が歩むべき道を、ここに示してみせよ」

  ウィルは一度深く息を吸い込み、腰に差した短剣の柄にそっと手を添えた。

  そして、顔を上げ、よく通る声で言った。

  「僕は、この村が大好きです」

  静かな出だしだった。

  「親のいない僕を育ててくれたマーサ院長。生きる術を教えてくれた村長や、村のみんな。……ここは、僕にとって一番温かくて、大切な故郷です」

  ウィルは集まった村人たち一人一人の顔を見るように視線を巡らせた。

  その瞳には、感謝の光が揺れている。

  「でも……僕は知ってしまいました。この村の外には、僕の知らない景色が、もっともっと広がっていることを」

  ウィルの声に熱が帯びる。

  「雪に閉ざされた山脈も、鉄の音が響く大きな街も。……全部、僕の心を震わせました。

  だから僕は、ここに留まることはできません」

  ウィルは俺の方を真っ直ぐに見た。

  俺も、その視線を真正面から受け止める。

  「僕は旅に出ます。もっと広い世界を見て、知って、いつかこの村に恩返しができるような、立派な男になって帰ってきます。

  ……最高の相棒、ガクさんと共に!」

  高らかな宣言。

  一瞬の静寂の後、村人たちから歓声が上がった。

  「……うむ。見事じゃ」

  村長は満足げに、そしてどこか寂しげに微笑んだ。

  「この村は狭かろう。行け、ウィル。その足で、世界の広さを知ってくるがよい」

  村長が深く頷き、マーサが目元を拭っている。

  俺は腕組みをしたまま、口元を緩め、小さく頷いてみせた。

  ***

  儀式が終わり、そのまま祝いの宴へと雪崩れ込んだ。

  酒が振る舞われ、肉が焼かれる。

  俺も村人たちに囲まれ、たらふく肉を食わせてもらった。

  ふと見ると、ウィルが大人たちの輪の中にいた。

  手には木彫りの杯を持っている。

  「ほれウィル! お前ももう大人だ。飲めるだろう?」

  「ええっ、でも……」

  「まあまあ、祝い酒だ。一口くらいどうだ?」

  ガントに勧められ、ウィルが困ったように、しかし少し期待を含んだ目で杯を見つめている。

  もう成人だ。止める理由はない。

  ウィルは意を決したように杯を口に運び、中身をグビリと煽った。

  ――んぐっ。

  ウィルの動きが止まった。

  次の瞬間。

  「……んぐぐぅぅ……!」

  ウィルは顔を梅干しのようにしかめ、べーっと舌を出した。

  「……に、苦い! なにこれ、美味しくない……!」

  涙目になりながら咳き込むウィルを見て、大人たちがドッと笑った。

  ウィルは真っ赤になって「もっと美味しいものだと思ってたのに!」と抗議している。

  (……ふっ)

  俺の口から、自然と笑いが漏れた。

  さっきまであんなに立派な演説をしていた英雄の卵が、今は一杯の酒に負けて顔をしかめている。

  革鎧は立派になった。背も少し伸びた。言葉遣いも大人びた。

  でも、中身まで急に大人になったわけじゃない。

  

  そう感じて、俺はどこかホッとしていた。

  急いで大人にならなくていい。ゆっくりでいいんだ。

  「……ミズ、ノメ」

  俺は革袋に入った水を差し出した。

  ウィルは「あ、ありがとうガクさん……」と情けない声で礼を言い、水をガブ飲みして口の中の苦味を洗い流した。

  「……まだ少し、早かったみたいだね」

  ウィルが照れくさそうに頭をかく。

  その笑顔は、俺が初めて会った時と変わらない、無邪気な少年のものだった。

  俺たちは夜空を見上げた。

  満天の星が輝いている。

  春の夜風が、酔った頬に心地よかった。

  [newpage]

  第30.5話:酒と月夜と、暴走する執着心

  空には、白い月が輝いていた。

  村の広場からは、まだ賑やかな宴の音が風に乗って聞こえてくる。

  俺はウィルを横抱きにして、静かになった夜道を歩いていた。

  俺の腕の中にすっぽりと収まるウィルは、短い手足とふさふさの尻尾をだらりと垂らし、すっかりぐったりとしている。

  あの後。

  「残すのはもったいない」と、ウィルはナミナミと注がれた祝い酒を、一気に飲み干してしまった。

  その結果が、これだ。

  「……んぅ……。……ガク、さぁん……」

  ウィルの息は、甘酸っぱい果実のような匂いがした。

  俺の胸板に顔を擦り付け、熱い吐息を吐きかけてくる。

  その身体は、驚くほど熱い。

  (こういう所は、まだまだ子供だ……)

  成人の儀を終えても、やっぱりウィルはまだ子供だ。

  初めて飲むアルコールを一気飲みしてしまったのだ。ウィルの小さな体ではひとたまりもなかったのだろう。

  俺は少し呆れながら、孤児院への道を急いだ。

  ***

  道の半ば。

  木々が深く茂る暗がりに差し掛かった時、ウィルが俺の服の裾をギュッと握りしめた。

  頭の上の大きな三角耳が、ピクピクと不穏に動いている。

  「……あ、……まって……」

  「……キブン、ワルイカ?」

  「……ひと、こない……とこ……行って……」

  吐くのか。

  俺はそう直感した。社会人時代、飲屋街の路地裏で何度も見た光景だ。

  道端で嘔吐する姿など、見られたくないのだろう。ウィルは変なところでプライドが高い。

  「……ワカッタ」

  俺は道を外れ、大きな木陰の奥へと入った。

  ここなら、誰も来ない。

  俺はウィルを介抱しようと、ゆっくりと腰を落とした。

  「……ココナラ、ダイジョウブ。……ハクカ?」

  背中をさすってやろうとした、その時だった。

  ドサッ。

  突然、ウィルが俺の首に抱きつき、全体重をかけてきた。

  不意を突かれた俺はバランスを崩し、そのまま草の上に仰向けに倒れ込んだ。

  「……ウィル? ……ドウシタ?」

  「……ガクさん」

  耳元で、濡れた声がした。

  ゾクリ、と背筋に電流が走る。

  「……僕、変な気分に……なっちゃった」

  その声に含まれていたのは、吐き気じゃない。

  もっと、ドロドロとした熱だ。

  俺の危機察知センサーが警報を鳴らす。これは、マズイ。

  「……ウィル、マテ。……ココ、ソトダ」

  「……やだ」

  ウィルが俺の太ももの上に跨る。

  月明かりを背負ったその顔は、不安げに歪み、いつもピンと立っている大きな犬耳もペタンと伏せられていた。

  「……僕、……不安なんだ」

  ウィルの手が、俺のズボンの紐に掛かる。

  震える指先。もどかしそうな仕草。

  「……僕、ガクさんに比べて……ちんちくりんだし……」

  「……ソンナコト、ナイ」

  「……いつか、もっと素敵な人が現れて……捨てられるかもって……」

  「……ナイ」

  「……怖いんだよ。……だから」

  ウィルが乱暴に俺のズボンを引き下げ、俺のイチモツを引きずり出した。

  涼しい夜風に、熱を持った部分が晒される。

  ウィルはそれを小さな手でギュッと掴むと、噛み付くような口付けを落とした。

  (……ッ!! おい、馬鹿やめろっ……!!)

  ウィルを止める暇もなかった。

  ウィルの手つきは、優しくなかった。

  不安を塗りつぶすように、ウィルが激しく手を動かし始めた。

  「……ッ、ウィル……!」

  「……ガクさん、すごい……。僕の手で、こんなになってる……」

  ウィルの瞳から、次第に不安の色が消えていく。

  代わりに浮かんだのは、好奇心と、嗜虐的な喜びだ。

  自分より遥かに大きな俺が、自分の小さな手の中で震えている。

  その状況が、ウィルの自尊心を擽っているようだった。背中の後ろで、短い尻尾がパタパタと小刻みに揺れ始めている。

  (……くっ、気持ち良すぎる……!)

  俺は歯を食いしばる。

  ウィルの手つきは乱暴だった。だが、それが逆に、俺の敏感な部分を容赦なく刺激してくる。

  「ガクさん……。そんな顔するんだ……」

  ウィルが楽しそうに笑った。

  酔いのせいか、理性のタガが外れている。

  俺の苦悶の表情を見て、興奮しているのだ。

  「……イクッ、……ウィル、ハナセ……!」

  限界はすぐに来た。

  俺は腰を跳ね上げ、白濁した熱を吐き出した。

  ウィルの手と腹を汚し、ドクドクと脈打つ。

  終わった。

  そう思った。賢者タイムに入ろうとした。

  だが。

  「……すごい。いっぱい出たね」

  ウィルは手を止めなかった。

  トロリとした瞳で、俺を見下ろしている。

  その顔は、新しいオモチャを見つけた子供のように無邪気で――残酷だった。

  「……まだ、硬いよ?」

  「……ッ!? ウィル、マテ……!」

  俺は、されるがままだった。

  手を出せば、ウィルを壊してしまう。

  力を入れれば、ウィルを弾き飛ばしてしまう。

  耐えるしかなかった。

  俺の身体は、ウィルの好きにするためにあるオモチャだった。

  精液を纏った小さな手で、敏感になった先端を、容赦なく擦られる。

  快楽が、脳髄を焼き切るような鋭い刺激へと変わる。

  「……ヤメ……ッ! ウィル……アガッ……!」

  俺は獣のような声を漏らし、身をよじった。

  だが、ウィルは止まらない。

  俺が喘げば喘ぐほど、ウィルはゾクゾクした顔で指の動きを早める。

  「……ガクさん、可愛い……」

  完全に、楽しんでいる。

  俺の全てを搾り取るつもりだ。

  ウィルの指先が、白濁にまみれた先端、一番敏感な孔の周りを、ねっとりと円を描くように撫で回す。

  「……ッ!? ア、……ウィルッ……!」

  「……ここ、まだピクピクしてる」

  「……ソコハ、ダメダ……ッ!」

  射精直後の過敏になった粘膜を弄られる。

  快楽というよりは、脳髄を直接針でつつかれるような鋭い刺激。

  俺が腰を引いて逃げようとすると、ウィルは逃がさないと言わんばかりに、逆の手で俺の根本をギュッと握り込んだ。

  「……逃げちゃだめ」

  「……ヒグッ!?」

  「……もっと、ガクさんの情けないとこ、見せてよ……」

  ウィルが濡れた手で、再び俺のイチモツを扱き上げる。

  先ほどよりも速く、容赦のない動き。

  俺のモノは、休憩すら与えられず、強制的に再び硬さを取り戻していく。

  「……ア……ガッ……!」

  「……ガクさん、可愛い声……」

  俺が獣のような声を漏らして身を震わせると、ウィルはゾクゾクした顔で目を細めた。

  俺の反応が、ウィルのサディズムに火をつけてしまったらしい。

  二度目の波は、すぐに来た。

  というより、一度目の余韻が終わる前に、無理やり次の波を引きずり出された。

  「……ッ、デルッ! ……ッ!」

  「……出して。全部……僕にかけて」

  ドクンッ、と俺の腰が跳ねる。

  二度目の射精。

  量は減るどころか、先ほどよりもドロリと濃い熱が、ウィルの手と、あられもない姿の俺自身を汚していく。

  俺はハァハァと荒い息をつき、ぐったりとした。

  もう無理だ。

  だが、ウィルの追撃は止まらない。

  「……すごい。ガクさん、変態だね」

  ウィルがクスクスと笑いながら、俺の出した体液をローション代わりにして、さらに激しく擦り始めた。

  ***

  三度目。四度目。

  もう精など残っていないはずなのに、ウィルの手によって強制的に快楽のスイッチを連打される。

  脳がエラーを吐く。

  

  「……ア、ガ……ッ、モウ、……カラッポ……ッ!」

  「ううん。まだあるよ。……奥の方に、まだ残ってる」

  「……ッ!? ヒ、イッ……!?」

  ウィルが根本を強く圧迫しながら、先端を弾くように擦る。

  乾いた射精感。

  出るものがないのに、絶頂の痙攣だけが襲ってくる。

  それは、終わりのない地獄のような快楽だった。

  腰の奥が熱くなり、制御が効かなくなる。

  脳ミソが溶ける。

  「……アッ、……ガッ、……ァァァッ!!」

  俺の身体が大きく痙攣した。

  中身が空っぽになったはずの場所から、透明な液が勢いよく吹き出した。

  潮吹き。

  前立腺の暴走。

  人としての理性が飛び、ただの肉塊になって、俺は白目を剥いて果てた。

  ***

  ……ハァ。……ハァ。

  俺は荒い息を吐きながら、虚空を見つめていた。

  身体中がベトベトする。

  下半身は、俺の体液で見るも無惨なことになっていた。大惨事だ。

  俺は恐る恐る、腹の上のウィルを見た。

  「……んふふ……」

  ウィルは、満足げに笑っていた。

  そしてそのまま、俺の腹を枕にして、コテンと寝息を立て始めた。

  「……スー……。……スー……」

  幸せそうな寝顔だ。

  やりきった、勝ったぞ、という達成感すら漂わせている。

  「……エ?」

  俺は呟いた。

  嘘だろ。

  やり逃げか。

  食い逃げか。

  辺りには、大量の体液と、酒の匂いと、情事の熱気が立ち込めていた。

  惨劇の跡のようだった。

  「……マジカ」

  俺は力なく項垂れた。

  完敗だ。

  俺はウィルに、身も心も(そして尊厳も)、完全に蹂躙されてしまったのだ。

  ***

  その後。

  俺は誰にも見つからないようにウィルを担ぎ、村外れの井戸まで走った。

  普段では考えられない手際で、冷たい水を汲み、身体を拭き、服の汚れを落とす。

  ウィルは一度も起きなかった。大物すぎる。

  再びウィルを抱き上げ、孤児院への道を歩く。

  腕の中のウィルは、天使のように可愛い寝顔をしている。

  ピクピクと時折動く大きな耳と、だらんと垂れた短い尻尾がたまらなく愛おしい。

  その口からは、未だに濃い酒の匂いがした。

  (……酒は、ダメだ)

  俺は夜空に誓った。

  二度と、ウィルに酒は飲ませない。

  飲むなら、ジュースだ。絶対にだ。

  そうしないと、俺の身体(と理性)が持たない。

  「……オヤスミ。……バカ、ウィル」

  俺は少し強くウィルを抱き直し、ため息混じりに歩き出した。

  腰が、まだ痺れていた。

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