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「そういえば、今日仕事辞めてきた」
三割引きのコロッケを摘もうとした箸が、空中でピタリと止まる。食卓を挟んだ向かい側で、丸みを帯びた大きな獣耳をピクピクと動かしながら、いつものように彼がなんてことないように呟いた。
「えっ、また?」
かくいう僕も、いつものように短く返す。カレンダーに目をやるまでもない、今年に入ってこれで三度目である。
「だってさ、あのクソ上司がほんと理不尽でーー」
彼の背後で、先端に黒い房毛がある短い尻尾が不満げに床をバンバンと叩いている。いつものように、彼の不満のマシンガントークが幕を開ける。
そんないつもの日常風景に適当な相槌を打ちながら、僕は冷めたコロッケを箸で半分に割り、白米と一緒に口に運んだ。ソースの濃い味が舌に広がる。
僕の頭の中にも「忍耐力がない」「お前も悪い」「次を探す気はあるのか」など、彼への文句が三十個くらい浮上したが、結局一つも口には出さず、温くなったインスタント味噌汁と共に喉の奥へ流し込んだ。
釈迦に説法、猫に小判、豚に真珠。世の中には無駄を表す言葉が山ほどあるが、この場合は『馬の耳に念仏』だ。
「パートのおばちゃん達もさ、その上司のことがほんと嫌いみたいでーー」
今は曲でいうところのCメロあたりだろうか。そんな益体もないことを考えながら、食後のほうじ茶を啜る。
なんで僕は、こんなのと暮らしてるんだろう。
年の大半を無職で過ごし、昼過ぎまでベッドで微睡むこのハイエナ獣人を養っているのは僕だ。家賃も食費も、このお茶の葉っぱだって僕の給料から出ている。
こんなやつでも、昔はもう少しマシだった……と思い返そうと記憶を辿り、いや、最初からこんな奴だったわ、とすぐに思い至った。
「って、ちゃんと聞いてた?」
しまった。少しだけ考えに耽っていたつもりだったが、いつのまにか『大サビ』を聞き逃してしまったようだ。彼がピンと耳を立て、不満げにこちらを覗き込んでいる。
「ん、あぁ……聞いてたよ?」
「ほんとにぃ?」
「流石に僕も、それは上司がクソだと思うよ。うん」
「だろー!」
よかった。正直後半は一文字も聞いていなかったけれど、いつものパターンで正解だったらしい。彼は満足げに頷き、尻尾をご機嫌に揺らしている。
「それでさーー」
「ねぇ」
二番の歌詞に入ろうと口を開いた彼に、被せるようにして僕は呟いた。
「ん? どうした?」
「その……今夜なんだけど……したい、かも」
ポカンと、彼の目が少し驚いたように丸くなった。立っていた耳がパタンと倒れ、呆気にとられたような顔。けれどすぐに目尻が下がり、ハイエナ特有の鋭い犬歯を覗かせた、甘さを孕んだ微笑みに変わった。
「ん。わかった」
***
「んっ、んん……っ」
彼の甘く掠れた声と、グルグルと喉を鳴らすような獣特有の低い音が、常夜灯だけが灯る静かな部屋に落ちる。
僕の熱は既に彼の中に深く収まっていて、密着した彼から伝わる高い体温と早い鼓動を全身で感じていた。
ゆっくりと、けれど確かな重さを持って腰を深く突き入れながら、空いた右手を彼の中心へと伸ばす。
硬く熱を持っているにもかかわらず、まだ被ったままの先端に指を差し入れる。既にドロドロに溢れ出た彼自身の体液で濡れているそれを、円を描くように指先で塗り込み、執拗に舐る。
「んぎぃ……っ、ま、まっ、て。もう……いってる、から……っ」
シーツを強く握りしめ、喉の奥から絞り出すように囁く彼の声を聞いていると、僕の脳の付け根のあたりが痺れるような、甘い優越感に満たされる。
無意識のうちに、腰を打ち付けるリズムが早くなる。手のひら全体で、剥き上げた彼の先端を滑らせるように扱き上げた。
「あっ……んぐぅ、うぅ……!」
自分の口を手の甲で強く押さえ、情けない声を必死に押し殺そうとする彼を見下ろしていると、僕の中で保っていた理性の堰が音を立てて崩れるのを感じた。
「ん、いきそう」
短く告げて、最も深い場所へと強く突き入れる。
「うっ、あっ、ああぁっ」
激しい痙攣と共に彼の尻尾がピンと強張って跳ね上がり、同時に彼も達したようだった。しかし、熱を放つ彼の先端から溢れ出したのは、本来の白濁だけではなかったらしい。
僕の右手に、さらさらとした別の生温かさが急激に染み渡り、彼のお腹の下の方へとゆっくり広がっていくのがわかった。
「ご、ごめっ… おれ、おれ……っ」
耳をペタンと伏せて狼狽え、大きな目に涙を浮かべて僕を見上げる彼。
「別に怒ってないよ」
震える彼の口先に、宥めるように、あるいは塞ぐように口付けを落とす。
「疲れた……」
意図的に身体の力を抜き、彼に覆い被さるように体重を預けた。
「うげっ」
突然の重みに苦しそうな声を出した彼を無視して、汗ばんだ首元に顔を深く埋める。少し野生味のある彼の匂いが鼻腔を満たした。
「……汚れちゃうよ」
「……今更でしょ」
その背中に回した腕にギュッと力を込めた。
***
汚れたシーツを剥がして新しいものに取り替えた後、ひんやりとしたベッドの上に二人で並んで寝転がる。怒らないとは言ったものの、マットレスにまで染み込んでいなくて本当に助かった。
「……なぁ、なんで俺と居てくれるんだ」
静寂の中、ふと、彼が自信なさげな声で問いかけてきた。耳を力なく垂らし、天井を見つめたまま視線はこちらに向けない。
「……うーん」
僕は一瞬だけ考えた。
(僕の前から居なくならないから)
「僕の好みの体型だから」
それも嘘ではなかったけれど、一番の本音は、口からは出てこなかった。
「なにそれ、ひどっ。他にはないのかよ」
「他には思いつかないかな」
そう言うと、彼は不貞腐れたように背中を向けてしまった。背中の方で尻尾もしょんぼりと丸まっている。
僕も彼を追いかけるように寝返りを打ち、その背中をすっぽりと包み込むように身を寄せる。被毛の感触が心地いい。
「じゃあ、きみは?」
「ん?」
「僕のどこがいいのさ?」
少しだけ意趣返しのつもりで問いかけると、「うーん、そうだな」と彼が低く唸った。
「俺を養ってくれるとこかな」
「……そっちも大概ひどいね」
あまりに身も蓋もない言い分に思わず笑みがこぼれると、アハハと独特の甲高い彼の笑い声もすぐに重なった。
「これでおあいこだな」
「そうかな?」
「そうだろ」
ひとしきりクスクスとベッドを震わせて笑い合った後、彼がぼそっと、独り言のように呟いた。
「……嘘。……本当は、お前が俺を見てくれるから……」
「そうかな? いうほど僕は君のこと知らない気がするけど……」
「……俺のダメなとこ……全部知ってくれるから……」
弱音を吐き出すような声だった。
「あー……それなら確かに、知ってるかもね……」
その後、言葉は続かなかった。
僕は左腕を彼のお腹側に回し、さっきよりもさらに深く、隙間を潰すようにひっつく。彼の規則正しい呼吸が、僕の胸元に伝わってくる。
「……好きだ……」
「ん……僕も好きだよ」
沈黙の中に溶けていくその言葉の響きを反芻しながら、僕はゆっくりと目を閉じる。
言葉にすると、ひどく薄味だなと思った。
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