朝の空気はまだ少し冷たく、紫陽花の花弁には小さな露が宿っていた。
朱雀は無言で箒を動かしていた。石畳の隙間にたまった落ち葉が、さらさらと音を立てて集まっていく。
(……夕陽様、もう起きてるかな)
ふと脳裏に浮かんだその面影に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
昨日、すぐそばで聞いた声。困ったように目を伏せて笑った表情。
そのひとつひとつが、まるで朱雀の中に火を灯すように、静かに、けれど確かに心を焦がしていく。
届きそうで届かない、その距離に指先がうずいた。
そのときだった。ふと、耳が何かをとらえる。
――足音。
石畳を踏む、控えめで、それでいてどこか急いたような足取り。
音の主は、玄関に続く小道の向こうに立っていた。頭巾に狐面――旅人か、それとも。
朱雀は箒を立てて、じっとその姿を見つめた。
「……ここが、夕陽様のお屋敷、で間違いないでしょうか」
落ち着いた口調で狐面の男が言う。
「何の用だ?」
朱雀は警戒を隠さずに問い返す。
しかし男は怯むこともなく、静かに頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします。病を患った母に代わり、どうしても夕陽殿に伺いたいことがあり、参上いたしました」
柔らかくも芯のある声だった。
言葉こそ丁寧だが、狐面と頭巾に包まれたその姿には、どこか言い知れぬ不穏さがあった。
朱雀の眉がひくりと動く。
なぜか分からない。けれど、この男と関わってはいけない――そんな直感が、背筋を冷たく撫でていく。
「……ここで待ってろ」
吐き捨てるように言い残して、朱雀は踵を返し、屋敷の中へと戻っていった。
応接間には、低く差し込む朝の光が硝子戸越しに差し込み、畳の上に淡い影を落としていた。
夕陽が茶を淹れ、客人の前に湯呑を置く。銀郎は壁際に控え、朱雀は離れた位置に座して、その客人を睨むように見ている。
旅装の男――狐面に頭巾、その奥の素顔も感情も読めないままの訪問者は、膝を正して座していた。落ち着き払って見えはするが、両手は膝の上でぎこちなく重ねられている。
「……それで。わざわざ此処まで足を運んだ理由を、お聞かせ願えますか」
夕陽が穏やかな声で口を開いた。
男は一度、小さく息を吸う。やや逡巡したあとで、ゆっくりとその手を頭巾にかけた。
布がするりと滑り落ちる。つづいて、狐面が畳に置かれる。
現れたのは、まだ若い銀妖の青年だった。さらりとした銀色の髪、そして獣の耳と尻尾。肌は不自然なほど青白い。額から頬にかけて、まるで痣のような赤紫の斑が浮かんでいた。
「……僕の名は、[[rb:白鷹 > はくよう]]と申します」
静かに名乗りを上げた青年は、左腕に巻かれていた布をほどき始めた。さらりと床に落ちた布の下から現れたのは、赤黒く爛れ、ひび割れたように崩れかけた皮膚だった。
その異様な傷痕に、夕陽たちは思わず眉をひそめる。
「……それは?」
夕陽の問いかけに、白鷹はかすかに目を伏せながら答える。
「……はい。僕の生まれた里で広がっている、不治の病です。初めは痒みと熱を伴うだけだったものが、やがて全身に広がり皮膚を蝕み、肉を腐らせ……最後には、耐えがたい痛みに呻きながら息を引き取っていく。同胞たちの、そんな末路を何度も見てきました」
言葉の途中、白鷹の喉が震える。
「医師も手を尽くしましたが、どうにもならず……母も、今は床に伏したまま、衰えていく一方です。もう……どうしていいかわからなくて。唯一の望みを胸に、こうして、藁にも縋る思いで貴殿らを頼りに参りました」
その声には芯があった。弱々しくはない。だが、その身体は確かに病に蝕まれているのだと、誰の目にも明らかだった。
朱雀の喉が、かすかに鳴る。
見覚えはない――けれど、心のどこかがざわついていた。
血が、熱を帯びるように。胸が騒がしく軋むように。
「……里の者たちは、“禍の子”がどこかで生きているせいだと――そう、囁いておりました」
ぽつりと漏れた白鷹の言葉に、場の空気が一瞬張りつめる。
“禍の子”――赤毛の銀妖。
里に古くから伝わる因習では、赤は災厄の色とされ、その色を持って生まれた銀妖は、里に不幸を招く忌むべき存在とされた。産声を上げた途端、産婆が何のためらいもなくその首を絞め、命を奪う。――それが「決まり」だった。
「……でも、僕はどうしても、信じきれなかったんです。古い因習に縛られた里の言い分が正しいのかどうか……本当に、“禍の子”が原因なのか。疑問を抱いてしまった」
少し目を伏せて、白鷹は小さく息を吐いた。
「それで……かねてより母や、風の噂で耳にしていた“祓い師”である夕陽殿に、一度ご判断を仰げたら、と……」
夕陽は、白鷹の言葉をひとつひとつ噛みしめるように聞き、やがて静かに頷いた。
その眼差しはまっすぐで、まるで真実を受け止める覚悟を映しているようだった。
その横顔に、どこか朱雀を思わせる面影がかすかに浮かぶ。
「君は……もしかして」
夕陽が言いかけたそのとき、はっきりと朱雀を見据えた。声は穏やかだが、その奥に固く結んだ決意が宿る。
「はい。……そちらの方は朱雀殿、とおっしゃいましたね」
瞬間、空気がふっと張りつめる。
「あなたは、恐らく――僕の兄です」
「ーーは?」
朱雀はぴくりと肩を揺らし、目を見開いた。
「母は、ほとんど兄のことを話しませんでした。でも……小さな箱に、赤い毛束が仕舞ってあったんです。髪か、尻尾の毛か……たぶん、兄のもので」
白鷹はそっと手のひらを重ねるような仕草をした。
「でも、誰に尋ねても“そんな兄はいない”って言われました。それでも、ずっと気になってて……気づいたら調べていたんです」
その間も朱雀は怒りを燃やしたまま、ギリ、と歯を食いしばっていた。
「ふざけるな……! 俺に兄弟なんてものは居ないっ!」
朱雀の声が怒りに震える。
「俺の家族は、ここにいる夕陽様だけだ……! 帰れっ!!」
今にも白鷹に掴みかからんとする朱雀の腕を、銀郎がすかさず押さえる。
「朱雀、やめろ。落ち着け」
「……くそっ、離せよっ! なんでお前まで……っ!」
荒い呼吸のまま銀郎を振り払おうとする朱雀――そのとき。
「朱雀」
低く、けれど決して冷たくない声が空気を鎮めた。
夕陽は一歩進み、朱雀の怒りに揺れる瞳を真っ直ぐに見つめた。
「朱雀、おまえの気持ちもわかる。だが――聞けば、おまえの母も病に冒されているという。そんな話を聞いてしまっては、見過ごすわけにはいかない」
「……俺に、母親なんていない」
朱雀は噛みしめるように呟いた。
「里の奴らも、あんな奴らみんな……死んでしまえばいい……! 俺は行かない!!」
その言葉に、夕陽はふう、と小さく息をついた。
そして、まるで駄々をこねる子を諭すように、そっと朱雀の頭に手を添える。
「……わかった。今回は私と銀郎で調査に向かうよ。おまえは、留守番していなさい」
夕陽の静かな声が、朱雀の胸をざくりと裂いた。まるで胸の奥に、静かに冷たい刃を差し込まれたかのように。
くしゃりと顔を歪め、朱雀は唇を噛みしめる。泣き出しそうな瞳に滲んだのは、拒絶されたような痛み――あるいは、見捨てられたという絶望に近い怒りと悲しみ。
けれど、何も言わなかった。
ただ、唇を震わせたまま、足早に部屋を出て行き、音を立てて応接間の扉を閉めた。
気まずい沈黙を破ったのは、白鷹だった。
「……すみません。こうなることは、なんとなくわかっていました。……でも、兄に一目会えた。それだけで、僕は良かったと思っています」
その言葉に、夕陽はそっと目を細め、静かに頷いた。
ふと、白鷹が向けた視線の先――そこには黙して立つ銀郎の姿があった。
「それにしても驚きました。兄だけでなく、銀妖がもう一人いらっしゃったなんて……。あなたは、なぜここに?」
それはただの純粋な疑問だった。だが、銀郎の面差しに一瞬、戸惑いの色が浮かんだのを見逃さず、夕陽がすぐに口を開いた。
「銀郎。すまないが、客間に寝床の用意を頼めるか?」
「……はい、承知しました」
小さく一礼して部屋を出ていく銀郎の背に、白鷹は申し訳なさそうに視線を落とす。
「……すみません。僕、余計なことを」
「気にしなくていいよ。あの子にも、色々と事情があってね」
そう言って、夕陽は優しく微笑んだあと、ふと表情を引き締める。
「ところで――もし良ければ、君と君の母君について、話を聞かせてもらえないか?」
夜。月明かりが静かに降り注ぐ縁側で、朱雀は片膝を抱え、庭の闇をぼんやりと見つめていた。
心を落ち着けようとしているのか、それともただ、迷いをごまかしているのか。
「少し頭は冷えたか?」
ふと、障子越しに顔をのぞかせた銀郎が、柔らかな声音で問いかける。
朱雀は、目を合わせることなく、小さくため息を吐いた。
「……俺は行かねぇ。話しかけんな」
ぶっきらぼうな返し。
拗ねたような背中に、銀郎はやれやれと肩をすくめ、少しだけ笑った。
「夕陽様は……お前についてきてほしそうだったぞ」
その一言に、朱雀の耳がぴくりと揺れた。
隠しきれない反応に、銀郎はさらに言葉を重ねる。
「別に、お前を軽く見たわけじゃない。
夕陽様はいつだって、お前のことを真っ直ぐに見て、真剣に向き合ってきただろう?
お前だって、それくらい分かっているはずだ」
しばしの沈黙。
やがて、朱雀はむくりと立ち上がり、苛立ちを込めて赤髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。
「だーーーっ、もう、わかったよ! 行くよ、行けばいいんだろ!」
声を張り上げるその目は、どこか泣きそうなほどに真剣だった。
「……ただし、これは、あの里の連中のためなんかじゃねぇ。夕陽様の、あの人のためだからな」
その言葉に嘘はなかった。
朱雀の頬を照らす月の光が、決意の色に染まってゆく。
翌朝。空が白み始める頃、旅支度を整えた夕陽、銀郎、そして白鷹が、屋敷の正門前に集まっていた。
静かな朝の空気の中、どこか物足りなさを感じる沈黙が流れる。
「……やはり、来ないか」
夕陽がそうつぶやいたその声音には、ごくわずかに落胆の色が混じっていた。
無理をさせたかもしれない。あるいは、言葉が足りなかったかもしれない。そう思いかけた、そのとき――
「置いてくとこだったら、マジで怒るからな」
陽の光を背に、赤い髪が風に揺れる。
大きな荷を軽々と背負い、いつものように不機嫌そうな顔をした朱雀が、正門の前に現れた。
「朱雀……」
思わず名を呼んだ夕陽の表情に、安堵と嬉しさが滲む。
それに朱雀はふいっとそっぽを向きながら、ぼそりとつぶやいた。
「勘違いすんなよ。俺は、夕陽様のために行くんだからな」
その言葉に、夕陽がふっと目を細める。そんなやり取りを傍で見ていた白鷹が、ぽつりと小さく呟いた。
「……兄さん、ありがとう」
声は静かだったが、胸の底から湧き出るような温もりが、そこには確かにあった。
***
深い森の中、葉が揺れる音と、鳥のさえずりだけが辺りを満たしていた。
陽の光は木々の梢に遮られ、足元には木漏れ日がまだらに落ちている。
銀妖の里は、人里離れた奥深い山の中にあった。その道のりはなだらかなものではなく、時に急斜面を越え、倒木をくぐり、獣道のような細い山道を辿る。案内役の白鷹も、歩を進めるたびに額に汗を浮かべていた。
彼の体を蝕む病は、顔や腕の爛れが示す通り、かなり進んでいるのだろう。顔色は悪く、時折、歯を食いしばるようにして息をついている。
「少し、休むか……?」
夕陽がその様子に気づき、声をかけた。声音は柔らかく、それでいてどこか真剣だった。
「いいえ、お気遣いなく。あと、この道を四里ほど進めば……僕の生まれた里が見えてくると思います」
「四里ですか……まだ、けっこうありますね」
銀郎が周囲を見回しながら、ぽつりとつぶやいた。
森の奥は静かで、道らしい道はすでにない。体力の消耗もさることながら、緊張感も積もっている。
すると、夕陽が白鷹の傍に歩み寄り、そっとその肩に手を置いた。
柔らかな微笑を浮かべて、何気ないように言う。
「銀郎、私が白鷹くんをおぶるから、荷物を持ってくれないか?」
言葉の意味を理解した瞬間、一同は揃って目を見開いた。
「いやいやいやいや!! ありえねぇって!!」
朱雀が即座に声を上げる。
「いえ、夕陽殿にそこまでしていただくわけには……!」
白鷹は慌てて身を引き、手を振った。
「だったら、私が背負います!」
銀郎が一歩前に出て、断固たる口調で告げる。
三者三様に否定されて、夕陽は少しだけしょげたような表情を見せた。
それは子どもが落ち葉の中にきれいなドングリを見つけて、誇らしげに差し出したのに拒まれたような、そんな微妙な表情だった。
「いや、私の荷物は朱雀と銀郎が持っているし、私だけ何の苦労もせず、楽をするわけにはいかない……。白鷹くんは私よりも小柄だし、それに、私は一応これでも体力には自信がある方だよ。銀郎も朱雀も小さい頃はよく、私がおんぶしてあげてーー」
「だああああぁぁっ……!! もう、その話はやめろって!!」
朱雀が抗議の声をあげ、銀郎はただ顔を赤くして俯いた。
「ふふ、ほら、白鷹くんも遠慮せず、私の肩に手をかけなさい」
「あ、いえ、その……」
白鷹が戸惑いながらも断りきれずにいると、すかさず朱雀と銀郎が同時に割って入った。
「ゆ、夕陽様っ! 少し休憩しましょう! ね、それがいいです!」
「そうだな! そうしようぜ! 腹も減ったしな!」
初めて、二人の意見が完璧に一致した瞬間だったかもしれない。
白鷹もそれに頷き、ようやく立ち止まることが許された。
「……そうか、少し良いところを見せたかったのだが……」
夕陽がぽつりとこぼしたその声は、どこか寂しげで、けれど優しい音をしていた。
腰掛けやすそうな大きな岩の上で、四人は向かい合うようにして小休憩をとっていた。
木陰に涼しい風が通り抜け、わずかに汗ばんだ体を冷ましてくれる。
手にはそれぞれ握り飯。野山の静寂に包まれながら、もぐもぐと咀嚼する音が心地よく響いている。
「美味しい……。昨夜のご飯も美味しかったですが、これはどなたが作ったんですか?」
白鷹がふと尋ねると、銀郎が自然と応じた。
「昨夜は私が。……おにぎりは、夕陽様のお手製です」
「……人間界には、こんなに美味しいものが溢れてるんですね」
白鷹は食べかけの白い塩むすびを見つめながら、感慨深げに言葉をこぼした。
指先に残る米粒を、まるで何か神聖なもののように大事そうに見つめている。
「僕たちは基本、獣の肉か木の実ばかりで……。味付けも塩か火で炙るくらい。こんな優しい味、初めて食べました」
その声に込められた静かな驚きに、朱雀がどこか誇らしげな様子でにやりと笑った。
「うめぇだろ? 夕陽様の料理は、特にな」
その言葉に、白鷹は顔を上げ、やわらかく目を細めた。
視線の先にいる夕陽の姿が、まるで森の光そのもののように映ったのかもしれない。
胸の奥に、ぽつりと温かい灯がともるような気がした。
「……ふふ、兄さんは、夕陽殿が好きなんだね」
ふいに白鷹が口にした一言は、どこか無邪気で、けれど核心を突いていた。
「なっ! ばっっ……か、そんなんじゃねーよ!」
朱雀が跳ねるように声を上げる。狼狽を隠しきれず、言葉がうわずっていた。
「あ、いや、そんなんあるけど……、あーーーもう余計なこと言わないで黙ってろよ!! ってか俺はてめぇが弟だとは認めてねぇ! 勝手に呼ぶな!」
見事に図星を突かれ、しどろもどろになりながら反論する朱雀の様子に、夕陽と銀郎は顔を見合わせて、思わず笑みをこぼしていた。
「なぁ、もうこいつ、ここに捨ててこうぜ!」
朱雀がふてくされたように言うと、白鷹は小さく首を傾げた。
「ふふ……でも、なんだか羨ましいよ。僕は里の掟に縛られて、ずっと自由がなかったから……」
目を伏せた白鷹の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「夕陽殿みたいな人に出会えてたら、きっともっと違う道を歩めていたのかなって……」
その瞳には、ほんのわずかな光と、ひとしずくの影が映っていた。
それはきっと、過去に失ったものへの悔いと、手に入らなかった未来への憧れ。
誰にも責められず、誰にも届かない、静かな願いだった。
続く