鼻先がとらわれて

  1

  

  夜露に濡れた石畳の匂いが一日の始まりを告げる。

  前掛けを着けて窓を開けると、微かに湿り気を含んだ冷気が頬を撫でた。薬屋の建つ路地裏は、大通りの喧騒を[[rb:隔 > へだ]]てたような静けさに包まれている。立ち並ぶ石造りの建物は、めいめいに生活の匂いを漏らしている。小麦の焼ける香ばしさや[[rb:薪 > まき]]の煙、人々の営みが放つ穏やかな気配。私もそれらを深く吸い込みながら、新たな一日のために動き出す。

  薬棚の前に立ち、瓶や袋に納められた材料を一つずつ確認していく。乾燥させた薬草の葉、すり潰した根の粉、琥珀色に透き通った精油。容器を手に取れば、その重みで残量の見当は付く。

  私の手は一つの袋で止まる。痛み止めによく使う樹皮が残り少なくなっていた。小さな手帳を開いて、市場で仕入れる必要がある材料に書き加えておく。他にもいくつか補充が必要なものが見つかったので、私はそれらを書き留めていった。

  そうして毎朝の作業をこなしていると、扉の鈴が軽やかに鳴った。

  「おはようございます、オドリク先生」

  振り返ると、見慣れた顔がそこにあった。人間の中年の男性──近所で雑貨屋を営むタムロンさんだ。白の混じった栗毛を撫で付けながら、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。

  「おはようございます。今日も早いですね」

  「ええ、店の準備がありますから。それにしても、また少し冷え込みましたね」

  タムロンさんが口を開くと、湿り気のある呼気の奥に、わずかに淀んだ匂いが潜んでいる。

  「腹の具合がよろしくないのですか?」

  そう訊ねると、彼は驚いたような表情を見せる。

  「え、ええ。よく分かりましたね。昨夜から少し……大したことはないと思うのですが」

  「念のため、診せていただいてもよろしいですか」

  店の奥に彼を案内し、診察用の椅子に座ってもらう。服の上から軽く触診をするが、外からの刺激で痛むことはないようだった。悪性のものが内側にできている匂いはしない。通じが悪いのと荒れているのが原因の不調だろう。

  私は薬棚から材料を取り出し、調合台で作業を始める。腹の動きを整える草の根と、痛みを抑える樹皮、抗菌作用のある香草。それらを潰して蜂蜜と混ぜ合わせる。

  「一日三回、これを少しずつ舐めてください。お湯で溶いて飲んでも大丈夫ですよ」

  小さな陶器の容器に薬を移し、タムロンさんに手渡す。

  「ありがとうございます。先生にかかると、いつも症状を見抜かれてしまいますな」

  「たまたまですよ」

  代金を受け取りながら、私は苦笑する。タムロンさんを見送ったあと、私は彼の問診票に本日の診察を追記した。

  病や傷の発する匂いには、それぞれに固有の響きがある。それは時に甘く、時に苦い調べを放ち、私の鼻腔に語りかけてくる。

  獣人種の中でも、とりわけ犬は嗅覚が鋭いとされている。だが、私は種族の中においても、突出して嗅ぎ分けに長けているようだった。一族から受け継いだ薬学の知識と積み重ねた経験をもとに、私は薬師として生きていた。

  城下町の路地裏に薬屋を構えてそれなりの年月が経った。先が折れていた耳はぴんと立ち、綿のような白い毛が混ざっていた毛並みは、薄い赤毛へと変わっていた。

  ひっそりと佇む店は大繁盛というわけではないが、一人で食べていく分には十分過ぎるほどだった。通りすがりにふらりと訪れる客は少ないものの、タムロンさんのような常連がついてくれる程度に評判は良い。

  昼間でも往来の少ない路地裏は大通りに比べて静かだ。ここに暮らす人々の営みが放つ匂いは、ゆったりとして落ち着いている。ぽつりぽつりと訪れる客を診て、帳簿を記し、薬学の本に目を通す。城壁に囲まれた街は魔物に襲われることもなく、私がここに店を構えてからずっと、平穏な日々が続いていた。

  午後の陽射しが傾き始める頃、赤みを増していく光が窓から入り込んで店内を照らす。仕入れたばかりの材料を容器に移しながら、私はそれらの香りに包まれていた。手に取った薬学書のページをめくりながら、調薬の組み合わせを頭に入れていく。

  小さな店で、必要とする人に薬を提供する。その暮らしに、私は満足していた。

  夕方になり辺りが薄暗くなってきた。私は閉店準備を始めようと立ち上がる。その時、窓から入り込んできた匂いが身体を強張らせた。

  まず初めに感じたのは、乾き始めている血の匂いだった。それから汗の匂い、獣の匂いがする。重く、濃密で、野性的な何かが近づいてくる。その匂いが店の前で止まる。

  扉が開く音より先に、私の鼻はその匂いを捕まえていた。

  

  2

  

  開いた扉の向こうには、黒牛の獣人が立っていた。

  見上げるほどの[[rb:巨躯 > きょく]]を鈍色の武具に包み、[[rb:厳 > いかめ]]しい顔付きで店内を見回している。薄暮の光が背後から差し込んで、その輪郭を黒い影として際立たせていた。

  全身から立ち上る気配は、穏やかさとは対極にある何かだった。戦場の匂い、血の記憶、そして絶えざる緊張感——それらが彼の存在そのものに染み付いているかのようだった。湾曲して天を突く角は、左のものが根元近くで欠けている。古い傷のように鈍く光る断面が、男の背景を物語っているように感じた。

  私と男の視線が交差する。毛並みと同じ漆黒の瞳が、値踏みするように私を見据える。その眼差しには、死地を潜り抜けて来た者特有の冷静さと、わずかな疲労の影が宿っていた。

  「店主か」

  低く響く声が、私の小柄な身体を震わせた。声音には余分な感情が込められていない。必要最小限の言葉で用件を済ませようとする意図が感じ取れた。

  「ええ。薬が入り用ですか?」

  私の返答にも、職業的な丁寧さが自然と込められる。しかし、彼のまとう独特の気配に、何かしら胸の奥がざわめくのを感じていた。

  「傷薬を貰いたい」と男は簡潔に要求した。

  「かしこまりました。傷を診ますので、こちらへ」

  「……あるものでいい」

  診察室への入口を示す私に、男は眉をひそめた。

  彼の躊躇には、診察を受けることへの抵抗感が[[rb:窺 > うかが]]えた。おそらく、これまで傷は自分で手当てしてきたのだろう。他者に身体を委ねることに慣れていない様子が、その硬い表情からも読み取れる。

  「すみません。作り置きはしていないもので」

  私の説明に、男は小さく息を吐いた。

  「わかった」

  少しの間を置いてから発せられた言葉には、観念したような響きがあった。

  布で仕切られた診察室へ男を案内する。狭い空間に、彼の巨体が収まりきらないような錯覚を覚える。実際、彼が入ると部屋の空気が一変した。それまで穏やかだった薬草の香りが、彼の存在によって押し込められるようだった。

  男は慣れた手つきで武具を外し始める。革の胸当て、腕当て、そして腰に下げていた短剣。金属と革が擦れ合う音が、静寂を破って響く。最後に上半身を覆っていた麻の上衣を脱ぐと、黒い毛並みに覆われた筋骨隆々の身体があらわになった。

  歳を重ねた雄牛の身体だった。胸板は呼吸とともにゆっくり上下し、その厚みを際立たせている。張りのある腹にも厚い筋肉が収められているのだろうが、年齢には抗えないのかそれなりの脂肪が蓄えられている。

  若い男の鋭角な筋肉とは異なる、経験を積んだ戦士の身体だった。木の幹のように太い四肢は、重荷を抱えながら得物を軽々と振るうだろう。数え切れないほどの古い傷跡が、黒い毛並みの下に浮かんでいる。それぞれが彼の歩んできた道程を物語っていた。

  そして、空気に晒された身体から立ち上る匂い——汗と血、そして雄の獣人特有の濃厚な体臭が診察室を満たした。それは生々しく、野性的で、私がこれまで接してきたどの患者からも感じたことのない種類の匂いだった。

  下腹部に、予期せぬ鋭い[[rb:疼 > うず]]きが走るのを感じた。

  心臓の拍動がわずかに早くなるのを自覚しながら、私は職業的な冷静さを装った。薬師としての責務が、私の混乱を抑制してくれる。呼吸を整え、男の身体を診る。

  「少し触れます。痛むようであれば言ってください」

  「……ああ」

  右腕に走る切創は深さこそないものの、かなりの長さがあった。既に血は止まって固まっているが、適切な手当てをしなければ化膿する恐れがある。肩や脇腹にも打ち身と擦過傷がいくつか見える。新しい傷もあれば、治りかけのものもあった。

  見立ての通り、巨躯の内側には筋肉が詰め込まれていた。指先を沈めても強い力で押し返されるのを感じる。唯一、腹回りだけは若干の緩みを見せているが、そこも張りのある弾力に包まれていた。

  私が傷に軽く触れても、男は微動だにしない。表情一つ変えず、痛みを押し殺している。しかし私の鼻は、彼が[[rb:堪 > こら]]えている痛みの匂いを確実に捉えていた。筋肉の緊張や、抑制された呼吸、そして意志の力で押さえ込まれた苦痛の気配。

  相当な我慢強さだ、と私は内心で感心する。これも訓練の賜物なのだろう。

  「魔物や迷宮の罠で負った傷はありますか?」

  念のために確認する。魔素に侵された傷は、通常の治療では治癒が困難になることがある。また、魔物の毒や呪いが残留している可能性も考慮しなければならない。

  「ない」

  短い返答だった。嘘をついている気配はない。

  壁に立てかけられた槍斧に目をやる。使い込まれた柄が、持ち主の戦歴を表している。手入れは行き届いているものの、実戦で酷使されてきたことは明らかだった。

  武具に紋章などは見当たらない──軍属や貴族お抱えの私兵ではないということだ。魔物との戦闘で負った傷ではないのなら、冒険者ではない。おそらく傭兵なのだろう。人を相手にした命のやり取りに身を投じる職業。

  調合台に向かい、傷の状態に合わせて薬を作る。蜜蝋を湯煎で柔らかくし、そこに植物の油と薬草の粉を練り込んでいく。切創には殺菌作用のある薬草を、打ち身には炎症を抑える成分を。材料を混ぜ合わせる度に、薬草の清涼な香りが立ち上る。

  「その場で作るとは手間だな」

  背後から男の声が聞こえる。警戒心はわずかに和らいでいるようだった。

  「日を置くと効き目が薄れてしまうものもありますし、合う薬は人によって異なりますから」私は振り返りながら続ける「それに、傷を診て調合した方が、効果的な治療ができます」

  水で濡らした清潔な布を手に取り、まず男の上体を[[rb:拭 > ぬぐ]]う。汗と埃にまみれた黒い毛並みは、湿り気を帯びて[[rb:艶 > つや]]めき、濃密な匂いが立ち上る。私は息を整えながら、できるだけ平静を装って作業を続けた。しかし、彼の身体に触れる度に、下腹部が切なさを訴えかけてくる。

  傷口に軟膏を塗布し、清潔な布を巻いていく。男の筋肉は触れられるたびに緊張したが、意識を向けなければわからない程度だった。他者に触れられることへの慣れなさが、その反応から窺えた。

  「お名前を伺っても?」

  問診票に記録するため名前を訊ねると、男から微かに警戒の匂いが漂った。

  「出した薬の記録を残しておくためです」

  「……ブラムだ」

  男は[[rb:躊躇 > ためら]]いがちに名前を告げた。私は問診票に記入し、数日分の薬をブラムに手渡す。

  「朝晩、傷を清めてから塗布してください。痛みがひどくなったり、熱を持つようでしたら、すぐにいらしてください」

  そう伝えるとブラムは無言で頷き、武具を身に着けた。革紐を結ぶ手つきは素早く確実で、戦場での経験が染み付いていることがわかる。代金を置いて、彼は店を出ていった。

  彼の足音が路地の向こうに消えて、再び路地裏の静寂が戻ってくるまでの時間が、妙に長く感じられた。私は余韻の中に佇んでいた。動くことで、この瞬間の記憶が薄れてしまうような気がした。

  一人になった診察室に、彼の匂いの残滓が漂っている。それは薬草の香りと混ざり合って、静謐な日常に小さな亀裂を走らせていた。

  ブラムの身体を拭いた布が、作業台の脇に置かれたままだった。私は無意識にそれを手に取り、鼻先に近づける。濃厚な雄牛の匂いが鼻腔を満たし、再び下腹部が熱を帯びた。野性的で、力強く、そして何故か懐かしささえ感じさせる匂いだった。

  私ははっとして、慌てて布を洗い物のかごに放り投げた。衝動に身を委ねてしまった自分への戸惑いが、胸の内でゆっくりと波紋を広げていく。私は自分を戒めるために、頬を強く叩いた。しかし、鼻腔に残る彼の匂いは、私の理性を静かに揺さぶり続けていた。

  3

  ブラムはそれから、時折店を訪れるようになった。

  彼が口にするのは、いつも同じ言葉だった。傷薬を頼む。それだけだった。短く、要点のみを告げる低い声音に、私はいつしか慣れ親しんでいた。

  店を訪れるたびに、彼は異なる傷を負っていた。それは例えば右肩の打撲傷だったり、左腕の擦過傷だったりした。時には顔に[[rb:瘤 > こぶ]]を作っていることもあった。

  ブラムの身体には古傷も多かった。欠けている片角に目立ってわかりづらいが、耳も一部がちぎれて欠けていた。それに加えて、腰の下から伸びているべき鞭のような尻尾もなかった。自ら断尾したのか、仕事の上で失ったのかはわからない。

  ただ、それらはいずれも致命的なものではなかった。縫合が必要となるような傷であったり、骨が折れているような兆候は見当たらなかった。彼が熟練の戦士であることを、その事実が静かに語っていた。私は対人戦闘に明るくないが、それでも傷の位置や程度から、彼が巧みに相手の攻撃を[[rb:捌 > さば]]いていることが窺えた。

  ブラムは[[rb:寡黙 > かもく]]だった。診察の間も必要最小限の言葉しか発しない。特に、仕事に関することは全くといっていいほど口にしなかった。私も[[rb:敢 > あ]]えて詮索することはしなかった。患者の秘密を守ることは薬師の務めでもあったし、何より彼から立ち上る警戒の匂いが、徐々に薄れていくのを感じていた。

  代わりに、私たちは他愛ない世間話を交わすようになった。

  「先生はここに店を構えて長いのか」

  ある日、薬を塗布している最中に彼が訊ねた。これまでで最も長い会話の糸口だった。

  「それなりに経ちますが、まだまだですよ」

  「そうだったのか」

  彼はそう言いながら、角の下から水平に伸びている耳を小さく揺らした。そこに含まれているわずかな好奇心を察した私は、作業を続けながら訊ねてみる。

  「ブラムさんは、私の店をどちらでお知りになったのですか?」

  「仕事で一緒になった奴から聞いた」彼は短く答え、少し間を置いてから続ける。「聞いた通り、腕がいい」

  「あ、ありがとうございます」

  賛辞を呈されるとは思っておらず、私は顔が熱に覆われるのを感じた。手を抜いた仕事はしないという自負はあるが、直接的な評価を受けることには慣れていない。ましてや、彼の言葉となれば、その重みは格別だった。

  ブラムが店を訪れる時間は一定していなかった。昼下がりのこともあれば、夕刻近くのこともある。しかし、いつも彼は武具に身を包み、汗や泥にまみれていた。仕事を終えてそのまま足を運んでいるのだろうと私は考えた。

  武具を外した彼の身体から発する匂いを嗅ぐたびに、私の心臓は決まって早鐘を打った。汗と血と土の匂いが混ざり合った、生々しい戦場の記憶が伝わってくる。それは私の理性を静かに侵し、下腹部に馴染みのある疼きを呼び起こす。

  「臭うだろう、すまない」

  ある日、私が濡れた布で彼の上体を拭いていると、ブラムが唐突にそう言った。

  「構いませんよ」私は動揺を隠すように、平静を装って答える。「慣れていますし、[[rb:清拭 > せいしき]]も私の仕事だと考えてもらえれば」

  「そうか。宿に戻ると、そのまま寝床に倒れてしまいそうでな」

  初めて聞く、冗談めかした口調だった。これまでの彼からは想像できないほど柔らかな響きに、私は内心で驚く。それと同時に、胸が高鳴るのを感じた。職業から離れた彼の一面を垣間見たような気がした。

  「お疲れなのですね」

  「そうだな」

  短い会話の向こうに彼の日常の重さが透けて見える。診察室の空気は、二つの異なる世界が交わる境界線となり、微妙な緊張を帯びていた。薬草の穏やかな香りと、彼が運んでくる戦場の匂いが、見えない対話を重ねていた。言葉の間に生まれる沈黙の重さを、私は胸の奥で受け止めることしかできなかった、

  薬を塗布して、布を巻き終える。そうするとブラムが武具を身に着け直し、代金を置いて店を出ていく。その一連の所作は、繰り返すたびに私の中に深く刻まれた。毎回微妙に異なる傷の位置や、わずかに変化していく彼の表情、そして漂う匂いの色と濃淡──それら全てが、私に記憶の地層を形成していった。

  彼が去った後の診察室に、私は一人残される。空間に漂う匂いの名残が、私の鼻先を優しく包んだ。私は椅子に腰を下ろし、目を閉じてその余韻に身を委ねる。薬草の香りと混ざり合った彼の匂いは、私の胸に爪を立てて切なさを湧かせた。

  路地裏の静寂が戻り、日常の時間が再び流れ始める。しかし、ブラムという存在は確実に私の世界に痕跡を残していた。それは目に見えない変化だったが、私の心の奥深くで確実に根を張り始めていた。

  4

  その日は朝から薄暗く、湿気を孕んだ重い大気が街全体を覆っていた。

  窓を開けても涼やかな風は入り込まず、代わりに湿り気を帯びた空気が毛並みにまとわりついてくる。見えない糸に絡め取られるような不快感が、身体の表面に漂っていた。

  雨雲の圧迫感が頭を締め、空気そのものが水分を含んで粘つくように感じられる。街角の石畳は湿気で暗く染まり、普段なら乾いた匂いを放つ石造りの建物も、今日は沈黙に包まれていた。

  こんな日は薬草の保存状態にも細心の注意を払わなければならない。湿気は薬効を損なうばかりか、貴重な素材が使い物にならなくなってしまうこともある。私は店内を巡り、各々の容器の密閉状態を確認していく。乾燥剤を追加で配置し、特に湿気に弱い精油類は店の奥の乾燥した場所に移動させた。

  午前中は客足も途絶えがちで、店内は薬草の香りと湿気が混ざり合った独特の空気に満たされていた。外の世界が重く沈む一方で、小さな薬屋は静謐な避難所のような趣を呈していた。時折、遠くで雷鳴が響き、大気の緊張感が一層高まっていく。

  昼過ぎ、いつものように扉の鈴が鳴った。その音は重い空気の中でくぐもって聞こえた。振り返ると、予想していた通りブラムの姿があった。しかし今日の彼は、いつも以上に疲労の色を濃く浮かべて立っていた。

  「いらっしゃいませ。今日もお仕事上がりですか?」

  「ああ」

  いつも通りの簡潔な応答も、今日は歯切れが悪かった。私は世間話もほどほどに、彼を診察室へ通した。診察室に向かう彼の歩みには、わずかな重さが感じられた。武具を外す音も、どこか力なく響いた。

  武具が外れると、蒸れた匂いが診察室を一気に満たした。湿気によって凝縮されたその匂いは、いつもより遥かに濃密で、むせかえるような強さで私の鼻先を包み込む。一瞬、めまいのような感覚に襲われた。

  彼が上体をさらすと、一層濃くなった匂いに、私の身体は[[rb:為 > な]]す[[rb:術 > すべ]]もなく反応してしまった。動揺を隠しながら、平静を装って彼の身体を診る。右肩に新しい打撲の痕がある。微かに膨らんで熱を持っている患部に軽く触れると、彼はわずかに巨躯を強張らせた。普段なら微動だにしないはずだが、今日は痛みに対してより敏感になっているようだった。

  「痛みますか?」

  「……少しな」とブラムは珍しく素直に言った。

  湿気が傷の痛みを増幅させることもある。もしかしたら、気圧の変化で古傷が反応しているのかもしれない。

  私は痛みを鎮める薬草の割合を増やし、涼感を得られる香草を加えて調薬することにした。蜜蝋を湯煎で柔らかくしながら、彼の表情を観察する。眉間の影が、普段より濃く描かれている。疲労と痛みが重なって、身体に普段以上の負担をかけているのが分かった。

  患部を清拭し、薬を塗って清潔な布を巻く。その時、雨粒が石畳に落ちる音を耳が捉えた。ぽつりぽつりと控えめに始まったそれは、次第に激しさを増していく。屋根を打つ雨音が店内に響き渡り、本格的な雨脚となって街を包み込んでいくのを感じた。

  私とブラムは同時に顔を上げて、窓の方向に視線を向けた。

  「降り出しましたね」と言うと、彼は窓から視線を外さずに頷いた。

  「……激しくなりそうだ」

  私が布を巻き終えるやいなや、彼はかごに脱ぎ捨てられた衣類に手を伸ばした。しかし、雨音の激しさに耳を揺らして動きを止めた。その隙に身体を潜り込ませるように、私は口を開いた。

  「あの──」

  大きな背中に向けて発した声は、思いのほか小さく震えていた。

  「もしお時間があれば、雨宿りをしていかれませんか」

  その提案を口にした瞬間、私の心臓が少し早く鼓動するのを感じた。これは単なる親切心なのか、それとも他の何かなのか。自分でもその境界線が曖昧になっていた。

  「汗や雨で薬が流れ落ちてしまうかもしれません。身体に馴染むまで、こちらに留まっては」

  私は事実を並べ立てたが、方便にも思えた。

  ブラムは私の方に振り返ると、迷うように小さく唸った。目を細め、太い首に手をやって考えを巡らせている。そのように何かを決めかねる様子は初めて見るものだった。

  「……先生が迷惑でなければ」

  いくらかの時間をかけて、彼はそう返答した。

  「迷惑だなんて、とんでもない。そうだ、せっかくだからお茶でも淹れましょう」

  口元が緩むのを抑えながら、私は安堵を込めてそう言った。

  尻尾が揺れてしまいそうになるのを隠すように、私は小走りで店の奥に引っ込み、薬草茶の準備を始めた。茶器を温めてから葉を加え、丁寧に蒸らしていく。立ち上る湯気が、診察室の重い空気を僅かに軽やかにしてくれるような気がした。

  私は小さな皿に昨晩作った菓子を盛り、茶とともに差し出した。彼は黒い瞳で皿をじっと見つめていた。片手に乗る程度の大きさの、白い半球の物体。そこに困惑の色が浮かんでいるのが見えた。

  「甘いものが大丈夫であれば、召し上がってください」

  「これは?」

  彼の声には、わずかな警戒が込められていた。

  「お茶だけでは寂しいので、私の間食用に作っておいた菓子です」

  彼は依然として皿を見つめている。その視線の奥に潜む緊張感に、私はようやく気が付いた。

  「……私の皿と交換しますか?」

  職業を考えれば、供されるものに対して疑いを持つのは当然かもしれない。そう訊ねると、ブラムは珍しく慌てたような表情を見せ、耳が揺れる勢いで首を横に振った。

  「いや、そんな、違う。先生はそんなことをしないだろう」

  彼の言葉には、私への信頼と、同時に自分の職業的な習性への苦笑いが混ざっているように感じられた。

  「……気を悪くさせたならすまない」

  「いえ、構いませんよ。安心して召し上がってください」

  柔らかな声を意識してそう言うと、緊張が緩む匂いを感じた。

  ブラムは慎重に菓子を手に取り、口に運んだ。私にとってはちょうどいい大きさなのだが、彼が持つと一口で呑み込めそうだった。少量を齧った瞬間、彼の表情がわずかに和らぐのを見て、私は胸を撫で下ろす。

  「美味いな。中身は……」

  彼の声には、素直な驚きと満足感が込められていた。

  「豆を甘く煮詰めたものを、粘り気のある粉を練った薄皮で包んでいます」

  「初めて食べる味だ」

  「故郷でよく食べていました。厳密には材料が違うのですが、似た味にはなっていますよ」

  外では雨が激しさを増し、窓を叩く雨粒の音が次第に大きくなっていく。しかし、診察室の中は薬草茶の香りと静寂に包まれ、外の嵐とは対照的な平穏が漂っていた。

  「先生はこの辺りの生まれなのか?」

  その質問に、私は茶器を診察台に置いた。

  「生まれは東方の山地です」

  「遠方だな。なぜこの街で薬屋を?」

  「魔物に集落を襲われまして。運良く逃げおおせたのは私だけでした」

  気を遣わせないように平静な声で答えたが、彼の表情が微かに曇るのを感じた。

  「……すまない」

  少しの沈黙のあと、彼はそう言って頭を下げた。

  「気にしないでください。ありふれた身の上話ですよ」

  雨音に耳を傾けながら、私は茶に口を付けた。渋みの中に混ざる香草の清涼感が、蒸した空気をましなものにしてくれる。ブラムは菓子を口に含み、ゆっくりと咀嚼していた。

  「薬は独学か?」話題を変えるように彼は訊ねた。

  「基礎は家族から教わりました。でも、実用的なところは独学ですね」

  故郷とこの街では、手に入る素材も大きく異なる。種族によっても最適な調合は変わってくる。私は試行錯誤を重ねながら、この街での薬師としての技術を一から築き上げてきた。

  「大したものだな」

  その言葉には、心からの敬意が込められているように感じられた。彼のような経験豊富な人物からの評価は、私にとって何よりも価値のあるものだった。

  「ブラムさんはどちらの生まれですか? よければ、聞かせてもらえると嬉しいです」

  「西方に大河があるだろう。俺はその河畔で生まれ育った」

  ブラムは意外にもあっさりと答えてくれた。その視線は、壁に立てかけられた槍斧に向けられている。

  「おそらく先生が考えている通り、雇われの兵をやっている」

  彼のごつごつとした手が、槍斧の刃を優しく撫でた。その仕草には、長年の使用で生まれた愛着と信頼関係が表れている。武器でありながら、彼にとっては生きるための道具であり、同時に唯一の変わらない伴侶でもあるのだろう。

  「生まれは言った通りだが、若い頃から仕事で土地を転々としている」

  「そうでしたか。この街では宿を借りて?」

  「ああ。ここは栄えているから、物に困らなくていいな」

  多くは語らないが、言葉の端々から彼の境遇も察することができた。日々を過ごしている世界は違えど、決して恵まれた過去を持っているわけではないという共通点が私たちにはある。同情という言葉は適切ではない。しかし、何かしら感じるものがあるのは事実だった。

  「……そんな暮らしだから、この歳でも独り身だ」

  彼が口の端からこぼした言葉に、胸の奥で何かが響くのを感じた。その言葉には、諦めと同時に、微かな寂しさが含まれているように思えた。

  「私もです。だからこんな商売で食べていけるのですが」

  冗談めかしてそう言うと、ブラムは口元を微かに緩めた。厳しい顔付きに一瞬だけ浮かんだ柔らかさに、私は胸が高鳴るのを感じた。

  「そうか」とブラムは言い、残っていた菓子を口に放り込んだ。

  雨音が次第に遠ざかり、激しかった雨脚も穏やかになっていく。薬屋は再び静寂に包まれていく。外の世界から切り離されたような、特別な時間が過ぎていく。

  「上がったな」ブラムは窓に耳を澄ませてから立ち上がった。「先生には世話をかけた」

  「いえ、雨の間はどうせ暇ですから」

  彼は手早く服を着て、慣れた動作で武具を身に付けた。先ほどまで漂わせていた穏やかな雰囲気は封じ込められ、厳しい世界を生きる傭兵としての風格が診察室を充たす。

  私は薬とともに残った菓子を包み、彼に差し出した。

  「よければ宿で夜食にでもしてください」

  「いや、悪いだろう」

  「つまらない話に付き合ってもらったお礼ですよ」

  ブラムは一瞬迷ったような表情を見せてから、包みを受け取った。その手に触れた瞬間、私の心臓が小さく跳ねるのを感じる。

  「……なら、ありがたく」

  彼は薬代を支払い、薬と菓子の包みを提げて店を出て行った。扉が閉まると同時に、彼の匂いも次第に遠ざかっていった。雨上がりの清涼な空気が、彼の残した濃密な匂いをゆっくりと薄めていく。

  しんとした店内で、私は深く息を吐いた。また来てくださいとは言えない。薬屋には用事がない方が望ましいことだ。それでも、私はブラムとまた言葉を交わしたいと思っていた。今日のような、薬師と客から少し離れた時間を共有したいという思いが、心の奥で静かに燃えていた。

  5

  菓子を包んで渡したあの雨の日を最後に、ブラムは店に顔を見せていなかった。

  気が付けば、月の満ち欠けが二度の周期を巡っていた。もともと彼の来店は不規則だったから、これほど長い間隔が空いてもおかしいというほどではない。しかし、私の心は次第に落ち着かなくなっていた。

  朝の開店準備をしながら、私は無意識に扉の向こうに意識を向けていた。鼻先はいつも、彼の匂いを捉えようと動いていた。昼間の診察の合間にも、街の向こうから聞こえてくる足音に耳を澄ませる。夕方の閉店間際には、窓の外を行き交う人影を目で追った。しかし、あの黒い巨躯は現れない。

  彼が傭兵であることを思えば、遠方への出張があっても不思議ではない。拠点とする街が変わったのかもしれない。そう考えれば、寂しいことではあるが、それは彼らしい生き方でもある。

  だが、もしも——という考えが、夜の静寂の中で私の胸を締め付けた。想像すべきではない光景が頭をよぎると、寝台の上で身体を丸めた。その度に、私は自分がいつの間にか彼の安否を気遣っていることに気付かされた。

  ある午後、常連のタムロンさんが不安そうな表情で私を見つめていた。

  「……オドリク先生、もしかして私は、重い病でも患っているのでしょうか」

  診察を終えた彼がそう訊ねてきて、私は首を傾げる。

  「そんなことはありませんよ。何か体調で気になることでも?」

  「い、いえ。先生が浮かない顔をされていたので……何かあるのかと」

  その指摘に、私は慌てて取り繕う。

  「申し訳ありません。少し考え事をしていまして」

  「そうでしたか。先生もお身体に気をつけてくださいね」

  タムロンさんを見送った後、私は小さな鏡で自分の顔を確認した。確かに、以前より表情が曇っているように見える。患者に心配をかけるようでは、薬師として失格だった。

  それでも、ブラムへの思いを消し去ることはできなかった。もはや自分の気持ちを無視することはできない。私という存在の中で、彼への欲求はすでに否定できない現実となっていた。私は彼を、単なる患者としてではなく、もっと個人的な存在として求めていた。

  夜、寝台に身体を横たえると、言いようのない寂しさが私を包み込んだ。静かな生活に慣れていたつもりだった。大切な者を失うことの辛さを知っていたから、意識的に目を逸らし、心を閉ざしていた。しかし、ブラムという存在は、私の築き上げた壁をあまりに容易く突き破ってしまった。

  彼の匂いが記憶の中で蘇る。汗と血と土の匂い。野性的で、力強く、そしてなぜか安らぎを与えてくれる匂い。それは理性を超えて、本能の奥深くに眠っていた何かを呼び覚ました。

  暗闇の中で、私は彼の身体を思い浮かべる。黒い毛並みに覆われた筋骨隆々の身体。傷だらけでありながら、力強い生命力に満ちた肉体。診察の度に触れた、その温かく堅い感触。

  下腹部に熱が灯り、私は無意識に手を伸ばす。雨の日の診察室で、一瞬だけ見せてくれた柔らかな表情が浮かぶ。彼の太い腕に抱かれ、厚い胸板に顔を埋め、濃い匂いに包まれることを想像する。自分を慰めて果てるまで、時間はかからなかった。

  一時の快楽の後に訪れたのは、罪悪感の混ざる虚しさだった。濡れた手を拭い、気怠さに身を委ねて目を閉じる。温かい泥の中に沈んでいく感覚だけが、私に救いをもたらした。

  6

  その日、私は店を閉めた後、普段とは異なる方向へ足を向けた。

  石畳に響く自分の足音が妙に大きく聞こえる。夕暮れの路地裏は、昼間の喧騒から解放されて静寂に包まれていた。私は大通りから更に奥へ、迷路のような細い道を進んでいく。ここは普通の市民が足を向けることのない、街の深層部だった。

  目指している場所は、記憶の奥にある断片的な道筋を頼りに探し当てなければならない。何度か曲がり角で立ち止まり、周囲の建物の輪郭を確認しながら歩みを進める。やがて、見覚えのある扉が視界に入った。

  酒場の扉は重厚な木材で作られており、表面には何の看板も掲げられていない。この場所の存在を知る者だけが訪れる、暗黙の了解によって守られた空間だった。私は一度深呼吸をしてから、扉に手をかけた。

  扉が開くと同時に、薄暗い店内から無数の視線が私に向けられるのを感じた。しかし、それは互いに同じ目的でここに集まった者同士の、ある種の確認作業でもあった。私も店内を見回し、今夜の雰囲気を探る。

  客席には様々な種族の男性が散らばって座っていた。人間、獣人、亜人。年齢も職業も異なるであろう彼らに共通しているのは、皆が男性であるということだけだった。ここは街の深部にひっそりと佇む、男が男と出会うための場所だった。それぞれが抱える欲求や孤独を、この薄暗い空間で解消しようとしている。

  私がこの場所を訪れるのは、随分と久しぶりのことだった。とは言っても、これまでに片手で数えられるほどしか足を運んだことはない。そのたびに、この場所特有の空気に圧倒され、早々に退散していた記憶がある。

  適当な席を見つけて腰を下ろし、店員に飲み物と軽い食事を注文する。周囲からは発情した男性特有の濃密な匂いが漂ってきた。それは薬草の清涼な香りに慣れた私の嗅覚を刺激し、胸の奥に眠っていた欲求を静かに呼び覚ます。この匂いに吸い寄せられるように、私の身体も徐々に反応し始めていた。

  注文した酒を口に運びながら、私は店内の様子を観察する。カウンター席では中年の商人風の男性が、若い猫系の獣人と親しげに会話を交わしている。奥のテーブルでは、がっしりとした体格の人間が一人で酒を飲んでいる。それぞれが、今夜の相手を探しているのだろう。

  「隣、座ってもいいか?」

  不意に声をかけられて、私は顔を上げた。そこには壮年の人間が立っていた。短く整えられた金色の髪に、日に焼けた健康的な肌、程よく筋肉のついた身体。服装は質素だが清潔で、誠実そうな印象を私に与えた。

  「ええ、どうぞ」

  私が頷くと、彼は私の隣の席に腰を下ろした。彼から漂ってくる匂いを嗅ぎ分ける。土と植物の香りが染み付いている。血や汗の匂いはしない。おそらく農業に従事しているか、それに近い職業なのだろう。

  「ここにはよく来るのか?」

  彼は柔和な笑みを浮かべて話しかけてくる。その表情には下心もあるだろうが、同時に純粋な好奇心も感じられた。

  「いえ、数えられるほどしか」

  「だろうな。あまり見ない顔だと思ったもんで」

  彼の返答は素直で、嫌味がない。この種の場所にいる男性としては、むしろ好感が持てる部類だった。

  「獣人がお好きで?」

  私の質問に、彼は首を横に振る。

  「別にそういう趣向はないよ。見た目が可愛らしいと思ったのは確かだがな」

  「そ、そうですか」

  予期せぬ褒め言葉に、私は戸惑った。この手の場所で交わされる会話としては、驚くほど健全だった。

  「すまん、そういう言い方はすべきではなかったか?」

  「いえ、悪い気はしませんでしたよ」

  私がそう言うと、男はおかしそうに目を細めた。

  「──それで、この後どうだ?」

  しばらくの他愛ない会話の後、彼は単刀直入に私を誘った。しかし、その言い方には押し付けがましさがない。その清々しい誘い方には気持ち良さすら感じた。

  「気が乗らないなら遠慮せず断ってくれ。それで腹を立てるほど小さい男じゃないさ」

  彼の言葉には嘘がないようだった。私は改めて彼の匂いに意識を向ける。確かに優しい匂いがした。温かく、安心感を与えてくれるような香り。しかし、その匂いに包まれる自分の姿を想像しようとしても、どうしてもうまくいかなかった。

  私の記憶の奥深くに焼きついているブラムの匂いが、他の全てを上書きしてしまう。あの野性的で力強い匂い。汗と血と土が混ざり合った、生々しい戦場の記憶を纏った香り。それと比較すると、目の前の男性の匂いは物足りなく感じられてしまう。

  「声をかけていただいたところ、申し訳ありません。その……」

  私が言葉に詰まると、彼は理解したような表情を浮かべた。

  「はは、気にしないでくれ。お互いにいい相手が見つかるといいな」

  彼は残っていた酒の入ったジョッキを片手に、私のもとから立ち去っていく。その後ろ姿には、拒絶されたことへの失望よりも、むしろ爽やかな諦めが感じられた。

  再び一人になった私は、小さなため息をついた。酒場に入った時には確かに感じていた欲求も、今ではすっかり萎んでしまっている。ブラムのいない寂しさを埋めるために足を運んだこの場所で、私が確認したのは、彼以外では決して満たされないという事実だけだった。

  適当な男性と身体を重ねる気はとうに失せていた。無理に交わったところで、得られるのは虚しさだけだろう。私は諦めて酒場を後にすることにした。残っていた酒を一息に飲み干し、代金を支払おうと立ち上がる。その瞬間、微かにブラムの匂いが鼻先を過ぎったような気がした。

  私ははっとして顔を上げる。店内を見回すが、彼の姿はどこにも見当たらない。あまりにも強く彼を求めているために、嗅覚が幻を見せているのだろうか。

  いや、違う。絶え間なく動く鼻先は、確かに捉えている。ブラムが放つ匂いを間違えるはずがない。私は目を閉じて、意識を集中させる。暗闇の中で、匂いが強く濃くなっている。他の誰とも違うブラムの匂いに、私の身体が反応している。

  私は目を開いて顔を上げる。

  視線の先には酒場の扉がある。

  木の軋む音が響き、扉はゆっくりと開かれる。

  開いた扉の向こうには、黒牛の獣人が立っていた。

  7

  薄闇を背負った黒い輪郭が浮かんでいる。欠けた片角や傷痕の残る耳が、彼の生きる世界を物語っている。私がその姿を見間違えるはずはない。そこにいるのはブラムだった。

  彼は武具を身に着けていなかった。いつもの重厚な胸当てや腕当ての代わりに、麻布の簡素な服で巨躯を包んでいる。その姿は、診察室で見慣れたものとは全く異なって見えた。武器も戦いの匂いもない彼は、一人の男として酒場の入り口に立っていた。

  薄暗い店内にいた面々の視線が、一斉に新たな来客に向けられる。ブラムという男の存在感は、この場所においても圧倒的だった。私の視線もまた、他の客たちと同じように彼に向けられている。しかし、私の中で渦巻いているのは、単なる興味とは全く異なる感情だった。

  視線が交差した瞬間、時間が静止したような感覚に包まれる。私の姿を見付けたブラムは、目を大きくした。そんな表情も浮かべるのだと私は思った。しかし、それはほんの一瞬のことだった。見慣れた厳しい顔付きに戻った彼は、私の方へ向かって歩き始めた。

  その歩みは確実で、迷いがなかった。酒場の客たちの視線を浴びながらも、彼の意識は私にだけ向けられているように感じられた。重い足音が石床に響き、私の心臓の鼓動と奇妙に同期していた。

  「隣、いいか」

  私の前に立った彼の声は、いつもより低く、くぐもって聞こえた。

  「ええ、どうぞ」

  私は立ち上がって椅子を引いた。その動作に、自分でも驚くほど緊張が込められていた。互いにぎこちない雰囲気を漂わせているのが、自分たちでもわかる。

  ブラムは腰を下ろすと、店員を呼んで酒を注文した。彼の存在が隣に定着したその瞬間、久しぶりに嗅ぐ彼の匂いが私の感覚を満たした。汗と土と、そして特有の野性的な香り。それは記憶の中で美化されていたわけではなく、現実そのものが記憶以上に強烈だった。下腹部に覚えのある疼きが走る。

  運ばれてきた酒を前に、私たちは静かな乾杯を交わした。

  「……ここがどういうお店かご存知で?」

  口に含んだ酒を飲み下したあと、私は小声で訊ねた。その声は震えていた。

  「ああ」

  彼の返答は簡潔だった。しかし、その一言には多くの意味が込められている。

  「迷惑なら席を移るが」

  そう言われた瞬間、私は勢いよく首を振った。

  「い、いえ。隣にいてください」

  その言葉は、考える間もなく口からほとばしり出た、純粋な願いだった。

  「まさか、先生に会うとは思っていなかった」

  彼の声には、困惑と同時に何らかの安堵が混じっているように聞こえた。

  「それは私も……同じです」

  そう言いながら苦笑いを浮かべると、ブラムもぎこちなく表情を崩した。

  「あの、ここで先生と呼ばれるのは」

  「む、すまん。ああ……ええと」

  ブラムは言葉に詰まる。私は微笑みながら助け船を出した。

  「オドリクです」

  「オドリク……。オドリクか」

  彼は私の名前を静かに反復する。低い声で名を呼ばれて、身体の芯が火照るのを感じた。

  「それなりに顔を合わせていたはずだが、名前を知らなかったな」

  「ふふ、言われてみれば」

  私たちは互いの名を呼び、改めてささやかな乾杯をした。

  「ブラムさんは忙しかったのですか?」

  長い不在について訊ねると、彼は目を伏せて頷いた。

  「ああ。仕事で少しばかり遠征していた」

  「そうでしたか。また……会えてよかったです」

  安堵の息を漏らしながら、私は彼の方に身を傾けた。彼の放つ匂いや熱が近くなり、呼吸が浅くなっていくのが自分でもわかった。

  「……詳しくは言えないが、次の仕事も遠出になる」とブラムは呟いた。「そうなれば、しばらくこういう場も来られないだろうから、息抜きにな」

  その言葉に、私の胸に鋭いものが突き刺さる。

  「この街には、戻ってこられるのですか」

  「どう、だろうな」

  彼の返答は曖昧だった。そう答えざるを得ないことを私は知っているはずなのに、訊きたいという気持ちが抑えられなかった。歯切れの悪い言葉が私たちの間を彷徨い、行方がわからないままに消えていく。

  会話が途切れて、私たちはそれぞれの口に酒を運ぶ。先ほど声をかけてきた農夫のように、さらりと誘いの言葉を口にできればいいのだが、それができない。容易に言葉にできない感情が胸の中で渦巻いている。

  沈黙が続く中で、私は彼の匂いに包まれている自分を意識していた。記憶の中で何度も追い求めていたその匂いが、今目の前にある。しかし、それは単なる感覚的な満足以上の何かを私にもたらしていた。

  「なあ、オドリク」

  沈黙を破ったのはブラムだった。私の名前を呼ぶ彼の声には、これまでにない親密さと、同時に緊張が込められている。

  「はい」

  私は彼の方を向く。薄暗い照明の中で、彼の黒い[[rb:双眸 > そうぼう]]が私を見つめていた。

  「……俺と、どうだろうか」

  その誘いは、先ほどの農夫のそれとは全く異なっていた。不器用で、上手く舌が回っていない。しかし真摯だった。腹を震わせるような響きに、私の心臓が激しく鼓動を始めた。

  「……喜んで」

  私の返答もまた、計算のない率直なものだった。その瞬間、ブラムから立ち上っていた緊張の匂いが薄れていくのを感じる。代わりに、情欲を感じている雄の匂いが濃くなっていく。

  彼の発情の匂いは、私の身体的な反応も引きずり出した。下腹部は痛いほどに膨らみ、下穿きを圧迫している。身体が記憶していた彼への反応が、理性を超えて形となっていた。

  酒と軽食の代金を支払い、私たちは立ち上がった。店内の視線を浴びながらも、私たちの意識は互いに向けられている。酒場のざわめきが遠ざかり、これから行われることに想いを馳せている。私はブラムと並んで歩き、酒場の隅にある階段を上った。

  8

  酒場の上階は貸し部屋になっている。階下で出会った男同士が、個人的な空間を確保するためのものだ。酒場で腹を満たし、貸し部屋で事に及び、場合によってはそのまま眠りに就く。考えると、生理的欲求を合理的に満たすための施設だと感心してしまう。

  階段を上がると、薄暗さが一段と増す。壁に穿たれた穴に代金を滑り込ませると、そこから部屋の鍵が出てくる。私たちの前後には、同じ目的で足を運んだ男性たちの姿もあった。年齢も種族も様々な彼らが、言葉を交わすことなく手続きを済ませていく。そこは暗黙の了解が支配する時間だった。

  廊下には扉が等間隔で並んでいる。その向こうから、雄々しい喘ぎ声や、寝台の軋む音が微かに漏れ聞こえてくる。私の嗅覚は、生々しい精の匂いを容赦なく拾い上げていた。

  私は隣を歩くブラムの顔をちらと窺った。この空間にあっても、彼の表情は厳しさを保っていた。しかし、彼の下腹部から漂ってくる発情の匂いは濃度を高めていた。彼もまた、これから私たちがするであろう行為を想像して欲求を掻き立てられているのだろうか。

  私が先導して、指定された部屋の扉を開く。大きめの寝台が部屋の中央を占め、その脇には簡易的な湯浴み室がある。壁には明かりとり用の小さな窓があるだけで、外界からの音は完全に遮断されている。気の利いた装飾などはなく、ただ一つの目的のために作られた部屋であることがよくわかった。

  私がランプに光を灯すと同時に、背後でブラムが扉を閉める音が響いた。錠が掛かる小さな金属音が、私たちに始まりを告げていた。私は振り返り、彼の方へ身体を向けた。

  狭い部屋の中で、ブラムの存在感は一層際立って感じられる。天井の低い部屋では、彼の巨躯がより一層大きく見えた。普段の診察室とは異なる状況で向き合う私たちは、期待と戸惑いの混じった表情で互いを見つめていた。

  言葉を交わすことなく、私はブラムに向かって歩み寄る。一歩、また一歩と距離を縮めていくにつれて、彼の匂いがより鮮明に私の感覚を満たしていく。そのまま彼の胸に抱きつくと、小柄な身体は厚い胸板に包み込まれた。麻布の向こうから伝わってくる体温と、力強い心臓の鼓動が、私の頬に直接伝わってくる。

  「待て、臭うだろう」彼の声には困惑が混じっていた。「仕事上がりなんだ。先に軽く身体を流させてくれ」

  「構いません」

  「……いいのか?」

  彼の大きな手が、私の後頭部にぎこちなく添えられた。そっと触れては離れ、今度は力強く抱きしめられる。力加減を探るような仕草は、他者と親密に触れ合うことに慣れていない彼の性格を物語っていた。

  鼻先がブラムの胸に押しつけられると、彼をより深く感じ取ることができた。革と金属、土と血、彼の仕事と切り離すことのできない匂いがする。そして何より、汗だけではない、彼自身の野生的で力強い雄の匂い。それらが混ざり合って、複雑で濃密な体臭を形作っている。

  私の嗅覚はその一つ一つを識別し、記憶の奥底に刻み込んでいく。彼の匂いは、私の欲求を掻き立て、これまで感じたことがないほどの興奮をもたらしてくれる。しかし同時に、安らぎのようなものも覚える。

  ブラムは不器用な手つきで、毛並みを整えるように私の頭を撫でていた。それと同時に、彼の下腹部──ちょうど私の腹のあたりに当たっているものが、布地越しにその存在を主張していた。太く、熱を帯びているそれは、静かに脈打ってその時を待っている。

  私は彼の手を引いて寝台に導いた。彼を[[rb:縁 > へり]]に座らせて、服を脱がせる。シャツのボタンを一つずつ外していくと、そのたびに布地で遮られていた匂いが強く立ち上ってくる。最後のボタンを外すと、黒々として[[rb:逞 > たくま]]しい上体が現れた。ブラムは袖から腕を抜き、脱いだものを部屋の隅に放り投げた。

  ランプのささやかな光が、彼の黒い毛並みに艶を与えていた。重ねてきた年月の刻み込まれた身体が、薄暗い部屋に輪郭を浮かび上がらせる。私はそっと手を伸ばし、薬師ではなく、一人の男としてその身体に触れた。

  厚い筋肉の層が胸から腹にかけて隆起して、その上を黒く艶やかな毛が覆っている。毛並みは胸の中央で最も濃く、腹に向かって薄くなりながら、下腹部で再び濃密になっている。程よい脂肪が蓄えられている腹は、身体の中で比較的柔らかく、愛しさを感じた。

  「あ……」

  逞しい身体に指を這わせていると、微かに膨らんで熱を持っている箇所がいくつかあるのがわかった。新しい傷を作ってきたのだろう。薄暗い中で他にも目を凝らしたが、切創はないようだった。

  「あとで店に寄ってください。薬を出します」

  そう言うと、彼は鼻から息を漏らした。視線を向けると、彼は口元を緩めていた。

  「……何か、おかしなことを言いましたか?」

  「いや、急に見慣れた薬師の顔になったものでな」

  「う……雰囲気を壊してしまいました、すみません」

  そう言って目を伏せると、ブラムは私の頬にごつい手を添えて首を振った。

  私は床に膝をつき、彼のズボンを脱がせた。下穿きはその中身で膨らんでおり、縫い目から裂けてしまうのではないかと思うほどに張り詰めていた。濃密な体臭に混ざり、雄が興奮している匂いが立ち上ってきて、私の身体は否応なく反応してしまう。想像の中で求めていたものが眼前の現実としてあり、私の下腹部は忙しなく脈打った。

  それから、ブラムのブーツに手をかけた。実用性を重視して作られた頑丈な靴だった。おそらく魔物の革で作られており、表面には無数の傷が刻まれている。革は柔らかくなり、彼の足の形に馴染んでいた。硬く結ばれている紐を丁寧に解き、片足ずつ脱がせていく。

  黒い素足があらわになった瞬間、私は鼻先を殴られるような衝撃を受けた。靴に包まれていた足から立ち上る匂いは、これまでで最も強烈だった。汗が革に染み込み、長い時間をかけて熟れたような、濃縮された匂いだった。野性的で、原始的で、理性が溶けていく。身体の奥深くに眠っていた本能的な欲求が、静かに目覚め始めるのを感じる。

  「っ……」

  身体がびくりと震えた。膝が崩れそうになるのを必死に堪えながら、私はその匂いを深く吸い込んだ。

  今度はブラムが私の服を脱がせてくれた。ごつごつとした大きな手が私の身体に触れると、その感触だけで甘い声が漏れてしまう。私から彼に触れることはあっても、彼が私の体に触れるのは初めてだった。彼は丁寧に、壊れ物でも扱うかのように私がまとっているものを脱がせていく。指先に残る小さな傷跡や、分厚くなった手のひらが、彼の生きてきた世界を物語っていた。

  やがて私たちは下穿きだけの姿になった。どちらの布地も、昂りを形に表していた。気恥ずかしさが入る余地はなく、互いが互いの膨らみに視線を寄せていた。

  寝台の上で、私たちは抱き合いながら口付けを交わした。鍛えられた身体の中にあって、そこは柔らかく温かかった。舌を絡めると、先ほど口に含んだ酒の味がした。彼の鼻息が頬の毛を撫でて過ぎ去っていき、くすぐられるような感覚が心地よかった。

  互いの輪郭を確かめるように、胸や腹、背中を優しく撫でていく。ブラムの毛並みは滑らかで、汗の湿り気を感じた。筋骨隆々な巨躯も、部分によって感触は細かく違っていた。全身で彼の存在を感じて、私は久しく覚えることのなかった充足感に包まれていた。

  ブラムのごつごつとした手が私の赤毛を撫で付け、指先が背中を這っていく。尾の付け根を[[rb:解 > ほぐ]]すように揉まれて、私は身体を震わせた。その手付きに含まれる情欲が伝わってきて、私の興奮は増す一方だった。口を吸いながら息を荒げ、夢中で互いの身体を確かめ合う。

  「っ、ん……ブラムさんっ、ブラムさん……」

  口の端で彼の名前を呼び、熱に浮く目で黒い瞳を見つめる。彼は喉奥で唸るような低い声を漏らし、布地越しに股座を押し付けてきた。私もそこに自身を擦り合わせる。ブラムのものは私のものより遥かに大きく、下穿きの内側にある重量感と熱が伝わってきた。

  私は仰向けになったブラムの腹に[[rb:跨 > またが]]り、身体に鼻を付けて匂いを嗅ぐ。首筋から始めて、少しずつ下に向かっていく。行為の中でかいた汗は、普段とはまた違った新鮮な香りだった。

  腹に向かうにつれて、匂いはより濃密になっていく。鼻先が下腹部に辿りつくと、私は耐えきれずに内股になった。凝縮された雄の匂いが鼻腔を通じて全身を駆け回り、腰の深部にどろりと重い熱を湧かせた。

  そして太ももを下り、膝を通り過ぎて足先に鼻が触れた時、私の理性は本能に覆い尽くされてしまった。厚い革に包まれていた素足の匂いに、意識が現実から遊離していく。肉体から放たれるあらゆる匂いを煮詰め、熟成させたような刺激が快楽に変わっていく。頭上でブラムが何かを言ったような気がしたが、私の耳はそれを言葉として認識できなかった。ただ夢中で鼻先を足裏に擦り付け、撫でるようにして彼の匂いを堪能する。

  「っ、あっ……うぁっ──⁉」

  身体が震え、短い悲鳴のような声が聞こえた。それが自分の口から発せられたものだと気が付くまでに、一瞬の時間を要した。

  下穿きの内側で屹立している自身の先端が熱く、どろりとしたものに包まれているのを感じた。ブラムが珍しく慌てた様子で身体を起こし、私の下腹部に視線を寄せた。私も顔を伏せてそこを見ると、下穿きの布地に染みができていた。

  「あ……え……?」

  状況を飲み込むことができない私は、困惑した声を上げる。

  「もしかして、匂いで……果てたのか?」

  そう訊かれて、身体を巡る血が顔に集まってくるのがわかった。自分でも信じられない気持ちを抱きながら、私は小さく頷く。

  「犬の獣人は──」

  「い、いえ、私が変わっているだけかと……」

  誤解を解くために慌てて口を開いたが、ブラムは興味深そうに私を見つめている。

  「あの、ブラムさん……嫌であれば、あまり嗅がないようにします」

  「いや、構わん。……減るものではないからな」

  若干の戸惑いを浮かべながらも、彼はそう言ってくれた。

  彼は私の身を引き寄せ、汚れた下穿きに手をかけて脱がせた。達したばかりだというのに収まる気配がない私のものは、布地に押さえつけられてから勢いよく飛び出す。白濁にまみれている先端が、張り詰めているのがわかった。

  「出したばかりだというのに、すごいな」

  感心するようなその声色に、私は顔を熱くしながら苦笑いを浮かべた。彼の匂いを嗅いでいる間、ずっとこんな調子だとは、とても言えなかった。

  私も仰向けになったブラムの下穿きを脱がせる。跳ねるように姿を現したそれは、微かに揺れながら天井を向いた。ずんぐりと太く、半分ほど剥けている先端は赤黒い色をしている。張り詰めているそこの割れ目には、透明な滴が滲み出ていた。その下に垂れている袋も巨大で、見た目だけでずしりとした重さを感じ取ることができた。

  熱を帯びているブラム自身は、私の手に余る太さだった。ゆっくりと扱くと、彼は目を細めて鼻息を漏らす。私は吸い寄せられるように、彼のものに舌を這わせ、口に含んだ。

  「おっ、おい、オドリク──」頬に厚い手が添えられる。「無理はするな……っ」

  息を荒げながらそう言う彼に、私は首を振った。頭を下げ、彼の太いものを口吻の中に咥え込んでいく。透明な滴が舌の上に広がり、ブラムの味を感じる。下腹部の茂みに鼻先が近付くと、汗ばんでいる湿り気が[[rb:露 > つゆ]]となって浮かびそうだった。

  「っ、あぁ……」

  漏れ出る低い声とともに、私の頭に手が乗せられた。力強い手付きで撫でられて、私は目を細める。彼のものを口に含んだまま舌を這わせると、巨体が微かに震え、脚の筋肉に力が込められるのがわかった。

  「オドリク……いい、ぞ……っ」

  目線を上げると、ブラムは片肘を付いて上体を起こし、熱の浮かんだ黒い瞳で私の口元を見つめていた。私は頷き、口吻から彼のものを引き抜いてはまた根元まで咥えこむ。先端から染み出してくる透明な粘液が泡立ち、卑猥な水音を立てるまでに時間はかからなかった。

  私の口内でブラム自身はより大きく、硬くなって熱を帯びていた。先端の張っている部分を舌先でついばむようにすると、ブラムは顔を歪め、一際大きな鼻息を漏らした。私の頭を優しい手付きで撫でながら、腰を浮かせて動かし始める。脂の乗った腹が揺れ、寝台が軋む音が狭い部屋に響いた。

  普段は傭兵として生きる[[rb:厳 > いかめ]]しい彼の顔つきが、今は快楽を求める雄の表情になっていた。閉じ切っていない口から漏れる低い喘ぎ声が、私の腹を震わせて興奮を高める。彼の動きに合わせて頭を動かし、吸う力を強めると、彼は悦ぶように唸り声を上げた。

  しばらくそうしていると、腰付きが止まった。頬に手を添えられて、身を起こすように促される。私はそれに委ねて、彼の腕枕で横になった。

  ブラムのごつごつとした手が私の下腹部に伸び、屹立しているものをそっと握った。彼の体温と私の熱が交わり、[[rb:蕩 > と]]けるような快感が全身を駆ける。彼の手のひらに包まれると、私のものは実際以上に小さく見えてしまう。彼はとても慎重に見える手付きで、そこをゆっくりと扱いた。

  口付けを交わしながら私たちは互いのものを手で愛でた。勢いに任せず、たっぷりと時間をかけてそれぞれが感じるところを探った。達するほどではないが、快楽は確かに積み重ねられていった。手に握るものの昂りが増し、全身で息をするようになっていた。

  ブラムの手が私の背中を撫で、それが尻尾の方へするりと下った。彼の指先は円を描くように付け根のあたりで動き、私は落ち着かない気持ちになって両の脚を擦り合わせる。

  「ブ、ブラムさん……」

  「どうした?」

  「……ブラムさんは、どちら側ですか?」

  私は背中に回されている彼の手に、自分の手を重ねた。

  「どちら側──ああ、そういうことか」

  「はい」

  「俺は……オドリクを抱きたい。だが……無理にとは言わん」

  ブラムはそう言い、私の手に太い指を絡めた。私は首を横に振り、それから静かに口元を重ねて身体を起こした。寝台の隅に放られている脱いだ服から、小瓶を取り出す。

  「それは?」

  「滑りをよくするものです」

  「手作りか」

  曖昧に頷くと、彼は表情を和らげて言った。

  「謙遜しなくていい。先生のものなら信頼できる」

  あぐらをかいて座るブラムの前で膝立ちになり、筋肉で盛り上がった首に腕を回して体重を預ける。彼は潤滑剤で指を濡らし、私の後ろを丁寧に解してくれた。太い指が内側を押し拡げていく感覚に身体を震わせる。糸のように細く息を吐きながら、異物を押し出そうとする身体を抑え込む。

  「っ、ん……ぅ、あぁ……」

  「痛みはないか?」

  「だ、大丈夫です……ブラムさん、続けてください……っ」

  声を漏らした私を気遣いながらも、屹立している彼自身は、何かを期待するように脈打っている。私は節張った太い指を受け入れながら、潤滑剤で濡らした手で彼の先端を擦る。触れるたびに、それは跳ねるように反応した。彼の息遣いが荒くなっていくのがわかった。

  「初めは、オドリクに任せる」

  やがて準備が整い、ブラムはそう言った。それから仰向けになって自身に手を添えた。

  私は彼の上に[[rb:跨 > またが]]り、雨後の土のように湿っている後ろに、彼のものを押し付けた。丁寧に慣らされたそこは口を開いており、彼の太い先端を静かに呑み込んでいった。ゆっくりと、慎重に腰を沈めていく。

  内側が押し拡げられて擦れる刺激に、私の視界が滲んでいく。圧迫感に苦しさを覚えるが、痛みは感じなかった。ブラムは微動だにせず、私が彼自身を受け入れていくのを辛抱強く待っていてくれた。

  やがて、それ以上腰が沈まなくなった。後ろに手をやると、彼の股座から下がっている大きな袋に触れた。

  「オドリク……根元まで、入ったぞ……」

  ブラムは安堵の声色でそう言った。その表情には、覆い隠すことのできない快感が浮かんでいた。私たちは同時に深いため息をついた。

  「ブラムさん──っ」

  彼と繋がり、内側を満たされた幸福感に包まれながら、名前を呼ぶ。何も言わずとも両手の指を絡め、力強く握りしめた。

  熱の浮いた視線を交わしながら、ゆっくりと腰を浮かせてはまた沈める。私の内壁に擦れるたび、彼のものが脈打つのを感じた。圧迫感はすぐに快感へ変わり、全身を駆け抜けていく。ブラムも顔を歪めながら息を荒くし、少しずつ腰を動かし始めた。私の身体で彼が気持ちよくなってくれていることに、何よりも喜びを感じた。

  私たちの呼吸が合ってくると、快感はより深いものになっていく。ブラムの表情には、普段の厳しさとは全く異なる、柔らかな愛しさが浮かんでいた。腰に手を添えられて、緩やかに突き上げられると、腹の内側にどろりとした熱が湧いてくるのを感じた。

  「オドリク……俺が、上になってもいいか」

  腰を動かしながら彼は訊いた。私は頷き、内側にあるものを一度引き抜こうとする。しかし、ブラムは私の背中に腕を回して繋がったまま抱きしめてきた。

  「え──ブラムさ──」

  言い終わる前にブラムは身体を起こし、私を抱いたまま体勢を変えた。視界が宙を回り、気が付けば私の目は薄闇の天井を見つめていた。小柄とは言え、男を抱えながら軽々と動くその様に、あらためて彼の強靭さを感じた。

  「……すまん、痛かったか?」

  「い、いえ……驚いただけです。ブラムさん、すごい力持ちですね」

  繋がっていることを忘れながらそう言うと、彼は満更でもないような顔で欠けている角を掻いた。照れ隠しのような動きが可愛らしくて、私は微笑みを浮かべた。

  少しだけ緩んだ雰囲気の中で、彼は優しく腰を動かし始めた。先ほどまでとは異なる刺激に私は息を吐き、菓子のように甘い声で彼の名前を呼ぶ。

  彼の重みが私を覆い、汗ばんだ身体から放たれる匂いに包み込まれる。ブラムは私の頭を抱き、逞しい胸に埋める。滑らかな黒い毛の感触を全身で感じながら、私は彼の動きに身も心も委ねた。

  動きは次第に力強くなっていく。彼から[[rb:迸 > ほとば]]る液体と潤滑剤が混ざり、粘ついた水音を部屋に響かせている。互いの体温が溶け合い、どこまでが私でどこからがブラムなのか曖昧になっていた。奥深くを突かれる感覚に、私の意識は次第に[[rb:朦朧 > もうろう]]としてくる。

  「ブラムさん……っ、私っ、私は──」

  何も考えられないまま、喘ぎながら私は口を開く。彼の動きが一瞬止まり、心配そうな表情で私を見下ろす。

  「……好き、あなたが、好きです。ずっとあなたを……求めていました」

  視界が滲み、瞳の端から熱いものが溢れるのを感じた。私の言葉を聞いて、ブラムが息を吸い込むのが聞こえた。

  「……ああ、俺もだ」

  繋がったまま、彼は私に口付けをした。

  「ここでオドリクに会えて、よかった」

  溢れ出る想いの行き場を見つけられずに、私はブラムの大きな身体にしがみついた。それから、彼にささやく。

  「ブラムさん……私を気遣わないで、好きに動いてください」

  「だ、だが……」

  心配そうな声色に、私は首を振る。

  「ブラムさんの全てを、受け止めたいです」

  彼は悩むような表情を浮かべた。私の身体を配慮する気持ちと、自身の欲求の間で揺れているのだろう。構わないと伝えるように、私は彼の顔を両手で挟んだ。

  「……我慢はするな」

  ブラムはそう言うと、私に覆い被さって激しく腰を動かし始める。それまでの優しい動きとは一変して、穴を[[rb:穿 > うが]]つような激しさで下腹部を突かれる。寝台が壊れそうなほどに軋み、シーツが身体に擦れて鳴いている。

  「ブ、ブラムさんっ、す、ごっ……!」

  「っ、ふ、んっ……ぐ──っ」

  私の嬌声と彼の唸るような喘ぎ声が混ざり合う。黒い瞳には雄としての本能が宿っていた。[[rb:獰猛 > どうもう]]な情欲をぶつけられて、私はそれをすべて受け止めたいと思った。

  粘ついた水音が激しく響き、下腹部は[[rb:炙 > あぶ]]られているかのように熱い。声を抑えることはできず、私はブラムの胸元に顔を埋めた。毛並みの奥に顔を埋めながら、私は彼の匂いを[[rb:貪 > むさぼ]]るように吸い込む。

  「オドリクっ、いいぞ……っ、オドリク……」

  何度も名前を呼ばれて、そのたびに私は締め付けを強くする。すると彼の顔に悦びの色が浮かび、私の心はそれで昂る。全身が甘く痺れるような心地良さに沈んでいく。腰のまわりが湯に浸かったように熱を帯びていく。

  ブラムの動きは、頂点を見つけたかのように激しさを増した。やがてその動きが不規則になり、今まで見たことがないほど顔を歪めて腰付きを緩やかなものにした。

  「ブラムさんっ、が、我慢しないで……中に注いでくださいっ」

  私は縋るような声で言った。彼は口を開いて荒い息をしながら、深く頷いた。

  視界が白むほどの勢いで、ブラムは腰を打ち付けた。私は彼にしがみつき、その衝撃に固く目を瞑る。何度か下腹部を突かれてから、黒々とした巨躯は動きを止めた。

  「ぅ、あ……出す、ぞ……っ、オドリク──っ!」

  [[rb:呻 > うめ]]くような声とともに、ブラムは私の中で達した。彼のものが大きく脈打ち、熱いものが私の奥深くに注ぎ込まれるのを感じる。うっすらと開いた目に映ったのは、普段の厳しさを完全に失い、純粋な快感を享受している彼の顔だった。

  昂りの頂点を迎えたものは二度、三度と脈動し、そのたびに精を放った。微かな声とともに鼻息を漏らして、彼は腰を震わせた。注ぎ込まれた熱いもので下腹部が満たされる感覚に、私もまた言葉にならない充足感を覚える。

  「ブラム、さんっ……わ、私も──」

  突き上げられるような快感が全身をめぐり、勢いのまま達して私自身も白濁を放った。先端からどろりとしたものが垂れて、腹の上に滴を浮かばせる。二度目だというのに量が多く、止めどなく溢れるように被毛を濡らした。

  繋がったまま、私たちは息が落ち着くまで抱き合った。ブラムの重い身体が私を覆い、その温もりと匂いが私を完全に包み込んでいる。張り詰めた筋肉の奥から聞こえる彼の鼓動に耳を寄せながら、心地よい疲労感に身を任せた。

  内側に感じる圧迫感が薄れていき、やがてブラムのものは萎えて私から滑り抜けた。注がれたものが流れ落ちそうになるのを、私は慌てて手で押さえた。

  「……す、すまん。その……[[rb:盛 > さか]]りがついて、激しくしてしまった」

  私の頭の下に手を敷きながら、ブラムは目を伏せてそう言った。そこに普段の威厳は見て取れなかった。

  「いえ、大丈夫ですよ。とても……よかった、です」

  「ん、俺も……だ」

  気恥ずかしさを覚えながら見つめ合い、私たちは口元を触れ合わせた。

  「……身体を流そう。立てるか?」

  私は頷き、軋む身体を起こした。しかし、立ち上がろうとすると膝が笑った。彼は軽々と私を抱えて、部屋の湯浴み場へと連れて行ってくれた。

  9

  湯浴み場の狭い空間に二人の身体を詰め込んで、頭上から湯を降らせる。部屋の作りは簡素を極めているが、こういった設備に金をかけているからなのだろうと私は思った。

  被毛を湿らせているべたついた汗や、互いが放った精がすすがれていく。営みで濡れた身体を、私たちは静かに清めていく。同じ体勢を続けていたせいか、強張ってしまった筋肉がほぐれていくのを感じた。

  「湯を浴びるのは久しぶりだ」

  ブラムはがしがしと頭を擦りながら言った。流れ落ちていく湯が、彼の黒い毛並みを濡らして艶を与えている。

  「今の宿にはないのですか?」

  「ああ、安宿だからな。濡らした布で拭いている程度だ」

  「それは……大変そうですね」

  「いや、もう慣れた」

  湯気の向こう側に見える表情は平静だった。入浴の有無など、彼の日常においては些事なのだろう。

  私は持参していた石鹸を取り出す。薬草から作った乳白色の小さな塊だ。それを湯で濡らして、ブラムの背中に泡を立てていく。

  「これもオドリクが作ったのか?」

  「ええ」

  「この香りは……」

  「故郷の山地でよく見かけた花の精油です。先日、行商の方から譲っていただきました」

  薄紅色の控えめな花を思い浮かべながら、私はその優しく上品な香りに鼻を寄せる。仄かに香る爽やかな甘さが、ブラムの野生的な匂いと交じって不思議な調和を奏でていた。

  「いい香りだ」

  「店にあるので、よければ持って行ってください」

  「……なら、ありがたく」

  柔らかな声色で、彼はそう答えた。

  筋肉で盛り上がった彼の背中を撫でるように洗っていく。滑らかな毛並みに白い泡が立ち上がり、その奥に染みついている疲労をほぐすように手を動かした。胸や腹、それより下も丁寧に洗っていく。ブラムの巨体をくまなく洗うのはなかなか骨が折れたが、彼と触れ合える喜びの前には些細なことだった。

  今度は彼が私の身体を洗ってくれた。大きな手で丁寧に泡を立てながら、私の小柄な身体を包み込むように洗ってくれる。先ほどまでの激しい情欲とは異なる、静かな愛情が込められているように感じられた。

  私たちは泡をすすぎ、清潔な布で水気を取って寝台に戻った。濡れた身体が乾いていくにつれて、部屋の空気が変化していく。先ほどまでの濃密な匂いは薄れ、代わりに石鹸の穏やかな香りと、清められた毛並みの匂いが漂っている。

  私はブラムの隣に横になり、腕枕に頭を乗せた。彼の逞しい腕に包まれながら、私は深い安らぎを感じていた。石鹸の匂いの奥に、彼の飾らない匂いを感じ取ることができる。汗や血の匂いが薄れると、そこには草原を思わせる、開放的で爽やかな香りがあった。

  「匂いを嗅がれるとは思っていなかった」

  ブラムがぼそりと放った言葉に、私の身体が強張った。

  「ああ……別に嫌だったわけではないが」

  続けられた言葉に、私は少しだけ安堵する。

  「……犬の獣人は、鼻が利きます。ですが、私はとりわけ嗅覚が鋭いようです」

  私は、病や傷の匂いを元に調薬していることを打ち明ける。これまで誰にも話したことのない、薬師の私が抱える秘密だった。

  「俺の診察も、匂いを嗅いで?」

  私の言葉に考え込む様子を見せてから、彼はそう訊ねた。私はしっかりと頷いた。

  「で、ですが、診察のためです。ブラムさんの匂いは好きですが、仕事はちゃんと——」

  慌てて弁解しようとする私を、ブラムは静かに遮った。

  「仕事を疑ったことは一度もない」

  「あ……」

  「俺の匂いが好き、か。そんなことは初めて言われた」

  苦笑いが含まれた声で言いながら、彼は私の頭を胸に寄せた。

  静寂が流れる部屋の中で、私は彼の鼓動を聞きながら腕の中で安らいでいた。穏やかな匂いに包まれて、行為の後の気怠さとともに眠気が近付いているのを感じた。しかし、その安らぎが永遠に続くわけではないことも知っていた。

  「──オドリク先生に頼みがある」と低い声が頭上で響いた。

  「頼み、ですか?」

  「次の仕事に持っていく薬を作って欲しい」

  その言葉に、小さな痛みが走る。

  「いかほどでしょうか」

  「そうだな……荷物に詰められるだけあるといい」

  彼が背負えるであろう荷の大きさを想像すると、相当な量だった。言葉にしなくとも、それは長期間の遠征を想定している依頼だった。

  「ブラムさん……この街に戻って来ますか?」

  「オドリク……すまない、約束はできない」

  [[rb:躊躇 > ためら]]いながらも口にした問いは、予想していた答えとなって私の胸を締め付ける。

  「この歳になると、もう生き方は変えられない」

  「なら、もし、またこの街を訪れたら……」

  私は言葉を続けようとしたが、声が震えてうまく出なかった。

  「その時は会いに行く」

  ブラムはそう言うと、微かに笑いながら続けた。

  「……傷だらけになっているだろうがな」

  「その時は、私も薬師のオドリクとして仕事を[[rb:全 > まっと]]うします」

  「ああ、頼んだぞ」

  ブラムは私を抱きながら、そう答えた。

  私たちは静かに抱き合い、何度も口付けを交わした。薄闇の中で、私とブラムだけが過ごす時が流れている。私は彼の頭に手を伸ばし、欠けている角にそっと触れた。ざらついた手触りが指を伝わり、そこに重ねられた年月を想った。

  10

  夜露に濡れた石畳の匂いが一日の始まりを告げる。

  前掛けを着けて窓を開けると、微かに湿り気を含んだ冷気が頬を撫でた。薬屋の建つ路地裏は、大通りの喧騒を隔てたような静けさに包まれている。立ち並ぶ石造りの建物は、めいめいに生活の匂いを漏らしている。小麦の焼ける香ばしさや薪の煙、人々の営みが放つ穏やかな気配。私もそれらを深く吸い込みながら、新たな一日のために動き出す。

  薬の材料に目を通し、補充するものを確認していく。掃除をして、調薬器具を丁寧に手入れしていく。朝の作業を終えた頃、扉の鈴が軽やかに鳴った。

  「おはようございます、オドリク先生」

  振り返ると、タムロンさんの穏やかな笑顔があった。いつものように整えられた髪、清潔な服装。この街の平穏を象徴するような彼の存在に、私は微笑みを返す。

  「おはようございます。体調はいかがですか?」

  「ええ、おかげさまで。先日いただいた薬のおかげです」

  私たちは軽い世間話を交わしながら、いつものように診察を行う。彼の匂いから健康状態を読み取り、必要な薬草を選んで調合する。一連の流れは、私の身体に染み付いた日常の一部となっていた。

  あの夜から月の満ち欠けが何周したのか、数えるのを止めて随分と経つ。初めは落ち込み、虚無感に苛まれたりもした。しかし、私は路地裏に店を構える薬師のオドリクだ。私を頼って店を訪れる患者がいる。そして私もまた、店を訪れる者たちに救われていた。

  タムロンさんを見送った後、私は問診票の整理を始めた。これまでに診察した患者たちの記録を、丁寧に綴じていく。手が一枚の問診票で止まる。

  「ブラム……」

  記された名前を口にすると、甘く切ないものが胸に湧く。

  彼の問診票は、あの晩、大量に処方した薬を最後に空白が続いている。私は初回の診察を指でなぞり、ブラムとの時間を思い起こした。忘れることのできない匂いや、雨音の中で交わされた会話、共にした夜の出来事。

  深く息を吐き、彼の問診票を綴じる。

  その時、私の身体は動かなくなった。

  まず初めに感じたのは、乾き始めている血の匂いだった。それから汗の匂い、獣の匂いがする。重く、濃密で、野性的な何かが近づいてくる。しかし、それだけではない。その奥に、微かに花の香りが混ざっている。懐かしい、爽やかな甘い香りが微かに含まれている。

  その匂いが店の前で止まる。私は息を詰めて待つ。時間が引き延ばされたような感覚の中で、外の気配を探る。重い足音が響き、革と金属が擦れる音が耳に届く。

  扉が開く音より先に、私の鼻はその匂いを捕まえていた。