Lycoris radiata

  思うは、あなたひとり。

  [newpage]

  大気をふるわせていた雷鳴が、止んだ。

  夢とうつつをさまよっていた九郎の意識が、ふわりと泛かびあがる。

  あたりは、まだ暗い。

  見上げると、空の紺青がその底にたゆたうように、仄かな乳白をにじませていく。

  暁闇の空。

  太陽は隠れているが、右の頬にたしかな熱を感じ、九郎は顔をかたむける。

  剃刀のようにくっきりと、夜を切りとっていた金剛山麓の稜線が紺青から甕覗きへとうつりゆき、やがて薔薇色の筋にふちどられる。太陽が黄金のうてなをひろげ輝きをはなち、空全体に、あたらしく生まれた光りが満ち満ちていく。

  終わった、のか。

  夜明けとともに葦名全土を覆っていた淀みが拭いさられたことを、九郎は肌で感じとった。

  直感が告げている。

  強大なちからに、狼が[[rb:優>まさ]]ったのだと。

  起きあがろうとしたが、全身に鉛で蓋をされたかのようだった。もがくことさえできず、身体に力が入らない。手も足も顔も、まるで己のものではないようで、指いっぽん、満足に動かせなかった。

  もぎれるように熱く痛んでいた左の脇腹も、いまは、ひどくつめたい。

  「狼」

  吹きわたる風を受けて、さらさらと花穂をゆらす[[rb:芒>すすき]]野原で、それでも九郎は声をふり絞る。

  「何処におる。どこじゃ、狼」

  さくさくと、軽い足音が近づいてくる。極限まで気配を削ぎおとした、野性の獣のようにしなやかな足運び。

  「九郎様」

  耳なじんだ、ひくい声。

  狼は常と変わらず音をころして片膝をつき、その右腕を九郎の背にまわした。

  「ああ、狼」

  「……お傍におります」

  いたわるように前へ屈みこむ、狼の腕のなかはあたたかく、声は肌にしみいるようにふかく、優しい。

  九郎は安堵し、ため息をこぼした。

  これ以上ないほどのやすらぎを、感じていた。この腕のなかで不死を断つことができるのならば、それは、とても幸せなことだと。

  「竜の涙を」

  狼のおだやかな手が九郎の口もとに触れて、傾けられた。

  九郎は、うすくくちびるを開いた。

  なつかしく[[rb:馨>かぐわ]]しい、香りの珠玉というほかには、言いようのないもの。

  そして今ひとつは、肉薄くつめたい、閑雅の箔のごとくちいさな欠片。

  それらがふたつともに、舌のうえを転がり、喉をつたって胃の腑へ滑りおちていく。

  狼。

  呼びかけようとしたが、吸いこんだ息が、うまく音になってくれない。

  血を失いすぎたためだろうか、視界もはっきりしない。

  狼の姿も、うすい膜いちまい隔てたかのように、朧気だ。

  ただ、そのくちびるが動いて、何かを言っていることはわかった。

  何を言っている?声にならない声で、九郎は必死に問いかける。そなたはわたしに、何を伝えたい?

  狼。

  最期に、そなたの顔が見たい。声が聞きたい。礼を言いたい。

  けれど、見えない。聞こえない。ことばが、出てこない。

  ひどく眠たくて、目蓋が勝手に閉じようとする。ままならぬ身体が、わずらわしい。

  どうか、もう少しだけ。

  す……っと、狼のぬくもりが離れていく。

  うなじをくすぐる、芒の花穂。背につめたい泥土が触れて、ひたひたと滴るように心が寒くなる。

  狼、どうしてだ。最期までこの身を離さないで欲しかったのに。どうして…―――。

  意識が闇へと咀嚼されていく、その間際に。

  煮えるように熱いものに全身を包まれ、咲いてもいない桜の、噎せかえるようなかおりに抱かれた。

  九郎の記憶は、いったんここで途切れている。

  [newpage]

  あ、目もとが動いた。お気がつかれる。

  やけに輪郭のくっきりとした、現実味のある声が耳もとでして、誰かがまわりで動き回る気配がする。

  急ぎお伝えください。……様に…さ…が、お目覚めになりましたと。

  甲高い声も、畳を蹴立てる足音も、顔のまわりで飛びまわる蠅のように騒がしくて、ひどく耳障りに感じた。

  いつもは何があっても動じず、静かすぎるほどなのに。いったいどうしたというのだ。うるさいぞ、……。

  声が出ず、九郎は首を廻した。

  騒がしい物音は、まだ止まない。なぜか、あたりが暗い。暗くて、それで声の主が見えない。いや、ちがう。目蓋が貼りついてしまってひらかないのだ。どうしたらいい。わたしは、誰の名を呼ぼうとしたのだろう。目をひらくにはどうすればいいのか。声を出すには、どうしたら。思考と動きが断線していることに、九郎はかるい恐慌状態に陥る。

  大きく息を吸いこんで、九郎は目尻に力をこめた。

  ぱっと視界がひらけたが、

  「御子様、わたくしが見えますか」

  見知らぬ顔が間近にあって、九郎は声にならない悲鳴をあげた。

  「どうか、落ち着いてください」

  褥から逃れ出ようとする九郎に、声の主が叫び、その肩を押さえつけた。

  「落ち着いてください!わたくしはお味方です、御子様!御身を害するものは、ここにはおりません!」

  必死に呼ばわるその声に、九郎はようやく落ち着きを取りもどす。

  「ゆっくりと息を吸って、もう一度……そうです」

  案じ顔で九郎を覗きこんでいるのは、匂うようにおおきな瞳が印象的な少女だった。松葉色の小袖を着て、袂をたすき掛けにしている。年の頃は十四、五といったところか。

  ようやくはっきりとした頭で、九郎は言った。

  「ここは……いったい……」

  起き上がろうとすると、脇腹に激痛がはしった。

  「あ……痛ぅ…ッ」

  「ああ、ご無理をなさってはいけません」

  少女が背に手をまわして起こしてくれる。くちびるに器があてられた。新鮮な水の匂いがする。

  受けとろうと手をのばし、両手で包みこもうとしたが、手がふるえてこぼしてしまった。少女が九郎の手を支えるように包み、椀を口もとまで運ぶのを手伝ってくれた。

  水はつめたく、眠りに乾いた身体へあまく染みわたった。すべて飲み干すと、新しくつがれた水がまた差しだされる。少女が手を添えてくれようとしたが、今度はきちんと持つことができた。何杯か水を飲み終えて、九郎はようやく平静さをとりもどした。

  「ありがとう。見苦しい姿を見せてしまった。すまない」

  「いえ、わたくしのほうこそ。思慮が足りないばかりに、御子様を驚かせてしまって……」

  「そなた、名前は?ここはいったい何処じゃ?わたしは、どのくらいこうしていた?」

  「ここは壬生村で、わたくしは村名主の孫。蛍と言います」

  九郎が逗留しているこの屋敷は村名主のもので、ほかにエマと寄鷹の衆、それに本城から逃れてきたものたちが起居しているのだと、蛍は語った。

  「皆さまがこちらへおみえになってから、五日になります」

  壬生村は葦名の北はずれにある。金剛山麓に囲まれたちいさな集落で、平坦な土地がほとんどない。村人は五十人ほどで、金剛山の頂を源とする清流沿いに家を建てて暮らしている。それぞれ前庭のちいさな畑で[[rb:蔬菜>そさい]]を育て、川べりのわずかな平地に水を引いて、水田を拓いているという。

  あらためて、九郎は周囲を見廻した。

  天井のたかい、十二畳ほどの座敷だ。三方が襖で、庭に面する一方のみ、明かり障子となっている。

  襖には、さまざまな絵が描かれていた。薄墨で蘆の水辺にあそぶ雁を描いた[[rb:蘆雁図>ろがんず]]に、松の古木から飛びたたんとする鷲図。

  そうした、うつくしいがありきたりな画題のなかにひとつだけ、ひどくめずらしいものがあった。

  正面の襖に、焔たつかのようにすっきりと赤い花が咲いている。

  彼岸花だ。

  色を排した水墨画と比べて、けざやかな顔料をつかった彩色画の緋色は、そこだけ妖しく、泛びあがるかのようだった。

  ほかに調度品といえば、葛籠と火鉢、それに古びた衝立と文机くらいのもので、さっぱりとしている。

  「葦名は……どうなったのじゃ」

  九郎の問いかけに、蛍は悲しげに首を振った。

  「残念ながら」

  短いそのひとことに、すべてが詰まっていた。

  「そうか、落ちたのだな」

  「はい」

  答える蛍の声は、消え入るようにちいさい。

  「お城の皆さまがどのようにお考えだったのか、それは存じません。ですが、わたくしたちは覚悟を決めておりました。もう、ずっと前から」

  「………………」

  「戦に負けたからといってこの地を離れるわけにもまいりませんし、あとはただ、流れに身を任せるだけです」

  うすく目尻に涙をためた蛍が口にするひと言、ひと言が、九郎の耳にせつなく響いた。

  内府に降伏して家名を残す道を選ぶこともできただろうに、葦名の将兵は戦って滅びる道を選んだのだ。国をあげての大戦に敗北した、その代償は大きい。戦が終わっても次の為政者が定まるまで混乱はつづく。民の暮らしが落ち着くのは、かなり先の話しになるだろう。

  葦名を護る。そのためだけにすべてを棄てた男に傷つけられた脇腹が[[rb:窃>かす]]かに蠢いた気がして、九郎は目をすがめた。

  すべてが終わったことへ安堵に似た気持ちも湧いたが、その一方で、やりきれない思いを感じてもいた。自分が感じているのが弦一郎への憐憫なのか、怒りなのか、それともただ単に虚しさなのか。おそらく、そのすべてだろう。鎧を幾重にもまとわされたように、身も心も重くなる。

  「遠からず、この村にも内府の手がまわることでしょう。ですが今はまだ、大丈夫です」

  深刻に考えたところで、どうしようもない。指で涙をぬぐった蛍が気分をあらためるように、おっとりと手を打ちならした。

  「さあ、御子様。ずっと横になっておられましたから、ご不快なのでは。お身体を浄めましょう。お召しかえをしていただくまえに、汗を拭わせてください」

  「すまない。世話をかけるな」

  「いいえ。おひとりで立てますでしょうか。人の手が必要であれば、助けを呼びますが」

  「いや、なんとか……大丈夫じゃ」

  九郎は傷を庇うようにしてそろそろと立ち上がり、蛍の手をかりて着衣を脱ぎ、さらしを解いた。足もとに白く細長い布がうずたかい山をつくっていく。ときおり身体の軸をふらつかせる九郎に、蛍が言った。

  「御子様、わたくしの肩に手をかけて身体を支えてください。どうか、ご遠慮なく」

  「蛍、と言ったか」

  「はい」

  「手をわずらわせてばかりで、まことに申し訳ない。そなたにも、やるべきことがあるだろうに」

  蛍はかろやかに笑って、手を振った。

  「いまは御子様の身の回りのことが、わたくしの為すべきことですから。ここを我が家と思って楽になさってください」

  湯にひたした手ぬぐいを硬くしぼり、蛍は九郎の背中や肩を浄めていく。冷えた肌に、加減した力であたたかく柔らかな布がすべるのが心地よい。

  顎をひくと、左脇腹の傷が目に入った。弦一郎の大太刀によって切り裂かれた箇所は縫合され、うすく肉がもりあがっている。ていねいな外科処置が施されていることが、一目でわかった。

  九郎は縁側の障子へ目を向けた。傷の手当をしてくれたであろうその人、エマは何処にいるのだろう。そしてもうひとり――狼は、何処に。

  「エマ殿も、こちらにおられると言ったな」

  やすみなく手を動かしながら、蛍がうなずく。

  「はい。いまは別棟で、戦で傷ついた方々を診ていらっしゃいます」

  「そうか」

  「御子様がおやすみのあいだも、半刻にいちどはご様子を見にいらっしゃいました。お目覚めになられたことは寄鷹の衆へお伝えしましたので、ほどなくこちらへお顔を出されると存じます」

  「あとひとつ、訊きたいことがあるのだが」

  「はい。何でしょうか」

  ふくらはぎを拭っていた手をとめて、蛍が上目遣いに九郎と目をあわせた。

  「知っていれば教えてほしい。我が忍びを知らないか?」

  忍び……くちびるでつぶやいて、蛍は表情をわずかに変え、考えあぐねたように首を傾げる。

  「寄鷹のおひとりですか?皆さま同じような面をつけておられるので、どなたが誰かは……」

  「いいや、違う」

  狼の身なりや背格好を詳しく伝えても、蛍はよくわからないと言う顔をした。

  「申し訳ございません。おっしゃるような御仁は、ご一行のなかにはおられなかったように思います」

  「さようか」

  九郎の視線が、蛍から障子の外へとそれた。その目は、なにも見ていないようだった。明かり障子をとおして入ってくる淡い陽ざしに青みがかかった白目が照り映えて、うつむいたその顔が、ふと、泣いているように見えた。

  蛍は見かねて、言い添える。

  「エマ様にお尋ねになったら、如何でしょう。その、狼殿……について、あの方ならばご存じなのでは」

  「……そうだな。そうしよう」

  九郎の身体を浄めたあと、蛍は湯のはいった手桶と手ぬぐいを脇によせ、腰をあげた。

  「お召しかえと、床替えの用意をいたしますね」

  座敷の片隅から葛籠を抱えてもどると、彼女は中からまっさらな寝具と綿入れ、それに畳んだ着物を取りだした。

  銀鼠色の小袖が用意されていた。それに、真っ白な肌着。

  死に装束ではない。生きるための着物だ。

  「火のそばへどうぞ、御子様」

  衝立ひとつで褥と火鉢のあいだの視界をかるく遮り、蛍が九郎を手まねいた。肌はさっぱりしたものの、脂っぽく束になった髪の毛を気にする九郎に、蛍が眉をさげた。

  「ほんとうは、[[rb:御髪>おぐし]]も濯いでさしあげたいのですが。熱がしっかりと下がるまでは控えるようにと」

  「エマ殿が?」

  「はい」

  身支度を終えた九郎に、蛍はととのえた褥へふたたび横になるようにとすすめた。

  「なにか、召し上がりたいものはございますか」

  「……そうだな。では、粥をたのめるか」

  「承知いたしました。少しお待ちいただけますか」

  笑顔で請け負った蛍は、汚れた衣類や手桶をまとめて手にして出ていき、やがて炭壺とともに言いつけの膳を運んで戻ってきた。

  九郎は蛍に肩をささえてもらって身を起こし、ひさしぶりのあたたかな食事を、少しずつ、腹へいれた。

  「美味い」

  「それはようございました」

  微笑みながら、蛍は垂れ髪に結った頭をさげる。

  「もう少し召し上がりますか」

  「いや、もうじゅうぶんだ。ありがとう」

  九郎が椀と匙を置くと、蛍は膳を持ってさがった。

  いったんはさがった蛍が湯をいれた鉄瓶をさげ、火鉢に炭を足しに戻ってきた。九郎は火箸で炭をととのえている彼女の背中に声をかけた。

  「はい、いかがされましたか」

  「そこを、開けておいてくれないか。それからしばらくの間、わたしをひとりにして欲しい」

  庭へとつづく障子を示すと、蛍は九郎の顔を見た。

  「晴れ間も覗きますが、雪がちらついたり止んだりのお天気で、ひどく寒いですよ。おからだにさわります」

  九郎はおだやかに目もとをくずして、首を振った。

  「天井と壁にかこまれて寝そべっていると、気がふさいでしまう。すこし、景色を見せてほしいのだ」

  蛍はうつむいて、じっと考えこむ顔いろになった。悩んでいる。九郎は重ねて言った。

  「短いあいだで構わない。たのむ」

  [newpage]

  蛍はしばらく逡巡していたが、結局、障子をひとつだけ開けて出ていった。

  九郎は脇腹をかばいながら片肘をつき、半身をおこして庭へ目を向けた。

  吹きこんでくる風はたしかに身を切るようなつめたさで、九郎は蛍がもってきてくれた綿入れを手繰り寄せた。

  庭は、よく手入れされていた。築山があり、ちいさいが池もある。角度によってはほんのわずかだが平田の雰囲気がある気もして、意外なところで出会ったなつかしさに、九郎は目をほそめた。

  築山はうっすらと雪化粧していた。池の水面はひくい西日を受け、鏡に反射させたような光りがこまかに散らばり、またたいている。

  あかがねの光りが、庭と部屋の境目を橙色に染めあげ、内と外とを曖昧にする。冬枯れた草木の影が輪郭をにじませるのに[[rb:叛>さから]]って、襖絵の彼岸花はみずみずしく、緋色に際だっている。

  宵闇が、近い。

  風が鬢の毛を梳いてみだす。九郎は冷えた手をこすりあわせて、息を吹きかけた。つめたく痺れる耳朶をそっと両手でおさえて、ときおり天の高いところから、思い出したかのようにふらふらと舞い落ちる雪を眺める。

  口のなかにはまだほんのりと、粥のあまさが残っている。

  炊煙。飯を炊くあまい匂い。晩秋の夕暮れ。

  舌先の味の余韻や、眼にうつる色彩、肌にふれる風のつめたさ。まったくつながりのないはずのあれやこれやが、記憶のうたかたを呼びさます。

  と、一迅。

  ひときわつよい風が庭をさらい、骨ほそい伊呂波紅葉の枝から、名残りの葉が舞いおちていく。へりを金色にかがやかせる落葉を目で追いながら、九郎はふかく息をつき、綿入れの前を掻き合わせた。

  今、心のなかはとても静かで、目をつむればどこか遠いところまで意識を飛ばすことができそうな気がした。

  まだ平田で過ごしていたころ。

  狼をともなって、平田の郎党、野上の家が丹精していた田圃まで稲刈りの手伝いに出向いたことを思いだす。手伝いといってもあれこれ面倒を言いつけられたのは狼で、九郎は大人たちの立ち働きを見守っていただけだったが。

  干した稲のこうばしい香り。茜色に染まった大気。家々の窓からは、夕餉をかこむおだやかな声がこぼれて。

  屋敷への帰り道すがら、畔の両脇には彼岸花が咲き乱れ、わたる秋風に戯れあい、たがいの首をゆすっていた。

  ――どこまで行っても、おそろしいくらいに真っ赤じゃ。ずっと遠くまで紅を刷いたような眺めだな、のう、狼よ。

  ――九郎様、お手を触れないほうがよろしいかと。煎じれば薬にもなりますが、根に毒をもつ野草です。

  ――そうなのか。こんなにうつくしい花なのに、見た目によらぬのだな。

  ――はい。

  ――なあ、狼。来年も、またこうしてふたりで手伝いに来れたらいいのう。

  ――…九郎様。

  ――どうした?

  ――いえ。それでは来年もまた参りましょう、ともに。

  ふ、と寝衣の上に人影がさした。顔をあげる。

  手燭を掲げたエマが障子の向こうから顔を覗かせ、褥に半身をおこした九郎を見おろしていた。

  「風邪をひきますよ。この寒空の下、障子を開け放っていては。なにより、傷によくありません」

  九郎は夢からさめたように、エマの顔を見た。完全に自分の裡へ沈みこんでいて、足音にも気配にも気づかなかった。

  「お加減はいかがですか。薬をお持ちしました。いま、煎じます」

  後ろ手に障子をしめたエマは、まず文机に置かれた[[rb:燈盞>あかりざら]]へ灯をうつした。彼女が裾をはらって枕辺へ端坐するのを、九郎はじっと見ていた。失礼、とひくい声がして、しとやかな仕草で伸びてきたつめたい手のひらが、額へ触れる。

  「熱もさがったようですね」

  「腹の傷、手当てをしてくれたのはエマ殿か?」

  「はい。あとで膏薬を練りましょう。傷が化膿しないように、それに、なるべくなら痕が残らぬように」

  「すまない。そなたには、世話をかけてばかりいるな」

  「蛍から、粥を口にされたと聞きました」

  「………………」

  「これから少しずつ召しあがる量を増やしていけば、それだけ力がつきます」

  九郎はうつむいた。左の手で、右の小指をさぐった。鉤にした小指の関節を親指でまるく動かし、爪先で指紋の渦をたしかめる。しびれる肌。鼓動がつよく脈うつのを感じる。

  この萎えた身体にふたたび力がもどったとして、いったいこのさき、どうやって生きていけばいいというのか。

  「そろそろ湯が沸きそうです、九郎様」

  火鉢にかけた鉄瓶が鳴り、かろやかな湯音だけが部屋に響く。

  エマは、まるで何ごともなかったかのようにふるまっている。声も態度も、不自然なほどに落ち着きはらっている。

  不死断ちは為されなかったのか。だが、いったいどうして。意識をうしなっているあいだに、何が起こったのだ。

  ふたたび、九郎はそっと手のひらをひろげた。きつく握りしめたせいで色を失っていた小指が、血のぬくもりを取り戻す。

  塞がりきっていない脇腹の傷、その痛み。理由はわからないが、竜胤の呪いはこの身を離れた。

  ただの人になれた。

  両の手のひらをあわせた器を見つめ、そのくぼみを見つめ、皺を影を隆起を見つめ、この手からすべり落ちていったものたちを思う。

  さまざまなことが嵐のように身の上を通りすぎていった。失ったもの、失われたもの。すべてがありえないほど[[rb:毀>こわ]]れてしまったのに、元凶である自分に将来があたえられた事実を、うまく受けとめられない。

  訊きたいこと知りたいことが、胸中に溢れている。だというのに、舌の根が鎖で縛りつけられたかのようだ。いますぐにでも、訊かねばならないことがあるのに。

  九郎は下くちびるを噛みしめた。たしかめるのが、ひどくおそろしい。

  いつまでたっても無言で顔をあげようとしない九郎に、エマはため息を漏らした。懐から紙包を取りだすと粉にした薬草を椀にいれ、そこへ湯を注ぎたす。

  「お飲みください。少し苦いですが、痛みが鎮まります」

  「………………」

  「今はまだ時期ではありませんが。いずれ身体の不自由がなくなりましたら、[[rb:何処>いずこ]]なりとも九郎様の望みの場所へ参りましょう」

  さしだされた薬湯の入った椀を、九郎は枕元へ置いた。その手の動きを追っていたエマがふっと表情をくもらせる。

  「薬を飲んでお休みにならなくては。無理をなさっては、また熱があがってしまいます」

  「エマ殿」

  「はい」

  「訊きたいことがあります」

  「なんでしょう」

  まるめていた背をのばし、九郎は意を決したように切りだした。

  「教えてくれないか。どうして、狼ではなくわたしがこうしているのかを。狼は、何処だ。生きておるのか?」

  わずかな希望に縋るような声色に、エマは気持ちが暗くなった。

  九郎は、この問いを発するタイミングをずっと探っていたにちがいない。心で身構えてはいたものの、いざこうなってみれば、すべての覚悟が萎えそうになる。

  もっともらしい嘘なら、いくらでもつけるだろう。九郎はもう十分すぎるほど苦しんだ。むごい真実を告げるよりも、嘘でごまかしてしまえば――それが、せめてもの優しさにならないか。

  エマは九郎の顔を見た。揺るぎない表情が見返してくる。竜胤の御子ではなく、ひとりの人間の顔がそこにあった。

  しばらく見つめあったのち、エマは胸の奥底から息を吐きだした。今の九郎に、隠しごとはできない。

  エマは立ちあがり、隣の間へとつづく襖をあけた。控えていた寄鷹のまえに膝をつき、なにごとかを耳もとで囁いて、さがらせる。そうしておいて彼女はあらためて九郎の側へ膝行し、額を畳に擦りつけるようにして頭をさげた。

  「わたくしは九郎様に、お詫びをせねばなりません」

  できるだけゆっくりと、エマは天守で九郎とわかれたその後を語った。それより時間を遡って、狼とともに九郎の人返りを為す方法を模索しつづけたことについても。

  九郎への告白はまた、狼への懺悔でもあった。

  理由はどうあれ狼を焚きつけ死へ追いやった責任のいったんは、間違いなくエマにある。自然、彼女の声は掠れ、途切れがちになった。

  九郎は、ひとことも口をはさまなかった。顎をひいてじっと目を閉じ、語られるすべてを一滴たりとも零さぬように掬いあげ、心の器へ満たしていった。右の小指を、握りしめて。

  「あの御方は九郎様に人として生きていただきたいと、ただそれだけを望んでおられました。またそれは、私の望みでもありました」

  「それが、すべてですか」

  「はい」

  九郎はゆるゆると顔をあげ、詰めていた息を吐いた。

  「そうか、なるほど」

  意外なほどあっさりした、声だった。

  「わたしのために」

  九郎の横顔は、動かなかった。

  「狼と、そなたが……」

  半闇のなか。

  鉄瓶がたてる湯気の向こうで、九郎が睫毛を震わせた。諦めたようにふたたびちいさく息を吐いたその顔に、片頬がひきつった表情らしきものが泛かびあがった。

  「わたしを人に戻すために、とな。わたしに何ひとつ告げずに、蚊帳の外において。秘密をふたりだけで分けあって、それと気づかれぬように」

  そうか、そうかと、九郎はしばらくの間、同じつぶやきを繰り返した。

  そして、ぴたりと押し黙る。

  燈盞のよわい光りに、襖の彼岸花がゆらめく。

  しゅんしゅんと、鉄瓶が変わらず音を立てている。何もかもが死に絶えたような室内で、注ぎ口から溢れつづける白い湯気だけが生きて、動いているように見えた。

  「そなたたちは」

  九郎が、くちびるをこじあけるようにして、言った。

  「わたしの気持ちを、わたしの本当の望みを、一度でも考えてみたことはありましたか」

  九郎はエマに向かって、ゆったりと微笑みかけた。それは色も輝きもうしなった、見るものの背筋をつめたくさせる微笑みだった。

  「血のさだめから逃れて人として生きたいと、たしかにわたしは言いました。ですがそのために、たいせつな誰かを犠牲にしてもいいなどとは、ひとことも……それなのに、そなたたちは……生きていただきたいとは、どういうことだ?狼を殺して、それでわたしを人に返す?そんな勝手なことを、ようも……」

  「九郎様、そのように動かれては、傷が、」

  「触るな」

  触れようとするエマの手を、九郎は力いっぱい跳ねのけた。はずみで枕元の椀が転がり、薬湯を吸った畳が濃い色へと変じていく。

  「その手は、嫌だ」

  ふたりのあいだに、真空がうまれた。

  「狼を死へ導いたその手で、わたしに触れないでくれ」

  はじかれた右手を、左手で包みこむように。関節が白く浮きたつほど握った拳を、エマがみずからの胸のうえへ押しあてる。蒼褪めたその顔とあふれそうな瞳に、九郎は胸の裡でつめたく沸騰するものを抑えきれなくなった。

  「そんな顔をするなら、なぜ止めなかった!どうして死なせた!そなたの望みなど、知ったことか!」

  何かをふりきるように首を左右にし、髪を振り乱して、九郎はエマを罵りつづけた。

  狼を救いたかった。狼に生きてほしかった。そのためにも、わたしが死ぬべきだったのに。なのに、どうして!

  エマに必死の力で抱きとめられながら、九郎は手負いの獣さながらに身をよじりつづけた。天と地がぐらつき、寄鷹と蛍が駆けこんでくるのが目に入った。肌着の腹あたりが生あたたかく粘り、ああ、傷口がひらいたのだなと他人事のように思い、視界が急に暗くなる。

  朦朧とする意識の下で、九郎は細くかたちの良い顎を伝いおちる、幾筋もの黒い雫を見た。

  [newpage]

  夜が更けると、風と雪がひどくなった。

  縁側外の[[rb:蔀戸>しとみど]]は閉ざされているが、山を吹きおろす風のすべてを遮りようもなく、障子が軋むような音をたてている。そこにときおり、風のつよさに枝がこすれあう葉ずれの音が重なって、静かな夜に響きわたった。

  風のざわめきなど知らぬかのように、子の刻をまわった屋敷のなかは、しん……と寝静まっている。

  九郎はまっすぐに背をのばして胸の上で手を組み合わせ、天井へ目をむけていた。火鉢の炭はすでに色をうしない、部屋も寝具もつめたく、吐く息は、闇のなかでもくっきりと白い。

  脇腹へそっと指を伸ばした。

  小袖の上からでも、傷が脈打っているのが感じとれる。あれだけ酷いことばを投げかけたのに、エマは九郎の傷をふたたび縫合して、きっちりとさらしを巻きつけてくれていた。

  エマの涙を、はじめて見た。朧に霞む視界で目にしたうつくしい顔は、かなしいくらいにやつれていた。

  泣かせてしまった。いつでも冷静で、たやすいことでは感情をおもてにしない。優しい、あの人を。

  九郎はきつく目を閉じた。重くのしかかってくる後悔が吐息となって、ひとりの夜に溶けていく。

  感情的になってエマを責め、彼女が置かれている辛い立場に理解もしめさず、一方的に断罪してしまった。

  人返りか、不死断ちか。

  竜胤を絶つには、九郎か狼、いずれかが死なねばならぬ――その残酷な選択を迫られたとき。おそらく本心では、エマは狼を止めたかったはずだ。なのに彼女はみずからの心を欺いて、狼を止めなかった。

  それは九郎のことを真に思いやっての、心の臓を抉りぬくような決断だったのだと、わかっている。

  嚥下しがたい苦みを堪えるように、爪が手の甲に食い込むほどに、九郎は組みあわせた手に力をこめた。奥歯を噛みしめる。声にならぬうめき声が、食いしばった歯のあいだから、引き裂かれた息となって漏れる。

  一見すると芯がつよい人でも、その心の奥底には弱さや脆さを抱えている。

  この屋根のしたのどこかで、自分が苦しんでいるのとおなじように、エマも苦しんでいる。

  葦名の天守から狼を任へと送りだすとき。

  いつ頃からか、九郎は青藍の鬼火かかえる仏へ消える背中をまなざしで追うエマに、そして、彼女の眦にふくまれる悲壮な色に、気づいていた。

  はじめは気のせいかとも思った。

  けれど、違った。

  ――城下の寺にて、昔馴染みの様子を見てまいります。

  

  エマのやさしげな眉をしならせた微笑みに、九郎の胸に、あるたしかなものが伝わってきた。憶測や思い込みとは言いがたい。気づいてしまった。エマの面がたたえていた静けさに、[[rb:肌膚>はだ]]と血と涙と臓腑と、そうした生々しいものすべてを無理やりに押し込めた、裡なる情があると。

  あのときすでに、狼は九郎を人に返すことを心決めしていたのだ。狼は何処までいっても主ひとすじの、己を貫く人だった。

  九郎のためにその手を血に染め、掟も誓いも祈りもなにもかもすべてを棄てさって、後事をエマに託し、そして……。

  

  ――来年も、ともに。

  

  ひくく囁くように、おだやかな抑揚。透きとおる双眸に、かなしみにも似た色をたたえて。

  あのとき、狼になぜそんな目をするのかと訊きたかった。けれど結局は、そうしなかった。

  あどけなく無邪気で、幼くて愚かで、取り巻く世界はゆたかで優しいものだけで出来ていると、なにひとつ、疑うことを知らなかった。

  「狼よ」

  かけがえのない何かを掴みとろうとするかのように、九郎は襖絵の、闇にしずむ彼岸花へと両手をさしのべた。

  「いつかの晩、そなた呼べばかならず来ると言うたではないか」

  そうだ、来年どころか。

  明日にいける保証など、実はどこにもない。そんな簡単なこと、狼は誰よりもわかっていたはずだ。

  たとえ、この目でまたあたらしい朝日を見ることができたとして、それはかけがえのない人を欠いた、昨日までとはまったく別の一日のはじまりかもしれない。そんなことも。

  「そなたは、嘘つきじゃ」

  だが、わたしも同じだ。

  自分にだけ聞こえるちいさな声で、つぶやいた。

  幼いころからずっと変わらず、狼が傍にいてくれるだけで心が満ちていた。無表情の皮いちまい下の優しさを、言葉にせずとも、まなざしや息づかいで伝わってくる狼の純粋なまごころを、九郎は愛した。

  そして、いつの頃からか、ただひとつのことを願うようになった。

  狼を死なせたくない、と。

  主従の盟約に従い、命を賭して仕えよと。狼へまことの心と裏腹な言葉を口にしながら、九郎はいつでも胸のなかで、生きて欲しいと繰り返していた。艱難辛苦を耐え忍んで九郎のために生き抜こうとしてくれた狼には、自らの命を引き換えてでも生きてもらいたかった。

  竜胤の縛鎖を解きはなって、狼が人として生きて、生き抜いてくれること。それこそが、九郎の本当の望みだった。狼が生き抜いてくれるなら、みずからの心も狼とともに在ることができると信じた。

  不死断ちによってたとえ肉体が滅びても、かたちに添う影のようにいつまでもずっと、狼に寄り添っていけるだろうと。

  「狼」

  わたしの本当の望みを知っていたなら、そなたはわたしをひとり遺して逝ったりしただろうか。

  「狼」

  呼んでも、どうしましたと応えてくれる声がない。

  「わたしの嘘に、気づいておらなかったであろう……ふふ……そなた、鈍いからな……」

  触れようとすると、とまどい臆する指がない。昼と夜で色を染めかえる瞳がない。

  九郎は両手で顔をおおった。

  涙あふれて、ことばにならない。

  この世の何処をさがしても、あなたは、もういない。