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【ファンボ】  聖騎士の鞘

  聖騎士の鞘

  「それでは皆、後の事は頼んだ。……と、私が言うまでもないだろうが。もう皆は、私の助けなど必要がないくらいに立派になった」

  「ルビアス様……」

  「俺は……まだ、ルビアス様に居てほしいです」

  「馬鹿、お前」

  「はは。嬉しいねぇ。もういい歳した私を、そんな風に引き留めてくれるというのは。だが、もうここに私は必要無い。これからは……まだ私の手の

  届かなった場所。知らぬが故に手を出せもしなかった場所。そんなところに居る者達にこそ、この剣を振るいたい。だが、もしお前達が自分達の力

  だけではどうにもならない程の困難に出遭ってしまった時は。どうか私を呼んでおくれ。きっと……駆けつけてみせるから」

  さらさらと札に指で線を描く。

  できあがったそれを傍に置くと、また次の物へと。

  そんな作業をもう随分と繰り返していた。

  雨の気配がする。それも、大雨の気配だ。

  それはいずれ俺の。俺達の住む山まで到達しては、過ぎれば地に深く沈んでやがては地すべりとなる。

  急がなくてはならなかった。

  「兄貴ー。飯の時間だよ」

  「……ああ。もう少し待ってくれ。ミカル」

  部屋代わりの洞穴の入口に立った狐の青年が、俺に声を掛けてくる。俺はミカルに生返事をすると、作業に没頭する。

  それでミカルは気を悪くした様子を見せる訳でもない。必要な事だと、理解しているからだ。

  一頻りそうしてから、やれやれと俺は立ち上がって肩をほぐす。どうも、こういう作業をずっとしているっていうのは性に合わない。

  「ヴィル兄、おはよー」

  「ああ、おはよう」

  「ご飯まだ食べてないの?」

  「今からだな」

  外に出て、山の坂道を下っていると俺の姿を見とがめた少年や青年が声を掛けてきて、俺は返事をする。

  「早くいかないとミカル兄がまた怒り出すよ」

  「……そうだな」

  飯を食べない日があった。忙しかった。そういう事を何回か繰り返した。さすがにミカルが耳を立てて怒り出したので、それからは素直に

  従っている。

  「兄貴。やっと起きてきた。ほら、早くしないと、不味い飯がより不味くなっちまうよ!」

  「そういう事言うから余計不味くなるんだろうが」

  坂道をある程度下ると、俺が使っていた穴倉とはまた別の穴があり、その中では質素ではあるものの、最低限の机と椅子があり、その上で置かれて

  いる食事が俺を迎えてくれる。用意されていたのは、どうにか食べられる野草と、小動物の肉。今日は、兎か。それらを処理してから火で炙った物に

  なけなしの塩を掛けたもの。といっても、塩も中々に貴重だ。前に通りがかった場所で見つけた岩塩がかなり役立ってくれている。

  「ほらほら。兄貴はしっかり食べないといけないんだから」

  「……」

  そういってにこりと笑って俺に食事を勧めるミカルの姿が、痛々しい。俺よりも、ずっと骨と皮だけになっている。対する俺は、まあ虎であって、

  だから狐のミカルとそのまま比べてどうこうという訳ではないが、少なくとも筋肉はついている。栄養不足だったら、こうはならない。着ている物に

  しても、俺以外はぼろきれの様な物を着ているが、俺はもう少しだけまともだ。

  正直、心が痛むんだが……どうしようもなかった。その代わりに俺は力を蓄えて、こいつらを守る。そういう役割がある。

  わかってはいても、さっき外をすれ違った。駆け出して行ったまだ小さなガキンチョも、ミカルと同じように痩せ細っているから、居た堪れない。

  「兄貴が居なかったら、とっくに皆生きちゃいなかったさ。だから、気にしなくていいんだよ」

  ミカルの言葉に、俺は黙って食事を口にする。肉なんて、はたして他の奴らはどれだけ口にできているんだ。野草だの、食べられる物に関しての

  知識もまた俺が与えた物だけど、それだけで飢えをしのぎきれるとはとても思えない。

  それでも彼らは、懸命に生きていたし、生き生きとしてもいた。それこそ雑草の様に。

  言い方が悪い? でも、本当にそうだった。踏まれても、にじられても、陽の光を求めて葉を伸ばす。天へと手を差し出す。雑草の様な生き方。

  それは俺も変わらないかも知れない。あるいは雑草なんぞを気にかけて、足を止めた馬鹿な奴か。

  ラッシグ地方は雨の多い地域だった。

  それはまさに今俺達が居るこの山も、例外ではない。

  そして雨が多い上に、険しい山も多い地域。長雨ともなれば地は鳴動し、時にはその上にある物を全て浚う。まるで、ずっと眠っていた巨大な

  化け物が目を覚ますかの如く、それまでその上で行われていた小さな生き物達の営みなど何も知らぬと言いたげに、すべてを押し流す。

  だからこの地は、緑は豊かではあったものの、人口は少なかった。自然という、俺達一人一人の小さな力ではとても太刀打ちできない化け物が

  いるのだから。野生の動物の数は、まあそこそこと言ったところか。だから地方のはしっこ、平地に近い場所でだけは、自然の恵みを求める奴らが

  居るくらいだった。

  そして俺達は、そのラッシグ地方の中ほどで営みを続けていた。幸いこんな所を統治する奴は居ない。いや、一応どこそこの貴族の領地ではあるん

  だが、こんな山奥まで目を光らせてはあれこれと言ってくる程ではない。そんな事をして得られる物に対して、労力の方がかかりすぎるからな。

  そして、だからこそ俺は今こうして、周りを見て、誰もかれもが痩せ細った、それも少年から青年ばかりの場所に留まっている。

  この辺りにも、村はある。山間にひっそりと暮らす。村というか、もっと小規模だ。集落って奴か。幸い動物もそこまで狂暴な奴が居る訳では

  ないのが幸いしている。しかしそれ以外はやはり過酷な環境とも言えた。特に、やはり雨の影響が大きい。一度大規模な地滑りが発生すれば、それこそ

  大きな街が一つ、二つ……それ以上か? 本当にそれぐらいの広大な場所が、ずるりと山から落ちてゆく。麓の方まで全てを巻き込んで。

  自然の力は、とても俺達の様な雑魚では太刀打ちできないのだと思い知らされる。

  そして、そんな村なのだが……。定期的に、口減らしのために、子供が捨てられる。

  まあ、なんだ。その。こんな山奥だしな。楽しみなんて少ないしな。その上で、子供は育てば労働力にもなる。そんなもん、作るに決まってる。

  だが、産まれた子供を育てるに盤石な体制という物が備わっていない。動物が上手く捕れれば豊かにもなるし、長雨や地滑りの影響を食らえば

  逆に一気に食べる物に困る。どころか自分達までまとめて薙ぎ払われる。

  そういう訳で、時に子供の存在が邪魔になる事がある。特に、男だ。子を増やすのに、種を提供できる男の数は少なくていい。働き手としては、

  そりゃ男の方が力はあるが、そもそも食い扶持に困っている状況だ。もう少し我慢すれば子を孕めるようになる少女と、労働力としてしか利用

  できない少年とでは、後者の方が価値が低くみられる場合が多かった。無論、頑健な少年なら別だ。それはやがて村を率いてくれるだろうから。

  だから、有事の際はいらない順番から捨てられてゆく。今すぐに何かに使えない赤ん坊。発育の悪い少年。知識を残し終えた老人。

  ……。

  俺の小さな掌で掬いあげられるのは、少年くらいの物だった。弱弱しくも、それでも生きる力を持っているから。それ以外は、上手く助けられ

  なかった。赤ん坊はそもそも乳が必要だが、ここにはそんなものはない。老人には、黙って首を振られた。

  「私が見捨てた者達に手を差し伸べているあなたに、どうして私自身を助けてなどと、縋る事ができましょうか」

  いつか、老人の一人にそう言われた事がある。そして老人は、俺に小さな手帳をよこしてきた。お世辞にも手帳と言えるほど整った物ではなかったが、

  ともかくとして中身はこの山に群生する植物に関する知識が詰まった物だった。他所からきた俺ではすべてを知りえない物。おかげで、今はそれが

  食料であったり、あるいは薬草であったり、そして俺が皆を守るための力に利用できるようになっている。

  「ごちそうさん」

  残さず綺麗に平らげる。本当は、残してやりたいんだが、その辺はミカルの目が光っているし、実際俺の能力の効果に影響が出る。

  「兄貴」

  食後、また自室にこもっている俺の元へとミカルがやってくる。痩せ細っているし、その出も平民だが、身振り手振りにはかなり洗練された物がある。

  請われて、教えたのだった。

  「俺、兄貴にきちんと仕えられるようでありたい」

  「金も何も、やれねぇんだが」

  「でも、人生そのものを頂戴しているから」

  いつだったか、そんなやり取りをした。ミカルは、俺がこのラッシグ地方に来て初めて拾った……。いや、手を差し伸べた相手だった。それから、

  ミカルがこの地方の問題を俺に打ち明けた事を縁にして、今こうして俺は多数の子供を引き受ける形になっている。だが、現状はただの時間稼ぎ

  だった。

  「兄貴。また、雨が強い季節になってきた。……今年は、大丈夫かな?」

  「さて、どうだろうな。大丈夫だと言ってやりたいが、俺の力もそんなに万能でも、強いもんでもない」

  「……いつまで、この生活を続けたらいいんだろう」

  「……他所に移る方が、懸命だと俺は思う。無論それにしたって、そんな簡単なもんじゃないが」

  他所に移る。もっと安全な場所へ。言うのは至極簡単だった。俺の元に居るのは、年端もいかない少年がほとんどで、その上にようやく青年と

  呼んでも良い、ミカルぐらいの奴が数名。併せての十数名。しかも、発育が悪かったり等して親から見放された様なものが大半だった。中には自分

  から出てきたという奴もいるが。

  そんな子供ばかりを連れて、この深い山から抜けて他所へと行く。どこへ行けというのか。辿り着くよりも先に、脱落し、そして死んでゆくばかりだ。

  俺が初めてミカルを拾い、ミカルから話を聞いてここに腰を落ち着けた頃は、もっと酷かった。いつかは、出ていきたいとは思っている。だが、

  それがいつなのか。今で大丈夫なのか。まるで確証が無い。俺も、世間を知っているとは言い難い。栄えた街にさえ、どうにか辿り着ければ。そう

  安易に思ってしまうが、そこでも碌な教育も受けてこなかったこいつらはどれだけの扱いを受けられるのか、わからなかった。見目が良いのは、

  また別に選べる道もあるかも知れないが。痩せぎすで、およそ一部の愛好家以外からは到底見られたもんじゃないだろう。

  「もう少し、辛抱するしかない。もう少し耐えれば、遠くに行ける身体もできてくる」

  「兄貴……。兄貴は、それでいいの」

  「なんの話だ」

  「兄貴一人なら、いつでもこんな所出られるのに」

  「……今更、俺にそれを言うのか」

  ミカルが、はっとした表情をした後に、大粒の涙を浮かべる。

  「ごめん、なさい……。あの時、僕が……頼ったから」

  「そうじゃない。ミカル。そうじゃないんだ」

  俺は苦笑して、座っていた状態から立ち上がるとミカルの元へ向かい、頭を撫でてやる。

  「俺が言ったのはな。あれからもう数年経ったんだ。なのに今更お前達を放って一人でなんて言われる方が、俺には辛いって事だよ」

  「兄貴」

  大体、死にそうになっているミカルを見つけて足を止めて介抱したのは俺だし、ミカルに自分の様な立場の者が他にも居ると言われて、

  そちらに向かったのも俺自身の判断によるものだ。

  「俺が自分でそう決めただけだ。気にするな……っていうのはさすがに無理はあるが。そんなに気負わなくていい」

  それに、俺にできる事はそう多くはなかった。元々が健康そのものとは言い難い子供達だ。俺の量の掌で救えるのは、ほんの少しばかり。掌の

  端から、指の隙間から。零れ落ちてゆく命は多かった。話だけをして置いてきた老人や、拾ったところで何もできない赤子なんぞは、そもそも

  受け止める事すらできていない。

  「大丈夫だ。ほら、俺はまだ準備があるから。ちびっこ達の面倒を見ていてくれるか? また……この間みたいになられるのは、困る」

  「うん……」

  この間みたいに、という言葉でミカルは表情を曇らせる。

  比較的元気な子が、居た。優しい奴だった。俺の苦労を知って、自分にできる事を探し求めて。

  そして斜面で足を滑らせて、そのまま下へ、下へと落ちていった。俺が譲り受け、そして与えた薬草の知識を元に、皆のためになるものを

  集めようとして。

  言うんじゃなかった。小さい子供に下手な情報なんて、与えるべきではなかった。

  「違うよ、兄貴。みんな……兄貴一人に頼り切りで。ほんの少しでも、兄貴の役に立ちたかったんだよ……」

  俺一人が斜面を降りて、もう動かなくなったそいつを抱き締めたまま皆の元へ戻り、そのまま抱き締めて何も言えずに居ると。ミカルは泣きながら

  そう口にしていた。俺なんかより、ずっと立派だと思う。知識を持っても、それを上手く使う事もできなかった俺と比べて。俺の失態を非難する事も

  なく。

  殴り飛ばして、お前のせいだと言ってくれた方がずっと楽だった。

  出てゆくミカルを見送って、俺は軽く溜め息を吐く。そしてまた作業に没頭する。

  「……いつまで、この生活を続けたらいいんだろう」

  ミカルの言葉が、離れない。

  風が吹き荒れている。

  それは俺の居る穴倉の中でも、感じられていた。

  その中で、俺は座り込んでは周囲八方向に札を置き、更に床に線を引いて。なんだかややこしいが、まあ、あれだ。知覚範囲って奴を広げてる。

  札は外の、穴倉から外の更に周囲八方向の一定の場所にも貼られていて、それらは機能している間、俺の認識できる範囲は爆発的に広がっている。

  そしてそれは大地のみならず、地へ、また空へと。触手を伸ばすかのように。

  頭がおかしくなりそうだ……。それもそうだ。必要無いなら遮断したり、意識しない様にできるとはいえ、普段は精々が三分の一の範囲と、そして

  天地にまで及ばない視界が、全方位に広げられた上に天地までをも知ろうというのだ。そのすべての情報を一度で処理できるなんていうのは、余程の

  狂人以外はありえない。実際、俺だってそんな事しない。というかしたら多分頭が爆発する。

  それに必要な情報はそれほど多くはない。

  雨雲。風向き。それらの強さ。

  俺が知りたいのは、ただそれだけだ。

  長雨の季節だった。大きく、そして長い雨雲が続く時。それらはこの大地に許容量を超える水を届け、そして地すべりや洪水を引き起こしてはすべてを

  薙ぎ払ってゆく。

  「……」

  早速、俺の感知圏内にそれが入ってくる。俺は少し待ってから、全身に力を漲らせ、上空に集まりかけていた雲を散らす。その様子もまた、感知

  する事ができた。

  散らされた雲は、俺達が居る山の周りへと。

  俺がやっているのは、そういう事だった。雨を降らしそうな雲の接近を察知し、風を吹かせてはそれを追い散らす。自分達に降りかかる火の粉を

  払う。

  ただ、このやり方は正直なところ力業過ぎる。それは、わかっていた。しかしここを動けない以上はそうするしかない。大規模な地滑りを起こして

  しまえば、それこそ俺の足元からすべてが流されてゆく。大地を失った俺の身体は、なんの抵抗もできずに落ちてゆく。俺だけではなく、周りの

  すべてが。

  さすがにそうなってしまってからでは、俺にはなすすべがない。

  その場から動けず、しかしすべてを守る力もない俺にできるのは、精々こんなものだった。感知範囲を広げ、必要に応じて風を吹かせる。ずっとは

  無理だ。俺の力じゃ。必要な時に、最低限の力でいなす。それが限界。

  一日目。去年からというのもあって少し勘を取り戻すのに時間がかかる。力を少し多めに使った。

  二日目。前日の反省をふまえて、効率よく力を回す。悪くない。

  三日目。二日目と同じ、しかし疲れが見えはじめる。及第点。

  四日目。雨脚が少し弱まる。休憩を多めに。

  五日目。また雨が強まってくる。

  ……。

  長い。三日、四日は覚悟していた。長雨ってのはそんなもんだ。だが、これ以上はキツい。

  一度感知さえも打ち切る。これ以上は身体が持たない。荒く息をついて、俺はその場で横になる。本当は感知だけは続けていたいが、一日中そうして

  神経を尖らせているのだった。既に心身ともに限界に近くなっている。俺自身を中心にしたごく小規模な範囲のみにして、死んだ様に眠る。

  六日目。強い雨が降っているのに気づいて、慌てて起きて雨雲を散らす。無論、ある程度の雨は織り込み済みだ。多少なら大地は水を吸収してくれる。

  七日目。何も言うまい。

  八日目。

  さすがに限界が来てる。なんなんだ今年の雨は。完全に止んだら止んだで、次がその内にまた来るのだからそちらに備えないといけないというのに。

  「兄貴……」

  不意に声を掛けられて、俺は身体を震わせる。知覚を広げ過ぎている弊害だった。一度力を抜いて、声を掛けてきてミカルへと視線を送る。

  「どうした。何か、あったか」

  「ううん。でも、兄貴が……こんなに長い時間は、今までなかったのに」

  「少し……ああ、大丈夫だ。きっと、もう少しだ」

  もっと、天高くまで目を届かせて、そこから地上を見下ろせたのなら。もっと効率よく、そして負担無く力を使う事もできただろう。しかし俺の

  力ではそれもまた難しかった。やるしかなかった。

  九日目。

  横になって、俺は静かに意識を集中させていた。既に力は枯渇しかけている。力を抜きにしても、体力的に限界だ。地中深くを探る。ある程度は

  俺の力でよけられたとはいえ、水がたまり始めていた。これが危険な領域まで来ると予感したのなら、すべてを諦めてここから逃げるしかなかった。

  しかしこれは諸刃の剣という奴なのだが、雨雲を散らして、俺達の住む山の一帯だけを安全にしたという事は、周囲すべての地層は既に相当量の

  雨水を吸い込んでいるという事になる。あるいは子供を捨てていた集落の方までをも、だ。だから、いずれここが駄目になるとわかっていても、

  判断は難しい。その場合は逃げながら地中を探るしかないだろう。このボロボロの身体で。

  力が及ばない。自嘲気味に笑った。独りよがりだった。周りの集落では、既に避難しているか。あるいは呑まれたところもあるだろう。皮肉な話だ。

  あいつらが捨てた子供を俺が拾い、そして俺は間接的にとはいえ、子供を守るためにあいつらに止めまで刺しているのだから。

  「ミカル」

  俺は傍で控えているミカルへと声を掛けた。気づいた時、ミカルは俺の傍に居て。俺が倒れる様に横になると、少しでも楽な様にと汗を拭って

  くれていた。川で身体を洗うも何も、あったもんじゃなかったから。それで汗ばんだ身体を拭われるだけでも大分快い。ミカルからすれば、臭い

  男の世話をするのは迷惑な話だろうが。

  「明日。明日の朝まで、雨が続いたら……ここを放棄する。ここからは、雨を放置するしかない。逃げるのなら、逃げる方に俺は力を使わないと

  いけない。準備だけはしておいてくれるか」

  「わかった。兄貴」

  頷いたミカルが、そっと俺の傍を離れてゆく。

  ここで死ぬのか、俺。

  遠くなるミカルの足音を聞きながら、ぼんやりと考える。ここまで強い雨雲が続くのは、中々に珍しかった。外へ出なくてはならなくなった。

  何人生き残れる。何人見捨てないといけない。絶望的だった。最近入った様な、一番幼い組はまず無理だ。その上も厳しい。更にその上から、

  ようやくどうにかというくらいだろう。ミカルを含んだ年長組は、まあ何人かは平気だろう。

  そんなに失って、どこへ行くというのか。掌に残った十数人から、更に数を減らしてたったの数人で。

  考えながら、俺は懐から札を取り出す。今までのとは、別の物だ。できれば使いたくなかった物。普通の札は、俺の力……。要は、魔力って奴を

  託して作られている。これは少し違う。俺の命と連動している。必要になった時に素早く使える様に、俺の命と直通の仕上がりになっていると

  言えばわかりやすいか。別に、破り捨てても問題はない。ただ、俺がその時だと判断して使えば、俺の脳が危険だと感じて止めようとしても遠慮なく

  生命力を持ってゆく様に作ってある。完全に緊急時の物だ。

  これをどこで使うか。もう、そういう段階に入ってしまった。今使えば、もう数日は粘れる。しかし自分の生命力を使っているので、あっという間に

  俺は死ぬ。生き残ったとしても後遺症か、あるいは力を失う。

  今使うべきではないな。俺が死んだら、例えこの雨をやり過ごせても、その後はどうするのだという話になる。ここを出て、向かう途中でどうしても

  必要なら。そこまであいつらを案内した後なら、まあ最悪俺が居なくなっても年長組の指揮でもある程度は持つだろう。その間に、誰か俺の代わりに

  守ってくれる奴が現れてくれれば……。

  だらだらと思考に耽っていると、また雨雲が増えてきているのを感じる。知覚範囲を広げていない今でもそれを感じられるという事は、もう

  動かないと危ない。身体を起こそうとして床に腕を立てたものの、そのまままた崩れ落ちる。限界か。

  「明日……。せめて、明日までは……」

  今はまだ。せめてもう少しだけ時間を稼がないと。わかっているのに、身体が動かない。意識が飛びはじめている。ここまでなのか。

  不意に、強い力を感じた。俺は全身の毛を逆立てて、手放しそうになっていた意識さえ戻ってくるのを感じる。

  なんだ、この力は。

  頭上近くに近づいてきたはずの雨雲が、凄まじい力で吹き飛ばされている。神経を集中させると、まるで光線でも放たれたかの様に、雲に一点の

  穴が空いているのがわかる。そしてその後に、その穴から周りの雲が食われるかの様に。雨雲が、消えてゆく。

  「なんだ、これは……」

  少なくとも俺とはまるで力量が違う誰かの仕業だった。例え俺が切り札を使ったとしても、ここまではできそうにない。

  雨雲が晴れてゆく。助かった、のか。それともほんの一瞬の気休めなのか。

  その先を知るには、俺はあまりにも体力を使い過ぎていた。糸が切れた様に、また倒れこむ。次に目を覚ます時が、あるのだろうか。そんな事を

  ぼんやりと考えながら。俺はその内に眠りに落ちていった。

  目の前に広がる情景を見て、俺はそれがすぐに夢だと悟る事ができた。

  まだ何も知らなかった頃の俺の見ていた世界。

  「強くありなさい。ヴィル。そして何よりも、正しい道を行きなさい。それが私達、領地を治める者の務めだ」

  父は、厳格な領主だった。領内に住まう民の事を思い、いつも毅然とし。自分にも家族にも甘いところを見せず。贅沢は決して許さなかった。

  「ヴィル。お前には、武芸の才能がある。その才で、いつか俺を助けてくれるか?」

  兄の声が聞こえる。俺は笑って頷いた。自分が領主になる、なんて気はさらさらなかった。兄は幼い頃から父に次の領主となるべく連れまわされて

  いたので、兄がそうなるのが自然だと思っていた。そして、そんな父と兄を後ろから見守りながら、時に支える母の存在。

  楽な生活ではなかった。だけど俺は、それが好きだった。領内のどこへ行っても、俺達は歓迎された。それが父の成している事なのだと、肌で

  実感した。いつか俺も、腕を磨いては兄を補佐して、この脈々と受け継がれてきた流れを、そのまままた次代へと届けてゆきたいと思った。

  そう、思っていた。

  何もかもぶち壊しになるのは、あっという間なのだなと。あの時、まるで他人事の様に思ったのを、まだ憶えている。

  不正は決して許さなかった父は、苦言を呈した相手である上位貴族に目を付けられ、逆に汚職の冤罪を被せられた。家族も領内の者も、誰も信じなかった。

  でも、それだけだ。

  「ヴィル。お前だけでも逃げてくれ」

  兄が、そう言った。兄は父の側近の様な役割を担っていたから、当然ながら父がそのような形になり、極刑に処されると決まったのならば、逃げ場

  が

  あるはずもなく。そして母は心労で倒れて一番最初に逝ってしまった。

  父がそんな事をするはずないと、集まっては掛け合っていたらしい領民も捕縛された。俺はすべてに背を向けて、その場を後にするしかなかった。

  去らずに、立ち上がる。そうする選択肢もあった。だけど、そうすれば今度は俺を持ち上げようとする領民の動きがある。そうなった時、俺は

  彼らを守れないだろう。今ならまだ、俺達家族が居なくなるだけで。それに納得できない一部の者達には申し訳ないが、だけどそれだけで済んだ。

  そして俺は、何もかもを捨て去ったのだった。

  「兄貴!」

  声が聞こえる。俺を呼ぶ、ミカルの声。

  まだ生きているのか。俺。てっきり死んで、死んだ家族の夢の中に沈んでいったのかと思っていた。

  目を開けると、場所は変わっていない、と思う。視界が滲んでいた。泣いていたのか。

  「ミカル……」

  涙を軽く払うと、すぐに視界は明瞭になる。ミカルの方が、ずっと泣いていて。俺が気が付いた事に気づくと、今度は嬉しそうに、泣き笑いを。

  「兄貴、よかった。もう、起きてくれないんじゃないかって、僕」

  「ミカル。寝ている間、俺は、何か言っていたか?」

  「えっ。別に、何も……」

  「俺はどれくらい寝ていた?」

  「三日くらい。でも、目が覚めてよかった、本当によかった」

  「三日。……あれから、雨は?」

  「降ってないよ。そりゃ、軽く降るくらいはしていたけれど、でも、山がどうにかなっちゃうような降り方じゃなかった。兄貴の力、凄いね」

  「いや、あれは……」

  明らかに俺の力ではない。死力を尽くしたところで、俺にはできないだろう。じゃあ一体誰が?

  「変わった事は?」

  「うーん……特に何も? 今、皆外が大丈夫な事を確認して、また食べられそうな物を集めてるよ。兄貴が守ってくれたところから外側には、出ない

  ように徹底してるから、その辺りは安心して。兄貴はもう少し休んでてよ。少し元気になったとは思うけど、でも」

  その辺りで、またミカルはぽろぽろと涙を零してしまう。苦笑して、ミカルの細い身体を抱き締める。背は俺よりもずっと低い。年長組とはいっても、

  栄養をしっかり摂れなかったから、まず体つきからして細いのだった。最近は狩りのやり方、罠の作り方と手馴れてきたので大分肉を食える機会も

  増えたが、やはり天候や運に左右されるし、それだけで栄養が足りているとは到底言い難い。元来身体が強い訳でもなく、粗食に甘んじていたこいつらは、

  領地を取り上げられたとはいえそれまではぬくぬくと生きてきた俺とは骨格からして異なるのだった。

  そう考えると、あの夢も、俺の思いも、今はどこか遠い。例え家族を失ったとしても、家族を大切だと思っていられもする。

  家族そのものから見捨てられたこいつらの前で、どれだけか不幸面をしたところで、どれだけか滑稽だろう。

  「ほら。もう泣きやめ。俺も身体を少しは綺麗にしないとだからな」

  今更ながら、十日近くにも及ぶ激闘の末に倒れてそのまま数日が経過している。自分で自分の臭いが気になっているところだ。ミカルもよくそれを

  取り上げずに付き合っていられるなと思う。

  「すまんが、みんなの世話を頼む。お前の言う通り、もう少しだけ休む必要もあるからな」

  「うん。わかったよ」

  そもそも、雨の季節が終わった訳ではなかった。ただ今回の雨はなくなったというだけの話だ。次の雨は、下手をすれば数日中には来るかも知れない。

  この季節、俺は既に数年は付き合ってはいるものの、毎年精神をすり減らす勢いだった。

  穴倉から飛び出して、俺は一直線に川へと向かう。風呂場というにはあまりに粗末だったが、ここは俺が自ら土地をいじくりまわして用意した

  場所だった。そもそも何もしないと、斜面がキツ過ぎて小川どころか湧き水のような有様だ。浸かるなんてとんでもない。なので、地層とにらめっこ

  しては水が溜まりやすい場所を見極めて、あとは地道に魔力で整地をした。整地といっても、これまた本職のそれには及ばない。ただある程度平らかで、

  水が溜まりやすいところを確保するだけだ。大体それ以上に時間と力を割く余裕もない。

  俺はそこまできて、さっさと服を脱ぐと……。いつもなら服を先に洗うが、さすがに臭いがキツ過ぎる。先に自分の身体を洗う事にした。

  じっとりとした暑さは、毛皮の中でぬるく留まって不快感となる。水を浴びる事でいくらかでもそれを忘れる事ができた。何より、汗だくだったので、

  それが綺麗になるというだけで泣いて喜べるくらいだ。それを快く感じている自分に、苦笑する。辺境とはいえ、一応は貴族でもあった俺がこんな山奥で

  水を浴びているのだから、そしてそれを気持ちよいと感じているのだから。人生はわからない。

  「……何かあったのか?」

  一頻り水浴びを楽しんでから、服を洗い、乾かし。みんなの元へ戻ると、何やらざわついている様子を俺は感じ取る。その騒ぎの中に、捜していた

  ミカルを見つけて声を掛ける。

  「あ、兄貴。もう大丈夫?」

  「まあ、ひとまずはな。それより、どうした」

  「それが……その。人が倒れてるって」

  「人? また、どこかから捨てられたのか?」

  「そうじゃなくて」

  地すべりを引き起こすくらいの雨の後に、捨てられる奴は確かに多かった。被害の状況と照らし合わせて、今後を考えればこいつを養う余裕はもう

  無いと、そういう事になるからだ。正直なところ、俺の方でも受け入れるのは結構キツい。というか今の季節はどこもそうだろう。今余裕があっても、

  この後の雨の具合によっては蓄えなんて簡単に吹っ飛ぶからな。

  「あの……怒らないで、ほしいんだけど。その。麓の方に少し足を延ばした子が居てね。それで、そっちではそんなに大きくないんだけど地すべりが

  起きちゃったところがあって。それで、少し遠くからそこを見ていたら、人の……う、腕が見えたって」

  「……」

  怒らないで、とミカルに言われた手前、俺は軽く溜め息を吐く。

  「確認はしたのか」

  「危ないからそれ以上はさせてない。ただ、その……見える腕っていうのが、なんだか、鎧? なんていうの?」

  「鎧……? 籠手ってことか」

  なんか、随分懐かしい響きだな、なんて俺は思ってしまう。つまりそんな物で身をよろってる奴が、こんな辺鄙な山奥に来てるっていうのか。

  「その、籠手って奴? をつけてて。だから、気になるって。ただの、その……村人とかだったら、無視したんだろうけれど」

  「ふむ……」

  なんとなく引っかかって、俺も少し考えこむ。ただの村人なら無視する、というのもまあわかる。というか、地すべりに巻き込まれて、そこから

  腕が飛び出してるなんていうのは、下手したら腕から先はどっかいっちまってる、なんていう大分想像したくない事態になっている可能性もある。

  ただの野次馬根性でそんなもんに近づくのは馬鹿がやる事だ。

  が、鎧……というか、籠手というのなら話は別だった。

  「そこ、案内してくれ。他の奴は近づくなよ。死んでも責任とれねぇぞ」

  俺はミカルへ案内を要請する。地すべりに巻き込まれた奴。生きてるとは思えない。が、そういった装備があるっていうのは、俺にしては中々に

  気になるものだ。つまり、それに使われている素材というのは場合によっては俺達の生活の足しになる。特に金属だったら、買いたたかれはすると

  思うが、それでも街に出て食料を買うくらいはできるだろう。少しくらいはこいつらにまともな物を食わせてやれるかも知れない。

  もっとも、雨の季節が過ぎ去ってからの話。俺が出て行っても問題の無い季節だからな。気の長い話だ。

  ミカルは俺の言葉に頷き、決まりを破りはしたものの気になる物を見つけた子供を呼びつけては俺の案内人とさせる。俺からのお咎めなしとあって、

  子供の方は元気なもんだ。

  「ヴィル兄。あそこ。あれだよ!」

  案内されて、俺は山を下りていって問題の箇所へとたどり着く。地すべりが発生したとあって、辺りの木々は薙ぎ払われている。当たり前だが、

  酷い有様だ。大地そのものが動いて、その上にある物全てを押し流す。そんなもんに巻き込まれたとあっては、生存はまず絶望的だ。

  俺は案内を受けた先を見て、確かに地すべりによって液体の様に流れた土砂の中から、飛び出している腕を見つける。

  「……悪いな」

  俺が雨雲を遠ざけていたから、発生した物にやられたのかも知れなかった。そう思うと、さすがに申し訳ない気分になる。せめて、ちゃんと遺体が

  残っているといいんだが……。

  そっと近づく、前に辺りの地層の確認をする。少なくとも今すぐにどうにかなってしまう程に緩んでいる訳ではなさそうだ。俺はまず子供達を帰すと、

  一人残ってからその腕へと近づいた。

  「こりゃまた」

  しげしげと、飛び出す腕を。というか籠手を見つめて、俺は思わず息を呑む。どっかしらの傭兵のつけたちゃちな代物が良い所だと思っていたが、

  これはそんなもんじゃない。戦士、騎士。そういった類の、ちゃんとした奴が付ける物だ。ぴくりともその腕は動かず、俺はゆっくりと屈んで、

  それに触れる。途端に、驚いて、同時に残念な気持ちになる。

  これは、腕だけになっている訳ではない。それから、この中身も生きている様だった。よく地すべりに巻き込まれて生きてるな、こいつ……。

  そして俺のちょっぴり財布が潤う計画はご破算になる。これだったらただの傭兵とかの方がマシだった。身分がちゃんとしてる奴がつけていた装備

  と

  なると、さばくのはちょいと手間が掛かる。そもそも生きてるしな、こいつ。

  神経を研ぎ澄ませば、籠手の奥にある生身の部分からの波動を感じる。ただ、酷く弱い。しかしこと切れる訳でもない。これは、地すべりに

  巻き込まれたが故に、身体の生命活動を一時的に最低限の物にしているのだろう。それだけで果たして生き残れるのかと思うが、少なくともこいつは

  生きている様だった。俺は急いで土砂に手を伸ばして、本体の救出へと取り掛かる。いつ埋まったのかすら定かではないが、危険な状態だろう。

  ゆっくりと、腕に手を這わせる様に滑らせては身体の輪郭を捉えてゆく。籠手を抜けて、鎧の方へと。……随分、着込んでるなこいつ。こんな

  山奥に、ガチャガチャと鎧をつけたまま入ってくるなんて、馬鹿かどうかはさておき、余程の体力馬鹿じゃないと厳しい。

  やっぱ馬鹿だったわ。

  慎重に、慎重に。幸い大地の方は落ち着いている。再度の地すべりか何かで俺も巻き添え、という心配はなかった。

  鎧を抜けて、頭部へと。兜をつけているかと思ったけれど、こちらはつけていなかった。程なくして、顔が露わになる。狼の戦士、または騎士

  だった。灰色と白の二色からなる被毛の具合は、まあ普通の狼って感じだ。ただ、身体つきが相当ゴツい。鎧に覆われているとはいえ、俺は触れれば

  鎧の先にどれだけの肉が詰まっているなんかていうのは察せるので、充分に理解できる。これは確かに、こんな鎧つけても山の中を歩くくらいは

  できるかも知れない。

  鎧からも土砂をどける。こちらも籠手と同様にかなりの名品に見えるが、どこそこの国に所属している様な感じではなさそうだ。要は、軍からの

  支給品であったり、あるいは一定以上の位があったりして国から与えられるものの場合は、どこかしらに紋章だったりなんだったりついている訳だが、

  少なくともそういうものは見当たらなかった。作った奴のサインの様な物はあるが。なので、少なくともどこかしらから偵察にきた線は薄い。まあ、

  こんな山奥の、それこそこんな立派な鎧を当たり前につけている連中からすれば、雑草か羽虫の様にしか見えない俺達の事なんて態々頭の隅にすら

  入れる必要もないだろうが。

  じゃあ、なんでこいつはここに居るのだろうか。

  「どうしたもんか……」

  見捨てるべきか? ほっとけば多分、その内には死んでくれると思う。何も見なかった事にする方が面倒には巻き込まれないかも知れない。

  もしくは装備だけもらって始末しておくか。正直やりたくない。見なかった事にすると、実際に手を染めるのは大分違う。こういう手合いは、

  かたき討ちだの言われて余計な奴が釣れかねない。俺が言うのもなんだが。

  助ける? だが、こいつがどんな奴なのかがわからない。例えば狂戦士みたいな奴だったりすると、俺はむざむざこいつを助けたが故に、俺だけなら

  まだしも、子供達まで死なせてしまう事になる。

  俺の逡巡も知らぬ狼は、呑気な顔で眠っている。冬眠に近い状態だからか、呼吸をしているのかと問いかけたくなるくらいに、ともすれば死体の

  様にも見えるが、その身体の内からは確かに命の鼓動が伝わってくる。

  「……見つけた子供に感謝しろよな」

  迷った挙句、俺は自身に筋力増強の力をつけて、救出した狼を担ぎ上げる。さすがにこの大型犬、じゃなかった。この偉丈夫って奴な上に、分厚い

  鎧まで着込まれては、通常の俺ではまず持てない。重すぎる。しかも平地ならまだしも、険しい山道だ。ふざけんな。投げ捨ててぇ。

  「お、おかえり。兄貴。その人生きてる……? の前に、兄貴、大丈夫?」

  迎えたミカルが、大分困惑した様子で俺を見かけてくれた。畜生。魔法でブーストしてもヘトヘトだよこっちは。あれだけ疲れて寝て、起きてばかり

  だっていうのに。助けてやった謝礼は相当色つけてもらわないと割にあわん。

  「こいつを寝かせる場所は……ねぇか」

  「兄貴の部屋なら、掃除はしておいたけど」

  「仕方ねぇか……」

  どうせ、この後また長雨に対する備えで黙々と作業に勤しむ予定だし、そもそも子供の中にこいつを放り込む訳にもいかない。目覚めた途端に

  暴れられたりしたら困るし、説明するにも子供じゃ無理だ。何かしらの交渉事にまで発展するかも知れないとなると、ミカルでも駄目だ。

  いつもの穴倉まで戻ってきて、そのまま男を寝床にぶん投げようとして、さすがにそれで終わりだと具合が悪いなと思いなおす。そもそも装備も

  汚れたままな訳だし、せっかく掃除してもらったのに悪い。

  ゆっくり男を床に寝かせてから、装備をはがしにかかる。幸い、本人の意思がないと脱げない様な細工がされてなくて助かる。そういう事が

  あるから、戦場漁りを生業とする奴はまず動けなくなった兵を殺す事が仕事はじめとなる、なんて話を昔聞いたのを思い出す。行き場を失った

  子供なんかは、まるで幽霊の様に戦の後を歩き回っては死の臭いを嗅ぎ取り、死神の様に。カラスとともにやってくると。

  できればうちの奴らにはやらせたくないな。無邪気で、同時に酷薄にもなれる子供には案外向いているとはいえ。

  装備を脱がすと、露わになる男の身体。鎧の内部は、鎧とぶつかり合うと都合が悪いので、肉体にぴったりとくっつく服を着ているだけだ。そして

  そうすると、改めてその体躯の見事さに目を見張る。こりゃ、見掛け倒しじゃないっていうのなら、百戦錬磨の傭兵から更に上に行ったって感じにも

  見えるが。

  鎧と、それから同時に見つけ出した剣を壁際に寄せる。それにしてもこの剣も、鞘から抜いてはいないがただのなまくらではない事が感じられる。

  こい津、何者なんだろう。とはいえまずは男の方から。服までいくらか汚れている。まあ、あんな地すべりに呑み込まれた訳だしな。五体満足な

  だけで万歳といったところだろう。ミカルから届けてもらった布で、最低限男の身体を清めては寝床に寝かせ、改めて身体を診る。

  ……。驚いたな。確かに仮死状態というか、冬眠状態というか。ともかくとして、身体の機能を一時的に停止している訳だが、それもかなり綺麗に

  できている。それ以外に目立った損傷もないし、体内の気を探ってもその巡りが鈍化はしていても、滞る部分も認められない。要は、健康だ。

  札を取り出して、男の手と足に貼る。重篤だったらもっとベッタベタに貼るが、こいつならこれで足りるだろう。

  胡坐を掻いて、男の前でぶつぶつと呟きながら力を籠める。そうすると、雨を散らすのに使っていた、床に描いた陣が薄っすらと光る。これらは

  体内を流れる血液の様に、俺が中央で雨雲と格闘していると不足する魔力の切れ目を補完するための物だ。なので、少し流れを変えて対象を男にして

  やれば、単に男の身体を起こすのにも使える。こじ開ける様に、けれど優しく男の身体に促す。力はそれほど必要なかった。この身体だ。生命力を

  あえてセーブしているだけで、男の中にはかなりの精気が詰まっている。それこそ地すべりを起こさせる雨の様に、男の中に染みわたる様に、俺から

  指示を出すだけで良かった。

  「……んぅ……」

  軽く、男が声を出す。尖った狼の耳が震える。まだ意識は戻らないが、ほとんどこれで問題ないだろう。俺はそれを見届けると、自分の作業へと戻る。

  次の雨が、いつなのか。俺に予想ができるのは、精々が翌日と少しくらいのものだ。準備できる内に準備するに越した事はなかった。

  案外、人生で続くもんなんだな。

  ぼんやりとそう考えていた。十日近くの雨雲との死闘の時は、もうこれで俺の人生も終わりかと信じかけていたというのに。結局あれから、目立った

  雲の動きもなく、平穏に過ごせている。

  平穏に……。

  「ヴィル。狩りをしてきたんだが、君もどうだい?」

  「あ、ああ」

  変わった事と言えば、俺よりもずっと小さい奴らばかりだった山での生活に、俺よりもデカい奴が突如として加わった事だ。

  それがなんだか、とても新鮮な事に感じる。もう数年もの間、俺が出会うのはどれもこれも痩せこけた子供と、それらを捨てていった、同じように

  痩せた者達ばかりだ。こう言うと失礼かもだが、正直気が滅入る。最近になってようやく、俺が預かる子供達の中でも少しぐらいは笑い声といった、

  正の方向といってもいいような物を見るようになった。栄えている街にでも行ったら、ごく当たり前にみられるそれらが、ここでは珍しいのだから、

  どれだけか過酷な環境なのかもわかろうというものだった。

  そしてそんな所に加わった、狼の騎士。

  「私はルビアスと言う。君が私を助けてくれたのだね。眠っていても、君の優しい力が感じられた。どうか、恩返しをする機会を、私に与えてはくれないか」

  俺が作業に没頭していると、その内に目覚めた狼、いや、ルビアスはそんな事を言った。正直狂戦士みたいな奴だったら全力で潰さないといけなかった

  から、警戒していた俺は大分拍子抜けした。更に想定よりも腰が低いというか、物腰柔らかというか……。少なくともこの辺りではまず見ない対応だ。

  そして次の日から、ルビアスは宣言通り俺と少年によって形成される小さな集落の一員となって、その力を如何なく振るってくれた。

  「兄貴! ルビアスさん、凄いよ! 狩りがとっても上手なんだ!」

  「みたいだな」

  ミカルが瞳を輝かせて嬉しそうに告げてくれる。こんなに嬉しそうにしているミカルも中々見ない。ルビアスは、子供ではまず到底狩れないし、

  罠に嵌めるのも難しい猪などを軽く仕留めてくれる。処理の仕方も心得ているのか、久しぶりにまともな飯が全員に行き渡ったくらいだ。

  これぐらいなら、俺でもできなくもない。しかし俺はこの時期、長雨に対する備えの方で忙殺される。雨が多く、保存食の量も充分とはいえない

  俺達には中々に悩ましい季節だが、ルビアスはそんな所にまさに丁度良く収まってくれた。

  良かった。本当に良かった。この体格で飯は食うけど仕事は何もできません、だったら谷底に叩き落すところだった。良かった。

  そして新たに加わったルビアスは、さっそくちびっこ達に人気の存在になっていた。べ、別に俺が人気無い訳じゃない、はず。

  というよりも、この季節はしつこいようだが俺は忙しい。そうすると必然的に、ミカルなどの年長組は決して俺の邪魔をしない様にと口を酸っぱくして

  子供に言い聞かせる。そして俺自身も、先日の疲労などでわかる通り、疲れ切った表情で場合によってはぶっ倒れているので、さすがにやんちゃ

  盛りの子供といえど言われた事を破って俺に群がるなんて真似はしなかった。何より、言いたくはないがみんな親族に負担だから、先がないからと

  見捨てられた身だ。そういう意味で、新たな保護者となった俺に対して子供の方から一定の線引きがされる様になっていた。悲しい話だが。

  そこに現れた、ルビアスという男はまさに子供達にとってはうってつけの遊び相手だった。しかもこれまたおあつらえ向きに、ルビアスは子供の

  相手をするのに性格も何もかもが向いていた。狩りをする事で飢えかけていた皆からの尊敬を集め、そして戦士、ではなく。騎士だったのだろう。所作は

  落ち着いているし、物腰も柔らか。まずこの点で、俺に対して仕えたいと思っていたミカルなんかは心を撃ち抜かれていた。それくらい、ルビアスの

  所作は洗練されている。もっともテーブルマナーなんぞを披露する機会はここではないのだが。それでも紳士的な立ち居振る舞いや、余裕のある所などは

  およそこういう場所では誰も身に着けていない様な物なので、かなりの関心を向けられていた。

  そして、こう言うのはある意味失礼なのかも知れないが、ルビアスは根っからの善人気質というか、なんというか。

  「元々は私は国に仕えていたのだがね、最近は仕事が無くてね。いや、それは若い者達が育ってきて、私まで回ってくる仕事が無いから結構な話では

  あるのだが。それならばと、国を出て世直しの旅をしているのだよ」

  世直しの旅とかいう言葉、今時中々聞かねぇ気がするわ。

  「それで、この辺りを通りがかった時に、頼まれごとをされてね。子供を浚う魔術師が居るから、どうか退治してはくれないかと」

  「そりゃまた。随分な言い種だな」

  お前達が捨ててきた子供を、俺はただ拾っていただけなのに。

  というと聞こえはいいが、実際俺も彼らからもらえるものはもらっている。雨雲を退ける事で彼らに犠牲を出した事もあるだろうし、困窮しきった

  時には食い扶持を奪うくらいはやる。

  「まあ、養育費ぐらいは払ってもらわないと割に合わねぇだろ?」

  俺はルビアスからの問いかけに、別に悪びれる様子もなくそう言い放った。それに対して、ルビアスは苦笑するに止める。

  つまり、ルビアスは当初俺を退治しに来ていたらしい。ただ、善人ではあるが馬鹿ではないのだろう。村人からの一方的な俺への評価をはなから

  信じた訳ではなく、俺がどのような人物かを見極めようとしていた。

  「ただ、その途中で地すべりに巻き込まれてしまってな。君が助けてくれなかったら、どうなっていたことやら」

  「運が良かったのかね。俺もまさか、あんな状態で目立った傷も何もないなんて思わなかったんだが」

  ルビアスの身体に傷はあるにはあるが、それは昔の傷であって、新たに得た傷という訳ではなかった。よく地すべりに巻き込まれて、手足も尾も

  ちぎれずに済んだもんだ。

  「それで、ルビアス"さま"は、俺を退治して名声を高めるおつもりかい」

  「人が悪いな、君は」

  肩をすくめて口にした俺の言葉に、ルビアスも似たような表情をする。

  「命を救ってくれた君を斬り捨てたとあっては、名声なんぞ高まるどころか地に落ちよう。例え君が悪人であったとしても、別の糸口の模索をする

  べきだろう。それとは別に、私は君に恩を返さなくてはならない。そういう性分だからね」

  「ご立派な騎士道精神だな、おっさん」

  そんなやり取りを経て、俺の疑いが晴れたとまでは言わないが、少なくともいがみ合う必要はなくなったのだった。

  「それに、今君に手を掛けては……。それこそこの子達の行く先が無くなってしまう。私が引き取れるのならそれも良いが、君を斬った私に、誰も

  ついてくるはずはない」

  そうしてルビアスは、狩りなどを精力的に行っては貢献してくれている。

  騎士道精神に溢れたルビアスだが、こんな山の中では何ができるのかと最初は訝しんだが、それはとんでもない誤解だった。まず既にわかっては

  いるが、狩りが非常に上手い。というより、戦闘能力が高すぎるんだなこれは。

  獲物を仕留める時に使うのは、ただの小石だった。それを獲物の頭に投げたり、指で弾いて当てる。それだけだ。注意深く見れば、小石に相応の

  力が籠められているのが俺の目には見えた。確かにあれを頭に食らったら、動物どころか人だって軽く気絶するだろう。そして気絶してくれれば、

  狩りをするのであれば充分に事足りる。最低限の力で、最大限の成果を得る。これに関して、ルビアスは俺が舌を巻くほど上手かった。

  もっともそれは、ルビアスの技巧がそれだけ並外れて優れていたからでもある。つーかまず、遠く離れた獲物の頭部、それもかする程度では駄目だ。

  ど真ん中に当たる様に小石を飛ばす。まずこれだけでどれだけの修練が必要なんだって話だ。相手が動かない的なら百歩譲るし俺もできなくも

  ないが、獣の動きを捉えながら冷静にそれに当てるというのは生半可な腕では到底できない。一度小動物を狩る場面を見物した事があるが、最初の

  一匹は普通に。そこまではいい。バラバラに逃げはじめた兎の頭部に、指で弾いた小石が吸い込まれてゆくところを見た時はさすがにこいつ規格外

  過ぎるだろと思った。数匹相手だったら取りこぼすのは精々が一、二匹ときたもんだ。

  「全部狩ってはこの辺りから獲物が居なくなってしまうし、このくらいが良いだろうさ」

  と、ルビアスの言。一理ある。本気出せば全部仕留められそうな気がする。

  そんな訳で、ルビアスが来てから俺達の食事事情は一気に改善された。元々長雨の時期を耐えて凌ごうと全員で覚悟をしていた手前、各々の瞳に

  一気に光が戻ってきた感じがあるし、俺も俺だけが英気を養うためとはいえ、ちびっこを差し置いて飯を食べなくてはいけない心苦しさから解放された。

  「おっさんのおかげで、随分楽になったよ。ありがとう」

  「命を救ってもらった恩に比べれば、安いものだろう」

  俺はルビアスを沐浴に誘い、そこで一息つきながら話をする。ここも、ルビアスと協力する事でもう少しばかり綺麗にする事ができた。まず、

  岩を軽々と持ち上げられるくらいの膂力と、それを続けられる体力がルビアスにはあったので、岩を持ってきては敷き詰めて、水を引く事ができた。

  これで多少暴れたところで水が泥と混ざって嫌な気分になる事もないし、俺の力を札を通して伝えれば多少は熱くもできる。これもまた食事が

  潤沢になった恩恵でもあった。俺の体力の使い道が常に制限されていると、そういった日常生活を送る上での贅沢という物も大分抑えなくては

  いけなくなる。ルビアスのおかげで、俺はそれらに対する能力もいかんなく発揮する事ができた。

  「それにしても、ヴィル。君の能力はとても器用だな」

  「石投げて大体解決するおっさんに言われたくねぇんだけど」

  あんたが剣使うところ、見た事ないんだが。

  「だが、私ではこんな芸当はできそうにない。穴を空けたり、吹き飛ばしたり、そういう事ならできるのだが」

  それはちょっと、能力がどうこうというより力量が大きすぎるからではなかろうか。

  掌で湯を救い、俺は頭から被る。もうもうと湯気が立つ。先日までの水浴びとはあまりにも桁違いと言えた。俺の反対側に、ルビアスはそのデカ

  過ぎる体躯のまま湯に収まっている。俺はその身体を見て、ごくりと喉を鳴らし……呆れてしまった。

  被毛が水吸った状態であの膨らみ具合、どうなってんだ? おっさん、本当におっさんなの?

  「俺も少しは鍛えた方だと思ってたけど……おっさんには負けるわ」

  「私はずっとそれ一筋だったからね。ただ、これでも旅をする上では少し細くなったかな。食事の栄養という意味では、やはり旅をしていると

  どうしても相応の物になるからね」

  それで細くなったのかよ。

  「そういう意味では君ぐらいの方が丁度いいのではないかな。生活に合っている」

  「そんなもんかね」

  なんというかこう、男の尊厳的な意味で負けた気がする。いや、こんなデカくなれる気はさらさらないが。特に最近の俺はずっと魔法の方にばかり

  力を割いているし。元々は武術の才能があって、ゆくゆくは領主になる兄の補佐をと望まれては、俺もそれに頷いていたのに。

  ……過ぎた話だ。

  「そういえばおっさん。おっさんはあとどれくらいここに居るつもりなんだ? あ、いや。居てくれるのは、助かってる……。でも、あんた程の

  人物は、ここに収まる様な器でもないだろ」

  世直しをしているという、ルビアスの言葉を考えれば。直さなくてはならないものなんて、どこにでも溢れているだろう。最初に聞いた時は、

  正直馬鹿な言動だなと鼻で笑っちまったものだけど。その実力を見れば、これは確かに、そうした行動にも出られるのかも知れないなと思う。剣すら

  まともに扱わない、ただ小石を投げているだけで、あの威力な訳だから。というか剣必要なのか。小石投げるかパンチするかで大体終わるだろ。

  「もう少し、君達の様子を見ていたいかな。それに、ヴィル。君への恩を返すという意味では、まだ全然足りないと思う」

  「そんなもんかね。あんたが狩りをしてくれて、俺達は腹が膨れた。命を救うって意味でなら、充分見合うと思うが」

  「君は欲が無いな。こんな山奥で、泥にまみれているのに」

  「悪いかよ」

  「いいや。とても、好ましいと思う」

  俺はそれ以上言葉を打ち返せなくて、そっぽを向く。そういう所だぞおっさん。このおっさんはなんというか、やりにくい。俺が皮肉や揶揄を口に

  しても、馬鹿正直に打ち返してくるというか。ただ打ち返すだけならまだいいのに、やけに好意的というか。なんか、馬鹿にしていた自分の方が、

  ずっと馬鹿に見えてくるっていうか。実際、そうなんだろうけれど。これが年の功って奴か。

  「そろそろ上がるか」

  なんとなく居づらくなって、俺は身体を腕で持ち上げようとして、痺れを覚えて思わず呻いてはその場に留まる。

  「大丈夫か?」

  「あ、ああ……。その、肩が、少しな」

  「その傷と、関係があるのか」

  目敏くルビアスは見咎めてくる。見せたのは少しだけなのに、俺の背中に。やや右よりにある傷を見て取っていたのだろう。

  「ああ。普段は札で補間してるから、別に気にならねぇけど。こうやって身体を洗う時になると、どうしてもな」

  「見せてくれるか」

  「……別に、いいけど」

  一瞬、断ってしまおうかと思った。俺の傷は、思ったよりも深い。被毛があるからわかりにくいが、少し触れればその傷がかなり大きな物である事が

  知られてしまう。

  ざぶざぶと水をかき分けて、ルビアスがやってくる。丁度、腰の辺りから下は水の中で見えない。俺はそっと背を向けた。ルビアスの手が、俺を

  壊さぬようにと触れてくる。被毛越しでも、その太い指と、持ち主の逞しさが伝わってくるかの様だった。

  「酷いな……。まだ、痛むのか」

  わずかに、ため息が聞こえる。騎士の目から見ても、この傷は悪い物に見える様だ。

  「いや。傷自体は、腕を上げた時に引っかかる感じがするくらいだし、随分前の物だから。ただ、どうも肩がな。時々痺れた感じがするんだ。皆には、

  言わないでくれよな。特に、ミカルには」

  俺の傷を知っているのは、年長組くらいで。そこから下の奴らには一切話していない。普段は札で自分の身体の損なった機能を補助しているので、

  腕が動かないなんて事もないので今のところバレずに済んでいる。さすがにこうして身体を洗う時は札をはがしたかったので、こういう場所だと

  どうしても誤魔化すのには限度があった。

  だから年長組、そしてその中に属するミカルは知っている。俺の傷を。知ってほしくないのは、いまだにこの傷に身体が縛り付けられている事だった。

  「ミカルか。あの子は、とても聡明だな。この様な……というと失礼だが。まともな教育を受けられない場所にあって、とても聡く育ったと、私の

  目にも見えるよ」

  「ああ、そうなんだ。あいつは……初めて会った時から、あんな感じで。だから言わないでくれるか」

  「この傷を負った事と、関係があるのか?」

  瞬間、俺はひゅっと息を吸い、呑む。

  「どうして、そう思う」

  「傷の具合からして、君が子供の頃の傷という訳ではないだろう。精々数年程度か。この山で君が暮らしているのも、それくらいと聞いた」

  「おっさん、変なところで鋭いよな~」

  俺は溜め息を吐いて。まあ、ルビアスに知られるのは別にいいんだ。本当にそれを警戒していたというのなら、そもそも一緒に沐浴しようだなんて

  誘わない。むしろ俺一人で入るというと、まだ余裕があるからとか、子供達と一緒に入ってはどうかとルビアスから言われる気がしたから、あえて

  ルビアスを指名した訳だ。

  「おっさんの質問に答えるとなると、長くなるけど……別にいいか?」

  「構わない。せっかくだ、少し治療も試みてみよう」

  おっさんの掌が、俺の背を滑る。瞬間的にぞわっとする。なんか、手つきが。いや、やらしい訳じゃない。そうじゃない。他人から触れられるって

  いうのに、慣れてないせいだ。それにおっさんの掌からも、俺がするように力を感じ取る事ができる。実際、嫌な感じがしたのは最初だけで、すぐに

  それは快い物へと変わった。湯とはまた別の温かさを感じて。

  「この傷をつけたのは、ミカルの……親父なんだよ」

  そうして俺は、とうとうとそんな言葉を吐き出しはじめた。

  偶然出会っただけのルビアスに、そんな話をするものではないと思う。それでも口にしてしまったのは、俺も誰かにこの話を聞いてほしかったの

  かも知れなかった。聞いてほしいと思いつつ、しかし子供達にはとても聞かせられない話だった。

  俺の傷の出どころは、それこそ俺とミカルの出会いの話になる。

  当時、俺は領主の息子としての立場を追われた。逃げろと言われ、そして逃げた。何も持たず、身一つで。

  そうした流浪の先にたどり着いたのが、今のラッシグ地方の山の中、という訳だ。

  実際に、俺に追手は掛かっていたが、それほど執拗な訳ではなかった。兄の様に時期領主として仕事を任されていた訳でもなく、俺には武力と、

  兵をまとめる能力が求められていたから、無論領内や国についての勉強などはしていたが、それよりも鍛錬に明け暮れている日々だった。実際、

  膂力だけですべてが解決する訳ではないのだと教えられ、そして身に着けた術の方が今で早くに立っている始末だ。

  そんな俺が、たどり着いた先で見かけたのがミカルだった。

  時期も、まさに雨の季節。

  地すべりが起こるからやめておけと、乗り合い馬車で話をした旅人からは忠告をされたものの、俺にとっては追手を撒くのに好都合だったからこその

  道だったが、山中を進んでいた俺が出会ったミカルは例にもれず、今もこの根付く口減らしの因習の対象となっていた。

  だけど、ミカルは少し違っていた。

  何が違っていたかって?

  「……直接。ミカルの父親はミカルを殺そうとしていたんだ」

  俺の言葉に、俺の背を撫でては治療を続けていたルビアスの手が止まる。

  「あいつは、頭が良い。きっとこんな集落しかない様な、そんな所で暮らす奴らにとっては……頭が良すぎて、怖かったんだろうな。酷い事をすれば、

  いつか自分達に返ってくるって。ミカルならそんな事を企てる頭は持っているって。だから、他の子供とは違って、捨てて終わりにできなかったんだろう」

  あの時の事が、今でも忘れられない。一番に忘れられないのは家族や領民の事ではあったけれど、逃げ出した先で見た光景もそれに負けず劣らずだった。

  倒れた傷だらけの子供に、斧を振りかざす。血走った目の男。

  「やめろ!!」

  咄嗟に叫んで、手を出した。放った力の加減もわからずに、男を吹き飛ばして。

  「大丈夫か!?」

  傷だらけの子供に、ミカルに、声を掛ける。斧で斬られはしなかったのだろうが、それでも全身から血が出ていた。激しく殴打されたのだろう。

  だけど声を掛けた子供は、目を見開いて何かを叫んでいて。どん、という鈍い音に気づいた時には遅かった。吹き飛ばしてそれで終わりだと思って

  いた。斧を持っていた男はいつの間にか立ち上がり、そして俺の背にそれを振り下ろしたのだった。

  俺からの攻撃で力が抜けていたのだろう。全力での一撃だったなら、多分それで俺は死んでいたと思う。皮膚が裂けて、肉が潰れ、骨が砕ける

  音がした。すぱっと綺麗に斬って、なんてあるはずもない。木を何本切っていた、なまくら刃の斧の一撃は俺の身体を潰す様に、肉でも叩くかの様に。

  「あ……」

  俺の口から出たのは短い悲鳴だけだった。屈んでいた姿勢から、倒れこむ事もできずに。荒く開かれた傷口から血が溢れ出す。血と一緒に、力も

  抜けて。一瞬にして死へと落ちてゆく気分になる。斧が引かれて、また血が出て。引かれた斧が、また振り下ろされ。

  俺の記憶はそこで途切れる。気づいた時には、俺は立ち尽くしていた。目の前に、ほとんど身体がバラバラになった男女の死体があった。近くに

  赤く染まった斧が落ちている。それで、多分俺に斧を振り下ろした男なんだと思った。その隣に居るのは、多分物陰に隠れていた、その連れ合い

  なのだろう。

  「父さん……母さん……」

  ぽつりと、声が聞こえた。振り返ると、あの子供が茫然とそれを見つめていた。今、なんて言ったんだ。そう思った。あれが、父親と母親? 父親に

  殺されようとしていたのか。いや、そうじゃない。

  俺が、子供の見ている前でその両親を殺してしまったのか。

  そこからまた、記憶が飛ぶ。子供に近づこうとして、その瞳に怯えの色を見て取って、そして俺はそこで限界が来てまた倒れて。

  だけど気づいた時には、その子供は必死に俺の看病をしていた。背中が燃える様に熱い。ぐちゃぐちゃになった身体は、それでも生きようとして

  いた。そして子供は自分の両親を殺したはずの相手を懸命に看病している。

  何か言いたくて、けれど何かを言う気力も俺にはなかった。ただ、懐に隠してあった札を数枚手に取って。緊急時のための物だ。少なくとも、

  傷はある程度癒える。だが逆に言えばそれだけだ。明確に鈍痛は強くなり、泣き叫びたくなる様な痛覚だけははっきりと頭に、脳に響いてくる。

  半日ほどそのまま過ごして、どうにか身体を起こせるようにしてから俺は子供を連れて岩陰に隠れてまた倒れた。さすがに、外でずっと倒れたままは

  色々と無理がある。

  そしてその岩陰で数日間死んだ様に眠って、どうにか一命をとりとめたのだった。我ながら、生命力が害虫並みだと思う。

  「自己紹介をしたんだ。……ミカルって、言ってた。あの時から、ミカルとはずっと一緒だ」

  「……」

  「あいつは、頭が良い。良すぎるって、本当に思う。状況から考えたら、自分を殺そうとした親なんてって話だけど、でもミカルだって、あんなに

  小さかったんだ。親を殺した俺を、恨んでたってなんの不思議もない。なのにあいつはあれから、親の事には一切触れないで、最初はそりゃ、流石に

  無口だったけれど……。その内に、兄貴、兄貴って呼んでくれて。俺が面倒を見ていると、どうか自分みたいな子供を、助けてくれないかって」

  「ずっと、不思議だった。ヴィル。どうして君は、この地に足を止めているのかと。君だけなら、どこへなりとも行けるだろうに」

  「あんな事があったんだ。ミカルを置いていけるはずない。……ミカルの頼みも、断れなかった」

  それも、俺が初めて殺してしまった相手がミカルの両親だなんて、なんの冗談だと思う。父にぬれ衣を着せたクソ野郎だったら、いくらでも殺して

  やるのに。ずっと民は守るべき相手だと言い聞かされてきたのに。だのに。

  「仕方なかったよ、ヴィル。今の話を聞いて、私はそう思う。君は……仕方なかったなんて言葉で、片付けたくないのだろうが」

  いつの間にか、ルビアスの掌は俺の肩に添えられていた。立ったままだったから、冷えただろうか。身体が震えていた。こんな話、するんじゃなかった

  と思う。だけど、誰かに聞いてほしかった。誰かに聞いてほしくて、けれど誰にも言えなかった。ミカルが居るから、言えなかった。子供相手にも、

  言えなかった。

  このおっさんを、ルビアスなら大丈夫だと信じて話した訳でもなかった。ただ、きっとこんな機会は滅多にないと思ったが最後、次から次へと言葉は

  溢れてきたのだった。俺は、弱かった。一人で抱え込む力がなかったのだった。

  「だから……ミカルには、言わないでくれ。ただでさえ、俺を心配してよく泣くんだ。俺がこんな物、引きずってるって知ったら。立ち直れない」

  「わかっている。だけど、ヴィル。君もどうか……抱え込み過ぎないでくれ。私にそれを託すのは、無理だとは思うが。こうする事はできる」

  しばらくの間、ルビアスはそうして俺を支えてくれていた。

  余計な話をしたと思った。そう思いながらも、俺はルビアスの掌から伝わる温もりを快いと思っていたのだった。

  雨雲の気配がした。

  また、雨が来る。当たり前だ。そういう季節なのだから。

  「おっさん。あんたは、もう山を下りてくれ」

  「君は?」

  「これだけの子供を連れてはいけない。あんたを迎えてすぐに、そうすればまた別だったかも知れないが……あんたを信頼するのに、時間が必要

  だったし、耐え忍んでいて全員に体力がなかった。今はあんたのおかげである程度の元気はあるが、今からじゃとても間に合わないだろう。だから、

  あんただけでも」

  「いや、私も残ろう。君ほど繊細な魔法が使える訳ではないが、少しくらいは助けになるだろう」

  「本当に、いいのか。俺としては……これ以上、あんたの世話になっていると、もう返せる物が無くなっちまうんだが」

  「そんな事はないよ。ヴィル。ここで子供達と、そして君と過ごした日々は私には中々に楽しい日々でもあった。子供が、子供らしく笑っていられる

  様になったのは、君がずっと彼らを支えていたからだ。……もっと、私の力が必要なんじゃないかい?」

  「だけど、俺……」

  それ以上、ルビアスを遠ざける事はできなかった。またこの間の様な長雨だとしたら、俺は最悪力尽きる。そうなったら、誰がこいつらの面倒を

  見るっていうんだ。ルビアスにそれを押し付けるのはあまりにも心苦しいが、ルビアスならどこかの都市にまでは子供達を連れていって、保護を

  させる事もできるかも知れない。

  にわかに、慌ただしくなる。雨を前に、万全の備えをしようと。ルビアスが告げると、子供達は笑顔で準備に取り掛かって。ああ、こんな風にも

  なれるのかと、俺は思わずその光景に見惚れてしまった。今まではもっと、悲壮感に溢れていた。短い人生はもしかしたらここで終わってしまうの

  かも知れないと、そして俺は決死の覚悟で挑み、俺に力を集めるために周りは我慢を強いられて。それが仕方がない事だとわかっていても、とても

  士気は上がらない。

  だけど今は、ルビアスが居る。全員に食事は行き渡り、そして俺はそれを気にする必要がないのでいつもよりも更に準備を整えられた。震えながら

  俺一人に運否天賦を任せるのではなく、皆がやれる限りの事をやってやろうと、そういう思いだった。

  「兄貴。僕達にも、もっと仕事をさせてよ」

  ミカルが言う。笑顔で。

  「ヴィル。君は、一人じゃない。だからどうか抱え込まないでほしい。本当は皆、君の役に立ちたいって思っていたんじゃないかな」

  「おっさん……」

  こんなに、小さいのに。まだ自分の生き方すら、自分で決められない年ごろで、それなのに親からも見捨てられた様な子供が、どうにか生き残って

  やろうと足掻いている。自分は随分と独りよがりにやっていたんだなと、痛感した。勿論、ルビアスが居なければとてもこんな風にはなれなかった

  とは思うが。

  「……始めるぞ、おっさん」

  「ああ」

  雨が、降りはじめる。雨脚が強まる。大地に降り注ぎ、地中深くに染み入って、やがては川の流れの様に大地すら流してしまう。

  人が抗うべき困難には、限界がある。

  それを、この長雨との戦いで痛い程に痛感していた。かつての、領主の次男としての俺だったならば、きっと想像もできなかっただろう。どんな

  困難も、皆で手を取り合えば切り抜けられるだろうと信じ、そして実際にその様な困難が立ち塞がった時、抗う事もなく尻尾を巻いて逃げ出していた。

  逃げ出したんじゃない。逃げ出す様に言われた。だからそうした。それがきっと合理的だった。

  いくら言葉で心を覆い隠しても、そしてそれが本当に正しかったのだとしても、俺は釈然としない物を今も抱えていた。腐った貴族に正面から

  抗った父を、そしてそれに付き添った兄を、誇りに思いたかった訳でもない。無謀な事だと思う。俺の様に逃げるべきだったとも思う。

  だけど、困難に背を向けた事実だけはいつまでも俺の胸に残り続けていた。

  そういう意味では、今はその困難とやらに正面から立ち向かっている、のだろうか。

  「君の双肩に、子供達の命が掛かっている。それを重荷に思うかも知れないが、それでもそれは君が背負うと決めた物だ。そして背負われた者達も、

  今はただ背負われるを良しとせずに君の背を支えようとしている。そんな君達を見て、そして君に助けられて私も居る。ヴィル。何も、迷わなくていいんだ」

  「おっさん。……おっさんは、きっとこんなの、慣れたもんなんだろうな」

  「命を背負う事かい? そうだな、慣れたと言ってしまうのは少し憚られるが……。友の命を預かり、友に自分の命を預ける。時にはそんな状況にも

  なる事は、決して珍しくはなかったな。それは今も変わらない」

  預かり、預ける。今も同じ。

  不思議と、力が湧いてくるようだった。

  陣を敷いた上に、俺は座る。すぐ隣で、ルビアスは見守っている。抗いの始まりだった。

  しばらく降りの雨は、まるで今度こそ俺を力尽かせてやろうと、雨脚をどんどんと強めてゆく。俺は力を集めて、雨雲を散らす。

  一日。二日。三日。これまでと変わらない戦いが始まる。ただ、今は傍にルビアスが居てくれる。俺の世話や、時に交代を請け負ってくれる。もっとも

  ルビアスのそれは、確かに俺には及ばない。というよりこんな事をいきなりやってみろと投げつけたところで、できる訳がない。俺も最初の頃はかなり

  失敗していた。もっと目に見える状態での練習が必要だし、感覚を伸ばす事だって、一気に知覚する範囲が広がるのだ。ぶっつけ本番でやったら、

  本当に脳が焼き切れる程の衝撃を受ける。

  「これは、すごいな。ヴィル。君は力の強さでもって、私と比べて自分を卑下するのかも知れないが。いやはや……」

  短時間だが交代したルビアスは、笑い声をあげながら、しかし顔は笑わず口元だけで笑っていた。目を見開いている。そうしていると、勇壮な狼の

  騎士の顔がはっきりと見て取れた。普段のルビアスは、もっと凡庸で穏やかだ。その癖、獲物を仕留めたりするのはあまりにも洗練された動きでやって

  のける。そんなルビアスですら、俺の代わりとなると中々の負担となるようだった。

  「上手くいかない時は呼んでくれていい。元々俺がやっていた物だしな」

  「これを、ほとんど不眠不休でやっていたのか。恐れ入るな」

  「俺に本当に力があれば、もっと一瞬で雨雲を消し去る事もできたんだろうけどな」

  「ははは。そんな力、そう何度も使えはしないさ」

  困難な状況でも、軽口を言い合える。それは心理的な負担を和らげるのに一役買ってくれた。ルビアスが定期的に交代をしてくれるのも大きい。

  「僕にも、力があればよかったのにな……」

  一度、穴倉の入口まで来て食料などを置きにくるミカルが俺とルビアスを見て、ぽつりとそんな言葉を零した。俺の敷く陣の中には、相応の力が

  ある奴しか足を踏み入れる事ができない。というより俺が入れない様にしている。そして魔力を持つというのは、基本的には平民ではなく、貴族の

  特権でもあった。というより、持つ者がもっと昔に活躍した事によって、その流れが貴族としての立場を作り上げさせていたので、持たざる者が平民

  となるのは必然という奴だった。代わりと言ってはなんだが、そんな平民の中からでも強い力を持つ者が現れれば、そいつは貴族という扱いになるし、子も力を持たせられれば完全な貴族に、そうでなくても一代限りの貴族という物になる。

  そういう意味で、俺は子供達には何も言ってはいなかったが、相応の出であるという事は隠せなかった。もっとも辺境の領主の、嫡男ですらないの

  だから、そんなご立派な身分だなんて事もないが。

  四日。五日。六日。時が流れてゆく。また長丁場になってきていた。それでも、先日よりもずっと具合は良い。

  「おっさん。大丈夫か。キツいなら、寝ててもいいぞ」

  「なんの。戦の最中の行軍と比べれば、この程度」

  「やっぱおっさんも、そういう事してたんだな」

  「騎士といっても色々あるが、私は前線にも出ていたな。そういう騎士の世話係をする騎士も居れば、王宮を守護するのを主要な事として遠征などには

  出ない騎士も居たが。私は現場たたき上げだ。貴族の出だが、五男だったしな」

  「ふうん……」

  俺とそんなに変わらないのかね。

  という言葉を、俺は呑み込んだ。ルビアスにも、俺がどこの出かなんて事は口にしていない。平民からの突然変異と思ってくれていたら都合が

  良かった。難しいと思うが。

  七日目。八日目。さすがに少し疲れてきた。早い雨なら、もうとっくに終わってる。

  「大丈夫か? ヴィル。私は平気だが」

  「あんた、もういい歳したおっさんなんだよな。なんでそんなに元気なの??」

  「そりゃ、君よりもずっと仕事量は少ないし、これくらいで音を上げていたら騎士にはなれないぞ」

  「なる気はねぇんだわ」

  ああ、でもさすがにちょっとくらっとしてきてる。前回よりはずっとマシなのは確かだが、だからといってどちらがまだマシかという話であって、

  辛い事には変わりない。俺に付き添っているルビアスも疲れていないはずはないんだが、座ったままたまに目を閉じているだけで、次に目を開けた

  時には初日とさして変わらない態度をとっている。これが本職って奴なのか。

  「疲れているのなら、私に凭れるといい」

  デカい狼が、両腕を広げておいでおいでとしてくれる。なんで尻尾まで振っているのかわからない。陣とか札に影響が出るからやめてほしい。

  それでも俺は疲れに負けて、お言葉に甘えさせてもらう事にしていた。ゆっくりと、ルビアスへと身体を預ける。背中にルビアスを感じる。いや、

  感じているのはどちらかというと筋肉なんだが。身体を預けると、ルビアスの両腕が俺の横を通って、添えられる。不思議と安心する。

  「少し眠ると良い。この体勢ならすぐに交代もできるしな」

  「そう、だな」

  提案されるよりも先に、俺は睡魔に襲われていた。疲れているのもあるが、何より快い。ちなみに交代しているので今回は身体も清められているから、互いに臭わないので助かった。それができなかったら多分、今ルビアスに全力で猫パンチしていると思う。

  狼の大きな掌が、俺の腹をぽんぽんと叩く。子供を寝かしつける様にするな。そう文句を言いたくて、けれど俺はあっという間に眠りに落ちた。

  夢を見た。

  今、とても充実していると思う。失敗すれば命を失うかも知れないが、それでも、そんな状況であったとしても、皆で一丸となって。そしてルビアスと

  馬鹿を言い合いながら、抗っている。

  そんな時にも、見る夢はやっぱり決まって、昔のあの夢だった。

  もう、あの頃とは違う。そうだろう。それとも、そう思っていたいだけなのか。

  「ヴィル」

  名前を呼ばれて、俺は目を覚ます。視界がぼやけている。また、泣いていたのか。

  「おっさん……」

  「大丈夫か? 少しうなされていたが」

  「ああ。……なあ、おっさん。俺、何か言っていたか?」

  「……家族の事を、呼んでいたみたいだ」

  「そっか。……やっば、隠せないよな」

  ミカルに、申し訳なく思う。きっと俺はミカルの前でも、ルビアスが聞いたような事を寝言で口にしては泣いていたのだろう。

  ミカルには、そして他の子供からすれば、きっと聞きたくないだろうと思う。自分は家族から見捨てられたのに。

  俺がばつが悪そうにしていると、ルビアスが俺の頭を強く撫でる。俺は思わず手で払って顔を上げると、逆さのルビアスの顔があって。その表情は、

  優しく微笑んでいた。

  「何を悪く思う必要があるんだい?」

  「だって……あいつらは、親に見捨てられたのに。俺だけ、こんな」

  「そんな風に思わなくていい。そんな風に思われているという方が、余程ミカル達は辛いだろう。君がそうである君自身を責めている事も、悲しむ

  だろう。君はもっと、皆を頼るように。皆を信じていいんだよ、ヴィル。今の君だから。家族を大切に思う君だからこそ、きっと彼らの前で足を

  止めて、彼らを受け入れられたんだ。そんなヴィルの事を、きっと皆好いている。大丈夫だ」

  「おっさん……。言う事が本当におっさんだな……」

  「酷いことを言う」

  笑って、ルビアスが俺を抱き締めてくれる。ふと、気づく。ルビアスから流れる力に。それは俺の身体へと伝わって、まるで雨の様に染み込んで。

  「……この間のあれ、あんたの仕業だったのか」

  ルビアスは、俺に命を救われたと言う。俺もルビアスがそう言うのならと、ここに居る事も許した。けれど、違っていたんだな。倒れる寸前の

  俺が感知した、光線の様に凄まじい、雨雲を払ったあの力。

  「バレてしまったか。恩着せがましいと思ったし、あれで自分の事が疎かになって、地すべりに巻き込まれたなんて、恥ずかしくて知られたくなかったのに」

  「図々しい事聞くけれど、今使えないのか」

  「あれは、君が札に力を込めて必要な時に出しているのと同じだと思ってくれ。さすがに私一人だけでは難しい。旅に出る際に、頂戴したものだ」

  「そんな貴重なもん、使ったのか」

  まあ、確かにあの光線の威力は凄まじかった。空に向かって放ったから、雨雲を散らすだけだったけれど。人に向けて撃ったら。ぞくりとする。

  「だったら、俺に命を救われたなんて言わなくてもよかったのに……」

  「いや、君に助けられたのは事実だと思うがね? 雲を散らしているのが見えたから、手を貸して。自分の事を疎かにしたのだから」

  確かに。ちょっと失敗してその後地すべりに巻き込まれたのを助けたのは確かに俺、なんだが。なんか釈然としない。

  「それに、ヴィル。君の事を、放っておけなかったから」

  「おっさんの世直しの旅って奴のせいかよ」

  「それもあるが……。はは、まあ、そういう事さ。さあ、もう少しできっと空は晴れるはずだ。頑張ろうじゃないか」

  促され、俺はまた集中する。もう少し話がしたかったが、確かに雨雲がまた広がってきた。

  結局、そこから更に数日を経て雨雲はようやく終わりを迎える。今回も中々に長丁場だった。年々雨が強くなっている気がする。気のせいだといいが。

  あまり、ここに長居はできないのかも知れない。

  「終わったか……」

  「さすがだ。ヴィル。君の力はやはり尊敬に値するものだ」

  「……こんな力……」

  言いかけて、俺は首を振った。水を差すのはやめよう。

  ルビアスと互いに身体に不備がないか確認をして、穴倉から出る。しばらくは大丈夫だと皆に告げると、お祭りの様な騒ぎがはじまった。この

  期間中、結局皆はずっと明るいままに前を向いていた。この分なら、やれるかも知れない。ここを出られるかも知れない。雨に打ち勝った事よりも、

  目指すはその先、なのかも知れなかった。

  けれど俺はその先を考えて、表情を。空が晴れた変わりに、曇らさざるを得なかった。

  どこへ行く。どこへ行ける。そして、それから……。

  「山を、下りてみないか」

  雨との格闘の後。数日もすれば、ルビアスからそう提案された。俺はその言葉にすぐには頷けなかった。しかし悪くない話だと思っている。

  「無論、無責任にこの話を口にした訳ではない。今後をどうするのかは、ヴィル。君と、そして子供達が決める事だが。私の伝手を使って、保護を

  する事もできる。ただ、それができたからといって、全員の人生を豊かなものにできるのかは、わからない。それは覚悟してもらうしかない」

  「わかってる。ここに居残ったところで、人生が華やぐだなんて、誰も思っちゃいないだろうよ。確かに今は、そりゃ……楽しい……けど」

  楽しい。ルビアスが加わって、食料が潤沢になると、こんな生活を楽しいと思えるようになっていた。そんな自分の発見にも驚く。

  おおらかなルビアスは子供に人気で、ふさふさふで長い尻尾なんて子供の遊び相手に最適で。しかも腹話術みたいな事もするものだから、遠目から

  見ていると、思わず笑ってしまう。明日生きているのかもわからないような生活なのに。家族から見放された人生なのに。いや、俺は……違うか。

  「おっさん。おっさんの言う事は、正しいよ。いつまでもこのままじゃ居られない。全員が一緒に居られる訳でもないだろうし、どの道これ以上

  人数が増えても、面倒は見きれない。食う物があったとしても、この山は大勢で暮らすのにも向いてない」

  「ヴィル。それなら」

  「少し……少しだけ。待ってくれるか。おっさん。……ルビアス」

  「……わかった。ただ、まだ雨季は抜けていないのだろう。先人の君に言うのもなんだが、忘れないでくれ」

  ルビアスの言葉に頷いて、そこから数日俺は考えていた。楽しい子供の話声も、俺にまでは届かない。ルビアスは俺の決断を待つと決めたのか、

  子供達にはいつも通りに振舞って。ミカルにだけは、何かを告げたのか。ミカルも不用意に俺に近づこうとはしなかった。

  「山を、下りようと思う。この生活もいつまで続けられるか、わからない。ただ、山を下りたら……今までの様に、一緒には居られないかも知れない」

  悩んで、結局俺はその決断を下した。それは同時にここを去り、今後同じような境遇に遭う子供を見捨てるという判断を下した事でもあった。

  俺の決断に、誰も異を唱えはしなかった。ただ、雨雲と戦う時の様に。士気は高く山を下りる準備を始めるだけだ。

  「兄貴」

  一人穴倉にこもっている俺の所へ、ミカルがやってくる。狐の青年が、俺を見つめている。ルビアスのおかげで食事事情が改善されたからか、

  最近のミカルは少し逞しくなっていた。元々頭は良いんだ。これで、どこへでもやっていける、とまでは言わないが。少なくとも他の奴らよりは

  ずっと上手く立ち回れるはずだ。

  「ミカル。……ごめんな。お前の頼みを、ずっとは聞いてやれなくなった」

  「ううん。確かに、兄貴に僕みたいな子を助けてほしいって、言ったけれど……充分すぎるくらいに、兄貴は僕達を助けてくれた。自分の命まで

  危険に晒して」

  ゆっくりと、ミカルが近づいてくる。座っていた俺の手を取って、指先に頬ずりをする。

  「ミカル。この後、どうなるかは誰にもわからない。だから、聞いておきたい。お前は……俺の事を、恨んでいるか。お前の両親を殺した俺を」

  「……わからないよ。僕……。兄貴の事、怖いって思う時はあった。だけど、今はもう。兄貴が居なかったら、とっくに僕は死んでたって、わかる。

  だけど、僕の命とはまた別に、兄貴がやった事も本当なんだって。今ならわかる」

  「そうだ」

  ミカルは、さすがに賢かった。自分を助けてくれた相手なのだから、それで良いと言って。俺がした事を頭の隅に追いやる事もしない。

  俺がミカルを助けてその命を拾ったのも、そしてミカルの両親を殺したのも、等しく受け止めて。そして喚いたりもしない。混乱して泣き出したりも

  しない。それは、こんな幼い。ようやく少年から青年になりかけているミカルの様な若い命で簡単に割り切れる事ではないはずだ。

  「まったく恨んでいないって言うには、僕の心は強くないみたい。だけど、それよりも……兄貴を心配って気持ちの方が、強かった。ずっと」

  「ミカル」

  「兄貴。兄貴は……山を下りたら。その後は、どうするの」

  「俺は……。お前達の内から、望む奴をそれぞれの街に預けたいとは思っている。ルビアスは、そういう事になら手を貸してくれるはずだ」

  「兄貴自身は?」

  「俺は……」

  問いかけられて、言い淀む。胸の内に、黒い感情が巻き起こる。

  「僕、兄貴と一緒に行きたい。兄貴の助けになりたい」

  「駄目だ。お前は……お前だけは、連れていくつもりはない」

  びくりと、ミカルは震える。俺の掌に、ミカルの涙が流れて、しとどに濡らす。雨の様に。

  「……兄貴。兄貴が、どんな風に生きるのかは、兄貴が決める事だから。だから僕、下手な事は言いたくない。だけど……生きていて」

  「……」

  ミカルはそれ以上は言わなかった。涙を指で払い、俺に一礼をして出てゆく。俺が教えた所作を、ミカルは完璧に憶えていた。

  「大丈夫かい、ヴィル」

  一人になって、ぼんやりと考え込んでいると。ルビアスに言葉を掛けられる。

  「おっさん……」

  「ミカルが、泣いていた。きっと、君はミカルがついてゆく事を断ったのだろう?」

  「そうだ」

  ルビアスが、なんとも言えない表情をしている。悲し気に目を細めて、俺を見つめている。

  「なんだよ。おっさんまで。いつもみたいに笑ってりゃいいのに」

  「家族のために復讐に行くんだろう?」

  かっと、目を見開いて俺はルビアスを見つめる。毛を逆立てて、やがては睨みつける。

  「……わかるのか。おっさん」

  「君が、どうしてこんな所で子供を助けていたのかを考えていた。優しさから来る物にせよ、君はあまりにも熱心で……自分の命すら顧みないやり方を

  していた。もっと他に目的があるんじゃないかと思った。君の寝言や、所作。その能力からして、君はただの平民の出なんてものではないのはわかって

  いたしね」

  誤魔化せているだなんて思っていなかったが、ルビアスは冷静に俺を見ていた。いつもの朗らかな空気とは一変して、ルビアスは俺を静かに見下ろしている。

  「君は、君だけの私兵を求めていたんだね。助けた子供達が、本当にそんな物になれるかもわからずとも。多分、ミカル君を助けた時はそこまで

  考えてはいなかったかも知れないが、子供が増えるにつれ、そんな風に。だけど、ミカル君だけは遠ざけようとしていた。それで、よくわかったよ。

  自分の家族の仇討ちを果たすために、自分が家族を殺してしまった子供の助けを借りる事はしたくなかったのだと」

  「……凄いな。あんた。全部その通りだ」

  今でもあの時の事を思い出す。忘れられずにいる。逃げた自分を冷めた目で見つめている自分が居る。ただ、それよりも何よりも、憎かった。

  俺を、俺の家族を。何もかもを滅茶苦茶にした奴が、いまだにのうのうと生きている事が。

  だけど俺には力も何もなかった。一人で多少戦える。そんな程度で、どうにかなる相手じゃなかった。かといって訴えを起こしても退けられるのは

  父親の一件でわかりきっている。だから逃げたのだった。あの時は。そうだ、あの時は、だ。

  逃げた先で、初めてミカルを助けた時。俺は多分、そこまで深く考えもせずに助けてしまった。復讐をするための大切な身体だったはずなのに、

  大怪我までして、それで手に入れられたのは頼るというにはあまりにも頼りない、心許ない、狐の少年一人だけ。

  「ヴィル……さま。僕みたいな子のこと、助けて……くれません、か?」

  そんな子供に、そう頼まれた。それで俺は、今は力がなくとも、この子供達を利用できればと遅れて気づく。それに、どの道俺自身にもいまだ力は

  足りていない。修行も兼ねた期間がどうしても必要だった。

  だけど。

  「だけど……結局山は下りなければならなかったし、そしてあの子達はまだまだ、小さくて。幼くて。自分の復讐を共に、なんて頼めなかったんだね」

  「……」

  見通しが甘かったというか、まず山での生活が甘くなかった。俺はこのラッシグ地方の山の辛さを、余所者だから知らなかった。

  確かに家族に見捨てられた不幸な子供を迎える事はできたが、そんな子供は一朝一夕で使い物になる訳じゃない。そもそも山を下りる事すらままならない。

  気づけば復讐どころではなくなっていた。雨に対抗する術をどうにか編み出し、実行し。まあ、その過程で魔法に関しての腕前はメキメキ上達した

  が。

  そして、ルビアスがやってきた。

  俺はルビアスの力に助けられ、それを歓迎しながらも。同時に世直しなんていう臭い事言うルビアスの言には内心焦っていた。俺の復讐心を知られる

  のが怖かった。ルビアスの立場なら、俺を止めるか。もしルビアスにとっての守るべき物に触れる恐れがあるのなら、俺を殺すだろう。

  「山での生活で自分の力だけは高められた。子供を連れる訳にはいかないが。彼らを見届けた後はそうするつもりだったのだろう?」

  「そこまでわかっているのなら。俺を止めるなんて事はしないよな」

  「ヴィル……」

  「それとも、なんだ。まさかあんた、手伝ってくれるのか。あんたが手伝ってくれるのなら、そりゃ成功もするだろうがな」

  「それは、できない。君の果たそうとしている復讐の是非を問うつもりはないが、君をみすみす死なせるのは、私は反対だから。少なくともその

  復讐に乗り出したのならば、その結果に関わらず、君は普通の生活には戻れないだろう。そして私の手で守りきる事もまた、難しい」

  「普通の生活」

  俺は思わず、笑ってしまう。馬鹿みたいに。穴倉の外まで聞こえるくらいに。

  「そんな生活が、どこにあった……? そんなの、もう。とっくに……。俺から何もかもを奪っていった奴らは今ものうのうと生きているのに、俺が

  同じ事をしたら許されないっていうのか?」

  「少なくとも、手段が同じではない。そして相手のやり方が許されるやり方だった訳でもない。ただ、表沙汰にならぬ様にしていただけだろう」

  「そんな事はわかってんだよっ!!」

  わかってる。今更こんな奴に言われるまでもない。相手と同じやり方が、俺にはできない。根回しをして、逃げ道を塞いで、事情をよく知る一部の

  奴らを拘束し、それ以外には嘘を吹聴し、必要とあれば金を握らせ、反論の余地を無くさせる。世論を味方につける。そんなやり方が、俺にはできない。

  それは金も地位も権力もある奴だからできる事だ。

  ルビアスが、まっすぐに俺を見つめている。悲しそうな目で。

  こいつの目が、嫌いだ。心底から俺に同情している目が。俺を必死に止めたがっている目が。

  俺を、守りたいと本当に思っているのが伝わってきて、嫌いだ。

  「ヴィル……。わかっている、はずだ。こんな事を、今更の様に私の口から言わずとも。君は賢いし、そして優しい。子供を助けたその瞬間に、使い道が

  あるかも知れないと閃いても、すぐにそれでは上手くいかない事を悟っただろう。悟った上で、別の案を求めて子供達を捨ててその場を去る事も

  しなかった。自分の利益にすらならないとわかってからも、子供を助け続けた。それは生半可な覚悟でできる事じゃなかっただろう。こんな山の中で、

  自分の命をすり減らす様な真似をしながら暮らし続けるのは」

  「違う。俺は……だから今から、捨てるんだ。あいつらを。馬鹿だから、ちょっと気づくのが遅れただけだ。そうしたら、違う事だってできる。

  俺一人じゃまだ駄目だっていうのなら、次はもっと、もっと。上手くやってみせる。あんたみたいな強い奴を、ちゃんと利用して、味方につけて」

  「ヴィル!」

  凄まじい声量で、ルビアスから名を呼ばれる。いつもの優しい物の言い方とは違う。こんな声も、ルビアスはきちんと出せたんだなと思う。騎士

  として、数々の人物を育ててきたというのは、まったく本当の事なんだろう。

  「……なんであんたが泣くんだよ。おっさん」

  ぽたぽたと、ルビアスの瞳から涙が流れ落ちてくる。俺はそれに、ぎょっとした。

  「すまない、ヴィル……。私がもっと早く、君に出会えていたら。もっと別のやり方もあったのかも知れない……。私は……」

  なんでそんな謝り方をこいつはするのだろうと思った。そんなたらればを語る事には意味もないし、そしてそこまでして俺を気遣う理由だって、

  こいつには無いはずなのに。

  「私は、騎士として……君の様な者をこそ守りたかった。だが、君を見つける事はできなかった。ここは、"我が国"ですらないのだから、それは

  致し方ない部分もある。それでも、こうして君を見つけて、知ってしまった。せめて今の君だけでも、なんとかしたいと思ったが、それも……」

  「あんたみたいな立派で、なんでもできる奴に、俺の気持ちなんてわかんねぇよ……」

  泣きながら滔々と語るルビアスの言葉に、俺は冷ややかな言葉をぶつける。きっとルビアスには、富も名声も、本当はあるんだろう。何より力が

  あった。俺なんかが逆立ちしたって持てない物をなんでも持って。それなのに俺と違って、復讐心が芽生える様な事もきっと、なくて。

  ああ、俺。

  「なんにも……持ってないんだなぁ、俺……本当に、なんにも……。一人であのクズの元にたどり着く力すらも……」

  だから逃げろと言われたんだろう。だから今、こいつにさえ止められたんだろう。でも、だって、仕方ない。何も持っていないのに、復讐心ばかりが

  俺の中に残ってしまった。眠る度に守れなかった幸せがちらついては、胸を痛めるばかりだった。あるとしたら、それだけで。

  そしてそれすら、今はルビアスに阻まれて。捨てざるを得ない。いや、そうでなかったとしても、たどり着く事すらできないのだった。

  「ヴィル……!」

  ルビアスが、慌てて俺へ駆け寄り抱き留める。いつの間にか夢から醒めた直後の様に視界は滲んで、何よりも力が入らなかった。

  「おっさん。俺、馬鹿みたいだな……。いや、本当に、馬鹿なのか。こんな事しても、なんにもならないってわかってても。何かしないと、駄目

  だったんだ。俺には、何も無いから。何も無いのを、何も無いままにしていると。からっぽのままだと。動けないんだ。起き上がれない。力が

  入らない。どうしたらいい? どうしたら、よかったかな? ……ごめん。困るよな。こんな事訊かれても。ごめん……ルビアス。ごめんな」

  段々、何がなんなのかわからなくなる。天地が逆さまになった様な。足元が足元でなくなった様な。地すべりが起きた様に。雨が降って。ずっと、

  降って。降り続けて。奥底に、真底に、溜まって。溜まりきった頃に、その上の物を全て押し流す。そんな感じだ。滑稽だ。雨を遠ざけていた俺の

  中に、雨がずっと降っていたのだから。中天の雨は退けられても、心に降る雨はどうにもならなかった。

  そのまましばらく、俺はルビアスに抱き締められたままだった。ルビアスは時折俺の名前を呼びながら、抱き締める力を強くして。不思議だった。

  俺の事をルビアスは優しいと言う。今の俺に、こんな風にしてくれるルビアスの方が俺はずっと優しいと思った。

  どれだけか、そうしていただろう。

  泣き続けていただろうけれど、それも次第に止まりはじめる。狂いかけた感覚も、次第に落ち着いてくる。少なくとも今は、倒れそうになる感じも

  しない。ただ、温かい。ルビアスの体温が伝わってくる。ちょっと、じめっとしてる。湿気多いからな。

  「なぁ、ルビアス」

  「……なんだ?」

  「なんで……俺に、そこまでしてくれる? あんたはずっと、俺が命を救ったって言ってくれてたけど……」

  確かにそれはそうなのかも知れないが、最初に俺を助けてくれたのはやっぱりルビアスの方だったし。それもいい加減、どちらがどちらという事も

  過ぎ去っては、そして俺の本性を今は知って。後は、そう。放っておいてくれればそれで良いのにと思う。このまま子供達をどこかに預けて、必要なら

  それでまたルビアスの助けを借りるかも知れないけれど。それで、じゃあここでと別れて。俺はそのまま無茶な行動にでて、どこかで終わって。

  それで終わりで、いいんじゃないかって思う。いくらルビアスが騎士として、誰かを、弱い者を守るのだと決めていたとしても。俺みたいな奴に

  いつまでも関わらなくたっていいのではないかと。

  「それは、そのぅ……」

  頭上から聞こえたルビアスの声が、少し上ずっている。もう、ルビアスも泣いてはいなかった。さっきまでは泣いていて、それは俺の被毛に

  吸い込まれて、今は少しひんやりとしている。

  「君に、その……懸想していたから……」

  「けっ……え、なに?」

  「す、好き、なん……うん……好き……だ」

  耳をそばだてていないと聞こえないくらい、その上何回も詰まりながらルビアスがそう口にする。ただ、そんな事よりも驚きの方がずっと大きかった。

  「俺の事が、好き……?」

  ちょっと何言ってるかわからない。

  という状態で俺はしばらく固まる。男同士だろ。いや、まあそういう話は聞いた事ある。うん。領主の息子として色々な人物と会っていた頃は、

  そんな話を耳にする事もなかったとは言わない。そういう世界もあるんだなって、知ってる。でも、こいつが俺を好き?

  「なんで?」

  「な、なんでって……それはその……。君のその、優しい所とか。身寄りがない……ああ、いや、この言い方は悪いな。寄る辺もないはずなのに、

  子供達に手を差し伸べている……今、泣いていた様に、本当は自分が辛いはずなのに……。そんな君を見ていると、私は、どうしても……。放って

  おけないんだ。そういう性分なんだと思っていい。そういう私の言動が、君にとっては鼻につくのかも知れないが……」

  もしかして、からかってるのだろうか。そんな風に思って顔を上げると、耳をぺたんと下げては口元を震わせている狼と目が合う。これは冗談では

  ないのだろう。

  「えっと……その、おっさん……。とりあえず言っていい? 歳考えろ」

  「ぐっ!! き、君。そ、その言い方は、ないんじゃ……ないかぁ……」

  そんな事言われても。おっさん俺より二倍くらい生きてるじゃん……。

  とまではさすがに言わずに、俺は目を細めておっさんに白い目を送る。それから、ちょっと笑ってしまう。なんだか、さっきまでのうじうじしていた

  のが、急に吹っ飛んだような。いや、物事は何も前に進んでいないのかも知れないが。

  ただ、少なくとも俺が今復讐にこだわったところで、この狼は俺を決して先には進ませてくれないのだという事がわかってしまった。それは騎士

  としての性分もあれば、この男がどうやら俺の事を好ましく思っているという部分もあるらしくて。

  「わかった、わかったよ……おっさん。ひとまず復讐は、諦めてやるから」

  「……すまない」

  告白から一転して、俺がその話題を口にするとルビアスは申し訳なさそうな顔をしてくる。

  「ただ、どうか忘れないでほしい。君が自分の事を何も無いと思っていたとしても、君の事を案じている男が少なくともここに一人は居る事。そして、

  子供達もだ。ほら」

  揃って視線を向ければ、穴倉の入口では既に数人の子供が俺達を見て……。

  「み、みせもんじゃねーぞ!!」

  俺は大慌てでルビアスを突き飛ばして、立ち上がるのだった。

  突き飛ばされたルビアスは、少し寂しそうな顔をしたものの、俺のそんな様子を見てその内に笑って。そうしてようやく俺は気づいたのだった。

  何も持っていなかったにしては、今目の前にきちんとした人との繋がりがあるのだという事を。

  山を下りるのは、自分が思っていたよりも順調に進んでいた。

  いつかこの山を下りるのだと考える事はあっても、実行には移せなかった。幼い子供が増えれば増える程に、その道程は辛く険しい物に思えたし、

  そして下りたとしてもその後の展望も望めなかった。今はまだその時ではない。そう言い聞かせては、いつの間にか俺は山の民の一員になってしまって

  いたのだった。ただ、その判断が間違っていたとも言い切れない。俺一人の手では、助けた子供全員を、そのまま守り続けるのはやはり厳しかっただろう。

  ルビアスの存在に、感謝しない日はなかった。

  特に年少組に関しては、中々はかがゆかぬ下山だった。そういう時、俺一人では背負うのも限界があるが、ルビアスがそこを預かってくれた。それで

  俺の負担はぐっと軽くなり、俺は大地と相談しては滑りにくい、安全な道を探す事に専念できた。

  そしてこれまた想像はしていたのだが、賊にも遭遇した。こちらは、ルビアスの鎧などを遠目から見て、そして子供が居るからこそ人質にでも取れば

  楽に稼げると思ったのかも知れない。

  山での生活を続ける間に、俺は随分力がついたのだなと。賊を蹴散らしながら思った。

  「そりゃ、自然との戦いを時には十日も続けていたんだぞ君は。武術はともかくとして、その魔術の腕前は、もうかなりの領域になっているともさ」

  ルビアスが、そんな風に教えてくれる。知覚範囲を広げて神経を擦り減らすにせよ、空に向けて広げるのと、賊との戦いでその場の状況を知るために

  使うのでは、まるで勝手が違う。無論、注意するべき点などは違うのだから、一概に空に使っていた方が何もかもが辛いという訳ではなかったけれど、

  少なくとも情報を遮断しなければ洪水の様に頭の中に情報が雪崩れ込んでくる状態と比べたら、まだしも頭が混乱せずに済むくらいだ。特に視界の

  後ろにそれを飛ばしているだけでも、対人ともなれば充分なので、今の俺にとって散らばってやってくる賊なんぞは、本当にどこに誰が居て、何を

  しようとしているのか。すべてを把握するのにそれ程の苦労もなかった。

  そこまで言うと、俺は強くなったと確かに自覚もするのだが、生憎俺の隣にはルビアスが居る。

  今日こそは剣を使ってくれると思ってた。いつも通り石を投げて賊を撃退している。獣と扱いが一緒だ。

  が、実際頭に当たれば昏倒するし、剣などでそれを迎えると弾き飛ばすつもりが、却って賊の方が吹っ飛ばされている。なんだあれ。魔法の小石?

  「安心してくれ、現地調達だ」

  「そ、そう……」

  にこりと笑って、ルビアスは素早く小石を拾う。俺ですら札を用意しないとなのに、それすら必要無いのもまた強さ故なのか。

  「~~!! やっちまぇっ!!」

  その時、周囲から一気に弓を構えた賊が現れて、一斉に俺達に向けて放つ。多分、脅しで終わらせたかったのにあんまりにもルビアスが強すぎて、

  もう始末する方を選んだのだろう。

  さすがにこの数を小石で落とすのは難しい。俺が子供を守りながら、札を飛ばそうとした瞬間。剣を抜く音が聞こえる。

  「多少は回復した様だ」

  ルビアスが言うと同時に、剣を大地に突き刺すと。一瞬にして複雑な文様が大地に浮かび上がる。俺は思わず肝を冷やした。さっとルビアスの

  剣を見てみると、刀身は淡く光り、その中に赤く光る線が見える。あの刀身自体に、かなりの細工がされているのは明白だった。そして、俺と

  子供達のすぐ外側から、それ以外はルビアスから、凄まじい衝撃波が発生してそれ以外のすべてを吹き飛ばす。

  これは、勝てない。俺は吹き飛ばされている賊の事よりも、俺が復讐心に駆られてルビアスに行く手を阻まれた時の事を考えて、そう思った。

  逆立ちしてどうにかなるレベルではなかった。ただ小石を放り投げてくるだけのルビアスの攻撃ですら、正直かなりしんどい物がある。知覚できても、

  その膂力からの小石の速度が半端な物ではなかった。しかも材料調達は足元からときたもんだ。その上でルビアスに致命傷を負わせようとしたら、

  今度はようやく剣を抜いたと思いきやこの衝撃波。それに雨雲を散らした光線の存在を考えると、連発はできないのかも知れないがこれよりももっと

  威力の高い物を平気で撃ってくるだろう。無理だ。俺一人じゃ絶対無理。よくて相打ち。それも、ルビアスが俺に好意を抱いているというのを上手く

  利用できたとして。

  「余計な荷物を持つ余裕は私には無い。この場は見逃してやろう。ただし、私達をつけ狙うのならば次は容赦なく、頭から吹き飛ばす。疾く失せるが

  よい」

  一頻り賊を吹っ飛ばしたところで、ルビアスはそう告げる。その声音は、今まで聞いた事のないものだった。怖い。賊が大慌てで逃げはじめる。

  俺は咄嗟に死体蹴り、じゃなかった。追い打ちでもかけてやろうかと思ったが、ルビアスが手で制するのですぐにそれに頷く。

  「まだ、街まで少しかかる。余力は残しておくべきだ」

  「そう、だな」

  「それにしてもヴィル。君の力はやはり中々の物だ。力の扱い方に、無駄がなく。見ていて惚れ惚れとするよ」

  「おっさんに言われてもな……」

  拾った小石で無双してくる奴に言われても、あんま嬉しくない。俺が拗ねた様にしていると、ルビアスが慌てた様にしていて。だけど俺とルビアスの

  会話はそこまでだった。賊を追い払ったので、わっと子供達が集まってきて。特にルビアスの方は大人気だ。ルビアスが狩りをする所を見た奴も

  居るけれど、剣を抜いた姿は初めてだったので、それで子供達は興奮冷めやらぬ様だった。気持ちはわかる。

  とはいえ、賊との対峙もそこまでだった。子供達は残念がっていたが、俺としては助かる。いくら俺とルビアスの腕が立つといっても、十数人の

  子供を守りながらの旅というのは俺達二人の神経をすり減らすには充分過ぎた。

  だけど、そんな下山と、そして街を目指す旅も中々に楽しかった。ずっと山の上だったから。ずっと、ある意味では一人きりだったから。

  そしてそんな旅もやがては終わりを告げる。もう少しで街だとルビアスが告げた頃に、俺達の方へとやってくる大型馬車の姿があった。

  「これに乗ってくれ。さすがにこの恰好の子供達を、そのまま歩かせて入る訳にはいかないだろう」

  どうやらルビアスは予め手配してくれていた様だった。道理で、俺を先に寝かせて夜の間に何かやっているなと思ったが。それにしても、ルビアスに

  とってはここは自分が騎士をしていた国ですらないはずなんだが、それでもこれだけの事ができるのだなと。俺は改めてルビアスの力の強さを思い知る。

  子供達は馬車に大はしゃぎだった。そりゃ、産まれてから今の今までずっと山の上だもんな。馬車は大型の物ではあったけれど、造りもそれなりに

  しっかりとしているし、外装も立派で、かつ洒落ていた。一つ間違えれば奴隷を運ぶ馬車と間違えられかねなかったが、その外見のおかげか大分

  その印象も薄くなる。俺は子供達と一緒に馬車の後方から乗り、ルビアスは街に入るまでは静かにしていてくれと言って前の方に。自分が呼んだ

  御者と一緒になって。そしての入口で当然ながら止められる訳だが、衛兵とは軽く話をするだけであっさりと通る事ができた。思わず俺はそれを、

  聴覚を広げて拾ってしまったが、ルビアスが何かを差し出すのを検めた衛兵は、すぐに、そして丁重にルビアスを案内しているのは聞くことができた。

  俺は入口である門を通り過ぎてゆく様子を、馬車の窓からそっと覗き見る。すぐに街に入る。入った途端に、道の周囲に露店が広がり、行き交う

  人々の表情は明るい。そして門の大きさも考えると、中々に規模の大きな街だった。恥ずかしながら、俺はラッシグ地方には落ち延びて、しかも

  山中を進んできてはミカルを拾ってそこに居着いた身なので、こんな活気の良い街の様子も随分と久しかった。

  馬車はゆっくりと街中を進み、やがては一つの館へとたどり着く。

  「ここは……?」

  「仮住まいといったところか。手狭であったり、問題があれば別の所を用意しよう」

  「……おっさん。金、大丈夫?」

  「何、君の長年の努力と比べたらちり芥の様なものさ」

  そういう話じゃない。と言いたいが、ルビアスは気にせずさっさと馬車から降りてしまう。とりあえず俺も、子供達よりも先に外に出ると、館の

  前では直立不動の鮫人が居た。ルビアスの姿を見た途端に、びしっと敬礼を決める。

  「ルビアス様! まさかこの様な形で私を頼ってくださるとは、思いもしませなんだ。どうぞ、この後もなんなりとお申し付けください!」

  「ああ、ありがとう。子供達が疲れているだろうから、まずは中へ案内を頼もうか。それからこちらは、子供達をずっと守り続けていたヴィルだ。

  決して粗相のないように」

  「畏まりました。ヴィル様、ですね。どうぞ、館の中をご案内いたしますので、私についてきてください」

  「えっ、あ、ああ……ありがとうございます」

  正直、俺の恰好は綺麗なもんじゃない。子供達とずっと一緒に、山の中。ルビアスはもう慣れただろうけれど、ルビアスが声を掛けて手伝って

  もらったと言っているこの、どう見ても騎士然とした奴からすれば、なんだこいつはと睨みつけたくなっても不思議じゃないはずなんだが、予想に

  反して男は俺の事も丁重に扱ってくれる。

  案内された館は、多少古臭いが最低限の掃除がされていたし、ベッドも置いてあった。どうしよう、眠れるだろうか。ずっとそんな物が無い生活をしていた後のこれだと、却って眠れなさそうだ。

  「孤児院に預ける、という選択肢も取れなくはなかったが。この人数を一つの場所に預けるのは先方の負担が大きいし、かといって分散させるのも

  今はよくない。しばらくは様子を見ようと思う。それでよいだろうか? ヴィル」

  「あ、ああ。なんつーか。俺が思っていたよりもずっと良くしてくれて、ちょっと……反応に困ってるくらいだ」

  「さすがに街に連れてきたからそれで終わり、という訳にはいかないくらい、世間知らずの私にもわかるさ」

  この根回しの良さで世間知らずはないだろおっさん。と言いたかったが、俺はからかわずに頷く。

  そのまま夕食の時間になって、山で狩ってはさばいていた物とは違って、きちんとしたパンだのスープだの、そんな物が用意されていて。最初、

  子供達はこんな物食べられるだろうか、なんて思ってしまった。それぐらいに困窮していたのだ。ただ、それは杞憂に終わって、すぐにわいわいと

  はしゃいでは、山の様に積み上げられていたパンが無くなってゆく。

  「慌てなくていい、まだ、沢山ある」

  ルビアスが笑いながら、嗜める。元気な子供達の声。それでまた少し俺は、自分が提供できていた場所は、本当に最低限の物でしかなかったのだと

  思い知らされる。あの山の中ではそれだって死に物狂いではあったとはいえ。

  俺の作り笑いに気づいていたのは、何人居ただろう。

  少なくともルビアスは、それに気づいていた節があった。

  汚れを落とした身体は、生き返ったかの様だった。

  「食べたなら、次は身体を洗わないといけないな」

  ルビアスの言で、暴れる子供達全員を風呂へと入れる事になったのだった。とりあえず水さえあれば、俺やルビアスはそれを沸かす事ができるので、館の浴場がいい感じに掃除をされていたのは大助かりだったといってもいい。

  最初の内、手伝ってくれた騎士達も、あまりの汚さに閉口気味だったのは中々忘れられそうにない。風呂なんて山の中じゃあの池に浸かるか、

  川に浸かるかの好きな方を選べといった程度だし、湯の方は一応雨が控えめな季節なら俺でも用意できたけれど、ここ最近は長雨だったからそれも

  厳しい。つまり、とてもとても汚かった。使った湯はあっという間に黒くなるし、石鹸は一人一つ使ったのではないかと思われるくらいだ。

  ただ、それらを経て大分子供達もそれらしい姿にはなった。

  「いやはや。子供達を風呂に入れるというのは、中々重労働なのだな」

  「おつかれさん」

  風呂に入れるのも、その後全員の被毛を乾かすのも、中々に重労働だった。力で乾かせる、と一口に言うが、子供は大人しくはしてくれない。

  「これなら賊や動物に石でも投げていた方がどれだけ楽だったか、わからんな」

  言葉だけなら嫌そうに、だけどルビアスは嬉しそうにそう言っていた。そして子供達の番が終わったら、俺とルビアスはまた揃って静かに湯に

  浸かっていた。その頃になると、あの鮫以外にも数人居た騎士っぽい男達は全員姿を消していた。明日からの準備に行ったらしい。

  本当に、頭の下がる思いだ。

  そしてルビアスとの風呂が終わると、ようやく俺達は一息吐く。疲れた、と思う。本当に長い間抱えていた物を、ようやく少しだけ下ろす事が

  できた様な、そんな気分だった。

  あれだけはしゃぎまくっていた子供達は、今は眠っている。俺達と同じように、疲れ切ってはいたのだろう。今は食堂に俺とルビアスが居るだけだ。

  「酒でも、用意しようか」

  「俺、飲んだ事……ほとんどないんだけど」

  「そうなのか」

  「家を出た頃はまだ成人してなかったし」

  「だったら、少しは慣れておくといいさ」

  酒を取りに行こうと部屋の扉を開いたルビアスが、軽く声を上げる。俺がそちらを見ると、そこに居たのかミカルだった。

  「ミカル。まだ寝ていなかったのか?」

  「その……兄貴が気になって……」

  「ヴィルが?」

  そこで、ルビアスに案内されてミカルが俺の方へとやってくる。そういえばミカルとは、あれからあまり深く話してはいなかった。お前の事は連れて

  いかないと俺は言い、泣いて飛び出したミカルをそのままに。

  「ミカル……」

  「兄貴。もう……どこかに行っちゃうの?」

  その言葉に、俺は黙り込む。ルビアスも俺を見つめていた。俺の微妙な表情の変化を、二人は感じ取っていたのだろうか。

  ただ、復讐に乗り出すには俺には力が足りず、そして今はそれを阻むルビアスという存在も居る。だから、それはしない。だけど。

  「……おっさんが居れば。俺なんてもう、要らないんじゃないのか?」

  そんな言葉を口にしてしまう。ガキだなと思う。今日一日、ルビアスが手配した物の凄さに。俺にはどうやっても用意できない子供達に対するもてなしに。

  どうも俺は嫉妬であったり、また至らない自分自身への苛立ちを抱いていたのだった。

  「ヴィル……」

  「そんな事ないよ! 兄貴が居たから、皆今まで生きてこられたのにっ!」

  ルビアスが何かを言うよりも先に、ミカルが叫ぶ。大粒の涙をまた浮かべて。俺はちょっとたじろぐように、そして視線を逸らす。

  「兄貴はっ……自分よりももっと、違う。凄い奴が来てくれたらって、きっと思ってるかも知れない。でも、僕達には……兄貴だけだったんだよ……。

  兄貴だけが、助けてくれた。僕なんかは、本当にそうだった……。あの時、助けてくれなかったら。きっとあのまま、お父さんに殺されて」

  「やめろ。ミカル」

  俺は思わず、ミカルを制してしまう。例えそれが事実だったとしても、こんな幼い心に、そんな事実はただただ辛いだけだ。

  「ヴィル」

  ゆっくりと屈んだルビアスが、ミカルの肩を抱き締める。それから、俺へと視線を送る。

  「君の……その。本懐を遂げようとする動きを、私は阻止するだろう。だけど、君が子供達から離れたいというのなら、私はそれ自体は止められない。

  君の人生だ。君が、主役だ。好きに……。君の望みを邪魔している私がこんな風に言うなんて、ずるい話ではあるが」

  「俺は……」

  子供達の存在は、俺にとってなんなのだろう。

  復讐のための駒、守るべき民、寄る辺ない弱者。

  きっと、どれも当てはまっていたのだと思う。

  自分の復讐のために使えるかも知れない。父に言い聞かされた様に守らなくてはならない存在。俺が助けないと、ただ死んでゆくだけの弱い奴。

  全部が当てはまっていたからこそ、俺は思わず手を伸ばして、そうして当てが外れている、気が長すぎる事に気づいても手を離せずにいた。

  そして長く寝食を共にしているからこそ、そのいずれにもやがては当てはまらない、別の何かへと変わって……。

  だけど、そう思っているのはもし俺だけだったとしたら?

  そう思うと、途端に俺は弱気になってしまう。特に、ミカルに対しては。

  「ここまで来ても、お前は俺に居てほしいのか? ミカル。ここまで来たら。もう……山での生活とは、きっとこれからは変わってくる。俺の手が

  ないと生きていけない訳じゃない。俺に媚びへつらう必要もない。むしろ、こういう所でならお前の才能は活かせて、あっという間に俺なんて

  飛び越えていけると思う。いつまでも、失った物に固執している俺と違って」

  「……必要、だよ」

  「どうして?」

  「だって……僕にとっては、兄貴も家族みたいなものなんだもん……」

  家族。その言葉に、俺は身体を震わせる。

  ミカルにとって、俺が? お前の両親を殺してしまった俺がか?

  直接的な言葉を口にしそうになって、慌てて抑える。だけど、何故か俺にとってもその言葉はすっと胸に入ってくるものがあった。

  「みんな必要で、みんな……もっと、一緒に居たい……」

  ミカルはそこで、ぼろぼろと泣き出してしまう。本気なのか。あんな山での、汚い、粗末な生活ばかりを与えるのが精々だった俺とまだ居たいだ

  なんて。

  「ヴィル」

  ミカルの様子を見ていたルビアスが、口を開く。

  「私も、ミカルと同じ気持ちだ。私は君達の中では、新参者だが……。君達の輪の中に入って生活をするのは、楽しかった。山での生活も、悪くは

  ない。だが、子供達の未来も考えたら、いつまでもそう山籠もりをする訳にもいかない。こうして街まで無事に来る事ができた。だけど、子供達の

  未来はこれからだ。今はまだ、始まったばかり……どうなるのか、まだまだわからない。……優しい君なら、まさかこんな所で子供達を放ってしまって、

  どこかに行くなんて事はしないだろう?」

  「酷い言い方するな……」

  思わず苦笑してしまう。そんな風に言われてしまうと。でも、確かにそうだった。ルビアスの言う通り。俺はまだ、領主の息子として、というか。

  文化的な暮らしという物に慣れている。人生という本を開けば、山での生活を綴った頁の枚数は他と比べて少ないだろう。でも、子供達は違う。山での

  生活ばかりの本の中、一番新しい部分に、山を下りて街に来た。そんな一文が、まだ記されただけに過ぎない。その後がどう続くのか。上手くいかずに

  山に戻ったとなってしまうのかも、わからない。そういう可能性だってきっとある。

  「でも、おっさんの言う通りだ。ミカル……。まだ、俺の事を必要としてくれるか?」

  ミカルが、何度もうなずく。言葉が上手くでないから、首を縦に振って。俺は笑って、その肩に手を添えるルビアスの、更に上に手をのせて。

  「わかった。わかったよ……。さすがに今お前達から離れるのは、俺も無責任だし、大体いくらおっさんが居てくれるからって、おっさんに甘えすぎ

  だもんな……。でも、お前達はこれからちゃんと自立するための準備が必要なんだから、しっかりやるんだぞ。……まあ、お前に関してはまったく

  心配しちゃいないんだが」

  俺が教えた作法などを、ミカルはあっという間に吸収している。常識とか、そういったその場に居ないと中々身につかない物は別としても、知識

  と所作だけでいうのなら既に街中で生きてゆくのになんの不足もなかった。その辺りは今後、ミカルを含めた年長組を中心として更に下へと波及

  してゆくだろう。それでも、まだほとんどの子供は山での生活しか知らない。だから、俺の手も必要なのだろう。

  そう思って、頷いて。だけど同時に俺は少しだけ胸の痛みを覚えた。家族みたいに思ってくれている。俺も、内心ではそう思っていた。俺だけが

  そんな風に思っていたら。特にミカルに対しては。申し訳なかったから、だけど今はミカルの方からもそういってもらえて。

  家族だ。

  そう割り切る、というか。認識すると同時に。昔の家族に。頭に"昔の"とつけてしまって、家族である事には変わりないけれど、もうそれは手の

  届かない。どうしようもない。そんな距離を感じると同時に、俺は今の家族を取ってしまった気がして。

  「ヴィル。大丈夫だ。私も居る。行こう。一緒に」

  そんな俺の内心を、照らすかの様に。雨の後に射し込む陽の光の様に、ルビアスは温かな笑顔を俺に向けてそう言ってくれた。

  街に入ってから、数日が過ぎ去った。

  目まぐるしい忙しさに、俺はかなり喘いでいた。そもそも、かなり大人数だ。子供十数人と、それから俺。ルビアスはまあ関係なかったけど。

  それだけの人数分の手続きをするというのは時間がかかった。平民、その上での山の民。それほど複雑な訳ではなかったけれど、人数が人数で、

  そして俺自身は同じものが必要ではなかったが、それだけの子供を預かる身として別に登録が必要だった。逃げ出した領主の息子、という肩書は

  名乗らなかったし、そもそも別の国の話なのでさすがにそれで不味い事になりはしなかっただろう。もしそうなったらなったで、それこそルビアスは

  全力で俺を守ってくれるだろうが。

  そしてそれらが済んだところで、所詮はそれだけの話。毎日の食べる物に、子供達の着るものに。そういった細々としたものは、ルビアスが手配

  してくれた騎士達が用意をしてくれた。

  「おっさん。金、大丈夫なの?」

  俺は机に突っ伏しながら、向かい側で苦笑しながら白湯を用意してくれているルビアスを見つめる。

  「心配無用だ。私一人ではとても使いきれないし、それは別として私の世直しの旅を陛下は応援してくださっている」

  今陛下って言った? どんだけ偉いの?

  「その世直しの旅って奴をしているあんたの足を、止めている気がするんだけど……」

  「時にはそうして足を止める事も大切だろう。違うかい? 助けられそうな相手を助けるだけ助けて、その後の面倒は知らんとあっては、それは一時

  施しを授けただけに過ぎない。無論、助けた相手の人生のすべての責任を負う事はできないが……。少なくとも、あの子達がある程度、自立の兆しを

  見せるまで一緒に居る事は、足を止める内にも入るまいさ」

  「そういわれれば、そうかもだが……」

  一時手を差し伸べるのは、確かに簡単だった。弱い奴は特に、そうだ。だけど弱いからこそ、それだけでは生きてはゆかれない。その後どうするか、

  という問題はどんな時にでも大切な課題でもあった。飢えや貧しさは一時取り除くだけではなく、根本的な原因を突き止め、対策し、最終的には

  排除しなくてはならない。当人の力だけでそれができるのなら、それが一番良い。だけど、俺が預かる子供達の様に、それができない存在も居る。

  「世直しどうこうの前に、それが先を生き、行く者達の使命だろう?」

  「ご立派だこと……」

  最近はあまりルビアスに言わなくなった皮肉めいた言葉を、俺は呆れながら口にしてしまう。

  「君に言われる筋合いはない。自分の身を粉にして、数年もそうしていた君と比べたら。私なんて何もしていない様な物だろうか」

  「……そうかよ」

  そんなやり取りを経て、子供達とルビアスを含めた、俺の日々は流れてゆく。しかし課題は中々に山積みだ。当面の衣食住の確保が済んだのなら、

  次からはいよいよ子供達の自立へ向けた方法へと段階は移り変わってゆく。

  つまり、教育だ。

  そう、山の中との決定的な違いは、まず子供達に文化的な生活を送る上での最低限の教養を身に着けさせる必要がある。

  ある意味では、山の中は楽だった。生きてさえいれば、それで良い。だけど山を下りて街に住むのなら。ゆくゆくはその中の一員として立派に生きて

  ゆくのなら、どうしたってそれは必要な物だった。

  もっともただの平民に必要な教育は、そこまで多いかと訊かれるとそうでもなかった。だけど、それも街の中で普通に産まれ、育ったらの話だ。

  教育とはまた別に、その土地ならではの決まり事。それも、暗黙の了解ってものもある。そしてそれだけに留まらず、人と人との繋がり方もだ。

  山の中で、狭い関係の中で生きてきた今の子供達には、それが足りない。目上の相手なんてのも俺が精々で、あとは自分を見捨てた家族や小さな

  集落の隣人くらいのもので。だから、人との距離の取り方などもまだわかっていないだろう。最近ようやくここにルビアスが追加された訳だが。

  その辺りまでくると俺もちょっと怪しいが。領主の息子として育てられた俺にとっても、平民というのは守るべき相手である。ただ、これからも

  ここに居るのならそれは良き隣人であるべきで。だから接し方も自ずから異なるのだった。

  「教育に関しては、その辺の子よりももう少し深くやりたいんだよな。ただでさえ後ろ盾ってものが、乏しいその辺の奴よりも更に無いに等しい。

  教育を施す事自体は、俺にもできなくはないし、ミカルももう少し勉強すれば先生にもなれるくらいだと思う」

  平民と一口にいっても、単純な肉体労働に従事するだけにしてしまうか、もう少し違った仕事をさせられる様にするかで教育の度合いは違う。前者は

  下手すると文字が読めない、書けないなんて事もある。計算もできない場合がある。ただ、それでは絶対に不自由な思いを今後の人生ではすると

  思うし、相手に足元を見られ、そして見られているのに渡された金が多いのか、少ないのかすらわからない。

  自分の価値が理解できていないからだ。

  文字を書くこと。最低限の計算ができること。相手と話をし、自分の位置をある程度理解し、市場での価値を把握すること。

  最低限これらは仕込んでしまいたかった。

  「騎士である私や、辺境ながらもそこを治める手伝いを志していた君からすれば当たりまえ過ぎる内容だが。確かに平民としては中々の勉強量かも

  知れないね」

  「選択肢は多い方が良いだろ?」

  「そうだね。中には筋が良い子も居た。戦闘訓練をするのも良いかとは思うが」

  「それは、もう少し常識と倫理観を持ってからにしてくれ」

  俺が言うのもなんだが。

  しかしそういった物が育っていない。自分の行動の指標となる柱をしっかりと胸の中に立てていない状態での暴力は、危険だった。

  家族の復讐に身を乗り出そうとしていた俺が言えた義理では、本当にないんだが。

  ただ、平民であるからして俺やルビアスの様な魔力を子供達は備えていない。いや、まったく備えていないって訳ではないが、伸びるのかはまだ

  わからない。見込みありそうな子は精々一人か二人くらいだが。だけど、この子達がもう少し育って、それでも手を取り合って生きていきたいと

  願うのならば。これらは稼ぎ頭になりそうな気配もある。魔力というのはそれだけ貴重な物だった。別に、強くなくても良い。勿論強ければ戦闘に

  活かす事もできるが、弱くとも生産業なんかでは重宝する。手に力を籠められる者が織った布には不思議な力が宿る。魔力の混じった水で作った紙は

  よい触媒となる。俺の札も、これに近い。そういったものは、作った当人の力がとてつもなく強いという訳ではなくとも、相応に利用価値があるの

  だった。もし子供達の誰か一人でもこの職に手が届くのなら、少なくともその一人で、皆を最低限食わせられるくらいは稼げるはずだった。

  「俺やおっさんの手を、いつかは離れられるようにしたい。これは何も、面倒を見るのが嫌だって訳じゃない。でも、大きくなったらきっと。いつまでも

  俺達の傍に居たいって思わない奴だって出てくるだろう。それに俺はまだしも、おっさんにそんな長い間子供の面倒見させるのは嫌だし」

  言ってしまえば、俺は子供達を直接的に拾った奴だ。だから、彼らが自立するまで面倒を見るのは義務というか、ある程度責任がある。

  復讐を諦めざるを得なくなった今となっては、だ。

  だけどルビアスは、ただ通りがかっただけ。俺の事をその。す、好きだとか。なんか、言ってる、けど。でも、それとこれとは違う。世直しの

  旅って意味ではこれはまさに当てはまるのかも知れないけれど、それだってあまりにも長期間に及ぶとなるとさすがに頼りにしてますなんて面して

  いられない。

  「まあ、こうして山を下りて街に出られたんなら、俺だけで全員食わせるのはまったく無理な話じゃない……というより、余裕ではあるけど」

  ちょっと魔力があるだけで生産業で大成する可能性がある、訳だ。

  そして、少なくとも俺と、そしてルビアスはそれぞれに"ちょっと"なんてレベルではない。出自がそもそも平民とは違う訳で、流れる血から巻き起こる

  力そのものが、まず違う。そこまで言うとちょっと申し訳ないが。

  なので、手はじめに俺は街に出て、裏路地の方で細々と商売もしていた。表の方だと、俺の力の方に目をつけられると困るので、人目につかない

  方で。そこで、今まで雨散らしのために使っていた札の中でまだ使えそうな奴らを適当に並べては、子供達の今後をぼうっと考えていたら、魔道の

  心得ありな若者なんかはまずまっさきにやってくる。いや、普通はそこまで食いつきは良くないんだ。なんせただの平民にはまったく扱えない代物

  だからな。だから、相手の方から見つけやすい様に、札から力を発して置いておく。それで、この街の中に居て、それなりの心得がある者は敏感に

  それを察知しては、やってくるのだった。

  「お、お兄さん。これ、いくら?」

  早速、フードを深く被った黒猫がやってくる。被ったフードの奥から、金色の瞳がらんらんと星の様に輝いていて。そして若い。見た感じ、完全な

  平民ではなく、かといってお貴族様って程でもない感じだ。まあ、本当に身分と金持ってる奴はさすがにこんな所に居ないし、まっとうな所から道具

  だって仕入れてる。そんなものは期待していない。

  「札一枚、金貨一枚でいいよ」

  「えっ!? そんな安くていいの!?」

  「もう使わんしな。でも、俺の力が大分残ってるから、最初は扱うのに苦労するかも知れない。買うなら様子見て、三枚までにした方が良い。売れ

  残れば、俺は明日も明後日も、この時間にはここに居る。使ってみて良いと思ったら。またくればいいさ」

  「なんだか、随分親切だねぇ。じゃあ三枚ください」

  金貨三枚をさっと黒猫が出してくる。ただの平民ではこれだけで半年は食っていけるはずなんだが。ただ、それでも黒猫の言う通り破格の値では

  あるのだろう。正直俺としては内心驚いているというか、こんな風に魔道の領域の品を売る事は基本的にしない上に、数年間山籠もりしていたも

  同然なので、ちょっと金銭感覚が危うい。ただ、市場で食料品の値段を見て、まあこのくらいの値段で売れるのなら俺自身が時折作る分にはそれほどの

  労力もかからない額を提示したのだった。

  「僕はね、こういう物に力を入れるのは苦手でさぁ。助かるよぉ」

  そういってにこにこ笑った黒猫のローブがふわっと浮力を得たかと思うと、そのローブの下から魚や鳥が溢れ出してくる。思わず声を出してそれを

  見つめてしまう。全部本物ではなく、黒猫の力で作られた物の様だ。どうやらこいつはイメージ先行型というか、得意な分野が俺とは違うらしい。

  「戦うのも嫌いじゃないけど、僕はこうやって芸をしてお金を頂戴する方でね? でも、物を自分で作れないからさ……。旅をしていると、不意に

  危険な時とか、全部その時の自分の力で対応しないといけなくなっちゃう。でもそれだと限界があるからさ。お兄さんみたいな人に助けてもらえると、

  すごく助かるよぉ」

  「そいつは、まず使ってみてから言うんだな。相性ってもんもあるだろ」

  「それはそうだね」

  ちなみに相性が悪いと、最悪俺の作った札でも何も起きなかったり、その場で爆発したり、使用者がぶっ倒れたりする。これに関しては仕方がない。

  わかりやすいような、わかりにくいような言い方をすると、食物を口にした時駄目な奴は吐いたり倒れたりするだろ。あれと大体同じと思えばいい。

  特に俺の力は、基礎はきちんとした講師を招いたものの、残りはすべて山で培った、いわば武者修行の産物だ。いつの間にかそういう癖がついていた

  としても不思議じゃない。

  「でも多分、大丈夫だよ。手に取ってみても、嫌な感じしないし。この間はそれで酷い目にあったから、わかるよ」

  話をそこまでにして、黒猫は礼を言っては手を振って姿を消す。ちなみに次の日には良い感じだったといって、今度は十枚も買っていきやがった。

  「もうすぐこの街を出て他所へ行くつもりだったからね。丁度良かったよ本当に」

  との事らしい。おかげでゆっくり売りながら、他の魔力持ちとの会話を楽しみつつ情報を得ようとした計画が大分潰れてしまった。もっとも黒猫は

  旅芸人の真似事をしているから、その分一人で結構な情報を俺に渡してくれたが。物価の様子、戦の気配、物流の変容、各国の情勢。中々に情報通

  だった。

  「そりゃ、これから戦争しますよなんて国にはいけないしね? 芸なんて、平和な時じゃないと見向きもされないし、稼げやしない。お兄さんは、

  しばらくこの街に腰を据えるんだね? なら、安心していいよ。僕が居るって事は、少なくとも今すぐにどうこうはならないからさ。それじゃ、また

  どこかで!」

  俺に提供できる情報を大体話し終えると、黒猫は旅立っていって。なんか、良い奴だった。多分俺の提供した札の値段は、やっぱりかなり安値の

  物であって、黒猫なりに気を遣ってくれたのだろう。

  「そういった旅人も居るのだな。世間には」

  そんな話を戻ってルビアスにする。ルビアスはかなり興味を引かれた様だった。

  「旅芸人とはまた、いいものだな。当人の言うように、平和な時世でないと中々思うように活動はできないだろう。そういった者が現れる場所は、

  やはり活気に満ち溢れているし、当面は戦などの気配もない。まあ、戦の気配なら私もわからないでもないが、そういった旅芸人の太鼓判がつく

  というのも、良い傾向だ。子供達のためにもしばらくは安全な場所が必要なので、良かったよ。もしもの時は、また皆で移動しなくてはならない

  からな」

  と、クソ真面目な答えが返ってくる。

  「……せっかくだし、子供達に見させたかったかもな」

  あの黒猫なら、事情を話して、あとは追加で札でもあげとけばそれくらいはやってくれそうな気はする。惜しい事をしたなと思った。

  「まあ、祭りの季節になればまた、そんな芸事を見せてくれる者達も来てくれるだろうさ。もう少しすれば、秋が来て。収穫祭の一つくらい、規模は

  違えどどこもするものだろうし。そうしたら、案外その旅芸人もまた戻ってくるかも知れないな」

  「秋、か」

  もう少しすると、雨の季節は終わりを迎える。山の上での生活ではひと段落つく辺りか。もっとも、俺達が居た辺りはあの後も大規模な雨が続いて、

  ついに大きな地すべりを引き起こしたという。まあ、今までは俺が力で無理矢理それを避けていた部分もあったしな。雨を散らす方向もある程度は

  考慮して。無論、あまりにも雨雲の規模が大きいと所詮はそらす程度だから限界があるが、それでも大きすぎる災害にならない様にはしていた。

  今は逆に、それが良くなかったのかもしれない。俺がそうして。ある意味で管理をしていた物を放棄したから。たまりにたまったそれらが一気に

  動き出したというか。もっともそれで良心の呵責を感じるかというと、そうでもない。どちらにせよ、あの長雨を持つ山では、どこかしらでは

  起こり得る物でしかないからだった。それに俺があのまま残っていたとして、もしルビアスが居なかったとしたら。やはり力尽きて、今頃はどこかの

  地中深くに埋まっていてもおかしくはなかったのだから。

  「その頃には、もう少しあいつらも勉強が進んでるといいんだけどな」

  そのことに触れると、ルビアスは穏やかに笑う。

  「そんなに心配する事はない、みんな、良い生徒じゃないか」

  「そりゃ、あんたにとってはそうだろうけどさ」

  今は俺とルビアスが交互に教師役として、一般常識から何までを教えているといった状況、なのだが。

  正直に言っていいか。俺に常識を要求されても、困る。困るんだ。特に平民のそれとか。

  いや、そういう意味でなら騎士であるルビアスもそうだとは思うんだが、不思議とルビアスはそういう物にも通じている節があった。

  「それは、まあ。もっと若い頃は遠征だのなんだので遠くまで行く事もあれば、時には情報収集のために話を聞く必要もあったからね。何も知らないで

  そういう真似事はできまいさ」

  らしい。そう言われればそう。対して俺の方はといえば、そういった事を含めて勉強中の時に一家離散の憂き目にあった訳で。なので、常識とか、

  そういう物を乞われると正直弱い。知識だったら問題はないんだが。

  そんな訳で、ルビアスの後に俺が教鞭をとると、逆に子供達から突っ込みを受ける事が最近では増えてきた。ので、今の俺は子供と並んで

  ルビアスの授業に参加しているくらいだ。なんか、恥ずかしい。

  「みんな良い生徒じゃないか」

  「お前それ俺の事かよ畜生」

  穏やかな顔で、さっき口にした事を復唱してくる。こいつ見た目天然の癖に……。

  そしてミカルの方はといえば、ルビアスから与えられる教えを俺から与えた時と同様に、大地が水を吸い込むかの如く吸収しているので、最近では

  更に立派になっていた。あとは体つきの方がもう少しよくなってくれれば、もう立派な青年だ。俺達どころか、街の子供達相手に何かを教えたり、

  世話をしたり。そんな事もできる様になるかも知れない。穏やかな気質を含めて、支持率は高い。あれ、もしかして俺が一番低いのでは。

  「ところで、ヴィル。……その。この間の、話なのだが」

  俺が自分のポンコツ振りにうんうんと唸っていると、何度か咳払いをしてからルビアスがまっすぐに俺を見つめてくる。その意図するところをすぐに

  察して、俺は居心地悪く視線を逸らした。

  「……なんの、話だよ」

  「それを私の口から言わせようとするのか。君は存外、ずるい男だな」

  察している癖に。とルビアスは目元で語る。うるせぇ俺だって避けたいんだよその話題。とはいえ、いつまでも引き延ばしにしている訳にもいかない。

  ルビアスからの求愛、というとなんかあれだけど。とにかくそんな感じの事はあれからも続いていて。俺はその度に、返事を濁していた。ただ、

  それでルビアスは焦ったりもしない。さすがにそれで暴れるには、ルビアスももういい歳してるって事なんだろう。

  いい歳してこんなガキなんか好きにならなくていいのに。

  とまではさすがに俺の口からは言わないが。特に一番最初に、歳考えろって言った事はちょっと根に持っている節がある。歳考えろ。

  「ああ。先に言っておくが。別に君の返答がどうであれ。君と子供達に今している私の行為が無くなるとか、そんな事は気にしなくていい。そんな物で

  君に忖度してほしい訳ではない。ただ、その……私の気持ちを知ってくれていると、嬉しい」

  もう充分知ってるわ。いい歳したおっさんの癖に、耳を下げて俺をじっと見つめたり、俺がちょっとでもいい感じの事いうと馬鹿みたいに尻尾を

  振ったり、最近はそれのせいで尻尾に埃がついていたりとか。

  「そんな事言われても……なぁ。俺、恋愛って、よくわかんねぇよ……」

  それも男同士。いや、その部分に関しての嫌悪感はそこまででもない。特にそれなり以上の力を持つ貴族なんていうのには、割と聞く話だったり

  するし。女だけではなく男も。男だけではなく女も。そういう話も聞く。立派な騎士を目指していた俺の耳目にはできればいれたくない情報でも

  あったが、逞しい騎士、なんていうのはそういった好色な貴族からは時には堪らない対象って奴になる。その援助を受けて騎士として出世する奴も

  居るって話だ。地方のしがない領主の次男坊である俺には関係ない……と言いたいが。場合によってはそういう力も利用できないかなと少し考えて

  いた時期もある。生憎俺は商品価値があまり高くないのか、そういった事柄で声を掛けられた事はないが。

  そんな風に考えていて、ふと昔の事を思い出して。俺は少し俯く。

  「ヴィル? 大丈夫かい?」

  「ああ、いや……。昔、俺にも婚約者って奴が居たなって」

  俺の言葉に、ルビアスが驚いた様に目を開く。

  「あ、でもな。もう関係は切れてるんだ。それに、恋愛とかそういう訳でもない。政略結婚っていうの? 隣領の領主の三女でさ。まあ、俺達みたいな

  本当の貴族からは相手にされないし、領主になる訳でもない俺だし、だからそんな風に家同士、領主同士の繋がりのために婚約してたんだよ」

  それも、俺の家族が冤罪によって裁かれた事で終わりを告げる。最後に会ったのは、あの事件のほんの少し前だった気がする。俺も、あの娘も、

  気持ちは同じだった。小さい、地方の領地に過ぎないけれど。いずれ領地を継ぐ訳でもないけれど。そこで暮らす人々のために、力を尽くしてゆこう。

  恋心ではなかったと思う。でも、何かを。親が大切にしていた物を、同じ様に大切に思って。そうして共に大切にし続けてゆける相手だとは思って

  いた。そう考えると、彼女にはとても申し訳ないと思う。綺麗で、素朴な猫の女だった。淑やかな立ち居振る舞いが目を引いたけれど、それは親から

  口を酸っぱくして言われ続けてきた物であって、内心には結構頑固な面があって。そういう所、俺は結構、好きだった。一緒に並び立って、彼女は

  俺に嫁ぐ訳だからこちらの領地に携わる事になる訳だけど、何かあったら彼女の育った土地も助けようと未来を語って。

  同士。そう言ったら、恋人や婚約者という響きと比べたらあまりにもあんまりという奴だが、そういう関係がしっくりくる感じの娘だった。

  「だから別に、恋しいとか。そんな風には思ってない。どっちかっていうと……悪かったなって。小さい頃から結婚を約束していたのに、今更になって

  放り出されて。それも、世間からすればやましい事をしていた領主の、その息子の元婚約者って見られて。嫁の貰い手もなくしてるかも知れない。

  夜をまだ過ごしてなかったのは良かった。あの娘の身が清いって事だけは、証明されているはずだから。それも無かったら、本当に申し訳ない」

  「君が……そこまで申し訳なく思う必要はないのではないか」

  ルビアスの言葉に、俺は首を振る。

  「どんな理由があったにせよ、相手からしたらそうじゃないだろうよ。……あの娘は。父上の事。俺の事。……やっぱり、悪い奴だったって思ってる

  かな。そう思ってなくても、結局婚約を台無しにされたって思っているのかも知れないけど……」

  領地から命からがら逃げだして、その後は山奥で数年を過ごして今がある。だから俺は、彼女の事は調べられなかった。今度、調べてみるべき

  だろうか。だけど、そうした所で今更何が変わる訳でもない。謝罪文の一つでも送るべきかと思うが、もはや身分も領地も持ちえない、貴族の末席に

  すら座っていない俺が出した手紙なんて、彼女に届くはずもないし。仮に届いたところで、もし今別の相手を見つけていたとしたら、かなり迷惑な

  話になるだろう。彼女の事を俺が愛していて、身分も何もないけれど一緒になってくれないかと今になっても食い下がりたいのならまだしも、その気も

  ないのだから。

  「だから、その……俺、そういうのってよくわかんなくてさ。小さい頃から相手が決まってて、それを拒否する程相手が嫌な奴でもなくて。だから

  このままそうなるんだなって思ったら、そうならなくて。それから今の今までずっと山の上だったし」

  「……私の事は、嫌じゃないかい」

  「嫌……じゃ、ない。一緒に居るの。でも……ルビアスは本当に、俺なんかがいいのか?」

  さすがの俺もデリカシーってものはわかってるから、俺以外に良い人いくらでも見つけられるでしょ? なんて言わないけれども。でも実際、ルビアス

  の立場ならそれは事実でもあるだろう。世直しの旅なんていうものを今はしている訳だしな。言い換えれば好きな所に行って、いくらでも、色々な

  人との接点が持てるって事だし。そしてそれを持つための肩書きまでもっているときた。

  「また、そんな事を言って」

  席を立ったルビアスが、ちょっと背を向けて。その手には剣が握られている。そのまま俺の前へとやってくると、俺よりも大きな狼が、その場で

  膝をつく。鞘を床につけて、柄を握りしめて俺をまっすぐに見つめて。

  「ヴィル。こんな誓いをするのは、君だけだ。聖騎士ルビアス・ルカ・アルートは、あなた様を恋い慕っております。どうか私の剣と、そして愛とを、

  受け取ってはいただけませんか」

  「る、ルビ……」

  ん、ちょっと待て。今聖騎士って言ったか。

  「聖騎士!?」

  さっと血の気が引いてゆく。おいおい、騎士だけならまだしも。聖騎士って。おっさん。いや、ルビアス。冗談だろ。

  聖騎士、というのは俺の憧れ、いや騎士と騎士を目指す者なら全員が憧れているといっても過言ではない存在だ。その存在は北方の帝国にあって、

  常にやんごとない身分の方達や、皇都そのものを守護するために従事する。まさに帝国の懐刀であり、その上で立ち居振る舞いは凛々しく、紳士然

  としては騎士の鑑、手本と言われるような。時には外交の場にも赴く事もあるという。そして、その職業柄当たり前なのだが、一人一人が一騎当千の

  強さを持っている……そんな帝国の中のほんの一握りにしか認められない存在が。聖騎士だった。そして他国の事であろうと、騎士はそれに羨望を

  抱いている。俺も幼心に、騎士ならば聖騎士だと。他国の事であっても、その立派な行いを常に手本として目指しなさいと言われていたものだ。

  俺は大慌てで立ち上がる。いくらなんでも、そんな雲の上の存在が今膝をついて、剣と愛とを捧げてくれているのに。それと比べたら道端の石ころ

  と表現してもおこがましい程の俺が、ふんぞり返ってそれを聞くなんて事はあってはならなかった。いくらもう騎士を目指す事がない身であるとした

  所で、到底そんな態度はできかねる。

  じっと、俺を見つめている壮年の狼の男。鎧もつけていなかったけれど、その仕草は様になっている。当たり前だ。

  「け、剣まで捧げるって、そんな」

  早まりすぎだろう。それは愛とは別に、主とまで定めてしまう行為だった。暇乞いをして帝国から出てきているはずのルビアスの剣は、確かに今

  誰にも捧げられてはいないのかも知れないが。しかしだからといって相手が俺では。

  「それだけ、私は本気なのです」

  「そんな事、して……っ。俺っ……私が、どんな奴なのか、知ってる、でしょう? 恋心は、確かに好きにしていいとは思う、思いますが……」

  「もし、それを後悔する日がいつか来るというのならば」

  そこで言葉を区切って、ルビアスが優しく微笑む。大きな狼の持つ、不思議な優しさが滲み出たその顔は、とても騎士のそれとは思えないくらいだ。

  「それはただ、私の見る目が無かったというだけの事。その様な事は斟酌されず。どうか、今の私でよろしいかどうかを断じて、その上で受け取って

  いただきたく」

  「でも。あ、いや。ですが……私は、ルビアス様にそこまで想っていただける様な物は、何も。実の父にかけられた嫌疑を雪ぐ事もできずに、ただ

  逃げて。そうして真っ当な手段をとる事もできず、復讐を考えている様な……。ルビアス様の傍に居るには、あまりにも……」

  ルビアスが、ただの騎士ならどれだけよかっただろう。聖騎士と名乗られた途端に、俺はルビアスの隣に居るには、あまりにも。あまりにも不足が

  あった。何一つとったところで、敵う物もなく。惨めに泥水を啜ってきただけの俺と。輝かしい功績に、素晴らしい人徳に、稀有な才能に、ひたむきな

  努力に、誠実な想いに。

  ああ、駄目だ。こんな。俺みたいな出来損ないではとても。

  「……それでも私は、あなたをお慕いしております。ヴィル。あなたの弱さも、優しさも」

  「俺、そんなんじゃ……」

  どうしようもなく、弱い。弱くて力が無い。敵を取るための正攻法をするだけの財力も知恵もない。中途半端な暴力を、少し持っているだけだ。

  なのにどうして、そんな顔をして。俺を好きだなんて言える。俺が今すぐにここで暴れても、お前を傷つける言葉を羅列しても、そんな顔して俺を

  好きだって言ってられるのか。

  ……言えるんだろうな。この人は。

  何故だが、そうしなくてもわかってしまう。ああ、だって。それがわかってしまうくらいに。長い付き合いという訳でもないのに、俺の視界の内に

  入るようになった聖騎士の狼は、いつも優しく、だけど厳しいところは厳しく。俺の復讐に手を貸す事はなくとも、俺の復讐心を抱いては怒りに

  満ちていた心は尊重して、そしてそんな俺を止める事を申し訳なくさえ思っていて。敵わないと思う。俺ではとても。強さでも、それ以外でも。

  「ヴィル。どうか、受け取ってくれないだろうか」

  そこまで言われて、俺は慌てて手を。その柄を握る手に重ねてしまう。頭が垂れてきている。聖騎士とまで言われた男が、膝をつき、剣を捧げ、

  愛を囁き、その上で頭まで下げようと。駄目だそんな事させられるはずもない。

  「どうか。どうか、顔を上げてください。ルビアス様」

  「あなたが私の願いを聞き届けてくださるのなら、すぐにでも」

  「おいその言い方ずるいぞ!!」

  俺は思わず全部忘れて、怒鳴ってしまう。こんなのどうしようもないだろう。

  「~~っ! ああもう、わかった。受ける。受けるから! 立ってくれ!」

  「それがあなたの望みなら」

  にこにこ笑って、ルビアスが立ち上がる。ああもう、今すぐ金的したい。こいつふざけやがって。知らなかった。立場が上限の奴って、こんな風に

  相手を落とす事もできるんだ。

  「ありがとう。ヴィル。私の手を握って、受け取ってくれて」

  「ルビアス様。こんな……事言うと、罰当たりというか。なんですけれど。酷い人です。ルビアス様は」

  「では、無事に私の剣の主にもなってくれたのだから。いつもの様に私を呼んでくれると嬉しいのだが」

  こいつ。それが狙いかよ。そんな事のためだけに剣の主にまで俺をしたっていうのか。職権乱用だ。いやちょっと違う。いや聖騎士の立場を利用

  しているって意味では間違ってはいないのか。

  「おっさん。あんた、本当に……良い性格してるよな」

  「そんな事はないよ。ヴィル。君が、優しいから。本当に君が嫌だったら、私のこんな言葉も、こんな馬鹿な行動も、本当には意味を成さない」

  「……」

  それがわかってしまうのが、悔しい。俺は今、結局は自分の意志でルビアスの求愛を受けたんだ。今だって、反故にできる。恋愛なんて互いの同意が

  なければならないし、ましてや俺は剣の主にもなった。主命なら、もっと簡単にルビアスは言う事を聞いてくれるだろう。

  「でも、俺……やっぱりその、よくわからないよ。ルビアス。好きって、なんなのか」

  「ああ。だから、少しずつ。少しずつ……私の事を好きになっておくれ。ヴィル」

  ルビアスは少し屈むと、俺を抱き締めてくれる。その身体が、小さく震えている事に気づいてしまった。きっと不安定な俺をずっと見ていたから

  というのもあるのだろう。それともルビアスも、聖騎士とまでなったこの男でも、不安を覚えるのだろうか。俺みたいなちっぽけな存在を愛して、

  その愛が受け取ってもらえるか、なんて事に。

  「大丈夫だよ、ルビアス。……どこにも、行かない。復讐なんて、言い出さないさ。子供達を。あんたを……放ってどこかにはいけないって、今はそう

  思ってる。それくらいには……俺の中で、あんたの存在が大きくなってる」

  「そうか。……嬉しいな。君にそんな風に思ってもらえるのは。それだけで、幸せだ」

  ひたむきに過ぎる愛情に、曝される。なんだか、変な気分だ。ずっとこんな、家族とは別の愛情を受けるなんて事がなかったし、それを考えも

  しなかったのに。降ってわいた驟雨の様に、俺に降り注がれるその気持ちが。

  嫌だと思えたら良かったのに。嫌じゃなくて。……嬉しくて。

  「愛している。ヴィル」

  そう囁いて、俺を抱き締めるルビアスの大きすぎる身体を、俺もまたおずおずと回した腕で、抱き締めた。

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