殺戮獣の願い事 プロローグ

  ―――騎士暦751年、クレイン王国

  彼の運命が決まったのは、星が瞬く美しい夜のことだった。

  その日、夜空を見上げる者は一人もいなかった。それは夜が更け、皆眠りについたからではない。

  闇が世界を支配する真夜中でありながら、クレイン王国の王城には明かりが灯っている。それも一つ二つではなく、王城のいたる所に松明や魔術灯が掲げられている。空から見れば、闇夜に浮かぶ満月のように煌々と輝く王城が見えるだろう。

  王城内は慌ただしく行き交う影で溢れていた。そのうちの一つが、息を切らして廊下を駆け抜ける。松明の炎が揺らめいた。

  「ご報告いたします。中央王国軍第二、第三師団敗走!ガドル帝国軍は依然健在。現在も王都に向けて進行中とのこと!」

  謁見の間に飛び込んできた兵士は喘ぎながらも、叫ぶように自軍の敗北を知らせた。

  「帝国軍の位置は!」

  玉座の手前で、王国の地図を広げたテーブルを囲っていた臣下の一人が唾を飛ばす。

  「本隊はすでにバラン村を制圧、占拠しているとのことです」

  地図を見るまでもなく、臣下たちは苦悶の声を上げた。帝国軍は猛烈な勢いで王国領を進軍している。帝国軍が王都に到達するのも時間の問題だ。

  「イグナスは何をしている」

  威厳に満ちた声が謁見の間に重く響く。その声の主こそ、クレイン王国国王、タイラント・レレクス・クレインだ。

  玉座に腰を下ろしたタイラントは、顔に走る虎柄模様を[[rb:厳 > いかめ]]しく歪め、鋭い眼光で兵士を睨みつけた。

  「イ、イグナス様率いる第一師団は、帝国軍の支隊に阻まれ、帝国軍本隊から離されているとのことです」

  「愚弟め、まんまと罠に嵌められたか」

  タイラントは忌々しげに吐き捨てた。

  イグナス・クレイン――国王タイラントの実弟であり、世界でも五本の指に入ると言われる大剣士である。王国はイグナスならばこの窮地から救ってくれると大きな希望を寄せたが、それは呆気なく裏切られた。

  「――陛下、愚臣の提言をお許し下さい」

  タイラントは臣下が自分を見詰めるその目に、並々ならぬ覚悟を宿していることに気づいた。

  「許す」

  「有難う御座います、我が王よ。恐れながら、我々が愚申できる策は、もうございません。悪逆非道の帝国軍が王都を蹂躙し、その玉座を血で穢すのも、もはや時間の問題でございます。全ては陛下の信を裏切った、愚かな臣下の責。我々はここに残り、この命をもって、その愚かさの代償を支払うことといたします。しかし、陛下におかれましては、生き延びることこそがこの国にとって最善の道。お辛い道だとは存じますが、どうかここは、ご英断を」

  臣下が澱みなく全て言い切れたのは、こうなることを覚悟していたからだろう。

  タイラントは静かに目を瞑る。彼には迷いがあった。人道を取るか、国を取るか。そしてこの提言が、タイラントの迷いを晴らした。

  「まだ、一つだけ策がある」

  臣下たちが息を飲んだ。

  「陛下、策とはいったい?」

  「――彼を、戦場に出す」

  

  臣下たちは一瞬、首を傾げたが、すぐにその人物の顔が頭に浮かんだ。たちまち愕然とした表情を浮かべ、泡を食って抗議した。

  「なりません!彼はまだ……それにイグナス様も決してお許しにはなりません。何より、それは人道に[[rb:悖 > もと]]る行いです。我々は断固として反対いたします!」

  タイラントは臣下たちの[[rb:諌言 > かんげん]]を無視して、玉座を立った。臣下たちを尻目に、謁見の間の扉に手をかける。

  「陛下、どこへ行かれるのです」

  「彼の元へ。例え後世に悪逆非道の王と罵られようとも、私はこの国を護る」

  閉まる扉の隙間から、去りゆくタイラントの背中が見えた。大きな音をたてて扉が閉まる。

  タイラントの後を追う者は一人もいなかった。

  ―――

  「ルミナス」

  魔術師が詠唱すると、暗闇の中に光の球が現れた。闇から浮かび上がってきたのは、平凡な庶民の家の内装だ。かまどの横には薪がちょこんと積まれ、石壁は年季が入りくすんだ色をしている。

  だが家の中央にある食卓は庶民のものにしては立派だった。木を縦に割ったものを加工したそれは、大地に根付いていた頃の雄大さを失ってはいない。この家の住人が大切に扱っている証だ。

  しかし、今この食卓を囲むのはこの家の主たちではなかった。屈強かつ眼光鋭い十人の男たちが、我が物顔で囲んでいる。

  「全将軍、揃っております。ボガート総大将」

  犬の副官は、そういって上座に座る男に叩頭した。

  巌の如き男だった。常人の倍はあろう肩幅に、鎧越しでも分かる鋼鉄の胸板、巨木の如き腕が彼の屈強さを物語る。そして天を穿つように伸びる猪の牙が、彼の威容を圧倒的なものにしていた。

  「始めよ」

  「は!ハインツ将軍、報告を」

  犬の副官が促すと、サイの将軍は机の上に広げられたクレイン王国の地図に、獅子を模した駒を置いた。地図の中心にある円からは遠い地点だ。

  「先日の軍議にて報告いたしました到達地点がこちらです。そして、本日までに我が軍が到達したのが――」

  サイの節くれだった指が駒を摘む。地図をするすると滑る駒は、円の近くで止まった。

  「こちらです。王都到達まで、あと四、五日といった所でしょう」

  周りから、おぉ、と野太い歓声が上がった。

  「もはや王都はすぐそこだな。タイラントの怯えた顔が目に浮かぶ!」

  「最大の障壁であったイグナスも、我々の策に[[rb:嵌 > はま]]った。我が軍の進撃を止められる者は、今の王国にはいない!」

  彼らは想定以上の大躍進に興奮を抑えきれなかった。これなら帝国に凱旋した際の褒賞はかなりのものになる。彼らは戦争が終わってないにも関わらず、愉悦に浸った。

  しかし、将軍たちが妄想に熱を上げる中、ボガートだけは平静だった。

  「何かご懸念がございますか?ボガート総大将」

  「いや、あのイグナスを排した今、我々の道を阻むものはいない。しかし、タイラントの首を取るまで油断はすべきではない。この豊かな大地と、王国の国民どもを帝国のものにするのが、総大将たる俺の務めだ。全身全霊をかけて、王国の息の根を止める。……ただ、な」

  ボガートは扉に目をやった。その先からは兵士たちの淫らな嗤い声が微かに聞こえた。

  「申し訳ございません。今すぐ処罰しましょう」

  「いや、兵士たちにも娯楽は必要だ」

  そういってボガートは立ち上がる。

  「お前も立て」

  ボガートが手に持っていた鎖を引く。その先には、四つん這いになった全裸の熊人がいた。先程まで巨体に座られていた熊は逞しい筋肉を震わせながら、苦しそうに言葉を紡ぐ。

  「もう……止めて、くれ」

  ボガートは微かに眉をひそめる。そして、壁に立てかけてあった巨大な戦斧に手をかけた。

  「口答えする肉便器の首は、たたき落とすことにしていてな。奴隷よ、次は無いぞ」

  戦斧の刃が鋭く光る。皇帝から直々に賜ったその戦斧は、あまりの重厚さゆえに、ボガート以外誰も扱えない。しかしボガートが振るえば、一振で百人を屠(ほふ)る殺戮兵器へと変貌する。ボガートにとって、たった一人の首を落とすなど、木の枝を手折るようなものだ。

  熊は震える膝を叱咤して立ち上がる。羞恥と屈辱に涙を浮かべながらも、噛み締めた牙は折れていない。

  「それでこそ、蹂躙しがいがあると言うものだ」

  ボガートは口角を上げると、熊を引き連れ扉の外へ出た。

  本来であればそこは村人たちが言葉を交わし、賑わう広場が広がっているはずだった。しかし、つい昨日まで村人たちが笑顔を浮かべていた場所が、今や――

  「ケツ!ケツが切れるっ」

  「心配すんな。すぐガバマンにしてやるからよっ」

  「あ、あぁんっ、イッちゃう!ちんぽズボズボされるの気持ちイイっ!」

  「お前、肉便器の才能あるな。俺の奴隷になれよ!」

  月夜の下、大勢の帝国兵たちが村人たちを犯す乱交の場と化していた。

  「そんな……こんなことって」

  この村で育ってきた熊には、この変わりようは耐え難かった。目尻に溜まった涙が頬を流れる。

  「ボガート総大将!」

  現れたボガートの姿を認めると、兵士たちは慌てて淫行を止めようとした。

  「よい、俺のことは気にするな」

  ボガートが一言告げると、兵士たちは再び下卑た笑みを浮かべ、再び腰を振り出した。粘着質な衝撃音が広場に響く。ボガートは兵士の一人へと歩み寄り、ぱしん、とその尻を叩いた。

  「ずいぶんと激しく腰を振るな。相当具合の良い穴と見た」

  「は、はい!コイツの中、とろとろで絡みついてくるっすよ!」

  ハイエナの兵士は尻を包み込むボガートの巨大な手にドギマギしながら答えた。ハイエナが犯していたのは、しなやかな体つきの黒豹獣人だ。汗と精液にまみれた黒豹は地面に四つん這いになりながら、ハイエナの凌辱に喘いでいる。

  「あ、総大将も使います……?」

  ハイエナはべっとりと淫液を纏った肉棒を抜こうとする。そのゆっくりとした挙動には、良い肉便器を惜しむ思いがありありと見えた。

  「すまない、勘違いさせたな。お前たちの愉しみを奪うつもりは無い。それに、今夜俺の巨砲をぶち込む相手はもう決まっている」

  ボガートはハイエナの尻を揉んだ。

  「ほら、腰が止まっているぞ」

  「は、はい!」

  ハイエナが肉欲をぶつけるように猛烈に腰を振る。その間もボガートは尻を揉むのを止めなかった。ボガートの手技は極上で、ハイエナはまるで肉棒を撫でられたように「はぁぁ」と熱い吐息を吐いた。

  「イ、イきそう!」

  「あぁイけ!この性奴隷の[[rb:孕 > はら]]の奥まで、お前の種で満たしてやれ!」

  「はぁはぁ、イ、イクっ!」

  ハイエナは奥まで肉棒を打ち付けると、そのまま黒豹の中に射精した。恍惚な表情を浮かべながら、ハイエナは射精の快楽を味わった。

  「良い交尾だ。お前の性奴隷も良い顔になった」

  赤らめた顔で舌をだらしなくぶら下げた黒豹を見て、ボガートはほくそ笑んだ。

  「そ、そんなことないっスよ」

  「ほら、分かるだろ。お前の交尾を見て、俺の巨砲はこんなに滾ってしまった」

  ボガートはハイエナの手を自分の股間に導いた。服越しでも火傷しそうなほど熱く、腕でも生えているのかと思うほど大きな肉棒に、ハイエナは下腹部を疼かせた。

  「さぁ、帝国の屈強な兵士たちよ。俺の声を聞け!」

  ボガートの野太い声が響き渡る。兵士たちは肉棒を挿入したまま、ボガートの声に耳を傾けた。性の熱狂を孕んだ静寂に、ボガートは更なる熱狂を追加する。

  「我々はとうとう、王都の目前まで到達した。王都を落とし、国王さえ討ち取れば、王国にある全てのものは、我々のものだ。飯も、金も、人すらも!腹が破裂するほど飯を食らい、抱えきれない財宝を手に入れ、気に入った雄を己の性奴隷とし、その身が孕むまで犯し尽くしてやろうではないか!」

  「うおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

  ボガートの激は兵士たちの心に火をつけた。大地を震わすほどの雄叫びが広場に響き渡る。

  「我々が全てを手にするまであと少しだ。しかし、追い詰められた獲物は、時に魔族よりも恐ろしい。諸君らには勝利のその時まで、油断することなく全力で戦い抜くことを期待する」

  「は!」

  先程までの性に惚けた心を排し、兵士たちは一斉に敬礼した。兵士たちの瞳には揺るぎない勝者の姿が映っていた。

  「それで良い。では、愉しみを続けたまえ。……あぁ、そうだ」

  ボガートは鎖を引っ張って熊を引き寄せると、兵士たちの肉林へ蹴り飛ばした。

  「俺の性奴隷だ。よく犯して、穴を慣らしておいてくれ」

  「総大将、初モノじゃなくていいんですかい?」

  「あぁ、処女を俺の巨砲で貫いてはすぐ壊れてしまう。ガバマンくらいが丁度いい。頼んだぞ」

  肉棒を固くした兵士たちが、絶望し放心した熊へ這い寄った。慣らしもなく肉棒をぶち込まれた熊の悲鳴を聞いて、ボガートは股間を疼かせた。

  帝国兵の誰もが、名将と称されるボガートすら、欲に溺れていた。

  だから、気付かない。

  家を照らしていた魔術の光が消えている。

  それが意味するのは、果たして一体――

  ―――

  「えへへぇ、気持ち良かったなぁ〜」

  村の外縁に沿って並べられたかがり火が、帝国軍の鎧を身にまとったハイエナの緩んだ横顔を照らした。

  「だらしない顔だ。今が見回りの最中だってこと、忘れてないだろうな?」

  松明を持って隣を歩いていた鹿人は、不機嫌そうに角を振った。

  「うっせぇなぁ。お前だって、さっきまでパンパンやってたじゃねぇか」

  「普段使ってるのと具合が違ったから、試してただけだ」

  「ふーん。で、感想は?」

  「俺はスリットの方がいい。メスを犯してるみたいで興奮する」

  「お前の方が変態じゃねぇか。あーあ、こんな話してたらまたムラムラしてきた」

  二人は前方から近づく松明の火に気づいて会話を止めた。互いに無言のまま、巡回中の兵士たちとすれ違う。それなりに歩き、松明の火が見えなくなると、ハイエナはため息をついた。

  「はぁ。これで四度目だぜ、見回りの兵士とすれ違うのは。俺たちが巡回に出たのはついさっきだってのに」

  「ここは敵地の奥深くだぞ。警戒するのは当然だ」

  「ま、うちの大将はそういうタイプだよな。オレさっき、屋根の上にまで見張りの兵士がいるのを見たぜ。あの人、図体に似合わず慎重過ぎなんだよ」

  ハイエナは退屈そうに述べた。

  「だからこそ、皇帝に重宝されてるんじゃないのか」

  「そりゃそうかもしれないけどよぉ。見回りなんて無駄なことするくらいなら、セックスしてたかったぜ」

  「お前って奴は……。見回りは無駄じゃない。今だって、王国軍が隙を伺ってるかもしれない。こうして見回りをすることで、奇襲を未然に防いでいるかもしれないじゃないか」

  「マジメだねぇ。ここは帝国軍の本隊だぜ?屈強な兵士が何千人といて、更には帝国最強と名高いボガート将軍がいる。貧弱な王国軍が何をしようと、呆気なく返り討ちだ」

  楽観的にもの言いのハイエナに、生真面目な鹿は口を曲げた。

  「だが、必ずしも軍隊で攻めてくるとは限らないだろ。例えば、少数精鋭で将軍を暗殺したりとか」

  「ぶははははっ!お前、面白いこと言うな!」

  ハイエナは腹を抱えて笑った。

  「何千人といる兵士の目を掻い潜って、将軍の首を取る?そんなの、並の軍相手でも無理だぜ。しかも俺たちは百戦錬磨のガドル帝国軍。無謀の極みってやつだぜ。ま、百歩譲って騎士ならできるかもしれないが、王国にそんなこと出来るやつはいねぇよ」

  こてんぱんに論破された鹿は、悔しげに歯噛みした。その表情を見てニヤリと笑っていたハイエナだが、不意にあることに気がつき、深刻な顔つきで立ち止まった。

  「……おい、この辺暗くねぇか?」

  鹿も立ち止まり、周りを見渡した。手元の松明のお陰で互いの周囲は見えるが、二人が辿っていた村を囲う柵は暗闇に消えていた。

  「月が隠れたんじゃないのか?」

  「いや、俺たちが見回りに出た時にはすでに雲に隠れてた」

  鹿が松明で暗闇を照らす。すると、地面に散乱したかがり火の残骸を見つけた。

  「かがり火が消されてる……」

  鹿の怯えた声を聞いて、ハイエナの背中に悪寒が走った。

  「もしかして、敵が……」

  

  その先を口にする度胸は、ハイエナには無かった。震える手で、腰に差した剣の柄を掴んだ。

  「おい、急いで上官にほう――」

  鋭い風に毛並みが揺れた。次の瞬間、焦りの滲む鹿の声が途切れ、同時に松明の火が消えた。

  「お、おい!」

  突如暗闇に包まれたハイエナは、条件反射的に剣を抜いた。上擦った声で鹿に呼びかけるが、返事は無い。代わりに、どさりと重たいものが倒れる音がした。

  「クソっ!」

  ハイエナは剣を握りしめ、来た道を死に物狂いで走った。

  「ィっ……」

  しかし、再び冷たい風がハイエナの毛並みを撫でた。ハイエナは頸動脈から血を吹き出し、小さな悲鳴の残して地面に倒れ伏した。

  「ぅ、ぁぁ……」

  風は――彼は、ハイエナが絶命したのを見届けると、強靭な脚力で地面を蹴り、家の屋根に音もなく飛び乗った。周りを見渡すと、村に灯った明かりはほとんど無い。闇に覆われた村の中で、総大将のいる広場だけが明るかった。

  彼は再び脚に力を込めて屋根を駆ける。その勢いのまま、屋根から屋根へ飛び移った。その姿は放たれた矢のように鋭い。屋根の上に横たわる帝国兵たちの亡骸を尻目に、彼は広場に隣接する家の屋根に飛び乗った。帝国兵たちに見つからないよう用心しながら、広場の様子をうかがう。

  仕込みは十分。獲物の周囲にある光源は、広場の中心にある焚き火だけ。あれを消せば、彼がこの狩場の支配者となる。

  クレイン王国の存亡をかけた大一番。数刻後には全ての王国民の命運が決まる重大局面でありながら、彼には僅かな気負いも無かった。

  ――今だ。

  直感するやいなや、彼は広場へ飛び出した。地面に降り立つと、突風のように素早く駆け抜け、焚き火目がけて剣を振るう。研ぎ澄まされた剣閃は焚き火の火を吹き消した。

  「あれ、火が消えたぞ」

  広場は突然暗幕に覆われたように、闇に包まれた。刹那の出来事に誰も事態を認識できず、突然消えた火に首を傾げる。

  「っ、敵襲!敵襲だ!」

  状況を理解できたのはボガートただ一人だった。咄嗟に声を張り上げたが、惚けていた兵士たちの反応は鈍かった。

  「がァァァァァっ!」

  そんな彼らの耳に、今この瞬間に殺された同胞の叫びが届く。誰が死んだのかは分からない。しかし、先ほどまで自分たちと共にいた仲間が、たった今殺された。もしほんの少し状況が違えば、例えば自分が立っている場所や敵の気分によっては、自分が死んでいたかもしれない。その可能性に気づいた時、快楽に満ちた天国から一転、帝国兵たちは死神の鎌が首にかかった死地へと転がり落ちた。

  「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

  

  戦況は混乱を極めた。恐怖に呑まれた兵士たちは、各々の本能のままに行動する。逃走、または応戦である。

  しかし、広場から背を向けた瞬間、首が飛んだ。剣を抜こうと手を伸ばせば、心臓を刺し貫かれた。何をしようと殺される極限状態は、兵士たちを同士討ちさせる寸前まで追い込んだ。

  「全員、ボガート総大将を守れっ!」

  しかし最悪の一歩手前で、犬の副官の声が声を張り上げる。混沌とした戦場に下された命令は、兵士たちを導く唯一の光となった。兵士たちは見えない敵に怯えながらも、声の元へひた走る。

  やがてボガートを中心とした円陣を組み終えた。しかし、その時には兵士の数は奇襲前の半分近くに減っていた。

  「魔術師、灯りをつけろ」

  ボガートが命令を下すが、それに答える者は誰もいない。

  「先程から姿が見えませんでした。魔術師隊の元に戻ったのだと思っていましたが、おそらく……」

  「殺されていたか」

  副官が歯噛みしながら報告する。

  その時、再び悲鳴が上がった。それも、複数の悲鳴が。

  「どうした!」

  「敵がまた襲って来ました。三人、やられました!」

  円陣がどよめく。死角も無く守りに長けた円陣を、敵は単騎で切り崩しにかかったのだ。

  「敵は一人だ!襲って来たところを捕らえろ!」

  ボガートは激を飛ばすが、悲鳴は止まらない。雪玉が溶けるように、徐々に円陣が削られていく。

  「この暗闇では敵を捉えられません!ボガート総大将、指示を!」

  月明かりも魔術の灯火もない暗闇では、円陣の外縁すら見えない。ボガートにかろうじて見えるのは、副官の半泣きの顔だけだ。

  ではなぜ、敵はこの暗闇で縦横無尽に戦えるのか。

  きっとここに起死回生の一手がある。ボガートは唇を噛み締め熟考する。血が舌の上を滑っても、何も感じないほどの熟考。ボガートは一言も発さない。兵士たちが絶命の悲鳴を発する度、その大きな耳を震わせた。

  しかし、数々の戦に勝利し、帝国軍の総大将に任ぜられたボガートをしても妙案は思いつかなかった。

  兵士たちの悲鳴が近づいている。敵の刃がボガートに届くのも時間の問題だ。恐怖のあまり取り乱した副官は、兵士たちに滅茶苦茶な命令を飛ばしている。

  ボガートは戦斧を握りしめ、空を仰いだ。

  「時間を稼げ」

  「……は?」

  副官は絶望に歪んだ目をボガートに向けた。

  「時間を稼げ。俺が殺す」

  「殺すって、どうやって。それに、私たちはどうなるのですっ!」

  「説明はできない。お前たちは――死ぬ」

  ボガートの無情な答えに、副官は顔を歪め、下を向く。家族、友人、恋人。今生の全ての未練を抱えて、副官は牙をむき出しに叫んだ。

  「全員!命を賭して時間を稼げ!我々の無念は、必ずボガート総大将が晴らしてくださる。臆するな!命を捨てろ!」

  「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

  獣たちの咆哮が地面を揺らす。副官の激によって、恐怖は捨て身の覚悟に変貌した。一人、また一人と命を落としていく。しかし帝国兵は揺るがない。二十人が十人へ、十人が五人へ。

  そして、五人が二人へ。

  「がァァァァァァァァァ!」

  副官が決死の覚悟で吼える。僅かな輝きを頼りに、首を狙った斬撃を弾いた。しかし、二撃目に繰り出された突きが、副官の心の臓を貫いた。

  「かはっ!」

  副官が吐いた血が、ボガートにかかる。その血の熱さに、ボガートは瞑目した。

  「献身に感謝を」

  「ご武運を……」

  立っているのはボガートただ一人。猪の大男はその剛腕で栄えある大戦斧を構え、目を瞑る。

  先程までの混沌とした戦場から一変、今は静寂が戦場を支配していた。ボガートは耳を澄ます。遠くに聞こえる足音を捉えた。

  「ふぅぅぅぅぅ」

  息を吐き、気を練る。全身全霊の一撃を放つための、万全の構え。

  そして、ボガートの目の前で、彼は地面を蹴った。決着の一撃を放つために。

  「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

  ボガートは目を見開き、大戦斧を振るう。視線の先には、雲から出てきた月に照らされた彼の姿があった。全て兵士たちの捨て身の時間稼ぎのお陰である。ボガートの全霊の一撃は、無慈悲に彼を両断する――はずだった。

  「こ」

  彼の姿でまず目を引くのは、目元を覆う銀仮面。月光を冷たく反射する仮面は、しかし、もう一つの特徴の前には瑣末なことだった。

  剣を握る小さな拳に、まだ短いマズル、ボガートの腰ほどの背丈。彼はまだ――十二歳の子供だったのだ。

  僅かに狂った戦斧の軌道。彼はその狂いを見逃さず戦斧を躱し、決着の一刀を振るう。

  「追い詰められた敵が……最も恐ろしい。だが、まさか……こんな子供に……殺させるとは……」

  ボガートはひゅうひゅうとままならない呼吸で、苦しげな声を出す。血を吐き出し、口の周りを赤く染めながら、目の前の幼い鏖殺者を見つめる。

  「なぜ……戦う」

  残り少ない命を賭して、最期の問いを発する。

  少年はボガートに背を向け、子供が振るうには大き過ぎる剣を鞘に納めた。しゅるしゅると剣が鞘を滑る音が、闇を切り裂くように冷たく響く。

  「敵と語る口は持ち合わせていない。苦しみと恐怖に苛まれながら――死ね」

  

  これが[[rb:後々 > のちのち]]、周辺各国から『殺戮獣』と恐れられることになる■■■■・■■■■の初陣である。