亡くなった恋人の双子の弟と葬儀場でお葬式エッチするお話【ケモホモ】

  1-1 仲閒 宏明

  斎場の空気は、どこか冷たく感じた。

  嗅ぎ慣れた線香の香りに混じった、芳香剤の匂い。沢山の花束に囲まれて、どこか不自然な位に柔らかな香りに導かれる。そんなしんと静まりかえった空気の感触が、昔から俺は嫌いだった。

  随分と前から、俺は自分の現実性を手放してしまっていたのだろう。

  これまでの出来事も、これからの出来事も、どこか他人事だ。そうやって冷静さと冷徹さを保っている一方で、焼け付くような感情のうねりが渦巻いているのを感じる。心と体が分離してしまったと例えるのなら、今の俺は、まるで生きているのかも死んでいるのかも分からない、そんな空っぽの人形になってしまったようだ。絶望も悲観もしない平静さの中で、前を向いて歩いて行こうと思う気力が見つからない。

  昔から、この匂いが嫌いだった。

  病室の匂いも、斎場の香りも、清潔さと光源で溢れているのに、どこか死の香りを隠せていない。毎日のように通ったあのホスピス病棟で、いつからか俺はそんな死の香りに慣れ始めてしまっていた。

  だからこうして迎えた通夜の瞬間も、違和感なく受け入れ始めてしまっている自分がいるのだろう。

  あの人が少しずつ死に近づいていくのを見送っていたのと同時に、俺も少しずつ自分の命を手放していたんだと悟った。

  誰もいない斎場で、あの人の遺影が飾られている。

  真田正宗。

  優しく微笑むあの黒い獅子は、あの頃と何も変わっていなかった。

  寡黙だったあの人は、照れくさそうに笑って、どこか不器用で、それでも俺をどこまでも甘えさせてくれた。そんな微笑みをこうして写真で見ると、本当にあの人は亡くなったんだという実感が今更になって押し寄せた。

  病室のベットで、日に日にやつれてやせこけていったあの人の姿は、もうどこにもいない。

  投薬の副作用で抜け落ちた鬣を見て、あの人は悲しそうに「すまない」と俺に言った。「こんな姿、お前には見せたくなかった」と。そんなことであの人の心を痛ませてしまった自分のふがいなさだけが、どうしようもない後悔となってこの胸にこびりついている。そんなやるせなさをかき消すように、線香の煙が鼻先をかすめた。

  遺影のガラスに、自分の姿が映り込んでいる。

  皺一つ無い喪服に身を包んだ、橙色をした虎だ。それが何の感情も表に出さず、ただ棺の前で立ち尽くしている。

  明日この夜を迎えれば、この姿も灰となって消えてしまうのだろう。あんなに愛し合ったあの人の身体に、触れることが許される日はもう二度と訪れない。柄にも無く甘えて、はしゃいで、幸せに溺れるようにして俺達はよく抱きしめ合っていた。その指先にかすめる毛並みの感触も、大きな身体の柔らかさも、温もりも、まだこの手の平に残っている。ただそれが名残惜しくて、いつまでも俺はこの場所から離れられずにいた。

  感情に蓋をしてしまったように、心がその動きを止めている。

  きっと、俺にはそうするしかなかったのだろう。

  いつだって思い出すのは、どうしようもない過去の思い出ばかりだった。

  あの人が白血病だと診断されたのは、ちょうど一年前だった。

  何気なく受診した病院で、そう宣告されたと俺に打ち明けたあの人の姿を、今でも憶えている。励ますように俺は笑って声を明るくしながら、壊れそうになった心を両腕で抱きかかえていた。日に日に弱り、思うように話せなくなったあの人の手の平を握りしめながら、それでも俺は笑った。いつものように、馬鹿を言って、笑って、笑って、ただ当たり前のように笑った。頭のどこかでこの人の死を受け入れ始める準備を着々と進めながら、「良くなるから」と、あの人の手を握っていた自分がいる。今思えば、もうあの時すでに俺の心は死んでしまっていたのも同然だった。

  人が人を愛し、結ばれ、そして亡くなっていく。

  きっとこの瞬間は、そんなごく当たり前で、平凡な日常の一コマに過ぎないのだろう。誰もが必ず経験し、誰でも等しく平等にその瞬間が訪れる。ただ、自分はまだその時ではないと思い込んでいただけだった。こんな幸せが、何の疑いもなく続いていく。そう信じてしまっていた。

  そんな自分の浅はかさを、今更呪ったとしてもあの頃にはもう戻れない。

  「・・・大丈夫か?」

  あの人に似た声が、すぐ後ろから聞こえてきた。

  どこか気遣うように、その声色を落としている。俺は静かに振り向くと、目の前にいる黒い獅子を見上げた。

  眼鏡をかけたその瞳の色は、あの人と何も変わらない。

  ただ鋭く尖った眼差しだけが、あの人の優しくて柔らかだった瞳と違っていた。

  「・・・ええ。すみません。心配かけちまって」

  「・・・いいんだ。・・・俺も、落ち着かなくてな。・・・すまん。他に・・・行く場所もなくてな」

  少し困ったように、彼は笑う。

  その雄々しい素振りが、今目の前にいるのは「あの人じゃないんだ」という現実を俺に突きつけた。

  頭の中では、分かっているはずなのに。

  混乱しそうになる自分の理性が、苛立ちを隠せずにいる。

  いくら最愛の人だったとはいえ、ただ似ていると言うだけで目の前の他人に自分の感傷をぶつけていいはずなどなかった。

  「・・・ご家族は?」

  「・・・奥の部屋で、話をしている。もうしばらくしたら、遠方の親類も到着するだろう。・・・予め、兄貴の事は覚悟するように伝えていたからな」

  覚悟するように、か。

  あの人の元へ見舞いに足蹴なく通ったあの日々は、まさにそれを俺に知らしめるためだけにあるようなものだった。

  「・・・そうですか」

  「もう少ししたら、ここも騒がしくなる。向こうの部屋が空いているから、一緒に行こう。・・・昨日から、ずっと寝ていないんだろ?」

  その言葉に、一瞬だけ顔を俯かせてしまった自分がいる。

  昨日あの人が息を引き取った瞬間が、瞼の裏で蘇った。

  「でも、俺は・・・」

  「・・・あんたまで倒れてしまったら、俺も兄貴に顔向けできない。気持ちは分かるが、休める時に休んでくれ。・・・本番は明日だしな」

  説き伏せるようなその静かな声に、俺は黙ったまま頷いた。

  振り返った背中が、名残惜しさを消せずにいる。

  遺影の中のあの人は、今目の前にいる双子の黒い獅子と瓜二つだった。ただ仄かに薫る、コロンの匂いに混じったほろ苦い煙草の香りが、あの人とは違う。頭の中で混乱しそうになる現実を必死になって整理しながら、俺は目の前の大きな背中の後を追った。

  互いに、黒い喪服に包まれた大きな身体だ。

  感情の色さえ亡くしたその陰りに、自分はなぜか救われたような気さえした。

  非常灯がついた廊下を進み、奥の待合室へと脚を踏み入れる。

  寝泊まりができるように整理された和室の中で、確かに俺達は二人きりだった。

  「・・・少し眠るか?」

  「・・・いえ。まだ、目が覚めてしまってよ。・・・もう少し、起きています」

  「・・・そうか」

  畳の上へと座りながら、彼は俺に声をかける。

  台所に用意されていたポットに近づくと、俺は急須を手にお茶を入れた。

  淡い湯気を上げるお湯の感触が、俺の指先を濡らしていく。

  こうして何かをしていなければ、散り散りになってしまいそうな理性のかけらを必死になってつなぎ止めていた。

  「・・・辛いか?」

  静かな声が、和室の中に響き渡る。

  背中越しに聞こえたその問いに、一瞬だけ手を止めてしまった自分がいた。

  急須の先から、澄んだ緑茶が染み渡るように注がれていく。

  その柔らかな水面を見つめながら、心はあの頃の自分たちに想いを馳せていた。

  「・・・駄目っすよね。あんなに覚悟決めてたのに・・・」

  「仕方ないだろう。あんたと兄貴は・・・俺から見ても羨ましい位だった。そう簡単に整理できるはずもない」

  その声に、俺は目を見開いた。

  胸の奥に、ゆっくりと締め付ける何かを感じる。

  「それって・・・」

  「・・・可笑しいよな。今になって、後悔ばかりがせめぎ寄せる。最初から、あんたには打ち明けるべきだった。・・・本当は、あんたのことが好きだったってな」

  自分で自分を笑うような、そんな諦めたような声だった。

  言葉を遮るように、彼は胸元から煙草を取り出す。

  ライターの火に燻られたその煙が、深く彼の口元から吐き出されたのはその時だった。

  「好きだった、って・・・」

  「・・・そのままだ。あんなに愛し愛され、心と体を繋ぎ止めた。・・・そんな経験、俺にはなかったからな。だからこそあんた達には、幸せになって欲しかった。・・・応援したいと思った。詰まるところ、俺にはそれしかできなかったからな。・・・あんたの笑った顔が隣で見られるのなら、俺はそれで良かった」

  煙草の煙を吐き出しながら、彼はどこか遠くを見つめている。

  俺が愛したあの人と何も変わらないその横顔に、心が揺れ動いてしまっているのを感じた。

  眼鏡越しに見える彼の瞳が、切なげに震えている。

  そんな自分の弱さを切り崩したようなその眼差しに、心が痛んだ。

  「・・・すまない。こんな話、今するべきではなかったな。あんただって、今それどころじゃないだろうに」

  「いや・・・けど忠伸さん、俺は――」

  その言葉を言い切らないうちに、大きな身体が俺を包み込む。

  その雄々しい感触は、確かに俺が愛したあの獅子と同じものだった。

  微かに薫る煙草の香りに、目眩がする。

  もう二度と触れられないと諦めていたあの人の身体に、今確かに触れているような感覚だった。

  「・・・すまない。少しだけでいい。・・・このままで、いさせてくれ」

  怯えたような、震えた声だった。

  それが、俺の鼓膜を響かせる。

  抱き返したくて伸ばし始めた俺の腕が、情けなく何も無い空間を仰いでいた。

  「・・・許してくれ。こんなこと・・・許されないのは分かっている。いくら双子の弟でも・・・でも、俺は――」

  荒く、切なげに震えたその声は、一体何に耐えようとしていたのだろう。

  初めて見るこの人の弱さに、さっきまで取り留めていたはずの平静さが切り崩れていくのを感じた。

  見上げれば、あの人と変わらない瞳が揺れている。

  切なげに濡れるその眼差しは、あの人と一緒だった。俺に甘える時は、柄にも無く寂しげなその眼差しをほころばせた。切なげに、寂しげに、ただ俺への愛おしさを震わせる。そんな黒い獅子の姿が、今目の前でその瞳を濡らしていた。

  心が、孤独を軋ませる。

  俺は震えた腕を伸ばすと、彼の背中に無我夢中になって抱き返した。

  2-1 仲閒 宏明

  「・・・落ち着いたか?」

  静かなその声に、俺は現実へと返った。

  自分の呼吸が、荒れているのを感じる。

  濡れた彼の胸板を見て、自分が泣いていたのだと悟った。

  戸惑う俺を見て、目の前の黒い獅子は呆れたように笑う。

  大きな手の平が、俺の頭を優しく撫でていった。

  「すみません、忠伸さん・・・俺――」

  「・・・いいんだ。あんたがそうなってしまうのは、無理もない。俺だって、棺桶の中の兄貴の顔を見るのが・・・耐えられなかった。まるで、自分の姿見たいでさ」

  慰めるように、彼は微笑む。

  その優しさに触れ、泣き出しそうになった俺をそっと守るように、彼は俺の身体を静かに抱きしめた。

  甘いコロンの香りに、ほろ苦い煙草の匂いが鼻先を燻る。

  今はただ、この人を「双子の弟だ」と思いたくないと願ってしまっている自分が、弱々しいまでに震えていた。

  「・・・さっきは、俺も悪かった。あんたに見せちゃいけないものを・・・見せてしまった。・・・許してくれ」

  抱きしめる力が、強くなる。

  吐き出した彼の吐息が、俺の首筋を静かに濡らした。

  染み渡る温もりが、柔な心をいたぶる。

  あの人と何も変わらないその身体の感触が、俺の理性を狂わせた。

  「俺だって・・・すみません。俺・・・忠伸さんのことを、まだ・・・あの人と重ねてしまってよ。正宗さんじゃねぇって、分かってるのに・・・俺は――」

  「・・・そこまでだ。それ以上は、あんたが傷つくだけだ。確かに俺は、兄貴にはなれないが・・・俺にもできることがあるはずだ。残り僅かだが・・・それが双子の俺にしかできないことなら、俺も救われる。この想いが通じなくても・・・報われたと、そう・・・思うことができるからな」

  その声に、俺は目を見開いた。

  何かが、違う。

  言葉にできないその違和感が、俺はただ怖かった。

  目の前の瞳は、何かを諦めたかのように俺を見つめている。

  何かを、悟ったように。何もかもを受け入れている。

  その眼差しが悲しすぎて、俺は焦りを抑え切れなかった。

  「残り僅かって・・・どういうことだよ、忠伸さん・・・」

  俺の言葉に、目の前の獅子は目を逸らす。

  切なげに皺を寄せたその眉間は、もう本音を隠し切れていなかった。

  胸の奥が、千切れるように痛い。

  上手く息ができない呼吸の切れ間が、そんな自分の余裕のなさをあざ笑っているかのようだった。

  「な、なぁ・・・答えてくれよ、忠伸さん。どうして、そんな――」

  俺は、怖かった。

  どうして彼が、そんな悲しい眼差しをしているのか。それが全く想像できないことが、ただ怖くて仕方がなかった。

  胸の鼓動が、その痛さを増していく。

  彼は目を瞑ると、静かに俺を抱きしめた。

  「・・・俺にも、告知されたんだ。もう・・・長くはない」

  淡々としたその声が、俺の鼓膜を響かせる。

  俺は彼の喪服にしがみつくように、震えた自分の身体を押しつけた。

  「告知された、って・・・」

  「・・・俺も、兄貴と同じだ。骨髄移植の検査で、俺も・・・白血病だと分かった。一卵性双生児であれば、俺は兄貴のドナーになれるはずだったからな。・・・だが俺は、兄貴を救うことも・・・あんたを守ることも、できなかった」

  震えたその声が、俺の肌に伝わっていく。

  罪を告白するようなその声に、俺は言葉を失った。

  抱きしめる彼の力が、強くなる。

  抱き返そうと伸ばした俺の指先が、柔な喪服の裾を掴んだ。

  「・・・死にたくない」

  押し殺した声が、俺の身体の奥に響いていった。

  「俺は・・・あんたを二度も傷つけることになる。それだけはしたくなかった。なのに・・・俺は、俺は――」

  一体、どんな言葉があれば俺達は救われたと言うのだろう。

  祈りの言葉も、願いの言葉も届かない。ただ目の前には、どうしようもない現実と、それを受け入れきれない自分たちの柔な弱さだけが取り残されていた。

  あの人を亡くした今。

  喪に服すべき悲しみが、もう次の悲しみを探し始めている。

  俺はまた、あの人を亡くすのだと悟った。

  「・・・好きだ」

  目の前の黒い獅子は、そう俺に言葉を続けた。

  燃え上がる何かを、その瞳の奥に煌めかせながら。

  悲しみにも似たその欲情が、俺を喰らい尽くすようにその牙を光らせていた。

  「・・・ずっと、お前のことが好きだった。俺が兄貴にはなれないことは・・・十分に分かっている。それでも俺は・・・お前の傍にいたい。・・・兄貴の代わりでもいい。俺は・・・俺はただ、お前のことが――」

  震えたその声が、俺を求めている。

  喪服越しに伝わるその熱は、確かにあの人と同じだった。何度も愛し合ったその温もりに、心が崩れ始めていくのを感じる。

  あの人と何も変わらない瞳が、切なげに揺れている。

  震えたマズルから、微かに煙草の香りがした。そのほろ苦い香りに、心が理性を手放す。

  喪に服すべき悲しみが、もう次の悲しみを探し始めている。

  俺は目を閉じると、彼が絡み合わせてきたその舌先に唇を重ね合わせた。

  3-1 仲間 宏明

  抱き寄せた身体が、ただ熱かった。

  狂った獣のように、俺たちは互いの喪服の上から身体をまさぐり合う。荒れた呼吸のまま唇を交わしながら、俺たちは互いの上着を脱ぎ捨てていった。

  目の前の黒い獅子のマズルが、俺の首筋を舐めあげる。

  ザラついた舌先が、獲物を狙うようにその場所を舐めあげていった。そのまま、俺のズボンのベルトを外し、荒々しく手を中に入れていく。

  忘れかけていた快感が、背筋を駆け抜けた。

  硬くなった俺のモノを、下着の中でゆっくりと忠伸さんは扱いていく。溢れ出た蜜が、いやらしく彼の指先を穢していくが分かった。ただ彼の大きな身体が、俺を包み込んで離さない。確かに死んでしまったあの人と、同じ身体だった。

  忠伸さんが、俺の身体を押し倒す。

  荒れた息のまま彼は人差し指を首元に入れると、一気に黒いネクタイを引き抜いていった。

  そしてそのまま、彼は俺のズボンとパンツを剥ぎ取り、勃起した俺のモノを露わにする。

  雄々しいマズルが、パックリとそれを咥えこんだのはその時だった。

  「ああっ!! た、忠伸さん…っぁ――」

  まるで、獣のようなしゃぶり方だった。

  ザラついた舌先が俺の先端を何度も舐めあげ、そして吸い付いていく。雄々しいその獅子の鬣を上下に振りながら、しゃぶりつくように俺のモノを舐めあげていった。その野生的な攻め方に、身体が震える。

  「あ、駄目だ!! た、忠伸さん…もう、イってしまう!! イってしまうから…離して――」

  それでも目の前の黒い獅子は、俺のモノを離してくれない。

  このままイけと言わんばかりに、激しく俺を攻め続けた。

  指先に力を入れた瞬間、青臭い畳の匂いが鼻を燻る。

  微かに漂う線香の香りの中で、荒々しくも雄々しい唾液の音だけが響き渡っていた。

  「い、イク!! イクっ!! っぁ――」

  身体を弓なりにさせながら、俺は達してしまった。

  その全てを、目の前の獅子は喉仏を上下させながら飲み干していく。最後の一滴まで搾り取るようなその舌遣いに、電撃のような快感が背筋を駆け抜けた。

  雄々しいそのマズルが、ゆっくりと俺のモノを離していく。

  唾液で濡れテラテラと光るそれは、未だに硬さを失っていなかった。

  「ヒロ…」

  あの人と同じ声で、俺の名前を呼ぶ。

  そのかしゃがれた甘い声が、俺の鼓膜を優しく響かせた。

  重ねた唇が、微かに震えている。

  絡め合わせた舌先は、もう元には戻れない何かを悟っていた。

  「はぁ…はぁ…ただのぶ、さん…」

  「ヒロ…ちょっと待っててくれ…」

  彼の手が、自分のベルトを荒々しく剥ぎ取っていく。

  喪服のズボンとパンツを一気にずり下げたそこには、限界まで勃起したそれがヒクヒクと脈動していた。

  剥けきった亀頭に、鈴口から溢れ出た透明な蜜。たわわにずっしりと垂れ下がる、重そうな双球。

  一気に、喉の奥が乾いた。

  「ヒロ…」

  俺の身体に覆い被さりながら、彼は俺の秘部に自分のモノをあてがう。

  ぬめりを帯びた亀頭が、ゆっくりとその場所を押し広げていく感覚がした。

  「いくぞ…」

  かしゃがれたその声が、耳元を震わせる。

  熱い鉄の棒のようなモノが、ゆっくりと俺の中へと入っていった。

  「ああああ!! っぁ!!」

  「ふぅ…ふぅ…っぁ!! っく…大丈夫か? きつく、ないか?」

  息を荒げながら、目の前の獅子はそう尋ねてきた。

  強い圧迫感の中で、確かな熱を感じる。

  ただ生きていると。そう実感することができた。

  目の前で、あの人と同じ色をした瞳が、あの人にはない眼鏡越しに大きく震えている。

  胸が張り裂けそうだった。

  「ヒロ…ヒロ…!!」

  「っぁ!! ぁぁぁっ!! た、ただのぶ…さん!! っぁ!!」

  最初からイクことだけを考えた、荒々しい腰つきだった。

  その暴力的な快感に、頭が真っ白に塗りつぶされる。

  彼の圧倒的な太さと火傷するような温かさが、俺の柔らかな秘部を抉っていく。その場所を締め付ければ、目の前の獅子は苦しそうにその表情を歪ませた。指と指とを絡め合わせて握りしめた手のひらが、離れそうな心を今だけはとこの場所につなぎ止めようとしている。その全てが、ただ愛おしかった。

  その大きな背中に、俺は手を回す。

  確かにあの人と同じ、大きな背中だった。その温もりにしがみつくように、俺は喘ぎながら指先を立てる。

  クリーニングしたシャツの布地が、生々しくその皺を寄せていくのが分かった。

  「ひ、ヒロ…イキそうだ…」

  息も絶え絶えに、目の前の獅子はそう言葉を続けた。

  彼のモノが、一層硬くなる。

  「も、もう…我慢が…がぁあああああ!!! っぁ!!」

  そのまま、荒々しく最奥まで腰を打ち付けた瞬間。

  熱いマグマのようなそれが、俺の中を満たしていった。

  あまりの熱量に、息が出来ない。

  気づけば、俺も達してしまっていた。自分のモノから溢れ出て滴り落ちる白い粘液が、俺の身体を生々しく汚している。

  ドサリと、目の前の身体は崩れ落ちていった。

  まるで、壊れてしまった人形のように。荒れた呼吸の中で、力を入れることができない。

  一瞬の静寂が、心を蝕む。

  ただ呆然と、天井の白い蛍光灯の光だけが、目の前の現実をあざ笑っているかのようだった。

  4-1 仲閒 宏明(2日前)

  まどろむ光が、理性を失わせる。

  曖昧で掴めない輪郭が、記憶の中を彷徨わせる。

  時間軸のない不確かな感触が、瞼の裏で蘇る。俺は今も尚、心が不鮮明なままにあの瞬間を朧気に処理していることを悟った。

  鼻につく消毒薬の匂い。

  真っ白に突き放された蛍光灯の光。

  清潔に保たれたそこは、人が人として生きていく、そんな泥にまみれた生々しささえもかき消していくようだった。

  ホスピス病棟で、通い慣れた光景、聞き慣れた電子音が鳴り響いている。

  反復的に、何度も繰り返し淡々と過ぎ去った日常は、時間の感覚さえも麻痺させていくようだった。

  「“ヒロ”」

  あの人は、俺にそう言葉をかけるように、力なく口元を動かした。

  もう、聞くことができない。話すこともできない。そんな彼の口元が、呼吸器で覆われている。

  か弱く、少しだけの白さをもって曇っていくその呼吸器の輪郭が、彼がまだこの場に留まっていることを証明していた。

  「“すきだ”」

  声のない言葉が、そうその口先を震わせた。

  「“ほんとうに、すきだった”」

  力なく、微かに動いたその唇に、俺は目の前の手の平を握りしめた。

  皮と骨だけになった、やせ細った指先だ。

  それが、何の反応もなく、ただそこに横たわっている。

  抜け殻のように力をなくしたそれは、もう俺の手を握り返すこともなかった。

  「・・・あぁ。俺もだよ。・・・正宗さん」

  静かに、俺は言葉を続けた。

  「・・・俺も、あなたのことが・・・本当に好きだった」

  廊下の向こう側で、多くの人たちがこの部屋の前へと集まっていくのを感じる。

  ふと見上げれば、この人と瓜二つの黒い獅子が、黙ったままその目線を俯かせていた。

  かつてのこの人と同じように。寡黙で雄々しい、その大きな身体を強ばらせている。

  双子の弟だと、そう理性が語る。

  必死になって、そう頭の中で繰り返し、繰り返し自分へ言い聞かせる。

  なのにこの人を目の前にする度に、俺の心はいとも簡単に混乱の渦へと墜ちていった。

  「そろそろ、時間です」

  俺の背後にいた看護婦が、静かに耳元で告げる。

  俺は目をギュッとつぶると、目の前の暗闇に自分の感性を塗りつぶした。

  廊下の向こうで、誰かのすすり泣く声が聞こえる。

  大勢の人たちが、この瞬間を見守っている。まるで、俺だけをこの場所に取り残したように。

  ただ、無情なまでにその時刻を迎えようとしていた。

  「・・・ヒロ。・・・こっちに」

  渋いその声が、俺を呼ぶ。

  眼鏡越しに見えるその瞳の奥には、光が無かった。ただ悲しすぎる程に憂いを帯びたその眼差しが、ただ辛くて俺は静かに目を背けた。

  差し出された手の平を、握りしめる。

  かつてのあの人と、全く同じ。俺がかつて知っていたはずの、大きな手の平だった。それが、固く、固く、確かな温もりと共に俺の手を握り返す。

  俺はこの時、自分の指先が震えていたことに初めて気がついた。

  柔らかな毛並みの感触がする。黒い毛先に覆われた、優しくてしなやかな感触がする。あの人は雄々しいその指先で、いつも俺の顎先をそっと撫でてくれた。この口元を憂うように、愛するように、そっと、その口先を重ね合わせてくれた。

  その優しい瞳を、一心に震わせながら。

  そんなどうしようもないことばかりが、鮮明すぎる記憶となって蘇る。

  ずっと、胸の奥へとそれらを押し込めていたのだと俺は気がついた。

  思い出さないように。決して、振り返らないように。輝かしくて幸せに満ち足りていたあの頃の日々を、あの人との過去を、全て切り離した。

  そうでもしなければ、こうして生きていられるはずがなかったのだ。

  あの人がいない。そんな、独りぼっちの毎日なんて。

  そんなの、死んでしまっているのと何ら変わりなかった。

  「・・・大丈夫だ。・・・俺が、ここにいる」

  ふと、背後から声が聞こえた。

  目を合わせないまま、その黒い獅子は俺の手の平を握りしめる。

  微かに、やっと聞き取れる位の小さな声で、彼は言葉を続けた。

  「・・・あんたのことは、俺が・・・守ってみせる。あんたのことは、決して・・・一人にはさせない」

  呟くようなその声に、俺は一瞬だけ心に隙ができてしまったのを感じる。

  その証拠に、固く閉ざしていたはずの目頭が急に熱くなったのを感じた。

  決して、泣かないと。そう、誓ったはずなのに。

  そんな約束さえ、もう瓦礫のように崩れ去ろうとしていた。

  「・・・それでは、始めさせていただきます」

  白衣を着た医者が、そう言葉を続ける。

  俺達に一礼をした後、ベットに横たわる彼に対して一礼をする。その動作の重みに、迫り来る現実が今目の前に来ているのだと俺に悟らせた。

  廊下の向こう側で、誰かが声を上げてすすり泣く声が聞こえる。

  待つには、あまりにも静かすぎる静寂だった。

  「・・・っ――」

  点滴のチューブへと、注射器が差し込まれる。

  その瞬間があまりにも痛々しすぎて、俺は思わず目を逸らした。

  そんな俺の反応を感じ取ったように、背後にいた獅子の手の平が俺の肩を優しく抱く。

  柔らかな温もりが、ただ辛辣なまでに身体の芯まで染み渡っていくのを感じた。

  「・・・大丈夫か?」

  静かに、彼はそう俺に声をかけた。

  「・・・無理はしなくていい。もし、辛いのなら――」

  そう言葉を続けようとしたその声を遮るように、俺は微かに首を横に振った。

  肩をつかんでいる彼の手の平が、少しその力を増す。

  粉々になった心の破片が、自分の胸の内側へと飛び散るように深く深く突き刺さっていくのを感じた。

  「・・・大丈夫です」

  震えた声で、俺はそう言葉を続けた。

  「・・・最後まで、ちゃんと・・・できます。ちゃんと・・・できますから」

  その言葉に、彼は一体何を想ったのだろう。

  最後に「そうか」とだけ告げると、優しく俺の肩を労るようにその手の平が掴んだ。

  一刻、一刻と、その瞬間が訪れようとしている。

  白く曇っていたはずの呼吸器のカバーが、すっと透明になったのが見えた。

  光のない、放心したままの黒い瞳が、真っ白な蛍光灯で突き放された天井を眺めている。

  抜け殻のようなその身体には、もう、あの人の生命の輝きはどこにも残されていなかった。

  「9時13分、46秒。たった今、真田正宗さんの死亡を確認いたしました」

  白衣を着た彼は、そうここにいる人たちに淡々と告げた。

  針を刺すような静寂が、心を締め付ける。

  静かに彼の口元から、呼吸器が外された。

  「・・・心から、お悔やみ申し上げます。皆様、彼に・・・合掌を」

  緊張の糸が切れたように、沢山の人たちの泣き声があふれ出ていく。

  そんな悲しみの渦の中、俺はたった一人、呆然とその場に立ち尽くしていた。

  これで、終わった。

  なにもかも、終わったのだ。

  もう二度と、あの人が苦しむこともない。痛みに、震えることもない。生きながらえずにをえなかったこの苦痛から、彼は解放されたのだ。それを拒むことなど、決して誰にもできない。

  彼は、救われたのだろうか。

  こんな、苦しみしかない現世から。

  こんな苦痛しかない、こんな毎日から。彼は、救われたのだろうか。

  人が何を想い、何を幸せに生きていくのか、結局の所俺には分からず仕舞いだった。

  結局の所、何が正しい選択肢だったのかなんて。俺には、何も分からなかった。

  「・・・泣かないのか」

  彼は、悲しげにそう俺に問いかけた。

  少しだけ震えたその声を、必死になって抑えるように。

  粉々に壊れてしまった心の破片を寄せ集めても、もう自分があの頃には戻れないということはとうの昔に分かっていた。

  それらしく振る舞う言葉や表情が、理性的に頭の中を駆け巡る。

  だけどそれを塗り固めたとして、どうにもならないことは自分が一番よく分かっていた。

  「・・・ええ。覚悟は、してましたから」

  嘘だ。

  そんなの、できていたはずがない。

  そんなの、できるはずがなかった。

  「・・・そうか」

  静かに、彼は言葉を続けた。

  まるで、あの人と同じように。

  ただ無機質までに感情を抑えたその声色が、柔な俺の弱さを救ってくれた。

  「・・・行こう。遺影にする写真と、葬儀場の準備がある。・・・何かしていた方が、気が紛れるだろう」

  優しく肩を抱きながら、彼はそう俺に告げる。

  遺影に飾る写真は、きっと目の前のこの人の遺体とはまったく違う表情を見せているのだろう。かつての俺が知っていたあの人と同じように、幸せそうに、どこか照れくさそうな笑みを浮かべているのだろう。

  なのになぜか、今のこの人の抜け殻のように、これ以上に安らかな顔を見せた写真など一枚もないのではないかと、そう俺には思えて仕方が無かった。

  5-1 仲閒 宏明

  「・・・大丈夫、か」

  あの人と、同じ声がする。

  薄暗い、藍色の部屋の中で、荒れた呼吸の音がする。

  鮮明になりつつある視界の中で、あの人と全く同じ顔の輪郭をした黒い獅子が、俺の目を見つめていた。

  上気した胸の鼓動が、はだけて乱れた互いの喪服が、さっきまでの現実を思い出させる。

  濡れた滑りのある感触が、内股を伝っていくのを感じた。

  「はぁ・・・はぁ・・・ひ、ヒロ・・・大丈夫、か・・・?」

  荒れたその吐息に、心が乱れる。

  確かに感じる熱に、俺はこの人と身体を重ねたのだという事実を知らしめた。

  固くそそり立つそれが、俺の秘部からゆっくりと抜かれる。

  生々しい快感が、身体の奥を響かせた。

  「っぁ・・・」

  息が、上手くできない。

  抱きしめていたこの人の身体を、その重みを、その温もりを全身で感じる。汗で濡れたその身体は、確かに互いに吐精した体液で汚れていた。その生々しい感触を知らしめるように、大きな水たまりとなってできた白濁のゼリー質が、糸を引いて畳の上へと染みこんでいった。

  何度も、何度も、俺はこの人の身体を抱きしめた。

  悲しみと寂しさに身を任せ、強すぎる快感に狂い果てたように溺れた。何度も、何度も、この人の高ぶりに貫かれる快感であえぎ声を上げながら、何度もはしたなく吐精した。

  まるで、餓えた獣のように。

  互いに貪るように、絡み合ったあの快感が、まだ身体の芯に残っている。

  まだ固さを失わず震えている彼の鈴口が、そんな興奮を未だに物語っていた。

  「・・・すまない。俺は・・・ただ、お前の・・・ことが――」

  目の前の瞳は、強い後悔と罪の意識に塗りつぶされていた。

  薄暗い部屋の中で、微かに反射する瞳の光からそれを感じる。あの人が俺に、あの病室で見せてくれたものと同じだった。その眼差しに、胸の奥に痛みが走る。

  「・・・謝らないでくれ。これは・・・あなたのせいじゃない」

  「だが――」

  言葉を遮る為だけに、俺はこの人の唇を塞いだ。

  戸惑いにも似たこわばりが、舌越しに伝わる。

  壊れてしまった心のどこかで、自分が次の終わりを望んでしまっていることに俺は気づき始めていた。

  「・・・少し、時間が欲しい」

  かすれそうな声が、舌先を乾かせた。

  目の前の瞳が、怯えたように震えている。

  そんな瞳を見る度に、あの人を思い出して辛かった。

  「・・・今は、あの人の喪に服したい。だが・・・あなたの想いにも、ちゃんと俺は応えたい。俺にしか、できないことのはずだ。・・・それであたなが救われるなら、俺は・・・あなたと一緒にいたい」

  彼は俺の言葉を、どう受け取ったのだろう。

  俺は身体を起き上がらせると、傍にあったタオルへと手を伸ばした。濡れた身体を拭上げて、乱れた服を整える。休憩室には浴室も完備されていた。あとはなんとかなるだろう。そう平坦に、ただ淡々と物事を理性的に考えている自分がいた。だから自分が、どれだけ常軌から逸した行動をしていたのか。自分でも、それに気がつかなかった。

  俺は、婚約者が亡くなった通夜の会場で、双子の弟と情交に身を委ねたのだ。

  なんの、感情もなく。ただ、義務的に。

  それが、許される行為であるはずがなかった。なのに何も、感じない。感じることができない。

  ただ自分にできることしか、頭の中にはなかった。

  「・・・待ってくれ。それじゃあ・・・お前は、どうなる?」

  震えた声が、背後から聞こえた。

  その声に、俺は目を背ける。

  ただ喪に服していたはずの心が、深い深い湖の奥底へと沈んでいくのを感じた。

  「どうなるって・・・」

  「俺は、こんなことをしたかった訳じゃない。お前に、こんなことを求めたかった訳じゃない。ただ・・・ただ、俺は・・・」

  彼の声が、悲しみに塗りつぶされていく。

  俺はもう、こんな声を聞きたくはなかった。

  目を向ければ、悲しみばかりだ。目に映るもの全てが、悲しみばかりだ。

  こんなのは、もう沢山だった。

  「・・・俺は、ただ・・・お前の為に、生きたかった。・・・残りの時間を、お前に・・・捧げたかった」

  小さな声が、俺にそう告げた。

  ずっと蓋をしていた感情を、今解き放ったように。

  自分には、ない。そんな刹那的な何かを、確かに感じた。

  「・・・守りたかったんだ」

  彼は、そう言葉を続けた。

  「・・・兄貴の、代わりに。ただ・・・お前を支えたかった。・・・俺にしか、それが・・・できないなら。・・・せめて、俺はその為に利用されたかった。最期に、生きる意味を・・・そこに見いだしたかった。お前が、それで救われるならと・・・ただ、それしか考えていなかった」

  消え入りそうなその声が、冷たい部屋の空気の中へと吸い込まれていった。

  畳の感触が、指先を抉る。

  立ち上がることは、簡単なはずなのに。なぜか、俺はその場から動けずにいるままだった。

  理性が、必死になって叫んでいる。

  この場から立ち去れと、そう必死になって叫んでいる。

  なのに壊れかけた心が、すがりつくようにこの場所に座り込んでいるのを感じる。

  どうしようもない位に、ただ重いその悲しみをこの場所へと打ち付けていた。

  「だが、これは違う。・・・こんなの、間違っている」

  彼の声色が、急にその姿を変える。

  振り返った時には、もう遅かった。その眼差しに、心を奪われる。

  彼は両目に涙を蓄えたまま、こっちを見つめていた。

  強く。確かな意思と、決意を持って。

  目を、背けることができなかった。

  「お前は、俺の想いにも応えたいと言った。それがお前にしかできないことなら、それで俺が救われるなら、一緒にいたいと言った。・・・それじゃあ、お前は一体どうなる? 一体誰が、お前を救ってくれる? こんな理不尽な悲しみを、一体誰が慰めてくれる・・・?」

  否定することができなかった。

  自暴自棄に、ただ自分を犠牲にしようとした自分の意思を、自分でも認めてしまっていたからだ。

  静かな追求に、俺は逃げること立ち去ることもできないまま、ただ目の前の瞳を見つめ返す。

  なぜか胸の奥が、狂おしい程に痛かった。

  「・・・なんで、そんな悲しい事を言うんだ」

  目の前の瞳から、確かな涙がこぼれ落ちる。

  誰の為でもない。誰かの為でもない。

  確かに、俺の為だけに流した涙だった。

  「お前は、俺や兄貴とは違う。まだこの先も、これから先も、生きていくはずだ。生きていかなくちゃいけないはずだ。なのになぜ、俺と同じことを考えている・・・? どうして、自分のことを大切にしない? お前には、もっと大切にしなければならないものがあるはずだ。こんなの・・・続けたって、お前の心が壊れるだけだ。そんなの、死んだも同然だ。それで一体、誰が救われる? 一体誰が、幸せになれるというんだ?」

  彼の言葉が、胸の奥へと突き刺さる。その一方で、何一つ共感できない自分が怖かった。

  かつての自分なら、理解できたのだろうか。

  あの人がいたあの頃の自分なら、こんなことにはならなかったのだろうか。

  今となっては、もう分からない。

  何も、分からなかった。

  「・・・一体、何に幸せを求めろと言うんですか。・・・こんな、こんな現実を目の前にしてよ」

  声を押し殺すように、俺はそう言葉を続けた。

  どうしようもないものばかりが、目の前に転がっている。

  それを拾えずにいる今、俺は何もかもを捨て去っているのと同じことに気がついた。

  「あの人がいない今・・・誰もが立ち直れと言った。いつかは過ぎ去ったことになると、これからはまだいくらでも時間があるのだと、そう誰もが言った。それが真実だったとして・・・一体、何の意味がある・・・? ・・・あなたさえも死ぬのに。一体何を・・・支えにこれからを生きていけば良い?」

  違う。

  こんなこと、言いたかった訳じゃない。

  違う。

  こんなこと、望んでた訳じゃない。

  「・・・もううんざりだ」

  俺は、その場に崩れ落ちた。

  まるで、だらしなくその甘えた弱さを露呈させるように。

  震えた自分の声が、自分の心さえもいたぶり始めていた。

  「・・・どうせ、俺はまた独りぼっちだ。皆・・・みんな俺を残して死んでしまった。物心つく前から、俺には両親の記憶さえない。・・・里親をたらい回しにされた俺には、家族と呼べる人もいない。・・・あの人と、あなただけだった。二人だけが・・・俺にとって本当に家族と呼べる人だった。なのに・・・なのに――」

  そう、言葉を続けようとした。

  その時だった。

  彼の両腕が、そっと、俺の身体を包み込む。

  背後から抱き寄せるように、優しく大きな両腕が俺を抱きしめた。

  あの人と、何も変わらない香りが包み込む。

  ずっと抑えていたはずの涙が、静かにこぼれ落ちた。

  「・・・お前の言うとおりだ。・・・この世界に、生きていく理由なんて・・・どこにも、ない」

  説き伏せるように、彼はそう俺に告げた。

  抱き寄せる両腕が、そっと、俺の手の平を握りしめる。

  ぽっかりと空いていたはずの胸の空洞に、何かが熱く満たされていく。

  その感覚が、どうしようもなく俺は怖かった。

  「・・・俺は、お前に生きろとは言わない。幸せになれとも言わない。・・・だが、せめて・・・俺の為に生きることだけは、辞めてくれ。・・・俺は、残る命をお前の為に捧げたい。ただ、お前はそれを受け取るだけでいい。・・・拒絶するのなら、迷惑だと言って断ってくれてもいい。・・・俺は、俺が生まれてきた意味を・・・お前の中に見いだしたい。それだけで、俺は救われる。・・・だからこれは、俺のエゴだ。ただのわがままに過ぎない。だから俺は、お前の心が壊れずに済むなら・・・俺は、何だってする。お前が少しでも楽になれるのなら・・・俺は、何を失っても・・・かまわない」

  彼の言葉が、胸の奥へと響いていく。

  あの人と何も変わらないその温もりに、俺は戸惑わずにはいられなかった。

  ほろ苦い煙草の匂いが、鼻先を燻る。

  息が、できなかった。

  「どうして・・・」

  震えた声で、俺はそう言葉を続けた。

  「どうして、そんな・・・俺なんかの為に、どうして――」

  その言葉に、彼は困ったように笑う。

  それを見て、俺は思わず目を見開いた。

  見違えるはずがない。

  忘れるはずがない。

  あの人が、俺に見せてくれた。あの笑い方と、全く同じだった。

  それが今、俺の目の前で微笑んでいる。

  胸が、張り裂けそうだった。

  「・・・決まっている。・・・お前のことが、好きだからだ」

  抱きしめた両腕に、力が入る。

  確かに聞こえる胸の鼓動が、今この人がこの場所に生きていることを証明していた。

  ただ、一心に。

  この時間を刻みつけるように。

  涙が、こぼれ落ちた。

  「・・・約束する。絶対に、お前を守ると。・・・残された時間で、お前が生きていく意味を見つけられるよう・・・俺の全てを捧げると約束する。それでも、もし・・・お前が望むのなら。もし、それでも・・・お前が生きていく意味を見つけることができなかったら。その時は――」

  喪に服すべき悲しみが、次の悲しみを悟っている。

  壊れかけた心を抱えた今。微かに見えた明日への希望を、一筋の光と例えるにはあまりにも目の前の現実は悲しすぎた。

  彼の言葉が、一瞬だけ途切れる。

  深く息を吸い込むと、静かに彼は言葉を続けた。

  「・・・その時は、お前と一緒に・・・死んでもいい。本当に、お前が・・・そう、望むのなら・・・」

  震えたその声が、心を抉る。

  互いにはだけた服装のまま、俺達は互いの体温にすがりついていた。まだここに、確かにこの瞬間、自分たちが生きていることを確かめ合うように。ただ、目の前の身体にしがみつくように、抱きしめ合っていた。

  指先の震えが、治まらない。

  きっと俺は、もうあの頃には戻れないのだと悟った。

  6-1 仲閒 宏明

  真っ白な病室は、どこか曇りの無い光を感じさせた。

  混じりけの無い。余計な感情も、不安も無い。そんな真っ白に消毒された空間の中で、俺はあの人の病室へと向かっていった。

  すれ違う看護師達が、俺にお辞儀する。

  何度も、毎日のように見続けた光景のはずなのに。何もかも、その印象が違った。この場所が、あの時と同じホスピス病棟ではないのもあるのだろう。どこか希望を残したその光に、なぜか俺は内なる不安をかき消すことができた。

  彼が待つ病室の扉の前で、俺は立ち止まる。

  真田忠伸。

  そう書かれたプレートを見て、俺は息を吸い込む。

  少し消毒薬の匂いがするその空気は、胸の中に広がる不透明さまで洗い流してくれるようだった。

  「・・・よ。忠伸さん。・・・待ったか?」

  扉を開きながら、俺はそう彼に微笑む。

  眼鏡をかけた黒い獅子は、俺を見た瞬間ふと笑みを零してくれた。

  薄手の病服から、彼の胸板が微かに見える。

  沢山のチューブが、柔らかな白いその毛並みの中へと繋がれていた。黒い彼の鬣に映えるその柔らかな毛並みが、穏やかに呼吸の動きに合わせて揺れ動く。

  俺は彼の傍に近づくように、ベットのマットレスへと腰掛けた。

  「・・・あぁ。・・・すまない、ヒロ。・・・今日も、来てくれたんだな」

  「・・・いいんだ。俺だって、忠伸さんに会いたくて来てんだからよ。・・・術後の経過はどうだ? 副作用とか、ねぇのか?」

  彼の手の平を握りしめながら、俺はそう言葉を続ける。

  その指先を愛おしむように、彼は優しく握り返してくれた。その温かな温もりに、笑みが零れる。

  目の前の黒い獅子は、その瞳を俺に向けた。

  「・・・まだ、背骨が痛い。話は聞いていたが・・・なかなかだったぞ。・・・幸いにも、拒絶反応はなかったそうだ。これからいつくか検査をするらしいが、手術は・・・無事成功したらしい」

  その言葉に、彼も少し安心したのだろう。

  眼鏡越しに、穏やかにその瞳が揺れているのが見えた。そんな彼の柔らかな表情に、胸の奥がすっと軽くなる。

  病室のベットテーブルには、正宗さんの写真が置かれていた。

  一輪の花と、一杯のコーヒーと共に。かつて俺が愛していたあの人の姿が、俺達を見守るように優しく微笑んでいる。

  目の前の彼と全く変わらないその微笑み方に、俺はあの人への想いを馳せた。

  正宗さんのドナーが見つかっていたと知ったのは、葬儀が終わった後のことだった。

  骨髄移植にかかるドナーの提供を、双子の弟である忠伸さんへ譲りたい。それが、あの人の遺言だった。

  二人が、珍しい血液型であったのも理由の一つだったらしい。忠伸さんも同じ病に侵されていると知ったあの人は、俺のことを自分の弟に託すと決めたそうだ。自分はもう手遅れなのだと、それとなくあの人も悟っていたのだろう。その遺言を知った時、忠伸さんは声を上げてその場に泣き崩れ、何度もあの人の名前を叫んでいた。

  あの人が、自分の弟も俺に想いを寄せていたことを知っていたかどうかは、今となってはもう分からない。

  ただ遺言書には、“浩之を頼む”としか、そこには書き記されていなかった。

  彼の病状は、回復に向かっている。

  それを、忠伸さんも感じているのだろう。彼の瞳が、少しずつ柔らかくなっていくのを俺も肌に感じていた。

  あの人と、何一つ変わらない。そんな双子の弟である彼は、穏やかにこちらを見つめている。

  その愛しい眼差しに、いつまでも心が奪われてしまいそうだった。

  「・・・そっか。退院まで、まだ時間はあるんだ。・・・ここを出たら、一緒に住む場所を探そう。・・・結局俺も、正宗さんとは同棲しそこねてしまったしさ」

  「・・・あぁ。それを楽しみに、もう少し頑張るとしよう。・・・そう言えば、お前の友人の彼はどうしている? 上手くやっているか?」

  その言葉に、あの黒い竜の姿が脳裏に蘇る。

  この前電話で話していた内容を、俺は思い出していた。

  「それが、結構良い感じらしい。正宗さんの後任になれるよう、頑張ってるんだとよ。・・・竜司も、少し安心したようだ。彼の病状も、一過性のもので終わったらしい。後腐れ無く仕事を辞めて、休養に専念できたのもあるのだろう。・・・あぁ見えて、竜司も根気強いからな」

  「・・・そうか。兄貴の後任が務まるのなら、もう何も心配いらないだろう。・・・良かったな」

  「・・・あぁ。元々、慎二さんもお洒落には強かったみたいなんだ。スパイグラスの読者でもあったらしいし、声をかけて正解だったよ。・・・忠伸さんも、仕事そっちに移るんだろ?」

  その声に、目の前の獅子の瞳が少しだけ光輝く。

  あの人よりも鋭いその眼差しが、雄々しくその水面を揺らした。

  「あぁ。・・・兄貴の遺言だしな。あいつが、必死になって作り上げた雑誌なんだ。俺も復帰まで時間がかかるだろうが・・・できるだけ、サポートできるようやっていくつもりだ。・・・それが、俺の子猫ちゃんの望みでもあるだろうしな」

  そう悪戯っぽく笑いながら、彼は俺の顎先に触れる。

  細めたその瞳が、たまらなく渋かった。その大人な雄々しさに、顔が一気に赤くなる。

  ブワリと、全身の毛並みが逆立つのを感じた。

  「こ、子猫ちゃんって・・・!! 俺は虎だっつうの!!」

  「あはははは、まぁ・・・確かにな。・・・退院したら、お前が満足するまで・・・一晩中、愛し合おう。・・・ずっと、待たせてしまったしな。もう二度と寂しい想いはさせないと、お前に約束する。・・・兄貴の為にもな。決して、お前の期待は裏切らないと・・・そう、約束しよう」

  そう真っ直ぐ向けられたその言葉に、俺はどんな言葉を返せば良かったのだろう。

  照れくさく笑いながら、俺はただその場限りの憎まれ口を手当たり次第にぶちまけた。そんな俺を見て、彼はどこか可笑しそうに笑う。

  真っ白な光が、辺りを包み込んでいた。

  これからの未来を、静かに祝福するように。

  確かに、俺達は生きている。

  この場所で、確かに俺達は生きていた。

  正宗さんの写真の隣に飾られた、もう一枚の写真が俺達を見つめている。

  俺を中心に、二人の黒い獅子の兄弟に挟まれて映った写真だ。肩を組んで、優しく微笑むように映ったそれは、確かにあの頃と何も変わっていない。俺にとって生まれて初めてできた、そんな、最初で最後の家族写真だった。

  目の前の黒い獅子が、何かを期待するようにこちらを見つめている。

  俺は観念したようにため息をつくと、静かにその唇を、彼のマズルへと重ね合わせた。

  (終)

  ――「別の世界線(兄弟生存ルート)」へ続く

  1-2 仲閒 宏明

  ホスピス病棟の空気は、どこか冷たく感じた。

  嗅ぎ慣れた消毒薬の匂いに混じった、死の匂い。白い壁と光に囲まれて、どこか不自然な位に清潔な空間へと導かれる。そんなしんと静まりかえった空気の感触が、昔から俺は嫌いだった。

  随分と前から、俺は自分の現実性を手放してしまっていたのだろう。

  これまでの出来事も、これからの出来事も、どこか他人事だ。そうやって冷静さと冷徹さを保っている一方で、焼け付くような感情のうねりが渦巻いているのを感じる。心と体が分離してしまったと例えるのなら、今の俺は、まるで生きているのかも死んでいるのかも分からない、そんな空っぽの人形になってしまったようだ。絶望も悲観もしない平静さの中で、前を向いて歩いて行こうと思う気力が見つからない。

  昔から、この匂いが嫌いだった。

  病室の匂いも、この真っ白な光も、清潔さと光源で溢れているのに、どこか死の香りを隠せていない。毎日のように通ったこのホスピス病棟で、いつからか俺はそんな死の香りに慣れ始めてしまっていた。

  だからこうして迎えたこんな結末も、違和感なく受け入れ始めてしまっている自分がいるのだろう。

  あの人が少しずつ死に近づいていくのを見送っていたのと同時に、俺も少しずつ自分の命を手放していたんだと悟った。

  真っ白な病室の廊下に、あの人の名札が掲げられている。

  真田正宗。

  俺が、愛して止まない。あの、黒い獅子の名前だった。

  ドアの窓から、ベットに横たわるあの人の姿が微かに見える。

  優しく微笑むあの黒い獅子は、ここに来る前と何も変わっていなかった。ただ少しやせ始めた頬が、彼の病状を知らしめている。こうして家族と話す彼の姿を、俺はただ見送ることしかできなかった。

  扉の窓ガラスに、自分の姿が映り込んでいる。

  皺だらけの部屋着に身を包んだ、橙色をした虎だ。それが何の感情も表に出さず、ただ扉の前で立ち尽くしている。あの人の方がつらいはずなのに、どう見ても参ってしまっているのは俺のほうだった。日常的な身なりの手入れさえ、このざまだ。本当は何一つとしてこの結末を受け入れ来ていないことを、俺はこの時悟った。

  感情に蓋をしてしまったように、心がその動きを止めている。

  きっと、俺にはそうするしかなかったのだろう。

  いつだって思い出すのは、どうしようもない過去の思い出ばかりだった。

  「・・・大丈夫か?」

  あの人に似た声が、すぐ後ろから聞こえてきた。

  どこか気遣うように、その声色を落としている。俺は静かに振り向くと、目の前にいる黒い獅子を見上げた。

  眼鏡をかけたその瞳の色は、あの人と何も変わらない。

  ただ鋭く尖った眼差しだけが、あの人の優しくて柔らかだった瞳と違っていた。

  「・・・ええ。すみません。心配かけちまって」

  「・・・いいんだ。・・・俺も、落ち着かなくてな。・・・すまん。他に・・・行く場所もなくてな」

  少し困ったように、彼は笑う。

  その雄々しい素振りが、今目の前にいるのは「あの人じゃないんだ」という現実を俺に突きつけた。

  頭の中では、分かっているはずなのに。

  混乱しそうになる自分の理性が、苛立ちを隠せずにいる。

  いくら最愛の人だったとはいえ、ただ似ていると言うだけで目の前の他人に自分の感傷をぶつけていいはずなどなかった。

  「・・・兄貴は?」

  「・・・今、ご家族と病室で話しています。今日は、体調も良かったみたいでよ。・・・良かった」

  「そっか。・・・まだ、告知の内容は他の家族にも話していない。・・・今夜の説明で、皆には主治医から直接告げられることになるだろう。・・・恐らく、兄貴自身にもな」

  その言葉に、一瞬だけ身を強ばらせてしまった自分がいる。

  あの人の元へ見舞いに足蹴なく通ったあの日々が、走馬燈のように蘇っては消えていった。

  「・・・そうですか」

  「もう少ししたら、別の親戚がここに到着する。・・・少し、向こうで何か飲まないか? 兄貴の傍にいたいだろうが・・・」

  その言葉に、一瞬だけ顔を俯かせてしまった自分がいる。

  顔を見上げれば、あの人と何一つ変わらない黒い獅子がその瞳を細めていた。

  眼鏡のレンズ越しに。どこか、切なげな眼差しを震わせながら。

  俺は、言葉を飲んだ。

  「でも、俺は・・・」

  「・・・あんたまで倒れてしまったら、俺も兄貴に顔向けできない。気持ちは分かるが、休める時に休んでくれ。・・・本番は、今夜だしな」

  説き伏せるようなその静かな声に、俺は黙ったまま頷いた。

  振り返った背中が、名残惜しさを消せずにいる。

  病室にいるあの人は、今目の前にいる双子の黒い獅子と瓜二つだった。ただ仄かに薫る、コロンの匂いに混じったほろ苦い煙草の香りが、あの人とは違う。頭の中で混乱しそうになる現実を必死になって整理しながら、俺は目の前の大きな背中の後を追った。

  互いに、この先に行く末を悟っている大きな背中だ。

  感情の色さえ亡くしたその陰りに、自分はなぜか救われたような気さえした。

  真っ白な蛍光灯の光が差し込む廊下を進み、奥の待合室へと脚を踏み入れる。

  自販機の目の前で彼は財布を取り出すと、小銭を入れ始めた。

  「先に選んでくれ。飲みたいものを選んでくれていい」

  「・・・いいんですか?」

  「・・・あぁ。これ位しないと、俺も兄貴に怒られる」

  どこか説き伏せるように、彼は優しく微笑む。

  その優しさがどこかあの人と似ていて、俺は一瞬だけ目を逸らしてしまった。

  自分の心を誤魔化すように、目の前の自販機へと手を伸ばす。それに続くように、彼も目の前のボタンへと指を伸ばした。

  機械的な音が、辺りを響かせる。

  腰掛けたソファーは、どこか固い感触がした。ただ待ち人を休ませる為だけに用意された、その目的しか考えていないような配置だ。そんな無駄なものを全て切り離したかのようなこの病棟の作りに、今更になって俺は違和感を抱き始めていた。

  まるで、死に場所を待つ為だけに用意された待機所のようだ。

  誰一人として、ここを出て行くような希望を持ち合わせていない。

  そんな場所だと知ってしまった時点で、もうこの先の全てを告知されているようなものだった。

  「・・・辛いか?」

  静かな声が、ふと隣で響き渡る。

  紙パックのコーヒーを持った自分の手が、一瞬だけその力をなくした。

  見上げれば、あの人と同じ黒い獅子が俺を静かに見つめている。

  その大きな身体に、俺は自分の理性を手放してしまいそうだった。

  「・・・駄目っすよね。あんなに覚悟決めてたのに・・・」

  「仕方ないだろう。あんたと兄貴は・・・俺から見ても羨ましい位だった。そう簡単に整理できるはずもない」

  その声に、俺は目を見開いた。

  胸の奥に、ゆっくりと締め付ける何かを感じる。

  「それって――」

  そう、言葉を続けようとした。その時だった。

  俺の携帯が、音を立てて鳴り始める。俺はポケットからそれを取り出すと、目の前の獅子に頭を下げてその場を立ち上がった。画面に目を向ければ、見慣れたその名前に安堵してしまった自分を感じる。

  俺は通話のボタンをフリックすると、携帯を耳元へと近づけた。

  「・・・もしもし。・・・竜司か?」

  「あぁ。昨夜は電話に出られなくてすまなかった。・・・今、大丈夫だったか?」

  聞き慣れた親友の声に、さっきまでの緊張が一気に解け出していくのを感じる。

  俺は忠伸さんに目を向けると、彼は“ゆっくり話してこい”とその大きな手の平でジェスチャーをしてくれた。

  そんな彼に甘え、少しだけ歩いて距離を保つ。

  握り直した携帯の向こうでは、微かにノイズの音が走っていた。

  「いいんだ。俺だって・・・悪ぃ、竜司。また・・・お前に甘えちまった」

  「・・・気にするな。お前の相方さんが大事な時なんだ。・・・俺にできることがあれば、何でも言ってくれ。俺も慎さんも・・・お前達のこと心配してたからさ」

  静かなその声に、俺は天井を見上げる。

  真っ白な蛍光灯の光は、涙ぐんだ俺の目尻さえも誤魔化してくれなかった。ふと、傍にいる黒い獅子が心配するようにこちらを見つめたのが分かる。

  俺は彼に背を向けるように、言葉を続けた。

  「・・・あぁ。サンキュな、竜司。ちょっと・・・参っちまってたからさ。お前の声聞けただけでも、助かったよ。・・・本番は、これからだしな」

  本番はこれから、か。

  果たしてそれは、どこまでを指しているのかと自分でも思った。

  「・・・そうか。今夜が――」

  「・・・あぁ。告知の日だ。正宗さんの余命が、今日あの人の親類にも告知される。多分、正宗さん自身にも・・・」

  消え入りそうな俺の声は、一体何に抗っていると言うのだろう。

  ここまで指し示された目の前のレールを、俺は進みたくないと今更拒絶しているのだろうか?

  真っ直ぐな、道が見える。

  シンプルに、ただ真っ直ぐに伸びる道が。ただその先に待ち構えている結末があまりにも悲しすぎて、今も尚俺は目を背け続けている。

  着実に、確実に、一歩ずつその結末へと進んでいる実感を日々痛い位に感じながら。

  未だに俺は、目の前の事実から逃げたままだった。

  「・・・なぁ、宏明。慎さんとも話してたんだが・・・本当に、ドナーが見つからないのか? その・・・骨髄移植の相手は・・・」

  彼が言わんとしていることは、俺にも分かった。

  だけどそれを第三者から改めて指摘され、目を見開いてしまった自分が確かにここにいた。

  諦めたはずはない。希望を失った時など、一時もない。そう言いたかった。そう、ハッキリと言い切りたかった。

  なのにいつからか、目の前の結末に諦め始めてしまっていた自分がいた。受け入れようと、受け流そうと、そう力をなくしうなだれてしまっている自分がいた。その事実に、どうしようもない悔しさが俺の中を噴き上がる。

  「そ、それは――」

  上手く、声が出てきてくれなかった。

  確かな説明ができる言葉が、見つからない。

  大きな虫食いがあった穴のように、欠落した事実が頭の中を埋め合わせた。

  「可能性の話だが・・・正宗さんの弟が、もし・・・一卵性双生児の双子なら、さ。骨髄移植のドナーに、なり得るはず・・・だろ? なのにその話が、一度も出ないってことはさ。もしかしたら――」

  俺は、その言葉に続きを聞きたくは無かった。

  理性が、もうその先を悟り始めている。携帯を持つ震えた指先が、もう事実を受け止め始めている。

  だけど俺は、それを信じたはなかった。嘘だと、言って欲しかった。

  あの人の次に、彼も失うなど。

  そんなの、受け入れられるはずがなかった。

  「・・・もしかしたら、さ。正宗さんの弟さんも・・・同じ、白血病なんじゃないのか?」

  ノイズ混じりに聞こえるその声が、今ハッキリと鼓膜の奥を突き刺していく。

  どうあがいても、否定する言葉が見当たらなかった。

  「そ、それって・・・」

  「辛いだろうが・・・宏明。もう一度、ちゃんと確かめた方がいい。もし、ドナーが見つかっているなら・・・正宗さんと弟さん、二人に適合したドナーのはずだ。だが、一人のドナーが脊髄を採取できる回数には限りがある。もしだ。もし・・・正宗さんが自分の弟にドナーを譲っていたとしたら・・・それを知る権利が、お前にはあるはずだ。もしかしたら、弟さんにもそれは知らされていないかもしれない。・・・今夜告知があるなら、もう一度主治医に聞くべきだ。これが、最後のチャンスになるかもしれない。本人にも、今日告知されるなら・・・もう、時間が無い。もしかしたら、ホスピスの同意書にも今日正宗さんがサインすることだってありえるんだろう?」

  静かな親友の問いかけに、俺はただ呆然としていた。

  一度だって、考えたことがない。

  思いつきさえしなかった。

  そんな言葉の数々が、今頭の中で何度も何度も鳴り響いている。欠けたパズルのピースのように、違和感なくそのつなぎ目が一致していく音が聞こえる。

  自分の呼吸が、荒れ始めてしまっているのを自分でも感じた。

  「そんな・・・忠伸さんも、白血病って・・・それに、正宗さんが・・・ドナーを譲っているかもしれねぇとか・・・そんな――」

  「・・・宏明。あくまでも、可能性の話だ。慎さんとも話していたが・・・確かめられることは、今のうちに確かめていた方がいい。それが、後悔しないために必要なことだ。これからお前が迎える結末は・・・一人で背負って行くには、あまりにも辛くて理不尽なものだ。だから、ちゃんと納得できる材料を・・・自分で準備しておくんだ。自分の心を、ちゃんと整理する為の材料をな。・・・もし、ドナーが見つかっていたら・・・もし、正宗さんがそれを自分の弟にも知らせずに、譲ろうとしていたら・・・お前は、それを受け入れ切れるか? あの人が亡くなった後でも・・・それを納得できるか?」

  あり得ない話ではないと、自分でもそう考え始めていた。

  あの人の性格は、俺が一番に知っている。あんなに弟想いだったあの人のことだ。自分の命など、簡単に差し出すだろう。そしてそれをしようとしていることを、自分の実の弟にさえ黙ったままやり遂げようとしていることも、簡単に想像ができた。

  もし、これが本当だとしたら。

  俺達は、人の命の選択をしなければならないというのか?

  「そ、それは・・・でも、もし・・・そうだったとしても・・・俺は――」

  「・・・悪い。お前だって、辛いだろうに・・・一気に、話しすぎた。・・・すまない。俺と慎さんも、ドナーを探す方法を探ってみる。・・・仕事を辞めて、時間をもてあましていると慎さんも言っているしな。・・・微力だが、俺達にも力にならせてくれ。もし、役に立てるなら・・・」

  その言葉に、俺は目を見開いた。

  そんなの、何も聞いていない。

  「辞めたって・・・慎さん、大丈夫なのか!? お前だって――」

  「・・・気にするな。少し心を病みそうになったみたいだが、綺麗さっぱり辞職したおかげで大事には至らなかった。・・・昨日、辞めたらしんだ。それで、昨晩は電話できなくてさ・・・悪い、宏明。こっちは、大丈夫だからさ。今目の前で、慎さんも大きく頷いているしよ。・・・気にする必要はない」

  穏やかなその声に、俺は理性を手放しそうになる。

  混乱しかけた自分の心が、今目の前で濁流に飲まれようとしていた。

  そんな自分をあざ笑うかのように、真っ白な蛍光灯の光が俺を突き放す。

  何の感情も温もりも無いまま、ただ真っ白な光が突き刺していた。

  「・・・ありがとう、竜司・・・俺、おれ・・・」

  「・・・いいんだ。また、夜に電話する。・・・それまで、しっかりな。まだ、結末が決まった訳じゃないんだ。・・・そうだろう?」

  涙ぐんだ俺の声に、あの黒い竜も悟ったのだろう。

  そう励ますあいつの声が、今はただ嬉しかった。

  手の甲で目尻を拭いながら、呼吸を落ち着かせる。ここが崩れる場所ではないと、そう必死になって自分の心に言い聞かせる。

  吐き出した息は、まだつんとした痛みを持ったままだった。

  「・・・あぁ。ありがとうな、竜司。・・・助かった」

  「気にするな。・・・また電話する。じゃあ」

  「あぁ。またな」

  震えた手で、携帯を耳元から離す。

  そんな俺を見て、後ろにいた黒い獅子がふとソファーから立ち上がったのを感じた。

  なのに俺は、身体を少しも動かすことができない。

  「・・・大丈夫か?」

  忠伸さんが、少し焦ったような声で俺に言葉をかける。

  どこか、労るように。壊れ物をそっと支えるように、その眼差しを不器用に震わせている。

  心が、壊れそうだった。

  「・・・あぁ。俺の、親友からだったんです。・・・俺と正宗さんのこと、全部・・・知ってるから。・・・心配してくれてよ」

  ポケットに戻した携帯が、不自然なまでに無機質な固さを放っている。

  胸の奥が、千切れそうな痛みだった。

  それが、少しずつ、少しずつ明白に、胸の鼓動と一緒になって加速していく。

  絡みついた唾液が、喉の奥に張り付いた。

  「・・・なぁ、忠伸さん」

  「なんだ?」

  「一つ、聞いても・・・いいか?」

  もう一人の自分が、駄目だと叫んでいた。

  それでも震えたまま固まった指先が、自分の本音を俺に知らしめる。

  「・・・あ、あぁ。どうしたんだ? そうかしこまって・・・」

  「・・・いや、さっき・・・竜司と話していて、さ。それで・・・」

  途切れた言葉が、沈黙を埋め合わせる。

  頭の中が、真っ白になりそうだった。

  「あの、さ。忠伸さんも、その・・・正宗さんの骨髄移植の検査、しました・・・か?」

  その言葉に、目の前の獅子は大きく目を見開く。

  否定しようがないのは、誰が見ても明らかだった。

  「そ、それは――」

  「もしかしたら、って。さっき、話してたんです。もし・・・一卵双生児の双子の弟でも、ドナーになり得ないってことは・・・それは――」

  その言葉の続きを、俺は言うことができなかった。

  それが、もし事実だったとするならば。こんなにも悲しい現実を、俺は受け入れられるはずがなかったからだ。

  目の前の獅子は、ただ黙ったままその顔を俯かせている。

  泳いだその視線が、どこか切なげに潤み始めていた。その反応に、胸の奥が張り裂けそうになるのを感じる。

  ただ、嘘だと。

  そう、言って欲しかった。

  「・・・すまない、弘昭。しばらく、ここで待っていてくれ」

  ふと、彼が続けたのはその言葉だった。

  意を決したように、その眼差しを俺に向けている。

  言葉が、出なかった。

  「待っていてくれって・・・どうし、て・・・」

  「・・・兄貴と、もう一度・・・話してくる。だから少し間、ここで待っていて欲しい。・・・頼む」

  眼鏡越しに、あの人と変わらない瞳が震えている。

  俺は黙ったまま、彼に頷いて見せた。そんな俺に、彼は優しく微笑んで俺の頭を撫でる。

  大きな、大きな手の平だ。

  それが、俺の耳の裏をなぞって、大きく慰めるように撫でていく。

  はち切れんばかりの寂しさを、隠したような。そんな、優しすぎる温かさだった。

  「・・・良い子だ」

  大きな手の平が、俺の頭から離れる。

  大きな獅子はその場を振り向くと、あの人の病室へと向かっていった。その大きな背中が、どこか寂しげに、真っ白な廊下の奥へと小さく遠のいていく。

  ジンと響き渡る彼の温もりが、いつまでも、いつまでも頭の奥に残り続けていた。

  2-2 真田 忠伸(弟)

  

  

  俺が兄貴の恋人に惚れてしまったと気づいたのは、一体いつの頃だっただろう。

  あいつがいる病室へと向かいながら、考えていたのはそんなどうしようもないことだった。

  初めて、兄貴があの子のことを紹介してくれた日のことを、今でも憶えている。俺と全く同じ姿をしたあの黒い獅子は、どこか照れくさそうに、それでも堂々とした態度で俺にあの子を紹介した。来年、結婚するんだと。お前には、いち早く知らせたかったのだと。そう微笑んだ兄貴の嬉しそうな顔を、今でも鮮明に覚えている。

  いつからだったんだろう。

  そんな幸せそうな兄貴の姿を見るのが、俺はただ辛かった。

  嫉妬、という言葉では適切ではないのかもしれない。最初から分かっていた事実だったし、最初から諦めていた。だから兄貴とあの子が仲むつまじく微笑んでいる姿を見ても、羨ましいと思ったことは一度もなかった。

  なのに、どうしてなのだろう。

  俺と全く同じ姿をした獅子を目の当たりにする度に、なぜ、俺ではなかったのだろうと。そんな、下らないことばかりを考えてしまっている自分がそこにいた。

  もし、出会う順番があったとしたら。それは、誰にも計り知れないものなのだろう。沢山の偶然と偶然が派生して、広範囲に分岐していったなれの果てがこの結末だ。だからそれを今更悔やんでしまったとしても、どうにもならないことは一番俺がよく分かっている。だけど俺は、どうしても「もしも」という別の選択を想像せざるをえなかった。

  そうだ。

  俺は、幼少期の頃からずっと、兄貴に惚れていた。

  幼い憧れでもあっただろうし、兄を慕う気持ちの延長線でもあったのだろう。いつからかそれは性的な憧れへと繋がり、淡い恋心のようなものへと繋がった。

  学生時代、親に隠れて二人で身体を重ね合ったあの夜の数々を、今でも憶えている。

  あの頃は、それが恋心とは気づいていなかった。兄貴もそうだっただろう。だからあの子を紹介された時、自分の身に起きた感情の渦を自分でも最初は理解できなかった。

  自分が、あの瞬間失恋したんだと。

  そんな簡単なことでさえも、俺は気づいていなかった。

  だから最初は、幸せそうな兄貴の顔を見るのがただ辛かった。なのにあの子と触れあう度に、少しずつ、少しずつ、あの子へと惹かれ始めている自分がそこにいた。どうして、兄貴がこの子を選んだのか。それが、痛い位に分かってしまっている自分がいた。

  気がついたときには、もう、遅かったのだろう。

  俺は、目の前に二人に、同時に失恋してしまったようなものだった。

  病室のドアをノックしようとした手の平が、微かに震えている。

  真っ白に染め上げられた目の前の扉は、そんな俺を突き放すようにただ平然と閉ざされていた。

  扉のガラス越しに、自分の姿が映り込んでいる。この先に待つ自分の兄と全く同じ容姿をした目の前の黒い獅子は、どこか怯えていた。

  そんな自分を奮い立たせるように、俺は目の前の扉をノックする。

  「・・・兄貴。・・・俺だ」

  声が強ばってしまっていたのを、自分でも感じた。

  ドアノブを掴んだ手が、微かに震えている。

  俺はそれを押し殺すように、目の前の扉をスライドさせた。その瞬間、つんと鼻先をつきさす消毒薬の匂いが心を抉る。

  死の匂いだと、俺は思った。

  それを気取られないように、俺は静かに病室の中へと進む。目の前のベットに横たわる黒い獅子は、いつもと変わらない穏やかな表情を俺に見せていた。そんな眼差しを見る度に、心をなぶり殺しにされる自分が確かにここにいる。

  吸い込んだ息が、ただ痛かった。

  「忠伸・・・お前、身体は大丈夫なのか・・・? 治療は――」

  「・・・兄貴に言われたくはない。・・・治療なら、上手く行っている。だから俺の心配は、しなくていい。今は・・・自分の世話だけ気にしていてくれ」

  嘘だ。

  きっと、それさえも見抜かれてしまっている。

  そんな分かりきった事実に気がついていないフリをしたまま、俺はベットの横に置かれた丸いすへと腰掛けた。

  目の前の獅子は、どこか辛そうにこちらを見つめている。

  ただそれが悲しくて、俺はいつものように微笑んでいた。

  「だが・・・お前はまだ、手遅れじゃないはずだ。今のうちに、治療に専念してくれれば・・・」

  手遅れだと指し示した自分の運命を、目の前の獅子はどう受け止めているのだろうか。

  当たり前のように、自分の死を受け入れようとしている。そんな実の兄を目の前に、俺は何も言葉をかけることができなかった。

  まだ、生きていく術があるのなら。そのチャンスが、可能性が、ほんの少しでも残されているのなら。俺は、ただ目の前の兄に生き伸びて欲しかった。

  なのにその言葉を、かける為に残された適切な方法が見当たらない。

  「・・・馬鹿を言うな。兄貴だって、手遅れってまだ決まった訳じゃないんだろう?」

  「だが・・・」

  「・・・俺にしか弱音を吐けないのは、俺だって分かっている。だから俺にだけは・・・ありのままに弱音を打ち明けて欲しい。・・・いつだって、俺は兄貴の味方だった。昔だって、ずっとそうだったろ?」

  味方だった、か。

  そんな綺麗な言葉でまとめられるのなら、こんな想いなどなかっただろうに。

  結局、俺は最期まで嘘をつくことしかできなかった。

  「・・・生まれる前から、ずっと一緒だった。だから、死ぬときも・・・一緒だ」

  やつれた手を握りしめながら、俺はそう彼に告げる。

  目の前の瞳が、大きく見開いた。

  「お、お前・・・」

  「心配すんな。決して、あんたを独りぼっちにはさせない。結局俺も駄目なら・・・ちゃんと、後を追ってやる」

  目の前の瞳が、真っ黒に染まっていく。

  まるで、狼狽するように。否定しようと、拒絶しようと、染み出したインクのシミのように絶望へと染まっていく。そんな目の前の瞳を、俺はただ静かに見つめ返した。

  握りしめた彼の指先が、微かに震えているのを感じる。

  それを気づかなくて済むように、俺は思いっきりそれを握りしめた。

  「そんな・・・何馬鹿な事を言っているんだ!? お前は・・・まだ間に合う。そうだろう!? 俺と違って、お前には未来があるはずだ。ちゃんと、適切な治療を受ければ――」

  「――だから、自分は手遅れだって勝手に決めつけてんじゃねぇって言ってんだよ!! この大馬鹿野郎が!!」

  荒げた声が、病室の外まで響き渡ったのを自分でも感じた。

  呼吸が、上手くできない。荒れてしまった自分の息が、両肩を上下させるように必死になって散り散りになった理性を取り保とうとしていた。

  片手で押さえた自分の頭に、長い鬣がくしゃりと絡まる。

  こんな時になって、自分は本当に自分の兄に惚れてしまっていたんだと嫌と言うほど気づかされた。

  「・・・なんで、そんな悲しい事・・・平気で言うんだよ・・・」

  消え入りそうな俺の声が、水気を帯び始めてしまっていたのを感じた。

  それを誤魔化すように、俺は鼻をすする。

  頭の中で、あの橙色をした虎のあの子の姿が浮かんでは消えた。

  「・・・あんたは、確かにそれでいいのかもしれない。自分の運命を、こんな理不尽でふざけた結末を、ただ受け入れるだけでいいのかもしれない。・・・だけどよ。残された俺達の事を・・・考えたことはあるか? あんたがいなくなった世界で、俺達がどうやって生きていけばいいのか・・・それを想像したことはあるか!?」

  感情的な言葉だとは、自分でも分かっていた。

  これが、今適切な言葉ではないということも。ただ目の前の悲しみが、孤独が、そんな理性のかけらさえも粉々にすり潰した。

  「諦めないでくれよ・・・頼むから・・・」

  震えた声のまま、俺は言葉を続けた。

  「・・・俺だって、死ぬのは怖い。だが、まだドナーが見つからないと決まった訳じゃないはずだ。・・・俺の骨髄を移植すれば、完治はできなくても・・・今の進行を遅らせることだってできるはずだ。そうすれば・・・兄貴だって――」

  「――いや。ドナーならもう・・・見つかった」

  一瞬だけ、その言葉を聞き取ることができなった。

  見上げれば、黒い獅子が何かを隠すように窓の向こうへと視線を泳がせている。

  黒い毛並みに混じる柔らかな白い毛先が、太陽の光をキラキラと反射させていた。

  「待ってくれ。・・・今、何て言ったんだ・・・?」

  喉が、急に渇いたのを感じた。

  頭の中が、一気に真っ白になっていくのを感じる。

  ただ目の前の獅子は、窓の向こうに目を向けたままだった。

  「ドナーが、見つかったって・・・それじゃあ――」

  「・・・俺のドナーじゃ、ない。・・・見つかったのは、俺のドナーじゃないんだよ」

  意味が、分からなかった。

  淡々と告げられるその言葉の意味も、それが指し示す目の前の事実にも、俺はまだ理解できないままだった。

  心の奥底では分かりかけているその事実から、目を背けようとしている。そんな自分に、今この瞬間気づいてしまっている。

  だけどそれに気づいてしまった所で、適切にこの感情を処理する術が見つからない。

  「見つかったのは・・・お前のドナーだよ。・・・忠伸」

  静かに、自分の兄はそう言葉を続けた。

  「助かる見込みが高いのは・・・お前の方だ。あの子の悲しみを癒やしてあげられるのは・・・お前しかいないんだよ、忠伸。お前しか・・・あの子を助けてあげることができないんだ」

  2-3 真田 正宗(兄)

  自分と全く同じ顔をした黒い獅子が、目の前で呆然としている。

  その瞳の奥に染まる悲しみの渦が、自分の心さえも喰らい尽くしてしまいそうだった。

  双子というのは、奇妙なものだった。

  気づいたときから、自分と全く同じ姿をしたもう一人の自分がそこにいる。まるで分身のように、失ってしまった自分の片割れのように、常に映し鏡として目の前にあり続けた。それぞれに異なる魂を、全く他人の心をそれぞれに持ち合わせているはずなのに。いつだって互いに比べ合い、意識し合い、隣り合わせように生きていくことを強いられてきた。そんなごく当たり前のことを、今更になって思い知らされる。

  自分と全く同じ道を進むはずがないと、最初から分かっていた。

  なのになぜか、どこで俺達は進む道が分かれてしまったのだろうかと。どこから互いの人生を進み始めたのだろうかと、そんなことを思わずにはいられなかった。

  自分が白血病と分かった時、最初に浮かんだのは弟の顔だった。

  可能性の話であったとしても、互いに同じ血肉を分け合った分身だ。同じ病に冒されている危険性を、俺は無視することができなかった。

  目の前の獅子は、悲しみにその瞳を黒く塗りつぶしている。

  所々に混じる柔らかな白い毛並みが、俺とそっくりだった。間違われなくて済むようにと、そう言ってかけ始めただて眼鏡の向こうで、俺と同じ瞳が微かに揺れている。

  自分の答えなど、とうの昔に出していた。

  「だが・・・あの子は兄貴のことを、愛しているんだぞ・・・?」

  震えた声で、弟はそう言葉を続けた。

  まるで、俺を説得するように。

  そんなこいつらしい不器用な優しさが、今はただ悲しかった。

  「いくら双子でも・・・俺は、兄貴の代わりにはなれない。あの子は・・・他の誰かじゃなく、俺なんかでもない。他ならぬ、あんたの事を愛しているんだぞ!? 兄貴だって・・・あの子の気持ちは分かっているだろう・・・?」

  握りしめられた指先が、ふと、その力を増す。

  雄々しく固い節に覆われたその指先が、離れそうになる俺の心をやっと繋ぎ止めているようだった。

  逸らした目線の先に、窓の向こう側が見える。

  病室から見えたその景色は、眩しいくらいに光に包まれた青空だった。

  「・・・分かっているさ。あの子の気持ちも・・・お前の、気持ちもな。だから言っているんだ。これは、お前にしかできないって」

  目の前の瞳が、急に固まる。

  無理もない話だと思った。

  こんな話、通常ならばできるはずもない。

  「知って、たの・・・か?」

  小さなその声が、限界まで張り詰めた心の弧線へと落ちていく。

  薄いガラスのように、小さな破片となって降り注ぐそれを感じながら、俺は静かに首を頷かせた。

  「・・・すまない、忠伸。ずっと、お前の想いには応えられなかったな。あの子の事だって・・・ずっと、お前には日の当たらない想いばかりをさせてしまった。もし、生まれ変わることができたなら・・・その時は、お前とあの子の3人で・・・愛し合いたかった。昔みたいに、お前と身体を重ねてな。・・・あの子と結ばれるような、そんな毎日を・・・お前に見せてあげたかった」

  違う。

  それは、自分の願いだと自分でも分かっていた。

  死にたくない。

  生きながらえたい。

  ただそれだけの単純な言葉が、今も頭の奥にこびりついて離れてくれないのを嫌という程思い知らされる。

  生きたいと願うのは、とうの昔に辞めた。

  もしかしたらと考えることも、できるならばと祈ることも、もう無駄だと言い聞かせた。なのに今もなお、この場所にすがりつこうと必死になって生にしがみついている自分がいる。

  どうあがいても、悲しみしかそこには待ち受けていないはずなのに。もうこれ以上、次の悲しみを受け入れ続ける毎日には耐えられそうになかった。

  なのに目の前に広がる青空は、どうしてこんなにも悲しい位に、ただ綺麗なのだろう?

  「駄目だ・・・そんなの、絶対に駄目だ・・・」

  泣きながら、目の前の獅子は手の平を額に押しつけた。

  まるで、わき上がるその感情を必死になって押さえつけるように。

  胸が、痛んだ。

  「忠伸・・・」

  「・・・なぁ。頼むから・・・言ってくれよ。今からだって・・・まだ、遅くはないって。本当は・・・あんただって、まだ生きていきたいって・・・そう、言ってくれよ・・・!! まだ、死にたくないって!! そう言ってくれよ!! 頼むから、さ・・・そう、言って・・・くれよ・・・」

  泣きじゃくるその声に、俺は言葉を失った。

  いつだって、強くあろうとした。弱さも本音も、全て頑なに見せまいと気丈に振る舞い続けた。そんな自分の弟が、今こうして初めて俺に涙を見せている。

  その事実が、どうしようもなく悲しくて仕方が無かった。

  透き通った青空が、心の奥底に深く沈んだ悲しみさえも、全てを曝け出させるかのように照らし出す。

  まるで、今まで隠し続けてきた嘘も寂しさも全てを浄化させるように。

  その透き通った光があまりにも眩しくて、焼き付いた影さえも心に刻みつけられていくようだった。

  「・・・ずっと、兄貴のことが好きだった」

  目を赤くしながら、目の前の獅子はそう言葉を続けた。

  真っ直ぐに、こちらの瞳を見つめながら。

  涙が、こぼれ落ちた。

  「報われない想いだったとしても・・・例え、許されない関係だったとしても・・・!! それでも、それでも俺は・・・ただ、あんたの隣にいたかった。ただ、あんたのことを愛していた・・・!! 決して、振り向いてくれないと分かっていても・・・いつかは別の誰かと結ばれることになったとしても!! それでも、あんたの傍にいられるのなら・・・それだけでも、いいよなって・・・ なのに俺は、弘昭のことも・・・あんたのことも!! 結局は、何も・・・何も伝えることができなかった・・・!! やっと、あんた以外に愛しい人を見つけられたのに・・・どうして俺は、あんたの次にまたこんな想いをしなきゃいけないんだって!! ・・・そんなくだらない事を考えて、また・・・諦めようとして・・・ なのに――」

  「だが・・・俺は――」

  「――俺は、兄貴の代わりに俺が生き残る位なら・・・今すぐここで死んだ方がマシだ!!」

  俺が全てを言い切る前に、目の前の獅子はそう告げた。

  まるで、その言葉の先を見透かしていたかのように。だから俺は、その後に何も言葉を続けることができなかった。

  少しだけの沈黙が、互いの距離を埋め合わせる。

  これが自分の限界なのだと、そう理性が俺に悟らせていた。

  「そうすれば・・・俺のドナーは、兄貴のものになる。今兄貴がしようとしているのは・・・そういうことなんだぞ? 俺達のどちらかが助かるなんて・・・そんな天秤に互いの命をかけることなんて、同じ人がしていい選択じゃない・・・!! もしだ。もし・・・例え俺が助かったとしても・・・俺は一体どうやって生きていけば良い? どんな顔をして、あの子と接すればいい?」

  「そ、それは――」

  「・・・もう一度だけ、考えてくれ。俺だって、死ぬのは怖い。こんな状況でも・・・生きたいと、そう願ってしまっている。だけどそれは、兄貴だって同じはずだ。さっきだって、俺達3人で・・・身体を重ねて愛し合いたいと、そう言ってくれたじゃないか。俺の気持ちにも応えてあげたかったと・・・そう、言ってくれたじゃないか!!」

  自分の弟が一体何を言おうとしているのか、俺にも少しずつ分かりかけてきた。

  いや。本当ならば、分かりたくはなかったのかもしれない。

  二人がこのまま死ねば、一人になるのはあの子なのだ。

  そんな結末など、俺も弟も望んでいるはずはない。

  「・・・生きてくれよ。・・・頼むから」

  嗚咽を含んだ声が、真っ白な病室へと響き渡る。

  涙ながらのその悲痛な声に、俺は言葉を失った。

  「俺のドナーなら・・・今からだって探せる。・・・そうだろう? 例え俺達の血質が珍しいものだったとしても・・・可能性がゼロではないはずだ。・・・違うか? だから・・・今は俺より先に、兄貴が骨髄移植を受けてくれば・・・もしかしたら――」

  そう、忠伸が言葉を続けようとした。その瞬間だった。

  彼の背後で、ぱさりと何かが落ちた音が聞こえた。ほんの偶発的に、何の意図も故意もなく、それが聞こえた。その音に引き寄せられるように病室の扉の方へと目を向けた時、一体何が起きたのか俺は全てを悟ることになる。

  「ひ・・・ヒロ・・・?」

  あの子だ。

  あの子が、扉の前で立ち尽くしていた。

  まるで、全てを悟ってしまったかのように。呆然と、放心したかのように固まっている。

  彼の足下に落ちた袋の中で、差し入れにと買ってきただろう洋菓子がいびつに崩れたまま横たわっていた。

  「どういうこと、だよ・・・正宗さん・・・」

  絶望したかのように、彼はそう言葉を震わせた。

  目を点にして、わなわなと震えている。

  そんな橙色をした虎を見て、忠伸はその場を立ち上がった。

  「・・・違うんだ、弘昭!! 兄貴だって・・・わざと隠していたんじゃないんだ!! お前の事を想って・・・ただ――」

  「――だから、忠伸さんも隠していたんですか・・・? 自分が、正宗さんと同じ白血病だってことも・・・本当は、正宗さんと俺に惚れてったってことも・・・みんな・・・」

  感情を亡くしたその声に、俺も忠伸をその場に凍り付いた。

  目の前の虎の両肩が、少しずつ、少しずつ、その上下の幅を大きくさせていく。

  胸が、張り裂けそうだった。

  「何なんだよ・・・一体・・・」

  怒りを露わに、目の前の虎は言葉を震わせた。

  その両目に、大粒の涙を蓄えながら。

  真っ赤に染まったその瞳が、ただ俺達を射貫いていた。

  「どうして、言ってくれなかったんですか。・・・どうして、何も教えてくれなかったんですか!! 何もかも全部自分で決めて、勝手にその結末を俺に押しつけて・・・それで、あんた達は満足したのか・・・? それで、あんた達は報われるとでも言うんですか!?」

  「ま、待ってくれ・・・ヒロ!! 俺も・・・忠伸も、そんなつもりじゃ・・・なかったんだ。ただ、ただ・・・俺は――」

  お前のことを、誰よりも愛していた。

  そう伝えようとした、その時だった。彼の眼差しが、鋭く、失望したようにこちら側を見つめ返す。

  まるで、何もかもを見通しているように。

  声が、その命を失った。

  「・・・もう、うんざりだ」

  感情を殺した声で、目の前の虎はそう言い放った。

  その冷徹さに、病室の空気が一気に凍り始める。

  「命の選択ができない? 天秤にはかることができない? だから・・・諦めようっていうのか? お前が助かれ、いや、あんたの方こそ助かれって・・・? ・・・ふざけんな!! そんな自己犠牲に酔いしれた優しさ押しつけられて、たいそう満足そうな顔で死んじまってよ。それで・・・一体誰が、救われるっていうんだよ・・・? それで、俺が幸せになってくれるとでも思ったのか!? あぁ!? 俺が、そんな脳みそがおめでたい奴とでも本気でそう思ってたのか!?」

  「お、落ち着け!! 弘昭!! 兄貴だって・・・本当は――」

  「・・・大っ嫌いだよ!! あんたら二人とも!!! 大っ嫌いだ!!」

  耳を突き刺すその叫び声に、真っ白な病室の壁が微かに揺れたのを感じた。

  肩を上下にさせながら、荒れた呼吸の音がする。

  病室の外で、周囲の人々がこちらに耳を側立てている気配がする。

  喉の奥が、張り付いて離れてくれなかった。

  「・・・ドナーなら、俺が見つけてきます。どんな手を使っても・・・必ず、俺が見つけてきます」

  ワナワナと震えながら、目の前の虎はそう淡々と言葉を続けた。

  まるで、俺達にこれからの結末を告知するように。

  ただ、その言葉を受け入れることしかできなかった。

  「二人とも・・・死なせてたまるか。あんたらが俺に、泣いて謝るまで・・・絶対に、死なせてたまるか・・・!! ・・・償って、もらうからな。あんたらが勝手に、自分たちだけで死のうとしたこと・・・絶対、償ってもらうからな。俺が、許すまで・・・ずっと、謝ってもらうから、な・・・」

  泣き崩れる彼を、忠伸が慌てて抱きかかえる。

  しおれた背中を丸めるように、目の前の黒い獅子は何もすることができなかった。

  今俺が、ただ腕を伸ばすだけで何も言葉をかけることができないように。

  もう俺達には、何も残されていなかった。

  「・・・なんで、何も言ってくれなかったんだよ。・・・どうして、黙って・・・いたんだよ・・・」

  小さな声が、微かに聞こえた。

  その声に、忠伸の顔が苦悩に歪む。

  目の前の涙さえ、拭ってあげることができない。そんな柔なこの指先が、ただ何もない空間だけを抉り続けていた。

  「こんなにも、愛していたのに・・・こんなにも、あんたらのことが大好きだったのに!! どうして・・・どうして――」

  悲痛なその声が、真っ白な壁の中へと消えていく。

  俺達はただ、何度も何度も消え入りそうな声で、彼に謝り続けることしかできなかった。

  2-4 真田 正宗(兄)

  白い光の中で、誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。

  その声を辿り、目で追いかける。

  少しずつ覚醒していく意識に、俺は瞼を開いていった。

  真っ白い、蛍光灯の光だ。それが、ぼんやりと、それでも少しずつ、その輪郭を確かにさせる。

  見上げた病室の天井は、日差しを反射させたようにその明るさを突き放していた。

  「・・・兄貴。気がついたか」

  ふと、隣から声が聞こえる。

  静かに首を横に向けると、何本もの点滴のチューブが見えた。揺らぐその景色の中で、視界がハッキリとそのピントを合わせていく。

  俺と同じ姿をした、黒い獅子だった。

  それが、俺と同じように、薄手の手術服を身にまとったままベットに横たわっている。

  まだ完全には切れていない麻酔の効果が、全身の力を麻痺させたように上手く動かすことができなかった。

  「忠伸・・・」

  「・・・良かった。俺のこと分からねぇって言ったら・・・どうしようかと思ったぞ」

  力なく、目の前の獅子は笑う。

  その表情には、もう影も曇りもなかった。瞳の奥に見える光さえ、透き通って見える。

  逸る気持ちを抑えて、俺は言葉を続けた。

  「手術は・・・」

  「・・・成功した」

  静かに、そう彼は言葉を続けた。

  その言葉に、一気に目頭が熱くなる。

  俺の意図を組むように、目の前の獅子もその目尻を濡らした。

  「くたばりそこねたな。俺も・・・あんたもな。・・・あの子に合わせる顔がねぇよ」

  涙ぐむように、自分の弟は笑う。

  きっと、耐えきれなかったのだろう。チューブが刺さったままの腕を上げると、彼は顔を拭うようにその腕で両目を覆い隠した。

  白いシーツの中で、その黒い毛並みを微かに震わせながら。

  助かったのだと、今になってその事実を噛みしめ始めていた。

  「・・・すまなかった」

  隣のベットへと顔を向けたまま、俺は言葉を続けた。

  手を、伸ばしたいのに。思うように、身体が動かない。

  あと少しで触れられるはずのその大きな体が、なぜか酷く遠く感じた。

  「お前のことを・・・守りたかった。それだけだったのに・・・俺は――」

  「・・・言っただろ。兄貴が死ぬときは、一緒に死んでやるってよ。結局、今のところ結果オーライじゃないか。・・・兄貴が気を負うもんは、何もねぇよ」

  目の前の獅子は、天井を見上げたまま淡々と言葉を続ける。

  澄み切った声のように、何もかもを洗いざらいに吐き出したような声だった。そのすがすがしさに、これが本音だと痛い位に分かる。

  白く透き通った、目を眩ませるような光りだ。

  それが、辺りを包み込んでいる。

  まるで、この瞬間を祝福するように。まるで、この場所に何かが降り立ったように。

  確かに今この瞬間に、自分は生きているのだと。それを、痛い位に感じた。

  「・・・なぁ、忠伸」

  「ん?」

  「・・・一緒に、暮らさないか?」

  その声に、目の前の獅子が目を丸くする。

  無理もない話だと思った。

  「一緒にって・・・兄貴――」

  「・・・言ってただろ。あの子と一緒に、お前とも昔みたいに体を重ねて・・・三人で愛し合い結ばれるような毎日を、お前にも・・・見せてあげたかった。こうして今生きていることを、お前と一緒にいられることを、今なら噛みしめられる。お前となら・・・それができるんだよ、忠伸」

  戸惑うように、目の前の瞳が揺れる。

  俺は必死に手を伸ばすと、微かにその指先へと触れた。

  手を、繋ぐことができない。ただ指先だけを絡め合わせるような、そんな弱々しい握手だ。それでも確かに感じる温もりに、目の前の瞳から涙がこぼれ落ちる。

  「・・・もう、我慢するな」

  小さな嗚咽が、病室に響き渡った。

  「・・・二人で一緒に、あの子を愛そう。こんなにも温かくて幸せなものだということを、二人であの子に教えてあげるんだ。・・・その資格が、お前にもある」

  俺の言葉に、目の前の獅子は何を想うのだろうか。

  戸惑ったように、彼は天井を見上げた。その瞳を揺らし、右往左往と切なげにその目を細める。

  大きく吸い込んだ息が、彼の鼻先から抜けていくのを感じた。

  まるで、何かを受け入れるように。

  言いかけようとして留まるその口先が、切なげに震えていた。

  「・・・本当に、いい・・・のか?」

  かしゃがれた声を震わせるように、目の前の獅子は言葉を続けた。

  「俺、なんかが・・・あんたらの間に入ってもよ。本当に、兄貴は――」

  天井を見上げていたその横顔が、ふと、こちらを向く。

  俺と目線が、重なったその瞬間。目の前の獅子は、言いかけていたその言葉を途切れさせた。

  何かを飲み込むように、そのマズルをワナワナと震えさせる。

  そんな自分の弟の反応が、少し可笑しかった。

  「・・・ずりぃよ。今更、よ。そんな・・・」

  雄々しいその声が、子供のように涙で濡れる。

  額をその腕で覆い隠したまま、彼は泣き崩れた。泣きじゃくるように、嗚咽を上げるように、その泣き声を病室の中に響き渡らせる。

  微かに絡まっていた指先が、固く、握り合わされた。まるで、固くこの場所に約束を繋ぎ止めるように。確かな温もりが、手の平を包み込む。

  握りしめた手の平が、ただ、温かった。

  「・・・失礼します。ご家族が、面会に来られました」

  扉越しに、看護師の声が聞こえる。

  うっすらと、橙色にそまった虎模様が窓越しに見えた。どこか、緊張しているのだろうか。ガラス越しに、微かに彼の身体が強ばっているのが見える。

  愛しいその姿に、ふと、笑みがこぼれ落ちた。

  「・・・ほら、来たぞ。・・・忠伸」

  笑いながら、俺は自分の弟へとそう言葉を続けた。

  優しく、微笑みかけるように。

  涙で真っ赤にそまったその瞳が、少し可笑しかった。

  「・・・思いっきり怒られるんだろうな。・・・俺達」

  「あぁ。・・・準備はいいか?」

  俺の問いかけに、目の前の獅子はやっと笑う。

  繋ぎ止めた手の平が、確かな愛を語り合っていた。

  (了)