[chapter:一日目]
私は、なにもかもに恵まれていない、凡人中の凡人だ。
なにをやっても並み以下で、家でも学校でも職場でも、どこへ行ってもバカにされてばかり。
私の人生は良いことなんて何も起きないのだろうなあ、と、むなしさを感じながら日陰暮らしをしていた。
そんな私が二十七歳にして、とある名家の御曹司である彼と両想いになるなんて思いもしなかった。不釣り合いにも程があるので、なにかのドッキリ企画じゃないかと何度も疑ったくらいだ。
いろいろなことがあって彼の家に嫁入りする流れになった。
今日、招待を受けて彼の邸宅にやってきたのだけど、そこで一つの条件を飲まなければ縁談は認められないと告げられた。
その条件とは、私が人間をやめることだった。
実は彼の一族は、異世界のさる名門貴族をルーツとしていて、違う世界の人間と結ばれてはいけないという秘密の掟があるのだとか。でも人間以外の種族になれば問題はないのだとか。彼も妖精や悪魔といった異種族の血を少しだけ引いているとかなんとか。
話がファンタジーすぎるので彼なりの冗談としか思えなかった。
だけど、いきなり瞬間移動してきた謎のおじいさんが杖を突きつけて、秘密を知ったからには的なことを言って口封じをちらつかせてきた上に、怒った彼が魔法を使っておじいさんの杖を取りあげてみせたので、もう全力で信じるしかなかった。
彼から『僕の一族のために、この世の理から外れる覚悟はあるかい』と、有無を言わせない言葉面ながらも懇願が入った感じで進退を問われた私は、迷うことなくうなずいた。
私を選んでくれた彼には悪いのだけど、正直、私は今になっても自分自身を好きになれない。
人間をやめる、つまり今とは違う自分に生まれ変わることができるということ。ならば上等ではないか。そう思ったから。
私がうなずいたのを見た彼は、ほっと安堵しながらも嬉しそうに笑うと、『ありがとう、そしてごめんな』と言って私を抱きしめてくれた。
私は彼によって邸宅の一室に案内されると、そこで六本の小さな薬瓶がおさめられている小型クーラーボックスを渡された。
彼が言うには、これは竜の血をベースとした強力な魔法薬で、飲めば強くて長命な生き物になれるのだとか。彼が私のためにと頑張って調合した会心の一品らしい。
変化は数日間かけて行うので、その間はずっとこの部屋で過ごしてもらう。毎日決まった時間に薬を一本だけ飲むように。
他にこまごまとした説明が終わると、彼は部屋から出ていって、私一人だけが静かな部屋に残された。
不思議な色合いをした照明灯に照らされている古めかしい雰囲気の広い洋室で、柱時計の秒針の動きを気にしながら過ごすことしばらくして、ついに例の薬を飲む時間がやってきた。
薬瓶のふたを開けて中身を揺らしながら観察してみる。とても鮮やかな原色の赤で、得も言われぬ刺激臭がするので、なんだか体に悪そうである。
でも、これを飲まないと始まらない。それに、彼のやることなら、きっと悪いことにはならないだろう。
意を決して一気に薬を飲み干した。意外と飲みやすかった。
空になった瓶をケースに戻して、しばらく様子を見てみるが、特に何も起こらない。
意外とたいしたことないね、と思って気を抜いたその時、急に胸がドキドキし始めた。緊張しているのではない、ひとりでに動悸が激しくなっているのだ。
胸に手を当ててみると、脈がどんどん速く、強くなっていくのがわかる。
全力疾走したとき以上に早く、かつ全身が揺さぶられるほどに強く脈打つようになる。全身の血管が浮き上がって、重い心音が頭中に響いてくるほどで、心臓が爆発するのではないかと心配になるほどだ。
でも不思議と痛みや苦しさはまったくない。軽く運動したあとのような気持ち良さだけがあった。
皮膚の下でなにかが勢いよく這いまわっている。耳の奥からくちゃくちゃと気味の悪い水音がする。私の中身が、目に見えないなにかによって乱暴にかき回されてゆく。
耳が急に遠くなって、あれだけ大きく響いていた鼓動音がまったく聞こえなくなる。全身の感覚が消えてなにも感じられなくなる。さらに目がひどくぼやけてなにも見えなくなってしまう。
でも、少しして動悸が収まるのと同時に、五感が普段通りに戻った。
いや、元に戻っていない。元よりもはるかに良くなっている。
目が、ものすごく良く見える。目に映る全てがものすごく鮮やかになっていて、今まで見えなかった色が見えるようになっている。部屋に中にある物が、意識すれば顕微鏡で見ているかのように細かく見ることができる。
耳も、ものすごくよく聞こえる。秒針の音以外は何も音がないはずだったのに、部屋の外の生活音まで聞こえてくる。普通は聞き取れないはずの高い音や低い音だって鮮明にわかる。
ついでに鼻も良くなっているようで、少し前までは感じられなかったような種類の匂いを嗅ぎ取ることができる。
まるで世界がまるごと変わったかのようだ。
いったい私はどうなったのだろう。部屋に備え付けられている鏡を覗いてみると、少し人間から離れた私の顔がそこに映った。
私の目は眼球そのものが黄金色に染まっている。そこに浮かぶ瞳孔は、猫みたいに縦に細く割れていた。
思ったよりも人間離れしていて良いじゃないか。
私は人外の目を細めながら微笑んで、ぺろりと舌で口まわりをぬぐった。
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[chapter:二日目]
薬は一日ごとに飲むことになっている。段階をおいて変化をしていかないと、体がついていけずにショック死をすることがよくあるからだそうだ。怖い。
彼がいなければ、暇つぶしのための何かもない。変化を体になじませやすくするため、できる限り安静にするようにと言いつけられているのだ。
退屈な時間に耐えることしばらくして、ようやくお待ちかねの薬の時間がやってきた。
クーラーボックスから取り出した薬を一本飲み干して、座して変化を待つ。
少し間をおいて、昨日と同じように心臓が力強く動き出す。昨日よりも強い鼓動が全身を揺らして、とんでもない勢いで全身に血がめぐるのが感覚でわかる。
体がかっと熱くなると、ボコボコと不気味な音をたてながら筋肉がふくらみだす。腕がみるみるうちに太く、かつ引き締まってゆく。
もちろん腕だけではなく、足も、首も、胴体も、全身が大きくなっていくのが、小さくなっていく服の様子から見て取れた。
筋肉の肥大化が収まると、今度は頭から足先まで、全身の皮膚がきつく強張るような感覚にさらされる。肌がなめした革のようにきめ細かくなって、見てわかるくらいに厚みを増していく。
さらに手の甲の皮膚が硬質化すると赤く染まって、複数の小さな板が重なり合うような形で浮き上がってきた。この形は、鱗だ。
手の甲と同じような感覚が、顔や胸や足などの数か所で走ったあと、今日の変化は収まった。
手を開いて、握る。軽く足踏みをする。
ただそれだけの動作で、今までにない力が自分の体をめぐっていることを実感できる。
空の瓶を軽く握ってみると、牛乳瓶くらいの厚みがあるガラスが割れてしまった。しかも割れたガラスを握りしめたのに、私の手のひらにはかすり傷一つつかない。これは凄い。
一息入れてから、私の姿がどうなったのかを鏡で確認してみる。
ボディラインは変わっていないようだけど、全体が一回り以上は大きくなっていることが、パンパンになっている服の様子からわかった。
質感が革みたいに変わった肌は、シミや傷が完全に消えて、まるで赤ちゃんのような生まれたての美しさになっている。頬をつねってみると柔らかさはあるのだけど、手のひらと同じような頑丈さが感じられた。
その頬には、手の甲のそれよりは細かいけど、似たような形の赤い鱗ができている。触るとざらざらとしていて、かなりの熱を持っているように感じる。爪で突いてみれば硬質な音がして、人肌とは思えない堅さを感じた。たぶん、刃物だって通さないのだろう。
後はあまり目立っていなかったけど、耳の形が変わっている。耳たぶが無くなっていて、上に引っ張られるようにして尖っていた。物語に出てくるエルフみたいだ。
まさか鱗が生えてくるとは。私はこれから何になるのだろう、何になれるのだろう。
次の薬の時間がやってくるまでの間、新しくなっていく自分の姿をあれこれと想像することで暇を潰した。
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[chapter:三日目]
次の日。薬の時間がやってくると、すぐに箱から取り出した薬を飲んで、変化を受け入れる態勢に入る。
少しして、もう慣れっこになった心臓が早鐘を打つ感覚に身を任せながら、私の体が変わっていく様を眺めた。
全身の筋肉がつったかのように強張り出すと、グキッメリッといった形容しがたい変化音が全身から立ち始める。
引き締まった体がさらに大きくたくましくなっていく。腕を上げてみると、手がひとりでに私から離れていく。これは腕自体が長くなっている、骨そのものが急成長しているのだ。
視点がだんだんと高くなって、上着が小さくなっていく。背骨が伸びているらしい。ズボンもみるみるうちに丈が短くなっていった。
視点の動きが止んだので成長はもう終わりかと思ったら、服が悲鳴をあげだすとともに新しい変化が始めった。
新しい、そう、今までにない変化だ。ついに私の体が人間ではないモノへと、本格的に変わり出したのだ。
手の甲についていた鱗が急速に広がっていく。
指先まで鱗で埋め尽くされると、指の爪が根元からめくれ上がる。爪の下から押し出すようにして骨が肉を貫いて、湿った音をたてながら伸び出てきた。
少し濡れている先のとがった骨は、きれいな曲線を描きながら長く伸びていってかぎ爪になる。爪は指の第一近接と少々くらいまで伸びると、光沢を返すようになった。
足のほうの変化はもっと劇的だ。
手と同じように鱗で覆われると、足指の間が裂けるようにして長い指になってゆく。そして爪が自然に剥がれ落ちると、手のそれよりも大きく立派なかぎ爪が、メリメリと肉を裂く音を立てながら伸びて床に食い込んだ。
グキリと骨が派手に鳴って、私の顔が大きくうごめきだす。顔全体が忙しく動いて、骨や肉が盛大に軋む音が耳いっぱいに響く。
鼻あたりが引っ張られるような感覚がしたあと、口の中にゴロゴロとした硬いものがいきなり入ってくる。不快感を覚えて思わず吐き出すと、白いものが散らばって堅い音をたてた。
それは歯だ、私の歯が全部抜け落ちたのだ。
慌てて舌で口の中を探ってみると、ちゃんと歯が揃っていることは感じる。
いや、違う。歯の形が違う。舌先で触れる感覚は、犬歯のそれに近くて先がチクチクしている。それに、口の中が少し大きくなっている気もする。
背中がもぞもぞと動き出す。その動きが頭の方から下半身へと背骨に沿って移っていくと、突然今まで体験したことのなかった感覚が生まれた。
これはなんだろうか、まるで足がもう一本生えてきたかのようだ。
そこで、今日の変化は収束を見せた。
体のバランスが変わったようで、歩こうとするとかなりふらつくけど、すぐに慣れてそんなことはなくなる。
ではさっそく、少し位置が低くなった鏡の前まで来て、私の新しい姿を検めてみた。
鱗で半分くらい覆われている私の顔は、骨格が人間のものではなりつつある。額から上が狭くなって扁平ぎみになり、高くなった鼻に合わせてあご全体が少し突き出ているのだ。
そんな私の顔を支える首が伸びている。今までの倍くらいの長さだ。首も堅い鱗で覆われているけど、不自由なく動かすことができた。
歯がどうなったのかを確認するために口の中を見てみる。
口の中には前歯から奥歯まですべて、同じ形をした鋭そうな牙がぞろりと生えていた。混じりっ気のない純白かつ均整の取れた牙たちは、ひとつひとつが芸術品のようでとても美しい。我ながらほれぼれする。
そういえば声が変わっている。あごや首が変わったからだろう。適当に声を出してみると、獣のような唸り声が混じる低い声が出てきた。
私は自分の声も嫌いだったのだ。いっそのこと、まったく別の声になってくれるとより良い。
手を見てみる。きらきらときらめく赤い鱗がすっぽりと覆い尽くして、鱗のある手に映える大きなかぎ爪が伸びている。
これも牙に負けず劣らずの美しさだ。特にこの爪の色つやは、どんなネイルサロンに通っても出すことはできないだろう。
そうだ、さっき背中のほうにあった感覚がなんだったのかを確認しなければ。
首を真後ろに回して自分の背中を見てみる。盛り上がった背骨の先にある尾てい骨が、前腕くらいの長さの尻尾に成長して、服の裂け目から垂れていた。神経はちゃんと通っているようで、力を入れてみると思い通りに動かすことができた。
しかしちょっと、これは短すぎてみっともない。もっと薬を飲めば、ちゃんとした尻尾に育ってくれるのだろうか。
さて、次の薬の時間がやってくるまで、やることがある。生まれ変わった肌の美しさを守っていけるように、しっかり手入れしておかなければ。
きれいに脱皮できるように、ぺろぺろと舌を使って鱗をていねいに湿らせる。
舌を全力で突き出してみると、人間の五倍以上は長く伸ばすことができた。これなら鱗の手入れも楽々できるだろう。そう思うと、なんだか楽しくなってきた。
将来への期待に胸を躍らせながら、鱗の手入れに勤しんだ。
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[chapter:四日目]
薬の時間を待っているとき、そういえば服の下はどんな状態になっているのだろうかと思って、ビリビリに破れている服を見てみる。
服の裂け目から見える肌は、どこもかしこも鱗で満ちている。腕も足も胴体も、全身がだ。きっと首から下の肌は、ほぼすべてが鱗で覆われているのだろう。
私の鱗は基本的に赤いのだけど、首から胴体にかけての正面部分だけは、乳白色をした板状の鱗が連なっているようだ。まるで蛇の腹みたいである。
この動物的な体を見ていると、なんで私は服なんて着ているのだろう、という疑問が頭を占めだした。
私の体は卵からかえったときから頑丈な鱗で守られているのだから、布を身にまとうなんていう人間の真似事をする必要はないだろう。なんだこの邪魔な布はと、だんだんとわずらわしくなって服を破り捨てたくなってくる。
しかし、いざ服に手をかけようとしてみると、私はまだ人間だろう、服はちゃんと着ていないと、というか細いささやき声が私を止めてくるのだ。
しばらく奇妙な迷いに翻弄されていたけれど、薬の時間がやってきたところで、どうでもよくなった。薬を飲めば、きっと全部解決する。
ごちゃごちゃした考えは全部丸めてゴミ箱に投げ捨てて、まっしぐらに薬へ飛びつく。
長い爪のある手だとちょっとやり辛いけど、なんとか瓶のふたを開けて中身を飲み干す。それからは、いつも通りに流れに任せることにした。
鼓動が早く強くなっていくと、全身がひとりでに震えだす。
体の中から響き渡る、成長の音を聞きながら今日の変化の様子をしっかり見守る。
腕が、足が、首周りが違うものに変わっていく。私の体の形そのものが、人間からかけ離れてゆく。
鎖骨が体の中に吸収されるかのようにして小さくなると、肩幅がどんどん狭くなって、腕の付け根が体の前のほうへと移動する。体の重心が急に変わって立っていられなくなり、床に手を突く。
そこで目に入った私の指の形が変わる。
小指が縮んで、代わりに他の指が太くなっていく。程なくして小指が痕跡も残さず消えてなくなると、指の間が広がって四本指にふさわしい骨の付き方になった。
刃物のようになった爪をもつ手を見ると、なんだろう、これがいつもの私に見える。変わったという実感がわかない。
立ち上がってみようとするけど、やはり大きくふらついて今度は仰向けに倒れてしまう。そこで、私の足が変わっていく様が見えた。
足の親指が他の指から離れていくと、かかと辺りに移動して、親指は横へ伸びていった。
足の小指も、手と同じように縮んでいって、痕跡を残さずに消える。前に三本と踵に一本の、四本指の足となった。
堅い鱗で覆われていて鋭い爪を持つ私の足は、もともとこのような形であったように思えるので、やはり変わったという感じがしない。
足の変化はまだ終わらない。足の甲がぐっと長く伸びていく。その代わりに、太ももとふくらはぎが短くなっていって、まるで犬や猫の後足みたいな形になった。
でも、犬や猫というのなら、何かが足りない、物足りない。そんな私の思いに応えるようにして、私の背中がうずきだす。
背中側の骨がゴキリゴキリと景気よく鳴りだすと、背中が少し浮いて横に転がる。そして私の尻尾が伸びだす。
尻尾の骨と肉がどんどん伸びていって、胴体と同じくらいの長さに落ち着いた。
足と同じくらいの太さがある尻尾を持ち上げて、床に打ち下ろす。
赤い鱗に蛇腹を持つ私の尻尾は、前足以上の自由さで操ることができる。私の後足に巻きつけて締めあげることだってできるのだ。
頭の中から何かが圧し折れたような衝撃を受けて、少しよろめく。そして髪の毛が一斉に抜け落ちて、まとめて床へと落ちる。
全身の筋肉がさらに盛りあがりだすと体が大きくなっていき、限界を迎えた服が全部破れ落ちて、鱗で覆われ尽くした獣の肉体があらわになったところで今日の変化は終わった。
立ち上がろうとするけど、体の重心が全然違っていて後足では立つことができないので、這って動くことしかできない。
慣れない体を操ることに少し苦心しながらも、なんとか壁に前足をついて、なんだか小さくなった鏡を覗き込んだ。
変化をした感覚はなかったのだけど、頭が鱗で覆われ尽くしている。顔のつくりが人間からかけ離れていることもあって、人間だった頃の面影が見事に消えているので、少し驚いて感嘆の鳴き声を出してしまう。
鼻が上あごと一体化して、二つの大きな鼻腔だけが残る。上下の牙がはみ出ている口は、耳の付け根まで大きく裂けていて、その見た目通りに口を大きく開くことができるようだ。
これでうまく話すことができるのか、心配になったので試してみると、猛獣のような唸り声ばかりが出てきて人間の言葉を話すことは全然できなかった。
彼との意思疎通はちゃんとできるのか不安になるけど、まあ言葉以外にも思いを伝える方法はあるので、きっとだいじょうぶだろう。
まさにトカゲ人間という感じの様相だけど、ただのトカゲには無い装飾がたくさんついている。
耳の形はヒレのようになって顔の横側を包み込んでいる。そして、小ぶりな黒い角が四本、無くなった髪の毛に代わるようにして頭頂部から伸びている。
尋常の動物には決して無い存在感と威圧感がある、怪物と呼ぶべき姿だった。
良いじゃないか。平凡な人間の顔なんかよりはずっときれいで、しかもかっこいい。
鏡の中でグルグルと獰猛な唸り声をあげる爬虫類の怪物は、耳まで裂けた口を大きく開けて、ずらりと並んだ牙をむき出しにする凶悪な笑みを浮かべていた。
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[chapter:五日目]
気が付くと、私は四足で部屋の中を歩き回っていた。
人間のように後足で立つよりも、四つの足で歩く方が今の私にはやりやすいのだ。いや、私は竜族なのだし、もともと四足で歩くのが当たり前のはずなのだけど。
なんだかこの頃、色々なことがごっちゃになってきている気がする。頭の中がぐちゃぐちゃになってきている気がする。
まあ、力ある人間の番になれるかなれないかで気の休まらない日が続いていたのだし、全部終わればこの混乱も収まってくれるだろう。
念入りに鱗や爪の手入れをしながら過ごしていると、薬を飲む時間がやってくる。
薬瓶入りの箱を開けようとするけど、極太の指を持つ前足だと留め具を全然外せない。イライラしてきたので力ずくでふたを引っぺがした。
爪の先で瓶を慎重に持ちあげて、瓶ごと呑みこもうとしてみるが、ガラスは少し消化に時間がかかるかもしれない。というわけで、牙で瓶を噛み割ってから呑み込むことにした。
メキリミシリと肉が軋み、ゴキリグキリと骨が鳴る、多種多様な異音とともに体がさらに成長していく。
私の視点が胴体から離れていく。私の首がさらに長く、かつ太いものになっていく。首や胸周りの筋肉が特に増大して、頭をしっかりと支えられるようになった。
乾いた破砕音とともに、頭全体が強く締め付けられる。続けざまに、やかましい変化音を頭いっぱいに響かせながら、あごがぐんぐんと前に突き出ていく様子が見えた。
とても長くなった首をひねって背中側を見てみる。
尻尾が太さを増しつつ長く伸びていって、私の体長の半分を占めるほどになる。
これだけ長ければ物を巻き取るのに使いつつ、外敵の撃退に使うことも満足にできるようになるだろう。なんだか嬉しくなって尻尾をふりふりしてしまう。
立派な背びれが生えている背中の、肩のあたりが大きく隆起する。私の本能が、これが私にとって一番大事なものだと教えてくるのだけど、そこで変化は終わってしまった。
いくら待ってみても、私の背は動きを見せない。なんてことだ、こんないいところで終わってしまうなんて。
それがあまりにも理不尽すぎて、喉の奥から漏れ出る炎で口がいっぱいになってしまう。このまま怒りに任せて部屋を火の海にしたくなるけど、ここは彼の家だ。かんしゃくはいけないと考え直して炎を飲み込んだ。
薬はまだ残っている。最後の一本が残っている。これを飲めば、私は完全になれるはずだ。
今すぐ薬を飲んでしまいたい衝動にかられるけど、理性を総動員してなんとか抑え込む。急いては事を仕損じるというし、何事も焦らないことが肝要だ。
とりあえず、鏡だ。完全体に近づいた私の姿を確認したい。
逸る気を抑えてゆったりとした歩きで鏡の前に立って、私の姿を映してみる。
私の姿は、まさに西洋の竜そのものだった。
赤い鱗が全身を包み、四本の黒い角をもつ雌竜が、鎌首をもたげて縦割れの瞳で見つめてきている。
私の顔は頭頂部が平たく、口吻となった大あごが突き出る、爬虫類の形になった。そこに、より発達して大きくなった角や耳のヒレ、下あごや鼻先に生えてきたトゲが加わることで、竜らしさをもたらしている。
首長竜ほど極端ではないけど、私の首は胴体と同じくらいという長いものになっている。驚くほど自由自在に動かすことができるので、あらゆる方向に鼻先を向けることができる。首を伸ばせば体のどこにでも舌を伸ばして舐めることができるだろう。
大きな角度で開くあごを全開にしてみると、鋭い牙が生えそろう長大な口内で、先が二股に割れた舌がちろりと踊った。
唾液の糸を引く牙だらけの口を見て私は思う。これだけ大きな口なら、どんな敵も噛み殺し、どんな獲物も丸呑みにすることができるに違いない。
なんて力強いのだろう、なんて美しいのだろう、なんて完璧なのだろう。人間のような、いくらでも湧いて出てくる下等生物とはわけが違う。
いや、私の彼は人間だけど。あの人は魔法を使える強者だから例外だ。
私は尻尾を振りながら猛獣の唸り声をあげて、しばし自分の姿に見ほれていた。
[newpage]
[chapter:最終日]
眠りから目覚めてみると、ちょうど最後の薬を飲む時間だった。
生粋の竜族である私にとって、決めた時間に眠りを覚ますことなんて朝飯前なのだ。ちょっとだけ満たされた気分になって、ご機嫌な唸り声が出る。
薬の瓶を取ろうとするが、私の前足だと人間用の瓶は小さすぎて、つまむことすらできない。うまく持とうと少しの間だけ格闘していたけど、なんだか面倒くさくなってきたので、小箱ごと丸呑みにしてしまうことにした。
やろうと思えば金属や鉱石だって喰らうことができるのだし、ひと呑みにしたほうが手っ取り早いし楽だ。
小箱を呑み込み、首のふくらみが胴体へ落ちると、少しして私の体が最後の変化を始めた。
心地よい鼓動と共に、全身に大いなる力が張っていく。
筋肉がますますふくれあがると、体がさらに巨大なものになっていく。扉や壁を壊さないと、もう部屋の外には出られそうにない。
全身を覆う赤い鱗が色鮮やかになると、厚みと柔軟性がより増していく。砲弾も軽々と弾き返せるであろう堅牢さだ。
四肢の爪がさらに伸びて、より堅く鋭くなってゆく。これなら鋼鉄の鎧だって紙のように引き裂けるだろう。
首がより太く長くなるとともに、牙をさらに鋭くしながら口吻が充分に突き出ていく。これなら同族の鱗だって喰い破ることができるに違いない。
頭やあご周りの角がさらに発達してゆく。背びれが大きくなって背中を立派に飾りたてる。尻尾の先に鋭い骨の刃ができる。
魔力が間欠泉のように湧きだして、神秘的な力が全身に満ちてゆく。竜族としての理を本能で理解できるようになる。
そんな力の奔流が私の背中の一点に集中していく。人間でいう肩甲骨あたりにある骨の盛り上がりが、ぐりぐりと動き出す。とうとうこの時がきた。
私は床に爪を喰い込ませ牙を食いしばることでふんばって、背中に更なる力を込める。集中が最高潮に達して、思わず高々と咆哮したその瞬間、私の背から皮膜をもつ翼が勢いよく飛び出した。
私の全身を包み込むことができるくらいの巨大で雄大な翼だ。
ついに変化が終わった。私は本来の体を取り戻すことができたのだ。
さあ、鏡の前に立って、完全になった私の姿を見てみよう。
今日は細部の変化が主なものだったので、姿かたち自体は昨日からあまり変わってはいないけど、翼が生えただけで印象が全然違うものになっている。
試しに翼を動かして軽く羽ばたいてみると、猛烈な突風が生まれて部屋の中の小さい家具が倒れたり吹き飛ばされたりした。これならすぐにでも空を飛べるだろうと満足して翼を畳んだ。
やっぱり竜族は翼があってこそ。翼が無ければ狩りも求愛もままならない。これなら胸を張って彼と番うことができるだろう。
と、そこでお腹からものすごい爆音が鳴る。私の胃が、お腹が空いて死にそうだと訴えてきた。
そういえば、数日前から何も食べていなかった。薬のおかげか今まで気にならなかったのだけど、変化の終わりを迎えたところで限界が来たようだ。
今すぐにでも狩りをしに出かけて人間あたりを数匹ほどつまみたいのだけど、私はこの部屋で過ごすように言いつけられている。許しをもらうまでは、勝手な行動をするわけにはいかない。
あまりにも空腹になると、うっかり彼を食べてしまうかもしれない。それだけは絶対にいけない。
やっと彼と番になれるというのに、彼を食べたりしたら何もかもが台無しではないか。
だらだらと流れ出る唾液を飲み込み、空腹をごまかすために尻尾を丸めて寝てしまうことにした。
[newpage]
[chapter:竜生開始]
ひと休みをしてすぐに、彼の気配が部屋に近づいてきていることを感じて目が覚めた。私が彼との縁談を進めるための条件を満たせたので、迎えに来たのだろう。
相変わらずお腹は空いている。このままでは飢えによって理性を失って大暴れしてしまうかもしれないけど、ここが正念場だ。絶対に耐え抜いてみせる。
急いで鏡の前に立って最後の仕上げをする。
なにはともあれ脱皮だ。顔や胸に爪を突き立てて、古い皮をむき取る。さすがに全身は無理だけど、目につくところの鱗は新品にすることができた。むいた皮は喰って腹の足しにしておく。
あとは床に散らばっていた布で、前足の爪や角に磨きをかける。爪はしっかりと研ぎたいところだけど、そこまでやる時間はないので妥協する。
なんとか彼が部屋に入ってくる前に、最低限の身繕いが終わった。尻尾を振りながら待つこと少しして、ついに彼と数日ぶりの再開を果たした。
すかさず駆け寄って、甘え鳴きしながら顔を擦り付ける。彼は笑って私の鼻先を優しく撫でてくれた。
いや、彼はこんなに背が低かっただろうか。彼は長身で私よりもずっと背が高かったと思うのだけど、私の体高以下しかないので、一口で食べてしまえそうだ。
これはどういうことなのだろうか。なにかが違うと思えて、奇妙な感覚に戸惑いを覚える。
いや、人間はもともと小さい生き物だ。この大切な時に話をこじらせたくはないので、ただの思い違いということで片付けておく。
これから縁談を進めることになるわけだけど、これからどうなるのだろうか、どうすればいいのだろうか。ちょっと不安に思いながら問いかけてみると、彼は『人間の言葉でだいじょうぶ』、『今の体なら話せるよ』と言ってきた。
どうしてだろうか、魔法を使える一族なら竜語くらいはわかるはずなのに。彼がそう言うのなら人間語で話すまでだけど。
それと彼から、『元の姿に化けてくれ』、『化け方は僕が教える』などと言われて困惑してしまう。
元の姿と言われても、これが私の生まれ持った姿なのだ。元もなにもないではないか。
それに私は今年で二百七十歳の成竜だ。強い力をもって生まれることができなかった私でも、自己変身の魔法くらいは教えられずとも使える。私の種族なら、卵からかえって五年目くらいで自然と身につく程度のものだ。
そんなことを彼ほどの雄がわからないなんてあり得ない。
素朴な疑問をぶつけてみると、なにやら微妙な表情になった彼は頬をぽりぽりと掻いたあと、押し黙ってしまった。
さっきからなにかが噛み合わないので少し心配になってきたが、そこで不思議なことに見知らぬ人間の雌の姿が頭の中に浮かぶと、コレになればすべてが解決すると直感する。さっそく竜の魔力を練って、その人間の姿になってみた。
人間は服というものを着ないといけない生き物なので、魔力で衣を編んでおくのも忘れない。ちゃんと人間のことを勉強していた私は偉いと思う。
鏡がすぐそばにあるので、小さくなった私の姿を確認してみると、すさまじい不快感に襲われて牙を剥きながら唸り声をあげてしまう。
なんだろう、この小汚い人間の雌は。通りすがりに私が喰ったとしても問題にされることがなさそうな面だ。
見ていてイラついてくるので、今すぐ私のブレスで消し炭にしたくなってくる。どうして私はこんな燃えるゴミに化けてしまったのだろうか。
でも、私本来の四本角、黄金の虹彩をもつ縦割れの瞳に、鋭い牙や爪を持っている。おまけに耳も長く先が尖っている。
これなら竜族の血を引いている人間だと思えなくもないので、存在することを許してやれるか。
彼にこれで良いかと問いてみたら、彼はなぜか冷や汗をかきつつも、優しい笑みを浮かべながらうなずいてくれた。
私を別の部屋へと案内する彼は、頭を抱えながらブツブツ言っている。『すべてが竜そのものになってしまったか』、『でも人格の根本は変わっているわけではなさそう』、『僕がなんとかしなければ』、などなど。
人間語を話せと言ってくることいい、やっぱり今日の彼はちょっと変だ。
いや、彼も結婚という人生の転機にのぞんでいるのだし、私と同じように緊張しているのだろう。ここはそっとしておくことにする。
さあ、縁談を成功させるように頑張らなければ。
彼との付き合いはここからが本番だ。軽く炎を吐いて気合を入れて、ぺろりと先割れ舌で顔中をぬぐった。
終わり