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[chapter:第一章 腹と王子と、学びの初日]
王立修学園・南館第三教室。
騎士科の基礎講義が始まってまもなく、3年のオルドはひそかにため息を吐いていた。
……なあにが、「これからの王国を担う精鋭の集い」だ。
教壇では初老の講師が、戦列槍の構え方について小難しい歴史を語っている。だが、聞く者の目線はまばらで、貴族も平民も等しく舟を漕ぎかけている。
オルドは教室の隅、壁際の席に座っていた。生徒の中では大柄な体格で、座るだけで椅子がきしむ。自覚はある。だからこそ、他人に迷惑をかけぬよう隅を選んだ。
だが隣の席――王子殿下がいるとは、知らなかった。
「……う、む……静かに……」
くぐもった声がしたと思うと、隣からずりっという音。
オルドは視線をそちらに向けると、そこに――頭から腹へダイブする王子の姿があった。
「うおっ――!? ちょ、待っ、殿下!?」
ばふん。
それは重力のいたずらではなかった。意志だった。確実に、王子レオナール・グランフォード殿下は、自らの意思で猪獣人の腹へ頭を沈めたのだ。
「……うむ。沈む。これは……良い」
「いや何が!? いや、下がってください、殿下! 俺の腹っ……!」
教室の空気が変わった。ざわざわと立ち上がる生徒たち、息を呑む貴族の子息、震える平民の女子。
その中心で、オルドは自分の腹を王子に寝床扱いされている現実と戦っていた。
「ちょ、離れ……! あっ、いや、殿下! 寝ないでください殿下! 俺、叱られるのは……っ!」
「……ぬくい……静かで……良い腹だ……むにゃ……」
寝た。
殿下は腹の上で本当に寝た。
王子の豊かな鬣が、オルドの制服にかすかに触れる。胸のすぐ下あたりに、じんわりと温もりが広がる。
この状況が――一体、何なのか。
オルドの頭は、理解を放棄した。
◆
日が傾き、講義が終わると、教官から直々に注意が飛んだ。
曰く「王子の枕になるとは、何事か」。
曰く「そのような近距離で何をしたのだ」。
曰く「貴様は騎士になる気があるのか」。
――やかましいわ。全部俺じゃない。
それだけは、はっきりしていた。
だが口に出せば「無礼者」と断じられる立場だ。3年のオルドは頭を垂れ、「申し訳ありません」と三度も謝った。
王子本人は、ぐっすり眠っていたらしい。
……くそ、王族ってのは、ああいうものなのか。
◆
そして夜――。
寄宿舎で寝巻に着替えていたオルドのもとに、年嵩の従僕がやってきた。
「3年騎士科のオルド殿でございますな?」
「……はい、そうですが……何か?」
「殿下がお呼びでございます。“静かに来い、枕だけでよい”とのこと」
「……は?」
◆
案内されたのは、寄宿舎の最上階。貴族専用の上級個室。
王子専用の室(しかも二部屋ある)には、すでに灯が落ちていた。
従僕は扉を指し示し、言った。
「お入りなされ。“寝ておられるが、入って良い”とのことです」
「……いや、いやいや。これって、俺が勝手に侵入した扱いになりません?」
「なりません」
「なら良いんですけど……いや良くねぇ!」
それでも、入ってしまった。
断れなかった。所詮は平民。王子の命に逆らえるわけもなかった。
扉を開けると、ほのかな灯と香が漂っていた。
そして、いた。
王子は寝巻姿で、寝台に横たわっていた。
オルドを見て、ゆっくりと片手を上げる。
「……来たな。静かで良い。……さあ、そこへ」
「……はぁ……はい」
心中では叫びながら、オルドは寝台の端に腰を下ろした。
すると王子は、当たり前のように、再びその腹へ顔を埋めてくる。
「うむ……今日の腹は、昼よりやや張りがあるな。夕餉は何を?」
「干し肉と……じゃがいも粥でした……」
「良い配分だ……沈む、が……返される。心地よい」
この男は――腹に何を求めて生きているのか。
オルドは天井を見つめて思った。
そして、眠る前の王子がぽつりと呟いた。
「……将来……俺が王になったら……お前を……隣に置こう……枕として……」
「勘弁してくれよ……」
そう思いながらも、オルドの腹は、その夜もまた静かに沈んでいた。
[newpage]
[chapter:第二章 逃げても腹は追ってくる]
狩人が、昼休みを狙ってくる。
いや、正確には腹を狙う王子が、である。
王立修学園・3年騎士科のオルドは、今日もまた全力で昼食と平穏を求めて逃げていた。
「ここなら……さすがに来ねぇだろ……」
南棟裏。古い石造りの倉庫と倉庫の間。使われなくなった訓練具が積まれた死角の空間。風通しも悪く、椅子もなければ灯りも差さない。
だが、静かだ。落ち着く。
オルドは弁当袋を抱え、こそこそと背を壁に押しつける。
が――出ている。腹が。
どう構えても、どんなに警戒しても、前にあるものは隠せない。
体格がよすぎるというのも、こういうときには厄介だった。
「いただきます……」
ぱか。
干し肉と豆粥。今日は贅沢にゆで卵つき。しっかり噛んで食べれば、腹の持ちも違う。午後の鍛錬も耐えられる。
「……うまい」
もぐもぐと噛むたびに、腹の内側に温かさが広がる。満ちていく、という感覚だ。
――このまま、誰にも見つからずに済めば。
オルドは静かに、祈るように箸を動かした。
が。
その祈りは、十口目で破られた。
「……いた」
声がした。
「げっ」
オルドは反射的に木箱の影へ身をよじった。だが腹は、木箱の陰から半分以上出ていた。逃げ切れない質量。
そこにいたのは――レオナール王子殿下。
「……よく見つけましたね!?」
「干し肉の香りが残っている。豆粥も、塩気の強いやつだな」
「それで場所が分かるんですか!? 殿下、魔物じゃないですよね!?」
王子は静かにうなずいた。
「この世には、“腹が満ちたときに発する香気”というものがある。俺は、それを辿っただけだ」
「知らないですよそんな香気!」
そして、王子はふわりと膝を折り――近づいてきた。
「昼の腹は、また夜とは違う……沈みと張りの関係が……」
「また来た……!」
オルドは身をのけぞらせた。が、王子は慣れた手つきで制服の腹部をぽす、と軽く叩き、
そして――
「む……やはり。沈む……そして、返す。理想的だ……」
再び、顔を埋めてきた。
しかも教室ではなく、今度は昼の屋外で。
「ひ、人が来ますよ! 殿下、さすがにやめてくださいってば!」
「来ない。この裏手は昼は誰も寄らぬ。静かで、腹に集中できる……ふふ」
「集中ってなんですか!」
オルドは抗議の声を上げながら、そっと背筋を伸ばす。腹に乗った王子の体重は軽い。だが、圧がある。
鬣の毛が制服に触れて、耳元にかすかな息がかかる。
この距離、この姿勢――あの夜と、まったく同じだ。
「……そなたの腹は、寝台では得られぬ感触を持つ」
「はあ」
「沈むが、沈みきらぬ。温いが、熱くはない。ぬくもりと張りの均衡――」
「殿下!? 俺の腹で詩作しないでください!」
「否、記録である」
「……してんのかよ」
オルドはため息をついた。
「じゃあ……せめて、午後の鐘が鳴るまではにしてください。訓練遅れたらまた教官に――」
「問題ない」
王子は目を閉じたまま言った。
「我が指示である。“騎士訓練は、質の良い腹から始まる”」
「お言葉が、すべておかしいです」
◆
そして午後。
教官が生徒たちを点呼する中で、オルドは若干遅れて到着した。
教官「……またお前か、オルド!」
「申し訳ありません!」
「殿下の添い寝などという勝手な口実はもう通じんぞ!」
「本当なんです!」
生徒たちは失笑し、数人の貴族男子が「また腹か」とひそひそ囁いた。
オルドは思った。
これはたぶん、学園生活で誰よりも特殊な立ち位置になってきた。
だが――
王子は、午後の実技訓練中も、槍の訓練台のかげで小さく欠伸をしながら言った。
「……明日も……頼むぞ。昼の腹は、あれで安定する」
「……はい」
返事してしまった自分が、いちばん信じられなかった。
[newpage]
[chapter:第三章 令嬢の記録は止まらない]
――観察対象:レオナール・グランフォード殿下。3年。王家の直系男子。
行動特性:「静かな場所」「柔らかい接触対象」「猪型種族の男子の腹部」に対し、著しい執着傾向を示す。
王立修学園・女子寮の一室。
刺繍科とマナー科を並行受講している2年のシルヴィア・ロスフェーンは、膝の上に記録帳を広げていた。
記されているのは、文ではない。観察図解と、腹沈みのスケッチである。
(……今日も、沈んでおられましたわね……)
思い出しながら、羽ペンを走らせる。
描かれているのは、昼休み。騎士科の校舎裏手にて。
王子が、猪獣人の男子――3年のオルドの腹に頭を埋めている光景。
まるで野外の貴族用昼寝椅子のような、異様な光景だった。
シルヴィアは偶然通りがかり、目撃した。……いや、三度目である。
「……これはもはや、偶然ではありませんわね」
ペン先が、腹の沈み込みをなぞる。
この角度、この重力のかかり方。王子の側頭部が押し返され、布地のしわが浮く。
(布地が……わずかに……跳ねて……)
毛並みがわずかに揺れる描写を加えると、ページの余白が足りなくなった。
観察記録帳・第二巻に、突入する。
◆
「ロスフェーン嬢、刺繍が進んでいますね」
「ええ、まあ。はい、進んでおりますわ」
翌日の刺繍科の講義中。講師がシルヴィアの細密刺繍を覗き込み、感嘆の声を上げた。
だがそれは、講義の題材とは関係のない柄だった。
講義課題:花冠と王冠の並列文様。
シルヴィアの刺繍:腹の上に頭を乗せる王子の後ろ姿。
「……あっ、これは……自主研究課題ですの。後ほど別紙に……」
「そうですか。たいへん……独創的ですな」
講師の口角が不穏に引きつったが、シルヴィアは気にせず続きを縫った。
(この沈み具合は、“張軟”……やや張りつつも、布地の戻りがゆっくり……)
今や彼女は、王子の睡眠状態と腹の沈み込みの相関関係に確信を抱いていた。
◆
放課後、マナー科の談話室にて。
シルヴィアは友人の侯爵令嬢から声をかけられた。
「ロスフェーン嬢。最近、騎士科のほうが少し騒がしいと伺いましたけれど。王子殿下と……どなたかが関わっていらっしゃるとか?」
「……お腹ですわね」
「……はい?」
「王子殿下が毎日、お腹にお顔を沈めていらっしゃるのです。3年のオルド殿の」
「それは……少々、スキャンダラスではありませんか?」
「いいえ、まったく。睡眠ですの」
あまりに自信たっぷりの即答に、友人が黙った。
シルヴィアは紅茶を一口飲み、静かに息を吐く。
「わたくし……見てしまいましたの。殿下が、ただの昼寝ではなく……整った寝息を、あの腹の上で初めて整えておられたところを」
「……観察していらしたのですね?」
「ええ。手のひらの位置、頬の沈み、うなじの汗腺活動量……。すべて記録しております」
「……本当に、記録なさっていたのですね……」
友人はそっと紅茶を置き、カップの持ち手を拭いた。
◆
夜。
女子寮の自室。机の上には、観察帳・第二巻が開かれていた。
シルヴィアは新たに、「昼と夜で変化する沈み方の分類表」を書き始めていた。
分類項目:
- 張沈型
- 緩沈型
- 反発弾型
- 温吸型
- 脈動安定型
そして、その横に――王子の眠る顔のスケッチが添えられていく。
(この寝顔を描くのは……もう、何度目かしら)
繊細な筆致で瞼の角度を描きながら、シルヴィアはふと、手を止めた。
思い返すのは、数日前のあの夜。王子がオルドを部屋に呼んだ初日――
王子は、夢うつつでこう言っていた。
『……将来、俺が王になったら……お前を……隣に置こう……枕として……』
その言葉を、シルヴィアは遠くから聞いた。聞こえてしまった。
そして今、書き添えたのはこうだ。
《腹記録・特別項:王子殿下、専属寝具としての“未来予約”を宣言》
「……殿下……本気でおっしゃったのかしら」
ぽつりと呟いた声に、誰も応えない。
夜風が窓を揺らし、記録帳のページがふわりとめくれた。
[newpage]
[chapter:第四章 腹ダンスと夜の侵入未遂]
「――今学期の課題は“王城舞踏基本型第一式”の実演である」
ダンス科の講堂に、教師の張りのある声が響く。
重厚な石造りの床には、磨き抜かれた板張りが嵌められている。
舞踏用の空間に立たされた騎士科とマナー科の生徒たちは、ざわめいていた。
「……なんで俺がここに……」
3年騎士科のオルドは、緊張の面持ちで立ち尽くしていた。
理由は単純。選択科目の“礼法実技”で一定以下の点数を取った生徒は、補習としてダンス課題を受ける羽目になるのだ。
だがそれはまだいい。問題は――
「それでは、ペアを組んでいる者たちは順に前へ。なお、ペアを選んでいない者はこちらで任意に振り分ける」
――それ。
教師の言葉と同時に、静かに一人の令嬢が、すっと前へ進んだ。
「シルヴィア・ロスフェーン。2年、マナー科」
「あっ」
オルドは咄嗟に一歩後ずさったが、遅かった。
「ペアは、3年のオルド様とご一緒します」
堂々と告げられた言葉に、講堂の空気が微妙に揺れる。
「あ、え……俺、ですか……?」
「ええ。貴族令嬢が平民騎士科と組むなどと、言われそうですが……構いませんわ」
いやそれ、わざわざ言う必要あります?
オルドの心の叫びは、舞踏用の音楽にかき消された。
◆
ダンスが始まった。
右手と左手を取り、軽く角度をつける。
そして一歩、回り、また一歩。
「……わっ……」
思わず、オルドは踏み出した左足を引っ込めた。
「す、すいません、つい……」
「大丈夫ですわ。踏まれることは、慣れておりますので」
「それはそれでどうかと……」
身長差。手の厚み。視線の高さ。どれを取っても、オルドの方が不釣り合いだ。
にもかかわらず、シルヴィアの動きは乱れない。むしろ――
「(この安定感……重心が……腹部で吸収されてるのでは……)」
観察者としてのスイッチが、完全に入っていた。
オルドはそれに気づかず、ただただ額に汗を浮かべていた。
◆
遠く、講堂の片隅。
窓の外に、ひときわ静かな気配があった。
「……あれは……シルヴィア嬢か……そして……オルド」
3年のレオナール王子殿下は、音もなく立っていた。
窓越しに、ペアで踊る二人の姿。
シルヴィアの優雅な旋回。
オルドの不器用なステップ。
そして、その腹の動きと引き締まり具合。
「……今日は……やや張り……だな。回転の遠心力で……表層が硬くなる……なるほど……」
その場で腹の状態を観察記録しながら、王子は静かに帰っていった。
◆
夜。
寄宿舎。オルドの個室。
着替えも済ませ、やっと布団を敷こうとした、そのとき。
――ぎ、ぎ、と、扉の音がした。
「……どちら様……?」
そっと扉を開けると、そこにいたのは王子だった。
「……うわああああああ!?」
「しっ。静かに。周囲には気づかれておらん」
「気づかれてなくても、侵入はアウトですって!」
「違う。これは、夜間巡察である」
「してませんよね!? 武装してませんよね!? 殿下寝巻きですよね!?」
王子は一歩入ると、すっと布団の横に腰を下ろした。
「本日は、腹の観察ができなかった。俺は……不安だ」
「不安の理由が限定的すぎる!」
オルドは両手で腹をガードした。が――
腹が前にある限り、防げない。
「む……うむ……やはり今日の踊りのせいか、張りがある。舞踏による腹の鍛錬……有用だ」
「俺、腹筋鍛えてるつもりじゃないんですけど!?」
だが王子は、すでに腹に顔を乗せていた。ふわ、ふわ、と呼吸が浅くなっていく。
「……まったく……」
オルドは抗議をやめた。無意味だ。
この男は、もうすでに眠気の領域にいる。
ふ、と。王子が寝息を漏らす。
「ぬくい……布団より……ぬくい……この腹……」
「……その台詞、何回目ですかね……」
◆
翌朝、シルヴィアの観察帳には、次のように記されていた。
《第四章記録:殿下、夜間巡察の名を借りて非公式腹接触を実行。
腹沈下:張軟反発型。王子、速やかに沈眠。観察時間わずか十数秒。
やや感情的な行動。嫉妬の初期徴候か。今後注意。》
ページの端に、紅茶のしみが滲んでいた。
[newpage]
[chapter:第五章 昼と腹と、観察の終わり]
陽光があたたかく、空気がぬるかった。
学園の南側――訓練場の裏手にある裏庭は、昼休みにしては人影がなかった。
ベンチの片端に座ったオルドは、弁当の包みをほどきながら、ちらりと隣を見た。
「……ロスフェーン嬢。ほんとに、そこでいいんですか?」
「ええ。遠慮しなくて大丈夫ですわ。……観察の対象は、腹だけですので」
「いやいや、さすがにそれはひどくないか?」
我ながらツッコミが完全に素で出た。
しまったと思い、すぐ言い直す。
「……あの、失礼。ちょっと口が……」
「まあ。冗談まで丁寧に謝られるのですね。やはり、観察に値しますわ」
「観察と何でもつなげるなよ……って、あっ、また……」
ついまた素に戻っていた。
オルドは咳払いして姿勢を正す。弁当を開く指がちょっと硬い。
今日のシルヴィアは、紙も筆も持っていない。ただ、彼の隣にいる。
観察帳もないのに、視線が妙に落ち着かない。
「……昼間、ひとりのときって、あんまりないんですよね。自分」
「ええ。いつも、誰かのお腹の上に王子殿下が……いえ、逆でしたわね。あなたの腹の上に殿下が」
「いや、訂正する必要あるかそれ?」
また素が出た。今度は止めなかった。
「観察者としては、対象の正確な位置関係は大切ですの」
「わかったけど、それ以上腹を専門分野みたいに扱うなって」
もう無理だ。全部ツッコんでたら、口調の維持とかしてられない。
ていうか、なんで俺、最初から丁寧語だったんだっけ……?
「……なあ」
「はい?」
「口調、もう崩していいか?」
シルヴィアは一瞬、驚いたように目を丸くした。
だが、すぐにふわりと笑った。
「ええ。嬉しいですわ、オルド」
名を呼ばれた瞬間、なにか胸の奥がじんわりと温まる。
「俺も、あんたのこと、ロスフェーン嬢じゃなくて、名前で呼んでいいか?」
「もちろん。“シルヴィア”で」
「……じゃあ、シルヴィア」
やけに素直に言えた気がする。
◆
会話は他愛のないものに移っていった。
今日の授業、昼の弁当、王子が今朝起きたとき「腹が冷えていた」と怒っていた話。
「……ていうか、毎朝俺の腹が起床装置って、どうなんだ」
「新しい魔導器の開発分野ですわね。“腹枕式自動起床導具”。市場が狭そうですけれど」
「そっちもノってくるんだな……」
笑いながら、ベンチの上で二人の肩が揺れる。
オルドはふと、弁当袋を手に取りながら言った。
「そろそろ、卒業っすね。俺も、殿下も」
「……ええ。わたくしも、“観察”は卒業いたしますわ」
「それって、何かの卒業証書もらえるやつか?」
「もしあるなら、あなたの腹印が押されるべきでしょうね」
「やだな……それ、王印より重そうだな」
言葉が重ならずとも、沈黙が苦にならない空気だった。
春の風が吹いて、前髪がふわりと揺れる。
ふたりの間に流れる温度も、もう“記録”では測れなかった。
シルヴィアが、スカートのポケットから小さな手帳を取り出した。
表紙に金文字で書かれたその名は――
『腹沈記録・第二巻』
彼女はそれをそっと閉じ、静かに口を開いた。
「……わたくし、これから“観察者”ではなく、“ご友人”になりますわね」
「こっちも、腹を守るだけのやつじゃなくなるといいな」
「ええ。でも、腹は好きですけれど」
「言うと思った」
笑い声が、春風に舞った。
[newpage]
[chapter:第六章 眠る王と、見つめる令嬢]
昼下がりの中庭は、空気の色まで淡かった。
陽は高く、けれど風はひんやりとやさしくて、芝の上に影がやわらかく落ちていた。
レオナールは一人で、古い石のベンチに座っていた。
制服の上着は脱いで脇に畳み、袖をたくしあげたシャツの腕に、微かな春の光が当たっている。
寝るには、いつもより“条件が悪い”――それだけが、今日の問題だった。
「……やっぱり、腹がないと落ち着かん」
ぽつりと漏れた言葉は、空に吸われた。
いつもなら、オルドが隣にいてくれた。昼寝でも夜でも、あいつの腹があれば、眠れた。
けれど今日は、訓練で遠出している。
代わりの何かを探そうとしたが、“あれ”の代わりは存在しないと、ようやく悟った。
枕でもない。抱き枕でもない。掛け布でもない。
オルドの腹。それは唯一だった。
「……どうしたものか……」
頭を預ける石の背もたれは硬すぎて、眠気を拒んでくる。
諦めかけたそのとき――足音が近づいてきた。
「殿下。それは昼寝前の御言葉ですか?」
光の向こうから声が届いた。
現れたのは、シルヴィア・ロスフェーンだった。
彼女は教科書を小脇に抱え、風に揺れるスカートの裾を抑えながら、王子に向かって一礼した。
「偶然……ですわよ?」
「そうであろうな。まさか、お前が俺の腹の代わりになる気ではないだろうな」
「代わりになろうにも、質量が足りませんわ」
「冷静な返しだな」
微笑がこぼれ、二人の間に小さな静けさが生まれた。
「……座ってよいぞ?」
「失礼いたします」
シルヴィアはベンチの端に腰掛け、制服の前を整えた。
座った途端、ふっと肩の力が抜ける。今日は珍しく、記録帳を持っていなかった。
◆
「……殿下、今日は眠れないのですか?」
「腹がないからな」
「本当に、そこまで必要とされているとは……観察者としては光栄ですわ」
「お前の観察帳は、もう完結したのではないのか?」
「はい。観察は、終わりました。“記録”に移行しております」
「似たようなものに聞こえるが」
「大違いです。観察は一方的です。記録は――“残したい”という意志が伴いますの」
レオナールは、わずかに顔をこちらへ向けた。
「それは……誰のための記録だ?」
「殿下のため。そして、わたくしのためです」
風が吹いた。小さな葉が二人の足元を滑っていく。
◆
「……俺は、よく“見られている”」
ぽつりとレオナールが言った。
「王族というだけで、何もかもが目にさらされる。
その視線は、いつも値踏みで、期待で、場合によっては侮蔑だ。……慣れているつもりだったが」
「はい」
「けれど、お前の視線は……妙に、静かだった」
シルヴィアは目を伏せた。
「……わたくしの視線が、“無音”だったから、ですね」
「……ああ。お前だけは、俺の寝顔を見ても……“崩れた”とは言わなかった」
「崩れてなど、いませんでした。……“ほどけていた”だけですわ」
ふたりは目を合わせた。光と影の揺れる下、柔らかく。
「なあ、シルヴィア」
「はい」
「この先、俺が王になったら……やっぱり、“腹枕”は無理だと思うか?」
「ご安心ください。きっと、そのときには“オルド”が居てくださいますわ」
「……それは、期待していいのか」
「ええ。“名前で呼び合える人”がいる限り、殿下は王になられても眠れるはずです」
風がまた通った。
◆
しばらくふたりは言葉を交わさず、ただ木々の音と沈黙を共有した。
何も言わなくても、崩れなかった。
そういう関係が、確かにあった。
やがて、シルヴィアが立ち上がる。
「そろそろ講義です。……また、こうして座っても、よろしいですか?」
「いつでも」
レオナールは、目を細めた。
「お前の視線だけは、俺の眠りを妨げないからな」
「それは、観察者冥利に尽きますわ」
「……もう、“観察者”じゃないだろう」
「そうでした。……友人、でしたわね」
シルヴィアが静かに微笑んだ。
◆
その夜、レオナールは一人で眠った。
いつもの腹はない。静かで、落ち着いて、けれどやや物足りなさもある。
眠る前、彼はふと、窓の方へ視線を向けた。
「……今日の視線は、あたたかかったな」
誰に聞かせるでもなく、呟いて布団に横たわる。
その夜、夢の中には、風の吹く中庭と――
陽だまりのなか、視線を静かに重ねる少女の姿があった。
彼女は何も言わず、ただ見つめていた。
けれどその視線は、やはり。
眠りを妨げなかった。
[newpage]
[chapter:第七章 腹の上で、呼び名が変わる夜]
夜の帳が降り、寄宿舎の灯がまばらになった頃。
いつものように、オルドは静かに王子の私室を訪れた。
扉は半分だけ開いていた。中はほのかに香が焚かれ、寝台の上にはレオナールが背をもたせかけて座っていた。
寝巻姿。髪はほどかれ、額には微かな汗。
「……よく来たな。今日は少し、遅かったな」
「すみません、殿下。訓練が長引きまして」
「構わん。……腹が待ち遠しかっただけだ」
「そういうことを、さらっと仰るのが困るんですけど……」
オルドは控えめに布団の端に腰を下ろし、深く息を吐いた。
この時間はもう慣れた。訓練よりも礼法よりも、今となっては“当たり前”になってしまった習慣。
そして当然のように、王子が体を横たえ――
「……うむ。今日は、やや張り。昼食は?」
「干し魚と黒パンでした。あと芋のスープです」
「ふむ……塩気と澱粉質の混合……腹に、ちょうどいい」
王子の顔が、いつものようにオルドの腹に沈む。
じんわりと、そのぬくもりが生地越しに伝わってくる。
寝息にはまだ遠い。
けれど、静かで、落ち着いた空気が部屋を満たしていた。
しばらくの沈黙があった。
ふと、オルドがぽつりと声を落とした。
「……殿下」
「うん」
「俺……いや、私は……その……殿下にとって、何なんでしょうか」
言ってから、自分でも驚いた。
問いかけるつもりなんてなかったのに、ふと、心の奥から言葉が漏れ出ていた。
レオナールは返事をしなかった。すぐには。
沈黙の中で、呼吸だけがゆっくりと繰り返される。
やがて――小さく呟くように言った。
「……枕だな」
「……やっぱりそうなりますか」
「ふふ。だが――」
言葉が途切れた。少しの間があって、再び。
「……かけがえのない友でもある」
オルドは、驚いた。
冗談でもなく、からかいでもなく――真正面から言われた“友”という言葉。
王子の声は柔らかく、けれど確かに深く、真面目だった。
「……え、あ……」
返事が出ない。どうすればいいか分からず、思わず頭をガシガシと掻いた。
「……じゃあ……」
沈黙を破るように言葉を押し出す。
「だったら、もう“殿下”って呼ぶのやめて、呼び捨てにしてもいいですか? 言葉遣いも、普通で」
レオナールは、ゆっくりと目を開けた。
「もちろん。呼び方など、好きにしてくれていい。……俺は、そう望む」
オルドは、少し照れたように目をそらしながら、小さく言った。
「……レオナール」
それは、最初の“呼び捨て”だった。
◆
そのまま、しばらく言葉を交わさずに過ごした。
レオナールは腹に顔を埋めたまま、軽く目を閉じていた。
「……レオナール。お前、よく俺の腹で眠れるな」
「安心するからな。温度も……沈みも……全て、最適だ」
「そりゃどうも」
「……友とは、こういうものか」
「ん?」
「頭を預けて、腹を信じられる相手。俺は、そう定義している」
「斬新すぎるわ」
ふたり、かすかに笑った。
それ以上は、何も言わず。
ただ、穏やかな夜が流れていく。
◆
レオナールはまどろみの中で、ぽつりと呟いた。
「……おやすみ、オルド」
オルドは天井を見上げたまま、ぽつりと返した。
「……おやすみ、レオナール」
名前を呼んで眠る夜は――初めてだった。
[newpage]
[chapter:第八章 王子と猪と、腹の境界線]
卒業式を翌日に控えた夜。
寄宿舎の上階、王子専用の部屋は、いつもと変わらぬ灯と香に包まれていた。
その変わらなさが、妙に静かだった。
「……明日で、ここも終わりだな」
布団の上で、オルドは背をもたせて座っていた。
寝巻の胸元には微かにしわが残り、足元の布団には寝癖の跡。
対してレオナールは、いつも通りの恰好で横になっていた。
「うん。けど、腹は続く」
「お前、ほんと……卒業とか感傷とか、ないの?」
「あるぞ。だが、それは腹に沈みながら語るものだ」
「……はいはい」
オルドは苦笑しつつ、いつものように体勢を整え、
布団の上に横たわった。
王子の頭が、迷いなく腹の上に収まる。
「……やっぱ、ここが落ち着く」
「慣れすぎて逆に怖いわ。俺がいなくなってから、眠れんくなるぞ?」
「なら、王宮に連れていく」
「簡単に言うな」
夜の空気は、普段よりも少しだけ冷たかった。
それでも、布団の中と腹の上はあたたかい。
◆
「なあ、レオナール」
「ん」
「俺、お前にとっては“友”で……“枕”で……まあ、それはいいんだけどさ」
「うん」
「……友ってさ、こういうの、卒業しても変わらないもんかね」
レオナールはすぐには返事をしなかった。
腹の上で目を閉じたまま、言葉を選ぶように小さく息を吐く。
「俺にとって、“友”というのはな……
安心して背中を預けられるやつのことなんだ」
「……それ、腹にも言ってない?」
「腹は一部だ」
「はいはい」
ふたりの笑い声が、小さく交わった。
◆
「……でもよ」
「ん」
「お前が王になったらさ。やっぱちょっとは、俺に敬語使えとか言うんだろ」
「言わない」
「嘘つけ。側近が止めにくるぞ」
「止められても、止まらない」
「お前な……」
オルドは頭を掻いてから、少し間を置いて言った。
「……じゃあさ。
“王になっても友でいてくれ”って、先に言っといてくれ」
「……もう言ったつもりだったのだが」
レオナールは、腹の上に顔を埋めたまま、穏やかな声で続けた。
「お前が、俺に“レオナール”って呼びかけてくれた夜。
あれが答えだった」
「……そっか」
「うん。だから今日も……寝る前に、もう一度呼んでくれ」
「……お前って、結構ずるいよな」
「知ってる」
オルドは、布団の中で静かに笑った。
そして、ゆっくりと声を落として、言った。
「……おやすみ、レオナール」
「おやすみ、オルド」
それが、学園最後の夜の“腹枕”だった。
もう、呼び名に迷うことはなかった。
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[chapter:第九章 別れの朝、名前を呼ぶ日]
春の朝は、少しだけ冷たい風が吹く。
空は澄み渡り、王立修学園の正門には、今日を境に旅立つ者たちがゆっくりと集まりつつあった。
門の前、石畳の一角。
騎士科の制服姿のオルドは、整列も歓談もせず、ただ静かに立っていた。
斜めがけの鞄の中には、卒業証書と、折りたたまれた寝巻――そして、
王子の顔を数え切れないほど受け止めた腹の感触が、まだどこかに残っていた。
「……思ったより、実感ないな」
小さく独り言をこぼして、制服の裾を握る。
そこへ――
「……オルド」
聞き慣れた、けれど今はもう少し深く胸に響く声。
振り向けば、そこには王子――いや、もう間もなく王となるレオナールが立っていた。
制服の胸元に金の刺繍。眼差しはいつもより静かで、けれど変わらず真っ直ぐだった。
「来てくれたのか、レオナール」
「当然だ。腹の卒業式だからな」
「卒業するの、腹じゃないから」
「俺の中では同義だ」
ふたり、顔を見合わせて、ふっと笑う。
◆
「……このあと、王都に戻るのか」
「うん。即位の準備がある。けど――」
レオナールは、少しだけ視線を逸らすように言った。
「枕の準備も考えている」
「お前な……」
「“お前”と呼ばれるの、やっぱり好きだ。安心する」
「……俺も、ずっと“殿下”って呼ぶわけにいかないしな」
「“レオナール”が、やっぱり一番落ち着く」
その名を、お互い自然に交わせるようになっていた。
◆
そこへ、ひとりの少女が歩いてくる。
淡い色の制服の裾を丁寧に押さえ、整えられた髪が朝日に透けるように光る。
シルヴィア・ロスフェーン。
この三人で並ぶのも、これが最後になるかもしれなかった。
「おはようございます、オルド、レオナール」
「おう、おはよう、シルヴィア」
「おはよう」
名を呼ぶやり取り。それは、もうどこにも“敬称”が必要のない関係になっていた。
「……二人とも、良い顔ですわね」
「そりゃ、お前の観察帳に変な顔で載りたくないからな」
「ふふ、それはもう閉じましたわ。“観察者”としては卒業です」
「けど、これからも見てるんだろ?」
「ええ。“友人”として、ちゃんと。あなたたちのことを」
シルヴィアは、スカートのポケットから小さな本を取り出した。
表紙には、金箔の控えめな文字――『腹記録・最終巻』。
それを静かに閉じて、胸元に抱きしめる。
「……二人が、これからも名前で呼び合ってくれるなら、それだけで充分ですわ」
「言ってくれるじゃねぇか」
「言わせていただきますわよ。友人ですから」
◆
正門に、鐘の音が響く。
卒業式の開式を告げる音――そして、別れの始まりでもあった。
オルドは、鞄の紐を握り直し、背筋を伸ばして、ふたりを見た。
「……じゃあな、レオナール。元気でな」
「お前も、オルド。俺の腹騎士が来ることを城で待っている」
「うるせぇよ。なんだよ腹騎士って」
そして――
「……ありがとう、シルヴィア」
「ええ。こちらこそ。……元気でね、オルド」
ふたりの間に、もう“嬢”も“殿下”もなかった。
名前で別れ、名前で繋がる。
◆
風が、制服の裾を揺らす。
ふと、オルドの腹がぐぅと鳴った。
沈黙の中、王子と令嬢が顔を見合わせ、にやりと笑う。
「……やっぱり、お前の腹は優秀だな」
「腹の卒業は、まだ先みたいですわね」
「うるせぇ」
言い合いながら、三人の笑いが、春の風に乗って広がった。
名前を呼ぶ朝は、始まりの朝でもあった。
(完)
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