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砦の軍医

  [chapter:『砦の軍医』]

  風がなかった。

  その日、戦場に風はなかった。

  音だけが吹きすさんでいた。

  怒号と、泣き声と、命が抜ける時の嗚咽――

  ――軍医ダルマ・グレヴィーンは、地面に膝をついたまま、男の腕を押さえていた。

  ちぎれかけた上腕。血は止まらず、肉の中から見えてはいけない色が覗いている。

  「喋るな。……力入れるな。血、出るだろうが」

  兵士は顔を歪め、喉の奥で声にならない声を噛み潰している。

  「焼灼。間に合うか――火ッ!火、こっちへ回せ!!」

  振り返って怒鳴るが、周囲も地獄だった。

  火を持つ者は他の兵の腹を焼いており、包帯の束は泥の中に転がっている。

  (このままじゃ、二人……落とす)

  ダルマは、自分の肩にかけていた布を裂き、男の腕を自分の腿に固定した。

  歯を食いしばり、かすれた声で命じる。

  「……噛め。俺の上着でも何でもいい。声を出すな。死ぬな。今、焼く」

  火が届いたのは、それから十数秒後だった。

  だが、数秒が命を分ける。

  炎が布を焦がし、熱が鉄を鈍く赤く染める。

  その熱を、ダルマは躊躇なく傷口に押しつけた。

  焦げる音。

  肉の悲鳴と、焼かれた布の香り。

  そのどれもが、“治療”とは呼べない暴力のようだった。

  「……よし。生きてる。……名前を……書けるか?」

  男は呻きながら首を振った。

  「……なら、俺が書く。お前は、生きてるってことでいいな?」

  その問いに、かすかに頷きが返る。

  ダルマは名札に血で指を押しつけ、兵士の名と日付を書いた。

  ――そのとき、別の方向で「倒れたぞ!」の声が上がる。

  振り向く。

  別の兵が崩れ落ちている。

  足の骨が曲がっている。動いている。まだ死んでいない。

  ダルマは振り返らず、次の男に向かった。

  (生きてる奴を、見逃すな)

  それが、自分の全てだった。

  助ける、ではない。

  “見逃さない”――それだけが、この地で自分にできることだった。

  気づけば、両の手は血と泥で濡れていた。

  声をかけても、返ってこない目もある。

  それでも――

  足を止めるわけにはいかない。

  ◆ ◆ ◆

  それから、戦は終わった。

  誰が勝ったのかも、どれだけの者が死んだのかも、記録ではもう追えない。

  けれど、彼の中に残ったのは、

  “生きさせた者の、その後を誰が診るのか”という問いだった。

  だから彼は、今も医者であり続ける。

  あれから――

  十五年の月日が、経った。

  リュスベル砦は、風の強い高地にあった。

  石積みの壁は長年の風雪に耐えて角が丸まり、砦門の鉄が擦れた音は、今や開閉よりも日々の点検の音だった。かつて騎士たちが駆け抜けた中庭には、今は畑の畝が走り、陽当たりの良いところには洗濯物がたなびく。

  その砦の一角、軍医舎。

  朝日が石壁に差し込むより早く、ダルマ・グレヴィーンは目を覚ます。医務室奥の作業机の上、昨夜のままの状態で開かれていた薬草の束が、わずかに乾いていた。

  ――やっぱり、今朝の風は湿気てやがる。

  そう思いながら短く唸ると、ダルマは身を起こし、革の収納ベルトを腰に巻く。短く太い猪の尾がぴくりと動き、背後で丸く震えた。朝の冷気に、尻尾がこわばっているのか。あるいは、また今日も始まるのだという気配か。

  「……っと、よし」

  白い外套を羽織り、外に出る。まだ朝靄が砦を包む時間帯だった。

  医務舎の前にはすでにひとり、若い兵が立っていた。膝に巻いた包帯から血が滲んでいる。訓練中に転んだのだろう。表情はさほど痛まなげだが、どこか気まずげだった。

  「……すまねぇっす、軍医殿。朝から来ちまって」

  「怒鳴ってほしかったか?」

  ぽつりと呟くように言うと、兵士は目を丸くし、首を横に振る。

  「い、いえ。あの……」

  「なら座れ。洗って、縫って、終わりだ」

  ダルマは医務舎の戸を引き、迷いなく中へと入る。若者は「は、はいっす」と慌てて続いた。

  そうしたやりとりは、毎朝のようにあった。

  砦ではもう、大勢の死傷者が出ることはない。だが、刃物を扱う訓練や荷運び、斧の手入れで指を切る者、寒風で喉を腫らす村の子ども、山から下りてきた薬草売りが腹を壊す――ダルマの前にやってくるのは、皆“生きている者”ばかりだった。

  「喋るな。出血が止まらねぇだろ」

  そう言って、しゃがみ込んで膝の裂傷を手際よく縫う。相手が返すのは短く掠れた「はい」だけだ。

  針を通しながら、ダルマの目がふと窓の外に向く。遠くで、犬獣人の巡察兵たちが馬に餌をやっていた。馬の鼻がくすぐったげに鳴き、尻尾を振る。犬の耳がぴくりと反応して、それに笑っている。

  ――そういう顔が見られるなら、ここにいる意味もある。

  縫合を終え、包帯を巻き終えた瞬間、若い兵士が深く頭を下げた。

  「ありがとうございます、グレヴィーン軍医殿。……あの、今日は怒られなくてよかったっす」

  「怒るほどの傷じゃねぇ。脛打っただけの奴を怒鳴れる日が来た、それだけの話だ」

  針と糸を片付けながら、ダルマはそう言い捨てる。その背で、巻き尾がふ、と微かに揺れた。

  午前の診療が終わると、ダルマは裏手の小さな庭に出る。彼が自ら整えた薬草棚があるのだ。干し終わったラベンダー、薄荷、カモミール、そして砦の山間でしか採れない「クレス花」。どれも今や、戦場よりも平穏な場に合う薬ばかりだった。

  そこに、若い衛生兵がひとり、手に盆を持って現れた。

  「ダルマさん、昼食……置いておきます」

  「ああ。……気ぃつけろよ、盆の角、ささくれてたぞ。前、指切ってたろ」

  「……はいっ」

  衛生兵が退いたあと、ダルマはその背中を見送るようにひとつ息をついた。

  死は、もう近くにはいない。

  だが、それがすぐに戻ってこない保証もない。

  だからこそ、生きている者を、見逃すわけにはいかねぇんだ。

  そう呟くように思いながら、彼は乾きかけた薬草の葉を一枚、指先でちぎる。ざらついた表面が、厚い指先に引っかかった。

  かつては血を拭っていたこの指で、今は生きる者の脈を探る。

  それだけで、今日も悪くねぇと思える日だった。

  [newpage]

  [chapter:『切り傷の朝』]

  午前の陽が、砦の内庭に斜めから差し込んでいた。

  医務舎の扉が、控えめな音で叩かれる。

  「……失礼します。軍医殿、いますか」

  声変わりを終えたばかりの、まだ線の細い声だった。

  扉の前に立っていたのは、訓練兵のノエル。犬獣人の少年で、胸元に手ぬぐいを握りしめている。手ぬぐいの布地には、小指大ほどの赤い滲み――血の痕があった。

  中からゆっくりと扉が引かれ、分厚い猪の顔が現れる。

  「切ったのか?」

  それだけ。ぶっきらぼうな問いかけ。

  「は、はい。木剣の……持ち手が割れてて、滑って……」

  ノエルの声に、ダルマは一瞬だけ目を伏せる。だが何も言わず、ただ扉を開いた。

  「こっち来い。出血してんなら、まず洗え」

  医務舎の奥に通されると、ノエルは戸惑いながらも手ぬぐいをほどいた。掌の付け根あたりに、斜めの裂傷が一筋走っている。深くはないが、動かすたびに血がにじむようだ。

  ダルマは無言で桶に水を張り、棚から布と薬壺を取り出す。

  「……そのまま水に入れろ。泣くなよ」

  「泣いてません……!」

  ノエルはむっとしながらも指を差し出す。冷たい水が傷口を洗い、しみるような痛みが走る。少年は鼻を鳴らしたが、口はつぐんだままだ。

  ダルマの指が手際よく動き、薬草をすり潰した糊のような薬を乗せ、布で包み込む。指は分厚く、荒れているが、どこか器用だった。

  「……もういいですか?」

  ノエルが遠慮がちに問いかける。

  「おい」

  低い声。ノエルはびくりと肩をすくめた。

  「その木剣、もう使うな。柄が割れたもんは、人斬る前に自分が斬れる」

  「……はい。でも、俺のだけ、新しいのが回ってこなくて……」

  言いかけたノエルに、ダルマはちらと目を向けた。

  「木を見繕って削れ。指くらいなら何本でも治してやるが、目ぇでも潰したら一生モンだ」

  その言葉に、ノエルは目を丸くした。叱られると思っていたのか、顔が一瞬ゆるんだようにも見えた。

  「……はい、ありがとうございます」

  「礼はいい。次切ったら、今度こそ泣かすぞ」

  そう言って、ダルマは背を向けた。

  ノエルは黙って頭を下げ、扉へと向かった。だが手をかけたとき、ふと振り返る。

  「ダルマさん、今日は……怒らなかったんですね」

  返事はない。

  ただ、棚の奥で薬草を選び直していた猪獣人の背中、その短い尾が一瞬だけ、ふ、と揺れたのを、ノエルは見逃さなかった。

  [chapter:『山風の熱』]

  季節の変わり目だった。

  日中はぬるい陽が射すが、夜の谷には鋭い冷気が流れ込む。山の上と下で、気温が五つも違えば、咳き込む者が出るのは時間の問題だった。

  「……悪いが、ちょっと、こいつを」

  砦の門が開かれたのは、朝の診療が一段落した頃だった。

  木の荷車に毛布をくるんだ小柄な人影。荷車を押す熊獣人の農夫の顔には、焦りと気遣いがにじんでいた。

  「おい」

  門兵が声を上げる前に、軍医舎の戸が開く音がした。ダルマ・グレヴィーンが、大股でこちらに向かってくる。

  「村か」

  「はい……村の、下の水車小屋の娘で。熱が下がらなくて、ろくに食わねぇんです。歩かせるのも無理で」

  「名は」

  「リネ。十五……いや、十六になったばかりで……」

  「わかった。中に運ぶ。付き添いはひとりだけ。あとは帰れ」

  それだけ言うと、ダルマはぐいと荷車の横を抱え、片膝をついて白猫の娘を背負い上げた。白い獣毛の下から熱が伝わってくる。息が浅く、まぶたが震えている。唇がわずかに割れて乾いていた。

  「……いけるな」

  低く呟き、肩に体重を分散させる。娘の体が軽いのは、年齢のせいか、病のせいか。

  医務舎に運び込むと、窓際の簡易寝台に寝かせ、火鉢に薪をくべた。薬箱の中から乾燥させたハーブを取り出し、鍋で湯を沸かす。ミント、リンデン、クレスの花。香りを立てながら、器の底に沈んでいく。

  ダルマは布巾で額をぬぐいながら、熱の具合を指で確かめる。

  「……三日、放ってたな」

  「はい。最初はただの風邪だと……すぐに治ると思って……」

  付き添いの農夫がうなだれた声で言う。ダルマはちらりと目だけ向けた。

  「いい判断じゃねぇが、間に合ってる。悪くねぇ」

  その言葉に、農夫が目を上げる。驚いたような、救われたような顔。

  薬湯が沸いた。ダルマは器に注ぎ、匂いを吸い込ませるよう娘の鼻先へ近づける。蒸気が顔にあたり、薄く汗がにじみ始める。

  「……これ、飲ませるんですか?」

  「寝たままでいい。口元に注ぎ込む。少しずつでいい。……お前がやれ」

  「……え、あ、はい!」

  慌てて受け取る農夫に器を渡しながら、ダルマは背後の棚から柔らかい果実干しと白粥を持ってきて火にかける。

  付き添いの手元を見守ることはしない。口出しもしない。ただ静かに火加減を調整し、医務舎に静寂が戻っていく。

  数刻が過ぎた。

  娘がようやく寝息を立て始めた頃、農夫は頭を下げた。

  「……助かりました。本当に……。砦の方には、世話になりっぱなしで」

  「別に、俺が兵士だけ診る決まりもねぇ。生きてる奴は、等しく診る」

  「……は、はい……」

  農夫が頭を下げると、ダルマは手を振った。

  「今夜はここで寝かせる。明日の朝、もうひと晩かかるか、連れて帰れるか決める」

  「はい。あの……その、もし……もしも、もっと悪くなってたら……」

  ダルマは返さなかった。

  ただ、娘の寝顔にかかる布をなおし、器を洗い、再び薬湯を仕込んだ。

  “もしも”は、ここに運ばれた時点で終わってる。

  ここに生きて着いたなら、あとは俺の仕事だ――そんな言葉は口にせず、代わりに背中で示すようにして。

  その夜、ダルマは医務舎に明かりを灯したまま、火鉢に薪を足し続けた。

  穏やかな寝息が続く限り、彼にとってそれは“良い夜”だった。

  [chapter:『回復と、再会と』」

  ──回復の兆しは、目の焦点に現れる。

  ダルマ・グレヴィーンは、静かにそう思っていた。

  翌朝、窓の隙間から光が差し始めた頃。

  寝台の上で、少女リネがまばたきをした。ぼんやりとした目が、天井を見つめ、それから横に向けられる。

  その先にいたのは、椅子に座って居眠りをしていたダルマだった。

  白い外套は皺だらけで、膝の上には読みかけの記録簿が開かれている。猪の頭が軽く下を向いており、その鼻先がわずかに動くたび、太く短い尾が椅子の背に触れてふるりと揺れた。

  リネは、小さく声を出した。

  「……先生」

  眠っていたはずの軍医が、まるで目を閉じていなかったかのように、ゆっくりと頭を上げた。

  「……起きたか」

  その声に、少女の目尻が少しだけ緩んだ。

  「……のど、まだちょっと、痛いけど……ごはん、食べたいです」

  ダルマは立ち上がり、棚の粥壺を火にかけた。

  焦げ付かぬよう木の匙で撫で回す音が、静かな医務舎に広がる。

  「熱は抜けた。あと三日は安静。……が、それを聞かねぇ顔してるな」

  「……え、そ、そんなこと……!」

  「顔に書いてある」

  ずばりと告げられ、リネは口を尖らせた。

  「……お父さん、来ました?」

  「朝方、畑があるからと。昼にはまた来る」

  「じゃあ……それまでに、歩いても平気になっておかないと」

  「だから、顔に書いてあるって言ったろ」

  粥を椀に盛りながら、ダルマはため息混じりに呟いた。

  それでも、彼の尾はどこか安心したように、椅子の脚の影で揺れていた。

  ◆ ◆ ◆

  村へ帰る日、リネは木の荷車ではなく、自らの足で門をくぐった。

  砦の門兵たちに「おお、元気になったな」と声をかけられながら、彼女は何度も頭を下げた。

  そのたびに、着ていた薄手の上衣が揺れ、首元から差した薬草の香りが微かにこぼれた。

  軍医舎の前で、ダルマが背を向けて作業をしていた。

  「……先生」

  リネの声に、ダルマは振り向くことなく、作業の手を止めなかった。

  「もう大丈夫だ。帰ってよし」

  「うん。……でも、その、伝えたくて。ありがとうございました」

  「礼はいい。風邪を引いたら、また来い。それで十分だ」

  「……じゃあ、また来ます。今度は、元気なときに」

  ようやく背を向けたまま、ダルマが片手を上げた。

  その尾が、ことさら大きくはないが、はっきりとひと振りだけ揺れたのを、リネは目の端に焼きつけた。

  ◆ ◆ ◆

  季節がひとつ巡った頃――

  村の収穫祭の日。

  リュスベル砦から薬草の取引に訪れた若い衛生兵が、一緒に連れてきた白衣の猪を見て、村の子どもたちが「お医者さまだ!」と駆け寄った。

  薬草棚の陰から、リネが現れる。

  「先生。来てくれるなんて思ってませんでした」

  「……来てほしくなかったのか」

  「そうじゃないです。……ただ、びっくりしただけ」

  ダルマは木箱から薬草を取り出しながら、彼女をちらと見た。

  「あれから、風邪は引いてないな」

  「はい。ちゃんと、薪も多めに割っておきました」

  「……上等だ」

  会話はそれきりだった。

  だが、リネが去り際に、白衣の袖口をそっと指でつまんで「元気でいてくださいね」と言ったとき、

  返事はなかったものの、ダルマの尾がふたたび、微かに揺れた。

  平和とは、たぶんそういうことなのだ。

  生き延びた者が、顔を見て、言葉をかけ合えること。

  もう、死に別れるばかりじゃないこと。

  軍医舎の白衣が、戦場の血でなく、花の香りをまとっていること。

  ダルマ・グレヴィーンは、それを語ることはない。

  ただ、今日もまた――

  その手で命を診て、尾で静かに答える。

  [chapter:『すれ違いの手当』]

  医務舎の中に、いつになく荒い物音が響いた。

  器がぶつかる音、包帯が引き抜かれる音、それに混じって、少し震えた声がする。

  「……だから、もう少し、言ってくれたっていいじゃないですか」

  若い声だった。砦に配属されて一年に満たない、衛生兵のジュド。小柄な狐獣人で、礼儀正しく、まじめすぎるほどの青年だった。

  ダルマ・グレヴィーンは、棚の整理を続けながら背を向けていた。彼の尾は動かない。机の上の薬壺が静かに揺れる。

  「お前が巻いた包帯、外してやり直しただけだ。文句はねぇだろ」

  「文句じゃありません……でも、言ってくれたら、自分で直したのに」

  「間に合わなかっただけだ」

  ジュドは唇を噛んだ。

  そのやりとりの直前、二人は巡察明けの兵士を診ていた。手首の捻挫と、指の裂傷。ジュドが先に処置をしたが、包帯が甘かったのか、固定が弱く、傷口に血が滲み始めた。

  ダルマは黙って包帯を解き、無言でやり直した。

  何も言わなかった。ただ手を動かし、確実に処置しただけだった。

  「……俺、ずっとあなたを見てきました。兵士たちがあなたを信頼してるのも、知ってます」

  「なら、それでいいだろ」

  「でも、それじゃ……俺は、何のためにここにいるんですか」

  その言葉に、初めてダルマの手が止まった。

  彼は背を向けたまま、わずかに首だけを動かす。

  棚の中段に手を伸ばすが、そこに目当てのものがないことに気づくと、ぽつりと呟いた。

  「……お前の手は、震えてなかった」

  ジュドがはっと顔を上げる。

  「包帯の端は甘かったが、傷の位置は正しく見ていた。……だから、直した。俺はそれしかできねぇ」

  「でも……じゃあ、どうして……!」

  ダルマはようやく振り返った。

  獣毛に覆われた猪の顔。その傷跡と、深く沈んだ目。

  その視線が、真正面からジュドを貫いた。

  「教えてやっても、“死ぬ時”に間に合わなきゃ意味がねぇ」

  「……!」

  「だから俺は、黙って手を動かす。……お前が、気づくまでな」

  ジュドは、何も言い返せなかった。

  ただ立ち尽くし、自分の包帯を思い返す。結び目の甘さ。固定の位置。患者の痛がる仕草。

  そして――何も言われなかったことへの、不安と怒りの正体が、ようやく形を持って胸の奥に沈んでいった。

  ダルマは、静かに視線を戻した。

  「言葉がほしけりゃ、自分で言え。俺に期待すんな」

  「……はい」

  かすれた返事だったが、ジュドの背筋はまっすぐだった。

  それを見て、ようやくダルマの尾がふ、と小さく揺れた。

  ◆ ◆ ◆

  夕方、砦に風が吹き始める頃。

  医務舎の戸の前で、ジュドは薬箱を抱えて立っていた。

  「軍医殿。明日の薬草、確認しておきます。山の在庫と照らし合わせて」

  「勝手にやれ。必要なら言う」

  「はい。……言ってくれなくても、見て覚えます」

  その言葉に、ダルマは何も返さなかった。

  ただ棚の下から出した壺を差し出し、手元をちらりと見ただけだった。

  だが、そこにはもう、“すれ違い”ではない何かが、ひと筋だけ通っていた。

  [chapter:『再会』]

  昼下がり、リュスベル砦の門に馬の気配があった。

  騎乗したのは一頭だけ。装備は軽く、城都方面からの伝令か物資の搬送者と思われた。

  医務舎にいたダルマ・グレヴィーンは、呼ばれる前に顔を上げた。

  足音と馬の歩調だけで、少しだけ昔の感覚がよみがえった。

  その日の診察は午前中にひと通り終えていた。ちょうど煎じ薬を火から下ろしたところだった。

  「軍医殿、お客さんが……えっと、その……」

  戸口に立った兵が言い淀んでいるのを無視して、ダルマは立ち上がる。

  扉を開けた視線の先、砦の石畳をゆっくりと歩いてくる男がいた。

  頬に斜めの火傷痕。片耳が欠け、片足を引きずっている。

  狼獣人――獣毛の色は薄くなっていたが、視線だけは変わっていない。

  「……ヨルグ」

  ダルマが名を呼ぶと、男は少しだけあごを上げた。

  「まだ生きてたか、ダルマ」

  返事はそれだけだった。

  ◆

  医務舎の火鉢に、茶の湯が湯気を立てていた。

  椅子に座ったヨルグは、ふくらはぎの包帯を外しながら呟いた。

  「……坂で足をひねっただけだ。大袈裟にすんな」

  「骨に響いてりゃ、寝たきりになる年だ。黙って座ってろ」

  ダルマは椅子を引き寄せながら、癖のように尾を一度揺らした。

  ヨルグは鼻で笑う。

  「昔は、ケガなんてしたまま野営してたもんだが」

  「昔だからだ」

  薬を塗りながらの会話は、長くも短くもならない。

  ただ、少しずつ時間が緩んでいく。

  「……あのときの隊の連中、知ってるか?」

  ヨルグがぽつりと言う。

  「半分は街に帰った。中には田舎で畑をやってるやつもいる。もう半分は……」

  「いないな」

  「……ああ」

  ダルマは指先に残った薬を布で拭いながら、窓の外に目をやった。

  「まだ……お前、死んだ奴らの名前、覚えてるのか」

  「全部じゃねぇ。けど、顔なら浮かぶ」

  「……変わってねぇな、お前」

  ヨルグはそう言って、茶をひと口すする。

  「俺は忘れるようにしてる。思い出すと、足が重くなる」

  「俺は逆だ。忘れたら、指が鈍る」

  沈黙。

  だがそれは、不自然な空白ではなかった。

  昔と同じ、余計なことを言わなくても良かった時間だった。

  ◆

  日が傾く頃、ヨルグは立ち上がった。

  包帯はきつめに巻き直され、動きに支障はなさそうだった。

  「……また来るよ。次は、肩が上がらなくなった頃かもな」

  「肩なら、先に風呂に浸けとけ。歳取ると冷えが抜けねぇ」

  ヨルグは少し笑い、医務舎の戸口でふと立ち止まった。

  「……死なないでくれよ」

  「お前もな」

  それだけを交わして、扉が閉まった。

  白衣の裾を整えながら、ダルマは元の席に戻った。

  薬壺に残っていた湯を火鉢に戻し、ふうとひと息。

  尾がひとつ、椅子の脚に軽く触れて揺れた。

  彼にとってそれは、再会に必要なすべてだった。

  [chapter:『定期健診』]

  午後の医務舎。風はなく、扉の立て付けがきしむ音もしない。

  ダルマは書類を片付けながら、扉がノックされるのを待っていた。

  定期の時間だ。

  「……入れ」

  ノックの音にそう返すと、分厚い革のブーツ音と共に入ってきたのは、かつて戦場にいたハイエナ獣人の騎士――ガルベルト。

  黒い鎧の上衣を脱ぎ、襟元を乱さずに椅子へ腰を下ろす。

  騎士というよりは、身を守る鎧に閉じこもった男だった。

  「……今朝は?」

  ダルマが簡単に問う。

  ガルベルトは答えない。だが、しばらくしてから右手を軽く動かした。

  「夢は見た」

  「内容」

  「塹壕。……泥と、火と、声」

  それだけ。

  ダルマは問診記録に簡単に書き込む。

  彼は詳細な描写を求めない。言えないことも、言いたくないこともある。それは知っている。

  「起床時、吐き気は?」

  「なし」

  「関節、ふらつき、痺れ」

  「右手だけ。薬で収まる」

  「過呼吸は?」

  「……昨日、ひとつ。夜食のあと」

  「動悸のタイミングは?」

  「……咀嚼時に、喉を詰まらせた」

  ダルマは頷いた。

  ガルベルトの神経症状は、戦争が終わっても終わっていなかった。

  彼は戦場で「拷問係」を命じられた者だった。

  命令の下、敵兵の口を開かせ、情報を引き出す役目を果たした。

  その中で、何を見て、何をしたか。

  ダルマは聞かない。ガルベルトも言わない。

  ただ、今の身体にどう影響が出ているか、それだけを問う。

  「睡眠薬は、数を変えるか?」

  「いや。いまの量で十分だ。……夢は減っている」

  「悪くねぇ」

  淡々と答えながら、ダルマは針で簡単な神経反応の確認を始める。

  反射は出ている。震えも軽度。息も浅すぎはしない。

  だが、ガルベルトはどこか、全身を“締めて”座っている。

  「……自分のやったことが正しかったかどうか、考える日があるか?」

  ダルマの問いに、ガルベルトが目を伏せる。

  「……毎日だ」

  「それでも、生きてる。……それだけで、充分だ」

  ガルベルトは何も返さなかった。

  ただ、その眼差しにほんの僅かにだけ、焦点が戻ったように見えた。

  ◆

  診察が終わると、ガルベルトは椅子を静かに戻して立ち上がった。

  「……次の検診、三十日後でいいな」

  「変調があれば早めろ。……死ぬのは、風邪より心のほうが早い」

  「……ああ」

  去り際、ガルベルトは一度だけ振り返った。

  「軍医殿。……戦争の後遺症って、治ると思うか」

  「治らねぇ。けど、鈍くはなる。……生きてる限りはな」

  騎士はそれ以上何も言わず、医務舎を出ていった。

  ダルマは記録簿に最後の一筆を入れる。

  「診断:症状安定、回復緩徐。次回確認、三十日後」

  短い尾が、静かに机の脚を叩いた。

  それが“ここにいた”という確認だった。

  [chapter:『火傷』]

  昼の仕込みがひと段落した頃、医務舎の戸が少し乱暴に開かれた。

  「悪ぃ、ちょっと診てくれ。油、跳ねた」

  入ってきたのは砦の厨房を預かる中年の料理人、ゴルツ。

  熊獣人の腕を捲った袖口の下、前腕に赤く膨れた火傷が見えていた。

  ダルマは顔も上げずに言った。

  「水はかけたか」

  「すぐに。厨房の桶から。冷やして三十分は経った」

  「なら、座れ。処置する」

  ゴルツは黙って椅子に腰を下ろす。火傷はそれほど深くはなさそうだが、皮膚が引きつっている。動かすと痛む類の傷だ。

  ダルマは水に浸した布で軽く患部を拭き、薬を塗る準備を始める。

  「でかい鍋か?」

  「ああ。獣脂を熱しすぎた。蓋を開けた瞬間、弾けた」

  「不注意か?」

  「いや、忙しかった。朝の配膳が遅れて、焦ってた」

  「……それが不注意だ」

  ゴルツは唸ったように鼻を鳴らす。

  「明日の朝飯は誰が作ると思ってんだ。この腕じゃ、鍋も振れねぇ」

  「だったら、振らずに済む献立にしろ。火を使うな。切るだけにしろ」

  「んなもん、兵隊どもが文句言うぞ」

  「なら、文句の出ないように切れ。包丁だけは使えるんだろ」

  ダルマの指が素早く軟膏を塗り、包帯で丁寧に巻く。巻き方は隙がなく、しかし血流を妨げない。

  「深くはない。だが動かせば悪化する。今日と明日は重い鍋禁止。……無理なら厨房閉めろ」

  「そりゃできねぇ」

  「じゃあ指示だけ出せ。調理場の頭ってのは、腕より口が要る仕事だ」

  ゴルツは笑いもしなかったが、否定もせず黙ったままうなずいた。

  ◆ ◆ ◆

  処置を終え、包帯を押さえながらゴルツが立ち上がる。

  「……たまには、休めってことかね」

  「そうだ。怪我したら、次に備えて止まる。……それだけの話だ」

  「……お前、相変わらず味気ねぇな。心配してるとか、言わねぇのか」

  「してねぇ。死ぬような傷じゃねぇし、お前は飯を作る奴だ。心配するのは、食えなくなった時だ」

  「……ったく」

  ゴルツは笑いながら扉を開けた。

  「明日は切るだけで済む献立にしとく。……どうせ、お前も食うんだろ?」

  「食わねぇ日でも、味だけは見る」

  「……そりゃまた、味気ねぇ話だ」

  扉が閉まり、医務舎に再び静けさが戻った。

  火鉢の火を確認しながら、ダルマはひとつため息をついた。

  「……塩分、減らせ。前回の粥、しょっぱすぎた」

  誰にともなく呟いた声が、記録簿の紙の上で静かに止まった。

  [newpage]

  [chapter:『兜の傷』]

  医務舎の中が、やけに静かだった。

  ジュドは、緊張したまま額の汗を袖で拭った。

  寝台の上には狼獣人の騎士――レイナー・ヴァルグ。

  灰色の毛並みに血がこびりつき、左目の周囲には濃い腫れと裂傷がある。

  彼は左目を閉じたまま、右目で天井を見つめていた。

  「……光、どうですか」

  ジュドが控えめに問う。

  レイナーはほんのわずか、かすれるように答えた。

  「眩しい。……でも、見え方が……ぼやけて、……白く潰れてる」

  「痛みは?」

  「目そのものというより、……奥が、響く」

  その言葉に、ジュドの手が止まった。

  そのとき、医務舎の扉が開いた。

  「診断は?」

  低く、ぶっきらぼうな声。

  ダルマ・グレヴィーンが、白衣の裾を払って入ってきた。

  「ダルマ軍医殿、左眼窩に裂傷。視界に異常、光過敏、眼圧も……高めです。外傷性の網膜損傷の可能性があります」

  「兜か?」

  「はい。内側の留め金が外れて……目の上にぶつかったと」

  「……クソみてぇな装備使わせやがって」

  ダルマは無言で椅子を引き寄せ、レイナーの顔をのぞき込む。

  光源を手に取り、反応を確認する。

  左目を軽く開くと、レイナーが苦しげに息を呑んだ。

  「痛ぇか」

  「……はい。強い光だと、……奥に刺さる感じがします」

  ダルマは光源を外し、頷いた。

  「眼球は破れてねぇ。だが、衝撃で網膜がやられてる可能性は高い。……視力は、戻るかわからん」

  レイナーの右手が布団の上でわずかに震えた。

  「……戦えなくなる可能性、ありますか」

  「両目じゃねぇ。だが、距離感や判断は鈍る。……騎士としての仕事を続けたいなら、“諦め”を先に覚えろ」

  ジュドが小さく息を呑んだ。

  レイナーは返事をしなかった。だが、その顎がわずかに引き締まったのがわかった。

  「……処置をします。痛み止め、そして感染防止の外用薬を」

  ジュドが準備を進めると、ダルマは小さく頷いた。

  「左目は当分ふさぐ。明日以降、光に慣れるかどうか、徐々に確認する。……無理なら、兵役からは降りてもらう」

  「……了解しました」

  それは医者からではなく、騎士への“命令”だった。

  ◆ ◆ ◆

  数十分後。処置が終わり、左目に覆い布をつけたレイナーが静かに息をついていた。

  「……ありがとうございました。軍医殿、衛生兵」

  「……気にするな。生きて帰っただけマシだ」

  ジュドが戸口まで送ろうとしたその時、レイナーがふと立ち止まった。

  「……もし、見えなくなったら。あなたなら、どうします?」

  ダルマは椅子に腰かけたまま、記録簿にペンを走らせていた。

  そして、わずかに顔を上げ、こう返した。

  「……俺なら、手で確認する。目が死んでも、指は生きてる」

  レイナーはしばらく黙った。

  だがその後、騎士らしい所作でひと礼し、静かに医務舎を後にした。

  ジュドは戸が閉まるのを見届け、息をついた。

  「……診断中、ずっと震えてました。あの人……強そうに見えて、ずっと……」

  「当たり前だ。片目失うかもしれねぇんだ。……怖くねぇ奴なんて、いねぇよ」

  その言葉に、ジュドは深く頷いた。

  ダルマは記録簿を閉じ、火鉢に湯を足す。

  「……次は、その震えを見落とすな。診断ってのは、口だけじゃ足りねぇ」

  「……はい」

  静かな声が返り、医務舎にまた、落ち着いた沈黙が戻った。

  [chapter:『片目の稽古』]

  レイナー・ヴァルグが訓練場に姿を見せたのは、診察から十日後の午後だった。

  左目は布で覆われたままだったが、体勢は真っ直ぐ、歩みに迷いはなかった。

  だが、構えた木剣の先端は、わずかに揺れていた。

  「……あれで、見えてるんですかね」

  訓練場の端。医務舎から借りてきた簡易ベンチに、衛生兵ジュドが腰かけていた。

  その横で腕を組んでいたダルマが、鼻を鳴らす。

  「見えてねぇ。けど、覚えてる」

  「……?」

  「距離、角度、歩数。あいつは、身体に入ってるもんを信じて動いてる。目じゃねぇ」

  ジュドはレイナーの動きに目を戻した。

  確かに、最初の数手はぎこちない。距離感を外し、剣が空を切る。

  だが、五手、十手と打ち合いが続くと、動きが整っていく。

  剣の軌道が、実戦の記憶をなぞるように変わり始めていた。

  「……あれは、“諦め”じゃないですね」

  「“諦め”は降りるやつの言葉だ。あいつは“割り切った”だけだ」

  ダルマはそう言って立ち上がる。

  「ジュド。明日の昼、あいつが来たら目の再検査な。……稽古後は腫れが出やすい」

  「はい。記録簿に追記しておきます」

  ◆ ◆ ◆

  翌日、レイナーは予告通り医務舎に現れた。

  訓練直後だったのか、首筋にはまだ汗が残っていた。

  「腫れてるかもしれません。昨日、実際にぶつけました。木剣で、顎を」

  「目じゃねぇなら、まだ上等だ」

  ダルマはそう言って、椅子を引き寄せる。

  「見え方は?」

  「……まだ、光に薄い膜がかかるようです。でも、動く影は捉えられる」

  「視神経の反応は鈍いままだが、壊れてはいねぇな」

  ダルマは光源を使って左右の反応を確かめる。ジュドが薬と器具を準備しながら、メモを取った。

  「痛みは減っていますね。まぶたの収縮も昨日より早いです」

  「稽古の後にしては、悪くない」

  ダルマは包帯を巻き直しながら、静かに言った。

  「左目の完全回復はねぇ。だが、使えないわけでもない。……いまのお前は、“目に頼らず動ける”方に行ってる」

  「……そういうものなんですね」

  「目に戻ろうとする奴は、焦る。お前は“動けた”ことを信用した。それが全部だ」

  レイナーは黙って頷き、深く礼をした。

  医務舎を出ていくその背に、ジュドが小さく漏らす。

  「……目が治らないって、こんなふうに割り切れるもんなんですかね」

  「割り切れたんじゃねぇ。……“戦うために、忘れただけ”だ」

  その言葉に、ジュドは黙ったまま記録簿に今日の日付を書く。

  そこに、ダルマがぽつりと付け足した。

  「……お前も、忘れることを覚えろ。そのうち、忘れたくねぇ日も来る」

  「……はい」

  短い返事が返り、午後の医務舎に静けさが戻る。

  外ではまた、木剣が打ち合う音が聞こえていた。

  [chapter:『報告と判断』]

  午後、日差しが傾きかけた頃。

  ダルマ・グレヴィーンは軍医舎の帳簿を閉じ、分厚い報告書を小脇に抱えて砦の司令棟へ向かった。

  目的はひとつ。騎士レイナーの負傷原因となった兜の内側構造の不具合について、正式な報告を上げるためだった。

  司令棟の扉を開けると、砦内の空気とは別の重みがある。

  石造りの天井の下、机に向かっていた一際大柄な影が顔を上げた。

  ロガン・バルゼン。リュスベル砦を預かるバイソン獣人の大隊長。

  体格はダルマと並んでも勝るほど。黒褐色の獣毛と、削られた角が並ぶその顔は、戦士というより山のような壁に近い。

  「ダルマか。……その顔は、何かあったな」

  「一件、報告。兜の構造欠陥。現場で騎士が片目を損傷。失明の可能性あり」

  ロガンの手が止まる。

  ダルマは黙って報告書を差し出した。

  「使われていた兜は旧式。内側の留め金が衝撃で外れ、顔面に刺さった。……指揮系統の装備管理に不備あり」

  ロガンは報告書を開き、数秒黙読した。

  「……レイナーか?」

  「ああ。訓練中。現場の整備に問題はなかった。装備の不備、それだけが原因だ」

  「他に同型の兜は?」

  「倉庫に残存数十。少なくとも二十以上は現役に出回ってる」

  ロガンは一度だけ短く鼻を鳴らす。怒りというより、判断に切り替える音だった。

  「整備隊に連絡。該当型を即時回収。全訓練兵の装備を再点検させる」

  「……対応が遅れれば、次は命を落とす」

  「わかっている」

  短い応答。だが、明らかに即断だった。

  ダルマはそれ以上言わなかった。

  必要な報告は終わった。責任の所在も、処理の方向も明確だった。

  ロガンは手元の命令書に目を移しながら、ふとダルマを見た。

  「お前の診断は正確だ。だが、余計な“起案書”は書くな。……お前が紙に手間取るのは、似合わん」

  「……こっちも、あんたが紙で戦う姿は想像してねぇよ」

  二人の間に、少しだけ空気がゆるむ。

  ロガンは書き終えた書状を封じ、部下を呼ぶ。

  「これを装備管理隊へ。至急、再点検と回収を。騎士の視力が報告基準だ。忘れるな」

  「はっ」

  部下が去ったあと、ロガンは一言だけ口にした。

  「……失う前に防ぐのが“管理”だ。だが、失わせちまったら、“報告”はお前の領分になる」

  「その通りだ。だから、まだ“死んでない”目は診る」

  「頼む」

  それきり、言葉は交わさなかった。

  ダルマが扉を閉めて出ていくと、ロガンはわずかに息を吐き、書類に新たな項目を書き加えた。

  それは一行――

  「兜内装設計、次回補充より再検討」

  記録としての責任は、確かにそこに刻まれていた。

  [chapter:『傷と判断』]

  夜。

  リュスベル砦の司令棟に一人残ったロガン・バルゼンは、ろうそくの火を見つめていた。

  部下は下がり、報告も終わっている。

  だが机の上には、一通だけ、まだ開封されていない古い書簡があった。

  ──医務隊記録 第18野戦処置帳 戦時特例処置:グレヴィーン補佐官 記入

  ロガンの無骨な指が、書簡の封を静かに解く。

  目を通したのは、わずか数行。

  だが、その記録だけで、記憶がよみがえる。

  ◆ ◆ ◆

  あれは、十五年前。

  戦況は悪く、味方は補給もままならずに負傷兵であふれていた。

  前線の野営地で、ロガンは腹を裂かれて運ばれた。

  腹膜から血があふれ、意識は半分落ちていた。

  だがそのとき、彼の脇腹に手を突っ込んでいたのが、若き日のダルマだった。

  「こいつはまだ生きてる。内出血じゃねぇ、臓器は塞がってる。……縫える」

  「で、でも──!」

  付き添いの衛生兵が迷っている間にも、ダルマは短く叫んだ。

  「縫うぞ。指、出せ! ……見てるだけのやつは邪魔だ!」

  あの時の記憶は、断片だ。

  焼灼する臭い、肋骨の隙間を通る呼吸の音。

  縫合中のダルマの手は震えていなかった。

  ロガンは、意識が戻ったあとに聞いたのだ。

  ――「あんたを救えた理由? “死にかけてたけど、生きてた”からだ。……それだけだ」

  それがダルマの口癖の始まりだった。

  ◆ ◆ ◆

  現在。

  ロガンは封筒を閉じ、戸棚の奥に戻す。

  そして小さく独りごちた。

  「……生きてりゃ診る、か。あのときも、今も。変わらん男だ」

  そして視線を横に向ける。

  机の端に置かれた今日の報告──レイナー・ヴァルグの目の負傷記録。

  “診断:左目視覚障害の可能性あり。視神経反応わずか。視力の完全回復は困難と判断”

  だが最後の一行には、こう記されていた。

  「まだ“死んでない”目は、診る」

  ロガンは唇の端をわずかに持ち上げ、椅子の背にもたれた。

  「──だから信じる。お前は、あのときから“変わってない”からだ」

  静かな声だった。

  部下にも言わないその言葉は、司令棟の石壁にだけ染み込んで消えた。

  [newpage]

  [chapter:『差し入れと白い耳』]

  その日、医務舎は珍しく穏やかだった。

  午前中の巡察も終わり、ダルマは帳簿をめくっていた。

  ジュドは薬棚の整理をしながら、ふと外の明るさに目を細めた。

  ──今日は、特に何事もない日になる。

  そう思っていた、そのとき。

  コツ、コツ、と控えめなノックが扉を叩いた。

  「……グレヴィーン軍医殿。あの、差し入れを」

  声は澄んでいた。だがやや緊張が混じっている。

  扉が開くと、そこに立っていたのは、白猫獣人の少女だった。

  小柄で、両手には包みを抱えている。砦の外にある村から、何度か診察に来ていたリネ。

  「……ああ、こないだの風邪の」

  ダルマが椅子から立ち上がり、無造作に包みを受け取る。

  だが、ジュドは数歩離れた位置で固まっていた。

  白い毛並みに陽の光が透け、耳先がやわらかく揺れていた。

  緊張した様子で差し出された手。小さく、華奢で、爪もきれいに整っている。

  「今朝、母が焼いたのを……ほんの少しですけど。あの、いつもありがとうございます」

  「……礼を言われるようなことはしてねぇが、受け取る」

  ダルマがそう言って棚の上に包みを置いたが、ジュドの目はまだリネから離れなかった。

  「……衛生兵さん、ですよね?」

  急に話しかけられ、ジュドは軽く声を上ずらせた。

  「あっ、はっ、はいっ……えっと……そうです、ジュド、です」

  リネはふっと目を細めた。

  笑っている。けれど、それがどこかやわらかくて、見られていることが嬉しいような、そんな目だった。

  「……ありがとうございました。あのとき、処置してくださって。お薬、すごく効きました」

  「あっ、い、いえっ、あの、俺はほんの補助で……っていうか、はい、えっと……!」

  横から、ダルマの低い声が飛んできた。

  「落ち着け。薬棚、今お前の手で倒しかけてるぞ」

  「はっ……!す、すみません!」

  ジュドが慌てて体勢を戻し、リネは小さく肩を揺らして笑った。

  その笑い声が、医務舎の空気をほんの少しだけやわらかくした。

  「じゃあ、これで……ご迷惑にならないうちに、帰りますね」

  「迷惑じゃねぇ。……ただ、次は無理すんな。今度はこっちが届ける」

  「……はい」

  リネは頭を下げ、扉の向こうに消えていった。

  しっぽの先まで、きれいな白だった。

  ◆ ◆ ◆

  静けさが戻った医務舎で、ジュドはしばらく口を開かなかった。

  ダルマが包みを開け、焼き菓子の甘い香りが室内に広がる。

  「……何だ。喋れなくなったか」

  「……その、いえ……ただ、なんか……」

  「“なんか”は診断名にならねぇ。どうした」

  ジュドはしばらく悩んだあと、小声で呟いた。

  「……初めて、傷口以外でドキドキしました」

  ダルマは焼き菓子を一つ取りながら、ぼそりと返した。

  「……それ、医者の前で言う台詞じゃねぇな」

  [chapter:『焦げたお菓子と、熱い顔』]

  翌週の午後、医務舎の空気は変わらぬ静けさを保っていた。

  棚の在庫を数えていたジュドは、ふと足を止める。

  ――今日は、来ないよな。

  来る予定があるわけではない。

  だが、あの日からというもの、ジュドは昼すぎになると無意識に医務舎の扉をちらりと見る癖がついていた。

  「……ああ、もう。何やってんだ俺」

  独り言をこぼし、帳簿に書き込みをしようとしたそのとき。

  コツ、コツ――音がした。

  ジュドの耳が、ぴくりと反応する。

  ダルマは火鉢の湯に注意を向けたままだったが、無言で視線だけ扉に向けていた。

  「……こんにちは。また、少しだけ」

  白猫獣人のリネが、小さな包みを両手に抱えて立っていた。

  服は村の簡素なものだったが、しっかりと畳まれ、袖口には花の刺繍が入っていた。

  「……今度は何を焦がした」

  ダルマが、顔を上げずに問う。

  「えっ……なんで分かったんですか!?」

  「匂いで分かる」

  「うっ……す、すみません。でも、焦げたのは端っこだけです!」

  リネが包みを差し出すと、ジュドが無言のまま立ち尽くしていた。

  「……じ、ジュドです」

  「え?」

  「さ、さっきの続きじゃなくて、名前です。前に言いましたけど……その、もう一度……」

  リネはぽかんとしたあと、ふわりと笑った。

  「覚えてますよ。ジュドさん。……でも、ちゃんと名乗ってくれるのって、嬉しいですね」

  その一言が、ジュドの頬を確実に熱く染めた。

  「……べ、べつに……嬉しいとか……いえ、えっと、ありがとうございます……!」

  ダルマが火鉢に木杓子を沈めながら、ぽそりと呟く。

  「……今、顔の診察が要るのはこっちだな」

  「ひっ……!」

  「まっ赤だ」

  リネはくすっと笑ってから、包みを棚に置いた。

  「本当は、失敗したままじゃ嫌だったんです。……だから、もう一回だけ」

  その言葉に、ジュドは反射的に返していた。

  「ま、また来てください……!あ、いえ、その、焦げてても、ぜんっぜん大丈夫ですから!」

  「……ありがとうございます。じゃあ、また今度」

  リネは軽く頭を下げて、尾をふわりと揺らして帰っていった。

  ◆ ◆ ◆

  静かになった医務舎で、ジュドはうずくまるように机に突っ伏していた。

  「……あぁぁ……何やってんだ、俺……」

  「自覚はあるようだな」

  ダルマは包みを開けながら淡々と答えた。

  甘く、ところどころ香ばしい香りが漂う。

  「でも、ほんの少し焦げてるのも……案外、悪くないな」

  ジュドがぼそりとつぶやくと、ダルマは静かに言った。

  「……その言い方、本人の前ではやめとけ」

  [chapter:『再会の静寂』]

  午後の医務舎。

  ダルマは帳簿を閉じ、診察用の椅子に深く座り直していた。

  「入れ」

  扉の向こうからは重い足音。

  入ってきたのは、ハイエナ獣人の騎士、ガルベルト。

  戦時中に敵兵への拷問任務を担った過去を持つ男。

  今も現役の騎士ではあるが、神経症を抱え、月に一度、ここに通ってくる。

  表情は無表情に近い。だが、腕の震えとわずかなまばたきの速さが、精神の揺れを物語っていた。

  「……今日は?」

  ダルマの問いに、ガルベルトは答えるまで数秒かかった。

  「夢は……あった。声は、なかった」

  「吐き気は?」

  「朝、少し。匂いで。……焼けた木のにおい」

  ダルマは記録に書き込みながら、反射を診る。

  手足は細かく震えていたが、目の動きは落ち着いていた。

  「睡眠薬はどうだ」

  「三日続けて飲んでない。……飲まずに寝てみたくて」

  「試みとしては悪くねぇが、限界は自分で決めろ。……壊れる前に飲め」

  「……わかってる」

  そんなやりとりの最中。

  ギッ、と控えめに扉が開いた。

  ダルマが視線を向けるより早く、ガルベルトの体がこわばる。

  「……失礼する。今日が診察だと聞いてな」

  現れたのは、灰毛の狼獣人――ヨルグ。

  ダルマとは旧知の間柄。かつて共に戦場を歩いた男。

  足を引きずっているが、視線は強く、静かに場を読む。

  「……あんた……」

  ガルベルトが低く声を漏らす。

  ヨルグはゆっくりと歩み寄り、空いていた椅子を音を立てずに引いた。

  「顔を見に来ただけだ。……逃げなくて良い」

  「……誰かが、俺を責めに来たのかと思った」

  「そう見えるくらいには、背中が歪んでるぞ。……もっと肩を張れ。お前は今も騎士だろう」

  ヨルグの言葉は、柔らかくも厳しい。

  それにガルベルトは目を伏せたまま、わずかに首を振る。

  「……あれをやって、騎士名乗るのは、虫が良すぎる」

  「“やらせた”のはあの上官だ。……お前が命令を拒んだら、別の誰かがやってた。わかってるはずだ」

  「それでも、やったのは俺だ。……泣かせた。叫ばせた。……殺した」

  静かだった室内に、その言葉だけが重く沈む。

  だがヨルグはその沈黙を壊さなかった。ただ、ゆっくりと一つだけ息をつき、短く言った。

  「──“やった”って言えるやつは、まだ戻ってこれる」

  ガルベルトが顔を上げる。

  目の奥が赤い。だが涙は出ない。ただ喉が、ごくりと動いた。

  「“忘れたふり”してるやつは、二度と帰れねぇ。……お前は違う」

  ダルマはそれを黙って聞いていた。

  必要な言葉は、もう十分だった。

  「診察は終わりだ。心拍も目の動きも、今のほうが安定してる」

  「……ダルマ、お前も……変わらねぇな」

  ヨルグが笑みを浮かべ、ガルベルトの背中をぽん、と叩く。

  「また来る。……今度は茶でも飲みながら話すか」

  ガルベルトは返事をしなかった。

  ただ、ほんのわずかに、背筋が伸びていた。

  [chapter:『火のそばの会話』]

  夜、砦の中庭。

  兵舎の明かりが落ち、石壁の隙間から冷たい風が吹き抜ける時間帯。

  倉庫裏の古い炉のそばに、焚き火の明かりがちらちらと揺れていた。

  その炎を前に座っていたのは二人の男――ヨルグとガルベルト。

  湯を張った小鍋から、香草の香りが立ちのぼっていた。

  「……こんなとこで煮出すとは思わなかった」

  ガルベルトがそう呟くと、ヨルグは肩をすくめて笑った。

  「医務舎は明かりが強すぎる。ここくらいが丁度いい」

  ふたりの間に沈黙が流れる。だが、それは気まずさではなかった。

  しばらくして、ヨルグがふいに口を開く。

  「昔、お前が拷問任務を初めて受けた日の晩……寝れなかったのを覚えてる」

  ガルベルトは視線を炎からそらさない。

  「……口を開かせるまで八時間。最後は、泣きながら喋った。……でも俺のほうが泣きたかった」

  「わかってる」

  また沈黙。

  だが、ヨルグの声は低く、確かなものだった。

  「俺は、あのとき助けに行けなかった。別の斥候任務で遠くにいた。戻ってきたら、お前の目が変わってた」

  「変わったか?」

  「ああ。……優しい顔をしなくなった」

  炎がぱちりと鳴った。

  その音にかぶさるように、ガルベルトがぽつりと言う。

  「優しい顔は……残しづらくなる。どんな顔をして良いのかもわからない」

  「それでも残せ。優しい顔ができるやつが、“まとも”を守るんだ」

  ◆ ◆ ◆

  少し離れた物陰。

  倉庫の裏側で薪の整理をしていたジュドは、足音を忍ばせていた。

  ふたりの会話を立ち聞きするつもりはなかった。

  ただ、気配で引き寄せられてしまったのだ。

  ――騎士のヨルグさんと、ガルベルトさん……こんな話をするとは思わなかった。

  彼らは大人で、強くて、過去を乗り越えていると思っていた。

  でも実際は、今も傷を引きずって、時々それを見せ合って、支えていた。

  (……俺も、いつか……あんなふうに)

  何かを受け止め、黙ってそばにいられるような人間になりたい。

  そんな思いが、薪を抱える手にしっかりと宿った。

  ◆ ◆ ◆

  火のそばで湯気が立ち上がる。

  「ガルベルト」

  「……ん」

  「明日、昼前。……散歩がてら、砦の西の塔まで付き合え。あそこ、眺めがいい」

  「……任務か?」

  「いいや。気分転換。……誰にも命じられてないやつだ」

  ガルベルトは少しだけ目を細めた。

  「……わかった。明日、行こう」

  炎の明かりが、二人の肩を照らしながら揺れていた。

  [chapter:『夜の薪、朝の塔』]

  翌朝、医務舎の掃除を終えた頃。

  ジュドは記録棚の前で、ずっと迷っていた。声をかけようか、やめようか。

  ダルマはいつもと変わらず、薬壺を整理している。

  無駄な会話は好まない。けれど、話しておきたいと思った。

  「……軍医殿」

  「ん」

  「……昨夜、倉庫の裏で、ガルベルトさんとヨルグさんの話を……偶然、聞いてしまって」

  ダルマは手を止めずに応じる。

  「で?」

  「ふたりとも……すごく、傷ついたまま、生きてて。……それでも、互いに何も言わなくても、わかり合ってて」

  しばらく沈黙。

  「……俺も、誰かの痛みに、そうやって気づける人間になりたいです」

  ダルマは一度だけ、薬の瓶を棚に戻し、静かに言った。

  「気づいたなら、黙って覚えておけ。……口にするのは、覚えたあとだ」

  「……はい」

  それは、叱責ではなかった。

  “まだ早いが、間違ってない”という返事だった。

  ジュドは胸の奥で、その短い言葉を何度も繰り返した。

  ◆ ◆ ◆

  その日の昼前。

  砦の西の塔、上層の見張り台。

  誰もいない、風だけが吹き抜ける高台。

  ガルベルトとヨルグが並んで立っていた。

  眼下には砦の外縁、その向こうに広がる畑と森。

  かつて、敵がどこから攻めてきてもおかしくなかった場所が、今は麦の穂で揺れている。

  「……随分、変わったな」

  ガルベルトの声は低かったが、どこか安らいでいた。

  「変わらねぇと死ぬだけだ。変われるなら、変わる方がいい」

  「でも、俺は……変わったか?」

  「少しな。昨日より、少しだけ」

  ヨルグは、砦の外を見つめながら続ける。

  「昔、俺たちは“もう戻れねぇ”と思ってた。でも、歩いてると、気づけば同じ道に立ってたりする」

  「……そんなもんか」

  「そんなもんだ」

  風がふたりの毛並みを揺らす。

  静かで、戦場では決して得られなかった風だった。

  ガルベルトはしばらく空を見ていた。

  そして小さく、口を開く。

  「……まだ騎士を名乗っていいのか、わからない」

  ヨルグはふっと笑った。

  「名乗りたくなったときに、誰にも断らず名乗れ。……それが“生きてるやつ”の特権だ」

  ガルベルトは何も返さなかった。

  ただ、拳を一度だけ軽く握った。

  ◆ ◆ ◆

  その夜。

  ジュドはこっそり西の塔の方を見た。

  遠くからでも、ふたりの影が並んでいたことを、ダルマは何も言わずに見届けていた。

  [newpage]

  [chapter:『教えた覚えはないが』]

  砦の訓練場の片隅。

  木剣の音が響く中、ひとりの青年が何度も構えをやり直していた。

  犬獣人の訓練兵、ノエル。

  手の甲には小さな絆創膏。足の運びは不安定。だが、それでも目は真剣だった。

  「……肘、入りすぎだ」

  声が飛んだ。

  ノエルが振り返ると、そこには片目を包帯で覆った狼獣人の騎士――レイナー・ヴァルグが立っていた。

  「え、あっ、す、すみません! えっと……見てました?」

  「見てたというより、気になった。……振り下ろすとき、力が逃げてる」

  「や、やっぱり……っ、でも、これでもマシになったって言われたんですよ! 前はもっと変だったらしくて……!」

  レイナーは無言で歩み寄り、ノエルの構えた木剣の手元を、指先で軽く押さえる。

  「今は“できてるように見せよう”としてるだけだ。……それじゃ意味がない」

  ノエルはうつむきかけて、ふとレイナーの左目を見た。

  「……あの、失礼かもしれないですけど、その目……」

  レイナーは、言われ慣れているというように淡々と返す。

  「訓練中に負傷した。装備不良だ。……見えないものがある。でも、動きは忘れてない」

  「……かっこいいです」

  唐突な言葉に、レイナーは目を瞬かせた。

  「……なんだそれは」

  「いや、その、だって……片目でも、ちゃんと戦えてて、説得力があるっていうか……! 俺なんて両目あっても、剣、ふらふらで……!」

  そのまま勢いでしゃべり続けそうになるノエルに、レイナーは小さく手を上げて止めた。

  「焦るな。見える数より、届く意志の方が大事だ」

  「……届く、意志」

  ノエルがぽつりと繰り返す。

  レイナーは短く頷いたあと、言った。

  「剣の構えは教えない。俺は教師じゃない。ただ……“動きたいと思ったときに、動けるか”は、よく見てる」

  ノエルの耳がぴくりと動く。

  「じゃあ……俺、次にちゃんと構えられたら、何か言ってくれますか?」

  「そうだな。……じゃあ、“見えてた”って言う」

  それだけ残して、レイナーは訓練場を離れた。

  ノエルはしばらくその背を見送り、深く呼吸を整える。

  そして、もう一度構えを取った。今度は、見てもらいたいという気持ちを、形にするために。

  ◆ ◆ ◆

  その日の夕方。

  レイナーは医務舎の前を通った際、ふと訓練場の方から響く木剣の音に足を止めた。

  見えない左側で何かが動いた気がして、立ち止まり、体を傾ける。

  耳を澄ませた先には、犬の足音と、風を切る音。

  「……届いてきたな」

  ぽつりと、それだけ言って、歩き出す。

  言葉は、まだ返さない。

  けれど、“見えてる”ことは、確かだった。

  [chapter:『左目の輪郭』]

  医務舎の午後。

  外では訓練兵の掛け声が聞こえ、診察は一通り落ち着いていた。

  レイナー・ヴァルグは、いつものように左目の包帯を取り外していた。

  定期診察。負傷から三週間。視力は戻らないが、光に慣れる訓練は続いている。

  「……今日は、少し違います」

  ダルマが光源を調整しながら聞く。

  「違う、とは?」

  レイナーは少し考えるように間を置き、答えた。

  「……視界というより、“輪郭”がある感じがします」

  「見えてるのか?」

  「いえ。暗い中に、何かが“そこにある”気配がある。けれど、形は取れない」

  ダルマは光を傾け、反射を見る。

  「痛みは?」

  「ないです。……でも、気持ち悪くて。正面を見てるつもりでも、目だけどこかを探してる感じがして」

  「焦点がずれる感覚か」

  「はい。訓練中にそれが来ると、瞬間的に剣が止まる。……気のせいだと、自分に言い聞かせてますが」

  ダルマは一度黙り、椅子に背を預けた。

  「“そこにある気がする”ってのは、視覚じゃなく、記憶だ。……お前の目は、戦い方を覚えてる」

  「……記憶」

  「見えてないものを、“見えていたころ”の感覚が補ってる。……それが、輪郭になる」

  レイナーは少し目を伏せた。

  「それが……ありがたいのか、厄介なのか、わかりません」

  「どっちでもねぇ。事実は事実だ。……その輪郭が敵の剣か、味方の影かは、お前が決めろ」

  「……そうですね」

  短く返事をして、レイナーは目元を覆い直す。

  「包帯、外す時間を伸ばしてみます。……あと一刻、光に慣らすつもりで」

  「無理はすんな。……“慣れる”と“我慢する”は違う」

  「気をつけます」

  ◆ ◆ ◆

  帰り際。

  レイナーが医務舎の扉を開けかけて、ふと振り返った。

  「……“そこにある気がする”って、やっぱり……見えなくても、残ってるってことですか」

  「そうだ。……ただ、“それが何か”を間違えんな」

  「……はい」

  レイナーは静かに出ていった。

  その背を見送りながら、ダルマは呟く。

  「まだ戦ってる。たぶん、いい方向に」

  [chapter:『見えない目で、教えるということ』]

  午前の訓練場。

  空は曇りがちだったが、風は穏やかで剣を振るにはちょうどいい日だった。

  レイナー・ヴァルグは、片目を覆ったまま壁にもたれ、訓練兵たちの稽古を眺めていた。

  木剣の音、足運びの音、掛け声……それらが地面を伝って胸の奥まで響く。

  「……レイナーさん!」

  呼びかけられ、視線を向ける。

  そこにいたのは、犬獣人の訓練兵――ノエル。

  汗で獣毛を貼り付けながら、真剣な目をしていた。

  「もう一度、教えてもらえませんか! この前言われた“動きたいときに動けるか”って……それ、まだ自分じゃよく分からなくて!」

  レイナーはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。

  「……俺は、教師じゃない」

  「知ってます。でも、あの時の言葉……ずっと、響いてるんです。だから、もう一度だけ!」

  その言葉に、レイナーの右目が細く揺れる。

  ノエルはまだ若い。未熟だが、剣に向き合おうとする気持ちは本物だった。

  (……“輪郭”を確かめるには、悪くないか)

  レイナーは静かに立ち上がり、木剣を手に取る。

  「一度だけだ。手加減はしない」

  「はい!」

  ◆ ◆ ◆

  訓練場の端。人目が少ない場所に、ふたりは向かい合った。

  レイナーは包帯を巻いたまま、左目に手を添える。

  (見えない。けれど、何かがある気がする。……“そこに立ってる”気配が)

  ノエルが木剣を構える。

  レイナーも、それに応じて静かに腰を落とす。

  「……っ!」

  ノエルが踏み込む。レイナーは、足の動きと腕の振りを“音”と“地面の振動”で受け止め、軽くいなした。

  「……!」

  体が勝手に動いた。反応していたのは、視覚ではない。

  だがその瞬間、“左側にいる”という確信が、確かに輪郭となって浮かんでいた。

  「もう一手、速く」

  「はいっ!」

  剣を交えるたびに、レイナーの中で“見えていた頃の動き”がよみがえる。

  目は役に立たない。けれど、体は覚えていた。

  数十合を交え、ノエルが息を切らせたところで、レイナーが手を下げる。

  「……合格だ。お前は、“動ける”ときに動いてた」

  ノエルははっと顔を上げた。

  「え……!」

  「剣筋は未熟だが、体が前に出た。俺の動きに、目じゃなく“意志”でついてきた」

  「……本当に、ありがとうございます!」

  ノエルが深く頭を下げる。

  レイナーは軽く剣を納めたあと、自分の左目の包帯に指を添えた。

  「……おかげで、俺も確かめられた」

  「え?」

  「見えない目で、どこまで感じ取れるか。……まだ、全部が無駄じゃなかった」

  そう言ったときの彼の表情は、以前よりもわずかに穏やかだった。

  ◆ ◆ ◆

  夕方、医務舎。

  レイナーは診察後、包帯を外したままダルマに言った。

  「……今日、訓練で一度だけ、“見えた気がする”瞬間がありました」

  「気のせいか?」

  「……いいえ。たぶん、そうであっても、そうでなくても、俺にとっては“意味のある錯覚”だったと思います」

  ダルマはそれ以上問わず、記録簿に静かに一行を書き込んだ。

  「本人、自覚的順応進行中。神経的代償機能の再調整、観察継続」

  そしてその余白に、鉛筆で短くこう書いた。

  「意味のある錯覚──それが剣士の勘だ」

  [newpage]

  [chapter:『酒と火と、三つの背中』]

  夜の砦は静かだった。

  兵舎の明かりが落ち、外回りの見張りが交代に入る頃。

  司令棟の裏手、古い石窯跡の囲炉裏に火がくべられ、そこに三人の男獣人が座っていた。

  ゴルツ――ぶ厚い前腕を持つ熊獣人の料理長。

  ロガン――無言の圧で空気を制するバイソン獣人の砦大隊長。

  そしてダルマ・グレヴィーン――寡黙な猪獣人の軍医。

  焚き火を囲み、丸太椅子に腰を下ろした三つの背中。

  鍋には燗酒。つまみは塩干しとゴルツの炙った根菜。

  「……こんなに静かになったのも、ここ十年が初めてだな」

  最初に口を開いたのはゴルツだった。

  塩気のきいた干し肉を片手でちぎり、もそもそと咀嚼する。

  「静かすぎて、若ぇのが気ぃ抜いて腐りそうだ。毎朝、スープに薬味じゃなくて緊張感を入れてやりてぇ」

  「……スープに緊張感て、なんだ」

  ダルマが低くぼやくと、ロガンが鼻を鳴らした。

  「無理はない。今の若手は“死ぬかもしれない朝”を知らん」

  「知ってりゃえらいってわけでもねぇ。……知ったまま止まってるやつも多い」

  「……お前のことか?」

  「違ぇよ。俺はまだ動いてる」

  ダルマの尾が小さく揺れる。

  それを見て、ロガンが初めてぐい、と湯飲みを煽った。

  「……生き残った俺たちは、“止まらずにいること”に意味がある。動けなくなったら、そこまでだ」

  「おい、そういう話は塩干しに合わねぇ。飲め。焦げた根っこもあるぞ」

  ゴルツが適当に酒を注ぎ、ロガンの器に放り込む。

  「ったく、なんで俺が隊長に酒注いでんだか」

  「お前が持ってきたんだろうが」

  「うるせぇ。あんたらが呼ばなきゃ、独りで飲んで寝てたわ」

  「誰も呼んでねぇ。勝手に来ただけだろうが」

  ダルマの一言に、ゴルツが声を立てて笑った。

  「……ははっ、そうだったな。ああ、くそ。やっぱこういう夜がねぇと、砦って感じがしねぇわ」

  「お前、毎晩こんなことしてたら太るぞ」

  「うるせぇなぁ……誰かが太ってたほうが、平和って証明だろが」

  「それはまあ、確かに……」

  「おい、こっちを見るんじゃねぇ」

  ◆ ◆ ◆

  しばらくして、酒がまわってくると、三人とも無口になった。

  獣毛を撫でる風と、薪のはぜる音。

  背中は大きく、傷も多く、無駄なことを言わずともわかりあっている。

  やがてロガンがぼそりと呟いた。

  「お前ら、次に戦が起きたら、どうする」

  ゴルツは即答した。

  「飯を炊く。まずは腹を作る。人間は腹が減ると泣く。騎士も兵も関係ねぇ」

  ダルマは肩を落とさずに答えた。

  「……生かせるやつを生かす。無理なら……立てるやつにだけ、手を貸す」

  ロガンはしばらく黙り、それを聞いてから酒をあおった。

  「……変わってねぇな、お前ら」

  「お前が変わらなすぎるんだよ。……その角、手入れしてんのか?」

  「してる。お前の毛より丁寧にな」

  「ぶっ殺すぞ」

  「やってみろ」

  焚き火がはぜて、三人の間に、火花のような笑いが落ちた。

  ◆ ◆ ◆

  月が昇りきる頃。

  誰からともなく立ち上がり、器を片づけ、残った火を丁寧に埋める。

  「……また飲むか?」

  ロガンが問う。

  「そのうち、腹減ったらな」

  ゴルツが答える。

  「その時、患者がいなけりゃな」

  ダルマが背を向ける。

  それぞれが、自分の場所に戻っていった。

  砦の夜は静かだったが、どこかに、あたたかい匂いが残っていた。

  [chapter:『三人衆、静かなる混沌』]

  砦の朝。

  空は晴れ渡り、風は乾いていた。だがこの日、砦の若手たちは早くも疲弊していた。

  理由は簡単だった。「例の三人」が同じ日に動いたのだ。

  ◆ 第一波:軍医ダルマによる『予告なき健診』◆

  朝一番、診察予定の貼り出しが差し替えられ、そこには無情な文字が躍っていた。

  「全兵対象、突発診断。理由:ダルマが気になったため」

  若手兵士ノエルは頭を抱えた。

  「……“理由:気になったため”って何だよ……!」

  診察所では、ダルマがぶっきらぼうに指示を飛ばしていた。

  「脱げ。肺の音聴く。黙れ。咳するな、まだだ。……それ、昨日の飯は何だった?」

  「えっ、えっ、あの、パンと干し肉を――」

  「干し肉は何日目だ。塩気を舐めて確認したか?」

  「そ、そこまでは……!」

  「だから腹下すんだ。次」

  ◆ 第二波:料理長ゴルツの『急遽、食事変更』◆

  昼直前、厨房から怒鳴り声が響いた。

  「おいお前ら! 今日の昼、鍋中止だ!急きょ粥に変える!」

  「えっ!?えっ!?なんでですか!」

  「軍医が“腹下しが出る予感”って言った!だったら粥だろうが!」

  兵たちはてんやわんや。

  しかも粥は出汁たっぷりで、やたらに美味かった。

  「うまっ……でも、これいつ仕込んだんだ?」

  「朝の五時には炊いてたって……料理長、未来予知でもすんのかよ……」

  ◆ 第三波:ロガン大隊長の『唐突な装備点検』◆

  昼下がり。飯のあとのゆるみかけた時間に、ロガンの怒声が響いた。

  「各班、即時集合。装備再点検を実施する」

  「えっ!?昼休みじゃ……!」

  「昼休み中に死んだら意味がない。動け」

  全員が即起立。全身装備のチェックが始まった。

  「革ベルト、擦れてるな。修繕申請出したか」

  「えっ、は、はいっ……あの、つい後回しにしてて……!」

  「“後回し”にした傷は命に刺さる。次」

  その言葉を聞いたノエルは、心の中で叫んだ。

  (この三人、連携してんのか……!?)

  ◆ ◆ ◆

  夕方、フラフラになった若手たちが中庭の石に腰を下ろしていた。

  「午前はダルマ軍医に詰められ……昼はゴルツ料理長の気まぐれ飯に走り回り……午後はロガン隊長の一喝で死んだ……」

  「俺たち、今日何回“はいっ!”って言った……?」

  そのとき、遠くから三人の声が聞こえた。

  「ダルマ、今夜も飲むか」

  「ゴルツ、つまみはあるか」

  「ロガン、お前が酒持ってこい」

  若手全員、固まった。

  ノエルが呟く。

  「……三人揃った夜って、明日何か起きるんじゃ……」

  「やめろ!不吉なこと言うな!」

  ◆ ◆ ◆

  その翌日。

  砦中に「スープが絶品だった」「風邪ひきが一人も出なかった」「装備破損が未然に防がれた」という記録が残された。

  若手たちは口をそろえて言った。

  「……怖ぇよ、この人たち」

  [newpage]

  [chapter:『包みの中の気持ち』]

  春の香りが混じり始めた風が、医務舎の窓をさらりと撫でていった。

  午後の診察が落ち着いた頃。

  薬棚を整理していたジュドの耳に、ことんと軽い音が届いた。

  ──扉の外。あの歩き方。

  「……リネさん、ですよね?」

  声に驚いたように、扉の向こうで返事が返る。

  「え、あっ、はい……えっ、見えてました?」

  「いえ。音、というか……気配で、なんとなく」

  開いた扉の向こうには、今日も両手に小さな包みを持った白猫獣人の少女――リネ。

  上品に折られた布の端から、ほのかに焼き菓子の甘い香りが漂っていた。

  「今日は、焦がしてません」

  「そ、それは安心しました……!」

  ジュドはぎこちない笑みを浮かべ、包みを受け取る。

  その手が、わずかにリネの指に触れた。

  互いに少しだけ驚き、すぐに手を引っ込める。

  「……すみませんっ」

  「い、いえっ、あの、こちらこそ……」

  その場が微妙な沈黙に包まれたとき、医務机の向こうで紙をめくっていたダルマが、ぼそっと呟いた。

  「落ち着け。お前の心拍、診察いらずだな」

  「えっ!?し、しんぱ……っ」

  「目が泳いでる」

  「うぅ……!」

  リネが小さく笑った。

  「でも、そういうところ……少し、好きです」

  「……っ!? え、い、いま……」

  「ん? “少し”って言いましたよ?」

  笑みを浮かべる彼女に、ジュドはますます真っ赤になる。

  「じゃ、じゃあ……えっと、その、“少し”って……どれくらいの“少し”なんでしょうか……」

  「それは……また今度、少しずつお伝えしますね」

  そう言ってリネは、しっぽをゆるく揺らしながら扉の外へ。

  ◆ ◆ ◆

  扉が閉まったあと。

  ジュドは目の前の包みを見つめ、しばらく黙っていた。

  「……“少し”って……なんなんだろうなぁ……」

  「中身、見れば分かる」

  ダルマが記録簿をめくりながら答える。

  「……え?」

  ジュドが包みを開くと、そこには小さく文字が縫い取られた刺繍布が添えられていた。

  「甘すぎず、でも残る味にしてみました」

  ジュドはそっと布を畳み、もう一度包みを抱え直した。

  それは確かに、“少し”じゃない気持ちが詰まっていると、胸が言っていた。

  [chapter:『素直の代わりに、湯を沸かす』]

  その夜、医務舎の灯りはいつもより長くついていた。

  ダルマは帳簿に目を落としたまま、湯を沸かす火鉢の音に耳を傾けていた。

  背後では、ジュドが棚の整理をしている“ふり”をして、同じ瓶を三度戻している。

  「……何を探してる」

  「……いえ、あの、別に……」

  「三度戻したら、順番は崩れるだけだ」

  「……すみません……」

  静かな沈黙が流れる。

  やがて、ジュドがぽつりとつぶやいた。

  「……俺、どうしたらいいのか、分からなくなってきてて」

  ダルマは手を止めずに問う。

  「症状は」

  「えっ?」

  「症状。診るには訴えがいる」

  ジュドはうつむいたまま、言葉を探した。

  「……胸が詰まる感じです。昼も、夜も、あの人の顔が浮かんで、何か話したいのに、言えない。言おうとすると、全部空回って」

  「鼓動は?」

  「早いです。顔、熱いし……でも、“好きです”とか、簡単に言っちゃいけない気もして」

  「なんでだ」

  「……だって、俺なんかが、そういうの……軽く言っちゃいけない、って……」

  ダルマは湯を注ぎながら、答えた。

  「“軽く言わない”と、“言えなくなる”こともある」

  ジュドは目を上げた。

  「……でも、俺は、軽くは言いたくないんです。リネさんのこと……」

  「じゃあ言うな。言わずに伝えろ」

  「……どうやって」

  ダルマは黙って、小さな湯飲みに湯を注ぎ、それをジュドに渡した。

  「明日、差し入れが来たら、“お前が湯を淹れて出せ”。……それで十分伝わる」

  「……え?」

  「“伝えたい”やつの手で差し出されたものは、何より誠実だ。……茶でも、湯でも、布でもいい。言葉は後だ」

  ジュドは湯飲みを見下ろし、そっと口元に運んだ。

  熱さが舌に触れたが、不思議と落ち着いた。

  「……自分のこと、診てもらってるみたいですね」

  「診てる」

  「……診療簿、つけてます?」

  「書いてる」

  「えっ……?」

  ダルマは帳簿の端を示す。そこには一行だけ、鉛筆で書かれていた。

  「自覚症状あり。告白の兆候。経過観察」

  ジュドはそれを見て、しばらく真っ赤になったまま黙っていた。

  その夜、彼は布団に入るまで、何度も「湯を淹れる練習」を繰り返していた。

  [chapter:『紅茶で伝える想い』]

  翌日、午後の医務舎。

  空気は冷えていたが、陽射しは柔らかかった。

  ジュドは昼前からそわそわと落ち着かず、帳簿を三度見直し、茶葉の袋を何度も確認していた。

  「……軍医殿、ひとつお伺いしてもよろしいですか」

  「“ひとつ”じゃねぇな。すでに三つ目だ」

  「す、すみません……でも、ほら、リネさん、前に花の香りが好きって……言ってたような、気がして」

  「記憶に自信があるなら、それを出せ。……自信がねぇなら、手を丁寧に使え」

  「……はい」

  そんな会話のすぐあと。

  コツ、コツ――控えめな足音が、医務舎の扉を叩いた。

  「……すみません、また来てしまいました。……少しだけ、よかったら」

  白猫獣人のリネ。

  ふわりと香る干し林檎の包みを抱えて、いつものように姿を見せた。

  だが今日は、いつもと違うことがあった。

  ジュドがすでに立ち上がり、机の端にあたためた紅茶を置いていたのだ。

  「えっ……?」

  リネが驚く。

  器は小ぶりな素焼きで、紅茶の色は淡い琥珀。

  さりげなく、ほんの一枚だけドライフラワーが添えられていた。

  「こ、これ……ぼくが……いえ、俺が、いれました……」

  「……ジュドさんが?」

  「焦がしてないんですけど……あの、熱くない、つもりで……」

  リネは一瞬ぽかんとし、それから小さく微笑んだ。

  「いただいてもいいですか?」

  「もちろん!」

  器を受け取るリネの指が、ジュドの手に触れた。

  前ほどお互い驚きはしなかったが、それでもふたりとも、目をそらすように一瞬沈黙した。

  「……すみません、いま……」

  「いえ。あの、ありがとうございます」

  「……やさしい味。花の香り……」

  「リネさん、前に花が好きだって……言ってたような、気がして」

  「……覚えててくれたんですね」

  ジュドは口を開きかけて、黙った。

  けれど、リネがほんの少し、目を細めて彼を見ていた。

  「こういうのって、言葉じゃなくても、伝わるんですね」

  「……そう思って、入れました。……今日、言うと多分、変に言っちゃうから……」

  リネは、紅茶をもう一口飲み、器を胸の前にそっと抱いた。

  「……また来ていいですか?」

  「……はい」

  ◆ ◆ ◆

  そのあと。

  リネが帰ったあとも、ジュドはしばらく手元の茶器を洗いながらぼんやりしていた。

  机の向こうで記録を書いていたダルマが、ふと呟く。

  「湯より、だいぶマシだな」

  「……はい。味も香りも、ちゃんと、想いが入ってたと思います」

  「……次は、お前が“もらう番”だな」

  「え……?」

  「渡してばっかじゃ、偏る。……茶器だけじゃなくて、気持ちも」

  ジュドはその言葉を、返事の代わりに小さく頷きながら、器をていねいに拭いた。

  [chapter:『紅茶の返礼』]

  その日も、医務舎は静かだった。

  午後の巡察から戻ったばかりのジュドは、外套を脱いで、棚の前で腕を伸ばしていた。

  寒さが残る季節。じんわりと温まる室内に、気がゆるむ。

  そんなとき、ふわりとやさしい香りが鼻先をかすめた。

  (この香り……)

  扉が開くより先に、ジュドの耳が反応していた。

  コツ、コツ――控えめな足音。白猫獣人のリネ。

  「こんにちは。また来てしまいました」

  リネは、薄手の布に包まれた小さな茶器籠を抱えていた。

  その中には、あたためた紅茶と、ほんのり甘い花の香りが漂っている。

  「これ……こないだのお返し、になるか分からないんですけど……私の、紅茶です」

  「……えっ。あ、あの……わざわざ……」

  「はい。すごく嬉しかったので、ちゃんと“返す”のがいいと思って」

  ジュドは、胸の奥が一気に熱くなるのを感じた。

  紅茶そのものより、包み方、湯気の立ち方、手元のていねいさ――

  そこに込められたものが、自分の出したものと同じ重さで戻ってきている。

  「……いただきます」

  両手で受け取ると、器の側面がほのかに温かい。

  リネがつくった温度だと思うと、指先が落ち着かない。

  「……おいしいです。やさしい味です」

  「少し、花の蜜を混ぜてみました。香りが立ちやすくなるって、母に教わって」

  「……はい、立ってます……すごく」

  リネは笑った。

  その笑顔を見て、ジュドはまた言葉を失いそうになる。

  「次は、もう“お返し”じゃなくても、来ていいですか?」

  「……はい。何もなくても……その……来てほしいです」

  ◆ ◆ ◆

  リネが帰ったあと。

  ジュドは机に茶器を置いたまま、しばらく眺めていた。

  「……軍医殿、ぼく……いえ、俺、ちゃんと受け取れてましたかね」

  ダルマは帳簿をめくったまま、顔も上げずに答えた。

  「“うまい”と言った。指も震えてなかった。……十分だ」

  「……そうですか。よかった……です」

  その夜、ジュドは紅茶の香りがしみ込んだ茶器をていねいに洗い、

  心のなかで、もう“贈り返す”必要のない関係に進んでいけたら、と願った。

  [newpage]

  [chapter:『傷を知る者たち』]

  訓練場の隅にある石壁の陰。

  午後の稽古を終えたレイナー・ヴァルグは、静かに水を飲んでいた。

  左目は包帯で覆われたまま。

  光には慣れ始めてきたが、深く入り込む視界の“違和感”は、いまだに消えない。

  ふと、誰かの気配を感じて振り返る。

  石の端に腰をかけていたのは、灰毛の狼獣人――ヨルグだった。

  片足を引きずるように歩く戦場帰りの男。

  気配はあるが、存在を主張しない。

  それでも“いる”という空気だけが、確かにそこにあった。

  「……見られていましたか」

  「見てたというより、気配でわかった。お前の剣の振りは、止まるたびに“次”を探してる」

  レイナーは肩で息をしながら、静かに腰を下ろす。

  「……それは、“見えてないから”ですか」

  「いや。“見えなくなってから、何を見ようとしてるか”が透けてる」

  しばらく沈黙。

  やがてヨルグが、口を開く。

  「俺もな、片足が壊れたあと、何ができるかばかり考えてた」

  「……今は?」

  「“何を残して歩くか”を考えてる。足は戻らない。けど、踏んできた道は残ってる」

  レイナーは片目を伏せる。

  「俺はまだ……“どうやって戦うか”ばかりです」

  「それでいいさ。……まだ“若い騎士”だろう」

  「……そうですね。でも、たまに思うんです。“若さ”って、見えなくなると途端に心許なくなる」

  「そうか?」

  ヨルグはかすかに笑った。

  「じゃあ、“老い”もあんまり見えてないままで助かってるかもな」

  レイナーも思わず小さく笑った。

  そのあと、少しだけ真剣な眼差しでヨルグを見やる。

  「……俺の目が戻らなくても、騎士として立っていいんでしょうか」

  「“立ってる”なら、それがすでに答えだ」

  ヨルグはそれだけ言って立ち上がる。

  「……それでも迷ったときは、訓練場じゃなく、塔に来い。空がある場所で考えろ。見える見えねぇは、そこじゃ重要じゃなくなる」

  レイナーはゆっくり頷いた。

  「……覚えておきます」

  ◆ ◆ ◆

  ヨルグの足音が去ったあと、レイナーは自分の包帯をそっと押さえた。

  “今はまだ、迷っていい”

  そう言われたような気がして、胸の奥に、ほんの少しだけ風が通った。

  [chapter:『塔に登る、片目の騎士』]

  その日は、朝から風が強かった。

  砦の西にそびえる見張り塔は、今や戦の最前線ではなくなったが、石段と風の通り道だけは昔のままだ。

  レイナー・ヴァルグはひとり、ゆっくりと塔を登っていた。

  左目はまだ包帯に覆われたまま。

  だが、それを外して登る勇気はまだなかった。

  “見えない”という事実を、無理に曝け出すことに意味があるとは思えなかったからだ。

  石の段差を数えながら登る。

  外からは、砦の中庭で訓練する若者たちの掛け声が遠く聞こえる。

  (あの中に、俺は“いた”んだよな……)

  登りきったとき、塔の頂上は思ったよりも風が強く、そして開けていた。

  視界の右側に広がる大地。

  麦畑。森。遠くの村の屋根。

  陽の光が、広く浅く、まるで空から差し出された手のように地面をなぞっている。

  レイナーは、塔の縁にそっと腰を下ろした。

  風の音が耳を抜けていく。

  左目を覆った包帯の内側は、暗く、そして“確かに何かがある”ような、妙な感覚が続いていた。

  (……輪郭だけが、まだここに残ってる)

  静かに、包帯を指で押さえる。

  取るつもりはない。ただ、そこに“感じている”ことを、確認する。

  「……ここが、“見えないことが気にならなくなる場所”か」

  ぽつりと、誰にも聞かせるつもりのない声が出た。

  空は広かった。

  見える側の目からも、見えない側の気配からも、まったく同じ大きさで風が流れていた。

  (目がひとつでも、世界は半分にはならない)

  そう思えたのは、はじめてだった。

  ◆ ◆ ◆

  塔を降りるとき、レイナーは足を止めた。

  階段の下、石の影にヨルグが立っていた。

  「……来てたんですか」

  「“来るかどうか”は見るまでもない。“降りたあと”を見に来た」

  レイナーは小さく笑った。

  「……見えるようになったとは言いません。でも、気にならなくなりました」

  「十分だ。それが“目が見えてる奴”にはできないことだ」

  ヨルグは背を向けて歩き出しながら、短く付け加えた。

  「次は、お前が“誰かに登らせる”番だ」

  その言葉を、レイナーは深く心に刻んだ。

  ◆ ◆ ◆

  夜。

  医務舎で、ダルマがレイナーの眼を診ながら言った。

  「今日は、視神経の動きが落ち着いてる。……無理に使ってねぇ証拠だ」

  「……ええ。見ようとしないことで、見えてきたものがあった気がします」

  「空か?」

  「空と、もう一つ。“片目で見る未来”です」

  ダルマは記録簿に一言書き込みながら、小さく頷いた。

  「順応、安定期へ。本人の“光の受け取り方”に変化あり」

  [chapter:『スープと背中』]

  まだ日も昇りきらない砦の朝。

  訓練場の裏手にある厨房棟では、すでに火が起こされていた。

  中では熊獣人の料理長、ゴルツが薪をくべながら、大鍋のスープをじっと見つめていた。

  「……ったく、また火の入れが甘ぇ。あいつら、湯気が立ったら完成だと思ってやがるな……」

  ぶつぶつと文句を言いながらも、手は止まらない。

  そのとき、厨房の裏口からおそるおそる顔をのぞかせた若者がいた。

  「……あの、ゴルツ料理長……っすよね?」

  振り向く。そこにいたのは、犬獣人の訓練兵、ノエル。

  両手に持った籠の中には、まだ温もりの残る焼きパンが並んでいた。

  「おう。……お前、なんでパン抱えてんだ」

  「ダルマ軍医に、“飯で栄養摂るなら厨房で覚えろ”って言われて……あ、いや、命令ってわけじゃなくて、自主的にっ!」

  ゴルツはしばらくノエルを見ていたが、鼻を鳴らして返した。

  「軍医にしちゃ、珍しくマトモな言葉だな。じゃあ運べ。手を動かせ。スープが煮える前にパンが冷める」

  「はいっ!」

  ◆ ◆ ◆

  それからしばらく、厨房には二人の音が響いていた。

  パン籠を並べる音。根菜を刻む音。調味料を探す棚の音。

  ノエルは最初こそぎこちなかったが、少しずつ鍋の蓋を取る手や香草を摘む仕草に、迷いがなくなってきた。

  ゴルツは一度も褒めなかったが、切ったパンの切れ端を一つ、黙ってノエルの皿に乗せた。

  「……お前、家で料理とかしたことあるか?」

  「いえ、まったく。でも、うちの母がスープをかき混ぜてる姿、いつも見てたっす」

  「見てるだけで覚えられるなら、目は飾りじゃねぇな」

  ノエルはふっと笑う。

  「ゴルツさんの背中、なんか……見てると、手伝いたくなるっす」

  「そうか。なら今すぐ芋むけ。でかいのな」

  ◆ ◆ ◆

  朝食の時間。

  パンとスープを運び終えたノエルは、厨房の隅で静かに腰を下ろしていた。

  「おい。食わねぇのか」

  「……なんか、もったいなくて。初めて自分の手が入った食事っていうか……」

  「食わねぇと分かんねぇ。うまいかどうかは、口で決めろ。食え」

  ノエルは頷いて、パンをちぎり、スープに浸して口に運んだ。

  一口目で、目を見開いた。

  「……あっ……うまっ……!」

  「当たり前だ。俺が煮て、お前が切ったんだ」

  ◆ ◆ ◆

  その日の午後、ジュドに会ったノエルは、少し誇らしげに言った。

  「……ねえ、スープに使える薬草って、医務舎に置いてたりします?」

  「え? まあ、種類によりますけど……どうして?」

  「今度、ゴルツさんに“試しに入れてみない?”って言ってみようかと思って」

  「……ノエルくん、気づいたら厨房の人間になってません?」

  「えっ、ほんとっすか!?」

  [chapter:『無言の評価』]

  夕方の医務舎。

  診察を終えたダルマは、机の上の木皿に置かれた食事を前にしていた。

  パンが二切れ。

  根菜と干し肉のスープ。

  香草がひと枝だけ浮かべられ、いつもより少しだけ彩りがある。

  「……ゴルツさんと一緒に作ったんですけど、あの、よかったら……」

  そう言って運んできたのは、厨房の手伝いを始めたばかりの犬獣人のノエルだった。

  ダルマは無言で皿を見下ろす。

  「食べる時間、邪魔だったら……あの、置いとくだけでも」

  返事はない。

  ノエルは落ち着かない様子で扉の近くに立ったまま、そわそわと尻尾を揺らしていた。

  ダルマは、黙ったままスプーンを取り、パンをちぎり、スープに浸した。

  一口。

  咀嚼音はしない。ただ、顎が一度動く。

  もう一口。

  今度はパンだけをかじる。

  ノエルの耳がぴくりと動いた。

  (……何も、言わない……)

  口に合わなかったのか、何か気づいたことがあるのか。

  それとも、ただ黙ってるだけなのか。

  それがわからない沈黙が、ノエルにはいちばんこたえた。

  「……あの、やっぱ、味とか変ですか? 塩気とか、においとか、火の通りとか……」

  ダルマはスープを飲み終え、パンの最後の一切れをゆっくりと口に運んだ。

  木皿を机の端に寄せると、ようやく一言だけ口を開いた。

  「……次、また持ってこい」

  ノエルはぽかんとした。

  「え……?」

  「気になった。……今度は、俺が診る側だ」

  「し、診る……?」

  「食って分かる。雑に切った芋と、意外と正確な火加減。……どう混ざるか見ておきたい」

  それは、確かに“評価”だった。

  ノエルは、黙って頷いた。

  言葉よりずっと沁みる、それがダルマの“うまい”だった。

  [newpage]

  [chapter:『沈黙の中の命令』]

  夕暮れの回廊。

  砦の西側、石造りの廊下に、鈍い蹄音が響く。

  バイソン獣人の大隊長――ロガン・バルゼンが、ゆっくりと歩いていた。

  手には書類が一束。だが、足取りは書類を届けに行くそれではなかった。

  廊下の端、壁に背を預けて立っていたのは、ハイエナ獣人の騎士――ガルベルト。

  左手で手袋を揉みしだくように握っている。

  視線は伏せたまま。気配を殺すように立っていた。

  「……逃げてはいないようだな」

  ロガンの声が、低く落ちた。

  ガルベルトはすぐには応えなかった。

  だが、しばらくしてから、かすれた声で返す。

  「逃げたら……何かが壊れる気がして。だから……立ってました」

  ロガンは立ち止まり、ゆっくりと振り向く。

  「壊れてないと思っているのか」

  「……もう壊れてるのかもしれません。けど、砦の壁に立ってると……その“壊れたままの自分”を、置いてこれる気がするんです」

  ロガンはしばらく無言だった。

  夕日の光が、ふたりの毛並みに赤く差していた。

  やがて、バイソンはひとつの書類をガルベルトに差し出す。

  「城壁の巡回、補佐に戻せ」

  ガルベルトは目を見開いた。

  右手が書類に伸びかけて、すぐに止まる。

  「……俺に、戻れと?」

  「歩けるか」

  「……歩けます」

  「声は出るか」

  「……出ます」

  「なら問題ない。……後ろからなら、お前の姿を若い兵が見られる」

  ガルベルトは紙を受け取りながら、かすかに喉を震わせた。

  「……俺に、“示すもの”が、まだあるんでしょうか」

  ロガンはその問いには答えなかった。

  代わりに、背を向けて歩きながらひとつだけ呟いた。

  「……示す気のない者に、何も残らん。お前はまだ“騎士の背中”をしてる」

  ◆ ◆ ◆

  その夜。

  砦の記録係が、ロガンの捺印した巡回命令の中に、一枚だけ異様な書類を見つけた。

  ──「城壁外周・夜間補佐任命 騎士:ガルベルト」

  彼は上官に尋ねた。

  「この名簿、間違いでは?」

  ロガンは目もくれず、答えた。

  「間違っていたのは“忘れていたこと”の方だ」

  [chapter:『背中の役目』]

  夜の砦は、思ったより静かだった。

  風が壁をなぞり、どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえる。

  城壁の上では、当番の見張りが交代の時間を待っている。

  その巡回路に、ゆっくりと歩を進める騎士がいた。

  ハイエナ獣人のガルベルト。

  銀の留め具がついた外套。すっかり着慣れた鎧の感触。

  手には灯火ではなく、砦支給の小型ランタン。

  手元を照らすのではなく、ただ歩きながら灯りを“持っている”だけ。

  目は暗闇に慣れていたし、心はとっくに“闇の中”にいた。

  「……騎士殿、こちらへ」

  声をかけたのは、見張りに立っていた若手の兵士だった。

  鹿獣人の青年で、挙動がやや固い。

  「交代時間ですが……本当に、お一人で回るのですか?」

  「……命令だ。補佐の任だ。見て、書いて、報告する。俺にできることだ」

  「はいっ……!」

  青年は、どこか緊張しながら敬礼した。

  ガルベルトはそれに応えず、ただ一歩、また一歩と進んだ。

  足音が石の床に落ち、夜の静寂に小さく響く。

  ◆ ◆ ◆

  巡回路の折り返しに差しかかる頃。

  砦の北壁に近い見張り塔で、別の若手兵が彼に声をかけた。

  「ガルベルト殿、砦の図面で一点だけ確認を……」

  「……図面、見せろ」

  若者が紙を差し出し、ガルベルトが指でなぞる。

  迷いなく、指は補強された新設壁の曲がり角を示した。

  「そこは一昨年に崩れた。補強は十分だが、雨が続くと石がゆるむ」

  「……そんなことまで……」

  「俺はずっと、“崩れそうな場所”にいた」

  それは冗談でも、詩でもなかった。

  若者は言葉を失い、ただ深く頷いた。

  ◆ ◆ ◆

  見回りを終えて、ガルベルトが城壁を降りるとき。

  その背中を、数人の若手が静かに見送っていた。

  誰も言葉をかけない。

  だが、全員が「歩いている」その姿を、確かに見ていた。

  ロガンの言った通りだ。

  言葉よりも、歩く背中が若い者に示すものは大きい。

  ◆ ◆ ◆

  その夜、医務舎。

  ダルマは机の端に置かれた小さな報告書に目を通していた。

  「巡回報告書・副記:ガルベルト」と記されたその紙の最後に、短い一文が添えられていた。

  「歩くことで、立てる気がした」

  ダルマはそれを閉じ、記録簿に静かに記す。

  「症状安定。巡回任復帰により、自我回復進行中」

  鉛筆の芯が、静かに走った。

  [chapter:『炎の向こうにある背』]

  夜の砦。

  巡回を終えたガルベルトは、まだ温もりの残る石段をゆっくり降りていた。

  足元は疲れているが、歩みは乱れていない。

  過去の影を引きずる足ではなく、“いまこの砦にいる騎士”の歩き方だった。

  城壁から灯りのある広場へ向かうと、見慣れた背中がひとつ。

  灰毛の狼獣人――ヨルグが、焚き火の前で椅子代わりの木箱に腰をかけていた。

  焚き火をはさみ、向かいには、片目に包帯を巻いたレイナー・ヴァルグ。

  湯の入った金属カップを両手で抱え、静かに火を見つめている。

  ヨルグが目だけでこちらを見やった。

  「……歩ききったか」

  「……ああ。見られてたのか」

  「見るほどのことはしてねぇ。音と足取りでわかった」

  ガルベルトは焚き火のそばに来ると、黙って隣の木箱に腰を下ろす。

  レイナーが軽く会釈した。

  「……姿勢が、以前よりもずっと……“騎士”に見えます」

  「そうか?」

  「ええ。背中が“引かれてる”んじゃなくて、“立っている”背中になってました」

  ガルベルトは、しばらく黙っていた。

  だが、やがてゆっくりと、肩の力を抜いた。

  「……あのときの俺は、“背中を見せる役目”を捨てたと思ってた」

  ヨルグが一口、湯をすすった。

  「“捨てた”のと、“下ろしてた”のは違う。お前はただ、置いた場所がわからなくなってただけだ」

  「……それでも、見つけさせたのは、この砦のせいか」

  「砦じゃねぇ。“歩いてるやつ”が他にもいたからだ」

  レイナーは火の揺らめき越しに、ゆっくりと頷いた。

  「片目で歩いてたつもりでした。でも、“半分しか見えない”と思っていたのは自分だけでした」

  「お前の剣筋、音で分かった。……あれは、“前を見てる”やつの音だ」

  ガルベルトは、火の奥にあるふたりの姿を、しっかりと見据える。

  「……なんだろうな。今この場にいると、“過去”って言葉が少しだけ……遠くなる」

  ヨルグが最後の一口を飲み干す。

  「そういう夜に、火のそばにいられるなら――まだ騎士でいていい証拠だ」

  レイナーが、少しだけ笑った。

  「……この場所に、“過去”を持ち込んで、よかったですか?」

  ヨルグは一拍置いてから言った。

  「過去を捨てるな。砦に持ってきたなら、“今の言葉”で語り直せ。……それが、生きてるやつの責任だ」

  ◆ ◆ ◆

  火がはぜる音だけが響く中。

  三つの背中は、火をはさみ、黙って“同じ方角”を向いていた。

  それは、過去の罪や傷ではなく、

  “これからも歩き続ける者たち”が持つ、確かな温度だった。

  [chapter:『火のない場所に灯るもの』]

  ある昼下がり。

  巡回を終えたガルベルトは、食堂裏の石段に腰を下ろしていた。

  城壁からの風は涼しく、腰を落とすにはちょうどいい場所だった。

  少し先の中庭。

  木の根元に敷いた布の上で、三人の若者が何かを広げている。

  衛生兵のジュド、白猫のリネ、そして訓練兵のノエル。

  リネが両手に茶器を並べ、ジュドが慎重に湯を注ぎ、ノエルがうっかり布を濡らして慌てている。

  「うわっ、ご、ごめん、リネさん、今のふきますっ!」

  「落ち着いてください。もう、慌てると余計こぼれるんですから」

  「す、すみません……ジュドさん、拭く布ありますか?」

  「ありますけど……もう少し静かにしてもらえると、香りが逃げません……」

  言い合いというより、言葉を重ね合うやさしい時間。

  誰も怒鳴らず、誰も焦っていない。

  失敗を笑って許す空気と、淹れたての紅茶の香りが、風に乗って石段のあたりまで届いてきた。

  ガルベルトは、それを見ていた。

  ただ、見ていただけだった。

  だが、彼の左手は手袋を握り締めず、膝の上に素直に置かれていた。

  ◆ ◆ ◆

  その横に、静かに足音を止めたのは、灰毛の狼――ヨルグ。

  彼もまた、少し離れてその様子を眺めた。

  「……変わったな、砦の空気」

  「……ああ。昔だったら、ああいう声は届かなかった」

  「届かないんじゃなくて、“立ち止まれなかった”だけだ」

  ガルベルトは頷く。

  その少しあと、レイナーが木陰から歩いてきた。

  「……あの三人、うまく釣り合ってますね。遠くからでも分かります」

  「若いのに“釣り合う”って言葉が出るのは、お前くらいだな」

  「目の代わりに、距離感に敏感になったのかもしれません」

  ヨルグが低く笑った。

  ガルベルトは、目の前の若者たちを見続けたまま、ぽつりと呟いた。

  「……あいつら、知ってるか?」

  「何を?」

  「“砦に火がない夜”のこと。……飯が冷えて、仲間が冷えて、死体が熱い夜のこと」

  ヨルグは黙っていた。

  レイナーも口を開かなかった。

  そしてガルベルトは、ゆっくりと首を横に振った。

  「……知らなくていい。あいつらには、知らせるな」

  その言葉に、誰も反論はしなかった。

  中庭では、リネがジュドの紅茶に砂糖を落とし、ノエルが「それ甘すぎません?」と文句を言っている。

  それがどうというわけではない。

  だが、ガルベルトの顔には、ほんの少し――本当に少しだけ、笑みの影があった。

  ◆ ◆ ◆

  その夜。

  ダルマは医務舎の記録を整理していて、ふとガルベルトの今日の報告書に目を通した。

  備考欄にはこう書かれていた。

  「本日、巡回異常なし。砦の空気、やや“温い”。異常ではない」

  ダルマは、鉛筆を置き、短く記した。

  「温いと書けるようになった。問題なし」

  [chapter:『茶の温度、笑顔の音』]

  午後の医務舎。

  静かな陽が射し、薬棚の影が少しだけ長く伸びている。

  ダルマは診察用の椅子に腰を下ろしながら、向かいに座ったガルベルトの鼓動を聴診器越しに受け取っていた。

  「……脈は安定してる。震えもない。寝付きは?」

  「……ましになった。……“夢を忘れる日”が増えた」

  「それはいい兆候だ」

  いつも通りの短いやりとり。

  言葉は多くなく、互いに深く追わない。

  だが今日のガルベルトは、どこか落ち着きがなかった。椅子に座ったまま、手袋をいじる仕草がいつもより多い。

  「落ち着かねぇのは、何かあったか」

  「……いや」

  「顔が落ち着いてない」

  「……俺、顔に出ますか?」

  「出てる」

  ガルベルトはややうつむきながら答えようとした、そのとき。

  コン、コン

  控えめなノックの音。

  「失礼します。あの、今お時間、邪魔じゃなければ……」

  扉を開けて入ってきたのは、ジュド、リネ、ノエルの三人だった。

  リネの両手には布で包んだ茶籠。

  ジュドがいつもより少しきれいに整えた姿で後に続く。

  ノエルは少し緊張した面持ちで頭を下げた。

  「……ガルベルトさん、お疲れのところすみません。巡回、ありがとうございました」

  「今日は……あの、茶だけでも受け取ってもらえたらと」

  「この紅茶、リネさんが香り選んで、ぼくがいれました。ノエルくんが火の番、です」

  「“です”って言われても……」

  「黙って、受け取ってください!」

  「はい……!」

  小さなやりとりに、医務舎の空気がふっと緩んだ。

  リネが、ガルベルトの前にそっと器を置く。

  湯気が立ち、ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。

  「どうぞ。……あたたかいうちに」

  ガルベルトは、しばらく紅茶を見つめたまま、何も言わなかった。

  けれど、器に手を伸ばすと、その指がわずかに震えていた。

  口に運び、一口。

  ……やさしい味だった。

  香りは強すぎず、湯の温度もちょうどいい。

  何より、器の底に感じた“手から手へ渡された温度”が、胸の奥にじんわり広がる。

  「あの、もし……薄かったらすみません……」

  その声が聞こえた瞬間だった。

  ぽた、と、膝の上に落ちたのは、一滴の涙だった。

  自分でも驚いたように、ガルベルトは瞬きした。

  もう一滴。

  今度は左頬をつたって、静かに落ちた。

  「……あれ……」

  声にならない声を漏らした。

  リネが一歩だけ前に出た。

  「……熱すぎましたか?」

  それは、ただの気遣いじゃなかった。

  “泣いてしまっても、大丈夫です”という、やわらかな逃げ道だった。

  ガルベルトは、器をそっと机に置いた。

  そして、震える手で顔を覆うようにして、ふと呟く。

  「……なんでだ。こんなに、ただ温かいだけなのに……」

  ジュドが、ダルマに目で問うた。

  だがダルマはただ、筆を止めたまま静かに言った。

  「“ただ”じゃねぇ。……あいつにとっては、“やっと”だ」

  ◆ ◆ ◆

  その夜、ガルベルトの報告書には何も書かれていなかった。

  だが、ダルマの記録帳にはこう残された。

  「本日、患者が泣いた。理由:あたたかい茶と、笑顔の音。経過観察、継続」

  [chapter:『苦笑いと湯気の向こう』]

  夜、医務舎の裏。

  火の落ちた薬草干し場に、いつものように灰毛の狼獣人――ヨルグが立っていた。

  片足を引きずるように歩き、風避けの石棚に腰を下ろす。

  そこへ、軍医ダルマが茶の入った金属カップをひとつ、黙って置いた。

  「……今日は、来ると思った」

  「お前の顔を見に来たわけじゃねぇ。……あいつの話を聞きに来ただけだ」

  ダルマは「知ってる」とだけ呟き、自分の分のカップを隣に置いて腰を下ろす。

  しばらく、何も言わず。

  風の音と、遠くで木箱を運ぶ兵士の足音だけが聞こえていた。

  やがてダルマが言った。

  「……今日、あいつが泣いた」

  ヨルグの耳が、わずかに動いた。

  「泣いた?」

  「ああ。ジュドたちが、茶を淹れて持ってきた。リネとノエルも一緒だった」

  「……それで?」

  「それだけだ」

  ヨルグはしばらく、何かを噛みしめるように黙っていた。

  そして、火がないというのに、ふっと息をついて、わずかに笑った。

  苦笑だった。

  「……あいつ、涙なんてもう乾ききったやつだと思ってた」

  「茶の香りで崩れた。笑顔が刺さったらしい」

  「笑顔が“刺さる”ってのは、もうだいぶ人間に戻ってきてるな」

  「戻ってねぇ。“思い出した”だけだ。自分にも、笑われる資格があったこと」

  ヨルグは手元の茶をゆっくりと啜った。

  香りは控えめ、温度は熱すぎず、だが胸に残る。

  「……戦場じゃ、この温度で泣くやつなんていなかった」

  「泣く前に死んでたか、泣ける暇もなかったか。……どっちかだ」

  「だから、今、泣けたあいつは――ようやく砦に着いたってことか」

  ダルマは何も返さなかった。

  代わりに、カップを持ち上げて、ほんの少しだけ掲げてみせた。

  ヨルグも応えるようにカップを持ち上げ、そっとぶつけた。

  カン、と、静かな音が、砦の夜に小さく鳴った。

  [chapter:『苦笑ひとつで、十分だ』]

  その夜、砦の裏庭。

  薬草干し棚の影に、灰毛の狼獣人――ヨルグがひとり立っていた。

  夜風は穏やかで、焚き火の必要もない春の気配。

  月の輪郭が石畳をうっすら照らしていた。

  そこへ、いつも通り無言で歩いてきたのが、軍医ダルマだった。

  手には温め直した金属のカップ。片方をヨルグに無造作に差し出す。

  「……昼のことだが」

  ヨルグが受け取る前から、すでに何かを察したように耳がわずかに動く。

  ダルマは腰かけることなく、立ったまま話し始めた。

  「定期診察のついでに、あいつに茶が届いた。若ぇのが三人で淹れてきた。リネって白猫と、ジュド、それから……あの犬っころだ」

  「ノエルか」

  「そう。……差し出された器を手に取って、あいつ、一口飲んだ」

  「……」

  「で、泣いた。ぽたっと落として、固まってた」

  ヨルグは一拍置いてから、目を伏せてふっと鼻で笑った。

  「……泣くには、ずいぶんあたたかい理由じゃねぇか」

  「お前が言ってた、“誰かが前を歩いてるから歩ける”ってやつ……その通りだったな」

  「そうだろうな。……でも、あいつ、泣き顔見られたのは恥ずかしかったろうよ」

  「リネが“熱すぎましたか?”って言った」

  「……あは、そりゃまた……やさしい逃げ道作ったもんだ」

  ヨルグは、口元にだけ笑みを浮かべた。

  苦笑。

  けれど、それは軽蔑でも皮肉でもない、深く知る者の“安堵”の笑みだった。

  ダルマは煙のような声で締めくくった。

  「今日の記録、“問題なし”だ」

  ヨルグは頷きながら、手の中のカップをひと口だけ啜る。

  「……戦じゃない涙を流せたってのは、あいつにとっちゃ、きっと十年分の薬より効くな」

  [chapter:『三つの背で支える夜』]

  夜、砦の裏手。

  かつて物資庫だった石造りの角に、小さな焚き火の輪ができていた。

  囲んでいたのは、軍医ダルマ、料理長ゴルツ、そして大隊長ロガン・バルゼン。

  火は薪ではなく、乾いた藁と炭のかけら。

  調理の副産物と、診療室の廃材。

  その火の熱だけで、三人の体は十分だった。

  ゴルツが、ごつい手で湯をかき混ぜながら言う。

  「……泣いた、らしいな。あのガルベルトが」

  ダルマは火に背を向け、壁にもたれながら答えた。

  「ああ。若いのが茶持ってったら、あいつ、ひと口でぽろっと落とした」

  「……よっぽど沁みたんだな」

  ロガンは火の向こうから、表情ひとつ変えずに一言だけ漏らす。

  「それでいい」

  ゴルツが笑った。

  「相変わらずだな、あんたは。“それでいい”の一言で全部済ませる」

  「済んでるから、言うだけだ」

  ダルマは肩を揺らさずに、乾いた声で補足した。

  「問題なし。……あいつの報告も、診察も、今は安定してる」

  「じゃあ、もう放っといていいってわけか」

  「放っとくな。見とけ。……それが“俺たちの仕事”だろ」

  火の中で、ぱち、と炭が弾けた。

  ゴルツが、鉄鍋から柄杓で湯をすくい、二つの器に配る。

  黙って受け取るふたり。

  「……思ったより、若ぇのが育ってきてんな」

  「育ったんじゃねぇ。空気が“耕された”んだ」

  「耕したのは?」

  ダルマが短く答える。

  「……“温い”手だ」

  ロガンはそれを聞いて、カップに口をつけたまま、微かに目を細めた。

  それが、この場での“同意”だった。

  誰も褒めはしない。

  誰も「いい砦になった」とは言わない。

  だが――

  火の前にこうして三人が揃い、誰も怒鳴らず、肩の力を抜いて湯を飲んでいる。

  それが、砦が少しずつ“生きる場所”に変わっている証拠だった。

  ◆ ◆ ◆

  夜が深まるにつれ、炭の色が黒く沈む。

  やがてゴルツが立ち上がった。

  「……朝に備えて、煮出し仕込む。あんたら、また火ぃ残すなよ」

  「分かってる。……お前のスープよりまずいもんは、出したくねぇ」

  「言ってろ」

  ぶっきらぼうに笑いながら去っていく熊の背中。

  ロガンもそれを見送り、立ち上がりかけたところで、ふと止まった。

  「……ダルマ。あいつ、“泣けた”ってのは……治ってきてるってことか?」

  ダルマは最後の一口を飲み干しながら、答える。

  「いや。……“生きてる”ってことだ」

  [newpage]

  [chapter:『誰が見ても、ばれている』]

  昼下がりの医務舎。

  軒先には干された包帯と洗いたての布が揺れ、春風が静かに抜けていく。

  医務舎の前、木陰の下では数人が休憩中だった。

  リネは、いつものように茶籠を抱えて現れ、

  ジュドはその少し後ろから、「荷物持ち」と言い張って手伝っていた。

  すでにベンチには、片目を包帯で覆った狼獣人――レイナー・ヴァルグが座っていた。

  静かに紅茶を飲んでいた彼に、リネがにこりと微笑む。

  「レイナーさん。……その包帯、最近は少し慣れたご様子ですね」

  「はい。まだ違和感は残りますが……でも、もう構えを崩すことはありません」

  「……すごいです。凛としていて……その、あの……とても、騎士らしいです」

  ポツリと出た言葉に、自分で照れたのか、リネの耳がかすかに伏せられる。

  白い頬が、ふわっと桜色に染まっていた。

  「……!?」

  それを横から見ていたジュドが、硬直する。

  (な……なんか今、ほっぺ赤くなってませんでしたか!?)

  思わず、声にならない言葉が喉まで出かけたところ――

  「……顔に出てるぞ、ジュド」

  ベンチの隅で記録帳を見ていたダルマが、ぼそっと呟いた。

  「いや、出てないですっ」

  「目が据わってる。手が膝から離れてない。背中、張ってる。……“全部出てる”」

  「ちょ、ちょっと待ってください……そ、それは単に驚いただけで……!」

  「……で、何に?」

  「えっ……あ、いや、その……! いえっ……!」

  レイナーはその様子をポカンと見つめたまま、

  紅茶の器を傾けながら首をかしげる。

  「……すみません、なにか……あったんですか?」

  「いえ、なにも」

  リネが、ふふっと喉を鳴らすように笑った。

  ジュドの横で、ダルマが呆れたように呟く。

  「……診察簿に“嫉妬の兆候あり”って書いとくか」

  「やめてください!」

  ◆ ◆ ◆

  風がまた、布をふわりと揺らす。

  気づいていない者、察している者、気づかないふりをしている者――

  春の空気はすべてを包んで、何もなかったように流れていった。

  [chapter:『ひと口の紅茶よりも甘く』]

  その日、砦の空は高く、風はよく晴れていた。

  中庭の片隅。

  木の根元に、リネは小さな布を広げて座っていた。

  手元の茶器からは、湯気が立ち、ほんのりと甘い香りが漂っている。

  そこに、ぎこちない足音。

  「……リネさん、よかったら、少しだけ……」

  背中越しに呼びかけたのは、ジュドだった。

  軍服の襟をいつもよりきちんと整え、尻尾の動きもどこか落ち着きなく揺れていた。

  「はい。ご一緒しますか?」

  「……ええ。あの、実はちょっと、話したいことがあって……」

  ◆ ◆ ◆

  紅茶の湯気を挟んで、しばらくふたりは言葉少なだった。

  ジュドは何かを言いかけて、湯を一口すする。

  リネはそんな彼をじっと待つように見つめている。

  そして、ジュドが意を決したように、息を吸った。

  「……リネさん。最初に医務舎に来てくれた日から、ずっと、気になってました」

  リネの耳が、ぴくりと動く。

  「お菓子をくれたとき、紅茶を一緒に飲んだとき……どれも、嬉しくて。……だから、僕……」

  「……はい」

  リネの声が、思ったよりも近くで返った。

  彼女が、少し身を寄せていたことに、ジュドは今さら気づく。

  「僕、リネさんのこと……その、好きです。……えっと……」

  「……はい」

  「え、あの、まだ言い終わって……」

  「……でも、聞き終わってました。……はい」

  今度は、リネが小さく笑った。

  「実は……私、ジュドさんが器用に紅茶を淹れるとこ、何度も見てるんです。いつも真剣な顔で、“美味しくなれ”って念じてるような……」

  「そ、それは……っ」

  「それが、すごく素敵でした。だから……はい。私も、ジュドさんが好きです」

  ジュドの耳が赤くなり、背中の尻尾がびくりと跳ねた。

  「……あの、今のって……本当に?」

  「はい。ほんとです」

  紅茶はもう少し冷めていたが、

  ふたりの間の空気は、湯気よりもずっと温かかった。

  ◆ ◆ ◆

  その夜、医務舎の記録机でダルマがひとことだけぼやいた。

  「……またひとり、落ちたな」

  その言葉の意味を知ってか知らずか、机の端には、小さな紅茶籠が残されていた。

  [chapter:『言葉にせずとも、伝わるもの』]

  春の朝。

  医務舎の裏庭では、干された包帯が風に揺れていた。

  ダルマはいつも通り、帳簿に目を通していたが――

  その横を通り過ぎたジュドの歩き方が、明らかにいつもと違った。

  「……お前、足浮いてるぞ」

  「えっ!? う、浮いてませんよっ!」

  「浮いてる。“気持ち”がな」

  「…………」

  耳が赤くなる。

  ダルマはその反応だけで、記録にひとこと。

  「本日、浮上確認。経過良好」

  ◆ ◆ ◆

  昼下がり。砦の厨房では、ゴルツが大鍋をかき混ぜていた。

  そこに現れたのは、訓練を終えたノエル。

  「料理長、スープの味見っす!」

  「ん、持ってけ。……ああ、それと」

  ゴルツは鍋を見下ろしながら、ぼそっと呟いた。

  「ジュドとリネ、昨日からやけに歩幅合ってんな」

  「……え?」

  「飯も紅茶も、やたら味が丁寧になった」

  「……あっ」

  ノエルが鍋の柄杓を見つめたまま、小さく唸った。

  「……あれ、俺の“ひと匙”じゃなくなってきてる感じ、してました……」

  「嫉妬か?」

  「ち、ちがっ……いや、まあ、ちょっとだけ!でも、それより……」

  ノエルはふっと、口元をゆるめた。

  「なんか、いいっすね。あのふたり、見てて」

  ゴルツは返事をせず、鍋を静かに混ぜ続けた。

  ◆ ◆ ◆

  その日の夕方。

  レイナーが包帯の取り換えに医務舎を訪れたとき。

  リネがそっとガーゼを整えながら、静かに話しかけた。

  「……レイナーさん。わたし、昨日、嬉しいことがあったんです」

  「それは……良かったですね」

  「はい。何かが“新しく始まった”気がして。今朝から、お茶の味が少し変わったんです」

  「味、ですか?」

  リネは笑った。

  「甘くなったというより、“あたたかい場所”で飲む味に似てました」

  「……きっと、いいことだったんですね」

  「はい」

  レイナーはそれ以上深く聞かず、リネも何も説明しなかった。

  けれど、ふたりの間には、風のようにやさしい沈黙が流れた。

  ◆ ◆ ◆

  夜。

  帳簿を締めながらダルマはぽつりと呟いた。

  「……砦の紅茶が、“薬”じゃなくなってきてる」

  “生き延びるための味”だった茶が、

  “暮らしていくための味”に変わる――

  それは砦が、“戦場の延長”ではなく、

  誰かが恋をしてもおかしくない場所になったという、確かな証だった。

  [newpage]

  [chapter:『過労と過保護と、医者の沽券』]

  医務舎の朝は早い。

  けれど、この日は朝から兵の行列が続き、昼を過ぎても待ちの椅子が埋まっていた。

  軍医ダルマはいつも通りぶっきらぼうに診察をこなし、

  合間に帳簿を記し、薬の調合も並行で行っていた。

  昼飯の時間をとうに過ぎても、彼は椅子に座る暇もなく動いていた。

  ◆ ◆ ◆

  「……次。腹下したって言ってたな。飯は?」

  「干し肉だけでした!」

  「水飲め。塩を足せ。……次」

  「軍医殿、ちょっとだけ脇が痛……」

  「剣の持ち方が悪い。腋を締めすぎてる。構え見せてみろ」

  「えっ、ここでですか?」

  「いいから」

  ◆ ◆ ◆

  ようやく人が捌けたころ。

  リネが片付けに来たとき、ダルマが器具棚の前でふらりとよろけた。

  「っ……」

  「軍医殿!?」

  驚いた声に振り向いたジュドとノエルも、すぐ駆け寄る。

  「座ってください、すぐ!」

  「血の気引いてますって!」

  「……大丈夫だ。ちょっと、目が……」

  座るより先に腕を取られ、椅子に押し込まれる。

  すでにリネが水を用意し、ジュドは額に布。

  ノエルはなぜか鍋を探しに飛び出していた。

  「……お前ら、騒ぎすぎだ……俺は、」

  「軍医殿、“倒れた”って事実がすでに一大事ですから!」

  「しばらく休んでください。温かいもの、すぐ持ってきます」

  「……っ……俺の診察室だぞ、ここ……」

  ◆ ◆ ◆

  騒ぎが広がったのは、早かった。

  夕刻。

  ゴルツがスープ鍋を抱えて乗り込み、

  「ダルマ、寝ろ。食って寝ろ。……診察? 俺が見張ってる間は中止だ」

  ロガンまでが一言。

  「軍医が倒れたと聞いた。今日は命令として“就寝”を課す」

  「寝ろって……俺、ちょっと立ちくらんだだけで……!」

  「ちょっと倒れた軍医が、“寝ない”って言っても、通らん」

  ダルマは椅子で頭を抱えた。

  机の上にはリネの茶、ジュドの冷却布、ノエルの鍋。

  そして――

  「寝ろ」って書かれたロガンの手紙が、帳簿の上に重ねられていた。

  「……これ、俺が“寝てろ”って書く側なんだが……?」

  ◆ ◆ ◆

  夜、誰もいなくなった医務舎。

  ようやく布団に入ったダルマが天井を見上げてつぶやいた。

  「……ちくしょう、なんだこの過保護砦……」

  けれど。

  手の届くところに、あったかいスープと茶があることを、

  どこか“悪くない”と思っている自分がいるのも、また事実だった。

  [chapter:『やりすぎる元気は、逆に心配』]

  翌朝、砦はよく晴れていた。

  医務舎の扉が勢いよく開く。

  「……さあ診るぞ! 次、来い!」

  その声の主――軍医ダルマは、いつにも増して声が大きく、背筋もしゃっきり。

  前掛けはしっかり結ばれ、机はすでに整頓済み、薬棚には開封済みの処方瓶が“なぜか”三倍置かれていた。

  ジュドが思わず問う。

  「……軍医殿、今朝から随分……元気ですね」

  「当たり前だろ。医者が元気じゃなきゃ、砦の健康が疑われる」

  「それは……まあ、確かに」

  「……で、朝飯食ったか? ちゃんと噛んだか? 水の温度は?」

  「え、ええと……逆に軍医殿が診察モードすぎて心配になってきました……」

  ◆ ◆ ◆

  その後も、ダルマは妙に快調だった。

  診察のたびに「問題なし」「健康優良」「次!」を繰り返し、

  問診表にはやたらと「良好」「活力あり」「快便」などの記述を量産。

  さらに昼前には、外の巡察にまで顔を出していた。

  「ダルマさん!? どうしたんですか、巡察はロガン隊の――」

  「気分転換だ。風に当たるのは健康にいい。俺が健康を“見せる”ことも医務の仕事だろ」

  ノエルとレイナーが、無言で顔を見合わせた。

  レイナーがぽつり。

  「……これは逆に、隠してませんかね」

  ノエル「絶対、引きずってますよね。昨日の“寝ろ”命令」

  ◆ ◆ ◆

  午後。

  診察後の休憩に入ろうとしたダルマの前に、

  ロガン、ジュド、リネ、ゴルツが揃って立っていた。

  「……何だ」

  「診るぞって言ってたくせに、午前中で五割が“健康優良”です」

  「水飲んでるかとか、噛んでるかとか、聞きすぎです」

  「煎れた紅茶、三口目で“味は変わってないか”って確認するのは、さすがに……」

  「スープの塩加減、俺より先に口出すのは反則だろうが」

  ダルマはむくれたように言い返す。

  「……俺は元気だって言ってるだろ」

  ロガンが短く断じた。

  「元気を“演じてる”やつほど、疲れてる」

  「……!」

  リネが静かに布を差し出す。

  「どうか、五分だけでも……目を閉じてください」

  ジュドが小声で添える。

  「“元気なふり”より、“休んでいいよ”って言える方が、軍医殿らしいです」

  ダルマはしばらく黙っていた。

  そして、深いため息をひとつついた。

  「……くそ。お前ら、いつからそんな口が回るようになった」

  「昨日、軍医殿が倒れたときからです」

  「言い返しやがったな……」

  ◆ ◆ ◆

  その日、診察簿の片隅に書かれたメモ。

  「軍医本人:状態良好。“元気を演じた結果、休ませられる”の巻。指導の成果、継続中」

  差出人:ジュド

  承認印:ロガン(でかく赤い角印)

  [chapter:『少しだけ、預けていい午後』]

  春の陽が、医務舎の窓を静かに照らしていた。

  診察の波は午前で落ち着き、午後は帳簿と備品整理だけ――そんな静かな時間。

  軍医ダルマは、いつもの木椅子にどっかりと腰を下ろし、使い慣れた聴診器を手にしながら、帳簿の欄を埋めていた。

  ……はずだった。

  だが、鉛筆が手からわずかに滑り、机に転がる。

  拾うついでに、ふと手を止めた。

  (……眠い)

  それだけの感覚が、久しぶりすぎて、ダルマは少しだけ戸惑った。

  ◆ ◆ ◆

  「軍医殿、記録用紙の補充です」

  ジュドが静かに扉を開けて入ってきた。

  机の様子に気づき、口を閉じる。

  「……寝てるわけじゃねぇ。ただ……ちょっと、目ぇ閉じてただけだ」

  「……はい。紙はここに置いときますね」

  ジュドは何も言わず、足音も立てずに退室した。

  そのあと、リネがそっと部屋の奥へ顔を出す。

  「軍医殿、風が強くなってきたので……窓、閉めておきますね」

  ダルマは目を開けずに答えた。

  「……ああ。頼む」

  彼女の細い指がそっと窓を閉じ、外の風がやさしく遮られる。

  ◆ ◆ ◆

  静かな空気の中。

  いつもなら「寝るな」と自分に言い聞かせるところだった。

  だが今は――

  「……たまには……甘えても、いいか」

  ぽつりと、誰に聞かせるでもない声。

  ダルマは背もたれに体を預け、腕を組んで目を閉じた。

  硬い椅子。冷たくない空気。薬草のほのかな香り。

  机の横には、きれいに置かれた紅茶の器が一つ。

  温もりは、まだ少し残っていた。

  ◆ ◆ ◆

  その日、誰もダルマを起こさなかった。

  代わりに診察室の扉の前には、

  **「午後の診療:ジュド当番。軍医、調整中」**の紙が貼られていた。

  ノエルが「昼寝中って書かないんすか?」と聞くと、

  リネがふわりと笑って答えた。

  「“甘えてる時間”なんです」

  ◆ ◆ ◆

  夕暮れ前、目を覚ましたダルマは、

  手元の帳簿に残された代筆記録と、そっと添えられた一言に気づく。

  「軍医殿、またどうぞ」

  ダルマはそれを、無言で机の引き出しにしまった。

  「……こんな時代が来るとはな」

  それが、砦にとって“いい兆候”であることだけは、はっきり分かっていた。

  [newpage]

  [chapter:『同じ忙しさ、違う空気』]

  その日は、訓練場に雷鳴のような音が轟いた。

  木製の足場が崩れ、訓練用の荷台が横転。

  若い兵士たちが巻き込まれ、砦の鐘が急を告げる。

  「急患、五名――!」

  「こちらは擦過傷!あとは……足を捻ってます!」

  「包帯持ってこい! 薬酒もだ、深めの切り傷がある!」

  医務舎は、まるで戦時中に戻ったような喧噪に包まれていた。

  だが、軍医ダルマの動きは落ち着いていた。

  「次、こっち。深くねぇ。縫わずに済む。……そっちの骨は出てねぇな。固定しろ」

  「血、止まってます! リネさんが圧迫してくれてます!」

  「よし、そこ動くな。……ノエル、脈診てろ。ジュド、包帯の順覚えてるな」

  「はいっ!」

  ◆ ◆ ◆

  やがて日が傾くころには、搬送された兵の全員が診察を終え、

  応急処置を受けた者も順に歩いて帰れる状態になった。

  大事には至らず、重症者はなし――それが、何よりの救いだった。

  片付けの合間、椅子に腰を下ろしたダルマの背に、リネがそっと毛布をかける。

  「お疲れさまでした」

  「……ああ」

  そのひと言を返しながら、ダルマはしばらく天井を見ていた。

  耳には、傷ついた若者たちの笑い声が残っていた。

  ──「無事でよかったー!」

  ──「包帯巻くの早すぎじゃないっすか!?すげぇな軍医殿!」

  このざわめきが、かつての戦争と違うことを、誰よりも自分が知っていた。

  ◆ ◆ ◆

  あの頃は、

  叫びはあっても、笑いはなかった。

  倒れた者の名を呼ぶ声はあっても、

  「また明日」と言える声は少なかった。

  止血が間に合うたびに、息をひそめていた。

  けれど今は、誰かが言ってくれる。

  ──「ありがとうございます」

  ──「助かりました」

  ──「また、頼みますね」

  そのひと言が、何より“今”を感じさせた。

  (……同じくらい、忙しかった)

  (でも、今は――生きる側に、立ってる)

  それだけで、足元の疲労が、どこか違って感じられた。

  ◆ ◆ ◆

  夜。帳簿を記しながら、ジュドがぽつりと呟いた。

  「……戦時中は、これよりずっと酷かったんですよね」

  「……もっと死んだ。もっと黙ってた。……もっと冷たかった」

  「今は……そうじゃなくて、よかったです」

  ダルマは頷く。

  「“忙しさ”が同じでも、“意味”が違えば、背負い方も変わる」

  「それって、変われたってことですか?」

  「そうだな。……砦も、俺も」

  ◆ ◆ ◆

  診察帳の端に、ダルマはその日の記録を一行だけ残した。

  「全員、生存。笑顔あり。過去と異なる空気、確認済み」

  [chapter:『一歩、戻るための声』]

  夜の訓練場裏。

  石の影にひとり、ノエルが座っていた。

  肩には包帯を巻かれた痣が残り、手には飲みかけの水筒。

  誰もいない場所で、ただうずくまっている。

  「……あれ、俺がちゃんと固定してれば……あんなに崩れなかった」

  自分にしか聞こえない声。

  誰にも責められていない。

  重傷者も出なかった。

  それでも、“責任”だけが体に重くのしかかっていた。

  ◆ ◆ ◆

  「……いたか」

  重い蹄の音と共に現れたのは、砦の大隊長――ロガン・バルゼン。

  ノエルは立ち上がろうとして、止められる。

  「座ってろ。今は命令じゃない。言葉だ」

  ロガンは隣に腰を下ろすこともせず、ただ背中を向けたまま言った。

  「崩れた場所、俺も見た。あれは、時間の問題だった。……お前だけの責任じゃない」

  「……でも、“先に気づけたはず”って、思ってしまって……」

  「“気づけたはず”が、“気づけた”に変わるのは、次の回だけだ」

  ノエルは、はっと顔を上げた。

  ロガンは、続ける。

  「……俺があそこで言ってたら、崩れなかったか? ヨルグが見ていたら、完璧だったか?」

  ノエルは小さく、首を振る。

  「多分……誰かが代わっても、あの足場は……」

  「なら、お前は今、次の足場に立てる。……それで十分だ」

  ◆ ◆ ◆

  それから、しばらくして。

  医務舎の灯りがまだ消えていないことに気づいたノエルは、扉をそっと叩いた。

  中にいたのは、やはりというか当然というか、ダルマだった。

  「……寝てなかったんですね」

  「寝られるか。お前みてぇな顔して歩いてる奴がいる間は」

  ノエルは、苦笑いのように顔を歪めた。

  「……俺、砦の足、崩しかけました」

  「崩れたのは足場。……砦は立ってる。俺も、こうして診察帳書いてる」

  ノエルが返せず黙っていると、ダルマは机の隅に置かれた小瓶をひとつ持ってきた。

  「……火傷にも、痣にも効く塗り薬だ。だけどな、落ち込む奴には、これは利かねぇ」

  「え……じゃあ、何が……」

  「“起きて、働いて、食う”だ。簡単だが、効く」

  ノエルは、そっと小瓶を受け取った。

  「……明日からも、手伝っていいですか?」

  「許可は要らねぇ。……来るなら、道具はきちんと片付けろ」

  ノエルがぺこりと頭を下げる。

  ◆ ◆ ◆

  医務舎を出た帰り道。

  門の前に立つ灰毛の狼――ヨルグが、夜風の中に佇んでいた。

  目が合うと、ノエルが少しだけ気まずそうに立ち止まる。

  ヨルグは一言だけ言った。

  「……倒れたら、次に支える側になれ。それだけだ」

  ノエルは何も言えなかった。

  でも、うん、と頷くその姿は、昼間の自分とは違っていた。

  [chapter:『背を守る者たちの、まなざし』]

  事故の翌日。

  朝の巡察を終えたロガン・バルゼンは、砦の高台に立っていた。

  城壁の上からは、広場での片付けが見えた。

  訓練用の足場を補修するノエルの姿。

  それを黙って支えるジュドとリネ。

  陽はまっすぐに差していて、誰の影も、歪んではいなかった。

  ◆ ◆ ◆

  ロガンは腕を組みながら、ふと独りごとのように呟いた。

  「……あいつら、立て直しが早くなった」

  「“倒れない”より、“立ち上がる”方が大事って、やっと分かってきたんだろ」

  声がしたのは背後。

  いつの間にか、灰毛の狼――ヨルグが塔の下から上がってきていた。

  ロガンは振り返らず、空を見たまま答える。

  「昔は、“倒れる”こと自体が許されなかった」

  「倒れたら、置いていくしかなかったからな」

  ふたりは、しばし無言。

  訓練場では、ノエルが笑って手を振っている。

  その手をリネが拭い、ジュドが工具を受け取る。

  “そういう連携”が、自然になっていることに気づく。

  ヨルグがぽつりと言った。

  「……俺たちが、こうして黙って見ていられる時間ってのは、貴重だな」

  「黙ってられるだけの“育ち方”をしてるってことだ」

  「……砦が変わった、と思うか?」

  ロガンは少しだけ目を細めた。

  「砦が変わったんじゃない。“砦を耕す者”が出てきた」

  ヨルグは短く鼻を鳴らすように笑う。

  「それは、俺たちじゃないって言いたそうだな」

  「違う。“俺たち”が土を返して、“あいつら”が蒔いたんだ」

  「……ほぉ。じゃあ、芽が出るまで見張るのは、俺らの仕事か」

  「そうだ。だから、まだ座るな」

  ヨルグは背後の石に腰を下ろしかけたところで、止めた。

  「……厳しいな」

  「当たり前だ。“耕す”より、“見守る”方が楽だと気付いたら、楽をしたくなる」

  ふたりはまた沈黙に戻る。

  その時間が、気まずさではなく“今の砦の静けさ”を表していた。

  ◆ ◆ ◆

  昼の鐘が鳴る。

  見下ろせば、ジュドとノエルがまた何か言い合いながら笑っている。

  リネがそれを見て、ほんのりと微笑んでいた。

  ロガンがひと言。

  「……あれを、“無駄じゃない忙しさ”って言うんだろうな」

  ヨルグは頷いた。

  「昔の忙しさは、生きるため。……今のは、暮らすため、か」

  ふたりはそのまま砦を見下ろし続けていた。

  どこか、誇らしげに。

  [chapter:『礼と、無口と、背中と』]

  年に一度の健康診断の日は、朝から砦がざわつく。

  その中心にいるのは、いつも通り軍医ダルマ・グレヴィーン。

  診察室にひとり籠もり、騎士たちを順に呼び込んでは淡々と処理を進めていた。

  ◆ ◆ ◆

  「ロエル=ハイネック、異常なし。腰に古傷。冷える前に温めろ」

  「いつもありがとうございます、軍医殿!」

  「礼はいい。次」

  「シュレイン=ボルト、関節の軋みあり。気づいてたろ。次の診断までに鍛え直せ」

  「へへっ、さすが軍医殿、目が鋭い! ほんと助かります!」

  「いいから座れ。次」

  「……エルデ=トア、歯も見せろ。剣が重い言う前に、噛めるか診る」

  「ふふっ……いつも、感謝してますよ」

  「喋るな。口開けろ。……次」

  誰もが笑顔で、どこか誇らしげに“ありがとう”を言い、

  それにダルマは、ひと言ふた言の“ぶっきらぼう”で返す。

  だが――

  “雑”ではなかった。

  どの診察も正確で、どの指摘も的を射ていて、

  どの一言も、“その騎士だけに向けられた言葉”だった。

  ◆ ◆ ◆

  それを、補助に入っていた衛生兵ジュドは、ただ黙って見ていた。

  最初はメモに集中していたが、次第に、別のものが胸に残り始める。

  (……誰も文句を言わない。むしろ、嬉しそうだ)

  (“喋らない”ことが、冷たいって意味じゃないと……みんな、知ってる)

  ある騎士が退出するとき、ダルマの背中に向かって小さく言った。

  「軍医殿……これからも、頼りにしてます」

  それにダルマは、診察道具を拭きながら返した。

  「……倒れんな。それだけだ」

  騎士は満足そうに笑って、出ていった。

  ◆ ◆ ◆

  昼の休憩中。

  ジュドが診察帳を整理していたとき、ダルマがふと尋ねた。

  「……何か書き損じか」

  「いえ……違います。ただ」

  「……“ただ”?」

  「軍医殿が、あんなに“信頼されてる”って……こうして見ると、改めて、すごいなって思って」

  「……“見た”から言えることだな。……“見せてる”つもりはねぇが」

  ジュドは、笑った。

  「いえ、それが……“見せてないのに、見える”っていうのが、すごいんです」

  「……喋るようになったな、お前も」

  「……軍医殿に影響されたんです」

  「俺は、喋ってねぇぞ」

  「でも、伝わってますよ。“全部”」

  ◆ ◆ ◆

  午後の診察も、変わらず続いた。

  だがジュドの筆は、どこか誇らしげだった。

  “無口な医者の言葉”を、今日も砦の誰かが受け取っている。

  それを**“記録して残す”ことも、自分の仕事なのだ**と。

  [newpage]

  [chapter:『診察のあとで、語られる背中』]

  健康診断の翌日。

  砦の騎士たちは、やや気の抜けた空気の中で、普段よりもゆっくりと朝の支度をしていた。

  中庭の片隅、日当たりのいい石のベンチには、数人の騎士が湯を啜りながら腰かけている。

  先に口を開いたのは、ロエル=ハイネックだった。

  「……毎年、軍医殿の診察受けてるが、今年は特に刺さったな」

  「“腰の筋が甘い”って、椅子に座る前から言われたよ。俺、なにか変な歩き方してたか?」

  「ロエル、それ三年連続じゃなかったか?」

  と、エルデ=トアが笑う。

  「三年連続で当ててる時点で、もはやお前の癖ってことだよ」

  ◆ ◆ ◆

  「でもさ、軍医殿、言い方が絶妙なんだよな」

  と、若手のシュレイン=ボルトが器を置きながら続ける。

  「“重くはないが、甘い。鍛え直せ”って言われたけど、……怒られたわけじゃないのに、真面目に反省しちゃうっていうか」

  「分かる。“診られてる”っていう感覚がちゃんとあるんだよな。口数少ないくせに、的確すぎる」

  「少ない、っていうか……“無駄に言わない”だけだよな」

  「そう。話すこと自体は避けてない。ただ……“いること”で全部わからせてくる感じがある」

  「診察で黙らされて、あれほど納得したことねぇわ」

  ◆ ◆ ◆

  そのとき、通りすがりのヨルグが耳だけ動かして足を止めた。

  「……お前ら、朝から軍医談義か」

  「はい、つい。昨日の診察でちょっと盛り上がりまして」

  ヨルグは苦笑を浮かべた。

  「……あいつ、口はぶっきらぼうだが、言葉の“当たり”は全部診てから打ってくる」

  「そうなんですよね。見てもらってる、って実感があるんです」

  「お前らがそう言えるってことは、あいつも“診るに足る連中になった”と思ってるってことだろうよ」

  「それ……褒められてます?」

  「俺の口からは何も言ってねぇ。……自分で解釈しろ」

  ヨルグはそれだけ言い残して、門の方へ歩いていった。

  ◆ ◆ ◆

  残った三人は、しばし黙って湯を啜る。

  ふと、ロエルがぽつりと。

  「……軍医殿が言った言葉、思い返すと、“砦の中でどう歩いてるか”まで見てる気がしてな」

  「診察って、身体だけじゃないのかもしれませんね。俺たちがどう“立ってるか”も、見てる」

  「それを言葉にしてくれるって、すごいよな。……ほとんど口数、変わってないのに」

  「だからさ、あの“ぶっきらぼうな声”が、妙に安心するんだよな」

  ◆ ◆ ◆

  夕方、診察記録を整理していたジュドは、ふと控えのページに一行だけ書き残した。

  「騎士たち:軍医に信頼を寄せる。理由:喋りすぎないが、届いている」

  筆を止めたあと、ダルマの背中にちらりと目をやる。

  いつも通り、淡々と器具を拭くその姿。

  でも――

  “信頼されている男の背中”に、今は見える。

  [chapter:『喋ってる方だろ、俺は』]

  健康診断週間の終盤。

  砦の皆の診察を終え、残るはただひとり――軍医ダルマ・グレヴィーン。

  その診察を任されたのは、訓練兵兼衛生補助のノエルだった。

  「じゃ、軍医殿。今日だけは……“患者”の側に座ってください」

  「……座らなきゃダメか」

  「はい。“全員受ける”がこの砦の方針ですから」

  渋々と椅子に腰かけるダルマ。

  どこか落ち着かない表情で、腕組みをしたまま天井を睨んでいる。

  ◆ ◆ ◆

  「血圧、測りますね。失礼して――」

  「締め方が甘い。もっと手首固定しろ。測定値ぶれるぞ」

  「……それ、前にも言われました……はい、すみません……」

  「じゃ、脈拍――」

  「薬指じゃなくて、人差し指だ。俺の脈は深ぇんだよ」

  「知ってます……! でもこれは“手順どおり”やらせてください!」

  「呼吸……深く吸ってください」

  「吸ってる。お前の号令より前に始めてた」

  「ダメですっ、こっちのタイミングに合わせてください!」

  ◆ ◆ ◆

  ノエルは懸命に診ようとする。

  ダルマはつい口を挟んでしまう。

  だがそのやりとりのなか、ふとノエルが言った。

  「……軍医殿って、診られてるときの方が“喋ります”よね」

  ダルマが目を細める。

  「……そりゃ、気になると口に出るもんだろ」

  「でも、みんな言ってました。“軍医殿って、あまり喋らないけど信頼できる”って」

  「……俺は喋ってる方だろ、むしろ」

  ノエルが、ぴたりと動きを止めた。

  「えっ、ええと、それは……たしかに言葉の数で言えば“必要最小限”ですが……」

  「“喋らねぇ”ってのは、“黙ってるだけのやつ”だろ」

  「えっと……そういう意味で言ってる人はいないと思います、多分」

  「……俺、挨拶も返してるぞ?」

  「はい、それは見てました」

  「“診るぞ”“次”って言ってるだろ?」

  「それも、はい、ちゃんと喋ってると思います」

  「“喋らない”扱いされる筋合いはねぇ」

  「……はい、すみません」

  ノエルはなんとか笑いを堪えて、最後の記録を記す。

  「よし、終わりました。軍医殿、診察完了です」

  「結果は」

  「“元気です。やや喋りすぎの傾向あり”って書いておきます」

  「ふざけんな」

  ◆ ◆ ◆

  その日の帳簿の片隅。

  ノエルの小さな字で、こう記されていた。

  「軍医殿:健康。言葉は少ないが、よく届く声。本人いわく“喋ってる方”とのこと」

  [chapter:『話さなかった話と、今日の茶』]

  春の夕方。

  医務舎の整理が終わったあと、ダルマはふと手を止め、椅子に腰を下ろした。

  机の向かいでは、ジュドが包帯を畳んでいる。

  沈黙が自然に流れていたそのとき――

  「……なあ、ジュド」

  「はい?」

  「お前、“全部助けたい”って思うか?」

  ジュドは、一瞬だけ手を止めた。

  「……正直に言うと、はい。思います。でも……それが難しいことも、知ってきました」

  ダルマは、少しだけ視線を落とした。

  「昔、俺がまだ三十にもならねぇ頃、目の前で死にかけてた兵がいた」

  「手を尽くした。腕も脚も残らねぇと分かってたが、それでも助けようとした」

  「そいつは、意識が戻ってから、最初に言った」

  **“なんで俺を助けたんだ”**ってな。

  ジュドは言葉が出なかった。

  「そいつは、死に場所を選んでたんだ。剣を持ったまま、戦場で散りたかったらしい」

  「俺は、“生きさせた”ことしか考えてなかった。……そのとき、初めて、“助ける”の意味を考えた」

  静かな声だった。

  でも、ずっと胸の奥にしまっていた重さが、その言葉の中にあった。

  「……その人は、どうなったんですか」

  「半年後に死んだ。病で、苦しんで、誰にも看取られずに」

  ダルマは拳を握ったまま、そっと机を見つめた。

  「……それ以来、俺は“死を避ける”だけじゃ足りねぇと思った。

  “生きさせた”そのあとに、“生きる場所”がなきゃ、意味がねぇって」

  「だから、ここに残ったんですね」

  「ここにゃ、ちゃんと“生きてるやつ”がいる。……それだけだ」

  トン、トン、と扉を叩く音。

  「失礼します。……お茶、淹れました」

  入ってきたのは、白猫獣人のリネ。

  ほんのりと甘い香りが、室内にふわりと広がる。

  「……おお、いい匂いっすね」

  「……今、ちょうど飲みたかったところだ」

  ダルマの声は、少しだけいつもより柔らかかった。

  茶器が三つ並び、注がれていく音が、静かな室内を満たしていく。

  「軍医殿、“生きる場所”って、こういう時間のことですかね」

  「……ああ。“診察”じゃねぇ、“暮らし”だ」

  「私も、ここが好きです。……静かで、あたたかくて、安心できる」

  ダルマは黙って湯を啜った。

  それを見て、ジュドとリネも微笑む。

  ――誰も泣かず、誰も叫ばず。

  ただ、今を、生きている。

  それだけで、もう十分だった。

  ◆ ◆ ◆

  診察帳の最後の一頁に、ダルマはこう書き残した。

  「救えなかった命が教えた。――だから、今を診る」

  その上に、今日の記録を一行だけ。

  「午後、茶。温い。問題なし」

  [newpage]

  [chapter:最終話『最後の記録』]

  砦の朝は、陽の角度によって静かに始まる。

  まだ空気に冷たさが残る石畳の上、若い足音が軽やかに響いた。

  白猫獣人の少女――リネは、まだ湯気の立つ籠を両手で持ち、小さな火を抱えて歩いていた。

  その後ろを、ややぎこちない動きで追うのはジュド。

  手には器具の包み。肩からは筆記用具を挿した袋がのぞく。

  「こぼさないように。……急いでると香りが逃げます」

  「気をつけてますって、はい。リネさんの茶は“湯気の中”が命、ですもんね」

  リネは微笑んで、石段の一段をふわりと降りた。

  このふたりは、もはや“付き合っている”とも、“まだ距離がある”とも言いがたい。

  ただ、朝の空気を一緒に運んでいる。

  それが、今の彼らの関係だった。

  ◆ ◆ ◆

  訓練場の北端、風の通る小屋の影では、数人の若者が武器を手に並んでいた。

  その中央には、一歩だけ下がった位置で――ノエルが立っていた。

  以前の彼なら、最前列に立ちたがっていた。

  誰よりも先に手を挙げ、声を張っていた。

  けれど今、彼は一歩下がり、仲間の剣先と動きと息遣いを見ていた。

  そして、合図もせず、ふっと動き――次の構えに入った。

  「今の、分かったか?」

  「う、うん……!」

  「“自分の剣”じゃなくて、“相手が受けられる剣”を意識するだけで、変わる。……俺も、最近やっと分かってきた」

  若い衛兵がうなずき、手の中の剣を握り直す。

  ノエルの目に迷いはなかった。

  失敗を知った者だけが持つ、“他人の動きに寄り添う強さ”が、そこにあった。

  ◆ ◆ ◆

  診療室の石壁では、レイナー・ヴァルグが静かに壁際に寄りかかっていた。

  彼の包帯はもう薄く、視界を遮ってはいない。

  だが、未だ視力は戻らない。

  「構えてください」

  そう言ったのは、彼の前に立つ若い兵士。

  木剣を手にし、構えはぎこちない。

  レイナーは剣を抜かず、音だけで息を読み、位置を測る。

  「お前の踏み込み、少し速すぎる。自分で“後退”の道を消している」

  「……っ、はい!」

  木剣の音が鳴る。

  レイナーの刃は、ただ静かにそれを受けた。

  「それでいい。……戦いは、“相手を止める”んじゃなく、“自分が立っていられるか”だ」

  若者が少しだけ目を丸くする。

  だがすぐに頷いた。

  「分かりました。……もう一度、お願いします」

  レイナーはその背に微かに頷き返した。

  彼は今、“視えない”ことで、“伝えられる言葉”を得たのかもしれない。

  ◆ ◆ ◆

  その全てを――

  石畳を踏みしめながら、広場の外縁を歩く軍医ダルマ・グレヴィーンは、無言で見つめていた。

  腰に工具袋。肩には古い白衣。

  気配だけで避けられる男の背が、今日もそこにあった。

  ふと、道の向こうから別の重い足音が響く。

  「……診察、もう終わりか?」

  現れたのは、バイソン獣人の大隊長ロガン・バルゼン。

  「……あと数名。今日の報告はまとめて出す」

  「急がなくていい。……砦の時間は、今は穏やかだからな」

  その言葉に、ダルマは何も返さなかったが、ほんのわずか顎を引いた。

  さらに、回廊の柱の陰から、灰毛の獣――ヨルグが顔を出す。

  「……今日も静かだな。砦に“救急の足音”がねぇ日ってのは、いいもんだ」

  「昔と違ってな」

  「“違う”んじゃねぇ。“変えた”んだ。……お前がな」

  その言葉には返事をせず、

  ダルマは静かに歩き出した。

  ――それが、今日も“命を診ている男”の歩き方だった。

  陽が西へ傾き、砦の石壁に長い影が落ち始める頃。

  ダルマ・グレヴィーンは、歩く速度を少しだけ落としていた。

  診察は終えた。

  だが、記録をつけるには、もう少し“見るべきもの”が残っていた。

  ――“今日”という日が、どう過ぎていくか。

  ◆ ◆ ◆

  厨房の裏では、ゴルツが無骨な腕で大鍋をかき回していた。

  熊獣人の身体が狭い台所に半分埋まりながら、

  鼻をひくつかせ、塩をつまみ、具材を沈めて味をなじませる。

  「……あと二分。焦がすなよ。焦がしたら、また“あいつ”に苦いって言われる」

  「ゴ、ゴルツさん、それって軍医殿っすか?」

  厨房の若い補助が訊ねると、ゴルツはむっつりと頷いた。

  「そうだ。“胃が荒れてるやつにこれは出せねぇ”って言われて、前にスープ丸ごとやり直しだ」

  「うわ……」

  「けどな。……そう言える軍医がいてくれて、いい。

  “食わす”ことが、“生きてる”証だからな」

  ふいに背後から声がした。

  「お前が言うと、説得力があるな」

  「……うわ。なんでいる」

  振り返ったゴルツの視線の先に、やはりというか当然というか、ダルマが立っていた。

  「厨房は“診察の対象外”だろうが。俺は働いてるぞ」

  「“働いてる”のに、背中が沈んでる。姿勢がなってない。スープより先に腰、煮崩れるぞ」

  「うるせぇ。味見してから言え」

  差し出された柄杓を一口すすり、ダルマは小さくうなずいた。

  「……悪くない。“人間の味”がする」

  「お前が言うと、それが誉め言葉なのか分かんねぇんだよ」

  だが、ふたりともどこか口の端が緩んでいた。

  砦の“飯”は、いつもこの台所から始まっていた。

  それが変わっていないという事実だけで、今日という日が、確かに温かい。

  ◆ ◆ ◆

  武具庫の外。

  夕陽の中、ガルベルトは無言で肘を動かしていた。

  静かに剣の手入れを終え、鉄の重さを確かめるように指先で柄を撫でていた。

  ふいに後ろから、重い足音。

  「……まだ診てもらってなかったな」

  「……治ってる。包帯は、もう取っていい」

  ダルマが無言で近づき、視線だけを剣から腕へ移した。

  「動かしてみろ。痛みは」

  「引いた。鈍さは、もうない」

  「痕は残るな」

  「構わない」

  しばらく無言のまま、石壁に沿って夕日が伸びていく。

  ガルベルトが、ふと口を開いた。

  「……昔は、治ったからといって、“戻れる”わけじゃなかった」

  「今はどうだ」

  「……“戻る必要がない”と思えるようになった。……少しずつ」

  それを聞いても、ダルマは相槌を打たない。

  けれど、ただ黙って、その言葉を受け取っていた。

  「……若いやつらが、よく動く。……そういうのを見るだけで、“助かった”と思えるようになったんだ」

  「なら、いい兆候だ」

  ガルベルトは剣を鞘に戻し、ゆっくりと立ち上がる。

  「……俺は、誰かを助けたわけじゃない。

  ただ、“いま助かっている場所に、居る”だけだ」

  「それを言えるやつは、少ない」

  ふたりの足音が、石畳に並んだ。

  そのまま、多くを語らずに――

  けれど確かに、砦の空気を分け合うようにして、歩いていった。

  ◆ ◆ ◆

  夕日が砦の石壁に、金色の帯をつくっていた。

  その中を、ダルマは再び、医務舎へと戻っていく。

  ひとつ、またひとつと扉が閉じていく。

  でも、その中には、“明日”を迎える顔がある。

  かつての砦は、朝も夜も“戦場”の続きだった。

  今の砦は、“暮らし”の一区切りとして、夜を迎えられる場所になっていた。

  夜が来る。

  砦の灯は、ゆっくりと各所にともされる。

  訓練場の松明が一本ずつ火を落とし、

  厨房からは最後の鍋の音が静かに響く。

  門兵が交代の声を交わし、若い足音が控えめになっていく。

  砦が一日を終えるとき、それはまるで誰かの呼吸が整っていくような、そんな穏やかな流れだった。

  ◆ ◆ ◆

  その静けさの中――

  軍医ダルマ・グレヴィーンは、いつもと変わらぬ姿で医務舎の机に座っていた。

  前掛けは外し、白衣の袖をたくし上げたまま、帳簿を広げている。

  燭台の光が紙の端を照らし、影が頁に寄り添う。

  ペンの音だけが、室内に細く鳴る。

  彼は、一人ひとりを“診察の対象”としてではなく、“見てきた者”として記していく。

  ――ジュド。

  少しずつ他人の傷に目を向けるようになった青年。

  自分の気持ちに素直になることを、ようやく覚えた。

  だがまだ、“背中で語る男”を目指すには、照れが多い。

  記録:

  「診察補助、器具整理、記録簿補完。成長あり。恋情、安定中」

  ――リネ。

  この砦に“香り”という空気の柔らかさをもたらした者。

  茶を淹れる姿が、砦を“戦場”から“暮らし”へと変えた立役者の一人。

  笑う時のまぶしさを、本人はまだ自覚していない。

  記録:

  「気配り、茶、記憶力に優れる。空気を整える者」

  ――ノエル。

  かつては前へ出たがった。今は一歩下がることを選んだ。

  失敗を受け入れ、言葉でなく“姿勢”で伝えようとするようになった。

  記録:

  「訓練補助、調整、観察。見守る視線を持ち始めた」

  ――レイナー。

  視力を失っても、教える剣は鋭い。

  今は“導く者”としての自分を、ようやく受け入れ始めている。

  かつての静謐さが、そのまま砦の礎になっている。

  記録:

  「訓練監督、応対冷静、余計な言葉を使わぬ指導者」

  ――ゴルツ。

  言葉は粗いが、味と塩加減においては誰よりも正確。

  厨房は“命を整える場”であると、誰より深く理解している。

  砦の胃袋と、心の芯を支える存在。

  記録:

  「調理、管理、教育に長ける。背中で教える料理長」

  ――ガルベルト。

  静かに、地に足をつけて生き直している。

  誰より多くの影を抱え、それでも“今の足音”を否定しない。

  過去に縛られず、過去を否定もせず、ただ“今を選ぶ”。

  記録:

  「回復安定。言葉少なく、信頼厚し。戦火を越えて立つ者」

  ――ロガン、ヨルグ。

  ふたりは砦の“影”であり、“背骨”でもある。

  言葉よりも姿勢で、怒声よりも沈黙で、

  若者たちの足元に“安心できる地面”を敷いてきた。

  記録:

  「今は“支える側”に徹する者たち。砦の輪郭」

  最後に、ダルマは手を止め、しばし静かに窓の方を見た。

  外では、灯の揺らぎがひとつ、またひとつと、夜を照らしていた。

  彼は、ページの最下段に、今までと違う言葉を記した。

  ――最終記録。

  「死者なし。声あり。笑顔あり。茶あり。

  記録以上のものが、この砦には確かにあった。

  それで、いい」

  ダルマは帳簿を閉じると、ふうと長く息を吐いた。

  燭台の火が小さく揺れる。

  外から、笑い声がひとつだけ風に乗って届いた。

  若者たちのものだ。

  それを聞いて、ダルマの口元がわずかに動く。

  「……診るべきものが、ここにはある」

  それが、“軍医”としての答えだった。

  砦の朝は、いつものように静かに、確かに進んでいく。

  ――そして、明日も。

  (完)

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