白熊は、孤独に喘いで愛を知る【前編】

  [chapter:第一章 氷結]

  空に道を描く。私の行く先、空が凍る。

  眼下に広がる摩天楼の森を、ガラスの梢を縫うように駆ける。行く先には意思を持つかのように白く滑らかな氷の軌道が、次々と伸びていく。私は自ら創り出したその氷の道を、ただ身を任せるように滑り降りる。肌を刺す高度百五十メートルの風。足裏に伝わる氷の感触。それが私の世界の全てだった。

  『緊急指令、コード・レッド。対象、◯◯中央銀行。武装したヴィラン集団、規模三十以上が現在、銀行を占拠。多数の一般市民が人質となっています』

  通信機から響く、オペレーターの冷静な声。平日の昼下がり、この国の経済を象徴するその場所は、今や硝煙と悲鳴に満ちた戦場と化しているという。報告書の作成に追われていた私のもとに、この出動要請が入ったのは、ほんの数分前のことだ。

  その時、通信機のチャンネルが切り替わり、ノイズと共に切迫した声が鼓膜を打った。

  『こちらコヨーテフロスティア! ヴィランと交戦中! 市民の避難誘導、追いつきません! 応援を……ぐっ……!』

  風間くんの声だ。インカムに混じるノイズの奥で、彼の苦悶の音が鼓膜を直接打つ。その瞬間、私の心臓は氷塊のように硬く凍てついた。

  無事でいてください、[[rb:風間 > かざま]]くん。

  空中に創り出す道の勾配を、さらに強くする。ビル風を切り裂く速度が上がる。眼下の景色が、猛烈な速さで後ろへと流れていく。

  『風間くん、聞こえますか? 状況を!』

  私の呼びかけに、返事はない。代わりに聞こえてくるのは、彼の荒い呼吸と、断続的に響く銃声、そして彼の能力が展開する、薄い氷が砕け散る甲高い音だけ。

  ――間に合ってください。

  祈りにも似た思考が、脳裏をよぎる。

  やや遠くに事件現場を捉える。銀行前の広場は、黒煙と炎、そして無数の銃弾が飛び交う地獄と化していた。一方で、風間くんが市民の皆さんを屋外まで誘導してくれたことに、少し安堵する。

  数十人の狼やハイエナの獣人たちが、自動小銃を乱射し、破壊そのものを楽しんでいる。その狂乱の中心で、小柄なサモエド獣人のヒーロー――風間くんが、今にも砕け散りそうな薄氷の盾一枚で、数人の市民をかばい、必死に持ちこたえていた。彼の白いヒーロースーツは、すでに硝煙で汚れ、その肩は絶望的に上下していた。

  そして、ついにその時が来た。

  彼の盾が、ヴィランの放った榴弾に甲高い悲鳴を上げて砕け散る。無防備になった彼とその背後の市民たちに、数十の銃口が一斉に向けられた。

  ――させません!

  私は現場上空で、氷の軌道を真下へと捻じ曲げる。重力と、自ら創り出した加速度の全てを乗せ、一つの巨大な氷塊そのものと化し、流星となって彼らの間に舞い降りた。

  轟音と共に、私の創り出した巨大な氷塊が、風間くんと市民たちを覆い尽くすドーム型の城壁となる。何者にも砕くことのできない、絶対零度の要塞。一斉に放たれた銃弾の雨が、その半透明の壁に、鈍い音を立てて次々と吸い込まれ、力なく地面に落下していく。

  あまりの出来事に呆然とするヴィランたち。その中心に、私は静かに降り立った。

  「そこまでです。皆さん」

  私の声は、自分でも驚くほど、穏やかに響いた。

  「これ以上の狼藉は、このベアードグレイシアが許しません」

  [uploadedimage:22878873]

  その言葉が、彼らを悪夢から現実に引き戻したらしい。一人の狼獣人が、怒号と共に私に銃口を向け、引き金を引いた。だが、乾いた発砲音が響くことはない。彼が引き金にかけた指ごと、銃の機関部が、瞬時に氷の塊と化していたからだ。

  「なっ……!?」

  「言ったはずですよ。そこまでだと」

  私は、ただ歩を進める。私に向けられる無数の銃口。その全てが、引き金が引かれる前に、あるいは銃口そのものが、内側から破壊的な氷結を起こし、沈黙していく。

  「う、うわああああ!」

  パニックに陥った数人が、私に背を向けて逃げ出そうとする。だが、彼らの一歩は、決して二歩目へと繋がることはない。彼らが踏み出したアスファルトが、足首を捕らえるように凍りつき、その場に縫い付ける。

  その時、ヴィランの一人、爬虫類系ーーおそらくカメレオンーーの獣人が、姿を消した。光学迷彩か、あるいはそれに類する異能力。

  だが、無駄だ。

  「――そこに、いますね」

  私は、何もない空間に向かって、静かに指を弾いた。パキッ、と乾いた音が響き、私の目の前の空間に、人型の氷像が一瞬にして出現する。氷の中から、信じられない、という表情で、こちらを見つめるカメレオンの獣人の顔が、透けて見えた。熱を感知し、その対象の周囲の水分を、絶対零度で一瞬にして、凍結させる。私の能力の前では、どんな隠蔽能力も意味を成さない。

  「他の皆さんも。逃がしませんよ。おしおきです」

  圧倒的な力の差。それは暴力ではなく、秩序。三十を超えるヴィランたちは、もはや戦う術を持たず、ただ、その場に立ち尽くすか、あるいは無様に凍りついているだけだった。

  周囲がにわかに活気づき始める。警察官の怒声、野次馬のざわめき、そして遠くから聞こえてくるサイレンの音。非日常的な事件の後には、いつも決まって、この騒々しい日常が戻ってくる。

  やがて警察官たちが、ヴィランたちを一人また一人と連行していく。私はその指揮を執っている警部らしき犬獣人に声をかけた。

  「お疲れ様です。あちらのカメレオンの男には、必ず異能力抑制装置を装着してください。彼は、自身の姿を透明にするような能力を持っているようです。拘束する際は、くれぐれもご注意を」

  私は伝え終えると、背後で未だ呆然としている誇らしく、少しばかり危うい弟子の元へと歩み寄った。

  「風間くん」

  声をかけると、彼の肩がびくりと震えた。ゆっくりとこちらを振り向いた彼の瞳は、尊敬や安堵とは違う、何か別の、私が読み取ることのできない複雑な色を浮かべていた。サモエド獣人の彼の白い両耳は、彼の気持ちを代弁するように力なくたたまれている。白いヒーロースーツは泥と硝煙で汚れ、頬には痛々しい擦過傷が走っている。

  「よく持ちこたえてくれました。君のおかげで、犠牲者は一人もいません」

  労いの言葉をかけ、彼の白い被毛に覆われた頭にそっと手を置く。

  「よく頑張りましたね」

  しかし、私の言葉は空を切った。彼は力なく視線を足元に落とし、握りしめられた拳が小刻みに震えている。私の言葉が、私の望む形では届いていない。その事実だけが、氷の棘のように胸にちくりと刺さる。

  (……また、やってしまいましたかね)

  私は、そっと彼から手を離す。こういう時、どんな言葉をかければいいのか、五十を過ぎた今でも、私にはよくわからない。

  「……さあ、後始末をしましょう。戦うだけが、ヒーローの仕事ではありませんよ」

  私は、努めて明るい声でそう提案した。彼の得意ではない「戦闘」から、彼の真面目さや誠実さが活きる「仕事」へと、意識を切り替えさせる。それが、今の私にできる、彼への精一杯の気遣いだった。

  「逃げ遅れた方がいないか、建物の内部を確認しましょう。瓦礫の撤去も、我々のできる範囲で手伝わなければ」

  「……はい」

  かろうじて絞り出されたような声で、風間くんは頷いた。そして、彼はすぐに踵を返し、倒壊しかけたビルの入り口へと、まるで何かから逃れるように走り出す。その小さな背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。

  彼の行動は、いつも実直だ。瓦礫を一つ一つ丁寧に運び出し、怯える市民に優しく声をかけ、救護班の補助を献身的に行う。その姿を見ていると、胸の奥が温かくなる。

  (あなたは、ヒーローとして一番大事なものを持っているんですよ、風間くん)

  かつて彼に伝えたはずの言葉が胸の奥でまた生まれる。私の言葉は、あの時、彼の心に届いていたのだろうか。

  ――その時、ふと、脳裏に古い記憶が蘇った。

  『冬樹、お前はヒーローとして一番大事なものを持ってるんだぞ』

  いつか、誰かに、全く同じ言葉を言われたことがある。夕暮れの公園だっただろうか。隣に座っていた、大きな背中。がっしりとした、温かい肩。それは、私が心から尊敬していた、大切な……。

  (……誰、だったでしょう?)

  思考が、白い靄に包まれたように、そこで行き詰まる。思い出そうとすればするほど、記憶の輪郭は曖昧になり、濃い霧の中に消えていく。確かなのは、その人物が私にとって、かけがえのない存在だったという、胸を締め付けるような喪失感だけ。どうして、忘れてしまったのだろう。

  「……っ」

  不意に襲ってきた頭痛に、私はこめかみを押さえて顔を歪めた。靄のかかった思考を振り払うように、首を数回振る。今は、感傷に浸っている場合ではない。

  後始末の喧騒の中、私は再び自分の仕事に集中しようとした。だが、その時、私の耳が、瓦礫の山の中から微かに漏れ聞こえる、か細い音を捉えた。それは、怒声でも、サイレンでもない。子供の、押し殺したような泣き声だった。

  音のした方へ駆け寄ると、ひしゃげた自動販売機の影で、小さな猫獣人の女の子が一人、膝を抱えて震えていた。歳は五つか、六つか。綺麗なリボンで結われた髪はほこりにまみれ、大きな瞳からは、声にならない涙が絶え間なく溢れている。

  「……パパ……ママ……どこぉ……」

  私はゆっくりと彼女の前に進み出ると、その小さな体に合わせて、大きな体を静かに屈めた。

  「こんにちは、お嬢さん」

  突然の声に、彼女の肩がびくりと跳ねる。怯えさせないよう、私はできる限り、優しい声色を心がけた。

  「私、ベアードグレイシアと申します」

  私の顔と、ヒーロースーツのエンブレムを交互に見て、彼女の瞳に、わずかに安堵の色が浮かぶ。

  「怖かったですね。よく一人で、頑張りました」

  私は、そっと彼女に手を差し伸べる。

  「さあ、一緒に、あなたのパパとママを探しに行きましょう」

  私の大きな手に、彼女の、震える小さな手が、おずおずと重ねられた。

  彼女の小さな手は、まるで小鳥のように、私の大きな手のひらの中でか弱く震えていた。その温もりが、なぜかひどく懐かしいもののように感じられた。

  幸い、女の子の両親はすぐに見つかった。現場から少し離れた救護テントの近くで、警官に詰め寄りながら、半狂乱で娘の名を叫んでいた。

  「ミナ!」

  母親が、瓦礫の山の中から現れた私たちの姿を見つけ、金切り声を上げる。その声に、私の手を握っていた小さな体は、びくりと大きく跳ねた。そして、彼女は私の手を振りほどくと、母親に向かって、小さな足を必死に動かして駆け出していく。

  「ママ!」

  抱き合う二人。父親が、その二人をまとめて大きな腕で抱きしめる。良かった、と心から思う。私が守りたい、ありふれていて、そして何よりも尊い光景がそこにあった。

  だがその光景を見つめる私の胸の奥で、冷たい棘が、ちくりと疼いた。

  「ベアードグレイシアさん、本当に、本当にありがとうございました……!」

  涙で潤んだ顔で、父親が何度も頭を下げる。私は、いつもの穏やかな笑みを顔に貼り付けた。

  「いえ、お嬢さんがご無事で何よりです」

  「ミナ、ちゃんとお礼を言って」

  母親に促され、ミナと呼ばれた女の子が、父親の足の後ろからひょっこりと顔を出す。まだ涙で濡れた瞳で私を見上げると、満面の笑みで言った。

  「太ったおじちゃん、ありがと!」

  「こら、ミナ! なんてことを言うの!」

  両親が血相を変える。私は思わず、自分の腹のあたりに手をやった。確かに、最近はかなり緩んできている自覚はあった。

  「はは、構いませんよ」

  私は照れ笑いを浮かべながら、彼女の目線まで屈んで見せる。

  「……気をつけて、お帰りなさい」

  親子三人が、何度も振り返りながら手を振って去っていく。その姿が、なぜか妙に、私の瞳に焼き付いて離れなかった。

  「――ベアードグレイシアさん!」

  背後からかけられた、明るく張りのある声に、私は現実に引き戻された。テレビ局のアナウンサーが、カメラとマイクをこちらに向けている。

  「見事な事件解決でした! 今のお気持ちを!」

  「市民の皆さんがご無事で、安堵しています。私の弟子であるコヨーテフロスティアが、初期対応を懸命に行ってくれたおかげです」

  私は聡明なヒーローとして完璧なコメントを返す。続けて、風間くんの功績を称えようとした。

  「彼はまだ若く、荒削りな面もありますが、その心根は……」

  しかし、私の言葉を聞くアナウンサーの顔に、営業用の笑顔とは違う、どこか困惑したような苦笑が浮かんでいるのに気づいた。周囲のスタッフも、何人かが顔を見合わせている。

  (……何か、おかしなことを言いましたかね?)

  違和感を覚えながらも、私は当たり障りのない言葉でインタビューを締めくくった。

  アナウンサーたちが足早に去っていく。その喧騒が遠ざかると、ふと視線の先、人気のないベンチに一人腰掛けている、見慣れた白いヒーロースーツの背中が目に入った。

  私は、彼の隣に、音を立てずに腰を下ろした。

  「どうしました、風間くん」

  優しく声をかけると、彼の肩が小さく揺れた。彼は俯いたまま、力なく首を振る。

  「……なんでも、ないです」

  その声には、先程までの張り詰めた緊張感とは違う、もっと深く冷たい響きがあった。何かがあったのだろう。それは、聞かなくてもわかった。

  「……今日は、大変でしたね」

  気まずい沈黙が、私たちの間に横たわる。何か、気の利いた言葉をかけようとするが、こういう時、私はいつも言葉を見失ってしまう。ただ、彼の震える背中に、そっと手を当てることしかできない。

  やがて、彼がぽつりと、地面に染みを作るように言葉をこぼし始めた。

  「手伝おうと、したんです。瓦礫の撤去とか、逃げ遅れた人がいないか、とか……。でも、どこに行っても『ここはもういいから』『君はあっちを手伝え』って……」

  彼の声はひどく、か細かった。

  「僕、何も……できませんでした……」

  私はかけるべき言葉を見つけられないまま、ただ彼の背中をゆっくりとさすり続ける。

  いつでも彼は自分にできることを探している。一生懸命に、ひたむきに。ヒーローとして一番大事なものを、彼は確かに持っている。だがその純粋さが、彼自身を追い詰め傷つけている。

  しばらくそうしていただろうか。不意に、彼は顔を上げて立ち上がる。両手で自分の頬をパン、と乾いた音を立てて叩いた。

  「……落ち込んでる暇、ないですよね! トレーニング、してから帰ります!」

  振り返った彼の顔は涙で濡れていたが、その口元には、無理しているようには見えるが、笑顔があった。

  (……本当に、強い子だ)

  その健気な姿に、私は胸を打たれる。私も、つられるように笑みを返した。

  「素晴らしいですね、風間くん! では私もご一緒――」

  ――そう言おうとした瞬間、溜まりに溜まった報告書の山が、脳裏をよぎり、言葉が途切れた。

  「……大丈夫です! 師匠は、師匠のお仕事があるでしょうし! 僕は、一人で……」

  彼は、私の逡巡を、正確に読み取ったのだろう。

  「じゃあ、お先に失礼します!」

  そう言って、彼は私に背を向けた。駆け出していくその後ろ姿は、なぜか、ひどく悲しそうに、必死に涙をこらえているように見えた。

  ◇

  結局、全ての書類仕事が終わり、重い体を引きずるようにして司令部を出たのは、すっかり日が落ちきった後だった。

  私は最寄り駅へと向かう。無機質なコンクリートの壁に囲まれた地下通路を歩き、自動改札にカードをタッチする。ヒーローとしての自分を一枚ずつ剥がしていく、儀式のような時間。

  ホームに滑り込んできた電車は、混雑している。皆、一日の労働に疲れ果て、虚ろな目でスマートフォンの画面を眺めている。誰も、私のことなど気にも留めない。

  空いた席に深く腰を下ろし、ため息をつくと、目の前の窓ガラスに、自分の姿がぼんやりと映り込んだ。分厚い脂肪に覆われた、中年の白熊獣人。かつての精悍さは、もうどこにもない。私は、その姿から目を逸らすように、窓の外を流れる黒い夜景へと視線を移した。

  自宅の最寄り駅で降り、煌々と明かりが灯るコンビニで、値引きシールの貼られた冷たい中華弁当を一つ手に取る。それが、今の私と、この世界とを繋ぐ、唯一の接点であるかのようだった。

  オートロックのマンションのエントランスを抜け、自宅のドアを開ける。冷たく、淀んだ空気が、待っていましたとばかりに私を包み込む。ここは、眠るためだけに帰ってくる、ただのコンクリートの箱。「我が家」という血の通った響きは、この部屋のどこにも存在しない。

  「……ただいま」

  誰に言うでもなく、吐息のような声が、暗闇に虚しく溶けて消えた。

  リビングの電気をつけると、そこには私の現実が広がっている。床には、いつ食べたかも思い出せないコンビニ弁当の容器や、飲み干されたペットボトルが転がっている。ソファの脇には、読みかけのまま放置されたハードカバーの本が、小さな山のようになっていた。

  私は今日一日、私の体を締め付けていた背広の上着を脱ぎ、ソファの背に無造作に引っ掛ける。ネクタイをまるで首輪でも引きちぎるかのように乱暴に緩め、床へと放る。Yシャツのボタンを一つ一つ外していく。それは社会的な役割を一枚、また一枚と剥がしていく儀式のようなものだ。

  肌着の白いランニングシャツと、白いブリーフ一枚の姿になる。これがヒーローという鎧を脱ぎ捨てた「[[rb:霜月冬樹 > しもつき ふゆき]]」という中年男の本当の姿。

  ソファに腰掛けようとして、そこに積まれた雑誌の山を、足で乱暴に床へと払い落とす。どうせ、後で読むこともない。

  (……片付けないと、とは思うのですが)

  そんな思考が、頭の片隅をよぎる。しかしすぐに、別の思考がそれを打ち消した。

  (どうせ誰も来ない。困るのは私だけだ)

  最後に、鉛のような疲労がその微かな片付けへの意思を、いともたやすく砕いていく。この部屋の状態はもはや私の日常の一部だ。

  私は、冷蔵庫から取り出した缶ビールを、喉を鳴らして呷る。炭酸が、乾いた喉を鋭く刺激した。買ってきた弁当を電子レンジに入れる気力もなく、冷たいままプラスチックの蓋を剥がした。味などしない。ただ、胃の空洞を埋めるためだけの作業。部屋に響くのは、私が箸を動かす、乾いた音だけ。

  食事とは呼べない作業を終え、私は、空になった弁当の容器を、すでにいくつかの容器が積み重なっているテーブルの隅に、そっと押しやった。

  疲れ切った体を、ソファに深く沈める。ふと、足元に視線を落とす。履いている靴下が、片方は黒、もう片方は濃紺であることに、今更気づいた。

  (……またか)

  自嘲の笑みすら、もう浮かばなかった。どうでもよかった。誰がこれを見るというのだろう。誰が私のこんな姿を知っているというのだろう。

  目を閉じると風間くんの、あの最後の笑顔が脳裏をよぎる。無理に作った泣き出しそうな笑顔。

  私は彼に何をしてやれただろう。私は彼の師として、本当に彼の力になれているのだろうか。

  思考が深い沼に沈んでいく。疲労。そして名前のつけられない、漠然とした不安。その全てが、私をゆっくりと蝕んでいくような気がする。

  このままソファで寝てしまおうか、うとうとし始めた、その時。

  テーブルの上に放置されたままの、私の個人用のスマートフォンが、短く、鼓膜の奥にまで突き刺さるような、鋭い電子音を一度だけ響かせた。

  (こんな時間に……誰、でしょう?)

  私の個人用の端末に、直接連絡をしてくる人なんて、ほとんどいない。業務連絡は全て司令部を通して行われるし、数少ない友人と呼べる人たちも、この非常識な時間に連絡をしてくるような人たちではない。

  無視すればいい。そう頭ではわかっている。疲労困憊の体は、指一本動かすことさえ億劫だった。だが、私の意思とは裏腹に、その通知音は、まるで脳に直接打ち込まれた命令のように、私の体を支配していた。

  なぜかはわからない。しかし今すぐ、これを確認しなければならない。これは、私の人生において、何よりも重要な通知なのだ。そんな、抗いがたい衝動。

  鉛のように重い腕を、必死に伸ばす。指先が、冷たいスマートフォンの筐体に触れた。画面をタップすると、ロック画面に、一件のメッセージ通知が浮かび上がっていた。

  送信者のアカウント名は、ただ一文字。

  【 T 】

  そして、その下に表示されたメッセージは、あまりにも簡潔で、あまりにも異様だった。

  『穴になれ。そして満たせ』

  無機質なゴシック体の文字列が、私の網膜に焼き付いた瞬間。

  私の意識は、まるでテレビの電源を乱暴に引き抜かれたかのように、ぷつりと音もなく途絶えた。

  [newpage]

  [chapter:第二章 コネクト]

  『君のおかげで、犠牲者は一人もいません』

  師匠の声が頭の中で何度も反響する。それは僕への労いのはずだった。優しさに満ちた温かい言葉のはずだった。なのに今の僕には、その言葉が自分の無力さを宣告する冷たい刃となって、心臓の奥に突き刺さる。

  事件の後、師匠と別れた僕はヒーロー本部へと戻っていた。時刻はもうすぐ十八時に差し掛かろうとしている。訓練着に着替えた僕の体は、先程の戦闘で負った擦り傷よりも、心の奥深くが、鈍く、絶え間なく痛んでいた。

  「く……そっ……!」

  僕は、巨大な訓練室の中央で、仮想ヴィランのホログラムに向かって、何度も能力を振るった。

  『よく頑張りましたね』

  また師匠の言葉が、脳裏をよぎる。頑張れてなんか、いない。僕は、ただ足を引っ張っただけだ。市民の皆さんを、危険に晒しただけだ。あの人が来てくれなければ、どうなっていたか。

  (違う。こんなんじゃない。僕の氷は、こんなに脆くないはずだ……!)

  僕は、叫び声を上げるように、最大出力で氷を放つ。しかし、焦りから制御を失った力は、いびつな氷塊となって明後日の方向へと飛び、けたたましいアラート音と共に、訓練プログラムが強制終了する。

  「はぁ……っ、はぁ……っ」

  肩で息をしながら、僕はその場に膝をついた。冷たい汗が、顎を伝って床に落ちる。

  訓練室の隅にある休憩スペースで、数人の若手ヒーローが、こちらを見て何かを話している。何を話しているかまでは、聞こえない。でも僕にはわかった。彼らは、僕を笑っているのだ。ベアードグレイシアの、出来損ないの弟子だと。

  自意識過剰だ。わかってる。わかってるけど、僕の心は、もはやその思考の檻から逃れる術を知らなかった。

  僕は、逃げるように訓練室を後にした。

  廊下に出たところでポケットの中でスマートフォンが震えた。

  画面には「母さん」の文字。指でタップすると、短いメッセージがポップアップで表示される。

  『ユキちやん ニユースみたよ』

  『またあの白熊さん でてたね』

  『けがしてない? ごはんは たべてる?』

  慣れない手つきで一文字ずつ一生懸命入力している母の姿が目に浮かんで、思わず口元が少しだけ緩んだ。実家のパンの焼ける、甘い匂いが鼻の奥をかすめた気がした。

  その温かい感触は、すぐに冷たい現実の壁にぶつかって消える。

  『大丈夫だよ。ありがとう』

  指が勝手にそう打ち込んで送信していた。

  本当はさっきまで訓練室でボロボロだったことも、今日の現場で何もできなかったことも、一言も書かない。

  すぐに返信が来る。

  『よかつた』

  『無理しないでね』

  『いつでも帰つておいで パン焼いて待つてるから』

  そのたどたどしい優しさが、今は鉛のように重い。

  僕はスマートフォンをポケットに押し込み、顔を上げた。「大丈夫」という嘘が、胃のあたりで冷たく固まっていた。

  僕が向かった先は、訓練室のすぐ隣にある、だだっ広い休憩室。壁に沿って無機質な長椅子が並び、隅には数台の自動販売機が静かに佇んでいる。僕以外に、誰もいなかった。

  一番奥の長椅子に、体を沈めるようにして座り込む。天井の蛍光灯が、やけに眩しく感じられた。

  壁に掛けられた大型テレビでは、先程の事件が、速報として繰り返し報道されていた。

  『――白熊ヒーロー、ベアードグレイシアの活躍により、ヴィラン集団は全員、無事鎮圧されました!』

  アナウンサーが、興奮した様子でそう伝えている。画面には、瓦礫の山を背に、メディアのカメラに向かって穏やかに微笑む、師匠の姿が映し出されていた。その姿は、どこからどう見ても完璧で、揺るぎない「正義の象徴」そのものだった。

  ――だけど。

  テレビの中で、師匠がインタビューに答えている。その声はいつもと同じ、冷静で優しい声。でも僕にはわかる。その完璧な笑顔の奥に、ほんの一瞬だけよぎった深い疲労の色。現場で、僕に向けられた労いの言葉。その奥にあった、瞳のほんの僅かな揺らぎ。

  最近の師匠は、どことなく、疲れている気がする。僕にはわかる。

  自惚れだとは思わない。だって、僕が一番、師匠を見てるから。

  この前だってそうだ。司令部のブリーフィングルームで、彼が巨大なタッチパネル式のスクリーンを操作していた時。何度やっても、目的の資料とは違うウインドウが開いてしまって、彼は、ひどく困ったように、照れくさそうに笑った。

  『いやはや、すみません。どうも、こういう新しい機械は、苦手でして』

  周囲の職員たちは完璧なヒーローの意外な一面に和やかに笑っていた。でも僕にはその笑顔が、ひどく寂しそうなものに見えてしまった。

  テレビの画面には、師匠の過去の活躍をまとめたVTRが流れ始める。彼の代名詞である、巨大な氷の能力。その一つ一つが、芸術品のように、美しく、そして力強い。

  (やっぱりすごい、師匠は……)

  心から、そう思う。あの状況をたった一人で、かくも鮮やかに覆してしまう。その圧倒的な実力と、何事にも動じない精神力。

  でも同時に、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような痛みを覚える。

  その隣に立つべき僕の姿は、画面のどこにも映っていなかった。アナウンサーの口から、コヨーテフロスティアという名前が呼ばれることも、もちろん、ない。まるで最初から、僕など存在していなかったかのように。

  わかってる。これが現実だ。

  でもいざ、それを見せつけられると……。思わず膝の上の拳を握りしめる。

  画面の中で、師匠が巨大な氷壁を創り出す。それは、僕がどんなに足掻いても、決して創り出すことのできない、完璧な氷の城壁。

  ――この世には、二つとして同じ「異能力」は存在しない。

  炎を操る者はいても、その温度や形状は、一人一人で全く異なる。同じように見える水の能力も、純水を操る者、海水を操る者、果ては血液中の水分を操る者まで、その本質は千差万別だ。一人一人が、唯一無二の存在。それが、神が定めた、この世界の絶対的な法則だった。

  ――ただ一つの、例外を除いて。

  僕の能力と、師匠の能力。その二つだけが、この世界の法則に反するように、あまりにも、酷似していた。それは空気中の水分を凝固させて、自在に氷を生み出す能力。

  だから、僕はここにいる。

  ヒーロースクールをギリギリの成績で卒業した、落ちこぼれの僕が。本来であれば、決して立つことのできないはずの、あの人の隣に。

  僕自身の価値じゃない。僕自身の努力の結果じゃない。

  ただ、師匠の能力にあまりにも似ているという、それだけの理由で。例外として。研究対象として。

  ゆっくりと目を閉じる。テレビの音が、やけに遠くに聞こえる。このまま、意識を手放してしまえたなら、どれほど楽だろうか。

  ――ひゃっ!

  突然、頬に当てられた鋭い冷たさと、硬質な感触。思わず変な声が出てしまった。驚いて目を開けると、すぐ目の前に水滴をびっしりとつけた、缶のスポーツドリンクがあった。

  その向こう側に、一人の男が立っていた。

  「よう、お疲れさん。これ、よかったら」

  僕より頭一つ分は背が高い、すらりとした体躯。ぴんと立った耳と、人懐っこく揺れる尻尾。柴犬の獣人だった。彼は、まるで真夏の日差しのような、屈託のない笑顔を浮かべている。

  「……あ、ありがとう、ございます」

  僕は、戸惑いながらも、差し出された缶を受け取った。ひんやりとした感触が、火照った手のひらに心地よい。

  ……でも。

  だ、誰だろう、この人。同じヒーロー司令部の制服を着ているが、見覚えがない。いや、待て。どこかで……。

  「どうした? 暗い顔して」

  彼は、僕の返事を待つでもなく、ごく自然に、僕が座るベンチの隣にどかりと腰を下ろした。そして自分の分の缶を開け、ぷしゅっ、という小気味よい音を立てると、喉を鳴らしながら、ごくごくとそれを飲み干した。その一連の動作には、一切の躊躇も、遠慮もなかった。

  その横顔を、僕は盗み見る。汗に濡れた茶色の被毛、通った鼻筋、そして、鍛えられているしなやかな筋肉の付き方。

  (……あ)

  思い出した。この人は、そうだ。第二作戦部隊のエース。

  「あぁ、ごめん。急にびっくりしたよな」

  僕の視線に気づいたのか、彼は悪びれるでもなく、にっと笑った。

  「なんか、すっごい落ち込んでるように見えたから……つい。ほら、おせっかいがヒーローの性分。だろ?」

  その言葉には、不思議な説得力があった。僕の心の壁を、いとも簡単にすり抜けてくるような、陽性の力。

  彼は思い出したように、ああ、と声を上げた。

  「ごめん、俺――」

  「……[[rb:犬塚輝 > いぬづか あきら]]さん。ヒーロー、スカイハウンド……ですよね?」

  彼が名乗り終える前に僕は、か細い声で、その名前を口にしていた。

  「お! 俺のこと知ってるの!?」

  犬塚さんの顔が、子供のようにぱあっと輝いた。

  「嬉しいけど、なんか照れくさいな。 君は[[rb:風間雪音 > かざま ゆきと]]、コヨーテフロスティア、だろ? 俺も知ってるよ」

  『知ってる』。

  その言葉が、僕の心臓を小さく締め付けた。

  そうだみんな『知ってる』。ベアードグレイシアの、出来損ないの弟子として。劣化コピーとして。そういう意味で。きっと、この人も。

  だが犬塚さんは、僕のそんな思考を吹き飛ばすように、あっけらかんと続けた。

  「今日の事件、お疲れ様。君が一番に駆けつけたんだろ? すごいじゃん!」

  「えっ……」

  「ヒーローってのはさ、そこにいるだけで、市民のみんなは安心するんだ。最初に駆けつける奴が、一番すごいんだぜ」

  その言葉は、僕が誰からも言われたことのない、結果ではなく、「行動」そのものを肯定するものだった。僕の口から、思わず声が漏れる。

  「でも、僕は……何もできなくて……」

  「何もできてなくないって!」

  犬塚さんは僕の肩を軽く叩く。

  僕が苦笑いしていると、少し間を置いて続ける。

  「うん、君の気持ちは、よ〜〜くわかる!」

  犬塚さんは、スポーツドリンクを飲み干すと、空になった缶を軽く握りつぶした。

  「偉大な師匠を持つと、弟子は苦労すんだよな〜」

  その言葉に、僕はハッとして顔を上げた。

  「犬塚さんの師匠は……確か、グリズリオン、さん……」

  「そうそう。そうなんだ」

  彼は、苦笑いを浮かべた。

  ハイイログマ獣人のヒーロー、グリズリオン。彼の名前を知らない人は世間にほとんどいないだろう。

  伝説と言われる三人のヒーロー、狸獣人のラクーンブレイブ、龍人のシュイロンロード、そして熊獣人のグリズリオン。他二人は現場を退いているのに対して、グリズリオンは未だ現役。いわば、生ける伝説だ。

  「もぉー日々のプレッシャー、けっこうすげぇのよ。風間くんならわかってくれるかなって」

  その言葉に僕は初めて、自分と同じ重圧を背負う人間が目の前にいることを知った。しかも彼のプレッシャーは僕なんかよりも、もっと、ずっと強いはずだ。

  「ウチの師匠なんてさ、基本、喋らないから。指示は『……行け』とか。たまに褒めてくれたと思ったら『……悪くない』とかだぜ? もうちょっと、なんかないのか? って思うよ、いや、まぁもう慣れっこなんだけどさ」

  尊敬しているからこそ言えるのだろう、愛のある不満を漏らす。そして、にやりと笑って、僕の方を向いた。

  「風間くんも、なんかあるだろ? 師匠への不満!」

  「え、ええっ!?」

  突然の提案に僕は慌てる。師匠の不満を、言う? でも、そんなこと……。

  「霜月師匠は、その……いつも冷静で、的確で……」

  「僕が失敗しても、優しく諭してくれて……師匠の氷は、とても綺麗で、強くて……」

  気づけば、僕の口から出てくるのは、尊敬の言葉ばかりだった。

  「あはは!」

  犬塚さんは、声を上げて笑った。

  「なんだよそれ、全然不満になってない! 君、師匠のこと、大好きなんだな!」

  その指摘に、僕の顔が一気に熱くなる。

  「ち、違っ、そ、そうじゃなくて……!」

  「いいじゃん、いいじゃん。俺もだよ。俺も師匠、ほんとに尊敬してるもん」

  彼の屈託のない笑顔を見ていると、僕の心の奥で、何かが静かに溶けていくのを感じた。

  「よし、そんな師匠想いの君のために、俺がちょっとだけ付き合ってやる! 行くぞ、訓練室!」

  「え、ええっ!?」

  有無を言わさず、彼に腕を引っ張られる。

  「大丈夫、俺、対人戦闘は得意なんだ。君の能力、ちょっと見せてくれよ!」

  その腕の力に、僕は抵抗する間もなく、再び訓練室へと引きずられていった。でも不思議と、その力強い手の温もりは、嫌じゃなかった。

  訓練室に戻った僕たちは、向かい合う形で対峙する。先程までの暗い雰囲気は、犬塚さんの明るいエネルギーに押し流されてしまっているようだ。

  「じゃあ、軽くやってみようか。君の能力、見せてくれ」

  犬塚さんがそう言って、軽く身構える。その動作には無駄がなく、長年の経験が滲み出ている気がする。

  僕は深呼吸をして、掌に意識を集中させる。空気中の水分を凍結させ、氷を生み出す。それが、僕の能力だ。

  「はっ!」

  掛け声と共に、僕は氷の槍を生み出し、犬塚さんに向けて放つ。しかし、彼はそれを軽やかに躱し、一気に間合いを詰めてきた。

  「いいね! でも、もっと速く!」

  僕は慌てて防御の氷壁を展開するが、やはりすぐに砕け散ってしまう。犬塚さんは、その隙を突くことなく、あえて距離を取った。

  「焦らない、焦らない。君の能力、まだコントロールが甘いな」

  彼の言葉に、僕は唇を噛んだ。わかっている。それは、僕が一番わかっている。

  何度か攻防を繰り返した後、犬塚さんがふと動きを止めた。

  「なあ、君の氷、なんか変……じゃないか?」

  「え……?」

  その言葉に、僕の心臓が嫌な音を立てた。変。やっぱり、僕の能力は、おかしいんだ。未熟で、不完全で――

  「なんて言うんだろう……」

  犬塚さんは、自分の腕をさすりながら、首を傾げた。

  「こう、空気がビリビリ震えるっていうか……うん、氷自体が、ずっと細かく震えてる感じがするんだよね」

  (……やっぱり)

  僕は、唇を噛んだ。震えている。それは、コントロールが甘いから。僕の能力が、まだまだ未熟だから。師匠のような、完璧で強固な氷を創れないから――

  「あ、違う違う!」

  犬塚さんが、僕の表情を見て慌てたように手を振った。

  「風間くんの能力の、練度の話じゃなくて! そうじゃなくて、なんかこう、うーん……わかんないけど……」

  彼は言葉を探すように、空中で手を動かす。

  「ただ冷たいだけじゃないっていうか……なんか別の、何かがある感じ? うまく言えないんだけどさ」

  その曖昧な説明に、僕は戸惑った。別の、何か?

  「うーん、ベアードグレイシアさんの氷とは、何か違う感じがするんだよ。悪いって意味じゃなくて、ただ、違うっていうか……」

  犬塚さんは、もどかしそうに頭を掻いた。

  僕は、その言葉の意味を完全には理解できなかった。ただ、心のどこかで、自分でも感じていた微かな違和感を、初めて他人に指摘されたことで、小さな波紋が生まれたような気がする。

  「まあ、気にしなくていいよ。俺もよくわかんないし」

  犬塚さんは、あっけらかんと笑った。

  「さ、もう一回やってみよう!」

  彼に促され、僕は再び構える。

  (まだ、僕の能力は未熟だ。でも…)

  もしかしたら、この震えには何か意味があるのか? そんな確信とは程遠い、小さな、ほんの小さな予感が、胸の奥で静かに芽生えていた。

  ◇

  「……んっ……ふゆき、さん……」

  熱に浮かされたような、甘い声が、僕の口から漏れる。

  「[[rb:雪音 > ゆきと]]くん……」

  唇が、触れ合うだけの優しい口づけから、次第に深さを増していく。角度を変え、互いの存在を確かめ合うように、激しく、貪るように。舌が絡み合い、部屋には、僕たちの濡れた水音だけが響いていた。

  僕の手はいつの間にか、彼の硬く熱を帯びた股間を、服の上からゆっくりとさすっていた。

  「……欲しい、です……冬樹さん、これ……欲しい……」

  「ふふっ……」

  彼は、僕の耳元で、楽しそうに笑う

  「そんなに、私のコレが欲しいですか?」

  「……は、はい」

  「だめですよ。ヒーローが、そんな、はしたない顔をしていては」

  彼の口調はいつもと同じ。どこまでも優しい。なのにその言葉の端々には、僕だけが知っている、意地悪な熱が込められていた。その焦らしが、僕の体の芯をたまらなく疼かせる。

  やがて僕は、彼の前に四つん這いになって自ら尻を向けた。求めるように彼の股間に僕の尻を擦り付ける。

  早く、この疼きを、アレで満たしてほしい。

  「……入れて、ください……冬樹、さん……」

  「おや。今日は随分と、積極的ですね、雪音くん」

  彼はわざと、僕の耳元でそう囁いた。彼の熱を帯びた指先が、僕の後ろの入り口をなぞるようにゆっくりと撫でる。

  「焦らないで。時間はまだ、たくさんありますから……」

  その意地悪な愛撫に、僕はもう耐えきれなかった。

  「は、やく……っ! お願い、します……!」

  「……ふふっ、しょうがない子ですね」

  苦笑する気配と共に、彼の硬く熱い存在が、僕の体の奥へと、ゆっくりと埋め込まれていく。僕たちの体が、一つに繋がる。

  「ん……♥っあっ……♥」

  僕は、シーツを強く握りしめた。彼は、僕が慣れるまで、その場でじっと動きを止めてくれる。やがて、彼がゆっくりと動き出す。僕の中に、大好きな冬樹さんの温度と固さを感じる。

  「ぁっ♥冬樹、さん。き、きもちっ……お尻っ♥きもちいい♥」

  「っ……ゆき、とくん……いけない子、です、ね。お尻を、こんなっ風に使う、なんてっ」

  冬樹さんのストロークが少しずつ強く、深くなっていく。僕の口からは喘ぎが、漏れる。深く奥を突かれるたびに、体のさらに奥底から甘い熱がふつふつと湧き上がる。

  その熱に浮かされていると、冬樹さんはストロークを続けながら、僕の上に覆いかぶさる。そうして僕の耳元で囁く。

  「いけません、ね? ヒーローが、お尻に、こんなものっ入れられ、って……きもちっよくっなって、いる、なんて」

  「ぅあっ、ぅぅっ、ぁぁ、っふ、ゆっ、きっ、さん♥」

  僕の尻尾が震えようとする。でも覆いかぶさった冬樹さんの体に遮られる。それでも、尻尾が痙攣する。その快感を冬樹さんに伝えるように。

  溶かされていく。思考が。理性が。冬樹さんの、熱くたぎる肉の柱で。

  「師としてっ、指導っ、しなくてっは、いけませんっ……」

  「ぁっ、し、ど♥しどぅ♥しどう♥して、ください、ぁぁっ、ぅぁっ♥」

  やがて冬樹さんは体位を変える。僕の腰をもって正面を向くように。

  繋がったまま、僕たちは、至近距離で見つめ合った。

  熱に浮かされた視界の中で、僕は、大好きな彼の顔を見つめる。太った白熊獣人。その瞳は、情欲に濡れ、爛々と輝いている。いつもの優しく穏やかな師匠じゃない。僕だけが知っている、一匹の「雄」の顔をした、僕だけの、冬樹さん。

  僕はそっと手を伸ばし、彼のふくよかで温かいお腹を、両手でむに、と揉んだ。

  「……ふふっ私のお腹、いかがですか?」

  彼は、少しだけ困ったように笑った。

  「……あったかっくてっ♥大好きっです……♥」

  僕の答えに満足したように、彼は僕の額に唇を落とした。

  そして、彼の力強いストロークが始まる。僕の全てを、狂わせていく。

  「好きっすきっ……っ、冬樹さん……すきっ……すきっ…!」

  「私もですよ、雪音くん。……雪音っ」

  お互いの名前を呼び合い、愛を囁き合う。視界が白く点滅する。

  「あ、ぁ……ッ!」

  熱い奔流が、僕の体の奥で、弾けた。

  そして。

  僕の意識は、無機質な現実へと容赦なく引き戻される。

  目の前に広がるのは、月明かりに青白く照らされた、殺風景な自室の天井。耳に響くのは、師匠の甘い声ではなく、自分の荒く虚しい呼吸の音だけ。枕元のデジタル時計が、 無慈悲に現実の時間を僕に知らせてくる。

  犬塚さんと別れて、家に帰ってシャワーを浴びてご飯を食べて。気づけば僕は劣情に任せてベッドの上で自慰行為に耽っていた。師匠と求め合う妄想をおかずにして。

  シーツを握りしめた僕の手は、白く、虚しさを湛えている。

  (……また、やってしまった)

  決して届くことのない願い。決して現実にはならない甘い夢。それをこんな形で慰めてしまう自分が、どうしようもなく、惨めだ。

  師匠は僕のことを雪音、なんて呼んだことなんてない。僕も、師匠のことを冬樹さんなんて呼んだことはない。僕の頭の中だけで許される呼び名。

  頬を伝う生温かい雫の感触だけが、僕にどうしようもない現実を突きつけていた。

  [newpage]

  [chapter:第三章 奉仕]

  「こんばんくま、皆さん♥白熊便器です♥」

  壁に吸盤で貼り付けたスマートフォンの小さなレンズに向かって、私はできる限り甘い声を絞り出した。公園の多目的トイレの中、ひんやりとした空気が私の火照った肌を優しく撫でる。

  インカメラに映る自分の姿を確認する。

  私の顔は光沢のある黒い生地の全頭マスクで完全に覆い隠されていた。視界はぼんやりと霞んでいる。ただ私の白熊としてのマズル部分だけが生々しく露出していた。

  身にまとっているのはエナメルのような扇情的な衣装。胸と局部だけを申し訳程度に隠している肌の露出が多いデザイン。特に腰から尻にかけてはほとんど生地がなく、私の真っ白な毛皮と丸い尻尾が無防備に晒されていた。

  配信を開始してまだ数十秒。

  それなのに画面の向こうからはすでにたくさんの「市民の皆さん」の声がコメントとなって殺到していた。

  > 『待ってた白熊便器』

  > 『今日も可愛いケツ見せてくれるんだろ?』

  > 『白熊便器のケツは市民の共有財産』

  下品で欲望にまみれた言葉の奔流。その一滴一滴が、私の心の奥底でひび割れた大地に染み込み、渇きを潤していく。

  ああ、私は求められている。この醜いだけの体が、誰かの役に立っている。

  「ありがとうございます♥嬉しいです♥」

  投げ銭の通知が画面をきらびやかに彩る。その光を浴びながら、私は感謝の言葉を何度も繰り返した。

  その時だった。

  一際大きな額の投げ銭と共に、たった一言、命令的なコメントが画面に表示された。

  > 『ケツみせろ』

  あまりにも直接的で、暴力的な命令。

  その言葉を目にした瞬間、私の背筋に、ぞくり、と、言いようのない快感が駆け上がった。

  ああ、そうだ。私は、この人たちに求められている。

  私はそのリクエストに応えるために、にっこりと笑った。

  きっとこのマスクの下の私の顔は今、最高に淫らな表情をしているに違いない。

  私はゆっくりと、カメラに背中を向けた。

  そのレンズに、私のお尻が一番よく見えるように深く腰をかがめる。

  > 『きたきた!』

  > 『待ってました!』

  > 『これが無料で見れるとか神かよ』

  画面を流れていく、興奮に満ちたコメントの洪水。

  その一つ一つが、私の存在を肯定してくれている。

  私は自らの指で市民の皆さんの期待に応える。

  真っ白な毛皮に覆われた、自分のお尻の割れ目を、ゆっくりとなぞるように開いていく。

  そこには、私の準備の証。

  黒々とした太いディルドが、私の奥深くまで埋め込まれているのが、はっきりと見えるはずだ。

  私はそれをカメラにこれでもかと、見せつける。

  > 『うおおおお!入ってる!』

  > 『最高!』

  > 『えろすぎる』

  コメント欄の熱狂が、最高潮に達しているのを感じながら、私はそのディルドにゆっくりと、指をかけた。

  ぬるりとした感触と共に、それを私の体の中から引き抜かれていく。

  その過程を、一つも見逃させないように、私はゆっくりと時間をかけてそれを取り出した。

  カメラに向き直り引き抜いたばかりの、ぬめりのあるそれを、自分の顔の前に掲げる。

  「私は♥いつでも♥皆さんに♥ご奉仕する準備は♥できてるんですよ♥」

  そう言いながら、私はその先端をぺろりと舐め上げた。

  その瞬間、画面はこれまでにないほどの、大量の投げ銭と、賞賛のコメントで完全に埋め尽くされた。

  その光景に私の心は至福に満たされていく。

  あぁ私は、市民の皆さんに求められている。

  この体で、この奉仕で、皆さんを幸せにすることができる。

  市民の皆さんを支えて、市民の皆さんから支えられている。[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]として、これ以上の喜びがあるだろうか。

  視聴者の皆さんの熱狂を感じながら、私はこれから始まる「奉仕」への期待に体を震わせていた。

  その時だった。

  トイレのドアがコンコンと控えめにノックされる。

  ――来た♥

  私はマスクの下でゆっくりと舌なめずりをした。

  本日の最初の「お客様」だ。

  「どうぞ♥開いてますよ♥」

  私ができる限りの甘い声でそう言うと、ドアはぎ、という小さな音を立てて開かれた。

  そこに立っていたのは仕事帰りなのだろうか、少し疲れた様子の筋肉質な牛獣人の男性だった。

  彼は私の姿を見て一瞬言葉を失う。

  しかしすぐに彼の瞳に、剥き出しの雄としての性欲がぎらぎらと燃え盛るのが見えた。

  「さあこちらへどうぞ♥視聴者の皆さんにもよく見えるように♥」

  私は彼を手招きし壁に貼り付けたカメラに、そのたくましい体がよく映る位置へと丁寧に誘導する。

  彼の顔がカメラに映らないように配慮することも忘れない。

  これもまた市民の皆さんのプライバシーを守るための大切な[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]としてのマナーの一つなのだ。

  私はカメラの前に立った彼の前にゆっくりと跪く。

  そしてその労働で汗ばんだ雄の股間に顔を埋めた。

  むわりと立ち上る濃密な雄の匂い。

  その匂いを深く吸い込むと、私の体の奥がじゅんと熱くなるのがわかった。

  「はぁっ……んっ…♥」

  思わず喘ぎ声が漏れる。

  私は彼のズボンの上から、すでに固くいきり立っているそれを、両手で優しく包み込む。

  そしてそのジッパーをゆっくりと下ろした。

  解放された熱い塊。

  それを私は少しのためらいもなく口に含んだ。

  「ん、んく……っ♥」

  視聴者の皆さんにもこの奉仕の音がよく聴こえるように。

  私はできるだけやらしい音を立てて彼に奉仕を始める。

  奉仕を続けるうちに、体の奥が、疼いてくる。

  もっと、もっと、欲しい。

  疼きを感じると、私の奉仕は、さらに激しくなる。

  もっと、私の体で、気持ちよくなって、ほしい。

  ただ、その一心で私の口の動きは、より情熱的になっていく。

  私がそれに夢中になっているとトイレのドアがまた静かに開かれた。

  横目に見ると、入ってきたのは今度はお腹の出た太った猫獣人と、痩せた神経質そうな狼獣人だった。

  彼らもまた私の姿を見てその瞳に、ぎらついた欲望の色を宿らせる。

  それを感じて私の体はさらに疼き始める。

  ああ、もっともっと求められたい。

  もっとたくさんの市民の皆さんを私の体で幸せにしてあげたい。

  私の[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]としての本能が、そう叫んでいた。

  口での奉仕を続けていると、牛獣人の彼の逞しい体がびくんと大きく震えた。

  たぶん、もう達してしまいそうになっている。

  「あぁっ♥ダメ♥ダメですよ♥」

  私は彼のいきり立つそれからそっと唇を離す。

  そして名残惜しそうにする彼ににっこりと微笑みかけた。

  「出すなら♥ココにくださいね♥」

  私はその場にゆっくりと倒れ込み仰向けになる。自分の手で尻穴を広げる。

  市民の皆さんための奉仕の入り口を無防備に晒した。

  [uploadedimage:22878875]

  私の目の前で荒い息遣いが聞こえる。

  そして次の瞬間。

  太く硬くそして熱いそれが私の奥に深く挿入された。

  「んんっぁぁ……♥♥♥」

  思わず声が漏れる。

  さきほどまで私の体を満たしていた冷たいディルドとはまるで違う。

  生きている、温かく重い生命の熱。

  その熱が私の体中を一瞬にして駆け巡る。

  体の奥が疼く。疼いて熱い。

  ああこれだ♥私が欲しかったものは。

  私は正常位で激しく腰を突き上げられながらその快感に体を震わせた。

  でも私の奉仕はまだ終わらない。

  目の前には私の奉仕を待っている他の市民の方がいる。

  私はその姿勢のまま少しだけ体を前にずらし、腹の出た太った猫獣人の固く膨らんだそれに顔を寄せた。

  正常位で激しく犯され、その快感に身をよじりながら、私は目の前の市民の皆さんにも口で奉仕を続ける。

  私が喜びを与え彼らが満足してくれる。

  それが私の価値。

  それが私の[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]としての存在意義。

  これ以上に尊い儀式があるだろうか。

  私を犯してくれている牛獣人の動きがさらに激しくなる。

  腰を突き上げるストロークが速まり、彼の体温が、その呼吸が、もう限界が近いことを私に告げていた。

  来る。

  私の体を満たしてくれる、あの、生命の証が。

  「しっかり♥奥にぃ♥出して♥くださいぃ♥ねっ♥」

  私は喘ぎながらそう囁いた。

  そして彼が最高の快感を得られるように、私自身も腰をゆっくりと、確かなリズムで振り始める。

  彼の一部を、私の全てで、受け入れるために。

  「ぉぉ……ぉっっ……!」

  獣のような雄叫びが上がる。

  そして私の体の奥深くで、熱い奔流が、激しく、脈動しながら、放たれるのを感じた。

  「んっ♥はぁぁん♥ぅ、はぁあぁ♥っ♥」

  注がれる。注がれる。注がれる。

  彼の生命そのものが、私の空っぽだった体の中を、熱く満たしていく。

  この熱。この重み。

  その全てが私の細胞の一つ一つに染み渡り、私という存在を、肯定してくれる。

  ああ、幸せだ。

  この瞬間のために、私は生きている。

  これでまた『家族』が増えた。

  私の心は、純粋な、至福に満たされていた。

  体内に注がれた生命の熱。

  その至福の余韻に浸っていると、牛獣人は名残惜しそうに私の中からそれを引き抜いた。

  まだ彼の熱が残るそれが、私の目の前にだらりと垂れ下がっている。

  私は感謝の気持ちを伝えるためにその場に跪き直した。

  そして彼のそれを再び口に含む。

  私の体の中に新しい「家族」をくれた、尊い市民の皆さんの一部。

  それを感謝を込めて隅々まで綺麗に清めていく。

  「……ありがとうございます♥」

  私がその行為に夢中になっていると、不意にパンと乾いた音を立てて私の尻が強く叩かれた。

  「んぁっ……♥」

  驚いて顔を上げる。

  すると私の耳元で太った猫獣人が低い声で囁いた。

  「おい、俺にも使わせろ」

  その言葉に、私の体の奥がまたずくんと熱く疼く。

  「……はい♥喜んで♥」

  私は牛獣人の前からそっと離れる。

  そして今度は猫獣人の前に再び四つん這いになった。

  先程よりもさらに太く熱いそれが、私のまだ牛獣人の熱が残る入り口をこじ開けるように挿入される。

  「あっ、あぁんっぁ……! すごい、です……っ♥」

  衝撃が背骨を駆け上がる。

  振り返ると太った猫獣人が腹を揺らしながら荒々しく私の腰を掴んでいた。

  休む間もなく激しいストロークが開始される。

  ああ、幸せだ。

  私はまた市民の皆さんに使われている。

  この体が誰かの役に立っている。

  ――戦うだけが、ヒーローの仕事ではありませんよ。

  昼間、私の可愛い弟子に語った言葉が、不意に脳裏を掠める。あの時の、真っ直ぐな瞳。

  その通りだ。ヴィランを倒すだけがヒーローの仕事ではない。人々の心の奥底に澱む欲望を掬い取り、彼らに一瞬の安らぎを与えること。それこそが、私に与えられた真の[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]活動なのだ。

  後ろから激しく犯され、その快感に身をよじりながら、私は目の前の市民の方にも引き続き奉仕を続ける。

  痩せた狼獣人が私の頭の方へとゆっくりと近づいてくる。

  そして私の顔の前に自らの固く屹立したそれを突き出した。

  ああ、また一人、私を求めてくれている市民の方が。

  私は喜んでそれを受け入れる。

  私を日々支えてくれている市民の方のおちんぽ様に、なるべく汚い音を立ててご奉仕するのだ。それが私の喜びなのだから。

  トイレの中はいつの間にか様々な獣人たちの熱気と汗とそして濃密な雄の匂いで満ち満ちていた。

  ◇

  どれくらいの時間が経ったのだろう。

  私の意識は快感と疲労、至福の狭間で朦朧としていた。

  気づけばトイレの中にいた雄獣人たちの姿はもうなかった。

  床はぬるついた液体で汚れ、むせ返るような濃密な匂いが空間を支配している。

  私はその床に倒れたまましばらくの間、体の奥で微かに続く痙攣の余韻に浸っていた。

  今日は四人……。

  私は指折り数える。

  今日私と「家族」になってくれた市民の皆さんの数を。

  あと五十六人……。

  その数字を思い浮かべると私の胸は使命感と、ほんの少しの焦燥感で満たされた。

  私はゆっくりと震える腕で体を起こす。

  その時、私の尻の奥から、先程注がれたばかりの熱い液体が、とろりと脚を伝って流れ落ちた。

  その生温かい感触に私の体はまたびくんと小さく反応する。

  壁に貼り付けたままだったスマートフォンを取る。

  配信画面には、とてつもない数の視聴者数とそして溢れんばかりの賞賛のコメントが表示されていた。

  「みなさん、今日も観てくれてありがとうございます♥」

  私はそのカメラに向かって最後の奉仕をする。

  後ろを向き、私の使いこまれた、市民の皆さんのための処理穴をこれでもかと見せつける。

  「チャンネル登録も忘れないでくださいね♥」

  私はそう言いながら尻の穴の力を緩める。

  すると奥に溜まっていた白い液体が、とろりと溢れ出した。

  それを見せつけながら私は別れの挨拶をする。

  「それではみなさん♥ごきげんよう♥」

  配信を終了する。

  静寂。

  私は壁に背を預けゆっくりと汗と涙、精液でぐっしょりと濡れた全頭マスクを剥がした。

  洗面台の鏡に映る自分を見る。

  そこにいたのは虚ろな目をした一匹の白熊獣人。

  私はスマートフォンを操作し、メッセージアプリを開く。

  一番上に表示されている「T」というアルファベット一文字だけのアカウント。

  そのアカウントとの短いやりとりが画面に表示されている。

  『穴になれ。そして満たせ』

  私はそのメッセージの下に震える指で返信を打ち込む。

  『本日は四名の方と家族になることができました♥』

  送信ボタンを押した後にすぐ既読がつき、返信が来る。

  『えぇ。配信、見ていましたよ。本日も実に素晴らしかったですね』

  その文面が、私の網膜に焼き付く。見られていた。あの方に、この奉仕の全てを。その事実だけで、私の体の奥が、疼くように熱を帯びる。

  私は「ありがとうございます」とだけ短く返信し、いつものようにTのトーク画面ごと、跡形もなく削除する。私の端末に、あの方が存在した痕跡は残らない。

  『穴になれ。そして満たせ』

  この言葉は、『私』を目覚めさせる呪文。

  この呪文を初めてあの方から与えられた日のことを思い出す。

  ――私の意識はスマートフォンの画面に吸い込まれるように、あの日へと沈んでいった。

  [newpage]

  [chapter:第四章 孤闘]

  光が二人を照らす。

  その光は、決して私に当たることはない祝福の光。

  ステンドグラスから差し込む光は、まるで意思を持っているかのように祭壇の二人だけを照らす。私の足元には、くっきりと深い影が落ちている。神父の厳かな声が教会の中に響き渡り、パイプオルガンの音色が静かに二人の門出を祝っている。

  私は最前列の席に座り、その光景を見つめていた。

  新郎は[[rb:猪飼剛 > いかい つよし]]。私が若手だった頃から幾度となく無茶な作戦をサポートしてくれた戦友であり、今では作戦司令部長という要職に就く親友ともいうべき男。恰幅の良い猪獣人の彼が、今日ばかりは誰よりも幸せそうに微笑んでいる。

  その隣に立つ新婦は、彼よりもずっと若い、華奢で美しい鹿獣人の女性だ。真っ白なウェディングドレスが彼女の優美な姿をより一層引き立てている。

  「健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」

  神父の問いかけに、剛は力強く答える。

  「誓います」

  新婦も、涙を浮かべながら、同じ言葉を口にした。

  私は、穏やかな笑みを浮かべたまま、二人を見つめ続けた。

  やがて拍手が教会内に響き渡る。私もそれに続く。祝福の拍手は、一つの大きな音の塊となって私の体を通り過ぎていく。自分の手のひらが打ち合う乾いた音だけが、やけに生々しく鼓膜に響いた。

  隣に座る風間くんが、式次第に目を落としている。彼もまた、この厳かな儀式に何かを感じているのだろうか。

  ステンドグラスの光が、会場全体を優しく照らし続けている。

  その光は、誰をも分け隔てなく包み込んでいるはずなのに、私には自分だけがその温もりから、少しだけ、遠ざけられているような気がした。

  ◇

  披露宴会場は華やかな喧騒に満ちていた。

  シャンデリアの光がシャンパングラスの泡に反射して、きらきらと乱舞している。その無数の光の粒が、まるで私という存在をすり抜けていくようだった。

  会場内には祝福のスピーチが次々と聞こえてくる。私は主賓席に座り、隣には緊張した面持ちの風間くんがいる。

  テーブルには豪華なコース料理が次々と運ばれてくる。複雑に並べられたナイフとフォークを前に固まっている風間くんに、私は小声で囁いた。

  「外側から順番ですよ」

  彼は顔を赤らめながら小さく頷く。

  メインディッシュの骨付き肉が運ばれてきた。私はナイフを入れようとしたが、力を入れすぎたのか肉片がソースと共にぴょんとシャツに飛んだ。

  「おっと」

  風間くんが慌ててナプキンを差し出す。私は苦笑しながら受け取った。

  その時、新郎新婦が私たちのテーブルに近づいてきた。

  剛だ。新婦を伴い、ビール瓶を片手に、その恰幅の良い体を揺らしながら笑顔でやってくる。

  「冬樹、今日は本当にありがとうな」

  剛は私の隣の空いた席にどかっと腰を下ろした。

  「こちらこそ。素晴らしい式にご招待していただいて。奥様も本当にお美しい」

  私は完璧な笑顔でそう返す。新婦の鹿獣人の女性が恥ずかしそうに微笑んだ。

  剛は悪戯っぽく笑うと、私の肩をバンと叩いた。

  「しかし、すまんな冬樹。お前を残して、俺は先に幸せになっちまう。『生涯独身同盟』は今日で解散だ!」

  その言葉が耳に入った瞬間、私の手がグラスを握る力が少しだけ強くなる。

  『生涯独身同盟』。剛と安酒を酌み交わしながら、夜が更けるまで繰り返し誓った、男同士の馬鹿げた絆の言葉。私にとってその誓いは、半分冗談で……半分、本気だった。

  「何を言ってるんですか」

  私は笑顔で返した。完璧な、ベアードグレイシアの笑顔で。

  「剛の幸せを心から祝福しますよ。それに、あれはお酒の席での冗談でしょう」

  剛は豪快に笑い、次のテーブルへと向かっていった。新婦も会釈して彼の後を追う。

  その背中を見送りながら、私はグラスを口元に運んだ。シャンパンの泡が舌の上で弾ける。祝福の味がするはずなのに、どこか苦い。

  (おめでとう、剛)

  心の中でそう呟いた。本当に、そう思っている。親友の幸せを願っている。

  でも。

  グラスを持つ手に、少しだけ力が入る。

  この胸の奥に広がる、この感覚は何だ。まるで自分だけが取り残されたような。

  私は首を振った。くだらない。こんな子供じみた感情は。

  「師匠、どうしましたか?」

  風間くんが心配そうに私を見ている。

  「ん? 何でもないですよ」

  私は笑顔で答える。

  「幸せそうなお二人を見ていたら、少し酔いが回ってしまったようです。幸せというのは伝染するものですね」

  冗談めかしてそう言うと、風間くんは少しだけ安心したような表情を見せた。

  私はその笑顔を保ったまま、再びシャンパンを口に運ぶ。

  完璧な笑顔を顔に貼り付ける。だが、長時間同じ表情を続けたせいで、頬の筋肉が引き攣るように痛んだ。まるで、重い仮面を無理やり支えているかのように。

  しばらくの沈黙が流れた後、私は隣に座る風間くんに何気なく問いかけた。

  「……風間くんは、その、特別な方はいらっしゃるんですか?」

  風間くんの体がぴくりと震えた。彼は一瞬息を止め、顔から血の気が引いていく。

  「い、いえ……僕なんて、選んでくれる人はいませんから……」

  か細い声でそう答える彼に、私は首を傾げた。

  「そんなことはありませんよ。風間くんは誠実で優しい心の持ち主です。君のような素敵な方を放っておく人はいません」

  風間くんの顔が真っ赤に染まる。彼は俯いたまましばらく黙っていたが、やがて勇気を振り絞るように顔を上げた。

  「し、師匠こそ……その、先程の話……独身……って……?」

  その言葉が私の胸に突き刺さった。

  「師匠ほどの素敵な方なら……その……」

  風間くんの言葉が続く中、私の意識は一瞬別の場所へと飛んだ。

  ――「ごめんね、霜月くん。タイプじゃないっていうか……」

  ――「冬樹は真面目すぎるんだよ」

  ――「ベアードグレイシア様、大好きです!」

  次々と脳裏をよぎる記憶の断片。

  無意識に左手の薬指を右手で軽く撫でていた。そこには何もない。これからも、何もつけられることはない。

  「……師匠?」

  風間くんの声で我に返る。

  私は完璧な笑顔を浮かべた。何百回と繰り返してきた、あの笑顔を。

  「私の立場では難しいですね」

  その言葉が口から滑り出る。自動的に。定型文を吐くように。何の感情もなく。

  「もし私に大切な人ができたなら、その人は必ず、よからぬ輩の標的になります。愛する人が自分のせいで危険に晒される。それだけは耐えられませんから」

  完璧な言い訳だ。誰も反論できない。

  風間くんは何か言いかけて、しかし言葉を飲み込んだ。彼はなぜか、か細い声で答える。

  「……さすがです。師匠は本当にみんなのヒーローなんですね」

  その言葉に私は穏やかに微笑んだ。彼がなぜそこまで真剣な表情をしているのか、私には理解できなかったが、きっと弟子として師匠を尊敬してくれているのだろう。

  私はグラスを口元に運んだ。

  シャンパンの泡が舌の上で弾ける。

  祝福の味がするはずのそれは、何度味わっても、苦味が強かった。

  ◇

  披露宴も終盤に差し掛かり、私たちは司会者の声に促され、ホテル自慢の美しい庭園へと、移動した。

  抜けるような青空の下、丁寧に手入れされた芝生が、目に鮮やかだ。

  「さあ、皆さま! お待たせいたしました! これより、新婦によります、ブーケトスを行います!」

  司会者の声に会場がわっと沸いた。

  新婦である、美しい鹿獣人の女性が、幸せそうな笑みを浮かべて、ゲストたちの前に立つ。彼女の手に握られているのは、今日の日のために特別に用意された、色鮮やかな花束だ。

  「女性の皆さま、どうぞ前の方へお集まりください!」

  着飾った女性たちが、きゃあきゃあと声を上げながら、新婦の元へと集まっていく。その光景を、私は少し離れた場所から穏やかな笑みを浮かべて眺めていた。

  風間くんは、その輪には加わらず私の隣で所在なさげに佇んでいる。

  新婦が集まった女性たちに背を向ける。

  「スリー! ツー! ワン!」

  カウントダウンと共に、ブーケは高く放物線を描いて、抜けるような青空へと放たれた。

  重力から解き放たれた花束が、初夏の日差しを浴びて鮮やかに輝く。

  「きゃあっ!」「こっちよ!」

  着飾った女性たちの群れが、色めき立つ。誰もが手を伸ばし、誰もがその幸福の象徴を求めている。

  その熱気は凄まじく、庭園の空気さえも振動しているかのようだった。

  ブーケは、その熱狂の渦の中心へと落ちていくはずだった。

  誰もがそう思った。

  しかし、その時。

  一陣の、驚くほど強い風が、庭園を吹き抜けた。

  「――えっ?」

  誰かの素っ頓狂な声。

  落下を始めたはずのブーケが、風の手にすくい上げられ、ふわりと再び舞い上がったのだ。

  まるで、意思を持った生き物のように。

  ブーケは、女性たちの伸ばした指先を嘲笑うかのように軽々と越え、歓声の渦を飛び越えていく。

  回転しながら、色とりどりの花びらが数枚、ひらりと舞い落ちる。

  それは、喧騒の外側へと滑空していった。

  まるで、この熱狂的な幸福の奪い合いから、逃げ出すかのように。

  そして、その軌道の先には。

  私の隣で、所在なさげに佇んでいた、風間くんがいた。

  彼は呆然と口を開けて空を見上げていた。

  避けることも、手を伸ばすこともできず、彼はただ立ち尽くしていた。

  ストン、と軽い衝撃と共に、ブーケは彼の胸元に収まった。

  反射的に、彼の腕がそれを抱きしめる。

  まるで、迷子の仔猫をあやすかのような、優しく、ぎこちない手つきで。

  一瞬の静寂。

  庭園の時が止まる。

  やがて、誰からともなく、くすくすと笑いが漏れ始めた。

  女性たちの残念そうな、しかしどこか楽しげな溜息と、穏やかな失笑がさざ波のように広がる。

  当の風間くんは、腕の中の突然の幸福の塊を呆然と見つめている。

  事態を理解したのか、彼の顔はみるみるうちに、耳の先まで真っ赤に染まっていった。

  尻尾が、申し訳なさそうに垂れ下がる。

  「す、すみません……」

  彼は消え入りそうな声でそう呟き、今にもブーケを手放してしまいそうだった。

  その姿はあまりにも痛々しく、そして不釣り合いなほどに純粋で。

  私は彼の肩にそっと手を置き、優しく声をかけた。

  「何を言っているんですか、風間くん」

  私は穏やかに微笑む。

  彼を励ますための、最高の言葉を選んで。

  「ブーケは、君を選んだんですよ。これからきっと素敵な出会いがあります」

  その言葉を聞いた瞬間。

  風間くんの肩が、びくりと小さく震えたように、私には感じられた。

  「……ありがとう、ございます」

  彼は俯いたまま、そう呟いた。

  その声は、どこか泣き出しそうなほど、震えていた。

  きっと、大勢の前で注目を浴びて緊張してしまったのだろう。

  「さあ、皆さん! 気を取り直して、記念撮影に、移りましょう!」

  司会者の声に、場の空気が弛緩する。

  風間くんは、まだ赤い顔をしたまま、それでも大事そうにブーケを抱きしめていた。

  ◇

  「……ただいま」

  返事のない部屋に私の声が吸い込まれていく。

  重い玄関のドアを閉めれば外の喧騒が嘘のように遠ざかった。

  足元には数日前にまとめた可燃ゴミの袋が鎮座している。コンビニ弁当の容器が半透明の袋越しにぼんやりと見えた。

  部屋の中は私の心を映したように散らかっている。

  窮屈な借り物の衣装を脱ぎ捨てるように、今日のために仕立てたスーツを乱暴に脱ぐ。ジャケットはソファの背もたれへ、ネクタイは床へ、シャツはその上へ。

  布の塊が次々と無造作に放り投げられていく。

  やがていつものくたびれたランニングシャツと白いブリーフ一枚の姿になる。

  ヒーローという鎧を脱いだ私。これが、本当の私。

  脱ぎ捨てた衣類の山や読みかけの雑誌が散乱するソファにどさりと体を沈めた。

  スプリングがぎしりと悲鳴を上げる。

  「……はぁ」

  深い溜息が漏れる。

  やっと帰ってこれた。

  誰の視線も、期待もない私だけの城に。

  ほろ酔いの頭で今日の結婚式を思い返す。

  幸せそうに微笑んでいた親友の顔。

  その隣ではにかんでいた美しい新婦の顔。

  ふいに二十年以上前の、周囲の結婚ラッシュの記憶が蘇ってくる。ヒーロー仲間もそうでない友人も次々に家庭を持ち、その度私は心から祝福を送った。ヒーローとしての笑顔を、顔に貼り付けながら。

  「冬樹もそろそろどうなんだ」

  そんな言葉に背中を押され、何度か婚活というものにも挑戦した。

  結果は惨敗だった。誰も私を選ばなかった。

  「なあ冬樹、俺たちはずっと、仲間だよなぁ!」

  あの夜、居酒屋でそう言って笑った剛の顔が浮かぶ。

  その彼も、行ってしまった。

  塞いだはずの古傷がじくりと痛む。

  私だけ。

  私だけが、独りだ。

  『……僕なんて、選んでくれる人はいませんから』

  披露宴での風間くんの言葉が、不意に耳の奥で蘇る。

  散らかった部屋を、ゆっくりと見渡す。

  テーブルに散らばるコンビニ弁当の空き容器、床に脱ぎ散らかした服、同じく床に散乱する無数の空のペットボトル。

  「……それは私のセリフなんですよ、風間くん」

  そうだ。私を選んでくれる人なんて、いない。

  思考が深く、暗い場所へと沈んでいく。意識の底から、忘れたはずの言葉が湧き上がってくる。

  「ベアードグレイシアさんのお家、すっごい綺麗でオシャレそう!」

  「ベアードグレイシアさんってお休みの日は何されてるんですか?」「ベアードグレイシアさん、本当に優しいですよね。なんだか、守ってくれるお父さんみたいで安心します」「ベアードグレイシア様ぁ〜〜!! こっちみて〜!!!」

  「ベアードグレイシアさん!」

  「ベアードグレイシア!」

  悪意のない言葉の数々が、氷の刃となって私の心を削いでいく。そうだ。皆が必要としているのは、完璧なヒーロー『ベアードグレイシア』。『霜月冬樹』という、ただの冴えない中年男は、誰にも、必要とされていないのだ。

  まとわりつく嫌な感情を振り払うように、リモコンを手に取った。乱暴にテレビの電源を入れる。

  画面には、夜のニュース番組が映し出されていた。私はぼんやりとその画面を眺める。アナウンサーの抑揚のない声が遠くに聞こえる。

  『……続いてのニュースです。かつて、ヒーローとして活動していた、犬山護容疑者、60歳、無職が……』

  『犬山容疑者は、「ヤマイヌ」と名乗るアカウントでSNSを利用し、自身の性的な動画などを繰り返し投稿。その過激な内容から、若者を中心に、波紋を呼んでいました。警察は、犬山容疑者の行方を追っていますが、現在も、行方不明となっています』

  ◇

  「この件には関わるな。上からのお達しだ」

  剛の低く重い声が部屋に響く。

  ヒーロー司令部、作戦司令室。あの報道から三日。剛は新婚旅行をキャンセルして、事態にあたっている。結婚式の時に見せた幸福で満たされた表情はそこには見えない。よく眠れていないのだろうか、その顔には疲労の色が濃い。

  外の世界は、犬山先輩のニュースで沸騰していた。ワイドショーはこの話題を取り上げ続け、SNSではヒーローへの軽蔑的な投稿が拡散されている。スポンサー企業は次々と契約を打ち切りを検討しているらしく、ヒーロー協会は火消しに必死だった。全ヒーローに緘口令が敷かれ、組織は犬山先輩を「過去の人物」として切り捨てようとしている。

  だが、私は信じられなかった。

  犬山先輩が公然わいせつ容疑で指名手配?

  そんなことは。絶対に。ありえない。

  「剛、お願いです。先輩を探すのを手伝ってください」

  私は必死に訴えた。

  犬山先輩は、私にとって、師匠とも呼ぶべき人物だ。若い頃、右も左もわからなかった私に、ヒーローとは何か、その全てを教えてくださった。現場での立ち回り方、市民の皆さんへの接し方、そして何よりも、ヒーローとして生きる覚悟。あの方から学んだものが、今の私を作っている。

  メディアには決して派手に取り上げられなかったが、地域住民の皆さんからは絶大な信頼を寄せられていた。子供たちは先輩の姿を見つけると駆け寄り、老人たちは深く頭を下げた。それが、犬山護という人物だった。

  あの人が、自分の名誉、ヒーローとしての名誉を汚すような行為をするはずがない。

  何か裏で起こっている。

  ヒーローとしての勘が、私にそう告げていた。

  剛はため息をついた。

  「お前はベアードグレイシアだろう。個人的感情で動くな。今お前が動けば、ヒーロー全体がさらに批判の矢面に立たされる」

  作成司令室の長としての冷徹な判断。

  私は何も言わず静かに立ち上がった。

  剛も、それ以上は何も言わない。

  重苦しい沈黙の中、私はドアへと向かう。

  ドアノブに手をかけたその時だった。

  「おい冬樹。忘れもんだ。お前のだろう」

  剛がデスクの上から小さなUSBメモリを取り上げ、私に向かって投げた。

  私は一瞬戸惑う。

  自分がそんなものを置いた覚えはない。

  しかし剛の真剣な眼差しを見て、全てを理解した。

  私はUSBメモリをそっと胸ポケットにしまう。

  「……ありがとう。剛」

  剛はただ無言でうなずく。

  私は司令部を後にする。

  犬山先輩を信じる。

  その想いだけが、私を前に進ませていた。

  ◇

  それから十日後。私は一通りの外せぬ仕事を片付けて、休暇の申請をした。

  電車は都心の高層ビル群を抜け、車窓の景色は次第に低い建物へと変わっていった。

  一時間ほどの短い旅。

  私はスマートフォンの画面に目を落とす。

  あの日、剛から受け取ったUSBメモリ。

  予想通り、その中には犬山先輩に関する極秘の捜査資料が入っていた。警察とヒーロー協会が共有する内部情報。本来であれば私が目にすることなど許されないものだ。

  資料には先輩の引退後の足取りが断片的に記録されていた。

  そしてSNSの「ヤマイヌ」のアカウントの全投稿ログ。

  初めはどこにでもあるような平凡な投稿ばかりだったのに、だんだんと過激な投稿をし始めていた。変貌してしまった投稿には、私が知る犬山先輩の面影はひとかけらもない。

  資料を読み進めるほどに頭が混乱する。

  だが同時に確信も深まっていった。

  これは私が知っている先輩じゃない。

  何者かが先輩を陥れようとしている。

  やがて電車は速度を落とし目的の駅へと滑り込んだ。

  気の抜けた音と共にドアが開く。

  ホームに降り立つと、都心とは違う少し湿り気を帯びた穏やかな空気が私の体を包み込んだ。

  約一年前、先輩の引退式のために訪れた時と何も変わらない風景。

  少し古びた駅の改札。

  壁に貼られた地元の祭りのポスター。

  学生たちの楽しそうな笑い声。

  だが決定的に違うものが一つだけあった。

  一年前、この駅の構内には「祝・犬山護さん、長年の活躍お疲れ様でした」という商店街の人々が作ったのであろう手作りの温かいポスターが貼られていた。

  その記憶がふと蘇る。

  しかし今、そのポスターがあった場所には、ただ、空白の壁があるだけ。

  まるでこの街から、犬山先輩の記憶だけが、綺麗にくり抜かれてしまったかのように。

  私はその空白から目をそらすように、足早に改札を抜けた。

  駅前には小さなロータリーが広がっている。

  これもまた何も変わらない。

  若手時代、この駅に降り立ち希望に胸を膨らませていたあの頃と寸分違わぬ光景だ。

  私は目深に帽子をかぶり直しサングラスの位置を確認する。

  私はこの街の捜査を開始するためにゆっくりと歩き出した。

  駅前のロータリーを抜ける。私の足は商店街へ向かった。

  ショーウィンドウに自分の姿が映る。帽子とサングラス。完璧な変装だ。これなら正体はばれない。

  まずは街の人に話を聞こう。できれば先輩の奥様にも会いたい。

  最初に花屋さんへ入った。

  扉の鈴が鳴る。キツネ獣人の女性が顔を上げた。

  「あら……? まぁ、ベアードグレイシアさん。どうしたんだい」

  心臓が跳ねた。なんで。私は見た目、ただの一般人のはずだ。

  「ど、どなたのことでしょうか。わ、私はと、通りがかりの一般人でして……」

  「自分のこと、一般人ですって言う人はいないよ。……犬山さんのことで来たんだろ。私たちは信じてるよ。あの人は、あんなことしない」

  彼女の笑顔は強かった。そこに迷いはない。

  犬山先輩の奥さん、由美子さんのことを尋ねると女性は続けた。

  「由美子さんね。マスコミがしつこいからね。みんなで守ってるのさ」

  礼を言って店を出る。次は八百屋だ。

  大将がこちらを見て目を丸くした。

  「おお。ベアードグレイシアさんだ!」

  まただ。なぜだ。私の変装は、完璧なはずなのに。

  「犬山さんがあんなことをするわけがねぇ。きっと裏がある。俺たちはそう思ってる」

  どの店でも同じだった。人は皆、先輩を信じていた。

  私は何度も頭を下げた。胸が熱くなる。足取りが少し軽くなる。

  最後に町内会長の因幡という人物の家を訪ねた。

  会長は私の顔を見るなり深く会釈した。

  「街の方から連絡がありましたよ。お待ちしていました。犬山さんのことは私たちがよく知っています。由美子さんを守るのは当然です」

  礼を伝えたあと、気になっていたことを聞いた。

  「ひとつ伺ってもいいでしょうか。なぜ皆さんは私がすぐにわかるのですか。変装しているつもりなのですが」

  会長は一瞬きょとんとした。その後、肩を震わせて笑いをこらえた。

  「この辺では白熊獣人は珍しいのです。それに――」

  会長は私の帽子を指さした。

  「それ、ベアードグレイシアの公式グッズですよね?」

  私は帽子を外して見た。かわいくデフォルメされた白熊。私の公式ロゴだった。

  顔が熱くなる。完璧な変装のつもりだったのに。

  会長は咳払いをして表情を戻した。

  「今から由美子さんに連絡を入れてみます。ベアードグレイシアさんがお話をうかがいたいそうだと、お伝えしておきますよ」

  「ありがとうございます」

  会長は奥へ消えた。私は帽子を丁寧に畳み、鞄にしまう。

  しばらくすると因幡会長は私の元へと戻ってくる。

  「お会いになるそうですよ。彼女の元へと案内しましょう」

  ◇

  因幡会長が案内してくれたのは、商店街から少し離れた古いアパートの一室だった。マスコミの目を避けるため、街の人々が用意した隠れ家らしい。

  ドアが開くと、やつれ果てた由美子さんがそこにいた。

  「冬樹、さん……」

  彼女の声は震えていた。セントバーナード獣人の大きな瞳は赤く腫れている。涙で何度も洗われたであろうその瞳は、光を失っていた。

  「由美子さん。お久しぶりです」

  私は静かに頭を下げた。

  「今、お茶を……」

  「いえ、お構いなく」

  私たちは小さなテーブルを挟んで向かい合った。開け放たれた窓から、六月の湿った風が入り込んでくる。梅雨入り前のこの時期特有の、重く湿った空気が部屋を満たしていた。

  由美子さんは、しばらく黙っていた。

  彼女の視線は、テーブルの上の一点に固定されたまま動かない。その沈黙は、あまりにも長く感じられた。窓の外から、カラスの鳴き声が聞こえる。遠くで子供たちが遊ぶ声。日常の音が、この部屋の重苦しい空気と、あまりにも対照的だった。

  由美子さんの手が、テーブルの上で小刻みに震えている。何かを言いたいのに、言葉にならない。そんな様子だった。

  「先輩のことで……何かご存知のことがあれば、教えていただきたいのです」

  私が促すと、由美子さんは、ゆっくりと顔を上げた。

  そして、堰を切ったように、言葉が溢れ出した。

  「私……気づいて、いたんです」

  最初の一言は、搾り出すようだった。でも、一度口を開くと、もう止まらなかった。

  「引退してから、あの人は……日に日に、変わっていって。お酒をよく飲むようになって。朝から……昼から。そうやって……目が、死んでいくのが、わかったんです」

  由美子さんの声が、次第に早くなっていく。

  「でも私、忙しくて。友達との約束も、ボランティアも。自分の時間が、やっと持てるようになって。だから、見てみぬふりを、したんです」

  彼女の手が、テーブルを強く掴んだ。

  「ジムに通うようになって、良かったと思ったんです。元気になって。顔色も良くなって。でも……また変わっていって。今度は、違う風に」

  言葉が、洪水のように溢れてくる。まるで、長い間、誰にも話せなかった想いが、一気に決壊したかのように。

  「スマートフォンばかり見るようになって。群島さんという方と、よく会うようになって。夜、帰りが遅くなることが増えて。言い訳が、曖昧になって」

  由美子さんは、顔を伏せた。

  「私……気づいてしまったんです。あの人が、外で……男性と、会っていることに」

  その瞬間、私の体が硬直した。

  「それは、どういう……」

  言葉が口をついて出てしまった。次の瞬間、私は自分の配慮のなさを後悔する。

  (何を聞いているんだ、私は)

  ヤマイヌの報道。あの過激な動画。複数の若い男性たち。

  認めたくないが、事実だったのだ。犬山先輩は、複数の男性と、体の関係を持っていた。

  「申し訳ありません」

  私は慌てて頭を下げた。

  「その……お聞きすべきことでは」

  由美子さんは、私の謝罪を聞いているのかいないのか、空虚な笑みを浮かべた。その笑顔は、あまりにも痛々しかった。

  彼女は、また話し始める

  「でも、信じたくなくて。大好きなあの人が、そんなこと……するはず、ないって。だから、また、見てみぬふりをして」

  由美子さんの声が、涙で濡れていく。

  「そして……あの日。群島さんに勧められた新しいジムに行った日の夜。帰ってきたあの人は、もう、別人……でした」

  「別人……ですか?」

  「妙な首輪をつけて。言葉は荒っぽくて……。目つきも……鋭くて。私を見る目が、冷たくて」

  由美子さんは、両手で顔を覆った。肩が、激しく震えている。

  「私、気づいていたのに。日に日に変わっていくあの人を、ずっと見てみぬふりをして。止めなかった。もっと早く、向き合うべきだったのに」

  彼女の声は、もう、嗚咽で途切れ途切れになっていた。

  「冬樹さん、お願いです。あの人を……護さんを、助けてあげてください。あの人は、何かに……操られているんです。私にはわかるんです」

  私は、何も言えなかった。

  頭の中で、情報が音を立てて繋がっていく。

  報道されていた「ヤマイヌ」。過激な性的動画。SNSでの若者たちとの交流。

  そして、由美子さんが語った夫の変貌。

  私の中で、決して繋がってはいけない二つの存在が、明確に繋がってしまった。

  犬山先輩と、ヤマイヌが。

  尊敬する師匠が、そんなことをしていたなんて。

  いや、違う。

  由美子さんが言った通り、先輩は何かに操られている。群島という男が、鍵を握っている。

  「その群島という人物のことを、もう少し教えていただけますか」

  私がそう言うと、由美子さんは首を横に振った。

  少し間を置いてから、静かに続けた。

  「私、会ったことがないんです。顔も知りません」

  「夫が話していたのは、精神科のお医者様だということ。駅前にクリニックがあるということだけ。クリニックの名前は……思い出せなくて」

  窓から湿った風が入ってくる。カーテンの裾がわずかに揺れた。

  冷め切った湯呑みに、私の顔がぼんやり映る。

  外は曇天。雨の気配。アスファルトの匂いがかすかにする。

  私は頷いた。

  「十分です。手がかりになります」

  一通りの話を聞き終え、私はゆっくりと立ち上がった。

  椅子の脚が床を擦る音が小さく鳴る。鞄の中の帽子は、そのままにしておく。

  「お話、ありがとうございました。クリニック、調べて行ってみようと思います」

  ドアへ向かった時、背中に声が落ちた。

  「冬樹さん」

  振り返る。由美子さんが立ち上がっていた。

  両手を胸の前で組み、まっすぐにこちらを見る。六月の湿気に濡れたような瞳だった。

  「護さんを、お願いします」

  私は一度だけ深く息を吸った。

  そして、できるかぎり穏やかな声で、笑顔を添えて答える。

  「任せてください」

  由美子さんは小さく頷いた。唇が震えたが、言葉にはしなかった。

  私は会釈をして部屋を後にした。

  階段を降りる。踊り場の小窓から灰色の空がのぞく。

  外気は重い。上着が肌に張りつく。私は歩幅を少しだけ広げた。

  駅前へ向かう。まずはクリニックだ。

  先輩に繋がる扉は、きっとどこかに開いている。

  ◇

  由美子さんのアパートを出た私は駅前のカフェに入った。

  スマートフォンの画面を指でなぞる。検索窓に「群島 精神科医」と打ち込んだ。

  情報はすぐに出てきた。群島透。その界隈では有名な精神科医らしい。

  論文の発表も精力的に行っている。学術サイトに掲載された彼の論文リストを眺めた。

  『被虐待経験がもたらす自己肯定感の再構築について』

  『社会的役割の喪失と新たなアイデンティティの獲得』

  内容は専門的すぎてわからない。だが、そのタイトルが妙に心に引っかかった。

  クリニックの場所もすぐに判明した。「あおぞらメンタルクリニック」。

  駅前のビルに入っている。診療時間を確認すると、もうすぐ終わりだった。

  私は急いでカフェを出た。ビルを見つけエレベーターに乗り込む。

  クリニックのドアを開けると、穏やかな音楽が流れていた。待合室に患者の姿はまばらだ。

  初診の患者を装うか。いや、やめよう。そういう回りくどい手は得意じゃない。

  私は受付の女性に静かに近づいた。他の患者に聞こえないよう声を潜める。

  内ポケットからヒーローライセンスを取り出し、カウンターの向こうに滑らせた。

  女性の目が大きく見開かれる。彼女は一瞬固まったが、すぐに事態を飲み込んだようだ。

  「少々お待ちください」と言い残し、慌てて奥の部屋へ消えていった。

  しばらくして戻ってきた彼女の後ろには、鹿獣人の男が立っていた。

  「副院長の西園寺です。奥へどうぞ」

  診察室に通され、私たちは向かい合って座った。

  西園寺と名乗った男から、先ほど渡したヒーローライセンスを受け取る。

  「院長の群島先生は、いらっしゃいますか」

  「申し訳ありません。院長は現在、長期不在でして」

  「いつからですか」

  「確か二週間ほど前からです。急なご家族のご事情で」

  二週間前。ちょうど犬山先輩の報道がされた辺りだ。

  「連絡は取れるのですか」

  「ええ、毎日。ですが、ここにはしばらく……」

  「本人と直接話がしたいんです。お願い、できませんか」

  西園寺と名乗る男はわかりやすく困った顔をした。

  「私の一存では判断しかねます。明日、また同じくらいの時間に来ていただけますか。院長に確認してみます」

  「わかりました。お願いします」

  それ以上は何も聞き出せそうになかった。

  私は礼を言ってクリニックを出る。今夜は駅前のホテルに泊まることにした。

  群島透。この男に会わなければ、何も始まらない。

  ◇

  翌朝、ホテルのシーツの冷たさで目を覚ました。

  窓にかかるカーテンの隙間から差し込む光は、昨日の湿った灰色とは違う、乾いた白さを帯びていた。

  私は枕元のスマートフォンを手に取り、昨日から書き溜めていたメモアプリを開いた。思考を整理するために、得られた情報を箇条書きにしてある。

  犬山先輩の変貌:引退後、飲酒増加。目が死んでいく。

  群島徹との接触:ジム通い、スマホ依存、夜の外出。

  決定的な変化:新しいジムに行った日。首輪。暴力的な言動。別人のような目つき。

  ヤマイヌ:SNSでの過激な投稿。動画。

  あおぞらメンタルクリニック:院長・群島徹。二週間前から不在(報道時期と一致)。

  改めて文字に起こすと、その異様さが浮き彫りになる。尊敬する先輩が、まるで坂を転げ落ちるように壊れていく過程。そしてその背後に見え隠れする「群島」という男。

  「……首輪、か」

  由美子さんの言葉を思い出し、画面のその文字を親指でなぞる。ただのファッションではないだろう。人の人格を変えてしまうほどの何か。洗脳、薬物、あるいはもっと恐ろしい技術。

  私はスマートフォンの画面を消し、黒くなった画面に映る自分の顔を見つめた。疲れの色が見える。だが、ここで止まるわけにはいかない。

  ホテルの簡素な朝食を済ませても、クリニックへ向かう夕方まではまだたっぷりと時間があった。

  私は、その持て余した時間を埋めるように、あてもなく街を歩くことにする。

  若手ヒーローだった頃、ほんの数年だけ住んでいたこの街。

  駅前の商店街を抜けると、記憶にある風景と、目の前の現実の風景が、残酷にずれていくのがわかった。

  油の匂いが染み付いていたはずの定食屋は、ガラス張りの洒落たカフェに姿を変えていた。湯気の向こうに笑い声があったはずの銭湯は、コインランドリーの無機質なドラムが回るだけの空間に。私が住んでいた安普請の木造アパートは跡形もなく、空を突き刺すような分譲マンションがそこに鎮座している。

  人も、その風景も、川の流れのようにただ静かに変わってゆく。

  新しいものが生まれ、古いものが忘れられていく。それは時の流れという、誰にも止められない、ごく自然な摂理だ。

  私もあの頃の私ではない。

  だらしなく膨らんだ自分の腹をそっと撫で、自嘲の笑みが漏れる。

  あの頃は、こんなお腹ではなかった。

  先輩の叱咤に食らいつき、毎日を泥のように眠り、それでも、ヒーローとしての誇りという、何よりも硬く、そして美しい骨格だけは、確かに持っていた。

  街は変わった。私も変わった。

  それは、受け入れなければならない、自然な変化だ。

  だが、犬山先輩の変化は違う。

  それは、時の流れによる自然な変化ではない。

  ある日を境に、まるで内部から破壊されたかのように、根こそぎ、別の何かに作り変えられてしまったかのような変貌だ。

  人の魂が、そんな風に変わってしまっていいはずがない。

  由美子さんの嗚咽が、耳の奥でこだまする。

  そんな変化を、私たちが、受け入れられるはずがない。

  やがて私の足は、街の中心にある、開けた公園へとたどり着く。

  近くの自動販売機で買った、ぬるい缶コーヒーを片手に、ベンチに深く腰を下ろした。

  広場では、若い犬獣人の父親が、幼い息子にボールの投げ方を教えている。

  ゆっくりと腕を組んで歩む、老いた狼獣人の夫婦。その歩幅は、彼らが共に過ごした時間の長さを物語っていた。

  黄色い帽子をかぶった子供たちの集団が、笑い声を響かせながら、夏の入り口を駆け抜けていく。

  穏やかな時間。

  こんな、何も求められず、ただ時間が流れていくのを眺めているだけの時間は一体いつ以来だろう。

  昨日の曇天が嘘のように、今日は、初夏の日差しがアスファルトに柔らかな影を落としている。

  私はしばらく、その光景を一枚の古い絵画のようにただぼんやりと眺めていた。

  ふと、デジャヴにも似た感覚が、胸をよぎる。

  この景色には、見覚えがあった。

  ベンチからゆっくりと立ち上がり、改めて周囲を見渡す。

  公園の隅に立つ、古びた時計台。

  その隣で、風に葉を揺らす、大きな楠の木。

  そして、子供たちが今しがた駆け抜けていった、石畳の道。

  そうだ、ここは……。

  ここは、あの人が、壊れかけた私を、拾ってくれた場所だ。

  『冬樹、お前はヒーローとして一番大事なものを持ってるんだぞ』

  夕暮れが世界を茜色に染めていた、あの日の公園。

  ヒーローとしての自分の不甲斐なさに打ちのめされ、もうこの道を諦めようと、子供のように泣きじゃくる私の隣で、あの人は、ただ静かに、そこにいてくれた。

  言葉少なに、しかし、その眼差しだけは、雄弁に私を励ましてくれていた。

  そのごつごつとした、大きな手が、私の肩に、そっと置かれていたのを今でも、はっきりと覚えている。

  私は思わず、左手で、自分の右肩に触れた。

  あの温もりを、探すように。

  だがそこにあるのは、皺の寄ったワイシャツの感触と、その下の虚しいほどに生温かい自分の体温だけ。

  「……どこにいるんですか、先輩」

  私の声は、初夏の気だるい風に、攫われて消えた。

  ◇

  公園での感傷から抜け出し、私は再びクリニックを目指して歩き始めた。

  夕暮れの商店街は家路を急ぐ人々で賑わっている。

  その時だった。ふと、視線を感じた。

  導かれるようにそちらを見ると、道の向かい側に、大きな影が立っていた。

  濃いサングラスをかけたがっしりとした体躯のセントバーナード獣人。

  体に張り付くような黒のタンクトップ。その上から羽織った黒のレザージャケット。同じく黒のレザーパンツ。全身を黒で統一したその姿は、周囲から明らかに浮いていた。

  先輩……?

  なぜか一瞬、そう思った。だがすぐに首を振る。

  私の知る先輩の姿と、あまりにもかけ離れていた。温厚で実直で少し不器用だったあの人が、あんな悪趣味な格好をするはずがない。

  だが、由美子さんの言葉が脳裏をよぎる。

  「別人のように変貌していた」

  その人物は、胸ポケットからタバコの箱を取り出した。

  一本を抜き取り、慣れた手つきで火をつける。そして、実に美味そうに紫煙を吐き出した。

  犬山先輩は、タバコなんて吸わなかったはずだ。

  私の視線に気づいたのか、その男は、不意にこちらを向いた。

  サングラス越しに、視線が交わる。

  タバコを口から離し、白い煙をゆっくりと吐き出す。

  やがてその口元が、ニヤリと歪んだ。

  嘲るような、挑発するような醜悪な笑み。

  次の瞬間その人物は踵を返し、人気のない路地裏へと消えた。

  私は吸い寄せられるように、走り出していた。

  クリニックのことも、西園寺副院長との約束も、後回しだ。

  ただ、あの背中を、追わなければならない。

  その、一心で。

  路地裏は夕暮れの赤い光が届かない薄暗い空間だった。

  奥の壁に体を預けその男は堂々とタバコを吸っていた。

  私が息を切らして駆け寄ると彼はゆっくりと顔を上げた。

  「よぉ冬樹。一年ぶりぐれぇか? 何してんだ、こんなチンケな街でよ?」

  下品な口調。嘲るような声色。目の前にいるこの男は、私の記憶の中の犬山先輩とは、細胞の一つに至るまで、全くの別人だった。それなのに、その骨格が、声帯が、紛れもなく、私の知る「師匠」のものであるという事実が、胃の腑からせり上がってくるような吐き気を催させた。

  首には由美子さんが言っていた禍々しい首輪。

  全身から放たれる暴力的な威圧感。

  「先輩こそ……何、やってるんですか? 皆さんが……奥さんが、由美子さんが、心配しています」

  私の言葉を犬山は鼻で笑った。

  「あ゛? クソメスがなんだって? あいつが死のうが喚こうが……俺には関係ねぇ」

  吐き捨てるような言葉に私は絶句した。

  「それより聞けよ。俺の[[rb:親友 > ダチ]]がテメェに会いたがってる。ついてこいや」

  犬山はそう言うと踵を返した。

  その瞬間、私は能力で彼の足元を氷で凍らせ、身動きを封じる。

  「……なんの真似だ?」

  犬山はゆっくりと振り返り、私を睨みつける。

  「先輩。あなたは指名手配されています。おとなしく捕まってください」

  私の言葉に、犬山は心底おかしそうに、腹を抱えて笑い始めた。

  「ハハハハッ! 偉くなったもんだな! 俺の隣でぴーぴー泣いてるだけの、クソガキだったくせによ!」

  下劣な笑い声が、路地裏に響き渡る。

  私は、この人はもう、自分の知っている犬山先輩ではないのだと、心底悟った。

  やがて犬山は笑いを収めると、静かに地を這うような低い声で、宣告した。

  「……舐めてんじゃねぇぞ。誰がテメェを一人前にしてやったと思ってんだ、あ゛ぁっ!?」

  彼の目が、赤く光った。

  「チェンジ……エビルパトロール」

  犬山の首の首輪が赤い光を放つ。

  彼の全身から黒い液体のようなものが染み出し瞬く間に漆黒のパワードスーツが形成されていく。

  スーツ越しに全身の筋肉が異常なまでに肥大化し首や腕には血管がミミズ腫れのように大きく浮き出る。

  「っ! 先輩……! やめてください!」

  変身した犬山は禍々しいオーラを放ちながら私に襲いかかってきた。

  その一撃を私はかろうじて避ける。

  「どうしたヒーロー様よぉ!? 生身で俺に、勝てると思ってんのかァ!?」

  「チェンジ! ベアードグレイシア!」

  私の体が光に包まれ白銀のヒーロースーツをまとったベアードグレイシアの姿へと変わる。

  変身が完了した瞬間、犬山は人間離れした速度で私に肉薄した。

  その動きは直線的だが、あまりの速さに反応が遅れる。

  とっさに生成した氷の壁を、犬山は意にも介さず、拳の一撃で粉々に粉砕した。

  「あぁぁっ! イィぜぇぁぁ! 力が、力が漲ってくる!!」

  路地裏に舞う氷の破片の中、犬山のスーツの赤いラインが禍々しく脈打つ。露出した顔には太い血管がミミズ腫れのように蠢き、その表情は恍惚としていた。

  あれは私の知る先輩ではない。力に酔いしれる、ただのヴィランだ。

  「先輩、目を覚ましてください!」

  私は叫びながら、彼の足元を凍らせ、動きを封じようとする。だが、犬山は嘲笑うかのように、いともたやすく氷を砕き、再び私に襲いかかってきた。

  「無駄だァ!!」

  拳と蹴りの嵐。

  私はそれを防ぐので精一杯だった。

  一撃一撃があまりにも重い。

  現役のヒーローの私が、一年前に引退した初老の元ヒーローに力で圧倒されている。そんなこと、普通ならありえない。

  「くっ……!」

  なんだ、この力は……!

  おそらく先輩本来の身体能力ではない。

  あのスーツだ。あのスーツが彼の力を無理やり引き出しているような感じがする。

  このままではまずい。

  手加減している場合ではない。

  私は一度大きく距離を取り、体勢を立て直そうとした。

  だがその一瞬の隙を犬山は見逃さなかった。

  「まだその癖、直ってねぇみてぇだなァっ!?」

  犬山の声が路地裏に響き渡る。

  「散々教えたよなぁ、冬樹ィッ!」

  それはかつて訓練中に何度も私に浴びせられた言葉だった。

  大技を放つ際、どうしても一瞬動きが止まってしまう私の悪い癖。

  犬山はそのわずかな隙を突き一気に懐に潜り込んできた。

  私は慌てて防御姿勢をとるが間に合わない。

  彼の重い一撃が私の能力発動の起点となる右腕を的確に捉えた。

  「ぐっ……!」

  激しい衝撃。

  私は体勢を大きく崩した。

  その瞬間も犬山の攻撃は止まらない。

  拳、蹴り、肘、膝。

  全身を使った連撃が私を襲う。

  私はただそれを防ぐので精一杯だった。

  「どうしたどうしたどうしたぁァッ! ベアードグレイシアァァッ!!」

  犬山の赤いバイザーの奥でその目が狂気と歓喜に爛々と輝いているのがわかった。

  スーツから露出した彼の頭部には先ほどよりもさらに太く黒々とした血管がミミズ腫れのように蠢いている。

  「ぁあ゛ぁっっ!! あ゛ぁっぁ゛っ! チガラ゛ァッ!! ヂカラ゛ァッがぁ!! 溢れテくルゥゼぁぁァッ!!!!」

  狂っている。

  完全に正気を失っている。

  だがその動きはあまりにも正確で無駄がない。

  私の弱点、癖、思考のパターン。

  その全てを知り尽くした上で私を徹底的に破壊しようとしている。

  これはただの狂気ではない。

  かつて私を指導した犬山護というヒーローの経験と知識がこの狂気を支えているのだ。

  私はこの絶望的な事実を認めざるを得なかった。

  体勢を崩した私に対し、犬山は追撃の手を緩めない。

  彼は路地裏のビルの壁を、重力を無視したかのように駆け上がり、上空から私に襲いかかった。

  (壁を……走っている!? そんな馬鹿な!)

  かつて、犬山に言われた言葉が、脳裏に蘇る。

  『いいか冬樹。敵は必ずしも正面から来るとは限らない。常に上下左右、全方位に気を配れ』

  師の教えを、今、最悪の形で体感する。

  犬山は私の思考、癖、能力の全てを知り尽くしている。

  防戦一方の私は、徐々にダメージを蓄積させていった。

  私は最後の力を振り絞り、路地裏全体を凍らせる、最大級の技を発動しようとした。

  だが、その予備動作を見逃す犬山ではない。

  「ア゛ア゛ァッ! 終いだァァッ!! 冬樹ィ!!!!」

  犬山は壁を蹴り、強力な飛び蹴りを、私に叩き込んだ。

  壁に叩きつけられ、ヒーロースーツの一部が破損する。

  変身が、解けていく。

  薄れゆく意識の中、私を見下ろす犬山の冷酷な赤いバイザーが、網膜に焼き付く。

  それを最後に、私の世界は、音も光も無い、完全な闇へと沈んでいった。

  [newpage]

  [chapter:第五章 誕生]

  意識がゆっくりと浮上してくる。

  後頭部に鈍い痛みが響く。

  最初に耳に届いたのは奇妙な叫び声だった。

  それは苦しみと喜びがぐちゃぐちゃに混じり合ったような甲高い鳴き声。

  そして荒い息遣いと肉と肉がぶつかり合う湿った音。

  何の音だ、これは。

  私はゆっくりと目を開けた。

  ぼやけた視界の先に信じがたい光景が広がっていた。

  薄暗いジムのような空間。

  その中央で裸の犬山が、見知らぬ犬獣人を犯していた。毛並みから察するに、おそらくゴールデンレトリバー――ゴル獣人。

  その若者は壁に両手をつき体を支えている。

  立ちながらの後背位。

  犬山は若者の首にかけられた首輪から伸びるリードを掴み、言葉を浴びせかけている。

  「犬。もっと鳴け」

  「んんぁっ♡♡わ゛ん゛っ♡ わ゛っん゛っ♡」

  若者は言葉ではない鳴き声で応える。

  その声は明らかに喜びに打ち震えていた。

  彼の頭には革製の全頭マスクが被されており表情は見えない。

  だがその細身の身体から伸びる大きな尻尾はちぎれんばかりに左右に振られている。

  若者の股間には無機質な金属の貞操具が取り付けられていた。

  その隙間からは、犯されている快感に耐え切れないのか、失禁した液体がだらしなく流れ落ちている。

  「あ゛? また漏らしやがったのか? 散々躾してやってんのに、まだ治んねぇのかこのバカ犬が」

  犬山の叱責。

  それすらも快感なのか若者はさらに甲高い鳴き声を上げた。

  犬山はリードをさらに強く握り、若者により一層きつい体勢を強いる。

  若者の体はガクガクと痙攣し、漏れ出す尿の量はさらに多くなっていく。

  胃の腑が裏返るような感覚に、私は思わず目を固く閉じた。だが、瞼を閉じても、脳裏に焼き付いた光景は消えない。これは、地獄などというありふれた言葉で表現できる惨状ではなかった。

  そこで私はようやく自分が置かれている状況を理解した。自分の体を眺める。

  裸の状態で頑強な金属製の椅子に両手両足を拘束されている。

  口は猿ぐつわで塞がれ声も出せない。

  手足に嵌められた金属の拘束具に、意識を集中する。

  空気中の僅かな水分を、私の意思で制御する。

  凝固させ、膨張させ、この忌々しい鉄の輪を内側から破壊しようとする。

  しかし何も起きない。

  そこで私は気づいた。私の手首に巻かれているものがいつもの変身ブレスではない、ということに。変身ブレスとは違う感触。先ほどの異能力の不発。

  これはおそらく、異能力抑制装置だ。

  血の気が引く。

  これは警察の厳重な管理下にある装置のはず。

  なぜこんなものがここにある?

  私は視線を戻すことなく、犬山とゴル獣人の若者のまぐわいから目を逸らす。

  見てはいけない。

  見たくない。

  だが耳を塞ぐことはできない。

  湿った肉のぶつかり合う音。

  犯されている犬獣人の喜びに狂った甲高い鳴き声。

  犬山の彼への絶え間ない叱責。

  「やめてくれ……」

  声にならない、叫びが、喉の奥で、こだまする。

  やがて犬山の腰の動きがより一層、激しくなっていくのが音でわかった。

  それに合わさるようにゴル獣人の鳴き声も、さらに甲高く、早くなっていく。

  まるで破滅へと向かう狂想曲のようだ。

  「出すぞ、犬」

  犬山の低い声が響いたその瞬間、すべての音が止んだ。

  静寂。

  後に残ったのは、犬獣人の、「わ゛ぅっ♡う゛ぅわ゛ん゛っ♡」という、痙攣を伴う狂った鳴き声だけ。

  それは空虚なこの空間に、いつまでもこだましていた。

  やがて静寂を破るように場違いな拍手の音が聞こえた。

  私は音のした方向を見る。

  そこにはすらりとした長身の壮年の狐獣人。

  感情の読み取れない貼り付けたような笑顔を浮かべ犬山の方へ近づいていく。

  「いやぁ犬山さんのアキト君への躾、初めて目の前で見ましたが……素晴らしいですね。アキトくんも喜んでいるようですし」

  男はそう言って痙攣しながら床に倒れ込んでいるゴル獣人を見た。

  犬山は答える。

  「すまねぇ群島さん。こいつ二日出してねぇだけで発情しちまって……」

  犬山はそう言いながら床に倒れているゴル獣人に静かに蹴りを入れた。

  ゴル獣人は「ぅわ゛んっ゛♡」と甲高い喘ぎ声を上げる。

  その拍子に彼の股間からまた尿が漏れた。

  (この男が、群島。群島透)

  私は胸の中でその名前を繰り返した。

  やはり群島は関係していた。そして予想通り、先輩と群島は共に行動をしている。

  群島はゆっくりと私の方に向き直った。その目は私を値踏みするように、じっとりと、舐めるように見つめている。

  「お目覚めですかベアードグレイシア。いえ、霜月冬樹さん。私が、あおぞらメンタルクリニック院長の群島透です」

  男は、貼り付けたような笑顔のまま私に微笑みかけた。

  「西園寺から聞きまして。私にお話があると伺いましたので。犬山さんに、迎えに行っていただいたんですよ」

  その言葉には罪悪感のかけらもない。

  私は、怒りと憎しみを込めて、群島と名乗った男を睨みつけた。

  「ですが少々誤解があったようで……犬山さんと戦ってしまわれたようですね。申し訳ありません。犬山さんはどうも、血の気が多くて……」

  群島は心底申し訳なさそうに眉を下げた。だが、その目は笑っている。

  その、白々しい口ぶりに、私の腹の底でマグマのような熱いものが、込み上げてくるのを感じた。

  「ふざけるな……」

  猿ぐつわに遮られたくぐもった声。

  だが群島はそれを聞き取るでもなく、うっとりとした表情で犬山を眺めた。

  「ふふっ……でも、あのベアードグレイシアを倒してくるなんて……素晴らしい。犬山さんのスーツは、特別製でしてね。彼の生命力を吸収して、身体能力を飛躍的に向上させる代物なんです」

  やはりそうか。

  私の最悪の予想は当たっていた。

  「強い雄である犬山さんに、とてもお似合いだとは思いませんか?」

  群島は私に微笑みかけた。

  貼り付けたような笑顔の奥に、私は底知れない狂気を感じる。

  汗と獣の匂いが充満するこの薄暗い空間で、彼の存在だけが異質に際立っていた。

  「霜月さん。お会いできて本当に嬉しいです。私もあなたにお会いしたかった」

  群島はそう言うと、ゆっくりと私の方へ近づいてきた。

  その貼り付けたような笑顔は変わらない。

  だがその目の奥には、獲物を前にした捕食者のような、ぎらついた光が宿っている。

  「霜月さん」

  「私の目を、見てください」

  穏やかだが、有無を言わさぬ声色。

  私は吸い寄せられるように、彼の深い琥珀色の瞳を見てしまった。

  その瞬間、意識に濃い靄がかかるような奇妙な感覚に襲われた。

  思考が水飴のように間延びしていく。

  頭の中でけたたましく警告のサイレンが鳴り響いている。

  逃げろ。

  抗え。

  だが、体が、動かない。

  思考が、まとまら、ない。

  群島の低く柔らかな声だけが、頭の中に直接響いてくる。

  それはまるで温かい、液体が、脳のシワの隅々にまで浸透していくような悍ましくも心地よい感覚だった。

  『あなたは、もう頑張らなくてもいいんですよ』

  『その重い鎧を脱いで楽になりましょう』

  『私の声は、あなたを癒す福音です』

  そうだ。

  この人の声はなぜかとても安心する。

  この人の言うことは、なんとなく正しい気がする。

  私はこの人に、身を委ねてしまってもいいのかもしれない。

  私の意識が完全に彼の言葉の海に沈みかけた。

  その時。

  違う。

  体の芯から湧き上がる拒絶。

  私は歯を食いしばりその甘美な支配を振り払った。

  「っ……!」

  靄がかっていた意識が急速に晴れていく。

  心臓が激しく鼓動している。

  全身にびっしょりと冷たい汗をかいていた。

  なんだ今のは。

  脳に直接語りかけられているような悍ましい感覚。

  異能力。それも他人の精神に直接作用する類の。

  「おや」

  群島が心底楽しそうに声を上げた。

  「これは驚いた。さすがはトップヒーロー。素晴らしい精神力です」

  私は二度と目を合わせまいと固く瞼を閉じた。

  ふふっと群島の嘲るような笑い声が耳に届く。

  「無駄ですよ」

  その声と同時に私の汗ばんだ額に彼の手がそっと触れた。

  ひやりとした感触。

  次の瞬間、先ほどとは比べ物にならないほどの強烈な奔流が私の意識を飲み込んでいく。

  目を閉じているのに瞼の裏で白い光が明滅する。

  耳の奥で彼の声が何重にも反響する。

  思考が再び水飴のように引き伸ばされ今度は千々に引き裂かれていく。

  私の意識が彼の指先から流れ込む奔流に完全に支配されていく。

  もう抗うことはできない。

  抵抗する意思すら奪われていく。

  思考の奔流の中で、彼の声だけが、確かな輪郭を持って、私の中に響き渡る。

  『この人は犬山先輩の友人だ』

  『警戒すべきではない。先輩の友人なら安心だ』

  『そうだ。この人の声を聞いているととても安心する』

  『この人に従えば私は安心だ』

  脳がその思考を拒絶しようとする。

  だがそれよりも早く、彼の言葉が私の価値観を塗り替えていく。

  『この人は私を心配してくれている』

  『私を気遣ってくれている』

  『群島さん』

  『群島さん』

  『群島さん』

  そうだ。群島さんだ。

  私はなぜこの人を警戒していたのだろう。

  犬山先輩の大切なご友人なのに。

  なんて失礼な態度をとってしまったんだ。

  謝らなければ。

  謝りたい、群島さんに。

  私の意識が完全に彼の創り出した、安寧の海に飲み込まれようとした、その時だった。

  「違う!」

  心の奥底から魂が叫ぶ。

  私は歯を食いしばり、その温かく悍ましい安寧の海から必死に顔を出した。

  「ぐ……っ……!」

  靄がかっていた意識が、再び晴れていく。

  心臓が、破裂しそうなほど激しく鼓動している。

  拘束された体は、先ほどよりもさらにびっしょりと冷たい汗に濡れていた。

  「おやおや。これでもダメですか」

  群島は心底楽しそうに、だが少し困ったように声を上げた。

  彼は私の額から、手を離すと思考をまとめるように私の周りをゆっくりと歩き始めた。

  「困りましたね。これ以上強くすると、あなたの美しい『器』が壊れてしまうかもしれない。それは私の本意ではありません」

  ぶつぶつと独り言を呟きながら、群島は私の周りをぐるぐると歩き回る。

  規則正しい靴音が、この異様な空間に不気味に響き渡る。

  私は目を閉じたまま、必死に意識を整えようとした。

  ヒーローとしての長年の訓練。

  精神を統一し、いかなる状況でも冷静さを失わないための鍛錬。

  それが今、私の精神をかろうじて支えていた。

  やがて、群島の呟きが途切れ途切れに、私の耳に届き始めた。

  「壊さずに……別の、……在を……そうだ……解……離……性……障……害……」

  その言葉を聞いた瞬間、私の背筋を悪寒が走った。この男は、何をしようとしている?

  群島の歩みがぴたりと止まる。静寂を破るようにくっくっく、と喉を鳴らす笑い声が聞こえた。天啓を得た芸術家が、自らの才能に打ち震えるかのような、狂気に満ちた笑い声。

  この男は危険だ。私の魂の全てが、そう叫んでいた。

  群島が改めて私の額に手を伸ばしてくる。

  私は必死に頭を振って抵抗した。

  だが次の瞬間、背後から誰かの両手が私の頭を力強く固定する。

  「やめなさい……!」

  猿ぐつわに遮られたくぐもった叫び。

  耳元で、陶酔した声が囁く。

  「変えてもらえ、お前も」

  「自分が変わっていくのは、キモチイイぜ」

  犬山だった。

  心臓が喉まで飛び上がってくる。

  全身の血管を氷水が駆け巡るような悪寒。

  このままでは――

  群島の冷たい指先が私の額に触れた。

  「霜月さん、強固な要塞の崩し方はご存知ですか?」

  拘束された体が激しく震える。

  呼吸が浅く速くなっていく。

  「それは外側から崩すのは至難の業です。多くの労力を要する」

  喉の奥が渇いて、唾を飲み込むことすらできない。

  背中を冷たい汗が伝い落ちる。

  「発想を変えればいいんです。外側から崩すのではなく、内側から腐らせればいい」

  群島の声が頭蓋骨の内側で反響する。

  目を閉じているのに、瞼の裏で白い光が明滅し始める。

  「ふふふっ、もうわかりましたか?」

  群島の笑い声が耳の奥で木霊する。

  歯を食いしばる。

  抗え。

  抗え。

  抗え――

  「そうです」

  群島の声が、あまりにも優しく、あまりにも残酷に響く。

  「あなたを汚すのは、あなた自身にやって貰えばいいんです」

  その瞬間、私の意識は、深い暗闇の中へと――

  ◇

  深い深い闇の中。

  私は独りでそこに立っていた。

  何も見えない。

  何も聞こえない。

  ただどこまでも続く黒。

  体の芯まで凍えさせる絶対的な孤独。

  その闇の向こうから誰かが歩いてくる。

  それは私と同じ顔をしていた。

  だがその目は、目の前の私を慈しむように、憐れむように静かに細められている。

  『私はあなた。あなたは私。わかるでしょう?』

  もう一人の私が囁く。

  その声は私の声なのに私の知らない響きを持っていた。

  『私たちは完璧なヒーロー、ベアードグレイシア』

  『でも本当はそんな人、いない。そうですよね?』

  違う。

  『私たちは仮面を被っているだけ』

  『完璧なヒーローという、脆く儚い仮面』

  違うんだ。

  『家に帰ればゴミの山。疲れて適当にご飯を済ませて眠るだけ。だらしなくて頼りない、ただの中年男』

  違う。違う。違う。

  もう一人の私は、それに、とつぶやいて自身の股間の撫でながら告げる。その小さなふぐりを。

  『誰にも言えない秘密。画面の向こうの「普通」に、どれだけ絶望したか私は知っていますよ』

  違う。そんなことはない。

  でも私の抵抗の声はこの闇の中であまりにもか細く虚しく響くだけだった。

  目の前の私は次々と、的確に私の傷口を広げてくる。

  『誰にも必要とされなくなるのが怖いんでしょう?』

  『『霜月冬樹はいらない』って言われるのが怖いんでしょう?』

  『だから仮面を被ってる。常に』

  『でもその仮面が、さらに人を遠ざけてる』

  『だからあなたは独りだ。これまでも。そしてこれからも』

  『わかってるけど……今更やめられませんよね』

  心臓を氷の手で鷲掴みにされたような痛み。

  呼吸ができなくなる。

  私の心の鎧にひびが入っていく。

  そこから冷たい闇がじわりと染み込んでくる。

  独りは嫌だ。

  必要とされたい。

  求めてほしい。

  ……愛して、ほしい。

  『ええ、わかっていますよ』

  もう一人の私は、そのヒビに指をねじ込みこじ開けてくる。

  『誰かに必要とされたい』

  指がどんどん私の体に埋め込まれていく。

  『ベアードグレイシアとしてではない』

  手が埋まり、腕が埋まっていく。体か動かない。悲鳴すら、あげられない。

  『ただの霜月冬樹として、誰かに必要とされたい』

  それは私が心の最も深い場所に、鍵をかけ、誰にも見つからないようにと、ただひたすらに隠し続けてきた、私だけの痛切な願いだった。

  その言葉が、最後のトリガーだった。もう一人の私は、私の心の最後の壁を突き破り、私の中へと雪崩れ込んでくる。それはまるで、冷たいガラスの破片が混じった液体が、私の魂の隅々までを満たしていくような、悍ましく、鋭い痛みを伴う感覚だった。

  『大丈夫』

  もう一人の私が私の中で囁く。

  『あなたはなにもする必要はない』

  『私に任せておけばいい』

  『私があなたの寂しさを埋めてあげます』

  『私があなたにたくさんの繋がりを与えてあげます』

  『私があなたを本当のヒーローにしてあげます』

  その甘美な言葉と共に私の意識は完全に闇に溶けていった。

  ◇

  「穴になれ。そして満たせ」

  それは『私』を目覚めさせる呪文。

  ゆっくりと目を開ける。

  視界に広がるのは、薄暗くどこか懐かしい匂いのする空間。

  目の前に優しい笑顔を浮かべた狐獣人の、男性が立っている。

  ああ、群島様。

  私の創造主様。

  群島様は私の口に、かまされていた布を優しく外してくださった。

  「さあ、お話しましょうか。私の新しい芸術品」

  その甘く低い声が、私の全身を震わせる。

  私はこの方の声に身を委ねていればいい。

  それだけで、私は満たされるのだから。

  「あなたは誰ですか?」

  群島様の声が私の内側に優しく響く。

  「私は霜月冬樹。またの名を……白熊便器といいます♡ 市民の皆様の欲望を受け止め、その心と体を満たすために存在する[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]です♡」

  ああ、そうだ。

  私はそのために生まれたのだ。

  想像するだけで体の奥が疼いてくる。

  「あなたの使命は何ですか?」

  「私の使命はこの体で、市民の皆様にご奉仕することです♡ 市民の皆様のザーメンという愛をこの身に受けることで、私は彼らを癒し、私自身も満たされるのです♡」

  早く。早く。皆様の愛で、私を満たしてほしい。

  「素晴らしい。ですが今のあなたはまだ不完全な存在。活動できる時間には限りがありますね?」

  「はい♡ 今の私が目覚めていられるのはほんのわずかな時間だけです。でも市民の皆様の愛を受ければ受けるほど私はもっと長く皆様にご奉仕できるようになります♡」

  もっと長く。もっとたくさん。

  この身が果てるまで、皆さんにご奉仕したい。

  「その通り。ではあなたが霜月冬樹に完全に取って代わるにはどうすればいいか、わかっていますね?」

  「はい♡ 百人の市民の皆様の愛をこの身に受けた時、私の魂は完全に解放され霜月冬樹は消えます♡私が本当の霜月冬樹になるのです♡」

  霜月冬樹。

  弱くて臆病でいつも独りぼっちな哀れな男。

  私が彼を救ってあげるのだ♡

  私だけが彼の孤独を癒やしてあげられる。

  その歓びに私の体は打ち震えた。

  「見事です。実に素晴らしい」

  群島様の声が私の全身を駆け巡る。

  「では記念すべき最初の市民をお呼びしましょう」

  群島様は傍らで待機していた犬山先輩に目配せをした。

  犬山先輩が下卑た笑みを浮かべ私に近づいてくる。

  ああ先輩。

  私の記念すべき最初のお客様が、先輩だなんて。

  この未熟な体を、あなたの愛で満たしてくれるのですね。

  体の奥が疼いて仕方がない。

  早く。

  早く私を、あなたのモノでいっぱいにしてください。

  「ああ、先輩♡光栄です♡昔みたいに、未熟な私を[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]として厳しく指導してください♡」

  私の声は、私のものでありながら私の知らない甘さを帯びていた。

  それが堪らなく心地よかった。

  群島様によって拘束を解かれた私は、すぐさま犬山先輩の前に跪いた。

  目の前には先ほどまであの犬獣人の彼の中に入っていた先輩の男性器。

  生々しく熱を帯びている。

  「どうすりゃいいか、わかるよな、冬樹」

  犬山先輩の声が私の頭上から降ってくる。

  試すようなその言葉に私の体は歓喜に打ち震えた。

  私は喜んでそれを口に含む。

  先輩の体の匂い。

  先輩の愛の味。

  その全てが私の全身を満たしていく。

  私の舌の動きに合わせて先輩のそれがだんだんとより硬さを増していくのがわかる。

  ああ、嬉しい。

  私は先輩を喜ばせることができている。

  「冬樹、テメェ才能あるぜ。便器の才能がよ」

  犬山先輩の、心底から私を蔑むような、嘲りの声。だが今の私にとって、それは、どんな賛辞よりも甘美な、天からの福音だった。

  私は、このために生まれてきたのだ。私は、[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]になるために、ここにいる。

  『冬樹、お前は[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]として一番大事なものを持ってるんだぞ』

  かつて先輩が私にかけてくれた言葉が脳裏に蘇る。

  あの時も先輩は私を褒めてくれた。

  私の奉仕はさらに熱を帯びていく。

  やがて私自身の男性器も硬く熱を帯びていくのがわかった。

  「おいおい冬樹、それで勃ってんのか?」

  犬山先輩の声に私の体はびくりと震えた。

  「ガキみてーなチンポじゃねぇか」

  恥ずかしい。

  そうだ。

  私のこれはかなり小さい。

  でも今は先輩に笑われるのもまた体の奥が痺れるように心地よかった。

  その嘲笑は私の脳にしまい込んでいた記憶の扉をこじ開けた。

  ざらついた画面の向こう側。

  薄暗い部屋で、屈辱に顔を歪めるマゾの白熊獣人の男性。

  彼に跨る虎獣人の女王様が、その小さなペニスを指さして甲高い声で笑っている。

  『あははっなにこれ! ちっさ! お子様ちんちんじゃん!』

  あの画面の向こうの光景。

  私が幾度となく繰り返し見てきたビデオのお気に入りのシーン。

  今、私はあのマゾの男性になっている。

  いや違う。

  これは、これはもっと、ずっとずっといぃ♡。

  私を見下してくれているのは、画面の向こうの知らない誰かじゃない。

  私の全てを知っているような犬山先輩だ。

  雄の頂点に君臨するような犬山先輩のその圧倒的な存在感。

  その足元に跪き、その雄の象徴を口に含み、私のこの惨めな小ささを蔑まれる。

  ああなんて情けない。

  なんて、惨めなんだ。

  そして、なんて―――。

  私の小さなおチンポがその痺れに反応したかのように、上下に揺れ続ける。

  「おい冬樹、お前それ『使った』ことあんのか?」

  質問の意味がわからない。

  私は奉仕を続けながら、戸惑いの表情を浮かべたまま犬山先輩を見上げた。

  「メスにぶち込んだことあんのかって聞いてんだよ」

  犬山先輩は私の小さなそれを足で弄びながら言った。

  その言葉に私の体は再び、びくりと震える。

  心臓が激しく鼓動し、顔に、熱が集まっていく。

  「いっ、い、い、一回も、あ、ありま、せん……♡」

  私のか細い声に犬山先輩は腹を抱えて笑った。

  下品な笑い声が、この薄暗い空間に響き渡る。

  ああでも。

  先輩に笑われているのに。

  私の短小チンポはもっと硬く熱くなっていく。

  この感覚は何だろう。

  恥ずかしいのに嬉しい。

  嬉しいのに苦しい。

  その倒錯した快感に、私の意識は完全に陶酔していた。

  犬山先輩の下品な笑い声が、私の意識を支配する。

  「トップヒーロー様が、こんな小さいチンポじゃ、みっともねぇなぁ」

  「おい、お前のファンに謝れよ。短小包茎の童貞チンポで、ごめんなさいってよ」

  その言葉は、私の心の奥底にしまい込んでいた、羞恥心を容赦なく抉り出す。

  だが今の私にとって、それは甘美な鞭打ちだった。

  「ぅあぁっ♡ぁっ♡市民の、皆様ぁ♡わ、わた♡わたしはぁ♡短小の……♡童貞でぇ♡包茎のぉ♡情けないぃ♡ヒーローです♡」

  声が、声が止められない。口が勝手に動いてしまう。

  「え、偉そうに♡してるくせにぃ♡短小でぇ♡童貞でぁ♡皮かむりのぉ♡ヒーローでぇ♡ごめんなさいぃぁ♡」

  その言葉を口にした瞬間、背筋を甘く痺れるような快感が駆け巡った。

  なんだこれ。なんだこれは。

  全身の毛が逆立つようなこの感覚。

  私はその、鳥肌が立つような体の奥の痺れにうっとりと目を細めた。

  ああもっと。

  もっと私を辱めて。

  「わ、私はぁ♡誰にも選ばれなかったぁ♡売れ残りのォ♡負け犬です♡」

  そうだ。私は誰にも選ばれなくて当然だ。だって、こんな粗末なモノじゃメスを満足させられない。

  「こ、こんな小さな、ちんちんなので♡誰も満足させられない役立たずです♡」

  おちんちんの大きさは雄のヒエラルキーだ。そう思いながら、犬山先輩への奉仕にさらに熱がこもる。他人のちんぽをまじまじと見たことなんてないけれど、犬山先輩のちんぽは、私のとは違う。大きさも太さも、硬さも、全てが犬山先輩の方が上。

  「五十数年間、未使用のぉ♡役立たずのぉ♡雄失格ちんちんです♡♡♡」

  セックスしたことがなくて恥ずかしい。

  できたとしても小さすぎて情けない。

  メスに挿入する資格がなくて泣けてくる。

  でも♡

  でも♡

  キモチ♡イイ♡

  私の雄失格のちんぽは、快感に震えてる。そんな私を肯定するように、びくびくと上下に頷きを繰り返している。

  自分で自分を辱める言葉を口にすればするほど、股間のそれはさらに硬く熱を帯び、先端から嬉し涙をトロリとこぼし始めた。

  「やっぱお前、才能あるぜ」

  犬山先輩のその言葉に、私の心は完全に満たされた。

  私はこのために生まれてきたのだ。

  この瞬間のために生きてきたのだ。

  私は、[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]になるために、今ここにいる。

  先輩のそれが私の口の中で脈打つのを感じながら私は恍惚としていた。

  私は必要とされている。

  こんな私でも誰かの役に立てる。

  その事実が私の心を温かく満たしていく。

  やがて犬山先輩は私の口から乱暴にそれを引き抜いた。

  口の中に広がっていた熱が消え、私は急な喪失感に襲われる。

  どうして。もっと。

  もっと先輩のモノで私を満たしてください。

  私は物欲しそうな目で犬山先輩を見上げた。

  その瞳に映る自分のだらしない顔。

  先輩はそれを見て心底、軽蔑したように吐き捨てた。

  「ククっ、だらしねぇヒーロー様だな」

  その言葉と共に、先輩の足が私の小さなソレを無造作に蹴り上げた。

  「あっ♡」

  思わず甘い喘ぎ声が漏れる。

  「安心しろ」

  犬山先輩は、私の頭の毛を鷲掴みにし、その顔を近づけて言った。

  「[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]としての作法を、一からみっちり、叩き込んでやるからよ」

  その言葉に私の小さなイチモツは、まるで歓喜に震えるかのように、こくん、と上下に揺れた。

  ◇

  「あぁっ♡♡♡」

  シャワー室に私の甲高い喘ぎ声が響き渡る。

  犬山先輩に導かれるまま、この薄汚れたシャワー室にやってきた。壁にずらりと並んだローションや様々な形や大きさの男性器を模したモノ。それらを使い、犬山先輩は悪態をつきながら、丁寧に私の後ろの洗い方を教えてくれた。そして私の初めての場所をゆっくりとほぐし、体の奥にある今まで知らなかった快感の在処を教えてくれた。

  そして今。

  私の体はいよいよ犬山先輩のその猛々しい熱を受け入れようとしている。

  壁に両手をつき腰を突き出すその体勢は、先ほど見たあの犬獣人の彼と同じ。

  痛みと圧迫感に悲鳴を上げる私の体を容赦なく先輩のそれがこじ開けてくる。内側から焼かれるような熱。肉が裂けるような痛み。だがその痛みの奥にじわりと広がる甘い痺れ。

  「ククッ初物だなオイ。力ぬけや」

  犬山先輩の声が私の耳元で響く。

  「短小包茎のガキチンポで、メスを満足させられねぇならよ」

  その言葉と同時に、先輩のものが、ぐっと私の奥を強く突いた。

  「ぅぁあっ♡」

  「ケツ使って、オスに満足してもらわねぇとなぁ!」

  再び、先輩のものが、私の奥を抉る。

  その言葉は、私の脳を焼く。そうだ。私はそのためにいる。この惨めな体で先輩に奉仕するために♡

  先輩の腰の動きが激しくなる。尻穴の入り口、出口?が痛む。

  でも痛みは徐々に薄れ、代わりに体の奥底から甘い火照りのようなものが湧き上がってくる。

  「どうだ便器、初めてのホモセックスは、よ」

  私の意識は先輩の吐き出す辱めの言葉と私の内側を抉る先輩の熱い塊だけに集中していく。

  彼は知っているのだ。どんな言葉が私を打ちのめし、どんな刺激が私を悦ばせるのか。

  「んぁっぁぁ……♡せん、ぱぁい♡ほも、せっくす♡♡ざい゛っごぉぉぉですぅぁぁ♡♡」

  先輩のストロークが一層激しくなる。

  あぁっ幸せだ♡

  ホモセックスはしあわせだ♡

  私の体は、このためにあったんだ♡

  そんな私の意識とは裏腹に、犬山先輩の腰の動きが、ふと止まる。

  私の内側を埋め尽くしていた灼熱の塊が、一度深く沈み込み、意地悪くゆっくりと引き抜かれていく。

  「ぁ……っ♡いや、です……♡せんぱ、ぃ……♡もっとぉぉ♡」

  たまらず、懇願の声が漏れる。

  その甘い喪失感に私の体が震えた。

  「テメェだけイキ狂ってんじゃねぇぞ」

  私の耳元で、犬山の低い嘲るような声が響く。

  「指導の途中だろうがよ」

  その言葉と共に、彼は私の頭を乱暴に掴み、無理やり顔を横に向けさせた。シャワー室の壁に備え付けられた曇った鏡。そこに、私たちの醜くも神聖な交わりの姿が、ぼんやりと映し出されていた。

  「テメェの悪い癖、覚えてるか? ヒーローだった頃の、お前の、致命的な弱点だ」

  それは、かつて私がまだ若かった頃、この人から何度も、何度も、繰り返し指摘された言葉だった。

  『いいか冬樹。お前の氷は強力だが、その分、発動までにコンマ数秒のタメがある。その一瞬の隙が、命取りになるんだ』

  あの頃、犬山先輩は、私の隣で根気強く私の動きを見てくれていた。

  その真剣な眼差しが、脳裏をよぎる。

  「テメェのケツも、同じだ」

  犬山先輩は、再び私の内側に固く聳り立つソレを挿入してくれる。

  今度は私の体の、最も敏感な場所を、抉るように。

  「んっ……ぅ♡あ゛あ゛っ……♡」

  背骨を駆け上がる、雷のような快感。

  思考が、焼かれていく。

  「すぐに、イっちまおうとする。なぁんにも、考えねぇで。ただチンポの快感に溺れようとする。違うか?」

  それは、かつての指導の言葉と、全く同じ響きを持っていた。

  『敵の動きを読め、冬樹。二手先、三手先を考えろ。ただ大きな氷塊を出すだけが、戦いじゃない』

  あの頃の真剣な声。

  それが今の嘲りに満ちた声と、重なる。

  「テメェが気持ちよくなることばっか、考えてんじゃねぇぞ。テメェの中のオチンポ様をどうやったら、一番気持ちよくさせられるか。それを考えろや。それがテメェの……[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]の役目だろうが!」

  彼は私の内側で、最も硬く、熱い場所を的確に執拗に擦り付けてくる。

  それは私が一番、感じてしまう場所。

  かつて彼が私の戦闘スタイルの弱点を的確に見抜いたように。

  「腰振れや。テメェから、俺のチンポねだってこい」

  促されるままに、私は、拙く腰を振る。

  その動きに合わせて、犬山先輩は、私の腰を、彼の大きな手で、力強く掴んだ。

  「……チッ、使えねぇ便器だな」

  彼の声に、苛立ちが混じる。

  「何度言わせんだ? てめぇの快感じゃねぇ。俺のこの角度。この深さ。どこが一番、俺にとって気持ちいいか。てめぇの体で、感じ取れや」

  『自分の能力を過信するな、冬樹。常に状況を分析しろ。お前の力が、最も効果的に発揮できる一点を見極めるんだ』

  また、かつての言葉が、今の言葉に塗り替えられていく。

  私のヒーローとしての振る舞いが、彼の精液を受け入れるための、ただの肉の器としての作法に上書きされていく。

  私は完璧な[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]のつもりだった。

  でも違った。私はもっともっと[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]として完璧になれる。

  犬山先輩の教えに、従えば♡

  私は彼の腰の動きに、全神経を集中させた。

  彼の呼吸。彼の筋肉の収縮。

  その全てを、私の体で、感じ取る。

  そして、見つけた。

  この角度。この深さ。

  ここで私が、腰をこう動かせば――

  「……お゛ぉっ!」

  犬山先輩の喉から、低い獣のような唸り声が漏れた。

  それが正解の合図。

  「ぁ……っ、せん、ぱぃ……♡ ここ、ですかぁ……♡ もっとぉ……♡」

  私は、歓喜に打ち震えながら、彼が最も悦ぶであろう一点を自らの腰の動きで、執拗に求め続けた。

  彼の肉棒が、私の体内で、さらに硬く大きく脈打つのを感じる。

  「やりゃできるじゃねぇかっ……。やっぱ才能あるぜ……便器のよっ!」

  犬山先輩の罵倒は、もはや、私にとって最高の賛辞だった。

  私の魂は、彼の体液を、彼の「家族」の証を、今、心の底から求めている。

  「先輩……っ♡ お願い、します……♡ 私の中に、先輩の、ザーメン♡……強いオスのザーメン様ぁ♡ザーメン様くださいぃ……♡」

  犬山先輩の荒々しい呼気が、私の耳を打つ。

  彼の腰の動きが一層激しくなり、私の内側を抉る熱の塊がその存在をより強く主張する。

  痛みと快感が混じり合い、私の意識は白く染まっていく。

  「オラァ! 出すぞ、便器……受け取れやっ!!」

  先輩の低い呻き声と共に、私の体の奥底で彼のそれが大きく脈打った。

  次の瞬間、灼熱の液体が、私の内側に注ぎ込まれる。

  「ぁっぁっ♡♡っあっ……ぁ……っ♡♡♡」

  熱い。

  熱い。熱い。熱い。

  先輩の命が、私の中に注がれていく。

  それは私の体の全てを焼き尽くすかのような、圧倒的な熱量。

  私の内壁を伝い心の奥底まで染み渡っていくような感覚。

  私の精神を固く閉ざしていた分厚い氷の壁に、ぴしり、とごく小さな亀裂が入るのを感じた。

  先輩のものが私の中で最後の脈動を繰り返す。

  その一つ一つが私に教えてくれる。

  私は今、先輩と一つになっているのだ、と。

  そうだ。きっと、これが『家族になる』ということなんだ。

  快感のあまり霞む視界の中で私は確信する。

  私はもう独りじゃない。

  今日私は、犬山先輩と『家族』になれたんだ。

  もっと。

  もっと『家族』を増やさなきゃ。

  私のこの体を使ってもらって。

  たくさんの人と『家族』になりたい♡

  朦朧とした頭の中で私は思う。

  『私』が本当の私になるまで。

  あと、九十九人♡

  ◇

  けたたましいアラームの音で、私はゆっくりと意識を浮上させた。

  見慣れたビジネスホテルの天井。

  体の節々が軋むように痛む。

  寝ぼけ眼でベッドサイドの時計に目向けると、時刻は七時十六分。

  いつのまに眠っていたのだろう。

  (私は、一体……?)

  今が朝だということは、この街に来て三日目になる。

  犬山先輩の手がかりを掴むために聞き込みを、続けた。

  だが成果は何一つ得られなかった。

  (……本当に、そうだったか?)

  ふとそんな、疑念が頭をよぎる。

  だが思い出そうとすると、頭の中に濃い靄がかかるように思考が鈍っていく。

  まあいいか。

  犬山先輩のことは心配だ。

  だがこれ以上は、私の仕事ではないだろう。

  あとは警察に任せるべきだ。

  そう思うと不思議と、心が軽くなった。

  寝返りを打った瞬間、体の中心その奥深くに、疼くような、どこか空虚な鈍い痛みがあることに気づく。まるで自分の一部が、知らないうちに抉り取られてしまったかのような、気味の悪い喪失感。

  旅の疲れだろうか。

  私は、その不快な感覚から逃れるように、再び目を閉じた。もう少しだけ、この意識のまどろみに、身を委ねていたかった。

  体の奥底で、何かが静かに蠢いている。その正体を知らないまま、私は浅い眠りの海へと、再び沈んでいった。

  [newpage]

  [chapter:第六章 サスペクト]

  あの、ヴィランの銀行占拠事件から数週間が過ぎた。

  僕と師匠の日々はあれから何も変わらない。

  いつもの訓練室。響き渡る僕の荒い息遣いと時折師匠がくれる的確なアドバイス。

  でも、何かが、おかしい。

  「はぁッ!」

  僕が生成した氷の刃を勢いよく振り下ろす。

  しかしその刃は的の寸前で脆くも砕け散りただの水の塊となって床を濡らした。

  「く……そっ……!」

  苛立ちに思わず低い唸り声が漏れる。

  ふと視線を感じて振り返ると師匠が壁際で静かに僕を見ていた。

  その目に、いつもの温かな光はなかった。どこか遠くを見つめる、焦点を失った虚ろな瞳。それだけじゃない。

  時々、その瞳の奥でぞくりとするようなぬらりとした熱の光が一瞬だけ、灯っては消える。

  「師匠? どうかしましたか?」

  僕の声に師匠はびくりと肩を震わせた。

  そして一瞬僕が誰だかわからないといった顔をしてそれから慌てていつもの穏やかな笑みを浮かべた。

  「ああ、すみません。……少し考え事をしていました」

  その笑顔が今は不気味な仮面のように見える。

  最近の師匠はずっとこの調子だ。

  時折こんなふうに上の空になることが増えた。意識がどこかへ飛んでいるような様子。

  ふらりと姿を消してはしばらく連絡が取れなくなることもある。

  心配で僕の尻尾は情けなく垂れ下がってしまう。

  「師匠、最近少しお疲れじゃないですか? その……僕で良かったら……話……」

  僕の言葉を遮るように師匠は静かに首を振った。

  「なんでもありませんよ。心配してくれてありがとうございます」

  その完璧な笑顔が、僕と師匠の間に、決して壊すことのできない分厚い氷の壁を築き上げていく。踏み込めば、僕のこの脆い体など、一瞬で砕け散ってしまうだろう。その無言の拒絶を前に、僕は、もう何も言えなかった。

  焦りと苛立ちで胸が張り裂けそうだ。

  僕の不甲斐ない氷の能力。

  師匠の異変に気づいていながら何もできない自分。

  その二つが重なり、僕の心を重く蝕んでいく気がした。

  ◇

  訓練を続けた僕に対して、師匠は大事な予定がある、と言って早々に訓練室から姿を消してしまった。

  訓練室から出て行く師匠の後ろ姿。ドアを開けるときの横顔を思い返す。疲れを隠しきれていない表情。何かを思いつめたような瞳。僕の前では、笑顔の仮面を貼り付けているのがわかってしまう。

  でも僕にはその師匠の仮面を剥がすことはできない。剥がす資格も、ない。

  師匠が去ってからもどうしても師匠のあの表情から頭から離れない。訓練に身が入らない。やがて僕も訓練室をあとにし、シャワーを浴びて家へ帰ることにする。

  ヒーロー本部の建物を出て、駅の方へと向かう。

  季節は八月。

  夕暮れ時の街は僕の心とは裏腹にどこまでも穏やかだった。

  オレンジ色の夕陽がビル群を照らし家路を急ぐ人々の影を長く伸ばしている。

  僕は帰宅する前に駅前のスーパーに寄ることにした。

  今日の師匠は特におかしかった。

  僕の何気ない一言にひどく怯えたような顔をしたかと思えば、急に熱っぽい視線で僕を見つめてきたり。

  その不安定な様子が僕の胸に重くのしかかる。

  スーパーの自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が火照った体を包む。

  入り口に山積みにされた旬の夏野菜。その鮮やかな色彩に少しだけ心が和んだ。

  カゴを手にとって店内をゆっくりと歩く。

  冷蔵庫の中身を思い浮かべる。

  確か先週作り置きした鶏そぼろがまだ残っていたはずだ。

  それなら今日は三色丼にでもしようか。

  でもこのもやもやした気持ちを抱えたままではそんな簡単な料理で済ませる気にはなれなかった。

  鮮魚コーナーに並ぶ新鮮なアジ。

  エラが鮮やかな赤色で目が澄んでいる。

  これなら刺身でもいけるだろう。

  いや待てよ。

  これを三枚におろして骨は出汁をとる。

  身の半分はなめろうにして残りはパン粉をつけてアジフライに。

  そうだ。

  今日はそうしよう。

  無心で包丁を握り魚を捌けばこの嫌な気持ちも少しは晴れるかもしれない。

  ふとそんな自分の手料理を師匠が美味しそうに食べてくれる姿が頭をよぎった。

  『[[rb:雪音 > ゆきと]]くん、これ、とっても美味しいです』

  穏やかな笑顔で僕の作ったアジフライを頬張る師匠。

  『ほら雪音くんも』

  そう言って箸でつまんだアジフライを僕の口元に運んでくれる。

  「……っ!」

  自分の妄想に気づき僕はぶんぶんと頭を振った。

  口元が緩んでいるのが自分でもわかる。

  いけない、いけない。

  今はそんなことを考えている場合じゃない。

  僕は今日の献立と明日のための食材を手早くカートに放り込むと足早にレジへと向かう。レジの列に並ぼうとした、その時。

  横の棚からふいに現れた人物と肩がぶつかる。

  「あっ、すみません!」

  僕が慌てて謝ると、相手も「いえ、こちらこそ」と穏やかな声で返してくれた。ふと、視線が交わる。

  スーツを着こなした恰幅のいいジャーマンシェパードの中年の獣人。その顔を見て僕はハッとする。相手も僕の顔を見つめている。そして僕たちはほとんど同時に呟いた。

  「犬飼、教官……?」

  「……風間、か?」

  ◇

  西の空は燃えるようなオレンジ色に染まっていた。

  真夏の生温かい風が僕の白い毛並みを優しく揺らす。

  公園では部活帰りの学生たちの楽しそうな笑い声が響き散歩をするお爺さん、ベンチで寄り添う恋人たちそれぞれの時間が穏やかに流れていく。

  そんな平和な光景を見ながら、僕は公園のベンチに腰掛けている。

  「ほら」

  犬飼教官が左手で差し出してくれた缶コーヒーを、受け取る。

  彼の左手薬指の指輪が、夕陽を反射して鈍く光る。

  胸の奥がちくりと痛んだ。見なきゃいいのに。自分でもわかってる。

  でも不思議とすぐにその痛みは懐かしさに変わっていく。

  こういうところ、変わらないな。

  僕と二人でなにか話をするとき、教官はいつもこうして何も聞かずに温かいものや冷たいものを差し出してくれた。

  犬飼教官。

  ヒーロースクール時代の僕の恩師。

  ヒーローとしての全てをこの人から学んだ。

  落ちこぼれだった僕を、最後まで見捨てずその大きな背中で導いてくれた。

  いつしか僕はこの人のような、ヒーローになりたいと思うようになり、そして――

  教官が缶コーヒーのプルタブを開ける乾いた音が僕の思考を中断させた。

  彼が左手で缶を持ち上げごくりと喉を鳴らす。

  その薬指で夕陽に煌めく指輪から目が離せない。

  「風間、なんだ? そんなにおっさんの顔を見つめて」

  僕の視線に気づいた教官がいたずらっぽく笑う。

  僕は慌てて視線を逸らし、誤魔化すように自分の缶コーヒーの蓋を開けた。

  一口、飲む。

  にがい。

  「卒業式以来だから……三年ぶりくらいか?」

  教官は懐かしそうに僕の顔を覗き込む。

  僕は手元の缶コーヒーに視線を落としたままこくりと頷いた。

  「そうですね。もうそんなになりますか」

  三年。

  卒業してからもう三年も経つのか。

  あの日教官に見送られてヒーロースクールの門を出てから僕は何か変われたのだろうか。

  「活躍、聞いてるよ。頑張ってるみたいだな」

  教官の言葉に僕は思わず顔を上げた。

  その優しい眼差しに胸がちくりと痛む。

  教官らしい、優しい嘘だ。

  僕の活躍なんて報道されたことは一度もない。

  いつも偉大な師匠、ベアードグレイシアの大きな影に隠れて、そのおこぼれに与っているだけ。

  この三年で僕が一人で成し遂げたことなんて何かあっただろうか。

  ずぶずぶと思考が良くない方へと沈んでいく。

  いけない。

  教官に心配をかけちゃだめだ。

  僕は沈んでいく気持ちに蓋をするように無理やり笑顔を作った。

  「ありがとうございます」

  僕の作り笑いから何かを察したのか教官はふっと話題を変えた。

  スクール時代の他愛のない思い出話。

  あの頃流行っていた音楽。

  厳しかった訓練。

  くだらないことで笑い合った仲間たちの顔。

  教官の気遣いが、優しさの棘となって痛いほどに胸に刺さる。懐かしい思い出を語れば語るほど、僕の心に蘇るのは、この人の大きな背中に焦がれていた、あの頃の青くて、痛い思い出だけだった。叶うはずもなかった想いの残滓が、消えない線香花火のように、今もチリチリと僕の心を焦がしていく。

  一通り昔話をして話題が途切れると、ふいに沈黙が訪れた。

  夕闇が公園を支配し始め僕たちの影を曖昧に溶かしていく。

  じりと肌を焼くような教官の視線を感じて僕は手元の缶コーヒーに目を落とした。

  「……何かあったのか?」

  静かだが有無を言わせないその声に心臓が大きく跳ねた。

  「な、何もないですよ。……どうしてですか?」

  教官の顔を見ることができず僕はかろうじてそう答える。

  教官はふうと一つため息をつくと続けた。

  「お前は昔からそうだ。本当に辛い時ほど無理に笑う」

  教官は懐かしむように目を細めた。

  「スクール時代、実技の補習が重なった時も、いつもそんな顔をしていたな」

  「……俺でよかったら、話くらい聞くぞ?」

  その言葉に僕の心の鎧が音を立てて崩れていく。

  師匠のこと。

  自分の不甲斐なさ。

  そして目の前のこの人に抱いていたどうしようもない想い。

  言えない。言えるわけがない。

  そのどれもが僕の喉を塞ぎ言葉にならない。

  長い沈黙。

  気まずい空気が僕たちを包む。

  やがて教官は呆れたようにそしてどこか優しく言った。

  「……まぁヒーローだからな。守秘義務で言えないこともあるか」

  その言葉に僕は何も言えなくなった。

  教官なりの気遣いなのだと痛いほどわかる。

  気まずい沈黙が夕闇に溶けていく。

  「風間」

  不意に教官が口を開いた。

  「卒業式でお前に伝えたこと、覚えてるか?」

  その言葉に僕は三年前のあの日の光景を思い出す。

  まだ肌寒い風の中に春の匂いが混じる、卒業式の日。

  仲間たちが抱き合って別れを惜しむ中、僕は一人、校門へ向かっていた。

  そんな僕を呼び止めたのが、教官だった。

  「『ヒーローになって、お前が本当に守りたいものを見つけなさい』」

  僕の呟きに教官は静かに頷く。

  「ベアードグレイシアの弟子になって……ヒーローとして三年目だろう?」

  僕は教官の方を見た。

  教官もまた、真っ直ぐに僕を見つめている。

  公園に来てから初めて、僕たちの視線が、確かに交わった。

  「お前が、本当に守りたいものは、見つかったか?」

  守りたいもの。

  教官の真っ直ぐな問いかけが僕の胸に突き刺さる。

  脳裏に浮かんだのはただ一人。

  いつも僕の前を歩きその大きな背中で僕を導いてくれる師匠の姿。

  でもその考えを自身ですぐに打ち消す。

  違う。

  師匠を守るなんて、そんなおこがましいこと考えたこともない。

  むしろ僕はいつも師匠に守られてばかりじゃないか。

  自分の力もまともに扱えない半人前の僕が、あの偉大なヒーローを守るなんて、できるはずがない。

  じゃあ僕が、本当に、守りたいものは何だ?

  答えの出ない問いに頭が混乱する。

  その堂々巡りの思考はまるで成長できない自分自身を象徴しているようだった。

  そうだ。僕は昔からこうだ。

  いつだって手の届かない大きな背中に焦がれて、その背中を見つめることしかできない。

  教官への叶わなかった想い。

  師匠への叶うはずのない想い。

  胸がきゅっと締め付けられる。

  僕は思わず自分の胸元を強く握りしめた。

  その時、脳裏に鮮明に蘇る光景があった。

  師匠とともに参加した作戦司令部長の結婚式。幸せそうな二人を前に、それが当たり前であるかのように言った言葉。

  『私の立場では難しいですね』

  『もし私に大切な人ができたなら、その人は必ずよからぬ輩の標的になる。愛する人が自分のせいで危険に晒される。それだけは耐えられませんから』

  その言葉は僕の淡い期待を打ち砕くには十分すぎた。

  年上で、同性で、師匠で、そして誰もが知るトップヒーロー。

  ただでさえ絶望的なハードルがいくつもあるのに、その言葉は僕の想いが決して成就しないことを告げる、とどめの一撃だった。

  結局、僕はあの頃から何も変わってないじゃないか。

  また同じように手の届かない相手に焦がれて勝手に傷ついているだけだ。

  その事実に僕の心は夕闇に溶けるようにゆっくりと沈んでいった。

  また長い沈黙。

  僕が自分の内側で渦巻く感情の嵐に耐えていると不意に教官が口を開いた。

  「風間、すまない。嫌な、質問……だったか?」

  その声はどこまでも優しかった。

  スクール時代、この優しさに何度救われ、何度……打ちのめされたことだろう。

  僕は何も言えずにただ首を横に振る。

  そんな僕を見て、教官は大きな手でわしわしと僕の頭を撫でた。

  「……お前の悪い癖だ。頭が回る分、つい一人で考えすぎる。だがな、風間」

  教官は、真っ直ぐに僕の目を見て言った。

  「その頭脳は、お前の一番の武器だ。スクール時代、ヴィランの行動分析やプロファイリングのレポートじゃ、お前に敵う奴はいなかったのを俺は知っている。力だけがヒーローの全てじゃない。その頭で、お前だからこそ見つけ出せる答えもあるはずだ」

  「……教官」

  「だから、一人で抱え込むな。自分を責めるな」

  ああ、やっぱり。

  この人にはお見通しなんだ。

  僕がどんなに笑顔の仮面を被ってもその奥にある弱さも脆さも全て。

  やがて教官はゆっくりと立ち上がると僕の肩に手を置き力強く叩いた。

  「焦るな」

  その大きな手の温かさが僕の心にじんわりと染みていく。

  「ヒーローってのは迷って、悩んで、それでも守りたいもののために立ち上がり続ける奴のことだ。……お前なら、大丈夫だ」

  その言葉を最後に教官は僕に背を向ける。

  「会えてよかった。頑張れよ」の言葉と共に教官は去っていく。

  僕はその大きな背中が見えなくなるまでただ黙って見送ることしかできなかった。

  「本当に、守りたい、もの……」

  教官の言葉が僕の胸の中で何度もこだましていた。

  ◇

  教官と別れた後、僕はほとんど無意識のまま家にたどり着いた。

  冷たいシャワーで火照った体を冷ましスーパーで買ってきた食材を黙々と調理台に並べる。

  小気味良い包丁の音。

  じゅわあとアジが油で揚がる香ばしい匂い。

  料理をしている間だけは余計なことを考えずに済んだ。

  一つ一つの工程を丁寧にこなし完璧な手順で皿の上に作品を作り上げていく。

  それは僕にとって数少ない手軽に得られる達成感であり、自分の手で完全にコントロールできる領域だった。

  アジフライに、なめろう、ほうれん草のおひたし、そして作り置きのためのきんぴらごぼう。

  テーブルに並んだ料理は我ながら上出来だと思う。

  いただきますと小さく呟きアジフライを一口頬張る。

  サクサクの衣。

  ふわふわの身。

  美味しいはずなのに味がしない。

  そうだ。

  この料理を食べるのは僕一人だ。

  美味しいねと言い合う相手もいない。

  ただ黙々と一人分の夕食を胃に流し込む。

  その行為が急にひどく虚しいものに思えた。

  また思考が良くない方へと沈んでいく。

  僕はそれを振り払うようにぶんぶん、と大げさに頭を横に振った。

  「ごちそうさまでした」

  空っぽの食器を洗いシンクを磨き上げる。

  やるべきことを全て終えると僕はスマホを手に取りソファにどさりと身を沈めた。

  自分から投稿することはほとんどないSNSを開く。

  タイムラインに流れてくるのは地元の友達、スクール時代の友人たちの楽しそうな日常。

  恋人と行った旅行の写真。

  家族で囲む賑やかな食卓。

  キラキラした世界の光景が僕の心をじわりと蝕んでいく。

  その眩しさから目を背けるように僕は慣れた手つきでアカウントを切り替えた。

  誰にも知られていない裏のアカウント。

  そこは太った雄の獣人たちの自撮りや性的な呟きで溢れている僕の秘密の楽園だ。

  いつものようにタイムラインを指でなぞっていく。

  その時ある投稿が目に飛び込んできた。

  僕がフォローしているアカウントの一つが拡散したものだった。

  『白熊便器の生ご奉仕♡今夜も市民の皆様のために♡』

  倒錯的なタイトルと共に表示されているのは黒い全頭マスクを被った太った白熊獣人の男が、四つん這いになっているモザイクのかかったサムネイル。

  なんだろう、これ。

  不謹慎だとわかっているのに僕の指は抗えない好奇心に導かれるようにその画面をタップしていた。

  タップした指先からスマホの画面が光を放つ。

  そこに映し出されたのは信じがたい光景だった。

  カメラの前に立つ一人の男。

  マズルの部分だけがくり抜かれた真っ黒な全頭マスク。

  体にぴったりと貼りつく光沢のあるエナメル素材の倒錯的な衣装。だがその衣服は、体の肝心なところは隠せていない。彼が隠しているのは、彼の顔と腕、脚だけだ。胸、お腹、股間……本来衣服で隠さなければいけないところは見せつけるように露出していて、その太った肉体をいやらしく強調している。

  その男は自らの小さなイチモツを必死に扱きながら情けない声で何かを訴えていた。

  無機質な蛍光灯の明かり。広い空間。真っ白な壁。後ろにかすかに見える、便座。ここはたぶん、多目的トイレ……。

  画面の端を高速で流れていくコメントの洪水。

  『ちっっっっっっさwwwwwww』

  『銭湯とかでみかけたら爆笑しちゃうわ』

  『俺のガキの頃のがまだでかい』

  侮蔑と嘲笑の言葉が男を嬲り楽しんでいる。

  僕の頭は真っ白になった。

  何かの悪い冗談だ。

  そう思いたいのに指は画面を閉じることができない。

  その時ひときわ大きな投げ銭のエフェクトと共に一つの指示が画面に表示された。

  『自己紹介しろ、便器』

  その文字を見た瞬間、男はびくんと体を震わせ喜悦に満ちた声を上げた。

  そしてまるで聖書でも読み上げるかのように滔々と自らの情けなさを語り始めた。

  「あぁっ♥ありがとうございますっ♥わ、わたし♥わたしはっ♥白熊便器と♥申します♥市民のっ♥みなさんのっ♥♥性処理♥♥便器♥♥ですぅ♥♥」

  その聞き覚えのある声に、僕の体は強張る。

  画面の中の白熊獣人の自慰行為は一層激しさを増していく。

  「ご覧の通り♥♥オス失格のっ♥♥極小♥ちんちん♥ですのでっ♥日々♥お尻を♥使って♥市民のっ♥みなさまにっ♥ご奉仕♥しております♥♥」

  この声。

  (違う)

  その口調。

  (嫌だ)

  その大きな体躯。

  (やめろ)

  僕の頭は、すぐにあの人と、この人物を結びつけてしまう。でも。違う。こんなことするはずがない。

  僕の大好きな人が。

  けれど僕の本能が叫んでいる。

  見間違えるはずがないと。

  これは師匠だ。

  ベアードグレイシアだ。

  思考が熱い泥のように、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。目の前の現実を肯定する自分と、必死にそれを否定する自分が、僕の中で激しくせめぎ合う。心臓が、肋骨を内側から叩き壊さんばかりに鳴り響き、呼吸が、喉に絡みついて浅くなる。

  でも――その倒錯的な姿に、腹の底からせり上がってくる、この、おぞましい興奮は、なんだ。ぐらり、と世界が足元から崩れていく。

  頭の中で警報が鳴り響いている。

  やめさせなきゃ。

  これが師匠だとしても、師匠じゃなくてもこんな人の尊厳を踏みにじるような行為は絶対に止めなければならない。

  通報する? どこに?

  僕は震える指で画面をなぞりアプリの通報ボタンを探す。

  でもこんなものでこの狂った宴がすぐに終わるとは思えなかった。

  警察? でも何て言えばいい?

  「太った白熊獣人が配信で自慰行為をしています」なんて。

  馬鹿げてる。

  それにこの前引退した元ヒーローの公然わいせつ事件が報道されたばかりだ。

  もし万が一これが本当に師匠だったら……?

  いや違う! 何を考えてるんだ僕は!

  ヒーローの立場とかそういうことじゃないだろ!

  目の前のこの狂った状況を何とかしなきゃ。

  こうなったら自分で探しに行く?

  でもどこにいるのか皆目見当もつかない。

  この無機質な部屋の背景からは何も読み取れない。

  そうだ。

  電話。

  師匠に電話すればいいんだ。

  もし師匠が電話に出ればこの悪夢は終わる。

  目の前の男はただの師匠に似た変態で僕はそれを確認して安心して眠れる。

  「風間くん……? こんな時間にどうしたんですか?」

  そう言って電話に出てくれる師匠を思い浮かべて、僕は一度配信画面を閉じた。

  心臓の音がやけに大きく聞こえる。

  電話アプリから師匠の個人携帯の番号をタップした。

  頼む。

  出てくれ。

  出て僕をこの悪夢から救ってくれ。

  コール音が無機質に響き渡る。

  一回。

  二回。

  三回。

  しかしその呼び出し音が途切れることはなかった。

  留守番電話に切り替わる無機質な音声が僕の最後の希望を打ち砕く。

  僕は力なくスマホを握りしめ暗澹とした気持ちで画面を閉じた。

  留守番電話に切り替わる無機質な音声が僕の最後の希望を打ち砕く。

  力なくスマホを握りしめ、暗澹とした気持ちで画面を閉じた。

  だが、指は意思に反して、再びあのアイコンをタップしていた。

  万が一の可能性。

  ただの空似であってほしいという、最後の悪あがき。

  配信画面に戻ると、そこには明らかに狼狽した白熊便器が映っていた。

  自慰の手は止まり、何かを探るように虚空を見つめている。

  コメント欄が先程とは違う種類の言葉でざわついていた。

  『あれ? 急に声聞こえなくなった』

  『固まってるぞw』

  『おい便器どうした?』

  『今のバイブ音じゃね? 客からの催促か?w』

  視聴者たちは、配信者が誰かなど知る由もない。

  ただ、この異常事態を無責任に茶化し、楽しんでいるだけ。

  だが僕にはわかる。僕だけには、わかってしまう。

  さっきの異常事態は、僕がかけた電話のせいだ。

  その事実が僕の世界から完全に音を奪う。

  心臓を氷の杭で打ち抜かれたような衝撃。

  この地獄の真実を知っているのは世界でただ一人、僕だけだ。

  その孤独な罪悪感が、僕の思考を、じわりと麻痺させていく。

  助けたいのに助けられない。

  やめさせたいのにどうすることもできない。

  無力感が僕の思考を停止させる。

  その時だった。

  コンコンと配信画面の奥から控えめなノックの音が聞こえた。

  画面の中の師匠はびくりと体を震わせると恍惚とした表情でカメラに向かって小さく手を振る。

  そしてゆっくりと扉を開けた。

  入ってきたのはどこにでもいるようなくたびれたスーツを着た中年の犬獣人だった。

  「ありがとうございます♥」

  師匠の口から聞いたこともない甘ったるい声が漏れる。

  「精一杯♥ご奉仕させていただきます♥」

  彼はその犬獣人をカメラの前まで導くとその足元に跪いた。そしてその股間に顔をうずめて愛おしそうにニオイを嗅いでいる。

  まるでそれが当たり前のことであるかのように。

  やめろ。

  声にならない声が漏れる。

  喉がからからに渇き、心臓が肋骨を叩く音が頭に響く。

  下腹部にじわりと熱が集まっていくのがわかった。

  最低だ。

  僕は今この瞬間にも、師匠の痴態に興奮している。

  犬獣人は無言のまま師匠の頭を掴んで上を向かせる。白い被毛に覆われた首に黒光りする革の首輪を巻き付けた。

  カチャリと冷たい金属音が響く。

  「お似合いだ。配信を見ながらずっと首輪をつけてやりたいと思ってた」

  犬獣人は首輪から伸びたリードを短く持つとぐいと強く上に引っ張った。

  「んぎぃっ♥ぎぅっぅっ♥♥♥」

  苦しげで、でもどこか喜悦に満ちた喘ぎ声が僕の耳を打つ。

  コメント欄の流れが一気に加速した。

  『うっわ、ガチのやつじゃん』

  『首輪似合いすぎだろ』

  『もっと鳴けよマゾ熊便器』

  もうだめだ。

  僕は震える手で自らの熱く硬くなったそこへと触れた。

  犬獣人は満足げに息を吐くとスラックスのジッパーをゆっくりと下ろした。

  現れた熱を帯びた雄の塊。

  それを師匠の目の前に突き出す。

  師匠はまるで極上の供物を与えられたかのようにそのイチモツに顔を寄せた。

  そして愛おしそうにその匂いを吸い込む。

  かなり強い獣の匂いがするのだろうか。

  師匠の大きな体がびくんびくんと小刻みに痙攣するのが画面越しに伝わってきた。

  その姿から目が離せない。

  僕は、配信画面の隅々まで舐めるように見つめていた。

  師匠の震える肩。

  恍惚に歪むマズルのライン。

  きつく締められた首輪の革の光沢。

  ひとしきり匂いを堪能すると師匠はゆっくりとその塊を自らの口に含んだ。

  犬獣人は変わらずリードを短く持ち師匠の頭の動きを制御している。

  まるでペットに芸を仕込むかのように。

  もう、無理、だ。

  理性の糸が、ぷつりと切れる音がした。

  僕は配信から目を離せないまま自らの熱の中心を強く握りしめた。

  脳裏で普段の師匠の姿と目の前の光景が激しく明滅する。

  僕の未熟さを優しく諭してくれたあの唇が、今は見ず知らずの雄の汚れた性器を貪っている。

  僕の進むべき道を力強く指し示してくれたあの大きな手が、今は自らの尻をいやらしくまさぐっている。

  その背徳的な対比が僕の理性を焼き切り、劣情を際限なく煽り立てた。

  もはや罪悪感など思考の彼方に消え去っていた。

  ただ目の前の光景に支配され、僕の意識は白く染まっていく。

  やがて師匠は奉仕をやめるとカメラの前に向き直り、自らの白い被毛に覆われた尻たぶを、両手で大きく広げてみせた。

  無防備に晒された、決して他人に見せるべきではない部分。

  その中心には、黒く濡れたディルドが、埋め込まれていた。

  『うおおおお!』

  『まじで俺ら市民の便器じゃん』

  『こいつどんだけスケベなの?www』

  視聴者たちの熱狂的なコメントが画面を埋め尽くす。

  師匠はとろけたような喘ぎ声を漏らしながら見せつけるようにゆっくりとそれを引き抜き始めた。

  ぬぷりという生々しい音と共に現れる黒い塊。

  僕はそれを食い入るように見つめていた。

  ああ、すごい。

  もっと、見たい。

  「うふふ♥では♥本日も♥奉仕を♥始めますね♥」

  喜悦に満ちた声でそう宣言すると師匠は今度は犬獣人に向かってその尻を突き出しおねだりをするように小さく腰を振り始めた。

  僕の手はもう止まらない。

  画面の中の師匠の腰の動きに合わせて僕の腰も勝手に揺れていた。

  犬獣人の硬いそれが師匠の中にゆっくりと飲み込まれていく。

  立ったままの後背位。

  師匠の口から今まで聞いたこともない甘くとろけきった喘ぎ声が漏れ出した。

  犬獣人は短く掴んだリードを再び強く引き師匠の姿勢を矯正する。

  配信画面に映る二つの体が交わる姿。

  師匠の甲高い喘ぎ声。

  そして生々しい水音。

  その全てが僕の五感を支配し思考を奪っていく。

  あぁっもう、だめだっイくイクイクイクっ……!

  僕は腹の底から突き上げてくる衝動に抗えず全てを吐き出した。

  僕の白い毛の腹の上に飛び散る熱い液体。

  感じたことのないほどの強烈な快感に全身が震えた。

  静まり返った部屋にスマホから流れる師匠の喘ぎ声だけが虚しく響き渡る。

  急速に冷静になっていく頭。自分の体から吐き出した精液が、汚らわしくて仕方がない。

  「僕……最低だ……」

  腹の底からせり上がってくる罪悪感を、外に吐き出すように、つぶやいた。

  [newpage]

  [chapter:第七章 侵食]

  スラックス越しに浮かび上がる兎獣人の豊かな臀部のライン。近くを歩く虎獣人の盛り上がった大腿筋。汗ばんだ首筋に張り付く熊獣人のカメラマンの硬そうな被毛。

  私の視線が、会場にいる雄の獣人たちの肉体を、飢えた獣のように貪っていた。その度に、腹の奥がじくりと鈍く熱を持つ。

  何を考えているんだ、私は。いや、これは、私が、考えて、いるのか?

  新しく開業する商業施設の中心に位置する巨大なアトリウム。ガラス張りの天井から降り注ぐ柔らかな光が磨き上げられた床を照らし、数えきれないほどの観葉植物の緑が目に優しい。

  その開放的な空間に仮設されたステージの上で、私は完璧な笑顔を貼り付け、ヒーロー「ベアードグレイシア」として、来賓の挨拶に耳を傾けていた。目の前にはマスコミや関係者、そして一般公募で選ばれた市民たちがパイプ椅子に整然と座っている。

  壇上では犬獣人の市長が人の良さそうな笑顔で挨拶を続けている。その言葉は私の右の耳から左の耳へと通り抜けていくだけだ。代わりに私の目は、市長のふくよかなお腹やスラックスの中の微かな膨らみをねっとりとした視線で追っていた。彼から漂ってくるであろう壮年獣人特有の獣の匂いを想像し勝手に昂ってしまう自分に気づきはっと息を呑む。

  しかし一度逸らしたはずの視線は、数分後にはまた別の雄の肉体に吸い寄せられていた。

  警備にあたる獅子の獣人警官。がっしりとした肩。制服の袖を押し上げるほどたくましい腕。自分でもわけがわからない。でも見てしまう。その繰り返しに言いようのない不気味さを感じながらも私の目はすぐに次の獲物を探していた。

  隣に立つ風間くんの存在そのものが、今は鋭い棘のように、私の良心を突き刺す。彼のヒーロースーツにぴったりと張り付いた、若くしなやかな肉体のラインが、意志に反して目に焼き付いて離れない。特にその股間の膨らみが、どうしようもなく、私の目を惹きつけてしまう。私はそのおぞましい衝動から逃れるように彼から意識的に距離を取った。

  「師匠……?」

  何か言いたそうにこちらを見る風間くんの真っ直ぐな視線。それがまるで私の醜い内面を見透かされているようで私は耐えられなかった。

  「……どうしましたか? 風間くん」

  私はいつもの完璧なヒーローの笑顔を顔に貼り付けこっそりと彼に尋ねた。

  「その……さっきからキョロキョロして、どうかしたんですか?」

  風間くんは恐る恐るといった様子で聞き返す。彼の白いサモエドの耳がぺたんと不安げに垂れているのが見えた。その健気な仕草に内心どきりとする。いけない。この感情の揺らぎを彼に悟られてはならない。

  「い、いえ……怪しい者がいないか、確認していただけ、ですよ」

  私は平静を装い会場のパイプ椅子の方に視線を向けた。しかしその視線はすぐに客席にいる雄の獣人の一人に吸い寄せられる。ねっとりとした熱を帯びた視線。自分でもどうしてこんな見方をしてしまうのかわからない。

  「こういう時こそ気を抜いてはいけません……からね」

  呟くように言う。うまく誤魔化せているだろうか。

  「そ、そうですね。さすがです……」

  風間くんは納得したのかしていないのか曖昧な返事をした。

  その時市長から声がかかる。

  「ベアードグレイシアさん一言お願いします」

  私は笑顔で頷き市長からマイクを受け取ろうと手を伸ばした。その瞬間市長のごつごつとした手が私の手に触れた。

  ゾクリと背筋に電流が走ったかのような感覚。あぁ、この手で。私を。

  思わず手が滑りマイクが床に転がった。ガンと鈍い音が会場に響き渡る。会場からくすくすと微かな笑いが漏れた。

  「こ、これは失礼」

  私は慌ててマイクを拾い上げ、完璧なヒーローの仮面を再び顔に貼り付け、祝辞を述べ始めた。口からは淀みなく耳障りの良い言葉が紡がれていく。だがその間も、私の瞳はもはや私のものではないように動く。それは会場という名の狩場で、次の獲物を品定めする飢えた獣の瞳そのものだった。

  あの逞しい肩。

  あの分厚い胸板。

  あの硬そうな尻。

  ああ。

  欲しい。

  今すぐ。

  アレが、欲しい。

  そのおぞましい願望に気づいた瞬間私の言葉がぴたりと止まった。一瞬頭が真っ白になる。だがここで止まるわけにはいかない。

  「し、失礼しました。この施設の素晴らしさに、見入ってしまいました」

  機転を利かせなんとか言葉を繋ぐ。祝辞を終え壇上の司会にマイクを返すとセレモニーは滞りなく進行していく。

  だが私の内面では嵐が吹き荒れていた。

  私は、私はいったいどうしてしまったんだ。

  ◇

  施設のオープニングセレモニーの翌日。

  私と風間くんは風間くんの母校であるヒーロースクールに職業体験会に講師として招かれていた。

  体育館にはヒーローを夢見る若者たちの熱気が満ちている。

  蒸し暑い空気。床のワックスの匂いと若い獣人たちの汗の匂いが混じり合い私の鼻腔をくすぐる。

  「では次にヴィランの制圧術の基本をお見せします。風間くん、前に」

  私がそう声をかけると風間くんは「はい!」と元気よく返事をし私の前に立った。

  生徒たちに手本を見せる。

  風間くんの腕を取り関節を極める技を指導するはずだった。

  しかしスーツ越しに伝わる彼の若々しい筋肉の感触と体温。ふわりと香る若い獣の匂い。

  その全てが引き金だった。

  脳裏に、薄暗い個室の光景がフラッシュバックする。

  知らない雄に組み敷かれ与えられる快感の記憶。

  私は、そんなこと、したことが、ないのに。

  私の動きが変わる。

  関節を極めるための合理的で無駄のない動きではない。

  相手の体のラインを確かめるようなねっとりとした愛撫に近い動き。

  風間くんの驚いたような表情。

  彼の体が強張るのがわかった。

  まずい。

  そう思った瞬間体勢が崩れ二人して床に倒れ込んだ。

  私が風間くんを押し倒したような体勢で。

  体育館が静まり返る。

  下になった風間くんは顔を真っ赤にして視線を逸らした。

  その無防備な姿に腹の底からおぞましい衝動が突き上げてくる。

  あぁ。シたい。ここで。今すぐ。

  私は彼の腕をぎゅっと強く握りしめた。

  風間くんと、シたい……♡

  「し、師匠?」

  風間くんの動揺した声で私ははっと我に返った。

  自分が何をしていたのかを理解し血の気が引く。

  聖域であるはずの教壇で私は一人の生徒をそして何より私のただ一人の弟子を性的な目で見てしまった。

  「……す、すみません」

  私は風間くんの腕を握ったまま立ち上がり彼を助け起こす。

  「い、今の体勢は、非常に危険です。ヴィランにこうされたらヒーローは一巻の終わりです。……お、覚えておくように」

  なんとかそう取り繕うと生徒たちから「おお……」と感心したような声が漏れた。

  もう限界だった。

  これ以上ここにいては私は私でなくなってしまう。

  私と風間くんの間には気まずい沈黙が流れていた。

  ヒーロースクールでの体験会を終えた後、変身を解除した私は「急用ができた」とだけ告げ、風間くんの視線を振り切って、一人、早足でその場を去った。

  夕暮れの喧騒。家路を急ぐ人々の流れに逆らうように、私の足は、意志とは無関係に、駅へ向かう道中で見つけた古びた公衆便所へと向かっていた。鼻をつくカビと消毒液の混じった匂い。その不快なはずの匂いが、なぜか今の私をひどく安心させた。

  一番奥の個室に入り、錆びたドアに鍵をかける。ガチャン、という冷たい金属音が、私の理性の最後の砦が閉ざされる合図のように響いた。

  やめろ。私はヒーローだ。こんなことは間違っている。何を、考えているんだ。

  頭の片隅で、か細い声が響く。だが、それをかき消すように、腹の底から突き上げてくる熱い衝動が、私の思考を支配していく。

  これは、調査だ。このおぞましい衝動の正体を突き止めなければならない。一度だけ。今回だけだ。

  意味不明な言い訳を脳内で繰り返し、私は、震える手でスラックスのジッパーに手をかけた。下着の中からそそり立つ小さなソレを外気に晒す。

  衝動のままに自らの熱を帯びたソレを扱き始める。

  硬い壁に背中を預け、ただただ腰を動かした。

  なんだ、これは。

  脳裏にざらついた砂嵐のような映像が浮かぶ。

  誰かの低い笑い声。革が擦れるきしんだ音。知らない獣のむっとするような匂い。尻に感じる鈍い圧迫感。

  自分のものではない感覚の断片が脳をかき乱す。

  その不気味さに私は思わず手を止めた。

  荒い息だけが狭い個室に響く。

  だが手を止めたにも関わらず身体の奥底からあの偽りの記憶がもたらした快感の残滓がじわりと蘇ってくる。

  その正体を知りたい。

  その倒錯した好奇心に駆られ私はまるで他人の身体を操るかのように恐る恐る行為を再開した。

  すると先ほどの感覚の断片が徐々に形を結び始める。

  薄暗い個室。黒光りする首輪。見知らぬ犬獣人のごつごつとした手。

  行為が激しくなるにつれ映像はますます鮮明になっていく。

  ふと自身のそれに目をやる。

  私の腹の肉に埋もれるように小さく情けなくそそり立つ塊。

  そのみすぼらしい姿を見た瞬間、脳裏で誰かの声が響いた。

  『ちっさ。それで雄のつもりかよ』

  侮蔑に満ちた低い声。

  その声と同時に背筋を駆け上る甘い痺れ。

  そうだ。私はこの声にこの侮蔑に興奮していた。

  恐怖と快感が同期し、もはや私の理性は快感だけを求めるようになっていた。

  犬獣人のざらついた舌が首筋を舐め上げる感触。

  リードを強く引かれ喉が圧迫される苦しさと興奮。

  背後から無慈悲に突き上げられる衝撃。

  侮蔑の言葉を浴びせられながら感じてしまう脳がとろけるような背徳的な快感。

  「あぁ♡ぁッ……♡」

  もはや抵抗する術はなかった。

  私は自ら積極的にその偽りの記憶を再生しその快感に溺れていく。

  背徳の味はあまりにも甘美だった。

  身体の芯が痺れるような、今まで感じたことのない種類の快感が全身を駆け巡る。

  思考が溶け落ちていく。

  やがて強烈な痺れと共に熱い飛沫が薄汚れた個室の壁に飛び散った。

  公共物を汚す。ヒーローとしてあるまじき行為。

  少しだけ冷静になった頭が罪悪感を訴える。

  私はトイレットペーパーを乱暴に引きちぎりべっとりと壁に付着したそれを拭った。

  ツンと鼻をつく濃厚な雄の匂い。

  なぜか私はその匂いを確かめるように拭き取ったペーパーを自らの鼻先に近づけていた。

  どうして。

  だがその疑問も束の間、再び脳が欲望に塗りつぶされていく。

  拭き取ったペーパーを便器に流しジッパーを上げようとした、その時。

  足りない。

  焦燥感が全身を駆け巡る。

  もっと。

  そして私は気づいてしまった。

  疼いているのは性器だけではない。

  尻の奥が熱く脈打っていることに。

  ◇

  どうやって帰ってきたのか、記憶は曖昧だった。

  気づけば私は、見慣れた自宅マンションのリビングに、呆然と立ち尽くしている。

  「ただいま……」

  誰に言うでもなく虚ろに呟く。

  返事があるはずもない静まり返った部屋。

  明かりを点けると、床にはコンビニの袋や脱ぎ捨てた衣類が散乱し足の踏み場もない。

  しかしそんな散らかった部屋への罪悪感も、尻の奥で疼く熱い疼きにかき消されていく。

  私の足は吸い寄せられるように、リビングの隅にある背の低い戸棚へと向かった。

  床に散らばるゴミを乱雑に踏みつけ、足で避けながら、ただまっすぐに。

  なぜそこに向かうのか。

  自分でもわからない。

  でもそこにある「何か」が、私を呼んでいる。

  抗えない強い力で。

  震える手で戸棚の扉を開ける。

  そこにあったのは見慣れない黒い塊。

  大小様々な艶かしい曲線を描くディルドと、ぬめりのある液体が入ったローションのボトル。

  それらはまるで、最初からそこにあったかのように静かに鎮座していた。

  な、なぜ、こんなものが、私の部屋に……。

  一瞬恐怖が全身を駆け巡る。

  しかし尻の奥で熱く脈打つ疼きは、もはやそんな理性的な思考を許してはくれなかった。

  衝動のままに私はスーツの上着を脱ぎ捨てる余裕もなく、スラックスとその下の白ブリーフを乱暴に引きずり下ろした。

  ローションのボトルを掴み、そのぬめりのある液体を自らの指にそして疼きの中心にたっぷりと塗りたくる。

  私はベッドにうつ伏せになり、自らの尻を高く持ち上げた。

  なんで、やり方を、知っている……?

  頭の片隅で最後の理性が悲鳴を上げる。

  だがその声も指が自らの熱いひだに触れた瞬間、霧のようにかき消されていった。

  「んんっ……♡ぁ……♡」

  脳がとろける。

  全身の力が抜け、ベッドに顔を埋めた。

  指が吸い付くように受け入れられていく。

  一本目の指が入る。きつい。だが、それ以上の快感が背筋を駆け上った。

  今まで感じたことのない背徳的な甘い快感が、身体の芯をじくじくと焼いていく。

  私はその未知の快感に身を委ね、ただ夢中で指を動かし続けた。

  口から漏れるのは自分のものではないような、甘く湿った喘ぎ声。

  「あ、ぁ♡……これ♡だ……♡」

  そうだ。

  これだ。私が求めていたのはこの感覚。この汚されていく快感。

  もっと。もっと欲しい。

  私は、躊躇なく二本目の指をそこに突き立てた。

  肉が引き裂かれるような痛み。しかし、その痛みすらもが、脳を痺れさせる快感の一部に変わっていく。

  三本目の指をねじ込む頃には、もはや痛みは感じなかった。

  三本の指が私の内側を自由にかき回す。

  ぬめりのある動きの一つ一つが、脳髄に直接響くような甘い快感となって全身を駆け巡る。

  もうどれくらいの時間そうしていたのだろうか。

  もはや思考は快感の熱に溶かされ、ただ本能のままに指を動かし続けていた。

  しかしやがてその快感にも慣れが生じる。

  もっと。

  指だけじゃ、足りない。

  腹の底から突き上げてくる、飢餓感にも似た渇望。

  私は衝動に突き動かされるようにゆっくりと指を引き抜いた。

  震える手で戸棚から取り出したのは、一番太く黒々としたディルド。

  それを床に力強く突き立てる。

  ほぐれた尻にそれを当てがい、自らの体重を預けるように、ゆっくりと尻穴に挿入していく。

  「ぁっ♡あぁぁぁあああッ♡♡♡♡」

  指とは比べ物にならない太く硬い異物。

  それが私の内側をこじ開けるように侵入してくる。

  肉が引き裂かれるような圧迫感。

  しかしその痛みはすぐに脳天を突き抜けるような快感に変わった。

  私は両手を床につき、ただ夢中で腰を上下に動かし始めた。

  部屋に響くのは生々しい水音と自分の狂ったような喘ぎ声だけ。

  なぜ、こんなものが私の部屋に。

  ぐ、とディルドが奥を突く。

  「ぁぁっあぁっ♡♡♡」

  すぐに疑問が掻き消える。

  なぜ、私はこんな背徳的な行為に耽っているのか。

  さらに深く突き上げられる。

  「んんっっ♡♡♡きもち♡♡っぃぃっ♡♡♡♡」

  そんなの、気持ちいいからに決まってる♡

  なぜ、私はお尻の穴で快感を得られているのか。

  ごりっ、と一番奥の壁を抉られる。

  「ひぐっぅ…♡♡♡♡も、っと♡♡♡おくぅぅっ♡♡♡♡」

  決まってる♡私が日頃から♡お尻を使っているからだ♡

  なぜ、私は乳首で感じているんだ。

  ぐ、ぐ、と突き上げられるたびに疑問は霧散する。

  「あぁっあぁぁああぁ♡、ちく♡びぃ♡ちくび♡気持ちいいぃぃぃい♡♡♡♡♡」

  背徳の快感だけが私の全てを支配していく。

  どれほどの時間そうしていただろうか。

  もはや理性は完全に麻痺し、ただ本能のままに快感を貪っていた。

  突き上げられるたびに、脳裏に知らない犬獣人の顔が浮かぶ。

  侮蔑の言葉が響く。

  それが、たまらなく、気持ちいい。

  私はもっとと、ねだるように腰を激しく振り続けた。

  身体の奥が熱く震え始める。

  今まで感じたことのない強烈な絶頂の予感。

  これが雄としてではなく「雌」としての快感なのだと本能が理解する。

  その瞬間テーブルの上に置かれたスマホが甲高い通知音を鳴らした。

  「ひゃっ……!」

  私はびくりと体を震わせ、動きを止める。

  なぜかすぐに見なければという、強迫観念にも似た意識に駆られた。

  私はゆっくりと、ディルドの上から立ち上がる。

  ぶじゅ、と水っぽい屁のような音が尻の穴から漏れた。

  快感の余韻でふらつく足取りで、テーブルへと向かう。

  この通知音。

  この音が鳴ったら、私は、メッセージを見なければいけない。

  そう、教えられたはずだ。

  誰に?

  わからない。

  でもとにかく、見るんだ。

  震える手でスマホを手に取り、画面を開く。

  通知欄に表示された一件のメッセージ。

  それをタップする。

  画面に冷たい黒い文字が、浮かび上がった。

  「穴になれ。そして満たせ」

  [newpage]

  [chapter:第八章 コンフロント]

  体育館に満ちる熱気が肌を焼く。若い獣人たちの汗の匂いが鼻をつき、思考が鈍っていく気がする。遠くで響く校長の締めの言葉は、もはや僕の耳には届いていなかった。

  意識は、隣に立つ師匠の、ヒーロースーツに覆われたその肩に注がれていた。微かな震えが見える。この前のセレモニーの時と同じだ。師匠の瞳が、獲物を物色する肉食獣のように、会場の雄たちの上をいやらしく滑っていく。

  そして、さっきのデモンストレーション。

  僕の腕を掴んだ師匠の手は、指導者のそれとは全く違っていた。スーツの生地越しに伝わる、ねっとりとした熱。確かめるように僕の筋肉のラインをなぞる指の感触に、心臓が大きく跳ねた。

  もつれ、床に倒れ込む。

  見下ろしてきた師匠の瞳の奥に、剥き出しの熱が燃え盛っていた。

  夜ごと、僕の意識の奥底で繰り返される妄想。大好きな人に組み敷かれるという光景。それが今、目の前にあった。

  でもその瞳には、僕の知る師匠の優しさの欠片もなかった。空っぽの、獣の欲望だけが、そこにあった。

  ぞくりと背筋を駆け上る、氷の棘のような悪寒。それに相反するように、顔だけが、じわりと熱を持つ。呼吸の仕方も忘れて、僕はただ、その燃え盛る視線から逃れるように、目を逸らすことしかできなかった。

  「……では、今日の体験会はこれで終了です。皆さん、お疲れ様でした」

  変身を解いた光の粒子が霧散し、貼り付けたような笑顔の師匠が現れる。

  「師匠、お疲れ様でした。この後……」

  「すみません、風間くん。急用が……できてしまいましたので、私は、その、これで」

  また、急用だ。

  その言葉が引き金になり、脳裏にあの夜の記憶が焼き付いたように蘇る。

  狂った配信。侮蔑の言葉。そして、その背徳的な光景に、汚らわしい熱を覚えてしまった自分。

  胃の腑から、冷たいものがせり上がってくる。

  師匠が壊れてしまったのは、僕のせいだ。あの夜、あの醜い光景に、汚らわしい熱を覚えてしまった、僕のせいだ。

  「師匠!」

  呼び止める声も虚しく、師匠の背中は人混みの中へと消えていく。

  追いかけなきゃ。

  今度こそ、僕が助けなきゃ。

  罪悪感が、鉛のように重い足を前に進ませる。

  僕は、物陰に身を隠しながら、ただ必死に、その大きな背中を追いかけた。

  ◇

  夕暮れの喧騒を背に、師匠の足は人通りの少ない路地へと向かう。

  その先にあったのは、壁のタイルが所々剥がれ落ちた、古びた公衆便所だった。

  まさか。

  そんなはずはない。

  ただ、用を足したいだけのはずだ。

  そう自分に言い聞かせながらも、僕の足はその場に縫い付けられたように動かなかった。

  心臓が嫌な音を立てて脈打つ。

  一分が、永遠のように長く感じられる。

  師匠が出てくる気配はない。

  夕闇が迫り、公園の木々を黒い影に変えていく。

  肌寒い風が吹き、鼻をつくカビと消毒液の混じった匂いが、僕の不安を煽った。

  あまりにも、遅い。

  ただ用を足すだけにしては、時間がかかりすぎている。

  まさか、中で倒れているんじゃ……。

  最悪の可能性が頭をよぎり、僕は意を決して、錆びた鉄のドアに手をかけた。

  ギイ、と耳障りな音を立ててドアが開く。

  ひやりとした空気が、僕の首筋を撫でた。

  薄暗い便所の中は、静まり返っている。

  一番奥の個室のドアだけが、固く閉ざされていた。

  僕は息を殺し、そのドアに、そっと耳を寄せる。

  聞こえてきたのは、衣類が擦れる、微かな音。

  そして。

  「……ん、ぅ……♡」

  押し殺したような、吐息。

  苦痛とも快感ともつかない、湿った声。

  その声を聞いた瞬間、ドアの向こう側の光景が、鮮明に脳裏に浮かんでしまった。

  スーツを乱し、苦悶の表情で、自らの熱を握りしめている、師匠の姿。

  「っ……!」

  全身が、カッと熱くなる。

  何を考えているんだ、僕は。

  慌てて頭を振って邪な想像を振り払おうとするが、耳から入ってくる声がそれを許さない。

  「……は、ぁ……っく……ぁ……♡」

  声は止まるどころか、徐々に熱を帯びていく。

  その生々しい響きに、僕は、ごくりと喉を鳴らした。

  下腹部の奥が、じくりと疼く。

  「っぁっ……ぁっ♡ぁっ……♡ぁッ♡」

  やがて、ひときわ甲高い抑えきれない喘ぎ声が聞こえた。

  直後、何かが壁に叩きつけられるような鈍い音。

  そして全てを吐き出しきったかのような、長い長い吐息。

  その音の連なりが何を意味するのか、僕には、もう、痛いほどわかってしまった。

  個室の中から、水を流す音が聞こえる。

  僕ははっと我に返り、足音を殺して便所の外へと滑り出る。冷たい壁に背を預け、早鐘を打つ心臓を片手で押さえながら、息を殺した。

  僅かな間の後、ギイ、と錆びたドアが開く。

  現れた師匠の顔からは、全ての感情が抜け落ちていた。その足取りはどこかおぼつかなく、まるで操り人形のように駅へと向かっていく。僕は、彼のスーツの背中に刻まれた深い皺から、目を離すことができなかった。

  ガタン、と重い音を立てて電車が動き出す。

  僕は連結部分の揺れに身を任せながら、数メートル先の座席に座る師匠の横顔を盗み見た。

  膝の上に置かれたビジネスリュックを抱えるようにして、彼は窓の外の夜景に目をやっている。しかし、その瞳は何も映してはいない。

  次の駅で、師匠の目の前に仕事帰りらしい狼獣人のサラリーマンが立った。

  その瞬間、師匠の虚ろだった瞳にぬらりとした光が宿るのがわかる。

  その視線は僕と一緒にいた時よりもずっとあからさまだった。何の躊躇もなく、真っ直ぐに狼獣人のスラックスの膨らみに注がれている。

  師匠の体がもぞりと、わずかに動いた。膝の上のリュックをさらに強く抱きしめるように。

  その仕草がまるで何かを必死に隠しているように見えて、僕は目を逸らした。

  見たくない。

  僕の知らない、師匠の姿。

  いつからだ?

  僕の知る師匠は、もっと……。

  喉の奥が、きゅっと締め付けられる。

  思考の糸を辿ろうとしても、ざらついた砂嵐のような映像がそれを遮る。あの配信の、背徳的な光景。それを見て、汚らわしい熱を覚えてしまった自分の記憶。

  胃の腑が冷たくなる。

  二ヶ月前の急に申請された休暇。師匠は弔事だと言っていたけど……。

  あれが、始まりだったのだろうか。

  わからない。もっと前から、僕が気づかなかっただけなのかもしれない。

  いくつもの仮説が、脳裏で明滅しては消えていく。まるで、壊れた信号機のように。

  情報が圧倒的に足りない。

  ただ、あの強く気高かったはずの背中が、今はひどく小さく見えることだけが、確かな現実だった。

  『まもなく、〇〇駅、〇〇駅。お出口は、右側です』

  無機質なアナウンスが、僕を思考の海から引きずり出す。

  この駅名は……。

  ドアが開く音。師匠は、何かに引かれるように立ち上がり、ホームへと吸い込まれていく。僕も、弾かれたようにその後を追った。

  改札を抜け、夜の闇に沈む住宅街を、師匠は慣れた足取りで進んでいく。

  きっと自宅へ向かっている。

  その事実に、わずかな安堵を覚えた。

  しかし、その安堵はすぐに別の疑問に塗りつぶされる。

  あの部屋で師匠は一体、何をしているのだろうか。

  鉛のように重い足を引きずりながら、僕はただその背中を見つめ続けることしかできなかった。

  師匠の自宅は駅からほど近いごく普通のマンションだった。

  慣れた手つきで鍵を開けオートロックの向こう側へと消えていく師匠の背中を、僕はただ呆然と見送ることしかできなかった。

  重いガラスのドアが僕と師匠の世界を無慈悲に隔てる。

  あの部屋の中で一体何が行われているのだろうか。

  僕は踵を返しその場を去るふりをして、マンションの向かいにある小さな公園に滑り込んだ。昼間の熱気をまだ残したアスファルトと、むせ返るような青草の匂い。遠くで聞こえる蝉の声がやけに耳につく。

  公園の隅にあるベンチに腰を下ろす。街灯の光が届かないこの場所なら、僕の姿に気づく者はいないだろう。ここからなら、マンションのエントランスが辛うじて見える。

  スマートフォンを握りしめ師匠の部屋の窓を見上げた。オレンジ色の温かい光が闇の中にぽつんと浮かんでいる。

  あの光の下で彼は今何を思っているのだろう。

  一時間が過ぎた。

  マンションからの入り口は人の出入りはあるが、師匠ではない。師匠の部屋の窓の明かりにも変化はない。

  僕は一体何をしているのだろう。

  ただここで待っているだけで本当に意味があるのか。

  もしかしたら、今日の師匠の様子は、ただ疲れていただけなのかもしれない。僕の盛大な勘違いで、彼は今頃、部屋で静かに休んでいるだけなのではないか。

  だとしたら、この時間はあまりにも無駄だ。

  もっと有効な手立てがあるはずだ。

  例えばヒーロー司令部に行けば。

  ヒーローの権限を使えば、師匠の過去の行動記録や任務中のGPSデータは閲覧できる。

  いや、でもそれはあくまで「公」の記録だ。プライベートな時間にまで踏み込むには、厳格な申請と承認が必要になる。そんな悠長なことをしている場合じゃない。

  今日の師匠の様子は明らかに異常だ。

  あれは決壊寸前のダム。僕にはそう見える。今日このまま何事もなく終わるとは到底思えない。

  必ず、動くはずだ。

  震える手で「白熊便器」のSNSアカウントを開く。過去の配信アーカイブのタイムスタンプを血眼で追った。

  開始時間は夜。バラつきはあるが全て日付が変わる前に始まっている。配信時間は長くても二時間。

  今、午後八時二十分。

  タイムリミットは零時。

  やはり、ここで待つしかない。

  師匠が出てくるその瞬間を捉える。

  そして尾行する。

  配信が始まったらその瞬間にこの手で終わらせる。

  湿った生暖かい風が僕の頬を撫でていく。

  僕は目を閉じた。

  脳裏に師匠の苦しげな喘ぎ声とそれに呼応してしまった自分自身の汚らわしい熱が蘇る。

  吐き気がした。

  どうかあの部屋の光が消えませんように。

  どうか師匠が外に出てきませんように。

  それからさらに一時間が過ぎた。

  時計の針は、午後九時半を指している。

  マンションのエントランスを眺め続けていた僕の首は、とっくに限界を迎えていた。

  ベンチに深く座り直し、空を仰ぐ。じっとりとした夜の空気が、肌にまとわりつく。

  もう、なにもないのかもしれない。

  今日の師匠の様子は、ただ疲れていただけ。僕の盛大な勘違い。

  彼は今頃、部屋の電気を消して、静かに眠りについているのかもしれない。

  そうであってくれ、と願う気持ちと、ここで諦めていいのか、という焦りが、胸の中でせめぎ合う。

  その、瞬間だった。

  僕がずっと見つめていた、あのオレンジ色の窓が、ふっと消えた。

  心臓が、どきりと音を立てる。

  まさか。

  いや違う。きっと寝室の電気を消しただけだ。お風呂にでも入るのかもしれない。考えすぎだ。

  僕は自分にそう言い聞かせ、逸る気持ちを必死に抑え込んだ。

  しばらくすれば、またどこかの部屋の明かりがつくはずだ。そうだ、そうに違いない。

  しかし数分が経過してもマンションのどの窓にも、新たな光は灯らない。

  代わりに、僕の視線の先、エントランスの自動ドアが開いた。

  現れた人影に、僕は息を呑んだ。

  上下を黒のスウェットで固めた白熊獣人。深く被ったフードで、その顔はほとんど見えない。

  でもその恰幅のいい、紛れもない白熊獣人のシルエットは、暗闇の中でもはっきりと分かった。

  背中には電車の中で抱えていたあの黒いビジネスリュック。その重みが、彼の歩みをわずかに、鈍らせているような気がする。

  師匠は一度だけ僕が隠れている公園の方に、ちらりと視線を向けた。

  心臓が凍りつく。

  だが彼の視線は僕を捉えることなくすぐに正面へと戻る。

  まるで何かに導かれるようにゆっくりと夜の闇の中を歩き始めた。

  間違いない。

  あれは、師匠だ。

  そしてあの足取り、あのリュックはただの夜の散歩などではない。

  明確な目的を持っている。

  僕は息を殺し慎重に距離を取りながらその黒い影の後を追った。

  街灯の光と影を縫うように、一定の距離を保ちながら。

  十五分ほど歩いたろうか。

  師匠の足が一つの公園の前で止まった。

  師匠は公園の中には入らず、その片隅にある古びた多目的トイレへと吸い込まれていく。

  バタンと軽い音を立てて、ドアが閉まる。

  やっぱり、そうなんだ。

  僕の淡い期待は、冷たい現実の前に粉々に打ち砕かれた。

  僕は公園の入り口の物陰に身を潜め、震える拳を握りしめた。

  どうする? 今行くか?

  いや今行ってもダメだ。師匠はまだ何もしてない。でも師匠のあられもない姿が今また世間に晒されようとしてるはずだ。待ってなんていられない。いや落ち着け。まだだ。決定的な瞬間を抑えて止めないと。

  ヒーローとして、コヨーテフロスティアとして、変身して踏み込むか?

  ……最悪の選択だ。

  配信が始まってしまえば、僕の姿が映り込む。

  「ベアードグレイシアの弟子が、なぜここに?」

  視聴者は瞬時に白熊便器とベアードグレイシアを結びつけてしまうだろう。

  僕が師匠を救うどころか、その手で、彼の社会的生命にとどめを刺すことになる。

  ならば、どうすればいい。

  思考が、堂々巡りを繰り返す。

  僕は震える親指でスマートフォンの画面をなぞり、「白熊便器」のSNSアカウントを開いた。

  タイムラインの最上段には、忌まわしい配信のアーカイブが固定されている。

  僕は祈るような気持ちで、画面を何度も何度も下にスワイプした。

  更新するな。

  動くな。

  このまま、何事も起こらないでくれ。

  だが、その祈りは、あまりにも無力だった。

  画面の最上段に、新しい投稿が表示される。

  心臓が、鷲掴みにされたように痛んだ。

  『今夜も市民の皆様へのご奉仕を始めますね♡』

  そのテキストと共に、ライブ配信が開始されたことを示す毒々しい赤色の「LIVE」のマークが、僕の希望を嘲笑うかのように、点滅していた。

  僕は、自分の格好を見た。

  汗ばんだワイシャツに、スラックス。

  暑くて脱いだジャケットは、リュックの中に無造作に突っ込んである。

  これだ。

  僕は、バッグからジャケットを取り出した。

  ヒーローとしてではない。

  コヨーテフロスティアとしてでもない。

  ただの、「白熊便器を使いたい名もなき市民」として、中に入る。

  顔はこのジャケットで隠せばいい。声は出さない。

  配信が始まった今なら、僕はその「客」の一人として、招き入れられるはずだ。

  そして、油断したその瞬間に配信用のスマートフォンの電源を、この手で切る。

  それが師匠の名誉を傷つけず、この狂った儀式を終わらせる方法だ。

  ジャケットを深く被り、多目的トイレのドアの前に立つ。

  心臓が肋骨を内側から叩いている。

  ごくりと乾いた喉が鳴った。

  覚悟を決め僕は冷たいドアを儀式のように三度ノックした。

  静かな公園に乾いた音が響く。

  中から一瞬衣擦れのような驚いた気配がした。

  やがて僕が何度も夢にまで見たあの声が聞こえる。

  しかしそれは僕の知る師匠の声ではなかった。

  「……どうぞ♡」

  蜜のように甘い媚びる声。

  その声が僕の鼓膜を心を直接焼いた。

  胃の腑から酸っぱいものがせり上がってくる。

  足が鉛のように重い。

  ドアの取手に手をかける。

  カチャリと無機質な音が響きゆっくりと扉を横に開けた。

  目に飛び込んできたのは無機質な白い照明に照らし出された狭い空間。

  消毒液と芳香剤の甘ったるい匂い。

  そしてその二つが混じり合った吐き気を催すような奇妙な悪臭。

  壁には吸盤で固定されたスマートフォンが赤いランプを点滅させながらこちらを睨んでいる。

  その下に僕の師匠がいた。

  純白の毛皮に覆われた白熊獣人の肉体。その頭には顔全体を覆い隠すように全頭マスクが被せられてる。マズルの部分だけが露出している。

  首から下は、首から下は胸、腹、股間を強調するような、配信でも見たあの背徳的な衣装。

  筋肉質でありながら、たっぷりと脂肪を蓄えた、恰幅のいい身体。

  僕が今まで直接見たことのなかった、憧れの師匠の裸。

  そのあまりに無防備な姿に、僕の視線は釘付けになった。

  ごくりと喉が鳴る。

  違う。

  何を考えているんだ、僕は。

  嫌悪感で今すぐこの場から逃げ出したかった。

  なのにその倒錯的な師匠の姿に僕の体の奥が疼いてしまう。

  最低だ。僕は本当に最低だ。

  彼は便座に浅く腰掛けたままこちらにゆっくりと手招きをした。

  マスクで表情は見えないが瞳が爛々と輝いているように見える。

  「どうぞこちらへ♡」

  「すぐにいらっしゃって驚きました♡」

  「……相当溜まってるんですか?」

  ねっとりとした甘い声が僕の全身を舐めるように這い上がってくる。

  落ち着け。

  僕がここに来た目的を思い出すんだ。

  この狂った儀式を終わらせるために。

  僕は一歩また一歩とゆっくりと師匠に近づいた。

  師匠の期待に満ちた眼差しが僕のジャケットの下の顔を探るように見つめている。

  あと三歩。

  あと二歩。

  スマートフォンの赤いランプが僕の網膜に焼き付く。

  あと一歩。

  その距離まで近づいた時、師匠が便座からゆっくりと立ち上がった。

  そして僕の目の前で跪く。

  熱っぽい吐息が、僕のスラックス越しの股間に直接かかった。

  「見たところ、お若いですね♡」

  普段の師匠とは違う、甘く蕩けたような声が僕の腹の底に響く。

  背筋にぞくりと歓喜とも嫌悪ともつかない奇妙な震えが走った。

  「お若い方の、精力的なおちんぽ♡私、だぁいすきです♡」

  師匠の顔が僕の股間にゆっくりと埋められていく。

  スラックスの生地一枚を隔てて、師匠の熱い吐息とマスクのざらついた感触が直接伝わってきた。

  頭が真っ白になる。

  違う。

  落ち着け。

  僕がここに来た目的を思い出すんだ。

  この狂った儀式を、終わらせるために。

  僕は震える腕を、ゆっくりと壁のスマートフォンに向かって伸ばした。

  師匠はそんな僕の葛藤に気づく様子もなく恍惚とした様子で僕の股間の匂いを、深く深く吸い込んでいる。

  「ぁぁっ♡……働いてきた、オスのニオイがします♡」

  「たまらない、です♡」

  その声に僕の股間のソレが裏切り者のようにじわりと熱を帯びていくのが分かった。

  師匠はその微かな変化を感じ取ったのかさらに深く僕の匂いを堪能しようとする。

  まずい。

  これ以上は理性がもたない。

  僕は最後の力を振り絞り壁に手を伸ばした。

  指先がスマートフォンの冷たい筐体に触れる。

  そのまま電源ボタンを強く強く長押しした。

  赤いランプが点滅しやがてふっとその光が消えた。

  配信が、終わった。

  「ください♡」

  マズルから漏れる蕩けた声。僕の股間に顔を埋めていた師匠がゆっくりと顔を上げる。マスクの奥に隠された表情が僕の顔を探るようにじっと見つめてくるような感じがする。

  僕はもう限界だった。頭に被っていたジャケットを勢いよく引き剥がした。

  「……え?」

  師匠の動きがぴたりと止まる。マスクの奥の表情が信じられないものを見たかのように大きく大きく見開かれたような気がする。彼の口からかつての僕のよく知る穏やかな声がか細く漏れた。

  「……かざま、くん……?」

  どうして。なぜ君がここに。声にならない声がその震える唇から、はっきりと読み取れた。

  僕は声が出なかった。ただその場に立ち尽くすことしかできない。師匠の裸を見てしまった羞恥と、その醜態を見てしまった絶望で、頭がぐちゃぐちゃだった。

  「……ずっと、後を、尾けてました」

  かろうじて、それだけを絞り出す。震える指で壁のスマートフォンを指差した。

  「配信も……今、僕が、止めました」

  言った瞬間、僕は、師匠の顔を見ていられなくなった。

  恥ずかしくて、気まずくて、たまらなかった。

  僕はとっさに視線を逸らし、床の汚れたタイルの一点を見つめた。

  沈黙が、落ちる。

  消毒液のツンとした匂い。

  芳香剤の、吐き気を催すような甘ったるい香り。

  師匠から発せられる、汗と興奮と獣の匂いが混じり合った濃厚な体臭。

  それら全てがこの狭い空間に充満し、僕の肺を、思考を侵食していく。

  耳の奥で自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。

  一秒が、一分のように、長い。

  僕は耐え切れずに、その沈黙を埋めようと口を開いた。

  視線は床のタイルに縫い付けられたままだ。

  「あの……師匠の様子が、最近、ずっとおかしくて……」

  「どうかしたのかなって……心配で……」

  言い訳がましい言葉が自分の口から次々と滑り出ていく。

  師匠からの反応はない。

  また痛いほどの沈黙が僕たちの間に横たわる。

  僕は慌てて言葉を継いだ。

  「師匠、ひとまず……その、着替えて、ください」

  ちらり、と恐る恐る師匠の方を見る。

  彼は僕が顔を上げたことにも気づかず、ただうなだれるように跪いたまま俯いている。

  その姿に僕はたまらず言葉を続けた。

  「その格好……目のやり場に、困ります……」

  また沈黙。

  師匠の無反応が、僕の胸を締め付ける。

  まずかった、かな。

  誰にも見られたくない一番深い部分を、僕は土足で踏み荒らしてしまったのかもしれない。

  いやでも配信していたんだ。見られたかったんじゃないのか?

  違う。そうじゃないだろ。

  無神経だった。師匠の秘密をこんな形で暴こうなんて。

  いやでもこうでもしないと、師匠はきっと止まらなかった。

  してしまった後悔と、せざるを得なかった理由が、頭の中でぐるぐると回り続ける。

  僕が自分の思考の渦に囚われていたその時だった。

  「……で……ね」

  ふと師匠が俯いたままボソリと呟いた。

  あまりに小さな声で、聞き取れない。

  「……師匠?」

  僕が聞き返したその瞬間。

  師匠はゆっくりと顔を上げた。

  マスクの奥から再び、あの甘ったるい白熊便器の声が聞こえた。

  でもその声色にはもう、先程までの媚びるような響きはどこにもなかった。

  「……悪い子、ですね」

  ぞくりと、心臓が直接氷水に浸されたように冷える。

  「私の、大事な、大事な時間を……邪魔するなんて」

  その声は静かだった。

  静かだからこそ、その奥に潜む何か得体の知れない感情の圧力が、はっきりと伝わってくる。

  「……おしおきが、必要です」

  その言葉と同時に、師匠の体から、凄まじい冷気が爆発するように溢れ出した。

  パキッ、と乾いた音が響く。

  師匠が跪いていた床のタイルが瞬く間に白い霜に覆われ、そこから氷の結晶がまるで生き物のように四方八方へと広がっていく。

  壁を伝い、天井を覆い、手洗い場を飲み込み、便座を凍てつかせる。

  消毒液と芳香剤の悪臭は絶対零度の冷気に掻き消され、ただ肌を刺すような死の匂いだけがこの狭い空間を満たしていく。

  「し、師匠……!?」

  僕はそのあまりの光景に思わず後ずさり、背中がドアにぶつかった。

  師匠はゆっくりと立ち上がる。

  その動きに合わせて床に張り付いた氷が、鈍い軋みをあげた。

  「躾が、必要です。悪いことをした子には……」

  全頭マスク越しにその瞳がまっすぐに僕を射抜く。

  感情は読み取れない。

  でも、僕が知るいつも穏やかで優しかった師匠の面影はそこにはない。

  全身の毛が恐怖に総毛立つ。

  トイレの中は既に極寒の世界へと変貌していた。

  僕の吐く息は瞬時に白い煙となり、白い被毛もその毛先からキラキラと凍り始めている。

  まずい、このままでは僕自身が凍らされる。

  「ごめんなさい、師匠!  能力を、止めてください!」

  僕の悲痛な叫びは厚い氷に覆われた壁に虚しく吸い込まれていった。

  本能的な危険を感じ僕は震える手で背後のドアノブに手をかけた。

  ドアを開け外に転がり出ようとしたその瞬間。

  背後から地獄の底から響くような低い声が聞こえた。

  「――チェンジ。ベアードグレイシア」

  師匠の体を眩い光が包む。

  それと同時にトイレ内の冷気が爆発したかのように凄まじい勢いで溢れ出した。

  僕はその暴力的な冷気の奔流に押し出されるようにかろうじてトイレから脱出する。

  次の瞬間。

  重く低い地響きと共に僕が今出てきたばかりのトイレの入り口が瞬時に巨大な氷の塊で完全に塞がれてしまった。

  氷の隙間からは未だに白い冷気が、霧のように漏れ出している。

  僕はそのあまりに現実離れした光景を前にただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

  変身、していた。

  師匠が。

  なぜ。何のために。

  ただ僕のしたことを叱るためだけに、師匠は、ヒーローの力を使ったのか。

  わからない。

  でもその変身が、師匠の底知れない怒りを僕に突きつけているように感じる。

  僕は凍てついた多目的トイレの残骸をただ呆然と見つめていた。

  嘘だ。何かの間違いだ。

  僕の知っている師匠はあんな、あんな……。

  その時だった。

  ひゅと空気を切り裂く音がして何かが僕の頬を掠めた。

  ちりとした熱い痛みが走り生暖かい液体が僕の白い毛を赤く濡らすのが分かった。

  痛みを追いかけるように反射的に後ろを振り返る。

  そこには僕のすぐ後ろの地面に鋭く尖った氷の矢のようなものが突き刺さっていた。

  もし僕が一歩でも動いていたら。

  そう思うと背筋が凍る。

  僕は弾かれたようにトイレの方向へと向き直った。

  氷塊の隙間から漏れ出す白い霧の中からゆっくりと一つのシルエットが浮かび上がる。

  見慣れたシルエット。

  厚い胸板、逞しい腕、そして雪のように白い恰幅のいい巨体。

  僕が誰よりも尊敬し焦がれた白熊獣人のヒーロー。

  ベアードグレイシア。

  彼が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。アスファルトを踏みしめる重い足音が、僕の心臓を直接叩くようだ。一歩。また一歩。その距離が縮まるたびに、僕の足は、地面に根を張ったかのように動かない。喉がカラカラに乾き、呼吸の仕方さえ、忘れてしまった。

  その時だった。

  僕の脳裏に師匠の声が蘇る。

  それは僕がヒーローになってまだ間もない頃の記憶。

  『私たちの能力は私たちの都合で使ってはいけません』

  そうだ師匠はそう言った。

  『私たちの能力は簡単に人を傷つけ、物質を破壊することができます』

  目の前の破壊され凍てついたトイレの残骸がその言葉の正しさを無慈悲に証明している。

  『だからこそ、それは誰かを守るために使われるべき力です』

  守るため……?

  じゃあなぜ。

  なぜ師匠は僕に力を向けたんだ。

  ただ配信を止めただけなのに。

  彼の秘密を知ってしまったから?

  僕の知っている師匠はそんな理由で誰かを傷つけるような人じゃない。

  そうだ。

  この人は僕の知っている師匠じゃない。

  きっと何かに操られているんだ。

  そうじゃなきゃ、おかしい。

  恐怖で震える足に無理やり力を込める。

  ここで僕が逃げたら、誰が師匠を止めるんだ。誰が師匠を助けるんだ。

  僕がやらなきゃ。

  僕が師匠を助けなきゃ。

  僕は震える声でそれでもはっきりと叫んだ。

  「チェンジ……! コヨーテフロスティア……!」

  蒼い光が、僕の体をヒーロースーツへと変える。

  目の前に立つのは、ベアードグレイシア。

  僕が焦がれ、目標としてきた、絶対的なヒーローの姿。

  しかし、その全身から放たれるのは、僕の知る温かいオーラではない。

  肌を刺すような絶対零度の殺気。

  「師匠、やめてください!」

  僕の叫びは、彼が右手を振り上げた瞬間、空しく霧散した。

  彼の指先から無数の氷の矢が、雨のように降り注ぐ。

  速い。

  何百回と見てきた、師匠の戦闘パターン。

  頭で理解するより先に、体が動いていた。

  地面を蹴り、右へ飛ぶ。氷の矢が、僕がさっきまでいた場所のアスファルトを穿ち、白い花を咲かせた。

  着地と同時に、次の攻撃が来る。

  今度は、より質量の大きい氷の槍。

  僕は、それを屈んで避ける。槍が僕の頭上を唸りを上げて通り過ぎていった。

  だが、安心したのも束の間。

  僕の左右に、瞬時に、分厚い氷の壁が出現し、退路を塞ぐ。

  詰んだ。

  そう思った瞬間、僕は唯一残された、正面へと、突進した。

  そう。

  師匠なら、きっとそうする。

  僕の回避行動を予測して。

  正面に最大の罠を仕掛けているはずだ。

  案の定、僕が踏み込んだ正面の地面が一瞬にして凍りつき、スケートリンクのように僕の足元を滑らせた。

  体勢が大きく崩れる。

  まずい。

  その体勢では、次の攻撃は、避けられない。

  「目を覚ましてください、師匠!」

  僕は、叫びながら無理やり体の重心を立て直す。

  肺が凍てつくような冷気で痛い。

  手足の感覚が少しずつ麻痺していく。

  攻撃できない。

  したくない。

  僕にできるのは、ただ師匠の攻撃を避け続けることだけ。

  それは戦闘というより、あまりにも一方的な師匠との「対話」だった。

  僕の知らない、言葉の通じない、師匠との。

  「師匠!」

  僕の叫びはもはや悲鳴に近かった。

  次々と繰り出される氷の刃を僕はただ必死に避け続ける。

  肺が凍てつくような冷気で痛い。

  ヒーロースーツがなければとっくに僕の体はこの公園のオブジェの一つになっていただろう。

  僕に止められるのか。

  あの、ベアードグレイシアを。

  いや、やるんだ。僕がやらなきゃ、誰も師匠を止められない。

  僕は攻撃の合間を縫って、一気に師匠との距離を詰めた。

  僕の言葉なら、きっと、届くはずだ。

  「師匠、攻撃をやめて! 話を聞いてください!」

  しかし、僕の希望的観測は、師匠が振り下ろした巨大な氷の斧によって、文字通り、粉々に打ち砕かれた。

  僕は咄嗟に両腕でガードする。凄まじい衝撃が、スーツの上からでも僕の骨を軋ませた。

  体勢を崩した僕の肩に、追い討ちをかけるように、鋭い氷の刃が突き刺さる。

  「ぐっ……ぁっ!」

  スーツを貫通した刃が、僕の肉を抉る。

  激痛が走り、視界が赤く染まった。

  甘かった。

  僕なんかの力で、どうにかなる相手じゃない。

  その時だった。

  僕の前後左右に同時に巨大な氷の壁が出現する。

  逃げ場がない。

  そして頭上から巨大な氷塊が僕を押し潰さんと迫ってくる。

  まずい、避けられない。

  僕は咄嗟に両腕を交差し目の前の氷塊に向かって能力を放った。

  氷で氷を防ぐ。

  そんな無茶な芸当できるはずがない。

  僕の貧弱な氷の盾など師匠の圧倒的な質量の前には一瞬で砕け散るはずだ。

  パリン、とガラスが割れるような甲高い音が響いた。

  しかし砕け散ったのは僕の盾ではない。

  僕の目の前にあったあの巨大な氷塊がまるで内側から弾けるように粉々に砕け散りキラキラと夜の公園に舞ったのだ。

  砕いた……? 僕が、師匠の氷を?

  僕と同じようなことを頭に浮かべたのか、一瞬師匠の動きが止まった。

  奥の瞳が信じられないというようにわずかに見開かれた気がした。

  今だ。

  この隙に応援を。

  僕はスーツに内蔵された通信機に意識を集中させた。

  しかしその指が動かない。

  もし応援を呼んだら?

  司令部は師匠のことを徹底的に調べるだろう。

  白熊便器のことも何もかも暴かれてしまう。

  僕の一本の通信が、僕の師匠のヒーローとしての全てを終わらせてしまうかもしれない。

  そのコンマ数秒のためらい。

  それを見逃すほど目の前のベアードグレイシアは甘くはなかった。

  僕の足元から再び氷の刃が無数に突き出してくる。

  僕は慌ててそれを飛び退り回避した。

  違うだろ、風間雪音!僕の内側で、もう一人の僕が、血を吐くように叫んでいた。今、お前が守るべきものは、何だ。師匠の名誉か?違う。師匠の、魂そのものだ。それが僕一人の力で救えないのなら――たとえ、この手であの人の全てを汚すことになったとしても――助けを求めるしかないじゃないか。

  僕は迫りくる氷の弾丸を紙一重で避けながら通信機のスイッチを入れた。

  「こちらコヨーテフロスティア!  現在暴走したベアードグレイシアと交戦中! 応援願います!」

  「――こちら司令部、状況を……」

  通信機から聞こえる冷静なオペレーターの声。

  その声に僕の意識がほんのわずかに司令部へと飛んだ。

  それが命取りだった。

  目の前のベアードグレイシアが何の前触れもなく右足で地面を強く踏みしめる。

  その瞬間、僕の足元から巨大な氷の柱が凄まじい速度で突き上がってきた。

  視界の端でそれを捉えた時にはもう遅い。

  僕の腹部にまるで巨大な拳で殴られたかのような凄まじい衝撃。

  息が止まる。

  僕の体はくの字に折れ曲がり、まるで木の葉のように吹き飛ばされた。

  背中から地面に叩きつけられ肺から空気が漏れる。

  痛い。

  痛い痛い痛い。

  全身の骨が軋むようだ。

  『コヨーテフロスティア、応答せよ! 状況は!?』

  通信機からオペレーターの切羽詰まった声がガンガンと頭に響く。

  助けを求めないと。

  まだ終わってない。

  その時だった。

  通信機から僕のよく知る穏やかで優しい声が聞こえた。

  『こちらベアードグレイシア。すいません、風間くんが誤った通信を』

  師匠の声だ。

  『ただいま訓練中でして。コヨーテフロスティアくんが実践を意識しすぎて、つい応援を要請してしまったようです』

  訓練? 意識しすぎて?

  何を、何を言っているんだこの人は。

  僕の頭は混乱でぐちゃぐちゃだった。

  『……え? ベアードグレイシア? ……こんな時間に訓練……ですか?』

  オペレーターの当然の疑問。

  違う、違うんだ。

  僕は最後の力を振り絞り助けを叫ぼうと口を開いた。

  その瞬間。

  僕の口が、唇が、声帯が、急速に凍りついていく。

  声が出ない。師匠の、氷の、能力。

  『えぇ風間くんたっての希望で……』

  師匠の声がすぐ近くから聞こえる。

  ゆっくりと僕の方へ歩いてくる。

  『なにも問題ありませんので。ご心配なく』

  『通信終了しますね。お騒がせしました』

  通信が一方的に切られた。

  僕の最後の希望が断ち切られた。

  「……風間くん」

  すぐ側で師匠の声がする。

  僕は声のする方を見ることができない。

  ただ地面に叩きつけられた体の痛みと、急速に失われていく体温だけが現実感を伴っていた。

  巨大な影が僕の視界を覆う。

  そして僕の首がまるで猫の子のようにいとも容易く掴まれた。

  ヒーロースーツの硬質なネックガードが鈍い音を立てて軋む。

  体が軽々と持ち上げられた。

  視界がぐらりと揺れる。

  目の前に僕が焦がれ、尊敬し、今恐怖している師匠の顔があった。

  でもその口元は緩やかに弧を描いている。

  僕が一度も見たことのないその笑み。

  その瞳の奥に昏く、ねっとりとした得体の知れない光が宿っているのを僕は見た。

  首を掴む師匠の手のひらから、死そのもののような冷気が、僕の血管を逆流してくる。体の中心から、命の熱が、急速に奪われていく。視界が端からゆっくりと、白く塗りつぶされていく。手足の感覚が消え、思考が水に滲むインクのようにその輪郭を失っていく。

  「おしおきは、まだ終わってませんよ」

  遠のいていく意識の中、その声だけがやけにはっきりと鼓膜に響いた。

  それは僕の知る師匠の声ではない。

  もっとねっとりとしていて甘く、どこまでも残酷な響きを持っていた。

  『もっとゆっくり指導できる場所へ……ご案内します♡』

  その言葉を最後に、僕の世界は、音も、色も、意味も、全てが、真っ白に、染め、上げ、ら、れた。

  (後編へ続く)