重苦しい静寂が支配する巨大な空間。
壁面には無数のパイプとケーブルが血管のように脈打ち、天井からは蒸気が定期的に噴き出している。
その最奥、一段高い場所に設置された玉座に、大首領が鎮座している。逆光によりその表情は窺い知れないが、全身から放たれる圧倒的な威圧感だけで、周囲の空気は凍りついているようだった。
カツン、カツン、カツン……。
静寂を破り、白衣を翻して歩み寄る男が一人。
組織の頭脳にして、狂気の科学者、ドクターキマイラである。彼は優雅な動作で玉座の前に跪くと、恭しく頭を垂れた。
「偉大なる大首領様。本日の『収穫』と、それに相応しい『レシピ』をご覧に入れたく参上いたしました」
ドクターキマイラが指を鳴らす。
その合図とともに、フードを目深にかぶった数名の戦闘員**「信者」**たちが、重そうな金属製の檻と、拘束された一人の男を引きずって入ってきた。
「離せ! 俺をどこへ連れて行く気だ! 貴様ら何なんだ!?」
素体の人間である男は、作業着姿で筋肉質の肉体をしていた。どこかの建設現場から拉致されてきたのだろう。必死に抵抗し、怒号を上げているが、信者たちは無言でその腕を捻り上げ、男を床に這いつくばらせる。
ドクターキマイラは、恐怖と怒りに歪む男の顔を、まるで美術品を鑑定するかのように覗き込んだ。
「素晴らしい……。見てください、この太い首、盛り上がった大腿四球筋。実に生命力に溢れている。恐怖によるアドレナリンの分泌量も申し分ない」
ドクターはうっとりとした表情で男の顎を掴み、左右に振って確認すると、大首領の方へ向き直り、興奮気味に言葉を続けた。
「これほど頑強な素材(人間)は久しぶりです。貧弱な小動物の遺伝子では、この男のポテンシャルを殺してしまう……。そこで!」
ドクターキマイラは、信者たちが運んできた巨大な檻にかかっていた幕を、バサリと勢いよく引き下ろした。
「フゴォォォォッ!!」
檻の中から、野太い獣の鳴き声が轟いた。
そこにいたのは、ドラム缶のような胴体を持つ、巨大なイノシシだった。檻の鉄格子に牙を打ち付け、血走った目で周囲を威嚇している。その突進力は、鉄格子をひしゃげさせるほどだ。
素体の男は、目の前の猛獣を見て顔面蒼白になり、ガタガタと震え出した。
「ひ、ひぃ……っ! な、なんだその化け物は……!」
その反応を見て、ドクターキマイラは満足げに笑みを浮かべ、大首領に向かって宣言した。
「こいつには、イノシシを混ぜようと思います」
ドクターの声が、謁見の間に朗々と響く。
「この男の強靭な肉体に、イノシシの持つ『猪突猛進』の破壊本能と、分厚い皮膚の防御力を掛け合わせるのです。さらに、脊椎にはチタン合金のフレームを、両腕にはパイルバンカーを埋め込みましょう」
ドクターは空中に指で設計図を描くような仕草を見せながら、恍惚とした表情で続ける。
「想像してください、大首領様。理性を失い、ただ命令に従ってすべてを粉砕する肉の戦車……。これこそが、彼に与えられる進化なのです」
玉座の大首領は、ゆっくりと檻の中のイノシシと、震える男を交互に見下ろした。
やがて、重々しく、腹の底に響くような声で短く告げる。
『……よかろう。傑作を期待する』
その言葉は、男にとっての死刑宣告であり、怪人としての誕生宣告でもあった。
「はっ! ありがたき幸せ!」
ドクターキマイラが一礼すると、信者たちは男とイノシシの檻を再び運び出し始めた。
「やめろ! やめてくれぇぇぇ!! 助けてくれぇぇ!!」
男の絶叫が遠ざかっていく。
ドクターキマイラは白衣のポケットからメスを取り出し、その冷たい輝きを見つめながら、これから始まる解体と合成の手術(オペ)に胸を躍らせ、暗い通路へと消えていった。
「やめろ! 何を注射した!? 体が……熱いっ!!」
男の悲鳴が、薄暗い実験室に響き渡る。
彼は透明な強化ガラスで覆われたカプセル状の実験台に拘束されていた。その腕には、毒々しい緑色の液体が満たされた注射器が突き刺さっている。
カプセルの外、ガラス越しにその様子を観察しているのはドクターキマイラだ。彼は手元の端末のデータを興味深そうに見つめながら、マイクに向かって語り掛けた。
「暴れないでくれたまえ。君に投与したのは、隣にいる彼から抽出した『イノシシ因子』を濃縮した、特製の遺伝子活性剤だ」
男の視界の隅、隣のケージに入れられた巨大なイノシシが、苦しそうに荒い息を吐いているのが見えた。
「ぐあぁぁっ! 骨が……きしむっ……!」
男の体に劇的な変化が訪れた。
ドクン! ドクン! と心臓が早鐘を打ち、全身の血管がミミズのように浮き上がる。投与された因子が体内の細胞を侵食し、強引に書き換えていくのだ。
バキィッ! メキメキメキ……!
男の体から、聞いてはいけない音が鳴り響く。
骨格が悲鳴を上げ、形を変えていく音だ。
肩幅が異常な速度で広がり、作業着の生地が耐え切れずに裂けた。盛り上がった筋肉の塊が、皮膚の下で脈動している。
「う、うあ……顔が……!」
男は両手で顔を覆おうとしたが、拘束具がそれを許さない。
彼の顎が前へと突き出し、鼻が豚のようにひしゃげて上を向く。口の中では歯が抜け落ち、代わりに鋭利な牙が急速に生え変わっていく。
「素晴らしい! 見たまえ、この急速な細胞変化を!」
ドクターキマイラはガラスに張り付かんばかりに顔を近づけ、恍惚とした表情で叫んだ。
「人間の脆弱な皮膚が剥がれ落ち、強靭な獣の皮へと生まれ変わっていく! これこそが進化だ!」
ドクターの言葉通り、男の腕の皮膚が乾燥してひび割れ、ボロボロと剥がれ落ちた。その下から現れたのは、土気色の分厚い皮膚と、針金のように硬く茶色い剛毛だった。剛毛は瞬く間に全身を覆い尽くしていく。
「ひ、ヒヒーン……ブモッ……ブゴォ……」
男の口から漏れる声が、人間の言葉から、獣の唸り声へと変わっていく。
脳内では、人間としての理性や記憶が、強烈な野生の本能によって塗りつぶされようとしていた。
(やめろ……俺は……人間だ……家に、帰らなきゃ……)
最後の理性が抵抗を試みる。だが、視界が赤く染まり、破壊への渇望が津波のように押し寄せてくる。
「さあ、受け入れるのだ。君の新しい『本能』を」
ドクターキマイラが、端末のスイッチを押した。カプセル内に、自我を破壊し、忠誠心を植え付ける特殊な音波が流される。
男の瞳孔が縦に裂け、白目が赤く充血した。
人間としての意識が完全に途絶えた瞬間だった。
「ブォォォォォォォォッ!!」
カプセルを内側から叩き割るような咆哮が轟いた。
強化ガラスにヒビが入り、次の瞬間、粉々に砕け散った。
ガラスの破片を浴びながら、実験台から解き放たれた「それ」が立ち上がる。
もはや人間の面影はない。身長2メートルを超える、直立した巨大なイノシシの獣人だ。全身は鋼の筋肉と剛毛に覆われ、両目には理性なき凶暴な光だけが宿っている。
「成功だ……完璧な獣人化(ビースト・フォーム)だ」
ドクターキマイラは、飛び散ったガラス片も気にせず、生まれたばかりの怪物に拍手を送った。
「誕生おめでとう、『イノシシビースト』。さあ、その有り余る野生の力を、我らがエヴォリュートのために振るうがいい!」
イノシシビーストは主を見下ろし、鼻を鳴らして一礼のような動作をすると、破壊衝動を満たす獲物を求めて、ラボの外へと走り出した。
その背中を見送りながら、ドクターキマイラは次の実験への意欲に目を輝かせていた。
ガラス片を撒き散らし、咆哮を上げるイノシシビースト。
その圧倒的な破壊力を前に、ドクターキマイラはさらに口角を吊り上げた。
「素晴らしいパワーだ……だが、まだ足りない。生物として最も爆発的なエネルギーを生むのは『破壊』だけではない。『生殖』への渇望だ」
ドクターは手元のパネルを操作し、カプセル跡地に残留していたガスに、ピンク色の成分を混ぜて噴射した。それは、脳のリミッターを外し、強制的に発情期を引き起こす**『ヒート・ホルモン剤』**だ。
「吸い込むがいい。お前の細胞一つ一つに、オスのイノシシが繁殖期に見せる、あの狂おしいほどの性衝動を焼き付けてやる」
シューッ……
ガスを吸い込んだイノシシビーストの体が、ビクン! と大きく跳ねた。
先ほどまで茶色だった肌が、沸騰したように赤黒く変色し、全身から白い蒸気が噴き出し始める。
「フゴッ!? ブモォォォ……ッ!!」
ビーストの呼吸が、怒りとは違う種類の、粘りつくような荒いものへと変わった。
口元からは大量の唾液が滴り落ち、股間や筋肉が脈打つように肥大化していく。破壊したいという衝動に加え、種を撒き散らしたい、メスを蹂躙したいというどうしようもない欲望が脳を焼き尽くす。
「熱いか? 苦しいか? その満たされない欲望を、すべて外へぶつけるのだ!」
イノシシビーストは、充血した目で虚空を睨みつけ、鼻をヒクヒクと動かして空気中の匂いを嗅ぎ取った。
「オンナ……メス……ドコダ……ッ!!」
完全に理性が飛び、獣の欲望のみが残った怪物は、もはやドクターの制御すら受け付けないほどの狂気を纏っていた。
ただ暴れるだけではない。自身の遺伝子を残すための相手、すなわち「人間の女性」を本能的に求め始めたのだ。
「ブォォォォォォッ!!(交尾させろぉぉぉっ!!)」
イノシシビーストは雄叫びとともに、分厚い鉄扉を体当たりで粉砕した。
その勢いは先ほどまでの比ではない。性欲というガソリンを注がれた破壊の戦車は、一直線に要塞の外壁を突き破り、人間の住む街へと飛び出していった。
「ハハハハ! 行け! 破壊と生殖、二つの本能で街を地獄に変えてこい!」
ドクターキマイラの高笑いが響く中、地上には最悪の怪人が解き放たれた。
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週末の昼下がり。
多くの家族連れやカップルで賑わうショッピングモールの広場は、穏やかな空気に包まれていた。噴水のそばで談笑する女子大生のグループ、ベンチで休憩する親子。誰もが平和な日常を疑っていなかった。
ズドォォォォォン!!
突如、広場の中央に隕石が落下したかのような衝撃音が轟き、舗装された地面が爆散した。
舞い上がる粉塵と土煙。
悲鳴を上げて逃げ惑う人々の中、煙の向こうから、巨大な影がゆらりと立ち上がった。
「な、なんだあれ……?」
「怪物……?」
煙が晴れると、そこにいたのは身長2メートルを超える異形の巨人だった。
全身が赤黒く変色した筋肉と剛毛で覆われ、口からはダラダラと白濁した唾液を垂れ流している。イノシシビーストだ。
「フゴッ……ブモォォォ……ッ」
怪人は充血した目で周囲をギョロギョロと見回した。
その視線は、逃げ遅れた男性や老人には目もくれず、ただ一点、**「若い女性」**たちだけに向けられていた。
ドクターキマイラによって投与された発情ガスが、怪人の脳髄を焼き焦がしているのだ。破壊したい。犯したい。種を植え付けたい。おぞましい本能だけが彼を動かしていた。
「メス……メスは……ドコダァァ……ッ!!」
言葉とも獣の咆哮ともつかない声を上げ、イノシシビーストが動き出した。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
近くにいた女性たちが悲鳴を上げ、パニックになって逃げ出す。
だが、その背中に怪人の野生の勘がロックオンした。
「見ツケタァァァッ!!」
ドォォォォォン!!
アスファルトを蹴り砕き、イノシシビーストが猛烈なスピードで突進を開始した。その姿はまさに暴走する肉の戦車。駐車されていた車を紙屑のように跳ね飛ばし、逃げる群衆との距離を一瞬で詰める。
標的となったのは、友人たちと買い物に来ていた一人の若い女性だった。
彼女は必死に走ったが、ハイヒールが災いして転倒してしまう。
「い、いやっ! 来ないで!!」
振り返った彼女の視界を、巨大な獣の影が覆い尽くした。
「ブモォォ……イイ匂イダ……!!」
イノシシビーストは荒い鼻息を彼女の顔に吹きかけながら、太い腕を伸ばして彼女の身体を鷲掴みにした。
「やだぁぁぁっ! 離して! 誰か助けてぇぇぇ!!」
女性が泣き叫び、暴れるが、怪人の怪力にはびくともしない。
それどころか、怪人は女性の抵抗に興奮したのか、さらに目を血走らせ、下卑た笑い声を上げた。
「俺ノ……俺ノ子供ヲ……産メェェェッ!!」
怪人は人目も憚らず、その場で女性をアスファルトに押し倒そうとする。
獣の剛毛が柔肌に触れ、滴り落ちる唾液が彼女の服を汚していく。圧倒的な暴力と、生理的な嫌悪感が彼女を襲う。
「嫌ぁぁっ! お願い、やめてぇぇぇっ!!」
周囲の人々は恐怖に凍り付き、誰も助けに入れない。
スマホで撮影しようとした手が震え、あるいは目を背けて走り去るしかない。
イノシシビーストは邪魔な服を引き裂こうと、鋭い爪を振り上げた
「いやぁぁぁっ! 誰か、誰かぁぁぁっ!!」
女性の悲鳴は、誰の耳にも届いていた。しかし、誰も動けなかった。
イノシシビーストの放つ圧倒的な獣の臭気と、血走った眼光が、群衆を恐怖で縛り付けていたからだ。
「ブモッ、グフフ……暴レルナ……スグニ済ム……」
怪人は嫌らしい手つきで、アスファルトに押さえつけた女性の腕を捻り上げる。
太くザラついた指が、女性の白い肌に食い込み、赤黒い痣を作っていく。
「お願い……許して……私、まだ死にたくない……っ」
女性は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願した。
だが、その弱々しい抵抗は、逆に怪人の嗜虐心を煽るだけだった。イノシシビーストは口角を歪に吊り上げ、大量の涎を彼女の頬に滴らせた。
「死ヌ? 違ウ……オ前ハ、俺ノ『苗床』ニナルンダ……!!」
ビリィッ!!
怪人の鋭利な爪が、女性の衣服を無慈悲に切り裂いた。
寒空の下、無防備な姿を晒された女性は、羞恥と恐怖でガタガタと震え、小さく丸まることしかできない。
「あ……あぁ……」
彼女の瞳から、理性の光が消えていく。
目の前に迫る巨大な牙。逃げ場のない重圧。
周囲の人間が見ている中で蹂躙される屈辱。
あまりの恐怖に、彼女の心は限界を迎え、プツンと何かが切れる音がした。
「ヒッ、ヒグッ……」
抵抗する手が力を失い、ダラリと地面に落ちる。
彼女は虚ろな目で空を見上げ、痙攣するように息を漏らすだけになった。完全なる敗北、そして心の崩壊だった。
「グオォォォォォンッ!!(勝利の咆哮)」
獲物が抵抗を止めたことを確認すると、イノシシビーストは勝ち誇ったように天に向かって咆哮した。
そして、意識を失いかけた女性の体を、まるで壊れた人形のように片手で軽々と担ぎ上げる。
「イイ『素材』ダ……ドクター・キメラモ喜ブ……」
怪人は、恐怖で道を開ける群衆の中を、悠然と歩き出した。その脇には、戦利品として担がれた女性が力なく揺れている。
彼女が再び普通の日常に戻れる日は、もう二度と来ないのかもしれない。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえ始めたが、すべては手遅れだった。
イノシシビーストは黒煙を巻き上げながら、絶望する女性と共に、暗い路地裏の闇へと姿を消していった。
広場には、引き裂かれた衣服の切れ端と、人々の恐怖の沈黙だけが残された。
(第1話 完)