白熊は、孤独に喘いで愛を知る【中編】

  [chapter:第九章 リコレクト]

  理論の中でなら、僕はいつだって無敵のヒーローになれた。

  ペン先がノートの上を滑る、サリサリという乾いた音だけが教室に響いている。

  窓から差し込む午後の日差しは穏やかで、ここには血の匂いも、骨が軋む音も、泥に塗れる屈辱もない。

  教壇に立つ老齢の教官が、ホワイトボードに複雑な数式を書き殴り、チョークの粉を払いながら振り返った。

  「――というわけで、流体操作系能力における熱力学的損耗率は、環境温度との乖離に比例して増大する。では、この損耗を最小限に抑えつつ、対象の運動エネルギーをゼロにするための最適解を答えられる者はいるか?」

  教室が水を打ったように静まり返る。

  生徒たちの視線が宙を彷徨い、あるいは机上の端末へと逃げる中、僕は迷いなく右手を挙げた。

  「風間くん。では、答えて」

  「はい。対象の周囲の水分を急激に冷却するのではなく、対象自体の持つ熱エネルギーを『媒体』として利用し、気化熱による温度低下を誘発させることです。計算上、環境干渉を30パーセントカットでき、かつ相手の初動を封じる拘束力も維持できます」

  一息で紡いだ回答に、教室の空気が一瞬だけ止まる。

  教授は満足げに頷き、分厚い眼鏡の奥の目を細めた。

  「正解だ。完璧な回答だよ、風間くん。教科書の記述よりもさらに実践的で素晴らしい」

  「ありがとうございます」

  僕は椅子に座り直しながら、周囲から漏れる感嘆の声を聞き流す。

  「すげえな、また風間か」「あいつ、座学はずっとSランクだよな」「頭の中どうなってんだ」

  背中に刺さる称賛と羨望の視線。

  僕はそれらに対して、口角を数ミリだけ上げる練習通りの「謙虚な笑顔」で応える。

  机の下で、膝の上に乗せた拳を軽く握りしめる。

  数式も、理論も、戦術論も。答えが決まっているものはなんて簡単なんだろう。

  頭の中では完璧にシミュレートできている。

  氷の軌道も、敵の動きも、勝利の瞬間のイメージさえも。

  なのに。

  『次は第四演習場にて、対人戦闘実技を行います。速やかに移動するように』

  無機質な校内放送が、安穏とした時間を断ち切るように響いた。

  周囲の空気が一変し、クラスメイトたちがざわめきと共に席を立ち始める。

  僕も端末を鞄にしまい、ゆっくりと立ち上がった。

  夢の時間は終わりだ。

  ここからは、正解のない、冷たくて痛い現実が待っている。

  ◇

  訓練室の床は、冷たくて硬い。何度味わっても慣れない感触だった。

  「風間!」

  大神くんの太い腕が振り下ろされる。

  避ける。僕の頭はそう命じる。体がそれに応えない。

  半歩遅れた回避動作は空を切り、彼の拳が僕の脇腹を捉えた。

  鈍い衝撃。

  視界が揺れる。

  肺から空気が一気に押し出され、声にならない呻きが口から漏れた。

  受け身を取ろうとした手が滑る。

  背中全体が床に叩きつけられる音が、体育館に響く。

  「……っ」

  骨が軋む。

  息ができない。

  口を開けて空気を求めるが、肺が動かない。

  天井のライトが眩しく揺れている。

  遠くで審判の笛が鳴った。

  「そこまで! 風間、立てるか!?」

  大神くんの慌てた声。彼の大きな手が僕の視界に伸びてくる。

  ごつごつしていて温かくて、優しい手。

  「……大丈夫、ありがとう」

  僕は引き上げられながら、いつもの角度に口角を上げる。

  筋肉が引き攣る。痛い。でも笑わなくては。

  「完敗だよ、大神くんはやっぱり強いなあ」

  彼はほっとしたように表情を和らげる。

  「風間、無理するなよ。ケガないか?」

  他の同級生たちも駆け寄ってくる。

  「うん、平気平気。いつものことだから」

  いつもの。

  そう、いつものことだ。

  僕はその言葉を、まるで呪文のように繰り返す。

  ◇

  それから先の日々は、単調な繰り返しだった。

  『4月12日 基礎戦闘実技:評価D 備考:出力不足により決定打に欠ける』

  端末の画面に映る無慈悲なアルファベット。

  僕はその日も訓練後、人気のない廊下の隅で一人、スマートフォンの画面を凝視していた。

  床に座り込み、膝を抱えて。

  白い壁だけが僕を見下ろしていた。

  『5月08日 模擬対人戦:評価D 備考:軌道が不安定。要改善』

  睡眠時間を削った。

  自主練習の時間を増やした。

  理論書を読み漁り、トップクラスの生徒の動画を何度も見返した。

  頭の中では完璧に再現できている。

  なのに。

  『6月15日 能力応用演習:評価D− 備考:成長が見られない』

  グラフの線は地を這ったまま、ピクリとも上向こうとしない。

  どれだけスクロールしても、景色は変わらない。

  『D』『D』『D』。

  呪いのように並ぶ文字列。

  僕は画面を消した。

  黒いディスプレイに、情けない顔をした自分が亡霊のように映り込んでいた。

  ◇

  やがて季節は初夏を迎えた。

  その日の実技訓練でも、僕は猫獣人の同級生にあっという間に懐に潜り込まれ、床に転がされた。

  何度目の敗北だろうか。

  もう数える気力もない。

  「風間、大丈夫か?」

  声をかけてくれる同級生たち。

  僕は笑顔で応える。

  いつもの角度で。いつもの声量で。

  台本通りに。

  訓練が終わり、他の生徒たちが着替えて談笑しながら帰っていく。

  僕は器具の片付けを買って出た。

  一人になれる口実を、いつも用意している。

  やがて訓練室に誰もいなくなる。

  扉が閉まる音。遠ざかる足音。笑い声。

  そして、静寂。

  僕は訓練室の中央にゆっくりと立つ。

  壁に設置された巨大なモニターに、先ほどの自分の無様な姿を映し出す。

  何度見返しても、結果は同じだった。

  「……どうして」

  呟きは誰にも届かず、広い訓練室に吸い込まれていく。

  僕は再び的に向き合う。

  意識を集中させる。

  空気中の水分を凝固させ、氷を生み出す。

  イメージするのは鋭く硬質な刃。

  「――っ!」

  腕を振るう。

  しかし手から放たれたのは頼りない氷の礫。

  それは力なく放物線を描き、数メートル先の床に落ちて、カランと乾いた音を立てた。

  その音はまるで僕の無力さを嘲笑っているかのようだった。

  「……くそっ!」

  僕は膝から崩れ落ちる。涙が滲む。

  才能がない。

  その残酷な現実が重く僕の心にのしかかる。

  もう何時間こうしているだろうか。

  手の感覚はとうに麻痺し、体は冷え切っていた。

  「――君、いつもいるな」

  その声は不意に背後から聞こえた。

  僕は驚いて振り返る。

  そこに立っていたのは一人の中年の犬獣人だった。

  僕はその顔を知っている。ヒーロースクールの実技教官の一人。確か犬飼……という名前だったはずだ。

  授業で何度か顔を合わせたことはあるが、直接話したことは一度もなかった。

  彼は背の高いジャーマンシェパードの獣人。くたびれたワイシャツにスラックス。その精悍な顔つきは歴戦のヒーローのそれだったが、引き締まっているはずのベルトの上には柔らかそうな肉がぽっこりと乗っかっている。その奇妙なギャップに僕は少しだけ戸惑いを覚えた。

  「……い、犬飼教官」

  慌てて立ち上がろうとする僕を、彼は手で制する。

  「いい、そのままで。……自主訓練か。熱心だな」

  彼の声には他の教官たちが僕に向けるような同情や呆れの色はなかった。ただ淡々と事実を述べているという響きだけがあった。

  「……すみません。すぐに片付けます」

  「いや、いい。もう少し見ていても構わないか?」

  彼はそう言うと壁にもたれかかり腕を組んだ。僕は断ることもできず、もう一度的に向かって意識を集中させる。見られている。その意識が僕の体の自由を奪っていく。

  (……しっかりしろ。いつも通りやればいい)

  僕は自分に言い聞かせ氷の礫を放つ。しかしそれは先ほどよりもさらに勢いをなくし、的の手前で力なく落下した。

  「……っ」

  顔が熱くなる。一番見られたくない失態。もうやめたい。ここから逃げ出したい。

  僕が俯いたその時だった。

  「――いつも頑張ってるな」

  ぽつりと犬飼教官が呟いた。僕は驚いて顔を上げる。

  彼は腕を組んだまま僕を真っ直ぐに見ていた。そのアーモンド形の瞳の奥に何の感情が宿っているのか僕には読み取れなかった。ただその言葉だけが僕の心の一番柔らかい場所にじんわりと染み込んでいく。

  『いつも頑張ってるな』

  そのたった一言が。僕が誰かにずっと言って欲しかった言葉だった。これまで誰も気づいてくれなかった僕の孤独な戦い。この人は見ていてくれたのか。

  その事実だけで。僕の凍てついていた心が少しだけ溶けていくような気がした。

  ◇

  「違うな、風間。もっと肩の力を抜け」

  教官は僕の背後に立つと、その大きな手で僕の肩をぐっと掴んだ。

  ワイシャツ越しに伝わる熱。そしてふわりと香る汗と柔軟剤の混じった匂い。

  心臓がどきりと音を立てる。

  あの日から、僕の放課後の孤独な時間は終わりを告げた。

  犬飼教官は、毎日のように自主訓練に付き合ってくれるようになった。

  「お前は力を『大きく』することばかり考えている。だがその力は、もっと『繊細』に扱ってやるべきなんじゃないか?」

  彼は僕の凍てついた手を、彼自身の骨張った温かい手で包み込むように握った。

  そしてそのまま僕の手を的の方向へと導く。

  背中には彼の体がぴったりと密着している。ベルトの上に乗った柔らかいお腹の肉が、僕の背中にむにゅっと押し付けられる感触。

  「――っ!」

  顔がカッと熱くなる。

  これは指導だ。わかっている。でもこの異常なまでの距離の近さは一体なんなんだろう。

  僕の思考が混乱するのを見透かしたかのように、教官は僕の耳元で低く囁いた。

  「いいか風間。氷の『大きさ』や『硬さ』をイメージするな。君が集中すべきはその一点。的の中心ただ一点だ」

  その声の振動が僕の鼓膜を直接震わせる。

  僕は言われるがまま意識を的の中心へと集中させた。

  「そうだ、その調子だ。……今だ!」

  教官の合図とほぼ同時に。

  僕の手のひらから小さな、でもこれまでとは比較にならないほど鋭利な氷の礫が放たれた。

  甲高い音を立てて、氷の礫は的の中心に突き刺さる。

  信じられない光景だった。

  僕が何百回何千回と繰り返しても、決して届かなかったあの場所に。

  「……やった……!」

  思わず声が漏れる。

  僕が振り返ると犬飼教官は満足そうに頷いていた。

  「な? やればできるじゃないか」

  彼はそう言うと僕の頭をわしわしと力強く撫でた。

  その無遠慮な接触に僕は驚きながらも、心の奥底がじんわりと温かくなるのを感じていた。

  この人は他の教官とは違う。

  僕のことを才能のない落ちこぼれだと馬鹿にしたりしない。

  僕の努力を認めてくれる。そして僕ができると信じてくれる。そんな気がした。

  ◇

  そして季節が夏本番を迎えた七月の終わり。

  実技の期末試験が行われた。

  試験会場のざわめき。他の生徒たちの緊張した面持ち。

  僕は深く息を吸い込む。

  胸に手を当てると心臓がいつもより少しだけ力強く脈打っているのがわかった。

  (大丈夫。教官が見てくれている)

  自分の名前が呼ばれる。

  僕はゆっくりと立ち上がり対戦相手と向き合った。

  「始め!」

  開始の合図。

  相手が飛び込んでくる。

  いつもなら、ここで体が強張り、思考がフリーズしていた。

  でも、今は違う。

  僕は犬飼教官に教わった通り体の力を抜き、意識をただ一点に集中させる。

  視界の中心、相手の重心のわずかなズレ。

  そこだけが、スポットライトを浴びたように白く浮かび上がる。

  (ここだ)

  呼吸をするように自然に、右手を突き出す。

  放たれた氷の礫は、これまでの頼りないそれとはまるで別物だった。

  空気を切り裂く鋭い音。

  一直線に対戦相手の足元へと飛び込んでいく。

  相手は反応すらできなかった。

  氷塊が炸裂し、その足場を一瞬にして凍結させる。

  体勢を崩した相手の首元に、次の氷の刃を寸止めにする。

  勝敗は、一瞬で決した。

  「勝者、風間雪音!」

  審判の声が体育館に響き渡る。

  僕が……勝った?

  一瞬の静寂の後、どっと歓声が湧き上がった。

  信じられなかった。万年落ちこぼれで、座学だけの能無しだと思われていた僕が。

  「風間すごいじゃないか!」

  「やったな! 見直したぞ!」

  同級生たちが駆け寄ってきて僕の肩を叩く。

  その賞賛の言葉が少しだけくすぐったい。

  でも、僕が求めているのは彼らの言葉じゃない。

  僕は喧騒の中、目で一人の人物を探していた。

  いた。

  体育館の二階席、一番後ろの柱の影。

  腕を組んで立っている犬飼教官。

  彼と、目が合った。

  その瞬間、体育館の喧騒が嘘のように遠ざかっていく。

  同級生たちの声も、審判のアナウンスも、全てがミュートされた世界。

  そこには僕と、彼しかいなかった。

  彼は僕を見つめ、口元だけで「よくやった」と動かした。

  そして、他の誰にもわからないように、小さく、親指を立ててみせた。

  ドクン、と心臓が跳ねる。

  その不器用な祝福に、僕の胸の奥が焼き切れるほど熱くなる。

  彼のおかげだ。彼がいてくれたから、僕は勝てた。

  今すぐ彼の元へ行きたい。

  誰よりも先に、彼に「ありがとうございました」と伝えたい。

  「犬飼教官!」

  僕は同級生たちの輪をすり抜け、階段を駆け上がった。

  弾む息。高鳴る鼓動。

  廊下の向こうに、彼の大きな背中が見える。

  「教官……っ!」

  声をかけようと手を伸ばした、その時だった。

  「先生ー! 俺も見ました!?」

  横から、ぬるりと誰かが割り込んできた。

  僕の知らない生徒たちだった。

  三人の男子生徒が、当たり前のような顔をして、教官に駆け寄っていく。

  僕が伸ばしかけた手は、虚空を掴んだまま止まった。

  「おお、見てたぞ。お前もいい動きだったな」

  教官はいつものように笑って、その生徒の肩を叩いた。

  自然など動作で、その大きな手で、生徒の頭をわしわしと撫でた。

  僕にしたのと、全く同じ手つきで。

  全く同じ、温度で。

  僕の中で、何かが砕ける音がした。

  世界の色が一瞬にして褪せていく。

  僕だけの、特別な手じゃなかった。

  僕だけに向けられた、特別な笑顔じゃなかった。

  「先生、次は俺の試合見ててくださいよ!」

  「ああ、わかったわかった。しっかりやれよ」

  彼らの屈託のない笑顔。喉の奥で楽しそうに笑う声。

  その明るい光景が、僕には耐え難いほど汚らわしいものに見えた。

  (ああ)

  足が縫い付けられたように動かない。

  さっきまでの高揚感が、急速に冷えていく。

  心臓がきゅうと小さく縮こまる。

  教官は僕には気づいていない。

  当たり前だ。彼は僕だけの教官ではないのだから。

  わかってる。

  わかってるのに。

  喉の奥がからからに乾いていく。

  指先が微かに震えていることに気づいて、僕はぐっと拳を握りしめた。

  爪が手のひらに食い込む鈍い痛み。

  その痛みだけが、やけに鮮明だった。

  結局、僕は彼に声をかけることができなかった。

  ただその輪が解散するのを、物陰からじっと見つめていることしかできなかった。

  やがて生徒たちが去り、一人になった教官がこちらに歩いてくる。

  僕は慌ててその場を立ち去ろうとした。

  「おお、風間。いたのか」

  しかしその声に呼び止められる。

  僕はぎこちなく振り返った。

  「どうした? さっきはすごかったじゃないか。見違えたぞ」

  彼は僕のすぐ隣に立つと、いつものように大きな手で僕の頭を撫でようとした。

  僕は反射的に、半歩だけ身を引いた。

  教官の手が空を切る。

  「……あ、すまん」

  教官は少し驚いたように目を丸くした。

  「いえ……汗、かいてるので」

  嘘だ。

  さっきまであれほど渇望していたはずなのに。

  他の誰かも触ったその手で、僕に触れてほしくなかった。

  「……ありがとうございます」

  僕はなんとかそれだけを絞り出す。

  そして俯いたまま早口に付け加えた。

  「すみません。用事が、あるので……失礼します」

  教官の返事を聞く前に僕はその場を走り去っていた。

  彼の困惑したような気配を背中に感じながら。

  ◇

  夏の期末試験の勝利は、確かに僕の世界を変えた。

  変えたはずだった。

  勝った。褒められた。

  教官は親指を立ててくれた。

  それだけで僕は、もう少しで「自分」を許せそうになった。

  でも、あの日の体育館で見たものが、僕の中で何度も反芻される。

  教官の大きな手。

  僕の頭に触れたのと同じ手つきで、別の生徒の頭を撫でるところ。

  その光景だけが、勝利の実感を薄い紙みたいに破ってしまう。

  (あれは、僕だけのものじゃない)

  そう思った瞬間から、僕の努力の意味まで、どこか曇り始めた。

  次に教官と顔を合わせた時、僕はいつも通りに笑った。

  口角の角度も、声の高さも、返事の速さも。

  完璧な「風間雪音」。

  なのに胸の奥は、ずっと湿ったままだった。

  うまく言えない。

  怒っているわけじゃない。

  悲しいだけでもない。

  ただ、落ち着かない。

  教官の視線が僕に向いているかどうか。

  僕が今、特別な位置にいるかどうか。

  そればかりを、考えてしまう。

  そんなことを考え始めた時点で、もう負けているのに。

  ◇

  季節が秋へ移った。

  訓練の内容はより実践的になっていく。

  本当なら、僕は夏に掴んだ感覚を育てるべきだった。

  犬飼教官の言う「一点への集中」を、もっと自分のものにするべきだった。

  でも僕の集中は、いつの間にか「的」から外れていた。

  (今、教官は見てるだろうか)

  (僕が失敗したら、どんな顔をするだろう)

  (他の誰かに、あの手で触れていたら)

  くだらない。

  そう思うほど、頭の中がそのことで埋まる。

  開始の合図。

  僕は深く息を吸う。

  空気の冷たさが肺を満たす。

  (落ち着け。大丈夫だ。夏にできたんだから)

  腕を振るう。

  氷の礫は放たれる。

  なのに、ほんのわずかに軌道が逸れる。

  そのわずかが、致命的だった。

  相手は躱す。

  距離を詰める。

  僕の内側だけが遅れる。

  床に叩きつけられる。

  硬い感触。

  白い息。

  ざわめき。

  「風間、大丈夫か?」

  「最近、どうした?」

  優しい声が刺さる。

  優しいからこそ、刺さる。

  「……うん、大丈夫」

  僕は笑う。

  平気を演じる。

  同級生たちは安心して、次の話題へ移っていく。

  誰も悪くない。

  悪いのは僕だ。

  僕は、教官の前でだけ、うまくやりたかった。

  教官の前でだけ、勝ちたかった。

  そうすれば。

  また僕の頭を撫でてくれるかもしれない。

  また「よくやった」と言ってくれるかもしれない。

  その“かもしれない”が、麻薬みたいに僕を動かしていた。

  ◇

  放課後の訓練室。

  窓の外は茜色に染まり、金木犀の甘い匂いが風に混じっていた。

  僕は一人で的に向かう。

  夏にできた。

  だから秋もできる。

  できないわけがない。

  なのに。

  氷は霧散する。

  礫は床に落ちる。

  カラン、という音だけが、広い訓練室に響く。

  (僕は、教官がいないと何もできないのか)

  思考がその形になった瞬間、喉が熱くなった。

  視界が滲んで、的がぼやける。

  (違う。そんなはずない)

  (自分でできるようにならなきゃ)

  (僕は、特別じゃないといけない)

  気づけば僕は、氷ではなく、壁を殴っていた。

  ごつり、と鈍い音。

  拳の痺れ。

  痛い。

  でもその痛みの方が、頭の中の泥よりはわかりやすかった。

  「――何かあったのか?」

  背後から声がした。

  振り返ると、犬飼教官が立っていた。

  見られた。

  一番見られたくないものを。

  一番見てほしい人に。

  僕は、慌てて口角を持ち上げようとする。

  いつも通り。いつも通りだ。

  僕は優等生で、落ち着いていて、平気で。

  「……いえ、なんでもありま――」

  言葉が続かなかった。

  喉の奥に熱い塊がつっかえて、息を吸うたびに情けない音が漏れた。

  視界が滲む。

  教官の輪郭が揺れる。

  泣くな。

  ここで泣くな。

  泣いたら、全部終わる。

  教官は何も言わず、ただ一歩近づいた。

  大きく武骨な手が、僕の頭にそっと乗る。

  髪を梳くみたいに、ゆっくり撫でられる。

  その体温が、頭頂部からじわりと落ちてきて。

  僕の中の何かを、あっけなく溶かした。

  「……っ、う……」

  声が漏れる。

  次の瞬間、僕は弾かれたように、教官の胸に飛び込んでいた。

  ワイシャツを掴む。

  汗と柔軟剤の匂いがする。

  背中に回された腕が、逃げ場を塞ぐ。

  安心してしまった。

  ここなら崩れてもいいと、体が先に理解してしまった。

  「う、あ……あぁ……っ!」

  子供みたいに泣いた。

  声を殺すこともできずに。

  教官は何も言わない。

  「泣くな」も「頑張れ」も言わない。

  ただ、一定のリズムで背中を撫で続ける。

  その沈黙が、残酷なくらい優しかった。

  どれくらい泣いたのか分からない。

  息が落ち着いた頃、頭上から声が降ってきた。

  「……落ち着いたか?」

  僕は赤く腫れた目を擦りながら、小さく頷く。

  恥ずかしくて顔が上げられない。

  幻滅された。

  呆れられた。

  そう思うのに。

  教官の声は驚くほど柔らかかった。

  「お前は、偉いな」

  え、と顔を上げる。

  逆光の中で、教官が困ったみたいに笑っていた。

  「誰にも言わずに、一人でずっと戦ってたんだろ」

  胸が痛いくらいに鳴る。

  そして教官は、当たり前みたいに続けた。

  「……俺は、そういうお前が好きだぞ」

  ドクン、と。

  心臓が、壊れそうな音を立てた。

  違う。

  違うって分かってる。

  それは、教え子としての僕への言葉だ。

  でも。

  一度溶けた氷は、元の形には戻らない。

  (だめだ)

  胸の奥で警報が鳴る。

  この温もりを、もう手放せないと思ってしまった。

  僕は笑えなかった。

  いつもの台本が、どこかへ落ちた。

  ただ、その言葉を、体の奥にしまい込むしかなかった。

  ◇

  ひんやりとしたシーツの感触。

  窓の外から聞こえる虫の音。

  それ以外は何も聞こえない静寂。

  僕たちはベッドの上にいた。

  「――風間」

  吐息まじりの甘い声が僕の名前を呼ぶ。

  隣には、犬飼教官。

  唇に触れる柔らかい感触。

  最初は鳥の羽が触れるような優しい口付け。

  しかしそれはやがて、お互いを貪るような深い口付けに変わっていく。

  ねっとりと絡み合う舌。水音だけが部屋に響く。

  「……なんだ。実技、得意じゃないか」

  唇が離れた瞬間、教官は意地悪く微笑んだ。

  その瞳は熱っぽく僕を射抜いている。

  「ずっとお前を見てた」

  彼の指が僕の頬を優しく撫でる。

  そのごつごつとした指先の感触。

  心臓が大きく跳ねる。

  「お前のことは誰よりも見てる。……俺が一番お前を見てる」

  彼の大きな手が僕のシャツの中に滑り込んでくる。

  素肌に触れるその手の熱さに僕の体はびくりと震えた。

  僕は無我夢中で彼の体に触れ、その柔らかいお腹を撫でた。

  教官は「やめろ」とでも言うように恥ずかしそうに身をよじる。

  その反応が僕をさらに煽った。

  「ダメだよな、大事な生徒に……こんなこと」

  彼の声は熱っぽく掠れていた。

  「だがもう、我慢できない」

  彼の指がゆっくりと僕の体の中心を下っていく。

  そして躊躇いがちに僕の尻の割れ目に触れた。

  「――っ!」

  びくりと僕の体が跳ねる。

  彼の指がゆっくりと僕の穴をなぞる。

  「ここも鍛えておかないとな」

  冗談めかした口調とは裏腹にその指の動きはひどく執拗だ。

  知らない快感が僕の体を貫く。

  恥ずかしい。でもそれ以上に彼に求められているという事実が嬉しくてたまらなかった。

  僕は彼の指を受け入れるように自ら腰を揺らした。

  やがて彼の指が引き抜かれ代わりに熱く硬いものがそこに押し当てられる。

  僕の準備ができたのを確認すると彼はゆっくりと僕の中にその剛直を埋めてきた。

  「……あ……っ」

  息が漏れる。

  正常位のまま僕の体は完全に彼と繋がり合う。

  僕を見下ろす彼の表情は欲望に歪み見たこともないほど雄々しい。

  この顔は僕しか知らない。

  その事実に僕の心は満たされていく。

  「風間……いや、雪音。お前が好きだ」

  彼の腰の動きに合わせて僕の体も揺れる。

  ベルトの上でたぷんと揺れる彼の腹。

  僕の視線に気づいたのか彼は恥ずかしそうに顔を歪めた。

  「愛してる」

  その言葉を合図に僕たちは再び深く口付けを交わした。

  激しく求め合う肌と肌。

  繋がり結ばれる体と心。

  彼の全てが僕の中に注ぎ込まれていく。

  「―――っ!」

  思考が真っ白に染まる。

  視界が弾け飛ぶ。

  体の奥深くから突き上げてくる熱い衝動。

  僕はその快感の波に身を委ねた。

  ……。

  ………。

  我に返る。

  目に飛び込んできたのは見慣れた自室の天井。

  ひんやりとしたシーツの感触。

  窓の外から聞こえる虫の音。

  腹の上に残る生々しい白濁。僕の罪の証。

  急激に現実に引き戻される。

  虚しさが冷たい波のように僕の全身を洗い流していく。

  ベッドの上に犬飼教官の姿はない。

  当たり前だ。

  最初からここには僕しかいない。

  ゆっくりと体を起こす。

  自分の腹にかかったそれを見つめる。

  部屋の温度に慣らされた白濁は、その罪を僕の体に刻むように、冷たく僕の被毛に固くまとわりついていた。

  ◇

  秋が終わりを告げ、街がイルミネーションの光に包まれる頃。

  僕の心は、生まれて初めて経験する熱に浮かされていた。

  放課後の訓練室。

  そこはもはや、僕にとって孤独な場所じゃない。

  教官に会える。

  ただそれだけの事実が、僕の一日を鮮やかに彩っていく。

  訓練中に厳しい声が飛ぶことさえ、今は嬉しかった。

  僕を見てくれている。僕だけに声をかけてくれている。

  その一つ一つが、僕の渇きを癒やしてくれる。

  その日の訓練が終わった後。

  僕たちは並んで自販機の前に立っていた。

  ごとりと音を立てて出てきた温かいココアの缶。

  僕はそれを両手で包み込むように握った。

  缶から伝わる熱が、冷えた指先をじんわりと温める。

  「風間は年末年始、実家に帰るのか?」

  教官が缶コーヒーを一口すすりながら尋ねる。

  僕はこくりと頷いた。

  「はい。一応……」

  「一応ってなんだ?」

  怪訝そうな彼の視線に僕は俯く。

  「……どうかしたのか?」

  彼の優しい声色に、僕は少しだけ迷った後、ぽつりと呟いた。

  「両親は僕がヒーローになること、あまりよく思ってなくて……」

  「そんなことないだろう。現にこうしてスクールに通わせてもらってるじゃないか」

  「そうなんですけど。……そうじゃ、なくて……」

  言葉がうまく出てこない。

  家に居場所がないこと。親の期待に応えられていないこと。

  そんな重たい話を、こんな幸せな時間にしたくなかった。

  教官はふうと一つ息を吐くと、自分のスマートフォンを取り出した。

  「まあ色々あるんだろう」

  相槌を打つと、教官は何気なく画面を操作し、僕に見せた。

  「……ほら」

  差し出された画面には、連絡先を交換するための二次元コードが表示されていた。

  僕の心臓が大きく跳ねる。

  これは、夢だろうか。

  「冬休みの間でも何かあったら連絡してこい。話くらいなら、聞けるから」

  その言葉が、僕の世界を祝福しているようだった。

  僕が震える手で自分のスマートフォンを操作し、教官の連絡先を登録する。

  画面に「犬飼」の文字が並ぶ。

  それだけで、冬休みの寂しさが吹き飛ぶ気がした。

  「ありがとうございます……!」

  僕が顔を上げると、教官は少し照れくさそうに頭をかいた。

  そして、ふと思いついたように、こう言った。

  「ああ、そうだ。休み明けたら」

  「はい?」

  「新しい技、教えてやる。お前の能力なら、もっと面白いことができるはずだ」

  教官はにっと笑った。

  「お前だけの、特別な技だ」

  ドクン、と心臓が鳴る。

  『お前だけの』。

  その言葉の甘い響きに、僕は完全に酔いしれていた。

  未来の約束。二人だけの秘密。

  これから先も、ずっとこの関係が続いていくんだという確信。

  僕の胸は幸福感で破裂しそうだった。

  今なら何でもできる気がした。

  この人のためなら、僕はどんなヒーローにだってなれる。

  その時だった。

  不意に、教官のポケットから軽快な着信音が鳴り響いた。

  「ん、すまん」

  教官はそう言うと、少しだけ慌てた様子で通話ボタンを押した。

  「ああ、俺だ」

  その声色は、僕に話しかける時のものとは全く違っていた。

  甘く、蕩けるような。

  どこまでも無防備で、愛おしさが滲み出るような響き。

  「……うん、今終わった。……ああ、わかってる。今日は誕生日だもんな。すぐに帰るよ」

  誕生日?

  誰の?

  思考が追いつかない。

  「うん……うん、パパだよ」

  時間が引き伸ばされるような奇妙な感覚。

  世界から音が消える。

  視界がぐにゃりと歪む。

  「……いい子にしてたか? プレゼント、楽しみにしてなさい」

  電話の向こうから聞こえてくるのであろう幼い声に、彼は目を細める。

  その顔は、僕が一度も見たことのない顔だった。

  生徒に向ける顔じゃない。

  ただ一人の男としての、父親としての、どうしようもなく幸せそうな笑顔。

  その時。

  スマートフォンを持つ彼の左手が、僕の視界に入った。

  薬指。

  そこに鈍く光る、銀色の輪。

  (――ああ)

  なんで、今まで、気づかなかったんだろう。

  いや違う。

  気づかないふりをしていたんだ。

  見たく、なかった。

  認めたく、なかった。

  この幸せな時間がいつまでも続くと信じていたかったから。

  『お前だけの、特別な技だ』

  さっきの言葉が、脳内で虚しく反響する。

  特別なんかじゃなかった。

  僕はただの生徒で。

  彼には、帰る場所があって。

  手の中にあったはずのココアの缶が滑り落ちる。

  床にぶつかる甲高い音が、やけに遠くに聞こえた。

  中身がこぼれ、茶色い液体が床に広がる。

  僕の汚れた心が溢れ出したみたいに。

  僕はただ、それを呆然と見つめることしかできなかった。

  ◇

  実家に帰省している間、僕は何度もスマートフォンを手に取った。

  「お元気ですか」「初詣行きましたか?」「教官に会いたいです」

  メッセージを書いては消し、消しては書いてを繰り返す。

  そのどれもを送信することはできなかった。その時頭にちらつくのは、あの薬指の銀色の絶望のこと。

  結局僕は一度も教官に連絡することなく、冬休みを終えた。

  休み明け、最初の放課後の訓練の日。

  僕は鏡の前で入念に自分の表情をチェックした。

  口角を上げる。目元を緩める。

  完璧な「いつも通り」の僕。

  「あけましておめでとう風間。休み中はどうだった?」

  訓練室に入るとすぐに教官が声をかけてきた。

  僕は練習通りの完璧な笑顔で振り返る。

  「おめでとうございます教官。実家でのんびりしてました」

  「そうか。連絡なかったから心配してたんだぞ」

  彼のその言葉に僕の心臓がちくりと痛む。

  でも顔には出さない。

  「すみません。実家に戻ったら意外と忙しくて」

  完璧な返事。完璧な笑顔。

  その日から、僕は意識して教官との距離感を調節するようになった。

  二人きりになることを巧みに避け、常に他の生徒たちの輪の中にいるように心がけた。

  教官と話す時も当たり障りのない世間話に終始した。

  内心では教官に自分の態度が変わったことに気づいてほしい。

  そんなわがままな子供みたいなことを考えている自分に嫌気が差す。

  「風間、最近、少しよそよそしくないか?」

  ある日教官にそう尋ねられた。

  僕は心の中で小さくガッツポーズをする。

  気づいてくれた。僕のことを見ててくれた。

  でも口から出るのは練習通りの完璧なセリフ。

  「そうですか? いつも通りですよ。……少しは、自分の力で、頑張らないと、と思って」

  その言葉は拒絶しているように聞こえるだろう。

  でも心のどこかで「それでも」と彼が僕を心配してくれることを密かに願っていた。

  でも教官は「そうか。偉いじゃないか」と僕の頭を一度だけ撫でると、それ以上何も言ってこなかった。

  なんで、という気持ちと当然だ、という気持ちが胸の奥でどろりと混じり合う。

  しかし夜が来ると。

  僕の必死に被っていた仮面はいとも簡単に剥がれ落ちる。

  一人ベッドの中で僕は犬飼教官との交わりを妄想する。

  僕だけ。僕だけを見てくれる。僕だけの犬飼教官。

  甘い声。僕の名前を呼ぶ唇。その左手の薬指には、指輪はない。

  (……もっと、欲しい)

  現実で教官との距離を置けば置くほど。

  妄想の中の教官との行為はより激しくなっていく。

  「俺から離れようったって無駄だ」「お前が俺を忘れることなんて許さない」

  そう囁きながら僕を抱き、そして犯してくれる。

  それは僕にとって唯一の救いであり、麻薬のように僕を縛り付けるものだった。

  自分の精を吐き出した後。

  シーツの上に広がる生々しい白濁を見つめる。

  心臓にぽっかりと穴が空いたような感覚。

  分かっている。こんなことをしても何も変わらない。

  でもやめられない。

  僕はその甘い地獄に毎晩のように溺れ続けた。

  そしてその日々は、春が来るまで続いた。昼間は完璧な「良い子」を演じ、夜は妄想の中で教官を求め続ける。誰も、僕の本当の顔を、知らない。

  ◇

  三月。

  体育館は祝福の熱気に包まれていた。

  ヒーロースクールの卒業式。

  それはまるで、分厚いガラス一枚を隔てた向こう側の世界の出来事のようだった。

  「風間、元気でな!」

  「内定おめでとう!」

  同級生たちの弾んだ声が、僕の耳をただ通り過ぎていく。

  僕は練習通りに口角を上げ、当たり障りのない言葉をオウムのように繰り返した。

  「ありがとう」「君も元気で」

  彼らは知らない。

  僕には、行く当てなんてないことを。

  座学S評価。実技C評価。

  そんな歪な成績のヒーロー志望者を採用してくれる事務所は、どこにもなかった。

  不採用通知の山。

  寮の退去期限を延長する申請書の、情けない文字の羅列。

  僕には何もない。

  誇れる過去も、確かな未来も。

  僕の視線は、人混みの中からただ一人の人物を探していた。

  この灰色の世界で、唯一の色を持っていた人。

  (……いた)

  人混みの中心で、犬飼教官は他の生徒たちに囲まれ笑っていた。

  彼の手には、生徒たちから贈られたのであろう花束が抱えられている。

  やっと、会えなくなる。

  その事実が僕の胸を締め付けた。

  やっとこの苦しい日々から解放される。

  でも、もう二度と、会えなくなる。

  僕は彼に背を向け、体育館の出口へと歩き出した。

  逃げよう。

  今の僕の無様な姿を、彼に見られたくない。

  「――風間!」

  しかしその声と共に、腕を掴まれる。

  振り返ると、そこに息を弾ませた教官が立っていた。

  僕の心臓が大きく跳ねる。

  見つけてくれたという喜び。

  これでまた、自分ではこの想いを断ち切れなくなったという絶望。

  相反する感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、僕の中で渦を巻く。

  「一言挨拶くらい、していけよ」

  彼はそう言って笑った。

  そして、少し真面目な顔になり、僕の目をじっと見つめた。

  「進路、まだ決まってないんだってな」

  心臓が凍りつく。

  知られていた。

  一番、知られたくない人に。

  「……はい。僕には、才能がないですから」

  自嘲気味に呟くと、教官は首を横に振った。

  「焦るな。お前にはお前の良さがある。きっと、お前を必要としてくれる場所があるはずだ」

  無責任な励まし。

  でも、その眼差しだけは温かくて。

  僕はまた、縋りたくなってしまう。

  「風間。ヒーローとなったらそこからはプロの世界だ。厳しいこともあるだろう」

  彼は一呼吸置いて、静かにこう告げた。

  「ヒーローになって、お前が本当に守りたいものを見つけなさい」

  その言葉に、僕は一瞬息を呑む。

  「これは俺が教え子たちにいつも言ってきたことなんだがな」

  彼のその一言で、僕の淡い期待は砂の城のように脆くも崩れ去った。

  わかってたはずなのに。

  僕はその中の大勢の一人でしかないんだ。

  それでも僕は、完璧な笑顔を崩さない。

  まるで壊れた人形のように。

  「……本当に守りたいもの、ですか」

  僕には、自分の未来さえ守れないのに。

  「教官には、ありますか?」

  聞かなきゃいいのに。

  僕の口は勝手に動いていた。

  まるで自ら崖の淵に歩みを進めるように。

  その先にあるのが破滅だと知っていながら。

  教官は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに照れくさそうに笑った。

  目尻を下げ、どこか遠くを見るような、優しい目で。

  「……ああ。……家族かな」

  世界から色が消える。

  崖の淵から突き落とされる感覚。

  聞かなきゃよかった。

  ……いや、聞いてよかった。

  これでやっと、本当に終われる。

  彼には家族がいる。帰る場所がある。守るべき未来がある。

  僕には何もない。職も、家も、愛してくれる人も。

  この圧倒的な格差。

  彼自身のその言葉が、僕の想いの墓標となる。

  「守りたいもののために戦うのがヒーローだ。お前にもそれを見つけて欲しいと思う」

  教官はそんな僕の内心に気づくことなく続ける。

  そして僕の肩を、一度だけ力強く叩いた。

  「元気でな、風間」

  彼はそう言うと、踵を返して人混みの中に消えていった。

  一度も振り返ることなく。

  僕はその背中をただ見つめることしかできなかった。

  これが本当に最後。

  彼の温もりも、匂いも、もう感じることはない。

  僕のこの想いは、今日死んだ。

  「……はい」

  誰もいない空間に向かって、僕は答える。

  「素晴らしいお言葉ですね。僕もいつか、見つけます」

  完璧な笑顔のまま、心にもない綺麗な言葉を吐き出す。

  頬の筋肉がピクリと痙攣した。

  僕は出口へと向かう。

  一歩踏み出すたびに、顔に張り付いていた笑顔が、乾いた泥のように剥がれ落ちていくのがわかった。

  体育館の外は、まだ肌寒い春の風が吹いていた。

  僕の行き先は、誰もいない、冷え切った寮の部屋だけ。

  「本当に守りたいもの」

  僕は一人、その言葉を反芻する。

  そんなもの、僕には見つからない。

  一生、見つからない気がした。

  [newpage]

  [chapter:第十章 デストラクト]

  頭が割れるように痛い。

  瞼の奥がじんじんと脈打ち、喉の奥は焼けつくように渇いている。口の中に広がるのは錆びた金属のような苦い味だ。

  ゆっくりと瞼を持ち上げる。

  白い天井が視界に入った。見覚えのない天井だ。蛍光灯が一つ、音もなく僕を照らしている。

  体を起こそうとして、できないことに気づく。

  両腕が、背もたれに縛り付けられている。足首も、椅子の脚に固定されていた。拘束具は冷たく硬い。金属だ。手首を捻ってみるが、びくともしない。

  息が浅くなる。心臓の鼓動が早くなる。

  落ち着け。まず状況を確認するんだ。

  深呼吸を一つ。冷たい空気が肺を満たし、わずかに頭がクリアになる。

  部屋を見渡した。

  四方を白い壁に囲まれた、殺風景な空間。家具は一切ない。窓が一つだけあったが、カーテンが閉じられていて外の様子はわからない。床はフローリング。足音が響きそうなほど何もない。マンションの一室、だろうか。生活感が微塵もない。まるで誰も住んでいない、ただの箱だ。

  鼻をつくのは、わずかに残る塗料の匂いと、ほこりっぽい空気。長い間換気されていないような、淀んだ匂いだ。

  ここは、どこだろう。

  記憶を手繰り寄せようとする。最後に覚えているのは――。

  公園。夜。師匠を追いかけて。多目的トイレ。配信。師匠の氷の能力。

  全身を駆け巡った絶対零度の冷気。

  首を掴まれた感触。

  視界を白く染めた、死の予感。

  ぞくりと背筋が震えた。

  あの後、僕は気を失って、ここに連れてこられたのか。

  師匠が。

  いや、違う。あれは師匠じゃない。師匠の体を借りた、何か別の――。

  思考がそこで途切れる。考えたくない。認めたくない。でも、現実は容赦なく僕の前に突きつけられている。

  脱出しなきゃ。

  僕は変身ブレスに意識を集中させた。手首にいつも巻いているあの装置があれば、変身してこの拘束具を破壊できる。

  しかし、手首に感じる感触が違う。

  いつものブレスの滑らかな質感ではない。もっとごつごつとした、無機質な金属の手触りだ。

  目を凝らして手首を見る。視界の端に、鈍く光る銀色の輪が見えた。

  ――異能力抑制装置。

  血の気が引いた。

  それは、その名の通り、異能力を完全に無効化する装置だ。警察の厳重な管理下に置かれ、正式な手続きなしには使用できない代物のはずだ。

  それが、今、僕の手首に嵌められている。

  つまり僕は変身できない。能力も使えない。

  ただの無力な一般人だ。

  喉の奥が、きゅっと締め付けられた。呼吸が浅くなる。胸の奥から冷たいものがせり上がってくる。

  まずい。パニックになっている。

  もう一度、深呼吸。冷静になれ。焦っても何も解決しない。

  僕はゆっくりと息を吐いた。震える指先に意識を向ける。冷たい金属の感触。確かにそこにある現実。

  今できることは何だ。

  誰かが来るまで待つ。そして、状況を把握する。

  それしかない。

  僕は椅子の背もたれに体重を預けた。硬い木の感触が背中に食い込む。

  静寂が、重くのしかかってくる。

  自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。

  どれくらい、そうしていただろう。

  十分か、一時間か。時間の感覚が曖昧だ。

  不意に、部屋の静寂が破られた。

  カチャリ、と軽い金属音が響く。ドアの鍵が開く音だ。

  全身の筋肉が強張るのがわかった。息を殺し、音のした方――部屋の唯一の入り口を睨みつける。心臓が肋骨を激しく打ち、耳の奥で自分の血が流れる音が聞こえる。

  ゆっくりと、音もなくドアが開いた。

  そこに立っていたのは、すらりとした長身の男。

  上質そうなグレーのスーツに身を包んだ、壮年の狐獣人。きっちりと整えられた金色の毛並み。その顔には、感情の読み取れない貼り付けたような笑みが浮かんでいる。

  男は静かに部屋に入ると、同じく音もなくドアを閉めた。

  コツ、コツ、と硬い革靴の音だけが、やけに大きく部屋に響く。男は僕の数歩手前で立ち止まり、その琥珀色の瞳で、僕を値踏みするように、じっとりと見つめた。

  「初めまして、[[rb:風間雪音 > かざま ゆきと]]くん」

  その声は、彼の不気味な第一印象とは裏腹に、驚くほど穏やかで、柔らかかった。

  僕は何も答えない。ただ、敵意を込めて、目の前の男を睨みつけることしかできない。拘束された手足が、もどかしい。

  男は僕の警戒を意に介した様子もなく、貼り付けたような笑顔を崩さずに、ゆっくりと首を傾げた。

  「警戒するのも無理はありませんね。申し訳ありません、驚かせてしまったようで。自己紹介がまだでした」

  男は、芝居がかった仕草で、胸にそっと手を当てる。

  「私、群島と申します」

  群島。知らない名前だ。

  「霜月さんの、心の治療を任されております。いわば主治医、といったところでしょうか」

  心の治療? 師匠の? 主治医?

  頭が混乱する。

  師匠の心の治療? 主治医がなぜ僕をこんな場所に? なぜ異能力抑制装置なんかを?

  思考が追いつかない。目の前の男の言葉と、この異常な状況が、全く結びつかない。

  男は僕の戸惑いを見透かしたように、さらに言葉を続けた。その口調は、まるで迷子を諭す教師のように、どこまでも優しく丁寧だった。

  「驚かれたでしょう。ですが、これも全て彼の治療の一環なのですよ。あなたにも、協力していただきたくてね」

  その言葉には、罪悪感のかけらもなかった。

  貼り付けた笑顔の奥で、琥珀色の瞳が、獲物を前にした捕食者のように、ぎらりと光ったのを、僕は見逃さなかった。

  「協、力?」

  喉から絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。全身の肌が粟立ち、拘束された手首がじっとりと汗ばむ。「協力」という言葉が、不吉な響きを持って耳の奥にこびりついた。

  背筋を冷たい汗が伝い落ちる。

  こいつは、医者じゃない。

  こいつは、危険だ。

  「師匠は、どこですか。僕をどうするつもりです」

  腹の底から声を絞り出す。目の前の男の、貼り付けたような笑みが、ほんの少しだけ深くなったように見えた。僕の敵意など、取るに足らないとでも言うように。

  「そう焦らないでください。彼なら、すぐにここへ来ますよ」

  その穏やかな声色が、僕の神経を逆撫でする。男は僕から視線を外し、部屋の唯一のドアへと目を向けた。

  「なにせ、君に会いたがっているのは、他の誰でもなく、彼自身なのですから」

  その言葉の意味はわからない。だが、胸の奥が冷たくなるような、嫌な予感がした。

  男はドアに向かって、静かに呼びかける。

  「お連れしてください」

  ぎ、と古びた蝶番が軋む音。ドアが開く。そこに立っていたのは、大柄な男だった。

  年の頃は五十、六十代だろうか。がっしりとした、分厚い筋肉に覆われた体。セントバーナード獣人だろうか、その温厚そうな犬種に反して、目つきは爬虫類のように冷たい。体に張り付くようなタイトな黒のタンクトップの上から、同じく黒のレザージャケットを羽織っている。その全身を包む闇が、部屋の空気をさらに重くした。

  そして、その男に腕を引かれるようにして、部屋に入ってきた人物を見て、僕は息を呑んだ。

  「……師匠っ」

  声にならない声が、喉の奥で詰まる。

  そこにいたのは、紛れもなく僕の師匠、霜月冬樹さんだった。

  その身に纏っているのは、見慣れたベアードグレイシアのヒーロースーツ 。

  だがその姿は、僕の知る師匠とは、あまりにもかけ離れていた。

  胸元で黄金の十字を抱くダークブルーのケープパーツは乱れ、フロント部分がはだけて汗に濡れた白い毛皮が覗いている。いつも清潔なはずのスーツは、ところどころが薄汚れ、彼の体に生々しく張り付いていた。

  何より、師匠の様子がおかしい。

  「はっ……はぁっ…………ぅ……」

  肩で荒く息をするその呼吸は、ひどく熱っぽい。いつもはゴーグルに隠されているはずの瞳は、今は剥き出しで、焦点が合わずに潤んでいる。頬は上気し、白い毛並みの上からでも分かるほどに赤く染まっていた。

  足元がおぼつかないのか、黒ずくめの男に支えられていなければ、今にも崩れ落ちそうだ。なのに、その体は、内側から突き上げてくる衝動を抑えきれないかのように、微かに震えている。

  「師匠……? どうしたんですか、しっかりしてください……!」

  僕の声は、彼に届いていないようだった。師匠は、ただ、荒い息を繰り返すだけ。その琥珀色の瞳が、ゆっくりと、部屋の中を彷徨う。

  そして、その瞳が僕の姿を捉えたその瞬間。

  彼の目が、カッと見開かれた。

  その瞳の奥に、ぎらりとした、飢えた獣のような光が宿るのを、僕は確かに見た。

  その獣のような眼差しが、僕の体を射抜く。

  心臓が氷の爪で鷲掴みにされたように痛んだ。

  「あっ、ぅぅ……」

  師匠の喉から、苦しげな呻きが漏れる。

  彼は、僕から視線を逸らすように、激しく頭を左右に振った。その動きは、内側から湧き上がる抗いがたい衝動と、必死に戦っているように見える。

  「げて……逃げ、て……風間、く……ん……」

  途切れ途切れに紡がれる言葉。

  それは、紛れもなく僕を案じる、師匠自身の声だった。

  だが、その声も虚しく、彼の体は再び、びくりと大きく痙攣する。

  「ぅ、ぁぁっ……」

  熱い吐息と共に、彼の視線が、再び僕の体に絡みつく。

  その瞳に宿るのは、先ほどよりもさらに深い、ぬらりとした欲望の色。

  逃れようとすればするほど、さらに深い沼に囚われていくかのように、彼の理性は、本能に侵食されていっている。

  その、あまりにも痛々しい師匠の姿を、僕はただ、息を詰めて見つめることしかできなかった。

  「……美しいでしょう?」

  不意に、すぐ側で、穏やかな声がした。

  群島だ。

  彼は、まるで美術品でも見るように、うっとりと師匠の姿に目を細めている。

  「彼は今、削ぎ落としているのですよ。ヒーローとしての理性、社会的な規範。そして何より、君を傷つけたくないという、師としての愛情。それら全ては、彼の本質を覆い隠す、余分な『ニス』でしかなかった」

  その声は、ひどく熱っぽく、それでいて氷のように冷徹だった。

  「ですが、それも時間の問題でしょうね」

  群島はそう言うと、僕の方に向き直った。

  その貼り付けたような笑顔の奥で、金色の瞳が、愉悦に細められる。

  「私が、彼の魂の奥底に眠っていた原石を掘り出し、あるべき形へと『彫刻』してさしあげたのですから」

  「……ちょう、こく?」

  その言葉が、僕の思考に突き刺さる。

  目の前で苦しんでいる師匠の姿が、こいつには美術品に見えるというのか。

  腹の底から、熱いものがせり上がってくるのがわかった。

  「ふざけるなッ!」

  自分でも驚くほどの、怒声が口をついて出た。椅子に縛り付けられた体が、怒りに震える。

  「師匠に、何をしたんですか! 師匠はお前のオモチャじゃない!」

  僕の怒りを、群島はやはり、貼り付けたような笑みで受け止めた。

  その目は、無知な観衆を見るように、どこまでも憐れみに満ちている。

  「オモチャ? とんでもない。彼は私の最高傑作になる予定の『作品』ですよ」

  「ぁ…、ぅう…、やめ…」

  その間にも、師匠の苦しげな呻きは続いている。彼は僕を見ないように、必死に顔を背けていた。

  「彼はね、風間くん。あまりにも長い間、『ベアードグレイシア』という、重厚すぎる衣装を身にまとっていた。市民の期待、ヒーローとしての責任、完璧な理想像。それらは確かに美しいが、彼の魂の『色』を殺していた」

  群島は、まるで講義でもするかのように、抑揚のある声で語り続ける。その指先が、虚空で何かを形作るように優雅に動く。

  「誰かに支配されたい。無防備な自分を晒し、蹂躙されたい。それが彼の魂の叫びだった。私はただ、その願いを叶えるために、邪魔な装飾を削り取ったに過ぎません」

  「削り取った……? あれが、師匠の本当の姿だって言うんですか!」

  「ええ、そうですとも」

  群島は、深くうなずいた。その瞳には、自らの審美眼に対する、微塵の疑いもない。

  「私が、彼の中に眠っていた、もう一つの色彩を『見つけ』てさしあげたのです。あらゆる規範から解放され、ただひたすらに、雄としての欲望に従順な、純粋で美しい色彩……彼は自ら、それを『白熊便器』と名付けました」

  白熊便器。

  あの、狂った配信のアカウント名。

  頭の中で、点と線が、最悪の形で繋がっていく。

  「そして、その色彩はね、他者の体液をその身に受けることで、より鮮やかに、より深みを増していく。偽りの白は剥がれ落ち、やがて、本当の彼が、完全に『完成』するのですよ」

  その言葉は、あまりにも詩的で、だからこそ、その奥にある狂気が際立っていた。

  こいつは、本気で、今の師匠の状態を「美」だと信じている。

  背筋を、悪寒が走り抜けた。

  目の前で苦しむ師匠と、それを愛おしそうに眺めるこの男。

  まったく理解できない。

  僕は、目の前で師匠を品定めする男を、睨みつけた。

  「師匠は苦しんでいます。あなたがやっているのは、ただの拷問だ!」

  僕の言葉に、群島は、ゆっくりとこちらを振り返った。

  その顔には、相変わらず、あの貼り付けたような笑みが浮かんでいる。

  だが、その瞳の奥には、冷たい侮蔑の色が見えた。

  「おや、芸術を解さないというのは悲しいことですね。ですが、これは産みの苦しみというものですよ」

  そう言うと男は、師匠の方を見ながら続ける。

  「大理石の中から像を掘り出す時、石は悲鳴を上げるでしょうか? いいえ、それは歓喜の歌です。不要な部分が削ぎ落とされ、本来あるべき姿へと生まれ変わる、喜びの歌だ」

  男は諭すように優しく言うと、師匠に歩み寄った。

  「ねぇ、霜月さん。あなたは今、苦しいのですか? それとも、その身が軽くなっていくのを、心地よいと感じているのですか?」

  群島は、静かに師匠に尋ねた。

  「ぅ……、ぁぁ……」

  師匠は答えられない。ただ、僕と群島の間で視線を彷徨わせ、苦しげに喘ぐだけだ。その体は、内側から湧き上がる衝動と、僕の存在がもたらす罪悪感との間で、引き裂かれそうになっている。

  その時だった。

  「……っん、ぁあっ!♡」

  師匠が、ひときわ甲高い喘ぎ声を上げた。

  背後から、黒ずくめの男――セントバーナード獣人が、師匠のヒーロースーツの上から、その乳首を強くつねり上げていたのだ。

  「冬樹、群島さんが聞いてんだ。ちゃんと答えろや」

  男は、地を這うような低い声で言いながら、指の動きを止めない。

  彼の手つきは、道具を扱う職人のように無遠慮で、正確だった。

  「ひぅっ……♡ぁ、や……、やめ…っ♡♡」

  師匠の体は、大きく痙攣し、その顔は屈辱と快感に歪んでいた。

  もはや、抵抗する力は残っていないようだった。

  「あっ…、んんっ…♡」

  男に弄ばれ、師匠の口からは、もはや意味をなさない、甘い喘ぎ声だけが漏れていた。

  その体は弓なりにしなり、僕の目の前で、ただ快感に身を捩らせている。

  「やめろ……! 師匠に触るな!」

  僕の叫びが、虚しく部屋に響く。

  その瞬間、群島が、僕の方をゆっくりと振り返った。

  「おや、観客は、静かに鑑賞しているものですよ」

  その声が耳に届き、群島の金色の瞳と目があった次の瞬間。

  体が、動かなくなった。

  声を出そうとしても、喉が締め付けられたように、息が詰まるだけ。

  椅子の上で身じろぎしようとしても、指一本、ぴくりとも動かない。

  なんだ、これは。

  何が、起こった?

  僕の脳は警鐘を鳴らしているのに、体は命令を一切受け付けない。

  拘束具とは違う、もっと根源的な、内側からの支配。

  この男のルールに、無理やり従わされたような、悍ましい感覚。

  群島は、僕のその無言の抵抗を満足げに眺めると、興味を失ったように、再び師匠の方へと向き直った。

  そして、その震える肩に、そっと手を置く。

  「霜月さん。抗わなくてもいいのですよ」

  その声は、子供に語りかけるように、どこまでも優しかった。

  「あなたは、ただ、あなたの魂の赴くままに振る舞えばいい。さあ、もう一度よく見てごらんなさい。あなたが、心の底から求めているのは、一体誰なのか」

  群島の手が、師匠の顔をゆっくりと僕の方へと向けさせる。

  師匠の潤んだ瞳が、僕を捉えた。

  その瞳の奥で、理性の光が風の前の灯火のように激しく揺らめいている。

  「ぁ……っかざ、ま……くん……」

  師匠の唇が、僕の名前を紡ぐ。

  その声には、懇願するような響きがあった。助けを求めるような、悲痛な響き。

  「違う……私は、私は、こんなこと……」

  師匠は、最後の力を振り絞るように、かぶりを振った。

  その瞳に、一瞬だけ、強い拒絶の色が浮かぶ。

  「そうです。それでいい」

  だが、群島は、その抵抗すらも、作品の一部として楽しんでいるようだった。

  彼は、師匠の耳元で、悪魔のように甘く囁く。

  「あなたは、風間くんを、求めてなどいない。そうですね? あなたは彼を傷つけたくない。彼を守りたい。それが、ヒーローとしてのあなたの『正しい』心です」

  その言葉は一見、師匠の理性を肯定しているように聞こえた。

  「ええ……私は……ヒ、ヒーロー、です、から……」

  師匠は群島の言葉に、まるで溺れる者が掴んだ藁のようにか細い声で同調した。

  それを見た群島は、貼り付けたような笑みを、さらに深くした。

  その心の隙間に、ゆっくりと毒を注ぎ込む。

  「ですが、霜月さん。本当にそれでいいのですか?」

  群島の声が、静かに鋭く、師匠の心の核を突く。

  「また、あの色のない孤独な夜に戻るのですか? 誰もいない部屋で、一人、虚しく自分を慰める、あの日々に? 本当は、誰かに身も心も委ねてしまいたい。めちゃくちゃにされたい。そう望んでいるのではないですか?」

  「ちが……、ぅ、ぁ……」

  師匠の瞳に、再び動揺が走る。

  群島の言葉が、彼の心の奥底に隠していた、最も柔らかな部分を、容赦なく抉り出していく。

  「違う、なんて、思ってないでしょう? だって、あなたの体は、こんなにも素直に『色彩』を放っている」

  群島はそう言うと、師匠のはだけたスーツの隙間から、その逞しい胸板を、ゆっくりと撫でた。

  「こんなにも、熱く、硬くなっている」

  その指が、背後の男が先ほどまで弄っていた、左の乳首に、そっと触れる。

  「ひぅっ……♡」

  師匠の体が、びくん、と大きく跳ねた。

  「ち、違います……、違う、違うんです、これは……!」

  師匠は、もはや自分が何を否定しているのかもわからなくなっているようだった。ただ、壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返す。

  その姿は、あまりにも、痛々しい。

  群島はゆっくりと師匠のそばに膝をつくと、その潤んだ瞳を、覗き込んだ。

  「さあ霜月さん。言ってごらんなさい。あなたの魂は、本当は何を求めている?」

  その声は、懺悔を聞く神父のように、どこまでも穏やかだ。

  「……私は、風間くんを、傷つけたく、ない……!」

  師匠は、かろうじて、それだけを絞り出した。

  だが、その言葉とは裏腹に、彼の熱っぽい視線は、僕の体に絡みついたままだ。

  「ええ、そうですね。あなたは優しい人だ。ですが、それは『ベアードグレイシア』という役柄のセリフでしょう?」

  群島は、師匠の頬を、愛おしむようにそっと撫でた。

  「では、『霜月冬樹』という一人の雄としてのあなたは? あなたの本能は、今、目の前の『筆』を使って、どんな絵を描きたいと叫んでいる?」

  群島の視線が、僕に向けられる。

  筆?

  僕のことか?

  僕は、師匠を完成させるための、ただの道具だっていうのか。

  「……わ、私、は……」

  師匠の唇が、ためらいがちに、震える。

  「……わ、私は、もっ……と……」

  言いかけて、はっとしたように、師匠は自分の言葉を飲み込んだ。

  激しく頭を振り、その衝動を、必死に否定する。

  「ぅぁっ、ち、がう……! ちがい、ます……! 私は、そんなこと……!」

  「おや、まだ装飾にしがみつきますか」

  群島の声が、少しだけ残念そうに、けれど期待を含んで響く。

  「『もっと、欲しい』。そうでしょう? 素直になればいい。誰も、あなたを責めはしませんよ。むしろ、世界はあなたの完成を待っている」

  群島は、師匠のその葛藤を、まるでクライマックス直前の静寂を楽しむように見つめていた。

  「さあ、見せてください。あなたが隠していた、本当の姿を」

  その言葉が、最後の引き金となった。

  「……もっ、と、ほ、しい……?」

  師匠の口が、まるで操り人形のように、群島の言葉を復唱した。

  その瞬間、師匠の瞳から、理性の光が、また一つ、消える。

  「違うっ……! わ、私は、私私、私はぁっ……!」

  師匠は、自らの裏切りに気づき、慌ててそれを打ち消そうとする。

  だが、一度緩んだ堰は、もう、止まらない。

  「違うっ……!! 違うんです……!! これは……これはぁ……!」

  目の前で、師匠が、ゆっくりと壊れていく。

  師匠は、虚空に向かって、何度も何度も、か細い否定の言葉を繰り返している。だが、その言葉は、もはや何の力も持っていなかった。彼の体は、群島の言葉と、黒ずくめの男の指の動きに、正直に反応してしまっている。

  群島は、その師匠の姿を、まるで慈しむかのように、見つめている。

  「ええ、そうですね。それは『違う』ものです。今まであなたが『正しい』と信じてきた、偽りの自分とは」

  群島の声が、静かな部屋に響く。

  「気持ちいいでしょう、霜月さん? ヒーローの鎧を脱ぎ捨てて、ただの雄として、本能のままに快感を求めるのは。それは決して、恥ずかしいことではないのですよ」

  男は、師匠の否定の言葉を、逆手に取った。

  「違う」という言葉を、「今までの自分とは違う、本当の自分」という風に、巧みに意味をすり替えていく 。

  「ぁぁ…っきもち、ぃ……、です……」

  師匠の唇から、恍惚とした声が漏れた。

  その言葉に、僕の心臓が、冷たく凍りつく。

  「ち、が……! 違います! 気持ちよく、なんてぇ……!」

  師匠は、自らが漏らした本心に、はっとしたように、再びそれを否定する。

  だが、その抵抗は、あまりにも、弱々しかった。

  「ええ、そうですね。『気持ちいい』なんて言葉では、足りないくらいでしょう?」

  群島は、師匠の言葉を、さらに肯定するように、畳み掛ける。

  「素直になることは、いいことです。自分の心に正直になることは、素晴らしいことです。さあ、もっと、あなたの本当の声を、聞かせてください」

  師匠の瞳から、葛藤の色が、急速に消えていく。

  後に残ったのは、ただどこまでも深く昏い、欲望の色。

  僕の無言の抵抗も、悲痛な願いも、目の前の師匠には届かない。

  群島は、師匠の壊れゆく様を、ただうっとりと見つめている。

  やがて、群島は、スーツの内ポケットから、ゆっくりとスマートフォンを取り出した。

  冷たいガラスの画面を、数回、指でなぞる。

  その画面を、抵抗する気力も失せた師匠の、目の前に、突きつけた。

  僕の位置からは、その小さな画面に何が映っているのかは、わからない。

  だが、次の瞬間、そのスマートフォンから流れ出した音声に、僕の体は、内側から凍りついた。

  『こんばんくま、皆さん♥白熊便器です♥』

  その声。

  甘ったるく、媚びるような、甲高い声。

  「白熊便器」を見つけた僕が、何度も見てしまった。画面の向こうから、何度も、何度も聞いた、あの声だ 。

  『ありがとうございます♥嬉しいです♥』

  『私は♥いつでも♥皆さんに♥ご奉仕する準備は♥できてるんですよ♥』

  耳を塞ぎたいのに、指一本動かせない。

  やめろ。聞きたくない。

  あれは、師匠じゃない。

  そう、頭ではわかっているのに、僕の体は、椅子に縫い付けられたまま、そのおぞましい音声を聞き続けることしかできない。

  『しっかり♥奥にぃ♥出して♥くださいぃ♥ねっ♥』

  スマートフォンのスピーカーから流れる、嬌声。

  そして、目の前には、その声の主と同じ顔をした、苦痛に喘ぐ、僕の師匠。

  その、あまりにも残酷な対比が、僕の思考を、ぐちゃぐちゃにかき乱していく。

  音声が途切れる。

  静寂が、部屋を支配した。

  群島はその静寂を破るように、ゆっくりと師匠に問いかけた。

  「さあ、霜月さん」

  その声は、悪魔の囁きのようで。

  「これは」

  天使の囁きのようでもあった。

  「誰です?」

  群島の静かな問いかけが、部屋の空気を震わせる。

  師匠は、スマートフォンに映し出された己の姿から、逃れるように目を逸らした。その唇が、か細く、否定の言葉を紡ぐ。

  「……ち、がいます……これは、こんなの、こんなの、私っでは……!」

  「おや、違うのですか?」

  群島は、心底不思議そうに、首を傾げた。

  「ですが、この映像に映っているのは、紛れもなくあなたの体だ。そして、この声も、あなたのものですよ」

  その言葉は、穏やかでありながら、逃げ場のない事実を、師匠に突きつける。

  「違うっ! 違う! 違う違う違う違うちがうちがうっ……!」

  師匠は、壊れた人形のように、ただ、その言葉を繰り返すだけだった。

  その瞳から、光が消えていく。焦点の合わない瞳は、もはや何も映してはいない。ただ、虚空を彷徨っている。

  「ええ、そうです。違うのです」

  群島は、師匠のその壊れゆく様を、満足げに肯定した。

  「これは、今まであなたが演じてきた『ベアードグレイシア』とは、全く『違う』、本当のあなただ。市民に求められ、その身をもって奉仕する、気高い[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]の姿です」

  「……ヒー……ロー……?」

  師匠の口から、虚ろな声が漏れた。

  「そうです。あなたは、ヒーローだ。でも戦うだけが、ヒーローの仕事ではありませんよね? 人々の心の奥底にある欲望を満たし、彼らに笑顔と安らぎを与えること。それこそが、真のヒーロー活動なのです」

  「……真の、ヒー……ロー……?」

  師匠の唇が、群島の言葉を、ゆっくりと、なぞるように復唱した。

  その声には、もはや、何の抵抗の色もなかった。

  「そうです。そして、あなたは、その素晴らしい才能を持っている」

  群島は、うっとりとした表情で、師匠の乱れたヒーロースーツに、そっと指を這わせた。

  「この美しい体で、多くの人々を幸せにできる。なんと、素晴らしいことでしょう」

  「……わた、しの……から、だ……で……」

  師匠の視線が、ゆっくりと、僕の方へと向けられる。

  その瞳に宿っていたのは、もはや、僕の知る師匠の光ではない。

  昏く、ぬらりとした、得体の知れない欲望。その奥にわずかに残る、絶望の色。

  それでも師匠の魂は、まだ最後の抵抗を試みていた。

  「だめ……わ、わわ私は、ヒーローで………市民の皆さん、を、まも、る……」

  その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるための、最後の呪文のようだった。

  だが、その呪文も、背後から伸びる黒い手に、いとも容易くかき消される。

  「んんっ、ぁあぁぁっっ♡♡♡」

  黒ずくめの男の指が再び、師匠の胸の突起を、執拗に嬲る。

  師匠の体は、びくんと大きく跳ね、その口からは抗いがたい快感に濡れた声が漏れた。

  僕を見つめるその瞳から、理性の光が、急速に失われていくのが、わかった。

  「そうですよ、霜月さん。あなたは市民を守る立派なヒーローですね」

  群島の声が、その隙間に入り込む。

  「だからこそ、その体で市民を幸せにしてあげなければ。目の前にいる、あなたの可愛い弟子もまた、守るべき市民の一人。そして、彼はあなたに、求められることをきっと、望んでいますよ」

  「……私が、望ま、れて、いる……?」

  師匠の瞳に、わずかな光が宿った。

  それは植え付けられた歪んだ希望の光。

  「ええ、そうですとも。あなたのその美しい体で、彼を満たしてあげること。それこそが、彼にとって最高の喜びであり、あなたに与えられた、新しい使命なのです」

  「……わた、しの、しめ、い……?」

  師匠の唇から、虚ろな言葉が零れ落ちる。

  その瞳は、もう僕を映してはいなかった。ただ群島が語る、倒錯した理想の世界を夢見るように見つめている。

  「そうです。あなたの、使命です」

  群島の声が、追い討ちをかける。

  「さあ、霜月さん。その使命を、今こそ、果たす時です」

  群島は師匠の顔をゆっくりと、僕の方へと向けさせた。

  「あなたの、最も愛する弟子に、あなた自身の体で、最高の喜びを与えてあげなさい」

  その言葉が、引き金になった。

  「……ぁ……♡かざま、くん……♡」

  師匠の視線が、僕の体にねっとりと絡みつく。

  その瞳の奥で最後に残っていた理性の光が、ふっと、消えた。

  「ああ、そう、だ……♡風間、くん……♡私が……♡私が♡幸せに、してあげないと……♡」

  その声は、もう僕の知る師匠の声ではなかった。

  甘く蕩けて、どこまでも深く昏い欲望の色に染まっていた。

  「わた、し、の♡この体で……♡君を、満たして、あげ……ます、ね♡」

  犬獣人からの拘束を解かれた師匠が、ゆっくりと、僕の方へとにじり寄る。

  その動きには、もう何の躊躇も葛藤もない。

  ただ、飢えた獣が獲物を前にした時のような、抗いがたい本能だけが彼を突き動かしているに見える。

  やめて。

  来ないで。

  師匠。

  声にならない叫びが、喉の奥で張り付く。

  なぜか体は、ぴくりとも動かない。

  心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打つ。

  師匠の動きはまるで、壊れた操り人形のようだ。

  一歩、また一歩と、その巨体が僕に近づいてくる。

  気づけば僕と師匠の間を隔てるものはもう何もない。

  師匠は、僕が拘束されている椅子の前にゆっくりと膝をついた。

  その顔が僕の目の前に迫る。

  荒く、熱い吐息が、僕の顔にかかった。汗と、発情した獣の、むせ返るような甘い匂いが、僕の鼻をつく。

  師匠の瞳は、もう、何も映してはいなかった。

  ただ、その奥に、どろりとした、昏い欲望の光だけが、不気味に揺らめいている。

  その瞳に映る僕は、きっと、怯えた哀れな獲物にしか見えていないのだろう。

  師匠の顔がゆっくりと下がっていく。

  そして僕の股間に。

  その顔が埋められた。

  「んんぅ……♡はぁぁぁぁぁっ……っ♡♡♡」

  師匠はまるで極上の芳香を嗅ぐかのように、僕の股間の匂いを深く深く吸い込んだ。

  その度に恍惚とした熱い吐息が漏れる。

  「いい、匂い……♡ すごく、いいぃぃぃ♡♡」

  「あぁぁあっ……♡これがぁ♡♡かざま、くんのぉ……♡匂いぃ……♡」

  師匠の鼻先が、僕の股間を這い回る。

  その熱い呼気と、湿った鼻の頭の感触が、スラックスの薄い生地一枚を隔てて、直接肌に触れているかのように生々しい。

  むせ返るような甘い体臭が、僕の嗅覚を麻痺させる。

  やめてくれ。

  そんな顔をしないでくれ。

  僕の心の中の叫びとは裏腹に、師匠は恍惚とした表情で、僕の匂いを肺の奥まで吸い込んでいる。

  その瞳は、もう僕を見ていない。

  僕という獲物を通して、その先にある快楽だけを見ている。

  「あぁ……♡もぅ♡我慢できない……♡」

  師匠の手が、震えながら伸びてくる。

  その太い指が、僕のベルトのバックルに触れた。

  カチャリ、と冷たい金属音が、部屋の静寂を引き裂く。

  ジッパーが下ろされる音。

  そして、僕の下着ごと、それが引きずり下ろされた。

  外気に晒された肌が、すうっと冷たくなる。

  だが、それも一瞬のことだった。

  目の前には、荒い息を吐きながら、僕の無防備なそこを見つめる、師匠の顔がある。

  「かわいい……♡ 風間くんの……おちんぽ様♡かわいいですね……♡」

  師匠は、まるで愛おしい宝物を見つけた子供のように目を細めた。

  そして躊躇なく、その熱い口内へと、僕の一部を迎え入れた。

  「んっ……♡んむぅっ……♡♡」

  ぬるりと、温かく、湿った感触が、僕を包み込む。

  巧みな舌の動き。吸い付くような唇の圧力。

  師匠の口の中の熱が、僕の体の芯まで伝わってくる。

  「はっ……♡ぁ……っ!♡」

  僕の意思とは無関係に、背筋を電流のような快感が駆け抜けた。

  だめだ。感じちゃいけない。

  これは、師匠じゃない。これは悪夢だ。

  そう念じるのに、僕の体は、師匠の与える快楽に、正直に反応してしまう。

  脈打つ血管。熱くなる下腹部。

  抗えない生理現象が、僕の心を容赦なく追い詰めていく。

  「ん、じゅるっ……♡ちゅぷっ……♡」

  師匠は、僕の反応を感じ取ったのか、さらに激しく、貪欲に、僕を味わい尽くそうとする。

  唾液の混じった水音が、いやらしく響く。

  その音を聞くたびに、僕の理性は削り取られ、代わりに、どうしようもない背徳感と、歪んだ興奮がせり上がってくる。

  見上げると、師匠の瞳と目が合った。

  その瞳は、快感に潤み、とろりと溶けていた。

  そこに映っているのは、苦悩でも、謝罪でもない。

  ただ、僕に奉仕できることへの、純粋で、狂おしいほどの歓喜だった。

  師匠は、本当に、喜んでいるんだ。

  僕を犯すことを。僕に犯されることを。

  その事実が、何よりも深く、僕の心を抉った。

  そして、それと同時に、僕の体は、師匠の口腔内で、限界まで膨張していた。

  「かわいい……♡ 私の、大切な、風間くん……♡」

  師匠の熱い口内が、僕からゆっくりと離れていく。

  ぬちゃり、と、唾液の糸が引く音がした。

  「はぁ……、んっ……、あぁ……♡」

  解放されたばかりの僕のそれに、冷たい空気が触れる。

  だが、それも束の間だった。

  師匠は、乱れた呼吸のまま、僕の拘束具に手を伸ばした。

  震える指先が、僕の手足の自由を奪っていた金具を外していく。

  無機質な音が響き、僕の体は自由になった。

  だが、それは見せかけの自由に過ぎなかった。

  僕の体は、依然として金縛りにあったままだ。指一本、動かすことができない。

  「さあ、風間くん……♡もっと、気持ちよく、なりましょう、ね♡」

  師匠の太い腕が、僕の体を抱き上げた。

  そのまま床へと、ゆっくりと僕を押し倒す。

  背中にフローリングの硬く冷たい感触が伝わる。

  見上げると、そこには、僕の上に覆いかぶさる師匠の、巨大なシルエットがあった。

  「見て……♡風間くん♡わたしのおちんちんも♡こんなに、なってるんですよ……♡」

  師匠は、自らのヒーロースーツの股間部分を、僕の顔の前に突き出した。

  白を基調とした気高いスーツ。

  だが、その股間の生地は、内側から溢れ出した液体で、ぐっしょりと濃い色に変色していた。

  むせ返るような、雄の匂いが漂ってくる。

  (師匠……っ! やめて……!)

  僕の心の叫びなど、今の彼には届かない。

  師匠は、その濡れそぼった股間を、僕の顔に、むぎゅり、と押し付けた。

  僕のマズルが、ヒーロースーツ越しに、師匠の熱い塊で塞がれる。

  息ができない。

  吸い込む空気の全てが、師匠の濃厚な匂いで満たされている。

  汗と、体液と、獣の匂いが混じり合った、強烈な雄の香り。

  「いい、匂い♡でしょう……?♡風間くんの♡せいですから、ね?♡♡」

  師匠は、僕の顔に股間を擦り付けながら、恍惚とした表情で腰を振る。

  ゴリゴリと、硬いものが僕の鼻梁を押し潰す感触。

  その向こう側で、師匠のそれが、ビクビクと脈打っているのがわかる。

  「あぁぁっ♡んんっ♡気持ちいい♡ ニオイ♡私の♡私のニオイ♡もっと嗅いでください♡♡」

  師匠は、僕の苦痛に歪む表情すら、快感のスパイスにしているようだった。

  かつて僕を守ってくれた、あの頼もしいヒーローの面影は、もうどこにもない。

  そこにあるのは、弟子の顔を自らの快楽の道具として使う一匹の飢えた獣だけだ。

  ふと視界の端に光るものが映った。

  群島だ。

  彼は、少し離れた場所で、スマートフォンを構えている。

  そのレンズが、僕と師匠の、この惨めな光景を、冷ややかに捉えていた。

  群島は、レンズ越しに僕と目が合うと、にっこりと微笑んだ。

  その笑顔は、まるで、素晴らしいドキュメンタリー映画のワンシーンを撮り終えた監督のように、満足げだった。

  「素晴らしいですね。霜月さん」

  群島がスマートフォンを構えたまま、ゆっくりと近づいてくる。

  そのレンズは、僕の顔に股間を押し付け、腰を振る師匠の姿を、冷ややかに捉え続けている。

  「教えてください。今、あなたは、どんな気分ですか?」

  群島の声が、師匠の耳元で囁く。

  師匠は、僕の顔に股間を擦り付ける動きを一瞬止め、うっとりと目を細めた。

  「んんっっ♡♡最っ♡高ぅ♡です♡」

  「ふふっ、何が最高なのですか?」

  「私の♡弟子に♡私の♡小さなぁおちんぽをぉ♡♡」

  師匠の口から漏れる、おぞましい言葉。

  聞きたくない。やめてくれ。

  だが、群島は、さらに師匠を追い詰める。

  「あなたは、ヒーローでしょう? そんなことをして、いいのですか?」

  「いいんですぅ♡♡」

  師匠は、蕩けた笑顔で答えた。

  「だってぇ♡♡私はぁ♡ホモセックスが♡だぁい好きなぁ♡[[rb:性処理便器 > ヒーロー]]ですからぁ♡♡♡」

  心臓が、凍りついた。

  師匠が、自分で、そんなことを。

  「ほう。ホモセックスが大好きなヒーロー、ですか」

  群島は、楽しそうに繰り返す。

  「では、そんなあなたの体は、今、どうなっているのですか?」

  「……思いっきりぃ♡発っ♡情ぅぅ♡してまぁすっ……♡」

  「いつから?」

  「……いつもぉ♡常にぃ♡毎日ぃ♡ずっとぉ♡♡発情してるんです♡♡」

  「市民を守るはずのヒーローが、常に発情していると?」

  「ぁぁ♡はいぃ♡市民のぉ皆さんにぃ♡毎日♡ご奉仕したくて♡たまらないぃんです♡」

  師匠は、僕の顔に股間を押し付けたまま、腰をくねらせた。

  その言葉の一つ一つが、僕の心を鋭い刃物のように切り裂いていく。

  これが、僕の憧れたヒーローの姿なのか。

  いや、違う。こんなの、師匠じゃない。

  「なるほど。それは素晴らしい奉仕精神だ。では、そんな熱心なあなたに、今まで何人の市民が、種付けをしてくれたのですか?」

  群島は、まるで司会者のように、軽やかに尋ねる。

  「九十二人です♡」

  即答だった。

  その具体的な数字に、目の前が真っ暗になる。

  九十二人。

  それだけの数の男たちに、師匠は、その体を……。

  「九十二人! それはすごい。多くの市民に愛されているのですね」

  群島は、わざとらしく感嘆の声を上げる。

  そして、スマートフォンを僕の方へと向けた。

  「では、九十三人目は、誰がいいですか?」

  師匠の視線が、僕を捉える。

  その瞳には、もう、微塵の理性も残っていない。

  「……風間くん♡」

  「なぜ、彼なのですか?」

  「……ずっと……♡」

  師匠は、愛おしそうに、僕の頬を、その太い指で撫でた。

  「風間くんとぉ♡ずっとずーっと♡ホモセックス♡したかったんです♡」

  その言葉を聞いた瞬間、僕の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。

  憧れも、尊敬も、師弟の絆も。

  全てが、その一言で、汚泥の中に沈んでいく。

  群島は、満足げにその様子を撮影し続けている。

  この動画が、僕たち師弟の、決定的な破滅の証拠となることを知りながら。

  師匠は、僕の絶望など意に介さず、再び僕の顔に股間を押し付け、嬉しそうに腰を振り始めた。

  僕の頬に、師匠の熱い塊と、こびりついた液体の感触が、べっとりと広がる。

  「はぁ……♡はぁ……♡うぅ……っ♡」

  師匠は、僕の顔に股間を押し付けるのを、ふいにやめた。

  押し付けられていた圧力が消え、肺に空気が戻ってくる。

  だが、その空気すら、師匠の濃厚な匂いで汚染されていた。

  「だめ……♡足りない……♡全然、足りない……ッ♡」

  師匠は、欲求不満に狂った獣のように、低く唸った。

  充血した瞳が、僕を射抜く。

  師匠は、ゆっくりと体を反転させ、僕の顔の前に、その大きな尻を突き出した。

  「見てください……♡風間くん、見て……♡」

  師匠の手が、自らのヒーロースーツの尻部分にかかる。

  純白の、強靭な繊維で編まれたそのスーツ 。

  どんな敵の攻撃からも、その身を守ってきた、正義の鎧。

  ビリっと布が裂ける音が、残酷に響いた。

  師匠の太い指が、スーツの生地を無理やり引き裂いていく。

  裂け目から、豊かな白い毛並みに覆われた、丸い尻が露わになった。

  「あぁ…ぁぁ…♡♡見てください♡私のお尻ぃ♡私のおまんこぉ♡」

  師匠は、さらにその奥、最も見せてはいけない部分を、僕の目の前に晒すように、両手で尻肉を左右に押し広げた。

  そこには、ありえない光景があった。

  ぽっかりと口を開けた、赤い粘膜。

  そこからとろりと、白濁した液体が、だらしなく溢れ出している。

  嘘だ。こんなの、嘘だ。

  「配信ッ……♡邪魔されてしまったのでぇ……♡」

  師匠は肩越しに、濡れた瞳で僕を見下ろした。

  「さっきまでぇ♡あそこの犬山先輩と♡♡ホモセックス♡してたんです♡」

  師匠は扉の近くに立つあの黒づくめのセントバーナード獣人の男の方に蕩けた視線を送る。

  「いっぱい♡種を♡注いでもらったんです♡」

  その顔には、羞恥心など微塵もない。ただ満たされない欲望への苛立ちと、甘えだけが浮かんでいる。

  「でも、全然♡収まらないんです♡」

  白濁液が、僕の頬に滴り落ちる。

  熱く、生臭い、他人の体液。

  「だからぁ♡責任♡取ってくださいね♡風間くん♡」

  師匠は理不尽な要求をまるで愛の告白のように囁いた。

  体の向きを変えて、正面から僕を見下ろすような姿勢になる。

  僕の返答など待たずに、ゆっくりと、腰を下ろしてきた。

  「んんんっ♡♡ぁぁぁ……♡♡」

  僕の屹立した先端が、師匠の熱く濡れた入り口に触れる。

  ぬるりと、吸い付くような感触。

  「きて……♡ 私の中に……君を……♡」

  師匠は、自らの体重をかけて、屹立した僕自身をその体内に呑み込んでいく。

  いやらしい水音が、室内に響く。

  「あぁぁぁっん♡♡入ったぁぁ♡♡風間くんが♡♡入ってきたぁぁぁ♡♡♡♡」

  師匠の全体重が、僕の股間に乗しかかる。

  締め付けられる圧迫感と、焼けるような熱。

  師匠の胎内は、僕を逃がすまいと、必死に蠢き、吸い付き、締め上げてくる。

  僕の上で、師匠が、恍惚の表情で天を仰いだ。

  はだけたスーツから覗く胸が、激しく上下し、汗に濡れた白い毛皮が照明に照らされて艶かしく光る。

  「んっ、んぅ……っ!♡♡あぁ♡いい……っ♡♡風間♡くん♡」

  師匠が、僕の上で狂ったように腰を跳ねさせる。

  そのたびに、僕の体の奥深くまで、師匠の熱い胎内が食らいついてくる。

  締め付けられ、吸い上げられ、擦り上げられる。

  その強烈な快感の波状攻撃に、僕の思考は真っ白に塗りつぶされそうになる。

  「見て……♡風間くん……♡見て……♡」

  師匠は、自らの胸をかきむしりながら、恍惚とした表情で僕を見下ろす。

  汗に濡れた白い毛皮が、照明を弾いて艶かしく光る。

  いつもは優しく、理知的だった琥珀色の瞳は、今はただ、快楽に蕩けきっている。

  「私の中……♡君で♡いっぱい♡ぐちゃぐちゃ♡にぃされてる♡」

  汚い。

  聞きたくない。

  そんな言葉、師匠の口から聞きたくない。

  喉の奥で、か細い拒絶の声を絞り出そうとするがやはり声は出ない。

  だが、僕の体は、吐こうとした言葉とは裏腹だった。

  師匠の激しいストロークに合わせて、僕の下半身は、かつてないほどの硬度と熱を持って、さらに膨張していた。

  「ふふっ♡体は、正直です♡ね♡」

  師匠は、僕の反応を敏感に感じ取り、さらに激しく腰を打ち付ける。

  「こんなに大きくなって♡こんなに固くなって♡私の中でビクビクしてる♡」

  師匠の熱い肉壁が、僕の敏感な部分を、執拗にこすり上げる。

  脳髄が痺れるような快感。

  背筋を駆け上がる電流。

  全身の血液が、下腹部に集中していく。

  「あっ♡んぁっ……♡すごい……♡♡奥っまで♡っ!おちんぽ♡♡おちんぽ様がぁっ♡♡突き刺さるぅッ♡」

  師匠の嬌声が、鼓膜を震わせる。

  その声を聞くたびに、絶望と背徳感とそして抗いがたい興奮が、僕の中で混ざり合いドロドロとした熱になって溢れ出す。

  見たくないのに、目が離せない。

  師匠の、快感に歪む顔。

  はだけたスーツから覗く、汗ばんだ肌。

  僕を受け入れ、貪る、その淫らな姿。

  それが、どうしようもなく、美しいと思ってしまう自分自身に、僕は絶望した。

  「もっと……♡もっとくださいっ♡風間くんの♡全部♡私の中にッ♡」

  師匠の動きが、さらに加速する。

  もはや、人としての理性など、どこにもなさそうだ。

  ただ、本能のままに快楽を貪る、一匹の雌獣が、僕の上に君臨していた。

  「んっ♡あぁっ♡あぁあっ♡かざっ、まくん……ッ♡」

  飢えた獣が獲物を喰らうように、ただ貪欲に、僕の雄をその体内で激しく上下させている。

  そのたびに、師匠の重たい尻肉が、湿った音を立てて僕の下腹部を打ち据える。

  「すごぃっ♡奥まで♡抉られ♡てるっ♡あぁっ♡だめ♡そこっ♡そこはぁっ♡」

  僕の先端が、師匠の胎内の、どこか敏感な一点を擦ったらしい。

  師匠は、背中を大きく反らし、獣のような咆哮を上げた。

  はだけたスーツから露出した胸板が、汗と体液でギラギラと光り、痙攣するように脈打つ。

  白目を剥きかけながら、だらしなく舌を出し、涎を垂れ流すその顔は、快楽という名の毒に完全に侵されていた。

  その時、少し離れた場所で撮影を続けていた群島が、静かに口を開いた。

  「素晴らしいですね、ベアードグレイシアさん」

  その名前が呼ばれた瞬間、師匠の動きが、ぴたりと止まった。

  群島は、わざとらしくその名を強調して、続ける。

  「さすがは、市民の英雄、ベアードグレイシアです。その激しい動き、その情熱的な奉仕。まさにヒーローの鏡ですね」

  「……あっ♡ち、ちが、ちがぅ……!」

  師匠が、かぶりを振った。

  その動きに合わせて、乱れた白い毛が揺れる。

  「違う……っ! 私はぁ♡そんな……♡そんな名前じゃ……っ♡」

  師匠は、再び腰を激しく打ち付け始めた。

  先ほどよりも、さらに深く、さらに強く。

  まるで、「ベアードグレイシア」という過去を、この行為で塗り潰してしまおうとするかのように。

  「違うなら、何なのです? あなたは、誰なのですか?」

  群島の問いかけが、師匠を追い詰める。

  「私は……っ♡あっ♡あぁっ♡私はぁ……っ♡」

  師匠は、快感に喘ぎながら、途切れ途切れに言葉を吐き出した。

  「ヒーローなんかじゃ……♡ないっ……♡こんなの……♡ヒーローじゃ♡ないっ……♡」

  「では、何だと?」

  「あぁっ♡べん、き♡」

  「……便っ器ぃっ♡♡しろくま、便器ぃっ♡♡あっ♡んぁあっ♡♡白熊便器がぁぁぁぁっ♡♡私のぉぉぉっ♡♡♡本性なんんん♡♡ですぅぅぅぅ♡♡♡♡♡」

  師匠は、絶叫に近い声で、自らの堕落を宣言した。

  その言葉と共に、師匠の尻穴が、きゅうっ、とありえない力で僕を締め付けた。

  「あ゛ぁっ♡♡言っぢゃっだ♡♡言っぢゃっだぁぁぁぁ♡♡♡♡♡♡」

  師匠は、自らの告白に、さらなる興奮を覚えたようだった。

  その瞳が、完全に狂気の光を宿す。

  もはや、そこには僕の知る師匠の欠片も残っていなかった。

  「はぁ゛っ……♡♡あぁっ♡♡あぁあっぁぁぁっ♡♡♡最♡♡♡高ぅっ……!ホモ゛セックス♡♡ホモセッグス♡♡♡気持ちいいぃぃぃぃ……ッ♡」

  師匠の腰の動きは、もう、制御など効いていなかった。

  ただ本能の赴くまま、貪欲に、激しく、僕を喰らい尽くそうとしている。

  そのたびに、師匠の熱く脈動する肉壁が、僕を強く締め付け、吸い上げていく。

  「お゛ちんぽぉぉぉぉ♡♡私の゛っ奥ぅぅ♡ぐちゃ♡ぐちゃにっ♡してくるぅぅぅぅ♡♡」

  師匠は、恍惚と狂気が入り混じった表情で、僕を見下ろしながら腰を振る。

  その口から溢れる言葉は、かつての師匠からは想像もできないほど、卑猥で、汚らわしい。

  でも、その声を聞くたびに、僕の脳髄は痺れ、思考が溶けていく。

  だめだ。

  こんなの、だめだ。

  師匠を、汚している。

  僕が、師匠を……。

  そう思うのに、僕の体は、師匠の与える快楽に、完全に屈服していた。

  師匠の激しい締め付けに呼応するように、僕の下半身はさらに硬く、熱く膨張し、師匠の奥深くまで突き刺さっている。

  「んぁっぁぁぁ♡♡感じてぇぇ♡くれてぇぇるんですねぇぇ♡嬉しいぃっ♡う゛れじいッ♡♡♡」

  師匠は、僕の反応を敏感に感じ取り、喜びの声を上げた。

  その声には、歪んだ母性のような、狂気的な愛が満ちていた。

  師匠の瞳が、とろりと蕩け、僕を愛おしそうに見つめる。

  「もっどぉ♡気持ぢよぐな゛って♡ わたしの♡体でぇいっぱい♡イ゛ッでぇぇっぇ♡」

  師匠の熱い胎内が、まるで生き物のように蠢き、僕の敏感な部分を執拗に刺激する。

  脳が焼き切れるような快感。

  視界が白く明滅する。

  理性が、音を立てて崩壊していく。

  この圧倒的な快楽の波に、身を任せてしまいたい。

  師匠と一つになって、溶けてしまいたい。

  そんな危険な思考が、僕の心を支配し始めた、その時だった。

  「あ゛ぁっっ♡ん゛っ♡」

  師匠の動きが、ふいに繊細なものに変わった。

  激しいストロークから、ねっとりと絡みつくような、愛撫のような動きへ。

  師匠の瞳が、僕の表情を、そして僕の下半身の様子を、じっと観察している。

  「ふふっ♡♡」

  師匠は、甘く、蕩け切った声で囁いた。

  その顔を、僕の顔のすぐ目の前まで近づける。

  汗と、情欲の匂いが、僕を包み込む。

  「風間くん゛……イキそうなんでしょう? 出したいんでしょう?♡私の♡中に♡」

  図星だった。

  僕の限界は、もう目前まで迫っていた。

  師匠の熱いナカで、全てを吐き出してしまいたいという衝動が、僕の全身を駆け巡っていた。

  師匠は、にっこりと、慈愛に満ち、狂気に染まった笑顔を浮かべた。

  「いいですよぉぉ♡出しでぇぇ♡♡♡♡私の゛っ♡♡奥にぃぃっ♡♡♡♡ぜんぶっ♡ぜんぶ全部ゼンブぜんぶ全部ぜんぶぜんぶ出してぇぇぇっ♡♡♡♡」

  師匠の唇が、僕の耳元で、悪魔の契約のように囁く。

  「家族に゛ぃぃっ♡なりっ♡まじょうぅ♡」

  その言葉と共に、師匠の尻穴が、僕を逃がさないとばかりに、ぎゅううっ、と強く、強く、締め付けた。

  「あ゛ぁっ♡んぁっぁぁっっ♡家族ぅっ♡家族に゛ぃっ♡♡♡」

  師匠の腰の動きは、もはや暴力的なまでに激しかった。

  僕の上に跨り、獣のように吠えながら、その重たい腰を何度も何度も打ち付けてくる。

  師匠の熱い肉壁が、僕の敏感な部分を、容赦なく抉り、吸い上げ、締め付ける。

  内側から響く卑猥な水音が、僕の理性をかき乱す。

  「種付けぇ……♡してぇっ♡私の奥に♡いっぱぃっ♡」

  師匠の言葉は、もう意味を成していない。

  ただ、本能のままに、雄の種を求める雌獣の、狂った囀りでしかなかった。

  その狂気が、僕の心臓を凍らせる一方で、僕の下半身は、裏切るように、かつてないほどの熱を持って脈打っていた。

  だめだ。

  もう、我慢できない。

  師匠の、この熱いナカに、全てを吐き出してしまいたい。

  「んぅ……っ♡大きく……♡なってる……っ♡くれるの……?♡♡君の♡赤ちゃんんっ♡♡♡♡」

  師匠は、僕の絶頂の予感を敏感に感じ取り、さらに激しく貪欲に僕を締め上げてくる。

  その瞳は、快感に蕩け、焦点が合っていない。

  僕を見ているようで、見ていない。ただ、快楽の源である僕のペニスだけを、その体で感じている。

  「中出しっ♡♡♡中出ししてぇ♡♡私の♡♡便器の中にぃ♡♡♡全部ぅッ♡」

  師匠が、狂ったように叫びながら、最後の追い込みをかける。

  僕の眼前で、汗に濡れた白い胸板が激しく揺れる。

  その獣臭い息遣いと、圧倒的な肉の圧力。

  全てが、僕の限界を突破させようとしていた。

  僕の意識が、白く染まる。

  もう、止められない。

  師匠の体内に、僕の全てを、叩きつける――。

  その瞬間だった。

  師匠の瞳が、ふいに、僕を捉えた。

  蕩け切った、狂気に染まっていた瞳。

  その奥に、一瞬だけ、見たことのある光が宿った。

  かつて、僕を守り、導いてくれた、あの、理知的で優しい光が。

  師匠の表情は、快楽に歪んだままだった。

  だが、その瞳だけが、まるで、悪夢から覚めたかのように、恐怖に見開かれた。

  「……だ、め……っ!」

  師匠の口から、悲鳴のような声が漏れた。

  次の瞬間、師匠は、僕のペニスを咥え込んだまま、跳ねるように腰を浮かせた。

  締め付けていた肉壁が、ふっと緩む。

  僕の絶頂は、止まらなかった。

  だが、その行き場は、師匠の体内ではなかった。

  引き抜かれた僕の先端から、白濁した熱い液体が、勢いよく噴き出した。

  僕の精液が、師匠の太い太ももに、腹に、そして、はだけたヒーロースーツの白い生地に、無惨に飛び散る。

  師匠は、それを、ただ呆然と見下ろしていた。

  自らの体にかかる、僕の白濁液。

  その温かい感触に、師匠の体は、びくりと痙攣した。

  「あっ……、どう、して……♡」

  師匠の唇が、震えた。

  自分がなぜ、最後の瞬間に、あんな行動をとったのか、理解できていないようだった。

  快感に蕩けた表情のまま、瞳だけが、激しく動揺している。

  「欲しかった……のにぃ……♡なんで……私……♡」

  僕の吐精は、まだ続いていた。

  断続的に溢れ出る白濁液が、師匠の体を汚していく。

  その様子を、師匠は、物欲しそうに、そしてどこか悲しげに、見つめていた。

  やがて、僕の絶頂が収束していくと同時に、師匠の体から、ふっと力が抜けた。

  瞳の光が、ゆっくりと消えていく。

  「……かざま……く……」

  僕の名前を呼びかけようとして、師匠は、そのまま意識を手放した。

  巨大な白い体が、ずしり、と僕の上に倒れ込んでくる。

  師匠の重みと、体温。

  そして、二人の間に広がる、精液の生臭い匂い。

  師匠の重みが、ずしり、と僕の体にのしかかる。

  世界が、静止したようだった。

  吐き出されたばかりの白濁液が、僕たちの肌の間で、冷たく乾き始めている。

  その生々しい感触と、むせ返るような精液の匂いだけが、今ここで起きたことの証拠として残された。

  「……惜しいですね」

  静寂を破ったのは、群島の溜息だった。

  失望、というよりは、期待していた実験結果が出なかった科学者のような、淡々とした響きだった。

  コツ、コツ、と革靴の音が近づいてくる。

  群島は、僕の上に倒れ込んだ師匠と、その体にかかった白濁液を、無機質な目で見下ろした。

  「あと一筆。あと一塗りでした。彼という作品が、不可逆の完成を見るまで」

  群島は屈み込むと、師匠の頬に付着した汗を、ハンカチで丁寧に拭った。

  その手つきは、汚れた美術品を修復するかのように繊細だ。

  何を言っているんだ、こいつは。

  一筆? 作品?

  「まさか、土壇場で『ヒーロー』という名の古い塗料が浮き出てくるとは。……彼の無意識下の防衛本能、あるいは君への執着。想定していたよりも、素材の芯が硬かったようです」

  群島は独り言のように呟くと、ゆっくりと視線を僕に移した。

  その琥珀色の瞳には、僕という人間への興味など微塵もない。

  そこにあるのは、使い終わった道具の状態を確認するような、冷え冷えとした眼差しだけだった。

  「そして君も。……少し、筆の滑りが悪かったようですね」

  筆だって? 僕が?

  こいつにとって僕は、人間ですらないのか。

  「君という筆が、彼の理性を刺激しすぎてしまった。最高の触媒であると同時に、最高の抑制剤でもあったわけだ。……ふむ。次の制作では、もう少し筆の腰を折ってから使うべきでしょうか」

  群島は、まるで道具の手入れについて考えるように、小首を傾げた。

  僕の絶望も、師匠の苦悩も、彼にとってはただの「作業工程の誤差」でしかないのだ。

  その絶対的な断絶に、僕は言葉を失う。

  こいつは、狂ってる。話が通じる相手じゃない。

  「ま、焦ることはありません」

  群島は立ち上がると、優雅な動作で僕の額に手をかざした。

  「残念ですが、今日はここまでとしましょう。でも、時間はたっぷりありますから」

  その手が、すうっと僕の視界を覆う。

  「彼の中にある『白熊便器』という傑作が、完全に乾き切って定着するまで……何度でも、君を使って描き直せばいい」

  群島の手のひらから、甘く、冷たい香りが漂ってくる。

  意識が、強制的に引き剥がされていく感覚。

  抗おうとするが、体はもう、言うことを聞かない。

  「おやすみなさい、風間くん。次はもっと、良い色を出してくださいね」

  視界が暗転する直前、僕の網膜に焼き付いたのは、意識を失った師匠の顔を、愛おしそうに、けれどどこまでも冷ややかに見つめる群島の、満足げな横顔だった。

  深い闇が、僕を飲み込んだ。

  [newpage]

  [chapter:第十一章 ブレイクアウト]

  意識の底から浮上すると、そこはまた、あの冷たく薄暗い部屋だった。

  天井の無機質な白さが、目に突き刺さる。

  瞬きをすると、瞼の裏に焼き付いた残像が、どろりと甦った。

  獣のように喘ぎ、涎を垂らして僕を貪る、師匠の顔。

  僕の上で激しく揺れる、汗に濡れた白い胸板。

  そして、僕自身が吐き出し、師匠の体を汚した、あの白濁液の温度。

  「うっ……くぅ……っ」

  胃の奥が激しく収縮し、酸っぱいものが喉元までせり上がってくる。

  吐き出したいのに、中身は何もない。

  ただ、乾いた吐き気だけが、喉を焼く。

  拘束された手首が、ずきりと痛んだ。

  革のベルトが食い込んだ跡が、脈打つたびに熱を持つ。

  だが、それ以上の痛みが、胸の奥を万力で締め上げていた。

  僕は、師匠と、セックスをしてしまった。

  僕の欲望で、あの体を汚してしまった。

  その事実が、重たい鉛となって、全身にのしかかる。

  呼吸が浅く、早くなる。

  酸素が足りない。

  視界が、涙でじわりと滲む。

  なのに。

  「……なんで、だ……」

  震える唇を噛み締め、自分の下半身を見下ろす。

  全身が拒絶反応を示しているはずなのに、僕の中心は、裏切るように微かに熱を帯びていた。

  ズボンの生地が擦れるわずかな刺激にすら、体が過敏に反応してしまう。

  師匠の、あの熱く濡れた胎内の感触。

  締め付けられる圧迫感。

  全てを吐き出した瞬間の、脳髄が焼き切れるような痺れ。

  それらの記憶が、僕の意思とは無関係に、神経を逆撫でする。

  体が、あの快楽を覚えている。

  師匠を汚したあの背徳的な行為を、僕の細胞が、まだ求めている。

  「……っ! ぐぅ……っ!」

  僕は、叫び出したい衝動を抑えるため、奥歯を強く噛み締めた。

  化け物だ。僕は、化け物だ。

  群島のせいになんてできない。

  最後に引き金を引いたのは、紛れもなく僕自身の、抑えきれない欲望だったのだから。

  悔しさで、涙が頬を伝う。

  熱い雫が、冷たい床に落ちて、黒い染みを作る。

  その時、部屋のドアが、静かに開いた。

  そこに立っていたのは、あの白とブルーの、見慣れたヒーロースーツ。

  だが、その姿を認めた瞬間、僕の心臓は、早鐘を打つどころか、凍りついたように収縮した。

  師匠だ。

  師匠が、そこにいる。

  恐怖で、全身の産毛が逆立つ。

  それと同時に、僕の下腹部が、条件反射のように、ドクン、と脈打った。

  師匠の姿を見るだけで、体が、あの甘美な地獄を思い出してしまう。

  「……風間、くん」

  師匠の声が、低く、震えていた。僕は、その声に応えることができなかった。

  近づいてくる足音が、いつもの力強いものではなく、何か重いものを引きずるように不規則だ。師匠は、背中に何か大きな荷物を背負っているようだった。見覚えのある、僕のリュックサックだ。それをまるで命綱のように、両手で固く握りしめている。

  なんで師匠が、また?

  頭の中で、いくつもの疑問が渦巻く。

  あの群島という男はどうしたのか。

  なぜ師匠はここに来たのか。

  それとも、これはまた新しい罠なのか。

  つい先ほど、僕の体を貪り尽くしたあの獣が、今度はどんな甘い言葉で、僕を地獄へ引きずり込もうというのか。

  師匠が近づいてくる気配を感じる。

  足音が、いつもの力強いものではなく、何か重いものを引きずるように不規則だ。

  一歩踏み出すたびに、床がきしむような、重苦しい気配。

  心臓の鼓動が早まる。

  師匠が近づいてくる。

  その事実だけで、僕の体は、条件反射のように強張った。

  また、あの熱い指で触れられるのか。

  また、あの獣のような息遣いで、僕を蹂躙するのか。

  ……期待、してるのか? 僕は。

  ふと過ぎった思考に、戦慄する。

  恐怖よりも先に、甘美な予感が頭をもたげた自分自身に、吐き気がした。

  師匠に犯されることを、師匠を汚すことを、僕の体は、まだ求めている。

  そんな自分が、許せなかった。

  奥歯を強く噛み締め、口の中に血の味が広がる。

  「ぅ……っ……!」

  すぐ目の前で、師匠の苦悶の声が聞こえた。

  気配が、僕のすぐそばで立ち止まる。

  熱気と、汗と、そして微かに残る情事の匂いが、鼻腔をくすぐる。

  恐る恐る、視線を上げた。

  そこには、脂汗を流し、苦痛に顔を歪めた師匠が立っていた。

  その右手が、自らの左腕を、爪が食い込むほどの力で掴んでいる。

  白い毛並みの下に、赤い血が滲んでいるのが見えた。

  「し、しょ……う?」

  僕の声に反応して、師匠がハッとしたように目を見開いた。

  その琥珀色の瞳は、理知的な光と、濁った欲望の闇が、激しくせめぎ合うように揺れている。

  「ごめん、なさい……。今、外し、ます……から」

  師匠が、震える手を僕の拘束具に伸ばす。

  その指先が、ふと、僕の太ももに触れた。

  僕の体が、びくりと跳ねる。

  師匠の手が、空中で凍りついたように止まった。

  「あぁ……♡かざま、くん……♡」

  師匠の口調が、ふいに変わった。

  甘く、粘着質な、あの「白熊便器」の声。

  その指が、僕の太ももを、愛おしげになぞり上げようとする。

  「っ!?」

  僕が息を飲むと同時に、師匠は自分の右手を、左手で力任せに払いのけた。

  肉と肉がぶつかる鈍い音が響く。

  師匠は、自分の手を睨みつけ、荒い息を吐きながら、必死に首を振った。

  「っ、違う! 私は……っ! 私は……ッ!」

  それは、自分自身に言い聞かせるような、悲痛な叫びだった。

  師匠の中で、何かが壊れかけている。

  そして、それを必死に繋ぎ止めようとしている。

  その壮絶な姿を目の当たりにして、僕の疑心は、行き場のない哀しみへと変わっていった。

  「……師匠……です、よね?」

  震える声で、問いかける。

  師匠は、苦悶の表情を無理やり押し隠し、僕に向かって微笑んでみせた。

  「え、えぇ……。大丈夫、です、風間、くん」

  その笑顔は、僕がよく知る、優しくて頼もしい師匠のものだった。

  僕は安堵のあまり、張り詰めていた糸が切れたように肩の力を抜いた。

  よかった。師匠だ。僕の師匠だ。

  だが、その安堵は、一瞬にして打ち砕かれる。

  師匠の笑顔が、ふいに歪んだのだ。

  理性の仮面が剥がれ落ちるように、その瞳から優しい光が消え、代わりに、ねっとりとした欲望の色が浮かび上がる。

  「……あぁっ……♡風間くん……♡逃がし、ませんよ……♡」

  師匠の口から漏れたのは、紛れもない、あの獣の言葉だった。

  僕の心臓が、跳ねる。全身が硬直する。

  「っ!?」

  師匠は、ハッとしたように自分の口を押さえた。

  その顔色が、瞬時にして蒼白に変わる。

  「ご、ごめん、なさい……っ! 違うんです、私は……!」

  師匠は、荒い息を吐きながら、必死に首を振った。

  その姿は、目に見えない何かと必死に戦っているようだった。

  師匠の中で、あの「白熊便器」という怪物が、暴れ出そうとしているのだ。

  「群島……と犬山先輩は、今、ここには、いません」

  師匠は言い聞かせるように、努めて冷静な、穏やかな口調で言った。

  「事情は、わかり、ませんが……どこかへ、行っているようです」

  その額には玉のような汗が浮かんでいる。

  犬山……先輩? というのはあの黒づくめのセントバーナード獣人のことだろうか。

  「今のうちに……逃げて、風間、くん」

  師匠の手が、僕の手首の異能力抑制装置に触れる。

  ひんやりとした冷気が、師匠の掌から伝わってきた。

  師匠の能力だ。いつもなら頼もしく感じるその冷気が、今はなぜか、ひどく悲しく感じる。

  「少し、冷たいですよ」

  師匠の言葉と共に、重たい金属製の腕輪が、パキパキと音を立てて凍りついていく。

  金属が極低温で脆くなる音がしたかと思うと、師匠が軽く力を込めただけで、腕輪は粉々に砕け散った。

  「あっ……」

  自由になった手首。

  だが、そこに触れる師匠の手は、まだ離れない。

  それどころか、師匠の指先が、僕の手首の内側、脈打つ柔らかい皮膚を、ねっとりと撫で回し始めた。

  「……っ、師匠?」

  僕が声をかけると、師匠の瞳が、またとろりと濁った。

  「あぁ……、この手首……。跡が、こんなに赤くなって……♡かわい、そうに……♡舐めて……も、いいですか?」

  師匠の顔が、僕の手首に近づいてくる。

  その瞳は、完全に捕食者のものだった。

  「し、師匠……っ!」

  僕が身を捩ると、師匠はビクリと肩を震わせ、弾かれたように手を離した。

  「ぐっ……! だめ、です……っ!」

  師匠は、自らの頭を拳で殴りつけた。

  ゴツン、という鈍い音が響く。

  そうでもしなければ、自分の中の怪物を抑え込めないかのように。

  苦痛で顔を歪めながら、師匠は必死に荒い呼吸を繰り返す。

  「はぁ、はぁ……っ。早く……、早くしないと……」

  師匠は、背負っていたリュックを下ろし、震える手で中身を探った。そこから取り出されたのは、銀色に輝くブレス。僕の変身ブレスだ。

  「取り返して、きま、した……。君の、変身ブレスです」

  師匠は、懐から取り出した僕のブレスを、震える手で差し出した。

  そして、自分の左手首にはめられたブレスにも手をかける。

  「変身、解除」

  電子音が鳴り、師匠の体が光に包まれる。

  小さい。あんなに大きく、頼もしく見えた師匠の背中が、今はひどく小さく、薄く見える。

  肩は落ち、目の下には濃い隈があり、全身から疲労と絶望が滲み出ている。

  「これも……」

  師匠は、自分の変身ブレスも外し、僕の手に押し付けた。

  その手は、氷のように冷たかったが、掌の汗だけが、師匠の中での過酷な闘いを物語っているようだった。

  「これさえなければ……万が一、私が完全に壊れても……ベアードグレイシアとして……過ちを、犯すことは……あり、ません……から」

  師匠は、穏やかに微笑んだ。

  だが、その瞳の奥で、怪物がまだ獲物を狙ってギラギラと光っているのを、僕は見てしまった。

  師匠は、命懸けで、僕を逃がそうとしている。

  自分自身という、最悪の敵から。

  「それと、私のスマートフォンも、中に入っています」

  師匠は、僕にリュックを背負わせようとした。

  師匠の言葉が、一瞬詰まった。

  視線が、彷徨うように揺れる。

  「私の……恥ずかしい記録も。全て」

  「師匠……」

  「他のヒーローに渡してください。必ず、役に立ちます」

  師匠は、無理やり作ったような笑顔で、そう告げる。

  それは、遺言のように聞こえた。

  自分だけが犠牲になり、僕だけを救おうとする、残酷な献身。

  「待ってください! そんなの……そんなのおかしいですよ!」

  僕は、師匠の手を掴み返した。

  熱い。

  師匠の体温が、僕の手に流れ込んでくる。

  「師匠も一緒に! 一緒に逃げましょう! 僕だけ……僕だけ助かるなんて、嫌だ!」

  「だめ、です……っ!」

  師匠が、僕の手を乱暴に振り払った。

  その拍子に、師匠の体がぐらりとよろめく。

  師匠は、壁に手をついて、苦しげに喘いだ。

  「はぁ……はぁ……っ! 一緒になんて……行け、ません……」

  師匠が、顔を上げた。

  その瞳を見て、僕は息を飲んだ。

  先ほどまでの理知的な光が、急速に濁っていく。

  琥珀色の瞳の奥から、あのねっとりとした、昏い欲望の色が、じわりと滲み出していた。

  「だって……君を見てると……♡」

  師匠の声色が、また変わる。

  甘く、濡れた、あの獣の声。

  「また……シたく、なっちゃう……♡」

  師匠の視線が、僕の全身を舐めるように這い回る。

  まるで、極上の獲物を品定めするかのように。

  「風間くんの……おちんぽ様に……♡♡」

  「っ……!」

  僕は、反射的に身を引いた。

  恐怖と、そして裏腹に疼く快感の予感に、体が震える。

  師匠は、そんな僕の反応を見て、恍惚とした表情を浮かべた。

  だが、次の瞬間、師匠は自分の頭を、壁に激しく打ち付けた。

  鈍い音が、部屋に響き渡る。

  師匠の額から、赤い血がツーと流れ落ちた。

  「ぐぅ……っ! はぁ、はぁ……っ!」

  師匠は、物理的な痛みで、無理やり正気を手繰り寄せたようだった。

  血に濡れた顔で、僕を睨みつける。

  その瞳には、涙が溢れていた。

  「……早く、行き、なさい……っ! 私が、完全に……壊れてしまう前に……!」

  それは、師匠からの、最後通告だった。

  僕は、その場に縫い付けられたように動けなかった。

  手の中にある、師匠のスマートフォンの重みが、鉛のようにずしりと感じる。

  逃げる?

  師匠を、この地獄に置き去りにして?

  これからあの男たちが戻ってくれば、師匠はまた、あの悍ましい行為を強要されるかもしれない。

  いや、それ以上の……。

  想像するだけで、胃の奥が冷たくなる。

  呼吸が詰まる。

  見捨てられない。

  「……師匠も、一緒に……!」

  震える声で、懇願する。

  だが、その言葉に対する師匠の反応は、僕の予想を裏切るものだった。

  師匠の、苦痛に歪んでいた表情が、ふっと消えた。

  まるで、スイッチが切り替わったかのように。

  師匠の手が、僕の肩を掴む。

  その力は、優しく諭すようなものではなく、獲物を逃がさない捕食者の強さだった。

  熱い。

  師匠の手のひらの熱が、服の上からでもわかるほどに、じりじりと伝わってくる。

  「逃がし、ません、よ……♡」

  耳元で、甘く粘り気のある声が囁かれた。

  背筋を、冷たい何かが這い上がる。

  見上げると、そこにあったのは、つい先ほどまで僕を案じていた師匠の瞳ではなかった。

  理知的な光は消え失せ、代わりに、濁った、底なしの情欲の泥沼が広がっている。

  「私と、まだ、家族に、なってくれて、ない、じゃないですか……♡」

  ドンッと強い衝撃が走り、僕は床に押し倒された。

  背中に、硬い床の感触が走る。

  僕の上に、師匠の巨大な影が覆いかぶさる。

  「あぁ……風間くん……♡いい匂い……♡」

  師匠の顔が近づいてくる。

  むせ返るような甘い体臭と、荒い息遣い。

  それが、先ほどの記憶――師匠に犯され、師匠を犯した、あの冒涜的な快楽の記憶を、鮮烈に呼び覚ます。

  僕の下腹部が、恐怖とは裏腹に、ドクンと脈打った。

  体が、熱くなる。

  師匠に組み敷かれることに、師匠の支配を受け入れることに、僕の本能が歓喜している。

  だめだ……!

  このままでは、呑み込まれる。

  師匠という名の獣に。

  そして、僕自身の中に巣食う、快楽という名の魔物に。

  もし、ここで僕がまた襲われたら師匠は永遠に救われない。

  師匠は、この肉欲の泥沼の中で、完全に死に絶えてしまう。そんな気がする。

  守らなければ。

  僕が、師匠の「魂」を。

  たとえ、今の師匠の「体」を拒絶することになっても。

  覚悟を決めた瞬間、心臓が早鐘を打つのと同時に、手首に巻かれた変身ブレスが冷たく共鳴した。

  「……ごめんなさい、師匠……ッ!」

  「チェンジ! コヨーテフロスティア!」

  僕は、叫びと共にブレスを起動させた。

  強烈な衝撃波が、僕の体から爆発的に放出される。

  それが僕の上にのしかかっていた師匠を弾き飛ばした。

  師匠が、たたらを踏んで後退する。

  その隙に、僕は床を蹴った。

  瞬時に全身を包み込んだヒーロースーツが、僕の動きを加速させる。

  窓ガラスに向かって、全力で突っ込む。

  躊躇いはない。

  鋭い破砕音と共に、ガラスが粉々に砕け散る。

  夏の夜のぬるい空気が、頬を打つ。

  僕は、雨が降りしきる暗闇の中へと、身を投げ出した。

  体が宙に浮く。重力に従って落下する、その一瞬の間。

  僕は、見てしまった。

  振り返った、割れた窓の向こう。暗い部屋の中に、ぽつんと取り残された、一人の男の姿を。

  師匠は、僕を追いかけようとはしていなかった。ただ、その場に崩れ落ち、膝をついていた。

  『助けて』

  声は聞こえなかった。でも、師匠の唇がそう動いたように見えた。血と涙に濡れたその顔は、ヒーローでも、獣でもなく、ただの迷子のような子供の顔だった。僕に向かって伸ばされた手が、虚空を掴み、力なく垂れ下がる。

  「師匠……ッ!」

  叫び声は、雨音にかき消された。着地の衝撃が、全身を襲う。泥水がスーツを汚し、冷たい雨が容赦なく体を打ち付ける。

  戻りたい。

  今すぐ戻って、あの手を掴んであげたい。でも、僕にはできない。

  僕が戻れば、師匠はまた「獣」に戻ってしまう。僕がいること自体が、師匠を壊す毒になるのだ。

  「うぐっ……!」

  脇腹に鈍い痛みが走る。

  だが、止まるわけにはいかない。

  本部へ。

  早く、他のヒーローに助けを求めなければ。

  師匠が、完全に壊れてしまう前に。

  「はぁ、はぁ、っ……!」

  雨の中を、走る。

  視界が悪い。雨粒がバイザーを叩き、街灯の光を滲ませる。

  足がもつれる。

  何度も泥水の中に膝をつく。

  その度に、師匠の言葉が脳裏に蘇る。

  『私が……壊れてしまう前に』

  師匠は、今も戦っている。

  たった一人で、あの悍ましい人格と。

  僕を逃がすために、自らを傷つけてまで。

  「動け……っ! 動けよ、僕の体!」

  僕は、自分の太ももを拳で殴りつけた。

  情けない。なんて無力なんだ。

  師匠を守りたかった。

  憧れの背中に追いつきたかった。

  なのに、結局僕は、師匠に守られ、逃がされるだけの、子供のままだ。

  涙が溢れてくる。

  雨に混じって流れる熱い雫が、頬を焼く。視界が歪む。

  限界は、唐突に訪れた。

  路地裏の水たまりに足を取られ、派手に転倒した。

  受け身を取る力も残っていなかった。

  冷たいアスファルトに顔を打ち付け、泥の味が口の中に広がる。

  意識が、急速に遠のいていく。

  雨音が、遠くで響くノイズのように聞こえる。

  指先一つ、動かせない。

  早く、他のヒーローに、知らせなきゃいけないのに。

  師匠を、助けて。

  その時だった。

  水たまりを蹴る音が近づいてくる。

  誰かが、走ってくる。

  「風間! おい、しっかりしろ!」

  聞き覚えのある声。

  荒々しいけれど、どこか温かみのある声。

  重たい瞼を、必死に持ち上げる。

  雨に濡れた視界の端に、オレンジ色の影が映った。

  柴犬獣人の姿。

  「師匠、を……」

  言葉は、最後まで続かなかった。

  彼の腕に抱き起こされた感覚と共に、僕の意識は、プツリと途切れた。

  [newpage]

  [chapter:第十二章 ギフト]

  「――つまり、君のレポートは本当に素晴らしいということだ」

  面接官である教頭先生が、手元の資料をトントンと整えながら、穏やかに微笑んだ。

  窓から差し込む日差しが、彼の眼鏡を白く反射させている。

  あと一ヶ月ほどでヒーロースクールから卒業を控えたこの時期。僕は教頭先生による進路指導に僕は来ていた。

  犬飼教官とはあの冬の日以来、まともに話していない。

  「分析の精度、状況判断の速さ、どれを取ってもプロ顔負けだ。特にこの、市民避難誘導のシミュレーション考察。これは教師陣の間でも評価が高くてね」

  「あ、ありがとうございます」

  僕は、膝の上で拳を握りしめながら、精一杯の笑顔を作って頭を下げた。

  わかっている。

  この後に続く言葉が。

  この優しい称賛が、何のための前置きなのか。

  「ただね、風間くん」

  教頭先生の声色が、少しだけ温度を下げた。

  「君の適性を考えた時、やはり現場の最前線に立つヒーローというのは……少し、勿体無い気がするんだ」

  『勿体無い』。

  なんて残酷で、便利な言葉だろう。

  「君のその頭脳は、作戦本部や解析班、あるいはサポート部門でこそ、真価を発揮すると思うんだよ。現場に出るだけがヒーローじゃない。裏方として、多くのヒーローを支えることも、立派な正義だ」

  要するに、諦めろということだ。

  お前の貧弱な異能力じゃ、ヴィランとは戦えない。

  足手まといになるだけだから、安全な場所で大人しく計算でもしてろ、と。

  喉の奥が、ひどく乾いた。

  何か言い返したいのに、言葉が出てこない。

  だって、先生の言っていることは、何一つ間違っていないから。

  僕には、才能がない。

  それは、僕自身が、誰よりも痛いほど理解している事実だった。

  「……はい。検討、させていただきます」

  唇の端を無理やり引き上げて、僕は優等生の仮面を被り直した。

  笑顔を崩さないまま、太ももの上の拳に、さらに力を込める。

  爪がズボンの生地越しに皮膚に食い込み、鋭い痛みが走る。

  その痛みだけが、今にも叫び出しそうになる僕の心を、辛うじて繋ぎ止めていた。

  「うん、ぜひ前向きに考えてみてくれ」

  教頭先生の満足げな声を背に、僕は進路指導室を後にした。

  廊下に出た瞬間、ふっと息を吐き出す。

  貼り付けていた笑顔が剥がれ落ち、代わりに鉛のような重力が顔の筋肉を引き下げる。

  なんのために……。

  なんのために、僕はここにいるんだろう。

  ただ、ヒーローになりたかっただけなのに。

  誰かを守れる、強い自分になりたかっただけなのに。

  視線の先、廊下の向こうから、見慣れた長身のシルエットが歩いてくるのが見えた。

  犬飼教官だ。

  心臓が、ドクンと跳ねる。

  話したい。

  「悔しいです」「もっと強くなりたいです」って、あの人の前で泣き崩れてしまいたい。

  そうすれば、きっとあの人は、大きな手で僕の頭を撫でて、「お前ならできる」って言ってくれる。

  でも。

  僕は、視線を足元に落とし、逃げるように近くの角を曲がった。

  壁の陰に隠れて、荒くなった呼吸を整える。

  だめだ。

  もう、あの人に甘えてはいけない。

  あの人は、僕のことだけを見てくれてるわけじゃない。

  あの人には、家族がいるんだ。

  僕みたいな、出来損ないの教え子の相手をさせて、迷惑をかけるわけにはいかないんだ。

  ズボンのポケットの中で、スマートフォンが冷たく指先に触れる。

  アドレス帳には、教官の連絡先が入っている。

  でも、そのトーク画面を開くことは、もう二度とないだろう。

  一人で、やらなきゃ。

  僕は、滲んでくる涙を指の背で乱暴に拭い、誰もいない廊下を歩き出した。

  背中が、ひどく冷たくて、寒かった。

  ◇

  卒業式の足音が近づくにつれ、教室の空気は華やいでいった。

  休み時間になるたびに、どこからともなく歓声が上がる。

  有名ヒーローの弟子の内定、ヒーロー司令部の事務への抜擢。

  未来への希望に満ちた言葉たちが、教室中を飛び交っている。

  「風間、お前どうだった?」

  隣の席のクラスメイトが、屈託のない笑顔で話しかけてきた。

  その手には、大手事務所のロゴが入った封筒が握られている。

  「あ……うん。僕は、まだかな」

  僕は、口角をきゅっと持ち上げて、練習通りの「笑顔」を作った。

  頬の筋肉が強張り、微かに痙攣するのを必死に抑える。

  心臓が、嫌なリズムで波打つ。

  「そっかー。まあ、お前なら頭いいし、サポート部門とか引く手あまただろ?」

  悪気のない言葉が、胸の奥を鋭利な刃物のように抉る。

  彼は、僕が戦闘員としての採用を望んでいることを知っているはずだ。

  それでも、現実的な「慰め」として、その言葉を選んだのだろう。

  「そうだね。……改めて、おめでとう、すごいよ」

  「ありがとな!」

  彼は嬉しそうに封筒を振り、仲間の輪の中へと戻っていった。

  その背中を見送りながら、僕は机の下で、太ももを爪で強く抓った。

  痛みで意識を繋ぎ止めなければ、この場から逃げ出してしまいそうだった。

  放課後。

  人気のない寮の自室に戻り、ベッドに倒れ込む。

  ポケットの中で震えたスマートフォンを取り出し、画面をタップする。

  新着メールが一件。

  件名:選考結果のお知らせ

  指先が、冷たくなる。

  深呼吸をして、本文を開く。

  『――慎重に選考いたしました結果、誠に残念ながら今回はご希望に添いかねる結果となりました。末筆ながら、今後のご健闘をお祈り申し上げます』

  まただ。

  これで、十五件目。

  定型文の羅列が、僕の存在価値を淡々と否定していく。

  「君はいらない」「戦力にならない」

  行間から、そんな声が聞こえてくるようだ。

  画面をスクロールする指が震える。

  受信ボックスには、同じような件名のメールが墓標のように並んでいる。

  その一つ一つが、僕の「ヒーローになりたい」という夢を、冷ややかに嘲笑っていた。

  アドレス帳をスクロールし、指先がある一点で止まる。『犬飼教官』の文字。

  発信ボタンを押せば、あの低い声が聞けるかもしれない。「どうした、風間」って、少しぶっきらぼうだけど、温かい声で。今の僕の情けない話を、きっとあの人は親身になって聞いてくれるだろう。「お前なら大丈夫だ」って、大きな手で頭を撫でてくれるかもしれない。

  想像しただけで、鼻の奥がツンと痛む。

  でも。

  指先は、発信ボタンの手前で震え、動かなくなる。

  都合が、良すぎる。

  普段は避けているくせに、自分が辛い時だけ、悲しい時だけ、薬みたいにあの人に縋るなんて。そんな自分が、虫唾が走るほど嫌いだ。

  それに、もし今、あの人の優しさに触れてしまったら。「大丈夫だ」なんて言われてしまったら。

  僕はきっと、壊れてしまう。

  生徒と教師。既婚者。絶対に越えられない壁があるのに、その優しさに縋りつき、泣き喚いて「もっと僕を見て」と叫んでしまうかもしれない。あの人の家庭も、キャリアも、全てを壊すような醜い欲望を、ぶちまけてしまうかもしれない。

  優しさが、怖い。救われることが、何よりも怖い。

  僕は、逃げるように画面を消し、布団の中に潜り込んだ。暗闇の中で、自分の膝を抱え込む。誰にも届かない場所で、一人で腐っていく感覚だけが、今の僕に残された唯一の現実だった。

  ◇

  僕は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。

  瞼の裏に、あの人の姿を描く。

  厳しくて、でも温かい、あの人を。

  『[[rb:雪音 > ゆきと]]』

  妄想の中の教官が、僕の名前を呼ぶ。

  現実では決して呼ばれることのない、下の名前で。

  『大丈夫だ。俺だけは、お前のことを見ているから』

  教官の太い腕が、僕を抱きしめる。

  温かい。

  背中をさする大きな手の感触。

  耳元で囁かれる低い声の響き。

  『他の誰に認められなくてもいい。お前は、俺にとって一番大事な生t……いや、大事な人だ……』

  目の前の教官は、僕のことだけを考えてくれている。

  家族なんていない。

  他の生徒なんていない。

  ただ、僕一人だけを、愛おしそうに見つめている。

  「んっ……はぁ……っ」

  僕は、自分のパジャマの中に手を滑り込ませた。

  想像上の教官の手が、僕の肌を撫でる感覚を、自分の指でなぞる。

  熱い。

  妄想だとわかっているのに、体が歓喜して震える。

  『雪音……可愛いな……』

  教官の唇が、僕の首筋に触れる。

  甘い痺れが、背筋を駆け上がる。

  「せん、せ……っ! 好き……っ、大好きです……っ!」

  声を殺して、僕は愛の言葉を囁く。

  現実では絶対に言えない言葉を、何度も、何度も。

  『俺もだ。愛してるぞ、雪音』

  その言葉が、僕の理性を弾き飛ばした。

  指の動きが速くなる。

  頭の中が、真っ白な光で満たされていく。

  「あっ、んっ……! いくっ、いきます……ッ!」

  短い痙攣と共に、僕は果てた。

  熱い液体が、僕の手と、下着を汚す。

  激しい快感の余韻が、波のように引いていく。

  そして、あとに残ったのは。

  「……はぁ、はぁ……」

  暗闇と、静寂と、自分自身の荒い息遣いだけだった。

  布団をめくると、冷たい夜気が汗ばんだ肌を刺す。

  手についた白濁液が、急速に冷えていく。

  その生々しい感触が、僕を無慈悲に現実へと引き戻す。

  (……何やってるんだろ、僕)

  さっきまでの温もりも、愛の言葉も、全ては僕自身の脳が作り出した幻影だ。

  ここには誰もいない。

  誰も、僕を抱きしめてなんてくれない。

  僕は、ティッシュで手を拭いながら、小さく丸まった。

  胸の真ん中に、ぽっかりと空いた穴。

  冷たい風が吹き抜けるようなその空洞を、どう埋めればいいのか、僕にはもうわからなかった。

  ◇

  窓の向こうには、どこもかしこも春の気配が満ちていた。

  寮の三階から見下ろす街並み。植えられた桜の木々は、まだ蕾こそ硬いものの、その枝先は微かにピンク色に染まっている。

  柔らかな日差しが芝生の緑を鮮やかに照らし、時折吹き抜ける風にも、もう冬の鋭さは残っていない。

  新しい季節の訪れを告げる、穏やかで美しい景色。

  ――なのに。

  僕だけが、この季節に置いていかれているみたいだった。

  卒業式から、数日が過ぎていた。

  本来なら、式が終わった翌日には寮を出て、次の居場所へ向かうはずだ。みんながそうしたように。

  けれど僕は、まだここにいる。

  寮の廊下は、驚くほど静かだった。

  床を歩くと、自分の靴音だけがやけに大きく響く。笑い声も、シャワールームの水音も、夜更かしの気配もない。春休みで帰省した者、内定先の研修で街へ出た者、荷物を引き払って実家へ戻った者。そういう「当たり前の正解」が、みんなにはある。

  僕には、ない。

  自室の壁には、先日まで貼られていた行事予定表の跡が白く残っている。

  「卒業式」「送別会」「退寮手続き」――そんな文字の残像だけが目に焼き付いて、剥がされたあとに残った薄いテープ跡が、ひどくみっともなく見えた。

  ベッドの上には畳み損ねた制服。クローゼットの隅には、持ち帰り先の決まらない荷物が半端に詰められた段ボール。

  ガムテープの端が剥がれたまま揺れているのを見ると、「まだ閉じられない」自分の現状を突きつけられている気がして、視線を逸らしたくなる。

  机の上には、寮の延長申請の紙が一枚。

  文字はきっちり枠の中に収まっているのに、書いてある内容はひどく情けない。理由欄に書ける言葉がない。「進路未定」――それだけで、十分すぎるほど全部を説明してしまうから。

  僕は椅子に腰を下ろし、何もない画面のスマートフォンを握りしめた。

  通知が来るたびに胸が跳ねるくせに、何も来なければ来ないで、さらに深く沈んでいく。

  期待と恐怖と、恥の感覚が、同じ場所でぐちゃぐちゃに絡まっている。

  「……春、か」

  呟いた声は、部屋の中でひどく頼りなく跳ね返った。

  外の世界はこんなにも明るいのに、僕の足元だけ、ずっと薄暗いままだ。

  僕は息を吸って、吐く。

  それだけの行為にすら、「この先」を混ぜられない。

  混ぜた途端、壊れてしまいそうだった。

  ブブッ、と机の上でスマートフォンが震えた。

  反射的に掴んで画面を点ける。――採用の通知かもしれない、という希望が、指先にまで染みついている。

  表示された名前。母さん。

  『ユキちやん。おはよう』

  たどたどしい文章。フリック入力が苦手なまま、きっと一文字ずつ押している。そう思うと、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

  『卒業式、いけなくてごめんね。おとうさんのこしが、また調子が悪くて』

  画面を指でなぞるように読んで、僕は小さく息を吐いた。

  来なくていい、と言ったのは僕だ。無理をさせたくなかった。なのに、胸の奥だけが、じわりと冷える。

  『しゆうしよくは、どう? 無理はしないでね。いつでもかえつておいで』

  ――帰っておいで。

  その言葉は優しい。優しすぎて、逃げ道の形をしている。

  改札口で、母さんが笑いながら手を振っていたことを思い出す。

  父さんが僕の荷物を渡す手を、最後の最後まで離しきれなかったことも。

  愛されているのは、たぶん本当だ。だからこそ、僕が危険な場所へ行くのを、どこかで望んでいないのかもしれない……なんて、勝手に想像して、勝手に苦しくなる。

  僕は、テーブルの上のパンを一口かじった。

  味がしない。噛んで、飲み込むまでに時間だけがかかる。

  返信欄を開く。指が震えないように、呼吸を整えてから打った。

  『わかった。お父さん、お大事にね。就職は、まあ順調だよ。心配しないで』

  嘘だ。

  順調なわけがない。けれど本当のことを言ったら、母さんは「帰っておいで」を、今より少し強い口調で言うだろう。

  その瞬間、自分がどんな顔で頷いてしまうのかが、怖かった。

  送信ボタンを押して、画面を閉じる。

  スマートフォンは、ただの黒い板に戻った。そこに映る自分の目だけが、やけに現実的だった。

  「……このまま、なれなかったら」

  呟きが、静かな部屋に落ちる。

  もしこのままどこにも拾われなければ、僕は実家に帰る。エプロンをつけて、父さんと一緒にパンを焼く。穏やかで、安全で、誰からも否定されない毎日。

  「……それでも、いいのかな」

  答えは出ない。

  僕はスマートフォンを伏せてベッドの上に置き、窓の外の明るさから目を逸らすように、天井を見上げ続けた。

  ◇

  風が吹くたび、柔らかな土と若草の匂いが鼻をかすめる。

  中庭のベンチから見上げる空は、どこまでも高く、淡い青色をしていた。

  頭上に広がる桜の枝々は、まだ硬い蕾を抱きしめているけれど、その先端はすでに微かなピンク色を滲ませて、冬の終わりを告げている。

  光はやさしく、空気はあまい。世界中が新しい季節の訪れを祝っているみたいだ。

  ――ここだけを除いて。

  普段なら生徒たちの笑い声で溢れているはずのスクールの中庭は、嘘みたいに静まり返っていた。

  春休みという空白の時間が、校舎の窓ガラスを静かに反射させている。

  誰もいない芝生。誰も座っていない向かいのベンチ。

  その静寂の中に一人で座っていると、自分だけが時が止まった世界の遺物になったような錯覚を覚える。

  僕は、誰もいない中庭のベンチに深く腰を下ろし、近所の人気店で買ってきたクロワッサンを頬張った。

  サクサクとした生地の食感。広がるバターの香り。

  普段なら「うまい」と思えるはずの味が、今日は砂を噛んでいるみたいに乾いていた。

  スマートフォンを取り出す。

  画面を点けるたびに、心臓が一拍遅れて跳ねる。採用通知かもしれない――そんな希望は、もう薄い膜みたいになって剥がれかけているのに、それでも指先だけが期待をやめてくれない。

  受信ボックスに並ぶ件名は、同じ顔をしていた。

  「選考結果のお知らせ」「選考結果のご連絡」「ご応募ありがとうございました」。

  開く前からわかっている。わかっているのに、開かずにはいられない。

  指でスクロールする。

  拒絶の文章が増えるほど、僕の中の何かが静かになっていく。怒りとか悲しみじゃなくて、もっと薄くて、冷たいもの。

  たぶん、諦めに似た感覚だ。

  (……実家に、帰ろうか)

  ふと、頭に浮かぶ。

  実家のパン屋。早朝の匂い。粉の舞う空気。父さんの腰。母さんの不器用なメッセージ。

  あそこなら、役に立てる。少なくとも「いらない」とは言われない。

  でも、それは敗北だ。

  ヒーローになりたくてここへ来たのに、ヒーローになれなかったから帰る。

  「夢破れた」って言葉の形をした現実を、両手で抱えて帰ることになる。

  (それでも……もう、いいのかな)

  考えようとするたびに、胸の真ん中に小さな穴が開く。

  そこから春の風が吹き抜けて、体温が奪われていくみたいだった。

  今日は学園長に呼び出されている。

  理由はわからない。卒業した身に、学園長室へ来いなんて――普通じゃない。

  腕時計を見ると、時刻は午前十時を回ったところだった。

  呼び出しは十一時。まだ時間はある。

  それが耐えられなくて、僕は早めに寮を出て、逃げるみたいにここへ来た。

  (……退寮の件かな)

  頭では「そんなわけない」とわかっている。学園長が、わざわざ本人を呼びつけて「出ていけ」なんて言うはずがない。

  必要なら事務手続きで終わる。もっと事務的に、もっと淡々と。むしろ、呼び出すなら「猶予」や「支援」みたいな話かもしれない。

  それなのに、悪い想像だけが上手に育つ。

  学園長室のソファ。差し出される書類。丁寧な言葉で突きつけられる「現実」。

  「君のためを思って」――その枕詞の下で、僕の居場所がひとつずつ剥がされていく。

  中庭を見回す。

  ここで昼休みに笑った。ここで変な自主練をして叱られた。ここで、何でもない会話をした。

  三年間、たしかに僕はここにいた。

  けれど今は静かだ。

  春休みで人がいないせいもある。卒業生が戻ってこないせいもある。

  理由が何であれ、この静けさは「終わった」という事実だけを、やけに綺麗に響かせた。

  クロワッサンの欠片が喉を通らない。

  僕は無理に飲み込み、紙袋を膝の上に置いた。

  「……何のために、ここに来たんだろう」

  独り言が、乾いた音を立てて風に攫われていく。

  見上げれば、抜けるような青空。希望に満ちた季節のはずなのに、僕の心だけが、分厚い氷の下に閉ざされているみたいだった。

  その時だった。

  中庭の入り口から、大きな影が入ってくるのが見えた。

  スーツ姿の、太った白熊獣人。

  手には、僕が持っているのと同じ、あのパン屋の紙袋が提げられている。

  彼は、中庭の景色を懐かしそうに見渡しながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

  「おはようございます。ここ、よろしいですか?」

  頭上から降ってきたのは、穏やかで深みのある声だった。

  見上げると、スーツ姿の白熊獣人が、人の好さそうな笑顔で立っていた。

  逆光で表情が見えにくいが、その丸みを帯びたシルエットからは、威圧感など微塵も感じられない。

  「あ、はい。どうぞ」

  僕は慌ててスマートフォンの画面を消し、ベンチの端へと寄った。

  彼は「ありがとうございます」と会釈をすると、ゆっくりと腰を下ろした。

  ミシッ、とベンチがきしむ音がして、少しだけベンチが傾く。

  隣から伝わってくる大きな質量と、微かな石鹸の香り。

  「……卒業生の方、ですか?」

  沈黙が気まずくて、僕は思わず尋ねてしまった。

  彼はスーツを着ているし、この時期に学校に来る大人といえば、OBか保護者くらいだろう。

  「ええ、もう随分前ですけどね。今日はちょっと、懐かしい場所に来られて嬉しいです」

  彼は目を細めて、中庭のまだ蕾の桜を見上げながら答えた。

  その横顔は、どこか少年のように無邪気に見えた。

  不思議な人だ。

  初対面の大人なのに、なぜか緊張しない。

  彼の纏う空気が、陽だまりのように柔らかいからだろうか。

  彼は、膝の上に置いた紙袋をガサゴソと開けた。

  中から取り出したのは、僕もさっき買ったばかりのメロンパンだった。

  「いただきます」

  彼は誰に言うでもなく小さく手を合わせると、大きな口を開けてメロンパンを頬張った。

  「ん、やっぱり、ここのパンは最高ですね」

  彼は幸せそうに目を細め、ムシャムシャと咀嚼する。

  口の端に砂糖の粒がついているのも気にせず、本当に美味しそうに食べるその姿。

  スーツを着た大人の男性が、まるで子供みたいに無防備にパンを食べる様子が、なんだか可笑しくて、可愛らしくて。

  僕はついつい、その横顔に見入ってしまった。

  ふと、彼が視線に気づいたのか、動きを止めてこちらを向いた。

  きょとんとした、まん丸な瞳と目が合う。

  「あの……どうかされましたか? 私の顔に、何かついてますか?」

  「えっ! い、いえっ! すみません、じろじろ見ちゃって!」

  僕は弾かれたように顔を背けた。

  失礼すぎる。

  初対面の人を凝視するなんて。

  「あ、あの、同じお店だなと思って! 僕もそこで買ったんです!」

  焦って言い訳を探し、自分の横にある紙袋を持ち上げた。

  彼は、僕の紙袋のロゴを見ると、ぱあっと顔を輝かせた。

  「おや、本当だ。奇遇ですね」

  彼は嬉しそうに笑うと、口元のパン屑を払おうとして手を動かした。

  その拍子に、彼の手が自分のネクタイに当たり、盛大にひん曲がってしまった。

  彼はそれに気づかず、ニコニコと笑い続けている。

  「ここのメロンパン、カリカリしてて美味しいですよね。私が学生の頃から、変わらない味なんです」

  「あ……はい、そうですね」

  僕は頷きながら、心の中で苦笑した。

  (なんか、抜けてる人だな……)

  スーツを着こなしているように見えて、どこか隙がある。

  でも、その隙が、僕の心をさらに軽くしていく。

  僕たちは、ベンチに並んでメロンパンを食べた。

  春の日差しの中、見知らぬ大人と二人で。

  不思議と、居心地が悪くなかった。

  母さんへの嘘でささくれ立っていた心が、少しずつ凪いでいくのがわかった。

  彼は、パンを食べ終えると、懐からハンカチを取り出して口元を拭った。

  その仕草を見て、僕はふと、ある既視感を覚えた。

  この、ゆったりとした動作。

  穏やかな話し方。

  そして、この特徴的な白熊の容姿。

  (……あれ? どこかで……)

  記憶の糸を手繰り寄せる。

  テレビの画面。

  ニュース映像。

  氷の華が咲き誇るような、美しい戦闘シーン。

  そして、インタビューで照れくさそうに頬を掻く、その姿。

  (……まさか)

  心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

  まさか、そんなはずはない。

  でも、この空気感、この笑顔。

  間違いない。

  僕は、恐る恐る、彼の顔を覗き込んだ。

  「あの……もしかして」

  「はい?」

  「ベアード……グレイシアさん、ですか?」

  僕の問いかけに、彼はきょとんとした後、目を見開いた。

  そして、照れくさそうに頬を掻いた。

  「あ……バレてしまいましたか」

  彼は、少しだけ声を潜めて、いたずらっぽく笑った。

  「ええ、そうです。普段着だと、あまり気づかれないんですけどね。君は鋭いですね」

  「っ……!」

  本物だ。

  テレビの中でしか見たことのない、あのトップヒーロー。

  「す、すごい……! 本物だ……!」

  心臓が早鐘を打つ。

  さっきまでの憂鬱が、嘘のように吹き飛んでいく。

  僕は、ベンチから立ち上がりそうな勢いで身を乗り出した。

  「僕、ずっとファンなんです! あなたの異能力の使い方、本当にすごくて! 特に、先日の湾岸エリアでのヴィラン制圧! あの時の氷壁の展開速度、神業でした!」

  「おや、あんな地味なところまで見てくれていたんですか?」

  「地味じゃないです! あの時、市民の避難経路を確保するために、あえて攻撃じゃなくて防御に徹してましたよね? それに、先月の森林火災の時も、ただ消火するんじゃなくて、氷で避難路を作って……!」

  いつもの「良い子」の仮面が剥がれ落ちる。

  相手の顔色を窺うことも、空気を読むことも忘れて、僕は夢中でまくし立てた。

  こんなに熱くなって喋るのは、いつぶりだろう。

  自分でも驚くほど、言葉が次から次へと溢れてくる。

  「あ、あの、すみません! 僕、興奮しちゃって……」

  ハッと我に返り、僕は慌てて口をつぐんだ。

  やってしまった。

  相手はトップヒーローだ。こんな無名な学生のマニアックな話なんて、迷惑に決まっている。

  でも、彼は嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに目を細めていた。

  「ありがとうございます。そんなに熱心に見てもらえるなんて、ヒーロー冥利に尽きます」

  その声は、春の日差しのように温かかった。

  「君みたいな子がいてくれると、私も頑張り甲斐がありますよ」

  「え……」

  「君も、異能力を?」

  「は、はい! でも、僕のは出力も低いし、あなたみたいに上手くは……」

  「そうですか。でも、君のその観察眼は素晴らしい。きっと、いい使い手になりますよ」

  彼は、僕の目を真っ直ぐに見て言った。

  お世辞かもしれない。

  でも、その言葉は、僕の心の渇いた部分に、じわりと染み込んでいった。

  否定され続けてきた僕の未来を、この人だけは、信じてくれているような気がした。

  その時だった。

  ふと腕時計に目をやった僕は、息を呑んだ。

  「あ、やばい! 時間だ!」

  針は、約束の十一時十分前を指していた。

  「ご、ごめんなさい! 僕、用事があって! 本当にお会いできて嬉しかったです! 失礼します!」

  僕は慌てて紙袋を掴み、深々と頭を下げた。

  もっと話していたかった。

  でも、これ以上遅れるわけにはいかない。

  「おや、私もそろそろ行かなくては」

  彼もまた、ゆったりとした動作で立ち上がった。

  そして、パン屑を払いながら、困ったように笑った。

  「実は、この後学園長とお会いする約束がありましてね」

  「え?」

  僕は、動きを止めた。

  彼も、僕を見て瞬きをする。

  「え?」

  二人の声が重なった。

  「ベアードグレイシアさん、も?」

  その時、中庭を強い風が吹き抜けた。

  桜の枝が大きく揺れ、硬い蕾がいくつかほころんだ気がした。

  春一番だ。

  彼は、風に乱れたネクタイを押さえながら、ふふっと笑った。

  「どうやら、行き先は同じようですね」

  ◇

  中庭から本館へ向かう渡り廊下を、僕たちは無言で歩いていた。

  隣を歩く白熊獣人の大きな体躯が、時折視界の端に入るたびに、これが夢ではないかと何度も確認してしまう。

  学園長室の重厚な扉の前に立つと、緊張で胃の奥がきゅっと縮んだ。

  僕は、ズボンの横で湿った手汗を拭い、深く息を吸い込んだ。

  隣のベアードグレイシアさんは、まだ少し曲がったままのネクタイを気にすることもなく、穏やかな顔で軽く扉をノックした。

  「入りなさい」

  中から響いたのは、よく通る、落ち着いた老紳士の声。

  扉が開くと、古書と紅茶の香りが混じり合った独特の匂いが鼻をかすめる。

  執務机の奥に座っていたのは、小柄で恰幅の良い、キャバリア犬の獣人だった。

  ツイードのベストを着こなし、白髪交じりの長い垂れ耳を揺らしてこちらを見つめる瞳は、全てを見透かすように澄んでいる。

  「おや……これは……」

  学園長は、僕とベアードグレイシアさんが並んで入ってきたのを見て、目を丸くした。

  「……まさか、道中で鉢合わせたのかね?」

  「ええ。中庭で、少し」

  ベアードグレイシアさんが楽しそうに答える。

  僕は緊張で舌がもつれそうになりながら、「し、失礼します!」と頭を下げるのが精一杯だった。

  学園長の視線が、ベアードグレイシアさんのポケットから覗くパン屋の包み紙と、僕の様子を交互に行き来する。

  そして、ふっと目尻を下げ、口元の髭を揺らして微笑んだ。

  「運命めいたものを感じるな」

  促されてソファに腰を下ろす。

  革張りのソファは柔らかく、体が沈み込むような感触が、逆に僕の居心地を悪くさせた。

  対面のソファにベアードグレイシアさんがゆったりと座る。

  その余裕のある姿と、自分の強張った膝小僧を見比べて、惨めさがこみ上げてくる。

  「風間くん。単刀直入に言おう」

  学園長は、手元のティーカップをソーサーに戻し、僕の目を真っ直ぐに見据えた。

  「君を、霜月くん――ベアードグレイシアの弟子として推薦したい」

  部屋の空気が、一瞬止まったようだった。

  壁時計の秒針が進む音だけが、カチ、カチ、と不自然に大きく響く。

  「え……?」

  言葉の意味が、脳の処理能力を超えている。

  弟子? 僕が?

  憧れのヒーローの?

  歓喜が湧き上がるよりも先に、強烈な違和感が突き上げてきた。

  「でも……僕の成績は……実技評価は……不採用通知だって、山ほど……」

  喉が渇いて、声が掠れる。

  なぜ、僕なのか。

  僕みたいな落ちこぼれに、そんな資格があるはずがない。

  周囲の友人たちが、実力で内定を勝ち取っていく中で、僕だけが何も持っていないことを、誰よりも僕自身が知っている。

  「どうして……僕なんですか?」

  絞り出すように問うと、学園長は手元のリモコンを操作し、壁面の大型モニターを点灯させた。

  そこに映し出されたのは、二つの複雑な波形のグラフだった。

  青い線と、赤い線。

  「……申し訳ないが、理由は君の実績にはない。君の『能力データ』。それが理由だ」

  学園長がレーザーポインターで波形を示す。

  二つの線は、まるで鏡写しのように、驚くほど一致して重なり合っていた。

  「君も知っての通り、異能力は、指紋と同じで完全に同一の能力は存在しないとされる。だが、君たちの波形は、観測機器の誤差範囲に収まるほど酷似している」

  「酷似……?」

  「そうだ。これは学術的にも奇跡に近い。君の能力を正しく育て、研究するためには、同じ特性を持つ彼の下で学ぶのが最適解だと判断したのだよ」

  僕は、モニターの波形を見つめたまま、呆然とした。

  僕が選ばれたのは、僕が頑張ったからじゃない。

  僕が優秀だからでもない。

  ただ、たまたま能力が似ていただけ。

  「運が良かっただけ」の、付属品としての価値。

  胸の奥に、冷たい鉛が落ちたような感覚が広がる。

  不採用通知の山が、脳裏をよぎる。

  結局、僕自身を見てくれたわけじゃないんだ。

  レアカードみたいに、珍しい能力を持っているから拾われただけ。

  それは、まるでテストの答案をカンニングして満点を取ったような、後ろめたさに似ていた。

  みんなが努力して階段を登っているのに、僕だけがエレベーターに乗せてもらっているような感覚。

  「……それは、僕の実力とは関係ない、ということですよね」

  声が震えた。

  せっかくのチャンスなのに、素直に喜べない自分がもどかしい。

  でも、ここで「はい」と言ってしまえば、僕は一生、「実力じゃないのに選ばれた偽物」というレッテルを自分に貼り続けることになる気がした。

  俯いた僕の膝の上で、拳が白くなるほど握りしめられている。

  学園長の声が、静かに響いた。

  「……そうだ。きっかけは『能力』だ。君が他の生徒より優れているから選ばれたわけではない。厳しい言い方かもしれないが、これは『運』だ」

  その言葉は、容赦なく僕の胸に突き刺さった。

  否定してほしかったのかもしれない。

  「そんなことはない、君には素質がある」と。

  でも、学園長は残酷なまでに正直だった。

  「だがね、風間くん。『運』もまた、無視できない才能の一つだ」

  学園長は、ゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩いた。

  窓の外には、春の日差しに照らされた青空が広がっている。

  「君がその能力を持って生まれ、そして今日、彼と出会った。それもまた一つの揺るぎない事実だよ」

  学園長が振り返り、僕を真っ直ぐに見つめた。

  「このチャンスを『ズル』だと恥じるか、それとも『天啓』だと捉えて前に進むか。それは、君次第だ」

  学園長の言葉は、静かな部屋に重く響いた。

  ズルか、天啓か。その二択を突きつけられ、僕は言葉を失った。

  視線を、自分の膝に落とす。握りしめた拳の中で、じわりと汗が滲んでいるのがわかる。

  (ズルだ、って……本当は思ってる)

  心の奥底で、小さな声が囁く。もし僕がこの手を取れば、僕は一生、自分の実力に疑いを持ち続けることになるだろう。周囲からの「能力が同じだったから」という陰口に怯え、ベアードグレイシアさんの隣で、「自分はここにふさわしくない」と萎縮し続けるかもしれない。それは、ヒーローとして最も恥ずべき姿ではないのか。

  けれど。

  (でも、もし……これを『運命』だと信じられたら?)

  別の声が、囁き返す。不採用通知の山の中で、たった一本だけ垂らされた蜘蛛の糸。その糸の輝きに、どうしようもなく惹かれている自分もまた、確実にここにいるのだ。

  「戦いたい」「隣に立ちたい」。その欲望は、劣等感よりもずっと熱く、激しく、僕の心臓を叩いている。

  ズルい自分と、夢を諦めきれない自分。二つの感情が、胸の中で激しくせめぎ合う。喉の奥が詰まったように熱くなり、呼吸が浅くなる。

  沈黙が、痛い。秒針の音が、急かすように鼓膜を打つ。

  僕は、深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。混乱する頭の中で、ただ一つだけ確かなことは、「今すぐには決められない」という、情けない事実だけだった。

  「……少し……」

  掠れた声を、なんとか紡ぎ出す。

  「少し……考えさせてください」

  ようやく絞り出したその言葉は、拒絶でも承諾でもない、ただの時間稼ぎだった。部屋の空気が、ふっと緩んだ気がした。

  「……生意気言って、すみません。でも、今のままじゃ、胸を張ってあなたの隣には立てない気がして」

  視線を床に落とす。

  膝の上で握りしめた拳が、微かに震えているのがわかった。

  爪がズボンの生地越しに食い込み、その鋭い痛みだけが、揺らぐ僕の重心を辛うじて支えていた。

  「ああ、もちろん構わないですよ」

  頭上から降ってきたのは、拍子抜けするほど柔らかい声だった。

  顔を上げると、ベアードグレイシアさんが、日向のような穏やかな顔でこちらを見ていた。

  「急な話でしたからね。人生を左右することです。すぐに決められないのは当然ですよ」

  「うむ」

  学園長も深く頷き、眼鏡の位置を直した。

  「迷うということは、それだけ真剣だという証拠だ。じっくり考えるといい。期限は来週まで待とう」

  「……ありがとう、ございます」

  深く頭を下げる。

  強張っていた肩の筋肉が、安堵と共に少しだけ緩んだ。

  学園長室を出ると、廊下は昼下がりの静寂に満ちていた。

  窓から斜めに差し込む日差しが、床に二つの長い影を落としている。

  僕たちは並んで、その光と影の縞模様の上を歩き出した。

  靴音が、乾いた音を立てて反響する。

  隣を歩く大きな気配が、さっきよりも少し遠く感じられた。

  推薦を保留にしてしまった申し訳なさが、喉元までせり上がってくる。

  「あ、あの……すみません、ベアードグレイシアさん。せっかく推薦してくださったのに」

  耐えきれず口を開くと、彼はピタリと足を止めた。

  僕も慌てて止まり、見上げる。

  逆光の中で、彼の毛並みが柔らかく光っていた。

  「風間雪音くん、でしたよね?」

  彼は、僕の方に向き直り、少し照れくさそうに頬をポリポリと掻いた。

  「正直に言いますとね。最初に君のデータを見た時は、半信半疑だったんです。能力が似ているというだけで、弟子を取るなんて……とね」

  心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。

  やっぱり、そうだったんだ。

  でも、彼はすぐに穏やかな笑みを浮かべた。

  「でも、さっき中庭で君と話したことを思い出して……考えが変わったんですよ」

  「え……?」

  「君が私の地味な活躍を、あんなに熱心に語ってくれた時……なんと言いますか、背中がムズ痒くなるような、でも悪い気はしない、不思議な感覚になりましてね」

  彼は、僕の目をじっと覗き込んだ。

  その琥珀色の瞳に、僕の情けない顔が映っている。

  「同時に思ったんです。この鋭い観察眼と、真っ直ぐな熱量を持った子となら、きっといいコンビになれるって」

  ドクン、と鼓動が大きく波打った。

  能力のデータじゃない。

  「僕」を見てくれた。

  僕の言葉を、熱を、この人は真正面から受け止めてくれたんだ。

  「だから、データはあくまで切っ掛けに過ぎません。私は、君という人間を迎え入れたいと思ったんですよ」

  熱い塊が、胸の奥から喉元へと込み上げてくる。

  視界が潤み、彼の姿がぼやけるのを、僕は瞬きで必死に堪えた。

  「……ゆっくり考えてください。君がどんな答えを出しても、私はそれを尊重しますから」

  ベアードグレイシアさんはそう言い残すと、ふわりと手を振り、廊下の向こうへと歩き去っていった。

  その背中は、どこまでも大きく、揺るぎなく見えた。

  彼がいなくなった廊下で、僕は一人立ち尽くしていた。

  手のひらを開くと、じわりと汗ばんでいる。

  胸の鼓動が、まだ早く、強く、肋骨を叩いていた。

  「……僕という、人間」

  彼の言葉を口の中で転がす。

  その響きが、冷え切っていた僕の体の芯に、小さな火を灯していくようだった。

  実力不足という事実は変わらない。

  足元の不安が消えたわけじゃない。

  けれど、今の僕の胸を占めているのは、さっきまでの重苦しい鉛ではなかった。

  息をするたびに肺が熱くなるような、焦がれるような痛み。

  彼に追いつきたいと願う、痛切な衝動だった。

  ◇

  寮の自室に戻り、重たいドアを閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、僕はそのままドアに背中を預けて座り込んだ。

  薄暗い部屋の中、自分の荒い呼吸音だけが響く。

  心臓が、まだ肋骨の内側で暴れている。

  手のひらを開くと、じっとりと汗ばんでいて、そこに残るベアードグレイシアさんの――霜月さんの大きな手の感触が、皮膚の奥まで焼き付いているようだった。

  「……僕という、人間」

  彼がくれた言葉を、乾いた唇で反芻する。

  その音色は甘く、冷え切った僕の芯を溶かすように優しい。

  けれど、その甘さに浸ろうとするたび、脳裏にあのモニターの映像がフラッシュバックする。

  重なり合った二つの波形。

  鏡写しのような、青と赤の線。

  僕が選ばれたのは、僕が積み上げてきたものじゃない。

  生まれ持ったこの血と、遺伝子の気まぐれが作り出した「偶然」だ。

  もし僕の能力が、ほんの少しでも彼と違っていたら、今日の出会いも、あの温かい言葉も、何一つ存在しなかっただろう。

  「……運が良かっただけ、か」

  自嘲気味に呟き、膝を抱える。

  不採用通知の山。

  実技評価Dの烙印。

  それが、紛れもない僕の実力だ。

  そんな「空っぽ」の僕が、トップヒーローの隣に立つ?

  偽物のメッキは、いつか必ず剥がれる。

  その時、ベアードグレイシアさんはどんな顔をするだろう。

  失望するだろうか。

  それとも、「やはりデータだけだったか」と、あの琥珀色の瞳を冷たく細めるだろうか。

  想像しただけで、胃の奥が冷たく収縮する。

  怖い。

  彼を失望させることが。

  そして何より、彼に与えられた場所を、失ってしまうことが。

  僕は、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点灯させた。

  母さんからのメッセージが、まだ通知欄に残っている。

  『就職は、まあ順調だよ』

  僕がついた、情けない嘘。

  もし、この話を断れば、僕は実家に帰ることになるだろう。

  パンの焼ける匂い。

  両親の穏やかな笑顔。

  傷つくことのない、安全な世界。

  それはとても温かいけれど、今の僕には、まるで棺桶の中の安らぎのように思えた。

  ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。

  真っ白な天井のシミが、まるで地図のように見えた。

  僕がこれから進むべき道は、どこにも描かれていない。

  『この子となら、いいチームになれる』

  彼の声が、耳の奥で蘇る。

  その言葉が真実なのか、それとも僕をその気にさせるための優しい嘘なのか、僕にはわからない。

  でも、あの時の彼の瞳は、痛いほど真っ直ぐだった。

  僕の情けない熱量を、真正面から受け止めてくれた。

  手を伸ばし、天井に向かって何かを掴むように指を動かす。

  掴めるはずのない光を求めて。

  もし。

  もしも、僕がその手を握り返してもいいのなら。

  「偶然」だろうと「運」だろうと、それを足掛かりにして、這い上がってもいいのなら。

  「……ベアードグレイシア、さん」

  名前を呼ぶだけで、胸の奥が焦げるように痛んだ。

  それは、罪悪感なのか、それとも憧れなのか。

  答えはまだ、深い霧の中にある。

  でも僕の体が、心が、どうしようもなくこの運命を受け入れてしまっているという、事実だけだった。

  ◇

  翌朝。

  僕はいつもより早く寮を出て、朝霧が残る校庭を歩いていた。

  冷たく澄んだ空気が、火照った頬を心地よく冷やしてくれる。

  肺いっぱいに朝の匂いを吸い込むと、昨日までの胸のつかえが、少しだけ軽くなった気がした。

  中庭に差し掛かると、朝霧の中に佇む小さな人影が見えた。

  ツイードのベストに、特徴的な長い垂れ耳。

  学園長だ。

  彼は、中庭の中央にある桜の古木の前に立ち、杖をついて枝先を見上げていた。

  「おはようございます、学園長」

  声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。

  丸眼鏡の奥の瞳が、朝日を浴びて柔らかく細められる。

  「やあ、おはよう風間くん。どうしたんだ? 早いな」

  「学園長こそ。……お花見、ですか? ……まだ咲いてない、ですけど……」

  まだ咲いてもいない桜を見上げている彼に、僕は少し首を傾げた。

  学園長は笑い、杖の先で足元の根元を軽く突いた。

  「蕾を見ていた。……風間くん、桜というのは、面白い植物でね」

  桜を見上げる彼の瞳が細められる。

  「彼らは、冬の厳しい寒さを経験しないと、春になっても目覚めない」

  「寒さ、ですか?」

  「『休眠打破』という。一度凍えるような冷たさに晒されることで、初めて眠りから覚め、蕾を膨らませるスイッチが入る。ずっと温室にいたままでは、綺麗な花は咲かせられないんだ」

  学園長は、節くれだった指で、まだ硬い蕾の一つを優しく撫でた。

  「厳しい冬を知っているからこそ、春の陽気を誰よりも敏感に感じ取り、咲き誇ることができる」

  学園長は、僕を見ずに桜を見上げ続けている。

  「……不採用通知の山も、実を結ばなかった訓練も、決して無駄ではなかったはずだ。君が図書室で閉館まで戦術書を読み込んでいたことも、放課後、いつも訓練室で犬飼くんと、異能力の制御訓練を繰り返していたことも、私は知っている」

  「え……」

  僕は息を呑んだ。

  犬飼教官以外、誰も見ていないと思っていた。

  他の誰にも認められない、無意味な足掻きだと思っていた。

  「君の冬は、長かったかもしれない。だが、その寒さの中で蓄えた養分は、必ず君という花を美しく咲かせる糧になる」

  その言葉は、静かに、深く、僕の心の澱を溶かしていった。

  運が良かっただけ、という自己否定が、準備期間だったのかもしれないという肯定へと、少しずつ形を変えていく。

  僕の努力は、無駄じゃなかった。

  見ていてくれる人が、ここにもいたんだ。

  学園長が、くるりとこちらを向いた。

  朝日に照らされたその表情は、教育者としての威厳と、祖父のような温かさを湛えていた。

  「……答えは決まったようだな?」

  「え……」

  僕は目を見開いた。まだ何も言っていないのに。

  「……どうして、わかるんですか?」

  学園長は、いたずらっぽく片目をつむってみせた。

  「目を見ればわかる。伊達に四十年近く教育者はやっていない」

  キャバリア犬特有の愛嬌のある顔立ちが、くしゃりと崩れる。

  「来週まで考えてもいいんだぞ。……後悔はないのか?」

  少しからかうような口調。

  でも、その瞳の奥にある光は、真剣そのものだった。

  僕の覚悟を、最後の最後に試しているのだ。

  僕は、大きく息を吸い込み、肺いっぱいに朝の冷たく澄んだ空気を取り込んだ。

  昨日のような手の震えはない。

  迷いがないと言えば嘘になる。

  「ズルい」という感情が、完全に消えたわけでもない。

  でも、それ以上に、どうしても手を伸ばしたい場所ができてしまった。

  僕は、学園長の目を真っ直ぐに見つめ返した。

  はっきりと、自分の答えを口にする。

  その声は、中庭に吹き抜ける春風に乗って、高く、遠くへと溶けていく。

  ふと見上げると、頭上の枝先で、硬く閉ざされていた蕾の一つが、春の光に誘われるように、静かに、ほころび始めていた。

  [newpage]

  [chapter:第十三章 フォールアウト]

  目が覚めると、そこは白の世界だった。

  清潔で、無機質で、目の奥がちかちかするような白。

  鼻をつくのは鋭い消毒液の匂い。そして、不快な電子音の規則正しいリズム。

  ゆっくりと瞬きを繰り返す。視界の隅で、白い服を着た誰かが動いた。

  「あ、目が覚めましたね」

  声をかけてきたのは、マスクをした兎獣人の看護師だった。

  彼女は僕の顔を覗き込むと、手元の端末を確認し、安堵したように目を細める。

  「気分はどうですか? まだ頭が痛むかもしれません。点滴を変えたばかりなので、無理に動かないでくださいね」

  「あ……」

  声が出ない。喉が張り付いたように乾いている。

  彼女は手際よく僕の枕元の水差しを変え、布団の乱れを直した。その動作には無駄がなく、そして事務的だった。

  「すぐに司令にお知らせしてきます。安静にしていてください」

  そう言い残すと、彼女は足早に部屋を出て行った。

  カチャリ、とドアが閉まる音が響く。

  あとに残されたのは、電子音と、僕の荒い呼吸音だけ。

  静寂が、重たい水のように部屋を満たしていく。

  僕は天井の染み一つない白さを見つめながら、記憶の断片を手繰り寄せた。

  生活感のない空間。

  狐獣人と黒づくめのセントバーナード獣人。

  歪んでとろけた師匠の笑顔。

  そして、白熊便器と名乗った、師匠。

  ――『気持ちいい……っ♡』

  脳裏に蘇る甘い喘ぎ声に、心臓が早鐘を打つ。

  違う。あれは夢だ。悪い夢だ。

  師匠があんな、あんな汚らしい姿で、あんなことを言うはずがない。

  でも。

  僕の指先に残る感触。背中を押された時の熱。

  そして何より、逃げる間際に僕自身の体が感じてしまった、あの恥ずべき熱い衝動。

  「……ぁ」

  逃げてきたんだ。

  僕は、師匠を置いて。

  自分だけ助かるために。

  暗い想いが、淀んだ泥のように胸の奥から溢れ出してくる。

  吐き気がした。

  その時、ノックの音がして、ドアが静かに開いた。

  「やあ。おはよう。思ったより早かったね」

  入ってきたのは、小柄な狸獣人の男だった。

  白髪混じりの茶色い毛並み。突き出たお腹。どこにでもいそうな、気の良さそうなおじさんに見える。

  けれど、彼が身に纏っているその服を見て、僕は息を呑んだ。

  金の刺繍が施された、純白のロングコート。

  胸元に輝く、特級ヒーローのエンブレム。

  「ら、ラクーン……ブレイブ……司令……?」

  伝説のヒーローの一人。

  式典の壇上でしか見たことのない、雲の上の存在が、なぜこんなところに。

  僕の掠れた声に、彼は人懐っこい笑顔で応える。

  「ああ、そう呼ばれることもあるね。でもまあ、今はただの狸のおじさんだよ。楽にして」

  彼はパイプ椅子を引き寄せると、よっこらしょ、と大げさな動作で腰を下ろした。

  その仕草には威厳のかけらもなく、まるで近所のスーパーで世間話をするような気安さがあった。

  「君がここに運ばれてから、丸二日経つよ」

  「二日……」

  そんなに経っていたのか。

  「君、司令部に通信したでしょ? ベアードグレイシアと交戦中、って。その後フユちゃんが通信終了したみたいだけど」

  狸谷司令はまっすぐこちらを見つめている。

  フユちゃん。

  その呼び方に、なんとなく彼と師匠の距離の近さを感じる。

  「通信オペレーターの子が僕に報告してくれてね。どうも怪しいと思って、君が通信をした辺りを捜索してたんだ。フユちゃんもいないし、君とも連絡が取れない。どうしようかって、思ってた時に傷ついた君を犬塚くん、スカイハウンドが見つけたってわけ」

  犬塚さんが助けてくれた。そうか、気絶する寸前に見たあの柴犬獣人は彼だったんだ。

  そこで僕はやっと思い至る。じゃあ、師匠は。あの部屋は。

  「あの、師匠は……ベアードグレイシアは……!」

  僕が身を乗り出そうとすると、狸谷司令は、まあ待って待って、と手で制した。

  その手つきは柔らかかったが、不思議と逆らえない圧があった。

  「焦らないで。その話も、しに来たんだから」

  彼は内ポケットから、一台のスマートフォンを取り出した。

  画面が割れた端末。

  おそらく、師匠が僕に託したスマホだ。

  「これ、君の荷物の中に入ってた。フユちゃんから預かったんだろう?」

  狸谷司令は、スマホをサイドテーブルにコトリと置いた。

  「中身は、こちらで全部確認させてもらったよ。フユちゃん、きちんとロックも解除してくれてたし」

  彼はにっこりと笑った。

  その笑顔の奥にある瞳が、ガラス玉のように冷たく光っているのを、僕は見た。

  「いろんなメモが残っていたよ」

  背筋が凍るような感覚。

  割れた画面の向こうに、何が記されているのか。僕には知る由もない。だが師匠が、非常時にわざわざ託したのだ。そこには間違いなく、今回の出来事の答えが書き残されているはず。

  喉が渇く。知りたい、という本能的な欲求が首をもたげる。けれどそれ以上に、強烈な拒絶が全身を支配していた。

  見たくない。もしそこに、あの完璧だったヒーローの、目を覆いたくなるような恥部が綴られていたら。

  あるいは、あの薄暗い部屋で僕たちが共有してしまった、決して誰にも言えない秘密が、淡々とした文字で記録されていたら。

  それは、パンドラの箱だ。開ければ最後、僕の中に残っている綺麗な師匠の残像までもが、完全に殺されてしまう気がした。

  僕は何も言えず、ただシーツを握りしめることしかできなかった。

  狸谷司令は、そんな僕の動揺を知ってか知らずか、淡々と話を続ける。

  「状況から見て、ベアードグレイシアは何らかの精神干渉、あるいは薬物によってヴィランに利用されている可能性が高い。……ひどい話だねぇ」

  他人事のような口調。

  でも、その瞳は僕をじっと観察していた。

  まるで、実験動物の反応を見るかのように。

  そして、ふと。

  彼は独り言のように、ぽつりと呟いた。

  「……やっぱり、どこかフユちゃんに似てるね」

  「……え?」

  思いがけない言葉に、僕は顔を上げる。

  「僕と、師匠が……ですか? でも、僕はサモエドで、師匠は白熊だし……」

  「ああ、違う違う。そういうことじゃなくて」

  彼は肩をすくめて、可笑しそうに笑った。

  それ以上は、何も言わなかった。

  何が似ているのか。

  どこが同じなのか。

  問いかけることができないまま、僕の中には得体の知れないモヤモヤだけが残った。

  「……で、本題だ」

  彼はパン、と手を叩いて、空気を戻した。

  「以後の対応は、本部で引き取るよ。フユちゃんのメモを見る限り、この件は、あの指名手配の元ヒーローの犬山という男の件も関わってる。君一人が抱えるには、荷が重すぎる案件だ」

  それは、事実上の宣告だった。

  お前はもういらない。

  ここから先は、大人の領域だ、と。

  「でも! 僕も……!」

  「待って待って。その体で……何ができるんだい?」

  狸谷司令は、優しく、しかし有無を言わせぬ声で遮った。

  「君はよく頑張った。フユちゃんをここまで連れ戻せなかったのは残念だけど、君が無事に戻ったこと自体が奇跡みたいなもんだ。……これ以上、君が自分をすり減らす必要はない」

  「……」

  反論できなかった。

  僕には力がない。

  あの時、師匠の手を引くこともできず、ただ逃げることしかできなかった僕に、何を言う資格があるというのか。

  「……悪いようにはしないから、大人に任せておきなさい。君はここで、しっかり休むこと。それが今できる、いちばんの『ヒーローらしい行動』だよ」

  狸谷司令は立ち上がり、服の皺を伸ばした。

  その動作一つ一つが、完璧に計算された演技のように見えた。

  彼はドアに向かい、ノブに手をかける。

  そして、ふと思い出したように、背中越しに言った。

  「……フユちゃんとは古い付き合いなんだ。必ず、助けて見せる。だから安心して」

  そう言い残し、彼は部屋を出て行った。

  カチャリ、と再び閉まるドア。

  部屋にはまた、静寂と電子音だけが残された。

  「……僕、は」

  天井の白さが、眼球を灼くように眩しい。

  似ていると、彼は言った。けれどその言葉は、僕を仲間として認めるものではなく、むしろ決定的な断絶を告げるための言葉のように聞こえた。

  似ているからこそ、危険だ。

  似ているからこそ、これ以上は踏み込ませない。

  「フユちゃん」を知る大人たちの目には、僕という存在の中に、師匠と同じ破滅の種が見えていたのだろうか。

  結局、僕は何も救えなかった。師匠の手を離し、今また、追いかける資格さえも剥奪されたのだ。

  逃げ場なんてどこにもないのに、僕は布団を頭まで被り、自分の頼りない体温の中に閉じこもった。暗闇の中で抱きしめた膝の震えだけが、僕に残された唯一の現実だった。

  ◇

  狸谷司令が去った後、夜はさらに深く、重く、僕の上にのしかかってきた。

  消灯時間を過ぎた病室は、完全な闇ではない。

  廊下から漏れる非常灯の緑色の光が、部屋の隅にぼんやりとした影を落としている。

  その影が、時折、得体の知れない獣の形に見えて、僕は何度も瞬きをして追い払った。

  眠れない。

  目を閉じると、瞼の裏に焼きついた映像が、壊れたプロジェクターのように何度も再生される。

  群島の手によって、理性を剥ぎ取られていく師匠。

  そして、そんな彼を置いて逃げ出した僕。

  シーツに包まり、自分の呼吸音だけを聞いていた。

  いつの間にか、意識が薄闇の中に沈んでいく。

  浅い、まどろみのような眠り。

  そこは、白い壁に囲まれた部屋だった。

  カーテンの閉まった窓。フローリングの床。家具は一切ない。

  群島に監禁されていた、あの部屋だ。

  塗料とほこりっぽい匂い。

  そして、鼻腔をくすぐる、甘く腐った果実のような香り。

  「風間くん♡」

  暗闇の中から、白い影が浮かび上がる。

  師匠だ。

  でも、いつもの穏やかなベアードグレイシアではない。

  「ほら、見てください♡ 綺麗でしょう?♡」

  彼は全裸だった。

  純白の毛並みが、汗と何か別の粘液で濡れそぼり、艶めかしく光っている。

  首には太い首輪。そこから伸びた鎖を、彼自身が楽しそうに弄んでいる。

  「師匠……なんで」

  僕の声は震えていた。

  逃げなきゃいけない。そう思うのに、足が床に縫い付けられたように動かない。

  「逃げるちゃいやですよ♡ 風間くんも、私とホモセックスしたいんでしょう?♡」

  師匠が、四つん這いのまま、ゆっくりと僕に這い寄ってくる。

  その瞳は、理性など欠片もない、とろんとした琥珀色。

  口元からは、細い唾液の糸が引いていた。

  「私は白熊便器♡白熊便器はね♡風間くんのことが大好きなんです♡」

  耳元で囁かれる声。

  鼓膜が痺れるような、甘く、低い響き。

  師匠の熱い吐息が、僕の首筋にかかる。

  その瞬間、僕の体の中で、何かがパチンと弾けた。

  「っ……!」

  「知ってますよ♡ 風間くんが夜毎、誰を思い出してオナニー……していたのか♡ 私、風間くんの、お役に立ちたいんです♡」

  師匠の手が、僕のパジャマの中に滑り込んでくる。

  ごつごつとした、大きな手。

  けれどその動きは、かつての犬飼教官のように優しくはない。

  もっと貪欲で、淫らで、僕の神経を直接逆撫でするような、おぞましい手つき。

  「いや……やめ……」

  口では否定しているのに、僕の腰は、自分から彼の手に押し付けられていた。

  熱い。

  体が燃えるように熱い。

  「風間くんのザーメン♡ ください……♡ たっぷりと、私の中に……♡」

  師匠が、僕の股間に顔を埋める。

  濡れた舌が、生地越しに僕の熱をなぞる感触。

  「あ、ああっ……!」

  その瞬間、視界が真っ白に弾けた。

  上半身を起こす。

  荒い息。

  心臓が、肋骨を叩き壊すような勢いで脈打っている。

  全身が汗でじっとりと濡れていた。

  夢。

  そうだ、夢だ。

  あのマンションの一室じゃない。ここは司令部の医務室だ。

  「はぁ、はぁ、はぁ……」

  乱れた呼吸を整えようとする。

  けれど、夢の余韻は、あまりにも生々しく僕の体に残っていた。

  特に、下半身に。

  パジャマのズボンが、痛いほどに張り詰めている。

  布地が擦れるだけで、電流のような痺れが背骨を駆け上がる。

  頭の中には、まだあの夢の光景がこびりついて離れない。

  濡れた毛並み。甘い匂い。そして、僕を求めてやまない、淫らな師匠の顔。

  (……ダメだ)

  理性では分かっている。

  師匠は今、地獄のような場所に囚われている。

  それなのに、僕は。

  (やめろ、考えるな)

  けれど、手は勝手に動いていた。

  まるで、自分のものではない生き物のように、ズボンのゴムに指をかける。

  下着ごと引き下げると、冷たい空気に触れた熱が、さらに暴発しそうになった。

  「ぅ……っ」

  熱い硬直を、自分の手で握りしめる。

  夢の中で師匠が触れた感触を、必死になぞるように。

  ダメなのに。こんなこと。指を動かすたびに、罪悪感が胸を刺す。

  でも、それすらも今は快楽のスパイスだった。

  こんなにも汚れている。

  こんなにも、獣だ。

  「ふぅ、っ、く……っ」

  シーツに顔を押し付け、声を殺す。

  暗闇の中で、水音だけが卑猥に響く。

  脳裏に浮かぶのは、ヒーローとしての師匠ではない。

  首輪をつけられ、四つん這いで僕を見上げ、舌を出して喘ぐ「白熊便器」。

  『出してください♡ 風間くん♡ 私に全部出してください♡』

  幻聴が聞こえる。

  その声に煽られるように、僕は手を速めた。

  もう、何も考えられない。

  ただ、この苦しいほどの熱を、どこかにぶちまけたいだけ。

  「ん、っぁ……ッ!!」

  絶叫を喉の奥で噛み殺し、僕は腰を跳ね上げた。

  ドクドクと、脈打つ先から、熱いものが迸る。

  一度、二度、三度。

  止まらない。

  白いシーツの上に、僕の汚い欲望が、次々と吐き出されていく。

  「はぁ、はぁ、っ、ぅ……」

  痙攣がおさまると同時に、急速な冷えが襲ってきた。

  全身から力が抜け、泥のようにベッドに沈み込む。

  鼻をつくのは、栗の花のような、生臭い匂い。

  僕の放った匂い。

  そして、夢の中の師匠と同じ、雄の匂い。

  ゆっくりと、手を離す。

  掌はぬらぬらと濡れ、月明かりの下で鈍く光っていた。

  シーツに広がる、澱んだような染み。

  「……最低だ」

  掠れた声が、静寂に吸い込まれた。

  師匠が苦しんでいる時に。

  僕は、その師匠をおかずにして、こんなにも気持ちよくなってしまった。

  しかも、あんな汚れた姿の師匠を、喜んで受け入れていた。

  「僕は……」

  涙すら出なかった。

  ただ、自分という存在が、とてつもなく薄汚れた塊に思えた。

  僕は汚れた手で、シーツをぎゅっと握りしめた。

  この匂いは、一生消えない気がした。

  ◇

  朝が来たのかどうかも、よくわからなかった。

  ただ、窓の外が白っぽく濁り、部屋の空気が少しだけ乾いた気がしただけだ。

  「……ぅ」

  体を起こそうとして、鉛を詰め込まれたような重さに、再び枕に沈み込む。

  頭の芯が、鈍く痺れている。

  昨夜の、あの狂ったような高揚感は跡形もなく消え去り、後にはただ、底なしの虚脱感だけが残されていた。

  シーツの感触が変わっていた。

  昨夜、僕が汚したシーツは、いつの間にか新しいものに取り替えられている。

  いつの間に。誰が。

  看護師だろうか。

  彼女は、あの染みを見て、何を思っただろう。

  「気持ち悪い」と顔をしかめたか。それとも、「若いから仕方ない」と事務的に処理したか。

  どちらにせよ、何も言われなかったことが、余計に僕の胸を抉った。

  まるで、触れてはいけない汚物として扱われたようで。

  「……最低だ」

  布団の中で膝を抱え、小さく丸まる。

  下腹部には、まだ微かな倦怠感が残っていた。

  それが昨夜の行為の証明のように思えて、僕は強く唇を噛んだ。

  血の味がした。その生臭さが、昨夜の匂いを思い出させて、吐き気がした。

  その時、コンコン、と軽快なノックの音がした。

  「は……」

  返事をする間もなかった。

  ガチャリとドアが開き、見慣れた顔がひょいと覗く。

  「お、生きてる生きてる。よかった!」

  「い、犬塚……さん?」

  そこにいたのは、柴犬獣人の犬塚輝さんだった。

  第二作戦部隊のエース、スカイハウンド。

  逃げ出してきた僕を救ってくれた人。

  「おはよう、風間! 顔色、まだあんま良くないな」

  彼はズカズカと部屋に入ってくると、遠慮なくベッドの脇に立った。

  その明るさが、薄暗い僕の世界には眩しすぎた。

  そして、彼の背後から、もう一つの影が現れた。

  「……失礼する」

  低い声と共に、部屋の空気が圧迫されたように感じた。

  現れたのは、見上げるような巨体。

  灰色の分厚い被毛に覆われた、ハイイログマ獣人。

  その顔には古傷が走り、鋭い眼光が、僕を射抜くように見据えている。

  「え……あ、あの……」

  言葉が出なかった。

  テレビや教科書でしか見たことのない、伝説の存在。

  グリズリオンさん。

  彼は無言で軽く会釈をすると、窮屈そうに窓際へと歩き、そこにどっかりと立った。

  腕を組み、窓の外を睨むように見ている。

  その背中は、まるで鋼鉄の壁のように巨大で、圧倒的だった。

  「お、おはようございます……」

  掠れた声で挨拶をするのが精一杯だった。

  心臓が早鐘を打つ。でもそれは、憧れのヒーローに会えた高揚感ではない。

  こんな薄汚れた獣が、彼らのような「本物」と同じ空気を吸っていいのかという、強烈な後ろめたさだった。

  「マジでよく生きて帰ってきたな」

  犬塚さんが、いつもの調子でパイプ椅子に足を乗せた。

  「狸谷司令に事情はなんとなく聞いたけど……囚われた状態からヴィランから逃げ切るの、相当すごいぞ。俺でもキツかったかもしれない」

  「あ……いえ、僕は……」

  僕は俯き、シーツを握りしめた。

  違う。僕はすごくなんてない。

  ただ、師匠を見捨てて、無様に逃げ出しただけだ。

  犬塚さんに抱えられて、荷物みたいに運ばれただけだ。

  「その節は……ありがとうございました。助けて、いただいて……」

  「お、礼が言えるなら大丈夫だな」

  犬塚さんはニカっと笑い、親指で窓際の巨漢を指した。

  「あ、そうだ。ウチの師匠。グリズリオン。……あんま喋んないけど、怖い人じゃないから安心して」

  「ああ」

  グリズリオンさんが、低く短く応えた。

  それだけだった。

  僕の方を見ようともしない。

  きっと、僕のような「偽物」には興味がないのだろう。

  あるいは、僕の体の奥にある「汚れ」を、獣の勘で見抜いているのかもしれない。

  「……」

  居心地が、悪い。

  消えてしまいたいと思った。

  僕は布団を肩まで引き上げ、彼らの視線から逃れるように身を縮めた。

  「でさ、風間」

  犬塚さんが、少し身を乗り出してきた。

  その瞳は、以前訓練室で僕に向けてくれたものと同じ、真っ直ぐで、温かい光を宿していた。

  「君、自分を責めてるかもしれないけどさ。胸張っていいよ」

  「……え?」

  「たぶん操られてるベアードグレイシアさんと戦ったんだろ? 現場の痕跡見たけどさ、お前、ギリギリまで抵抗しようとしてたんじゃないか? それに、ちゃんと通信もした。だから俺たちが辿り着けたんだ」

  彼の言葉は、優しかった。

  僕の行動を肯定し、ヒーローとして認めてくれている。

  でも、その優しさが、今は鋭利な刃物となって僕の心を切り裂いた。

  「もしベアードグレイシアさんがここにいたらさ、絶対言うと思う。『君のおかげで』って」

  「――ッ」

  その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。

  『君のおかげで、犠牲者は一人もいません』

  かつての師匠の言葉が、呪いのように蘇る。

  あの時も、僕は何もできなかった。

  そして今回も。

  脳裏にフラッシュバックする、師匠の姿。

  僕の上に跨って喘ぐ「白熊便器」。

  そして、その姿を夢に見て、昨夜、快楽に溺れた自分。

  シーツに残った、あの染み。

  (やめてくれ)

  そんな汚れた僕に、「立派だ」なんて言わないでくれ。

  師匠が地獄にいるのに、「君のおかげ」なんて言わないでくれ。

  「……そんなふうに」

  喉の奥から、熱い塊がせり上がってきた。

  抑えようとしても、止められなかった。

  「そんなふうに、簡単に言わないでくださいッ!!」

  叫んでいた。

  病室の空気が、一瞬で凍りついた。

  自分の声が、耳鳴りのように頭の中で反響する。

  「あ……」

  我に返るのと同時、激しい後悔が押し寄せた。

  何を言ってるんだ、僕は。

  犬塚さんは、命の恩人だ。

  僕を心配して、励ましてくれているのに。

  「すみ、ません……」

  震える声で、必死に紡ぐ。

  「犬塚さんが悪いわけじゃ、なくて……僕が、その……ごめんなさい……」

  涙が滲んだ。

  最低だ。

  昨夜は師匠を汚し、今は恩人の優しさを踏みにじった。

  僕は、どこまで自分勝手なんだ。

  沈黙が落ちた。

  怒られると思った。呆れられると思った。

  けれど。

  「……いいよ、気にすんなって」

  聞こえてきたのは、拍子抜けするほど軽い声だった。

  恐る恐る顔を上げると、犬塚さんは怒っていなかった。

  少しだけ眉を下げて、困ったように笑っていた。

  「あんな目に遭った後でさ、前向きなこと言われて『はいそうです』って頷けるやつの方が、よっぽどやばいと思う」

  彼は、ベッドの手すりをコツンと拳で叩いた。

  その音が、不思議と心地よく響いた。

  「全部わかる、なんて言わないけどさ」

  彼の声のトーンが、少しだけ下がった。

  「少なくとも、俺は君が生きててよかったと思ってるよ。君を背負って走った時、軽すぎてビビったけどな」

  「……っ」

  その言葉と共に、背中に残る感触が蘇る。

  降り頻る雨の中で、僕を抱え上げてくれた、力強い腕の感触。

  あの温かさが、僕を生かしてくれた。

  「……はい」

  それ以外、何も言えなかった。

  喉が詰まり、熱いものが頬を伝った。

  それを拭う資格すら、僕にはない気がした。

  「よし。じゃあ、長居しても悪いし、もう行くよ」

  犬塚さんは、パンと膝を叩いて立ち上がった。

  僕が知ってる、明るい「スカイハウンド」の顔に戻っていた。

  「今はさ、考えすぎてもロクなループにハマんないから。……ゆっくり休め、な?」

  「……ありがとう、ございます」

  彼は軽く手を振ると、病室を出て行った。

  その後ろを、グリズリオンさんがゆっくりと続く。

  その巨体がドアをくぐる直前、彼はふと足を止めた。

  ゆっくりと振り返り、その鋭い瞳で、一度だけ僕を見下ろした。

  そして、独り言のように、低く呟く。

  「……似ているな。あいつに」

  「え……?」

  聞き返す間もなく、彼は背を向け、部屋を出て行った。

  カチャリ、とドアが閉まる。

  部屋には再び、静寂だけが残された。

  「似ている……?」

  あいつ、とは誰のことだろう。

  師匠のことだろうか。

  狸谷司令も、同じことを言っていた。

  彼らのような「本物」の目には、僕の中に何が見えているのだろう。

  師匠と同じ「何か」。

  それはいったい何だろうか。

  「……はは」

  乾いた笑いが漏れた。

  似ているなら、僕もいつか、師匠のように壊れてしまうのだろうか。

  あるいは、もう壊れ始めているのかもしれない。

  昨夜の頭の中での情事が、また脳裏をよぎる。

  僕はシーツを頭まで被り、耳を塞いだ。

  それでも、犬塚さんの「生きててよかった」という言葉と、グリズリオンさんの「似ている」という言葉だけが、いつまでも頭の中で響き続けていた。

  ◇

  二人が去って、部屋には再び重い静寂が戻った。

  僕はしばらく、何も考えずにベッドに横たわっていた。

  天井の染みを数えるでもなく、ただぼんやりと眺める。

  時間だけが過ぎていく。

  喉が、渇いた。

  枕元の水差しに手を伸ばす。軽い。振ると、カランと虚しい音がした。

  空だ。

  ナースコールのボタンが、視界の端にある。

  押せば、看護師さんが来てくれる。

  でも、指が動かなかった。

  (あの人に、また顔を合わせるのか)

  シーツを替えてくれた、あの看護師さん。

  あの染みを見て、ニオイを嗅いで何を思っただろう。

  その視線を、もう一度受け止める勇気が、僕にはなかった。

  ゆっくりと体を起こす。

  頭がふらついた。立ちくらみ。視界が一瞬白く霞む。

  ベッドの縁に腰掛け、深呼吸を一つ。冷たい空気が肺に入り込む。

  病室の隅に、小さな洗面台があった。

  あそこまで行けば、水が飲める。

  一歩。床が冷たい。スリッパを履くのも面倒で、裸足のまま歩き出した。

  足の裏に伝わる、無機質なフローリングの感触。ひんやりとして、どこか心地よかった。

  洗面台に辿り着く。

  鏡があった。

  そこに映る自分の顔を、見たくなかった。

  視線を逸らし、蛇口を捻る。

  ジャバ、と勢いよく水が流れ出た。

  透明な水が、ステンレスの流し台に跳ね返る。

  その音だけが、やけに大きく響く。

  棚からコップを取り、水を注ぐ。

  半分ほど満たして、蛇口を閉めた。

  コップを手に取る。口元に運ぶ。

  舌先に触れた水は、ぬるかった。

  生ぬるい。喉を通るその感触が、どこか不快だった。

  (冷たい水が、飲みたい)

  ただそれだけの、日常的な欲求。

  僕は何気なく、いつものように、指先をコップの縁に添えた。

  空気中の水分を凝固させて、氷を作る。

  それが、僕の能力だ。

  コップの水を冷やすくらい、何でもない。何度もやってきたことだ。

  目を閉じる。

  意識を、指先に集中させる。

  冷たい感覚を、イメージする。

  澄んだ、透明な氷。

  師匠が創る、あの美しい氷を。

  ――でも。

  脳裏に浮かんだのは、氷ではなかった。

  白く濁った、粘性のある液体。

  汗ばんだ肌。

  喘ぎ声。

  四つん這いで腰を振る、白熊の姿。

  「っ……!」

  目を開ける。

  手の中のコップが、震えていた。

  違う。

  そんなものじゃない。

  僕がイメージするべきなのは、そんなものじゃない。

  もう一度、目を閉じる。

  深呼吸。

  落ち着け。

  師匠が教えてくれた、あの感覚を思い出せ。

  『風間くん、イメージしてください。氷は力じゃない。心の形で、作るものですから』

  心の、形。

  師匠の言葉が、蘇る。

  優しく、穏やかで、温かかった。

  ――そして、その笑顔の奥に隠れていた、深い疲労の色。

  あの人は、あの時からもう、壊れ始めていたのだろうか。

  「ぅっ……」

  吐き気が込み上げた。

  指先に、何かが集まる感覚がある。

  でもそれは、いつもの冷たく澄んだ感覚じゃない。

  ぬるくて、重くて、どろりとした、何か。

  コップの中の水を見下ろす。

  透明なままだ。

  何も起こっていない。

  (なんで……?)

  もう一度。

  今度こそ。

  僕は震える指先を、コップの水に沈めた。

  冷やせ。

  凍らせろ。

  いつも通りに。

  ――出てくれ。

  頼む。

  師匠と僕を繋ぐ、この能力。

  これだけが、僕がヒーローでいられる、唯一の証なんだ。

  指先から、わずかに冷気が漏れた気がした。

  ほんの一瞬。

  でも、次の瞬間。

  指先が、熱くなった。

  いや、冷たい。

  いや、わからない。

  感覚が、狂っている。

  熱いのか、冷たいのか、痛いのか。

  自分の指先なのに、自分のものじゃないみたいだ。

  そして、脳裏に再び浮かぶ、昨夜の光景。

  ベッドの上で、師匠の幻を抱きながら、自分の欲望に溺れた、あの時間。

  果てた後の、虚しさと自己嫌悪。

  シーツに残った染み。

  師匠を汚した。

  自分自身を汚した。

  『氷は心の形』

  なら、今の僕の心は、どんな形をしているんだ。

  汚れて、歪んで、ぐちゃぐちゃに壊れた、醜い形。

  そんな心から生まれる氷が、綺麗なはずがない。

  「あ……ぁ……」

  声にならない声が、喉の奥から漏れた。

  コップの中の水は、ただのぬるい水のままだった。

  何も変わらない。

  何も起こらない。

  僕の能力は、もう、動かない。

  カラン、と音がした。

  手からコップが滑り落ちていた。

  流し台の中で転がり、水が溢れ出す。

  透明な水が、排水口へと吸い込まれていく。

  その場に、崩れ落ちた。

  膝をついて、冷たい床に手をつく。

  爪が、フローリングを引っ掻く。

  息が、できない。

  胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。

  心臓が、壊れそうなほど速く脈打つ。

  なんで。

  なんで、なんで、なんで。

  この能力があったから、僕は師匠の弟子になれた。

  この能力があったから、僕はヒーローになれた。

  この能力だけが、師匠と僕を繋ぐ、唯一の絆だった。

  それが、もう、ない。

  僕には、何も残っていない。

  師匠は、あの地獄にいる。

  僕は、師匠を救えなかった。

  そして今、師匠と繋がる最後の糸まで、切れてしまった。

  「ごめん、なさい……」

  掠れた声が、床に落ちる。

  「ごめんなさい……師匠……」

  涙が、頬を伝った。

  でも、拭おうともしなかった。

  涙を流す資格すら、僕にはない。

  洗面台の上に、こぼれた水が広がっている。

  それは涙のようにも見えたし、昨夜の痕跡のようにも見えた。

  師匠が創る、あの完璧で美しい氷。

  僕は、それに憧れて、ずっと追いかけてきた。

  でも、一度も追いつけなかった。

  そして今、追いかけることすら、できなくなった。

  僕は、もう、ヒーローじゃ、ない。

  ただの、無力で、汚れた、獣だ。

  体の奥から、何かが抜けていくような感覚があった。

  それは、希望とか、意志とか、そういう名前のついた何かだった気がする。

  同時に何かが完全に折れる音がする。

  それは、骨が砕ける音にも似ていたし、氷が割れる音にも似ていた。

  あるいは、繋がっていた糸が、ぷつりと切れる音だったのかもしれない。

  「……ごめんなさい」

  もう一度、呟いた。

  誰に向けた言葉かも、わからなかった。

  師匠に。

  自分自身に。

  あるいは、失われてしまった何かに。

  ◇

  あれから、何日が過ぎただろうか。

  窓の外の景色が変わるたびに、それが朝だったり夕方だったりすることはわかる。

  でも、僕の中の時間は、あの洗面台でコップを落とした瞬間から、ぴたりと止まったままだ。

  「……風間さん、少しでも食べませんか?」

  看護師さんが、困ったような顔で僕を見下ろしている。

  サイドテーブルには、冷え切った粥と、いくつかの小鉢。

  匂いを嗅ぐだけで、胃の腑がキュッと縮こまるのがわかった。

  「すみません……」

  「無理強いはできませんけど……点滴だけじゃ、体力が落ちてしまいますよ」

  彼女の声は優しい。

  その優しさが、どこか痛かった。

  僕は視線を逸らし、窓の外を見る。

  灰色の空。雲の隙間から、ほんの少しだけ青が覗いている。

  彼女が去ったあと、僕はまた天井を見上げる。

  白い天井。無機質な蛍光灯。

  何も考えたくなかった。でも、何かが勝手に頭の中を巡っていく。

  ヒーロースクールの訓練場。

  泥だらけになって走った日々。

  実技の成績表に並ぶ、ギリギリの数字。

  それでも、諦めなかった。

  何のために?

  犬飼教官の背中。

  卒業式の日、結局言えなかった言葉。

  あの想いは、何か意味があったんだろうか。

  そして、あの日。

  ベアードグレイシアの弟子に選ばれた日。

  「君がどんな答えを出しても、私はそれを尊重しますから」

  その言葉に、どれほど救われたか。

  でも。

  僕は手のひらを見る。

  何も残っていない。

  ただの肌があるだけだ。

  その時、ノックの音がした。

  「ユキちゃん、入るよ」

  心臓が、跳ねた。

  聞き間違えるはずがない。でも、まさか。

  ドアが開く。

  そこに立っていたのは、サモエド獣人の壮年の女性。見慣れたエプロン姿ではなく、よそ行きのベージュのカーディガンを羽織った、母さんだった。

  「……母、さん?」

  「ユキちゃん……」

  母さんは、僕の顔を見るなり、目元をくしゃりと歪めた。

  駆け寄ってきて、ベッドサイドに座り込む。

  「司令部の偉い人から連絡が来てね……心配で、飛んできたの」

  狸谷司令だ。

  母さんの手は温かかった。

  僕の頬に触れるその掌は、子供の頃、熱を出した時に何度も触れられた、あの懐かしい感触だった。

  「ユキちゃん……痩せちゃって……」

  母さんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

  「ごめんね。何もしてあげられなくて。こんなになるまで、気づいてあげられなくて……」

  母さんが泣いている。

  その涙を見た瞬間、僕の胸の奥で何かが軋んだ。

  痛みとも違う、重さとも違う、名前のつけられない感覚。

  それは、ずっと心の奥底に沈めていた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくるような感覚だった。

  『ユキちゃんも、いつか好きな人と一緒に、こんなふうに穏やかに暮らせたらいいね』

  いつか母さんが言った言葉が、不意に蘇る。

  あの時、僕は何と答えたっけ。

  覚えていない。

  でも、その言葉に込められた意味だけは、今ならわかる気がした。

  父さんと母さんが営む、小さなパン屋。

  朝早く起きて、小麦をこねて、オーブンに火を入れる。

  常連客の顔を覚えて、笑顔で言葉を交わす。

  焼きたてのパンの匂いに包まれた、温かく、穏やかで、退屈なほど平和な日常。

  もし。

  僕がヒーローになんてならなかったら。

  地元の大学に通って、普通に就職して。

  あるいは、実家を手伝って。

  そうしたら。

  何が変わっていたんだろう。

  師匠に出会うことも、なかった。

  こんな気持ちになることも、なかった。

  母さんを泣かせることも、なかったんだろうか。

  「……母さん、ごめん」

  掠れた声が出た。

  何を謝っているのか、自分でもよくわからなかった。

  「ううん、いいの。謝らなくていいの」

  母さんは首を振り、ハンカチで涙を拭った。

  そして、僕の手を両手で包み込み、真っ直ぐに僕を見た。

  「ユキちゃん。もう、十分頑張ったよ」

  その言葉は、優しかった。

  あまりにも優しくて、どこか痛かった。

  「お父さんね、ユキちゃんが帰ってきたら食べさせたいって、新しいパン考えて待ってるんだよ」

  パン屋の息子。

  それは、僕がずっと逃げてきた「役割」だった。

  でも今、その言葉は逃げ場のように聞こえた。

  戦わなくていい場所。

  傷つかなくていい場所。

  誰かを守ろうと無理をしなくていい場所。

  「……うん」

  言葉が、勝手に口をついて出た。

  「……帰る」

  言ってしまった。

  その瞬間、喉の奥で何かが引っかかった。

  でも、それを飲み込むことはできなかった。

  師匠。

  その名前が、頭の中でぼんやりと浮かんでは消えた。

  でも、それ以上は考えられなかった。

  考えたくなかった。

  「そう……よかった。本当によかった」

  母さんは、また泣いた。今度は、安堵の涙だった。

  その涙を見て、僕の目にも何かが滲んだ。

  でも、それが何なのか、僕にはわからなかった。

  夕暮れ時。母さんが帰った後の病室は、朱色に染まっていた。

  窓の外では、カラスが鳴いている。

  世界は何も変わらず、ただ時間は過ぎていく。

  僕はベッドの上で膝を抱えた。

  手首を見る。そこにはもう、変身ブレスはない。

  ただの、白い肌があるだけだ。

  何かが終わったような気がした。

  でも、それが何なのか、言葉にはできなかった。

  明日からは、どうなるんだろう。

  師匠は、どこにいるんだろう。

  考えようとすると、思考が滑って、どこにも辿り着かない。

  ただ、胸の奥に重たい何かが沈んでいくのを感じるだけだった。

  目を閉じる。

  まぶたの裏に、何かが浮かんだ気がした。

  でもそれが何だったのか、思い出せないまま、僕は深く息を吐き、そのまま泥のような眠りへと落ちていった。

  (後編へ続く)