二話

  アリオスをシグルドに任せ、ウォルカ、ティーガ、リューゴの三人は先に宿を出て、雪の降る街の食堂へと向かった。

  吐き出す息が白く舞う中、ティーガは慰めるようにウォルカの肩を叩いた。

  分厚いコート越しでも、ティーガの掌から伝わる確かな重みと熱が、ウォルカの強張った身体を少しずつ解きほぐしていく。

  「ウォルカ、大丈夫か? 朝からもう疲れちまってるみてえだが……」

  雪を避けるように軒下を選んで歩きながら、ウォルカは軽く息を吐いた。

  白い息が風に流される。

  「ああ。……こうも想定外のことが続くと、な……」

  ウォルカは自身の尾がわずかに揺れるのを抑えた。

  「教育係などと、面倒な役目を押し付けられたものだ。だが主様の領地がリュゴニアにある以上、放っておくわけにもいかん。リューゴの件も絡むしな」

  「お主は真面目すぎる。だからシグルドにからかわれるのだ。シグルドがお主に求めておるのは教育係というより、躾役だと思うぞ?

  あやつの下事情の解決が急務なのも本当だがな」

  ティーガの肩で、リューゴが珍しくウォルカにまともな助言をする。

  それほどにくたびれて見えたのだろう。雪がリューゴの小さな身体に積もり、それを器用に払い落としている。

  「……俺は騎士として、ただ務めを果たすだけだ……」

  雪の降る石畳を見下ろし、ウォルカは軽く耳を伏せた。

  足音が湿った音を立て、街の朝の匂いが鼻腔を抜ける。

  「だが、殿下の件は確かに急務だな。神使に選ばれぬ理由がそこにあるなら放置はできん」

  「うむ、あやつを神使にできぬ理由のひとつはそれなのだ。と言っても根幹は同じ。精神的な未熟さの問題だな。シグルドはあやつに甘すぎて躾がなっとらんからな。お主が叱ってやれ」

  ティーガはリューゴの言葉にくくっと笑って、さらにウォルカの肩を抱いた。

  確かにリューゴの言う通りだ。あの朝の鍛錬とやらも、本来ならシグルドがきちんと指導しておくべきなのだ。

  ティーガの大きな体温が近くにあることが、ウォルカの心を静かに落ち着かせていく。

  「それならウォルカは得意だろうぜ。お前も殿下に言いたいように言やぁ良いんじゃねえか? 殿下も敬語とか気にすんなって言ってたろ」

  ティーガの抱擁に、わずかに身を寄せながら歩を進める。雪が二人の肩に静かに積もり、吐き出す白い息が空中で混じり合った。

  「……確かに、俺の得意分野だな」

  ウォルカは紅い瞳を細め、静かな決意を込めた。

  「ふむ、ならば遠慮なく指導するまでだ。――俺が叩き直してやる」

  食堂の暖簾をくぐると、暖炉の熱気と肉の焼ける香ばしい匂いが一気に鼻をくすぐった。

  早朝から客足は途切れず、獣人やヒト族たちが大きな声で笑い合い、木のテーブルを叩いている。ウォルカはいつもの癖で、入口から死角になりにくい奥の角席を選び、ティーガと並んで腰を下ろした。

  リューゴはティーガの肩にちょこんと収まり、興味深そうに店内を見回している。

  「ほぉ、ヴェルガルドの食堂は早朝から活気があるな。リュゴニアの歓楽街とはまた違う賑やかではないか」

  リューゴの声に、ティーガが苦笑しながらメニュー札を手に取った。

  「雪国の朝は早い、皆もう腹が減ってんだろ。おいウォルカ、品書きを見てみろよ。『雪獣のシチュー』とか『氷河魚の香草焼き』とか、聞いたことねえのばかりだぜ」

  ウォルカはメニューを覗き込みながらも、周囲のテーブルに鋭い視線を走らせる。

  隣の席では毛深い熊の獣人らしい大男と中年の髭面のヒト族の男が、大きなジョッキを傾けながらぼやいていた。

  「このごろ魔導具の規制が厳しくなって、生活が不便になったなぁ……」

  「ヴェルガン様のご神託だから仕方なねぇよ。でも炎の魔導具が禁止になったのは痛手だな、薪を処分しなくて良かったぜ」

  ウォルカの耳がぴくりと動いた。

  ヴェルガン――この国の守護竜の名だ。リューゴが求める助力の相手である。紅い瞳を細め、さらなる情報を得ようと自然に聞き耳を立てる。

  「……ふむ。やはりヴェルガンは竜脈保護に本腰を入れているようだな」

  リューゴが小さく呟く。声はティーガとウォルカにしか届かない低さだ。

  「我が同胞ヴェルガンは、昔から慎重な性分で、魔法の乱用を特に嫌っていた。……だが、これほどまでに規制を進めているということは、竜脈の状態はかなり良いはずだな」

  ティーガがジョッキの水を一口飲みながら、小声で返す。

  「リュゴニアの竜脈になんか援助してもらえるのか?」

  「……おそらく。……ただ、あやつは保守的だから簡単に首を縦に振るかどうか……」

  その時、食堂の入り口が勢いよく開き、雪を払いながらアリオスとシグルドが入ってきた。

  アリオスは派手な毛皮のマントを翻し、黄金の鬣を振りながら、すぐにウォルカたちの席を見つけて大きく手を振る。

  「おーい! 待たせたなー! 腹減ったぜ、早く何か食わせてくれー!」

  シグルドは優雅な微笑を浮かべ、後ろから静かに続く。

  二人が席に着くと、店員がすぐにやってきて注文を聞きに来た。アリオスは品書きも見ずに大声で、

  「俺は一番食いでがあるやつ! 肉大盛りで! それと酒も!」

  シグルドは穏やかに、

  「私は雪獣のシチューと、パン、それに温めたハチミツ酒を」

  と、それぞれ注文する。

  ティーガがくすりと笑い、ウォルカを見やる。ウォルカは溜息をつきながらも、静かに注文を決めた。

  「……俺は氷河魚の香草焼きと、シチューも一つ。ティーガは?」

  「俺はアリオスと同じでいいや。普通盛りでな」

  注文が済むと、アリオスがすぐに身を乗り出してきた。

  黄金の三つ編みの鬣がテーブルに広がり、興奮した瞳がウォルカを真正面から捉える。

  「なぁウォルカ! さっきの続きだ! 俺の……ちんぽの覇気問題、どうしたら良いと思う!? 今日は予定ないから暇だろ? 徹底的に教えてくれ!」

  食堂内のざわめきが一瞬小さくなり、周囲の視線が刺さるように集まった気がした。

  ウォルカは深く息を吸い、紅い瞳をアリオスに向ける。

  「……殿下、…アリオス様。ここは公共の場です。声を抑えてください。それに、朝食を終えてから、改めてお話ししましょうと申し上げたはずです」

  アリオスはしょんぼりと肩を落とすが、すぐに目を輝かせて、

  「なるほど! 食後は部屋に戻って熱血実践指導ってことだな!? やる気が出るぜ!」

  ウォルカの額に青筋が浮かんだ瞬間、ティーガが運ばれてきた膳からパンを取って慌ててアリオスの口に突っ込む。

  「早く食わねえと冷めちまうぞ、な?」

  アリオスはそれを咀嚼するうち、空腹を思い出したようで、ガツガツと料理を掻き込み始めた。

  「そういえば、アリオス。ウォルカがお主と打ち解け足りんらしいからな、もっと親密になるために今日は街を散策するのはどうだ?」

  リューゴが珍しく助け船を出し、ウォルカは溜息をついてそれに頷いた。

  食事を終えた一行は、雪国独特の雰囲気のある街並みへと繰り出した。

  市場に向かい、先程の噂を確かめるべく魔導具の流通具合を探る。

  ウォルカは市場の賑わいを眺め、露店を観察し、品揃えの少なさに眉を寄せた。

  「……魔導具の数が少ない。規制の影響か。リューゴ、竜脈はどうなんだ?」

  「やはり竜脈は豊かなまま維持されているようだな、羨ましいぞ」

  リューゴは目を閉じて何かを感じとっているようだ。

  ウォルカは軽く頷き、続いてアリオスの方へ視線を移した。

  「こんなんじゃ不便だろうになー。逆に見たことない魔導具もあるけど……なんだこれ? おもちゃみてえ。なんに使うもの?」

  アリオスが露店を覗いてひょいと品物を手にとる。すると店主がにやにやと下卑た笑みを浮かべた。

  「お兄ちゃん知らねえの? それはここをこうすると……」

  丸みを帯びた棒状の魔導具は店主が魔石に触れると「ブブブ」と音を立てて振動した。

  アリオスは目を輝かせる。

  「ほうほうほう! つまりこれを……あそこに、入れるのか……!?」

  ウォルカの表情が一瞬で凍りついた。

  「……アリオス様」

  アリオスの肩に軽く手を置き、露店から引き離す。市場全体を見渡すと、確かに他の露店でも似たようなラブアイテムが堂々と並んでいることに気づく。

  アリオスの朝の鍛錬を思い出せば、この状況がさらに面倒を増やす予感しかない。

  「市場の見学はもう良いでしょう。次は市民の生活を見てみましょうか」

  アリオスを優しく、しかし有無を言わさぬように市場の奥へ誘導する。

  市場の奥、雪に覆われた民家が並ぶ区域を進むにつれ、ウォルカの紅い瞳が鋭く周囲を警戒するように細められた。

  寒風が吹き抜ける中、薄着の者たちが家々の前に立ち、通行人に絡みつくように声をかけている。

  それは娼館の呼び込みを彷彿とさせた。

  アリオスが薄着の男に声をかけられ、目を輝かせて応じようとするのを、ウォルカは素早く横から割り込み、腕を伸ばしてアリオスの肩を軽く掴んで引き戻した。

  「お兄さん達、外国の人? どう? ちょっと遊んでいかない?」

  「お、おー!? なになに、そういうこと? いいねー、俺と温め合っちゃう?」

  「アリオス様、こちらはただの挨拶です。深入りせず、次へ」

  アリオスは声をかけられれば片っ端からこんな調子だ。

  シグルドは傍らで薄笑いを浮かべているのが、苛立ちを煽る。

  「娯楽が少ないせいでこんな調子なのか。この街はどこもこんなんばっかだな」

  「ああ、魔導具の規制による生活の不便さや不満を、こんな形で紛らわせているかもな……ヴェルガルドの民は我慢強いが、風紀の乱れは治安に悪影響だ」

  ティーガの言葉に小さく頷き、ウォルカはその横顔をちらりと見た。

  ティーガの肩の上でリューゴはふんふんと鼻息を荒くしている。

  「リュゴニアも昔はこのようだったのだ! 生命力の交わりが盛んであればあるほど竜脈も栄える、良きことなのだぞ」

  竜神がこんなものを良しとするとは……。

  驚きを隠せないが、竜脈の理屈は自分の知識を超えている。

  ウォルカは咳払いを一つして、冷静に返す。

  「生命力の交わりが竜脈を栄えさせるのは分かったが……こんなのが、リュゴニアの昔の姿だったとしても、それに戻す訳にはいかん」

  アリオスをもう一度引き留め、シグルドに視線を送る。執事は殿下の側近として、もっとしっかり抑えるべきだろうにと軽く睨んだ。

  ようやく通りを抜けると、雪のヴェールに包まれた噴水と周囲のベンチが目に入る。

  ウォルカは息を整え、一行を広場の端に集めた。

  「この街は楽しいなー! あっちこっちに誘惑がいっぱいだ、後で遊びに来よーっと」

  「アリオス様の社会勉強が捗りますな」

  アリオスは一応、今の目的である情報収集を理解しているようだが、呑気なものだ。

  シグルドは止めるどころか推奨している様子で、さらにウォルカの苛立ちが募る。

  「アリオス様、遊びに来るなど言語道断です。情報収集のつもりで街を歩いているのであって娯楽に溺れるための散策ではありません。ヴェルガルドの民の生活を観察するならもっと真剣に……」

  シグルドに視線を移し、低い声で釘を刺す。

  「……俺は、殿下を甘やかしませんよ」

  ティーガが宥めるようにウォルカの背をぽんと叩く。

  ちょうどその時、広場のベンチ近くから声が飛んできた。

  「お、さっきのちんぽの覇気の兄ちゃんじゃねえか」

  「悩みがあるなら神殿に行くと良いぜ。俺達も行くところだ、一緒に行くか?」

  先程食堂で隣のテーブルに座っていた二人組だ。熊の獣人の毛深い体躯が雪景色に映え、ヒト族の男は髭を蓄えた職人風でずんぐりとしている。

  自分たちの様子を面白がっているようだ。

  警戒心は湧くが、その一般人らしき風貌は過剰に威嚇するほどではない。

  竜神信仰の薄れたリュゴニアには神殿はない。情報収集の好機だ。

  リューゴの様子をちらりと見れば、何かを考えるように口を閉ざしていた。

  「……お前達は……食堂で隣だったな。俺たちはヴェルガルドの観光中なんだ。竜神信仰の神殿とは珍しい、どういった場所なんだ?」

  熊の獣人がにっこりと笑い、親しげにウォルカの肩を叩く。

  「神殿はこの先の丘の上だ。ヴェルガン様に祈りを捧げるところだよ。竜脈の活性化にも重要な場所さ」

  ヒト族の男がこっそりとウォルカに近づき、小声で囁いた。

  「祈りと一緒に願いもヴェルガン様に届くんだ。行ってみる価値はあると思うぜ」

  熊の獣人の親しげな仕草に、ウォルカの白い尻尾がわずかに揺れる。

  紅い瞳が一瞬、鋭く光るが、すぐに穏やかな表情に戻す。

  「……ふむ。願いが云々は眉唾だが、竜脈の活性化か……」

  そう呟いて、アリオスとシグルドの方へ振り返る。

  「神殿を見学する価値はありそうです。——竜神信仰がこの国をどう支えているのか、ヴェルガルドの在り方を知る良い機会でしょう」