一話

  「……うっ。……まだ、か。まだ着かないのか……」

  船は穏やかな波に揺られながら、ホムラサキの島へと近づいていた。

  ウォルカは手すりにしがみつき、胃の奥から込み上げる不快感に必死に耐える。

  地を駆けることには慣れていたが、底の見えない海の上を揺られるのは、人生で初めての経験だった。先日、ヴェルガルドで対峙した魔獣よりも、この絶え間ない波の揺れの方が、彼の強靭な肉体を確実に削っていた。

  「大丈夫か、ウォルカ。……ほら、楽にしてろよ」

  ティーガが甲板の端で慈しみのこもった声音で、ウォルカの背中を優しくさすりながら水筒を差し出す。

  その体温が近くて、少しだけ安心する。

  「はぁ……、お前は、大丈夫なのか……」

  「……俺も船は初めてだが、案外平気だな」

  ティーガが首を傾げ、リューゴが胸の合わせからぴょこんと顔を出す。

  「 お主は我の神使! 貴き竜の加護により、生命力が乱れることなど万に一つもないぞ!」

  鼻高々に威張る小さな紫竜に、ウォルカは弱々しく睨み返した。

  「……にしても、ホムラサキとな。あの辺りは確か赤の竜、アカツキの竜脈……ヤツは引きこもりの寝坊助で国を作るような性格ではなかったのだがな」

  リューゴの言葉に導かれるようにウォルカが視線を上げると、水平線の向こうから陽炎を突っ切って、その島が姿を現した。

  西の島国「ホムラサキ」——。

  島の中央には、天を衝くように堂々と鎮座する巨大な活火山。その雄大な姿からは絶えず黒煙が立ち上り、大地の鼓動を伝えてくる。山の裾野に目を向ければ、眼を疑うほど鮮やかな緑が広がり、黄金色に波打つ田畑が海風に揺れていた。

  あちこちから真っ白な湯気が立ち上り、潮風に混じって硫黄の香りが漂ってくる。

  「……綺麗なところだな」

  ウォルカは船酔いの苦しさを一瞬忘れ、紅い瞳を細めて呟いた。

  ティーガも隣で感嘆の息を漏らし、リューゴはうぬぬと唸る。

  「確かに……大陸とは全然違う。不思議な島だな」

  「竜脈が豊かで安定しておるのう!羨ましいわい」

  ウォルカは吐き気を堪えながら、その生命力溢れる景色に目を細めた。

  しかし、その横では一人、極度の緊張感で肩をそびやかしている男がいた。

  「よし……。身だしなみは完璧だな。ウォルカ、シグルド、見ていろ。俺は使者としてしっかり務めを果たしてみせる…!」

  アリオスだった。

  先のヴェルガルドで謁見に手応えを感じているらしい彼は、彼なりに「一行の代表」としての重責を背負い、気合が入りすぎていた。リュゴニアの旅装に身を包むアリオスにはもうチャラさは無く、一応まともな使者に見える。

  船がゆっくりと接岸し、一行が舷梯を下りる。

  港では、ヴェルガルドの交易船を歓迎する島民たちが賑やかに集まっていた。

  そこへ、港の役人たちを率いる一人の男が歩み寄ってくる。

  端正に整えられた長い銀髪に、知的な光を宿した銀縁の眼鏡。落ち着いた物腰だが、目付きの鋭い狐の半獣人だった。

  「……貴公はここの領主の使用人か? 私はヴェルガルドの隣国、リュゴニアよりの使者である! ホムラサキの王に目通りを願いたく、取り次ぎを頼む!」

  アリオスが、緊張に力んだ「王子らしい声」を張り上げた。その背後で、執事シグルドは一分の隙もない完璧な姿勢で控え、主を生暖かく見守る。

  出迎えた男は、ぴくりと眉を動かしてアリオスを見据えた。

  「……領主?王? いえ、私はホムラサキの竜神アカツキ様の名代、朱焔城城主であるサクラ様に仕える文官、サコンと申します。異国のお客様、まずはその威圧的な態度を改めていただけますでしょうか。島の者が怯えます」​

  サコンはアリオスを上から下まで値踏みするように見つめた。その冷ややかな視線に、アリオスは出鼻をくじかれたように口をパクつかせた。

  後ろでウォルカが頭と胃を押さえながら、ティーガに支えられてよろよろと下りてくる。シグルドはすぐさまサコンへ向き直り、ハンチェンからの紹介状を丁寧に差し出した。

  「失礼。紹介状はこちらに。我が主は長旅で少々、気が立っておりまして」

  サコンは書状を確認し、わずかに表情を和らげた。

  「……なるほど、ハンチェン様の紹介であれば無下にはできません。ひとまず宿へ案内しましょう。殿への拝謁は明後日には叶いましょう、本日は我が国自慢の温泉で疲れを癒してくださるのがよろしいかと」

  サコンの先導で一行は港街へ足を踏み入れると、そこには大陸のどの都市とも違う、熱を帯びた活気が溢れていた。

  「……ふぅ。……やっと、落ち着いてきたな」

  ようやく血色の戻り始めたウォルカが、深く息を吐き出す。

  「よかったよ。あんなに弱ってるお前を見るのは、若い頃に熱を出した時以来だな」

  懐かしそうに笑うティーガに、ウォルカは照れ臭そうに尻尾を一振りする。島全体を包む温かな大地の気配が、ウォルカの船酔いを鎮めてくれていた。

  ​一方、その前を行くアリオスは、上陸直後の威勢が嘘のように肩を落としていた。

  「……王ではなく城主、使用人ではなく筆頭文官、か。いきなり相手の機嫌を損ねるとは俺としたことが……。ウォルカ、今の俺は、ちゃんと『使者』に見えているか……?」

  「……ああ、服の着こなしだけは完璧です、アリオス」

  気落ちする主の姿に、後ろに控えるシグルドは何も言わず、しかし相変わらずよく分からない微笑みを浮かべてその背中を見守っている。

  ​そんな一行を迎え入れたホムラサキの街並みは、驚きに満ちていた。

  通りに並ぶ店先では、色鮮やかな魚や果物が山積みになり、そこかしこから立ち上る真っ白な湯気が、硫黄と花の混じった独特の香りを運んでくる。

  ​何よりウォルカの目を引いたのは、行き交う人々の姿だった。そしてそこには男だけでなく、白装束の女がちらほら見えるのだ。

  大陸では女といえば、教会に籠もって、魔法と魔導具の研究に明け暮れる陰気な学者、もしくは曖昧な笑みを浮かべながらも冷たい目をする得体の知れない生き物だ。だがこの島では、男たちが威勢よく商いをするすぐ側で、女が柔らかな微笑みを浮かべて談笑し、幼い子供たちと戯れている。男と女が共存している。

  その光景は大陸の常識からすれば、まるでお伽話の世界に迷い込んだかのようだった。

  「本当に、女が生活しているんだな……」

  誰のものとも分からぬ呟きを切り裂いたのは、砂利道に転んだ幼い子供の激しい泣き声だった。

  そこへ、一人の女がふわりと駆け寄る。

  彼女が子供の傷ついた膝に優しく手をかざし、その手元が淡く輝き始めた瞬間だった。​

  (魔法……!? 何をしようとしている!?)

  ​一行の脳裏に、大陸の女たちが操る魔法の危険な光がよぎる。

  ウォルカも反射的に身構えたが、アリオスの方が早かった。

  「危ない!女から離れろ!」

  アリオスはライオンの雄々しさで地を蹴ると、巫女と子供の間に割って入り、子供を抱えて巫女を遮った。

  「きゃっ……!?」

  巫女は光を灯した手のまま、呆然と固まる。

  その瞬間、サコンの尻尾が逆立ち、怒りで激しく波打った。

  「貴様! 巫女様の神力を妨害するとは何事ですか!先程の無礼な態度といい、もしや使者を装った刺客か!!」

  ​サコンはあまりの激高に、懐から小柄を抜き放った。市場の人々が一斉に悲鳴を上げる。慌てた男達の声が「みんな伏せろー!」「サコン様が武器を抜いたぞ!!」と大声で響き渡る。

  「我が小柄で成敗してくれる……せいっ!」

  サコンの手から放たれた小柄は、アリオスに向かうかと思いきや、本人の意図を完全に無視して九十度横へ飛び、市場の看板を真っ二つに叩き割った。

  「……っ!? ……今のは警告です! 次は心臓を射抜きますよ!」

  しばし流れる沈黙。

  ​澄まし顔で強弁するサコンだが、その尻尾は動揺を隠しきれず力なく垂れ下がっている。

  アリオスを庇うように飛び出したティーガと、サコンの首に手を伸ばしかけたウォルカは目を瞬かせて呆然とした。シグルドだけはいつもながらの落ち着きで、サコンに一礼してその巧みな話術で懐柔を始めたのであった。

  どうにかサコンの怒りを宥めて、一行がようやく辿り着いたのは島でも格式高い老舗の旅館だった。

  アリオスは名誉挽回とばかりに、素早く金貨を二枚取り出し、番頭とサコンへ一枚ずつ差し出した。

  「……世話になった。宿代と、ここまで案内してくれた礼だ。これで良い部屋を用意してくれ」

  その眩い黄金の輝きを目の当たりにしたサコンは、眼鏡の奥の瞳を険しく光らせた。

  ホムラサキは長閑で平和な島であるため、未だ物々交換も珍しくない。貨幣があまり使われないため、金貨や銀貨の価値は大陸よりはるかに高かったのだ。

  「これほどの大金を無造作に…。もしや、精巧に作られた『偽金』か?いや、筆頭文官である私には分かる、この輝きと重みは本物の金貨だ……!であるなら、これまでの非論理的な挙動と、この過剰な支払額から導かれる答えは――貴方は我が国の経済を内部から崩壊させるための特殊工作員ですね!?」

  「なんでそうなるの!?」

  「き、金貨ですって!?大旦那様ー!!」

  先程の誤解は解けたとはいえ、サコンの不信感は頂点に達していた。アリオスが悲鳴を上げる一方で、初めて見た金貨に驚いた番頭はそれを握り締めて奥へと素っ飛んでいく。

  どうやらホムラサキとの交渉はヴェルガルド以上に難航しそうだ。

  混沌とする旅館の入り口で、ウォルカは大きく溜め息をついたのだった。