時は、少しばかり遡る。
ウォルカが悲壮な覚悟で朱焔城を飛び出す、一時間ほど前のこと。
街一番の老舗旅館『金桜閣』の露天風呂で、ティーガはのんびりと湯に浸かっていた。真っ昼間の大浴場には他に客の姿はなく、まさに貸し切り状態である。
「……ふぅ、あんだけ無茶した割には身体が驚くほど軽いな」
「それが神使というものよ。我も満ち足りておることだしな」
ティーガの横でぷかぷかと湯に浮かぶ紫の小竜――リューゴが満足そうに宣う。春の風に揺れる桜の花びらが、清らかな湯面に静かに舞い落ちる。
ティーガは、鍛え抜かれた虎縞の肉体をとっぷりと湯に沈め、至福の吐息を漏らした。
しばらくそうしていれば、リューゴが湯気の向こうを睨むようにして、ふむ、と鼻を鳴らす。
「ティーガよ。回復して分かったことだが……今、この島には我とアカツキ以外にも、妙な『竜』が紛れ込んでおるようなのだ」
「あ? 竜って竜神ってことか?」
「うむ。だがどうにも妙でな、気配が我らとは異なり人に近いような――」
リューゴがその正体を口にするより早く、露天風呂の戸ががらりと音を立てて開いた。
「それは儂のことじゃな! 久しぶりじゃのう、リューゴ!」
「うわっ……!?」
露天風呂の戸口から、陽気な声が割り込む。
ティーガが驚愕に振り返ると、そこにはいつの間にか、一人の「男」が立っていた。
豊満な肢体に鱗が浮き出たその巨漢は、無作法に風呂へと飛び込んでくる。そしてざばりと水面から顔を出すと、狼狽えるティーガをじろじろと品定めするように眺め回した。
「だ、誰だよ! おい、リューゴ、知り合いか!?」
「お主……! まさかネピスか!?」
「そうとも! 儂こそがマーテル島の竜神ネピスである!」
あまりに自分の概念と異なる出で立ちの「自称竜神」に、ティーガは目を白黒させる。
「やれやれ、リューゴよ。なんじゃその小さき身は。人間のペットにでもなるつもりかの?」
「誰がペットだ!! 貴様こそ、その身体はなんだ! 人間の真似事などしおって、見てくればかりのハリボテではないか!」
「ふっふーん、お主、知らぬのか? この身体の方が効率良く精を集められるんじゃよ。昨晩も酒池肉林の宴を楽しんだとこじゃわい」
ネピスはその肉厚な身体をくねくねと波打たせる。その凄まじい質量で露天風呂の湯がざぶりと溢れ出した。
「ええ……このおっさん、本当に竜神なのか。なんで人間みてえなんだよ」
「お主もよく知っておるだろう。我らの体は生命力の塊、その形に決まりはない。とは言っても、自然と竜の姿を取るものだがの」
ティーガの疑問に、リューゴが湯から飛び上がって答える。その誇らしげな姿とは対照的に、リューゴの視線は厳しくネピスを射抜いた。
「して、その酒池肉林の竜神が、自分の竜脈を放り出してなぜこんなところにおるのだ? 我の竜脈はお主の島の女共のせいで枯渇寸前なのだがな」
「ぎくっ。そ、それはじゃな……りょ、旅行じゃな! 我の神使は船乗りで……」
「嘘をつけ。どうせ女共に島を乗っ取られて、命からがら逃げ出したのだろ」
図星を突かれたネピスが、目に見えて項垂れる。しかし指摘したリューゴもまた同じ境遇にあるためか、両者の間には何とも言えぬバツの悪さが漂った。
「困り者同士じゃろ~、そんな冷たくせんでもよいではないか~。あ、そうじゃ! じゃからな、リューゴよ。一緒にアカツキに知恵を借りに行こうぞ! ホムラサキはやたらと生命力が豊かなようじゃし、なにか良い解決策を知っとるに違いなかろ!」
ネピスが捲し立てた瞬間、その肉がどろりと不気味に溶け出した。なりゆきを見守っていたティーガは、その異様な光景に全身の毛を逆立てる。それはウォルカでなくとも、本能的な身震いをもたらすには十分な光景であった。
透き通った青い粘体が蠢き、瞬く間に巨大な青竜の姿を形作る。
そして、未だぬめぬめと湿り気を帯びた前足が、問答無用でリューゴとティーガを掴み上げる。
「はぁ!? ちょっと待て、……わ、わわっ!」
「ぐえっ!? 何をする! 我はまだ行くとは言っておらぬぞ!!」
抗議などどこ吹く風。青い竜へと変じたネピスは、力強く羽ばたき始めた。
「わははは! 久々に空を一緒に舞おうではないか! お前の美味そうな『毛玉』も連れて行くぞ!!」
「毛玉って俺のことか!? 待てよ、せめて服を……うわあああーーーー!!!??」
ティーガの絶叫は春の空へと吸い込まれた。
一頭の青竜と、その腕の中で必死に股間を隠しながら宙を舞う全裸の虎。彼らはそのまま、火山へ向けて一直線に飛び去っていったのである。
そして現在、朱焔大社の隠れ湯。
呆然と立ち尽くすウォルカの指から、握りしめていたはずのティーガの浴衣が、力なく床へと滑り落ちる。
「おっと、せっかく持ってきてくれたのに濡れちまう」
湯船の中から響いたのは、聞き慣れた、けれど今は幻聴のようにさえ思える呑気な声。ティーガが慌てて身を乗り出し、水面に落ちる寸前で浴衣を器用に受け止める。
だが、ウォルカは返事すらできなかった。
視界が激しく揺れ、喉の奥が熱い。目の前にいるのが、紛れもなく生きて、無傷で、笑っているティーガなのだと認識した瞬間――。
「……ッ!!」
ウォルカは弾かれたように踏み込み、ティーガを抱きしめた。
ずぶ濡れになることも厭わず湯船へ身を乗り出す。その腕で、ティーガの大きな体にしがみつくようにして胸に顔を埋めた。
中で脈打つ確かな鼓動、その肌の温もり、嗅ぎ慣れた匂い。その一つ一つを確認するたびに、張り詰めていた糸が、安堵と混じり合ってほどけていく。
ウォルカの指先は、二度と離すまいという意思を込めてティーガの背に深く食い込み、その肩は隠しようもなく激しく震えていた。
「……悪かったよ、ウォルカ。心配させて」
不意に、後頭部に柔らかな感触が触れた。ティーガが苦笑混じりに、自分に縋り付くウォルカの頭を撫でる。
「俺はなんともねぇよ、大丈夫。ありがとな」
大きな子供をなだめるような、慈愛に満ちた手つき。
かつてなら、きっとはね除けていたはずのそれは、今のウォルカには何よりも救いだった。自分をこれほどまでに乱す存在は、世界中で目の前のこの男だけだ。その事実が、恐ろしいほどの愛おしさを纏って胸に楔を下ろしていた。
そんな二人の濃厚な逢瀬を尻目に、隠れ湯の竜神たちは、まるで茶飲み話でもするかのようにマイペースに会話を続けていた。
「……ふわぁあ。だからねー、君たちの『男好き』が良くないんだよ」
山のような巨体を揺らし、赤竜アカツキがあくび混じりにむにゃむにゃと呟く。その空色の瞳は、抱き合う二人を眺めながらも、どこか遠く世界の理を見つめていた。
「男も女も、仲良く暮らせばいいんだよー。そうすれば竜脈なんて、なにもしなくても勝手に安定するんだから」
そのあまりにも「非常識」な発言に、湯に浸かっていた二柱の竜神が顔をしかめた。
ティーガにしがみつくウォルカの身体が強張る。
「何をバカな。そもそも女が竜脈を食い荒らしておるのだぞ」
「そうじゃそうじゃ。儂もリューゴもあやつらに追い出されたんじゃからの。儂の島では何が起こっておるか知っとるか?竜脈だけでは飽き足らず、女共は男そのものから生命力を吸い出しておるのじゃぞ」
リューゴはネピスの言葉にぶるりとその小さな体を震わせた。二匹にとって、女とは竜脈を枯渇させる「天敵」に他ならない。
しかし、アカツキはどこ吹く風で、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
「……そうかなぁ。僕はこの世界は、本当は昔から、男も女も普通に手を取り合って暮らしていたんじゃないかと思うんだけどな。僕のホムラサキを見てみなよ。間違っているように見える?」
「…………」
「それに、君たちは知っているかい?」
アカツキは湯に尻尾をちゃぽんと浸けて、桜の花びらを混ぜるように動かした。
「女という生き物はね……魔法なんて使わなくても、その身ひとつで新しい命を産めるんだよ」
「――な、なんじゃと…!?」
「まさか、そんな不気味な……」
ネピスとリューゴは愕然とする。大陸で、子を成すには「開花の秘術」を用いて男が妊娠するのが当たり前だ。はるか昔から存在する竜神達でさえ、女を孕ませるなど聞いたこともなかった。
「ここではそれが『普通』なんだってば。男同士のつがいも勿論居るけど、女も男とつがいになって子を産む。寧ろそれが『自然』……開花の秘術というのはね、一時的に男の身体に女の機能を与えるものなんだから」
「……ッ、……!?」
困惑が隠れ湯を支配する。その静寂の中、ティーガを抱きしめるウォルカの腕には、さらに凄まじい力がこもった。
(やめてくれ。それ以上は、言うな……!)
ウォルカの胸中には、冷たい絶望が広がっていた。
教会が歪んでいることは、先程サクラから指摘された通りだ。だが、それがもし「女の在り方を歪め、世界を偽りの理で支配している」ほどの巨大な悪意だとしたら。
そして、その変革というパズルに必要なピースが、今、自分の腕の中にいるこの虎なのだとしたら。
(そんな大事にまで、こいつを巻き込むな……! 俺はただ、ティーガが笑って、飯を食って、平穏に生きてくれればそれでいいんだ……!)
ティーガを失うことへの恐怖。彼が世界の命運という、あまりにも重すぎる荷を背負わされることへの拒絶。ウォルカは逃げ場を求めるようにティーガの首筋に顔を押し当て、内側から溢れ出す悲鳴を必死に押し殺していた。
しかし、そんなウォルカの祈りとは裏腹に、ティーガは前向きな瞳で言葉を継ぐ。
「俺もホムラサキの街を見てきたけどよ……アカツキの言うことは一理あるぜ。開花の秘術がどうだかは分からねぇが、大陸の女とホムラサキの女はなんでこうも違うんだろうな?やっぱ教会がなんかやってんのか?」
「ティーガ……!」
ウォルカが喉の奥で、掠れた声を漏らす。
(これ以上は関わるな……! 頼む、お前は何も知らなくていいんだ……!)
「――やっぱり、大陸の問題は教会をどうにかしないと解決しなさそうだね」
重苦しい沈黙と湯煙を割り、涼やかな声が神域に響き渡った。
一同が入り口へ視線を向ければ、そこにはサコンとウコンを左右に従え、王としての揺るぎない光を瞳に宿したサクラが堂々と立っていた。後ろにはアリオス達も控えている。
「やぁ、サクラ。みんなで来てくれたのかい?」
アカツキがのんびりとした声を上げる。サクラは、ずぶ濡れのティーガに縋り付いているウォルカを一瞥し、ふっと優しく、けれど王としての厳かな微笑を浮かべた。
「ウォルカくん、無事に君のつがいに会えたようで良かった。竜神のみなさんもこんばんは」
サクラはゆっくりと歩を進め、湯船の縁に座るアカツキの隣に並んだ。
「さて、君たちは、故郷のリュゴニアを教会から取り戻すためにここへ来た。……今までは、それは単なる『国の奪還』だったかもしれない。けれど、アカツキ様が言う通り、教会の成り立ちそのものが生命の理を歪めた嘘の上に在るのだとしたら」
サクラの瞳が、静かにウォルカを射抜く。
「君たちがリュゴニアを奪還することは、単に国を一つ救うだけじゃない。世の偽りの姿に風穴を開け、大陸を本来の姿に戻すための……最初の一歩になるんじゃないかな」
「……っ、そんなことはどうでもいい!」
ウォルカが、ティーガの首筋に顔を埋めたまま、絞り出すような声で吠えた。
「世界がどうなろうと、理がどうだろうと知ったことか! 俺はただ……ティーガを、こいつを無事ルダンに連れて帰る。それだけだ!」
その執念は、もはや騎士の忠誠ではなく、略奪者のそれであった。
ティーガの背に食い込むウォルカの指が白く震える。ティーガはそんなウォルカの背を、困ったように、けれど包み込むような抱擁で再び宥めた。
「ウォルカ、落ち着けって。俺はどこにも行かねぇよ。……でもさ、サクラ様の言う通りだ。このままじゃ国を取り戻してもどうせ立ち行かねえよ。お前の主の領地だけが無事でいられるはずはねえだろ?」
「……ティーガ」
「俺は、お前と一緒にルダンに帰る。だがそれだけで終わりじゃねえ。それから穏やかに暮らすんだろ?……そのために必要なことなら、俺はなんだってやってやるよ」
ティーガの、あまりにも真っ直ぐで正しい言葉。
それは、リュゴニア奪還が単なる過去の回復ではなく、ティーガとウォルカが「共に生きる未来」を勝ち取るための戦いであるという宣言でもあった。
サクラはその言葉を聞き、アリオスを振り返る。アリオスも強く頷いて同意を示した。
「いいね、僕たちのお客様は、覚悟が決まっているみたいだ。……じゃぁ、リュゴニア奪還のための、本当の相談を始めようか」