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グレイマジック-2.学院へ

  [chapter:白と黒]

  魔法学院の入学式は、広大な校舎に隣接する大講堂で執り行われた。ホール奥の舞台の、天井まで届く巨大なパイプオルガンを背に、まず演台で新入生へ歓迎の意を表したのはユアン・リコリス・カルセドニー理事・学院長、兼、魔法印・魔法陣教官であった。彼は真新しい制服姿の少年少女を激励し、子どもたちとともに熾烈な受験戦争を勝ちぬいた保護者をねぎらい、きたるべき学園生活の充実を保証した。ユアンの堂々とした立ち姿も拡大魔法で大きくされた深みのある声もじゅうぶん魅力的だったので、彼の話と教職員紹介だけは真面目に聞いたシュバリスだったが、その後は従者として付き添うアイドクレーズとともに、次々と壇上にあがっては入学祝いを述べる貴賓たちの長い話を聞き流していた。

  「タイクツだわあ。お式っていうのはいつの時代も変わらないものねえ……」

  「しっ。もうじき新入生代表宣誓ですよ。入試の首席が主導するってプログラムにあります」

  「首席っていうとーー」

  「ええ、そちらさまでしょうね。けっ、つんつんしやがって、いけすかねえー!」

  アイドクレーズの愚痴を目で制し、シュバリスは隣に座る少年をそっと盗み見た。今年の特待生はふたりだけというし、隣に座る少年もまた従者らしき少年といっしょだったから彼が代表で間違いない。ふたりともシュバリスよりやや年上にみえたが、ふたり揃うとなかなか人目を惹いた。ただし愛想は壊滅的になかったーーさきほど挨拶したが、ことに首席と思われる金髪の少年のほうが高飛車な態度をとった。あまりシュバリスのほうを見ずかるく会釈しただけで、さっさと席に座ったのだ。ライバルと思われているのかもしれない、とそれ以後干渉しないことにしたが、徹頭徹尾彼女を無視する態度にもかかわらず、ときおり彼のほうから射るような視線を感じた。なんとなく肌がちくちくする。敵意のようだーーアイドクレーズも気づいたのか、ときおり睨み返しはじめた。

  「では、新入生を代表して、アルジュナ・ハイドランジア・ユーレアイト!」

  「[[rb:是 > ヤール]]」

  肩までの淡い金髪を紺色の細いリボンで結び、白い頬をした少年がふたりの横で立ち上がり、銀髪に褐色の肌をした従者に目で合図すると堂々と壇上に進んでいった。そして宣誓した。

  「われわれは帝国の理念を重んじ、セレスタイン[[rb:魔法学院 > アカデミア・マギア]]において魔法使いの卵として精一杯努力し、ひとを助け、つねによき模範たる魔法使いとなるべくここに誓います」

  細い燭台のようなものに載せられた、丸い透明な[[rb:魔晶 > クリスタル]]にアルジュナが手を触れると、クリスタルから光が溢れ、新入生を包み込んだ。その瞬間、アルジュナの魔力によるものだろうか、どこかひやりとしたものが講堂に広がった。周りの温度が一度か二度下がったような気がしたが、ほかの生徒たちはただ感嘆のざわめきを漏らして笑いあっている。アイドクレーズがぼそりと云った。

  「態度はいけすかないですが、魔力は高いようですね、あの子」

  「そうねーー」

  まがりなりにも大人なので、アルジュナの魔力がほかの子どもたちと段違いに高いことはふたりもすぐにわかった。全身から魔法の力が光となって放散されている。アルジュナ自身も気づいていないだろうが、真面目に修練を積めばすばらしい魔法使いになれるはずだ。

  少年は名誉ある役目を務めた興奮もなく醒めた顔で戻ってきた。当然だといわんばかりの自信に満ちたオーラのゆらめきを、シュバリスはまばゆく感じた。

  (そういえば、高い魔力をもつひとには、こういうオーラみたいなものが見えてはいても中身を読むことまではできないみたいね。オルなんとかってアリアナは云ってたけど、それも授業で教えてもらえるのかしら)

  アルジュナの宣誓で式は終わりだった。保護者はほかの会場で行われる説明会へ流れ、生徒たちは別室でオリエンテーション。教官に誘導され、校舎で最も大きいという教室に入ったシュバリスたちは、階段状になった教室に順についた。教官三人が全員に小さなクリスタルを配った。

  「明日から授業を開始しますが、まずはみなさんの魔力がもつ特質をこれで計りたいと思います。これは試石と呼ばれるもので、これを握って魔力を込めると、みなさんの[[rb:固有魔法 > マジック]]の傾向を知ることができます。固有魔法についてはご存知ですね? ユーレアイト、念のためみなさんに説明していただけますか?」

  「[[rb:是 > ヤール]]。[[rb:固有魔法 > マジック]]とは、魔法使いがそれぞれもつ独自の魔法のことです」

  マジックってなに? と目をしばたかせるシュバリスとアイドクレーズの横で少年は淡々と述べた。

  「魔法使いはたいていひとつ、ないしはふたつ、ほかの誰も持たないきわめて個性的な魔法を生まれつき備えており、これをマジックと呼びます。多くが十代のうちにマジックについて知りますが、ほかの魔法より操るのが楽とはいえ、磨かなければ使いこなせないのは同様です」

  「そのとおり。セレスタインではみなさんの[[rb:固有魔法 > マジック]]の訓練も行います。そのため、全員のマジックがなにか傾向だけでも把握しておく必要がある。じぶんのマジックについてすでに知っているかたもいるでしょうが、知らない方もいるでしょう、今日のオリエンテーションはそのためです。稀に二十代、三十代になってようやくマジックが発現する場合もありますが、いまはそのことは置いておいて、とにかくみなさんの[[rb:固有魔法 > マジック]]について診てみましょう。石を握って!」

  教官の合図で、手のひらにすっぽりおさまってしまうごつごつとした透明なクリスタルをシュバリスは握りしめた。隣でアイドクレーズも石を握った。

  「魔力を石に送って! 石の内部に徐々に色が浮かぶはずです。次元すなわち空間や時空に関するマジックなら黄色、過去・現在・未来といった時間に関するマジックなら紫、生物・無生物・有機物・無機物など物に干渉する力をもつなら赤、ひとの思いや感情といった形のないものを変える力なら青。もっともみなさんの場合、まだじぶんの魔力が安定していませんから、淡かったり複数の色が混ざっていたり、はっきり一色に定まらない場合もあります。それから、色がまったく現れなくても気を落とす必要はありません。いいですか?ーーでは、手を開いてみて! 順番に記録していきます!」

  「……[[rb:固有魔法 > マジック]]なんてものがあるなんて、ちっとも知らなかったわ」

  「わたしもです」

  シュバリスとアイドクレーズは、なんとなく手を開く気になれず握りしめたまま、ぼそぼそと囁きあった。

  「いったいなんなのかしら。わたしにもあるのかしらマジックってやつがーーあなたにも?」

  「わかりませんがあるんじゃないですか。ていうか、魔法に関する学問がこの五百年でいかに進んだかですよ。空間? 生物? 感情? 細分化され分類され管理されてる、おじいちゃんどころじゃなくわたしなんかとっくに化石ですよ化石。攻撃か防御か、すくなくともわたしの時代はそのどちらかだったのに」

  「わたしの時代だって攻撃と防御のふたつだったわよ。攻撃と防御! ことほどさように野蛮で乱暴な時代だったわけよね。ていうか化石ならいいじゃないの、わたしなんか石油よ石油ーーあ、アリアナが石を渡してる。何色だったのかしら?」

  前方でアリアナが石を見せたところだった。色までは確認できなかったし彼女の表情もわからないが、どことなく落ち込んでいるようだ。あまりはっきりと色が出なかったのかもしれない。多くの学生がじぶんのマジックについて調べるのは初めてなのか、教室は興奮に包まれていた。

  「アルジュナ・ユーレアイトにアレクセイ・アベンチュリン。さあ、見せて」

  シュバリスたちの隣でアルジュナと、たったいま学友であることも判明した従者のアレクセイが石を見せた。アルジュナの試石は青みがかった灰色、アレクセイは綺麗な赤。「さすがね」と、魔力精錬の教官だと冒頭に自己紹介した、四十代なかばの上品な茶色の髪をもつカリロエが微笑んだ。

  「この歳で混色も斑点も見えずはっきりと一色が出るのは稀有なことですよ。大きな声では云えないけれどあなたがたがとびぬけて高い魔力をもっている証拠です。お兄さまがたと同じね」

  「兄ではありません」

  「兄ではございません」

  ふたりは同時に答え、カリロエは「そうだったわね。ごめんなさいね」と笑みをひっこめた。シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。銀髪の従者、アレクセイの家名はテディと同じだ。「アベンチュリン家というのは代々従者をつとめる家と云っていましたが、やたらめったら従者を輩出する家なんでしょうか」とアイドクレーズがシュバリスの耳元にささやきかけた。

  「テディの親戚か、ひょっとして弟? ぜんぜん似てませんし歳が離れてますけど」

  「さあ。でも従者の家かあ。ふふ、あなたも入れてもらっちゃう?」

  「ご冗談を。うちは従者なんてご立派なものじゃなかったですよ、真反対の家だった気がしますよ」

  「わたしだってそうよ、建国七柱とか神さまとかいってももとはみなしごで、みんなが見つけてくれるまでただの浮浪児だったもの。それがこんなおぼっちゃまお嬢ちゃまばかりの学校に入っちゃうなんて肩身がせまーー、っと、」

  発言も物腰もいかにも良家の子弟ぞろいといった同級生を見渡して嘆息したとき、カリロエが目の前で立ち止まった。

  「レイミア・イスラメイ。さあ石を見せて」

  「あ、はい」

  とっさに手を開き、その瞬間はじめてシュバリスはじぶんの色を見た。そして慌てたーーなんの色も浮かんでいないように見えたのだ。しかしよく見ると透明な石は濁っていた。シュバリスの試石に浮かんだのは純白、ほかに一点の色も混じっていない白だ。カリロエが「まあ」と目を見開いた。

  「この様子だと、あなたももうじぶんのマジックがなにか知っているわね。しかも白とは! 珍しい、あなたは純粋な白魔法の使い手なんだわ」

  「白魔法……?」

  そのことばも千年前にはなかった。さっき説明された分類にもない。目をぱちくりさせるシュバリスににこりと笑いかけると、カリロエはシュバリスのクリスタルに軽く手を触れ、次に手元にある大きなクリスタルに触れて色を記録した。そのまま次に行きかけたが、アイドクレーズが試石を握ったまま素通りされるのに戸惑っていると、「あらら。あなたは学生ではないわね。どうしてオリエンテーションにまぎれこんだの。この時間、従者のかたは外でお待ちいただく決まりよ」と首をかしげた。

  「アイドクレーズです。申し訳ありません、存じ上げずについ。従者は同席不可でしたか?」

  「そうなのだけど仕方ないわ。こちらも気づかなかったもの」

  アルジュナ、アレクセイ主従が学友でもあるため、シュバリスとアイドクレーズもそうだと思い込んだらしい。カリロエはあらためてアイドクレーズをしげしげと見つめて首をかしげた。

  「たしかに年齢がそうね。見ればすぐにわかるはずなのにどうして見過ごしたのかしら。こちらこそ申し訳なかったわ」

  かえって恐縮するカリロエにアイドクレーズは「ほんとになぜでしょうね」とすっとぼけ、そのあいだにシュバリスはカリロエの纏う魔力を探ってみた。カリロエの全身は水色きらめきに包まれていた。シュバリスは彼女に同類のにおいをかぎとったーーアリアナはオルなんとかといっていたか、カリロエにも他人の魔力を感じる力があるようだ。その能力でアイドクレーズのほんとうの年齢を察知したのだ。アイドクレーズは立ち上がり、「では、わたしは外で待っております」と素早く一礼した。

  「失礼いたします」

  「あーー待って、石を戻してくださる?」

  「そうでした。どうぞ」

  アイドクレーズは石をカリロエに差し出した。カリロエはしかし、受け取ることなくアイドクレーズの手のひらにじっと見入り、アイドクレーズも「あ」と声をあげた。シュバリスものぞきこんだ。

  「まあ……」

  カリロエはうっすらと眉間にしわを寄せ、石とアイドクレーズを交互に見つめた。

  「これもまた珍しい。しかもこの歳でこの色が出るーーとは、」

  クリスタルは黒一色に染まっていた。どこか不穏なものを感じさせる漆黒、ひとつの明かりもない常闇。シュバリスが純粋な白だったのに対し、彼は純粋な黒だ。隣でアルジュナが小さく「なぜ」とするどくつぶやいた。オリエンテーションに入ってからはふたりを見むきもしなかった首席特待生は、はた目にもわかるくらい衝撃を受けていた。アレクセイが咎めるように「アルジュナ」と肩に手を置き、耳元でなにかを囁く。シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。

  「あのう。黒というのはいったいどういう性質でーー?」

  白と同じく分類不明だ。『次元すなわち空間や時空に関するマジックなら黄色、過去・現在・未来といった時間に関するマジックなら紫、生物・無生物・有機物・無機物など物に干渉する力をもつなら赤、ひとの思いや感情といった形のないものを変える力なら青』、だが白も黒もそのなかに入っていない。

  「気にしないで、石の調子が悪いのかもしれないし。でも、ほんとうだとしたらあなたたちはすごい組み合わせね」

  カリロエはふたりに微笑みかけたが、目は笑っていなかった。

  「真反対の力を持ってるのね。お互いを補い合う関係にあるのだわ。あなたたちはとても仲の良い友人でもあるのよね?」

  「そうーーだと思いますが」

  仲が悪かったら五百年もいっしょにいられない。ふたりしてうなずくと、

  「ではこれからも仲良くね。石を頂くわ。次、ユイド・セトディウス!」

  カリロエはさっさと行ってしまったが、シュバリスとアイドクレーズは落ち着かなかった。結局アイドクレーズはその後すぐに教室の外に出た。最後にカリロエは、一年次の授業内容が詳しく書かれた分厚い冊子を全員に配った。

  「では本日はこれで終了です。明日からさっそく授業が始まりますが一週間はお試し期間です、好き嫌いせずさまざまな授業に出て時間割を決めてください。もっとも必修科目もありますから選択肢はかぎられてきます、下級生のうちはみなさんほとんどが同じ授業を採ることになるでしょう。週末には希望の時間割を提出すること。あと、ちょうどいい機会だから云っておきますが、わたくしの『魔力精錬』は必修ですからね!」

  カリロエがぱちんとウィンクした。

  「ではみなさん、また明日お会いしましょう」

  シュバリスはアリアナとアイドクレーズと合流して寮にむかった。アリアナは元気がなく、さきほどのクリスタルの色のことが原因だろうと察せられたものの、シュバリスはうまくことばをかけることができないまま寮の玄関に入った。寮のホールでは、両親たちが子どもと最後の別れをしようと集まっていた。アリアナはパトリックを見つけるとぱっと笑顔になって駆けていき、シュバリスとアイドクレーズも、パトリックにこれまで泊めてくれたことや親切にしてくれた礼を云いにいった。親子の別れを邪魔しないよう、ふたりはすぐに離れ、与えられた部屋へ向かうことにした。寮の部屋は全員に個室が与えられているが、特待生用の部屋は他の生徒の部屋と比べて格段に広く、キッチンも浴室もトイレもちゃんとついていた。ふたりきりになってようやくひと心地ついた。荷物を開きながらアイドクレーズが云った。

  「まずはお茶でも淹れましょうか。なんだかひどく喉が乾きました。シュバリスさまは?」

  「大賛成。そうだ、たしかこっちにおじさまがもたせてくれたお菓子があったはず。出すわね」

  「お願いします」

  荷ほどきもそこそこに、ふたりはダイニングテーブルを挟んでむかいあった。前の学生が置いていったのか備品なのか、簡素なアルミのカップで飲む紅茶はいつもより熱く感じられた。もらった冊子をぱらぱらめくりながら、シュバリスはため息をついた。

  「ざっと見たところ、必修科目だけでものすごい数だわよ。これにくわえて魔法を習得するのに必要な科目を選んで授業にでなきゃならないって、いまの子どもたちって大変ねえ。この学院に入る前は前で、初等教育の学校だの塾だのに通ってるわけでしょ? これじゃ遊ぶ暇もないじゃないの」

  「戦争しまくりの千年前よりは平和でしょ。とにかく、エウレシア帝国が建国以来滅ばずに続いてることを喜びましょう。でーーとにかくあなたは適当に授業を選んで提出なさったら? なるべく楽そうなのを選んで」

  「と、思ったのだけどね。そもそも指輪の持ち主さえわかれば学院にいる必要もないし、だとしたら真剣に授業を選ぶのもなんだかなあって話だし。ただーーあのね、入学式のときにユアン・カルセドニーの話を聞きながら考えたのだけど、わたしたちがなんとか手に入れようとしている指輪の受贈者名簿ってねえ」

  「あ、それわたしも気づきました」

  紅茶をお供にさくさくとクッキーを食べていたふたりは、そろって人差し指をたてた。

  「そういうのって、たいてい学院長の部屋に置いてある!」

  完璧に調和した二重唱のあと、「ですよね。ええ、そうなんですよ」とアイドクレーズはなんどもうなずいた。

  「てことは、ユアン・リコリス・カルセドニー学院理事長および教官さまの管理下にあるんですよ。つまりあのかたの部屋に忍びこまなきゃならない」

  「ええ。ということは、もれなくテディもついてくる」

  テディは正規の教官ではなかったが、多忙なユアンが私的に雇っている秘書として学院に在籍していると、さきほどユアンの口から職員と共に紹介されていた。アイドクレーズが真剣な顔でうなずいた。

  「ええ。はっきりいってユアン・カルセドニーなら教官として授業を行う時間があるわけで、その隙に学院長室に忍び込めばいい。ただしテディは、従者であると同時に彼の護衛で秘書で助手。ここへきて初耳でしたが、セレスタインの学院長ってのは、我々が思った以上に要職だったんですね。セレス市では学院長は、市長、騎士団長、大学長と並んで決定権をもつ、そう入学式のパンフレットにあった。それにユアン自身も、どうも皇帝家と繋がりがある要人のようだ。テディがもしも授業のあいだ学院長室か理事長室か、そのどちらかで多忙なユアンに代わって雑事にいそしんでいるとなると」

  「忍び込みづらいし、しかもあのかたは[[rb:獣人 > フェラム]]だわ。熊か狼かどちらか、気づいた?」

  「気づきましたよ。こないだの買い出しのときとっくに」

  アイドクレーズは口元に手をあてた。

  「くわえて魔力もそこそこありますよあの男。ただちょっと不思議なんですが、同じアベンチュリンを名乗っているのにさっきのアレクセイはまったくの人間ですよね。さっきカリロエ教官が云ったこと、憶えてますか?」

  「ええ。あの様子だと年の離れた兄弟なのかもしれないけど、兄じゃないって云ったときの剣幕がひっかかる。いろいろあるのかしらね……でも、それを云ったらアルジュナ・ユーレアイトも変だった」

  「あの子にもお兄さんがいるんでしょうか」

  「さあ。でもまあ、同級生の家庭の事情に首をつっこむのはよしておきましょ。とにかくわたしたちがやるべきことは眼と足を奪い返すことよ。それには指輪の受贈者をたしかめなきゃ。ユアンとテディをだしぬいて学院長室に忍び込む方法を考えないと」

  「ではまず、あのふたりの行動パターンを知ることからですね」

  「じゃあ魔法印・魔法陣の授業だけは取ることにする。ユアンの行動パターンとか、性格もいちおう知っておいたほうがいいわね」

  「ではわたしはテディのほうを見張ることにします。同じ従者として頼ってくれと云ってくれたことですし、おことばに甘えましょう」

  「アイクが舌先三寸で彼を騙して名簿を取ってきてくれるならそれがいちばんだけどねえ。どうにかならない?」

  「うーん。さすがのわたしも、うまい言い訳を考えつかないですよ。あなたがアリアナに云った、じぶんを捨てた両親を探してるーーってのは使えそうですけどね。この指輪の持ち主を探してください、って学院長に協力を仰ぐとか。でももしユアンに協力してもらっても、そのあとそいつが半殺しにされたなんてニュースが流れたらまっさきに疑われちゃいますね」

  「え。てことは、半殺しにする気なんだ……」

  「しないわけがないでしょう?」

  アイドクレーズは悪い笑みを浮かべた。

  「あなたをあんなめにあわせたんですよ。徹底的にぶちのめしてやる……」

  「……ほどほどにね。というか」

  シュバリスはちょっとあたりを見渡した。

  「犯人はいまここにいるのかしら。もしも騎士団員でセレス市にいるとして、わたしたちが目と足を取り戻しにきたと知ったら、犯人はわたしたちを攻撃してくるかしら。その可能性は?」

  「あるでしょう。あれほどの凶行に及んだ人物です、足と眼を奪われてこちらが黙っているわけないと警戒しているかもしれないし、だとすると正体を知ったら必ずなんらかの手を打ってくるはずだ。当分こっそり調べましょう。学院の生徒に徹するんです」

  アイドクレーズはじっとシュバリスを見つめた。

  「それでなくても慣れない場所で慣れない生活をしている。極力無駄はおさえていきましょう。ね?」

  「ん……」

  「じゃ、わたしは荷ほどきの続きをして、部屋を片付けちゃいます。とうぶんここで暮らすことになりそうですから」

  カップの中身を飲み干して、アイドクレーズが席をたつ。シュバリスは窓から外を眺めた。学院は平和そのものだ。ふしぎだったーー足と眼を取り戻さなければならないという緊迫した思いはたしかにあるのに、セレス市と学院のまとう空気は、やはりひどく懐かしくて穏やかなのだ。まるでかつての恋人と仲睦まじく身を寄せ合っていたときのように。時間がまきもどったかのように。

  「ハルトガルトーー」

  あなたの子孫が作った街ね、と小さくシュバリスは呟いた。ここへきて、昔の恋人を思い出すことが多くなっている。

  アイドクレーズもそのことに気づいていた。つかの間、感慨とも嫉妬ともつかない思いにつかれて、彼はじっとあるじを見つめていた。

  [newpage]

  [chapter:授業]

  入学して一週間がたった。授業の本登録が済み本格的に魔法学院での暮らしがはじまったが、特待生の地位をもらったためなんとなく楽観的に構えていたシュバリスは、とまどうことだらけの学校生活を送るはめになった。

  セレスタイン魔法学院は単に魔法のみを教えるのではなく、言語や数学や音楽や体育といった一般的な科目も教えていた。シュバリスはそれも初めてだったため、特待生の名に恥じるさまざまな失敗をしでかしてはアリアナに心配され、まわりから笑われていた。

  「初日にいきなり、制服ってどう着るのって部屋まで訪ねてきたときは、いったいなにを云ってるのかしらって思ったけど……そのあとの授業と比べたらささいなことだったわね。[[rb:筒袖服 > クラーズ]]にはもう慣れた?」

  「慣れたわ。ほんとにありがとアリアナ、あなたがいなかったらどうなってたか、ぶるぶる、恐ろしいわ」

  「どういたしまして。あなたってほんと変よねえ、魔法はすごいのにねえ」

  「ありがとう。はあ……」

  共通語は問題なく喋れるし簡単な計算もできる。だが、学問として体系化された言語や数学などシュバリスは習ったことがなかった。体育や音楽といった実技は見よう見まねでできたが座学はからっきしだ。アリアナは優しいからなにも云わないが「いままでいったいどうやって暮らしていたのかしら」と疑問に思っているのはあきらかだ。その日も数学の授業で指されたにもかかわらずまったく答えられず、シュバリスはへこみまくっていた。おまけに、シュバリスへのいじわるをすっかり習慣化したカレンが授業終わりに強烈な皮肉を放った。

  「もうひとりの特待生さまは、いったいどこでどう育ってきたのかしらねえ。あなたってほんとうに蛇人に教育されたのではなくて?」

  「うぐぐ」

  シュバリスはいい返かえうとしたが、けっきょくは口をつぐんだ。元蛇人族の王なので、ちがいます、とはいえなかった。シュバリスがいいかえさないのをいいことに、カレンはそのまま勝ち誇ったように続けた。

  「試験でもそうだわ、試験官によこしまな魔法をかけて合格させてもらったのよ。特待生の座だってそのやり方でもらった、じゃなきゃあなたなんかが選ばれるわけない。親なしでたいした後ろ盾もないときたらねーーねえそう思いますでしょ、アルジュナさまもアレクセイも!」

  カレンはかたわらのアルジュナとアレクセイに同意をもとめ、ふたりも冷えた視線でシュバリスを一瞥した。周囲の生徒が恐れをなしたように息をのみ、あるいは顔をそむけ、あるいは好奇の視線でシュバリスがどう対応するのか見守っていた。

  カレン・マーガレット・ジプサムはエイシャ辺境伯の娘だった。アリアナが入試の折に匂わせたとおり名家の令嬢で、こちらも入学後にすぐに知れ渡ったことだが、やはりやんごとなき貴族階級の令息であるアルジュナとその従者のアレクセイとは旧知の仲だったーーというのを、入学して一週間が経つためすでにシュバリスも知っていた。カレンはアルジュナに好意をいだいていて、だからアルジュナと並んで特待生に選ばれたシュバリスをよく思っていないことも。またアルジュナのほうも、アレクセイとともにすっかりカレンたち「血筋のよろしいご子息ご令嬢」の一派に属して排他的な友人関係を作り上げており、アリアナら一般家庭の出身者とは距離をおいていた。魔法使いの卵である一年生たちはこの一週間で、同じ塾、同じ地方、寮の同じ階、などの共通点からすでに仲良しグループを形成していたが、カレンらのグループは帝国の上流階級の子弟たち、すなわち学院に多額の寄付をしている家々の子たちでもあったため、一年生ながら学内で幅をきかせていた。経済的に恵まれているとはいえず、苦労して学院に入った生徒たちはそろってカレンらを敬遠していた。

  とはいえ、やはりカレンやアルジュナたちは、そのあきらかな特権階級の匂いによって、あるいは所持品の豪華さや、ふとしたときに口にする家族の肩書きの豪華さによって絶えず注目のまとだった。そして、アルジュナと同じ特待生の両翼を担いながら誇るべき家柄も出自もないシュバリスはカレンから貧しい子たちの代表とみなされ、しょっちゅう攻撃されていた。

  しかし、カレンら数名との衝突を除けば、シュバリスの学校生活は順調だった。クラスメイトからは、シュバリスこそはアルジュナに魔法の実力で敵対しうる「ごくごく慎ましい一般家庭出身の子」と認識されていたし、シュバリスがすでに両親を亡くした孤児で、じぶんの魔法の腕ひとつで学院に合格したのだとアリアナとの会話でそれとなく伝わっていったため、シュバリスをかばい、アリアナに同調してカレンやアルジュナに面と向かって「そういう態度は学院の生徒としてどうかと思う」と忠告してくれるものもわずかながらいた。そういう意味ではシュバリスは恵まれていた。彼女は最年少入学者でもあったため、だれよりも幼いシュバリスを心配して男子も女子も世話を焼いてくれたがったし、実技はすごいのに座学はダメダメ、というところも彼らの保護欲をかきたてるらしかった。夕食をいっしょに、や、休日に遊びに行こうといったお誘いは毎日あった。アリアナも、入試の筆記試験ではアルジュナに並ぶ成績だったと魔法史の教官が最初に暴露して賞賛したため、シュバリスと並んで「庶民の星」とみなされていた。

  しかし、それがまたカレンの気に食わないらしかった。家も親もいない、出自も曖昧なシュバリスがみんなにかわいがられているということ、アリアナがすっかり優等生として教官からも級友からも信頼されていることーーそのためふたりはしょっちゅうカレンらと口論になった、というより、主にシュバリスとアリアナがカレンたちから一方的に因縁をつけられていた。そしてシュバリスは、何百歳も年下のカレンに、曲がりなりにも年上であるという自負と、もしボロがでたらという恐れから云いかえすことができず、クラスメイトからはすっかり「引っ込みじあんでおとなしい女の子」と思われていた。今回もまた、三人の揶揄するような視線から思わず顔をそらしてしまい、勇敢で知られるアリアナのほうが頬を朱に染めて「恥知らず」とシュバリスにかわってぴしゃりと云いかえした。

  「そんなことをいうなんてあなたの品位を疑うわよカレン。だいたい、魔法でどうにかしたとするなら気づかなかったあなたが合格までに四年もかかったのは納得できるわね。いまに見てなさい、シュバリスはきっとすぐみんなに追いつくし追い越すわ。頭は悪くない、むしろいいもの。こんどシュバリスにむかって蛇人といっしょだのどうのって云ってみなさい、わたしがひっぱたいてやるから!」

  「なによ、色なし!」

  アリアナは、試石のときにマジックの色が出なかった。カレンは近くの席でそれを知り、しょっちゅうそのことでアリアナを揶揄していた。アリアナはむっとした表情になったが、またすぐに云いかえした。

  「あなたこそ、弱い犬ほどよく吠えるということばを知らないの。きゃんきゃんわめくのはじぶんに自信がない証拠、色なし家なしと莫迦にするわりに座学はわたしに勝てないし実技はシュバリスに勝てないじゃないの。いったいなんだってそんなにーー、ふうむなるほど、わかったわ!」

  「なによ、わかったって」

  「ことあるごとにつっかかってくるのはそのせいね。わたしたちになにも勝ってるものがないからみじめなんでしょう。シュバリスへの攻撃はその裏返し、ふふん、じぶんに自信がないってかわいそうねえ」

  「なんですって! このーー」

  「なにか間違いでも?」

  「もういい、カレン、アレク。行こう。こんなデコボココンビを相手にしてなんになる?」

  じぶんの仲間たちですらいつも醒めた目で見ているアルジュナが静かに手を振る。ふたりを引き連れたアルジュナが踵を返すと、次の教室へ移動する彼らを、先にいたひとびとが海が分かれるようにして避けてた。

  「気にしなくていいのよシュバリス。いまに思い知るわよ彼女だって」

  おさげを空中に舞わせてアリアナが振り返り、シュバリスの手をとった。

  「座学だってきっといまに追いつくわ。カレンのあんな戯言気にする必要ない、わたしが教えてあげるから」

  「ええ、ありがとう。がんばるわーー」

  しかしそろそろ名簿を手に入れるほうもがんばらなければならないわよねえ、とシュバリスは内心でため息をついた。学院に慣れるのに四苦八苦するうちにあっというまに一週間がたってしまった。肝心の指輪の持ち主を探す仕事が進んでいない。

  「次は印陣ね。第三講義室だったかしら。さ、いきましょ」

  次の授業はユアンが教鞭をとる「魔法印・魔法陣」だ。これも一週間でわかったことだが、ユアン・リコリス・カルセドニーは男女問わず生徒たちから絶大な支持を得ている人気教官だった。授業はわかりやすく懇切丁寧。魔法印と魔法陣ってなんですか、と最初の授業でシュバリスが初心者丸出しの質問をしても「いい質問だね」とカレンをはじめとする塾出身者が大笑いするのを制し、嫌な顔もせず説明してくれた。

  「魔法を発動するときは通常、[[rb:呪文 > スペル]]を唱える。そのほうが術者にとって集中しやすいからだ。しかし、通常はいちどにひとつの呪文しか使えない。人間には口がひとつしかないからね」

  「あのう、教官。複合魔法がありますが?」

  「そのとおりだよノヴェレッテン。しかし、わずかな風と火ならともかく大質量の風と火を同時に起こすのはかなりの修練がいる。それをたやすくするのが魔法印と魔法陣だ。あらかじめ紙や地面に魔法を発動するための呪文もしくは図相を書きつけて魔力を込めておく。あるいは、ことばにできないほど複雑な魔法というものがこの世には存在するが、概して召喚、そして莫大な自然現象を起こすため、呪文といった音声に頼るだけではとうていこの世に顕すことができないものだ。だがそれも、個々の力に対応した図形を紙もしくは床、地面などに描くことで実現することができる。魔法印では小規模な魔法しか発現しないが、事前準備が可能なので魔力の消費を恐れることなく連続して魔法を使える利点がある。魔法陣は魔法印の大規模バージョンと思っていただいてけっこう。各種の図形を組み合わせることで生まれる魔法の数はほぼ無限、規模も大きい。ゆえに面白いしオリジナリティも問われる。魔法を使った重大犯罪ではしばしば魔法陣や印が使われるが、現場に残された印陣の痕跡で犯人が特定できる場合もあるほどだ」

  「教官は、騎士団の捜査に協力なさったこともあるそうですね」

  前列を陣取った上級生の女生徒が云った。印陣は選択授業であるためかなりの割合で上級生も混じっていて、彼女は印陣を「教官めあて」で長年とりつづけていると公言してはばからなかった。彼女はうっとりと、学内一の美形教官とひそかに評判のユアンに猫なで声でねだった。

  「魔法印と魔法陣に関して外部顧問をされているとか。こんどぜひ捜査の話をしていただけませんか? お願いしますカルセドニー先生!」

  「おいおいね。さて、印と陣がどういうものかこれでわかったかな、イスラメイ?」

  「はい、よくわかりました」

  多数の女生徒のファンを抱えて男子生徒から苦々しげな視線を向けられているとはいえ、しかしユアンが優秀な教官だというのは疑いようもなかった。シュバリスも今では印陣の授業を楽しみにしている。

  カレンらの心無いことばを振り切るように、シュバリスは第三講義室に入ったーー今日の「印陣」は、害のない精霊を召喚するという内容だった。まだ習い始めなので、10センチ四方の紙を使った小さな魔法印からだ。「印陣」の基本として、呪文も図形も一字一句、細かな線や点まで描き忘れてはいけないので新入生は苦戦していたが、シュバリスはさほど苦労することなく一枚目で精霊を呼び出すことができた。

  「すばらしい、イスラメイ。この印は少し複雑なのによくやった」

  ユアンがシュバリスの手元をのぞきこみ、感嘆した。

  「君は印陣の基本的なところをわかっているな。これからが楽しみだ」

  「ありがとう存じます教官」

  カレンが悔しそうにシュバリスを睨み、アリアナも難なく精霊を呼び出してシュバリスにウィンクした。手のひら大の小さな精霊が指先にじゃれかかってくるのに相手をしてやりながら、シュバリスはしんみりと昔のことを思い出していた。

  最初の授業で、魔法印・魔法陣は、要するに昔、兎人の仲間アリスが得意にしていたものだった、と彼女は気づいた。「見て! 魔力を使って地面に図形を描くと思った通りの魔法が出てくるのよ!」「えっほんと? すごーい、これどうなってるのアリス?」「んーあたしもわかんなぁい。あたしも最初は親から習ったんだ、うちに代々伝わるやりかたなんだけど、いまちょっと思いついてやってみたら新しいのができちゃった。でもこれ考えるのすっごい面白い。これからいろいろ試してみよっかな。ねえ、シュバリスもエコーもハルトもやってみなよ」ーー

  千年前、シュバリスの仲間だったアリス・メイ・リィアキアンは、その後自らの技を磨きに磨き、地面に文字や模様を描くことで強大な魔法を駆使していた。その魔法は「印陣」として千年ですっかり体系化されていた。そう、印陣の歴史についてもユアンは最初に説明したが、創始者はまさに[[rb:初代兎人王 > レクス・レプス]]アリスとされており、彼女のマジックこそ印陣であったと推定されているそうだった。

  シュバリスはアリスに直接印陣を習った。そのことで、単に知識として習うより実学として身についた。ほかの実技においてもシュバリスは仲間たちとの絆を強く感じた。たとえば己の肉体を強化する魔法は熊人のシオンや鳥人のライドが得意にしていたし、クリスタルを使って情報を伝達する魔法は猫人のエコーや狼人のエステルのお得意だった。ほかにも魔力を高めるのにうってつけの場所を探る方法や、魔法戦闘や防御の基礎など、気づいてみると現代魔法のそこかしこに六人の仲間の魂、魂といって大げさすぎるなら息吹が感じられた。そのことが彼女の奥深くに埋もれていた記憶を揺さぶった。

  シュバリスは、実技においては優秀な生徒と目されていた。アルジュナですら敵わない。もちろん何百歳と年上だし、蛇人であることも隠しているから、そのことでちょっぴりズルをしているような気はしたがーー

  「調べがつきましたよ。今夜いきましょう」

  すべての授業終わると、校舎のエントランスで待機していたアイドクレーズがまじめな顔で云った。

  「ユアンは今夜理事会で不在で、テディは昔の仲間と会うので従者業も休みだそうです。院長室に忍び込むなら今夜です!」

  座学に使う講義室棟と、実習に使う大講義室、各種講堂は渡り廊下でつながり、院長室や理事室や教官室などの棟が、やはり渡り廊下でつなげられてその中間にある。そちらを見ながらシュバリスは首をかしげた。

  「でも院長室は魔力で警備されてるわよ。カルセドニー教官自身の魔法がばっちりかかってる。あれから何度か院長室のある棟を通ってみたけどまちがいなく彼の魔法の気配だった。かなり強力で、わたしでもあれを破るのは不可能よ」

  「ところがところが、警備魔法そのものを切る[[rb:呪文 > スペル]]があって、それが何か調べがついたんです。七歳の無邪気な少年ばんざい、テディはまったく警戒していませんでした。だから今夜」

  「まあ、そうなの? わかった、今夜ね」

  寮に戻り、いつもどおりアリアナを招いていっしょに宿題をこなし夜を待った。夕食は寮の一階にある食堂でとった。なるべく人の目に触れて、なんの変哲もない生徒を装うためだ。シュバリスを見つけたカレンが、また彼女の名前について揶揄してきたーー蛇神シュバリスの名をもつというのは彼女にとっていちばんのシュバリスへの攻撃材料だったが、応酬しようとしたアリアナに手を振って止め、シュバリスは離れた席についた。今夜は珍しく、カレンとともにアルジュナとアレク主従もおり、アルジュナはいつもどおり醒めた目で、上品に夕食をすすめていた。

  アイドクレーズが隅っこにあるお茶のポットを取りに行って戻ってきた。往復のあいだにほかの学生に声をかけられては足を止める。すっかり学院に馴染み、特に年上の女生徒にかわいがられている。「ずいぶんお姉さまがたに人気じゃないの、アイク」と戻ってきた従者に肩をすくめると、アイドクレーズはにやりと笑った。

  「彼女たちはだいじな情報収集源なんですよ。本来の目的に関係ないから云いませんでしたけど、いろいろ面白いネタが仕入れられるんです。あの野郎の身元に目星がついたら、足と眼を取り戻すまでのあいだの余興として聞かせてさしあげます」

  「なによそれ。とっとと云っちゃいなさいよ」

  「あとのお楽しみです。さてーー」

  腹ごしらえをすませて部屋に戻り、みんなが寝静まったころ、ふたりはそっと寮を抜け出した。

  「いよいよ指輪の持ち主の名を特定できますよ。名前さえわかればこっちのものです」

  「わかってる。絶対やり遂げましょう」

  今夜は三日月、月光は淡い。夜の学院はしんと静まりかえって黒い影の山と化し、さながら大地に身を伏せる獣だ。ふたりの侵入者をじっと待っている。

  [newpage]

  [chapter:潜入! 院長室]

  長い廊下にやたら靴音が響く。月明かりだけでは心もとないため、シュバリスは手に魔法の光を出して行く先を照らした。学院長室の前まで来るとアイドクレーズがドアノブをつかみ、警備魔法を解除した。解除呪文ははなんと「シュバリス」だった。

  「七柱の名前を順番に、だそうですよ。週ごとに変えられていて、今週はたまたまあなたってわけ」

  「光栄ねえ」

  もちろんふたりとも院長室には入ったことがない。が、思ったとおりドアの先に広がる部屋はいつも優雅なユアンにふさわしい瀟洒なしつらえだった。四百年の歴史ある学院の院長にふさわしく重厚でもある。テーブルにソファ、執務机に椅子に本棚、手洗い台に鏡。小さなキッチンまでついていて、棚には客用のカップや菓子の入った籠。クローゼットもある。シュバリスは魔法の明かりを空中に浮かばせて明るくなった室内をぐるりと見渡し、その後主従そろって無言で室内の一方に視線をむけた。ドアがある以外の壁には本棚が並んでいたが、執務机の後ろにある本棚が怪しかった。というのも、その棚だけが鍵付きだったのだ。木の扉で全面が覆われているので中身は見えないが、指輪の受贈者名簿はこの中にある可能性が高い。ふたりは急いで机をまわりこみ、本棚の前に立った。

  「魔法の鍵はかけられてないですね。普通の鍵だ、物理物理」

  「鍵はどこかしら。この机のなかにしまわれてる、と思うのが普通だけどねえ」

  シュバリスは棚の手前にある古びた執務机の天板に触れた。「開けてみてください」とアイドクレーズが促し、シュバリスは下から順に抽斗をすばやく開けていった。が、本棚の鍵は見当たらなかったし、一番上の抽斗だけ鍵がかかっていて開かない。「本棚の鍵がこの中だとしたら、こちらの鍵はきっと肌身離さず持ち歩いているわよね」焦りながら彼女が唇をかむと、

  「仕方がありません。痕跡が残るかもしれませんがわたしが魔法で開けましょう」

  アイドクレーズが本棚に向き直った。

  「カルセドニー教官は魔法の痕跡から犯人を見つけるのが得意みたいだけどだいじょうぶかしら? ばれちゃわない?」

  「だいじょうぶでしょう。わたしは学生じゃないし彼の前で魔法を使ったことはないし、これからも使わないでおけばいいし。[[rb:開 > アペリ]]!」

  がちんと音がして、本棚の一番上の段の扉が開いた。アイドクレーズはぜんぶで五段ある扉をすべて開けた。本棚には様々なファイルが収められていた。目的のものは下の段で見つかった。

  「あ、これだ! 優秀な生徒だけが集まった名簿がある。これが指輪の受贈者リストでもあるみたいーーあ、ラッキー、アルバムにもなってるみたいだ。名前だけじゃなく顔もわかりますよ」

  「ほんと? わあ、さっそく見てみましょ!」

  四百年の歴史をもつ学院だが、指輪の記録は二百年前からはじまっていた。

  「まさかこの指輪が二百年以上前のものってことはないし、いけるわよね?」

  いまも首にかけている紐をたぐって指輪を引き出すと、分厚い冊子を広げてアイドクレーズはうなずいた。

  「もちろんです。あいつの体つきからして年齢は二十代から四十代、くわえてあいつは間違いなく男だった。このなかから卒業後に騎士団に所属する、もしくはしていた男を探しましょう」

  床に該当年代の名簿を広げて探しにかかる。思ったより人数が多かった。

  「攻撃魔法が得意だと、ほとんどが騎士団に行くみたいだなーー」

  紙をめくる音のあいまにアイドクレーズが嘆息した。二百年分をぜんぶ出してしまったため、アイドクレーズが新しいものから、シュバリスは古いものからファイルを探した。シュバリスは一冊めをざっと見終わり、該当しないものをわきにどけておくスペースを作ろうとしたが、積み方が甘かったのかちょっと触れた拍子に複数の名簿がなだれ落ちた。手元が名簿の海と化す。秩序なく開かれたページの、生徒の横に書かれた顔写真やデータを見て、ふとシュバリスは気づいた。

  「黒ーー、」

  プロフィール欄に書かれた、「攻撃魔法に優れる」というコメントが、新しいファイルだと「黒魔法に優れる」に変わっていた。ここでシュバリスはようやく、この一週間ずっと抱いていた疑問の答えを得た。

  (黒。アイクの試石の内部に浮かんだ色ーー黒は攻撃魔法のことだわ。じゃあその反対が白、てことは防御と治癒。たしかにわたしは防御魔法が得意だわ。治癒魔法も。そうかーー)

  必修であるカリロエの「魔力精錬」の第一回目で、赤、青、黄色、紫の四色について講義したカリロエは「白、黒、灰色は魔法色相のなかには入らない特殊な色なのでまたこんど」「そのみっつはどの色にも属さないうえにすべての色の性質ももつゆえ説明が複雑すぎるので」と後回しにした。たしかに複雑かもしれないとシュバリスは納得した。なぜなら攻撃魔法も治癒魔法も、すべての色の要素をそなえた複合的な魔法だからだ。

  (治癒魔法は人体に生じたあらゆる外傷を治癒する。生物に干渉するともいえるし、時間を巻き戻して傷ついた細胞を元どおりにするともいえる。防御魔法もそう、時空に干渉したり人の思いを形にしたり……。でもそれは攻撃魔法も同じだわ。破壊か修復かの違いだけ)

  (白と黒、そして灰色。この三色は黄色、紫、赤、青のぜんぶの要素をもつ。そうかーー年代が下るにつれて魔法が細分化されて、どこにも分類しきれない、あるいは広範囲に分類されてしまう魔法が白、黒、灰色を与えられたんだわ)

  (つまりこの三色に関しては魔法そのものの性質ではなく、その性質を使ってなにができるかの分類? わたしは防御魔法が得意だから白で、アイクは)

  たしかにアイドクレーズは攻撃魔法が得意だった。そしてさらにカリロエがいうには、

  「赤には青、黄色には紫。反対にあたる魔法の性質をもつもの同士がいっしょにいることで互いの弱点を補い合うことができます」

  正反対の魔法の性質をもつから肉体的にも精神的にも相性がよかったのだ。目から鱗だ。アイドクレーズは一週間セレス市で情報収集にあたるうちにこのことを知っただろうか? 彼もファイル上の記述の変化に気づいたはずだが、淡々と該当者をピックアップしている。慌てても騒いでもいないところを見るとすでに知っているようだ。もとより彼は賢いから、シュバリスより先にさっさと気づいてもおかしくない。

  云ってくれればいいのにい! と思いながらシュバリスも再び名簿に集中した。疑わしい男の数はどんどん膨れ上がっていった。用意してきたメモ用紙に、ファイルのページを魔法で[[rb:縮小複写 > コピィ]]していたが、やってもやっても終わらない。調べ始めて五分ほどでアイドクレーズがイライラしはじめた。

  「もういいから、ファイルをここから持ち出して寮でじっくり調べましょうか。そのほうがいいような気がしてきました」

  床にファイルとメモを広げて前かがみになりながらの作業だ。ふたりともすっかり腰と腕が痛くなっていた。

  「埃の積もり方からしてこの本棚が開かれることは滅多にないし、しばらくファイルがなくなったってわかりゃしないでしょ。まだ調べきれてないぶんだけもってっちゃいましょうか、どう思います?」

  「いい手だけど万が一盗難がわかっちゃったら大変よ。魔法の痕跡が調べられて警察沙汰になっちゃうかもしれないし、とにかくいまできるだけ確認しちゃいましょう。ねえ、そういえば警備員の巡回は?」

  「まだ大丈夫です。でも急いだほうがいいでしょうね」

  集中して複写を再開した。そのすぐあとで「あ、カルセドニー学院長!」とアイドクレーズが声をあげた。顔見知りが出てくるとがぜん面白い。急いでいることも忘れ、ふたりはそろってのぞきこんだ。シュバリスは、いまよりひとまわり若い15歳のユアンの写真に歓声をあげた。

  「わっっーーかーい! いまも若いけどこのころはまさに紅顔の美少年ね、当時からファンが多かったでしょうねえ! いやーかわいいっよしよししたくなっちゃうぅ、あ、マジックの分類は灰色だって、アルジュナと同じね、青みがかった灰色」

  「……なんだか急に年上らしくなりましたね。その見た目で親戚のおばさんみたいなこと云ってると不気味だなあ……。でもたしかにかわいいな、おまけに指輪をもらうほど昔から優秀と。街できいたかぎりじゃ家柄もいいし順風満帆の人生だな。けっ」

  「ああ、やっぱり彼もいいところのお坊ちゃんなのね? すごいわねえーー、」

  と、そのときだった。ふいに廊下を、かつかつと院長室にむかって進んでくる複数の足音が聞こえた。「巡回ならひとりのはずだ」アイドクレーズが素早く時計に目をやり「まだ巡回の時刻じゃない」と警戒をあらわにした。

  「なんだろう。誰が来たーーこんな時間に?」

  だとしても院長室がめあてとはかぎらない。ふたりはちょっと笑みをかわしあったが、

  「待って、近づいてきてるわ」

  足音はなんと院長室の前で止まった。男が数人ドアの前で立ち話をしている。いまにも入ってきそうな雰囲気だ。

  「まずい。逃げましょう」

  アイドクレーズは散らばっていたファイルをまとめて棚に押し込み扉を閉めた。鍵をかける余裕はなかった。複写した紙を抱えてふたりは立ち上がったが、逃げ場所に迷って右往左往した。

  「どどどど、どこに? どこから?」

  窓から逃げようにも頑丈そうな鎧戸がはめられている。ふたりは方針を変えた。「隠れましょう」ーーだが、キッチンではすぐ見つかる。執務机の下も無理だ。

  「しょうがない。ここ、早く!」

  入り口のすぐ脇に置かれた大きなクローゼットの扉をあけ、ふたりはそのなかに入り込んだ。かちゃりとドアのノブがまわった瞬間、クローゼットの扉を閉めかけたアイドクレーズが小さく叫ぶ。「灯りを消して!」シュバリスは天井に浮かべていた魔法の光を消した。クローゼットが閉まると同時にドアが開き、足音が一斉になだれこむ。間一髪。ふたりは闇のなかでため息をつきあった。

  「ここなら安全だ」

  ユアンの険しい声がした。

  「情報漏れの恐れはない。わたしが魔法で守っていますので」

  「それはありがたいですな」

  「さてーーそれはそうとどうだったのですか。予想通りでしたか?」

  「ええ。ご懸念が的中です」

  ユアンのほかに三人いる。ひとりが云った。

  「エステル廟に侵入されました。前と同様聖遺物を盗もうとしたようです。幸い無事だったが犯人はやはり七柱廟を狙っています、帝国に反乱を起こそうとする連中のひとりでしょう。閣下はどう思われますか?」

  「人物像まではまだなんとも。ただ、現場に残った魔法陣を見せてもらった限りでは、犯人はとびぬけて高い魔力をもち、しかも黒魔法の使い手です、シオン廟と同じ。見張りを倒した手口からいって肉体的な修練も積んでいるでしょう。となると」

  「やはり騎士団の内部犯行?」

  「その可能性は高い。さきほど見せていただいた魔法陣には、学院と騎士団で研鑽を積んだもの特有の癖があった。[[rb:魔力残渣 > オーラ]]は直接見ないとわからないがセレスタイン流魔術を学んでる。最初の犯行はいつでしたか? あれはたしかーー」

  「二ヶ月前です。シオン廟に収められている聖遺物が盗まれた」

  「あそこの聖遺物というと?」

  「初代熊人王シオンが愛用していた槍の穂先です。それがなくなっているのに早朝の警備が気づいた。槍にはシオンの魔力が込められていると云われ、悪用されればただではすまない。極秘にチームを招集して犯人を追っていますが、犯人の行方は杳として知れず、この二ヶ月、シオンの槍をつかった犯罪が起こらないかと待ち構えていたのですが、それもまだ」

  「それはおかしい。反帝国組織の手に渡ったのなら警戒網が敷かれる前にとっとと使おうとするはずだ。古物の売買業者かもしれないが、その手の収集者がこれほど高い魔力と黒魔法を使うのは違和感がある。となると、やはりいますべきは内部調査でしょう団長。そちらのほうが確実だ」

  「身内を疑わなければならないですか、やはり」

  ユアンと話しているのは騎士団の団長らしい。声を聞いたかぎりユアンより年上だが、ユアンに対してやけに丁重な口ぶりだ。しかし気になるのは話の内容だーー暗闇の中で顔を見合わせるふたりの耳に、ユアンの声が続けて届いた。

  「シオンとエステル以外の廟は確認しましたか?」

  「しました、警備も強化しました。まあご安心を、ほかの六柱が荒らされてもご先祖さまの廟だけは死守しますよ」団長は冗談ぽく笑う。ユアンも笑い声をあげた。

  「まあ、ハルトガルトまで抜かれたら騎士団の面目は丸つぶれだろうがね。陛下も心を痛めるだろうし……いや失礼、騎士団を莫迦にしているわけではないのだけどね団長? だいいちうちは傍系だしーーああいや」

  ユアンはごほんと咳払いし、すぐにまじめに云った。

  「ただ、これが七柱廟聖遺物連続強奪事件だとしたら、次に犯人が狙うとしたらどこだろうね。ハルトガルト廟はミクラのど真ん中だし考えにくい。廟のなかでいちばん警備が手薄といえばシュバリス廟だが、」

  「あそこはヤハンの深い深い森の中だし参拝者も少ない、文献を確認しましたが犯人が狙うべき聖遺物もないそうですよ。地元の人間が掃除だけはしているそうですがーーいちおう警備はさしむけましたが、犯人もまさかあそこは狙わないんじゃないでしょうか。いまじゃ七柱に数えるのだってどうだって話ですからね。関係者以外にあそこがシュバリス廟だと知っているものもいませんし」

  「いや、シュバリスはじゅうぶん七柱に値するよ。彼女はほんとうはーーいや、なんでもない。うーん、そうだな……ではとにかく、次に狙われるのはどこかという話だったから、当座アリス廟を警戒してみてくれないか。あそこはアングイスの端で人の目が届きにくいから」

  「了解しました、助かります。申し訳ございませんが、この件でまたなにかお気づきになりましたら」

  「ああ、すぐに知らせる」

  「お願いします。では」

  ふたりぶんの足音が去って行く。部屋がしんと静まりかえると、「お茶でもいれましょうか」とずっと黙っていたテディが云った。

  「いきなり呼び出されて大変でしたね。今日はもうここには戻らない予定だったのに」

  「まったくだ。しかしエステルまで荒らされたのではしょうがない。レイシャのシオン廟からもう二ヶ月ーーあのときはまだ雪解けしていないから参拝客も少なかったな。だから犯人も狙ったのだろうが忌々しい、帝国民のしわざとも思いたくない」

  「たしかにあのときのことを思い出すとわたしも腹がたちます、犯人ではなく騎士団の連中にね。授業が終わるやいなやあなたを陣に引き込んで、まるで拉致だった。その横暴なことといったら!」

  「それだけ必死なんだよ。連続事件だとわかったしなおさらね。しかし悪かったなテディ、おまえも今夜は休みだったのに」

  「なんの、あなたのためなら。遠慮されるほうが傷つきますよ、生まれて以来の仲でしょう」

  「だとしても、最近おまえに頼りすぎじゃないかという気がする」

  ユアンが苦笑した。

  「ーーヴィアにもしょっちゅう云われるよ、テディはあなたのママじゃなくてよ、って。たしかにもうハダルもいるしーー」

  「ああ、ハダルさま。もう十七でしたっけ、このあいだ廊下でお見かけしましたが、たしかに大きくなりましたね。お兄さまとお姉さまのことがあったので、どうなるかと案じておりましたが」

  ハダルとはたしか次期皇帝だという少年だ。現皇帝ラーゼスのひとり息子。はじめて年齢を知ってシュバリスは驚いた。アイドクレーズが「ハダルくん」と、まるで小さな男の子のような呼び方をするわけだ。クローゼットの扉のむこうでテディがしみじみ云った。

  「皇帝のお子が生まれない、生まれても育たない。ここ二十年、われわれ分家はハラハラしっぱなしだったーーだがしかしハダル皇子さまさま、あの方が無事に育ってくださってよかったですね。あなたには皇帝の椅子なんて似合いませんからね」

  「まあね。いまだから云えるがわたしは皇帝の器じゃなかったしね。ハダルが生まれてほんとうによかった、おかげでわたしはセレスタインの名前から解放され、印陣の深遠なる世界を追求でき、その素晴らしさを子どもたちに教えられるというわけだよ。それになおかつ」

  「片手間で騎士団のもちこんでくる案件で探偵ごっこもできる、と。しかしそのせいでこちらはヒヤヒヤさせられます。なあーー」テディの声が急に気安くなった。「これは友人としてのお願いだが、頼むからあんまり危ない事件には首をつっこまないでくれよユアン。わたしの心臓がもたない」

  「それはこちらのセリフだ。このあいだシオン廟で、まだ解除してない得体のしれない陣にまっさきに突っ込んでいっただろうおまえ。あんなの騎士団だってわたしだってしないぞ。怪我の具合は?」

  「もう平気です。ま、わたしが相変わらず莫迦なのはともかく、アレクセイあたりが我々の話を聞いたらさぞ立腹するでしょう。あいつとアルジュナのほうは、我々のようにまだ達観できてない」

  「ーーそのことなんだが」

  ふとユアンの声色が変わった。

  「団長には云ってないことがある。先におまえに相談しようと思っていたんだが」

  「えっ。なんですあらたまって?」

  「現場に残されていた[[rb:魔力残渣 > オーラ]]のことで。レイシャのシオン廟で気づいたんだが」

  「はあ、……?」

  「犯人を特定できるほどの魔力残渣は残念ながら残っていなかったと云ったが、実はかすかに犯人の気を感じた。魔力というほどではないが、犯人の属する血族がもつ特有の気配ーーテディ、わたしは犯人の血族を知っている」

  「えっ。待ってくださいーー血族? ならばあなたは犯人の家名を」

  「ああ、わかってる。――アベンチュリンだ」

  「えっアベンチュリン。って、えっ。うちーーえっ」

  「そうだ。犯人はアベンチュリンの血をひくものだ」

  「はーー!?」

  テディは絶句していた。つづいて水音とともに「あっちい!」と叫び声が上がる。お茶をこぼしたらしい。

  「わーーわたしは犯人じゃないですよ!」

  「もちろんだテディ、それはそうさ。おまえでは絶対にありえない、というより、気を悪くしないでほしいのだがおまえの魔力であれほどのことはできないよ。犯人はおまえより数段魔力が高いし、遠慮なく云わせてもらうとおまえより慎重で機転がきく」

  「ユアンん」

  テディが両手をあげて肩をすくめたのがふたりにもわかった。

  「かまいませんから、どうぞ率直に犯人のほうが賢いとおっしゃってください。しかしあの、わたしより魔力が高くて賢いアベンチュリン家の、てことはーー」

  「ああ。とはいえおまえは決して魔力の低いほうじゃない。アベンチュリンでもおまえを超える奴はそうそういない。てことはーー」

  「いやいや、そもそもアベンチュリン家が風前の灯火、わたしを含めて三人しか残ってませんから。そしてこのわたしをのぞけば残るはナイジェルとアレクセイだけ。アレクセイーーあっ、アレクは二カ月まえまでタラゼド魔法学校にいました。あそこはシオン廟のすぐそばだ。えっじゃあ、まさか?」

  「いや、アレクではないと思う。あの子はまだ十三だし、おまえと違って純人間だ。兵士を昏倒させるほどの腕力はないし、色はまだ赤。だが犯人は黒なんだーーだいいちあきらかに未成年の犯行ではない」

  「となると残るは一人ですが、まさか」

  「そのまさかだ。おまえ最近ナイジェルと顔を合わせたか?」

  「いえ」

  テディはそれきり黙り、「ナイジェル」と吐息まじりにつぶやいた。

  「あいつがですか。あれが恐れ多くも七柱の廟から聖遺物を強奪している、と」

  「まだ憶測にすぎないがね。しかしナイジェルは騎士団で、機密に触れられる立場にある」

  「そうですね。肉体的にも精神的にも、それから魔力も、あいつはうちの兄弟でいちばん強い。色は黒だし、ハダルさまよりよほどです、正直」

  「ああ。廟の警備は騎士団の管轄だし聖遺物の保管に関してもそうだ。だからこの度重なるわれわれをあざ笑うかのような犯行は、きわめて騎士団の団員による犯行の可能性が高いとわたしは団長に進言してみた。しかしーー」

  「あいつなら廟の警備や内部の様子についても情報を得られますね。ただ、ナイジェルが犯人だとしてなんのためにそんなことを? 動機は?」

  「そう。これほどのことをナイジェルがする理由がないんだーーハダルがいるし、よもや継承権に関するものではないだろう。なあテディ、兄として心当たりはないか?」

  「ひょっとしたら、はっきりしているからかもしれません」

  「どういうことだ?」

  「ーー恐れながら、血筋に関してはともかくハダルさまの魔力の低さについては皇帝としての資質を問う声がございます。あんなことがあったのだから仕方ありませんが、ひょっとしてあいつは、聖遺物の魔力を借りてハダルさまの力を底上げしようとしているのかも」

  「聖遺物のもつ魔力を吸い取るのが目的? その魔力をハダルに与えて、じぶんの力として使わせようと? しかし技術的にも精神的にも難しいわざだ、七柱の魔力はすさまじい、ナイジェルといえど扱えるものじゃない」

  「ですが、アベンチュリン家で犯行が可能なのはナイジェルだけです。それに、多くの人々の信仰を集める聖遺物はそれだけで莫大な魔力を蓄えている魔具でしょう。魔具じたいの力を借りて技術的、精神的問題をクリアし、蓄積された魔力をハダルさまに移すことができれば、魔力を底上げするどころか一生かかっても使い切れないほどの量を得られる。リスクを冒してでもやる価値はある。ナイジェルはわたしとは違う、あなたにはそれでもセレスタインを継ぐことはないだろうと思われる要素があったが、あいつはハダルさまが生まれたときから皇位継承者の従者となるべく育てられた。あるじのためならあいつはなんでもするし、できる」

  「一途な子だったね、昔から。忠誠というならおまえもアレクセイもだが。アベンチュリンは皆そうだ」

  「うちの血ですよ。しみついた業です」

  テディが笑った。しかし、さきほどまでの元気はすっかりなくなっていた。

  「そうですか……ナイジェル。あいつが」

  「まだ決まったわけじゃない」

  「はい。あのーーユアンさま、ナイジェルと近日中にも接してみてもよろしいでしょうか」

  「いいよ。そのためにいま教えたんだ。しかし危ないことはしないでくれテディ、もしナイジェルだとしたらかなり本気だ、実の兄にも容赦しないかもしれない。なにかあればすぐにわたしに」

  「はい。わたしではナイジェルに敵いません、それはわかっています。わたしもなんとか指輪を貰いましたが魔力も頭もあいつのほうが上だーーちくしょう、なんてこった!」

  「テディ」

  遅れて衝撃にみまわれたらしいテディを、「落ち着け」とユアンは慰めた。

  「ことがことだ、騎士団にこのことを伝えるのはできる限り引延ばす。とにかくおまえがナイジェルと話すんだ。それから今度ばかりは先走るな、いま教えたのも、あとで知って暴走するよりと思ったからだ。よくよく考えて動いてくれ」

  「[[rb:是 > ヤール]]。わかっています、無茶はしません」

  とはいえ、テディのなかにはしっかりと、じぶんが弟をなんとかするのだという強固な意志が生まれたようだ。テディの声のするほうから、金属音がかすかに響く。聞き覚えのある音に耐えきれずシュバリスはクローゼットの隙間に顔を押し付けた。だいぶ力が落ちたとはいえよく見える目は、テディが沈痛な表情でじぶんの指に嵌められた指輪、犯人が落としていったものと同じ指輪を反対の指先で弾いているのをみとめた。彼の弟、ナイジェルも同じものを持っているのか、いまは持っていない?

  ふと「シュバリスさま」と、アイドクレーズがシュバリスの髪に触れた。シュバリスは無言でうなずいた。いまの話をふたりで検証しなくては。

  となると、一刻も早くここから脱出したいーー焦る主従のすぐ前で、ユアンとテディはそれきり黙った。やがて、沈んだ空気を打破するようにユアンが明るく云った。「お茶のおかわりを淹れようかテディ。いいよ、こんどはわたしがーーん?」

  シュバリスとアイドクレーズはぎくりとした。立ち上がったユアンは、デスクの後ろをばっと振りむいた。

  「大変だ。何者かがこの部屋に侵入したようだ。こっちの棚に魔法で開けられた形跡がある」

  「えっ?」

  テディがユアンのもとへ駆け寄る。そのままふたりして部屋をぐるりと見渡した。

  「学院長室に侵入者が? まさかなにか盗られましたか?」

  「いや、なにも。それに、見たところ開けられたのはこの棚だけだーーそれもおかしいな。なにが狙いだ?」

  「なくなっているものは? そこに貴重品は?」

  「ない。だがーーああこれか、このファイル。ぐちゃぐちゃだ。指輪の受贈者のファイルが荒らされてる」

  「指輪のファイルう? なぜそんなものを?」

  「わからない」

  ユアンはあたりを見渡した。

  「だが、誰かがこの部屋に入ったのはたしかだ。部屋自体は無理やり開けられた様子はない、ということは解除呪文を知っていたということだな。この魔力のパターンからして忍び込まれたのはついさっき。ナイジェルのものではないのはたしかだが」

  「協力者がいるのかもしれない。わたしたちと入れ違いになった? しまった、すぐに気付いていれば追えたかもしれない。騎士団といっしょでなければ」

  「そうだな」

  シュバリスたちはほっとした。ふたりは犯人がすでに逃走したと思っている。しかし万が一にもクローゼットが開けられたらすべて終わる。シュバリスはアイドクレーズに合図し、アイドクレーズが手のひらをクローゼットの扉に押し当てた。強いロックの魔法がかかる。ユアンとテディが部屋を出て行くまで、これで耐えるしかない。

  テディが立ち上がり、警戒心をあらわにつぶやいた。

  「厭な感じがする。侵入者はあなたを狙って来たのかもしれない」

  「わたしを? なぜ?」

  「もし犯人がナイジェルなら、あなたが捜査に関わっていると知っている。アベンチュリンの、ひいてはじぶんの犯行だと気づかれたとわかれば、あいつはあなたを排除しようとするかも。ここに侵入して棚を開けたのは、そこに捜査資料でも入っているかもしれないと踏んだか」

  「それはあるかもしれないがーーああ、ひとのことは云えないな。身内を疑うのは厭なものだ」

  「わたしも弟にあなたを狙われるなんて地獄に等しい。ユアンーーそうだユアン、ここを出よう。万が一罠でもしかけられていたらことだ。棚から離れて、早く!」

  「えっ?」

  ユアンが戸惑ったように云った。

  「警戒しすぎだよテディ。いくらなんでもそれはいきすぎだ、侵入がこの件に関係あるとも限らないじゃないか。学生が試験問題を盗みにきた可能性だってある」

  「いまは試験期間じゃないし問題を盗むなら印陣の教官室に行くはずだ。用心するに越したことはない。ナイジェルなら白に偽装した黒魔法も使える、それでなくとももう遅いーー明日は受け持ちも多い、今日は休んだほうがいい。あなたは体が丈夫じゃないんだから」

  「なんだか急に過保護になったな。しかしおまえのいうことももっともだ、今日は忠告に従うとしよう。帰る」

  「ああ、行こう」

  ふたりは出て行った。足音が完全に消えてから、シュバリスとアイドクレーズはクローゼットをすべり出た。ふたりとも無言だった。

  ドアの隙間からきょろきょろと廊下を見渡して裏口に走り、校舎の陰づたいに寮へむかう。めざすはここ一週間ですっかり馴染んだ素敵な我が家だ。

  だが、寮に着いたふたりをさらなる事件が待ち受けていた。

  [newpage]

  [chapter:献身の返礼]

  セレスタイン魔法学院寮の玄関ホールわきに位置する事務所では夜のあいだも寮母が常に目を光らせている。反抗的な生徒が夜間に寮を抜け出して街に繰り出すのを阻止するためだ。学院長室へむかうとき、シュバリスとアイドクレーズは事務所の小窓の下に張り付いて身を隠し、ついでに目くらましの魔法も使って脱出を果たしたが、戻るのは出るより大変だと予想された。ふたりとも念のため玄関の百メートル先から目くらましの魔法を使おうと準備していた。しかしーー

  近づいた寮のほうから、ただごとではない悲鳴とざわめきが聞こえていた。

  「なんでしょう。騒がしいですねえ」

  「なにかあったのかしら?」

  と、ふたりの見ている前でとつぜん寮の玄関が開け放たれ、常駐しているふたりの寮母が弾丸のごとく夜闇を疾走していった。ブーツのかかとで芝生を抉らんばかりだが、生徒があんな走り方をしたらいっぱつで罰則をくらうところだ。シュバリスとアイドクレーズは息を呑みつつ、全開になった寮の門扉からそっと正面玄関を覗き込み、警戒すべき事務所が無人になっているのを確認してホールにすべりこんだ。

  「急病人でも出ましたかね。なんにしろ事務所が空っぽでラッキー、見つかったらなんて云われるかわかりませんからねえ。いまのうちに部屋に戻りましょう」

  「そうねえーーあーっ、はいはい! それわたしのおかげだよ、[[rb:大白蛇 > ナーガ]]がもってる幸運の力!」

  「はいはいもちろん、ナーガさまのおかげですよっと。はあ」

  「なによ。ちょっとくらいのってくれたってーー」

  しかし、軽口を叩けるのもそこまでだった。廊下を抜けて北棟へ向かおうとしたふたりは、北棟入り口のホールに人だかりを発見した。消灯時刻はとっくに過ぎているのに、寮じゅうの生徒が北棟につめかけているようだ。

  寮は女子の使う西棟と男子の使う東棟に分かれ、南棟に食堂や学習室や図書室など公共のスペース、北棟がまるごと特待生寮室となっている。シュバリスたちはたむろする生徒をかきわけ、自分たちの部屋のある三階までなんとか上がったが、いよいよ大勢のひとで混雑していた。このフロアには四つの特待生用寮室があって、現在はシュバリス・アイドクレーズと、アルジュナ・アレクセイの一年生主従が住んでいる。同学年の特待生どうしでお隣さんだ。そしてーー

  「男に襲われた!」

  シュバリスたちの隣室の前でアレクセイ・アベンチュリンの悲壮な声があがった。彼らの部屋のドアは大きく開け放たれ、その前にできた人垣のむこうで、アレクセイが「早く!」とさらに叫んだ。

  「おれじゃだめだ、早く、誰でもいいから教官か医者を! 寮母は!? もう行ったんだろうな!?」

  「いま行ったよ。おちつけアレクセイ、だいじょうぶだ、もうすぐ来る。もうすぐだ」

  誰かがなだめたがアレクセイは半狂乱だ。「遅い! 遅いーーまだか!?」

  「ーーなにがあったんです?」

  このままでは部屋に戻っても話などできない。アイドクレーズは無造作にひとをかきわけ、シュバリスもついていった。子どもの利点はどんな人垣でもわずかな隙間からもぐりこめることだ。輪の中心に近づくと大騒ぎの原因がわかった。アレクセイが血まみれのアルジュナを胸に抱えていた。はっきり目にした瞬間シュバリスは息を飲んだ。アルジュナの胸にナイフが刺さり、そこからどくどくと血が流れているーーかなり重傷だ。アルジュナの瞳はうつろで、四肢は投げ出され、白い肌は蒼白だ。どこか人形めいていた。アレクセイはじぶんでも必死で手のひらを傷にあてて治癒を試みているが、なにしろ出血がひどすぎた。アレクセイのかたわらでは、夜着を纏ったカレンがやはり真っ青な顔で「アルジュナさま!」と呼びかけていた。

  「アルジュナさま! アルジュナさま、しっかりなさって!」

  「アルジュナーーアル! だめだ! 誰かーーまだか!?」

  「一年生! どいて、見せてーー怪我だって? 治癒魔法は習ったわ、得意なの、やらせて。先生が来るまでのあいだーーせめて」

  駆けつけてきた上級生の女子が人垣から前に出る。アレクセイはすがるように、十七歳ほどの少女がナイフの刺さったままのアルジュナの胸に手をあてるのを見守った。彼の視線がせわしなく少女とあるじを往復した。

  「あのーーナイフを抜いたほうがいいでしょうか。そのほうが?」

  「だめ。たぶんだけど、抜いたら出血がひどくなる。とにかく少しでも傷を塞いで血を止めないと。ーーねえこれどういうこと、刺されてるじゃない。単なる怪我だと思ったのに!」

  「わからない」

  アレクセイが呆然と呟いた。

  「いつのまにか部屋に男がーー黒づくめのでかいのがーー窓から侵入したんだきっと。おれたちはもう寝てて、アルの声が主寝室からきこえてーー連れて逃げようとしたんだけどもう刺されててーー」

  少女の手から淡く白い光がこぼれる。治癒魔法だ。だが弱い、回復には至らない。シュバリスが見抜いたとおり、アルジュナは先ほどまでかすかにあげていたうめき声すらもはやあげず、ますます目は虚ろに、肌はすっかり艶を失って砂色に変わり始めた。このままではーーシュバリスは人垣から抜け出そうとした。

  「ーーだめです」

  とたんにシュバリスの腕をアイドクレーズが掴んだ。

  「だめです、あなたは出ないほうがいい。気の毒だが間に合わない。助からない」

  「助かるわ。わたしならできる」

  かつての仲間もその部下も、敵の捕虜も含めて何百、何千人と救ったものだ。それがシュバリスの役目だった。家事と育児、そして防御と治癒。だからハルトガルトは彼女を仲間にしたのだ。

  アルジュナのもとに行こうとするシュバリスの腕を、それでもアイドクレーズは離さなかった。灰色の目が強烈に制止の色を帯びてシュバリスをなだめた。

  「だめです、魔力を膨大に消費します。いまの体では無茶だ。足の傷だってまだふさがってないし犯人にずっと魔力を奪われ続けてる。授業で鍵を開けるとか魔法印で精霊を呼び出すのとはわけがちがう」

  「違わない」

  「違います。あれがアリアナならわたしだって止めませんが友だちでもなんでもない、むしろさんざん意地悪されてるでしょうが。単なる従者だから学校には行けないけど、あいつらがあなたを莫迦にしてるのは知ってる。たった一週間ですけど、あいつら全員抹殺してやろうかと思うくらいにはすでに憎んでますよ」

  アイドクレーズの瞳は冷たく、手はきつくシュバリスの腕をつかんで後方に引いた。

  「いいから部屋へ戻りましょう。戻ってさっきの名簿を確かめなきゃ。行きましょう」

  「いや、そんなのだめよ!」

  シュバリスは叫んでいた。アレクセイの視線が一瞬シュバリスをかすめ、すぐアルジュナに戻った。上級生の治癒に一縷の望みをかけている。「早く!」ーーしかし少女も、この傷はじぶんの手に負えないと悟ったのだろう、表情をゆがめ、いまにも泣きだしそうにかるく頭をふった。アルジュナはとうとう完全に目を閉じてしまった。事態が逼迫したとみて衝撃をうける子どもたち全員を見渡して、シュバリスは手を振りほどいた。アルジュナが死ねば、傷つくのは主従や家族だけではない。

  「違わない」

  ふとシュバリスの記憶の中で、なにかが音をたてた。

  (あのとき彼はーーわたしにむかってなんて云った? ハルトガルトはわたしに)

  『シュバリス。君がいる限り』ーー黒髪の下の青い瞳が彼女をじっと見つめていた。『ぼくらの命は絶えることはない』

  (そうよハルトーーあなたはそう云ったのよ。わたしのーーわたしの……?)

  「アルジュナ! しっかりしろアル! もう少しだーーだめだ、いくな! 目を閉じるな!」

  シュバリスはアイドクレーズをふりむき、きっぱり云った。

  「誰も見捨てたりしない。わたしがいる限り、わたしの目の前では誰も死んだりしないのよアイク」

  「死にますよ。それが自然の摂理なら」

  「摂理?」

  そんなの知らない。シュバリスは目の前の光景に意識をひきもどした。アレクセイはあるじの名を叫び続けている。もはや一刻の猶予もない。「それでもいくわ」アイドクレーズを背後に押しやってアルジュナのそばへゆっくりと進むと、今度はアイドクレーズも止めなかった。

  アレクセイとアルジュナとカレン、そして治癒を試みる女生徒のまわりには丸くスペースが開いていた。流れ出る血が広がるにつれて輪は大きくなり、アルジュナの命の火は乏しくなる。

  シュバリスがそっとアルジュナのそばに膝をついても、アレクセイはまったく気づかず上級生の少女に吠えていた。とうとう少女がアルジュナから手を離し、血まみれの手で顔をおおって「ごめんなさい」と泣きだした。諦めたのだーー治癒魔法に優れた教官も医師も間に合わない。アルジュナは息絶える。少女によってそれをつきつけられたアレクセイはふだんの落ち着きぶりもどこへやら、ヒステリックに喚き始めた。「なんでもいいから血を止めろ! 頼むからーー」「そうよ、早くなさいよ!」同じくヒステリックに彼女を責めるカレンが、アルジュナの傍に膝をついたシュバリスを見つけて「ちょっと、なにしてるの!?」と叫んだ。

  「なにしてるの、このーー」

  シュバリスは無視してアルジュナの胸に手をあてた。ざっと全身を見渡す。集中する彼女の瞳にアルジュナの身に起こっている異変がありありとうつった。だいじな血管をいくつも傷つけて、ナイフは心臓近くまで達している。犯人は心臓を狙ったが、わずかにそれたのはアルジュナ自身がとっさに避けたからだ。それに、アルジュナ自身の魔力の高さも奏功し、肉体が一時的に、すべての回復力を傷にむけて保たせている。しかしもう限界だ。

  深呼吸をひとつ。そしてシュバリスは呼びかけた。

  「アルジュナーーアルジュナ・ハイドランジア・ユーレアイト。いい子ねーーわたしの声を聴いて。だいじょうぶ。いまからあなたを取り戻すわ。まだまにあう」

  治癒魔法を使うのは久しぶりだ。それこそアイドクレーズを拾って以来だった。傷口にそっと指先をおしあてて、滴りゆく血からシュバリスはアルジュナの状態をさらに探った。魔素が体内を循環して魔力になる。魔力が願いによって魔法になる。アルジュナの魔法は終わろうとしているが、シュバリスの魔法はここからはじまる。

  長年使わなかったせいで錆びていた治癒の力が、魔力という潤滑剤を得て動き出した。手のひらがじわりと温かくなる。白い光が溢れ始めた。

  「イスラメイーー?」

  上級生の少女のものとは桁違いに大きな魔法の光がシュバリスの手のひらから放たれたとき、アレクセイもシュバリスに気付いた。四方に広がる白い光を見つめて愕然としている。やがて彼はゆっくりとアルジュナに目を落とし、あるじの頰にわずかに赤みが戻っているのを見て「アルジュナ」と呼びかけた。

  「アル。アルジュナーーアルジュナ、しっかりしろ! アル! ハイドランジア!」

  「ーーひどい」

  魔力を注ぎ込みながらシュバリスは呻いた。アルジュナの胸に刺さったナイフには強い呪いがかかっていた。死の呪いだーーその呪いが白魔法に反発し、治療を阻んでいる。おかげでシュバリスの治癒魔法もどんどん打ち消される。このままでは癒しきれない。

  「ナイフを抜いてアレクセイ」

  額に浮かんだ汗が目に入ってひどく染みた。目をぎゅっと閉じてつぶやいたシュバリスにアレクセイは声をうわずらせた。

  「なーーナイフを? でも、」

  「抜いて。抜かなきゃ助からない。そちらの先輩のいったとおり一時的に出血が増えると思う、でもだいじょうぶーーだいじょうぶにするから抜いて!」

  「だいじょうぶなんて保証ないでしょ!? なにいってんのあんた、もし抜いて出血がひどくなったらどうしてくれるのよ! アルジュナさまが死んだらあんたのせいよ! あんたのせいだからねイスラメイ!」

  カレンが叫ぶ。アレクセイは戸惑っている。集中を途切らせないようにしながら、噛んで含めるようにシュバリスは告げた。

  「助けたかったら早くして。アレクセイ、だいじょうぶだからあなたが抜きなさい、あなたが彼の従者ならそうすべきよ。さあーーもう一刻の猶予もないわ、早くなさい!」

  叫びざま、こぼれた魔法が周囲で火花を散らした。散漫になったひょうしに魔法が逸れたのだ。[[rb:白金 > プラチナ]]の光が稲妻のように瞬き、取り囲む生徒たちの口から悲鳴とも感嘆ともつかない声があがった。シュバリスは慌てて掌に魔法を集めた。

  「アレクセイ・アベンチュリン! 早く! あなたがやるしかないのーーあなたならできる、いい子だからやりなさい!」

  アレクセイはシュバリスの剣幕にびくりと体を震わせたが、すぐにぎゅっと唇を引き結んだ。かたわらでわめきちらすカレンは無視すると決めたようだ。「いくぞ」とナイフの柄に手をかけた。「抜くーー!」

  ナイフが抜かれ、どっと血が溢れた瞬間シュバリスは、体内に残った呪いを解除する魔法と治癒魔法を最大限にかけた。魔力の放出に伴って風が起こり、銀髪が宙に舞う。シュバリスの魔力がみるみるうちに減っていく。力が底をつく前に、アルジュナの胸にトゲのように刺さっていた呪いをなんとか解除した。ただしこのままでは治癒を継続させることができない。

  「アイク! アイクきて、手を貸して!」

  「ーー正気ですか」

  イライラと腕組みして前列で様子をうかがっていたアイドクレーズが首をかしげる。

  「わたしまで巻き込むんですか。わたしは白魔法はだめですよ、てんで不得意です」

  「知ってる。だけどあなたはわたしを補える。肩に手を、いまのわたしじゃ力が足りない、全力だとコントロールが効かないの。暴走するかも、調整して! できるでしょう、わたしの坊や!」

  「[[rb:是 > ヤール]]、[[rb:女神様 > ディーズ]]」

  アイドクレーズの両手が両肩に置かれ、そこから彼の魔力が流れ込む。ふたりのつながりは特殊だった。肉体を通して互いの魔力を循環させることで、何倍にも力が増す。嫌がっていたものの、アイドクレーズはきっちり仕事をしてくれた。ただし彼も幼くなって前のようにはいかないようだ、増えた魔力はわずかだった。しかしそれを素早くシュバリスに渡し、シュバリスが治療に専念するあいだ魔力の道をまっすぐに整えてくれる。治癒だけに集中させてくれる。「ありがとう」なんだかんだ優しい従者にシュバリスは感謝し、そして、死の淵を脱した少年に呼びかけた。

  「ーーもうだいじょうぶ。呪いは解けたし傷もじきにふさがるわ。ねえアルジュナ。アルジュナーー目をあけて、もうひらくはずよ。ゆっくりーーあけてみてーー」

  シュバリスの呼びかけに、かたく閉ざされていたまぶたがぴくりと動いた。そのままゆっくりとアルジュナが目を見開く。光をやどした水色を見つけて、アレクセイの顔に希望がもどった。

  「アルジュナ! アル、おれだ、わかるか!?」

  「あーー、」

  シュバリスは手のひらに意識を集中した。アルジュナが完全に回復するまでもう少し。しかしそこで、シュバリスはとうとうじぶんに限界がきたのを知った。魔力ぎれだ。白い光が収束し、どんなに頑張っても魔法を生み出すことができなくなる。舌打ちしたい気分だった。眼と足を奪われていなければここまで苦労することはなかったし、ここで魔力が尽きることもなかった。子どもの姿になることの屈辱と不自由さを、いまはじめて厭というほどシュバリスは感じた。かつて仲間から、防御と回復の女神と呼ばれたプライドは粉々だった。

  「情けない」

  なんてザマなの。そう呟くと同時に、魔法が完全に終わる。「イスラメイ……?」と、じぶんを見上げてわななくようなアルジュナの声が聞こえたが、シュバリスはじぶんの両手を見下ろして忸怩とするばかりだった。たかが子どもひとり救うのにこのありさまとは。ふがいなさにぎゅっと眉間にしわを寄せたせつな、ひどいめまいに襲われた。「シュバリスさま!」

  一瞬暗くなった視界はすぐに回復した。アイドクレーズが背後から彼女を抱きかかえていた。

  「やりすぎです。具合はいかがですか。頭痛は、めまいは? 吐き気は? 動悸は?」

  「頭痛とめまいが少し。でもだいじょうぶ……」

  アイドクレーズの手に手を重ね、安心させようとしたとき、「ちょっと」カレンがぎょっと目を見開いた。起き上がりかけたアルジュナもアルジュナを支えるアレクセイも目を丸くしている。彼らの視線を追って、理由を知ったシュバリスは慌てた。

  袖からのぞく手首に、白い鱗が浮かんでいた。蛇の鱗だ。さらにーー

  「イスラメイ。その眼」

  カレンの顔に驚愕がひろがり、それはすぐに嫌悪に変わった。

  「蛇の眼」

  「[[rb:蛇人族 > アンギソム]]……」

  「イスラメイは[[rb:蛇人 > アンギス]]ーー!?」

  ざわめきが広まった。シュバリスはアイドクレーズにもたれかかったまま、どうしていいかわからずにいた。たしかに瞳孔が縦に長く、針のようになっている。魔力を費いすぎて人型を保てなくなっている。「いわんこっちゃない」とアイドクレーズが苦々しげにつぶやき、全員の視線から隠すようにシュバリスの目元を手で覆った。

  「立てますか? 部屋へ」

  「ん」

  だが、立とうとして、さらなる異変に気付いた。足がひどく痛んだ。アイドクレーズも血のにじむスカートに気づき、ますます苦々しげに云った。

  「傷が開きましたね。だからほっとけばよかったのに。傷を塞ぐ体力まで魔力に変えたでしょうあなた」

  「ごめんなさい……」

  「いつもそれだけ素直ならねえ。さ、行きましょうーーと、だめだこの体じゃ」

  七歳と十歳。大人ならともかく、子どもの三歳差は如実に腕力に現れる。アイドクレーズはまわりを見渡したが誰も手を貸してくれず、自力でシュバリスを抱え上げた。彼の腕にすがって、シュバリスもなんとか立ち上がる。そこへ低く「娼婦なんかに助けてもらいたくなかった」とアルジュナの冷たい声が響いた。

  さきほどまで瀕死の重傷だったアルジュナは、水色の瞳に怒りをにじませて、恩人であるはずのシュバリスを睨みつけていた。

  「余計なことをしてくれたなシュバリス・イスラメイ。君に助けられるくらいなら死んだほうがましだった」

  「ーーなんだって?」

  どうしてそんなことを? とシュバリスが訊ねるより先に、アイドクレーズが吼えた。

  「貴様。このかたに命を救われておきながら、いまのはどういう意味だ。もういちど云ってみろ!」

  「助けてくれないほうがよかったって云ったんだ! このぼくが、蛇人の売女なんかに助けられるなど生涯の恥だ! 娼婦の末裔が!!」

  アルジュナの目には怒りと屈辱が浮かんでいた。大人でも怯んでしまいそうな強い視線だったがアイドクレーズは怯まず、薄く笑みを浮かべて「だったら死ね」と吐き捨てた。

  「厭ならそこに落ちてるナイフをもういちど胸に突っ込めよ。この方はそれでも助けようとする、だがもうわたしが許さない」

  「おまえがか? 蛇人をかばうなんてどういう神経だこの腰巾着、女衒にでもなるつもりか? このガキーー」

  「口を慎め小僧!」

  七歳ではありえない迫力に気圧されたのか、アルジュナが黙った。そこへふと「ありがとう」とアルジュナの後ろから、額に汗を浮かべたアレクセイがちいさく「たすかった」とシュバリスにうなずきかけた。

  「すまないーーありがとうイスラメイ。助けてくれて感謝する」

  「アレク! こいつは蛇人だぞ、なぜ!? 下心があるにきまってる!」

  「だとしても恩は恩だアル。それに相手が蛇人ならなおさらだ、借りを作りたくないだろう」

  「しかしーー」

  「けっ。あるじもあるじなら従者も従者だ」

  それきり主従のやりとりには耳を貸さず、アイドクレーズはシュバリスの肩に腕をさしこみ、部屋へと足をむけた。人垣が割れた。シュバリスは体力も魔力も失って今にも崩れ落ちそうだったが、激しい嫌悪を隠さないアルジュナのことばにも、いまじぶんに向けられる寮生たちの冷たい視線にもうちのめされていた。

  「ねえーーいまのどういう意味……ばーーばいたってなに? なんであんなこと云われ……なんでみんな」

  治療が完了したとき子どもたちは歓声をあげていた。喜びをわかちあう姿にシュバリスもうれしくなった。なのにいま、カレンやアレクセイやほかのひとびとの彼女を見る目の冷たさといったら。千年たった今も蛇人が差別され肩身の狭い思いをしているのは知っていたが、よりによって娼婦の末裔などと呼ばれる意味がわからない。それに、恐れと失望にざわめくひとびとのなかには彼女のクラスメイトもいて、この一週間ずっと親切にしてくれ、誘ってくれたのに、いまは異様なものを見る目をしている。いや、これは汚物を見る目だーー感謝されたかったわけではないが、ひとひとりの命を救って返される仕打ちがこれだとは理解できなかった。

  「いろいろあるんですよ」

  アイドクレーズがため息をついた。

  「あなたには知らせたくなかった。しかしそれはまたあとだ。さあ」

  ドアが開くと、出て行くときとなんら変わらない室内を目にして、シュバリスは安堵のあまり泣きそうだった。同時に恐怖が押し寄せてきた。ぎゅっとアイドクレーズにしがみつく。ドアが閉まる寸前、寮母がようやく医師を連れてきたらしく、あたりがさわがしくなり、ドアが閉まるとざわめきが遠ざかった。

  「不得手ではありますが、使えないことはないですので」

  ダイニングの椅子に座らされる。じわりと足元が暖かくなる感触に閉じていた目を開くと、アイドクレーズが目の前に跪き、シュバリスの足に手を当てて治癒魔法を使っていた。屈み込むアイドクレーズの頭を、彼女はそっと抱きしめた。アイドクレーズの片手が膝に乗せられ、慰めるようにかるく動いた。

  「犯人を殺してやる、そうもういちど誓いを新たにしましたよわたしは。そしてあの小僧。全部かたがついたらただじゃおかない」

  「うちに帰りたい」

  「ーーできるだけ早く」

  「帰りたいよアイク……」

  地下から出たのが間違いだったのだ。体力も魔力も尽きかけて、ひどく弱気になりながら「うちに帰る」とシュバリスは幼い子どものように繰り返した。じっさい彼女は衝撃のあまり精神退行を起こしていた。治癒を終えたアイドクレーズが濡れた頬をそっと指先で拭い、眦に舌を這わせた。

  「しっかり」

  子どもの体温は熱く、涙も熱い。そのままアイドクレーズから唇への口づけを受けながら、シュバリスは身を切り裂くような寂しさと悲しみに耐えていた。なぜあのように云われるのだろう? 責められるほどのなにをしたというのか? この千年、じぶんが眠っていたあいだになにが起こったというのだ?

  その日はアイドクレーズに抱きしめられて眠った。しかし、とぎれがちな夢の中でも彼女の思考を席巻していたのは、なぜ、という疑問だった。

  [newpage]

  [chapter:蛇人たちのゆくえ]

  泥のように眠り、めざめたときには朝で、隣に従者の姿はなく、シュバリスはひとりで寝台に横たわっていた。昨晩の衝撃はまだ生々しく、ふたたび寝てしまおうと寝返りをうったが、気配だけで察したのだろう、「おはようございます、朝ですよ」と、香ばしい香りをまとわせたアイドクレーズがエプロン姿で寝室にやってきた。「さ、ごはんごはん」と渋るシュバリスを無理やり寝台から降ろしてダイニングテーブルまでひきずる。

  かなり早朝から起き出して市場で買い出しをしてきたらしく、新鮮な薬草を用いた大量の食事がテーブルに並べられていた。まったく食欲のないシュバリスは大量の食事にますます食欲を減退させたが、アイドクレーズはなかば無理やりにシュバリスの口に食べ物を突っ込んだ。その気がないとはいえ魔力と体力を失った肉体は経口摂取で力をとりもどし、朝食のあと、いまだに腕に浮いた鱗や蛇の眼をシュバリスは人間の肌と瞳に戻すことができた。ただし「今日はもう授業にはでたくない」というわがままには、アイドクレーズも反対せず無言でうなずいた。

  ふたりのもとには、昨夜のうちに寮母が事情を訊きに訪れていた。寮を抜け出して院長室に忍び込んだことがばれたのではなく、アルジュナの傷を癒したことについてだ。また、寮内部はシュバリスが蛇人であること、寮に不審者が侵入して生徒を傷つけたことで二重の不安とパニックに陥っており、寮母はむしろそちらを気にしていた。

  寮母はシュバリスが寝付いた深夜に部屋のドアを叩いたため、応対はアイドクレーズがした。彼にむかって寮母は、「寮だけですむ話ではありません、これは学院全体の問題です。明日あなたがたから直接、今夜起こったことを学院長先生へ説明していただきます」と、自分には手に負えないため学院の長に直接判断を仰ぐことにしたと伝えた。アイドクレーズも承知した。

  「わかりました。ただし学院長への報告はあるじの体力が回復してからです。瀕死の人間を死の淵から救ったんです、ひどく消耗しています。明日とおっしゃいますが体調次第ではどうなるか、明確な返答はいたしかねます。よろしいですか?」

  「お伝えしておきましょう」

  同じく当事者となったアルジュナとアレクセイは、今日の午前のうちに学院長と面会するそうだった。朝食をすませ、なんとか着替えを終えたシュバリスにアイドクレーズはそう伝え、シュバリスは「とにかく、学院長室への侵入をのぞいてありのままを話すしかないんでしょうね」と力なくうなだれた。

  「アルジュナを助けたことがなぜあれほどーーなんだか怖い、おうちに帰りたい」

  シュバリスは昨日さんざん繰り返したことばをふたたび口にし、さらに弱音を吐いた。

  「ぜんぶあなたに任せてわたしは帰っちゃおうかしら。そうしようかしらーー今日これから、」

  千年のあいだ変わらず平穏だったあの暮らし、いつもしっとりと湿って適温に保たれている快適な住処にもどりたいのよーー彼女はぽつんと云った。

  めったに見ない主人の憔悴しきったさまに、昨晩のことがよほどこたえたらしい、とアイドクレーズはあるじの白皙の顔を見つめた。寝乱れたまま流れて細い肢体にまとわりつく白銀の髪も、やや腫れぼったいまぶたも潤んだ柘榴の瞳も赤い唇も、まだ衝撃から立ち直れず、ときおり痙攣するようにこまかく震えた。どうにも力が出ないのか、着替えはしたもののシュバリスはぺたりと床に座り込んでしまった。こんな姿は見るに堪えない、とアイドクレーズはマグカップをもつ両手に力を込めた。地下神殿の寝台に怠惰に横たわり、アイドクレーズが与えた果物の香りにうっとりしながら食べごろを待ち、なにも悩むことなくすやすや眠る、退屈でふがいない彼女を見ているほうがよほどましだった。

  アイドクレーズは、手にしたカップを差し出した。

  「ミルクティーです。あなたの好きなクリーム載せシナモン入り。元気だして行きましょう、とにかく昨夜のことはあなたにはなにも非がないんです。こまっしゃくれた小生意気で根性悪の小僧の命を救ってあげたんですから責められる云われはない。それをあのカルセドニー学院長どのにちゃんと云ってやりましょうーーそしてもしほんとうにそうなさりたいのでしたら、今日じゅうにわたしが地下神殿までお送りします」

  「んーー」

  頭の中ですっかり整理し終えた話をアイドクレーズはなぞった。隣室の主従の言動にぶちきれてはいたものの、それ以前に学院長室で聞いた会話から、彼は冷静に推理していた。ユアンのことばがたしかなら、シュバリスを襲ったのはテディの弟のナイジェルという人物である可能性が高い。

  「わたしたち、犯人が誰かということばかりに気をとられていましたけど、ゆうべのユアンとテディの会話でもうひとつ重要なことに気づきました。動機です。なぜ襲われたのかというのも考える必要があった」

  「……そうね」

  「テオドールはユアンの従者、アレクセイはアルジュナの従者、ナイジェルはハダルの従者。アベンチュリン家の兄と弟ーー三兄弟と考えるべきでしょうねゆうべの話からすると。ですがそのうち次兄ナイジェルの仕える次期皇帝ハダル・セレスタインくんの魔力は、今後の地位を危ぶまれるほどお粗末なものらしい。ハダルの従者であるナイジェルにとってこれは大問題、だから各地にある建国七柱の廟を襲って収められた聖遺物を強奪し魔力を奪おうとしたーーしかし、シオン廟の次に訪れたシュバリス廟の地下に聖遺物はなく、生身のあなたが住んでるだけ。それであいつは、そこにいるのが大きな魔力をもつ大白蛇だと気づいてとっさに体の一部を奪った。あなたがシュバリスではなく単にそこに住み着いた野良の[[rb:大白蛇 > ナーガ]]だと思ったかもしれない、というか思ったんでしょう」

  「うん……」

  カップに口をつけ、考え込んでいたシュバリスは暗い表情で、しかしこくりとうなずいた。

  「そういうことだったんでしょうね。わたしを襲ったのはナイジェル・アベンチュリン、テディの弟だった、と」

  「だからあとはナイジェルについて調べればいい。わたしひとりでもできる」

  「でもあいつの魔力はあなたより高いわ。眼と足を奪われる前はともかく、わたしがヤハンに帰っちゃったら物理的にもわたしたちの距離は離れる。わたしひとりがーーううん、アイク。ねえ、学院長とのお話が終わったらわたしたちふたりで神殿に帰っちゃわない? ぜんぶなかったことにしてもう消えちゃわない?」

  「それはーー眼と足を諦めるということですか? そのつもりなんですか?ーーまさか」

  「本気よ」

  シュバリスはじっとアイドクレーズを見つめた。潤んだ瞳、誘いかける表情。いまは子どもだというのにこのかたは、とアイドクレーズは彼女の湧き立つような色香、娼館の女とは性質の違う、清純で透きとおるような、禁欲を促しながら劣情をも起こさせる不思議な彼女の魅力にめまいを覚えながら、なんとかその場に踏みとどまった。じぶんがそんな高度な誘惑をかけていると自覚のないシュバリスは、なおもじっとアイドクレーズを見つめていた。

  「たしかに傷は痛むしまだふさがらない。でも千年経ってもこのままってことはないと思うの。わたしのもつ永遠の命が少しずつ傷を癒してくれるはずだし、だとしたら奪われた眼と足も、そのハダルって子の役にたつんならあげちゃったってかまわない……だいたいその子はハルトガルトの子孫なのでしょ。わたしはかつてハルトのために魔法を使ってきたし魔力を捧げてきた。それで役に立つのならわたしはーー」

  「暴漢よろしくあなたを襲って無理やり体の一部を奪い取った男を見逃すと? あの蛮行を赦すと?」

  信じられない思いで、アイドクレーズは大きく眼を見開いた。

  「だって、もうすぐそこにあるのに。ナイジェル・アベンチュリン、犯人の名前がわかったじゃないですか。眼はともかく足はかなりの大きさだ、どこか安全な場所に隠しているにちがいない。そこさえ突き止めればいい。足を取り戻して傷を塞ぎ、魔力を取り戻す。そうすれば次は眼。約束してみせます、一ヶ月だ。一ヶ月以内にすべてのかたをつける。わたしは子どもだが中身は五百歳すぎの男です。だてに五百年生きてるわけじゃない、必要な情報を集め、侵入し、不意をつき、わたしのもてる力であの男を斃してみせる。奪われた魔力を取り戻してみせます。あきらめたりしない。あなたが耐えられないというなら、どうぞあの森の神殿の地下でおひとりでお待ちを」

  「いえ、わたしはあなたが心配なのよアイク。あなたのその、わたしに対する忠誠心がね。自惚れてるわけじゃないけど、わたしのためならなんでもするってところがいちばん怖くて心配なのーーねえ、帰るならふたりで帰りましょう。子どものままでだっていいじゃない、また千年かけて、ううん、五百年かけてゆっくり大人になりましょう? なにもわざわざ危険な目にあいにいくことなんてない」

  「厭だーーわたしは厭だ。もうこんな姿はごめんです、金輪際」

  アイドクレーズの脳裏を昨晩の光景がよぎった。シュバリスひとりの体を抱きかかえるのにも苦労し、アルジュナの罵倒と子どもたちの軽蔑の視線から彼女を守れなかった。もとの姿だったらあんな目にはあわせなかった。昨晩彼女が感じたのと同じ情けなさに震えながら、いまアイドクレーズも決意していたーー

  「なにかあってもあなたを支えられない体なんか! 五百年も待てない、あなたを守れないこともだが、あなたに触れられないことだってわたしは厭なんですシュバリスさま。ただ一緒に眠るだけなんて、慰めるのに涙を拭くだけなんて厭だ。抱きたいーーわたしはあなたを抱きたい。だっていまは春だ。いつもなら、もうじきあなたをひとりじめできる時期だ」

  「アイクーー、」

  頬をさっと赤らめてシュバリスが視線を宙にさまよわせた。困ったように苦笑している。しかしアイドクレーズにとっては笑いごとではなかった。恥ずかしい、申し訳ないとシュバリスは思っているようだが、春から夏にかけてはアイドクレーズにとって無上の喜びにうちふるえる季節だった。

  シュバリスが彼を拾ってくれた。命の恩人であり唯一無二の女神だった。いまではあの森に迷い込んだことからして運命だったのだと思っていた。シュバリスと出会って半永久の命をもらい、パートナーとしてそばにいることを赦されたいまではなおさら、すでに味わってしまった禁断の果実の味を忘れることなどできなかった。

  ゆうべだってそうだ。大人の姿なら、憔悴しきった彼女をあのままにしておかなかった。慰めて忘れさせてやれた。いや、そもそも地下への侵入を食い止められていればーーこうなったのはじぶんのせいだ。アイドクレーズは一歩もひかないという意思をこめて宣言した。

  「わたしは帰らない」

  「そんな。お願い……いっしょに」

  「帰らない」

  シュバリスは沈黙した。アイドクレーズも黙り込んだ。そのまま約束の時間がきてしまい、気まずい空気のままふたりは身支度をととのえた。

  寮を出て、昨晩忍び込んだ学院長室を正面から訪れると、叱られるかという危惧は杞憂に終わり、ユアンはにこやかにふたりを出迎えた。開口一番「ゆうべはよくやってくれたね」とシュバリスたちをねぎらう。室内にはテディもいた。昨日の気落ちした様子はなく、気楽な顔でアイドクレーズにかるく手をあげる。「どうぞ」とユアンに促され、ふたりがソファに座ると、

  「おかげで学院は家族から預かっただいじな子どもの命を失わずにすんだ。わたしからも礼をいうよ、レイミア・イスラメイ。いやーーお友達のあいだではシュバリスと呼ばれているそうだね。いい名だ、シュバリス。建国七柱の蛇神シュバリスと同じ」

  「ありがとう存じます」

  「顔色が悪いね。アルジュナ・ユーレアイトの受けた傷はそうとう深かったそうだが、治療はたいへんだっただろう。たしかにまだ魔力が安定していないようだ」

  「申し訳ありません」

  「とがめているわけではないよ。むしろそのていどですむなんて、君の魔力は思ったより大きいようだ。まだ十歳だというのに刮目に価する。将来が楽しみだ」

  「ありがとう存じますーー」

  「だが」

  ふとユアンの口調が変わった。

  「魔法の使いすぎで魔力も体力も落ちているわけじゃないね。単純に元気がない。ゆうべ居合わせた生徒たちの証言をざっときいたが、君は蛇人なんだそうだね?」

  「はい」

  シュバリスはおそるおそるユアンを見上げた。ゆうべのような侮蔑の視線にあうかと思ったが、ユアンはひどく優しい目をしていた。そして云った。

  「たいへんだったね。いまこのエウレシアで蛇人であることも、それを人に知られることもとても辛いことだろう。それでも君は同級生の命を救った、すばらしい心がけだーー学院長として、いち教官として誇りに思うよ」

  「あの」

  シュバリスは、すがるようにユアンを見つめた。よくわからないがユアンは蛇人であることで彼女を咎めない。シュバリスはゆっくりと訊ねた。

  「申しわけございません学院長さま。実はわたしは孤児です。両親と幼くして離れ、じぶんが属する蛇人族という獣人種について詳しいことを聞かずに育ちました。蛇人であることを隠して暮らすべきなのだと教えられ、そのとおりにしてきただけで、それ以上のことを存じません。わたくしはーーええと」

  必死で考え、シュバリスは云った。

  「ーーわたくしはヤハンのかなり田舎で育ちました。外界から隔絶された場所です。建国後、蛇人は人間のみならずほかの獣人からも迫害を受け、よこしまで悪い獣人と呼ばれるようになり、その結果蛇人たちは正体を隠して暮らすようになり、いまはあまりよくない魔法を使う種族のように思われている、とーーそれだけはかろうじて存じているのですが、」

  「そのとおりだよ。悲しいことに」

  「でもあのーーゆうべ、」

  それだけではないようだった。とくにひっかかるのは「娼婦の末裔」という信じられない侮蔑のことばだ。売女、というのも。「ああ」とユアンがうなずいた。

  「ことはそう単純ではない。とくにここ百年、いや二百年ほど前からなんだが、じつはどの獣人の和ともなじめず生活に困った蛇人は、エウレシアの影の仕事に進んで従事するようになった。たとえば高利の金貸し、[[rb:呪 > まじな]]い師、盗賊、強盗、詐欺をはたらいて生計をたてるもの、誓約に縛られない違法な魔法使いとして生きるもの。かなり昔、それこそ五百年より以前の昔から、表社会に背をむけて地下で生きる蛇人もなかにはいたんだがねーーしかし最近、そうした闇の世界の蛇人たちが反帝国組織を結成して勢力を広げ、表社会の蛇人までもがだんだんとそちらに合流しはじめた」

  「……、」

  「もちろん、きちんとまっとうな職につき、ひとびとの尊敬を集めている蛇人もいる。大半は蛇人であることを隠して暮らしている。ただしそうした蛇人を別の蛇人が妬み、脅迫したあげく惨殺する事件も十数年前に帝都で起きた。これも蛇人への目を厳しくした。さらに、他の獣人が蛇人を嫌う理由がもうひとつある。蛇人だけは他の獣人と違って生物として存在が遠いんだ。この遠さがほかの獣人たちの蛇人差別を助長する原因になった」

  「存在がーー遠い……?」

  「獣人を作ったのは人間だ。その伝説については?」

  「存じております。獣人は人が生み出したものだと」

  千年前にもその説はあった。というか、当時は伝説ではなくこれが真実だとシュバリスは教えられていた。ユアンはうなずいた。

  「そうだ。太古の昔、暗黒時代と呼ばれる時期にこの星で滅びに瀕していた獣たちを、人が魔法の力で知恵とことばと環境に適応するための肉体を与えてこの地上で生きながらえさせた。建国七柱のうち六柱に数えられる獣人、兎、猫、鳥、狼、熊、蛇といった獣人だけではなく、エウレシアにはさまざまな種類の獣人がいるが、つまりケモノとヒトの両方の性質をあわせもち、人間同様に魔法が使えたり使えなかったりするもの、これが獣人だ」

  「はいーー」

  「そして、獣人のほとんどはなりたちが人間に近い。陸上で生活し、自らの手で子を育て、群れを作って生きる。だから人間は獣人に親近感を抱く。だが蛇人だけはどういうわけか、原型である蛇という生き物に足がない。体毛ではなく鱗に覆われている。水中で暮らす個体もいる。同じ獣人でも他とかなり成り立ちが違うーーこれが最初の差別の原因だったのだろうと推測される。蛇人に罪はないが、種族がほんの少しだけ人間から遠い。実は鳥人もそうなのだがね。兎や猫や狼や熊とは違う」

  「ーーほとんどが哺乳類で胎生動物。それに対し鳥は卵生。蛇は両生類、卵生、卵胎生、胎生ーーいろいろ」

  「そうだ」

  ユアンはちょっと目を見開いた。

  「知っていたか。そうーーそれからひょっとして、建国の伝説のせいもあるかもしれない。建国七柱が果たした役割が原因だ」

  「鳥人王ライドは蛇人王シュバリスより統一における功績が大きい。シュバリスは戦ってない、たいしたことはしていない。彼女は帝国統一の任を果たさなかった。だから彼女を王に戴く蛇人族は敬遠された」

  たしかに、家事と育児に勤しんできたじぶんよりライドのほうがよほど役に立った。ここまでは彼女でも知っている話だ。ユアンもうなずいた

  「そのとおりだ。今蛇人が置かれている状況には、建国七柱のひとりにして蛇人王シュバリスの評判が関わっている。のちにほかの六人と同じく建国神となった蛇神シュバリスがエウレシア統一において果たした役割は、今は研究者のあいだでも評価が分かれている。ある説などはかなり問題があるーーが、その衝撃的な説がもっとも世間に知れわたり、ますます蛇人たちの立場を悪くしている」

  「なんでしょうか」

  「同じ名をもつ、しかも一年生の君には云いにくい。彼女だけは子孫が残らず詳しい伝承が伝わらなかったため、蛇人たちへの差別と相まってみんな云いたい放題だ。鶏が先か卵が先か」

  「ーー覚悟はしております、どうかおっしゃってください」

  じぶんの評判が原因なら、それはこの千年いったいでどこまで堕ちてしまったのだろう。悲しいというより温厚篤実なユアンがここまで云い渋る内容が気になった。彼女の隣でアイドクレーズがため息をついた。

  「蛇神シュバリスは、ハルトガルトを騙し、彼に取り入った娼婦だった。そういう説がある」

  「しょーーっ、」

  なんですって!? 絶句するシュバリスにユアンが続けた。

  「自らの肉体を用いてハルトガルトを誘惑した毒婦、悪女。一説には彼女はひとの心を操るマジックをもっていて、そのマジックでハルトガルトや他の五人に自分を仲間と認めさせ、建国者のなかに入れさせた。また、エウレシア統一末期、七人は仲違いしてそれぞれの地域の王として散ったが、この仲違いはシュバリスが原因だった。シュバリスの邪悪さに気づいた仲間がハルトガルトにシュバリスを追放するよう進言したが入れられず、それが元で分裂した、そう云われている」

  「そーーんなことーー」

  ぜっーーたいしてません! と云おうとしてシュバリスはことばを飲み込んだ。なるほど、アルジュナの様子に納得がいった。子どもたちのおかしな態度も。それにカレンが名前をネタにしてくるわけだーーシュバリスは呻いた。

  「だから蛇人はーーあっ。娼婦の末裔、の、娼婦ってつまり」

  わたしのことか! とシュバリスは愕然とした。

  (そうじゃないーーなんでそんなことになってるの、そうじゃない。仲間だったわ。たしかにわたしはみんなと友だちだった。なのにわたしがハルトを誘惑? 彼を操った? ちがう、わたしとハルトは恋人同士だった。お互いを大好きで必要としていたパートナーで対等な関係だった。喧嘩別れの原因だって違う。そんなことはしてないのにーー)

  くらくらするシュバリスに、ユアンが静かに云った。

  「もちろんこれは一説にすぎない。蛇人族に対し著しく公平性を欠いているし、根底に蛇人蔑視があって生まれたのは間違いない。まっとうな研究者は信じたりしない」

  「しかし、帝国民は信じているのですよね」

  子どもたちのあの目。「恐ろしいことにね」とユアンは眉間に深いしわを刻んでうなずいた。

  「エウレシアの辺境とはいえ、エイシャのヤハンという土地は広大で豊かだった。シュバリスと蛇人たちが受領した土地を、他の獣人と人間は羨み妬み奪おうとしたが、なんの理由もなく奪うことはできない。大義名分が必要だった。ゆえに蛇人たちの存在は貶められ、彼らの神であるシュバリスも同じ目にあった。そして蛇人たちは散りぢりになり、帝国の地下に潜伏して暮らし始めたーー蛇人はいまでは異端な職業に多くついているが、はじめはそれしか道がなかったからだ。人の厭がる仕事をするしか彼らには選択肢がなかった。そして」

  「他の獣人たちの性欲処理道具になり果てた」

  ぎょっとするほど低い声でシュバリスの隣から声があがり、見るとアイドクレーズが無表情に云った。

  「蛇神シュバリスの評判だけじゃない。さっき学院長がおっしゃった、種としての遠さも原因だ。けっきょくはそこも絡んでくる」

  「というと……アイク?」

  「わたしが説明しよう」

  ユアンがあとを引き受けた。

  「獣人には繁殖期がある。これは君も知っているね?」

  「はい」

  「なら話は早い。そう、学院でも十三歳に達した生徒を全員集めて講習会を開くことにしているけど、[[rb:獣人 > フェラム]]には多かれ少なかれ繁殖期というものが存在しその影響を受ける。しかしまがりなりにも人間のかたちをとっている以上、獣の本能を人前で解放することは[[rb:禁忌 > タブー]]だ。そのせいで理性をなくして他の種族に迷惑をかけることはぜったい避けなければならない。そのため彼らは、街や居住区の奥まった場所に娼館を設置し、そこで秘密裏に欲望を発散させて済ませてきた。繁殖時期のない人間と違い、一定の季節に繁殖期を迎える、しかもその欲望に抑えのきかない獣人たちには娼館が必要だった。妻や夫、恋人などパートナーがいる場合はともかく、発情期を迎えたばかりの若い個体にはパートナーが存在しない場合が多いから、パートナーを得るまではどうしてもツナギとしてそこを利用せざるをえない。そしてーー」

  幼い外見のシュバリスに詳しく説明するのにためらいがあるのだろう、ユアンは早口にまくしたてた。

  「蛇人が他の獣人たちから種として遠い、それはすなわち他の獣人と交接しても子どもが生まれにくいということだ。望まない妊娠を恐れずにすむ、この性質を利用して、最下層に属する蛇人は男女ともに春を売る仕事をはじめた。アイドクレーズのことばはあまりに直裁に過ぎるが正しい、そういった仕事もいまは蛇人たちの生業としてよく知られる。帝都にも花街があるが、そこの娼館はほとんどが蛇人の専売だ」

  「……、」

  衝撃で呆けるシュバリスに、ふと慰めるようにユアンがつけたした。

  「いちおうちゃんと発情を抑制する薬もあるんだがね。学院では十五歳以上の獣人の生徒に無償で配布し、服用を義務づけている。だから……、」

  「えっ。つまりアレを薬で、抑えられるーー?」

  シュバリスは我に返った。毎年春から夏にかけて湧きあがってくる欲望、理性をどろどろに溶かしてしまう天国のような地獄のような季節。やっぱりいまは薬があるんだ! と、びっくりしつつも嬉しく思いながら、シュバリスはいきおいこんで訊ねた。

  「ならば繁殖期を抑える魔法は? もう生まれているのでは?」

  「いや、残念ながら魔法はない。研究所でも大学でもさんざんがんばったそうだが無理だった。魔法というのは意志の力だから、生物としての繁栄、繁殖といった本能に逆らうとなると至難の技らしい。だからこの方面に関しては薬が開発された。しかし薬もなかなか高価で、ゆえに娼館でてっとりばやく発散させるほうを選ぶものも多い。そのため蛇人の仕事はなくならない」

  「だからーー娼婦とか売女っていうのは、つまり」

  それはシュバリスのことであり、蛇人ぜんたいをさす蔑称なのだ。愕然とした。ユアンが申し開きのように云った。

  「これに関してはセレスタイン皇帝家にも責任がある。シュバリスと蛇人族をかばうことをしなかった。むしろ帝国が千年つづくあいだに分裂の危機がなんどもあって、その危機を乗り越えるため蛇人の存在を利用した。国内に敵がいると思わせ、その敵さえ消してしまえばじぶんたちの苦労はなくなると人間や他の獣人たちに思わせたんだ」

  「統一前は、統一に反対するものさえ倒せばと云っていた。今度は蛇人を敵に?」

  「そうだ」

  「ーーなるほど。それで、蛇人の中にいたのか、と入試のときわたくしを見てそうおっしゃったんですね学院長さまは。わたくしがあまりに現代魔法に無知だったから。蛇人がそういう状態だということはつまり、」

  「ああ。地下に消えた蛇人、とくに反帝国組織の蛇人たちはいつからか、じぶんたちの子を学校に行かせずじぶんたちで育てるようになった。多くは身を守るために黒魔法を教え込み、黒魔法使いに育てる。彼らのあいだではよそで見られない独自の魔法、白魔法も灰色魔法も編み出されているようだが、追い詰められた獣はえてして攻撃的になる、黒にかたむきがちなのは想像にかたくない。彼らはとくに我々には思いもよらない強力な魔法を使うという。君はその才能を純粋な白魔法として顕現させたようだが」

  「はいーー」

  シュバリスが闇の世界から来たのでは、と試験官たちは疑っていたというわけだ。シュバリスはため息をつき、きりあげどきだと思ったのかユアンが手を振った。

  「ーーとにかく話はここまでとしよう。初めての話が多くて混乱しただろう? 落ち着いてお茶でもいただくとしよう。テディ、こちらの勇敢なレディにおまえのとっておきのを」

  「ああ」

  そしてユアンは最後に重々しく告げた。

  「帝国に流布する噂はともかく、わたしは蛇神シュバリスが娼婦だなんて思わないよイスラメイ。彼女は[[rb:初代皇帝 > ハルトガルト]]のパートナーだった。妻にも等しい女性だった、まちがいない」

  「ありがとう存じます。おひとりでもそう思っていただけるのは救いですわ」

  「いや」

  ユアンはゆっくりと頭をふった。テディが「どうぞ」とカップを置く。ユアン同様テディも蛇人に対する偏見はないようだ。隣のアイドクレーズに「君のあるじはすばらしいかただな。尊敬に値する」とうなずきかけ、同業者からの賞賛にアイドクレーズも表情を和らげた。その後アイドクレーズは「だいじょうぶですか」とカップに口をつけたシュバリスに囁いた。

  「黙っていて申し訳ありません。悲しまれるだろうと思ったので」

  「んーーいいの」

  シュバリスは頭をふった。

  「無理もないわ、いまの話じゃね。ありがとう、わたしはだいじょうぶよ」

  テディの淹れてくれたお茶はアイドクレーズに劣らず美味しかった。「飲んだら今日は部屋に戻りなさい」とユアンが云った。

  「君に対して滅多なことを云ったりしたりしないようほかの生徒に勧告する。セレスタイン魔法学院はいかなる獣人も平等に扱う、それが決まりだ。中立、中庸、正道、それが校訓だーーこの学校にも昔はちゃんと蛇人の生徒がいたんだ。みんなすばらしい魔術士だった。できることは精一杯させてもらう」

  「ありがとう存じます」

  「あのーー学院長。しかし、それはそれとして教えてほしいのですが」

  「ん? なんだい?」

  「ゆうべのあれのことです。アルジュナ・ユーレアイトの件」

  アイドクレーズが云い、シュバリスにも従者の考えがわかった。それもまたおおきな謎だった。いったいなぜアルジュナはあんな目にあったのだろう? アイドクレーズはほんとうに不思議そうな、子どもの無邪気さを前面に押し出した顔で首をかしげた。

  「アルジュナ・ユーレアイトはなぜ襲われたんです? 部屋に侵入してきた男に刺されたとアレクセイが云っていたんですがほんとうですか。ふたりからも事情を聞いたのですよね?」

  「話すとまた長くなる。しかし、あれが原因で君たちは厭な思いをしたから、少しは事情を知る権利があるな。それにその様子だと彼らについてあまりよく知らないんだね。ーーとなるとそこからだな。知っているものには公然の秘密、というか、あの子の身元はこの国じゃわりと有名なんだけどね」

  ユアンはすっと息を吸うと、

  「実はアルジュナ、アルジュナ・ハイドランジア・ユーレアイトは、ハダル・ハルシオン・セレスタインについで皇位継承権をもっている。彼もこの国の初代皇帝ハルトガルトの子孫にあたり、セレスタインの名を名乗る資格と可能性がある。あの子は[[rb:御双家 > ごそうけ]]の片割れ、ユーレアイト家の人間なんだ」

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