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[chapter:書架の森]
魔法都市はすっかり初夏の空気に包まれ、学院内部にも、みずみずしい若葉の萌えいずる勢いそのままの活発な空気がみちている。第三運動場はむせかえるような緑に囲まれ、今日も八角形のコートに威勢のいい声が響きわたっていた。
「走れ走れ走れ! なにやってる、そんなんじゃ、あっーーというまに当たるぞ! 潰されたくなきゃ走れ! 遅い!」
「守備は生半可な鍛え方じゃふっとぶからなー! おまえらや山だ岩だ、ぜったいその場を動くな、動いたら死ぬと思え!」
「サボるな、倒れるときは一面でも取ってから倒れろ! 気を失うのはひとりでも引きずり下ろしてから! あっ、ごるあああてめええそこで吐くんじゃねええ、よそで吐けえええ!」
魔法学院には、大手や中堅もあれば、幽霊部員ばかりで看板だけがむなしくぶらさがっている弱小まで、かなりの数のクラブがある。入学式が終わって一ヶ月、活動内容を吟味し終えた新入生たちは好みのクラブを見つけておおよそ入部し終わっており、この時期は初めての試合や発表で放課後が活気づくころだった。
ネットの張られたフィールドにいきなり放り込まれて目を回す新入生に、その外で走り込みをする[[rb:攻撃 > オフェンス]]チーム、筋トレに励みぶつかりあいをする[[rb:守備 > ディフェンス]]チーム。すべてにまんべんなく目を配り檄をとばすキャプテンを横目に、シュバリスはかたわらで仰向けに寝転ぶハダルにそっと声をかけた。
「ーーだいじょうぶ?」
「もう平気。ごめんね、いつもいつも」
「いいのよ。このために入れてもらえたのだもの」
シュバリスがシュラク通りの倉庫で足を取り戻し、ナイジェル・アベンチュリンがアルジュナ暗殺未遂および七柱廟侵入、聖遺物強奪の容疑者として手配されてから二週間が経っていた。ナイジェルはあの夜逃亡してからいっさいの消息を絶っている。残る右眼がどこに隠されているのか、彼が犯人なのかそうでないのか、より詳しい事情を聞く機会をなくしたシュバリスは、熟考のすえ、従者がいなくなって門番小屋でひとりぼっちになってしまったハダルを見守ることにした。ナイジェルが消えたいま、ハダルになにかあったとき彼を止められるのはじぶんだけだし、事件の真相がもし継承権に絡んだものだとしたら、ハダルのそばにいるのが真実を知る近道だと考えた。むろんハダルがハルトガルトにそっくりだから気にかかる、というのもあるーーが、ハダルの命を守るという点ではシュバリスはナイジェルに同調できた。
しかし、そばにいて見守るにしろハダルは六年生でシュバリスは一年生。五つも学年が離れていては授業のかぶりはひとつもない。おまけにハダルは寮生でもない。シュバリスがハダルの近くにいて不自然でない状況をつくるには、同じクラブに入るほかなかった。そうと理解するやいなやシュバリスはアイドクレーズの反対もアリアナの心配もおしきって[[rb:巣球部 > ネスボラ]]への入部を申請し、入部試験を受けた。キャプテンと顧問は、小柄で華奢で非力なシュバリスに選手の資質があるか疑わしい、と入部を却下しようとしたが、彼女が稀有な白魔法の使い手であることを知って最終的には許可してくれた。アルジュナを死の淵から救った実績が奏功した。キャプテンは彼女を回復専門の部員として受け入れたのだ。
「ネスボラはひじょうに怪我の多いスポーツでもあるんだ」
入部初日、シュバリスにむかって、キャプテンである七年生のタッカ・パザルジークは云った。
「肉体強化の魔法はネスボラでは使用禁止とされている。選手は純粋に己の体ひとつで試合に挑むことになる。ただし第二エンド終了時点で外傷のみ回復魔法の使用は許可されている。君は一年生だし最年少の十歳だから試合に出るのはむずかしい、ただし回復魔法はそこらの魔法使いにも劣らないときく。しばらくは回復専門の選手として活動してもらいたい」
「承知してます。わたしもそれで貢献できればと思いましたので」
「なら話は早い。ではとにかく、うちでいちばん怪我の多い選手を紹介しておくから、おもにこいつの世話を頼むーーハダル・ハルシオン!」
「はーい、初めまして!」
にこにことやってきたのがいきなりハダルだったので、シュバリスもあっけにとられたが、たしかにハダルは、この二週間つぶさにシュバリスが観察したところクラブの誰よりも怪我をする選手だった。呪いのせいで体をうまく動かせないこともあるのだろう、ネットから落ちる、色水入りの公式球を顔面で受け止める、なにもない場所で激しく転倒するなど「入部した時のほうが格段にうまかったよなあこいつは」と、事情を知らないキャプテンやチームメイトを嘆かせていた。
「こいつの代わりにレギュラーに入れようたって、今年は不作だし。何人かは突貫で仕上げるが、どいつもこいつも弱っちいのばっかり来ちまって参っちまう。アベンチュリンの末っ子はずいぶん勧誘したんだが、主人があっちだからってよりによって[[rb:騎竜部 > ライディド]]に入りやがった。ナイジェルはすごい選手だったしその前のテオドールも伝説だしアベンチュリンはみんなすごい。いい選手になると思ったんだがなあ」
そんなタッカのことばを思い出しながらシュバリスは森へと視線を送った。第三運動場を超えた森の上空で[[rb:小型飛竜 > ミニドラ]]が舞っている。セレスタイン魔法学院においてネスボラと同じく花形クラブであり、飛行タイムを競う竜レースや弓術や剣術、多彩なアクロバット飛行など、竜に騎乗して行われる競技はまとめ騎竜競技とよばれる。アルジュナとアレクセイ、そしてカレンら今年入った貴族階級の子弟は多くがそれらの競技を行う[[rb:騎竜部 > ライディド]]に入部していて、アルアレコンビ、と今では呼ばれている特待生主従は早くもスター選手として活躍を期待されているーーというのを、授業の合間にカレンが声高に話しているのでシュバリスも知っていた。
が、ともかくシュバリスは満を持して巣球部の一員となり「十秒でも目を離したが最後どこかを怪我している」ハダルの治療要員として、クラブで常に彼を見守る地位を獲得した。これは好都合だった。怪我の回復だけでなく、シュバリスは彼に、呪いを軽減する魔法を毎日こっそりかけつづけていた。足を取り戻したおかげで魔力が増え、そのぶんを日々ハダルの治癒魔法にまわすことができた。アイドクレーズは「とりもどした魔力のぶん大人に戻れるのに、なんでそっちの治療に使っちゃうんですか」とおかんむりだった。たしかにいまなら、ふたりして十五歳くらいにはなれるだろう。だが、いきなりふたりが大きくなったら不審がられてしまう。もうしばらく子どもの姿でいるのは当然だった。アイドクレーズもけっきょくは納得した。
そして今日もハダルは怪我をし、フィールドから離れた芝生の上でシュバリスの治療を受けていた。その後は体調不良を理由に寝転がったまま動かない。彼自身、思うようにいかない体で挑むネスボラに、入部当初の情熱を失っているようだった。初めて会ったときも怪我を理由に逃走していたが、こうミスや怪我が多いのではやんぬるかな、だった。彼は空を見上げてつぶやいた。
「いい天気だねえーー」
「ほんと、いいお天気ねえ。気持ちがいいわねえ」
「ああ……なんか今日もやる気なくなっちゃった。具合悪いていって家に帰っちゃおうかなあ。ね、君もうちに来ないかい[[rb:女神様 > ディーズ]]、お茶でもどう? あ、泊まってってもいいよ、ナジのベッドがまるまる空いてる」
「だめよ。キャプテンと寮母さんに怒られちゃう」
といいつつ、ハダルとこうしていると否が応でもハルトガルトとの幸福な日々を思い出すシュバリスだった。淡い初戀に胸を思い染めた日の、むずかゆいような心臓がきゅんと高鳴るような、妙に甘酸っぱい気持ちが胸に広がる。シュバリスはそっとため息をついた。萌え出ずる若葉を見上げて木陰でのんびり過ごすのは、誰かに心から必要とされているという充足感とあいまってひどく心地いい。ハダルもすっかりくつろいで、寝転がったままシュバリスの膝に片手をのせている。猫なら喉を鳴らしているだろう。そこへ「あのう」と声がかかった。見ると腕をおさえたクラスメイトが神妙な顔で立っていた。
「お、おれも怪我しちゃってーー治療してもらっていい、あの、よろしいでしょうか?」
「もちろん。いらっしゃい」
微笑みかけると少年は真っ赤になり、治療が終わると「ありがと」とそそくさと去っていった。蛇人のシュバリスを恐れているようでもあり、そばにぴったりくっついた皇子に遠慮しているようでもある。とはいえシュバリスに関してはキャプテンのタッカが「うちは実力主義だ。種族は関係ない、差別主義者はうちにいらない」と宣言したため、ネスボラにおいてシュバリスは公平な扱いを受けていた。その点ではネスボラに入部できたことは幸運だった。ハダルとのつながりだけでなく、仲よくしてくれる上級生や同級生もでき、なかには治癒魔法をシュバリスに教えて欲しい、とこっそり申し出てくれた生徒もいたからだ。
「やっぱり天使ーーだって」
「ん?」
「んーん、なんでもない」
寝転んでいたハダルが、目だけで先ほどの一年生を追ってくすりと笑う。シュバリスは首をひねり、ハダルが呟いた。
「ねえ。さぼりはしないにせよ、クラブ終わったら今日もうちに来るでしょ?」
最近は、クラブのあと門番小屋に寄ってお茶を飲んでいくのが習慣だ。ついでに小屋に結界を張ることにしている。侵入者やハダルに異変が起こった時にすぐわかるように。
だが今日は用事があった。
「ううん。今日はやめとく。このあと行くところがあるの」
「そっか。残念」
図書館に行くつもりだった。寮の南棟にも図書室があるが、学院内に独立して建つ図書館は、蔵書の数も質も寮とは比較にならない。
クラブを終えると、シュバリスはクラブハウス前でハダルと別れ、学院のもっとも奥まったところにある図書館を目指した。
セレスタイン魔法学院付属図書館は、校舎が建てられる前からこの地にあったという、築年不明の巨大な建物を利用した施設だ。建物本体は円筒形をしていて、天蓋は八角形のドーム型。内周をぐるぐると螺旋廊下と螺旋階段がとりまいて各階をつなぐ。天井まで書架で埋まった大ホールの壁には、ゆるやかな弧型に沿って閲覧室や学習室、研究用個室が僧房のようにくっついている。シュバリスがここに来るのは、入学後すぐに行われた施設見学ツアー以来だった。まずは皇帝家の「盾の上にS」の紋章を中心に、周囲に分家の家紋が浮き彫りにされた真鍮の大扉を抜け、広々としたエントランスホールを過ぎ、マーブル大理石の石柱の門をくぐって内部に踏み込む。書物が放つ独特の黴と埃のにおいが鼻をくすぐるーー八角形の中心から吊りさがった巨大なシャンデリアが絞られた光量であたりを照らしている。
(あのときナイジェルが云ってたことーー)
ソネット、ビリティスD11。そう口にしたときのひどく真剣な表情と「思い違いをしていた」ということばが気になっていた。事情聴取から解放された翌日シュバリスは「ソネット、ビリティスD11」についてアリアナに訊ねた。アリアナは最初、「ソネット? ビリティス?」と首をかしげていたが、やがて思い当たったようにうなずいた。
「[[rb:十四行詩 > ソネット]]ね。それにビリティスはあのビリティス? 文学研究者の?」
「有名なの? えっと、どういう意味か知りたいのだけど教えてくれる? その、ソネットとビリティスとD11、それっていったいなに?」
「ソネットっていうのは詩の形式のことね。ビリティスっていうのは人の名前。さっき云ったとおり昔の文学研究者で、D11っていうのはわたしもいまいちよくわからないけれど、そのビリティスが古いソネットを分類して番号をわりふった、その番号がD11なんでしょう。D11ってよばれてる十四行詩があるのよ」
さすがアリアナだ。感心しながら、シュバリスはさらに訊ねた。
「じゃあ、ソネット、ビリティスD11っていうのは特定の詩をさしているのね。誰のなんていう詩かわかる?」
「ハルトガルト」
「えっ?」
「ビリティスが分類したのならハルトガルトの作品でしょう、まちがいなく」
ハルトガルトは執務のかたわらいくつかの詩や散文を残しており、ビリティスはおもに初代皇帝ハルトガルトの著作を研究していた。なかには[[rb:十四行詩 > ソネット]]も含まれ、それが「ハルトガルトのソネット」として知られているのだ、そうアリアナは記憶をひっぱりだして解説してくれた。
「ハルトガルトの詩は、抜粋されたものがいくつか小学校の教科書にも載ってる、だからわたしたちの年代ならたいていひとつは知ってるわ。でもD11なんてぜんぜん聞いたことないからマイナー詩でしょうね。ハルトガルト本人も題名をつけてなかったから、ビリティスが分類上番号だけをわりふってそうよばれてるのよ」
「そうなの……」
ナイジェルがそう口にしたということは、シュバリスにD11を読めといっているのだろうか。それでなにかをシュバリスに伝えたかったのだろうか?
「その、ソネットのD11っていうの、どこに行けば読めるかしら。本屋さんに売ってる?」
「買わなくても、図書館に行けば全文の載った本があるわよ。この学院のことだからビリティスの解説書や研究書もきっとある。ねえ、来週の水曜日は写本研究会で図書館にいるから、クラブのあとなら、よければいっしょに探してあげましょうか」
シュバリスはありがたく親友の申し出を受けることにした。だが、今日は研究会も盛り上がっているらしく、ホールに隣接する会議室の扉にはまだ「写本研究会 使用中」の札がかかっていた。アリアナを待つあいだ、シュバリスは巨大な書架のあいだをゆっくりと歩いた。北側に行くにつれてシャンデリアから遠ざかり、だんだん薄暗く、気温も低くなる。もっとも北の「神話、伝承、伝説」の棚には、背表紙のない二つ折り、三つ折りの古書や写本、三方金を施された書物が収められ、一部資料は展示のみとして厳重にガラスケースに収められていた。濃くなりゆく古紙の匂いにくしゃみをひとつして折り返し、「地理、地図」「社会、経済」などの棚の前を通過する。とーー親しんだ気配に振り返ると、「地理、地図」の棚にアイドクレーズがすべりこんだところだった。
「アリアナはまだみたい。わたしたちだけでまずは探してみる?」
「ええ。ですが、探すだけで一苦労ですよこれは」
「そうね。すごい量ね」
大量の書物が、ふたりの知らない「歴史」そのものと化して主従を包囲している。シュバリスは首をかしげた。
「ここにある本ぜんぶ読んだら、この千年間のことぜんぶわかるかしらね。眠っていたあいだのことぜんぶ」
「さあ。どうでしょうねえ……」
ふたりはなんとなく肩をよせあい、そっけないことばと裏腹にアイドクレーズはシュバリスの手をつよく握りしめた。
「とにかく、ここまできた以上前に進まなくては。ーーでしょう?」
「ええ。そうね」
ユアンが黒幕かもしれないと知って、ふたりはこれから先の身の処し方について再考せざるを得なくなった。ナイジェルが提示したユアン・カルセドニー真犯人説はそれほどの衝撃だった。ユアンがシュバリスを襲いほかの廟にも侵入した、あまつさえハダルの魔力も奪った犯人なら、事態はシュバリスたちが思っているよりずっと重大で深刻だということになる。
「ハルトガルトのソネット、ね。まさかあのひとが詩なんて芸術的な趣味をもってたなんて、いったいどんなものを書き残したのかしら。当時はそんなに文才のあるひとだとも思わなかったけど」
「まあ皇帝になっちゃえば、人生のいっさいがっさいが掘り起こされて、発言から行動から個人的な日記まで研究され尽くすものでしょうからね。まして詩なんてかっこうの研究材料でしょう。ハルトに文才、なかったんですか?」
「なかったと思うけど……。別れたあとにそういう文化的なことをはじめたのかもしれないし。魔法や体術はすごかったけどね」
シュバリース! と笑顔で駆けてくるハルトガルトの姿をシュバリスは脳裏に呼び起こした。空まで届きそうなほど高くシュバリスを抱き上げてぐるぐるまわした力強い腕や、仲間がひるんでしまいそうなほどおどろおどろしい場所でも真っ先に足を踏み込んでいく恐れ知らずの足、跪いて彼女を見上げたときの真剣な眼差し。いつか彼がしてくれたサプライズを、ふとシュバリスは思い出した。目隠しをされて引っ張って行かれ、「ほら」と分厚い手が外されたとき、目の前には一面、満開の花に彩られた景色が広がっていた。あの花はなんだったかーー
そんなことを思い出しているうちに司書のいる受付の前へ戻ってきた。「なにかお探しですか?」と中年の女性司書が笑う。どのみちじぶんたちでは探しだせない。シュバリスは「ハルトガルトのソネットを」と告げた。
「ビリティスD11を探しているのですが」
その瞬間、女性はひどく表情を歪めた。
[newpage]
[chapter:復讐の女神]
「D11?」
女性司書は険しい顔で首をかしげた。
「ハルトガルトのソネットの?」
「はい。探しているのですが」
「少々お待ちください」
立ち上がり、後方の事務室へ消えた司書は、出てきたときにはかなり年配の司書といっしょで、彼女は年下の司書にかわって受付に置かれたクリスタルに手を伸ばすと「まちがいなくハルトガルトのソネットのD11を探しているのね? ほんとうに?」と、ふたりを探るように見つめた。
「代理申請はだめよ」
「代理ではありません、たしかにD11を探しています。もしあるのなら拝見したいのですがこちらには所蔵されていないのでしょうか。それともなにか特殊な本だったりするので?」
「所蔵されていますしごく普通の一般書ですよ。[[rb:原本 > オリジナル]]は[[rb:魔書 > グリモア]]に指定されているので禁帯出、最北で展示のみとなっていますが……ただ一般書でもあまりD11収録版を借りようというひとはいません、あなたがたのような低学年の生徒さんにはなかなか刺激が強いしろものですから。いったい誰が教えたのやら」
「ーー初代皇帝は世にもいやらしい卑猥なソネットでも書いちゃったんでしょうか、司書が下級生に貸し渋るような」
「違います」
アイドクレーズがこっそりシュバリスに耳打ちしたのを聞き逃さず、白髪交じりの女性司書はじろりとふたりをにらんだ。
「いたずらに怖がらせたくないだけです。わたしが子どもの頃は、あんまり悪さが過ぎるとあのソネットのとおりになりますよ、なんて親に脅かされたものですよ。ーーまあいいわ、D11が収録されたものはいくつかありますけどどれがいいの?」
「いちばん古いのを」
「最古のD11は原本です、今も申し上げましたが貸し出しも閲覧もできません。それ以後だとーーこちらではいかが?」
女性がクリスタルをふたりに押しだす。そのとき会議室のドアが開き、しわがれた声が響いた。
「D11だって? いまD11といったか、ハルトガルトのソネットの?」
視線をスライドさせると、白い頭髪に白いひげをたくわえた老人が立っていた。シュバリスは「ひゃっ」とアイドクレーズの後ろに隠れた。彼はバザルスという名の魔法史の教官で、入試のとき第六組の試験官だった。そしていまではシュバリスの不倶戴天の敵でもあった。学校生活がはじまってはっきりわかったが、彼はアリアナが見抜いた通りセオリー重視の教官で、教科書から外れた魔法を使うシュバリスをこころよく思っていなかった。シュバリスの入学を許し、特待生に強く推してくれたのはユアンはじめ若い試験官たちだったが、彼はシュバリスの特待生選出にも、そもそも合格させることさえ強硬に反対したそうだったし、れっきとした学者でもありながら「蛇神シュバリス娼婦説」の信奉者だった。とうぜん蛇人蔑視も烈しく、シュバリスが蛇人族だとわかってからはさらに厳しくシュバリスにあたるようになった。授業はもちろん、たんに廊下や中庭で行きあっただけでも必ずひとことは厭味をくらわせてくる。いまでは彼を見るだけでシュバリスは萎縮してしまうのだが、バザルスは今日も今日とてシュバリスに容赦しなかった。
「そんなものを読んで何をする気かね、またなにか学院を恐慌に陥れるような悪さをたくらんでいるのかね? このあいだの騒ぎだけであきたらず?」
「そ、そんなことはございませんけれどもぉ……もごもごもご」
同輩の命を救ったことでさえ天魔悪鬼のごとき所業と彼は思うらしい。学生たちの嫌味や嫌がらせは耐えられるが、年季の入った彼の嫌味や氷のような態度だけはどうにも慣れないシュバリスだった。
「シュバリス!」
ふと声が響いた。会議室のドアからアリアナが姿を現す。バザルスは写本研究会の顧問で彼女は部員だ。バザルスはアリアナに「ノヴェレッテン」と視線をふりむけたが、頑迷な表情は一転、まるで孫娘でもみるようだった。体を斜めにして紳士的にアリアナを通した。
バザルスは成績優秀なアリアナを気に入っている。そのためシュバリスが彼女の友人であることをこころよく思っていなかった。「友だちは選ぶべきだ」とアリアナに強い口調で注意しているのを、これまでシュバリスはなんどか目撃した。バザルスはアリアナにむかって今日もはっきりと「君のような優秀な学生が、このように道を外れた蛇人の子とともにいるのは感心しないねノヴェレッテン」と眉間にしわをよせた。
「悪いことはいわないから早く関係を絶ってふさわしい学友と研鑽を積みなさい。誰にでも優しいのは結構だが、相手を間違うとたいへんなことになるよ」
「彼女とは、同じエイシャの出でほとんど同郷なのですわバザルス教官。ご忠告だけありがたくちょうだいしておきます。実はこのあと調べ物をしたくて、手伝ってもらおうと思ってわたくしがこちらへ呼びましたの」
「君が頼んだのか。ならばよいが、知りたいことがあるならわたしに聞いたほうが確実だよ。これからしばらく閲覧室にいるから、なにかあったら遠慮なく来るといい。あの子にいじめられたらすぐに云うんだよ」
「ありがとう存じます」
バザルスは許可証を司書に提示して閲覧室に消えた。シュバリスはため息をつき、アイドクレーズが「いじめてんのはおまえだろっ」と舌を出す。アリアナは困ったように微笑んだ。
「バザルス教官は、写本の扱いや古文書の解読に関しては右に出る方はいないのだけれど、あなたへの態度だけはいただけないわね……ごめんね、待った?」
「ううん。先に本の場所を探しておこうと思ったんだけど、タイミングが悪かったみたいね」
たまさか研究会に所属する生徒たちがぞろぞろと会議室から出てきて、シュバリスたちの後ろを通り過ぎていった。バザルスに心酔するあまり蛇人への偏見まで受け継いでいる生徒もいて、彼らはそろってシュバリスに敵意のこもった視線をむけて立ち去った。それにもアイドクレーズは悪態をついた。
「まちがった歴史の上にまちがった歴史観を重ねて歴史家ぶってちゃざまあないや。いまに見てろ。けっ」
「まあまあ。それで本は? もう探してもらった?」
「いま場所を聞くとこ」
女性司書が「あそこよ」と、魔晶を掲げて書架の方を指差した。書架には魔晶を嵌めこんだプレートが設置されており、受付と連動してめあての書物の位置をガイドしてくれる。「詩・散文」の棚が青い光を放っていた。
三人は棚から本を取り、じっくり読むために閲覧室に入った。いちばん奥の席をすでにバザルスが占拠していた。書見台に写本を載せてなにか熱心にメモをとる彼の席からいちばん遠い反対側の壁際の席を選んで、三人は並んで座った。閲覧室にはほかにも上級生や教官の姿があったが、紙をペンがこする音と本のページがめくられる音以外はなんの物音もしない。静謐のなか、豪華な装飾と装丁を施された大型本を三人は開いた。
(司書さんや教官がああまで反応するって、いったいどういう詩なのかしらねえ)
ナイジェルが口にしたというだけでもうじゅうぶん剣呑なのだが、D11とはいかなる作品なのか。彼がそう云ったということは、そこになにか一連の事件を解決するヒントでもあるのか。どきどきするシュバリスの目の前に、活版印刷特有の古めかしい書体で「Dー11」と記されたページが現れた。
「あった、これだわ。わたしも読むのははじめて。えーとーー」
アリアナの細い指が文字列を示す。シュバリスも視線を落とした。
『
大いなる痛みと悲しみをだいて
彼女はふたたび地上に現れる
愛していたものをすべて奪われて
震える瞳は欠けた己を探している
彼女は神がぼくにくれた光だった
しかしそれは歪められ やがて消失に飲み込まれた
長いときを経てぼくは思い知った
彼女を旧世界とともに滅ぼすべきだった しかしもう遅い 戦いの火蓋はきられた
慰めと償いに血の花束を贈ろう それはいつか君が受け取る成果 君の眼に咲く約束の印
失われた時間が終わり ふたたび混迷がはじまる
救済か あるいは復讐の女神か まだ遠い春の兆し
すべての扉が開かれたならふたたび相見えん いつか溝も埋まる
しかばねの上にこの世界は成った 次もまたそうなる
そしてすべての因果を滅せば はじめて 世界は平穏になる 』
「ーー、」
シュバリスの頭の中で、めまぐるしく思考が渦をまいた。
(最初の四行。ふたたび地上に現れる、欠けた己を探している? これはまるで、いまのわたしの置かれた状況を指してるみたい)
(てことは、これはハルトガルトの予言……?)
「……この、D11と番号を振られたソネットは」
ついでにとってきた解説書を開いて、アリアナが横から小さく読み上げた。
「別名を『[[rb:黙示的十四行詩 > ソネット・アポカリプス]]』といわれる。あるいは単に『ハルトガルトの予言詩』『終末の予言詩』『復讐の女神の再来の詩』と称される」
「復讐の女神の再来の詩ーー?」
ナイジェルはシュバリスに「君には復讐の動機がある」と云った。もっというなら、シュバリスがハダルに接触したのは復讐するためだと思い込んでいたようだった。ということはこれが元ネタなのだろうか。ナイジェルはこれを読んでシュバリスが復讐の女神だと思い込んだのかーーだがしょせんはたんなる詩、しかも千年前の作品だ。こんなものに影響されるだろうか? それに、ここに書かれている「女神」がじぶんだと思うのはあまりにも自惚れが過ぎる、かもしれない。
わけがわからずシュバリスが首をかしげるあいだ、アリアナが解説書をさらに読み進めていた。
「一説にはハルトガルトは複数の固有魔法をもっていたといわれている。通常、一般的な魔法使いは先天的に[[rb:固有魔法 > マジック]]と呼ばれるほかときわだって強力で個性的な魔法を有しており、たいてい一つか二つしかもたないがハルトガルトは二つか三つ、あるいはそれ以上のマジックを有していたと思われる。そして現在、彼のマジックのうちひとつは『きわめて精確な未来予知および透視能力』で間違いなく、Dー11はハルトガルトが生涯に残した他の詩や散文と大きく趣を異にすることから、ハルトガルトが予知した未来について著されたのではないかといわれているーー」
たしかにハルトガルトには予知能力があった。戦闘のときなど、危険を事前に察知して動くことも多かった。予知はとつぜんやってくる突発的なもので安定した能力とはいいがたかったが、付随して透視能力も発揮して絶大な効果をもたらした。そのマジックはいまも彼の血を通して受け継がれ、ハダルに遺伝しているようだがーー
シュバリスが考え込むあいだにもアリアナの声が続けた。
「他の詩や散文が、ハルトガルトの妻や子や親しい従者に捧げられたものであるのと違い、D−11は誰にも捧げられなかった詩として長らく見過ごされてきた。また、抽象的で思わせぶりな、どこか終末を予想させる仄暗い作品であることから、明朗快活で知られる初代皇帝らしからぬと云われ、後世の偽作であり筆記者によってあやまって写本に入れられた作品と思われていた。が、帝歴488年、皇帝家が所持する施設で火事が起こったさい地下倉庫より運び出された櫃のなかからそれまで未発見のハルトガルト直筆の散文や手紙類が発見され、そこにD−11の草稿も含まれていた。筆跡から間違いなく初代皇帝の作と断定され、以後研究者によってさかんにD−11は分析、解読されてきたが、このソネットがなにを示すかはいまだ明らかにされていない。だが一般的にこの作品に出てくる『彼女』とは、ハルトガルトとともに戦った蛇神シュバリスであり、シュバリスとの決裂により起こった仲間割れ、それに続くシュバリスの邪悪さの発見ーー蛇人族が、みずからの種族神であるシュバリスを貶められたばかりか固有の土地を奪われた恨みの果てに、ついに帝国に対し叛旗をひるがえしいつの日か蜂起する、それによって起こる世界戦争を示唆しているのではないかと云われているーー、」
アリアナがことばを詰まらせた。シュバリスもぽかんとした。なんだか雲ゆきがあやしくなってきた。
「それゆえ、近年この詩は蛇神シュバリスの復讐を恐れたハルトガルトが、きたるべき帝国の危機を子孫に伝えようと書き残したものではないかといわれている。自身を邪悪であると指摘し帝都を追放した初代皇帝へ復讐するため、蛇神シュバリスは蛇人族にひそかに帝国打倒の意志を伝えていたのだ。時を経て、その命を継承した蛇人族がいずれ帝国全土を荒廃に帰させるとハルトガルトは予知した。たまさか現代においては蛇人族により反帝国組織が結成され、各地で騒乱をもたらしている。組織がいずれ軍隊へと発展して騎士団と衝突、大規模な闘争へ発展し、世界を滅ぼす戦をもたらす、この詩はそれを阻止するため遺されたものであるかもしれないと一部では危惧されているーーえええっ」
アリアナがとうとう解説書を放り出した。
「なにこれ、初耳っーー」
「あまりに不気味かつ不穏な内容なので、いまではD-11は、ハルトガルトの作品集からほとんど除外されている」
遠くから声が上がった。静かにしなさい、という注意も含んだ視線でバザルスが三人を見つめていた。
「蛇人が忌むべき職業につき、犯罪に手を染めているから差別されているわけではない、彼らは差別を受けて当然の存在なのだ。ある年代から上のものならいちどはこの詩について聞いたことがある。さよう、D11に初代皇帝が書き残している通り、シュバリスはほんとうに邪悪だったし、現代においても邪悪なる神にほかならない。そして蛇神シュバリスを信奉する蛇人どもは帝国の平和を脅かす存在だ。反帝国組織しかり、花街など運営して各地の風俗を乱していることしかり」
「ーー、」
「最後に書かれているだろう? そしてすべての因果を滅せば、はじめて世界は平穏になるーー原因である蛇人を滅ぼしてはじめて帝国は平和を迎える、そういう意味だ」
「そんなばかなことがありますかね」
烈しく云いかえしたのはアイドクレーズだった。
「もしそうなるとしたら自業自得でしょ。[[rb:蛇人族 > アンギス]]が蜂起し、他の種族、人間、あるいは帝国そのものに武力をもって挑むとしたら、それは人間やほかの獣人族が蛇人を迫害したとうぜんの帰結でしょう。みずからの行為を恥じ、蛇人に謝罪し、同格に扱うことこそが急務であり唯一の救いの道だ。そして蛇神シュバリスの名誉を回復させることが」
「違う。蛇はそもそも太古の昔から邪悪の象徴だった。暗黒時代以前の宗教でも蛇は邪悪とされた、人を誘惑する存在で蛇人はその化身だと昔から決まっている。そうした証拠は各地の遺跡からも出土している。歴史が証明している。蛇人は邪悪な存在なのだ。その神であるシュバリスも、毒婦で、娼婦だ」
「ちがう。シュバリスは娼婦ではなかった。彼女はハルトガルトの恋人だった」
アイドクレーズが高らかに宣言したとたん、閲覧室にいた他の生徒と教官がいっせいに頭をあげた。知らんぷりをしていてもちゃんとやりとりは耳に入っていたのだ。
「ではなぜハルトガルト本人がこのように書き残すのだ?」
とうとうバザルスも席を立った。売るなら買うといわんばかりにアイドクレーズも椅子を蹴って立つ。閲覧室の端と端で、両者は互いに一歩もひかず対峙していた。
[newpage]
[chapter:愛の証明]
(おおおおおう……なにこの状況)
シュバリスはアリアナとともに息を呑んでいた。アイドクレーズは意外と喧嘩っ早い。シュバリスが滅多に怒らないからかわりに、というわけではないだろうが、基本的に短気ですぐに手が出る。
バザルスが云った。
「復讐の女神、とはっきりとハルトガルトは記しているではないか。シュバリスがいずれ己が一族たる蛇人族に皇帝の子孫を攻撃させると、この詩は暗示しているのだ。だからこそシュバリスはこの詩で復讐の女神と呼ばれている。シュバリスはハルトガルトを誘惑し七柱に加えさせたが、のちにハルトガルトは彼女との関係を悔いた。だからこそすでに七柱として彼女の名が広まってしまったこと、それをじぶんは決して認めていない、むしろ撤回したい、そう後世に伝えるためにD11を書き遺したのだ」
「当時のことをじっさいに知りもしないくせになにをぬけぬけと。憶測でものをいうのもたいがいにしていただきたい、あなたが伝え聞いた歴史はそうかもしれませんがわたしが聞いた歴史はそうじゃありません。シュバリスはハルトガルトのれっきとした恋人でパートナーだったんです。復讐の女神じゃない、この詩にも書いてあるじゃないですか、救済の女神と。シュバリスはひとびとを救済する防御と治癒の女神だった。だがハルトガルトは戦いのあいだ彼女を利用するだけ利用して捨てたんだ。だからそのことに罪悪感をおぼえ、彼女を悪者にすることでじぶんを正当化しようとした。この詩の『彼女』がシュバリスならおおかたそんなところでしょう」
「防御と治癒の女神? ばかな、シュバリスにはそんなご大層な能力はなかった。ふん、よろしい認めよう、一時期彼女がハルトガルトの恋人であったことは間違いないと云われている、だがシュバリスのマジックは人を誘惑し意のままに操るものだった。彼女はそのマジックでハルトガルトに取り入り、他の五柱の[[rb:獣人 > フェラム]]をも魅了した、恐るべきたくらみのためにーーエウレシアが統一されたあかつきには、じぶんを功労者として蛇人族に便宜をはからせ、建国者の一族として悪徳の栄えをなすためだ。しかし偉大な皇帝ハルトガルトは、のちにそのことにちゃんと気づいた。初代皇帝は、正当かつ純粋な愛の力によってシュバリスのもたらす淫蕩な悪夢から目を覚ましたのだ」
「愛の力あー?」
ばかばかしい、というようにアイドクレーズはあざ笑い、しかしバザルスは真剣だった。
「初代皇妃ドーリスの力によってだ。君の云った防御と治癒の女神とは彼女のこと、彼女の能力だ。ドーリスはハルトガルトの副官として仕え、長きにわたって彼を支えた女性だ。治癒と防御に特化したマジックと誠実な性格、そして美しさに嫉妬したシュバリスから排除されかかっていたが、そのときようやくハルトガルトはドーリスの献身に気づいたのだ。そしてシュバリスではなく最後は彼女を妻に迎えた」
「……はあーん?」
ドーリスなんて初耳ですが、という顔でアイドクレーズがシュバリスを振り返る。シュバリスは頭と手を小さく横に振った。それは彼女にとってもまったく覚えのない名前ーー
「ドーリス。……ドーリス?」
ではなかった。はてな? とシュバリスは首をひねった。
(初代皇妃、てことは、その子がハルトガルトと結婚した女の子。彼が最終的に選んだ人間の女の子ーーそういえばドーリスって名だっけ?)
ふとシュバリスの脳裏でなにかがつながった。
(ああ、そうだ、彼女だわ。いつも彼の後ろにいて、じっとわたしたちを見つめていたドーリス)
シュバリスはあっと声をあげそうになった。蛇人たちの置かれている状況や自分の評判について学院長室で知ったとき、「ほんとうはじぶんはハルトガルトの娼婦で思い出を美化していたのかもしれない」と思ったが、それはかつてじっさいに「売女」と罵倒された経験があったからだ。
(そうだーーわたしを最初にそう呼んだのは彼女だった。ドーリスだわ)
『あなたはハルトガルトにふさわしくない。別れてーー出て行って。彼はわたしのものなの、それが正しいことなの。あなたはその頑固さで蛇人たちをも裏切っているのよ。あなたは売女よーーそうよ、あなたは穢らわしい娼婦よ! 一族の裏切り者!』
(ドーリスーーそうだ、あれはドーリスだった。わたしにそう叫んでいたのは……)
瞬間、記憶という名の大きな岩がぼろりと忘却の崖から剥がれてシュバリスの手の届く場所に転がり落ちてきた。
ハルトガルトとシュバリスを含めた七人が、エウレシア統一を掲げて各地を転戦していた時代。彼らが城や領地を統合していくにつれ、ハルトガルト率いる軍や民は数を増し、彼自身の名声も各地に伝播していった。獣人と人間とを優れた手腕とカリスマでまとめあげるハルトガルトは英雄視され、彼の恋人になりたい、愛されたいと夢見る女の子が各地であとをたたなかった。ドーリスもそのひとりだった。彼女はハルトガルトの評判を聞いて中途から軍に加わり、あこがれだけでなく実務的な手腕をそなえていたためにハルトガルトの副官にまでのぼりつめた地方の小領主の娘だった。建国末期には戦場でつねに彼に寄り添い、私生活では熱っぽい目でハルトガルトを見つめていた。そしていつからか、シュバリスではなく自分こそハルトガルトにふさわしいと彼女は考えるようになった。
つきまとう彼女の、どこかぴりぴりとしたものを含んだ視線を、ことのほかつよく感じ始めたのはいつからだっただろう。シュバリスが治癒と防御に徹し、ふだんは居城で家事を担当しほかの六人の家族の面倒を見ていることを、ドーリスは最初からこころよく思っていなかった。ひとりだけ戦場に出ず安全な場所で待機していること、ハルトガルトがそれを許可していることーーハルトガルトに露骨に贔屓されていたシュバリスをドーリスは非難し、同時にひどく妬んだ。そしていよいよ帝国建国が確実となったとき、彼女の嫉妬と恨みは爆発した。彼女と彼女の一族がシュバリスにむけた敵意は、シュバリスにはすさまじい脅威となった。ひそかに恫喝され危害を加えられること数回、おおっぴらに罵倒されること数回。そのたびに他の五人やハルトガルト自身が助けてくれたし彼女自身も戦ったが、騒動はいっこうにやまなかった。そしていつからかシュバリスは彼らの攻撃に耐えられなくなったのだーー自分への恫喝や乱暴は平気だったしやりすごすことができた。しかしやがて彼女の嫉妬は、彼女の敵意はーー
(あーー)
『人間が獣人を作った。そして人間は獣人たちより数が多い。ぼくらは勝った。たしかに勝った。だが、どうしても壁を壊せない。溝を埋められない』
けっきょくハルトガルトとシュバリスが別れることになったのはーー
「ーーシュバリスさま、」
おのれの考えにうちしずむシュバリスを、困惑顔でアイドクレーズが見つめていた。二人がじぶんの指摘でぐうの音もでなくなったと思ったのだろう、バザルスが勝ち誇ったように云った。
「どこでそんな歪曲された歴史を吹き込まれたのだおまえたちは? 蛇神シュバリスのほうが治癒と防御の女神だなどと、とんでもない嘘を。それはハルトガルトに選ばれた皇妃に嫉妬して、蛇人どもが生み出した大噓だ。捏造もはなはだしい」
「そんなことはーー」
「そんなことはありませんでしたわよ?」
ついにシュバリスは頭をあげ、バザルスにむかって告げていた。
「シュバリスはハルトガルトの恋人でしたし、治癒も防御もドーリスではなく彼女の力でした。エウレシア統一にいたる戦乱の初期から最後まで、ハルトガルトのそばでその力を発揮したのはわーーシュバリスでした」
シュバリスの占めていた地位を逐ってハルトガルトの妻の座におさまったドーリスは、彼女からハルトガルトだけでなく彼女の功績を奪い、まるごと己のものとしてしまったのだ。蛇神シュバリスの能力も人物像も、ほかの六人に比べて段違いに世間に知られていないわけは、ひとつにはドーリスが原因でもあったのだ。そしていまこそシュバリスは確信したーーハルトガルトはシュバリスと別れたくて別れたのではなく別れざるをえなかったのだ。
それはなぜかというとーー
「ほう」
バザルスが面白そうに笑った。
「従者に任せきりかと思ったが、とうとう自ら口を開くかシュバリス・イスラメイ。いいだろう。ではそう考える根拠を話していただこう。蛇神シュバリスが君のいうとおり治癒と防御の力をもつ清廉な女性だったとしよう。だとしたらハルトガルトはなぜ彼女を捨ててこんな詩を残したのだ? 妻への愛を誓う詩はごまんとある、ハルトガルトはそのなかでドーリスを星にたとえ月にたとえ太陽にたとえ、ことあるごとに褒めそやしている。なのにシュバリスを回想する詩はこれひとつだけ、しかもこのように不気味で陰惨なものだ。たとえ彼女がまっとうな恋人であったとしても最終的に初代皇帝が選び、愛し、子孫を残したのはドーリスだった。それこそが答じゃないのかね?」
「それはーー」
「どちらにしろハルトガルトとシュバリスが別れたのは、シュバリスに邪な気持ちがあり、それにハルトガルトが気づいたからだ。そしてシュバリスはハルトガルトに復讐しようとしていた。そうしてもおかしくない嫉妬に狂った女神だったのだ、D11に書いてあるとおり」
「嫉妬ーー復讐?」
(わたしはドーリスに嫉妬した? 復讐しようとしてる? いいえーー)
「嫉妬なんかしてないわ。復讐もしない。そんな必要はなかった。だって彼と別れたのはそんな理由じゃなかった」
ただただ悲しい胸を焼くような痛みと燃えたぎる苦しみ。すくなくともあのときドーリスごときの存在はささいなことだった。
(好きだったから別れたのよ。ずっとみんなで仲良く静かに暮らしたかったけど、叶わないとわかったから)
(だからそのあと彼がドーリスを選んで、ふたりのあいだに子どもが生まれて、彼がいつかわたしではなくドーリスを心から愛するようになったとしても、わたしは復讐なんかしない)
(だってーー)
「復讐すべきことなんてなにもなかった。わたしーーいえ、蛇神シュバリスはハルトガルトを愛していた。なにもかも奪われたとしてもそれだけは変わらない、千年経った今もずっと。だからーーだかーー、っ?」
ふいに遠くから硬質な乾いた音が上がり、すさまじい女性の悲鳴が響きわたった。シュバリスはことばをきり、バザルスはいぶかしげにシュバリスを見つめていたが、遠くから引き続く異様な物音に「なんだ?」と閲覧室からホールへ続くドアへ向き直った。ほかの観客たちもそれに倣った。
「えっーー?」
「うわわわわ」
「あ、危ないっーー」
ふいに閲覧室全体が、見えない巨人の手で掴まれてゆさぶられたかのように盛大に揺れた。
「じ、地震?」
「伏せろ! 伏せろ!」
アリアナもアイドクレーズも「はやく」とシュバリスを両側から抱えるようにして伏せさせようとした。しかしシュバリスは目を丸くしてあたりを見渡していた。
「魔法ーー?」
強い魔法の気配がした。どこか胸をざわめかせるような、懐かしいような恐ろしいような魔力の波が閲覧室の外から迫ってくる。バザルスもさすが熟練の教官だけあって気づいた。「なんだ」と机にたてかけていた杖をさっと取り上げた。とーーすさまじい音を立てて閲覧室のドアが開き、一陣の風が吹き込んだ。押し寄せる魔法の光が稲妻のごとき火花となってあたりに散る。風は黒く青く、金銀のきらめきをこぼしている。渦の中心には光り輝くなにかがあった。目の前で静止したその物体に目をこらしてシュバリスは首をかしげたーー小さな木の板だ。きらきら光ってぷかぷか浮いている。一連の魔法はこの木の板が発しているらしいがいかなる魔具か、そうシュバリスは怪訝に思ったが、こんなに魔具らしくないものも初めてだった。バザルスもぎょっとしているーー邪悪な気配は感じないけどいったい、と、シュバリスがぽかんと見守っていると、なんとーー
『ヒサシーーブリーー』
木の板が喋った。
「えっーーえっ?」
シュバリスは思わずあたりを見渡した。しかし、声はたしか木の板から聞こえており、他に誰もことばを発しているものはいない。シュバリスは目をまんまるにしながら首をかしげた。
「あーーえっとーー?」
わたしに云ってるの? ととっさに訊ねると、板はちょっとシュバリスにむかって傾斜、もとい、うなずいた。シュバリスにはそう見えた。
『そうです、おひさしぶりですシュバリス』
「あ、はい。えっとーー」
『この魔法は時間が経つにつれ力が弱くなります』
「はあ」
『なので、千年も経つといかなぼくとはいえちゃんと伝えられる自信がないのですが、とにかくなんとかこうして意識の一部を移しています。だからこれはぼくの一部ーーえっと、だいじょうぶだろうか? ちゃんと聞こえていますか?』
「あ、はい。ぎりぎりってところ? なんとか聞こえます、はい」
どきどきしつつシュバリスがとっさに答えると本が笑った。ーー笑った? シュバリスはますます胸をどきつかせた。
『よかった。あのねシュバリス、君と別れてからというものぼくはずっと不安だったよ。君とあんなふうに別れたことをとても悔いていた。そのことで君がぼくを恨んだりしなきゃいいなって思ってた。それにぼくも君を恨んだりしてないから安心して、こうして千年たってもぼくは君を愛してるままだから。ーーぼくらの選択は正しかったよシュバリス」
「そう、なの? えっと、ありがとう」
「こちらこそ。ありがとう、ぼくも君を愛してる。よかった、もういちど伝えられた。また会えてよかった」
「ハルトーー」
疑いはなかった。そこにいるのはハルトガルトだった。彼は云った。
『だから訂正する。いまこそぼくは、本来なら君に捧げるはずだったものを贈るよシュバリス。もう誰の眼もあざむく必要はない、嘘をつく必要もないんだ。千年たってようやく堂々と愛してると伝えることができるーーだからどうか受け取ってシュバリス』
「えーーわわわわわっ……」
ふいに木の板がはじけた。よく見るとただの木の板ではなく、二つ折りの板のあいだに何枚もの紙が挟まっていた。板どうしを結びあわせる紐が切れて中身が空中に舞う。収められていた古紙はそのままページ順に空中でずらりと整列した。紙は[[rb:楮 > コウゾ]]という植物を煮てその繊維を薄く重ねたもので、かつてハルトガルトが軍に戦闘命令や撤退命令などを出すときに使っていたものだとシュバリスは見て取った。千年近く経ってだいぶくたびれてはいるが、そこに墨で文字が書き連ねられているーー
「え? あーーあらららっ……」
ふいに、その文字が発光して紙から抜け出した。光る文字はまるでそれ自体に意思があるかのように空中を漂ってシュバリスのほうへやってくる。やがてシュバリスにまとわりつき、読んで、というように周囲で踊った。
「なにが起こってる!?」
バザルスのおそれをなしたような声が閲覧室に響き、次の瞬間、受付にいた年配の女性司書が血相を変えて駆け込んできた。
「ケースが壊れて、オリジナルがこちらに飛んっーーああっーー!」
女性司書が、宙に浮かぶ板と紙とシュバリスにまとわりつく文字を見て悲鳴をあげた。
「なんてことーーこれはいったいなにごと!? 図書館では魔法は禁止ですよ!!」
「えっ? えっーーええと」
しかし、女性司書に言い訳しようとして、すぐ目の前を通過していく文字にシュバリスは釘付けになった。「君がいれば、ぼくには恐れるものはなにもない」「水のほとりで出会った」「君はぼくの盾」「つねにかたわらにあり」「彼のピアノ あの夜の彼女の歌声」「いつか君に大輪の花束を」ーー。どれもこれも、かつてのハルトガルトとの日々を思い起こさせる。一節ずつが鈴の鳴るような音を残して床に天井にぶつかった文字はやがて、元どおり空中に静止していた紙切れに吸い込まれた。
「あーー」
重なった紙片が彼女の頭上にふわりと飛んできた。見えない誰かが急に手を離したかのように、気づくとシュバリスは頭から落下する紙片の滝のなかにいた。ばさばさと音をたてて床に古紙が散乱する。女性司書がさらに喚き立てる。「どうなってるのっーー」
それはわたしのセリフ、とシュバリスは呆然としていた。開いた手の中に、足元の床に、落ちてきた紙片が積もっている。そんななか、前方で空中に浮かんだままの木の板ーーいまではわかる、これは表紙と裏表紙だったのだーーと、空中にはまだたった一枚だけ紙片が浮いていたが、その一枚だけがほかと違った。記された文字は抜け出しもせず光りもせずおとなしい。だが、紙全体がおぼろに光を発し、わずかに文面が変わった。
「ーーどうなってる!?」
先ほどから続いている珍事が人を傷つけるたぐいの魔法ではないと判断したのだろう、バザルスがつかつかと寄って空中に留まっていたその一枚を掴み取った。そして急いで紙面に目を落としーー
「君の仕業か!?」
「えっ? いえーー」
老教官の鬼の形相に、シュバリスは必死で頭を横にふった。彼女ではなく、この魔法を仕掛けたのはハルトガルトだ。
あの男には千年たっても翻弄させられる。シュバリスは深く長くため息をついた。
[newpage]
[chapter:図書館誓約]
まさかこんなことになるとは思わなかったわ、というのが正直なきもちだった。千年前の当時は単なる恋愛にすぎなかったシュバリスとハルトガルトの紆余曲折が、千年後のいまになってひとびとに議論を巻き起こしていることに辟易、かつ申し訳ないきもちになりながら、その後シュバリスが図書館で待機していると、
「ーーこれはひどい」
司書に呼ばれて駆けつけてきたユアンは開口一番、「神話、伝承、伝説」の棚を見てうめいた。騒動から一時間、シュバリスたちが閲覧室の外で、司書たちがばたばた駆け回るのをひたすら見守りつづけていた。
彼女たちの会話から、閲覧室に突入してきた本が図書館最北のガラスケースで保管・展示されていたハルトガルト直筆の初稿、つまり国内で出版されているハルトガルト作品の大元となった「[[rb:原本 > オリジナル]]」であることがわかった。それがなぜ、どういうわけで突如として強力な魔法を放ち、ガラスケースを破って閲覧室に飛翔し、シュバリスたちを想像外の事態にまきこんだのかーー「原本」を収蔵していたガラスケースは粉々に砕け、同時に収められていた貴重な写本だの大賢者が所有していた書物や古地図だのが無残に床に散らばるなか、ユアンはガラスのかけらのぎりぎり外側まで近づいて割れたケースと展示物をじっと眺めていたが、やがて事務室前でかたまって見守るひとびとの前に戻ってきた。
「おおよその事情だけは、駆けつけてきた司書から聞いたがーー」
倉庫での一件以来、シュバリスはユアンとは授業でしかいきあっていない。ユアンの背後にはテディもいて、惨状に「おおお。こりゃすごい」と感嘆していたが、「笑い事ではありません!」と年配の女性司書に睨まれておとなしくなった。かけらを踏むなよ、と、現場を保存するように立ちはだかった従者に云って、ユアンが口を開いた。
「えー……とにかく、居合わせた君たちからあらためて聞きたい。なにが起こった?」
教官や生徒からぽつぽつと傍観者なりの意見があがる。その後、おおかたこのふたりが原因だと見当をつけたのだろう、さて本題、とばかりにシュバリスとバザルスを交互に見つめるユアンに、シュバリスより先にバザルスが云った。
「イスラメイが魔法を使ってオリジナルを引き寄せ、けしからぬことに文面を改竄したのですよ、カルセドニー学院長」
「ほお、改竄。オリジナルを」
ぱちぱちまばたきするユアンに、バザルスがなおもつけつけ云った。
「ちょうど閲覧室でいきあったところ、蛇神シュバリスのマジックや素行について議論になりましてね。とくにD11についてです。そこでわたしが、D11こそまさしくシュバリスが邪悪な娼婦であった証拠であると指摘したところ、イスラメイと従者が反論してきました。彼らはシュバリスについてとんでもない異端の考えを持っておりまして、シュバリスが皇帝の恋人であり、皇妃のものとされている治癒と防御の力はシュバリスのものだと云い出したのです。しかしわたしがそれを否定したところ」
バザルスは一瞬シュバリスをにらみ、憎々しげに吐き捨てた。
「イスラメイが突如として魔法を使い、オリジナルを引き寄せ、その場で文面を改竄したのです」
バザルスは、とりあえずの避難場所として閲覧室から持ち出された書見台におかれていたオリジナルを示した。問題のページが一番上にきている。ユアンはそっとそれを覗き込み「たしかに文面が変わっているようだ」とうなずいた。
「十一行目の『救済か あるいは復讐の女神か まだ遠い春の兆し』が『君は救済の女神 近づく春の兆し』に変わっている。不穏な単語が一掃されているな。これだとただただシュバリスを褒めたたえる内容だ」
「さよう、イスラメイが変えたのです。よりによって聖遺物に指定されているオリジナルの文面を変えるなど、これは重大な犯罪だ。遺物破損です!」
「ですが教官」
ユアンはバザルスの怒りようにちょっと辟易した様子だ。隣でやきもきと胸の前で手を握りあわせている老年の女性司書に視線を移し、「失敬」と穏やかに尋ねた。
「学生は図書館ではいかなる魔法も使えない、そのはずですね。ーーええと」
「モードですわ学院長。ここに勤めて四十年、今は展示物の保管責任者もしております。おっしゃるとおり学生はここではいかなる魔法も使えない、そのはずなのですがーー」
先ほどの異様な場面を目にしたモードも、シュバリスのしわざとしか思えないようだ。疑わしそうにシュバリスを見ながら、
「わたくしにも、オリジナルは明らかにそちらの女子によって操られているように見えました。最後は彼女の手元に紙片のほとんどがありましたし、彼女の周りを文字が光りながら浮遊していた。それに実は、文面が変化しているのはD11だけではありませんの。ほかの[[rb:頁 > ページ]]もです」
「ほかにも改竄したというのか? この小娘が?」
バザルスがますますシュバリスを激しく睨みつけ、シュバリスは思わずアイドクレーズの腕をぎゅっとつかんだ。ユアンはその様子にちょっと苦笑すると、書見台にかけていた手をオリジナルの薄い紙の上にかざした。
「ーーバザルス教官もモード女史も少々落ち着いて。いちおう先祖の作品だし、D11を含めハルトガルトの詩や散文はわたしも全て読んでるよ。ざっと見てみる、手袋を貸していただけるかな」
モードから手袋を受け取ると、ユアンは慎重な手つきで紙片をめくり始めた。バザルスもモードもむっつりと見守り、シュバリスもじっと待ったーーD11の十一行目が変化したのはすぐにわかったが、そのほかのページもとは。内心どきどきしていると、「ふむ」と最後まで目を通して、ユアンが感慨深そうに首をかしげた。
「たしかにいろいろと変わっている、全体的に」
「で、ございましょう!? ああ学院長、いったどういうことなのでしょう。学生がこんな魔法を使えるものでしょうか。しかもよりによってオリジナルの文章を変えてしまうなど!」
「小娘ならできよう、なんといっても蛇人だ。邪な魔法の類は生まれた時から身についている」
「そんなことはしてません……!」
ようやくシュバリスは声をあげた。このままじぶんのせいにされてはたまらない。しかし、ハルトガルトのせいだと云ったところでそれも信じてもらえない。どうしたらいいのか内心で弱り果てていると、ユアンが深遠な笑みを唇に浮かべた。
「ときにイスラメイ。君は入学時に、図書館に関する宣誓書類にサインをしただろうね?」
「宣誓書類ーーというと、」
「入学後、時間割申請のとき一緒に出してもらったはずだ。図書館ではいかなる魔法も使わないと宣誓する書類だ、記憶にないか?」
「え?ーーあ、はい。出しました、たしかに」
膨大な量の提出書類のなかに含まれていた一枚で、たしかにサインして提出した。それを聞いてユアンがうなずいた。
「そうーー新入生には全員、図書館を利用する前に宣誓書類を出してもらうことになっている。『私は図書館の帰属物、または管理下にあるすべての書物、書簡、文書に対し、あらゆる損傷行為を行わない、またあらゆる魔法を図書館において行使せず、図書館の定めるすべてのルールに従うことを誓う』ーーこれに署名、提出、学院に受理された時点で、誓いは強固な魔法として発動され、それに反する行動はできなくなる。どちらかというと呪いに近い。しかも強力な呪いだ。ゆえに、イスラメイが魔法でオリジナルを改竄しようとしたなら、禁を破ったとしてただちに図書館外に放り出されるか、拘束魔法の餌食となって床に転がっていたはずだ。オリジナルに指一本触れることはできないし、まして魔法でページをばらばらにしたりそこから文字を抜け出させたり文面を変えたりなんてことは天地がひっくりかえってもできない」
「ではいったいなぜ?」
「この初稿、[[rb:原本 > オリジナル]]には魔法がかけられている、それは発見当初から云われていた」
ユアンのことばに、しんとその場が静まりかえった。
「知らないものもいるかと思うから説明しておくが、そのために騎士団と皇帝家によってこの原本は聖遺物に指定されている。つまりこれは帝国の財産であり管理されるべき魔具、魔書だ。ただし、これにかけられた魔法がどんなものかはほとんどわかっていない。ハルトガルトが直接かけたと思われるが、なぜそんなことをしたのかも不明。原本の魔法で解明できたのはごく一部だったーーひとつ、この図書館から動かせないようになっている、ふたつ、魔法の大部分は『眠っている』。だが話をきくに、千年後の今になってそのふたつめの魔法が解除されたようだ。それによって本が目醒めた。しかしそれも解せない」
「なぜ魔法が解けたのか、ですわね? 千年もつづく魔法が解けるとしたら、そこにはなにか理由がある」
モードのことばにユアンはうなずいた。
「そうだ。条件があるとしたらその条件はなんだったのか、いつ誰がその条件をみたしたのか。バザルス教官は議論していたと先ほどおっしゃったが、そのときになにか変わったことは?」
「さあ。わたしはただ真実を彼女に伝えてやっていたまでです学院長。間違いを正してやっただけだ。さっぱりわかりかねる」
「ではイスラメイは。君に心当たりは? なにか魔法が発動しそうなことを云ったり、したりしたかね?」
「さあーー蛇神シュバリスは復讐の女神なんかじゃない、彼女はハルトガルトやその子孫やエウレシアの国民に復讐なんかしないとは云いましたけれども」
「だいそれた戯言だ」
戯言ではなく事実だが、シュバリスはもはや反論する気力もなかった。
「ふうむ」
しばらくあごに手をあてて考えていたユアンは、やがてため息をつくと「考えてもらちがあかない。ではこの場はひとまずお開きにしよう」とあっさり云った。
「テディ、おまえはモード女史を手伝ってガラスを片付けてくれ。ほかの生徒も教官もすまないが今日はここを出てくれ。今日は閉館する」
残ってなりゆきを見守っていたひとびとは納得しかねる様子だったが、学院長じきじきの要請とあってぞろぞろと出て行った。ユアンは「あなたもだバザルス教官。ごくろうだった」とそっけなく云ったが、バザルスがすかさず返した。
「これほどのことをしでかしたのだ、イスラメイを退校処分にするのでしょうな学院長? 退校でなくともなにがしかの処分はするのでしょうな?」
退校、なにがしかの処分? シュバリスもアイドクレーズもぎょっとし、アリアナが心配そうにシュバリスの肩に手を置いた。おののく三人に、「いえ」とユアンはきっぱりと云った。
「貴殿はこの魔法がイスラメイのせいだとお考えのようですがわたしはそうは思わない。まだ一年生のイスラメイにこんなことはとても無理だし、彼女がそんなことをしてもなんの利益もない。偶然なにかの条件が満たされてオリジナルに秘められていた魔法が解かれ、イスラメイは巻き込まれた、そう考えるのが妥当だ」
「なんの利益もない? ソネットD11から不穏な文章が除かれれば蛇人にとっておおいに利益となる。あなたが蛇神シュバリスと蛇人にお優しい考えのもちぬしだということは存じ上げていますが、その娘に少々甘いのではありませんか。まさかあなたも蛇人の魔性にあてられたわけではありますまいが」
「それこそまさかだ。わたしはあくまで学院のモットーである中立・中庸・正道にのっとって行動している。では失敬、バザルス教官。わたしは少々イスラメイに聞きたいことがある。出て行っていただけないか?」
再度の要請は命令に近かった。最後にバザルスはもういちどユアンとシュバリスを睨みつけて去って行った。神話、伝承、伝説の棚の前では、モードとテディが散乱したガラスや資料の片付けに入った。それを見やってユアンが告げた。
「テディ、それが終わったらノヴェレッテンを寮まで送ってやれ。それからアイドクレーズ、君はほかの司書さんと閲覧室を片付けてきてくれるか。あそこもそのままになっているだろう」
「しかしーー」
「イスラメイとふたりで話したい」
シュバリスとアイドクレーズは顔を見合わせた。アイドクレーズの顔には深い懸念が浮かんでいたが、シュバリスは「だいじょうぶ」とうなずいた。
「なにかあったら呼ぶ」
「お気をつけて」
ユアンが真犯人かもしれない。アイドクレーズは念をおすように目礼して閲覧室に消えた。アリアナも心配そうにシュバリスを見ていたが「邪魔だからむしろ帰れといわれてしまった」と、しょんぼりと棚の間から現れたテディに連れられ図書館を出て行った。ユアンはなおも深い緑の瞳を書見台のD11とその他の詩や散文に注いでいたが、さっさと魔法で片づけを終えて事務室で閉館準備をはじめたモードに「すまないが少々これを借りられるか?」と声をかけた。
「乱暴にはしないしすぐに返す。もとよりわたしも図書館に関して誓約ずみだ」
「学院長さまなら。どうぞ」
「ありがとう。ーーさて」
ユアンは手袋を嵌めたままの手でオリジナルを取り上げると、シュバリスにむかって壁の小さなドアを指さした。螺旋廊下の外側の、螺旋階段に続く扉だった。
図書館は地上階と地下階に分かれている。地上階は三階建で、三階部分には貴重な書物が資料として展示されている。シュバリスはこの図書館に来るのもはじめてだったので、とうぜん三階部分を覗いたことはなく、ユアンに続いて扉のむこうにある石造りの、外壁に沿って螺旋状に続く階段をのぼって、はじめてそこへ行きついた。見学のとき説明を受けた通り、そこには展示物のあるショウケースが並んでおり、階下を見下ろす手すりの先からは、天井まで吹き抜けになった図書館の内部がぐるりと見渡せた。ふたりが通ってきた螺旋階段はさらに天蓋までぐるぐるのびており、天蓋の最奥にはめ込まれた小さな窓が夕暮れの光をこぼしていた。
「シュバリス」
「ーーはい」
「座ろう」
窓際に置かれたソファに、シュバリスは無言で腰掛けた。ユアンも隣に座った。
「さて」
みょうに深刻な顔だった。さきほど不問に処すと云ってくれたのは場を納めるための方便で、退学までいかないにしろなにか処分を下す気なのだろうか。緊張するシュバリスの横で、手のひらのオリジナルを見下ろしてユアンは口を開いた。
[newpage]
[chapter:金と白金]
「君が入学してから、次から次へとふしぎなことが起こる」
開口一番、ひとりごちるようにユアンは呟いた。責めるというよりは感慨深そうだったので、ややほっとしながらシュバリスは「は、申し訳ございません」とうなずいた。しかしすぐにユアンは笑みをひっこめ「でも」と小さく続けた。
「そのどれも今回の件には敵わない、まさかオリジナルの文章が変わるとは。しかも大幅にーーいやはやものすごいことが起こった」
「はあ」
シュバリスは首をかしげた。
「あのう、教官。ええとーー学院長」
肩書が多すぎてどう呼んでいいのかいつもシュバリスは迷う。授業時は教官、平時は学院長とわけていたが、ユアンもそう悟ったか「呼びやすいほうでいいよ」と苦笑した。
「では学院長。D11の変化は、直前に元の詩を読んでいましたのでわたくしにもわかります。しかし他は? いったいどのように変わったのでしょうか。大幅にとおっしゃいますが、かなりひどく変わってしまっているのでしょうか? そこに収められた詩や散文がぜんぶ?」
「うんーー」ユアンは口の中で唸ったきり、ちょっと考え込む様子だったが、やがてぱらりとページをめくった。
「ほぼ全体にわたって変化がみられるね。しかしとくに変わっているのは、主にハルトガルトから妻へ捧げられた詩だ。つまりハルトガルトから初代皇妃ドーリスに捧げられたものーー彼女を讃える詩でハルトガルトはよく彼女の金色の髪を褒めている。ドーリス皇妃は[[rb:金髪 > ブロンド]]だった、それは肖像画からもわかっているんだが」
「はい」
そういえばドーリスは金髪だったか。シュバリスがぼんやり思い出していると、
「ところがだ。そこに白の一字がもれなく加わっている。これには驚かざるをえないーー白。その字そのものも、それが加えられることにも。実に興味深い」
「白?」
「つまりね」
ユアンがとあるページを開き、そっと指差した。
「見てごらん。ここにはもともと『あなたの輝かしき金色の髪』と書かれていた。ところがいまは『あなたの輝かしき白金の髪』となっている。このほかにも『金色の髪』の表記がもれなく『白金の髪』に変わっているわけだ。これはもう、ざっと見た限りではぜんぶ変わっている。[[rb:金色 > ゴルド]]ではなく[[rb:白金 > プラチナム]]に」
「[[rb:白金 > プラチナム]]ーー、」
「そう、つまり」
目をしばたかせるシュバリスに、ユアンは曇りのない澄んだ笑顔で「失敬」と呟くと、そのままシュバリスの頭に手を触れ、すべらせた指先で髪を挟むと軽く持ち上げた。彼はそのまま片手でシュバリスの髪を、片手で原本のページを押さえて云った。
「これが金色の髪や白金色の髪ではなく[[rb:金髪 > ゴルテブロンド]]、[[rb:白金髪 > プラチナムブロンド]]と表記されていれば、普通の黄金色と明るい黄金色ということで単なるニュアンスの違いで話がすむ。だがハルトガルトは己の著作のなかで全編にわたって『金髪』ではなく『金色の髪』で通している。そのためすべての表記が『白金色の髪』に変わっているわけだが、[[rb:白金 > プラチナム]]『の』ーーこの、『の』という属格がキモだ。君は知っているかどうかわからないが、実は白金というのは素材そのものの色としてはむしろ銀と混同される」
「銀ーー?」
「つまりね」
ユアンはシュバリスの髪から手を離し、両手でページを広げてシュバリスに示した。
「おそらくこれの意図するところは、素材としての[[rb:白金 > プラチナム]]の色をした髪であるーーすなわちここに表現されている白金の髪というのは、すべて銀色の髪と云い換えられる」
「銀色の髪。ということはーー?」
ドーリスではありえない。シュバリスがぎょっとしているとユアンもうなずいた。
「そう。これは金髪をもつ皇妃ドーリスではなく、別人である銀髪の誰かを褒めているんだ。そう推測できる」
「それはいったい、」
「蛇神シュバリスだ、わたしの考えでは」
ユアンは小さく笑った。
「シュバリスが銀髪だったという証拠はないだろう、と君は思うかもしれない。だが先日アイドクレーズは君を[[rb:大白蛇 > ナーガ]]の獣人だといい、蛇神シュバリスもナーガの獣人だと云った。[[rb:狼人 > ルプス]]でも[[rb:鳥人 > アウィス]]でも[[rb:兎人 > レプス]]でも、もとになった狼なり鳥なり兎なりがハイイロオオカミとかセキセイインコとかロップイヤーならば、彼らはみんな髪や肌や瞳の色が似通ってくる。そしてみたところ、蛇神シュバリスがほかのどの種の蛇人を夫に選んだにせよ、君は[[rb:大白蛇 > ナーガ]]の特徴的な色彩を色濃く受け継いだと思われる。そうだね?」
「――はい」
「ということはシュバリスの髪の色も君と同じだった。どうかなーー君はご先祖の容貌について情報を受け継いでいるか?」
「ーーいちおう。たしかにご推測のとおり彼女は銀色の髪をしていました」
「とするとだ。ハルトガルトがわざわざこのように変化をもたらすよう魔法をしかけていたとすると、どういうことだと思う?」
「ええと。どういうことでしょう?」
「つまりね」
ユアンは静かに告げた。
「これらオリジナルのなかにある妻に捧げる詩は、実はすべて妻のドーリスではなくシュバリスに捧げられたものと見るのが妥当だということになる。ーーくわえて、」
ユアンはふと、さも面白いというように、くつくつと喉の奥で笑い声をたてた。
「くわえてこれは、ハルトガルトがドーリスと結婚してなおシュバリスを愛していたという証拠にほかならない。ハルトガルトとドーリスは、シュバリスという障壁を乗り越えて固く結ばれた夫婦だったと信じられているがほんとうはそうではなかった。皇帝となりドーリスと結婚したのちも、ハルトガルトはシュバリスを思い続けていた。いや、そもそもドーリスのほうこそバザルス教官がいうような女性ではなく、ハルトガルトは不本意なかたちで彼女を選ばざるを得なかったのかもしれない。ここまで厳重に魔法をかけて隠しておいたとすると……彼がシュバリスを愛していると知られると、当時は不都合なことがあった、もしくはなにか危険なことが起きると考えられた。妻にこそ絶対に悟られたくないと思った、とか」
「ドーリスに知られないよう、魔法をかけて隠した、ということですか?」
「あるいはそれ以外のひとびとの目からも。しかしこれぞ千年に渡る隠蔽工作だ。ハルトガルトは愛妻家で知られていたが、愛妻に捧げられた詩はすべて元恋人へのものだった。しかもハルトガルトは、来るべき日には真実が伝わるようにしていた。じぶんが愛していたのはドーリスではないといまになって公開した」
「彼が愛していたのは蛇神シュバリスだったーードーリスではなかった?」
シュバリスの背がぞくりとあわだった。
(ハルト。あなたはドーリスと結婚してなお、わたしを好きでいてくれたの? それはわたしにとってとてもありがたいことだけど。とてもとても嬉しいけどーー、)
いまこそようやくハルトガルトとの関係を、まちがいなく相互通行の愛だったとシュバリスは断言できる。しかし次に彼女が感じたのは、ドーリスへの同情だった。こんなものがいまになって現れるとは裏切られたに等しいだろう。シュバリスはなんだかくらくらした。それは道義に悖る、と怒りすら覚えた。
「わたくしはーーてっきりハルトガルトとドーリスは、ふたりで幸せに暮らしたのだとばかり。子どもにも恵まれて、皇帝と皇妃として帝国のために生きて死んだのだと」
「ーーそうだ。だがこれを見る限り、そうではなかったことになる。すくなくともハルトガルトが幸せだったとは思えない」
ユアンは肩をすくめた。
「ハルトガルトは、君への詩だよと何食わぬふりを装って妻に捧げていながら、本当はシュバリスへの恋の詩を捧げていた。となると、従来の解釈はまるごとひっくりかえってしまう。詩の解釈どころかシュバリスに対する見方も変わる。ジプサム辺境伯あたりは発狂するかもしれない、あそこはドーリスの兄から続く子孫で、じぶんたちが皇帝に愛された皇妃ドーリスの一族だと誇りにしている」
「そうですかーージプサムというとカレンのおうちですわね。なんだか恐ろしいような」
すくなくともジプサム家のプライドは粉々だろう。そのことに対しても、ざまあみろという気持ちより恐ろしい気持ちのほうが勝った。ユアンがうなずいた。
「かもしれない。しかしわたしは納得がいったし、なぜ今になって魔法が眠りから目覚めたか、そちらのほうが問題だと思う。君はさっき、蛇神シュバリスはハルトガルトを恨んでいないし復讐もしないと云ったそうだが、ひょっとしたらそのせいかもしれない。この詩を見る限り、ハルトガルトは最後にドーリスを選んだことをずっと後悔していたし罪悪感もあったんだ。そのためじぶんはシュバリスに復讐されてもしかたないと思っていた」
「だからD11に、復讐の女神、と?」
「そうだ。だが、復讐の女神ということばもいまは消えてしまった。すなわちこれは、彼がシュバリスはじぶんを恨んでいないと知って、復讐の女神という表現を取り消したからだろう。オリジナルが飛んできたあと、君には話者限定の魔法がかかっていたようだとほかの教官から話が出ていた。わけのわからないことを本にむかって喋っていたと。バザルス教官は、そのあいだに君が文章改竄のスペルを唱えていたのだと主張していたが、図書館誓約がある限りそれは無理だ。でーーここからが、ほかのみんなには明かさなかった推測をもとにしての本題なのだが、ひょっとして君は、この原本に残されていた、ハルトガルトの意思体と会話をしたのではないか?」
「えーー? えっと」
なぜそれを。とまどっていると、ユアンは声を低めて明かした。
「わたしの先祖、ハルトガルトには複数の[[rb:固有魔法 > マジック]]があった。はっきりとわかっているのだけで透視能力。それから魂の複製だ」
「魂の複製ーー?」
「じぶんの意思をあらゆるものに宿らせることができたんだ。彼は規格外の魔法使いだった。[[rb:三固有魔法保持者 > アスラ]]、いや、ひょっとしたら[[rb:五種以上固有魔法保持者 > ヒュドラ]]だったのではといわれている」
「そうなんですか。ええとじゃあ、透視と魂の複製のほかの能力はたとえばどんな?」
しかしそれには、ユアンは曖昧に笑うだけで答えなかった。
「とにかくハルトガルトは、魂を複製する魔法で、この原本におのれの魂の一部を封じ込めたんだ。初代皇帝の莫大な魔力の一部が宿っているとしたら、研究所の魔法使いが束になってかかっても原本の魔法が解明できなかったのも納得だ」そこでユアンはじっとシュバリスを見つめた。
「どうだろうイスラメイ。君はなにか、この件に関するだいじなことについて、本とおしゃべりしたんじゃないのかい? そして、この原本にかけられた魔法が解けたのは、シュバリスの子孫である君が、シュバリスはハルトガルトを愛していたと断言したからかもしれない。復讐する気などなかったと」
「それはーー、」
シュバリスは目をしばたかせた。額に汗が浮かんだ。
「ええと。なにがあったかはよく覚えていなくてーー本が飛んできてからはもうぜんぜん」
「……かもしれないね」
苦しい言い訳を、しかしユアンは疑う様子もなくあっさりとうなずいた。むしろシュバリスを気遣うように曖昧に微笑んだ。
「びっくりしただろうというのはわかる。そういえば、こうしてゆっくり話すのはナイジェルの隠れ家で君を保護して以来だね。あれから妙なことはまわりでは起こっていないか? ナイジェルから密かに接触されたとか、誰かに後をつけられたりは?」
「ありません、だいじょうぶですわ学院長。あのーーわたくしもうかがいたいのですが、あれから騎士団の捜査状況は?」
あの件について話すユアンに不審なところがないか見極めたかった。シュバリスの思惑には気づかない様子で、ユアンは男性にしては細く優美な指先をあごにあて「もう隠しても仕方ないから云うが」とため息をもらした。
「君のお母上を襲ったのもほかの七柱の廟から聖遺物を盗み出したのもナイジェル・アベンチュリンで間違いない。すくなくとも騎士団はそう断じ、行方をくらませた彼の捜索をはじめた。同時にアルジュナ暗殺未遂の容疑者としても彼を手配した」
「アルジュナの件も? なにか確たる証拠が?」
「君がいた倉庫から、アルジュナが襲われたときのナイフと同じ形、同じ呪いをかけられたものが押収された。あそこで呪いをかける練習をしていた痕跡もあったそうだ。それから騎士団の内部調査で、彼が七年前のハダル誘拐事件を再捜査していたこともわかった」
「ハダルさまの誘拐事件ーーあの、ひょっとしてそれは」
「ナイジェルは、あの誘拐がユーレアイト家のしわざだという証拠を探していたんだ。アルジュナを殺害しようとしたのは、七年前の黒幕がユーレアイトと断じたからだ。彼なりの報復だったのかもしれない」
「報復。あの、ではハダルにかけられた呪いのほうは?」
「ーーそういえば君はあれから[[rb:巣球 > ネスボラ]]部に入ったとか。君のことだから、もう彼にかけられた呪いにも気づいたんだね。わたしも先日ハダルとハダルのご両親、つまり両陛下と内密にお会いして、その件について話したよ。ナイジェルが失踪してしまった今、彼には従者がいない。しばらくはハダルの警護についてわたしが全面的に責任を負うことになった」
「そうなんですかーー」
それはいいことなのかしら、とシュバリスは内心考え込んだが表には出さなかった。ユアンは憂鬱そうにため息をついた。
「まさかあそこまでハダルの状態が逼迫しているとは、わたしも先日彼と会うまで気づかなかったがね……だからナイジェルはいまになって七年前の件の再捜査をはじめたのだろう。そして七柱廟に押し入って聖遺物を盗み出した。すべてはハダルを救うためだった。非常にやるせないよ」
「ではやはり、ナイジェルが聖遺物を盗んだりアルジュナを殺そうとする動機も、そもそもは」
「ハダルの命、それ以外にない。だがそのわりに盗んだ聖遺物を治療に使った痕跡がないし、聖遺物そのものがどこからも見つからない。騎士団の話では、ナイジェルにゆかりのある場所をあたって本人の身柄と聖遺物を確保しようとしているそうだが、シオンの槍の穂先も君のお母上の足や眼も、まだどこからも出てこない」
足はすでに回収した。もしあそこがほんとうはユアンの隠れ家で、たとえば印陣のスペシャリストとして、現場にいたテディを操ってナイジェルが描いた陣に細工をさせ、シュバリスを倉庫に誘導したのなら、あの場で足が奪い返されたことにも気付いたはずだ。しかし、シュバリスを見つめるユアンの眼にはなんら揺らぐところもなく、彼はほんとうに事態のゆくすえを案じていた。
(やっぱり教官が黒幕だとはどうしても思えない。テディを操ってどうにかしたともーーナイジェルのほうが犯人としてはしっくりくる)
苦し紛れのナイジェルのはったり、その可能性が高い。だがハダルとアルジュナになにかあればユアンに皇位が転がり込んでくるのも事実。ユアンが紳士然とした優美な仮面の奥に、皇位を狙う狡猾な人物の顔を隠し持っていたとて不思議はない。
「君たちのことも、すっかり巻き込んでしまったね、大人同士の醜い争いにーーいや、ハダルの命をめぐる争いか。ナイジェルの気持ちは、わたしにはひじょうによくわかる。だが、ほかの誰かを傷つけたりだいじな遺産を強奪していいということにはならないし、アルジュナの命を奪おうとするというのは論外だ。そんなことをしてもハダルは喜ばない」
「あの、教官。このままだとハダルさまの命は」
「このままでは三ヶ月ももたない。わたしも印陣の教官として、ナイジェルが施していた抑制印の施術を引き受けた。ひょっとしたら、もう少し期限を引き延ばせるかもしれない。三ヶ月を半年にするくらいはできるかも」
ユアンのことばにシュバリスは衝撃をうけた。それは彼女の見立てとそっくり同じだったからだ。
「ようやく皇帝家のお子が元気でお生まれになったのに」ユアンは暗い顔でため息をついた。
「もし彼になにかあったらと思うとぞっとする。なにより両陛下の心境を思うと……おふたりにとってハダルは、長い悲しみのあとにようやく得た喜びだった」
「というと、」
「ハダルには兄と姉がいた。過去形で話していることからわかるとおりすでに故人だ。これももうそろそろ皇帝家も獣人と婚姻してもいいとわたしが思う大きな理由だが、皇帝家は純粋な人間の血を保持し続けるべきだという考えのもと、ひじょうに近い親戚間での婚姻をなんども重ねてきた。それがために血が濃くなりすぎ、赤ん坊が病弱で、受け継いでいる莫大な魔力に肉体が追いつかない、きわめて重大な疾患を抱えて生まれてくるパターンが多くなっている」
「じゃあーー?」
「ハダルの兄と姉もそうだった。ふたりとも生まれつき病弱だった。実をいうと、わたしも多少その傾向があって、あまり体が丈夫とはいえない。だがいちおう健康体で、魔力とバランスを取れる年まで生き延びた。皇帝家と御双家の子はだいたい十一歳が目安、そこを過ぎればなんとかなると云われている」
「ハダルさまは十七歳。きょうだいでただひとりだけ、そこまで無事に年を重ねた?」
「そうだ。奇跡的に」
ユアンは遠い目をして、ふと図書館全体をぐるりと見渡した。血の色に似た夕陽の赤が、すっかりあたりにみちていた。
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