AdAd
  
グレイマジック9覚醒の跫

  [chapter:まどろみの三角]

  「だーかーらあ、それってなんの魔法なわけよ。その魔法の種類とか内容を教えて欲しいんだってば、後学のために」

  らちがあかないと思ったのかギネヴィアは「相手はどこの誰よ」と、知らずにとはいえなかなか核心をついた質問をぶつけた。

  「誰があなたにそんな恐ろしい魔法をかけたのよ。さぞ強大な敵だったんでしょうね。機密なのはわかってるけどある程度教えてくれたっていいじゃないの、あなたの使う魔具だってこっちが調整するんだよ、二度目がないように対処法だって考えてあげられるかもしれないのにさあ」

  「もういい、失礼する」

  ユィリエはうんざりしたように頭をふり、簪を髪から引き抜くと肩下に落ちた髪を揺らしながら踵を返した。「これ以上話すことはない。行くぞファラス!」

  「はっ」

  「待ちなさいよお!」

  ギネヴィアは立ち上がり、ユィリエを追おうと歩き出す。シュバリスもついていった。しかし、ギネヴィアがさらになにか云う前に、回廊の奥から男たちが現れ、複数の屈強な男に囲まれて輪のなかにいたひときわ大柄な男が「先輩!」と大声をあげた。すっかり面持ちのかわったテオドール・アベンチュリンだった。

  「テディ! 解放されたのかい!?」とたんギネヴィアが歓声をあげ、シュバリスが気づいた時には彼女の姿はかき消えていた。

  「先輩ーー!」

  おそるべき速さでテディのもとへかっとんだギネヴィアを、テディはがっちり抱きとめていた。「さすが[[rb:守備 > ディフェンス]]の要! わたしがぶつかっても倒れないのはあなただけ!」ギネヴィアは褒め「先輩こそ相変わらずの爆速ぶり」長身のギネヴィアも[[rb:熊人 > ウルスソム]]であるテディの巨体にはかなわない。テディには悪いがふたりが抱擁するさまは、大男に華奢な人物が襲われているように見えないこともなかった。だが大男はいまや号泣しており、相手は「あらら」困ったように癖のある灰色の頭を乱暴に撫で回した。

  「おお、よしよし。つらかったねえ、もうだいじょうぶだよぉかわいい熊ちゃん。よくがんばったねえ!」

  「先輩ーー先輩。ギネヴィアーー!」

  「とにかく容疑がはれてなにより、ええと、今日はユアンは来ないのかな。あなたの身元引受人っていったらとうぜん彼よね。っかしいな、ここなら会えるかなって思ったんだけど」

  「ユアンさまは、たしか今日は他の魔法学校長との会合でーーそれにわたしはひとりで帰れますし」

  「そのザマでなにいってんの」

  ギネヴィアは呆れたように云ってテディの顔をしげしげと見つめた。その拍子にシュバリスも息を飲んだ。単にやつれているだけでなくげっそりと頰がこけ、無精髭が顎からこめかみまでを覆っている。女王陛下の尋問は屈強なテディをうちのめしたらしい。ギネヴィアは小さく舌打ちした。

  「ぼろぼろのふらふらじゃない、こんなんでひとりで帰れるなんて云わせないよ! ここで行き合ったのもなにかの縁だしわたしが送ってってあげる。まったく、ユアンと違う意味で世話の焼ける子だよ」

  ギネヴィアはテディのおでこをはじき、テディは「うぐ」と額をおさえてしゅんと肩を落とした。

  「め、面目無い。先輩にご迷惑をおかけするのは、学生時代で終わったと思ったのですが」

  「あっは。懐かしいねえ、よくわたしとユアンで試験前に勉強みてあげたよね。まあ済んだことはもういいから、とにかくこれからはちゃんとしようよね。お姉さんに任せなさい。っていっても年はあなたのほうが上なんだっけ。まあいいやーーわたしにまかせな、ね?」

  「はい……」

  「おいで」

  ふたたびギネヴィアに抱きしめられたテディはじっと彼女の首筋に鼻先をおしあてていた。たくましい腕がおずおずとギネヴィアの背にまわされる。とーーギネヴィアがテディの耳元になにか囁きかけ、その冗談がツボに入ったか、テディが吹きだした。至近距離でふたりが微笑みあうさまに、シュバリスははっと胸をつかれた。

  (なんだろうーーちょっといい感じ、みたいな)

  テディにとってギネヴィアはクラブの先輩であると同時に主人の元婚約者なのだ。ふたりの出会いも交際も婚約も破局も彼女の離婚もそれ以後も、めまぐるしく変わったユアンとギネヴィアの関係史を、テディは一部始終見てきたはずだった。傍観者であり、主人と先輩の恋路を優しく見守ってきた従者ーーしかしいまシュバリスの前で繰り広げられる光景は、別の可能性も感じさせた。

  (ひょっとしてテディもギネヴィアを、だったりして)

  テディのほうはすくなくともギネヴィアに特別な感情を抱いているのかもしれない。どこかうっとりとした崇拝と呼んでいい眼差しで彼女を見つめている。ただ、じぶんが子どものようにあやされていることを気恥ずかしく思ったのか、そのうちテディはギネヴィアを肩の上にのせた。ギネヴィアは「すごーい!」と歓声を上げた。

  「これだけやる元気があるならだいじょうぶだね。ねえテディ、なにか食べたいものある? わたし今夜は空いてるんだ、おいしいもの一緒に食べようよね。ユアンも帰ってくるといいのにね!」

  「そう云われると急に腹が減りました。ぺこぺこです先輩」

  「おっ、その意気だ! よーし今日は腕をふるっちゃおうかな! 外に行くのは億劫でしょ、なんか作ったげる!」

  「先輩はおじょうずですからねえ。あのスパゲティなんかソースだけでもどんぶりで飲めますよ」

  「やだも~上手!」

  ギネヴィアはユアンと顔を合わせれば厭味の応酬になるようだが、テディが相手だと皆無だった。テディではギネヴィアの舌鋒についてゆけないのかもしれないが、女性にしてはがっしりした体格をもち竹を割ったような性格の、しかし母性にあふれたギネヴィアと、常に主人のそばに控えなにくれとなく世話を焼く根っからの保護者タイプのテディとは、心根の奥深いところでは多くの共通点をもつようだ。ひょっとしたらこの組み合わせも悪くないのかもしれない、とシュバリスは思った。ユアンが相手だと、たとえ魔力も頭脳も対等とはいえじぶんの出自や過去の記憶にとらわれてギネヴィアはユアンに気を遣い、さらに病弱なユアンの面倒を見ねばという重責で疲弊していきそうだが、相手がテディならばその問題はない。むしろ、意外と脆いところがあるのでは、と短いつきあいのシュバリスにすら思わせるギネヴィアを、テディならしっかり支えてあげられそうだ。また、教官兼理事長兼学院長などという肩肘のはった職についているユアンと、自身も研究者として魔具の開発に心血をそそぐギネヴィアは、互いにプライドもあればどうしても譲れない部分も持ち合わせているだろう。しかしテディなら、お互いに一歩引くことができそうだ。

  (一歩引くって、なかなか難しいのよね。わたしも最初は、あんまり過保護すぎるハルトと喧嘩になったものだわ。七人の中じゃ年下だったし力もなかったし魔法もまるっきりむいてなかったからしょうがないんだけど)

  (それにしても懐かしい。若いひとの恋愛っていいものねえ。あのころに戻ったみたいでどきどきしちゃう)

  ギネヴィアもテディも、シュバリスにとっては本来年下の女の子であり男の子である。すぐ横で白けた様子のシャマールですら。いや、そもそもシャマールの事情も気になる。

  (アリアナは知ってるのかしら……、いえ、知らないでしょうね。まさかこんなに近くにいるなんて)

  思考を呼んだのか、ふと隣にいたユィリエがすっと人差し指を唇にあて、あの猛禽の目でシュバリスを見下ろした。その後、たしかファラスといったか、まだ少年めいた面差しを残した男にむかってギネヴィアを顎で指し「悪いことはいわないからあの女だけはやめておけ」と苦々しく云った。「あの女こそほんものの魔女だ。きみはていのいい情報源として使われているだけだ。君はあの女の、無数にいる崇拝者のうちのひとりだよ」ーーファラスはしかし「いえ。博士はすばらしいかたですよ」と意見を曲げなかった。ユィリエはため息をつき、いまだにくっついたままの先輩後輩にむきなおると「一般人をいつまでもここにおいておくつもりはない。引き取ってくれるなら身元引き受け人が学院長であろうと博士だろうとどちらでもいい、帰ってくれ」と、ぐるぐるまわりはじめたふたりに冷たく云った。「玄関はあっちだ」

  「はあい」

  ギネヴィアは、合図してじぶんを地面に降ろさせた。

  「じゃあ行こうかテディ。シュバリスもいっしょに」

  「いや、イスラメイくんは別行動だ。このまま大学に行ってもらう」

  「大学? なんで大学?」

  「横槍がはいった。ついでに図書館での一件について聴取したいそうだ。[[rb:原本 > オリジナル]]の文面が変わったとか? その件で別部署の人間がいま来るとーーあ、来た」

  シャマールのいうとおり、回廊の端から制服姿の男女が現れた。「君がイスラメイ?」

  「あ、はいーー」

  「ではいっしょに」

  オリジナルについては、騎士団からも大学からも研究所からも、ちょくちょく呼び出されて説明を求められている。騎士団にいるならついでに話を聞こうと彼らは考えたのだろう。

  素直についていこうとしてシュバリスはふと立ち止まった。振り返ると、廊下の隅に定期的に表れる赤大理石で区切られた床に魔法陣が浮き出したところだった。誰か来る。せつな、ユアン・カルセドニーが出現していた。

  「あ、ユアン!」

  「ギネヴィア? 来てたのかーー、」

  「ユアンさま!」

  ユアンは従者と友人を見つめ、ふたりの距離が近すぎることに困惑したのか、一瞬だけ薄く眉間にしわを寄せていたが、やがて屈託なく微笑んだ。ユィリエが興味深そうに「ほほう」と唸ったのをシュバリスは見逃さなかった。ユアンはかるく手をあげた。

  「院長会は早めにきりあげたぞ。おかえりテディ」

  「ありがとう存じます。ただいま戻りました!」

  「しかしギネヴィアはなぜここに?」

  「ちょっと用事があったからついでだよ。君の代わりに連れて帰ってあげようとしてたとこさ。あ、シュバリスもいるよ。女王陛下に呼び出されてねえ」

  「そうかーーシュバリスだけか?」

  「テディの弟くんもいっしょだった。末弟のほう、アレクセイだっけ。アレクも一緒だったけど、ユリー?」

  「そちらはもう帰した」そっけなくユィリエが云った。「とくになにもなし。この件には無関係のようだ」その瞬間、テディはひどくほっとため息をつき、ユアンは「あの子だって十三だし、ナイジェルからはひどく虐められていたんだ、関係あるはずない」と抗議した。

  「しかも、院長のわたしに無断で学院から連れ出したなシャマール」

  ユィリエは一顧だにせず黙殺した。「お引取りを」と手を振った。

  「われわれにはまだ調べることが山ほどある」

  ユアンは何かを云いかけたが、相手にしてもらちがあかないと踏んだのだろう、ため息をつくとシュバリスを手招きした。

  「ではイスラメイもいっしょに学院に戻ろう。おいで、寮まで送っていく」

  「いえ、わたくしは少々大学のほうへ呼ばれておりますの。こちらで失礼いたしますわ」

  「おやーーそうだったのか。それじゃあ、」

  ふだんの彼ならぜったいにシュバリスをひとりで行かせなかっただろうが、シュバリスの背後にすでに制服姿の男女がひかえていたため、とくになにも云わずテディとギネヴィアとともに廊下を歩き出した。シュバリスはそのまま、騎士団の職員に連れられて建物を出た。

  その後は、ある意味刺激的だった騎士団での出来事とは正反対、実に退屈な数時間だった。大学のみならず研究所へもシュバリスは連れて行かれたが、[[rb:原本 > オリジナル]]の変化について根掘り葉掘り聞かれたあげく、最終的には「同じ蛇人である君がシュバリスの復讐を否定したことで、オリジナルに封じられていたハルトガルトの魂が文言から不穏なものを取り除いて予言を修正したのだろう」という、シュバリスでも出せそうな結論を告げられた。皇妃ドーリスではなくシュバリスに捧げられた詩ではないのかというユアンの提言は、「まだ断言はできない」し、さらなる調査を待たねばならないとの説明だったがーーくわえて研究所でも大学でも、「いったいシュバリス・イスラメイのなにが条件を満たしたのだろう」と調査関係者のあいだで話はもちきりになっており、その「なにか」がなんなのか、もっと詳しく調べたがっていた。「ただ蛇人の女の子だから、という理由ではない、ちゃんとした理由があるはずだ。きみはなにか心当たりがないかね?」ーーアイドクレーズがユアンについた「じぶんはシュバリスの子孫なのだ」という嘘を、シュバリスはよっぽどじぶんも使おうかと思ったが、巻き起こるであろう混乱を想像してやめた。

  しかしじつのところ、大学でも研究所でも、シュバリスはほとんどうわのそらだった。ひたすら騎士団で目と耳にいれた情報について考えていた。

  (帰ったらさっそくアイクに相談しなきゃ……)

  研究所を出たときは午後五時をまわっていた。学院はとっくに放課後、クラブ活動も終盤。季節は初夏、黄昏というにはまだ早いが、しかしけして早くもない。

  (なんとも半端な時間になったわねえ。クラブに出るか寮に帰るかーーハダルはわたしを待ってるかしら、それとももうサボって家に帰っちゃってる時間? うーん、どうしよう)

  授業なかばでとつぜん連行されたため、アイドクレーズに知らせる暇もなかった。いまごろ心配しているだろう。騎士団に行ったことはセミラーミデが知らせてくれているだろうが、騎士団の建物では外部との連絡は禁じられていたし、学院に来てこんなに長い間離れていたのも連絡を絶っていたのも授業をのぞけばはじめてだ。いまから帰るからね、とそっと魔力を発動して囁きかけると、頭のなかで反応があったーーアイドクレーズはどうも、シュバリスがクラブに戻って来ると予測して第三運動場で待機していたようだ。第三運動場ならここから近い、アイドクレーズのことだから彼女の動きを察して彼もこちらへむかってきてくれるはずだ。シュバリスはほっとして、魔法都市の敷地内でも奥地にある研究所から学院へ向かう小道へ出た。

  初夏とあってまだ日は中空に残っている。風も穏やかでいい天気だ。しかし丘に囲まれた敷地の内部は早くも陰り始めており、学院、大学、研究所、騎士団をそれぞれ隔てている広大な森に入ると、夕闇に包まれたように周囲は暗く色彩をなくした。それにひどく静かだったーーシュバリスはなんとなく足を早めた。「けしてひとりにならないように」「いっしょに帰ろう」とユアンが申し出た理由がこのときわかった。

  (ナイジェルがどこにいるかもわからないし、わたしが彼に恨まれてる可能性だって知ってるはずだけど、騎士団ではなにか手違いがあったのかしら)

  シュバリスの予想外だったことに、護衛と思われた男女ふたりは、騎士団から大学に着いた時点で本部から呼び出しがあったとかでさっさと帰ってしまっていた。研究所では誰かが送ってくれるという申し出もなかったし、じぶんから頼むのもあつかましい気がして遠慮してしまったが、すくなくとも学院校舎まで送ってくれるよう頼むべきだったかもしれない。結果的にひとりで暗い森を歩いていることにシュバリスは急に不安を覚えた。

  森のなかは背の高い橅や楢や樫の木がそびえたって影をつくり、地表は蘚苔類の席巻するところとなっている。ときおり鳥の鳴く声が響くほかは森閑としている。おまけに時間帯がわるいのかひとひとり通る気配がない。

  (早く帰ろ……)

  それぞれたっぷりと間隔をとっておかれている関連施設とそこをつなぐ道の複雑さ長さがいまはうっとうしかった。短距離移動の陣ならわたしでも描けるかしら、と十分ほど森のなかの小道を歩いた時点でシュバリスは考えたが、あいにくあたりのは隙間からぴんぴんと生え出す野草を押さえつけるように石畳が敷かれ、歩道以外の場所は分厚い苔に覆われていた。移動のための[[rb:呪文 > コード]]や図象を描くのにはまったく適していない。印を描こうにもあいにく筆記具と紙の持ち合わせがなかった。

  (うーん。さっき会ったとき、教官に移動用の印をいただいておくべきだったわ)

  それでも根気よく歩いていくうち、ようやく森の切れ目が見えた。水面が反射する光のきらめきは、敷地内を蛇行する運河にちがいない。だとすると、業者やボート部の学生にいきあえば乗せてもらえるかもしれない。それで第三運動場近くまでいければアイドクレーズともすぐ合流だ。

  シュバリスは足を早め、とっとと運河沿いの道に出ようとした。幸運なことに、誰かが笑い声をあげながらちょうど道の先に現れ、ふとシュバリスをふりむいた。三人いる。荷運び業者かもしれない。シュバリスは足早に近づき、そしてーー

  近くで見た瞬間足が止まった。目の前で運河への出口をふさぐように立った男たちは、黒いフード付きの外套を羽織っており、いずれもフードを目深におろして顔の下半分しか見えないが、頭を上下するひょうしに覗く三人の眼は妙に鋭く、異様な光を発していた。それだけでも剣呑なのだが、シュバリスも蛇人としての視力の良さですぐに察知したーー彼らは学院の生徒やただの十歳の少女を見る目でシュバリスを見つめてはいなかった。それは獲物を狩る獰猛な肉食獣の目だった。

  (だめ。あぶない。近づいちゃだめ)

  シュバリスは直感にしたがい、とっさに体を反転させた。もと来た道を全速力で走り始めるーーそのまま彼らがどこかへ行きすぎていけばシュバリスの予感は杞憂ですんだが、厭な予感はどうやらあたりだった。男たちの足音が追ってくる。

  シュバリスは速度をあげた。

  [newpage]

  [chapter:乙女のピンチ]

  男たちが追ってくる。その、ぜったいにシュバリスを逃すまいと後ろをひたひたと執拗につけてくる足音と息づかいは、背を向けて走るシュバリスにとって、彼らが本気であること、彼らがただの偶然で居合わせたのではなくまちがいなくシュバリスを狙ってそこにいたのだと如実に彼女に思い知らせて慄然とさせた。なんとか姿をくらますか、彼らを撒いてしまおうと、シュバリスは必死で走り続けた。が、しょせん大人と子ども、森の反対、研究所の方向へ抜ける道へたどりつく前に追いつかれてしまうのは明らかだった。それに、妙に足のはやい彼らは途中から三手に分かれ、シュバリスを包囲するようにじりじりと距離を詰めてきたーーこのままでは捕まる。途中からシュバリスは遭難覚悟で、舗装された歩道を外れて森へと踏み込んだ。歩道の周辺は人の手が入っているが、森の奥地は手つかずの原生林だと、入学直後のオリエンテーションで森番の老人から説明をうけていた。ならばそれなりに起伏もあるし隠れる場所もあるはずだ。木の根や石に足をとられ苔にすべりそうになりながら、シュバリスは身を隠せそうな場所を探して逃げつづけた。が、健闘むなしく、安全な場所を見つける前に追いつかれた。

  「あーー」

  息が苦しかった。魚を追い込むようにして追い込まれたのは一本の巨木の前で、その巨木にぴったりと背をつけて、目の前でじぶんを取り囲んでにやにやと笑う三人の男をめまぐるしくシュバリスは見つめ、ここからどう逃げるか必死で考えていた。

  三人は腰に武器を提げていた。ナイフ、剣、クロスボウのようなもの。他にもジャケットの内側が不恰好に膨らんでいる。きっと武器や魔具をさらに隠し持っている。

  (このひとたちの目的はーー?)

  たんに、裕福で知られる学院の生徒めあての強盗だろうと楽観的に考えようとしたが、この状況でそんなわけはない。三人はシュバリスが目当てなのだ。

  「だれ?」

  シュバリスは三人を睨みながら云った。

  「なにが目的なの?」

  「あんたの命。あんたに生きててもらっちゃ困るやつがいるんだよ」

  「わたしが生きてたらこまるひとーー」

  それは聖遺物強奪とアルジュナ暗殺の黒幕か。シュバリスは三人に注意をむけつつあたりをうかがった。誰かがきてくれる気配はないしここから逃げるのも難しそうだ。となると、アイドクレーズが来てくれるまでなんとしても時間を稼ぐ必要がある。

  黙って殺される気はなかった。シュバリスはさっと手を振った。シュバリスの周囲が輝き、白い光を帯びた透明な膜が彼女を覆った。硬質なシャボン玉のなかにこもったような彼女に、男たちは首をかしげつつもゆっくりと手を伸ばしてきた。が、

  「ぐっ」

  ばちん、とその手はシャボン玉の泡に弾かれた。シュバリスはほっとため息をついた。これでアイドクレーズが来るまでもつ。見えない壁に阻まれた三人は、次々に武器を抜いて透明な膜へ振り下ろした。鋼をガラスに叩きつけたような鈍い音が連続して響き渡る。どの武器も膜を貫通することはなかった。

  「無駄よ」

  本音をいえば怯えていたが、虚勢を張ってシュバリスは云い放った。

  「これはぜったい壊せないの。だからわたしがあなたたちの顔を完璧に覚えちゃう前に撤退したら?」

  男たちが顔を見合わせる。防御壁が完璧に機能しているとわかれば諦めて去っていくだろう。千年前にじぶんと仲間を敵の攻撃から守ってくれた鉄壁の防御魔法だ。ちゃんと発動できたことにほっとしながら、騎士団に男たちの人相や風体を証言できるよう、シュバリスは膜ごしに男たちをじっくりと観察しにかかった。全員がなんらかの獣人のようだ。たぶん、素早い[[rb:狼人 > ルプソム]]に脚力に定評のある[[rb:馬人 > エクオム]]、残る一人は金色のたてがみのような髪からして[[rb:獅子人 > レオーム]]だろう。

  三人はシュバリスの視線に気づくと、武器をふるううち取れかかっていたフードを目深にかぶりなおし、ひそひそとなにかを囁き交わした。その後、二人を残してひとりがシュバリスの背後にそびえる木の裏へと回り込んでいった。さく、と苔と草を踏む音が聞こえた。そしてーー

  「えっ?」

  シュバリスは目を疑った。周囲の地面が光り、さっと模様が浮かんだかと思ったら、防御壁にびしりとヒビが走り、乾いた音をたてて崩れていった。

  「えっーー?」

  よくわからないが壊れた。シュバリスはあわててもういちど防御を張り直そうとしたが、一瞬の狼狽を男たちは見逃さなかった。

  「きゃーー、」

  [[rb:獅子人 > レオーム]]がシュバリスを木の根元から引き剥がし、地面に押し倒した。すぐに彼らを跳ね除ける魔法を発動すべく手をふりあげたが、なにかべたべたしたものが手のひらに押し付けられる。「なに?」びっくりしながら見あげると、そこには魔力を封じる模様が記された魔法印が貼り付けられていた。さらにシュバリスの手首にからむように、太い紐がぐるぐる巻きつけられた。やはり魔力を封じるためのものだ。それはすぐにもう片方の手にも巻かれ、さらにもう一本、別の太く頑丈な縄で彼女の両手首は拘束されてしまった。

  「うーーぐ、」

  なにするの、と声をあげようとしたシュバリスの口に、別の男がなにかを突っ込む。がち、と歯にぶつかっていったん諦めたかに思えたが、すぐにシュバリスの顎を掴むと無理やり口をこじあけてそれを押し込んできた。シュバリスの口にやっと収まるほどの大きさの[[rb:魔晶 > クリスタル]]。声を失わせ、ことばによる魔法の発動を禁じるためのもの。

  (呪文を封じられたーーえっなにこれ、こんなのあり? えっーー、)

  硬いクリスタルは口腔内を傷つけ、血の味が広がった。その後に行われた蛮行に、シュバリスはぎょっと目を見開いた。男たちはシュバリスの襟元を勢いよく開くと、首筋にまたなにかを貼り付けた。手に貼られたのと同じ魔法封じの印だ。同じものをお腹と太ももと膝下と足首にも貼り付ける。その部位は全身をめぐる魔力が多く流れる重要な箇所だ。体内をめぐる魔力がすべて堰き止められ、もはやことばによっても動作によっても精神集中によっても魔法を使うことが困難になった。

  (周到なーー、わたしへの対処法を予習してきてる)

  (というかこんなの千年前にはなかった。想定外もいいところ、こんなふうに魔法使いの魔力を遮蔽するなんて、こんなのありなの!? いつのまにできたの、違法じゃないの!?)

  ここへきて恐怖に支配された。両手を体の上で拘束され、地面に磔にされながら、シュバリスは愕然と三人を見上げた。それでも反撃の可能性はないではなかった。深く精神を集中すれば、この状態からでも魔法を発動できる。なにしろ大神ジヴァに力を授けられた蛇神シュバリスだ。ただの獣人に負けはしない。しかしーー

  「おっと。見た目に騙されちゃダメって話だ」

  獅子人が小さな瓶を取り出すと、栓を開けてシュバリスの唇に当てた。大きな魔晶のおかげで完全に閉じきれていない口の中へと、石づたいに熱い液体が滴り落ちてきた。傷口にしみたばかりでなく、それは直接喉に流れ込んでシュバリスをひどく咳きこませた。苦しくて涙が滲んだ。

  「即効性だ。ああ、やっぱり子どもだとまわりが早いな」

  獅子人がにやりと笑う。シュバリスは混乱に陥りそうなのを必死でこらえていた。

  (ぼうっとするーーふわふわする。体がーー熱ーー、)

  じん、と体の芯がしびれるような感覚。頰が熱い。黙り込んだシュバリスを見下ろして、男たちがつぶやいた。

  「これで仕事は半分終わりだ。あとはバラすだけだ」

  「ああ。殺してバラしてクリスタルに閉じ込めて沈めろって話だったな」

  「残酷だよなあ。それにこわいほどの念の入れよう、見たとこ無害な女の子にしか見えないんだがな」

  いまにも溶けていきそうな思考のなかで、シュバリスは男たちの会話に愕然とした。ばらばらにされてクリスタルに封じられて沈められる。永遠の命をもつシュバリスだからおそらくそれでも死にはしないが、魔法を封じられたまま海底に沈められれば、体を再生させるのはほぼ不可能になる。これから先の永遠を、ばらばらになって[[rb:底生生物 > ベントス]]と一緒にひたすら暗い水の底で過ごすことになる。ただ殺されるより悪い。

  (いやーーいやいやいや。そんなのいや!)

  (アイクーーアイドクレーズ。早く来て。いまどこにいるの?)

  呼びかけてもアイドクレーズの反応がなかった。魔力が封じられているせいだ。シュバリスは猛烈に焦りを感じた。アイドクレーズがこの場所を特定して来てくれるまで、あとどれくらいかかるだろう。そのときにはシュバリスはここから連れ去られているにちがいない。魔力の痕跡もなく、いっさいの手がかりを得られないとしたら、いくらアイドクレーズとはいえシュバリスを見つけられない。

  「んぐーー」

  口のなかに唾液が溜まってひどく気持ちが悪い。顔を横にむけると、口の端から、先ほど流し込まれた薬混じりの唾液が伝って地面を濡らした。体をよじらせるシュバリスを見下ろして、ふと馬人が「もったいねえなあ」とつぶやいた。同時にシュバリスの足になんとも気持ちのわるい感触がはしった。膝から上へと指先でなぞられている。狼人が「ああ、もったいない」と答えた。

  「あっちは止められてるんだっけ。まあしょうがねえかこの年じゃーーせめてあと四年か五年、年くってたらよかったな。こいつ蛇人だろ? 十四、十五なら花街なら仕込みがはじまるころだ。しかもかなり」

  「ああ。この子は綺麗になるよ。ほら見てみろ」

  獅子人が乱暴にシュバリスの頭をつかみ、ぐいっと顔を仰向けさせた。睨んでやりたかったが、爪に髪がひっかかり、その痛みで余裕がなかった。獅子人は苦しげに顔をしかめるシュバリスをしげしげと見下ろした。

  「この歳でこれだから末恐ろしい。ほんと、地下に売り飛ばすくらいの仕事ならよかったなーー女で、ーしかも子ども殺しはいくらおれでも寝覚めが悪い。というかおまえ、あと四年か五年はまずいぞ、それでもまだ子どもだ、せめてもう十年待て」

  「いや、おれはそのくらいでも全然いけるぞ」

  「げえ。このロリやろう」

  「う~んおれは逆だなあ。あと四十か五十は年くっててほしいなあ」

  「ーーはあ?」

  横から云った馬人に獅子人と狼人が呆れたように頭をふった。「ほんと尊敬する、馬野郎」「勝手に云ってろ」ーーそして獅子人は「さて連れてくか」と背中に背負っていた巨大な布を下ろした。

  「もらった印と陣、こりゃなかなか高性能だ。気前のいい依頼主でよかった、おかげであっさりカタがついた。壁を作られたときはどうするかと思ったがーー森の中はめったに人がこないとはいえ見つかったらまずい、さっさといこう」

  「いやいやリーダー、ちょっと待ってくれよ」

  獅子人のことばに、名残おしそうに狼人が頭をふった。シュバリスの足をなぞっているのはこいつだ。いまやなぞるというより撫で回すといったほうが正しい。内心戦慄しながらシュバリスが身をよじっていると、目を細めた狼人は「年くってたらやってもいいんだろ」と不穏なことを云い始めた。

  「十歳って云ってたよな。十七までは無理だけど、おれならギリ変えられるぜ」

  「ああ? あ、マジックかーーなんだよおまえ、本気でこのガキをやりたいのか?」

  「だってもったいねえよ。どうせバラすんだろ、わかりゃしねえよ」

  「まあな。だが依頼の内容ではーー」

  「後ろ暗いのはお互いさまだろ。なんにもいわねえさ」

  獅子人は黙って狼人をにらんでいたが、いまここで仲間割れするよりはいいと考えたのだろう。「さっさとすませろよ」と再び腰をおろした。年上好きらしい馬人までもが喜色満面だ。三人の様子から、これから何が行われるのか悟って、シュバリスは声にならない声をあげ、拘束された両手をほどこうとした。しかしその様子すら、彼らにとっては余興としか思えないようだった。

  「イキがいいなあ、楽しみだぜ。そら、いまから大人にしてやるからいい子にしてな、お嬢ちゃん」

  狼人の大きく分厚い掌がシュバリスの首元に押し当てられた。焼けつく熱が広がり、その熱さともたらされる痛みにシュバリスは力をふりしぼって暴れたーーが、馬人と獅子人の力強い手に四肢を押さえ込まれ、とうとうシュバリスの全身を赤と紫の光が覆いつくした。光の中で、おぞましい魔法の暴力にシュバリスはびくんと跳ねた。骨が、肉が、関節が、すべての細胞がすさまじい勢いで成長、増殖していくーー

  「あぐーーうーー、」

  一瞬気が遠くなった。すぐに我に返って目を見開くと魔法は終わり、驚いたようにぽかんと口を開けた男たち三人の顔が目の前にあった。

  「すごいな。ここまでとは思わなかった。世が世なら国を傾けそうなできだ」

  「こんなの見たことねえーー」

  「さすがセレスタイン、綺麗どころが多いって話だが」

  男たちはちょっと惚けたように云いあっていたが、シュバリスはじぶんの体を見下ろしてはっとした。彼女の肉体は十歳の幼さを脱し、十五歳ほどに成長していた。こんなマジックがあるとはほんとうに千差万別だ。もちろん一時的なものだろうが、ラッキーなことに手足が成長したせいで貼り付けられた魔力封じの印紙が伸びた皮膚についていけず千切れそうになっている。シュバリスは身をよじった。これさえ取れれば魔法が使える。だが男たちも気づいていないわけではなかった。獅子人が「予備にもらっといてよかったな」と、上から新しい魔法印を貼りなおし、シュバリスの希望は砕かれた。

  (ひっ。やだあっーーやだやだ!)

  しかもいまの彼女はかなりあられもない格好になってしまっていた。身につけた制服は体の成長についていけず、あちらこちら苦しげに悲鳴をあげて破れそうだったし、胸元のボタンはとっくに弾け飛び、スカートはめくれあがっていた。傍観に徹する様子だった獅子人までもが身を乗り出し、舐めるようにシュバリスの全身に視線を往復させていた。

  「あーー」

  狼人の手が伸びた。シャツの襟から裾まで、狼人の鋭い爪がそのまま無遠慮に下着ごとひきちぎる。肌を外気にさらされてぶるりと身震いした刹那、シュバリスの上に狼人がのしかかり、彼は笑って仲間に首をかしげた。

  「おれが先だ。いいよな?」

  「いいから早くしろ。ただでさえまだ敷地内だ、誰か来たら面倒だ」

  「来るかよ、森の奥だぜ。ま、できれば屋内がよかったとはおれも思うが」

  「いや、外がいちばんだぞ」

  「ほんとおまえはケダモノだよ。もういいから早く終わらせろ!」

  「了解。さてお嬢、蛇人なんかどうせセレスタインを出たってろくな仕事ねえ、いずれあっちに堕ちるしかねえんだよ。朱門のむこうじゃたいそう売れっ子になるだろうよーーあ、いや、これから死ぬんだっけ。まあいい、おまえだって楽しいことのひとつも知らないで死ぬのは厭だろ? なあ?」

  軽く撫でられて、シュバリスは必死で身をよじった。まだ薬が効いていて、あまりよくものを考えられない。だが、このままだと断じてまずい。なんとか脱出しなければ。

  と、顎をつかまれた。狼人は大きく口をあけて笑うと、シュバリスの首筋を甘噛みしはじめた。そのままずるずると、己の獲物であることを示すように胸元まで噛み痕をつけてゆく。歯が皮膚に食い込む痛みを感じ、沈み込む男の後頭部を見下ろしながら、シュバリスは顔だけを必死に横に向け、男たちが唯一見逃した魔具を外しにかかった。

  成長したのは手足だけではない。口腔内もやや広がり、舌の上でクリスタルを転がせるまでになった。シュバリスは、びちゃびちゃと音をたてて胸に舌を這わせた狼人が、屈強な腕をもちあげてシュバリスの腰を抱えこみ、ほかの二人が嫌気がさしたように顔をそむけた瞬間を見計らって、口に突っ込まれたクリスタルを吐き出した。

  「あああああああああああああ!」

  同時に絶叫した。魔力のこもった歌に狼人が彼女の上から弾き飛ばされ、ほかの二人がぎょっとしたようにふりむく。彼らが臨戦態勢をとる前にシュバリスはすばやく立ち上がり、ぼろぼろになった制服をじぶんの体に巻き付けて走り始めた。

  追いかけっこがふたたび始まった。

  [newpage]

  [chapter:バトルメイド]

  (歩道まで戻る)

  死地を脱する道を探して、シュバリスは全力で駆けた。

  (歩道まで戻る。そうすれば誰かに会う確率は高くなる。なんでもいい、そこまで行って大声をあげて助けを呼ぶ。アイドクレーズーーアイドクレーズ!)

  泣きたかったが泣いている場合ではない、いまはいつもより深い精神集中が求められる。わずかな魔力で的確に魔法を使わなければならない。なんといってもまだ両手両足が封じられ、彼女の力は九割九分までせき止められている。

  アイドクレーズからの反応はない。魔力が足りない。

  (痛いーー)

  しばられた両手首は、成長したせいでなおのこときつく縄が食い込み、皮膚が裂けて血がにじんでいた。その不自由な両手で、フックが破損してずりおちるスカートをウエストまで引き上げたが、そのぶん裾が短くなって、出してはいけない部分まで露わになっている。というより、もはやスカートではなくただのおかざり布だ。十歳の体ぴったりに作られているのもまずかった。いずれ大きくなるのだからと、入学前の買い物でゆったりサイズに注文しようとしたが、学院の生徒はそんなことはしないと云われて断念したのだ。そもそもが良家の子弟が大半だから、つど作りなおせばいいという考えですべて体ぴったりに作られる。足を出すのが恥ずかしくて規則におさまる範囲でスカート丈を長めにしてもらい、それほど長く学院にいる気もないのだからと容認したが、いっきに五年も年をとっては内側からはじけとんでもしかたない。というよりそもそも、のしかかられたときに狼人の爪で触られて、彼女のスカートは縦にざっくり切り裂かれていた。学院生徒としての慎みもへったくれもない。しかしもっと悲惨なことになるよりましだった。

  (考えるのはあと。いまはここから逃げること)

  魔法は封じられている。だが怪我の功名というべきか、十五歳の肉体は十歳の肉体より格段に体力を備えていた。薬の効果も薄くなっているようで、さきほどより思考もはっきりしている。体力だけで逃げ切れる。ぎりぎりいけるーーふたたび希望を抱いたシュバリスのそばで、びしりと乾いた音があがった。

  「ーー、」

  木に矢が突き刺さっていた。続けて地面が弾けた。男たちの怒声が背後から聞こえた。「逃がすな」「捕まえろ」「もういい、殺せ」ーーシュバリスは唇をかみしめ、獣人としての本能で太陽の方角をたしかめると、道なき道をひた走った。

  「ーーっ、う、」

  猛スピードで放たれた魔法の弾が足をかすめた。矢が頭のぎりぎり横を飛んだ。やがて木立が途切れ、見晴らしのいい一本道が現れた。百メートルほど先には水面のきらめき。ほぼ正確にもとの場所へと戻ってきた。だが、森の出口へ駆けようとしたシュバリスを囲むように、突然ごうっという音がして、巨大な火柱があがった。獅子人を先頭に、男たちが横から近づいてくる。

  (ここからもういちど森の中へ踏み込むのはみずから退路を断つようなものだわ。進む以外にない)

  目の前に炎の壁。シュバリスは一歩引き、手を壁にむけたが、もっとも得意な[[rb:水 > ヴァルナ]]をイメージしたにもかかわらず魔法を使えなかった。やはり印を剥がさねばどうにもならない。もしくは手首に食い込む縄をほどくかだ。シュバリスは口元に手をもっていって歯で噛みきろうとした。だが固い結び目はびくともしない。めげずにそのまま、お腹に貼られた魔法印を強引に剥がす。魔力の巡りがすこしよくなった。「アイドクレーズ!」ーー小さな叫びに反応があった。アイドクレーズが来てくれる。もう少しだ。

  「諦めろ」

  やってくる男たちの顔には焦りが浮かんでいる。獅子人が剣を抜き、馬人は弓を構え、狼人は弾き飛ばされたときにぶつけたのか、目の周りに青あざをつくっている。彼がいちばん恨みがましい目をしていた。魔法の矢だか弾丸だかを放ったのはこいつだ。

  「蛇人はおとなしくほかの[[rb:獣人 > フェラム]]の下にいろ。この売女」

  「もういちど云ってごらんなさい。ひっぱたくわよ」

  「その前に殺してやる」

  ごうっと音があがり、道の反対側にも炎の柱が現れた。だがシュバリスの魔法もわずかながら回復している。シュバリスが手を振ると火柱が消え、草の焼け焦げる匂いがあたりに漂った。

  「最初からやり直しか。しょうがねえ」

  男たちが身構えた。シュバリスはじりじりと後退しながら、どうやって歩道の先までたどり着くか必死で考えていた。

  上空からけたたましい鳴き声があがったのはそのときだった。とっさに見上げると、そこだけ緑の天蓋のない歩道の上空に小型飛竜が静止していた。竜の唸りにまじってぼそぼそ囁きあう声が聞こえた。

  「ーーほんとにいるな。しかもあれはなんだ。なにが起こってる? ひどくくすぶってるが火事か?」

  「いや魔法だろ。やっぱなんかおかしなことが起こってる。な、行ってみようぜ」

  「うーん。そうか? おまえがそういうなら……」

  「待て待て、勝手に決めるな。おい一年、いい餌場があるって話じゃなかったのか? なのになんだよ、いきなり降下したりして。鱗に悪いだろ!」

  「いやまあたぶんそうなんすけど、ちょっととりあえず降りませんか。誰かが魔法使ってるってなるとどっちみち通報しなきゃですし」

  シュバリスたちがなにか云う前に、飛竜が五頭、いっせいに降下してきた。地響きをあげて歩道の上に降り立った飛竜の背から、騎手たちが手綱を掴んだまま地面に飛び降りる。上級生らしき少年二人と、アルジュナとアレクセイとカレン。シュバリスはぽかんと五人を見つめた。だがそれは相手も同じだった。

  「ーーイスラメイ? おまえイスラメイか?」

  「あ……、」

  さすがに寮の隣人、寝起きも寝る前も食事風景も風呂上がりの姿も見ているだけある。アレクセイもアルジュナも、いまの彼女がシュバリスだとすぐに気づいた。アレクセイが「なんで?」とすっとんきょうな声をあげ、アルジュナも大きな目をいっぱいに見開いた。だが、シュバリスの全身を確認した両者の顔にすぐに浮かんだのは驚愕と嫌悪と怒りだった。

  「あいつらにやられたのか?」

  アレクセイの強い視線はシュバリスをとおりこし、まだ歩道に踏み込むことなく森に立ち尽くしている獣人三人にそそがれた。アルジュナもだ。男たちとシュバリスとを見比べる目には、アレクセイよりもっと深い絶望と、燃えるような怒りがたたえられていた。

  「おいイスラメイ。まさか最後までやられてないだろうな」

  なにを訊かれているのか理解して、シュバリスは頬を赤らめた。十三歳とはいえそちらの知識もちゃんとある、さすが千年前とは違う、学院ってそっちも教えてくれるのね、とちょっと感心しながら「だいじょうぶ」とシュバリスは慌てて、張りつめてはじけそうな胸元の布を必死でかき寄せた。

  「怪我しただけ。最後まではーーえっと、されてない」

  むしろ彼らが妙な下心を出してくれたおかげで逃げられたのだ。だが事情を知らないアレクセイは「ならいい、多少は救いがある。間に合ったな」と吐き捨てて獣人たちに向き直った。その横にいたアルジュナは、シュバリスが答えた瞬間深くため息をもらしたものの、表情は険しいままだ。上品で優雅な世界に暮らしてきた貴族の少年には、同級生が陵辱されかかるなど耐えがたく許しがたく見るもおぞましい光景にちがいない。それは彼の横にいたカレンですら同じようだった。いつもの厭味も毒舌もなく、ずたずたになったシュバリスの制服や血濡れた腕、傷だらけの手足、噛み痕のついた首筋や胸元に、同じ少女として動揺して震えている。

  アレクセイとアルジュナが、シュバリスへと一歩近づいたときだった。

  「全員動くな!」

  獅子人が馬人の持つ弓を取り上げ、さっとアルジュナにむけた。

  「ちょうどいい、次はおまえだった。まとめて片付けてやる」

  狼人が指を鳴らすとシュバリスたちの周囲に火柱が再びたち、カレンが悲鳴をあげた。アレクセイが「部長と先輩とカレンは逃げてください。人を呼んで!」と叫んだ。「おれが時間を稼ぎます。アル、おまえも行け!」

  「ぼくは行かない」意外なほどきっぱりとアルジュナが答えた。「聞いたか? あの獅子人、次はぼくだとか云ったぞ。だったらここで捕まえたほうがよくないか?」

  「あ~。うーん、そっか? じゃあせめて背後にいろおまえは」

  「アレク! なにかトラブルなら俺たちも」先輩ふたりが声をあげる。しかしアレクセイは頭を振った。「いや、先輩がたは通報お願いします」

  そしてアレクセイは、獣人たちが止めるまもなくシュバリスのもとへ疾駆してきた。彼はシュバリスを睨んで低く云った。

  「なんでひとりで森にいる? おまえも学院長から云われてないのか。それに偉そうに気をつけろって云っときながらこのザマだ、おまえのほうが気をつけろよ」

  「ーー、」

  返す言葉もない。だが獣人の、魔法使いとしても武力の持ち主としても手練れの三人を、十三歳の少年たちが斃せるわけがない。シュバリスの魔力もまだ完全ではない。「全員逃げて」とシュバリスは背後を振り返って叫んだーーだが、アルジュナまでもが背から弓を抜き、腰に提げた矢筒に手をかけている。彼は騎竜弓術の選手だそうだが、それで戦う気でいるのだ。

  「だめ、逃げて!」

  上級生ふたりは、ひとまず指示どおり人を呼びにいこうとカレンを引っぱって背を向けた。彼らが飛竜に乗ろうとしたとき、竜の足元で地面が弾けた。

  「全員動くな」

  だがこれはアレクセイの戦闘意欲を刺激したらしい。「ああ?」と彼は大人三人を睨み返した。

  「おまえらなんかうちの外道に比べたらカスだ、こんな女ひとり仕損じてるマヌケ、しかもここまで追い詰めながら最終的に逃がしてるところを見ると鬼ごっこもまともにできないとみた、無能以下だぞ!」

  「ほざけガキが、なにをごちゃごちゃと。ーー見てろ」

  獅子人は「フレム」と指先を背後の先輩ふたりとカレンにむけた。三人と飛竜のもとへ火炎球が殺到する。みんなギリギリで躱したがそろって地面に転がり、恐慌に陥った飛竜が羽をばたつかせた。一騎が高く大空へ舞い去り、先輩のひとりが「あいつ主人を見捨てやがった」と呆然と云った。「これまで育ててやった恩を忘れたかあ!」

  しかしそれどころではなかった。火球の熱波はシュバリスたちにもおしよせていた。ほかのふたりも脅威だが、[[rb:獅子人 > レオーム]]はかなりの魔法使いだ。さして大きな炎球ではなかったが高温で、貫かれたら皮膚どころか内臓に損傷を負うだろう。シュバリスのすぐ横で、地面に落ちた小枝がめらめらと燃える。獅子人が云った。

  「仲間を殺されたくなかったら手をあげて後ろを向け。おれらが欲しいのは蛇人とそこの金髪だ、そいつらさえ殺せば他の連中に用はない」

  「蛇人はともかく金髪はやらない。先輩、ともかく走ってください」

  「させるか!」

  再び火球と、馬人の放った矢が連続して放たれた。もはや無差別攻撃だ。アレクセイは火と矢を器用に避け、シュバリスはその場にしゃがみ込み、アルジュナはそばにいたじぶんとアレクセイの竜を遠慮なく盾にした。先輩がたもカレンをかばって残った竜の陰に入った。どちらにしろ相手の魔法を上回らなければこの場を脱することはできない。アレクセイは攻撃をかわすあいだ、[[rb:杖 > ステッキ]]型の[[rb:魔法杖 > ワンド]]を取り出して構えていた。シュバリスは縛られたままの手で地面を探った。背後から強烈な青い[[rb:魔力 > オーラ]]を感じて振り返ると、竜の横から姿を現したアルジュナが、無防備にも全身を敵前に晒していた。のみならず左手足を前に出し、体を斜めにして右肘を曲げた妙な姿勢ーー弓を引く姿に見えるが、手のなかにはなにもない。

  「やめろアル、そっちはだめだ!」アレクセイが焦ったように叫んだ。「なぜ?」アルジュナは眉間に深い皺を寄せた。

  「こいつらはぼくも殺すと云った。やらなきゃやられる、なら先にやれ、タラゼドではそう教わった」

  「殺したら皇位が遠のく!」

  「調節する」

  「だめだ、いまおまえは怒ってる、暴走するぞ、アル!」

  (ーー矢が見える)

  シュバリスは息をのんだ。なにもなかったアルジュナの手のなかに弓と矢が出現していた。矢尻は沼のように黒く、[[rb:箆 > の]]は空のように青く矢羽根は白い。その矢をつがえた弓は節も弦も曇天の灰色、[[rb:弓弦 > ゆづる]]は金と銀のマーブル模様。

  これは魔法だ。

  (術者の魔力でできた弓矢ーー魔弓? こんなことができるの、あの子?)

  美しい[[rb:階段色 > グラデーション]]をもつ魔弓は、いまやまばゆい光を放ち、暗い森のなかできらめいていた。アルジュナの水色の目に凍てついた炎が宿り、その炎が瞳全体を覆い尽くす。透明な青い炎。シュバリスがなにか云おうとした瞬間、矢が放たれた。流星の速さで飛んだ矢は狼人の肩に吸い込まれ、衝撃でふっとんだ男は木にぶつかって止まったが、肩を貫通した矢によって木に磔にされていた。いつもむっつりと押し黙り、冷たい視線をシュバリスに向けるばかりの少年だが、さすがにハルトガルトの血を引いているだけはあったのだーーカレンが「アルジュナさま!」と目を潤ませ、先輩ふたりも「すげ」と顔を見合わせあった。いっぽうアレクセイは「よかったああ肩でえええ」と心底ほっとしたようにため息をついた。アルジュナがぼそりと「心臓を狙ったんだが」と残念そうに首をかしげた。「集中が浅かった」ーーだがその瞬間「ちくしょう」と獅子人が叫びざま、連続して火炎球を撃ち出した。子どもだからとわずかに残していた手加減の気配を完璧になくしていた。

  「だめ!」

  シュバリスは、地面に這わせていた両手を高く上げた。全員の前に、白い輝きを帯びた透明な防御壁が出現した。獅子人の炎が壁に弾かれて消えた。全員がはっとしたようにシュバリスを見つめた。

  (アルジュナが時間を稼いでくれてよかった)

  両手を拘束する縄がようやく解けた。燃えていた地面の枝の炎で縄を焼き切ったのだ。擦り傷に火傷までくわわって前にもまして激しい痛みを感じたが、自由になった手で、足に貼られた魔法印もすばやく引きちぎった。

  「先輩がたとカレンはいっこくも早く避難を。ひとを呼んでください。できればアレクセイとアルジュナもーーそこの三人、降伏しなさい! わたしが自由になったからには、ええと、云うこときかなきゃひどいめにあわせるわよ!」

  シュバリスの全力の威嚇に、敵はいかにも莫迦にした笑みを浮かべた。

  「お嬢ちゃんがか。ひどいめって、たとえばどんな?」

  「ええとーーい、いうこときかないと這いつくばらせて足を舐めさせちゃうわよ! だから降伏なさい!」

  アレクセイが「なんだそれ」馬人が「むしろごほうびだ」とぼそりと呟いた。「だまってろおまえはもう!」と獅子人が馬人をはたく。アレクセイが頭をふった。

  「逃げろって? 厭だね。あいつらアルの件と関係あるだろ。おまえとアルを狙ってるなら」

  「そうだ。正当防衛だーーここでケリをつける」

  アルジュナはどうやら殺る気だ。だがそんなことはさせられない。再び魔弓を構え、精神集中に入っていく彼に「だめよ」とシュバリスは敵を見据えた。

  「もう絶対にあなたたちが傷つけられることはない。だからやめて」

  (そうよ。子どもたちはわたしが守る。わたしはつかのまここにいるだけの忘れられた存在、いずれヤハンの森へ帰ってゆく旅人だけど、この子たちはここで暮らして未来を生きる。死なせたりしないし人殺しもさせない。だってもうここは戦場なんかじゃない平和な世界なんだから)

  「アルジュナ」

  シュバリスが優しく名を呼ぶと、アルジュナは眉間にくっきりとシワを寄せたままシュバリスに視線をむけた。

  「それを消して。それはもういらないわ」

  「しかしーー」

  「いらないのよ。お願い」

  「断る。そいつらはぼくを殺すと云った。君のこともだ。なにを生ぬるいことを、やるべきだ!」

  以前襲われたときの屈辱が脳裏に兆したのだろう、アルジュナは頑固だった。シュバリスはもういちど説得しようとしたが、「奇遇ですねえ」と底知れない怒りを秘めた子どもの声が響き、シュバリスは思わずふりむいた。

  アイドクレーズが立っていた。が、その表情の険しさにシュバリスは息を呑んだ。

  「貴様と意見があうとはな小僧。最初で最後だな」

  疾走から急ブレーキで立ち止まった彼はつかつかとあるじのもとへ歩み寄ってきた。脱ぎ捨てた外套をシュバリスの肩にかけると「わたしも久しぶりに殺りたい気分だ」とアイドクレーズは男たちを見据えて笑った。

  「久々の殺意ですよ。ここまで膨らんだのは五百年ぶり、いや三か月ぶり」

  「あーーアイク」

  その「殺りたい」は「久しぶり」にかかっているのか「気分」にかかっているのか、どちらにしろ問題がある。シュバリスは「だ、だいじょうぶ」と外套を胸の前でかきあわせて必死に横から云った。

  「やらなくていいアイク。あちらはもう手出しできないわ」

  「へえ?」

  それのどこが、とアイドクレーズの視線がシュバリスのむき出しになった足に注がれた。「ごめん油断した」シュバリスは小さく謝った。「うっかりしちゃったの。でももう平気だから」「あなたの平気とだいじょうぶほどあてにならないものはない」アイドクレーズは両断した。

  「なにをごちゃごちゃとーー」

  獅子人はそのあいだに逃げるか戦うか考えているようだったが、どちらにしろアイドクレーズの出現と、幼いながらも彼がまとっている尋常でない殺気に気付いたのだろう、再び火炎を放った。しかしこれもまたシュバリスの作り上げた障壁にはじかれた。アイドクレーズが、じぶんの前にも一瞬で出現した光り輝く盾に「おや」と目を見開いた。

  「さすがですね。本領発揮で?」

  「もちろんよ。特定の戦闘だけならわたしだって[[rb:戦乙女 > バトルメイド]]と呼ばれたものよ」

  アイドクレーズがシュバリスの手をとった。もたらされる魔力が肉体をめぐり、ふさがれていた魔力の流れが一気にはやまる。

  「ほう。それはどんな戦闘で?」

  「ーー撤退戦」

  ハルトガルトは戦の天才だったが、唯一撤退戦だけは苦手にしていた。知力と兵力の限りをつくしたにもかかわらず打つ手がなくなり、無念にも撤退をせざるをえなくなったとき、ハルトガルトは自分自身で[[rb:殿 > シンガリ]]をつとめた。それがリーダーたる己の責任だと固く信じていた。しかし追撃が熾烈を極め、じぶんの命も部下の命も危うくなると、そのときだけシュバリスを戦場に喚んだ。

  『来てくれ、シュバリス!』

  はるか彼方の居城で、戦場から外れた野営地で。その声が聞こえた瞬間、シュバリスは彼の呼ぶ声に従ってハルトガルトのもとへ跳んだ。アリスの陣で。

  『君が必要だ、いまーー!』

  降り立った瞬間から、たいていそこは戦場のど真ん中だった。敵味方が入り乱れるなか彼女の歌が響きわたれば、ハルトガルトと彼の兵の前に強固な防護壁が現れ、白く透きとおった光を帯びた盾は、すべての剣を、矢を、ありとあらゆる武力攻撃を跳ね返し無効化した。誰も彼女の盾を突き通せない。壊せない。同時に放たれた回復魔法によって、兵士たちの長い戦いの傷と疲れは霧散して消えた。彼女が降りた瞬間から、兵士のなかに死者の列に加わるものはいなくなった。

  『見ろ、恐怖の奥方さまの御降臨だ。あれがシュバリス、[[rb:皇后 > アウグスタ]]だ』

  『[[rb:皇帝 > ハルトガルト]]の奥の手』

  七人のなかで温存されるべき最後のひとり。だからこそシュバリスは平時は戦場に出されなかった。彼女の存在と能力が知られれば、全軍撤退したとみせかけて反転攻勢に出るハルトガルトお得意の手も使えなくなる。じっさい、彼女の出現で兵が奮い立ち、再攻に転じたことも幾度もあった。

  『君がいるかぎり、ぼくらの命は絶えることはない。ありがとうシュバリス』

  戦いのあと、ハルトガルトはそう云ってシュバリスを抱きしめた。

  『君はぼくの命そのものだ。ぼくの心臓、すべての答に通じる扉』

  懐かしく思い出しながら、シュバリスは目の前の敵を睨んだ。アイドクレーズが来てくれた。ここから先はどれだけ相手が抵抗しようと勝ち戦だ。

  「あなたたちの魔法はもう届かない。おとなしく膝をついて降伏しなさい。そうすればわたしにしたことも許してあげる」

  傷つけられはしたが、だいじなものは盗られていない。云い渡したシュバリスに、獅子人と馬人は木に磔にされた狼人のそばに寄り添い、というよりその体を卑怯にも盾にして、なおも抗戦するつもりか呪文を唱えようと口を開いた。シュバリスは身構えたーーが、今度はシュバリスの盾が反応することはなかった。

  とつぜん強風が吹いた。歩道の両側で[[rb:橅 > ブナ]]の梢がざわめき、へし折れ、悲鳴をあげる。落ち葉枯れ葉が空中に舞い上がり、一瞬、その場の全員が両手を顔の前にだして吹き付けてくる風から身を守った。明らかに異常な、場の状況にそぐわない竜巻だった。

  なんの前触れもなく現れた嵐が収まったとき、シュバリスもアイドクレーズもアルジュナもアレクセイもカレンも先輩ふたりも、目の前の敵でさえぎょっと目を見開いた。

  「えーー?」

  シュバリスはよく見慣れた、しかしいまは妖しい光をたたえた昏い目がすぐ近くでじぶんを覗き込んでいるように感じた。

  「ねえ」

  とつじょその場に現れた少年は、あたりをぐるりと見渡すと、暗い声で囁いた。

  「誰が彼女を傷つけたんだ? 誰がこんなことをしたんだ?」

  ハダル・ハルシオンがなぜかそこに立っていた。彼は静かに首をかしげて問うた。

  「さあ。ぼくの敵はだれなんだ?」

  [newpage]

  [chapter:もつれて四角]

  なぜハダルがここにいるのか。どうやって来たのか。シュバリスは驚きに声もでないままハダルを見つめていたが、そうするうちにひとつだけはっきりわかった。ハダルは魔法印や魔法陣を使ってここへ飛んできたのではなく、自身の魔力だけでここへ来た。空間を捻じ曲げたかとてつもない速さで移動したか、どちらかはわからないが尋常ではない魔法だ。

  ハダルはやがてシュバリスから視線を外すと、うっそりした目であたりを睨みわたし、すぐにひとりの人物にぴたりと照準をあわせた。

  「君か? アルジュナ」

  「ハダーール?」

  「君がシュバリスをこんな目に合わせたのか?」

  「ちがーー、」

  シュバリスははっとした。このハダルはいつものハダルではなくその裏にいる、鋭い観察眼で周囲を把握し、じぶんの置かれた困難な状況を知悉しているハダルだ。理性的で賢明で、年齢に似合わない落ち着きをたたえたハダル。

  だが、彼がいま現れ、表に出てきたのは? シュバリスが問う前に、ハダルの周囲で、まるで雷鳴のような轟を帯びた黒い嵐が起こり、周囲を暴れ狂った。その巨大な魔力が発する圧力が、全員を金縛りにしたように動けなくした。彼に睨まれたアルジュナは声も出せず、陸にうちあげられた魚のように口を開閉している。アレクセイは「アル」と手を伸ばしたが、腹心の友であり従者でさえその場を動くことができなかった。ハダルにおさえこまれている。

  「ハダルーー、」

  アイドクレーズに抱き寄せられながらシュバリスはさらに目をまん丸にした。ハダルはすっかりアルジュナがシュバリスを傷つけたと思い込んでいる。じっとアルジュナを睨むうち、彼の頭上で黒い嵐が跳ね回り、やがてぎゅっと凝縮されたように固まると、巨大な剣の姿をとりはじめた。先ほどのアルジュナの魔弓といっしょだ。

  (魔の剣)

  魔剣だ。その単語を思い出した瞬間、頭の中で轟音が響き渡り、新たな記憶が掘り起こされた。

  (ハルトガルトと同じーー)

  ハルトガルトも魔剣を喚びだした。しかも、アルジュナの弓が何色ものグラデーションだったのと異なり、ハダルの剣は柄も鍔も刀身も黒一色、これもハルトガルトと同じだった。さらに、頭上の大剣のみならずハダルの体の周囲には次々と何本もの魔剣が出現していた。すべて黒で、漆黒の刃がぎらぎらと獰猛な輝きを帯び、あたりはもはや腐葉土や苔に覆われた森の地面でも石畳の歩道でもなく、黒く尖った葉で覆われた刃の草原と化した。ハルトガルトは頭上に手をかざし、その剣の一本をつかみとった。

  「ハルトーーハダルーー、?」

  一瞬、シュバリスはじぶんが誰を見ているのかわからなくなった。目の前にいるのがハルトガルトかハダルかわからない。時間がまきもどる。

  「わたしーーわたし、」

  (こんなふうに怒ったあなたを最後に見たとき、わたしはあなたの手を握ってーーそれから、ごめんねって何度もーーあいしてるって何度も云って)

  (繰り返し慰めたーー思い出せるようにーーたとえ離れてもずっといっしょだってーー)

  「やめろーー!」

  アレクセイの絶叫が聞こえた。シュバリスが我に返ったとき、ハダルの魔剣が空を切り裂いてアルジュナに襲いかかっていた。シュバリスはとっさに手を伸ばした。

  (防げる? あれを? わたしの魔法でも? わからないーー)

  剣がアルジュナの胸を貫こうとした瞬間、幾層ものガラスを砕いたような音があがった。シュバリスの盾はぎりぎり剣を止めたが、衝撃で剣も盾も砕け、せつな、白と黒の光がまざりあって灰色のねっとりとしたきらめきと風を起こした。「ぐーー」アルジュナはみたところ無傷で済んでいたが、うめき声をあげて後方によろめいた。後ろでひとつに結んでいた金髪がほどけて宙を舞い、リボンに通されていたクリスタルの[[rb:飾玉 > ビジュ]]が地面に落ちて転がった。魔法がこめられていたらしいが、空中で犠牲の光と悲鳴を放ちながら砂となって散っていく。アルジュナは呆然としていた。が、ハダルもそれで気づいた。「ーーアルジュナじゃ、ない?」彼はぐるりとあたりをみわたした。

  「じゃあ誰? 誰がシュバリスにーー君たちか?」

  木立に隠れるように息を潜めていた敵は呆然としていたが、魔剣の凄まじさに釘付けになっていた。シュバリスが止める間もなく再びハダルは頭上に手を掲げ、次の剣を放った。黒い剣の切っ先が木に留めつけられた狼人の胸に吸い込まれると、狼人は目を見開いたままぴくりとも動かなくなる。衝撃でそばにいた獅子人と馬人は吹っ飛び、意識を失ったのか仰臥して動かなくなった。敵を斃した。そうと見たシュバリスは「ハダル!」と叫んだ。

  「ハダルやめて、もういい、相手はもう動けないわ、もう敵はいなくなったの。剣を消して、ぜんぶ消して。見て、わたしはだいじょうぶ。怪我はたいしたことないーーこれ以上殺さないで! 誰も殺してはだめ!」

  シュバリスは敵を確認した。狼人はたぶん死んだ。その証拠に、術者がこときれたことでシュバリスの肉体は10歳に戻り始めていた。骨が軋み血がどくどくと流れる音が聞こえた。先ほど無理やり加齢させられたときと同じくすさまじい苦痛に襲われたが、シュバリスは歯をくいしばって耐えた。

  「お願いーー怒らないで。わたしはだいじょうぶ」

  「[[rb:是 > ヤール]]、[[rb:女神様 > ディーズ]]」

  敵を斃したことでハダル自身も落ち着いたらしい。まっすぐ空中に伸ばしていた手を下ろすと地面から生えた魔剣群は宙に溶けるように消えた。シュバリスはアイドクレーズの制止を振り切って彼のほうへ踏み出した。「どうして?」震える声で訊ねると、ハダルはふっと笑い、静かにシュバリスの手を取った。

  「君がハダルにかけた守護と結界が壊れた。その瞬間ハダルがぼくを起こした」

  「ハダルが? あの、それはーー」

  いつものハダルか。クラブで怪我をしまくり、とんちんかんな発言を繰り返すほうの。ハダルはうなずいた。

  「そうだ。彼は道化だが莫迦じゃない。それに、君に出会って彼は変わった。そしてぼくも。君になにかあれば胸が騒ぐんだ」

  ハダルは悲しげに眉をひそめてシュバリスに顔を近づけた。

  「ああーー君の匂いが違う。あの忌々しい連中の獣の匂いが全身にこびりついてる。君はいつも果実と花の香りがする。[[rb:橙 > ネロリ]]、薔薇と[[rb:白檀 > サンダルウッド]]、[[rb:茉莉花 > ジャスミン]]に[[rb:麝香 > ムスク]]に林檎。さっき君の結界が切れたとき君の匂いがした。君が助けを求める声も。だからハダルはじぶんではどうしようもできないと感じてぼくに主導権を渡したんだ」

  「ハダルがーー」

  「あれからぼくにもわかった、彼はこの肉体に現れた抑制機能のひとつなんだ。ぼくに代わり呪いを引き受けたもうひとりのぼく。ぼくらは表裏一体、だから彼はぼくを出した」

  よくわからないがつまり、ハダルともうひとりのハダルは協力体制にあるのだ。そして危険に対処できるのはいまのハダルなのだ。しかしいまのハダルは切なそうにため息をついた。

  「君にまた会えると思わなかった。あれが最後だと思っていた。もういちど会えてよかった」

  「わたしも。ありがとうハダル。こんどはあなたが助けてくれたのね」

  「一回めは間違った」

  ハダルの視線が一瞬アルジュナをかすめた。アルジュナはようやく駆け寄ってきたアレクセイに、怪我はないか、だいじょうぶかと質問攻めにされていたが、同じく甲斐甲斐しく世話を焼こうとしているカレンも従者も無視して、ひたすらシュバリスとハダルを凝視していた。先輩ふたりはその脇で愕然とした様子だ。シュバリスたちを見てしきりと首をひねっている。「あれがイスラメイなのか」はともかく、「ハルシオン? あいつほんとにあのハダル・ハルシオンか?」と、ひとりはハダルの同級生らしく、信じられないという顔だ。「あの落ちこぼれ?」ハダルはそれを気にすることなく、ただアルジュナのみをじっと睨み返してからシュバリスに視線を引き戻した。

  「会いたかった。ほんとうに会いたかった。君を思うと、ぼくは諦めたはずの人生を取り戻したくなる。もういちど外に出たい。もういちど元にもどりたいと思ってしまう」

  「元に?」

  「そうだ」

  弱々しい声でぽつりと「いきたいんだ」とハダルはつぶやいた。その切実な声色にシュバリスは胸をつかれた。ハダルは繰り返した。

  「生きたい。ぼくはこのまま死にたくない。こんな呪いなんかで死にたくないよ。だって君がようやく地上に現れたんだ。長い眠りから覚め、暗闇を抜け出し、ふたたび地上に戻ってきてくれた。ほかの誰でもないこのぼくの生きる時代にだ。セレスタインの子孫であるぼくの前に。このときをどんなに待ちわびたことかーーぼくはねシュバリス。シュバリス・レイミア・イスラメイ。ぼくは」

  せつなそうに眉をひそめ、ハダルは強い口調で云った。

  「ぼくは君を皇后にしたい」

  しんとその場が静まり返った。少し離れた場所にいたアレクセイもカレンも先輩ふたりもアルジュナも、シュバリスの一歩後ろでなにかあったら止めに入ろうと身構え、敵が万一目を覚まさないかと警戒していたアイドクレーズも止まった。ハダルは揺るがぬ口調で淡々と続けた。

  「ぼくは君に償いをしなくてはならないシュバリス。君はハルトガルトを救い帝国の礎を築いてくれた。ハルトガルトにすべて捧げ、その力でぼくらを守ってくれた。君は真にこの帝国の母たる女性、よってその恩に報い、ついに叶わなかった願いを成就させるべく次の皇帝たるぼくが義務を果たさねばならないーーいや、そうじゃない。過去の悲しみも怨讐も罪も、なにもかもすべて飛び越えてぼくは君をこの腕に抱き、そして君が得るはずだった場所を、安らぎを名誉を幸福を君に与えたい。正当な権利として君に皇后の座を贈りたい。ぼくは君を待っていた。君をーー君だけを」

  「ハダルーー」

  「好きだ、シュバリス。君はこの世界のすべての生命に対する答だ。ぼくの朽ちない心臓、永遠の女神」

  「ーーシュバリスさま」

  アイドクレーズがぎょっとしたように呼んだ。シュバリス自身も呆然とした。涙が彼女の頬を次々と伝っていた。こぼれ落ちる涙を止めるようにハダルの顔が近づき、シュバリスの頬に口づけた。

  「この先も君と生きたい」

  「ハダルーー」

  「生きたい。ぼくは死にたくない」

  菫色の瞳が濡れて叫ぶ。ハダルはシュバリスを抱きしめた。

  「ユアンには渡さない。アルジュナにわかるものか……君がだれか、なぜここにいるか」

  「あなたを助けるわ」

  ハルトガルトの子孫。かつて愛した男の落胤。ハダルを抱きしめ返してシュバリスは囁いた。

  「もういちどわたしの命をあなたにあげる。呪いなんかであなたを死なせたりしない。ぜったいに」

  「シュバリスーー」

  「待ってて。かならず助ける」

  ハダルが体を起こし、大きな手のひらがシュバリスの頭を撫でた。せつな、シュバリスはつよい眩暈を感じた。こめかみに、刺されたようにするどい痛みが走る。図書館でユアンに触れられたときと同じだ。「シュバリスさま!」アイドクレーズの悲鳴がこだました。シュバリスの全身から力が抜けたーー同時に、彼女を抱きしめるハダルの体からも力が抜けていった。最後にシュバリスが覗き込んだ菫色の瞳は、靭い意思をたたえながらも、再会の保証なき暗黒の無意識に呑まれていくところだった。

  ふいにシュバリスの脳裏に幼い子どもの声が響いた。

  「いのちをあなたにもらったから、ぼくらはいきられた」

  「そのうつくしいざくろのひとみで」

  「あなたがぼくらを守ってくれたーー死ぬまでずっと」

  (そうだ。わたしーーわたしはむかし……?)

  閉じた瞼の裏に小さなシルエットが浮かび上がる。白い光に縁取られて寄り添いあうふたつの影は、顔の造作も姿かたちも判然としないけれど、とくんとくんと打つふたつの心臓だけが真っ赤に燃えてシュバリスの見えない瞳に感じられた。

  (わたしのだいじなもの)

  (命をかけて守りたかったもの)

  (それはあなたーー)

  『持っててね。離さないで、なにがあっても。これがあればだいじょうぶよ、絶対守ってくれるからーーわたしがいっしょにいるからね。忘れないで、わたしはシュバリスよ。シュバリス・レイミア・イスラメイ。それがわたしの名前』

  別れたくなかった。離れたくなかった。刻み付けたかった。どうしても納得がいかなかったから最後に訊ねた。『わたしたち、どうして別れなくちゃならないのかしら?』ーーそのときすでにシュバリスは傷つき、傷つくことに慣れた心と体は死の寸前にまで追い込まれていた。弱々しく伸ばされたシュバリスの手を握り返して、生涯の友でありパートナーであり伴侶であった男は云った。

  『人間が獣人を作ったーーその事実は消えない。いまだに消せないしきっとずっと消えない。壁を乗り越えるにはまだまだ時間が足りない。ぼくらは戦い、そして勝った。たしかに勝った。だが、どうしても壁を壊せない。この時代ではその溝を埋められない』

  『だけどきっといつか報われる日がくる。二百年か三百年か、それとも千年かーー千年かかってもかならずぼくは君のもとへゆくよシュバリス。だからどうか、そのときがくるまで待っていて』

  『さよならシュバリス。ぼくの女神。君はぼくのすべてだ。そして、君からすべてを奪うぼくを許してくれ』

  最後にハルトガルトはシュバリスを抱きしめ、その瞬間にシュバリスは、それまでいたはずの世界から完全に遮断された。暗闇が訪れたーーいや、暗闇はそれ以前から彼女を取り囲んでいたのだーーしかし彼女が徹底的に光を失ったのはまさにそのとき、ハルトガルトの手が彼女に触れ、そして離れてからだ。シュバリスにはそのときなにが起こったのか理解できなかった。だがそれによってシュバリスの心は粉々に砕かれ、再起不能の痛手をこうむった。喪失と虚無。真因がなんなのかもわからないほどの飢えと渇き。なぜ、という問いの、いまだ見つからない答。失ったなにかを探し求める日々が始まり、いったいなにを探しているのかわからないまま長い長い時が過ぎた。

  暗闇に沈み、光を取り戻したときにはすべてが曖昧な世界で、ようやく開いた瞳に最後に見えたのは、次々と咲いては頭上から降り注いでくる花だった。儚く優しく美しく眩しい、愛しい花々。

  失われたもの。永遠に消え去ったもの。もう取り戻せないもの。

  慈しむべき、祝福された生命そのもの。

  美しい幻影。

  「ああーー」

  天井から次々と花が降る。咲いては散る。求めてやまなかった千年の答はしかし、彼女の手をすりぬけ、落ちて砕けて消えた。

  答はまだ闇のなか。

  [newpage]

  [chapter:きみはぼくのものだった]

  心地よい音がすぐそばで鳴っている。眠りつづけるシュバリスはじぶんがどこにいるのかわからなかったが、間近で聞こえる心臓の音にひたすら安堵をおぼえた。その音は彼女の欠けた場所を完璧に埋めてくれた。足も眼もここにある、みちたりて欠けたものはなにひとつない、だからもうどこにもいかないーー頭の中で同時に子守唄が流れだし、まぶたの裏にはいまだ降り注いでくる花々のまぼろしがうつっていた。そんななか、こぼれた涙がこすれあってかちんと音を立て、それがシュバリスを夢から現実へと引き戻した。

  「ーーシュバリスさま、」

  呼びかける声にシュバリスは目を開いた。

  「だれ……?」

  瞳にぼんやりと映し出された白い花弁と同じくらい白い顔をした少年。彼がいったい誰なのか、つかのまシュバリスは理解できなかった。その後、相手のぎょっとした顔を見て「ああ」とため息をついた。「アイドクレーズ?」

  森をさまよっていた少年だ。彼女が拾って育てた子ども。

  「シュバリスさま」

  アイドクレーズがほっとしたようにため息をついた。

  「だいじょうぶですか? 起きられますか?」

  「だいじょうぶ……ああ、」

  身動きが取れない。体を起こそうとしてかなわず、頭だけ持ち上げたシュバリスは、じぶんを囚えるものの正体を知った。ハダルの腕にきつく抱きこまれていた。クラブをさぼりがちになってやや筋量が落ちたとはいえ、育ち盛りの壮健な肉体は固く引き締まり、脈動はシュバリスにも聞こえるほど熱く強かった。指先をすべったシャツの胸元は、シュバリスの涙か自身の汗に濡れたかわずかに湿っている。少年らしい懊悩をにじませて引き結ばれた唇から規則的に吐息が漏れ、安らかとはいいがたい寝顔だったが熟睡していると知ったシュバリスはその姿に見入っていた。その後、檻と化してじぶんをとじこめるたくましい腕から逃れでる。「ここに寝かせるとき引きはがそうとしたんですが、どうしてもそいつがあなたを離さなくて」ひとつのベッドで抱き合うように眠っていた理由を従者から聞きながらベッドの縁に座り込んだシュバリスは、乱れた髪を首筋から払いのけようとして、泥や砂や森の苔に混じってシーツのうえできらめく粒に気づいた。

  「ーー[[rb:魔晶 > クリスタル]]」

  透明な結晶の粒。アイドクレーズもシーツの上に指をすべらせ、くっついてきた一粒をつまみあげてうなずいた。よく見るとハダルの胸元にも結晶が散っていて、ふたりの見ている前で肌に同化して消えた。

  「あなたの涙の成れの果てです。なにか夢をみていたようですよ。眠っているのに泣きながら歌ってた。そしたらこれが生まれて、いくつかはいまみたいにハダルのなかに吸い込まれてった」

  「覚えてないわ」

  「すごい魔力がこもってる。[[rb:御守 > アミュレ]]になってる」

  「そういうこともあるかもねえ」

  ハダルを守りたいという願いが形になったのだろう。シュバリスは足を床に下ろそうとして、そこがどこか気づいた。

  「ここ、ハダルのーー?」

  門番小屋だった。壁の色や天井の質感に覚えがある。寝室に入るのは初めてだが、シュバリスに対してプライバシーを守るなどという発想をまったくしないハダルはいつも無頓着に居間につづくドアを開け放していたので、隙間から何度も見ていた。ヘリンボーンの床、アイアンのシャンデリア、天井と壁は白、カーテンは黒、ベッドカバーとシーツは白と灰色の混交地に金糸銀糸で縫取りがしてある。ただしいまはシーツもカバーも床に落ちてのたうっていた。「暑かったみたいで。あなたとハダルのどちらがやったか知りませんが、途中で宙に浮いて床に落ちました」アイドクレーズがため息をついた。

  「そうーーね、あのあとどうなったの」

  森にいたはずなのに、とシュバリスが訊ねると、

  「あなたとハダルが森で気を失って倒れた直後、カミャがすっとんできました」

  カミャとはカミャ・ルリコ・シャウラという四十代の女性で、王宮でハダル付きのメイド長を務めている女性だ。学校ではナイジェルがついているため、ハダルが王宮に帰宅したときのみ彼の世話を担当していたが、いなくなったナイジェルのかわりにとハダルの両親が王宮からよこし、ハダルが学校にいるあいだの小屋の掃除洗濯、食事の準備など家事一切を請け負っていた。週のうち四日は泊まり込むため、クラブのあと毎日のように小屋に寄ってお茶をしていくシュバリスともすでに顔見知りだ。すぐれた魔女でもあって、ユアンは魔法印、カミャは治癒魔法でハダルを守っている。シュバリスが蛇人であると知った当初カミャは警戒していたが、[[rb:御守 > アミュレ]]や呪いを軽減する魔法の腕をみて信頼してくれた。いまでは料理のレシピを交換する仲だ。

  「ハダルはあの時間クラブから帰って、家であなたが来るのを待っていたそうですが、カミャが彼にお茶を出し、食事の支度をするのでキッチンと居間で話をしていたらいきなりハダルが『たいへん』と叫んで、なにごとかとカミャがふりむいたらすでに小屋から消えていた。慌ててハダルの[[rb:魔力 > オーラ]]を追って森に来たところ、わたしたちを見つけて騎士団を呼んで、獣人三人を引き渡して、騎竜部の飛竜を徴収して、意識を失ったあなたとハダルとアルジュナを連れて小屋までびゅーんとひとっとび。で、あなたとハダルはずっとそこで寝てた」

  「わたしとハダル。でもいまアルジュナもって云った? アルジュナも倒れたの?」

  「ええ」

  「なぜ?」

  「あの弓を喚びだして使うのはかなり体力と魔力を消耗するそうです。[[rb:固有魔具 > マギアーツ]]と云ったか、あれは皇帝の子孫でも一部しか使えない召喚武器なのだそうですよ。アレクセイとカレンは居間でカミャと、小僧はナイジェルの部屋に寝かされてます」

  「そうーー」

  シュバリスは立ち上がり、じぶんの全身を見下ろして愕然とした。ひどいありさまだった。シャツもスカートも泥と苔と砂と血に染まっている。靴下はおろか靴もない。そういえば、体を成長させられたとき両方とも破れたり脱げたりしてどこかへいってしまった。だから二度目に逃げるときは裸足だったーー弱り果てているとアイドクレーズが静かに衣類と靴を差し出した。「眠っているあいだに見えるところの怪我は治しました。汚れも落とせるところは落としたんですが、あとでちゃんとお風呂に入ったほうがいいでしょうね。服と靴はさっき寮に戻って取ってきました」

  「ありがとう」

  「浴室を借りられるかどうかカミャに聞いてきます」

  アイドクレーズは居間につづく扉にむかった。彼はようやくシュバリスが眼を覚ましてくれてほっとしていたが、そのじつ彼の思考を席巻していたのは、三人の獣人からシュバリスを守れなかった後悔より、さっき目の前に広がっていた光景だった。

  眠るシュバリスとハダルはまるでふたりでひとつの生き物のようだった。深く眠りながらもシュバリスは星のようにきらきらかがやき、体から溢れてきた光の[[rb:虹色 > スペクトル]]でハダルとじぶんを包んでみずから治癒魔法を発動していた。おそらくそれこそがドットール・トリッチトラッチ、つまりギネヴィアがいっていたひとの[[rb:魔力 > オーラ]]が見えるという状態なのだろうと思われた。眠りによって魔力が回復してゆくさまが可視化されている。ほんとうは、こうして彼の眼にもはっきり見えるほどシュバリスのオーラは強い、というより、よくよくアイドクレーズが思い返してみると、あの地下神殿ではつねにシュバリスはこのきらめきをまとっていた。いつのまにか見慣れて意識しなくなっていたし、眼と足を失って輝くこともなくなったからすっかり忘れていたが、いま再び彼女の光を目にして、あれはやはり普通ではなかったのだと理解した。しばらくぶりに見たシュバリスの光は暖かく、以前のようにそのなかに包まれたい、彼女に触れられたいし触れたいとアイドクレーズはひどく渇いた気持ちになった。そして次に、これがなぜいま唐突にじぶんにも見えるようになったか理解して激しく嫉妬した。

  ハダルがそばにいるからだった。ハダル・ハルシオンもまた、強い黒魔法の素質をもっている。つまりじぶんと同じ、シュバリスと相互に魔力をやりとりし、肉体と精神の傷を癒しあえる特殊な存在なのだ。カリロエのいうところの互いを補い合う関係。同じく傷ついたハダルと傷ついたシュバリスは、互いに近くに身を寄せることで癒しあい、触れた箇所から魔力を循環させて回復のスピードを速めている。

  気づいた瞬間猛烈な焦りを感じて、アイドクレーズは力いっぱいふたりを引きはがそうとした。しかしハダルは、深い眠りのなかにいるにもかかわらず頑としてシュバリスから手を離さなかった。それどころか、この女性はぼくのものだと云わんばかりにシュバリスの肩と腰をひきよせ、ぴったりとじぶんの胸に彼女の頭を、みぞおちに肩を、脚を彼女の下半身に絡ませていた。

  もはやどちらかが目覚めるまで待つしかなかった。ときが経つにつれて心配も募ったーーカミャにいわれて寮まで着替えをとりに行ったが、それを除けばアイドクレーズはシュバリスとハダルのそばでずっとふたりを見守っていた。見れば見るほど激しい嫉妬に駆られるのに、どうしても目を逸らしてしまうことができなかった。そして、シュバリスが眠りながらハダルのために歌い始めたとき彼の嫉妬は最高潮に達した。

  ハダルのためだけの歌。歌うあいだ、彼女の眦からこぼれた涙は次々とクリスタルに変わっていった。[[rb:魔晶 > クリスタル]]ーー地中深くの鉱脈や遺跡から採集できたり、魔法使いおよび魔女が作り出す、色、形もさまざまな鉱石。いつからかこの国で動力源として使われ始めた魔力を秘めた石。人工的に生み出される場合は、高位の魔法使いの手によるほど透明度と硬度が高く大きさも大きい、しかし不純物が混じっていても濁りがあってもそれはそれで味わいぶかく、もっとも重要なのは「美しいかどうか」だったりするので、鉱山などから発掘され研磨加工されるいわゆる宝石と同じ扱いであり一般的にもそう認知されているーーただし魔晶のほうが、空気中を漂う微細な魔力や自然の力を凝縮、結晶化して作られているため、含包される魔力は段違いだ。究極的には魔法使い本人の血や骨などから生成されることもある。

  シュバリスが魔晶を生みだすことはひじょうに稀だった。しかし何度か目にしたことのあるアイドクレーズは、そのどれもが市場に出回れば一級品、いやそれ以上の特級品として扱われると確信していた。じっさい、廟の供物が激減して食うに困ったアイドクレーズに「これであなたの食料を買ってらっしゃい」と、最後の手段として魔晶を作ってくれたことがあって、それは街の素材屋に非常な高値で売れたのだ。そしていま、シュバリスは涙から魔晶を生みだすというとんでもない離れ業を眠りながらやってのけた。溢れ出す魔力を眠っていてさえハダルを守り癒すために使おうとしている。嫉妬を通り越して、アイドクレーズはその瞬間絶望した。

  五百年ものあいだシュバリスはアイドクレーズだけの女神だった。伝説の女神で魔女、しかし人間としての感性ももちあわせているため苦悩し、迷い、泣きも笑いもするれっきとした生身の女性。そばにいて彼女を知るにつれ、アイドクレーズはそのことに驚嘆し、畏怖し、夢中になった。大神ジヴァに選ばれた生ける聖女でありながら、少女のように無垢なところも保護欲をかきたてた。そしてこの千年間、そんなシュバリスのそばにいることを許されたのは自分だけだという自負がたしかにアイドクレーズにはあった。彼女に仕え、ともに生きるに足ると認められたたったひとりの人間。くわえて途中から、アイドクレーズはシュバリスの『男』にもなった。

  毎年春から夏にかけてシュバリスはおかしくなる。一緒に暮らし始めてすぐのころ、暑くなるにつれ我を失くした様子で毎晩地下を抜け出し、疲れはてた顔で夜明けに戻ってくる彼女を、とうとう問い詰めたのは最初に気づいてから三年後だった。真っ赤な顔で半分蛇である彼女から獣人としての習性を打ち明けられたとき、アイドクレーズは愕然とした。いちばん近くの村の酒場にこっそり潜り込んでは泥酔した男と一夜をともにし夢だと思わせて帰って来る、相手にもじぶんにも害にならないしちゃんと独身の男を選んでいるからと、申し訳なさそうに恥ずかしそうに、しかし抑えきれない欲望をたたえたとろんとした瞳で告げられた瞬間、すでに彼女に恋をしていた彼がだから、「そんなのぼくにだってできますよ」と名乗りをあげたのはとうぜんのなりゆきだった。そのときにはアイドクレーズがまだ子どもだからという理由で許されなかったが、しかし、晴れて三年後に十七を迎え、はじめて彼女の肉体を知ったときの悦びは筆舌に尽くしがたかったーー森の浮浪児はとうとう女神の男にまで地位をあげたのだ。そしていま、彼女のそばにいたいがために時を止めたアイドクレーズにとってシュバリスは、ようやくたどりついた最後の場所、帰る場所そのものだった。

  さっき目の前で歌われた歌も、あれはじぶんだけのものだったのだ、とアイドクレーズは歯をくいしばっていた。森で出会いを果たしたあと、ボロ雑巾同然の姿で斃れた彼を抱きしめてシュバリスが歌ってくれた子守唄。彼のためだけの歌。

  思い出した瞬間、「あなたはわたしのものだったのに」とアイドクレーズは声にださず呻いていた。

  (この五百年、あなたはわたしだけのあなただったのに)

  (あなたを捨てた莫迦な男なんて忘れさせてやれると思ったのに)

  初代皇帝ハルトガルトのパートナーだったシュバリス。しかしハルトガルトはすでに亡く、彼がどんな英雄だろうと過去の男だ。だからーーだから。

  (ハルトガルトを超えられると思った。彼のかわりに蛇神シュバリスの心の中を占める大きな存在になれると思ったーーだって、)

  いまや彼女の生活すべてがアイドクレーズの肩にかかっている。これからもシュバリスは彼を必要とするしそばに置くだろう。しかし心の奥深く、魂の近くまで触れることを許すのは?――この三か月で思い知った、彼女の中にはアイドクレーズが触れられない真っ黒に欠けた部分があり、そこにはいまだにハルトガルト・ミクラガード・セレスタインが棲んでいる。彼のかけた魔法が彼女を縛りつづけている。

  (どんなにあなたを知り、すべてを目にし、その体に触れていないところなどないとしても、わたしではあなたを縛れない)

  (あなたは自由で、ほんとうの意味ではいちどもこの手に触れられてくれたことなんてなかった)

  ハダルの仮晶と化して眠るシュバリスを見ていると、その思いが体の底から突き上げた。腐敗しきったすえじぶんの一部と化した彼女への恋心はいっそ穏やかに彼を痛めつけた。

  シュバリスと出会う以前のアイドクレーズの記憶はほんのわずかだ。古い鏡を覗き込むじぶん、しかしそこにじぶんの姿は映らず、まったく違う誰かの昏い目が彼を見つめ返す。そして嗤うーー

  (しょせん棄て子。伝説のシュバリスとわたしではなにもかも違う。最初からつりあわなかった)

  (森に遺棄された子ども、いまもむかしも、それがわたしのすべて。ただ幸運だっただけの餓鬼)

  生き延びるためのありとあらゆる努力と嘗め尽くした辛酸が、名前以外の知識と経験を煮沸してしまった。アイドクレーズは、きれいさっぱり頭の中から消えてしまったじぶんの出自を、おそらく生活苦による口減らしのため親に棄てられた子どもなのだろうと見当をつけていた。現代でいう初等・中等学校程度の知識はあったし、今回セレス市にやってきてはじめてそのことに気づいてびっくりしたがーーひょっとしたらじぶんで思っているほど出自は悪くなく、ノヴェレッテン家のように中途までは裕福な家の子だったのかもしれない。しかしそれでもーー

  「アイドクレーズ?」

  着替えを終えたシュバリスが振り向いた。ジャケット、シャツ、スカートなどパーツの多い[[rb:筒袖服 > クラーズ]]のなかでも、単純なつくりのワンピースだけはシュバリスでも最初から直感的に着方がわかった。[[rb:蝶袖服 > キーノ]]ほど落ち着かないというものの愛用している。なかでもいま身につけているのは、彼女のいちばんお気に入りのワンピースだった。細い手足をひきたたせる袖と裾のレース、折れそうな腰に結ばれた青いサテンリボンとシルクの白の鮮やかな対比。少女にもどってさえ蛇神シュバリスは美しい。しかし彼女の向こうに見えるハダル・ハルシオンを目にして、アイドクレーズの表情は我知らず険しくなっていた。

  (どうか死んでくれ)

  ユアンかナイジェルかと話しあった夜、ハダルを助けたいという彼女の願いにアイドクレーズは同意したが、しかし内心では死ねばいいのにと思っていた。その定められた運命の通りに死んでほしい、ユアンとナイジェルのどちらが黒幕だろうがどうでもいい、シュバリスの眼すら戻ってきさえすればーーいや、どちらかというとユアンが黒幕であったほうがアイドクレーズにはよかった。ユアンの勝利はハダルの死を意味する。ハルトガルトに似ている、それだけでハダル・ハルシオンは大きな脅威だった。

  「お風呂借りられそう?」

  「あ、ええ」

  アイドクレーズはようやく我にかえり、居間につづくドアを開いてカミャに声をかけようとした。シュバリスも「いい香り」と目を細める。カミャが焼くパイの香ばしい匂いが隙間から漂っていた。だが、ドアを開けた先の居間には、アイドクレーズが知らないうちにカミャやカレンやアレクセイ以外の人間がいた。乾いた音とともに、激しく叱責する声が響いた。

  「この莫迦!」

  頬を打たれたアレクセイは、両手を体の後ろで組んで「申し訳ございません」と無表情に云った。アレクセイを平手打ちにした金髪の女性は後ろ姿を見せたまま、手にした杖でアレクセイの肩を打ち、なおも激しく叱責しようとしてーー

  「そこまでになさったら」

  ゆったりとソファから別の女性が呟いた。手にしたカップとソーサーをテーブルに戻し、優雅に首をかしげる。ドアのほうに正面を向けていたので、彼女の姿はシュバリスたちにもはっきりと見えた。彼女もドアの隙間から目を丸くするシュバリスたちに気づいたーーが、表情には出さなかった。ゆるやかにウエーブした赤毛をラフにまとめ、眼鏡をかけた化粧気のない顔にあっさりとした白いブラウスに臙脂のスカート。彼女は囁くように云った。

  「それで今回の件がなかったことになるわけじゃないでしょう? あなたのは八つ当たりよアルテミシア。それにあまり騒ぐと子どもたちが起きてしまうわ」

  じっとしてなさい、と一瞬だけシュバリスたちに視線を送って、金髪のアルテミシアにむかって首をかしげた赤毛の女性は、アレクセイの背中に「あなたにだってどうしようもなかったことよねアレク。そうでしょ?」と優しく云った。

  「アルジュナも後継者なのよアルテミシア。やめろと云ったって喚ぶときは喚ぶ、従者のいうことなんて聞かないわ。彼を責めるのはお門違いよ」

  「そうじゃない。怒っているのはアルに魔弓を使わせたことじゃなく、ハダルに剣を向けられるような状況にしたことよ。それがいちばん許しがたいーーあの子をまた命の危険にさらした、性懲りも無く!」

  「ああそうだったの、それはそれは。お互い息子をもつと苦労するわねえ」

  「それもちがうーー」

  アルテミシアはドアに背を向けているため表情はわからないが、激怒しているのははっきりわかった。

  「ヴァナディス。わかっていないのなら教えてさしあげますけどこれは大変な事態、あなたこそ窮地に陥ったのよ。セレスタインの皇子がユーレアイトの嫡子に魔力をむけた、つまりあなたの息子がわたしの息子を殺そうとした、これを議会が知ったらなんというかしらね。ハダル・ハルシオンに継承者たる資格なしと、いよいよ判断するかもしれない。これが何を意味するかおわかりかしら?」

  シュバリスとアイドクレーズはドアの内側で顔を見合わせた。いまの話からすると金髪の女性アルテミシアはアルジュナの母親で、ヴァナディスと呼ばれた赤毛の女性はハダルの母親だ。ということはーー

  「もちろんよアルテミシア」

  ヴァナディスは透徹しきった目でアルテミシアを見上げた。

  「でもねえ、息子に継承者たる資格がないなんていまさらよ。そのことは神の啓示として示されてきた。ラーゼスと結婚して二十二年、ハダルが生まれるまでわたしがどれほどの重圧を味わったと? 二度の流産、二度の早産、三度の死産、やっと生まれた男の子と女の子は七つにもならずに逝ってしまった。そしてようやくハダルが無事に生まれ、だけど十で誘拐されて魔力を失い、十一の年をこえ儀式を済ませ十二で学院に入ってさえいちどたりとも安心したことはないーーそしていままたとうとう生死の岐路に立たされている。その問題のまえではあなたのアルジュナがどうのうちのハダルがどうの、体面の話はうんざりだわ。ほんとうにうんざり」

  皇帝の妃である女性は、ことばどおりほんとうにうんざりした様子で、しかし経験と知識に裏打ちされた老獪さもあらわに、じぶんの息子に代わって皇位を継ぐかもしれない子の母親を見据えていた。いつもは居心地のいい門番小屋に、えもいわれぬ緊張がみちる。

  「ここは王宮じゃない、わたくしたちはただの母親。ねえアルテミシア、座って話しあいましょう。どのみちそうするほかはないのよ」

  皇妃ヴァナディス・セレスタインは、そう云ってふたたびカップに口をつけた。

AdAd