狂乱チワワ

  閑静な住宅街の一角。綺麗に手入れされた芝生が広がる庭を、レースのカーテン越しに血走った目で見つめている小さな影があった。

  アミティである。

  犬種はチワワ。体重はわずか二キログラム。リンゴのように丸みを帯びたアップルドームの頭部に、ピンと立った大きなコウモリ耳。被毛は艶やかなブラック・アンド・タンで、黒真珠のように濡れて潤んだ大きな瞳は、道行く人間が誰もが「守ってあげたい」と立ち止まるほどの可憐さを誇っていた。

  アミティの飼い主である若いOLの落合穣子(おちあい・みのりこ)も、アミティが常に微かにプルプルと震えているのを見ては「ごめんねアミティちゃん、寒いの? 怖いの?」と抱きしめるのが日課だった。

  だが、穣子は知らない。

  アミティの震えが、寒さでも恐怖でもないことを。

  それが、隣の庭を優雅に歩く『彼女』への、抑えきれない情動と独占欲、そして他の存在へのどす黒い害意による「武者震い」であるということを。

  (ああ……ダイアナ。私の、美しき黄金の女神……)

  アミティの視線の先、隣の家の庭では、一頭の大型犬が春の陽光を浴びていた。

  ゴールデンレトリバーのダイアナ。メス、三歳。

  体重は三十キログラムを超え、アミティの十五倍にも達する堂々たる体躯。ふさふさとした豊かな黄金色のダブルコートは、風に揺れるたびに純金のように煌めき、太く立派な尻尾は優雅な扇のように揺れている。アーモンド型の優しいブラウンの瞳、太いマズル、そして常に微笑んでいるかのように見える口元。

  おおらかで、優しくて、誰にでも愛される隣家の太陽。

  アミティは、窓ガラスにへばりつくようにして前足を押し当てた。ギリッ、と小さな爪がガラスを引っ掻く。

  (その黄金の被毛に顔を埋め、芳醇な獣の匂いを胸いっぱいに吸い込みたい……。あなたを抱きしめて、誰の目にも触れない暗い犬小屋に閉じ込めてしまいたいわ。ええ、そうよ。あの愚かな人間共からも引き離して、あなたを永遠に私だけのものにするの。……でも)

  アミティは自分の細すぎる前足を見た。爪楊枝のように華奢な骨格。

  ダイアナを拉致するには、いささか……いや、絶望的に腕力が足りない。アミティが全力でダイアナに噛みついたところで、ダイアナは「あら、構ってほしいのかしら?」程度にしか感じないだろう。

  それがアミティを狂わせていた。この圧倒的な質量差。物理的限界。

  愛している。愛している愛している愛している。骨の髄まで愛している。

  なのに、ダイアナは無邪気すぎるのだ。

  『ワンッ!』

  窓越しに、隣の庭のフェンス越しを通りかかった柴犬(オス)に向かって、ダイアナが嬉しそうに尻尾を振って挨拶をした。柴犬も嬉しそうに鼻先をすり寄せている。

  ブチィッ!

  アミティの脳内で、理性の糸が何本か[[rb:千切 > ちぎ]]れる音がした。

  (あの薄汚い雑種風情が……‼ 私のダイアナの尊い鼻先に、その不潔な鼻水まみれの器官を擦り付けるんじゃないわよ‼ 引き裂いてやる……っ、その貧相な巻き尾を根元から噛みちぎって、二度とメス犬に媚びを売れない身体にしてやるわ……‼)

  アミティの喉から「グルルルルッ」と地獄の底から響くような猛獣の唸り声が漏れた。

  その直後、背後から「アミティちゃーん、お散歩行こうか!」と穣子の声がした。

  「キャンッ! キュゥ~ン(訳:はぁい穣子! アミティお散歩だーい好き!)」

  アミティは一瞬で殺意を引っ込め、潤んだ瞳で小首を傾げる「庇護欲を唆る可憐なチワワ」へと変貌した。すべては、外に出てダイアナに近づくためである。

  ※ ※ ※

  ピンク色のフリルがついたハーネスを装着されたアミティは、穣子に連れられて外に出た。

  運命とは皮肉であり、同時に必然である。

  隣の家のドアが開き、スポーツマン風の飼い主・木村大五郎(きむら・だいごろう)に引かれて、ダイアナもまた散歩に出るところだった。

  「あ、穣子さん。こんにちは」

  「大五郎さん、こんにちは。ダイアナちゃんも、今日もお利口さんですね」

  「アミティちゃんも相変わらずちっちゃくて可愛いなあ」

  人間たちがのんきに挨拶を交わす足元で、アミティの心拍数は限界突破していた。

  (ああ……ダイアナ、ダイアナダイアナ! なんていい匂いなの。土と草と、あなた自身の太陽のような芳香……! 今すぐその豊かな胸毛にダイブして、あなたの全身を残らず舐め回してあげたい……!)

  しかし、アミティの狂気的な情念などつゆ知らず、ダイアナは大きな尻尾をぶんぶんと振りながら、気のいい大型犬特有の無邪気さでアミティに顔を近づけてきた。

  『クンクン。アミティちゃん、こんにちは。今日もいいお天気ね』

  ダイアナの巨大な黒い鼻が、アミティの小さな身体を嗅ぎ回る。その度に、アミティは腰が砕けそうになるほどの悦びに身を震わせた。

  『フフッ、アミティちゃんはいっつもブルブル震えてるのね。守ってあげたくなっちゃう』

  ダイアナが優しく、長い舌でアミティの耳の裏をペロリと舐めた。

  (あああっ! 私の女神が! 私を慈しんでいる! このまま私のすべてを食い尽くして……っ‼)

  恍惚の表情を浮かべかけたアミティだったが、次の瞬間、その視界に許しがたいものが飛び込んできた。

  向かいから歩いてきたのは、町内でも評判のイケメン犬、シベリアン・ハスキーの「シリウス」(オス)だった。

  銀と黒の精悍な毛並みに、氷のように冷たいブルーの瞳。

  『やあ、ダイアナ。今日も麗しいね』

  『あらシリウス君。こんにちは!』

  ダイアナがアミティから顔を離し、シリウスのほうへ尻尾を振りながら歩み寄ろうとした。

  アミティの瞳孔が、スッと縦に細くなった。

  (……殺す。あの銀毛のスカしたオオカミ気取り、絶対に内臓を引きずり出してやる……!)

  しかし、物理的にアミティがシリウスに挑めば、一口でかみ砕かれてジ・エンドである。

  小型犬たるもの、知略を巡らせねばならない。

  アミティは瞬時に計算し、行動に出た。

  シリウスがダイアナに鼻先を近づけようとしたその瞬間、アミティは自らシリウスの足元へ猛ダッシュし、わざとシリウスの前足に派手にぶつかってから、悲痛な叫び声を上げた。

  「キャイィィィィン‼ キャンッ! キャンッ‼」

  痛くもなんともなかったが、アミティは地面を転げ回り、大げさに右前足を上げてガタガタと震え上がってみせた。さらに、シリウスを怯えた目で見て、おもらしまでしてみせるという徹底ぶりだった。

  「えっ!? アミティちゃんどうしたの!? シリウス君に踏まれちゃった!?」

  飼い主の穣子がパニックになる。シリウスの飼い主も「すみません!」と慌ててリードを引いた。

  当のシリウスは『え? 俺、何もしてないぞ? こいつが勝手にぶつかってきて……』と困惑顔である。

  だが、誰よりも早く反応したのはダイアナだった。

  『アミティちゃん‼』

  ダイアナはシリウスとアミティの間に巨体を割り込ませ、シリウスに向かって初めて見せるような低い声で唸った。

  『ウゥゥゥ……! アミティちゃんに乱暴する子は、私が許さないわよ!』

  ゴールデンレトリバーの怒りは珍しい。ハスキーのシリウスもタジタジとなり、すごすごと退散していった。

  ダイアナは慌ててアミティの元へ戻り、心配そうにアミティの小さな身体を全身舐め回した。

  『大丈夫!? 痛かったわね、可哀想に……。私がもっとちゃんと見ていれば……!』

  ダイアナの温かい舌に全身を包まれながら、穣子に抱き上げられたアミティは、飼い主の腕の隙間からダイアナを見下ろし、心の中で暗くねっとりとした笑みを浮かべた。

  (フフフ……アハハハハ! 見たか愚図のシリウスめ。ダイアナの愛も、心配も、この世界にあるすべての感情は、この私だけのものよ。私の小さな身体は、このためにあるのだから……!)

  おわり