満員電車で産気づいたパンダのデブおじさん

  前後左右から体温と圧を感じる。

  平日の朝、縦にも横にも大きな体をしたパンダの獣人、伴場洋二郎(ばんばようじろう)はつり革を逞しい両の腕でがっしりと掴んでいた。満員電車で大勢の人に揉まれながら、今日も勤め先へと通う。

  (今日はより一段とお腹が張るなあ……)

  車両の揺れが収まったのを確認してから、片手をつり革から離して大きく膨らんだお腹を撫でる。その仕草はどこか愛らしさを漂わせていた。

  いや、実際に愛情がこもっている。

  なぜならその腹の中には小さな命が宿っているのだから。

  世にも珍しい、四十三歳男性の妊婦……いや、妊夫なのだ。

  なので満員電車では細心の注意を払っている。安定期には入ったものの、こうも人に揉まれている状況だと何が起こるかわからない。なのでつり革を握る腕にも力が入るというものだ。

  (こういうとき優先席に座れたら楽なんだけどな……)

  視界の端に映る優先席には中高年の乗客と、妊婦マークを付けた女性が座っている。妊娠している以上伴場も対象ではあるのだが、さすがに譲られることもなければ座らせてほしいとお願いすることもできない。

  もともとが130kgを越える肥満体。この大きな体を見ても百人中百人が「ただのデブ」だと思うだろう。それで妊婦マークをぶら下げていてもふざけているとしか思われない。不謹慎、不愉快と感じる者も少なくないだろう。

  (まあ別にいいけどな。俺は男だから、妊婦さんよりも体力あるし。それに腹が重たいのは元からだ)

  自虐を乗せたため息をひとつ。

  (そもそもこんな太ったおっさんが妊娠してるなんて思わねえよな。

  まあ周りには隠してるからバレてほしくもねえんだけど────)

  その瞬間、けたたましい金属音と衝撃音が響いた。

  「うおっ!!」

  「わあっ!」

  車両が急停止し、乗客たちが投げ出されるような勢いでバランスを崩す。将棋倒しになりかけたが、幸い大きな怪我をした者はいなかった。

  『ただいま安全確認を行っております。発車まで今しばらくお待ちください。お急ぎのところ大変恐れ入りますが、ご理解とご協力をお願いいたします』

  味気ないアナウンスが流れると同時に「なんだよもう……」「あぶねえなあ」「始業時間間に合うかな」と皆がそれぞれ不満や不安を口にする。

  そんな車内のざわめきがおさまり始めた頃。

  「うっ……ぐう……」

  異質なうめき声が混じる。

  「だ、大丈夫ですか……?」

  青年が心配して体調を伺うが、返事はない。

  確かに急停車による怪我人はいなかった。

  あくまで怪我人は。

  「ああっ……がああああっ!!」

  妊夫、伴場洋二郎が産気づいた。

  伴場のうめき声が車内に響く。尋常ならざる様子に周囲の者たちが再びざわつき始めた。

  (い、痛い……! まさか本陣痛か……! 前駆陣痛とは比べ物にならん!!)

  痛みに埋め尽くされた脳内のわずか隙間で思考する。しかしそんな思考も波のように襲ってくる激しい痛みで上書きされる。

  「ちょ、ほんと大丈夫ですか!?」

  青年の声がより一層深刻な色になる。伴場は荒い呼吸の隙間を縫うように答えた。

  「だ、大丈夫だ……ちょっと腹が痛くてな……。電車が動いたら次の駅で降りるさ」

  陣痛の波が引いたのか、痛みが軽くなる。その間に適当な言葉を並べてその場をしのごうとした。

  そんな楽観的な状況でないのはわかっているが。

  青年が「いや、でも……」とうろたえる。どう考えても正常ではないのは青年も、他の乗客たちもわかっていた。

  他の乗客が「ひとまず乗務員に連絡しないと……」と非常通報装置に手を伸ばそうとすると。

  「だめだ! 俺は大丈夫だかっ、うぐううぅ!」

  再び強い波が押し寄せてくると同時に、バシャっと半透明の体液が尻から勢いよく漏れ出した。

  突然噴射された体液に、近くの女性客が「ひぃっ!」と悲鳴を上げる。

  「はっ、破水した……?」

  伴場は腹を押さえていた手を尻に伸ばす。羊水で濡れたスラックスを撫でるとぬるぬると手が滑った。

  「ハスイって、破水? え?」

  男とは縁のない言葉に乗客たちが困惑する。真実にたどり着きつつあることに焦り、「ち、違う!!」と必死に否定したが。

  「ぐっ、ぐうううあああああああ!!

  出るうううぅぅぅ!!!」

  本能が、痛みが、命が理性をかき消す。

  ドタンと巨体が扉にぶつかる。伴場はそのままもたれかかり、ずるずるとその場にへたり込んだ。満員電車ではあるが、乗客たちは伴場と距離を取りスペースが空いている。陣痛に襲われている伴場にとってはありがたかったが。

  「ず、ズボン!! 脱がしてくれえっ!!

  産まれるっ、産まれそうなんだっ!!」

  もう誤魔化す余裕などなかった。あまりに激しい痛みに支配された脳は従うしかなかった。

  産まれる。

  産みたい。

  そんな本能に。

  そばにいた青年が伴場のベルトに手をかける。ウエストをゆるめ、大きな尻に押さえつけられているスラックスを力いっぱい引っ張り脱がせた。

  異様な光景だ。

  満員電車、痛みに喘ぐ中年のパンダ。

  足元は羊水で濡れ、下半身をすべてさらけ出している。

  鼠径部の肉で埋もれた粗末な陰茎。

  その先端は白濁色の体液を漏らしていた。

  胎児の頭部で前立腺を圧迫されているのだ。

  そんな痴部をさらけ出すように、太い脚を大きく開く。

  

  そんなあられもない姿を、大勢の乗客たちに見られている。

  「んんんんんんんんんっ!!!!」

  乗降部の手すりをつかみながら、全力でいきんだ。腹から股にかけて得体のしれない「何か」がぐりぐりと押し進んでくる。子宮の強い収縮、産道の圧迫、あらゆる痛みが伴場を襲った。

  「おじさん!! 頭!! 頭見えてきましたよ!!」

  菊門がひくひくと開いては閉じるを繰り返す。そのわずかな隙間から、羊水で濡れた頭が覗いていた。

  みちみちみちっ、みりみりみり。

  どんなに大きく股を開いても、その穴は赤子が通るには小さすぎる。激しい陣痛に並ぶほどの尻の痛みが押し寄せてきた。

  「ああああああ!!! 痛いっ!! 痛いいいいッ!!!」

  「頑張ってください! もうちょっとです!」

  「尻穴広げてたのに……!! こんなに痛いなんて……!!」

  女性の出産とは勝手が違う。肛門は本来胎児を出産するために作られてはいない。いつか来るときのために、伴場は日常的に尻穴を拡張していた。児頭に相当する大きさのものを出し入れできるほどにまでなった。

  それでも、痛みは想像を絶する。

  「出る!! 出るぅッ!! 出てっ!!!」

  激しい痛みから逃れたい一心だ。持てる力全てを振り絞って胎児をひねり出そうとするが、それがかえって尻穴をきつく絞ってしまい、出口をふさいでしまっていた。

  「おじさん! 力み過ぎちゃだめです! お尻は力を抜いて!」

  ちかちかとする視界、ぼんやりとした意識の中で、青年の声が聞こえる。

  (そうだった……家で拡張していたときもそうだ。穴を広げるときは力を抜いて……)

  「はあー。ふううぅー」

  痛みごと吐き出すように、深く息を吐いた。すると伴場の菊門が緩み、児頭でぐいぐいと押し広げられる。

  「ふううぅぅぅぅぅ!!!! はあああぁぁぁぁぁぁッ!! あああああぁぁぁっ!!」

  それでも陣痛は容赦なく畳みかけて来る。どれだけ落ち着いて痛みを逃がそうとしても、限度があった。

  それでも伴場は戦う。

  なぜなら。

  「赤ちゃんに……会いたいっ!!」

  すると、ぐぽんっと大きな頭が排出された。

  今まで溜められていた圧力から解放され、勢いよく出てきた。その衝撃で伴場が「あがあぁっ!!」と悲鳴を上げる。胎児は伴場に似てとても大きい。

  「頭!! 頭出てきましたよ!!

  あと少し、頑張ってくださいお母さん……いや、お父さん!!」

  「んああああああああああああああああ!!!!」

  掴んでいた手すりが折れ曲がりそうだ。陣痛と尻の痛みに負けじと全生命力を投じていきむ。

  「見てください、ほら!」

  青年がタブレットを両手に持ち、伴場に見せる。

  「はあ、はあ……な、なにを……」

  こんなときに一体何だというのか。はっきりとしない意識の中、画面をのぞき込んだ。

  そこに映っていたのは。

  

  大きく開いた股。

  伴場の重たい体、そして赤子を何か月も支えてきた逞しい太もも。

  それらに挟まれているのは巨体に似合わぬ小さな陰茎。

  その口からは大量の精液が吐き出されている。

  これだけ大きな胎児が体内を通っているのだ。

  前立腺は潰れそうなほど圧迫されていた。

  その下には丸い赤子の頭が挟まっていた。

  羊水でぐしょぐしょに濡れている。

  そしてこの大きさ。

  本当にこの体の中を、尻穴を通ってきたのだろうか。

  そして、何か月もこの腹の中にいたのだろうか。

  にわかに信じがたい。

  (いや、いたんだ)

  嘘偽りではない。

  本当にいた。

  確かにこの身に宿り、育んだ命だ。

  (俺が一番知っている。誰よりも近く、誰よりもずっといっしょにいたから。

  だからあと少し、一緒に頑張ろう……)

  「あと少しでっ、会えるうううぅぅぅぅぅぅぅ!!」

  他の乗客たちも伴場を励ます。「いいぞ!」「頑張れお父さん!」「頑張れ!」と皆命が誕生する瞬間を見守った。

  「あああああああ痛いいいいいいぃぃぃぃ赤ちゃん出るううううううぅぅぅぅ!!

  出ちゃううううぅぅぅぅ!!!

  産まれるうううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」

  全身の血管、筋肉がはち切れんばかり、渾身のいきみ。

  

  どぱあっ。

  肩が出ると同時に、赤子が勢いよく飛び出した。

  残りの羊水がびしゃあっと噴き出し、床を打つ。

  「はあ……はあ……」

  伴場はその場に崩れ落ちる。全身の力は抜け、ただただ荒い呼吸だけが車内に響いた。

  そして少し間を空けて。

  「おぎゃあ!! おぎゃあ!!」

  高らかな産声が静寂を貫いた。

  

  伴場洋二郎、四十三歳。

  出産という大仕事を終え、晴れて父親となった。

  「おめでとうございます。よく頑張りましたね」

  赤子を取り上げた青年が伴場のもとに運ぶ。

  「ああ、ありがとう……」

  伴場は体を起こし、電車の扉にもたれかかりながら赤子を抱く。

  

  至福の時。

  小さな体は大きな生命力を秘めている。

  そんな命を産んだ父は壊れ物を扱うように、優しく我が子を撫でる。

  

  その目は、深い愛に満ちていた。