強者によかれた弱者ども 第一話

  生臭い処理場の煙突が[[rb:ゴミ > 死体]]を焼き焦がしたスモッグを永遠に吐き散らし続ける。

  光なんて無い。そう思わせるだけの黒雲と、それを凌駕する腐った絶望がこの街には満ちていた。

  目と鼻の先に立ち並ぶ豪勢な住宅地とは裏腹に、まるでこの世の醜悪を掃き溜めにしたような下層街は今日も廃色のまま立ちすくんでいる。

  持ち主も居住者もとうに息絶え、打ち捨てられて空を削り取るばかりのビルは、壁中を覆う黒カビと共に崩れ落ちるその時を待っていた。

  化学薬品の香りがする排水を裸足で踏み飛ばしながら、影のように黒い毛皮を纏った狐が一匹、狭く入り組んだ路地を駆け抜けていた。

  パシャパシャという軽い足音が響く。そこかしこに蔓延った、もう殆ど使われていない古い配管に反響して。

  狐の目立つ大きな三角の耳はその水音を意に介さず、前方から僅かに聞こえる大型獣人の笑い声にのみに向けてピンと正面に伸ばしていた。

  数メートル先の曲がり角から、卑しく笑い声を上げるジャッカル系の二人組の獣人が千鳥足で顔を出した。

  黒い狐はスピードを緩めることもなく、ダボついた古いパーカーのフードを翻して二人組のすぐ横を擦り抜ける。

  通り抜けざまに二人の獣人に順序よく肩をぶつけた。

  酒の入った獣人たちはその拍子に若干バランスを崩し、直ぐに礼儀のない貧相な狐を睨みつける。

  着古された彼らのスーツの衿元から覗く大きなネックレスが威嚇のように音を鳴らした。

  「おい気をつけろ馬鹿ガキが!薄汚え毛皮で上着が汚れただろーが!」

  酔っ払いのダミ声に狐は足を止めることなく大袈裟に肩をすくめて頭を下げると、ヘラヘラ笑いながら今しがた走ってきた方を指差して叫んだ。

  「ひぇっ!これは失礼しました旦那様方!急いでたもんですいやせん。この先は排水でびちゃびちゃだぜ。足元気をつけなよ!」

  その言葉に酔っ払いが思わず指された方向を向き、水に気を取られている間に黒狐は路地の遥か先を曲がって遠くへ走り去っていた。

  狭い路地を通り抜け、誰が作ったかも分からない梁へ飛び乗ると、そのまま屋根をつたい何本かの路地を超えて廃ビルの壁に空いた穴に飛び込んだ。

  小柄な黒狐はヘラついた笑みを浮かべると、壁に背を預けながら先ほどあのクソ野郎共の懐からスリとった財布を、幾重にも他人の匂いが染みついた小汚いパーカーのポケットから取り出して弄んだ。

  「あ〜あァ、ご立派な鼻を持ってるってのに馬鹿ガキにスられちまうとはだらしないねェ」

  悪態をつきながら中身を勘定する。

  銀色の瞳を壁の穴から漏れ出す灯りで鈍く光らせながら、紙幣と硬貨を見定める。文字はほとんど読めないが、金の数字と価値なら分かっていた。

  この貧相なスリ狐の名はチェス。

  物心ついた頃から路地裏で生きてきた彼は、学など何も持っていなかったが、この路地裏で生き残る方法なら誰よりも知っていた。小さく細く軽い体躯を活かして、弱者から金を巻き上げて汚い金を稼いでるようなクズどもから財布をスリとっては、その日その日を食い繋いで生きている。

  無駄に派手で色とりどりな財布に入ったぐしゃぐしゃの札やコインは、ガワだけを必死に取り繕って中身なんかてんで見る気もないあいつら自身の様に感じた。

  「締めて18900ラグに人工肉の配給券一枚…中々上々だぜ。 今夜はツイてるねぇ」

  毛ヅヤの悪い長い尾を一振りすると、チェスは馴染みの市場へと向かった。

  まもなく完全に日が落ちるというのに裏市はそれを追い潰すかのように賑わっていた。

  折角スリとったものをスられないように、ケンカの火種を起こさないように、チェスは大きな耳と目で周りを常に警戒しながら人の隙間をすり抜けて歩いた。

  途中途中で「毛皮 ひとはぎ12000ラグ」「背中1メートル7000ラグ」などという看板がチラホラ目に入る。毛皮屋だ。

  上流の貴族の間ではチェス達のような下層のやつらの毛皮を羽織るのが流行らしく、毛皮剥ぎが横行している。そこらのコジキが明日には見るも無惨に毛皮を剥がれて死体になって転がっているのは日常の風景だ。

  それだけでは飽き足らず、ああやって毛皮に値段をつけてご丁寧に「剥いでくれる」店もある。金に困った貧困層は自ら毛皮を差し出すのだ。

  毛皮を剥いで売って金にしたのであろう、胸や背中に毛皮がない獣人も見かけた事は沢山ある。まあ尤も、その殆どが剥がれた直後に伝染病にかかって死に、寒さを遮れず冬を越せなかったが。

  チェスは酷くやるせない目でその看板を睨みつけると、市場の通りの隅の、毎日常に火を灯している「死体処理場」へ足を向けた。

  前述の通りに毛皮を剥がれ、内臓を漢方として売られて肉まで剥がれた「ゴミ」の行き着く終着駅だ。かつて呼吸をしていたであろう積み重なった肉の塊を見て顔を顰めると、先ほどスリとった財布をその辺に落ちていたゴミ袋でまとめたモノを、慣れた手つきで火の中へ放り込む。

  スリとった持ち主の匂い、そして誰のとも判別つかないほど他人の匂いが絡んだ服を着ているとはいえ、自分自身の匂いが染みついた証拠品などその辺に捨てるわけにはいかない。持ってるなどもってのほかだ。

  足がつくかもしれないものはとことん排除するのが彼のスリ師としての流儀だった。

  強い炎の中、誰かの骨と一緒に証拠が燃えて無くなるのを横目で見て少し安堵するが、油断はしない。まだここからだ。

  チェスは何気ないふりをして市場を歩き回り、自身が付けられていないかを念入りに確認してからいくつかの店を回った。

  脂のこげた嫌な匂いが立ちこめる中、チェスは出店を流し見しながら品定めをする。日によって価格が変動する肉。素材の分からない干物。異国の言葉で汚く書き殴られた値札。選んで買うのにはかなりの目利きが必要だが、幼い頃から裏市で育ってきた彼にとってはただの日用品の買い出しに過ぎなかった。手慣れた顔で商品を手に取ると、屋台の端に脚をかけて、(背が低くて届かない)店の主人、機嫌が悪そうに顰めっ面をして東洋の計算機を太い指で弾いている中年の男に飄々と話しかけた。

  「これひとつ頼むぜおっさん。200ラグだろ?」

  機嫌の悪さを隠す事もせずぶっきらぼうにお釣りを叩き渡してきた長毛の店主の足元にチェスの目線が寄る。

  先ほどから何度も左膝を摩っている。浅めに腰掛けた体制からは、店主がその膝を庇って座っているのが明らかだった。

  へらりと吊り上がったチェスの口から無意識に言葉が飛び出る。

  「おっさん、膝が病むならあっちの路地の裏にいるババアがいい薬を知ってるぜ。お大事にな〜」

  店主は化け物でも見たかの様にギョッとして、つい先ほどまで中央に寄せまくっていた顔中のシワというシワをあちこちに離散させた。

  それを尻目にチェスは俊敏に屋台から飛び降り、人ごみに紛れて店主の目線から消えた。

  足取りを早めながら、徐々にチェスは親の禁句に触れてしまった時の子供の様な顔をして肩を強張らせた。

  (またやっちまった…ツラ覚えられたか?)

  関わりすぎない事。誰の記憶にも残らないような薄汚い「どこにでもいるキツネのガキ」でいること。それがこの街で生きていく上で最も生存確率が高い方法だということをチェスは知っていた。だがそれとは裏腹に他人の事を知りたいという矛盾した願いが彼の中に常にあった。

  この好奇心と知りたがりな目は毒だと分かってはいたが、それでもチェスは他人の内面を覗かずにはいられない。

  チェスは一旦思考を停止し、まぁ大丈夫だろうと根拠のない楽観的な結論を出して口笛を一吹きすると、市場の喧騒を他所に手に入れた物を持って物々交換の店に向かった。

  まずは肉と煙草をほんの少し。金を持っていると周りに知られれば自分のような非力な狐などすぐに奪われておしまいだ。

  幼い頃から奪い奪われる生活だった今までの人生が、彼の異常にビビリで用心深い性格を作り出していた。

  手に入れた肉をまた別の店で物々交換する。またそれを別の店で物々交換して…幾度か繰り返し、最終的に少しの肉とパンになった。チェスはそれをポケットに隠しながらフラフラと路地裏を歩き回り、横目でキョロキョロ辺りを見渡した。

  打ち捨てられた自動車工業の跡地に阻まれた廃材とゴミの溜まった路地の隙間から、小さな尾が飛び出ているのが目に入る。

  汚れたズボンの裾をさらに汚しながらチェスが近づくと、そこには数匹の肋が浮き出るほど飢えた雑種の子供獣人たちがいた。

  チェスを見るなり肩を震わせて怯え、耳を伏せて小さな唸り声を上げる。

  チェスは静かに銀色の瞳で見下ろしたまま、態と牙を向いた横暴な態度でポケットから袋包みを出すと、子供達に向かってぶん投げた。

  「どっか行っちまえ!飢えたガキどもが!」

  その包みには僅かだが人数分には足りる量の肉とパンが入っていた。

  殴られるのかと身構えていた矢先の思わぬ行動に、子供達の大きな瞳があっけにとられて呆然とするのを構わず、チェスはかがみ込んで他の誰にも聞こえないくらいの小さな声で耳打ちをする。

  「左の路地裏に穴がある、そこなら大人は入れない。バレないうちに食え。分け合って生き延びろ」

  チェスは早口で淡々と囁くと、上半身を大袈裟に戻して踵を返し、最後にケッ!!と態とらしく悪態をつくと足早にその場を立ち去った。

  後には生臭い湿度に混じる子供たちの小さな体温と、温かい肉とパンの香りだけが残された。

  チェスの黒くて長い尾が路地をなぞっていく。

  あっちの通りに顔馴染みの老人やガキたちがまだいる。そいつらに分ける為にとチェスはまた先ほどの面倒なルートをもう一度辿りに走った。

  懐に余裕がある時にはこうして子供や病人に食物を、時には毛布や情報を投げ与えるのが彼の日課だった。元はと言えば彼らから奪った金なのだ。ならば元の場所に少しでも返すのが礼儀というものだろう。

  他人を知りたがるチェスの悪い癖が突出して出た行動の最たるのがこれだった。

  こうしておけば路地裏の" 目 "が増えるし、盗んだ金は早めに使ってしまった方が都合がいいという打算的な考えもあったが、何よりもチェスの反抗心がこの「施し」をさせていた。

  この町では弱いやつは死ぬ。力の強い者がのさばり、弱者を食うのはどれだけ抗っても絡みついて取れない、骨の奥深くまで根付いた日常だった。

  だがチェスはそんな「弱肉強食」を心底否定していた。だからこそこうして他人に施しをすることで、自分は見せかけの力に縋ってるあいつらとは違う、"人間"だという実感が持てたのだ。

  チェスは黒いアイラインの入った目を細めて路地裏の腐った死と命の香りを嗅いだ。避けられない"発情"が街中からじわじわと目覚める気配がする。もうすぐ来る、あの狂おしい「春」の匂い。

  その不穏さに細めていた目の端を強く歪めると、チェスはぽつりとつぶやいた。

  「 本当の強者ってのはそんなんじゃねェ筈だ…」

  錆色の家々を沈みかけた夕日が赤く染める。小さな黒い狐はどこにあるかも分からない光を求めて今日も路地裏で足掻き続けていた。

  [newpage]

  鼻に付くスモッグを吐いて空を汚し続けている路地裏から西に少し離れたビルの一室。商人や薬屋、毛皮流しが彷徨くその場所で、恰幅のいい雄コヨーテを革靴で踏み躙っている一匹の狼が居た。

  左の目元には傷があり、咥えたタバコから工場のスモッグのように煙を立ち上らせている。彼の羽織る仕立ての良い背広は力強い体格をより一層引き立てて強者としての威圧感を周囲にばら撒いていた。

  ヴァインと呼ばれている北の国から流れてきたハイイロオオカミだ。

  足元に転がる無様なコヨーテの顔を革靴でねじり、歪んだ笑みを浮かべている。数多もの打撲の跡をつけられ這いつくばるコヨーテとは裏腹に、ヴァインの身体には新しい傷一つなかった。革靴の底から骨の軋む嫌な音が響き、生温かい血が床にゆっくりと模様を描いていく。

  「おい、どうした?もうお終いか?」

  嘲りながら靴の先で頭をつつく。その声は心底楽しそうだったが、つつかれたままゴロリと床に転がり反応が無いのを見ると興味を失ったように冷めたダウナーな表情へと戻った。

  「退屈だ…つまらねぇ」

  なんの感情もなく、靴に付いた血を転がるコヨーテのシャツで鳩尾ごと踏み潰してぬぐう。

  冷徹な闇を含む瞳を空に浮かばせて、ため息をつきながら煙を大きく吐き出すと、ヴァインは他に何か退屈凌ぎになるような「おもちゃ」はいないかと辺りを見回したが、彼が視線を向けた先にはその目から必死に逃れるように顔を逸らして見ないふりをする腰抜けばかりだった。

  ヴァインにとって弱者を痛ぶるのは何よりの生き甲斐だ。

  他人が自分の存在に怯え、恐怖し、這いつくばっている間だけは己が「強者」であると実感できる。

  たった今も、流れ者のヴァインがボスに気に入られているのが気に食わないと突っかかってきた威勢のいいゴミを踏み躙って愉しんでいたところだったが、それでも彼の歪んだ加虐欲を満たすには足りない。

  目元の古傷がピクリと動く。壁に灯る薄明かりが、ヴァインのシャツの胸元から僅かに覗く古い火傷の跡を鮮明に照らした。

  タバコを口に咥えたまま、彼の動きに一々怯える腰抜けの構成員どもの横を通り過ぎて、鼻をひと鳴らしすると彼はおもちゃを求めて路地裏へと向かった。

  事務所の鉄製のドアを開けた途端に、ねばついた卑しい生き物達の匂いが身体を包む。酷く濃厚過ぎるその匂いにはまもなく来るであろう「春」を前知するような微かに本能をくすぐる匂いが混じっている。

  その決して芳しいとは言えない香りをヴァインは心嬉しそうに吸い込んだ。

  路地裏には彼の好きな「弱者」がごまんといる。泥臭く力を何一つ持たず産まれた、存在そのものが哀れな獣。ヴァインと同じように弱者を痛ぶって優越感に浸る、なぶり甲斐のある雑魚もいて、獲物には困らない。泣き叫んで命乞いをする弱者どもの顔を思い浮かべて歪んだ笑みを光らせながらしなやかなグレーの尾を振りヴァインは路地裏へと消えていった。

  [newpage]

  路地裏の顔見知りに粗方今日の稼ぎを配り終えた頃。チェスの鼻は路地裏に漂う異変に気が付いていた。

  おかしい。

  チェスの臆病な本能が危機を伝えて、肌を粟立てさせる。

  僅かに漂うその匂いは、ここにあるはずのない恐ろしい匂いだったからだ。

  ーハイイロオオカミの匂いだ。

  犬科最大のその種類は、この場所には似つかない圧倒的強者だ。そんな香りがあるとすれば路地裏に紛れ込んだネズミを捕らえに来たお偉いさんか、はたまた弱者を痛ぶる趣味でもある変態かのどちらかしかない。

  ゾッと背筋が凍る。毛皮を剥がれて肉の塊になった自分を想像し、本能から勝手に震えてしまう細い膝を鼓舞してチェスは頭を回す。幸いにもこちら側は風下だ。まだ気付かれていない筈。

  チェスは庭である路地裏ルートを駆使しながら、いくつか持ってる隠れ家のどこが一番安全か計算しつつ、走りながら通り道にいる浮浪者共にハイイロオオカミがくると耳打ちして回った。

  考えた末チェスはここから北側にある、ハイイロオオカミの重い体躯では上がれない細い鉄パイプが入り組んだ先の隠れ家を選んでそこへ向かった。

  湿った肉球がペタペタとセメントに張り付いて勢いよく剥がれる音が軽やかに響く。

  あと少しで隠れ家へ着くと言ったところで、チェスはハッとした。

  思わずその場で爪を立てて足を止める。

  ハイイロオオカミの匂いが漂ってくる方向。

  それは先ほど自分が食べ物を投げ渡したガキ達が居た方向だ。

  最悪な想像がチェスの頭をよぎった。

  全身の毛がゆっくりと逆立っていく。子供の絶叫が遠くから聞こえた気がして体が勝手にビクンと震え、冷えた何かが喉をかけ上った。

  頭の中ではいく通りもの可能性が現れてその度にじわじわと濃くなるハイイロオオカミの匂いで消されていく。

  自分に言い聞かせるようにチェスは都合のいい言葉を投げかけた。

  いいや、あいつらも子供とは言え路地で生きてきた獣だ。匂いに気づいて移動しているかもしれない。

  そう勝手に抱いた希望を塗りつぶすように、自分が子供らに囁いた言葉が頭に張り付いた。「左の路地に穴がある。そこなら大人は入れない…」

  チェスの瞳が鋭く陰った。

  並大抵の大人ならまだしも、ハイイロオオカミは別だ。あの路地の古びた壁くらい本気を出せば簡単に壊されてしまう。

  奥底から湧き上がる死への恐怖にやめろやめろと身体は震えるがそれに反して思考は真逆のことを叫んでいた。

  ハイイロオオカミの匂いがチェスの鼻腔を包む。

  静寂に包まれていた湿った路地に、ハァッと言う諦めの混ざったような大きなため息が響いた。

  「あぁクソ!しくったぜマジで!」

  恐怖を叫んで吐き出して、残った震えをなんとか張り付いたような笑みにして誤魔化すと、チェスは迷いなく踵を返して濃くなるオオカミの匂いに身体をこわばらせながら全速力で元来た道を走った。

  軽い体重の生き物が地面を蹴り進む音がテンポ良く廃ビルのガラスに反響していく。

  骨と皮ばかりの頼りない脚を回す速さよりも速く、チェスの頭の中ではこの先に待ち受けてる絶望へのいく通りもの対処法を考えていた。

  ガキたちが生きていた場合、既にやられていた場合、ガキを連れた場合の逃走ルート、匂いの主の目的、思考…

  だが考えるまでもなく結論は決まっている。

  子どもが生きていようがいまいが、手っ取り早く彼等をこの恐怖の略奪者から遠ざけられる方法は一つしかない。

  自分の行動に自分で呆れると言わんばかりに、迫り来る恐怖に向かって乾いた笑みを浮かべて、チェスはわざと喧しい足音を立てながら匂いの主の元へ直行した。

  [newpage]

  その頃ヴァインは短くなったタバコをふかしながら、小汚い路地裏を大きな体躯でゆったりと揺らして優雅に歩いていた。

  だがその目は獲物を探す捕食者の目に他ならぬ、鋭い殺気を放っている。

  夜も更け静まり返った路地裏は生臭い臭いとは裏腹にまるで消えてしまったかのように生き物の気配がしない。

  路地に見合わないこのヴァインのハイイロオオカミの強い体臭と、高価な煙草の匂いはありとあらゆる弱小に命の危機を知らせるには充分過ぎる情報だった。

  だがいくら気配を消そうとも、ハイイロオオカミの鋭い鼻からは逃れられる筈もない。ヴァインは近場に幾つか隠れている恐怖に包まれたドブネズミ共の体臭に気付かないふりをしながら、さてどうしてやろうかと不気味な笑みを浮かべ指先でタバコを弄んでいた。

  ところが、その恐怖に支配されているはずの静寂の中ヴァインの耳が異質な音を捉えた。

  体重の軽い、粗雑な足音。

  存在を隠すそぶりのないそれはあちらこちらに反響しながら徐々に大きくなっていった。

  路地裏の生き物は全て彼の匂いを察知して息を殺してその存在に怯えているというのに、この完全なる「弱者」の小さな足音は怯んで逃げるどころか明らかに意図的にこちらへ向かってきている。

  ヴァインの目が三日月に歪む。

  その無謀で小賢しい挑戦に身体の底から歓喜の昂りが湧き起こるのを感じ、ヴァインはこれからやってくる「餌」の未来を予知するように、煙草を地面に落とすと大きな足で踏みすり潰した。

  足音が近づいてくる。ヴァインは先ほどコヨーテを踏み躙っていた時のような歪んだ笑みを浮かべ、心底嬉しそうに目を細めてこれから姿を現すであろう路地の曲がり角を凝視した。

  狼の金色の瞳が期待に揺れる。

  軽快な音と共に路地から現れたのは軽過ぎる足音よりももっと貧相な、ボロボロの衣服を纏い痩せ細った黒キツネのガキだった。

  隅から隅まで真っ黒なその身体は、汚れなのか本来の色なのかわからないほど煤けて、背景の暗がりに完全に溶け込んでいたが、銀色の瞳だけは空に浮かぶ見えない月のように妖しい光を放っていた。

  そのヴァインの背丈の半分にすら届かない見窄らしいガキはヴァインを見るや否やあからさまに大袈裟にビクついて肩をすくめると、ヘラヘラと笑って尾を震わせた。

  「ヒイッ!!はは、これぁオオカミの旦那サマぁ…あんさんみてぇな高貴なおカタがこんなゴミ溜めになんのご用っスか?」

  汚い訛りのある共通語が掠れた声で紡がれる。

  ヴァインは壁に張り付く黒狐を見つめたまま、歪んだ笑みを崩さずに、その大袈裟な「演技」から本音を無理やり抜き取るように、ただ二回鼻を鳴らして匂いを吸い込んだ。

  衣類に染み付いた有象無象の雄の体臭。ドブの底の奥から僅かに怯えるキツネの、やけに本能を刺激するツンとした匂いがヴァインの鼻に届いた。

  その仕草に、演技ではなく本当の怯えがチェスの尾から耳の先まで駆け上る。

  奴に内面を探られている。その事実はナメクジに全身をなぶられるような嫌悪感と恐怖を訪れさせた。

  呼吸をするたびにヴァインの放つ肉食獣の匂いがチェスの体内に染み込み、毛先に至るまで奴に支配されている錯覚を覚える。相対した本物のハイイロオオカミはこれでもかというほど「強者」の存在感を打ち込んでいて、弱さの塊であるようなこの路地裏ではそれがより一層膨らんで感じられた。

  歯の根が震えて音を出そうとするのを必死に堪えて張り付いた笑みを浮かべ続ける。

  チェスはこのオオカミを知っていた。最近北から流れてきたという…ヴァイン。流れてきてすぐに、この辺りを仕切ってるブローカーの幹部近くまで登り詰めた実力者。だが彼が有名なのは実力じゃなく、その残虐性にあった。

  相手をとことんまで痛ぶって弄ぶその狂行は仲間内でも恐れられていて、誰も手が出せない。弱者を踏み躙り泣き叫ぶ声を聞くのを何より好んでいるイカれ野郎だとこの下層街まで話が流れている。

  高そうな背広が汚れるのも厭わず笑みを浮かべて路地を徘徊しているのを見るとどうやらその噂は本当だったらしい。他人を踏み躙る事でしか自らの強さと存在意義を見出せない典型的な「サディスト」。やはり戻ってきて正解だったと言えるだろう。

  ヴァインの胸に垣間見える火傷痕に、他人の内面を覗きたがるチェスの困った癖が出そうになるのを無理やり恐怖と共に生唾にして音を立てて飲み込んだ。

  ヴァインはチェスの恐怖を嗅ぎとって愉悦に浸っ

  たのか、口元に刻まれた笑い皺をより深めながら新しい煙草を取り出して火をつけた。

  赤い炎が路地裏に一瞬浮かび上がり、目元の古傷の輪郭をチェスに見せつける。

  その様子は側から見れば粗暴なチンピラの振る舞いのそれに思えるが、彼の動きの節々や指使いが異様に綺麗で、どこか階級の高い大人の振る舞いにも見えた。ヴァインはまるで仕事終わりに自室でくつろぐようにゆっくりと煙を吐き出すと

  地響きのような低い声でチェスの鼓膜を震わせた。

  「お前、わざと俺に向かってきただろう?」

  身体の芯まで振動させられるような、異様に発音がいいその唸り声に、張り付いて取れなくなった笑みを強張らせながらチェスは精一杯の虚勢を張った。

  「何の話かわかんねェっすね。俺は馴染みの酒屋に行く途中だったんだ。角をまがったらオオカミさんに会っちまうなんて今日は運が無いらしい」

  チェスは両手をポケットに突っ込むと、降参したように耳を伏せてあからさまに鼻から大きくため息をついた。

  ヴァインはそのチェスの怯えながらも尚飄々とした態度をいたく気に入った様子で、いたぶりがいがあるとでも言わんばかりに喉の奥からくぐもった笑い声を漏らす。

  「面白いガキだ…俺はテメェみたいな減らず口を叩く身の程を知らねぇ塵を掃除するのが趣味でな。退屈凌ぎには丁度いい」

  ヴァインが咥え煙草のまま大きな一歩をゆったりと踏み出す。

  その一歩が近づいてくるたびに震えが増す細い喉をこじ開けるようにして声を絞り出しボロ狐はヘラヘラ笑った。

  「あは、すいやせんあいにく俺の方はアンタみてぇなコワモテに用なんてなくってねぇ」

  なんとか笑い顔を作ったチェスはじりじりと脚を後ろに下げて構えながら飛び出すタイミングを窺っていた。鼓動がバクバクと跳ねる。耳が恐怖と緊張で頭のうしろにぺっとりと張り付き、尾が勝手に股の間をくぐった。目の前の狼はチェスのそんな様子を心底楽しそうに眺めている。

  ークズが。

  チェスは心の中でだけ悪態をつくと、ヴァインの金色の瞳を睨みつけ身を屈めて素早く横の路地へと飛び出した。

  ヴァインは急ぐ様子もなく、必死で逃げるチェスのもがきを楽しむように緩やかに体躯を前進させた。

  小さな爪の駈ける響きを掻き消すほどよく通るヴァインの革靴の一音が、路地裏の命をかけた"鬼ごっこ"の開始を合図していた。

  [newpage]

  身体全身をバネにして全力で逃げる。追いつかれたらそれこそ"死"だ。毛皮を剥がれるだけじゃ済まない。内も外も尊厳を隅々まで踏み躙られ、真の強者は等と宣う暇もなく数時間後にはその辺のゴミと同じ様に転がっているだろう。

  だがチェスも何も自殺しに来たわけでは無い。それなりの勝算があるからこそ、こんな危ない囮作戦の賭けに出たのだ。

  俺ならこの路地を誰よりも知ってる。あいつが俺をただのクソガキだと思って舐めてやがるのも幸いだった。幾らハイイロオオカミが相手といえどもこの庭では俺に武がある。

  一定のペースで後ろに張り付く大きな生き物の気配にチェスは挑発するように笑い声を上げながら勝手知ったるルートを駆け抜けた。

  「あッはは!こんな夜中に鬼ごっこかよオオカミさん!いい趣味してんじゃねぇか!」

  右。左。また左。その次は右…

  必死に頭の中でルートを組み立て、子供達のいる場所からどんどん狼を遠ざけていく。

  このハイイロオオカミの前では時間稼ぎにもならないであろう幾つも仕掛けてある小罠の道を選び、屋根も使って距離を離そうとする。

  だが、いくらチェスが計算と土地を駆使しても、背後の気配は消えるどころかべっとりと張り付いたまま全く同じスピードを崩さない。

  チェスの息が荒くなる。まともな飯にありつけるのが稀な細狐の体力と、恐らくこのまま一晩中走り続けても屁でもない程のハイイロオオカミの雄の体力とでは比べるまでも無い。

  長期戦では勝ち目はゼロだ。オオカミなんかと持久勝負をするバカはいない。

  そして、迫る体力のリミットと近くなっていく背後の恐怖とは別の'違和感"が、チェスの脳をじわじわと滲むように侵食していた。

  (……… 違う。)

  おかしい。

  こいつは普通のオオカミじゃない。

  今までの相手とは違う。圧倒的に違う。リズムのいい靴音も、一寸のブレもない重心の移動の仕方も、無駄のない路地の曲がり方も、全てがその辺の野良犬とは格が違いすぎた。

  今までなら四度目の角を曲がった辺りで並大抵の犬や狼ならまけていた。だがこいつは俺の動きに惑わされるどころかそれすらも愉しんで余裕で追ってきやがる。

  それは確実に訓練を受けたプロの追跡だった。

  チェスの歩を進める足どりに僅かに強張りが混ざる。それは未だかつて感じた事のない程の追跡者への恐怖だった。

  やばい。やばいやばいやばい。

  自分の汚い毛皮は一体何ラグで売られるんだろうというやけに冷静な思考が頭をもたげる。

  喉奥を締め付けるようなその絶望という恐怖に、小さな身体は呑まれそうになっていった。

  …だが、チェスにはストリートチルドレンという経験がある。自分より圧倒的にでかい存在に追われるのなんて道端の石ころを蹴り飛ばすくらいの日常。

  幼少期から今までに何度も何度も毎日追いかけまわされ、失敗し、捕まり、その度に学んできたのだ。犬科のデカブツ共の鼻使いの癖。路地裏の駆使の仕方。奴らの鼻の良さを逆手にとってケムに巻く方法。

  今その全てをよく回る頭で使っていた。

  運動と恐怖で上がる鼓動とは裏腹に頭は頬が風を切るごとに冴え渡っていく。

  軍人なんて知ったことか。見てろ変態オオカミ野郎。俺はてめぇの腐った自尊心を満たしてやるために生まれてきたんじゃねェ。そのよく効く鼻に吠え面かかしてやる。

  小さな歯を食いしばって振る腕に力を込めると、チェスはめいいっぱい笑顔を浮かべた。

  笑い飛ばしてやる。この腐った世界もカスみてぇな状況も。それはチェスのたった一つだけ許されたこの世界に対する唯一の反抗だった。

  [newpage]

  冷たい革靴の音が湿った路地裏の暗闇にぼやけて反響する。

  ヴァインは嗤っていた。あんなに細くか弱い体躯で己のような逞しいオオカミから必死に逃げているのだと思うだけで笑いが止まらなかった。

  確かに小狐の逃げ方は利口だった。ヴァインの体重や大きさでは通りにくい場所を選び、フェイントをかけて足場の悪い道へ誘導する。痛いところを的確につき、追う側のやりづらさをしっかり理解している。

  だがそれは相手が「並の犬」だった場合だ。ヴァインの鼻と鍛え上げられた追い足からすればそんなものは道を邪魔する蜘蛛の巣程度にしかならない。

  冷淡な思考がヴァインの余裕ある広い胸に広がる。

  弱者ってのは本当にどいつもこいつも物分かりの悪い阿呆ばかりだ。己がどれほど醜く弱く哀れな存在かという事を何も理解していない。

  喚こうが泣こうが、圧倒的な力の前には全てが無力なのだ。なぜそんなこともわからない?弱者は弱者らしく道端に転がっていればいい。

  己の弱さと強者の力に絶望し、どうか命だけはと通るはずもない要求を懇願する、踏み躙ってきた雑魚どもの表情が浮かび、ヴァインの躍動をより深めた。

  目の前から漂うドブの香り。信じられないほど小さく弱い爪の音。

  耳を伏せてペラペラと雑言を宣っていた先程のガキのツラがヴァインの脳裏をよぎった。

  あの小狐の目。他人の裏を書こうとする嘘つきの目。皮をかぶってコソコソしている癖に決して自分は間違っていないと信じているような小賢しい光った瞳。

  ヴァインの瞳孔がキュッと細まった。

  死ぬほど腹が立つ。

  どうしようもないほどに弱者だというのに立場を弁えず、まだ生きる事を諦めていない真っ直ぐな光。アレをぐちゃぐちゃに原型も無くなるほど壊してバラすのを想像しただけで身体が熱くほてる。

  徐々に縮まる距離の先にいる「獲物」に、ヴァインは全身を駆け巡る興奮をぶつける瞬間を待ち侘びていた。

  目の先で狐の長く細い尾が強張って左右に揺れているのがよく見え、それがまた彼の狩猟本能を刺激した。

  小さな吐息がだんだん荒くなり、走る膝が勢いを無くしていく様子がまるでヴァインの手のひらの上に乗せているかのように分かる。

  あと僅か数メートル。

  歩幅を大きくし一気に距離を詰める。

  それに気付いたのか狐が必死に耳を伏せて足を速め、最後の足掻きのように勢いよく角を曲がる。

  ヴァインは無駄だと言わんばかりに笑みを浮かべたまま同じようなスピードで角を曲がった。

  ーだが、そこに地面は無かった。

  代わりに路地一面を覆い尽くす酷い地割れだけがまるで待ち構えていたように大口を開けて佇んでいる。

  振り上げたヴァインの片足が空を踏む。

  「あ?」という抜けた声と共に思わずヴァインが角に手をかけて落ちかかった身体を止めると、上から金属の軋む嫌な音が聞こえた。

  咄嗟に視線を上げると、何年も前から作りかけで放置されていたであろう錆びた鉄骨のビルが上階半分傾き、軋みを上げてヴァインの立っている路地全体に覆い被さっていくさまが見えた。

  瓦礫の騒音の隙間からあの狐の声が響く。

  「悪いね旦那、かわい子ちゃん以外のストーカーはお呼びじゃねぇんだ」

  けたたましい崩壊の地響きが大きな土煙と共に路地中に轟いだ。

  倒壊した鉄筋は日々劣化し続けている脆い路地の家壁を打ち割り、いとも簡単に地割れの底へ瓦礫くずとして叩きつけた。

  日照りの時のようなひび割れが壁中を伝い、鉄筋同士がぶつかる嫌な音がひとしきり騒いだ後、漸く路地に静寂が訪れる。

  煙幕のように白く霧かかる廃ビル達を潜ってチェスはたった一匹走っていた。黒い毛皮におしろいをして、勝ち誇ったように両耳を高く掲げながら。

  後ろの気配は無い。チェスを遮る狼の匂いは薄汚い埃に変わって消えた。

  念には念を入れてもう何分か逃げ切りルートを回って匂いを撹乱してから隠れ家に帰ろう。

  走る指先の体温や、地面の感触、音を反響する路地の壁に、生暖かい夜の空気。

  息を荒げて走るチェスに、段々と世界が戻ってくる。

  路地裏に響いているのは、もう狐の小さな爪音だけだった。

  逃げ切れた。あの化け物から一先ず今夜は逃げ切れた。その安堵で全身から恐怖が抜けていく感覚に思わず足がもつれる。

  だがこれは生還ではない。少し地獄を先延ばしにしただけの一時的なものだということをチェスはよく分かっていた。

  ヴァインに喧嘩を売ったことになってしまった。奴からすればいつでも踏み躙れる筈の「獲物」からしっぺ返しをくらったのだ。その屈辱は想像を絶する。"弱者のくせに牙を剥いてきた小癪な狐のガキ"という存在は、今夜ヴァインの中で最も潰し難い極上の餌になっただろう。

  あの程度であのハイイロオオカミが死ぬとは思っていない。明日からあいつは今日の比ではない執着で何がなんでも俺を追うだろう。暫くは出歩かないほうがいい。

  それに…

  どのみちもうすぐ春が来る。

  この欲望の蔓延した醜い下層街をより一層地獄へと変えるあの忌まわしい春が。

  こんなに早く籠ることになるとは予定外だったが命には換えられない。スリもお休みだ。奴に覚えられたであろうこの服も捨てる。考えられうる脅威はできるだけ排除しよう。

  穴籠もり用の隠してある食料で何日持つかを計算しながら、チェスは生ぬるい勝利の余韻を噛み締めていた。

  [newpage]

  小さな賢者の去った後。

  壁や地面に突き刺さりながら鉄筋が絡み合い、まるで壊れた遊具のように変わり果てた路地の道筋。その中から静寂を打ち破り瓦礫を勢いよく蹴散らして這い出てきた生き物が居た。

  ヴァインだ。仕立てのいい立派だったはずのスーツは見るも無惨に泥に塗れて、所々ほつれが見えている。

  グレーのしなやかで美しい毛皮にはビルの瓦礫の粉塵やら劣化して粉になったガラスの破片やらが埃かかって煤け、この下層街に見合う毛並みとなっていた。

  荒い息とそれに呼応して立ち上る狼の強い体温と怒りが路地裏の熱を上げる。

  路地裏には誰の姿も見えず、無様に瓦礫を押し除ける自分の存在以外は残されていない。夜の闇の静けさが敗北という現実をヴァインにこれでもかというほど突き付けていた。

  やられた。その感覚だけが今ヴァインに与えられた唯一の感覚だった。

  自分よりも遥かに格下の存在に隙をつかれ、惨めに負けた敗者に成り下がったというのに、何故か先程獲物を追っていた時よりも遥かに強い欲情がヴァインの腹の底に迫り上がって来る。

  口元が皺を寄せて歪んだ。

  「くくくく……クックック…」

  「はは……ははははははははははは!!!!!」

  ヴァインは笑った。心の底から笑った。

  静かな空気を狼の歪んだ咆哮が震わせる。敗者としての屈辱と獲物に対する苛立ちが腹の奧から笑いとなって飛び出続けた。

  完全なる敗北。

  その強者にあるまじき失態こそが、ヴァインの身体に忘れかけていた生の実感をこれでもかというほど与えていた。

  あのクソガキにしてやられた。この俺が。

  小汚い路地裏の狐がハイイロオオカミを嵌めたのだ。

  握っていた鉄パイプが紙細工のようにへしゃげる。

  最高の獲物だ…

  あいつは確実にこの手で俺が潰してやる。

  どれだけこの狭い路地裏を逃げ回ろうとも、俺の鼻からは逃れられねぇという事を教えてやろう。

  ヴァインの鼻腔は、あのドブの底のようなゴミ溜めの匂いの奥に隠れた黒狐本来の微かな匂いを脳の奥に至るまで逃さないように仕舞い込んだ。