Ad
真柴透吾がその求人を見つけたのは、大学の前期試験が終わり、友人たちが旅行だ帰省だと浮かれた予定を立て始めている時期だった。
夏休みの予定は、彼の場合、ほとんど白紙だった。
サークルの合宿に行くほど熱心でもなく、実家に長く帰るほど家族仲が良いわけでもない。けれど何もしなければ金だけは減っていくし、秋になれば教材費だ飲み会だ何だと、また財布の底を覗き込むことになる。
だから、透吾は半ば義務のように求人アプリを開き、条件検索の欄に短期、高時給、交通費支給と入れて、出てきた案件を上から順に流し見ていた。
そこに、その求人はあった。
郊外型リゾートプール、夏季限定スタッフ募集。ナイトプール補助、水上遊具管理、特殊イベントサポート。未経験歓迎。日払い可。交通費全額支給。
画面の中の写真は、どこか作り物めいて綺麗だった。白いタイルのプールサイドに、青く澄んだ水が満ちている。昼のプール特有の騒々しさはなく、夜の営業写真には紫がかった照明が水面に溶け、カクテルグラスを持ち笑う客たちが写っていた。
そして、時給は明らかにおかしかった。
透吾はスマホを持ったまま、ベッドの上で少しだけ身体を起こした。最初は入力ミスかと思ったが、詳細欄を開いても数字は変わらなかった。いろいろなバイトを見てきたが、そのどれよりも割がいい。しかも仕事内容は、文章だけを読むかぎり、どう考えてもそこまできついものには見えなかった。
怪しい。
そう思ったのは確かだった。思ったはずだった。けれど画面をスクロールする指は止まらなかったし、施設紹介に載っている写真を何度か見返すうちに、胸の奥にあった警戒は、いつの間にか別の感情に押し流されていた。
写真の中の水面は、妙に目を引いた。
ただ青いだけではない。画面越しなのに、深さがある。水の底に何かが沈んでいて、それがこちらを見上げているような、いや、こちらに来いと誘っているような、そんな錯覚があった。透吾は自分の疲れた目のせいだと思い、軽く瞬きをしたが、瞬きをしても、画面の水面は変わらなかった。
応募ボタンは、思ったより軽かった。
面接日程はすぐに決まった。返信も早かった。文面は丁寧で、必要な持ち物は本人確認書類と印鑑だけだと書かれていた。履歴書は不要、服装自由、面接後に適性確認を行う場合がある、とも書かれていた。
適性確認、という言葉が少し引っかかった。
けれど、透吾はその引っかかりを深く考えなかった。プールのバイトなら、水に入れるかとか、体力があるかとか、そういう確認なのだろうと思った。そう思うことにしたのかもしれない。画面に残っていたプールの青が、頭のどこかに薄く残り、考えをそこまで滑らせてしまうような感覚があった。
面接当日、施設に着いたのは午後四時を少し過ぎた頃だった。
駅から送迎バスで十分ほど走ると住宅地の気配は薄くなり、低い丘と木立の間に白い壁の建物が見えてきた。入口の看板には、リゾートプールの名前が流れるような文字で刻まれている。
古い温泉旅館を改装したような和の気配もあり、海外のホテルを真似たような作りでもあり、そしてそのどちらにも属さない奇妙な落ち着きがあった。
敷地に入った瞬間、塩素の匂いがした。
けれど、それは市民プールのような鼻を刺す匂いではなかった。もっと薄く、湿った石の匂いや、干したビニールの甘い匂いと混ざっている。夏の夕方の熱がまだ残っているはずなのに、建物の奥から流れてくる空気はひんやりとしている。
受付には誰もいなかった。
インターホンを押すべきか迷っていると、奥の自動扉が音もなく開いた。そこから一人の女性が出てきた。
透吾は、思わず少し姿勢を正した。
美人だ。
その一言で片付けるには、少し違和感のある美しさだった。年齢は二十代後半ぐらいだろうか。黒に近い濃紺の髪は背中まであり、結んでもいないのに乱れず、光の当たり方によって水面のような艶が揺れる。目元は涼しげなのに、見つめられると逃げ場のないような湿度があった。
制服らしい白いブラウスと紺のタイトスカートを着ている。名札には管理主任、とだけ書かれていて、名前は書かれていなかった。
「真柴透吾さんですね」
声は、柔らかかった。
柔らかいのに、よく通った。耳元で囁かれたわけでもないのに、音がまっすぐ透吾の内側へ落ちてくるようだった。
透吾は一拍遅れて頷いた。
「はい。面接に来ました」
「お待ちしていました。暑かったでしょう。こちらへどうぞ」
彼女が微笑むと、透吾はつられて軽く会釈した。
お、ラッキー。
そんな軽い感想が、頭の上のほうに浮いた。高時給の怪しいバイトに来たはずなのに、受付にこんな綺麗な人がいるだけで、警戒心がはっきりと薄れていく。
通路の窓から、屋外プールが見えた。
まだ営業時間前なのか、客の姿はない。水面だけが静かに揺れている。風はほとんどないはずなのに、小さな波が規則正しく広がっては消え、広がっては消えていた。プールサイドには、空気の抜かれたフロートがいくつか重ねられている。シャチ、イルカ、白鳥、丸い浮き輪。どれもまだ膨らんでいないため、平たく、柔らかそうに、白いタイルの上で眠っているようだった。
透吾は少し足を緩めた。
なぜだか、そのしぼんだフロートが気になった。膨らんでいないものを見るだけなら、ただの片付け前の道具にすぎないはずなのに、妙に目が離せない。空気を待っている、という言葉が頭に浮かんだ。自分で思いついた言葉なのに、どこか自分のものではないような気がした。
「気になりますか」
女性が振り返った。
透吾は、見ていたことを咎められたような気がして、少しだけ笑って誤魔化した。
「いや、けっこう大きいんだなと思って。ああいうのも、バイトが膨らませるんですか」
「ええ。大切なお仕事です。水に浮かぶものは、きちんと満たされていないといけませんから」
彼女の返事は自然だった。
けれど、満たされていないといけない、という言葉だけが、妙に長く耳の中に残った。
満たされる。
何で?
空気で。
誰のために?
客のために。
そこまで考えたところで、透吾は小さく首を振った。変な連想をしている。夏の暑さで少しぼんやりしているのかもしれないし、面接前の緊張で余計なことを考えているだけかもしれなかった。
案内された部屋は、思っていたよりも簡素だった。
大きな机と椅子が二脚。壁際には観葉植物。窓の外にはプールの一部が見える。ブラインドは半分だけ下ろされており、水面の反射が細い光になって天井に揺れていた。エアコンは効いているのに、部屋の空気には湿り気があり、座るだけで肌の表面に薄い膜が張られるようだった。
「どうぞ、おかけください」
女性が向かいの席を示した。
透吾は腰を下ろした。椅子の座り心地は悪くなかったが、身体の重みを受け止められている感覚が妙に意識に残った。
背筋を伸ばそうとすると、女性が静かに言った。
「楽にしてください。ここでは、無理に力を入れなくて大丈夫です」
「あ、はい」
透吾は言われるまま、肩の力を抜いた。
最初の質問は、どこにでもあるものだった。大学名、学年、通勤にかかる時間、夏休み中の勤務可能日、接客経験の有無、水泳経験の有無。透吾は一つずつ答えていった。特別に良い受け答えではなかったが、悪くもなかったはずだ。
女性は時折頷きながら、手元の書類に何かを書き込んでいた。ペン先が紙を滑る音が、やけに小さく、そして耳に残った。さらさら、という音が、プールの水面を撫でる風の音に似ていた。透吾は何度か、その音に合わせて呼吸が浅くなるのを感じた。
「夜の勤務に抵抗はありませんか」
「大丈夫です。大学も休みですし、夜勤も経験はあるので」
「そうですか。朝にはちゃんと帰れますから」
ちゃんと帰れる。
何気ない言葉なのに、透吾はそこで少し安心した。まだ勤務してもいないのに、もう帰りのことを保証されたような気がした。これから自分が何をしても、最後には普通に帰れる。そう思うと、心の奥に残っていた警戒が一段浅くなる。
「水に入る仕事は好きですか」
「好き、というほどではないですけど、泳げます。高校までは普通に授業もありましたし」
「浮かぶのは」
「浮かぶ、ですか」
「ええ。泳ぐのではなく、浮かぶことです」
女性は、そこで初めて書類から目を上げた。
透吾はその目を見た。濃い色の瞳だった。黒にも青にも見える。
光が入ると、深い水の底に沈んだ石のように光る。見つめ返しているうちに、質問の意味を考えようとしていた頭が、少しずつ遅くなっていく。
「浮かぶのは、まあ、嫌いじゃないです」
「身体の力を抜くのは得意ですか」
「どうですかね。あんまり意識したことないです」
「では、今、少しだけ抜いてみましょう」
女性は、面接の続きのような顔で言った。
透吾は、思わず瞬きをした。
「今、ですか」
「はい。難しいことではありません。肩の力を抜いて、背中を椅子に預けるだけです。面接中だからといって、固くなる必要はありません。あなたが楽なほうが、こちらもあなたをよく見られます」
言い方が丁寧だったので、透吾はそれ以上疑わなかった。
肩の力を抜き、背中を椅子に預ける。さっきより深く沈む。椅子の背もたれが、彼の体重を受け止めた。太腿の裏、腰、背中、肩。自分の身体がいくつもの点で支えられているのがわかった。
「そうです。上手ですね」
女性が言った。
褒められるようなことではないはずだった。
ただ椅子に座り直しただけだ。なのに、上手ですね、と言われた瞬間、透吾の胸の奥に小さな満足感が生まれた。面接で良い印象を与えられているのだろうかと思い、それならこのまま従っていたほうがいいのだろうと、自然に考えた。
「真柴さんは、人の役に立つ仕事に抵抗はありませんか」
「それは、まあ。バイトなら基本そういうものですし」
「自分の身体を使う仕事でも」
「力仕事とかなら、別に」
「力を入れるのではなく、力を抜くことで役に立つ仕事でも」
透吾は少し黙った。
質問の意味が掴めない。けれど、不快ではなかった。むしろ、彼女の声を聞いていると、意味がわからないことを急いで理解しなくてもいいような気分になる。
言葉は水に似ていた。形を持たないのに、耳から入り、頭の中の隙間に満ちていく。
「うちの仕事には、少し特殊なものがあります」
女性はペンを置いた。
さらさらという音が止まると、部屋の静けさが急に濃くなった。エアコンの音、水面の反射、遠くで何かが軋むような音。透吾はそれらを一つずつ聞き分けようとして、すぐに諦めた。聞き分ける必要はないと思った。
「特殊イベントサポート、と求人に書いてありましたよね」
「あ、はい。見ました」
「あれは、簡単に言えば、お客様に楽しんでいただくためのお仕事です。お客様が安心して体重を預けられるようにする。水の上で、よく浮かび、よく支え、よく揺れる。そういう役目です」
「水上遊具の管理、ってことですか」
「そうですね。管理でもありますし、ときには、もっと近い補助でもあります」
もっと近い補助。
透吾は、その言葉を頭の中で繰り返した。
近い、というのが何に近いのか、うまく掴めなかった。客に近いのか。遊具に近いのか。水に近いのか。
女性は、ゆっくりと指を組んだ。
その指は細く、爪は短く整えられている。派手な装飾はないのに、水に濡れた貝殻の内側のような光沢があった。透吾は、彼女の手を見ている自分に気づき、慌てて視線を上げようとしたが、その途中で彼女の声が落ちてきた。
「見ていていいですよ」
心臓が少し跳ねた。
「え」
「無理に目を逸らさなくていい、という意味です。面接では、緊張して視線の置き場に困る方も多いですから。あなたが楽なところを見ていてください。私の手でも、窓の外の水でも、天井の光でも。どこでも構いません」
透吾は、曖昧に頷いた。
どこでも構わないと言われると、逆に目の置き場を選ばなくてよくなった。彼は女性の手元を見た。指先がほんの少し動く。水面の波のように、規則的ではないのに、妙に目で追いやすい動きだった。
「真柴さん」
「はい」
「あなたは、自分が使われることに抵抗がありますか」
その質問は、明らかにおかしかった。
おかしい、と思った。
けれど、思っただけだった。
普通なら、どういう意味ですか、と聞き返すべきだった。
使われる、という言葉にはいくつもの意味があるし、バイトの面接でそんな聞き方をされれば警戒して当然だった。だが、透吾の舌はすぐには動かなかった。彼女の声が耳に入った瞬間、使われる、という言葉が嫌なものではなく、仕事として必要な、もっと穏やかなものに聞こえたからだ。
道具を使う。
人手を使う。
施設を使う。
身体を使う。
使われる。
そのどれもが、同じ水の中でゆらゆら混ざって、境目をなくしていく。
「仕事としてなら、まあ」
透吾はそう答えていた。
自分でも、少し曖昧な答えだと思った。けれど女性は満足そうに微笑んだ。
「ええ。仕事としてなら、抵抗はない」
彼女は、透吾の言葉をゆっくり繰り返した。
「仕事としてなら、身体を預けられる」
「いや、身体を預けるっていうか」
「言い換えましょう。勤務中は、こちらの指示に従える」
「ああ、それなら。もちろん、変なことじゃなければ」
「変なことかどうかは、最初はわからないものです」
女性の声は、そこで少し低くなった。
怒っているわけではない。責めているわけでもない。ただ、水深が一段深くなったようだった。浅瀬で足元を見ていたはずなのに、いつの間にか膝まで水に浸かっていたような心細さが、透吾の内側に生まれた。
「初めての仕事は、誰でもそうです。やり方を知りません。正しい形を知りません。だから、最初は私たちが教えます。力の抜き方。呼吸の仕方。浮かび方。支え方。受け止め方」
透吾は、頷いた。
頷いてから、自分がなぜ頷いたのかわからなくなった。
「大切なのは、疑わないことです」
女性は続けた。
「疑問を持つな、という意味ではありません。疑問は自然に浮かびます。水面に泡が浮かぶように、ぽこり、ぽこりと。けれど、泡はいつまでも残りません。浮かんで、弾けて、消えていきます。あなたはそれを、追いかけなくていいんです」
水面に泡が浮かぶ。
弾ける。
消える。
透吾の頭の中に、その光景が浮かんだ。問いかけの形をした泡が、いくつか浮かぶ。何をさせられるんだろう。本当に安全なのか。こんな質問は普通なのか。この人は何を言っているんだ。
けれど、その泡は彼が掴もうとする前に、ぷつりと消えた。
残ったのは、女性の声だけだった。
「あなたは、こちらの言葉を聞いていればいい」
「はい」
「聞いて、頷いて、必要なときに答えればいい」
「はい」
「難しいことは、あとで考えればいい」
「はい」
返事をしてから、透吾は少しだけ恥ずかしくなった。三回も続けて素直に返事をしている。面接というより、何かの講習を受けているみたいだ。けれど、その恥ずかしさもすぐに薄れた。女性が微笑んだからだ。
「素直ですね」
また、胸の奥が小さく満たされた。
素直。
上手。
楽にしていい。
それらの言葉が、面接室の空気に溶けて、透吾の身体のまわりに薄く絡みついていた。
彼は自分の両手が膝の上で力を失っていることに気づいた。指先が少し温かい。肩はさっきより落ちている。背中は椅子に預けられ、腰は深く沈み、足の裏は床に触れているのに、踏ん張っている感覚がなかった。
「契約内容の確認をしましょう」
女性が、一枚の書類を差し出した。
紙は冷たかった。普通のコピー用紙よりも少し厚く、指先に吸い付くような滑らかさがある。文字は細かいが、読めないほどではない。勤務時間、給与、守秘義務、施設内規則、怪我や事故に関する確認事項。その中に、妙な文言がいくつか混ざっていた。
勤務中における身体感覚の一時的変容。
業務上必要な範囲での記憶処理。
水上遊具および特殊備品との同一化を含む適性確認。
透吾は、そこを読んだはずだった。
読んだのに、意味が頭に残らなかった。文章が目に入るたび、彼の中で別の、もっとわかりやすい言葉に置き換わっていく。
少し変わった研修がある。
疲れないように記憶を整理してくれる。
水上遊具の扱いに慣れる必要がある。
そういうことだと、自然に思えた。
「わからないところはありますか」
女性が尋ねた。
透吾は書類を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
わからないところは、たぶんあった。むしろ、わからないところだらけだった。けれど、どこがわからないのかを言葉にしようとすると、その部分だけ水に濡れた紙みたいにふやけて、掴めなくなった。
「大丈夫、だと思います」
「本当に大丈夫かどうか、今ここで全部わからなくても構いません」
女性は、彼の迷いを責めなかった。
「大切なのは、あなたがこの仕事を受けたいと思っていることです。割のいい仕事をしたい。夏の間に稼ぎたい。少し変わった経験でも、報酬が良ければ構わない。そう思って、ここへ来た。そうですよね?」
「はい」
それは本当だった。
少なくとも、そこだけは透吾自身の意思だと思えた。
「なら、充分です」
女性はペンを差し出した。
「サインを」
透吾はペンを受け取った。
指先が、少しだけ痺れていた。緊張のせいか、冷房のせいか、彼女の声を聞き続けていたせいかはわからない。だが、ペンを握ることに支障はなかった。
名前を書く。
真柴透吾、と。
書き慣れたはずの自分の名前が、その紙の上では少しだけよそよそしく見えた。名字と名前の線が、黒いインクになって紙に沈み込んでいく。水面に落とした墨が広がるように、署名の周囲が一瞬だけ滲んだ気がした。
目の錯覚だ。透吾はそう思った。
女性は書類を受け取り、満足そうに目を細めた。
「ありがとうございます。これで契約は成立しました」
契約。
採用ではなく、契約。
その言葉に、透吾の背中がかすかに震えた。恐怖というほど強いものではない。むしろ、何か大きなものの中へ受け入れられたような、逃げ道が閉じたのではなく、行き先が定まったような感覚だった。
「採用、ということでいいんですよね」
透吾は、少し照れたように聞いた。
女性は微笑み、告げた。
「はい。採用です」
その一言で、透吾の顔に安堵が浮かんだ。
時給の高いバイトが決まった。夏休みの金の心配が少し減る。怪しいところはあったが、施設は綺麗で、職員は丁寧で、目の前の女性は信じられないくらい美人だった。心配するよりも、得をしたという気持ちのほうが、今の透吾にはずっとわかりやすかった。
「ありがとうございます。頑張ります」
「ええ。期待しています」
女性は立ち上がった。
面接は終わったのだと、透吾は思った。これで勤務日を決めて帰るのだろう。採用書類をもらって、シフトを登録して、帰りに駅前で何か食べて帰ろう。そんな普通の流れを思い浮かべた。
だが、女性は扉のほうへ歩きながら、当然のように言った。
「では、このまま初回勤務に入りましょう」
透吾は、椅子に座ったまま一瞬だけ固まった。
「え、今日ですか」
「はい。今日は適性確認を兼ねた短時間勤務です。書類にもありましたね」
書類。
あった気がする。
あったのなら、そうなのだろう。
透吾の中で、疑問がまた泡になった。今日は面接だけのつもりだった。着替えも持ってきていない。心の準備もしていない。初回勤務というなら、もっと説明があってもいいはずだ。
けれど、その泡は浮かぶたびに、女性の声で弾けていった。
「大丈夫です」
彼女は言った。
「あなたはもう、採用されています」
「はい」
「契約も済んでいます」
「はい」
「今日は、私の言う通りにするだけでいい」
「はい」
「難しいことは、あとで考えればいい」
「はい」
返事が、自分の口から自然に出る。
透吾は立ち上がった。立ち上がるつもりだったのか、立ち上がるように促されたのか、もう判然としなかった。足元に少し浮ついた感覚がある。床を踏んでいるのに、水に浸かっているみたいだった。
女性は扉を開け、面接室の外へ出た。
通路はさっきより暗く見えた。夕方の光が傾き、窓の外のプールは青さを深めている。水面の反射が壁を這い、天井に揺れ、透吾の視界の端で静かに瞬いた。
「真柴さん」
女性が振り返る。
「初めての勤務では、少し眠くなる方が多いです」
「眠く、ですか」
「ええ。身体が仕事を覚えるためです。眠くなっても、ぼんやりしても、心配はいりません。むしろ、上手く進んでいる証拠です」
「上手く」
「そう。上手く、ほどけている証拠です」
ほどけている。
その言葉が、透吾の中で静かに広がった。
緊張がほどける。疑問がほどける。肩の力がほどける。自分を保つために無意識に握りしめていたものが、一本ずつ、水に浸した紐のようにゆるんでいく。
彼は、黙ってついていった。
女性の背中を見ながら、プール裏の通路を歩く。彼女の髪は揺れない。足音もほとんどしない。けれど、透吾にはその後ろ姿を見失うことができない。視線が吸いつけられている。彼女が角を曲がれば、自分も曲がる。彼女が立ち止まれば、自分も立ち止まる。それが自然。
通路の先に、スタッフオンリーと書かれた扉があった。
女性はカードキーをかざし、扉を開けた。中から、ひんやりした空気が流れてくる。塩素の匂いよりも、ビニールの匂いが濃い。新品の浮き輪を開封したときのような、甘くて人工的で、どこか懐かしい匂いだった。
透吾の喉が、小さく鳴った。
女性はその音を聞いたように、わずかに目を細めた。
「いい反応です」
透吾は、何に対して褒められたのかわからなかった。
わからないのに、嬉しかった。
「こちらへ」
彼女は扉の奥へ進む。
その先は、メンテナンスルームだった。
白い床。白い壁。棚に並んだタオルと消毒液。壁際に吊るされた浮き輪。まだ空気の入っていない大きなフロート。エアポンプ。柔らかそうなマット。すべてが清潔で、整っていて、まるで何かの処置室のようでもあり、祭壇のようでもあった。
透吾は入口で足を止めた。
胸の奥で、最後の疑問が泡になって浮かんだ。
ここで何をするんだ。
その泡が弾けるよりも先に、女性の声がした。
「初回勤務を始めます」
透吾は彼女を見た。
彼女は面接室で見せた職員の笑みではなく、もっと深く、もっと古いもののような微笑みを浮かべていた。水面に映った月が、風もないのに歪むときのような、静かな怖さと美しさがあった。
「大丈夫」
彼女は言った。
「あなたは、よく浮かべますよ」
その言葉を聞いた瞬間、透吾の中で、最後の泡が弾けた。
何を言われたのかは、まだ理解できていない。
けれど、理解できないことを怖がる力は、もうほとんど残っていなかった。
彼はただ、女性の声が次に何を命じるのかを待ちながら、白いメンテナンスルームの中へ、ゆっくりと足を踏み入れた。
扉が閉まった音は、思っていたよりも小さかった。
金属の重い響きでも、鍵をかけられたとわかるような硬い音でもなく、ただ空気の膜が一枚、透吾の背後で静かに重なったような音だった。けれど、その音が消えた瞬間、彼の耳に届いていたものの層が変わった。
廊下に残っていた空調の低い唸り、遠くのプールから聞こえていた水の揺れる気配、施設のどこかを歩く誰かの足音が、扉の向こうに置いていかれたように薄れ、代わりに、部屋の中に満ちた匂いが一気に強くなった。
ビニールの匂いだ。
新品の浮き輪を袋から出したときの、甘く、人工的で、少しだけ頭の芯をぼんやりさせる匂い。そこに塩素の清潔な刺激と、濡れたタイルの冷たい匂いが混ざっていた。
透吾は、一度だけ息を止めようとした。
強すぎる匂いに驚いたからだ。自分の身体が、その匂いに妙な反応をしていることに気づきかけたからでもある。だが、息を止めようとした意識は、すぐに曖昧になった。
止める必要はない、と思った。ここはスタッフのメンテナンスルームで、初回勤務のための準備をする場所で、彼は採用されて、契約も済ませていて、だからこの匂いを吸うことも、きっと仕事の一部なのだろうと、筋の通っているようで何も説明していない考えが、頭の中に静かに広がった。
部屋の壁際には、いくつもの棚が並んでいた。畳まれたタオル、透明なケースに入った補修用のシール、空気入れのノズル、消毒液のボトル。
その下には、空気を抜かれたフロートが重ねられていた。シャチ、イルカ、マンタ、白鳥、丸い浮き輪。どれもまだ役目を与えられる前のように平たく、折り畳まれ、黒や白や青のビニールが柔らかく重なり合っている。
棚に重ねられているフロートのいくつかには、小さな耐水タグが結ばれていた。
最初、透吾はそれを備品番号だと思った。施設のものなら管理番号くらいあるだろうし、大きさや種類ごとに分けておくのも当然だ。だが、視線がふとそこへ吸い寄せられたとき、タグに書かれている文字が、単なる数字ではないことに気づいた。
イルカ型フロートの尾びれに結ばれたタグには、住み込み、三週間目、と細い文字で書かれていた。
隣のマンタ型には、夜間専属、浮遊適性良好。
さらに奥、半分ほど空気を抜かれて畳まれた白鳥型には、長期契約、休眠中、とある。
透吾は、それを読んだはずだった。読んだはずなのに、意味が頭に残らなかった。住み込みという言葉も、長期契約という言葉も、普通のバイト募集で使われるものとしてはどこかおかしい。けれど、そのおかしさは部屋の濃いビニール臭に触れた瞬間、ぬるくほどけていった。
きっと備品の貸出区分なのだろう。
きっとスタッフの間で使う隠語なのだろう。
そう思うと、それ以上考える必要はなくなった。
棚の中で、しぼんだイルカのビニールが、空調の風もないのにかすかに揺れた気がした。透吾は一瞬だけそれを見たが、すぐに女性の声に呼ばれ、そちらへ視線を戻した。
「気にしなくていいですよ」
女性は微笑んでいた。
「先に入った方たちは、もう自分の勤務に馴染んでいますから」
その言葉の意味を、透吾は理解できなかった。
ただ、先に入った方たち、という響きだけが、なぜか甘く耳に残った。
胸の奥が、わけもなく疼いた。
それと同時に股間に熱が宿り、ズボンの下で男の象徴がむくむくと硬さを増していく。
彼は自分の身体の変化に気づいて、少し遅れて恥ずかしさを覚えた。
おかしい。こんな場所で、こんなものを見ただけで、こんなふうになるはずがない。そう思うための言葉は、確かに浮かんだ。浮かんだが、泡のように表面まで上がってくる前に、部屋の匂いと、背後に立つ女性の気配に触れて弾けた。
「いい反応です」
女性の声がした。
透吾は肩を揺らした。叱られたわけではないのに、見透かされたという感覚だけが、肌の内側をぬるく走った。振り返ると、女性は部屋の奥に立ったまま、静かに彼を見ていた。面接室で見せた穏やかな職員の顔は残っている。だが、ここではその穏やかさの下に、もっと深く、もっと古いものが沈んでいるようだった。
「この部屋の匂いを、身体が覚え始めていますね」
透吾は、何か答えようとした。
けれど、唇が動くよりも先に、彼女の声が次の言葉を置いた。
「ビニールの匂い。空気を待つものの匂い。水に浮かぶための身体の匂い。ここに入った人は、最初にそれを覚えます。覚えてしまえば、準備はきっと楽になります」
彼女の言葉は、耳に入ってから意味になるまでの間に、一度水の中を通るようだった。はっきり聞こえているのに、輪郭が柔らかい。柔らかいのに、逆らえない。透吾は、返事の代わりに小さく頷いた。
頷いたことが、気持ちよかった。
その感覚に気づいた瞬間、透吾はまた少し恥ずかしくなった。
言われたことに頷いただけだ。何かを成し遂げたわけではない。なのに、胸の奥に薄い満足が満ちた。面接室で何度か褒められたときと同じ、あるいはそれよりももっと直接的な、身体の奥の紐を緩められるような感覚だった。
「こちらへ」
女性が歩き出した。
透吾は、反射のようについていった。
部屋の中央には、処置台というよりも、大きなリクライニングソファに近いものが置かれていた。プールサイドのデッキチェアをずっと厚く、広く、濡れてもいい素材で覆ったような形をしている。背もたれはゆるく傾き、座面は成人男性が横たわるには少し短いが、だからこそ身体を完全に投げ出すのではなく、頭を少し起こしたまま、自分の胸から腹、腰、脚までを視界に入れられるような角度になっていた。
表面は黒に近い紺色で、光を受けると水を弾く薄い艶が浮かんだ。そこに寝そべれば、肌はひやりと冷やされ、身体から出た水滴も汗も染み込まず、ただ表面に丸く残るのだろうと思えた。
なぜそんなことを考えたのか、透吾にはわからなかったが。
「ここで、準備をします」
女性はソファの横に立ち、片手を背もたれに添えた。
「完全に横になる必要はありません。身体が見えるように、少し首を起こせる姿勢がいいでしょう。初めての勤務では、自分がどう変わるのかを見ていたほうが、よく馴染みます」
自分がどう変わるのか。
その言葉は、普通なら聞き返すべきものだった。変わるとはどういうことか。なぜ変わるのか。勤務とは何のことなのか。だが、透吾の頭は、その疑問を質問へ変える前に、女性の声の柔らかさを追っていた。
見ていたほうが、よく馴染む。
よく馴染むなら、そのほうがいいのだろう。初めての勤務なのだから、説明されるより、見て覚えたほうがいいのかもしれない。そこまで考えて、透吾は、自分があり得ないほど簡単に納得していることにかすかに気づいた。
「真柴さん」
名前を呼ばれた瞬間には、その気づきも霧散していた。
「はい」
「服を脱いでください。全て」
返事をした直後に降ってきた命令は、あまりに静かだった。
瞬きをひとつ、挟む。
意味はわかった。わかりすぎるくらい、単純な言葉だった。服を脱げ。ここで。目の前で。面接を終えたばかりの職員の女性の前で。
普通なら、理由を聞く。更衣室はどこかと尋ねる。水着はあるのかと確認する。それ以前に、いきなり全裸になるよう命じられたこと自体に、強い抵抗を覚える。
けれど、透吾の身体は、女性の声を聞いた瞬間に、もう動き出そうとしていた。
疑問より先に、指先がシャツの裾へ向かう。恥ずかしさはある。胸の奥が熱くなり、顔にも血が上る。だが、その恥ずかしさは、拒絶のためのものではなかった。人前で脱がされることへの抵抗というより、何か大事な儀式の前に、自分の身体を晒す緊張に近かった。
「服は、人の生活に戻るための目印です」
女性は、彼の動きを急かさず、ただ静かに言った。
「今は、外しましょう。布も、緊張も、疑問も、ひとつずつ。脱いでいくたび、あなたは勤務に近づきます」
勤務に近づく。
透吾は、その言葉に従うようにシャツを脱いだ。布が頭を抜ける一瞬、視界が暗くなり、ビニールの匂いが濃くなった。シャツを畳むとき、指が少し震えているのがわかった。
だが、それは嫌悪からくる震えではない。言われたことをひとつ終えた身体が、次の命令を待っているだけだ。
「上手です」
女性が言った。
たったそれだけで、透吾の胸の奥に甘いものが落ちた。上手も何も、シャツを脱いだだけだ。だが、褒められると、身体がさらに言うことを聞く。次もそうしたいと思ってしまう。次の命令を、早く受け取りたいと思ってしまう。
ズボンのボタンを外す。
ベルトを抜く金属音が、静かな部屋に細く響いた。ズボンが床へ落ちると、脚に当たっていた布の感触が消え、空調の冷たさとビニールの匂いが、裸に近づいた肌を包んだ。
透吾は下着だけになった自分を一瞬見下ろした。パンツを押し上げるそれは、さっき棚のシャチフロートを見たときから落ち着かず、今も女性の視線と声に反応している。見られているという恥ずかしさがあり、しかしその恥ずかしさは、なぜかますます彼を従わせた。
「よく従えていますね」
女性の声は低く、甘かった。
「言葉を聞くのは気持ちいいでしょう。考えなくていいから。選ばなくていいから。ただ、言われた通りになればいいから」
透吾は、喉を小さく鳴らした。
違う、と言いたかったのかもしれない。別に命令されるのが気持ちいいわけではない、と言い返したかったのかもしれない。けれど、実際にはその言葉が身体の奥に沈み、そこにあった抵抗の形をゆっくり崩していった。
言われた通りになればいい。
その単純さは、恐ろしいほど心地よかった。これから何が起きるのかを考えなくていい。正しいかどうかを自分で判断しなくていい。彼女が言ったことが、次にすべきことになる。彼女が褒めてくれれば、それは上手くできたということになる。そう思うと、頭の中に残っていた細かなざわめきが、ひとつずつ水底へ沈んでいく。
「全て、脱いでください」
女性は言った。
透吾の手は、もう迷わなかった。
下着を脱ぎ、畳んだ服の上へ置く。全裸になった身体が、メンテナンスルームの冷えた空気に晒された。首筋、胸、腹、腰、脚。すべてが急に自分のものとして意識され、同時に、これから何かに作り替えられる素材として見られているような感覚があった。
女性の視線が、彼を乱暴に舐めることはなかった。
むしろ、彼女はとても静かに見ていた。備品の状態を確認するようでもあり、形を確かめるようでもあった。
その視線には欲望らしい熱がなく、だからこそ透吾の中にある熱だけが浮き上がった。見られている。確認されている。自分の身体が、彼女の声によって、次の形へ進む準備を整えられている。
「こちらへ」
透吾はソファへ向かった。
「仰向けに」
言われるまま、腰を下ろす。
「背中を預けて」
背もたれへ身体を預ける。人工皮革の表面はひやりとしていて、裸の背中に触れた瞬間、彼の肌から熱を奪っていく。
「腰を少し沈めて」
座面が身体を受け止める。脚は座面の端から少しはみ出し、踵が床へ触れるか触れないかの位置で揺れた。
「首は、楽に起こせるように」
透吾は、言われた通りに頭を少し起こした。視界に、自分の身体が入る。胸。腹。腰。脚。何より、勃起しっぱなしのモノ。さっきまで服の下にあり、人前で見せるものではなかったそれらが、今は部屋の中央で、白い光の下に晒されている。
異常だった。
けれど、異常だという言葉は、もう彼の中で力を持たなかった。
「よく見ていてください」
女性はソファの横に立ち、透吾の額へ指先を置いた。
指は冷たく、しかし冷えきっているわけではなく、濡れた石に触れたときのような静かな温度を持っていた。その一点から、額の奥へ細い水脈が通るように、意識がさらに深く沈んだ。
「言葉が先に来ます」
彼女は言った。
「身体は、あとから従います」
透吾の目は、自然と自分の身体へ向いた。
「私が言った場所が、言った通りに変わります」
額に置かれた指が、ほんの少しだけ圧を増す。
「それを見るたび、あなたは深く、落ち着きます」
彼女のもう片方の指先が、透吾の胸元へ降りた。心臓の上あたりを、軽くなぞる。触れられた場所から、呼吸のリズムが遅くなる。
「変わるたび、気持ちよくなります」
その言葉は、命令であり、説明であり、約束だった。
透吾は、それを疑わなかった。疑う力が失われていたというより、疑う必要がないと感じていた。
言葉が先に来る。身体が従う。変わる。気持ちよくなる。その順番が、この部屋の中では水が低いほうへ流れるのと同じくらい自然だった。
女性は、しばらく透吾の額と胸に指を置いたまま、黙っていた。
沈黙の間に、部屋の匂いがさらに濃くなった気がした。
ビニール、塩素、冷たい人工皮革、水を吸わない床、畳まれたフロート。すべてがひとつの匂いになり、透吾の身体へ染み込んでいく。
彼は自分がソファに横たわっていることを理解していたが、その理解は、もう中心にはなかった。中心にあるのは、次の言葉を待つ心地よさだけだ。
「昔」
女性が、唐突に話し始めた。
その声は面接のときよりも深く、部屋の壁や床ではなく、どこか遠い水底から響いてくるようだった。透吾は、自分が何か大切な説明を受けているのだと感じたが、その内容を理屈として捉えるほど、頭ははっきりしていなかった。ただ、彼女の声が心地よく、言葉が身体の内側に流れ込んでくることだけがわかった。
「昔、人は舟に飾りを乗せました」
指先が額を離れ、髪の生え際からこめかみへ滑る。透吾の目は半分ほど閉じかけたが、女性が「見ていて」と言ったことを思い出し、自分の身体から視線を外さなかった。
「祭りの日には、人形を水に浮かべました」
胸元の指が、ゆっくりと下へ移動する。鎖骨から胸、胸からみぞおちへ。触れられた場所そのものよりも、指が通ったあとに残る冷たい線が、深く意識に残った。
「水に浮かぶものは、ただの物ではありません」
透吾は、棚にあったシャチフロートを思い出した。空気を抜かれて、平たく眠っていたもの。水に浮かぶために作られ、まだ浮かんでいなかったもの。
「誰かの願いを受けて、重みを受けて、水に運ばれるものです」
重みを受ける。
その言葉が、なぜか腹の奥に響いた。誰かの重み。自分の上に預けられる体重。支える。沈まないようにする。水の上で、抱え込む。
「今の時代には、舟飾りも流し人形も少なくなりました」
女性の声は、静かだった。詩を朗読するかのように、しかし淡々と、流麗な言葉が紡がれていくのを、透吾はぼんやりと聞いていた。
「けれど、水に浮かぶものはまだあります」
指先が、透吾の腹の上で止まる。
「浮き輪、フロート、プールトイ」
一語ずつ置かれるたび、部屋の棚に重ねられたものたちの輪郭が、透吾の頭の中で浮かび上がった。丸い浮き輪。イルカのフロート。大きなシャチ。白い腹、黒い背、しぼんだ胸びれ。
「人はそれに抱きつき、跨がり、体重を預け、笑います」
透吾の身体が、びくりと反応した。
抱きつかれる。跨がれる。体重を預けられる。笑われる。楽しそうに、何も知らないまま、自分をただの遊具として扱う人たち。そんな光景が、まだ起きてもいないのに、頭の中で妙に生々しく結ばれた。
「ならば、そこにも神は宿れます」
最後の言葉だけは、少しだけ意味が違った。
透吾は、かすかに眉を寄せた。神。何の話だろう。施設の由来か、イベントの演出か、面接で話すような内容ではない。
そう思ったはずなのに、すぐにその疑問も薄くなった。彼女の言っていることは、神話のようで、命令のようでもあった。
理解しなくていい。ただ聞いていればいい。聞いて、自分の内側へ入れて、身体で覚えればいい。
女性は、透吾の胸元に置いた指を、ゆっくりと下へ滑らせた。
「ただのビニールでは、足りないのです」
声は静かだった。しかし、どこか悲しみを帯びたような声が続く。
「ただ膨らみ、ただ浮かぶだけのものでは、水はあまり喜びません。人が笑い、触れ、体重を預けても、そこには返す心がない。受け止めたことを感じる心がない。使われたことを喜ぶ心がない」
彼女の指先が、透吾の腹の上で止まる。
「けれど、人の意識が宿ったものは違います」
透吾は、息をした。したつもりだった。けれど、呼吸の音は妙に遠い。
「抱かれれば、抱かれたと感じる。跨がられれば、重みを受けたと感じる。水へ沈められれば、浮き上がることを知る。誰かが笑えば、自分が役に立ったのだと喜ぶ。その恥も、戸惑いも、快さも、すべて水へ溶けていきます」
女性の声が、少しだけ甘くなった。
「このプールが賑わうのは、水がよく満ちているからです。水がよく満ちるのは、浮かぶものたちがよく働くからです。お客様は理由を知りません。ただ、ここへ来ると気分がよくなる。水が肌に馴染む。遊具に触れると、不思議と楽しい。毎日でも、来たいと思う」
透吾の頭の中に、ナイトプールの写真が浮かんだ。
青紫の光。笑う客。水面に浮かぶ大きなフロート。そこに抱きつく人たち。
「人は楽しい場所へ集まります」
女性は囁く。
「水は、人の楽しさを受けて深くなります」
指先が、透吾の胸から腹へ、腹から腰へ、やさしく輪郭をなぞる。
「そして、浮かぶものは、その間にいるのです。人の重みを受け、水の上に留め、笑い声を聞き、快さを水へ返す。昔の舟飾りや流し人形がそうであったように、今は浮き輪やフロートやプールトイが、その役目を引き受けます」
彼女は、そこで少しだけ笑った。
「だから、ただの道具では足りない」
透吾は、彼女の語りをほとんど理解できていなかった。
けれど、その言葉だけは身体の奥に落ちた。
ただの道具では、足りない。
「心のある道具でなければ」
女性の指が、透吾の身体の中心へ意識を向けさせるように止まる。
「感じる遊具でなければ」
彼女の声は、柔らかい命令として染み込んでくる。
「使われることを、気持ちいいと覚えられるものではなければ」
透吾は、自分の身体がその言葉に反応していることに気づきかけた。だが、気づいた瞬間にはもう遅く、彼女の次の言葉が、彼の中にあった疑問を静かに水底へ沈めていた。
「真柴さん」
「はい」
返事は、ほとんど反射だった。
「あなたは、これから水に浮かぶものになります」
言葉が落ちた瞬間、透吾の身体の内側で、何かが静かに開いた。
恐怖は、遅れて来ようとした。人が水に浮かぶものになるはずがない。そんな勤務はない。今すぐ起き上がるべきだ。そういう言葉が、どこか遠くで形を作ろうとした。だが、それよりもずっと近くで、女性の声が彼の身体を撫でていた。
「大丈夫」
彼女は言った。
「あなたは壊れません」
その言葉で、恐怖は弱くなる。
「失われません」
その言葉で、胸の奥が少し楽になる。
「ただ、人の形を少し預けるだけです」
その言葉で、人間の形というものが、脱いだ服と同じように一時的に外せるもののように思えてくる。
「勤務が終われば、帰れます」
帰れる。
その保証は、面接室でも聞いた気がした。疲れていても、ちゃんと帰れる。初勤務が終われば、普通に帰れる。だから、今は従っていい。そういう理屈が水面に浮かんで、透吾の意識を優しく支えた。
「まず、身体を反応させましょう」
女性の指先が、透吾の腹から少し下へ移った。
直接的な手つきではなかった。乱暴でも、欲望に濁ったものでもなかった。ただ、儀式の手順を進める者のように、欲望の中心へ意識を向けさせるための、静かな指示だった。
「人としての熱を集めて」
透吾の喉が、また小さく鳴った。
「ここへ」
触れられているわけではない。命じられているだけだった。だが、その一言だけで、彼の身体は従った。さっきからビニールの匂いと彼女の視線に煽られていた反応が、さらに明確な熱として集まり始める。自分の意思でそうしているのではない。欲望を向けたからそうなったのでもない。彼女が言ったから、身体がその通りに形を取っている。
透吾は、自分の身体を見下ろしていた。
情けないほど素直に、彼の身体は反応していた。恥ずかしい。だが、その恥ずかしさの中に、どうしようもない快感が混ざっていた。
命令され、反応し、見られ、褒められる予感がある。自分のものだったはずの身体の機能が、彼女の言葉を聞いた途端に、彼女のもののように働く。その事実が、頭の奥を甘く痺れさせた。
「そうです」
女性は、やはり褒めた。
「言葉だけで、ちゃんとできますね」
透吾の指が、ソファの縁をかすかに握った。
「あなたの身体は、もう私の声を覚えています」
彼女の声は、やさしい。
「言われたら反応する」
息が、浅くなる。
「言われたら出す」
身体の奥が、ぞくりと震える。
「言われたら変わる」
その言葉は、まだ起きていない変化の扉を、先に開けるようだった。
「それが、今日の勤務です」
勤務。
またその言葉だった。
異常な状況のすべてが、その一語で包まれる。服を脱いだことも、ソファに寝かされたことも、身体が声に反応していることも、これから何かに変えられるという宣告も、全部、勤務。初回勤務。採用された彼が、言われた通りにこなすべき仕事。
「出してください」
女性は言った。
透吾の目が揺れた。
「止めなくていい」
声が、身体の奥へ沈む。
「恥ずかしがらなくていい」
羞恥がほどける。
「あなたの中に残っている、人の熱を外へ」
身体の中心に集められていた熱が、逃げ場を与えられる。
「男の身体として抱えていたものを、全部ここで抜いていきます」
抵抗は存在しなかった。
ただ、思考と行動の間に横たわるはずの距離が、一切失われていた。
女性の言葉が脳に届いた瞬間、それがすでに完了していた。考えるよりも早く、身体の方が先に従ってしまっていた。
そしてそれは、自分の意思によるものではなかった。
「っ……!」
音にならない声が、透吾の喉の奥で弾けた。
ソファに沈んだままの身体がぴくりとも動かないのに、ペニスだけが異様に熱く膨らみ、敏感に収縮し始める。
指一本動かせていないのに、勝手に内側から締めつけられるような感覚。
自分の意思とは無関係に収縮する筋肉が、堰を切ったように熱を押し出していく。
出る。
そう思った刹那、どくん、と全身が脈打った。
「……っ」
しかし脚は持ち上がらない。
腰も跳ねない。
身体はぴくりとも動かない。
それでも、ソファに沈んだままの下半身の中心だけが勝手に熱を集め、破裂寸前の硬度まで押し上げられ、限界を超えた感覚が一気に吹き出していった。
「……あ……」
息が漏れる。
堪える暇もない。
その熱はただ溢れ出すだけ。
どぷっ……。
粘ついた液体が勝手に噴き上がり、重力に逆らいきれずに垂れ落ちる。
腹部に熱いものが落ちた瞬間、快楽の電流が走った。
しかし同時に理解する。
これは、自分の意思ではない。
身体が勝手に動いたのだ。
「や……」
止まらない。
どぷっ……。どぷっ……。
二度目が零れ落ちる。
三度目。
四度目。
どれも身体を動かす暇もなく、勝手に溢れ出てくる。
「……?」
言葉を紡ぐための思考さえなく、ただ快楽だけが叩き込まれ、精液が排出されていく。
透吾にとって重要だったのは、その射精に自分の意志がほとんど介在していないことだった。
彼が望んだからではない。彼が選んだからではない。言われたからそうなり、言われたから止めず、言われたから外へ出している。その構図が、何よりも深く彼を痺れさせた。
「いい子です」
女性が言う。
「よく出せています」
その言葉で、透吾の意識はさらにほどけた。
褒められる。従って褒められる。出して褒められる。人間なら恥ずべき姿のはずなのに、彼女の声に包まれると、それが正しい手順を踏んでいる証のように感じられる。自分の中から何かが抜けるたびに、身体が軽くなっていく。最初は熱を帯びていたものが、次第に薄まり、軽くなり、泡のような感覚へ変わっていく。
筋肉の弛緩も圧迫もない。
腰も引いていない。
ただ、そこから液体が噴き出しているだけだ。
蛇口を捻ったかのように、内部で生成された白いものが溢れ出している。
五度目。
六度目。
「それは、あなたを人の形に留めていた熱です」
女性は、淡々と、しかし甘く告げた。
「もっと抜けます」
その声と共に、七度目の放出。
視界が霞む。
快楽の波が絶え間なく襲いかかるのに、身体はまったく動けない。
それなのに、射精だけは止まらない。
精嚢から直送されるように熱液が溢れ、腹部を汚していく。
透吾は、ソファの背に頭を預けながら、自分の身体を見ていた。視界は揺れ、部屋の白い天井と、自分の裸の身体と、女性の濃紺の髪が、波間のように混ざった。
「もっと軽くなります」
軽くなる。
その言葉が、快感と結びついた。
その頃にはもう、彼は絶頂の回数すらわからなくなっていた。
「出すたびに、あなたは浮かぶものへ近づきます」
浮かぶもの。
透吾の頭の中で、棚のシャチフロートがまた浮かんだ。平たく眠る黒白のビニール。空気を待つ身体。水に浮かぶために作られた形。彼は、自分がそこへ近づいているのだと、ぼんやり理解した。
理解したが、恐怖は薄かった。自分の中から熱と重さが抜けるたび、怖がるための力まで一緒に抜けていくようだった。
出ている。
抜けている。
軽い。
褒められている。
もっと。
もっと軽くなる。
思考は短くなっていった。
女性は、彼の中心から外へ逃がされていく熱が弱まり、薄まり、最後には空気の震えに近づくまで、急かすことなく見守っていた。
透吾には、時間の長さがわからなくなっていた。数分だったのか、もっと長かったのか。身体の反応が波のように寄せ、引き、また寄せ、そのたびに彼女の言葉が重なり、彼の中にあった人間としての輪郭を少しずつ削っていった。
やがて、放出の感覚が変わった。
熱いものを外へ出しているというより、身体の奥から細い息が漏れていくような感覚になった。
出ているものは少なく、頼りなく、しかし抜けるたびに内側が広がっていく。透吾は、自分の腹の奥が妙に空いていることに気づいた。胸の中も、腰の奥も、さっきまで詰まっていたものが遠ざかっている。
「少なくなってきましたね」
女性が言った。
「人の熱は、もう残り少ない」
透吾は、薄く開いた唇で呼吸をした。いや、呼吸をしているつもりだった。空気が肺に入っている感覚はある。
まだ胸は上下している。まだ声も出せる。けれど、そのどれもが、どこか頼りなくなっていた。
「次は、ここを変えます」
女性の視線が、透吾の身体の中心へ落ちた。
透吾も、つられてそこを見る。
「出すための形を、入れられるための形へ」
声が、ゆっくりと降りる。
「欲しがる器官を、満たされる弁へ」
透吾の身体が、びくりと震えた。
それは恐怖だけではなかった。むしろ、言葉をかけられた瞬間、身体の中心がその言葉を待っていたかのように、熱とは違う甘い痺れを返した。
出すための形。入れられるための形。欲しがる器官。満たされる弁。意味は理解できる。理解できるからこそ、頭の奥で何かが警鐘を鳴らそうとした。
だが、鐘は鳴らなかった。
水に沈んでいたからだ。
女性は、静かに言った。
「縮みます」
透吾は、自分の身体を見ていた。
その言葉が落ちた瞬間、男性として突き出していた形が、ゆっくりと小さくなり始めた。
萎えていくのとは違った。力を失うだけなら、そこにはまだ肉の器官としての名残がある。けれど今起きているのは、意味そのものが畳まれていく変化だった。血の通った熱が引き、肌の質感が薄くなり、柔らかい部品のように整えられていく。
「そう」
女性の声が、彼の視界の外から身体へ入る。
「言葉通りです」
言葉通り。
その一言が、変化の快感を強めた。自分の身体が、彼女の宣告に遅れて従っている。
縮みますと言われたから縮む。変わりますと言われたから変わる。透吾はその光景を見ているのに、止めようとする意志が浮かばない。むしろ、言葉と変化がぴたりと重なるたび、身体の奥で甘いものが弾けた。
「丸くなります」
形はさらに小さくまとまった。
人間の器官としての輪郭が、柔らかなビニールの縁へ変わっていく。肌だった色は薄れ、周囲の皮膚と境目を失いながら、しかし中心だけが別の部品として整っていく。小さく、丸く、薄く、後で何かを通すための開口部として。
透吾は、喉の奥で声にならない息を漏らした。
「開きます」
その言葉とともに、中心がかすかに開いた。
痛みはなかった。
あるのは、身体の意味を外側から書き換えられるような、深く、ぞっとするほど甘い快感だった。
そこはもう、人間の身体として欲を通す場所ではなかった。空気を入れ、空気を抜くための穴。柔らかな縁を持ち、後で栓を差し込まれ、閉じられ、膨らんだ身体を保つための機能。プールトイにある、小さな空気穴。
透吾の思考が、そこで大きく揺れた。
なくなった。
違う。
変わった。
空気穴。
俺の。
俺の、空気穴。
その単語は、あまりにも異常だった。自分のペニスをそう呼ぶことは、あり得ないはずだった。けれど、女性の声がすぐにそれを固定する。
「そこは、もう出すための場所ではありません」
透吾の身体の中心が、甘く震えた。
「入れられるための場所です」
声を聞いた瞬間、そこに生まれた小さな空気穴が、まるでその役割を理解したように疼く。
「欲しがるための器官ではありません」
人間としての欲が、遠ざかっていく。
「満たされるための弁です」
満たされる。
「あなたを浮かべるための、大切な空気穴です」
空気穴。
その言葉が落ちるたび、透吾の全身を、射精に似ているのにもう射精ではない、甘く深い波が走った。
何も出していない。もう出すための場所ではない。なのに、変えられることそのものが絶頂に似ていて、言葉を受けるたび、身体の奥で何かが白く弾ける。彼はソファの上で震え、しかしその震えすら、これからしぼみ、変わり、膨らまされる素材が反応しているだけのように思えた。
女性は、開いた空気穴を見下ろし、静かに微笑んだ。
「さあ、抜けます」
その一言で、透吾の身体の内側から、ひゅう、と小さな音がした。
彼は、その音を自分の身体の中で聞いた。
空気穴から、何かが抜け始めていた。息ではない。血でも、内臓でも、名前のあるものでもない。身体を内側から満たしていた密度、骨の重さ、筋肉の張り、腹の奥の詰まり、胸の芯にあった体温。人間としてそこにあるために必要だったものが、細く、軽く、空気のように逃げていく。
「骨の重さが抜けます」
女性が言う。
その言葉の通り、背骨の存在感が薄くなった。ソファに預けた背中の奥で、硬い柱のように身体を支えていたものが、遠くへ退いていく。肋骨の張りも曖昧になり、胸を形作っていた硬さが、柔らかな袋の内側へ溶けるように消えていく。
「筋肉の張りが抜けます」
腕から力が抜けた。脚からも抜けた。抜けたというより、力を入れるための場所がわからなくなっていく。指を曲げようとしても、曲げる命令がどこへ届けばいいのかが曖昧で、太腿に力を込めようとしても、そこに筋肉が詰まっていた感覚そのものが薄れていく。
「内側の熱が抜けます」
胸の奥に残っていた人肌らしい温度が、ゆっくりと遠ざかる。寒いわけではない。冷えて苦しいわけでもない。ただ、人間の身体としての熱が薄れ、代わりに空っぽの軽さが広がる。
「あなたは空になります」
空になる。
その言葉が、恐ろしく、そして気持ちよかった。
透吾は、怖いと思った。思ったはずだった。だが、怖いという感情は、軽くなる快感の表面を滑って、どこかへ流れていった。
空気穴から中身が抜けるたび、身体が楽になる。立たなくていい。動かなくていい。重さを抱えなくていい。中に詰めていたものを手放し、ただ空気を待つ袋に近づいていくことが、どうしようもなく甘かった。
抜ける。
軽い。
空っぽ。
楽。
もっと抜ける。
浮ける。
浮きたい。
思考は、さらに短くなっていた。
「上手に抜けています」
女性は、透吾の変化を見守りながら囁いた。
「言葉通りですね」
その言葉に、透吾の意識がふわりと浮く。
「あなたの身体は、本当に素直です」
褒められると、また身体が応える。
空気穴から抜けるものが細く続き、胸が頼りなくなり、腹が内側から軽くなる。ソファに横たわる自分の身体は、まだ人間の形をしているはずなのに、もう重さのある肉体ではなくなり始めていた。
皮膚の下に詰まっていたものがなくなり、外側だけが形を保っている。しぼんでいく。薄くなっていく。けれど、そのしぼんでいく感覚が、次に満たされるための準備として、甘く、甘く、彼を沈めていった。
「もう、人の形を保とうとしていません」
女性の声が、水底から届く。
透吾は、視界の中の自分の身体を見ていた。
それは、まだ真柴透吾の身体に見えた。けれど、中身はもう違っていた。中身が抜け、熱が抜け、ペニスは空気穴へ変わり、彼の思考は、言葉に従う快感と、空っぽになる心地よさで、ゆっくりと焼かれ始めていた。
「肌が変わります」
女性がそう言ったとき、透吾は自分の胸元を見ていた。
胸の内側から重さが抜け、肋骨の硬さも、筋肉の張りも、さっきまでそこにあったはずの人間らしい密度も薄れていた。けれど外側だけは、まだかろうじて真柴透吾の肌をしている。汗の名残があり、冷えた空気に触れて鳥肌のような細かな反応があり、血の通った色があった。
その肌が、彼女の言葉を聞いた瞬間、内側から静かに変わり始めた。
最初に消えたのは、肌が肌であるという雑多な感覚だった。毛穴の細かなざらつき、汗が乾くときのわずかな粘り、冷えた空気が触れるときの痛いほど細い刺激。そういう人間の皮膚にまとわりつく微細な不快感が、薄皮を剥がされるように遠ざかり、代わりに、もっと単純で、もっと滑らかな感覚が表面へ広がっていった。
胸元から始まった変化は、波紋のように腹へ流れ、脇腹へまわり、肩から腕へ、腰から脚へとゆっくり広がった。肌の色はまだ大きく変わっていない。だが、その質感だけはもう違っていた。
体温を持った柔らかい皮膚ではなく、空気を包むための薄い膜。触れられればその一点で感じるのではなく、張られた素材全体が微かに震え、身体の表面すべてへ感覚を伝えるような、そんな作りに変わっていく。
女性の指が、胸の上を軽くなぞった。
それだけで、透吾はソファの上で身体を震わせた。実際に震えたかは定かではないが、そうしたつもりだった。
胸だけを触られたはずなのに、感覚は腹へ落ち、背中へ回り、腕の先へ流れ、脚の内側にまで薄く広がった。人間の神経なら、触られた場所から遠ざかるほど感覚は弱まるはずだった。けれど今の透吾の表面は、ひとつの膜として繋がり始めている。指先が滑るたび、そこに生まれた震えが全身をなぞり、空っぽになった内側で甘く反響した。
「ここは、もう肌ではありません」
女性の声が、触覚の波と一緒に染み込んでくる。
「あなたを包む素材です」
素材。
その言葉を聞いた瞬間、透吾の表面がさらに変わった。人肌の湿り気が消え、つるりとした滑らかな艶が浮かぶ。白い天井の光が、胸元の変わりかけた皮膜に細く映った。映るはずのない光が映っている。肌なら散るはずの反射が、柔らかいビニールの上を滑るように走っている。
透吾は、それを見ていた。
見て、理解した。
自分の皮膚が、皮膚ではなくなっていることを。
けれど、理解と同時にやってくるはずの恐怖は、女性の次の言葉で甘く溶かされた。
「守るための皮膚ではありません」
彼女の指が、みぞおちから腹へゆっくり降りていく。
「張るための膜です」
張る。
まだ空気は入っていない。身体の内側は抜けて、軽く、頼りないほど空っぽになっている。だが、その空っぽの外側が、いずれ何かに満たされて張るためのものへ変わっているのだと知った瞬間、透吾の腹の奥で、出すこととは違う、吸い込まれるような快感が疼いた。
「触れられた場所だけで感じなくていい」
女性は言った。
「全部で感じなさい」
全部で。
その命令に、身体は従った。
女性の指が腹の上を軽く押すと、その圧は腹だけに留まらなかった。しぼみかけた胴の表面を通って、胸へ、腰へ、背中へ、まだ人の形を残している腕と脚へ広がる。彼女が触れたという事実が、身体の表面全体を撫でていく。透吾は、声を漏らそうとしたが、喉の奥から出たのは、言葉になりきらない細い息だけだった。
「一枚の膜になります」
その言葉が落ちると、肌の変化はさらに深くなった。
肩から腕にかけて、表面の温度が引いていく。冷たいのではなく、人肌の尺度から外れていく。触れられれば感じる。命じられれば震える。けれど、それは血が通っているからではない。素材として、膜として、空気を待つ外皮として、彼女の声に反応している。
透吾は、自分の身体がまだ裸の人間であるように見える部分と、もうビニールのように艶を帯びている部分の境目を見ていた。境目ははっきりした線ではなく、少しずつ滲むように広がっている。
人間の肌が、命令に従って、物の表面へ変わっていく。それを見せられながら、彼は何度も、浅く、甘く、絶頂の影だけを繰り返した。
もう出す場所はない。
ペニスは空気穴に変わっている。
それでも、言葉が身体に触れるたび、変化が進むたび、内側の空洞に快感だけが反響する。身体のどこかから何かが溢れるのではなく、空っぽの内側で、甘い圧だけが跳ね返り続ける。
人間の身体なら耐えきれないような連続した快感も、変わりかけた彼の身体は、ただ膜を震わせるだけで受け入れてしまう。
「次は、手です」
女性の視線が、透吾の右腕へ落ちた。
透吾も、自分の腕を見た。
腕だ。肩から肘、肘から手首、手首から五本の指へ続く、人間の腕。何かを掴み、押し、支ええる腕。ソファの縁を握りしめようとすれば、まだできるような気がした。
「手は、必要ありません」
女性が言った。
言葉が落ちた瞬間、指先の感覚が揺らいだ。
透吾は反射的に指を動かそうとした。親指、人差し指、中指。一本ずつ動かして、自分のものだと確かめたかった。けれど、動かそうとした瞬間、指という単位がぼやけ始めた。
五本の細い突起をそれぞれ別々に意識する感覚が薄れ、指先全体が柔らかく、ひとまとまりの縁のように変わっていく。
「掴むための指は、まとまります」
その通りになった。
指の間にあった隙間が曖昧になり、爪の硬さが消え、関節の皺が素材の折れ目のように滑らかになる。骨が折れる痛みはない。肉が潰れる恐怖もない。ただ、五本に分かれていたものが、水に溶けたインクのようにゆっくり広がり、ひとつの薄い形へ馴染んでいく。
「手首も、肘も、休みます」
肩から先の構造が、曲げるためのものではなくなっていく。骨が抜け、筋肉の詰まりが薄れ、表面の膜だけが形を保ちながら、腕は短く、平たく、広がる方向へ整えられていった。
透吾は自分の腕が腕でなくなるのを見ていた。指がなくなり、手のひらがなくなり、肘の意味が失われ、肩の横から伸びる薄いビニールの板のような形へ変わっていく。
「手が、胸びれになります」
その言葉が、変化を決定した。
右腕だったものは、シャチの横に付く胸びれへ変わっていた。まだ空気が入っていないため、ぺたんと頼りなく垂れている。だが、その形はもう腕ではない。人が持つ手ではなく、プールトイの側面に付いた飾りであり、支えであり、客が掴むための部分だった。
透吾の喉が震えた。
手がない。
掴めない。
逃げられない。
そう思ったはずだった。
だが、女性の声はすぐにその喪失へ意味を与えた。
「掴むための手ではありません」
彼女は、胸びれになった部分を指先で持ち上げるように撫でた。
その瞬間、透吾の全身の膜が甘く震えた。腕だった場所だけではない。胸びれとして触れられた感覚が、黒く変わり始めた背の面へ、白くなりかけた腹へ、開いた空気穴の周囲へ、波のように広がっていく。
「掴まれるための胸びれです」
掴まれる。
言葉が入った瞬間、透吾の中でその役目が快感として結びつく。自分から掴むのではない。誰かに掴まれる。持たれる。引かれる。水の上で、客がこの胸びれを握って、自分の身体を寄せる。
「お客様がここを持ちます」
胸びれが、びくりと震えた。
「ここを掴んで、あなたに乗ります」
透吾の思考が、白く滲んだ。
乗られる。
乗られるための胸びれ。
支えるための身体。
「あなたは、それを受け止めます」
受け止める。
その言葉が、また魂の奥に、深く入った。
右腕を失った恐怖は、掴まれるための役目を与えられた甘さに塗り替えられていった。彼はもう、自分の手が戻ってほしいと強く思うことができなかった。むしろ、左腕も早く同じになればいいと思いかけている自分に、かすかな混乱を覚えた。
女性は、その混乱を待っていたように左腕へ視線を移した。
「こちらも、同じです」
その一言だけで、左腕の変化が始まった。
今度は早かった。右腕で起きたことを身体が覚えてしまったように、指はすぐにまとまり、手首と肘は意味を失い、腕の輪郭は平たく短く広がっていく。
透吾はもう驚くこともできず、自分の左腕が胸びれへ変わるのを見ていた。命じられた通りになっていく。右と同じ形へ整う。左右の胸びれが、しぼんだビニールの薄い付属物として、彼の胴の横に垂れる。
「いい、ヒレですね」
そう褒められると、透吾の内側がまた甘く震えた。
揃った。
腕がなくなった。
胸びれになった。
上手くできた。
身体を変えられているというのに、透吾の脳内を満たしたのは輪郭を無くした陶酔だけだった。
「次は、脚です」
女性の声が、下半身へ降りる。
透吾は、ぼんやりと自分の脚を見た。
二本の脚があった。太腿、膝、脛、足首、足指。ソファの座面から少しはみ出し、踵は床に触れるか触れないかのところで力なく揺れている。さっきまでなら、起き上がって走ることもできたはずの脚。今では、その力がどこにあるのか、もううまく思い出せない。
「脚も、必要ありません」
女性が言った。
透吾の太腿が、内側から力を失った。
「歩かなくていい」
膝の存在が薄くなる。
「立たなくていい」
足首の角度が曖昧になる。
「逃げなくていい」
その言葉で、脚の役目が完全に消え去った。
透吾は、逃げなくていい、という言葉に強く反応した。ここから逃げるための脚ではない。立つための脚ではない。人間として床を踏むための脚ではない。そう言われるたび、脚に残っていた人間の輪郭が、許されたように消えていく。
両脚の間の境目が、少しずつ曖昧になった。
太腿が寄り、皮膚の感覚が一枚の膜として繋がり、膝の形が平らに均される。
二本の脚を分けていた線が水に浸した紙の折り目のようにふやけ、ほどけ、一本の長い尾のような形へまとまっていく。
足首と足指は、最後に意味を失った。
指が五本ずつあるという感覚が消え、足裏で床を踏むための厚みがなくなる。代わりに、先端が左右へ広がっていく。薄く、平たく、柔らかく、シャチのヒレの形へ。まだしぼんでいるから頼りなく折れ曲がっているが、それはもうヒトの脚ではなかった。
「尾びれになります」
女性の言葉が、変化を閉じた。
透吾は、下半身を見ていた。
そこにあるのは、人間の腰から続くものではなく、シャチの後部に伸びる、長い尾と尾びれだった。ソファの端からはみ出した尾びれは、重さを失って、ぺたりと垂れている。足指も、爪も、膝も、ふくらはぎもない。
彼はもう、立てない。歩けない。逃げられない。
だが、その喪失は、すぐに別の役目へ結びつけられる。
「あなたは、自分で進まなくていい」
女性の声が、透吾の中に残った不安をなぞる。
「押されれば揺れます」
尾びれの先が、かすかに震えた。
「引かれれば流れます」
水に浮かんだ自分が、誰かの手で引かれて移動する光景が浮かぶ。
「持ち上げられれば運ばれます」
歩けないなら、運ばれればいい。
「それが、あなたの動き方です」
動き方。
透吾の思考は、その言葉に甘く沈んだ。
自分で動く必要がない。押される。引かれる。運ばれる。水面で揺れる。それが自分の動き方。脚を失う恐怖よりも、その単純な役割のほうが、ずっとわかりやすく、気持ちよかった。
「胴体が変わります」
次の言葉が来たとき、透吾に訪れた感情はもはや期待でしかなかった。
言葉が来る。
身体が従う。
変わる。
気持ちよくなる。
その順番を、もう疑っていなかった。むしろ、言葉が来ない時間が不安だった。次にどこがどうなるのかを告げられ、身体がその通りになることで、自分はさらに深く、正しい形へ近づけるのだと思っていた。
「胸も、腹も、腰も、人の区切りをなくします」
透吾の胴体が、内側からゆっくり変わり始めた。
胸という膨らみ、腹という柔らかさ、腰というくびれ。人間の身体を人間らしく見せていたそれぞれの区切りが、膜の下で均されていく。肋骨の形はもう残っていない。腹筋の線もない。腰骨の張りも薄れ、全体がひとつの長く丸い袋へ近づいていった。
「ここは、空気を抱く場所です」
女性の指が、しぼみかけた腹の上をなぞる。
「お客様の重みを受ける場所です」
その言葉で、腹の膜が甘く震えた。
「水に浮かぶ腹です」
白が生まれた。
最初は腹の中心に薄い色の変化が浮かび、それがゆっくり広がっていった。人間の肌色が白い塗料で覆われるのではない。素材そのものが白へ置き換わっていく。腹から胸の下、腰へ、尾の付け根へ。水面の光を受けるための、広い白い腹面が形成されていく。
背中側では、別の色が広がった。
透吾は直接背中を見られなかったが、首を少し起こした角度と、ソファの横に置かれた金属棚の反射で、背の表面に艶のある黒が走っていくのがぼんやり見えた。濡れているわけではない。だが、黒いビニールは光を受け、ぬめるような艶を持っていた。人肌の温度を失った彼の背が、シャチの背の色へ変わっていく。
「黒い背」
女性が言う。
その言葉で、背中側の感覚が黒く定まるようだった。
「白い腹」
腹面が、さらに柔らかな白へ落ち着く。
「胸びれ」
両脇の薄い部分が、ぴくりと反応する。
「尾びれ」
下半身だったものの先端が、甘く震える。
「空気穴」
身体の中心に開いた小さな穴が、ぞくりと疼く。
「それだけでいい」
それだけ。
その言葉が、透吾の思考をさらに単純にした。
胸ではない。腹ではない。腕ではない。脚ではない。男の身体でもない。黒い背、白い腹、胸びれ、尾びれ、空気穴。それだけでいい。それだけで、彼がこれから浮かぶために必要な名前は足りている。
「背びれが立ちます」
女性が告げた。
背中の中央が、内側から持ち上がる感覚があった。骨が突き出すのではない。筋肉が盛り上がるのでもない。ビニールの膜が一部だけ形を与えられ、三角形のひだのように立ち上がっていく。まだ空気が入っていないため、完全には張らず、柔らかく倒れかけている。それでも、背中に生まれたその形は、はっきりとシャチの背びれだった。
透吾は、金属棚に映る歪んだ自分を見た。
そこに、人間の男の姿はほとんど残っていなかった。
ソファの上にあるのは、腕を胸びれに、脚を尾びれに変えられ、胴体を黒と白のシャチ型へ作り替えられた、しぼんだ何かだった。
胸も腹も腰も、人の区切りをなくし、空気を入れられる前の柔らかい袋として横たわっている。中心には空気穴があり、背には倒れた背びれがあり、表面はビニールの艶を帯びている。
彼は、まだ考えていた。
だが、その思考はもう、人間の形を保つには足りなかった。
変わってる。
シャチ。
いや。
シャチの、おもちゃ。
浮くやつ。
使うやつ。
俺が。
俺、じゃない。
よく、わからない。
気持ちいい。
「顔も、変わります」
女性が言った。
その声で、透吾の中に残っていた最後の人間らしい緊張が、薄く震えた。
顔。
それは、自分が自分であるための場所だった。名前を呼ばれれば振り向き、話し、笑い、怒り、恥ずかしがり、誰かに表情を見せるための場所。腕や脚を失っても、胴体が変わっても、まだ顔がある限り、自分はここにいると言えるような気がしていた。
女性は、透吾の顔を覗き込んだ。
その瞳の色は深く、黒にも青にも見えた。水底の石のように静かで、そこに覗き込まれると、自分の表情がそこへ吸い込まれていくようだった。
「もう、呼吸は要りません」
透吾は、その言葉を聞いた瞬間、自分の胸を見た。
胸は上下していなかった。
いや、胸という区切りはもうない。白い腹面へ続く、しぼんだビニールの胴があるだけだ。そこは、人間の肺を入れて呼吸するための場所ではなく、あとで空気を入れられ、浮くために張る場所になっている。喉にも、鼻にも、空気が通っている感覚がない。
透吾は、すでに息をしていなかった。
だが、苦しくない。
その事実が、遅れて彼の意識に入った。
息を止めているのではない。息ができないのでもない。
必要ない。そもそも、呼吸する身体ではなくなっている。彼はそれを理解した途端、恐怖に近いものを感じかけたが、女性の声がすぐにその恐怖を包んだ。
「生き物ではなくなります」
彼女は静かに言った。
「自分で空気を吸う身体ではありません」
透吾の喉から、声にならない震えが漏れた。
「中に空気を入れられるだけの、モノです」
空気。
入れられる。
「生きるためではなく、浮かぶために空気を抱くのです」
その言葉で、呼吸を失った恐怖が、空気を待つ期待へ変わっていく。
息をしなくていい。
苦しくない。
あとで入れてもらえる。
浮かぶための空気。
腹に、背に、胸びれに、尾びれに。
空気を入れてもらえる。
女性の指が、透吾の頬に触れた。
「声も、いりませんね」
透吾は何か言おうとした。
しかし、喉の奥にあった声の通り道が遠ざかっていく。舌の重さが薄れ、唇の細かな感覚がほどけ、口の中の湿り気が消えていく。頬の筋肉、顎の骨、鼻の奥、喉。話すために使っていたすべての感覚が、順番になくなっていく。
「あなたが喋らなくても、私はわかります」
女性の声は、透吾を慈しむようで、あまりに優しかった。
「お客様は、あなたの声を必要としません」
彼の口は、もううまく開かない。
「必要なのは、抱きつきたくなる顔」
顔の輪郭が丸くなる。
顎の線が消え、鼻の形が薄れ、人間の顔にあった凹凸が、愛嬌のあるシャチの頭部へ整えられていく。唇は口としての機能を失い、白い模様の一部へ変わる。笑っているような、しかし本当には笑っていない、プールトイの顔に固定されていく。
「かわいいシャチの顔です」
その言葉で、変化はさらに進んだ。
目の奥の感覚が揺らぐ。眼球がそこにあるという実感が薄れ、見ているというより、表面に描かれた目の奥から外界をぼんやり感じているような状態へ変わっていく。視界は消えない。だが、視線を動かすことはできない。目を見開くことも、細めることも、涙を浮かべることもできない。黒い点のような目が、シャチの頭部に固定される。
透吾は、自分の顔が人間でなくなるのを、金属棚の歪んだ反射で見た。
そこにはもう、真柴透吾の顔はなかった。
丸いシャチの頭。黒と白の模様。愛嬌のある目。笑っているような口のライン。人間の表情はなく、声もなく、呼吸もない。怒ることも、泣くことも、訴えることもできない。けれど、それを理解した瞬間にも、彼の内側では快感が甘く反響していた。
顔がなくなる。
声がなくなる。
息がいらない。
生き物じゃない。
でも、かわいい。
抱かれる顔。
乗られる顔。
使われる顔。
その単純な言葉だけが、透吾の中に残っていく。
女性は、しばらく彼の顔を見下ろしていた。
その眼差しは、完成しつつあるものを確かめる職人のようでもあり、古い祭具の汚れを拭い、祭壇へ乗せる前の形を見定める神職のようでもあった。だが彼女は自分の正体を言わない。ただ、透吾だったものへ、次の言葉を静かに与えるだけだった。
「色が定着します」
黒と白が、さらに鮮やかになった。
背中側の黒は深く、艶を帯び、プールの夜の水面を閉じ込めたように光る。腹側の白は柔らかく広がり、照明を受ければ明るく浮かび上がる。目の周りや横腹には、シャチらしい白い模様が入った。それは描かれた模様ではなく、素材そのものの色だった。透吾の身体は、塗られたのではなく、そういう色のビニールになったのだ。
「継ぎ目が入ります」
胸びれの付け根、尾びれの根元、腹面の端、背びれの周囲に、細い圧着線が現れた。
それは生き物の皺ではない。皮膚の線でもない。ビニールを貼り合わせ、空気を逃がさず、膨らんだときの張りを保つための線。玩具として作られた証。透吾は、その継ぎ目が身体に走るたび、もう自分が自然に生まれた生物ではなく、作られたもの、使われるために整えられたものになっていくのを感じた。
「あなたは、生き物のシャチではありません」
女性の声が、最後の混乱を取り除くように落ちた。
「シャチの形をしたおもちゃです」
おもちゃ。
その言葉を聞いた瞬間、透吾の内側が大きく震えた。
「泳ぎません」
泳がない。
「食べません」
食べない。
「息をしません」
息をしない。
「考える必要も、少しずつなくなります」
考えなくていい。
「浮かび、抱かれ、乗られ、使われるためのものです」
浮かぶ。
抱かれる。
乗られる。
使われる。
その四つの言葉が、透吾の中に残っていた人間の思考を、やわらかく、確実に塗り替えていった。
ソファの上には、しぼんだシャチプールトイが横たわっていた。
人間の男の姿は、もうどこにもなかった。黒と白のビニールの身体。しぼんで倒れた背びれ。ぺたんと垂れた胸びれ。座面からはみ出した尾びれ。顔には固定された愛嬌のある模様。身体の中心には、小さく開いた空気穴。
中には、まだ透吾の意識があった。
だが、その意識はもう、人間としてまともに言葉を組み立てることが難しくなっていた。
空気。
ない。
足りない。
膨らみたい。
張りたい。
浮きたい。
浮く。
使われる。
その程度の思考だけが、しぼんだビニールの内側で、ふわふわと漂っていた。
女性は、ソファの横に膝をついた。
しぼんだシャチプールトイになった透吾の身体に、彼女の影が落ちる。
顔を近づけられても、透吾はもう目をそらせない。そらすための目ではない。逃げるための脚もない。押し返すための手もない。ただ、空気穴を開いたまま、満たされるのを待つ黒白のプールトイとして、そこに置かれている。
「まだ、足りませんね」
女性は、優しく言った。
その言葉に、空っぽの内側が震えた。
足りない。
そうだ。
空気がない。
「あなたの中は空っぽです」
空っぽ。
「でも、空っぽは悪いことではありません」
悪くない。
「空っぽだから、満たせます」
満たせる。
「空っぽだから、浮かべます」
浮かべる。
女性の指先が、開いた空気穴の縁にそっと触れた。
それはもう人間の器官ではない。だが、身体の中心であり、満たされるための場所だった。触れられた瞬間、しぼんだシャチプールトイの身体全体が、細かく震えた。空っぽの内側に快感が反響する。声は出ない。息もない。それでも、空気穴の奥から、かすかな音が漏れた。
「欲しいですか」
女性が問う。
「空気が」
空気。
「あなたを満たすものが」
満たす。
「あなたを浮かべるものが」
浮く。
透吾は返事をしようとした。
けれど、声はない。口は模様で、喉は機能を失い、呼吸もしていない。返事の代わりに、開いた空気穴から、ひゅ、と頼りない音が鳴った。しぼんだビニールの身体が、待ちきれないように小さく震えた。
女性は、その音を聞いて微笑んだ。
「いい返事です」
返事。
それで通じた。
声でなくてもいい。言葉でなくてもいい。彼女にはわかる。そう思った瞬間、透吾の中に残っていた喋れない不安が、甘く溶けていった。
女性は、空気穴へ顔を近づけた。
「では、入れます」
その言葉を聞いたとき、透吾の思考は、ほとんど一つだけになっていた。
入る。
空気が。
入れてもらえる。
完成する。
女性の唇が、空気穴へ近づいた。
それは人間の身体に触れられる距離ではなかった。
もう透吾には、そこを人間の身体として感じるための名前が残っていなかった。ペニスでもなく、口でもなく、器官ですらない。
ただ、開いた空気穴。中身を抜かれ、空っぽになった黒白の身体へ、空気を入れるための場所。彼の中にまだ残っている思考は、その一点に意識を集めることしかできなかった。
近い。
入る。
空気が。
彼女の息が入る。
そう思った瞬間、空っぽの内側が期待だけで震えた。まだ何も入っていないのに、しぼんだビニールの腹面がわずかに波打ち、倒れた胸びれと尾びれが、ソファの上でかすかに擦れた。
透吾は、自分がどれほど空気を欲しがっているのかを、そのとき初めて知った。人間であったころに何かを欲しがったことは何度もある。食べ物、金、眠り、誰かの好意、身体の熱。けれど今の欲しさは、それらとはまるで違っていた。空っぽであることが苦しいのではなく、空っぽであるからこそ、満たされる瞬間を待ちきれない。
「入れます」
女性は、もう一度そう言った。
言葉が先に来る。
身体はあとから従う。
その約束の通り、彼女の息が、空気穴から透吾の中へ吹き込まれた。
ひと息目は、静かだった。
けれど、その静けさの奥に、透吾の意識を焼くほどの快感があった。
空気穴を通って入ってきた息は、ただの空気ではなかった。温かいのに涼しく、柔らかいのに逃げ場がなく、口から吹かれたはずなのに、水の底から湧き上がる泡のような気配を持っていた。それが彼の空っぽの内側へ入り、ぺたんと潰れていた腹面を、ほんの少しだけ内側から押し上げる。
その瞬間、透吾の思考は白く弾けた。
入った。
中に。
空気が。
入った。
それだけで、彼は何度も甘く震えた。
人間の身体なら、快感には中心があったはずだった。どこが刺激され、どこから熱が走り、どこへ向かって高まるのか、曖昧でも身体はそれを知っていた。
だが今の透吾には、その中心がなかった。中心だった場所は空気穴へ変わり、身体の内側は空洞になり、表面は一枚のビニールの膜になっている。だから、快感は一か所で起きるのではなく、吹き込まれた空気に押されて、身体の内側全体へ広がった。
腹が、わずかに丸くなる。
胸びれの根元が、ぴくりと張る。
倒れていた背びれが、まだ立ちきれないまま、少しだけ形を持ち上げる。
「そう」
女性の唇が空気穴から離れ、すぐ近くで囁いた。
「入っています」
その言葉だけで、入ってきた空気の存在がさらに強くなる。
「あなたの中に」
中。
透吾の中。
けれど、それはもう肉や血や熱で満ちていた人間の内側ではない。軽く、空っぽで、空気を受け入れるために作り替えられた、プールトイの内側だった。
「人の熱ではなく、空気が」
空気。
その言葉に合わせて、彼の中の空気が甘く震えた気がした。
「軽くて、柔らかくて、浮かぶための中身です」
浮かぶための中身。
透吾は、その言葉を理解した瞬間、自分がさっきまで抱えていた人間の中身を、もうほとんど惜しんでいないことに気づいた。
骨や筋肉や体温や呼吸は、重かった。考える力も、抵抗する力も、重かった。今の彼の中へ入ってくる空気は、軽く、柔らかく、何にも逆らわない。ただ彼を満たし、張らせ、やがて水に浮かべるためだけに存在している。
女性は再び空気穴へ口を近づけ、ふた息目を吹き込んだ。
今度は、はっきりと身体が膨らんだ。
白い腹面が、内側からゆっくり丸みを帯びる。ソファにぺたりと貼りついていたビニールが、空気の圧で持ち上がり、艶を取り戻していく。黒い背の面にも張りが生まれ、倒れていた背びれが少し起き、胸びれは薄く垂れているだけの形から、横へ張り出した部品としての輪郭を取り戻し始めた。
透吾の意識は、その変化についていけなかった。
入る。
広がる。
張る。
気持ちいい。
また、入る。
それだけで、彼の内側は何度も弾けた。もう射精のできる身体ではない。もう放出する器官もない。だから、何かが外へ出ることはなかった。
けれど、その代わりに、吹き込まれた空気が内側から膜を押し広げるたび、身体全体が絶頂に似た快感を反響させる。出せないのに、ずっとイっている。終わらないのに、終わったときの甘い痺れだけが何度も来る。人間の快感が線なら、今の快感は面だった。押されるたび、風を受けるたび、全体が揺れ、広がり、彼の思考を呑み込んでいく。
「よく張っています」
女性の声が、遠い。
「いい形です」
褒められた。
その認識だけで、また透吾の膜が震えた。
いい形。
張っている。
褒められた。
プールトイとして、上手く膨らんでいる。
女性は、三度目の息を入れた。
空気穴から入った息は、今度は胴体だけでなく、尾のほうへも流れた。しぼんでいた尾びれが、空気を受けて少しずつ膨らみ、薄く折れていた縁が広がっていく。ソファの端からはみ出した尾びれは、さっきまでただの平たいビニールの切れ端のようだったのに、今は水面で揺れるための形を持ち始めていた。
「あなたの尾びれは、水面で揺れるためにあります」
女性が言った。
その通りになった。
尾びれの内側に空気が入り、端まで張りが届く。左右へ広がった形が、空気の圧で整えられ、しなやかに反り、しかし自分では動けない。水に浮かべられ、誰かに押され、波に揺らされることで初めて意味を持つ尾びれ。透吾は、それを理解しただけで、内側の空気が熱を持ったように震えるのを感じた。
「あなたの胸びれは、掴まれるためにあります」
次の息が、胸びれへ届く。
左右の胸びれが張った。指も手首も肘も失い、ぺたんと垂れていた胸びれが、ビニールの部品として形を保つ。空気が隅まで入り、薄いのにしっかりした輪郭を持つ。そこを誰かが掴む。客が笑いながら手を伸ばし、この胸びれを持って、彼の身体へ近づく。水面で揺れる彼に体重を預ける。
掴まれる。
掴まれるため。
気持ちいい。
まだ誰にも掴まれていないのに、その役目を言葉で与えられただけで、透吾は軽い絶頂に至った。
「あなたの腹は、お客様の重みを受け止めます」
また息が入る。
腹面がさらに丸く、広く、白く張っていく。ソファの上で潰れていた身体が内側から持ち上がり、プールトイらしい厚みを得ていく。
そこはもう、人間の腹ではない。食べ物を入れる場所ではない。呼吸で上下する場所でもない。水面に浮かび、上に乗った人の重みを受け止め、沈みかければ空気の力で押し返すための面だった。
重み。
受け止める。
沈まない。
浮く。
「あなたの背は、抱きつかれるために光ります」
黒い背が、さらに艶を増した。
夜のプールの照明を受けるための黒。濡れたように光り、誰かに抱きつかれ、腕を回され、頬を押し当てられるための背。透吾の背中だった場所は、人間の背骨も筋肉も失い、ただ艶やかなビニールとして張っていく。そこへ誰かの体温が乗ることを想像した瞬間、空気の入った内側がまた甘く軋んだ。
「あなたの空気穴は、私の息で満たされるためにあります」
女性の声が、魂の最も深いところへ落ちた。
空気穴が震えた。
そこは、もう出すための場所ではない。欲しがるための器官でもない。今、彼女の息を受け入れ、彼の身体全体を膨らませ、完成させるための場所だった。人間の身体であったときの名残は、そこにはほとんど残っていなかった。残っているのは、触れられ、吹き込まれ、満たされるたびに、身体全体を白く焼くような快感だけだ。
女性は、さらに息を吹き込んだ。
透吾の身体は、もうはっきりとシャチ型のプールトイの形になっていた。
丸い頭。愛嬌のある顔。艶のある黒い背。広い白い腹面。左右の胸びれ。大きく広がる尾びれ。背中に立ち上がる背びれ。継ぎ目は張りを受け止め、表面のビニールは空気の圧で滑らかに伸び、どこにも人間の肉の柔らかさや骨の硬さは残っていない。
だが、女性はまだ止めなかった。
息が入る。
張る。
息が入る。
さらに張る。
息が入る。
内側の空気が逃げ場を探して、表面全体を均等に押す。透吾は、その圧を快感として受け取るしかなかった。
パンと膨らむ直前の、破裂ではなく完成へ向かう張り詰めた感覚。もう十分だと思う余裕すらない。もっと入る。まだ入る。もっと張れる。もっとよく浮かべる。もっと使われるための身体になる。
「よく浮かべるように」
女性が囁く。
その言葉で、浮かぶ未来が彼の中へ刻まれる。
「よく支えられるように」
腹面が、重みを待つ。
「よく抱かれるように」
黒い背が、光を待つ。
「よく掴まれるように」
胸びれが、手を待つ。
「よく揺らされるように」
尾びれが、水を待つ。
「よく使われるように」
透吾の思考が、そこで大きく焼けた。
使われる。
使われたい。
使われるため。
そのために、膨らんでいる。
そのために、空気を入れられている。
そのために、人間じゃなくなった。
気持ちいい。
彼は、自分が人間だったことを思い出そうとした。
真柴透吾。大学生。求人アプリ。面接。高い時給。美人の職員。服を脱いだ。ソファに横たわった。言葉を聞いた。
変わった。
思い出はあった。だが、それらはどれも、水面に映った遠い景色のように揺れていた。手を伸ばして掴もうとしても、手はない。声に出そうとしても、口はただの模様で、喉はない。息をしようとしても、呼吸はもう必要ない。
あるのは、空気。
内側に満ちる空気。
女性の息。
彼女の言葉。
浮くための身体。
使われるための形。
「もう少し」
女性が言った。
その声には、職員としての丁寧さがまだあった。だが、それより深いところに、古い祭りの唄のような響きが混ざっていた。
水辺で何かを送り、何かを迎え、何かを浮かべるための声。透吾はそれを理解できなかった。ただ、その声が自分を完成へ近づけるものだとわかった。
最後に近い息が、空気穴から入った。
その瞬間、透吾の身体は大きく反応した。
背びれがしっかり立つ。尾びれの端まで張りが届く。胸びれの輪郭が綺麗に整う。腹面は丸く、広く、押されれば沈み、離されれば浮き上がる弾力を持つ。黒い背は艶やかに光り、白い模様は玩具らしく明るい。全身の継ぎ目がぴんと伸び、空気の圧を受け止める。
それは、完成に近い快感だった。
未完成のしぼみが消え、空気で満たされ、張りを得て、形を保ち、役目を持つ。透吾の意識は、その快感に耐えられなかった。
耐える必要もなかった。ただ受け入れればよかった。空気を。言葉を。役割を。自分が何であるかを。
プールトイ。
シャチのプールトイ。
浮くもの。
乗られるもの。
抱かれるもの。
使われるもの。
気持ちいいもの。
女性の唇が、空気穴から離れた。
その瞬間、透吾の中に強い不安が走った。
抜ける。
空気が。
逃げる。
しぼむ。
せっかく張ったのに。
完成したのに。
その不安は、さっきまでの人間的な恐怖よりもずっと単純で、ずっと切実だった。人間に戻りたいという願いではない。プールトイとして膨らんだ自分が、空気を失ってしぼんでしまうことへの不安。満たされた身体が、未完成へ戻ることへの怖さ。
女性は、すぐに空気穴を指で押さえた。
「逃がしません」
その言葉で、透吾の内側がはっきりと安堵した。
「満たされたままにします」
満たされたまま。
「あなたは、完成したモノになります」
完成。
女性は、空気穴の栓を手に取った。
それは小さな部品だった。透吾が人間の身体であったころなら、何でもないプラスチックの栓にしか見えなかったはずのもの。だが今の彼には、それが自分を完成させる最後の鍵のように思えた。
空気を留めるもの。張りを保つもの。プールトイとしての身体を閉じ、役目に出られる状態へ固定するもの。
「閉じます」
女性が言った。
栓が、空気穴へ押し込まれた。
その感覚は、透吾の中に残っていた人間の快感のどれとも違っていた。
空気を入れられる快感が満たされる快感なら、栓をされる快感は、完成を刻まれる快感だった。逃げ場がなくなる。中の空気が留まる。張りが固定される。空っぽだった身体は、空気で満たされ、閉じられ、外から見ても内から感じても、もうしぼんだものではなくなる。
透吾の意識に、最後の大きな波が来た。
何かを外へ出すのではない。
何かを内に留める。
それなのに、身体全体が甘く跳ねた。ビニールの膜が内側の空気を抱きしめ、継ぎ目が圧を受け止め、黒い背と白い腹が照明を弾き、胸びれと尾びれが空気を含んで形を保つ。彼は、完全に満たされていた。完全に閉じられていた。
完全に、シャチのプールトイだった。
「できました」
女性の声が降る。
透吾は、もう返事をできない。
声がないからではない。思考が、返事という複雑な形を取れないからだった。
できた。
完成。
張ってる。
空気、ある。
気持ちいい。
「よく浮かぶシャチです」
よく浮かぶ。
「人ではありません」
人じゃない。
「生き物でもありません」
息、しない。
「水に浮かべられ、抱かれ、乗られ、遊ばれるためのものです」
水。
浮く。
抱かれる。
乗られる。
遊ばれる。
「今日の勤務を始めましょう」
勤務。
その言葉だけは、最初からずっと彼を繋いでいた。採用され、契約し、準備をし、身体を変えられ、空気を入れられ、完成した。
これから始まるのは、勤務。人間として働くのではない。シャチプールトイとして、水に浮かべられ、客に使われる勤務。
女性は、完成したシャチプールトイの表面を両手で撫でた。
黒い背を確認し、胸びれを軽く持ち上げ、尾びれの張りを見て、腹面をそっと押す。
押された場所が少し沈み、内側の空気が圧され、すぐに弾力をもって戻る。
そのたび、透吾の意識には甘い快感が走った。点検されている。状態を確かめられている。商品として、備品として、遊具として、ちゃんと使えるか見られている。その扱いが、屈辱ではなく、心地よかった。
「いい張りです」
女性は言った。
「やわらかすぎず、硬すぎず、お客様が安心して体重を預けられます」
体重。
預けられる。
その言葉だけで、腹面がぞくりとした。
「水面でも安定するでしょう」
浮く。
「胸びれも掴みやすい」
掴まれる。
「顔も、かわいらしい」
かわいい。
プールトイとして。
透吾は、褒められるたびに内側の空気を震わせた。声も出ないのに、身体全体が返事をしているようだった。
ぱんと張ったビニールが、女性の手に撫でられるたびわずかに軋み、光を返し、そこにあることを示す。自分が何かを言わなくても、身体の張りが、艶が、形が、すべて彼の返事になっている。
女性は、両腕を伸ばし、彼を抱え上げた。
持ち上げられた瞬間、透吾の中でまた快感が弾けた。
軽い。
自分で立ち上がったのではない。自分で歩くのでもない。
空気を入れられたシャチプールトイとして、女性の腕に抱えられ、ソファから持ち上げられている。人間だったころの身体なら、成人男性を女性が軽々と抱えることなど不自然だったはずだ。だが今の彼には骨も筋肉も重い内臓もない。空気を抱いたビニールの身体は大きくても軽く、抱えられ、運ばれるためのものだった。
女性の腕が、黒い背と白い腹を支える。
抱えられた身体は、内側の空気を少し圧され、表面が柔らかく沈み、その圧さえ快感になった。彼は自分で姿勢を保つ必要がない。どこへ行くのかを決める必要もない。女性が運ぶ。女性が持つ。女性が水へ連れていく。それだけでよかった。
「自分で歩かなくていい」
女性は、彼を抱えたまま歩き出した。
言葉が、運ばれる快感をさらに深くする。
「運ばれればいい」
運ばれる。
「置かれればいい」
置かれる。
「浮かべられればいい」
浮かべられる。
「お客様が来たら、受け止めればいい」
受け止める。
透吾は、その言葉をひとつずつ受け入れた。
廊下へ出ると、さっきまでのメンテナンスルームの濃いビニール臭に、夜のプールの湿った空気が混ざった。扉の向こうから、音楽が聞こえている。低く、柔らかく、身体を揺らすような音。客の笑い声。水面を手で叩く音。グラスの触れ合う音。まだプールへ出ていないのに、透吾の身体はそのすべてに反応した。
水がある。
人がいる。
使われる。
それが、勤務。
女性の腕の中で、彼の身体はぱんと張っていた。
内側の空気は栓で閉じられ、逃げることなく彼を満たしている。表面の黒は廊下の照明を受けて艶めき、白い腹は柔らかく明るい。胸びれは左右に整い、尾びれは女性の腕の外で軽く揺れる。顔は愛嬌のあるシャチのまま固定され、そこに真柴透吾の表情はない。
廊下の途中、壁の鏡の前を通った。
透吾は、そこに映った自分を見た。
女性に抱えられた、大きなシャチのプールトイ。
丸く膨らみ、黒白の模様を持ち、かわいらしい顔で、空気を入れられ、栓をされ、今からプールに浮かべられるもの。そこに人間の痕跡は、ほとんどなかった。少なくとも、客が見ればただのよくできたフロートだと思うだろう。誰も、そこに大学生の意識が残っているとは思わない。誰も、話しかけない。誰も、人として扱わない。
一瞬だけ、透吾の中で何かが揺れた。
俺は。
その先が続かなかった。
次の瞬間、女性の腕が彼の腹を少し押さえ直し、内側の空気が圧され、快感が思考を塗り潰した。
気持ちいい。
抱えられてる。
運ばれてる。
プール。
浮く。
それだけが残った。
ナイトプールへ続く扉の前で、女性は足を止めた。
扉の隙間から、青紫の光が漏れている。水面の反射が壁へ揺れ、音楽と笑い声が少し大きくなる。透吾の身体は、その光を浴びた瞬間、もう水へ向かうことしか考えられなくなった。
浮きたい。空気を抱いた腹で水を押し返したい。誰かに見つけられ、かわいいと言われ、抱きつかれ、乗られ、体重を預けられたい。
女性は、扉を開ける前に、彼の顔を覗き込んだ。
「怖がらなくていい」
透吾は怖がっていなかった。
怖がる力は、もうほとんど残っていなかった。
「お客様は、あなたを人だとは思いません」
人じゃない。
「かわいいシャチだと思って、抱きつきます」
抱きつく。
「大きなフロートだと思って、体重を預けます」
体重。
「あなたは、それを受け止めるだけ」
受け止めるだけ。
「受け止めるほど、気持ちよくなります」
気持ちよくなる。
「浮かぶほど、正しくなります」
正しくなる。
女性は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「使われるほど、あなたはあなたになります」
その言葉は、最後の催眠だった。
透吾は、自分が何者なのかを、そこで完全に取り違えた。いや、取り違えたのではなく、書き換えられた。
真柴透吾という名前は、遠くに沈んでいく。大学生であることも、バイトに応募したことも、面接に来たことも、まだどこかには残っている。けれど、今この瞬間の彼にとって本当に必要なのは、それらではなかった。
シャチ。
プールトイ。
空気、ある。
浮く。
使われる。
気持ちいい。
女性は扉を開けた。
青紫の光が、彼の黒い背に滑った。
湿った夜の空気が、ビニールの表面を撫でた。
水音が近くなる。
客の笑い声が、明るく響く。
女性の腕に抱えられたシャチプールトイは、内側に閉じ込められた透吾の意識ごと、初めての勤務へ運ばれていった。
昼間のプールのような白く乾いた明るさはなく、青と紫の照明が水面に溶け、揺れるたびに細かな光の破片をプールサイドへ散らしていた。
空気はメンテナンスルームよりも湿っていて、塩素の匂いに、飲み物の甘さや、濡れた髪と肌の匂い、遠くで流れる音楽の低い振動が混ざっている。人の声は明るく、笑い声は水に弾かれて少し高く響き、プールの中で腕を振る誰かの動きが、小さな波になって端まで届いていた。
女性の腕に抱えられたシャチプールトイは、その光景を見ていた。
いや、見ていたというより、感じていた。描かれた目は動かない。瞼もなく、焦点を合わせることもできない。けれど、黒い背の上を滑る照明、白い腹に触れる湿った空気、内側の空気が水辺の振動に合わせて微かに揺れる感覚が、外界を輪郭ごと伝えてくる。人間だったころの視界よりもずっとぼんやりしているのに、身体が何のためにここへ運ばれてきたのかだけは、驚くほどはっきりわかった。
水がある。
浮く場所がある。
使われる場所がある。
プールサイドにいた客の何人かが、こちらを見た。
「なにあれ、シャチ?」
「かわいい。新しいやつ?」
「乗れるのかな」
声が近づいてくる。
その声を聞いた瞬間、透吾の中に残っていたごく薄い人間の羞恥が、水面に泡のように浮かんだ。
見られている。さっきまで人間だった自分が、今は女性の腕に抱えられた黒白のフロートとして、知らない客たちの視線に晒されている。名前も知られず、顔も知られず、声も出せず、ただ「シャチ」と呼ばれている。
おかしい。
俺は。
そう思いかけた意識は、すぐに客たちの声で押し流された。
「ほんとだ、かわいい」
「けっこう大きいね」
「映えそう~」
シャチ。
かわいい。
大きい。
映え。
そのどれも、真柴透吾に向けられた言葉ではなかった。彼の大学や顔や性格や名前には、誰も興味を持っていない。彼らが見ているのは、艶のある黒い背と、白い腹と、丸いシャチの顔と、ぱんと空気を含んだフロートとしての身体だけだった。
なのに、胸の奥が甘く緩んだ。
胸はもう人間の胸ではない。呼吸のために上下する場所ではなく、空気を抱いた胴体の一部になっている。けれど、その内側に残っている意識は、客たちが自分を人間だと思っていないことに安堵していた。ばれていない。人だと思われていない。ちゃんとシャチに見えている。ちゃんとフロートに見えている。
女性は、プールサイドの縁に立ち、客たちへ向けていつもの職員らしい穏やかな笑みを浮かべた。
「本日から入った新しいフロートです」
その言葉が、透吾の内側へ深く刺さった。
新しいフロート。
それが今の彼の紹介だった。
「よく浮きますので、順番にお使いください」
よく浮く。
使う。
お客様が使う。
「強く引っ張りすぎないようにお願いしますね」
引っ張られるもの。
壊れないように扱われるもの。
透吾の名前は、どこにも出てこなかった。真柴透吾という名前は、採用書類の上では意味を持っていたはずなのに、この場所では必要とされていない。ここで必要なのは、施設に新しく入った、よく浮くシャチのフロート。それだけだった。
女性は、彼を水面の上へ下ろした。
最初に触れたのは、白い腹だった。
水は冷たい。だが、人間の肌で感じる冷たさとは違っていた。皮膚に刺さる冷たさではなく、ビニールの表面を薄く撫で、丸く張った腹面を下から支える冷たさだった。水に触れた部分がわずかに沈み、内側の空気がその圧を受け、すぐに全体へ分散する。沈む、と思う間もなく、身体はふわりと持ち上がった。
浮いた。
その瞬間、透吾の意識が白く揺れた。
ソファの上で空気を入れられ、栓をされ、完成したと思っていた。けれど、それはまだ半分だったのだと、水に触れた瞬間に理解した。
プールトイは膨らんだだけでは足りない。水に浮かべられて、初めて正しい場所に置かれる。内側の空気が水を押し返し、丸い腹が沈まず、黒い背が水面の上に出て、波の上でゆっくり揺れる。その状態こそが、自分の身体の完成した姿だった。
水。
浮く。
沈まない。
ちゃんと、浮けてる。
気持ちいい。
女性の手が、しばらく彼の背を支えていた。やがてその手が離れる。透吾は一瞬だけ不安になった。支えがなくなる。水に沈むかもしれない。だが、彼の身体は沈まなかった。空気を抱いた腹面が水を押し返し、丸い胴体は青紫の光を受けながら、水面に安定して浮かんだ。
プールの揺れが、彼を揺らした。
自分で動いているのではない。水が動くから揺れる。小さな波が腹に当たり、背を持ち上げ、尾びれをゆっくり揺らす。脚はない。泳ぐための筋肉もない。けれど、押されれば揺れ、流れが来れば流される。それが身体に刷り込まれていた通りの動き方だった。
「ほら、浮けましたね」
女性がプールサイドから囁いた。
その声は、客たちには届かないほど小さかったはずなのに、透吾の内側には、水を通して直接響くようにはっきり届いた。
「あなたは沈みません」
沈まない。
「空気を抱いて、水に乗っています」
空気を抱いている。
水に乗っている。
「それが、あなたの身体です」
身体。
これが、身体。
透吾は、その言葉を受け入れた。
彼の身体は、呼吸するためのものではなく、歩くためのものでもなく、誰かに返事をするためのものでもなかった。空気を抱き、水に乗るためのもの。沈まず、揺れ、体重を受け止め、遊ばれるためのもの。その単純な定義が、内側の空気と同じように彼を満たした。
最初に近づいてきたのは、三人組の客だった。
彼らは笑いながら水をかき分け、シャチフロートへ手を伸ばした。濡れた手が、透吾の黒い背に触れる。指先がビニールの表面を撫で、張りを確かめるように軽く押した。
人間の身体なら背中を触られる感覚だったかもしれない。だが今の透吾には、黒い背だけで感じるということができなかった。触れられた一点から、内側の空気がわずかに動き、腹へ、胸びれへ、尾びれへ、空気穴の閉じた中心へ、甘い波が広がっていく。
「これ、けっこうしっかりしてるな」
そう言われた瞬間、透吾の中で何かが緩んだ。
しっかりしてる。
ちゃんと張ってる。
使える。
別の客が、胸びれを掴んだ。
そのために作られた部分が、初めて客の手に握られる。指も手首も肘もない胸びれが、外から掴まれ、軽く引かれる。逃げることも、掴み返すこともできない。ただ、掴まれる。掴まれるための部位として、役目を得る。その単純さに、透吾の意識はただ震えた。
「空気パンパンじゃん」
腹面を押される。
白い腹が沈み、内側の空気が圧され、すぐに反発して戻る。押した客が、面白がってもう一度軽く押す。沈む。戻る。また沈む。戻る。そのたびに、彼の中の空気が全身を押し返し、膜が内側から張り直される。痛みはない。ただ、使われた機能が正しく働くことの快感だけがある。
「かわいい顔してる」
誰かが、丸いシャチの頭を撫でた。
透吾の顔は変わらない。笑うことも、赤くなることも、目を閉じることもできない。ただ、かわいい顔をしたフロートとして、水面に浮かんでいる。その状態を褒められて、彼は喜んでしまった。
真柴透吾として褒められたわけではない。プールトイとして、見た目と張りと手触りを褒められた。それが、人間として評価されるよりもずっと直接的に、身体の奥へ届いた。
しっかりしてる。
空気、入ってる。
かわいい。
フロート。
俺じゃない。
シャチ。
気持ちいい。
客の一人が、透吾の黒い背へ腕を回した。
最初は抱きつくように身体を預けるだけだった。濡れた腕が黒いビニールに触れ、頬が背に寄り、笑い声がすぐ近くで弾ける。抱き返す腕はない。相手の温度を確かめる手もない。ただ、抱かれる。抱きつかれるための黒い背として、相手の身体を受け止める。
次に、その客は胸びれを掴み、ゆっくりと彼の上へ跨がった。
透吾の丸い胴体が、水面へ沈んだ。
白い腹が水を押し、黒い背が体重を受け、内側の空気が強く圧される。栓をされた空気穴は閉じたまま、逃げ場のない空気が身体全体へ圧を分散させた。胸びれが引かれ、尾びれが水を叩き、波が腹を包む。沈む。けれど沈みきらない。空気がある。内側に抱えた空気が、水の圧と人の重みを押し返す。
浮く。
支える。
乗られてる。
ちゃんと、浮けてる。
その快感は、変えられたときの快感とも、息を吹き込まれたときの快感とも違っていた。自分の機能が使われている。浮くために張り、支えるために丸くなり、掴まれるために胸びれを持ち、体重を受けるために腹を広げた。そのすべてが、いま客の遊びの中で確かめられている。
客が笑った。
「すごい、ちゃんと乗れる」
その一言で、透吾の意識はさらに溶けた。
ちゃんと乗れる。
ちゃんと支えられる。
役に立ってる。
女性の声が、遠くで蘇る。
受け止めるほど、気持ちよくなります。
浮かぶほど、正しくなります。
使われるほど、あなたはあなたになります。
透吾は、もうその言葉に逆らえなかった。自分が誰かを受け止めていること、水に沈まず戻っていること、客に笑われ、楽しまれ、遊ばれていることが、すべて快感として内側の空気を震わせる。
人間の羞恥は、まだどこかに残っていたのかもしれない。だが、それは水面の小さな泡のように頼りなく、次に体重を預けられた瞬間には、浮力の甘さに押し潰された。
客が降りたあと、別の客が軽く彼の背を押した。
シャチフロートになった透吾は、水面を滑った。自分で進むのではない。押され、流され、尾びれを引かれて向きを変えられる。水面の上でくるりと回され、頭の部分を軽く沈められ、すぐにぽんと浮き上がる。沈むたびに水が表面を包み、浮き上がるたびに内側の空気が誇らしげに張り直す。
それは、ほんの短い時間だった。
けれど透吾には、十分だった。
使われた。
乗られた。
押された。
浮いた。
気持ちよかった。
もっと。
まだ。
その「もっと」が浮かんだころには、客たちは別の遊びへ移り、シャチフロートは水面にゆらゆらと残された。水の揺れだけが彼を動かし、青紫の照明が黒い背を撫でる。体重が離れたあとも、腹に残る圧の記憶が甘く、胸びれには握られた感覚が残り、尾びれには押されて流れた余韻が揺れていた。
しばらくして、音楽の音量が少しだけ落ちた。
あるいは何時間も経った後だったかもしれないが、今の彼にはそんなことは些末事でしかない。
客の声がまばらになっていく。プールサイドに上がる人が増え、スタッフがグラスやタオルを片付け始める。水面の波も、さっきまでより静かになっていった。透吾はまだ浮いていた。内側の空気は十分にあり、腹は水を押し返し、背は照明を弾いている。
まだ浮ける。
まだ支えられる。
まだ乗ってほしい。
まだ、役に立てる。
その思考は、透吾という人間の願望ではなかった。シャチのプールトイとしての、単純で、切実で、甘い欲求だった。使われている間はあれほど何も考えられなかったのに、使われなくなると、使われたいという空白だけが強くなる。空気は入っている。水にも浮いている。なのに、誰かの重みがない。胸びれを掴む手がない。腹を押す圧がない。
その物足りなさを感じ始めたころ、女性が戻ってきた。
プールサイドの縁にしゃがみ、彼の黒い背へ手を置く。濡れた表面を撫でる指が、先ほどの客たちとは違う丁寧さで滑った。その手に触れられた瞬間、透吾の内側に、メンテナンスルームで聞いた言葉の層が戻ってくる。
「初勤務は終わりです」
終わり。
その言葉で、透吾の中に小さな寂しさが広がった。
まだ。
まだ浮ける。
まだ使って。
「よく使われましたね」
女性の声が、寂しさを撫でる。
「とてもよく浮けました」
褒められると、彼の中の空気が甘く震えた。
よく浮けた。
勤務、できた。
「次は、片付けとメンテナンスです」
メンテナンス。
使われる時間が終わる。だが、それで終わりではない。使用された遊具は、水から上げられ、拭かれ、点検され、空気を抜かれ、休ませられる。透吾はそれを理屈として知っていたわけではない。だが彼女の声は、その手順を彼の身体へ自然なものとして流し込んだ。
女性は、彼を水面から引き上げた。
腹が水から離れる瞬間、透吾の中に、浮力を失う寂しさが走った。水がなくなる。下から支えていたものがなくなる。だが次の瞬間、女性の腕が代わりに彼を支えた。
黒い背と白い腹を抱え、濡れた身体をプールサイドへ引き上げる。水滴がビニールの表面を伝い、尾びれの先から落ち、床に小さな跡を作った。
抱えられている。
運ばれている。
勤務、終わった。片付け。
透吾は、その単純な言葉に包まれながら、再びメンテナンスルームへ運ばれた。
戻ってきた部屋は、さっきよりも静かだった。ナイトプールの音は扉の向こうで遠ざかり、ビニールの匂いと塩素の清潔な匂いが、また濃くなる。女性は、彼を変化のときに使った大型ソファへ横たえた。今度は人間として寝かされるのではない。濡れたシャチフロートとして、点検のために置かれる。
丸く張った腹がソファへ沈み、尾びれが端からはみ出し、胸びれが左右に垂れる。黒い背には水滴が粒になって並び、白い腹面には細い水の筋が残っている。
透吾は、自分が置かれていることを自覚した。自分で横になるのではない。置かれる。位置を整えられる。濡れた遊具として、メンテナンスされるのを待つ。
女性はタオルを取った。
「メンテナンスをします」
その言葉だけで、透吾の内側がふわりと緩む。
「濡れたままでは、しまえませんから」
しまう。
片付ける。
休む。
タオルが黒い背に触れた。
水滴が拭われる。柔らかい布がビニールの表面を滑り、濡れて冷えていた黒い面が、少しずつ乾いた艶を取り戻す。背だけを拭かれているはずなのに、感覚は腹へも胸びれへも広がる。使われたあとに汚れを落とされ、丁寧に整えられていくことが、透吾の中では新しい種類の快感になっていた。
「きれいにします」
次に白い腹面が拭かれる。客の体重を支え、水面を押し返していた広い腹。そこをタオルで押されると、内側の空気が少し圧され、ビニールが柔らかく沈み、すぐに戻る。拭かれているだけなのに、使われたときの圧がかすかに蘇り、透吾の思考が甘く濁った。
「よく支えました」
褒められる。
腹が、喜ぶ。
胸びれも拭かれる。
掴まれた場所。客の手に握られ、水面で引かれた部位。タオルが付け根から先まで滑るたび、そこに残っていた手の感覚が呼び起こされる。掴まれるために作られた場所を、使用後にきれいにされる。胸びれだった意識の端が、じんわりと震えた。
「ここも、よく使われましたね」
よく使われた。
尾びれの水滴も拭かれる。
押され、流され、回され、水面で揺れた尾びれ。今はソファの端からはみ出し、空気を含んだまま静かに垂れている。女性の手がその先まで丁寧に拭うと、透吾はまた、水に戻りたいような、でも休みたいような、曖昧な甘さに包まれた。
最後に、顔が拭かれた。
固定されたかわいいシャチの顔。笑っているような模様。そこをタオルがやさしく撫でる。人間の顔なら目を閉じる場面だったが、今の彼には瞼がない。ただ、描かれた目の奥で、布の動きと女性の手の温度をぼんやり感じるだけだった。
「きれいになりました」
女性はタオルを置き、空気穴のある場所へ手を伸ばした。
その瞬間、透吾の内側に緊張が走った。
空気穴。
そこは、彼女の息を受け入れた場所。空気を入れられ、膨らまされ、栓をされ、完成した場所。いまは閉じられ、内側の空気を逃がさず、彼の身体の張りを保っている。その栓に指先が触れた瞬間、透吾は、何が起きるのかを理解した。
抜かれる。
空気が。
しぼむ。
怖い、と思った。
しかしそれは、人間へ戻されることへの怖さではなかった。満たされたプールトイの身体が、空気を抜かれ、丸みを失い、ぺたんとしていくことへの寂しさだった。
さっきまで水に浮き、客の体重を支えていた身体が、休むために軽くされる。その手順が必要なものだとわかっていても、満たされている状態を手放すことは、甘く、切なかった。
「怖がらなくていい」
女性は囁いた。
「空気を抜くだけです」
空気を抜く。
「勤務が終わった遊具は、軽くして、休ませます」
休む。
「あなたも、休みましょう」
その言葉で、透吾の緊張がほどけた。
終わりではない。
壊されるのでもない。
休むだけ。
女性は、栓を外した。
ひゅう、と空気が抜ける音がした。
その音は、透吾の内側から聞こえた。閉じ込められていた空気が、空気穴から細く逃げていく。身体の張りが、ほんの少し緩む。背びれがかすかに傾き、腹の丸みがわずかに沈み、胸びれの端が柔らかくなる。
膨らまされるときの快感が、強く満たされる快感だったなら、空気を抜かれる快感は、深くほどけていく快感だった。
抜ける。
軽くなる。
休む。
しぼむ。
気持ちいい。
女性は、腹面をそっと押した。
中の空気が、さらに抜ける。ひゅう、という音が少し大きくなり、丸かった腹がゆっくり沈む。押された場所はそのまま柔らかく潰れ、内側の圧が減っていく。張っていた黒い背も、少しずつ緩み、尾びれは力を失い、胸びれもぺたりと垂れていった。
「上手に抜けています」
女性が言う。
透吾は、その言葉を聞いて安心した。
空気を抜かれることも、上手にできる。
「よく働きました」
働いた。
「たくさん浮いて、たくさん使われました」
使われた。
「もう、力を抜いていい」
力を抜く。
彼の身体は、言葉通りにしぼんでいった。
腹を押されるたび、空気が抜ける。背びれが倒れる。丸みが消える。表面の艶は残っているが、張りは弱まり、黒白の身体はソファの上へ平たく近づいていく。
透吾の意識も、それに合わせてぼんやりしていった。膨らんでいるときは、内側の空気が感覚を反響させていた。空気が抜けると、その反響も弱まり、思考はしぼんだビニールの間に挟まれるように薄くなる。
水。
浮いた。
使われた。
気持ちよかった。
休む。
眠い。
最後の空気が細く抜けるころ、ソファの上には、再びしぼんだシャチプールトイが横たわっていた。
黒い背は艶を残しながらも平たく、白い腹面は薄く畳まれ、胸びれと尾びれは力なく広がり、背びれは倒れている。空気穴は開いたまま。中にはまだ透吾の意識がある。だが、それは非常に薄く、夢の底で揺れる泡のようだった。
女性は、しぼんだシャチの頭部を撫でた。
「よくできました」
その声を聞くと、透吾の意識はまた少し喜んだ。
「では、人の形へ戻しましょう」
人。
その言葉は、ひどく遠かった。
女性は、しぼんだシャチプールトイの空気穴に指先を添えた。そこから戻るのだと、透吾はぼんやり理解した。変わるときもそこが中心だった。人の熱を抜かれ、空気穴へ変えられ、中身を抜かれ、空気を入れられた。ならば戻るときも、そこからなのだろう。
けれど、戻る前に女性は、彼の頭部にもう片方の手を置いた。
「今日のことは、深い水の底へ沈みます」
声が、水底から上がる泡のように聞こえた。
「浮いたことも、抱かれたことも、乗られたことも、空気を入れられて、満たされたことも全部、夢の手触りになります」
夢。
その言葉が、記憶の表面に薄い膜を張った。
透吾の中に残っていた水の感覚が、少し遠ざかる。腹へ触れた水、胸びれを掴んだ手、背に預けられた体重、空気穴から入ってきた息。
そのすべてが、消えるのではない。ただ、焦点が合わなくなっていく。夜に見た夢のように、手触りはあるのに、筋道が曖昧になる。
「あなたは今日、普通に勤務しました」
普通に。
勤務した。
「お客様を案内し」
透吾の意識に、プールサイドを歩く自分の姿が浮かぶ。
「水上遊具を管理し」
空気を入れられた記憶が、フロートに空気を入れる作業の記憶へ変わりかける。
「片付けを手伝い」
水から引き上げられた感覚が、濡れた備品を運んだ記憶へ重なる。
「初めての夜勤を終えました」
夜勤。
働いた。
普通に、働いた。
透吾の中で、二つの記憶が重なっていく。
水に浮いていたはずなのに、プールサイドを歩いていた気がする。
客に乗られていたはずなのに、客へフロートを渡した気がする。
空気を入れられたはずなのに、自分で水上遊具を膨らませた気がする。
空気を抜かれていたはずなのに、営業後に備品の空気を抜いて片付けた気がする。
そんな多くの矛盾は、彼の中で痛みを生まなかった。女性の声が、その境目を水のようになめらかにしていくからだ。プールトイとしての記憶は底へ沈み、その上に、普通に勤務したという薄く明るい記憶が浮かび上がる。
「閉じます」
女性が言った。
空気穴の縁が震えた。
しぼんだビニールの小さな弁として開いていた場所が、柔らかく閉じ始める。素材の質感が薄れ、そこにあった機能がほどけていく。満たされるための穴、空気を入れられるための弁、栓をされるための場所。その役割が消え、代わりに人間の身体の形が戻ってくる。
「人の身体へ戻ります」
その言葉とともに、温度が戻る。
完全に消えていた人肌の感覚が、遠い岸から戻ってくるように、少しずつ輪郭を持ち始める。空気穴だった場所は、人間の下腹部の一部へ、男性の身体としての形へ、ゆっくりと戻っていく。
だが、戻る瞬間にも、透吾の奥底には、そこから空気を入れられた記憶の甘い影が残った。意識には上がらない。言葉にもならない。けれど、身体の深いところに、小さな栓の感覚だけが沈んだ。
「尾びれは、脚へ戻ります」
次に、しぼんだ尾びれが震えた。
一本の長い後部としてまとまっていた部分が、中央からゆっくり分かれていく。薄いビニールの尾びれだった先端に、足首の輪郭が戻り、足裏の感覚が生まれ、足指が一本ずつ分かれていく。膝の位置が戻り、太腿が二本に分かれ、床を踏むための脚の重さが少しずつ戻ってきた。
重い。
透吾は、ぼんやり思った。
脚が戻ることは、人間としては安心のはずだった。
歩ける。立てる。自分で移動できる。だが、ついさっきまで運ばれ、押され、流されるだけでよかった身体には、その自由さが少し重かった。
自分で歩かなければならない。床を踏み、重さを支えなければならない。けれど、その違和感も、偽の記憶の膜に覆われてすぐ薄れた。
「胸びれは、腕へ戻ります」
左右の胸びれが、しぼんだ形から伸びていく。
平たく垂れていた部品に長さが戻り、肘が生まれ、手首が分かれ、指が五本ずつ戻ってくる。掴まれるための胸びれだったものが、掴むための手へ戻る。透吾の指先に感覚が戻った瞬間、彼は何かを握ろうとするように微かに動かした。
掴める。
だが、その奥には、掴まれていた感覚が残っていた。客に胸びれを握られたときの、機能を使われる快感。今は手に戻った指の奥に、その記憶が薄い痺れとして沈む。誰かに手首を握られたら、その痺れがまた浮かび上がるかもしれない。けれど今の透吾は、何も知らない。
「胴体が戻ります」
黒と白のビニールが、ゆっくり人肌へと戻っていく。
まず、継ぎ目が消えた。胸びれの付け根、腹面の端、背びれの周囲にあった圧着線が、肌の下へ溶ける。次に、黒い背と白い腹の模様が薄まり、艶のある素材の表面が、人間の皮膚の質感へ戻っていく。胸、腹、腰という区切りが復元され、骨や筋肉の重さが、内側へ少しずつ詰め戻されていった。
その重さは、思ったより苦しかった。
空っぽだった身体に、骨が戻る。筋肉が戻る。内臓の重さが戻る。血の流れる温度が戻る。呼吸するための胸が戻る。
人間として当たり前の中身が彼を内側から満たしていくのに、透吾にはそれが、少し窮屈で、少し重く感じられた。
女性は、その違和感を見透かしたように言った。
「人の身体は、少し重いでしょう」
透吾は返事をできなかった。
まだ顔が完全には戻っていない。意識も薄い。
「でも、帰るには必要な形です」
帰る。
その言葉が、表層の記憶に引っかかる。
勤務が終われば、帰れる。
「次の勤務までは、それで過ごします」
次。
その一語だけが、深いところへ沈んだ。
次がある。
また来る。
また。
「顔も、戻ります」
最後に、シャチの顔がほどけていった。
丸い頭部の形が人間の頭へ戻り、固定されていた模様の口が唇へ、描かれた目が眼球へ、鼻や頬や顎の輪郭が復元されていく。表情を持たなかった顔に、まぶたが戻り、眉が戻り、頬の筋肉が戻る。喉の奥に、声を通すための感覚が戻ってくる。
そして、呼吸が戻った。
透吾の胸が、久しぶりに上下した。
空気が鼻と口から入り、喉を通り、肺へ落ちる。人間としてはあまりにも当たり前のことだった。だが、その最初の呼吸に、透吾の意識はぼんやりと戸惑った。空気が出入りする。入って、すぐに出ていく。留まらない。腹を張らせることも、水に浮かべることもない。ただ吸い、吐く。
もったいない。
そんな感覚が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
だが、それもすぐに沈んだ。
透吾は、ソファの上に仰向けで横たわっていた。
人間の姿に戻っている。裸だった身体には、女性の手によって服が戻されていく。下着、ズボン、シャツ。最初に脱いだ服が、まるで普通に勤務中に着替え直しただけのように整えられ、ベルトも締められ、乱れたところは直される。彼は半分眠ったような状態で、それを受け入れていた。
「あなたは普通に勤務しました」
女性の声が、耳元へ落ちる。
「少し疲れています」
疲れている。
たしかに、身体はだるい。
「でも、よく働きました」
働いた。
「水上遊具を扱い、お客様の案内をし、片付けを手伝いました」
その記憶が、形を持ち始める。
客に「このフロート使えますか」と聞かれて案内した。
水上遊具を運んだ。
空気を入れた。
営業後に拭いた。
空気を抜いた。
片付けを手伝った。
「変わったことは何もありません」
何もない。
「ただ、少し楽しい夢を見ただけです」
夢。
透吾のまぶたが、重く落ちた。
水の感覚は、完全には消えなかった。浮いたことも、乗られたことも、空気を入れられたことも、どこかにある。だが、それはもう記憶の中心にはない。深い水底へ沈み、上から普通の勤務記憶に覆われ、触れようとすると夢のように揺れるだけだった。
どれくらい眠っていたのか、透吾にはわからなかった。
次に目を開けたとき、彼はスタッフ用の休憩室にいた。さっきのメンテナンスルームではなく、小さなテーブルと椅子、ウォーターサーバー、ロッカーのある普通の部屋だった。背中には椅子の感触があり、身体は服を着ている。手元には紙コップが置かれ、中の水は半分ほど減っていた。
女性職員が、少し離れたところに立っている。
「初勤務、お疲れさまでした」
その言葉を聞いて、透吾はぼんやりと瞬きをした。
「……あ、はい。お疲れさまです」
声が出た。
自分の声だった。少しかすれているが、普通に喋れる。胸は呼吸している。手も脚もある。服も着ている。
記憶の中では、彼は普通に勤務を終えたことになっていた。プールサイドを歩き、客にタオルの場所を案内し、大きなシャチのフロートを膨らませ、使い終わった備品を拭き、片付けを手伝った。初めての夜勤で少し疲れたが、思ったより仕事は難しくなかった。
「体調はいかがですか」
女性が尋ねた。
透吾は、首を軽く回した。
「ちょっと眠いですけど、大丈夫です。思ったより、疲れました」
「初回ですから。身体が仕事を覚えるまでは誰でもそうですよ」
「ああ、そうなんですね」
その説明で納得できた。
納得できてしまった。
身体の奥には、たしかに何かの余韻があった。ビニールの匂いが妙に落ち着く。喉の奥に、空気が抜けたような軽い感覚が残っている。プールの水面を思い出すと、胸の奥がふわっとする。シャチのフロートを膨らませた作業の記憶はあるが、その感覚が妙に生々しく、まるで自分の身体に空気を入れられたような錯覚がかすかに残っている。
しかし透吾は、それを疲れのせいだと思った。
初めての場所で、夜まで働いて、変な匂いのする備品をいくつも扱ったからだろう。ナイトプールの照明と音楽で、少し頭がぼんやりしているだけだ。そう考えると、それ以上深く掘る理由はなかった。
女性は、書類の入った封筒を差し出した。
「今日の勤務分は、後で反映されます。交通費も含めて確認しておいてください」
「ありがとうございます」
封筒を受け取ったとき、彼女の指が透吾の指先に軽く触れた。
その瞬間、胸びれを掴まれたような、奇妙な痺れが一瞬だけ走った。透吾は、思わず指を曲げた。だが、次の瞬間にはその感覚は消えていた。
「次回のシフトは、アプリから希望日を入れてください」
「わかりました」
「無理のない範囲で構いません」
女性は微笑んだ。
「ただ、真柴さんは適性がありますから、入っていただけると助かります」
適性。
その言葉に、透吾の腹の奥がかすかに疼いた。
何の適性かはわからない。プールバイトとしての適性。夜勤に向いているということ。水上遊具の扱いが上手かったということ。そう解釈すればいいはずだった。けれど、もっと深いところで、別の意味が波紋のように広がった。
浮く適性。
使われる適性。
空気を抱く適性。
その言葉は、意識に上がる前に沈んだ。
透吾は施設を出た。
駅まで戻る間、窓の外は暗く、街灯の光が流れていった。身体はだるいのに、不思議と不快ではなかった。むしろ、長く湯に浸かったあとに似た、芯の抜けた心地よさがあった。けれど、その心地よさの奥には、何か説明できない物足りなさもあった。
帰宅して、靴を脱ぎ、ベッドの上に腰を下ろす。
スマホを見ると、通知が来ていた。
給与振込予定額。
表示された金額を見て、透吾は思わず声を出した。
「うわ、マジか」
本当に高かった。
求人で見た時給が嘘ではなかったことを、数字がはっきり示している。多少怪しいと思ったことも、初勤務の妙な疲れも、その金額を見ればかなり薄れた。これだけもらえるなら、夏休みの間に何回か入るだけで相当助かる。仕事内容も、記憶の上ではそこまできつくない。客層も悪くなかった。職員の女性も丁寧で、少し不思議な雰囲気はあったが、悪い人には見えなかった。
画面の上に、続けて別の通知が出た。
『次回勤務希望日を入力してください』
透吾は、しばらくその文字を見つめた。
身体の奥に、また何かが浮かびかける。
ビニール、空気。
白い腹。
黒い背。
誰かの重み。
沈む。
戻る。
気持ちいい。
しかし、それらは言葉になる前に、勤務の記憶へ置き換わった。水上遊具を運んだ。膨らませた。客に渡した。片付けた。初めてのバイトで少し変な夢を見た。それだけだ。
透吾は、軽く息を吐いた。
「まあ、割いいしな」
独り言は、部屋の中で小さく落ちた。
カレンダーを開く。
夏休みの予定は、相変わらずほとんど白紙だった。バイトに入れない理由はない。むしろ、この時給なら積極的に入ったほうがいい。そう思って、彼は次の週の空いている日を探した。
指先が、一日を選ぶ。
次の出勤日に丸をつける。
その瞬間、透吾の喉の奥から、ひゅ、と小さな音が漏れた。
空気が抜けるような、かすかな音だった。
彼自身は、それに気づかなかった。ただ疲れて息を吐いただけだと思った。スマホの画面には、希望日が送信されました、という表示が出ている。透吾はそれを見て満足し、スマホをベッドの横へ置いた。
透吾が次の出勤日に丸をつけたころ、施設のメンテナンスルームでは、夜の片付けがまだ静かに続いていた。
棚には、営業を終えたフロートたちが並んでいる。
イルカ型のプールトイは半分だけ空気を抜かれ、尾を折り畳まれるようにして透明な保管ラックへ収められていた。マンタ型の夜間専属は、まだ少し湿った表面を乾かされながら、低い棚の上で静かに横たわっている。
白鳥型は今日は出番がなかったのか、首を丸めるように畳まれ、休眠中のタグを付けられたまま、奥の暗がりに置かれていた。
どれも、ただのプールトイに見えた。
客が見れば、施設の備品が丁寧に管理されていると思うだけだろう。よく清掃され、よく空気を調整され、翌日の営業に備えて休ませられているのだと。
けれど、タグの裏側には、別の文字があった。
氏名。契約日。勤務形態。可逆可否。住み込み許可。
イルカのタグには、帰宅不要、と書かれている。夜間専属には、長期浮遊勤務、昼間休眠。白鳥型には、本人希望により人形態停止中、次回確認、満月、と細く記されていた。
女性は、ひとつひとつのタグを確かめながら、濡れた指先で軽く撫でた。
水は、人を集める。
人は、楽しい場所へ金を落とす。
笑い声は水へ溶け、重みは浮かぶものへ渡り、浮かぶものの快さはまた水へ返る。そうしてこのナイトプールは、ただの商業施設ではあり得ないほど客を惹きつけ、予約は途切れず、口コミは熱を帯び、訪れた者は理由もわからないまま、また来たいと口にする。
誰も、棚の奥で休むフロートたちが、その賑わいを支えているとは知らない。
誰も、夜ごと水面に浮かぶ遊具たちが、かつて人の姿を持っていたとは思わない。
女性は、先ほどまで透吾が横たわっていた大型ソファへ視線を向けた。そこにはもう何もない。拭き取られ、乾かされ、次の勤務者を待つ清潔な表面だけがある。
新しいシャチは、大変具合がよかった。
初回にしてはよく浮いた。反応も素直で、空気の馴染みも悪くない。水面に下ろしたときの喜び方も、客に乗られたときの溶け方も、申し分なかった。
だが、何度か勤務を重ねれば、きっと気づくだろう。
人の身体は重く、服は窮屈で、呼吸は煩わしい。帰宅するたびに水が恋しくなり、ベッドよりも保管ラックの暗がりが安らかに思え、誰かに名前を呼ばれるより、シャチ、と笑われるほうが胸の奥を甘くするのだと。
女性は、誰もいないプールサイドへ戻った。
夜の営業を終えた水面は静かだった。けれど、その静けさの下には、今日一晩で溶け込んだ笑い声と熱と、浮かぶものたちの甘い充足が沈んでいる。水は深く、よく満ちていた。
彼女は水面を見下ろし、透吾から送られてきた次回勤務希望の通知を確認するように、ほんの少しだけ目を細めた。
「次も、よく浮かべますように」
その声は、水面に落ちた。
波紋は小さく広がり、やがて、棚の奥で眠るプールトイたちのほうへ静かに消えていった。
Ad