仕えるという事

  母に仕へて死ぬならそれも良し。

  廿四孝の「郭巨の釜掘り」や、イスラームの智慧に習はむ。

  我は是迄、神道式に稚きを禮讃すを良しとしてきた。

  斯様な少数派は生き憎し。

  ガキはバカだから守らねばなるまい。

  それ以外のバカはもう知らん。

  郭巨の釜掘りとは、手前のガキと親、どつちを捨てるかの究極の問ひなり。郭巨がガキを捨るを選び、穴を掘ると釜に入つた黄金がざつくざくてふ、ラッキー譚である。

  黄金が出なければ、ガキは土の下に埋まつてゐた。

  姥捨も子減らしも、どつちもあつたのが人類史である。

  一神教に言はせれば、黄金が埋まつてたのも「神の思し召し」てふ事にならむ。

  私の信仰が、段々一神教化されてゐるのだらうか。

  天照大御神の道と、尊皇の道を信じ、母に仕へ、時々父にも仕ふ。そしてやがては、そんな生に絶望する日が来るのだらうか。

  バカな先公は「親が死ねと言つたら死ぬのか」つて言ふけど、そんな輕口叩かれた位で死なむとするべからざるなり。然しその覚悟で生くべし。

  公僕風情がよ。そんな事言ふやつが去ねよ。

  

  「あんたなんか死んで仕舞へ」と言はれても、

  「さうは言つてもおつ母さん。おつ母は世界にあんたひとりなんやから」と宥めるしかない。

  三度死を勧められる樣なら、それは矢張り死んだ樣に、親の目の前から消えるしかあるまいが。