おおさかみたりな(2)

  【二週間と六日前】

  

  足早に駆ける。

  母親兼女子高生はなにかと忙しいので、今日は昨日ほどのんびり遊んでもいられない。

  このあとアイナを幼稚園まで迎えに行かなければならないし、その後に夕食も作らなければならない。お隣の奥さんが、ちょっと、ほんのちょっと料理下手なので、その息子の分も合わせてだ。

  好き嫌いが無いのはいいが、最近やたらと牛乳を飲むようになった娘のお腹を守るべく、今日の献立に想いを馳せて

  

  家とは、反対方向へ歩を進める。

  

  昨日の今日で、思いがけず高級なドッグフードが入手できた。

  旦那の友人の伝で、その手のマニアから譲ってもらったものらしい。

  あの木立に住みついた狼さん(♀)は、こちらが施す餌など必要としないと知りつつも

  なんとも絶妙なタイミングで良いモノが入ってきたのは、何かあるのではと。

  益体もない期待と不安を抱き、取り急ぎ食べてもらえるかどうかだけ確認すべく、

  足早に例の場所を目指していた。

  

  スカートを巻き込むようにして、足を交互に、走り出す一歩手前で。

  耳元を抜ける風に、髪をなびかせ火照った顔を冷やしてもらい

  ドッグフード分重さを増した片手を振り子のように。

  

  相変わらずむさ苦しい外観の木立の前まで、所要時間は20分を切っていた。

  さすがに三月ともなれば、汗とも無縁ではいられないようだ。

  全身が熱を持ち、服の内側の湿度が高い。

  頬に一筋冷やりとした感触が走る。

  ハンカチを取り出して軽く拭う。

  

  「ふぅ」

  

  そこでやっと息をつき、汗ばんだ身体と不快感に心づく。

  セーラー服の胸元をつまみ、風を送り込む。

  大きな胸に遮られ、充分に熱が取り払われないものの、毎年のことで慣れたもの。

  

  「よっ」

  

  汗疹対策にパウダーをするのと同じ要領で、片腕で両方の乳房を下から支える。

  前腕に柔らかい重量を感じつつ、あいた方の手でセーラー服の裾を持ち、胸元同様パタパタさせる。

  それでおおよそ放熱されたので、いざ狼さんのもとへと、下に置いた荷物に手を伸ばす。

  途中、オーバーニーソが少しずれていたのに気付き、荷物を持ち上げざま、つまんでなおす。

  ピチッといった感触。

  

  「ん…――良しっ」

  

  視覚で元に戻ったことを確認し、準備完了と木々の間へ足を踏み入れた。

  

  入口は広葉樹と下ばえが密生し、いかにも手入れされていない感じだったが、隠れるようにして奥へ続く小道を行くと、すぐさま整った清々しい場所へ出る。

  ここだけ写真に収めれば、歴史ある欧州の公園とも言っても通用しそうな。

  なにより生まれ故郷の林によく似た景色が、遠い郷愁を呼び起こす。

  少しだけ胸がつまるような感覚と共に、馴染みの動物の姿を探す。

  果たして、木々の間の中央よりやや端よりに、彼女はいた。

  それから彼女以上になじみ深い、黒い人影。

  

  「二上っ」

  

  名前を呼ぶ。

  郷愁は、きれいさっぱり拭い去られていた。

  

  「なんでここにおんねん」

  

  ぶっきらぼうな口調で、部活の相方に問いかける。

  不意を突かれたというよりも、予感はこれだったか、と言った妙な納得。

  見れば男は買ったばかりと思しきスチールの皿に、今まさにドッグフードを開けているところであった。

  

  「……。うわっ!アホネンや!」

  「誰が妖怪ウンテルデンリンデンや!」

  

  とっくに気配に気付いていながら、わざとらしく後ずさる男に、すかさずツッコミとボケ返し。

  男は悔しげに歯を鳴らす。

  

  「くぅ…昨日は暇そうやったから、今日は来(け)えへん思たのにぃ…」

  「ざーんねーんやったなぁ。オカンパワー舐めたらあかんでぇ」

  「オカン関係ないだろう」

  「ここから幼稚園までの経路、アイナが不安を覚えたり寂しがらない時間、うちの移動速度。

  全部計算済みって話や。仮に二時間学校に居残りさせられたとしても、さばききれる。

  たかが30分の寄り道。誤差の範囲や」

  

  髪を後ろにはらい、勝ち誇って腕を組む。

  

  「でも、二上。君の方はきっと来ると思っとったで」

  

  ニッと笑って勝利宣言。

  

  「とりあえず、今日の所はうちの勝ちやな」

  「勝ち?君のその――」

  

  二上の視線が、私の手元の紙袋に注がれる。

  中にはこちらが用意した例のドッグフードと犬用の皿が入っている。

  

  「ドッグフードと、僕のドッグフード。どちらを彼女が食べるかって話か?」

  「せや」

  「それはおかしい。まだ並べてどちらを食べるか見てないじゃないか」

  「くくっ。手落ちやで。見たとこ君の用意したんは――」

  

  二上の脇に歩み寄り、屈んで地面に置かれた包装紙を手にする。

  

  「思ったとおり。近くのコーナンで売ってる特売品やん。

  ――ふぅん。もとは結構高い奴か。半額。へえ。

  でもツキも半分だったわけや。うちのは、これやもんなぁ…」

  

  包装紙を置いてから、自分の紙袋に手を入れ、モノを取り出す。

  見るからに高級そうな包装に、社印と思しき紋章。

  油彩画風の犬の絵と、裏側にびっしり並んだアルファベットは――

  

  「なん…だと?」

  

  当時BLEACHはソウルソサエティ救出編が始まる前であった。

  すなわち、某ジャンプ感想サイトにて物議をかもした、かのアーロニーロ戦などはるか未来のことだ。目を見張る二上は、時代を先取りした劇的なるOSRの低下を見せ、

  

  「ぐぅっ、、、舶来て、、、あかん……

  こんな、、見た事もない高級品、チートや、チーターやないかいぃ」

  

  などとわけのわからないあたまのわるいことをつぶやきながら、地に伏した。

  

  飽くまで初見の印象そのままに、犬食いという言葉が孕む浅ましさなど僅かも感じさせず。

  粛々と高級ドッグフードを食む姿に彼女への敬意を覚えながら、

  心地よい勝利の余韻に浸る。

  

  「ふっ。ケチはあかんで。ケチは」

  

  どうせ使うなら生き金や、と。

  屈んだことでこぼれ落ちた髪を再びかきあげ、今度こそ純然たる勝利宣言とともに、颯爽とその場を立ち去る。

  OSRが完全枯渇した二上など、切羽詰ってマッチョと化した美形キャラ同然だ。

  もはや、私も、狼さんも、目を向ける者など一人もいなかった。

  

  けれど、その実私は、勝ち誇ってなどいなかった。

  

  それは誇りではなく、奢りであったのだから。

  これが、終焉ではなく肇まりに過ぎなかったと。

  そう露ほども気づかなかった時点で、既に誇りは失われていたのだ。

  故にその後に続く戦いの中で、私は自分のアホネンを思い知ることとなる。

  

  このルビコンの対岸で。

  

  OHSAKAMITARINA 3

  

  The User of Alive Money in "Runden Unte Linten"

  

  (笑)

  

  ――あかん、間違えた。

  

  (続)

  

  [newpage]

  【二週間と三日前】

  

  日があいてしまったが、私も暇ではないので、そこらへん理解を求めたい。

  二度目になるが、母親兼妻兼女子高生は忙しいのだ。

  昨日も期末テストの準備をしつつ、娘の将来を案じ、お隣さんの息子と同衾させたりお風呂に入れたりして 将来的に、娘に幼馴染という属性を付加する計画を、着々と進めていた。

  まあ、幼馴染ならば結ばれるというのは幻想だが、金髪碧眼娘には、一緒に育ってきた『幼馴染』との相性はいいだろうという、苦い迫害の経験を踏まえた上での親心である。

  今のところ順調だとは思うが、ときおり妙な視線を感じるのが懸念と言えば懸念か。

  例えば、幼児二人の入浴の面倒を見るため、いっしょにお風呂に入る時。

  脱衣所で、服を脱いでいる最中や自分の頭を洗う際、目を閉じている間。

  主に胸や足腰を、誰かに見られているような気がするのだ。

  他にも台所で野菜や魚を切っている最中、お尻に気配を感じたりも。

  何日か前にストーカーうんぬんと二上と話していたのを思い出して、夫に調べてもらったりもしたが、特におかしなものは見当たらないという。

  視線や気配を感じるのは、決まって娘と隣の子がいる時だが、一体誰がこちらを見ているというのだろう。

  まさか隣の子が私と言う絶世の美女の艶姿に充てられ、早くも性に目覚めてしまったというわけでもあるまい。

  その幼馴染の熱い視線が、脱衣所であらわになる見事に発達したバストやスラリとした手足とか、

  調理中、シンクに向かうことで居間に向けて揺れるヒップに注がれることで、

  我が娘から激しい嫉妬と羨望のオーラが放たれているというわけでもないだろう。

  惨めな胸は、幼児ならば何ら恥じるべき身体的特徴ではないのだし。

  そういえば最近読んだSFで、並行世界から侵略者がやってくるという話があったが、或いは、それではないだろうか。

  荒唐無稽な話だが、それならば、元軍属で盗聴機に関してもそこらへんのマニアなど相手にもならない夫が、何も見つけられなかったのにも説明がつく。

  普段なら一笑に付す発想だが、『わからないもの』には無理にでも理由をつけたがるのは人間の心理というものだ。

  まったく、正体のわからないものほど怖いものはない(棒読み)。

  ついでに娘の胸とかスタイルなんかも。

  

  気を取り直して、歩を進める。

  都合がついたので、二度目の狼さんへの給仕に足を運ぶこととしたのだ。

  動物相手なので配餌と言ってもいいのだが、落ち着きはらって一口一口ドッグフードを食む姿には、『配餌』よりも『給仕』といった言葉の方が適当に思われた。

  すでに何度も足を運んでいる場所である。

  四半刻といわず、二十分ほどで例の木立の前へ到着した私は、これも慣れっこになった道路と接する茂みをかきわけ内部へと入っていく。

  あれで負けず嫌いな二上の事である。

  私が来ない間、さらに高級なドッグフードを入手して、狼さんに振舞っているに違いない。

  そして、間抜けにも、以前と同じドッグフードを持ってきたせいで、そっぽを向かれ、膝をつく私を想像しほくそ笑んでいるに違いない。

  

  「甘いでぇ」

  

  ああ、自分悪い顔してるなあ。なんて感想が浮かぶほど、口角を釣りあげながら、片手に持った袋の重量に意識をやる。

  中には以前持ち込んだドッグフードのさらに上。

  家計を節約し、へそくりを削り取り、拗ねたりエロったりエロったりエロったりして夫に入手してエロった…もらった、どっかの王室御用達のドッグフードが入っていた。

  

  「王室御用達のドッグフードて…犬か。王族は犬かっ」

  

  などと条件反射でノリツッコミしながらも、口元は勝利の確信のため、ゆるゆるであった。

  何度見ても、懐かしく、切ない気持を湧き起こす、木々の並びが目の前に現れる。

  一人と一匹は、やはりそこにいた。

  なにをするでもなく、狼の傍らにたたずんでいた二上は、私の姿を認めると

  黒々とした学校指定のコートのなかへ腕を突っ込んだ。

  

  「待ってたで」

  

  言葉少なに手を引くと、現れる。――徳用ではない、最小サイズのパッケージが。

  この時点で私は悟るべきだったのに。

  

  「悪いけど、今日もうちの勝ちやで。

  君は多分、前にうちが持ってきたのより高いのを買うてきたんやと思う。

  良いモノしか食べへん狼さんや。一度覚えた味より上のもんが必要なんは解ってる。

  君もそうして、実際食べてもらってたんやろう。そう。――今日まではな」

  

  驕りに溺れた私の心は、当然及ぶべき懸念への道を閉ざしていた。

  最小パッケージが持つ密度について。

  

  「王室御用達。もはや人が食べれるレベルや。

  これ以上のドッグフードなんてあらへん。至高にして究極。

  考えられる限りのドッグフードの頂点。

  どう考えてもこっちの方が君のその純国産ブランドドッグフードより高級や」

  

  そして、あまり強い言葉を使うと、弱く見えるということについて。

  っちゅうか――

  

  ◇

  

  「なん…やて?」

  

  ――しゃべりすぎるとOSRが極端に低下するという、ごく初歩的な理解を、綺麗さっぱり忘れていたと。そういう話である。

  

  目の前で、私の用意したものではないドッグフードを食む狼さん。

  当然、こちらのものには目もくれない。

  力なく腕から抜け落ちた袋から、口のあいたドッグフードが散乱する。

  

  「……んで」

  

  小さく漏らす。

  二上がそれに心づいたので、少し息を吸いこみ、繰り返した。

  

  「なんでっ?考えうるかぎり最高のドッグフードを用意したはず!!

  なのに、なんでそんな――!」

  

  もともと一食分の量しか入っていなかったのだろう。

  すでに空になって二上の手におさまるパッケージを指さした。

  

  「なんの変哲もない市販のドッグフードが、か?」

  

  先に言われて、言葉につまる私に、奴は訥訥と説明を始める。

  ビタミン、ミネラル、その他各種栄養素の配合。

  そして何より各個体に合わせた栄養バランスの調整。

  すなわち、素人には決して手の届かない領域。

  

  「――そう。トップブリーダー推奨だ…」

  

  切り捨てるように言いきった奴は、何も言わずその場を後にする。

  そう。私は敗北し、二上は勝利した。

  その事になんの感慨も抱かぬほどに、この数日間の努力はあいつ自身をすり減らしていたのだ。

  最後に口にした言葉にすら、なにものも感じさせぬほどに。

  

  「トップブリーダー推奨……まさか値段を内容量で割って、一番値の大きい物を選んだものが、王室御用達に勝利するとはな…」

  

  私たちの誰にも解らない道理であった。

  『トップブリーダー推奨』が何を意味するのか。

  見た目の値段より、1gあたりの内容量に対していくらかが重要であるか否か。

  王室御用達のドッグフードを、本当に王家の人々が口にしていたのか――否か。

  

  それでも二つ、言えることがあった。

  一つは、この日を境に、戦いはより一層熾烈なものになっていったこと。

  もう一つは、私の中で、タガが一つ外れたこと。

  

  そしてもう一つ。

  フィンランドでは敵が攻めてきたら紅茶ではなくコーヒーを飲んで落ち着くこと。

  最後にもう一つ。いい加減、下手なブリーチネタはそろそろやめたいということ。

  まだまだ続くのでさらに一つ。

  ジョジョっぽくやれば古くから続くOSRの因縁、その犠牲の犠牲を断ちきれるだろうか…

  

  「知らんがな」

  「いや流石にキツいねんて。OSRとか言うんは」

  「アレか。二十歳すぎてのセーラー服みたいな」

  「うちなら三十前でも余裕で着こなせるけどな…はあ」

  「落ち込んでてもその自信。そこにシビれる!あこがれるゥ!」

  「早速のジョジョネタ感謝」

  「元気でたかい。出たな?ほならとっとと次行こ次」

  「うわっ、勝者の余裕腹立つわぁ」

  「君…意外と器が小さいんだね…」

  「誰がうちの服装がムーミンママみたいやって?」

  「裸エプロンて」

  

  TO BE CONTINUED

  [newpage]

  【二週間前】

  

  その後も私と二上の狼さんに、ドッグフードを食べてもらうかどうかの戦いは続いた。

  

  もはや餌をもらえるのが当然といった風情で、トレイに口をつける狼さん。

  

  「くっ、負けた――何故だ」

  

  膝をつき、悔しげに問い正す二上。

  

  「くくっ。何を隠そう、――食費を削ったんや。」

  

  勝ち誇るアホネン(わたし)。

  

  くう~~…きゅぅるるるぅ

  

  と、小さく可愛らしく、しかしはっきりとした音色で、勝利に水を差すお腹の音。

  夫や娘には迷惑はかけられないので(夫にはもういろいろとかけたような気もするが)、

  自分の昼食や間食を抜いたのが仇になったようだ。

  [newpage]

  【一週間と五日前】

  

  戦いは日を追うごとにヒートアップし

  

  「今度は負けへん!塾で黒板消しのバイトしまくったで!」

  「くっ、なんちゅう気迫――!」

  「お陰で寝不足!」

  「なんの!勝負!!」

  

  「ぐああっ!やっぱりあかーん!」

  「うあああああ!!どやああああああ!」

  [newpage]

  【一週間と4日前】

  

  時にはマンネリ化したりして

  

  「今度は食費削ったで!もちろん自分のだけな!」

  「君、それ、こないだも言ってたで!

  だが僕だって黒板消しのバイトを増やしたぞ!」

  「あかん、君かてマンネリや!」

  [newpage]

  【一週間と3日前】

  

  しかしうち続く戦いは、着実に互いの気力と体力を削っていき

  

  「これが私の本気です」

  [newpage]

  【一週間と2日前】

  

  「ならば私も拘束具を外します」

  [newpage]

  【一週間と1日前】

  

  「愛する人の想いが私を立ち上がらせます」

  

  気付けばまたも鰤ネタに帰刃

  ―――ではなく、二人とも、顔を合わせても、まともに話を交わすことさえ出来なくなるほど消耗していた。

  ……そして

  [newpage]

  【一週間前】

  

  朝。

  等身大の鏡に映るのは、輝くような美貌の金髪の少女。

  朝の支度を終え、自室にて登校前の身だしなみのチェック中である。

  見る者をはっとさせる、深い雪のような肌(はだえ)や

  異国の生まれであることを示す、光を緑に返す瞳。

  体をひねって、ストレッチがてら脇や背中を確認する際、ことさら強調される、スラリと伸びた、それでいて肉感的な手足。

  なにより大きく二つ、前に張り出した豊かな胸。

  いかにも日本人ばなれした――実際日本人ではないが――容姿であるが、大人っぽくも、どこかあどけなさを含んだ顔からは、白人特有の、ある種の近寄りがたさは感じられない。

  

  「う~ん……やっぱツリ目やな、自分」

  

  スマイルスマイル。と呟きながら、趣の違う笑顔をいくつか鏡に映す。

  その口調とイントネーションは、人種違いの顔立ちを補い、親しみやすさを彼女に与えている。

  

  「よし。ええな。行こか」

  

  はらうでもなく、曖昧にうしろ髪を触り、鏡を後にする。

  サラリと流れる絹のような髪は、さほど強くない金色で、光の加減によっては銀にも見えた。

  近頃諸事情で寝不足、栄養不足な彼女であったが、そういった要素が、わずかにも髪質や肌に反映されないのは当人の資質と、その資質がとどまることを知らない、十代という年齢故であった。

  

  「ふわぁ…」

  

  扉をあけた先には、彼女の娘がいた。

  娘は母の姿を認めると、感嘆したような声を上げる。

  ん?と顔を向けると、恥ずかしそうにして顔をうつむけるが、すぐにそのまま走り寄って、彼女の脚に抱きついてきた。

  

  「うん。いつもお迎え御苦労さん」

  「ン。どういたしまして」

  「ほな行こか。――よっと、ああ重なったなあ。アイナぁ」

  

  扉の前で待っていた娘を抱き上げ、その成長を実感するが、当の娘は不満そうに口を膨らませていた。

  

  「アイナおもくないもん」

  

  ませた返答に、穏やかに笑う。

  

  「そういうんは、もっと大人になったら気にするもんやで」

  

  階段を下りながら、愛する夫の待つダイニングへ向かう。

  今日は早めに支度が終わったので、まだコーヒー片手に新聞を読んでいるところだろう。

  

  「アイナオトナやもん」

  「はいはい。せやな。アイナは立派な女の子やもんな。

  でも小太郎くん、痩せっぽっちの子は嫌い言うてたなあ」

  「ほんま?」

  「ほんまほんま。おっぱい大きい子好きなんやって。痩せっぽちと太った子なら、太った子がええって」

  「………」

  

  大きく外れた嘘をついたわけでもなかったが、幼馴染の名に娘はころっと騙され、可愛らしい顔を難しくする。

  ませてはいても実に子供らしい反応で、自身の経歴もあってか、少女は少しだけ感傷的な微笑ましさを覚えた。

  

  

  「ん。もう行くんカ」

  

  ダイニングに入ると、深い響きを持った声がかかる。

  夫は新聞を熟読中らしかったが、妻子の気配を感じて、とりそぎ声をかけたようだった。

  

  「ううん。今日は早めに準備終わったから、うちもコーヒー飲んでこかなって思って」

  

  新聞から目を離さずにいる夫を対面に、娘を抱えたまま、少女は席に着いた。

  少女の言葉が終わると同時に、夫は視線を紙面から自身の年若い妻へと向け、

  

  「――ブボッ」

  

  盛大に、むせる。

  

  「ちょ、ど、どうしたん!」

  「お、お前、ソノ格好、、、ゴホッ、、ゴボッ」

  

  あらぬ反応に慌てて腰を浮かす少女に、夫が苦しげに指摘する。

  指さされ、やがて心づき、ダイニングにある食器棚、そのガラスに視線を走らせると、少女の姿が反射され映し出された。

  

  「え?お、おお…」

  

  娘を抱える胸元は半ば以上さらけ出され、かろうじて覆うべき所を覆っている布地は、腹部から腰に密着し、その引き締まったラインを強調している。

  しかも、丈が水着同然である上に、燕尾服様の切れ込みが入っているため、ヘソと下腹部が惜しげもなくさらけ出されていた。

  色も黒で燕尾服風ではあるが、下半身は面積の少ない布地にガーターベルト、網タイツという際どい組み合わせ。

  さらに際どさを高めているのが、頭部で揺れる二本の白く長い耳と、ヒップを強調するように尾てい骨から生える丸い尻尾。ともに身じろぐたび、揺れている。

  

  「かっこええなあ」

  

  さきほどからずっと母親に向けていた羨望の眼差しを、最大限に強める娘。

  

  「なんで……その服着てンねん……」

  

  夫はげんなりしつつ、誰にも聞こえないような声で一人呟く。

  南無三。実際それは、どうみてもルートウィッジであった。

  

  「ドーモ」

  

  意味もなくそんな言葉が漏れてから、さてこの単語の先はどう続けようかと少女は考える。

  制服を着ていたつもりが、いつの間にか、どこからか、こんな際どい(同時にちょっと格好いい)服を持ってきてしまった。

  思い当る事と言えば。

  

  「疲れてたんやなあ。自分…」

  

  ここ最近の同級生との意地の張り合いが原因だろう、と。

  キラキラした視線と、気まずそうな視線に挟まれながら、少女は席に座り直し、とりあえずコーヒーに口にすることにした。

  『その服』という夫の発言を問い詰めた後は、この格好で迫ってみるかな、などと考えつつ。

  

  

  【一週間前】

  

  放課後。

  一匹の獣が待つ木立に、少年少女たちは今日もやってきた。

  狼とも、そうでないとも噂されるその生き物であるが、知能の高さは狼に近いようにも思われた。

  狼には犬にはない怪しげな伝承がつきまとう。それもまた、彼等の知能の高さ故であった。

  野性において自らに由り生死を分かつ狼と、家畜化により高度な判断をヒトに任せることを選んだ犬とでは脳の大きさや、学習能力の高さと言った点で差がある。

  そして、現代人には実感の湧かない所で有るが、森における彼らの動態は、時に人をも上回る知能をうかがわせるものがあった。

  時に年経た飼育動物や、生活圏が異なるため生態を知られぬ生き物が見せる思わぬ知恵を、『人は獣より知能が高い』という前提が、実態以上のものに変えて幻惑する。

  獣を追いかけていたつもりが、逆に後をつけられ様子をうかがわれていた、といった体験が、彼等を、人間以上の何ものかに思わせることとなるのである。

  特に狼は、四足でありながら、似た姿をした犬以上の知恵を持つ。

  ために、世界各地に伝わる狼伝承にも、彼等の知能の高さ、ひいてはその聖性ないし魔性を語るモノが多かった。

  

  そうした実態を鑑みれば、この木立の獣は狼の可能性が高いとも言えた。

  彼女は、今日も餌を運ぶ人間の足音を捉えると、定位置へと腰をおろす。

  

  「今日は、、、動物園に、電話で、聞いたで、、、聞いた奴持って、、きた、で、、」

  

  少年はやっとそれだけ言うと、フラフラとよろめき、その場に崩れるように腰をおろした。

  対する少女は、聞いているのかも疑わしげな様子で、うんうんとだけ返答すると、バッグに手を突っ込む。

  

  「うちは、あれや、、、あれ。あの、つまり、あれやな。うん。アレや。どうや、恐れいったかぁぁ」

  

  やはり酷く疲れた様子で、なにが恐れいったのかよく解らない説明をする少女。

  少年は、「そうかい」とうなだれながら返すが、こちらも聞いているのか疑わしい。

  

  「そんな、そんなにスカしてられるのも、、、今のうちぁで、

  今日は、うちの、狼さん、食べるん――――」

  

  途切れ途切れの少女の言葉が、ついにプツリときれる。

  少年が顔をあげると、少女の脚がもつれ、バランスを失うところであった。

  

  「うぉっと、」

  「うわぁ、、」

  

  普段ならもうちょっと威勢の良い声が出たんだろうなあ、などと、疲れた頭に益体もない考えが浮かぶ。

  間一髪。少年は、倒れる少女の下敷きになる形で、かばう事に成功した。

  下ばえは芝生が茂っていて、少年のように地べたにへたり込む程度なら、汚れもしないし衝撃も少ないが、全身で倒れ込むとなれば別である。

  もとより少女に惚れている、と公言している身である。

  汚れるのも傷つくのも、この相手ならば絶対に阻止しなければならない。

  常々そう思っていた。

  そのため、半ば無意識のうちに身を呈した自分に、よくやったと喝采を送りたい気になった。

  同時に、これまで自身を駆り立てていた、少女への対抗意識が徐々に冷めていく感覚も。

  

  「なあ…」

  「………」

  「僕ら、いったい何をやっていたんだろうねえ」

  

  答える気力がないのか、答える気がしないのか、問いかけには無言が返ってくる。

  まあ、答える気にはならないよなあ、虚しくて。

  そんな考えがよぎったあたりで。

  

  「En tieda.」

  

  なにか良く分からない言語――と言うか、彼女の母国語で返された。

  彼――二上太志は、目を閉じて言葉を続ける。

  

  「もしかして、僕ら、彼女に良い様に使われてたのかもね…」

  「……」

  

  体は動かさず、意識だけ、傍らでこちらを見やる獣に向けて言う。

  思えば、張りあって、来るたび質の良くなる餌を運ばれては、動物であっても期待くらいするだろうし、それならばと、敢えて妨げる事をせず、じっと待ち続けるくらいの知恵はあるだろう。

  もっというと、思いがけず出会った動物に餌をやりたくなるのは都会の人間の習性のようなものである。もしも彼女が動物園を脱走した狼だとすれば、あるいはそこまで考えて、こんな街中に潜むことを選択したのではないか。

  有り得ない、と二上自身の常識は否定するが、これまで見てきた、吠え声一つ立てず、気品さえうかがわせる彼女のことを思えば、そうそう振り払う事はできない考えでもあった。

  

  「バカげた考えかな…?」

  

  自嘲気味に笑いながら、起き上がろうと身じろぎすると同時に、背中に柔らかい感触が走る。

  擬音で表すなら、ムニュリと言ったところか。

  ありきたりな表現であろうと、それが示すものは、紛れもない。

  

  (――――――っ)

  

  心中で、それもごくごく微かに、息を飲む。

  彼の記憶が正しければ、少女――アホネンは、前に向かって倒れていた。

  後ろに倒れていても彼の行動は変わらなかったが、下敷きになる瞬間、確かに前方への転倒に間に合った事への安堵を覚えていた。

  当然、下敷きになった彼の上には、彼女の体のどこかが当たることになる。

  保護するならば頭部や体幹部は必須なので、当然――

  

  「ちょ、ちょっと……」

  

  ――胸、とか、ましてや乳房とかおっぱいなどとは間違っても口にできなかった。

  心づかせるわけにはいかないという、彼の中の紳士的な部分が働いた故に、思わず出かかった言葉を呑み込んだ。

  けれど、口にしようとしまいと事実は変わらない。

  背中には、肉付きの良い豊かな体の一部が当たっていた。

  一瞬浮かんだ、下着を着けているから、それほどあからさまな感触はしないだろう、という少年の考えは微塵に打ち砕かれた。

  そもそも下着など問題としないほどのバストサイズを少女は誇っている。

  トップとアンダーの差29cm超。Hに迫るバストは、下着に覆われながらも、彼の背の上で押しつぶされて楕円の輪郭を脇から覗かせていた。

  さらに悪いことに少年は、連日上昇する気温と、移動により高まった体温のため、カッターシャツ一枚であった。

  制服と言う障壁がないために、その分彼の肌には、少女の胸がたわむ感覚がダイレクトに伝わってくる。

  想像以上の柔らかさは、彼の判断能力を狂わせ、まるでこの世のどんなものよりも柔らかいモノであるかのように錯覚させる。

  下着の固さはあるにはあったが、あくまで、『ある』ことが分かる程度の存在感しかない。

  それ以上に、滑らかな手触りの女子用制服の布地の感触まで伝わってきてしまって、少女の胸の柔らかさが、いっそう強調されてしまっている。

  裸よりも、水着やレオタードのような皮膜様の密着素材の方が、艶姿を際立たせるという、アレである。

  少年の心臓はバクンバクンと異様な強さと速度で鼓動を刻んでいた。

  自身が張り詰める気配も感じていたが、同時に感じたもので、そんな事を考える余裕さえ失ってしまった。

  

  (い、息が――)

  

  ――首筋に、かかっていた。

  それは、小さな空気の動きであった。

  それが、単に体を動かしたことで、あるいは自然に起ったものであればどれほど良かったか。

  しかしその風には、人肌のぬくもりがあった。

  ぬくもりが、規則的に、首筋にかかっていた。

  ふわっ、――すぅ…ふわっ、――すぅ…ふわっ、

  温かい空気が吹きつけられては、流れ込む体感上の冷気を挟み、再び吹きつけられる。

  気のせいか、甘いにおいさえするようだった。

  少女の使っているシャンプーや香水の匂いにはある程度慣れたはずの少年であったが、それらとは全く別種の。

  時折、何かの拍子に少女に接近した時にするのと、同じ匂いが、少年の鼻孔をくすぐる。

  振り返れば、そこに少女の顔があるはずだった。

  小さな、桜色の唇から、あくまで規則的に、彼女の息が出入りしている。

  想像は容易で、かつ鮮明。故に少年には、少女の方に顔を向けるという発想が浮かばなかった。

  ただ、春を迎え、街全体に立ちこめる花の香りと、少女の息、そして覆いかぶさる身体全体から発せられる芳香。そして、若干の汗の匂い。

  

  ――ふっ、と意識を失いそうになる。

  

  男性としての反応は、どれも臨界に達していた。

  胸の感触、首筋の感覚、嗅覚が捉える桃源の気配。

  なにより、彼女の存在感。これほどまでに密着した覚えはない。

  多分、自分の今の段階では許されない距離。

  同時に、至らなければ、自分の想いは何の意味もなくなる、そんな距離。

  どちらが理解で、どちらが気持ちか、蕩けた彼の頭では判別がつかなかった。

  だから、まずはまともな思考を取り戻そう、と。

  そう考え、口を開く。

  

  「おぅ」

  「静にっ」

  

  打てば答えるような響きで、遮られる。

  同時に、背中から柔らかな感触が消え去るが、重量そのものは消えていない。

  今度は、二つの掌が背中にあてがわれる感覚を感じつつも、顔をあげた。

  

  木立に、光が差し込んでいる。

  午後の傾きかけた金色の光である。

  いく筋もの光条が降り注ぐ、普段と変わらぬ風景の中、一つの異常。

  

  「さっきから立ちあがって、こっち見てる。」

  

  少女の言葉通り、これまで行儀よく座って、こちらを見やるだけだった、狼と思しき彼女が、後ろ脚も立てていた。

  それまで同様、じっとこちらに視線を送っていたが、四足で立つ姿だと、何かを訴えかけているようにも見えた。

  

  「それが――どうしたって…」

  「しっ」

  

  少年の頭の上で、少女が口に指を当てた。

  大型犬サイズで、妙な迫力をもった獣が立ちあがりこちらを見ていれば、何か警戒するのが筋だと思いつつ、ここ二週間ほどの付き合いのために、そんな気が二人とも起らない。

  ただ、彼女が何をするのか、その答えだけを気にしている。

  

  「あっ」

  「動いたっ」

  

  獣はくるりと身をひるがえすと、歩き出す。

  早足だが、駆けるといった風ではなく、トコトコといった擬音が似合いそうな動きであった。

  そのまま見守り続けると、彼女は二人を迂回して、木立の出入口へ至る。

  外へ駆け出るのかと思いきや、立ち止まり、再びこちらに視線を向ける。

  

  「ついてこい…って言ってるのかな…?」

  「知らん…」

  「あっ」

  

  狼は出口へと駆けだしたかと思うと、また立ち止まる。

  これは――と、少年も、少女も彼女の意図を解する。

  

  「行く?」

  「行こか」

  「あ~~、その前にだね……」

  「あっ、また走り出したでっ!」

  

  少年の背中から重量が消える。

  目の前で少女の脚が地を蹴る。

  夕暮れ直前の光を浴びて、金色に輝く後ろ髪とスカートをひるがえし、引き締まった足が動く。

  少年も、少しだけ息をついて、傍らの荷物を手に取り、少女のあとを追った。

  頭の中では、先程の体験――というか、感触とか、動悸とかが、鮮明に渦巻いていた。

  少女は今さっきまで、自分に胸を押しつけていたことを認識しているのだろうか。

  そんな疑問がぐるぐると。

  もしも気付いていないのならば、それは少女が自分にその距離を許している――少なくとも、あのような事態を真っ先に避けるものだとは思っていないということになる。

  つまり。

  しばし胸を押しつけて息が首筋に当たるような位置にあって、それで平気な相手だと思われているという答えに行きつく。

  

  それは、慎むべき一人の異性として見なされていないのか。

  それとも、こちらが慎みを崩しても、構わないという気持ちがあったのか。

  

  仮に、気付いていたとしても答えは変わらないだろう。むしろ、より意識的な行為であったと言える。

  異性とみられていないのか。

  異性として許されているのか。

  確かめる方法は、実に簡単だった。

  

  気付いていた彼女の、悪戯っぽい、けれどどこか遣る瀬無い笑いが思い浮かぶ。

  気付いていなかった彼女が、いつにない戸惑いの中、白い顔を真っ赤にする姿も浮かぶ。

  

  どちらも有り得たし、どちらであっても、二人の関係が決定的な変質をきたすような気がした。

  先程彼女を背中に乗せたまま、そのことを問おうとした自分は、意外ととんでもないことを口にしようとしたのだと。

  このあたりで冷や汗が一筋。

  前方では、少女が駆けている。

  置き去りにするというより、少年が追いかけてくることを、露ほども疑わない足運びであった。

  

  少年はほんの一瞬、木立の鬱蒼とした箇所にさしかかる前に、チラリと背後に視線をやる。

  木々の間に差し込む光は相変わらず。清冽な印象の空間は輝くばかりで。

  

  名残惜しくはあったけど、今やるべき事もあったので。

  結局彼は、彼女に問うことをしなかった。