灰色のむこうがわ 10

  あの頃は幸せだった。さめざめと降る[[rb:愁雨 > しゅうう]]のなか、ひどく懐かしさをおぼえることがある。俺も老け込んでしまったと、その[[rb:都度 > つど]]気が滅入るのだが。

  「まーた本ばっか読んでる。何がそんな楽しいの?」

  いつだって懐かしむのは、決まってあの日々のこと。あのヒト──ナターシャと共に暮らしていた頃。

  ナターシャは、確かに[[rb:碌 > ろく]]でもない大人だった。

  口を開けば男の股ぐらのことばかり。この世の男は女で遊ぶものだと、それしか価値がないと、常日頃からいっていた。目の前の子供が男であることをきっぱり無視して。

  それでも、俺みたいな子供を女手一つで育て上げた。捨てた親に恨みを抱いたことは一度もない。むしろこんな世の中でよくこさえたものだと感心してしまう。あのヒトの言う通り、男女の仲はいつの世だって変わらないということだろうか。

  どうでもいいことだ。今更どうあがこうが、ナターシャが親代わりとして育てた事実に変わりはない。どうしようもないヒトだったけど、それでも俺にとってはかけがえのない恩人だ。

  「なあ、ナターシャ」

  「親と呼べ。なんで呼び捨てなのよ」

  「アンタ幸せか?」

  でも、同時に不安だった。

  いつ捨てられるのか、いついらないと言われてしまうのか。アイツにとって、俺は男として機能しない子供だったから。だとしたら、邪魔でしかないだろ、こんな愛想のないガキなんて。

  「うっわ、なんか煙たいこと聞いてきた。その歳で哲学者気取りかよ、うっわ」

  「つべこべ言うな。答えろ真っ裸」

  「はあ? よく見ろ下着は着けてるだろ。露出狂じゃないし」

  「同じようなもんだろ」

  「違いますぅー。ワタシを脱がせようとする男どもが悪いんですぅー。むしろアイツらの趣味に付き合ってやってんの。偉いでしょ」

  一人で生きていくことのできない、弱い子供。そんな俺にとって、ナターシャは恩人であり、恐怖の対象であり、そして……[[rb:憧 > あこが]]れでもあった。

  碌でもないと思いつつも、それでも。そんな強さに憧れた。

  股を開いて喘ぐことしか価値のない女が、まともな子供を育てられるはずがない。あんなろくでなしだから子供もイカれてるんだ。……そうなじられても文句は言えない。そればかりは同意する。全部事実だし。

  ゴミ山に捨てられたのだって、あのヒトの末路としては[[rb:妥当 > だとう]]だと思う。恐らくは本人ですら、マトモな死に方はできないだろうと悟っていたはずだ。

  ナターシャはイカれた女ではあったが、頭の悪い女ではなかったから。

  「つか幸せかー、とか。頭打った? お前」

  「打ってねーよ。馬鹿にすんな」

  「都市の奴らと同じこといってるじゃん。止めなよ? 深入りすんの。するならワタシだけにしとけ」

  「つねに知らない男と寝てる奴に言われてもな……」

  「行為の最中に何食わぬ顔で入ってくるガキがなにいうか。誰に似たの、その面の厚さ」

  「お前だよ」

  でも。許せないものがある。最早そんな領域の話なのかはさて知らず、ただの心残りなのだろうが。

  ──そういえば、男のほうが未練たらしいとナターシャはいってたか。ハハ、本当にそうだ。くっだらない。

  「じゃあ、ワタシがそうじゃないって言ったらさ。ワタシのこと、幸せにしてくれる?」

  幸せになってほしかった。俺のことを捨ててでも、ナターシャの幸福に、俺がいなくても。

  アンタだけは幸せになってほしかった。そうなって、ほしかったんだ。

  :::

  栄誉都民授賞式が終わり、復興都市はまたいつもの落ち着きを取り戻そうとしていた。まだ浮足立つヒトが後を絶たないが、それは時間が解決すること。今[[rb:暫 > しばら]]くは[[rb:余韻 > よいん]]に浸っていることだろう。

  そうしてすれ違って行くヒトビトの往来の片隅。狼は一人、いつものように客引きをしていた。

  今日はそこそこ稼げているらしく、チップ入れは底が埋まっている。稼げているとは言えないが、全く稼げないよりはまし、といったところか。

  (随分羽振りがいいこって。コッチは苦労しないからいいけど)

  狼が目標とした額は、もう既に達成している。生活に必要なものを買い占めて、虎男ことフリッドが待つ拠点に帰ってしまってもなんら問題がない位には。

  でも、狼は今現在、拠点へと戻れずにいた。フリッドと顔を合わせるのが気まずいからではない。ましてや、この都市の空気が居心地よくなったからでもない。

  復興都市は現在、出入りを制限されている。狼は外へ出たくても出られないのだ。

  (くっそ。詰め所に行っても知らんヤツしかいねーし、完全に積んだわ)

  何故制限られているのかといえば、授賞者たちが[[rb:永劫 > えいごう]]の地へ辿り着くまでの神聖な期間だから。……というのが表向きの理由。

  本当の理由はマンハント。つまり今、外では授賞者が逃げまどい殺されている。誰が殺しているか。それは外の自衛軍が、だ。

  今頃受賞者達は命がけで逃げていることだろう。都市に戻ろうにも、入口が見張られているとなればどうしようもない。そうして追い詰められて、逃げ場も無くなって、無残にも殺されるのだ。信じていたものに裏切られ、惨たらしく残酷に。

  (……あのバカ[[rb:鰐 > ワニ]]、殺し回ってるんだろうな。意気揚々と、血飛沫浴びながら)

  そのことを狼が[[rb:咎 > とが]]める気は全く無い。ガレッツォと自分はあくまでも他人だ。親しい友人だとか、仲間とかではない。都市の運営方針がいかに残酷であろうと、あの男が憎しみで人殺しを正当化していようと、狼が知ったことでない。それが彼らしくないと思った所で、止めることは決してあり得ない。

  [[rb:所詮 > しょせん]]、ガレッツォと狼は利害関係。双方に利があるから手を組んでいるに過ぎないのだ。

  そのことよりもっと気がかりなのはフリッドのことだ。彼は今、マンハントが行われていることを知らない。最悪、巻き込まれている可能性がある。

  (……はっ、何考えてんだか。アイツは死ねない身体なのに)

  そうであることを知っていて、[[rb:瀕死 > ひんし]]の虎を拳銃で撃ち殺した。そんな狼が、彼を心配するのはお門違いなのだろう。

  ……けれど。そう思うたびに胸がつかえる。あの虎のことをヒトとして扱えなかったと、当たり前のようなことを望めなかったことを。後悔、している。

  そして今だってそうだ。危険だと判っていて、あえて見殺しにしようとしている。痛みも苦しみもアイツにはあるというのに。それでも生き返るならいいか、なんて心の何処かで密かに思っている。実に最低だ。都市の住人達と、何ら変わりない。

  (俺だって、馬鹿鰐のこと言えたもんじゃない。俺だって、アイツを[[rb:蔑 > ないがし]]ろにしてのうのうと生きてるんだから)

  関心など抱くべきではない。結局はあの虎だって赤の他人。どれだけ傷つこうが、どれだけ死に体に会おうが、狼には関係のないこと。何もできずに商売を営んでいるだけの男が、それに甘んじている男が、心配なんて可笑しいにも程がある。

  そんなもの、人ですらない。ヒトのようなナニかじゃないか。

  「……あれ、靴屋さん?」

  気分が優れなくなってきた。そろそろ店じまいと行こうか狼は考えていると、コロリと鈴のような声がした。往来の中、狐少女ウィンディが手を振っている。

  少女はいそいそと人の波をかき分けると、狼の前までやってきた。

  「また会ったね、靴屋さん」

  「こんにちは、レディ。今日もお仕事かい」

  「あーたり。それにしても凄い偶然、また外で会えるなんて」

  狼に会えて嬉しいのか、[[rb:和気藹々 > わきあいあい]]とウェンディは話しかけてくる。彼女がどうしてそこまで嬉しいのか狼には察することが出来ないが、楽しそうなのは良いことだ。

  「前と場所違うよね。色んなとこでやってるんだ」

  「まあ、そうだね。一箇所で客寄せし続けても結果は良くならないし」

  「そっかあ。ね、となり、座っていい?」

  「待った、腰掛けを貸そう」

  狼は客用の折り畳みスツールを一台、自分の隣へと置く。狐の少女はありがとうと感謝を述べ、エプロンの裾を抑えながら座った。

  「ふふふ」

  「……どうかしたかい?」

  「ん〜? 今、丁度靴屋さんと同じくらいの高さだなって」

  

  そういってウィンディはひらひらと片手を頭の上でスライドさせた。まだ狼の方が座高が高いが、それでも二人並んで立つよりは背が近い。だからどうしたと狼は思うが、少女は何処か満足そうだ。水を指すのは野暮だと、言葉をのむ。

  「靴屋さんは色んなとこで仕事してるんだ。……いいなあ」

  「大変なものだよ。場所が変われば客入りも変わる。一人も捕まらないなんてザラさ」

  「それでも羨ましい。私はそういうの、出来ないから」

  少女の生い立ちを考えれば、確かにこの都市を自由に歩くなんて許されないことだ。孤児である彼女は不幸の対象であり、疎まれる存在。仕事の選択すらできず、与えられたものに必死に縋りつかなければ生きていくことすらままならない。孤児院は彼女にとって最後の砦であり、絶対安全の[[rb:寄辺 > よるべ]]だ。

  「あ、でも勘違いしないでね。私は皆のこと大好きだから。ジャービスさんも、マイケルにジョンも」

  でも。狐の少女は遠く空を見上げ、届かない想いを口にする。

  

  「ずっと自由にこの空の下を歩けたらいいのに。そうしたら、少しはマシな人生だって、思えたんだけどな」

  そう語るウェンディは、何処か儚げで頼りない。その表情に、普段からかけ離れた陰りのようなものを感じさせる。何かあったのか聞こうとした狼だったが、既の所で言葉を飲む。

  自分が誰かの人生に干渉してはいけない。あくまで靴屋である自分は、誰かの幸福の手助けになるべきだ。指標になるのではなく、背中を押す風であるべきだ。

  その幸福の先に、自分がいてはならない。いては、いけない。

  「そうだ。ねえ靴屋さん、今日は孤児院に泊まっていかない?」ウェンディがふと、いいことを思いついたように狼に持ちかける。

  「魅力的なお誘いだけど、遠慮させて貰うよ」

  「この間だってそう言って断ったじゃない。ねぇいいでしょ? ジャービスさんは私がなんとかするから」

  「まだ仕事の最中だろ? こんな所で油売っていていいのかい」

  「そーやって逃げようとする。私を快く油売らせているのは靴屋さんなんだけど?」

  「あ、ハハ……」

  今日のウェンディは随分と積極的だ。彼女は孤児院の責任者であるジャービスの事が苦手であることを知っているのに、正直言い返して来るのは狼にとって想定外。大分面倒くさいことになってきたと、狼は首を[[rb:掻 > か]]く。

  助け船でも出ていればよかったのだが、どうも風向きが悪い。今の狼にそんなものは期待できそうになかった。

  「……わかった。他ならない君の頼みだ、二度三度も断り続けていたら男として格が下がってしまう」

  「じゃあ……!」

  「お誘い、受けさせてもらうよ」

  「や、ったあ……! じゃあじゃあ、お仕事もう少しで終わるから待っててくれる?」

  

  念願叶って余程嬉しいのか、ウェンディは今にも舞いそうなくらい上機嫌だ。先程見せた陰りはどこへ行ったのか。まだこういった所は幼い少女だな、と狼は肩をすくめながら思うのだった。

  ∶∶∶

  復興都市住宅区。彼らの住まいは基本平屋の集合住宅、一軒家なんてものは存在しない。材質は土で出来ており、外壁と同じように真っ白だ。乾燥地帯の住まいを想像すると近いだろう。

  そんな住宅区の一画で、狼は暇そうに欠伸をかいていた。

  

  既に靴屋の方は店じまいをし、今はウェンディの終わり待ちだ。やることがない。手持ち無沙汰に毛づくろいなんてしてみたりしたが、そんないい暇潰しにはならない。

  (あー、ダッル。やっぱ行くなんて言うもんじゃなかったわ)

  女児相手とはいえ、こう何度も思うがままにされるのは気が進まない。誘いを無下にするのはこちらの不徳が致す所だろうが、だからといってなんでも許されるかといえば大違い。これだから、子供というのは始末に負えない。……無駄に図体のデカイ厳つい男も、同様に。

  通りにヒトの気配はない。いてもさして気に掛からないが、こうして居座り続けるのも限度があるだろう。できるなら早いとこ退散させてくれ──などと狼が空を仰いでいると、

  ポタ、と雫が一滴。

  (……ヤッベ)

  それは次第に数を増していき、地面を濡らしていく。気がついた頃には、洗い流すかのように降り出していた。

  慌てて狼は屋根のある所まで避難する。住居者には不審に思われるかもだが、急な雨だ。一つ[[rb:会釈 > えしゃく]]すればお[[rb:咎 > とが]]めないだろう。

  こんな事態になってもまだ待たなくてはいけないのか。頼りない布地の屋根から空を睨みつける狼に、気の抜けた声が届く。

  「ひゃー!」

  振り向けば、ウェンディがコチラへと走って来ている。そのまま彼女は狼の隣へと身を滑り込ませる。向かって来る際急に降り出したのだろう。ブルブルと身を震わせると、ウェンディは狼に向かってはにかんだ。

  「へへへ、ゴメンね。遅くなっちゃった」

  「いいさ。女性を待たせるのは品位が下がるけど、待つのは男の甲斐性だ、ってね」

  「なにそれ。変なの」

  「まあまあ」

  実際[[rb:甲斐性 > かいしょう]]なんて気になんかしていない。むしろクソ喰らえだ。待たされる側になってみろと、文句の一つ言いたくなる。

  それをウェンディ相手に直接言うのは流石にしないが。あくまで相手は顧客、腹を割って話す間柄じゃない。そも子供じゃないか。真面目なことを言うのも馬鹿馬鹿しい。

  「あーあ、びしょびしょ。靴屋さんがいるのにこんなんじゃ台無しだよ」

  「別に俺は気にしないけど」

  「気にするものなの! もう……」

  濡れてしまった頭の毛を整えながらウェンディが言う。こんな時でも見た目に気を使っているのだろう。小さいながらも、やはりそこは女児というべきか。

  ぶつくさと小言を垂れながら身だしなみを整える少女を見守っていると、ふと異臭が狼の鼻をかすめた。

  なんだろうか、この臭いは。[[rb:腐 > くさ]]った生モノのような、そんな臭いが漂っている。おそらくはウェンディから。

  なんでそんな臭いがこの子から? 不思議に思う狼だったが、それを本人に聞くことは少し……いや、大いに[[rb:躊躇 > ためら]]われた。

  もしそうだったとして。もしも、狼が想像するものだったとして。それを聞くというのは最低なことだ。もしかしたら違うかもしれないじゃないか。そう、自分に言い聞かせて。

  「それで、どうする。暫くこのまま上がるのを待つかい」

  「うーん……」

  ウェンディが空を見上げ、困ったように唸る。狼が見立てたところでは、暫くは振り続けることだろう。最悪辺りが暗くなるまでは続くと思われる。それまでこうして他人の居住を間借りできるかというと……まあ、なんとかなるだろう。

  「やっぱ帰らなきゃ。戻らないことがジャービスさんに知られたら、きっと心配するだろうし」

  それに。ウェンディは辺りを見回すと、狼だけに聞こえるよう耳打ちする。

  「私みたいな子がここに居たら、その……ね」

  ああ、なるほど。彼女の言動で狼は大まかに察した。

  先程から家の家主が白々しい目を向けている。雨宿りだ、なんて言い訳すれば納得してくれそうだが、隣にウェンディがいる。いい顔はされないだろう。

  それならば仕方ない。意を決した狼はおもむろにワイシャツのボタンに手をかけた。

  「えっ、ちょっと靴屋さん!?」

  驚くウェンディをよそに、狼はワイシャツを脱いでいく。行くと決めた以上やぶれかぶれだ。そのままワイシャツをウェンディの頭へとかけると、手を取って雨の中を駆け出した。

  片腕で雨を遮り、狼はがむしゃらに駆けていく。体毛に打ち付けられ、地肌に張り付く感覚が気持ち悪い。けど、そんなこと知ったことではない。行くと決めた以上はモタモタしていられない。

  ウェンディは必死になりながらも狼の後をついていく。一歩一歩が大きくて、ついていくのがやっとだ。よく聞かん坊と追いかけ合っている彼女。足の速さには自身があったが、流石に狼には敵いそうになかった。それが悔しいような、嬉しいような。貸してくれたワイシャツを落とさないようしっかと握り、彼女は走った。

  バシャバシャと水しぶきをあげながら、二人は住宅区を駆け抜ける。雨足は弱まることを知らない。靴が濡れ、中まで水がしみ込んでいく。ぬかるんで足元がおぼつかなくなる。

  それでも二人は止まることはなかった。傍目から見たふたりは、心なしか楽しそうだ。笑いすら、今にももれそうなほどに。

  :::

  住宅区から駆け出して数十分。ウェンディが借りていたワイシャツがぐっしょりと濡れ、水滴がたれてきそうになったころ。二人は漸く、目的の孤児院へとたどり着いた。

  玄関になだれ込むように身体を滑らせ、そのまま二人は倒れ込む。

  もう一歩も動けない。息が苦しくて仕方ない。狼はむせこみながら、なんとか肺に酸素を取り込もうと呼吸を繰り返す。

  やはり体力がないように感じる。ほぼ真反対の方向に孤児院があるとはいえ、都市を横断するだけでこうなってしまうとは。体力勝負なんて馬鹿のすることだと決めつけていたが、こうしていざという時にないと困りものだ。

  狼が自身の不甲斐なさに参っていると、ふとウェンディが肩を震わせていることに気付く。しまった、特になんの配慮も気くばせもなく走らせてしまった。目的地に辿り着くまで無我夢中だった、せめてたまに様子を伺うべきだった。

  「ウェ、ウェンディ、だい、じょうぶ、か」

  未だ息が整わないまま、狼はウェンディに声をかける。彼女はうつ伏せのまま、こちらを向く気配がない。時折「フフ」と声を漏らしている。……笑っている、のだろうか。走っている最中、気でも触れてしまったのだろうか。

  「フフ、ふ、フフフフフ」

  「ウェン、ディ?」

  「アッハハハ、もう、靴屋さんってば、フフフ、もう! 急に脱いだと思ったら、走り出しちゃって!」

  なにを笑われているのだろう。おかしなところなんて、あっただろうか。

  狼は身を起こし、ウェンディを凝視する。今だ彼女は笑い転げている。余程ツボにハマったのだろう。優秀なコメディアンでも、ここまでの爆笑を誘えるものではない。狼には不可解極まりないが。

  「おや、ウェンディ。……と、君も一緒か」

  「……ジャービス、さん」

  ウェンディの笑い声を聞きつけ、のそりとジャービスがやって来る。ジャケットこそ脱いでいるが、ワイシャツにパンツの紳士姿は変わらずだ。

  

  「君たち……もしやこの雨の中を突っ切ってきたのかい?」

  「ええ、まあ」

  「それはさぞかし大変だったろうに。いかんいかん、こうしてはいられんな。今すぐ着替えを用意しよう。それと湯を湧かす準備も」

  「そこはお気になさら」

  「なにを言うかね、キミは今半裸じゃないか。あぁこんな無茶をしてまで、私の子供を送ってくれるなんて……!」

  「いやそういうのでは」

  ジャービスは盛大に勘違いしている。いや、あながちそうでもないが、盛大に過大解釈している。ポケットからハンカチを取り出し、よよよと声を上げ感涙する始末。大げさすぎて嘘くさい。やはりここで帰ってしまおうか。

  「ああなんて素晴らしい! 己が身を[[rb:顧 > かえり]]みず、他者を救わんとするその精神。……感動した。やはりキミは素晴らしい逸材だっ」

  「はあ」

  「これは是非とも我が孤児院へ身請けするべきだと私の直感……いや、全細胞が訴えているわけだが」

  「ジャービスさん」

  「ん、なんだねウェンディ」

  

  「私ね、軒先でびしょ濡れになってる人を見て興奮するの、おかしいと思うの」

  「いやしかしいまこうして」

  「着替え、用意してほしいなぁ……。あったか〜いお湯、浸かりたいなぁ……」

  「わかった今すぐ用意しよう。この話はその後じっくり時間をかけて」

  「は や く し て ?」

  ウェンディが有無を言わずに急かしつけると、流石のジャービスも立つ瀬が無い。とても名残惜しそうに狼を見つめたあと、トボトボという擬音が聞こえそうなくらい落ち込みながら奥へと去っていった。

  少しだけ、気の毒に感じていた狼だが、不意に脇腹をつつかれて現実へと戻る。ウェンディがにこやかに笑みを浮かべている。「ね、なんとかするって言ったでしょ」そういって彼女は狼に向けウィンクをした。

  「約束。靴屋さんが泊まってくれるんだもの、ちゃんと守りますとも」

  「あ、ああ。助かったよ、ウェンディ」

  「あれが長いもんね、おじさん。場所とかわきまえないんだから、もう」

  そう言うと彼女はクスリと笑う。ジャービスの勧誘は確かにくどい。そして長い。老害さながらの迷惑さだと、狼は思っている。

  「最後には決まってウチの子にする、だからな。何度も断っているがどうも聞いちゃいない」

  「それだけ気に入られてるんだよ、靴屋さんは」

  「客としてなら喜ばしいが」

  「それって私も?」

  そうじゃないよね、とウェンディが悪戯っぽく聞き返す。そんな彼女に狼はどうかな、と返した。

  あくまでウェンディもジャービスも、仕事上の関係。そこに上も下もなく、平等に接するべきだ。そこにはリップサービスも私情も挟まない。対等な客と従事者だ。関係を深めることはいざこざを生んでしまうということだ。特別ということはあってはならない。

  関係性に踏み入ることを、狼は決してしない。たとえそれが、不幸を招いてしまっても。

  「それってどういうこと?」狼の返答にウェンディはむくれる。予想通りというべきか、いくら女性らしく振る舞おうと中身はまだ子供。認められないと頭にくるし、マウントを取ろうとするのも子供らしい証左だ。

  そのままぷっくりと黄金色の[[rb:頬 > ほお]]を[[rb:膨 > ふく]]らませ狼を睨んでいたウェンディだったが、ぷっと突然吹き出す。先程の思い出し笑いだろう、狼を指差してはクスクスと身体を震わせている。

  「そんなにかけっこが楽しかったかい」

  「ちがうって、全然ちがっはははっ」

  「……じゃあ、何が君の[[rb:琴線 > きんせん]]に触れたのかな」

  「だって、だってさあ、フフ、靴屋さん、だって」

  俺がどうしたというのだろうか。首をかしげる狼に、ウェンディは「靴屋さんって大人らしくないよね」と笑いながら返した。