大きく浮かぶ月と寒空の下で、不気味な空気を感じ取っていた。
夜が作り出す深い闇の中、月明りが地、山、天の区別を付けている。この遠方でぐるりと囲んでいる山の木々以外、空を見上げるのに邪魔なものが少ない。遮る物も余計な灯りもないこの場所は雲さえない好天であれば絶好の天体観測スポットだ。もちろん月がよく見えることでも知られている。
それだけでは人が集まる要素は少ないのか、辺りには自分以外誰もいる様子はない。いるとすればこの田畑を管理している方々だろう。その人々のものと思われる母屋がぽつりと点在している。しかし、夜中となった今では外に出てまでする事は見当たらず、母屋に閉じこもっては静かに明かりを漏らす。
規模も小さくこの一帯は「村」と名乗っている。小さな村の、建物からそこそこ離れた、見通しのいい畑の真ん中、この夜に誰も通らないような道の中にいる。ここならカメラと三脚を立てても大丈夫なようだ。
いかに他所の人が集まる要素はなく地元の人々以外は「知る人ぞ知る」、そんな場所だ。人々が余所者を排除する雰囲気ではないし旅行者に向けて特別な思いがあるわけでもないだろう。それも大多数からのスルーを招いているようだ。もっとも私がこの月を眺める「拠点」に着くまで誰にも会うことはなかった。
またここでは「月が深い赤に染まるとき、天から見下ろす巨大な狼がそれを少しずつ食んでいるだろう」という言い伝えが残る地でもあり、狼信仰もあった。その狼というもの、鼻先から整った顔、十分に強そうな体つき、格好の良いプロポーションを魅せるまさに神獣とも呼べるオーラを放っている。
その一方で牙を振るい、捕らえた獲物を「大口」と呼ばれるほど広く開いた顎で覆い隠し、獲物に関するあらゆるものをその胃袋に収め力を増す伝説を各地に残している。この恐ろしさが独り歩きしてしまった時期もあるが、狼が姿を消しどこも等しく鹿による食害を訴えた頃には恩恵にあずかっていたのに気づいただろう。
そんな狼神にちなんだものをここで見つけられるかもしれない。「暴食」という二つ名がついた危険な獣であったが、ここ50年は実にその姿を見たものはなく「絶滅した」とさえ言われる。あるとすれば史料に描かれた、あるいはそれを元にした芸術作品でその暗躍を拝むしかなかった。
出発前にその狼信仰についての資料に目をつけると、そこにはどこかの寺院で神々しく[[rb:祀 > まつ]]られている狼の姿、地の底で易々と鬼の類を狩る姿、さらに次の頁には[[rb:祠 > ほこら]]に見える巣穴で獲物だったと思われる大量の骨に囲まれて膨れたお腹を抱えながら舌なめずりをする姿……など多様な方面の[[rb:畏 > おそ]]ろしさが伺える。
人々に協力する仕草も見せる狼だが、その「暴食」は人間に対しても適用される。資料を探していると遥か昔に灰色の狼が人の子を生きたまま丸呑みにしてしまう事件があったことを見つけた。
事案の後、一晩かけて探した結果その狼を捕えることができたという。こなれが遅く間に合いそうなのか、膨れたまま形を保っている狼の腹を今すぐにでも裂いては呑み込まれた子を救い出そうとした。
実際には腹の中で溜まりに溜まっていた体液が[[rb:爆 > は]]ぜただけであとは無残にも消化が進みボロボロになったヒトの頭蓋骨と肉の一欠片、その子が身につけていた装飾品の[[rb:滓 > かす]]を残すのみとなってしまった、ということだ。匂いといいその凄惨たる雰囲気がこちらにも伝わってくる。
この当時でも狼を神聖なものとして見てきたこともあり、狼と一緒にその子を丁重に葬ったという記録も残っているが、これは何処か。
勝手な偶像とはいえ神々と同様に扱われてきた狼でもこれだけ酷く悪い影響を出してしまった。人の居住地に入り込んでしまえば駆除すべきと考えるだろう。しかし今や長きに渡り姿を見せぬ幻の存在、いくら恐ろしい姿を思い浮かべても想像の話として片付けられそうである。
やがて世代の移り変わりとともに滅多にお目にかかれないものを崇拝する者も少なくなった。希少性を増す狼信仰と月の言い伝えが交わる所――私はこの観光地に魅力を感じていた。ただ、やはりといっていい位自分の周辺にもこの地に何一つ興味持ちそうなものはいなかった。半ば一人旅になるという事は分かっていた。
そして、言い伝え通り「月が赤くなる日」がやってきた。しかもはっきりと見えるこの時を逃せば次は数十年後だ。この地を思い出してはすぐに月でも見てみようと向かっていた。現実には「皆既月食」という言葉で説明できる事象を楽しもうと、ほぼ自分だけが知っている幻の獣に小さなロマンを抱いて天を眺めるはずだった。
穏やかな村に似合いそうもない嫌な感じはまだ漂っている。近くに何一つ死角も怪しいものもない場所で不気味さが出ていた理由がわかってきた。
ここには物理的に遮るもの以外に星の明かりを邪魔する光さえも少なく、今日は冬の強い放射冷却を生むほど雲が消え失せている。これだけの好条件が揃えば月のほかに輝く星も見えているはずだった。
だがそれが一切ない。黒とまではいわないが深すぎる[[rb:蒼 > あお]]で空が塗り潰されているようだった。丁度月が見える方角では星の姿が全く確認できなかった。そこから外れるように振り返ってみるとこの田舎では普段通りに見える星空が広がっている。月のある方が不自然だ。
再び月へ目を戻すと、異様な暗闇の中でそれだけが弱々しく光を放っていた。「今日は満月」だと聞いているが月にはその様子は見当たらなく、三日月となってここを照らしている。しかも遠くからこちらを照らしているものとしてはあまりにも大きくはっきり見えた。空を見上げた時の視界から5分の1ぐらいは埋まりそうだ。よく見えるとはいえこれは近すぎないか。
明らかに空がおかしい様子である。
見当たらない原因を探しているうちに天を覆う闇から突如二つの黄色い「点」が開いた。この「点」は先ほど見た星には見えないほどの不自然に大きいのが明らかだった。月の大きさには負けるが放つ異様さは十分にあった。
急に現れた以外は微動だにしないそれによく目を凝らすと中央には黒い点が浮かんでいた。静かに過ぎる時間の中でそれは睨んでいる眼のようにも見えた。何もせずじっと向けている、張り詰めた空気が漂った。
やっと結論が出て「これは獣の目」と思うや否やその黄斑の下からゆっくりと赤い縦穴が現れた。次々と起こる怪異に怯みかけたまま見つめると、目の主は横を向いたのか月明りを犬のような鼻先で切り取っていた。
星までも覆っていた闇の正体はこれかと気づいた時にはーー
ガフン!
グシャ
ドドドドドドド
横を向いた獣はその先にあった「三日月」に食らいつき、爆発音を立ててそれを引き千切った。動きは素早く急な轟音で爆風のように自分の体を後ろへ飛ばしていった。飛ばされる前にはっきりと見えた、月を引き裂くには十分すぎる牙と顎だった。
畑が広がっている地帯でその先にはほぼ何もなく、吹き飛んだ時のケガは免れた。しかしもう少し近づいていたら音で耳が壊れたかもしれない。目の大きさもそうだが一瞬見えた口が月をすっぽりと呑み込める程からするとその獣の体躯はかなりのものだ。
私は体勢を整えて先ほどの空を見つめる。天を覆う巨大な獣によって食いちぎられた月はもはや三日月の形も留めておらず、瓦礫のような欠片を空に晒していっそう弱く地を照らしていた。
ガフガフッ
ゴリッ
三日月状から更に削られ無様な形になった月の横で、獣が派手な音を立てていた。喰い千切った月を飲み込みやすい大きさに噛み砕いているのか。この種の獣が獲物としていそうな肉とは違って固い音が口から洩れていた。重厚感すら感じる巨大すぎる顎の横から月の一部が飛び出ている。
ゴキッ
ズドォォォォン
そのまま力が入る様子を見せず顎が閉まり、月の一切れはあっけなく砕けてしまった。そこからは粘り気を含む水とともに欠片となってその下へ降り注いだ。月の大きさからすればその着地点は無事では済まないだろう。食事を楽しんでいる獣の足元でいくつか土煙が上がっていた。
こっちにも聞こえたのだから周辺の人々にも音は聞こえたかもしれない。しかし、暗くなった民家の方を見ると何一つ騒がしい様子や人々が家から飛び出る様子もなかった。
目と口と咥えられている「月」以外にはよく見えなかったが、残された月明りからは獣の口元を垂れる涎が照っていた。じゅるとも聞こえそうなそれにとっては余程月が美味しいのだろうか。
やがてドッグフードを食べているかの如く獣はぐしゃぐしゃと口の中に残っている「月」を嚙み砕き、涎と混ざり合ったような湿っぽい音を立てていた。そんな頃合いを見て、獣は臆することもなく上を向くと
ゴクリ
とその塊を喉に流した。残った小さな明かりでもその膨らみがゆっくりと下に運ばれて生々しく腹に吸収されるのが見えてしまった。鼻先から桃色の柱が出てはゆっくりと撫でる。これもじゅるりとでも聞こえそうな動きだ。
「そんなことは起こるはずがない……」
言い伝えとなっている巨大な狼が現れてしまったのか。この地からはるか遠くにある月を実際に食らってみせたのか。その通りであればさっき見た「三日月」は狼が一口喰った後か。そんな食事中に私が迷い込んでしまったのか。
狼のことを単なるおとぎ話として楽しもうとはした。大人しく拘束させる鎖も鉄格子も纏わず現れ、そのおとぎ話のように空に浮かぶ月を喰いちぎり、そして足元で派手な災いを生む、その行動が身に降りかかると身の危険を感じてそれどころではなかった。
もはや怪獣の襲来というよりすぐ近くで大規模な災害が起きている悪夢を目の当たりにし、早まる心拍が危機感を煽り立てる。はるか遠くに見える狼の方はまだ月を[[rb:貪 > むさぼ]]るのに夢中で気づいていないように見えた。私は一刻も早く、かつ余計な刺激を狼に与えないよう後ずさりしようとした。
「足りない」
一人しかいないはずのこの場で話しかけられた。横を向いていた巨眼が二つに戻りこちらを睨みつける。それがだんだん細くなり鋭さも放っている。口元には月だったものの欠片がこびりついていたが、横から飛び出て鼻先を撫でる舌を見ると食事は終わったようだった。
声の主は誰なのか。薄々勘づいてはいる、けど認めたくはなかった。睨みつけている眼から気づかれないようにあたりを見回しても誰もいない。
「もっと寄越せ」
明らかに目の前の闇を作っている巨狼が声を発していた。月を食らったように大きくは開けてはいないものの二つの眼の下には赤い穴がわずかに覗いていた。声と動きが同期していることから声の主は明らかだった。しまいには狼が喋るのか。グルルルと唸り声も聞こえたような気がした。
話す言葉が出てこないまま狼が桃色の柱を出し、もう一度舌なめずりをした時には、こちらのことを餌と見ているような気もした。どうしよう、下手に話すと襲われる。何もできない。
「どうせ狼からは小さすぎて見えていない…聞こえないふりをして退こう」
この巨獣の腹を満たすものなど何も用意できない。月をも腹へ収めたのに他に何があろうか。仮に私を食べようとしても巨大な体に似合わないほどの小ささ、捕まえるのは難しい。そう考えていた。
グアアァァァァッ
気づかれないように後ずさりを続けると目の前の狼は怒ったように縦穴を激しく大きく広げた。「かつて見た」月食中の月と比べると鮮やかで深い血のような赤、黄ばみながらずらりと並んだ大きな歯、その中央に鎮座する暗い桃色の平たい舌……が見えた時には突風とともに多数の水しぶきがこちらに降りかかった。空気に触れ獣臭さを発した水からは、狼が勢いよく口を開けて飛び出た涎だと嫌でも分からされた。
突風と涎に紛れて口に付着していた月だったものの破片が飛散してこなかったのは良かった。それどころではない、しびれを切らした狼が前足を出してこちらに向かってくる。食事中とは違いあれ程の巨体を音も立てずに動かしている。完全に自分が巨狼の「狩りの対象」となり、こそこそと後ずさりする体勢から全力でこの場から逃げようと地を蹴って駆け始めた。
ビチャッ
数歩進まぬ内に粘音に包まれ目の前が真っ暗になった。[[rb:辺鄙 > へんぴ]]なこの場には到底ないだろうと思われる柔らかいものに全身を突っ込んでは沈む。全身に抵抗を感じ先へ進めなくなる。壁のように塞がるそれから先ほどの獣臭さが鼻を突き刺すまで時間がかからなかった。それ以上に強烈な浮遊感と反対方向へ戻される力を感じた。
しっかりと芯を持ち、身動きが取れないようなGを生み出している原因を顔から払いのけて振り返ると、そこには大きな口を開けた狼。既に狼に追いつかれていて、犬が水を舐めるようにこちらのことを舌で掬っては捕らえていたのだ。あの「ペロッ」と水を掬うのは一瞬。器用なこともできるとはあり得ないと考える間もなく、狼の口がいっそう鮮やかに、何もかもを呑み込んで巨体の深くへ沈めるような喉奥が見えた時には――
バクン
と音を立ててその中に囚われてしまった。
闇を司るような暗い色をした狼。そうでなくても光が僅かしか入らない口の中はほとんど闇に包まれていた。唯一光が刺す方は大きなうねりを立てて動く壁と不規則なギザギザに切り取られた「絶景」が見える。目の前で取り囲んでいるのは舌と牙だろう。田舎でぽつりと輝いている母屋の明かりが物惜しそうにも覗いている。いきなり自分が穏やかな日常から連れ去られたようでもあった。
口が閉まる寸前、目の前が真っ暗になりどこまで飛ばされたかわからなかった。狼の大きさを考えるにその「絶景」まではかなり先の方まで追いやられてしまったようだ。そもそも捕食された時強烈な浮遊感を生んだように相当な高さまで運ばれてしまった。ここから外に出るとしても安全に地上へ降りる手段がない。
投げ飛ばされるような強烈な引力で口の中に入り、即真っ暗になった。この過程でどうなるかすらもわからなかった。この勢いで眼の前にそびえる硬い牙にでも当たってしまえばただでは済まなかっただろう。
ここまで考えることができたのは狼が大人しかったのか。月とは別の[[rb:矮小 > わいしょう]]な生き物の喰らい方もわかっているのか。舌に感じる小さな刺激をもとにこちらが変な動きをしないか見張っているのか。舌で舐め続けることも重厚な顎で潰すこともなく、巨大な舌のうねりを一回起こしただけであとはハッハッと小刻みに舌を上下させている。犬で考えると可愛らしい仕草が天を呑む巨狼の口の中では大きな揺れにつながる。
かすかに入る光がこちらを照らしたとき、大木のような歯がちらりと輝いた。獲物をすりつぶすのではなく引き裂くような形をしたそれはあまりにも大きすぎて「噛み砕かれる」のを想像しなかった。それよりこの狼が大きく動いたりでもしたら、大地とも思える舌の端から転げ落ちたら……光の届かぬ口の奥底で訳もわからぬまま涎溜まりに溺れながら苦しみ逝く姿が浮かんだ。
ここにいるだけでも巨舌の振動と上にいる自身の重力で涎が噴き出るのを促しているようだ。獣臭い水が足元から一気に吹き出て覆われてしまう。
ぐちゃっ
脱出の機会を伺おうと踏み出した瞬間、揺れと同期して勢いよく転んでしまった。全身で倒れこむのを優しく、涎をにじませながら受け止める柔らかい筋肉。今ので狼により自分の味を伝えてしまったのかもしれない。
体中がややぬめっとした涎に包まれ「食事」が進んでしまったと感じた。なにより体に染みついた獣臭さが自分を狼の所有物に仕立て上げてゆく。防寒のために着込んだ上着が涎を吸い余計に纏わり付いてくる。脱いでしまいたいが、体温の高い狼の口とはいえ冬の中。悪臭を放つ防寒着でも身から離すのは[[rb:躊躇 > とまど]]った。
そこで地面が大きく傾いた。涎を含み滑りがよくなった状態で勢いよく傾いた方向に流れ込む。その先は真っ暗、ということは……
狼は口で十分に私のことを味わった。己の巨躯に比べてはるかに小さく扱いづらい獲物をどう胃袋に落とすかもわかっているようだ。舌が広すぎるのか、小さな動きも巨大な揺さぶりとなって獲物を襲ったのか、丸呑みにするまで獲物が舌の上から逃げられないのもわかっていた。
「行方不明」の原因を作らないためむやみに舌や顎で弄ろうとせず、天を仰いでは涎のぬめり気と獲物に付きまとう重力で自らの奈落の底へ滑り落した。そこまでして小さな獲物も逃したくなかったのか。狼が意図して涎を出さずとも喉へ滑り落ちる獲物の重みだけで十分に染み出る。喉元を過ぎるころには私は「涎と一緒に吞み込む」ぐらいの涎に包まれていた。
矮小すぎて「ごくん」とも音を立ててはくれないようだ。喉元にできた小さな隙間にぶつかることなく狼の奥深くまで呑まれていった。
圧倒的な体格差はそれは喉を過ぎて胃袋へ続く「食道」でも同じく思い知らされた。吞み込んだ塊を奥へ送り届ける蠕動を起こすまでもなく一直線にできた滑らかな急坂を滑り降りる。口とは違い一切の光も許さない狼の中で、摩擦というものを感じさせないように粘液を勢いく散らしながら奥底へ加速していった。これだけでも酷い恐怖に襲われた。
「このまま終点の壁に叩きつけられる」
ここで終わりを覚悟した。この速さで食道の終わり、胃の入り口に着けばそれに激突、この身は即座に潰れて門のシミになるだろう。あと少しすれば激しい痛みが一瞬来て楽になれる……
べしべしべしべしっ
すぐそこまで迫った死の瞬間に備える間もなくいくつかの粘壁が襲いかかってきた。それは激しく体に打ち付けるが致死に至る前には千切れて滑りをゆっくりにしていく抵抗にしかならなかった。狼が巨大すぎるのか食道内で糸を引いている粘液でさえも柔らかい壁となった。ここで終わりが来なかったのは幸いか不幸か。終点に差し掛かってもその先はわずかに隙間ができていた。激しい酸の香りが鼻を突き刺した。
何一つ消化管の動きに促されぬまま終点へ落ちる寸前、つなぎ目とも言える僅かな窪みに留まることができた。せめてこの後の行動を考える時間でも作りたい。しかし、ぬめり気と重力がそれを許さずじわじわとその終点へ滑り出し、とうとう落ちてしまった。
グジュルルルルルゥ
終点からつながる所ははるか大きく、ほぼ直角ともいえる崖になっていた。本能的に側壁へしがみついて落ちる速度を緩めようとする。掻き分けるように手が粘液にまみれてもお構いなしだ。こうして壁の粘液を集めながらとも言える体勢で滑り落ちると、壁が湾曲して滑らかにつながっている地面へ勢いよく飛び出した。
ずじゅるるるるるるぅっ
ビチャッ
これ以上の制御が利かないまま激しい粘音を立てて、その先へ小さくできた壁に体を打ち付けるとようやく止まることができた。多少柔らかかったとはいえ筋の入っている壁のようでしばらくは動けないほどのダメージが残った。衝撃で胸でも揺さぶられたのか変な咳がいくつか出てしまった。
やっと立ち上がることができ自分が落ちた場所を確認すると両脇には大きな溝ができていた。この先は真っ暗で落ちてしまうと、狭く深い溝から二度と出られぬまま終わりを迎えるだろう。
目の前に大きく広がり天を覆う気色の悪い赤壁からは狼の胃袋に入ったと嫌でも察したが、壁や溝がくっきり見える程度にぼんやり明るくなっていた。先ほどの恐怖を与えた「スライダー」の終点が見えたのも、側壁にしがみついて落下を緩めることができたのもこの明かりのせいだろう。
しかし、前方で遮る肉壁の山を登り明るくなった原因を目の当たりにして戦慄した。見晴らしがよいほど壮大であったがその随所から炎が上がりまるで地獄のようだった。月のほかに可燃性の何かでも喰ったのか、遠方が霞む腹の中でその何かが燃え続けていた。そして目の前に広がる湖、その中で浮かぶ山のふもとからは煙が上がっていた。そこをよく見ると元々が月だったと思わせる岩石が延々と積みあがっていて、湖と接しているところで「ジュゥゥゥゥゥ」と音を立てて煙が上がっていた。
本当に月が巨狼の胃の腑に収まっていた。溜まっていた狼の胃液が煙を出してまで強引に月を溶かしていたのだ。溶けながらゆっくりと沈んでいきそうな「山」の周りでは、人のように見える骸が同じく泡と煙を出して溶けていた。流れるように漂っているそれはやがて完全に溶けたのか小さな水柱を立てて湖の中に沈んでゆくものもあった。一度見れば忘れはしない。苦悶の表情でもあげているような頭蓋骨が水柱とともに[[rb:泡 > あぶく]]へ変わる瞬間を。
よく見ると村の建物だった残骸ももくもくと煙を上げながら湖に散らばっては小さな泡に変わってゆく。骸とは違い溶け方がゆっくりに見えるのも肉食獣の胃であるように感じた。前菜に村の一部でも食べたのだろうか。木材と鉄でできた農具や母屋のものであろう屋根の一部、これらが湖の中で細かく泡に包まれていた。狼が月を破壊した直後にこの村が一切の反応を見せなかった原因もこれかもしれない……。
飼っていたものの牛馬もこの通り。人間と違いまだ体を保っていたようだ。狼の大きさから五体満足で丸呑みにされたにも関わらず、胃酸がかかったところから獣にでも食い荒らされたかのように骨を晒しては赤黒く臓物を散らしていた。真新しいとも言えるピンとした、消化の進んでいない部位に上から雫が垂れると、新たに煙を生み出しては無慈悲に穴を開けていた。群がる蝿までも泡にされたのか、静かにシュゥゥゥと物が溶ける音以外は聞こえない不気味ささえ放っていた。氷河が割れるかのように牛の体から脆くなった肉片が千切れ、湖の流れに沿ってゆく。
生ける者さえも無惨に溶かしてしまう胃酸さえなければここで牧場を開いても十二分に足りるほどの広さで、巨狼の圧倒的な消化を見せつけられて絶望していた。
月をも喰らう巨狼の食欲を、他に大規模な食事をする生き物のように胃が分かれるなどの賢さを持たない豪快で広大な胃袋とこれだけ苛烈な胃酸で支えているのだ。きっとここは仮の世界、ここで身も心も溶かし尽くされた先でみんなが待っている。そう思えるほど酷い有様だ。
もう見たくはない、そう思っていても物理的に遠ざける圧を感じた。大量の胃酸でできた湖から酸っぱい気が目や鼻を攻撃してくる。煙に巻かれただけでも十分に消化が進みそうだ。
赤い空、炎を上げる大地、グロテスクに積み重なった骸。あとは有毒さを感じるガスを放ちながら一面に広がる胃酸の湖が熱を放つマグマに変わって、鬼でもいれば想像する地獄と瓜二つだろう。もっとも、それを欠いたとしてもここが生者には地獄そのものなのは変わりがない。地獄の主にでも居座るように屈強な鬼もこの胃袋の中では骨も残してくれないだろう。ここでは主である狼が他の生を許さぬほど圧倒的に強い。これ以上深く想像するのはやめた。消化で生んだガスのもとからは離れていてもその存在がしっかりと鼻につく。
思い出したように側壁へ突き立てた両腕が激しくただれ突き刺すような痛みを伝える。とっくのとうに手袋は溶け失せていた。此奴らと同じように溶かし尽くされるのも時間の問題だ。自分の重力で刺激された「地面」からも小さく煙が上がる。湖に覆われていなくても胃の壁でできたこの大地には関係なしに強酸が噴き出る。
寒さには耐えるが魔獣討伐にでも行く気ではなかった自身の装備はあまりにも軽い。時折天から降ってきて襲いかかる雫にでも当たるだけで相当な傷を残しそうだ。煙の上がった足元を再び見ると履いていた靴がボロボロになって、赤くなりはじめた生足の端を晒していた。おぞましい消化液だ。
私を腹の中に閉じ込めた後も狼は大人しかった。そのためか胃の中の揺れが少なかった。壁だけではなく地面もぬめり気のある粘液に覆われ「滑落」を誘う嫌らしい場所でもあったが、それでも身動きは取れた。
粘液ーー胃の壁を強酸から守るとも言われており、私と同じく肉食獣の胃袋に収まる羽目になった者が溶かされる前にそれを体に塗りつけて生き延びた話もあった。でも今や胃が食べ物を察知してから時間がかなり経った。壁から胃酸が噴き出ているのは見てのとおり、この[[rb:寓話 > ぐうわ]]のマネをすれば体に付いた酸をコーティングで閉じ込め長い間身を蝕んで苦しめるだろう。もはやこの粘液は巨獣の消化活動から逃れようとするのに障害でしかない。
その邪魔者に足を滑らせないよう、踏み出すときには余計な力をかけないように慎重に歩いた。その中で天から、地から物を泡に変えるようなおぞましい音を立てては私を焦らせる。
ジウュッ
とうとう雫が体に当たってしまった。粘液の混じらぬほぼ純粋な狼の胃液。左腕の装備を縦一直線に切り裂いて皮膚をも破った。血がにじみ腕をへし折りそうな痛みに変わっては悶えそうになる。悶えれば悶えるほど滑落の可能性が高まる。顔をより歪めながら大きく動かないように耐えた。少し進むと湖に入っていない比較的安全な瓦礫を見つけることができ、その上に乗った。胃壁よりかは粘液に覆われていない分姿勢が安定した。時折粘ついている部分も見当たるため油断できない。
湖が中の物を溶解させるその場から離れると巨狼の体を支える心音が微かにトクン……トクン……と繰り返していた。はるか先で発するこれの他に一切の音が聞こえない様子から体を動かして巣穴にでも帰ろうとすらしなかったようである。優しさと力強さを兼ねたこの音にうっとりしそうになった。大人しいままここから矢でも射って心臓を止めてやろうか。その武器も持ち合わせていない上この程度では致命傷を与えることもできない巨大さで再び心が折れ始める。
しかし次の動きが安静を許さない。壁の波打ちが少しずつ激しくなっていた。狼がここで身を隠し獲物の消化にでも専念しているようでもあった。これに伴い噴き出る胃酸の量も増してきた。胃壁でできた床は当然積み上がった瓦礫にも牙を向き、足元の底、瓦礫の底からはジュウジュウと煙を立てている。火山地帯から上がるガスのように見えた。それでも遠く離れた湖の上で派手に煙を纏っている向こうの瓦礫より溶け方がゆっくりだと直感でわかる。
しずくというより小雨のように天から降り始めた胃酸を凌ぐ場所も見つけた。分厚いとは言えない天井にはところどころ穴ができ頼りない感じもした。しかしあまり深く潜りすぎると消化で崩落し身動きがとれないまま終わってしまいそうだ。時間稼ぎにはなったがまだこの一面に広がる地獄から抜け出す[[rb:術 > すべ]]を見つけていない。
目の前に広がる赤壁はゆらゆらと波打っては溶解液をにじませるように噴き出していた。小雨に混じり頭上から垂れた大きな雫が髪をかすめ足元の瓦礫に深穴を開けた時には勢いよく仰け反り落ちそうになる。
食物をかき混ぜるために胃袋全体が大きく縮んだりでもしたら一巻の終わりだ。そんな嫌な想像をしている間に鋭い閃光が刺した。刹那に目の前できのこ雲が現れたときには遅かった。消化で噴出したガスに激しく引火したのか、それとも胃袋の底で爆発物が眠っていたのか。爆風は自分を守ってくれるはずだった瓦礫をも吹き飛ばし見えない力で後ろへ叩きつける。
ゲフゥゥゥゥゥゥゥッ
遥か向こうの壁に勢いよく押し付けられ焦点が定まらない眼の前で火柱が龍のように天へ登る。その炎龍は私に襲いかかることもなく一直線にその先へあった小さな洞穴に吸い込まれ、激しい重低音がこの地を揺らす。巨狼のゲップからは炎が出てたかもしれない。これだけの爆発にもわずかに壁を押し広げる程度で耐えてゲップに変えた。改めてその胃袋の大きさを思い知らされる。
湖に落とされなかったのはまたも幸いか不幸か。爆発は腹の底に埋もれていた瓦礫をも粉砕し、そのかけらが自分を切り裂いた。胃液にそれほど浸っていない部分までも傷や流血で覆われボロボロになった。立ち上がろうとしても体が拒む。もう力が入らない、自分の内でその障害でも取り除けば今度は切り傷から発する痛みが襲ってくる。満身創痍にも近いダメージを負い「爆風と一緒に命でも吹き飛べばよかった」と僅かに思いはじめる。
ジュッ
グチュグチュグチャア……
それほどの威力を持ってしても破片は壁に突き刺さると一瞬で煙に変わった。押し広げる抵抗に反応していよいよ本格的に中のものを溶かし尽くそうとしたのか、胃袋が縮みはじめた。わずか後ろで収縮に巻き込まれた瓦礫が激しく砕けては壁と一緒に私を中央の湖へ追いやる。まるで湖がおいでおいでと手招きしているようだ。その結末を知っている私は湖から離れるように収縮から逃げ始めた。
壁のうねりは小さな胃液溜まりも巻き込んでは砕けたものをヌルヌルへと変える。月やら建物の残骸やら溶かし損なった骸やら……隣でそれらが脇の湖へ放り出されると等しく煙を上げてはジュウジュウ消えていった。命からがらとも言える体制で逃げ這うのも限界が迫り、寸前で自分を呑み込もうとした壁と内容物から逃れるため体を起こそうとしたとき終わりがやってきた。
ボチャン
「えっ」
一瞬の戸惑いの後、嫌悪していた湖の感触がした時には「足を踏み外して落ちてしまった」と悟った。どうしてそこに湖があったのか考える由もない。
ジュワアアアアアアアアッ
あがあああああああああっ
バシャバシャッ
そこに待ってましたとばかりに周りから激しい泡、煙、音を出して胃酸ががっつき始めた。胃の収縮で波打った結果それはさらに体へ覆い被さる。生きている獲物にありつけたのが嬉しいのかこれまでで一番多く煙を生み出した。目の前が煙で見えないほど消化が激しかったようだ。自分に関するありとあらゆるものを煙と泡に変えようとする勢いだった。
があああ……っ……
辛うじて残ったように思える身体に浮力がついた頃には全身を襲う激痛で思わず声が出てしまう。仰向けで湖面に浮かばされたかのようだった。まだ光が見えるものの視界が定まらない。赤色がゆらゆらしている。やってくる液体を反射的に払いのけようとするも、一面にわたり広がる胃酸の湖に落ちた状況ではさらに悪化させた。その動きだけで液体を体に振りかけている様子でもあった。
その溶解力は私にとっても同じく強力で傷口から大胆に肉を掻き出しては骨が出てきた。沁みるのではなく傷を広げ切り裂いてはその口を悪戯にかき回している。先程の爆発で切り刻まれたその身体は幾分と消化に優しくなったようだ。
また液体を派手に散らすような真似をしたくない。それどころか下手に体を動かすと千切れそうだ。もはや体を動かせるだけの体力も残っていない。今の私はどうなってるのか、まるでゾンビかのように激しく熟れてきたのか。
やがて音や泡が落ち着いてきた頃でも全身くまなく針で突き刺したような痛みに包まれている。それを耐えながら浮かぶだけで精いっぱいだ。ジュルジュルと自分を溶かす音が耳元を舐める中、消化はさらに進み手足を骨ごと失い、胴の方も骸骨の化け物に変化させられるかの如く肉が消えていく。
一気に諦めに包まれるとぷかぷかと浮かぶ心地よさすら感じられる。こうしているうちに突如痛みが取れ急激な寒気が回ってきた。この身を喰らい尽くした湖でさえ今までの苦痛を労うかのように優しく包み込んでいた。
「狼…さ……ま…………」
この地獄の主である闇色の巨体に沈むかのように視界がどんどん暗くなる中、[[rb:畏怖 > いふ]]の念を抱いていたその獣の姿を思い浮かべる。
月夜の中で輝くそれは優しい顔をして、大きな体をしつつも小さな私をしっかりモフモフと受け止め、一足駆ければ一緒に連れていってくれる……。
チャプ……
小さな水柱とともに意識が深い闇に吞まれた。まわりを見ても私が落ちたことを感じるには難く、胃酸の大海原に小さく広がる黒粥となってゆっくりと狼に馴染んでいった。
もちろん矮小な獲物が腹の中で消えたとしても外側から見れば全く変化を見せない。寝息を立てた巨狼のお腹は呼吸に合わせて小刻みに収縮していた。黒粥もろとも消化物の濁流を腹の中でこねくり回しているときには分厚い肉を隔ててチョロチョロと子気味の良い音を立てている。
この幸せそうな狼はどこにいるのか。
信仰の残る村を訪ねてもその姿を見たという者はいない――