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夢追行
初めて衝撃を受けたその瞬間を、今も憶えている。
子供の頃に立ち寄った駅のホームでできていた、人だかり。いつもと変わらない風景の様で、だけどそこには屯する人が居て。そして人の垣根の
向こう側から、鮮やかに、そして朗々と響き渡る歌声。
子供だった俺は、その音に惹かれ歩みを止めた。
雑音だらけの街並みと人込み。だけどその歌声と、そして一本のギターの旋律はそれらを軽々と飛び越えて。俺の頭上に、耳に、飛び込んできた。
歌っている人がどこの誰なのか、どんな姿をしているのかもわからないのに、二つの音は俺の心を捉えて、離さずに足を縛り付けて。その音が止むまで、
俺も、そして周りの人もじっとそれに聞き入っている。
音が止んだ。
途端、雑音が戻ってくる。更に少しの間をおいての喝采。現実に引き戻される感覚に、俺は戸惑った。そこにある音を発しているその人と、そして
それをただ聞いている俺の二人だけの世界から、現実へと帰ってくる。
なんなんだろう。今の感覚は。
小さな俺には、よくわからなかった。ただ、そんな凄い音を出している人が、俺と同じ一人の人だという事実ばかりを知らされた。
人だかりが、徐々に疎らになってゆく。それでお開きなんだろう。音を出していた人ももうその場を去ろうとしていたのか、俺の目には去り行くその
後ろ姿だけが見えていた。
それから数年が経った。高校を卒業した俺は、あの時の衝撃と感動を忘れられずに。ギターを手に取っては、あの時の、あの人と同じようになりたくて、
ストリートライブに打ち込んでいた。
親からは、特に親父からはかなり反対された。滅茶苦茶反対された。そもそも、大学に行かせたかった息子が進学せずにバイトしながらライブ
してるなんて現実、受け入れられるはずがなかった。程なくして俺は家を飛び出して、ストリートミュージシャンになった。
生活は苦しかった。だけど、充実していた。あの時あの場所のあの人の様には、きっと歌えていない。その証拠に、俺がライブをしても、集まる人の
数はたかが知れていた。まったく集まらない、なんてことはさすがになかったけれど。だけどあの時の光景には、何もかもが程遠い。集まる人も、
その場に響き渡る音も。
そういう生活をしている内に、少しずつ、少しずつ。自分の心が疲れてきているのを感じていた。
真心を籠めて歌っている。と、思う。
それだからこそ、結果が出せない現実に俺は焦っていた。一年経って、二年が経つ頃には、俺は現実の厳しさを思い知らされていた。曲を作るのは、
楽しい。歌うのも、楽しい。だけどそれだけで、現実の生活の苦しさを忘れられるなんて事はなかった。本当にそれが好きな人だったら、それを
忘れられるだろうと思っていた。事実一年目の俺はそうだったと思う。だけどそれがずっと続けば、それは芽が出ない事への苛立ち、将来への不安へと
変換されて我が身に降りかかる。真心を籠めているからこそ、そうして出来あがったものを披露して、それに気づいた誰かが素通りしてゆく度に、
傷ついてゆく。自分ではよくできたと思っていたはずの物に大した価値なんてないのだと教えられる。他人からの評価に己の自信が塗り替えられては、
自分自身の目にもこれは本当によくできたものだったのかと疑問が湧き出てくる。それが、消えてくれない。拭えそうにない。
苦しい。
ほんの一握り。残った人だけがくれる温かな言葉とわずかばかりの金銭は心地よく。けれど将来の不安を払拭してくれるには至らない。その一握り
さえもなかったのなら、すべてを諦めてただのアルバイターになるなり、親元へ戻って土下座する事だってできただろうに。自分で描いた夢を肯定
してくれる小さな声が、快くて離れられずに。そしてまた、未来への漠然とした不安に苛まれては逃げる様に曲を作り、歌う。
ああ、こんなに辛い事だったのか。そう気づかされた。あの時あの場所で歌っていたあの人は、俺と似たような奴らの屍を乗り越えて、それでも
足を止めずに進んだ凄い人だったのか。嫌でも理解させられた。そしてまた、あの時の感動ばかりが胸に思い起こされる。これもまた、忘れてしまえ
たら、楽になれたのにと自嘲を伴って。
そしてまた、歌う事を繰り返す。そんな日々をただ繰り返して、いつかどうしようもなくなった頃に俺の人生は終わるのかも知れないと、漠然とした
予感を抱えて。
だけどその日は、少しだけ違っていた。いつもの様に歌って、いつもの様にまあそこそこといった程度の反応があって。それで終わると思っていた。
大きな拍手の音が聞こえた。
いつもの様に演奏を終えた俺の耳に届いたその音に、俺は思わず震えた。一瞬、他に演奏している奴が居て、同じタイミングで終わったのかと
思った。そんな大げさなリアクション、今時の人は中々取らない。いや、俺がとらせられないだけだ。俺の力不足なんだ。
なのに。
音のする方へと顔を上げて瞳に映ったのは、一人の白熊の男だった。野暮ったい服を着た、ずんぐりとした感じの。言っちゃなんだが冴えない感じの。
だけどその人は、満面の笑みを浮かべて、俺を見つめて拍手をしてくれていた。
「とても素敵な歌でした。ありがとうございました」
そう口にする、男。周囲の人が。あんまりにも拍手の音が大きかったからか、俺の歌を聴いていた人も、そうではない通行人の人達も、その人の
事をなんだこいつと、白い目で見つめていた。その瞬間、俺はどうしようもなく顔がかっと熱くなるのを感じた。俺の演奏を聴いていた人でさえ、
そんなオーバーなリアクションするのかよって思ってたんだろう。男に白い目を向ける奴らを、全員ぶっ飛ばしてやりたくなった。同時に、申し訳ない
気持ちになった。
「あ、ありがとうございます……」
拍手を終えると、男は懐から取り出したお札を俺がおいていた籠の中に入れてから、またにこりと笑って。
「いつもこの辺りで歌ってますよね」
「えっ……、はい」
「僕、時々通りかかってて。今日はちょっと早くきたから、最初から聞けました。感動した……っていったら、安易な言い方だけど。でも、歌も
ギターも、それから歌っているあなた自身も、とても恰好良かったです」
「えっ、う……あ……どうも……」
瞬間的に俺の語彙力が損なわれる。こんな風に褒められる事に慣れていないし、その上で目の前の人があんまりにもすらすらとそういう言葉を口に
するものだから、思わずどういう人なんだろうとそっちに意識が持っていかれてしまう。それから、とてもむず痒かった。俺の人生でこんなに
褒められる日なんて、これまでもこれからももうないだろうなって感じてしまうくらいに。
「あ、変なこと言ってごめんなさい。素敵な演奏だったって、言えたらそれでいいのに。邪魔しちゃって。それじゃ僕、もう行かなくちゃいけないので」
「……ありがとう、ございました……」
「夢を大切にしてくださいね」
去り際に、そんな事を口にして男は去っていった。しばらくの間、俺はその背をぼーっと見つめていた。結局その後は、一応演奏にきたのだから
演奏はしていたのだけど、なんだか上の空という感じだった。家に戻って、おざなりな食事と身支度を済ませて横になっても、あの男の事が頭から
離れなかった。
どうしてそうなるのか。それは、男から発せられた言葉のどれ一つとっても、俺の胸に引っかかる様な物ばかりだったから。
真心を籠めて曲を作って唄っても、上手くいかない。上手くいかない度に摩耗してゆく自分自身。自分をすり減らして、すり減らして、そのうちに
無くなってしまうのではないかという気分だった。たまにある僅かな賞賛は、日照り続きの大地に小雨が降るかの様だった。
そんなところに突然、惜しみのないあの男の言葉と、身振りと、表情と。そしてきっと、真心と。
涙が出てきた。ずっと堪えていた物を溢れさせたのは、辛い現実よりも、欲しいと思っても得られなかった、あの日あの時あの場所で歌っていた人が
得ていたものだった。
同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。あの時は、周りの皆が喝采を送っていた。誰かが手を叩いても声を上げても、周りの
人達はそれを不思議がる事もなかった。通行人でさえ、人だかりを見てそんなに凄い人が居るんだと思っては通っていたはずだ。それなのに、俺と
きたら。そんな風に声を上げてくれたあの男が白い目で見られるような環境しか作れなかった。あまりにも情けない。申し訳ない。あの男だって、
きっと気づいていたはずだ。自分がそういう風に周りから見られてしまっているって。それでも俺に、まっすぐな言葉を伝えては去っていった。
「夢を大切にしてくださいね」
あの言葉が蘇る。夢を諦めるな。そういう言い方だったら、また違った受け止め方をしたと思う。大切にするって、どういう事なんだろう。
泣きながら、それでも俺はまた明日から歌を頑張ろうと決意をした。
そして、そんな決意からも二年近くが経過した。
あの日から、俺は時間がある時にはストリートライブを行い、音楽活動に打ち込んでいた。
俺を心から応援してくれた人が、せめて白い目で見られないくらいになりたい。
原動力は、それだった。俺のふがいなさで、俺を応援する人にまで冷めた視線が向けられている。思い知らされたその事実が一番辛く、そして俺を
動かす力になった。乾くのも傷つくのも、もう慣れてしまった。自分自身の事で、自分自身で完結できる事だったから。
だけど、自分以外の。あんな言葉をかけてくれた人にまでそれが及ぶのだけは我慢ならなかった。
我武者羅に歌い続けた。時々、あの言葉をかけてくれた男の姿を見た。目が合うと、軽く手を振ってくれる。けれど、あの日の様に声を掛けて
くれる事はない。そんなにあの日の俺は崩れ落ちそうだったかなと照れ臭くなる。
歌って、唄って。
「私、こういう物なのですが……」
ある時、そんな風に声を掛けられた。それは夢にまで見た、スカウトの話だった。
アマチュアを卒業してプロになった俺は、一躍時の人に、とまではさすがにいかなかったけれど。売り出し方から何から考えてやる事で、今まで
とはまた違う世界を見ていた。ライブをするだけの状況から、タイアップなど、企業の話にも混ざるようになったし、俺自身の売り方を、一緒に
考えてくれる人達にも会えた。
一つだけ残念なのは、勝負をする場所が変わって、ストリートライブができなくなった事だ。どちらかといえばライブ会場などで歌う方が増えた。
前座で歌う事もあるし、最近はまた少し知名度も上がってメインで歌うようにもなってきた。それでも大物ミュージシャンだなんて口が裂けても
言えないけれど。確かにあの頃より、俺の歌を認めてくれる人達が増えた。
ただ、場所が変わったから……。あの男の姿を見る事はなくなってしまった。
そういう事の繰り返しで、俺は自信をつけていった。夢だった、プロとしてのミュージシャン。いまだ足場は盤石とは程遠いが、それでもそれで
飯を食う事もできた。バイトの片手間に歌う、なんていう状態から抜け出せただけでも、はっきりとした進歩だと思う。
「タイアップ? またできるんすか? しかも、アニメの!?」
そんなところに舞い込んだ案件に、俺は上機嫌だった。最近は小中規模程度の物につくテーマ曲などに、俺みたいな駆け出しのミュージシャンって
のは起用されやすい。大物をもってくるよりかは安く済むっていう話もあるけれど、俺の方からしてもそういうところから爆発的に売れたりする奴も
居る。そういう場合、変に強いイメージがついてしまうと一発屋になりやすいとも言われたりするが……俺としては、一発屋として一発あてただけ
でも充分に凄いと思う。一発すら当てらないで消えてゆく奴だってザラに居るのだから。
俺の反応を見て、マネージャーになった男は少し安堵した様に微笑んでくれる。マネージャーといっても俺専属という訳ではない。同じ会社に
所属するミュージシャンの複数人をまとめて管理してくれる。ここから一対一になるのが、ある意味では次の目標と言えなくもない。そこまで行くと、
歌以外の活動をしても売れる様な逸材って奴になってゆく。もっともストイックに楽曲だけを制作し、露出が少ないミュージシャンも中には居て、
そちらはライブでもしない限りは専属マネージャーも必要としない場合もあるらしいけれど。俺としてはそれも憧れるけど、果たして最終的に俺自身が
どこに収まるのかは、誰にもわからないところだ。
「そのうえで、先方はどうもキョウヤさん。あなたを指名したみたいなんです」
「えっ。俺?」
なんで? と俺はぽかんと口を開けてしまう。嬉しさよりも驚きが勝る。一応プロになったとはいえ、まだまだ駆け出しの身。安く使えるリストか
何かの中から適当に選んだこいつでいいやと、そういう扱いだって仕方がない。それともこの間のタイアップを見てこれだと思った、とかだろうか。
「えっと……ですね。その。そうそう言い忘れてました。タイアップしたいっていう作者さんからのご指名で。それで、その。これがタイアップを
お願いされてる作品なんですが」
どうしてだろうと思い悩んでいると、不意に担当が凄まじい歯切れの悪さを発揮して、資料を提出してくれる。それを受け取って視線を落とした
俺は、担当が困った顔をしている理由を一瞬で察する。
「……はぁ? ホモ?」
大事な客。しかも俺をご指名。そんなありがたみを吹っ飛ばすには、それは充分すぎるくらいに衝撃的だった。俺の目に映るのは、なんか
ファンタジーな恰好したアニメ絵の男二人。まあそれはまだいい。深夜アニメっぽいそれも、ファンタジーっぽい部分も、まあありがちだし、
そういうのとタイアップする新人ミュージシャン。それもそこまで珍しくもない。むしろ上から下まで打倒の塊。
"異世界に転生した俺(と彼)の(恋愛)事情"
なんだこの頭が痛くなるタイトルは。これと表紙の男二人ですべて察せられてしまう中身は。えっ。マジで? 俺の歌、こんなアニメにつくの?
大丈夫か……?
「うん、そういう反応すると思ってた。だから、断ってくれてもいいんだよ」
「……いいんすか? そんな、簡単に」
「もう一つ、先方からの条件でね。さっきのも含めて、原作者の先生から出された物なんだよ。だからその絵も別に原作者って訳じゃないんだけど。
それでね。その先生が言うには、まず歌の指名はキョウヤさんであれば良い。断られたら諦める。それから、声優さんとか、キャラデザの人とか、
そういう人達が内心この原作や、同性愛の話を見て嫌な気持ちではない人がやってくれればいいって言っててね」
「……へぇー……。なんか、あんまり聞かない話っすね」
最近だとアニメ化だのなんだのした際には原作者っていうのは原作を大切にしてほしいっていう意思があるのはよく聞くけれど。まあそれは当たり
前だとは俺も思う。ただこの先生は、別にそうはしなくていいっていうタイプらしい。ただ、いわゆる"こういう物"に対して忌避感を抱く人はやめて
もらえるといいと。
そして俺は、その発言を受けていた担当から多分駄目なタイプだろうなと思われていて、そして実際に駄目だった訳で。
「それと提供する楽曲について。"できれば"書き下ろしてほしい。駄目ならそれもいい。って」
「そりゃ……また」
タイアップなどに提供する曲と一口にいっても、その内情というか、実際に出す物には色々とある。一番負担が少ないのが、未発表の曲を丁度良い
機会だからと提供する事だ。ただ、それだとタイアップ先との作品って感じはあんまりしない。ただ話題になるか、とか。もしくは予算がないから
適当につけたとか、そんな程度だ。そして要望されているのは、それとは別種の。つまりは原作に沿った楽曲って事だ。こっちは当たり前だけど、
楽曲を提供する側の負担が大きい。そもそも原作を知らずにそんな物は作れないのだから、いわゆる原作愛みたいな奴が必要だ。
だけど、当たればデカい。相乗効果で、互いに美味しい思いができる事が多いのがこのタイプだ。互いのファンが互いの物に興味を持って、
上手くいけば爆発的なヒットにも繋がる。場合によっては海外人気にさえ火が点く。まさに夢の塊だ。
「もう一度言うけど、無理なら断ってもいいんだよ」
犬人の担当は、苦笑しながらも諭す様に俺にそう言ってくれる。ホモって時点でうえってなってる俺に、原作を読み込んでそれに感銘を受けたかの
様な楽曲を提供してくれだなんて無茶振りが過ぎると思っているんだろう。事実その通りで、俺の内心は揺れに揺れていた。
どうする?
当たればデカい? こんなの当たらねぇだろそもそも。万が一、いや億が一当たったとしよう。
ホモアニメの歌でおなじみのあの人! って言われるのか俺? 冗談だろ? 確かにそれで一発屋にはなれるかもしれないが……。ついさっきまで、一発当たるだけでも凄いとか思ってたのが嘘みたいだ。
断りたい。
……だけど、そうやって選り好みの仕事をして良いのか。そういう気持ちが俺をどうにか引き留めていた。タイアップをするのが初めてではないが、
ひとつ前のは俺が指名された訳でもない。都合よくたまたま空いていたからって部分が大きい。今回、初めて指名をされた訳だ。……こんな話書いてる奴に。
大丈夫か俺、どっかで一目惚れでもされて、ケツ狙われてない? いやいや、そんな事ある訳……ないともいえない気がする。
どうしよう。どうしたらいい。なんで駆け出しの、プロになったばかりでこんな問題で悩まなきゃならないんだ。いや、駆け出しだからこそ、
こういう話も転がってくるのかもしれないが。
迷った。迷いに迷った。迷った末に、俺は。
「……引き受けます」
「大分迷ったね」
「これで迷わないで即決できる程、俺まだプロの活動してないっすよ……」
正直、不安は尽きない。下手したらこれで俺のプロ生命が終わるかもしれない。
まあ、でも。そんなに気構えなくても大丈夫だとも思う。言っちゃなんだけど、話題にならないだろうし。通り過ぎたらきっと、あああんな仕事も
したっけかなといつか思い返す程度の物になるだろう。というかなってくれ。
「でも引き受けてくれて良かった。先生の希望でもあるしね」
「……なんていうか、随分その先生の要望が大事にされるんすね?」
「ああ。元々先生に声を掛けた方もね、こういう……方向性のアニメを扱う会社じゃないんだよね。でも、この小説がネットでそれなりに反響が
あってさ」
あんのかよ。こんなのが。
「それで、どんなもんかなと、まあ期待しないで読んでみたそうだけど……思っていたよりも随分気に入った。いや、心打たれたみたいでさ。それで
思わずその先生に声かけちゃったんだってさ。先生っていっても、その人もアマっていうか、少なくともプロじゃないのにさ」
大丈夫かそれ。一時の衝動で声かけて、こんなホモ小説でアニメ作るって決めちゃったって事? でもってそんな素人の要望態々聞くのか?
大丈夫? 予算下りるの?
「業界人としては逆に、そういう経緯でいきなり声かけちゃったから、希望があればなるたけ聞きたいみたいだよ。それに下手な事したら、それはそれ、
最近のネットの口コミって馬鹿にできないしね」
ああ、たまに見るわそういうの。炎上してる奴。
そこまで話して、ぱんっ、と手を叩いて、担当は話を切り上げる。
「とにかく、引き受けてくれてよかった。ああでも、それで楽曲はどうする? 書き下ろすの?」
「それはちょっと、その……待ってくれませんか? 中身も読んでないのに、それにぴったり合うのが書けるかわからないんで」
「それもそうか」
正直そんなの書ける気がしない。まず正視できるだろうかこの小説の中身を。そしてそれに感銘を受けて……無茶言うなよ。
「ああ、あと。その先生との顔合わせの機会もあとで作るから。よろしくね」
「えっ!?」
「一回も直接会わないで楽曲提供するつもり?」
「ま、まあ……それはないっすね……はい」
実際前回はちゃんと顔合わせもした。初めてのタイアップという事で舞い上がっていた俺は上機嫌だし、低姿勢だった。しかし今回のこれは。
「じゃ、日程が決まったら後日連絡するから。よろしくね」
「……はぁ……」
結局、もやもやとした気持ちのまま担当との話を俺は終えたのだった。
そんなこんなの不安でいっぱいなタイアップ企画が決まってから数日後。
「……よし」
俺は今、決意を決めて手を伸ばした。
"異世界に転生した俺(と彼)の(恋愛)事情"
手の力が抜ける。マジでなんでこんなタイトルにするんだよ。そりゃ好きな奴は吸い寄せられるだろうけどさぁ。
しかし食わず嫌いはいけない、なんて言いながら、読まなくちゃと思いつつも数日が過ぎていた。ヤバい。三日後にはただの顔合わせとはいえ、
これを書いた本人とも話をするというのに。勿論担当も同席してくれる。安心した。
はぁ、と溜め息を吐きながら、俺は表紙をめくった。
……。
………………。
………………………………。
「は? ここで終わり??」
不意に現実に引き戻されるように。いや、予感はしていた。残りのページ数が少なくなってきた辺りで予想できていた。だけどさ、でもさ。
「このタイトルでこの終わり方? 頭おかしいのか??」
俺は盛大に不満を口にした。閉じていたカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
……夜に読みはじめて、そのまま夜通し読んで、朝になっていた。
不満を口にしながら、そんな事態になっている事に今更の様に気づいて俺は動揺した。こんな小説に何マジになってんだ。だけど。でも。
一言で表すのなら、この小説は面白かった。どうせ砂糖の様なくどい甘さのうんざりするホモ小説にちょっぴり申し訳程度のファンタジー要素を
足した物だろと高をくくっていた俺の後頭部を凄まじい勢いで殴り飛ばしてきた。
もちろん恋愛要素はある。あるけれど、それが強くなり過ぎていない、むしろ全体からすれば一部とかそんな程度で、設定や話の流れ。それから
書いた本人の語彙力と表現力から脳内に広がる情景。そういったものが、俺を包み込んでいた。男同士で恋愛で……と、言葉を濁さないのなら、
嫌悪感。そう。それを抱きながらも、俺は広がってゆく物語にはわくわくした気持ちを抑えきれずにいた。
所々、男同士のロマンスを予感させるシーンはちょっと目を背けたくなったが……。
何よりも舌を巻いたのは、設定と描写の濃さ、そしてその上での文章力、表現力だったと思う。悪口で言う訳じゃないけど、昨今のこういった
ネットで流行ってそこからやってくる物は、いわゆるテンプレテンプレした世界観という物を売りにしている場合が多い。
「あ、ファンタジーの。ほー。なるほどそういう世界観ね」
みたいな認識でつまめる。その手軽さが売りだ。つまり設定というか、舞台を咀嚼する必要性が薄い。あったとしてもなんたら神話から引っ張って
きました的な、数多くのハイファンタジーで使いまわされてる名前とか設定とかを入れたみたいなのがほとんどだ。
なので俺みたいに、それこそ小説という物を普段読まない層でも楽しく読めるのだ。そういう世界観でほんわかライフを描いた物とか、いいと思う。
そういう意味で言うのなら、この小説は設定から物語の中身まで、まったく読みやすくなかった。割とがっつり詳しく、要所要所でそういう設定が
出てきたり、物語自体もかなりハードな展開がある。
だから読みにくい。
だけど読みやすかった。
矛盾してる? いや違う。読みづらいその二つの要素を、筆者の文章力と表現力と配慮がしっかりカバーしてるのだ。少なくとも、俺はあんまり
頭が良い方じゃないから読んでてちんぷんかんぷんになって投げる、みたいな場面も多い。あと伏線みたいなのはられても忘れててよくわからない
みたいな事もあったりする。
そういう物のほとんどに対して、筆者は読者がついてこられる様に細かい気配りを心がけて文章を書いているのがわかった。必要な時は説明が
きちんとされているので、わからないという事はなかった。でも必要ないところでは説明をしないので、読んでて頭がこんがらがったりしない。そして
期間が空いた物が出た際にはすぐさま注釈するかの様にどこそこであった物で、というのもいれて、憶えられない、忘れてしまったなんて場合も
安心して読み進められる。
一回のシーン中に新しい言葉や、誰かの名前を乱立させないで進ませる、という部分に関しても徹底していた。正直俺は覚えられない。漫画とか、
敵キャラがずらっと並んでてそれぞれ名前がぱぱぱぱ~って出たりするの。かっちょいいと思う。
でも憶えられない。そんな経験してる奴、多いと思う。名前だけならまだいいけど、どこそこはこういう感じで……みたいなのやられた日には
お手上げだ。
この一見ピンク色ホモ小説の文章は、その辺りにこそむしろ筆者の情熱が注ぎ込まれているのかと思ってしまうくらいに、読み手が詰まらない様に
配慮に配慮を重ねた文章で表現がされていた。情報一つを筆者から読者に渡すにせよ、それをいつ、どの様な配分で渡すのが適切なのか、という事を
忘れてはいけないのだと納得できる。
そしてその上で、風景などの描写が良かった。まるでその場に自分が居るかの様に。読んでいるから、使っているのは目と頭ばかりであるはず
なのに、俺のにぶちんな頭の中でも、文章からひねり出された情景が心に躍る。その場に響く喧噪や、漂う匂いの一つ一つまでもが、俺みたいなのにも
想像できてしまうのだ。
わくわくする。
気づけば、俺は朝になるまでこの小説を読みふけって…。
「はぁ? ここで終わり?」
そしてそんな感想を口にしたのである。
だってそうだろ。
"異世界に転生した俺(と彼)の(恋愛)事情"
だぞ。
☆★異世界に転生した俺(と彼)の(恋愛)事情☆★
だぞ。タイトル。
俺読んでる途中で結構我慢してたよ。うわっ、男同士はじまる! ここかっ!? そっちか! こっちでも!? みたいなさ。
でも、なんだかんだ、さっき思ってた様に筆者の配慮と文章力で読んでたんだよ。男同士の云々みたいな話も、割と丁寧に組み立ててくれるから、
相手が男である事を忘れれば全然読めるし。その上で同性愛的なのも、どうしてそうなったのかみたいな感じで。ある程度説明してくれる。それに納得
したかっていうとまた別だけど、まあそうしないと話進まない訳だしさ。だからまあ、ひとまず頷いて、その後はひたすら世界観やら物語やらを
楽しんでた。主人公が男とくっつくのも、それまでの経過が経過だから、これでよかったのかもな、なんて思ってた。
なんで最後に別れるんだよ。
はぁ? ってリアルで声出たの久しぶりだわ。お前このタイトルとこの流れでやっていい話じゃないだろ。筆者タイトル百回見直せよ。
読みにくい重厚な設定と世界観を、読みやすい配慮と親切で表現する事で最後の最後まで読者引っ張っといて、最後まで来てしまった俺に
ジャーマンスープレックス決めるなんて事あっちゃ駄目だろ。
断言する。これ書いた奴は頭おかしい。なんだこれ。俺の徹夜を返せよ。
「はぁ……」
溜め息を吐いて、俺は。
また最初からページをめくった。
すぐにまた、あの豊富な表現力を持った文章が俺の目に留まる。徹夜する中でしっかり俺の中で根付いていったキャラクター達が顔を出す。中には
割と過酷なファンタジーで描かれているこの話において、死んだ奴も居る。そして最後に別れる二人も居る。
この頃は平和だった……。
まるで昔のアルバムを開いて、純粋だった子供の頃を思い出すかの様な感慨に捕らわれる。誰もかれもが。物語の中のこいつらも、そしてそれを
読んでいる俺自身でさえ、あんな事になるだなんて思いもしなかった頃を無性に懐かしく思う。最初から知っていたのは作者ばかりだ。
憎たらしいなこいつ。絶対これ書いた奴性格悪い。罠に嵌めて谷底に突き落とすために親切な顔して道案内してくれる奴じゃんこれ。
マジありえんわ。
「はぁ」
二周目を読み終わって、ため息を吐く。夜通しよりかは時間がかからなかった。ていうかなげぇ。今更だけど。
「……これ別にホモじゃなくていいよな」
どっと疲労感に包まれながら、俺はぽそりと呟く。
なんか色々疲れた。面白かったけど、疲れた。感情が振り回された感じがして、疲れて。最後に飛び出すのがそんな言葉ってのもしょうもない。
ただ、この小説をアニメにしようって、人を動かすだけの力があるのは理解した。曲は……。書けるだろうか。わからない。こんな小説に、いや、
この小説に見合う歌を書き下ろせる自信はないかも知れない。
本を投げ出して、俺はベッドの上に転がる。椅子に座ったりベッドに横になったりして、結局夜通し、しかも二周もしてしまった。もう眠くて
仕方がない。腹減った。でも眠い。ふさふさの狼の尻尾を揺らしながら、俺は睡魔に負けてそのまま眠りはじめる。
うとうとと睡魔に呑まれながら、俺は三日後に控えている作者との顔合わせの事を考えていた。
きっと嫌な奴なんだろうな。こんな酷い小説を平気で書ける様な奴なんだから。会ったら文句の一つも言ってやりたいくらいだ。
でも、なんだろう。舞台は違っていても、何かを表現する、そういう部分においては同じ人種とも言えるからだろうか。
そういう我の強さが作る物にそのまま表れている感じ。それは、嫌いじゃないかも知れない。
顔合わせ当日。それほど大きくもない、事務所の一室で俺はふんぞり返って椅子に座っていた。
酷い態度だって? まさか。だってもう、約束の時間を三十分も過ぎてるんだぞ。
ホモが来る。もうすぐやってくる。
なんて思いながら最初の五分間割とドキドキしてた俺なんだったのって感じだぞ。
「すみませんキョウヤさん。野菜芽(のなめ)先生から連絡があって、少し遅れるそうです」
「あ、そう……」
何かあったんだろうか、なんて思いながらも待ってた俺にかけられたその言葉に、どっと肩の力が抜ける。
まあでも、少しくらい遅れる事もあるさ。仕方ないよな。
なんて思いながら三十分が経過。
おいおい。いくら俺みたいなまっとうな社会人とは到底言えない様な奴でも、こんな遅れないぞ。何してんだよ。つか何で遅れてんだよ。
「何で遅れてんの?」
「す、すみません。遅れる、としか」
「あ、そう」
呆れた。あと十分待って連絡すら無いなら帰るかもう。別に俺が悪い訳じゃないしな。
「ごめんなさい! すっかりお待たせしてしまって」
俺が深い溜め息を吐いて、その隣で担当が困った様にしているところに、勢いよく部屋の扉を開いて入ってくる男。俺はもう余所行きモードも
忘れて、椅子に深く背を預けた。どんな人が来るんだろう、怖い☆ なんて思ってた心も今はどこへやら。とびきりのメンチ切れそうなくらいの
心持でそれを迎える。
「えっと、野菜芽先生ですよね?」
「あ、はい。どうも野菜芽です。申し訳ないです。こんなにお待たせしてしまって」
俺は男を視界にいれずに、天井を見ていた。なんかもう疲れたわ。
「ごめんなさい。えっと……初めましてキョウヤさん。お忙しい中、お待たせして申し訳ございません」
「っす……んっ!!??」
野菜芽、とかいうよくわからん名前の先生から声を掛けられて、俺は適当な相槌を打ちながらようやく視線をそちらに向けると。
……見間違いじゃなければ、そこに居たのはあの白熊だった。俺がストリートミュージシャンとして歌い続けていたあの頃に、周りからの白い
目も気にせずに俺に声援を送ってくれたあの人。
「なっ……あんたっ……!? なんで、ここに!?」
俺は飛び上がる様に立ち上がって、白熊を見つめる。そう言われた白熊は、びっくりした様に目を大きくして。それから、ほにゃっと笑った。
「あ、僕の事憶えててくれたんですね。お久しぶりですー。憶えてる訳ないと思ってたので、とても嬉しいです」
「そりゃ……だって、なぁ……」
俺にとって、どれだけかあの時のあんたの言動が救いになっていたか。
……そんな事言える訳ない。
「ええっと……お二人とも、お知り合いなんでしょうか?」
そこで、俺と先生のやり取りを聞いていた担当が驚いた様子で訊ねてくる。それに俺は頷いて。そして先生はにこりと笑って大きく頷いた。
「はい! 僕、キョウヤさんがストリートライブをしていた頃からのファンなんです。それで、一度お話する機会があって」
「ああ、そういう事だったんですね。キョウヤのファンだっていうのは聞いてましたけれど」
まあ、じゃなかったら指名しないよな俺の事。
「だから今回、駄目元でお願いしてみたんです。僕はきちんとしたプロじゃないから、きっともうこんな話は二度と無いだろうし」
その上ホモアニメだしな、内容が……。うん、よっぽどの事がない限り、この先生とまた一緒に仕事をする機会はないだろうな。
そこまで来て、俺は改めて挨拶を先生に済ませると、それまでとは打って変わって真面目に顔合わせに臨んだ。
まさか、あんな……いや、あの小説を書いていたのがこの人だったなんて。いまだに信じられない。
目の前に居るのは、ふんわりとした白熊の男だった。俺の記憶にあるあの姿ともそれほどの違いもなく、一目で人の好さというものが伝わってくる
ような、優し気な雰囲気を纏っている。
冗談だろ。これでなんであんな小説書いてるんだよ。俺騙されてる? たまに聞くゴーストライターって奴?
でもそんなはずもない。そんな事しても、誰も得しないしな。
そんな事を考えながらも、顔合わせ自体は順調に進んで。というより、今回は仕事の話を深くする訳じゃないしな。ただ互いに相手がどんな人物か、
それがわかればそれでいいのだから。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。それから、遅刻して申し訳ございませんでした」
「まあ、それは……仕方ないっすよ」
担当の言葉で切り上げられて、それでお開きとなる。結局数時間の間、単に話をしただけである。ただ、俺にとって嬉しいのは、先生が俺の歌を
きちんと好きだったという事実だった。ストリートライブは随分とご無沙汰で、プロになった俺の作る曲はそれまでよりもまた少し違う要素が入る
ようにもなっていた。勿論昔作ってた曲もあるけれど。
「プロになってから、変わったよね~」
なんていう声が聞こえる事もある。俺自身それは自覚していて、時々不安になっていたのだった。
あの時の、あの人は。俺の歌をどんな風に思っているんだろう……って。
それが杞憂に終わった。それだけで、良い成果だったといえるのかも知れない。
これでこの人がホモじゃなかったらなぁ。
……なんて言うのは贅沢な話だろうな。
顔合わせがお開きとなり、俺は担当と軽く話をしてから帰路に着く。
「あ、キョウヤさん」
「先生」
駅に着いた頃。既に見知った白熊の姿を見つけて、あちらの方が気づいてくれる。それからその傍には、何故かお婆さんとその家族とみられる人が
居て。熱心に先生へとお礼を言っていた。
「どうしたんすか?」
一頻り感謝の言葉を並べられては苦笑して大丈夫ですよと口にする先生に見送られて、二人はそのまま帰っていったけれど。俺が訊ねると先生は
また困った様に笑って、照れ臭そうにしていた。
「実は、今日の顔合わせの時間の前にここにきたら、あのお婆さんがちょっと具合悪そうにしていて……。軽い熱中症だったみたいで」
「……ああ、なるほど」
だから遅刻したのか。
「だったら、言ってくれたら良かったのに」
「それはなんかちょっと……言い訳がましいかなって」
言い訳も何も、そんな事してる人を悪く言うのはさすがの俺も気が引ける。
「それで、僕でもできる処置だけして、駅員さんにお願いしたんです」
「詳しいんすね」
「いや、そんなに詳しい訳じゃ……小説書くのに便利だからって、少しかじってるけど。でも、熱中症の処置なんて実際涼しい場所と冷たい飲み物と
冷やす感じだから」
そういえば、あの小説にも少しばかりそういった簡単にできる応急処置レベルの知識とか入ってた気がする。そういう知識がたまには現実でも役に
立つんだなとぼんやりと先生の話を聞きながら俺は考える。
「それでまた通りかかったら、もうすっかり元気になったのはお婆さんと、ご家族の方がいらっしゃって。僕の事捜してたみたいで、お礼を。今日の昼の事なんだから、もう少し休んでてくれればいいのに」
それだけ、先生は熱心にお婆さんを助けようとしてくれたのだろう。去り際の二人の表情と仕草から、先生に対する感謝が籠っていたのがよく
見えたから。
「……あんなに感謝してくれなくてもいいのに」
ぽつりと、先生が零した言葉が俺の耳に届く。少しぎょっとして、先生を見つめた。二人が去っていった方向を見て、元々温和な立ち居振る舞い
だからか目は細かったけれど、更に細めてはなんとも言えない表情をしていた。
「さて、僕も帰らなくちゃ。そういえば、キョウヤさんも帰りなんですか?」
「あ、はい。先生はいつもこの駅なんです?」
「うん。今日はいつもと違う時間だけど、通勤で使うから」
先生は、どこぞのサラリーマンらしい。隙間時間で書いた小説で、新たな扉を開く。そんな感じ、なんだろうか。
「そうなんすか。俺、先生とずっとすれ違ってたのかな」
「……そうかも知れないね」
サラリーマンなら、俺よりももう少し遅い時間に帰ったりしてるのかも知れないしな。俺と先生が最初に会ったのは別の駅だったし。
「あの、先生」
「はい?」
そのままさようならという流れになったところで、俺は先生を呼び止める。
「……良かったら、飲みいきません?」
「えっ……」
俺の言葉に、先生が固まる。
それから数十分後。電車でいくつか駅をまたいだ後に、俺は行きつけの居酒屋へと先生を案内していた。
店内に入ると。いや、入る前に引き戸を開いた瞬間から中の馬鹿騒ぎが俺と先生の耳をつんざく様に飛び込んでくる。いわゆる、大衆居酒屋って
奴だ。馬鹿みたいにうるさくて、騒がしくて。でも俺はそういうの、嫌いじゃない。いや、たまに耳がきーんとなりはするけど。
「ちょっと賑やかだから、奥の方でいいかな」
出迎えた店員に俺がそう告げると、店員が苦笑いをしながら案内をしてくれる。さすがにカウンターでだと周りがうるさすぎるし、俺と先生の
話も周りに聞こえかねない。先生はそわそわした様子で店内の様子を見ながら俺の後ろに着いてくる。
「二名様入りまーす!」
店員の掛け声に、他の店員がらっしゃっせーを唱和すると、馬鹿な客も同じようにしている。ほんと馬鹿。いい雰囲気だ。大ジョッキが乾杯の
音頭を賑々しく知らせては、笑い声が続いては料理の到着を催促する。カウンター席の向こう側からは汗を掻きながらもにこやかに店員が網の上で
串焼きをひっくり返したりして、これまた美味そうな匂いと音が少し離れた席に着いた俺達の耳鼻にもたどり着く。
場の雰囲気が、わくわくとさせる。それ自体が音楽のようだと、いつ来ても思う。歌でこんな感じの雰囲気、作れないかな? なんて思ったりする。
「"キョウヤ"のイメージにはちょっと合わないよね」
と、いつだったか担当に言われた。悲しい。
「どうぞ、先生」
「あ、うん……」
先生は、ずっときょろきょろとしながら辺りを見ていた。もしかして、慣れてないのだろうかこういう所。
「本当に、僕でいいの?」
俺が先生を飲みに誘った時、先生は困った様にそう訊いてきた。その意味を、俺は少し遅れて理解する。
今日は本当にいろんな事が一度にあったと思う。ずっと俺の思い出の中にあった、あの時のあの人と再会できて。それがまさかファンタジーホモ
小説書いてる人で。しかもそんな明らかにヤバい事故物件みたいなのがアニメ化になる上にその歌を担当してほしいと俺に指名が来て。
そしてそんな流れであるからして、俺がずっと恩を感じて、心の中に大切に留め置いていたその人もまたホモな訳で。そんな先生を俺は飲みに
誘ってしまっていて。
先生からしたら、一緒に居て大丈夫? って訊きたくもなるだろうさそりゃ。
飲みはどうかいう問いに、逆に問われた俺は少し間を置いて、それでも頷いて先生を誘った。先生がホモかどうかではなくて。恩人である先生と
俺はもっと話がしたかった。さっきの顔合わせは、先生が俺の古参ファンで、という部分で大体終わってしまったし。
「俺、ビールで。先生は?」
「あ……うー。オレンジジュース」
その顔で?
と思ったけど俺は何も言わずに頼んだ。絶対酒豪タイプだと思ってた。おおらかな人ってそういうの多そうだし。
「酒は苦手なんすか」
「うーん。美味しさがよくわからなくて。あんまり酔うタイプじゃないし。飲まなくちゃいけないなって、思うんだけど」
「飲まなくちゃ……いけない?」
「小説でそういうシーンがあったりした時に、もう少し細かく、表現を豊かにできると思うから。でも、美味しさがわからないと難しいかなって」
ああ、そういう。
「根っからの小説家なんすね」
「しょ、小説家なんて。ただの物書きだよ。物書き」
俺には違いがよくわからないが、先生は両手を振って俺の言葉を否定する。仮にそうだとしても、そんな物書きの作品が今アニメ化されようとして
いるのだから、小説家だと名乗れると思うんだが。
「……賑やかだね、ここ」
少しだけ口調の砕けてきた先生が、改めて店内を見渡してそう口にする。
「先生はあんまり慣れてない……か。酒飲まないとね」
「大学生だった頃は、付き合いっていうか。腐れ縁みたいなので来た事あるけど。おつまみ食べてばっかりだしねぇ」
「あと一発芸とか」
「あー、やったやった」
その辺りで、くすくすと先生が笑う。ようやく笑ってくれた、と思う。
「キョウヤさんは、こういう所よく来るんだ」
「そっすね。なんていうか……一人きりで曲作ってると、たまに賑やかなのが欲しくなっちゃって」
「へぇ~。そうなんだ。キョウヤさん、凄くかっこいいから。もっと違う感じの方に行くのかと思ったけどそうじゃないんだ」
恰好良い、と言われて俺は少し返答に困る。恰好良いって言葉は割と言われるけれど、なんかこう、先生にそう言われると。
「ああ、ごめん。他意はないよ」
慌てて先生がちょっと言葉を足してくれる。その辺りまで来ると、俺はおかしくなって笑ってしまった。なんだか、先生がホモっていう部分に
互いが変に意識を飛ばしてしまって、さっきから噛み合ってない感じが出てる。
「だからさ、先生。俺は先生にずっと恩を感じててさ。それで今日、思いがけずまた会えたから誘ったんだよ」
つまみと料理が運ばれてきて、一頻りそれを味わいながら話も弾むと。俺はどうして目の前の先生を誘ったのかという話を力説していた。まず
そこから進めないと、なんだかぎくしゃくしたままだと思って。先生はそれを聞いて、なんだか変に安心した様に笑って、それから照れてもいた。
「あの時の言葉が、そんなにキョウヤさんの力になってたなんて知らなかったな。……まあ、そうじゃなかったら僕の事憶えてないか」
「あの言葉がなかったら、俺、歌うのはやめてたかも。……先生はなんであんな風に言えたんだろ」
あの時。拍手をして応援をしてくれた先生は、周りから白い目で見られていた。俺の歌を聴いていた人達からでさえ。先生がその視線の数々に
気づいてなかったはずはないし、こうして接してみると、先生はそんなに気が強い性質でもなさそうなのに。
「んー。創作をしていたから、かなぁ……? 僕の場合だと」
食べ終わった皿を重ねてテーブルの端に寄せながら、先生は俺の問いに答えてくれる。
「自分の作ったものがさ、自分ではいいもの作れたかもって思っても……他の人から相手にされなかったりするのって。よくあるからさ」
「……」
よくある事。確かにそうだ。でも、先生もそれを知ってるだなんて俺は思い至らなかった。確かに畑は違えど、小説を書く先生からすればそれは
よくよく知っている事なのかも知れない。
ふんわりとした白熊の雰囲気とは裏腹に、そんな言葉を口にする先生の様子はまた違う顔を俺に教えてくれる。
「自分の作る物の良さを最初はわかっていたはずなのに、ずっと作っている内に段々それが本当に良いのかわからなくなっちゃったりさ。そんな時、
周りからも大したもんじゃないよって、そういう風に扱われる……訳じゃないけれど。でも、そんな風に思わされる様にされたらさ。辛いもんね」
あの時の俺の心境を、まるで先生はそのまま言葉に表すかの様に口にしてくれる。
「あの時の俺って、そんなに酷い顔してたっすか」
「ううん? どうだったかな。でもそんなに酷くはなかったよ」
「じゃあ、なんで」
「……僕もあの時、書いてたからさ。今回の話を」
その言葉で、俺は思わず箸を持つ手を止める。
「僕みたいな中途半端な奴でも、やっぱりそう思ってた。僕はキョウヤさんみたいに自分自身が前に出る訳じゃないのにね。そういう時に、キョウヤ
さんを見かけて……ああ、この人は凄いんだなって。自分の夢が大切で、大切にしようとしてるんだなって。あ、でももちろん、キョウヤさんの歌が
好きになったのも本当だよ。いい声だなって思って、聞いてたら歌詞も、あの時のは応援歌みたいな奴だったから、特にさ」
ちょっと、恥ずかしくなる。当時の歌は、今よりももっと青臭くて、我武者羅だったから。
「応援したくなったんだよ。だから、応援してみた。可愛い女の子じゃなくて、ごめんって思いながら」
「そんな事」
そんな事、考えなくていいのに。あの時どれだけか、先生の言葉に救われて。白い目で先生が見られてしまう自分の無力さが恥ずかしかったか。
俺が出す物も、それを応援してくれた先生も、馬鹿にされない様にしたいって思ったか。
そこまで考えて、俺は気づいてしまった。
今、先生の話と先生がどういう人なのかを知りはじめて、先生が書いた小説を内心では呆れたり、小馬鹿にしている俺は、あの時俺と先生を
そんな風に見ていた奴らと何が違うのだろう、と。
気づいた瞬間に、とても申し訳なくなった。
「どうしたの?」
「あ、いや……別に」
だけど、先生にはとてもとても言えなかった。まだ会ったばかりで、あの時俺を応援してくれた事をずっと感謝していたと告げたばかりなのに、
次にはそんな事を言ってしまったら。
きっと軽蔑される。
「そういえば、先生の野菜芽(のなめ)って名前、本名なんすか?」
話題を切り替える様に、俺は口にする。実際気になってたし。
突然話題を変えられて、先生はきょとんとしてから笑い声をあげた。
「まさか! ただのハンドルネームだよ」
「なんか、変わった名前っすけど」
「ハンネなんてそんなもんじゃない? 僕の場合は……これが好きだから」
そう言って、いつの間にか頼まれていたたらの芽の天ぷらを先生はにこにこと頬張る。
「今日はごちそうさま、キョウヤさん」
会計を済ませた別れ際に、にこやかに先生が告げてくれる。ごちそうさまとはいうけれど、先生はきっちり自分の分は払ってくれた。
「若いんだから遠慮しなくていいんだよ?」
というより、俺の分も払ってくれようとしたのを慌てて止めた。さすがに俺から誘っといてそれはないだろ。
「あの、先生」
「なに?」
「……また会ってもらっても、いいっすか。あ、その……先生の話に合う曲が書き下ろせるか、まだはっきりしてなくて。その」
「もちろんいいよ。君が、嫌じゃないなら」
しどろもどろで提案をする俺を気にせずに先生は返事をしてくれる。見透かされたような事を口にされて、俺は動揺した。だけど先生はそういう
俺の仕草には微笑みながらも首をかしげる。
他意はないのかもしれない。
「週末は空いてるから。その時だったら、いつでも」
スマホを取り出して連絡先を交換すると、先生は手を振って雑踏に紛れてゆく。
そんな先生の後ろ姿を、俺は見えなくなるまで見つめていた。
そこそこの大きさのマンションの中に入って、俺は目的の部屋へと足を運ぶ。
「はーい」
インターホンを鳴らすと、程なくして扉が開かれて、あのふんわりとした笑顔の白熊が俺を迎えてくれる。服は休日のそれらしく、ラフでだぼっと
したものだった。なんかお父さんみたいだな……。俺より五歳くらい年上なだけなのに。
「いらっしゃい。キョウヤくん」
「お邪魔します、先生」
「今お茶いれるからね~」
俺を室内へと招き入れると、早々に先生はもてなしの準備をはじめてくれる。
こんな風に先生の済むマンションにお邪魔をするのも、これが初めてではなくなっていた。
あの日から、俺は先生と何くれとなく連絡を取り合って、次第に互いの家へと足を運ぶようにもなった。
「先生からいろんな話を聞いてみたくて。歌を作るのなら、やっぱりその。先生の作る世界とか、もっと知らないといけないかなって」
そんな言葉を添えて。
……なんだか、初めてだ。今までいろんな事柄に、歌を口実にして触れてきた気がする。
曲作りに役立つから、新しい刺激が欲しいから。気分転換も大事。
そんな言葉を並べ立てれば、歌の合間に何かをするなんて割と当たり前の事だった。
「そうそう。作っている物にばかり集中すると却って効率落ちたりもするよね~」
先生もそんな風に同意してくれたりもした。
だけど、初めてだ。
そんな風に何かを口実に、あるいは犠牲にして歌にすべてを捧げてきたのに。先生に会う。そのために今は歌という自分の人生の半分は注いできた
ものを俺は利用していた。
先生に会いたい。俺の人生を変えてくれた恩人に会いたい。
自分でも困惑するくらいに、俺の中の気持ちはそう感じていた。
恋のそれとは違うと思う。そもそもホモとかお断りだ。当たり前だが別に先生の前で盛るなんて事もない。
ただ、先生の言葉や、態度や、心そのものがなんとなく居心地が良かった。
「曲作りは順調?」「キョウヤくんの歌、聞いてみたいな」「こういうタイプの歌が好きなんだぁ」
そんな事を先生は、
言わない。
というより、歌に関する話題を先生は出してこない。俺が口に出した時だけ、相槌を打つようにそれを返してくれるだけで。
それがなんだか居心地よかった。もちろん俺はプロになったのだから、そういう話題が来た時に平然と打ち返さなければならないのかも知れないが、
それがプライベートにまで及ぶとなると話は別だった。
「好きな事を仕事にできたらそれが幸せだっていう人もいるけれど、仕事にまでして、義務感をそこに生じさせたら今までのようにはいかなくなった。
そんな風にも僕は聞くね。勿論、その人に依ると思うけど。だから、キョウヤくんが話したい時以外は、話さなくていいんだよ」
いつだったか、曲の事が気にならないのかと俺は問いただした事がある。それに対する先生の返答は、そうだった。
あまりにも立派というか完璧な返答に、俺は思わず舌を巻いたのを覚えている。普通、自分の作品がこんな風に取り上げられてアニメ化すると
いうのだから、舞い上がって当然だし、そしてテーマ曲を提供するかも知れない相手が目の前に居て、その相手と少しでも親しくなったのなら、
気にならないはずはないだろうに。
そして実際のところ、曲作りはまだまだといったところだった。それは進みが悪いというよりは、俺がもっと先生の作る世界を理解したいと思って
いるからだ。確かにアニメ化する例の、"異世界に転生した俺(と彼)の(恋愛)事情"……なげぇ、あだ名は俺の中で異世情、イセジョーでいいわ。
とにかくそのイセジョーの話は読んだ。あれから更に二回くらい読んだ。理解したという意味でならそれなりかも知れない。
でも、もっと細かいところを知りたくて。最近は先生にここのこれはどんな感じなんですか、なんて質問をしている事も増えた。そういう時先生は
大分照れた様子を見せながらも、次の瞬間には読者では到底及ばないところまで深く掘り下げて教えてくれる。おかげで曲作りにもそんな深みを
出せないかなと最近は画策しているところだ。
そしてそういった、言ってしまえば仕事としての付き合いを別にしても。そして先生がホモだという事を別にしても。先生と居るのは楽しかった。
意外と音楽の趣味が良いところも、俺としては嬉しかった。俺の出している歌もあれこれと聞いてくれているけれど、それ以外にもあれ、これ、
それと際限なく聞いていて。
「書く時にはね、いろんな歌が必要なんだよね。その場のシーンに合う物があると、僕も夢中になって書けるからさ」
「へぇー……」
そういう所は、俺とはちょっと違うなと思う。さすがに作曲してる時に他の奴の、というか。自分含めて何か曲を聴きながらって事はない訳で。
「キョウヤくんの歌も、聞きながら書いてたっけなぁ」
「へ、へぇー」
俺の歌、ホモ小説の一部になってたのか……。なんとも言い難い気分に襲われる。先生自体を好意的には見ていても、先生の作ったそれを全面的に
受け止めるには、まだ修行が足りないらしい。
「お菓子も食べるー?」
「あ、はい。いただきます」
キッチンから聞こえてくる先生の声に、待たされている俺はきょろきょろと部屋を見渡す。普通の一人暮らしのマンションらしい部屋、というと
伝わりにくいかも知れないが。特別散らかっている訳でもない。なんかG的な雑誌がある訳でもない。控え目な観葉植物が二つ、増やしすぎると面倒
みきれないからと苦笑しながら先生が言っていた事を思い出す。あとはごついPCとでかい座椅子があるくらいだ。この二つだけは、部屋の中で
ひたすら存在を主張するくらいに異質な物に見えた。ただ、それが必要な理由はわかる。
「ごめんね、うるさいよね。これ」
「だ、大丈夫っすよ……」
一度、先生の執筆しているところを見せてもらった事がある。あれはなんの魔法だったんだろうか。凄まじい勢いでキーボードを叩く音が部屋に
響き渡り、ちらっと画面を見たらえげつない勢いで文章ができあがっていく。えっ、これでプロじゃないのこの人。どういう事なの……。
しかも書きながら俺と楽しくお喋りまでしている。頭の出来がまるで違うのではと本気で思った。少なくとも俺は作曲している時に話しかけられると
余裕でキレる自信がある。絶対真似できそうにない。
そんな先生のある意味での超人振りを思い出しながら、ふと俺はPCのあるテーブルに置かれている本に気づいた。思わず目を見張る。
二冊あるその内の一冊は、間違いなく俺も読んでみてと渡されたイセジョーだ。
じゃあ、もう一冊は?
覗き込んでみて、ちょっと首を傾げる。そっちもイセジョーだった。えっ、何この厚みの違いは。もしかして続編なのか。
「お待たせ~。あっ、駄目だよそれ、読んじゃ」
「えっ。あ、すんません」
俺は馴れ馴れしくしすぎたかと反省して、慌てて身体を引っ込める。いくら俺が曲を提供するからといっても、見てはいけないものだってあるだろう。
「中身見た?」
「いや、表紙だけで……もしかして、続編すか」
もしかして、あの最後は別れて終わるあの更に続きがあるのだろうか。読みたい。どういう風になるのか気になる。というか続編だとしてこの
分厚さはありえるのか。俺の持っているほうよりも五割増しで分厚いんだが……。
「続編?? あー……違う違う。そうじゃなくて、えっと……ごめんね。それ、原作なの」
「原作?」
原作って? 俺が読んでる方は原作じゃないの?
俺が首を傾げて先生を見つめていると、先生はおぼんを別のテーブルの上に置いてから、かなり恥ずかしそうに苦笑しては頬を掻いて、それから
俺へと視線を向ける。
「……原作、18禁だよ? キョウヤくんに渡してあるのは、アニメ化に必要な部分だけ抜き出した物だから」
「あっ」
そ、そういう事か……! つまり俺が持っているのは、そういったくんずほぐれつを省いた物なのか。あれ、でもそういう流れに感じる描写も
少なかったような。
「そういう部分も含めて、問題のシーンと、その前後も書き直したものだから」
「へぇぇ……なんか、大変なんすね。エロ小説の手直しって」
「言い方言い方」
笑いながらも、ささっと先生は本を片付けてくれる。微妙な空気にならずに笑い話にできたと俺はほっとする。多分、先生も。
先生の用意してくれた物でお茶をしながら、今日もあれやこれやと話題は尽きない。そういう所も、先生は凄いと思う。俺よりも少し年上だけど、
話が合わないなんて事はないし、面白い漫画だのゲームだの、そういう物に対する話題も湯水の如く溢れてくる。
「大体は小説の材料になるからね」
そんな風に言われてしまうと、もしかしたら俺は勉強不足だったのかなと少し思ってしまう。それこそ先生が普段から触れている物は、俺が手に
取る物の何倍もの量にも及んでいて。俺は先生の嗜む物のほんの少しの部分をしか手に取っていないのではないかと感じてしまう。
「気にしなくてもいいんじゃない? 単に僕が、とても広く浅くってだけな話だし。もしこの先、キョウヤくんが曲を作るのに行き詰まったりしたら、
たまには違う気持ちになって作ろうって、そういう別の物に手を出してみるのもいいと思うけれど」
「そんなもんすかね」
「まあ、僕がアドバイスするのもどうかと思うけど……。何かを作る、表現する。そういう意味では、キョウヤくんの方がずっと先に居るし、僕と
違っていろんな人がキョウヤくんの事待ってると思うよ」
「……」
そこで、俺は言葉に詰まる。時折見える、先生のそういう顔。俺を立てながら、自分を貶めるような言葉を吐かれると、俺はいつからか上手く
返答ができなくなっていた。
そんな事はない、あんただって立派だ。そんな言葉に一体どれだけ効果があるのか、わからなかった。
「先生はさ、どんな風に小説を考えて書いてるの?」
一頻り先生の部屋でだらだらして、馬鹿騒ぎして落ち着いた頃。俺はふと気になって口に出してみる。先生はお茶を片付けて、いつもの座椅子に
座っていた。ちなみに俺は大慌てで先生が買ってきてくれた一人用ソファに座っている。中々座り心地が良い。尻尾を通す穴もあるので、快適だ。
たまに先生の執筆作業を見ているけれど、いつ見ても物凄い速度で指が動いてタイピングしている。あれは頭の中がどうなってるのか気になった。
「どんな風に……?」
「俺は、曲のフレーズとか、歌詞とか、ぼーっと考えて、これだってのがあったらそこを軸にして作る感じなんだけど」
「んーとね」
先生は顎に手をかけて、うーんとうなっている。そうしていると指先が白熊の輪郭にちょっと食い込んで、もちっとして……マシュマロみたいだ。
「小説も似たような感じかなぁ? 特にこれってセリフが浮かんだからそこに向かって書きますって人は多いんじゃないかな?」
「歌も小説も、そういう所は一緒なんすね」
「そうだね。点を打って、線で繋ぐ。そんな感じ? 歌もさ、ストーリー仕立ての歌だったらやりやすいと思うよ」
「わかるわかる」
わかるけど、ちょっと当たり前な事でもあるだろうか。何か参考にならないかなとも思いつつ聞いてみたけれど。
「あとは……僕の場合は、不幸な気持ちになると書きやすいかな」
「えっ」
今なんて?
俺が固まると、先生がにっこり笑って頷いてくれる。いつも見ている笑みのはずなのに、今はなんだかそれが怖い物に見えた。
「独りぼっちで作っている人なら多かれ少なかれ、そうだと思うけど。僕の場合は特に、不幸で何もかも怨めしくて堪らないって時に、捗るよ」
「ど、どんな風に?」
思わず参考になるかどうかをぶん投げて、興味を惹かれて俺は食い気味に聞いてしまう。それって、イセジョーを書いてた時の先生は不幸だったの
だろうか。
「本当に打ちのめされちゃうと駄目だろうけど、その手前くらいまで精神的に落ち込んでるとね。頭の中に、えーと……例えなんだけどね? 部屋が
あって、僕がその真ん中に居て。それで、辛い、悲しいって気持ちがいっぱいになると、その部屋にいろんな人がやってくるの。それが小説で描く
人達って事だね。それで、僕は現実が辛くて仕方ないから、やってきた色んな人達のやり取りを見て、現実に持ってくる。一頻りそれが続いたら、
皆その部屋から出ていって。また僕だけが残る。今は大きい話はやってないから、丁度また一人になったところかな。……伝わるかな?」
「へ、へぇー……」
曲を作る俺と、似ているようで少し違う感じがする。曲はもっと、自分の内側から、自分の心が騒ぎ出すような感覚がある。だけど先生にとって、
それは自分の内側からであったとしても、内側の誰か、みたいな感じなんだろうか。
「まあ、僕じゃ比較にならないもっと大御所の人達も言ってる事だよ。自分を通して、別の世界の物を描いている、とか。自分はただそれを出力する
機構の一つでしかない、みたいな。チャンネルが合ってるっていうの? だから自分が凄い訳じゃない。そんな感じ」
「な、なんか」
「スピリチュアルずぶずぶだって? うん、僕も思う。言い方変えれば神様のお告げがあった、みたいな感じだし」
へらへらと先生が笑う。あ、よかった。先生が真面目な顔してこの話題続けてたら、ちょっと怖かった。
「でもね、実際凄く調子よく書いてる時って、感覚としてはそれに近いんだよね。手が止まらない。頭がそれだけに向かってて、お気に入りの曲を
聞いてたはずだけど気づいたら何曲も過ぎてて、でも聞いた気がしない。そんな風に、本当に夢中になって。我を忘れて書いてる時ってあるから」
「そういわれると、ちょっとわかるかも」
それに夢中になる。それだけに夢中になる。そういう意味でならわかる。俺も調子が良い時は、そんな風になる。
「大体そんな感じ。参考になったかな?」
「う、うん……先生って、凄いんだなぁって」
「全然すごくないよ。結果出てないからね」
といって、またあっさりと切り捨ててしまう先生。なんというか、そういう所は先生は見た目のふんわりした感じとは打って変わって、凄まじく
シビアだった。
それに結果が出ているかどうかというのなら、今まさにアニメ化になろうとしている自作の存在があるはずなのに。
「それに今は、書けないしね」
「えっ、あんなに書いてるのに?」
「あれ短編だし……。不幸な気分の時じゃないと、長いのは全然駄目だよ」
なんというか、芸術家の苦悩、そういうのを感じる。不幸じゃないと成立しえないって。
「今はキョウヤくんと一緒に居て楽しいから。書かない時期だね」
その言葉で、俺はまた返答に詰まる。なんだか頬がかっと熱くなる。それって、俺と一緒に居るのは幸せだって事で……いいのか。
でも、それだと大きい話は書けないらしい。なんだこのジレンマは。
俺は嬉しい時も悲しい時も、その気持ちを歌に籠めたりするけれど……。
「長編の難しいところだよね。最初からハッピーだと、ハッピーエンドで終わっちゃう。山あり谷ありにするには、それだけだと難しいから。
でもそれも、本当に書くのが好きな人なら平気で書けるのかも知れないね。僕は、不幸じゃないと書けそうにない。雨が降っているから
部屋に閉じ籠もる、みたいな感じかな。だから雨が止んで、外が晴れたら。外に出て見たくなる。本当に書くのが好きで堪らない人は、
きっと外が雨でも晴れでも、外に出ないで書くのかも知れない」
確かに歌なら、長編で表現されるところの一部一部を切り取ってそれぞれの歌になるのかも知れない。なんとなく腑に落ちる。
それにしても、それに続く先生の言葉はなんだか不思議だ。すべてをきちんと理解できそうにないけれど、操る言葉は子供でもわかる言い回し
だから、なんとなくなら俺の頭の中にも入ってくる。
「なんか、ほんと先生って、先生なんだなぁ」
俺のあんまりな語彙力のなさからくる褒め言葉に、先生は苦笑して口元を押さえる。
「それらしい事言ってるだけだよ。結果を出さなくちゃ」
「……なあ、先生」
俺は椅子から立ち上がって、先生の隣へと。そうすると、先生は柔和な表情を崩さずに迎えてくれる。
「先生は、沢山頑張って今回の話、書いたんだろ。アニメ化するって、普通じゃ中々ないんだろ。だったらさ、少しくらい、自分を認めないと」
「……キョウヤくん」
先生はちょっと困った様にしてから、また笑って。
「ごめん。後ろ向きな事ばかり言っちゃうの、よくないよね。キョウヤくんがあんまり凄いから、中々ね」
「俺、そんなに凄いすか……? 確かに、あの時……。ストリートライブをしていた時よりかは、成長したかも知れないけれど」
「それだけでも充分凄いんだよ。特に僕みたいに、物陰から顔を覗かせているだけの様な奴からしたらね。僕みたいな人種は、自分自身が前に出る
なんてとても考えられなくて。物陰に隠れて、そこから手を出して。自分の作ったものだけをどうにか見えるようにしている。そんなのが当たり前
だから。だから、自分自身で飛び出して、歌を唄って。賞賛と批判の矢面に立っている。立ったままでいるキョウヤくんは、本当に凄いって
思ってる」
「……先生だって。今度のアニメ化じゃ、少しくらい前に出るっしょ。それに……。そんな先生が背中を押してくれたから、俺は今こうやってやって
いられるんだ。やれる事が違うだけで、先生にだって、凄い力があるんだよ」
「ありがとう。優しいね、君は。本当に」
直截過ぎる物の言い方に、俺はまた照れて俯く。先生のこういう言葉の使い方に、いつもやられてしまう気がする。さすが文章を武器にするだけは
あって、先生は必要に応じた言葉の扱い方が上手かった。必要な時は言葉を崩して、まっすぐな言葉にして油断している俺にぶつけてくる。
だけど何よりもそれを効果的にしているのは、先生の使う言葉には嘘が感じられないところだった。
お世辞は口にしない。だから、使う言葉を全体でみると、先生はそんなに俺を褒めたりしない。
だからこそ、こういう時の先生の言葉は俺の心に染みた。言葉が身体の表面を突き抜けて、俺の胸の中へと流れて。そこからじわりと、体中を
駆け巡る。顔を上げて先生を見れば、穏やかな微笑みがあって。それで今度は外側からも温かな物を覚えては、俺の全身がぽかぽかとしてきて。
恥ずかしい。こそばゆい。
先生に何か言わせてしまうと、いつもこれだ。そして俺がこうなると、先生はそれ以上は何も言わない。その内別れの時間が来て、一人帰路に着く
俺は、また先生の言葉と心を望んでしまうのだった。
恋じゃない。俺、ホモなんかじゃない。先生の作る話の上での、同性を好きって気持ちも俺にはわからない。
だけど。
先生の事は、好きみたいだ。
うっすらと視界が開けていく。
なんだっけ。俺、何してたっけ。
そう思いながら瞼を開いて、ぎょっとする。目の前にある、先生の顔。俺を見つめる先生の存在。
そうだった。俺、あれからまたソファに座って、その内寝てしまったんだった。昨日ちょっと寝不足で。
「先生……?」
「ああ、起きたんだ。キョウヤくん」
いつもの様に先生が笑って。だけど、少し違う。笑い方が違う様に感じた。いや、それよりも。
なんでこんなに先生の顔が、
近い。
「……ッ!!」
俺は咄嗟に手を払う仕草をして先生を追い払った。先生は身を乗り出しては片腕でソファの背もたれを掴み、俺に近づいていたのだった。
強い拒否に、先生は眉根を寄せて……なんて事もなく。ただ身を引いて、じっと俺を見つめている。
「先生は……」
俺は、なんとなくそれを避けていたと思う。わかっていても、口に出すのは、言葉にするのは違うと思って。言葉を使う人だからこそ、その重みも
何も知っている相手だからこそ。そう名言されたら、その時俺自身がどういう反応をするのか。当の俺にすらわからなくて。それなのに、先生の傍に
居たいとも思ってしまっていて。自分でやっていた事だけど、勝手だと思う。けれど。
「……ホモなんだよな?」
「今更何言ってるの?」
先生の言葉に、俺は全身が飛び跳ねそうになる程にビビり散らかしていた。声が違う。冷たい、というか。冷めた様な声。初めて聞いた。先生は
こんな声も出せたんだ。顔を上げれば、先生が目を細めて。口元も笑っていなくて。誰なんだろう。この人は。俺がずっと今まで一緒に居た人とは、
まるで別人だった。
でも先生の言葉は、あまりにも正しかった。自分にどういう風にこの案件が振られたのか、その相手が書く原作をどんな気持ちで見ていたか。俺は
全部わかっていたはずだった。奇跡的な再会に、きっと舞い上がっていた。あの時のあの人。俺の夢を、きっと俺以外に初めて大切にしてくれた人。
そんな想いで、先生の傍に居ようとした。都合が良かったかな。きっと、そうなんだろう。親ですら、俺の夢を吐き捨てる様にしか言わなかった
から。俺の夢を、俺の姿を笑って応援してくれた人だから。そんな姿を回りから白い目で見られて馬鹿にされようとも、気にせずに声を出し続けて
くれた人だから。
ただの頭のおかしい奴じゃないのか、そんなの。
現実に引き戻される。もっと思い出に浸っていたかった。あの時の、あの気持ちのままでいたかった。違う。先生は、そんなんじゃない。
先生は……。
「僕がどんな人だったら、キョウヤくんは嬉しい?」
不意に発せられた一言で、胸を貫かれる。
「俺、帰ります」
「そうしたらいいよ」
いつもと同じような先生の返し言葉。なのに、冷たく感じられる。どうしてだろう。
「お邪魔、しました……」
「キョウヤくん」
玄関まで俺を見送りにきた先生は笑う。もう今までの笑い方をしていなかった。だけど、笑っていた。
「もうここには来ない方がいいよ」
「……」
俺は何も言わずに、扉が閉まるのに任せた。扉が閉まった後も、しばらく動けなかった。その先に、先生が居る。戻りたかった。あの頃に、ほんの
数時間前に。扉を開けて見える、先生の柔和な笑顔。全身で俺を歓迎してくれて、俺の話を聞いてはうんうんと頷いて。時には、その。ちょっと頭を
ぽんぽんとしてくれたりして。子供扱いされてるって思った。だけど今は、戻りたいと思ってしまった。
振り切る様に俺は背を向けて、歩き出した。帰り道をゆく間、ずっと胸がむかむかとしていた。痛い。なんでこんなに辛いんだろう。結局先生も、
ただのホモ野郎だったってだけ。それだけなのに。それだけ。
「キョウヤくん」
それだけじゃなかった。そんな風に名前を呼ばれて、続く言葉をいつも俺は待っていた。なのに。
やっぱり。違う。でも。だけど。頭の中で凄まじい勢いで、先生を庇う自分と、先生を非難する自分が戦っていた。残ったのは、それだけ先生の
存在が大きかったという事実と、そしてそんな先生に手を出されそうになって俺は強い拒否をしてしまったという事実だけだ。
拒否して当たり前。縁が切れて当たり前。だけど大切だったから、それとは別に胸が痛んで当たり前。
そう思うしかなかった。それ以上に俺にできるのは、ただ足を一歩、また一歩と踏み出して自分の家へと向かう。それだけだった。
家に戻って、俺は途方に暮れていた。先生との事に対しても、そして再会するきっかけとなった仕事にも。
書きかけの歌。先生の世界に合わせたかの様に、そして先生との話を通じて先生の世界を広げるかの様に、作っていた歌。
先生のためだけに作られた歌は。この話がポシャったならもうどこにも出せないだろう。そもそもそうなったら世になんて出したくない。
あんな風にして別れたから、先生は俺が仕事を降りると今更言い出したところで、別に驚かないだろう。それどころか俺に無理なお願いをして
しまったのだから仕方ないと、担当辺りには言うだろう。
先生との縁もそれで切れて……。
「人と人との縁って、時にはどうしても切れてしまうものなんだよね。無理に繋ぎとめようとしても、互いが痛い目に遭うだけだから。だけど僕は、
キョウヤくんとの縁が、ずっと続いてくれたら、嬉しいな」
また、先生の言葉が聞こえる。優しくて、温かくて。家族との縁を損なった俺にはどうしようもなく染み入る言葉が。
染み入った分だけ深く、深く潜り込んだ言葉が、ふとした瞬間に蘇っては暴れて俺の胸の傷口を広げる。
あの人、酷い人だ。クソ野郎だ。小説を読んでビックリした。こんなにふわふわとした人が、こんな小説書くのかって、でも違った。あれが
あの人の本性なんだ。クソッタレ野郎だ。
「僕がどんな人だったら、キョウヤくんは嬉しい?」
また出てきた。もうやめてくれ。その言葉は、そう口にした先生の表情も思い出してしまう。
「キョウヤくんは優しいね」
ああ……。
頭を抱えながらベッドに沈んでいると、不意にスマホが着信音を上げる。
先生。
咄嗟にそう思ってしまった自分が憎い。大体着信音が先生が来た時にわかりやすいようにと設定した奴と違うじゃないか。馬鹿だ俺は。
だけど仕事のそれでもない。なんだったっけかと思って画面をよく見て、"母さん"の文字に気づいて目を見開く。
「……はい」
「キョウヤ。今、大丈夫?」
「うん。大丈夫。どうしたの? また、親父に怒られるよ」
「……お父さんがね……」
母さんから続く言葉に、俺はまたしても大きな衝撃を受ける。
親父が、死んだ。
そこからしばらくの間は、まともな記憶がなかった。いや、何をしてどうしたかとかは勿論憶えてる。親父が死んだ事だけは間違いがないのだと
知って、来られるのならこの日が通夜だから来なさいとだけ確認して。俺と親父の仲互いはもはや修正不可能な領域だったから、母さんは俺には
最低限の出席以上の事は求めなかった。どうしてもいやなら出る必要がないとも言ってくれた。
母さんとの通話を一度切って、担当に連絡を。父が亡くなったとだけ告げると、あっさりとしばらくは休みのままでいいと言ってくれた。仕事の
連絡は任せてほしいとも。担当は俺と親父の確執も理解しているから、実際に俺が葬式に深くは関わらないだろうと知ってはいるだろうけれど、
何も言わなかった。
先生には……。
なんで先生の事なんて考えてるんだ俺。関係無いだろ。そもそも担当が仕事に関しては受け持ってくれたから、必要なら先生に連絡もするだろう。
一頻りそうしてから、俺は魂が抜けた様に横になった。まるで他人の行動記録を読んだかの様に、何をしたのかは知っていても、実感がついて
こなかった。親父の事も。そうか、死んだのか、親父……。それ以上の感情がついてこない。やっと死んだ、とか。そんな風に思ったりもしない。
ただ、親父に音楽の事でかなり手酷く言われ、殴られた事を思い出した。
「なんのためにお前を今まで育ててきたと思ってるんだ!」
なんでこんな事を、今鮮明に思い出してしまうのだろう。先生の事で今、辛いのに。追い打ちを掛けるような言動ばかり、鮮やかに甦る。
疲れた。もう疲れてしまった。笑える。つい数時間前まで、何もかも順調とわくわくしていたのに。たった数時間でどん底にまで落ちて、もう人生
に疲れただなんて。滑稽だ。
そのまま、数日が過ぎた。その間こそ一番記憶がなかったかも知れない。俺は久しぶりに実家に戻って、母さんと、それから弟達に顔を合わせた。
誰も、俺を咎めるような事は言わない。親父こそが一番俺に対して怒りを覚えていて、他の皆はどうにか親父をなだめようとして。結局俺の方が
我慢できずに家を飛び出したから。ただ、弟達はみんな俺と違って品が良さそうで……なんというか、うん。多分、俺がそういう風に出ていったから、
余計に親父の目が光っていたのだろうと思う。
親父の遺体にも、目を通した。何も感じなかった。最後まで仕事一筋だったらしく、歳と過労の二重苦で最後は倒れてそのまま……だった。
葬儀自体も、特にそれほど取り立ててという事もなかった。親父の会社の連中が多かったくらいで、それ以外は親戚が集まると、久しぶりに目に
留まった俺にはむしろ笑いかけて声をかけてくれる人も多いくらいだ。
通夜と葬儀の前後を利用して、親父の遺品を整理する。センスの古臭いものばかりで、取り立ててこうだという物も出てこない。本当に、歳を
取った男が一人居なくなったと、それだけを感じさせる。
俺の出していた曲のCDや、ポスターが実はあった。なんて事もない。別に、期待してない。罵詈雑言の果てに俺を殴り倒した男が、実は俺の事を
心から愛してくれていて、俺の活動を応援してくれていただなんて、そんなはずもない。
でもきっと、心から愛してくれてはいたと思う。俺があの人の言う事を聞いていた間だけ。
最低限の付き合いを終えると、俺は逃げる様に自分のマンションに戻った。別に、母さんも弟達も、俺の活動を応援してくれている方だと思う。
だけど、実家が俺にはただ居心地の悪い場所でしかなかった。例え本人が居なくなっても、そこは親父の領域だったから。苦い記憶しか、なかったから。
ベッドの上に転がると、俺はまた無気力になってしまう。
どうしてこんなに力が出なくなってしまったんだろう。俺、プロのミュージシャンになったじゃん。夢を叶えたけれど、でもその夢はまだまだ
これからじゃん。まだ、始まったばかり。少しも終わりなんて見えてない。
考えて。考えて、考えて。その内に気づいた。
確かに俺が夢を抱いたのは、子供の頃に見た、喝采を浴びるストリートライブをしていたミュージシャンの姿だった。
だけどそこから先は。
親父に反対され、見返してやりたかった。だけどその気持ちじゃ足りなかった。
疲れ果てかけた俺に、たった一人で精いっぱいの拍手と言葉を贈ってくれた人が居た。
周りがあの人の事を、白い目で見ていた。馬鹿にしていた。
あの人が、馬鹿にされないくらい、ミュージシャンとして大成したい。俺に送られる声援の中の一つにあの人がなってしまったとしても、俺はきっと
あの人を見つけられるだろう。
あの人を……。
「うっ……うぅぅ……っ」
涙が溢れてくる。そんな人との奇跡的な再会も過ぎて、そしてその人との縁も、もう。
どうしたらいい。俺があの時、あの人を受け入れていたら良かった? 違うだろう。そんなの。だけど、あの人に離れてほしくなかった。家族に
すら見放された俺の背を押してくれたのは、例えあの人がどんな人だったとしても。そしてこの後また別の誰かが支えてくれたのだとしても。
あの人が最初。それだけは何があっても変えられない。
変えられなかったのだ。
変えたくなかったのだった。
視界が捻じ曲がる。
あまりにも精神的な負担が大きすぎたのだろうか。次の日から高熱を出して、やる事も変わらず俺は蹲っていた。少しぱさぱさになってきた尻尾を
ただ抱いて。
もう消えてしまいたかった。死ぬなんて俺には早すぎるという気持ちはあるけれど、疲れてしまった。
だけど結局、そうする事もできずに時間ばかりが過ぎてゆく。
"死ぬのなんていつでもできる。そう思えば、なんでもできる"
どっかの馬鹿な奴が得意げに口にする台詞が浮かんでくる。滑稽だ。まるでいつでも死ねるんだ、なんていう風にそういう奴は言う。
死ねなかったからそうしているだけの癖に、いつでも死ねるだなんて言ってしまう浅はかさが嫌いだった。
このまま俺も、こうしていればその内には。そうなるんだろうか。そうなれるんだろうか。無理だろうな。俺は意気地なしだから。
だけど、段々と感覚が無くなってきた。熱で頭がぼんやりとして、立ち上がりたいけれど、上手く動けない。あ、これやばいかも。
ちょっと自嘲気味に笑った。死にたくて死ぬんじゃなくて、単に具合悪くして死ぬのか、俺。短い人生だったなぁ。
だけど俺には、似合いの死に方かも……。
なんて思っていた俺の耳に、スマホの着信音が届く。俺は飛び上がりそうなくらいに驚いて。
画面を見つめる。見る前からわかってる。それが誰からの物なのかを。掛かってきてほしくないなと思いながら、掛かってきてほしいと思っていた
その相手を。
振り絞るように腕に力を籠めて、ベッドの隅に投げ捨ててあったスマホを手に取る。まるて藁をも掴むかのようだった。
「……」
「キョウヤくん……?」
電話を取ると、俺はもしもしって言おうとして、何も言えなかった。口の中が乾きすぎている。これ喉ヤバい。仮にもプロのミュージシャンだろ
俺。アホだな。最悪これで歌えなくなるのに。
「……先生……」
「大丈夫? その……。お父さんが亡くなったって話は聞いたけれど」
担当はやっぱりその辺りは先生に話していたみたいだ。まあ、仕事の関係で先生を待たせる場合もあるというのなら、伝えない方がおかしいか。
「先生、俺」
そこまで口にして、俺は盛大に咳をする。痛い。喉が痛い。必死にこらえようとして、口の奥の方で破裂するような痛みを食らって、諦めて
また普通に咳をして。
「キョウヤくん!? ……今から、そっち行くよ。いいね?」
「あ……うん……」
来ないでくれ。とは言えなかった。それよりも先に、通話は切れてしまった。
通話を切って、俺がぼーっと動かないでいると。三十分くらい経った頃だろうか。インターホンが鳴らされる。先生が、きてくれた。
のはいいんだが、何せこの身体である。這いつくばるようにしてベッドを出て、玄関に向かうだけでも一苦労だった。先生は俺が寝ていると思った
のか、その間にもう一度インターホンが鳴らされるし。
「キョウヤく……キョウヤくん!?」
どうにか手を伸ばして鍵を開けると、扉が勢いよく開かれて。その向こうにいた先生が俺を見て、素っ頓狂な声を上げた。まあ、今倒れてるし。
先生は俺の隣に何かのビニール袋を置くと、すぐに俺の身体を支えてくれる。
「持ち上げるよ」
そういって、ひょいと俺をお姫様抱っこしてくれる。力すごっ。それとも俺が元々細マッチョよりなのに、ここ最近の不調のせいで体重が減っているから
だろうか。
先生はそんな俺の様子などお構いなしにさっさと俺をベッドの上へと運ぼうとして、その惨状を見てくぐもった声を上げた後に、ひとまず
俺を床に寝かせると手早くベッドを片付けて、俺を寝かしつけてくれた。
「まったく……。なんで僕がこんな事してるんだか」
遠く、先生の声が聞こえる。迷惑そうな声。やっぱり、記憶を探っても中々聞けない声音だった。いつも俺を気遣ってくれた先生の声音には遠い。
不意に、ぐっと身体を抱き寄せられる。
「飲める?」
ぼんやりとした視界の中で、よく見ると俺の口元にはスポーツドリンクがあてられていた。俺はゆっくりと口を開いて。けれど狼の口では上手く
飲むのは難しいし、その上で俺の体調がこれだから、そこそこ零れた。先生は気にせずに、ゆっくりと俺に飲まそうとして。ある程度俺が飲んだ事を
確認すると、ペットボトルを下げて口元と喉と胸を用意していたタオルで拭いてくれた。
そのまま、ゆっくりと先生が俺をまた寝かせてくれる。
「ああもう、なんにもない! もう! 馬鹿!」
なんか、罵詈雑言が聞こえる。可愛いな。親父に言われた言葉と比べたら……。
大慌てで先生がテーブルの上にあった部屋の鍵をひったくって、外へと走り出してゆく。俺は先生が置いていったビニール袋へと視線を向ける。
中にはスポーツドリンクと、サンドイッチが入っていた。多分、俺の元気の無さで精神的な物だろうと踏んで、軽食を持ってきてくれたのだろう。
ところがどっこい、再会した俺は高熱で死にそうになっている訳で。先生に馬鹿って言われたの、初めてだ。
十分もしない内に、扉が開かれてどたどたと先生の足音が部屋に響き渡る。なんだかそれも、新鮮だ。先生は自分の体格がデカいのを自覚している
から、いつも足音を立てないように気を付けていたから。息を切らしている音も聞こえる。多分、マンションの一階がコンビニだからそこに行ってた
のかもしれない。
しばらくすると、いい匂いが部屋に漂ってくる。美味しそうだなと思う。熱のせいか、食欲はあまり湧いてこないけれど。
「キョウヤくん。食べられる? 薬も買ってきたから、まず食べてからね。とりあえずそれで様子見て。明日になっても酷いなら病院だよ」
お粥を持ってきてくれた先生が、俺の上半身を起こして。膝の上に置かれたお盆の上には、美味しそうな卵がゆができている。元気な時だったら、
お粥であっても食いつけるくらいだ。
レンゲなんて気の利いた物もないので、スプーンを先生は差し出して。俺はそれを手に取ろうとして先生の手に触れた辺りで、先生が首を振った。
よっぽど俺の手には力が籠っていなかったらしい。先生は渡そうとしたスプーンを自分で握って、お粥を掬ってくれる。
「ゆっくり。……ん。いい子」
何度か息を吹きかけてから、俺の口元へと運んでくれる。口の中に、じんわりと温かさが広がる。味は、あんまりしない。感じられていないのかも
知れない。
俺の口内にお粥が入ったのを確認すると、先生は楽なように俺の背を何度も優しく撫でてくれる。俺がお粥を飲み込むと、少し待ってからまた
同じことを繰り返して。
「どれくらい食べてなかった?」
「……四日くらい」
先生の溜め息が聞こえる。何か言う事はせずに、そのまままた食べさせてくれる。五回くらいそれを繰り返した辺りで、先生は一度お粥を下げて
くれた。正直俺もそれ以上食べたいという気が出なかったので、助かった。
続けて薬と白湯を素早く用意してくれて、ゆっくりと飲ませてくれる。お粥もそうだけど、温かい物が体内に入ってくるのが快かった。
そのまま先生はしばらく俺の様子を見て、俺がもじもじしているのに気づくとまた抱き上げてトイレまで運んでくれる。
「寝なさい」
布団を被せられて、それだけ言われる。俺はありがとうと言おうとして、けれど急激に睡魔に襲われてそのまま眠りに落ちていった。
久しぶりに、よく眠れた気がする。先生と離れてから、親父が死んでから、まるでどこに腰を落ち着けて、心を落ち着かせたらいいのかが俺には
わからなくなっていたから。こんなにも自分は脆かったんだなって、思い知らされる。自分の努力でプロになったと思っていたけれど。
深夜に、大量の汗を掻いた。身体が熱くて、火照って仕方がない。大量の汗が流れて、被毛も布団もシーツも枕も濡れているのが伝わってくる。
苦しい。やっぱり俺、このまま死んじゃうのかな。
呻いていると、布団かどけられてふわっとした風が流れてくる。俺の身体に、ひんやりとした濡れたタオルの感触がして。それから枕に
予め巻いてあったバスタオルも新しい物へと取り換えられる。
「大丈夫。大丈夫だよ。……ごめんね……」
程なくして俺はまた眠りを再開する。
目覚めた時。俺の身体は夜通し続いた不調が嘘のようになくなっていた。ただし喉は別として。
それと同時に、俺は冷や汗を掻く。先生に、なんて事させてたんだ俺は。
「おはよう」
声を掛けられて、俺は顔を上げると先生が俺を見下ろしていた。
「おはよう……ございます」
「少しは元気になったかな?」
「あ、はい。……すんません。ご迷惑、おかけしました」
俺を見下ろす先生は口元に笑みを浮かていたけれど、目の方は大分笑ってなかった。ある意味器用だと思う。だけどその様子は俺が仲違いをする
時のそれともまた違う。というより、多分寝てないのだろう。寝不足の不機嫌さがよく出ている。
それでも先生は何も言わずに、体温計を取り出して俺の様子を探ってくれる。
「大丈夫そうだね。喉は少しやられてるみたいだから……これは長引くのなら、やっぱりお医者さんに見てもらった方がよさそうだけど」
「ありがとうございます。何から何まで」
「……別に。お父さんの事もあると思うけど、僕のせいでもあるんでしょ」
「まあ……そうっすね」
「……」
そこで先生が言葉を詰まらせる。珍らしい。先生が言葉を詰まらせるところなんて、本当に一度も見た事がなかったかも知れない。
先生は言葉を吐きだすのを諦めて、手を伸ばすと掌で俺の頭を乱暴に撫でつけた。
「じゃあ、もう帰るよ。僕が居たら、嫌だろうし。それだけ元気なら、あとは他の人に連絡するくらいはできるでしょ」
ぱっと手を離すと、先生はさっさと身支度を整えて帰ろうとする。
「……何?」
背を向けて起き上がろうとした先生の服の袖を、咄嗟に俺は掴んでいた。迷惑そうな様子を相も変わらず隠しもせずに、先生は俺を見下ろす。
「先生は……俺の事、もう嫌いになったんですか」
「……」
また、先生が押し黙る。
「傍に居てほしいって言ったら……怒りますか」
「都合よく使える相手は欲しいって事?」
一瞬にして、先生の言葉が凄まじい棘になって俺に突き刺さる。ああ、言葉の使い方を知っている人って、こうなんだなって思い知らされる。
普段は相手が喜ぶ言葉を選んで贈っているだけであって。相手が喜ぶ言葉だけを選べるって事は、選ばなかった言葉を束ねるだけでこんな風に
相手に傷をつける事も簡単なんだな。
今度は俺が何も言えなくなる番だった。先生の、言う通りだった。きっと俺は、先生を都合の良い相手として見ているんだろう。先生から近づいて
きたのをはねつけておいて、自分が崩れ落ちそうになったら縋っている。先生は、俺を優しいって言う。でも、きっと本当に優しいのは。
そんな優しさに、縋ろうとしている。
「君は、僕とどう"在りたい"の? キョウヤくん」
「……俺……」
言葉が、上手く出てこない。言葉を使うという事柄に対して、俺と先生とでは本当にレベルが違う。確かに俺は作詞もするから、その辺の奴よりかは
多少はまだ理解ができている方かも知れない。だけど、先生の小説を読んで、先生自身の言葉を聞いて、よくわかる。俺と先生では、まるで言葉の
使い方が違っていた。そんな俺の言葉で、先生にどんな風に声を掛けたらいいのか、わからなくて。
「俺、よくわからない……です。男同士とか、先生と、とか……。もしかしたら、先生は、俺にそれを求めていて。それに応えられない俺の事なんて、
いらないのかも知れないけど……。俺なんて、プロになったからちょっと見た目にも気を遣ってるって、そんな程度で。馬鹿だし……。歌が少し
唄える程度で、先生みたいに頭も良くないし……」
なんだか、うじうじとした述懐になってしまう。だって、言っちゃなんだけど、先生って多才なんだよな。なんでこんなに多才なのに日陰者みたいに
振舞っているのか、俺が首を傾げてしまうくらいに。プロだけど、駆け出しのミュージシャンの俺じゃ釣り合えないくらいに、本当に沢山の事を
知っている人なんだって、もうわかっていて。
「ただ……。俺、先生と一緒に居るのが、楽しかった……。先生に応援してもらって、本気でプロを目指したあの時は、勇気を貰っていたけれど。
それだけじゃなくて。あの時のあの人が、先生が、ホモって知って、ちょっとうえってなったけど……ええっと。そうじゃなくて……いや、そうじゃ
ない訳でもないけど……」
「君、馬鹿だね。正直すぎない?」
「……嘘は言わない先生には、言われたくないっす」
はあ、と溜め息が聞こえる。呆れられただろうか。今度こそ、嫌われただろうか。だけど、それも仕方ないと思う。
「どうして今も君が、僕にそんな風に声を掛けて引き留めるのか。……引き留めてくれるのか、僕にはわからないけれど」
先生が、またベッドに座って、俺を見つめてくれる。
「だって俺、先生が俺を騙してるだなんて、思わなかったから。いつも先生は、本当に思った事を口にしてくれてたって思ってる。俺は、先生の事、
まだ知らない部分が沢山あるけれど……。先生が俺を大切にしてくれてたって、信じてるから」
「言葉なんて、いくらでも繕えるじゃない。僕が君の夢を大切にしていただなんて、そんなの。あんな、ほんの少しの、短い。一瞬の事なのに」
「言葉だけじゃなかったよ。いつだって、先生は」
先生を拒んでも、先生に冷たい言葉を口にされても。もしあの時、先生が俺の夢を応援していたなんて事はなくて、内心は他の奴と一緒だったの
だとしても。俺は先生の言葉で走り出して、そして再会した先生にいつだって励まされてきた。言葉だけなら、確かにいくらでも積み重ねられるの
かも知れない。だけど、それを口にしている時の先生の表情はいつだって。
「……俺に、酷い事言ってる時の先生は。いつも辛そうだよ。俺と一緒に居てくれた時の先生は、いつもあんなに嬉しそうにしてたのに……」
言葉だけを聞いていたら。声音だけを聞いていたら。きっと気づかなかったかも知れない。先生をまっすぐに見る事をしなかったのなら、俺も
先生の言葉だけを受け取って怒りだしていたかも知れない。だけど先生の表情は。結局のところ、いつだって俺を心配してくれるものだった。
それに。多分、先生が本気で俺の心を引き裂きたいのなら、もっと酷い言葉はいくらでも使えるだろう。なまじ先生の小説を何回も読んでいるので、
その語彙力がどこまでも広がっているのだって、俺は知っている。
いつだって、先生は言葉を選んでいた。
「君に仕事の依頼なんて、しなきゃ良かったな……」
先生の白い腕に、ぽたぽたと雫が落ちて。はっとなって、俺はその顔を見つめる。先生はじっと俺を見つめながら、泣いていた。表情はそれほど
感情を灯さずに、だけど次から次へと溢れるかのように流れては頬を伝い落ちてゆく涙は、先生の感情をそのまま語るかのようだった。
「先生……」
「僕の小説が、こんな風に表に出てくるなんて。きっと金輪際無いと思う。僕が先生なんて顔して、君に声を掛けられる機会も、きっと。その上で、
声を掛けた君が今でも僕の事を憶えてくれていて……。僕の事を恩人だなんて言ってくれて。僕が心配して声を掛ける度に、嬉しそうにしていて」
次第に、先生がしゃくりあげる様になってくる。いつも先生は落ち着いた雰囲気だけど、今はそれも取り繕う事ができなくなっていた。
「僕と君とじゃ、住む世界が違う。……ううん。僕がそう思っていたかった、だけなんだけど。僕はずっと、日陰者でよくて。君みたいな人を離れて
見ているだけで良かったのに。ほんの少し、君と一緒に居られたら。もうそれだけで充分だったのに。どんどん、一緒に居たくなって。君が、
僕みたいな……。男が好きな奴なんて嫌なのも。すぐわかったのに」
その言葉に、俺はどきっとする。最初から、先生は知っていたのか、それを。
「わかるよ。君だって、顔に出てるもん」
思わず、苦笑する。俺も先生も、嘘が下手だった。
「それなのに、僕が傷つかない様にしている君が……。こんな仕事、蹴っ飛ばしても良かったはずなのに、僕と一緒に居てくれた君の事が、どうしても
僕は……。諦められなくて。でも、僕が一緒に居たら。きっといつか、君の仕事の足も引っ張るんだってわかってた。今回の仕事だって、そういう
意味ではこの後どうなるかわからなくなって……」
俺が先生からの依頼を受けるか悩んでいた頃を思い出す。ホモアニメの曲を担当した奴。一部の奴からしたら、良い嘲笑の的なんだろう。
「僕、キョウヤくんが好きだ。でも……キョウヤくんの邪魔をしたくない。僕が間違っているせいで、キョウヤくんの夢の邪魔になりたくない……」
先生の言葉は、そこまでだった。限界だったのだろう。先生は静かに泣いていた。そこまで考えついて、多分、俺を遠ざけようとしたのだろう。
手を伸ばそうとして、俺は自分の手を見つめた。先生の言う通り、なのかも知れない。この手を伸ばすか、引っ込めるかで、俺の今後の展望は
変わるのだろう。変わって、しまうのだろう。
そしてほとんど迷う事もなく、俺は先生の手を掴んだ。先生の身体がびくりと震える。
「それでもいいよ。俺」
「どうして……? 夢だったんでしょ。夢が、叶ったんでしょ」
「だって。歌は、誰かが聞いてくれなくちゃいけないだろ。俺は……先生に聞いてほしい。先生も言ってたじゃないか。作るのはどんなにか独りでも、
それでも読んでくれる誰かがいないといけなくて。だから結局のところ、何かを作る人は、ひとりっきりじゃないって」
「それは、そうだけど」
「俺、新しい曲作る度に、応援してくれた先生の事思い出してた。あの人は、聞いてくれるかなって。今までと毛色が違う物を作った時なんか、特に
そう思ってた。気に入ってくれるかなって。まだ、俺の歌を聞いてくれているのかなって」
実際には、先生は俺のファンになってくれていたから。そんな俺の願い通りに歌を聞いてくれていたのだけども。
「だから先生。俺の歌、もっと聞いてよ。結局先生の事ばっかり考えて、歌ってた。俺の夢はミュージャンになる事だったけど……。ただなるだけ
じゃなくて。先生が居ないといけなかったんだ」
「本当に、いいの? もしかしたら……プロじゃなくなっちゃうのかも知れないのに」
「そしたら、アマに戻って。先生の作る物に沢山歌つけようよ。それもきっと、楽しいよ」
「……馬鹿みたい。せっかく、プロになったのに……そんなの……」
笑いながら泣いて、先生が俺を抱き締める。俺も、なんの躊躇いもなくそれを受け止められた。
「俺の傍に居て。先生」
「……変、なの……。そんな言葉、僕が言われるなんて……。僕なんかが……」
自分が間違っている事、正しくはない事、在ってはいけない事。認められない事。先生の言葉には、それが滲み出ていた。それが悲しくて、
愛おしかった。きっと先生の半生は、小説を書く原動力にもなっていた様に不幸な物だったのだろう。自分の胸にナイフを突き刺して、溢れ出た血で
文字を書き連ねるようなものだったのだろう。そんなの本当は、わかっていた。先生の書く文章には、どこかしらそんな雰囲気が、匂いの様な物が
漂っていた。痛みを強さに変えていたものだったのだろう。
強さに変えただけ、また痛みも増してゆくのに。
そんな状況にあるはずなのに。辛くて仕方がないはずなのに。あの日、先生は俺に手を差し伸べてくれたのだった。それだけで、俺が先生の
傍に居たいと思うには充分な理由になった。そんな先生だからこそ、他人の痛みには人一倍敏感になったのだから。俺にとって先生の都合の良い部分
だけを浚っていこうだなんていう方が、よっぽど都合が良く、酷い話だった。
ぎゅっと、先生が手に力を籠める。合わさった胸に、ぽたぽたと涙が零れ落ちてゆく。
濡れて、湿って、冷たくなって。それでも合わせている内にほんのりと体温によって温かくなってゆく。
そんな感じだった。人と一緒に居るのは。先生と、一緒に居るのは。
部屋をちょっとだけ暗くして、二人の間にポップコーン。
そんな状態で、俺と先生はじっと画面に見入っていた。そして、エンディングが始まる。
「お、終わった……っすね」
「うん……うん」
二人して、見入っていた。
"異世界に転生した俺(と彼)の(恋愛)事情"
に。
やっぱ名前、ちょっとどうにかならなかったんだろうか?
「如何にもって感じにしたくて」
「そっすか……」
そんなやり取りも、なんだか今は遠く感じる。
あれから紆余曲折を経まくって、それでも俺は先生と一緒に居て。そしてついに俺はイセジョーのために新規に曲を書き下ろし、マスターデータを
送りつけては先生と並んでアニメの放送に正座待機する様になっていた。先生は原作設定を守るかどうかに対してはノータッチだったので、俺と
並んで放送されるまで中身も特に知ることもなく一緒になってアニメに見入っていたのだった。そして、無事最終回まで俺達はアニメを見ていた。
「終わっちゃったね」
「そっすね……」
「正直ちゃんと最後まで放送すると思ってなかったよ。打ち切り食らっても仕方ないかなって思ってた」
「ま、まあ……そうなのかな?」
「だって最初アニメにしませんかってメッセージ貰った時、これ絶対詐欺の奴じゃんって思ったもん」
「ああ、まあ。金になるかどうかで言えば、ならないでしょうしね」
「でしょー。絶対こっち系の、そういう耐性無い人に声かけてまわってるんだって思ったよ。アニメにするのに最初にこれだけ払ってくださいとか、
そういうの無いの見て、直接連絡して、その後教えてもらった会社に僕の方から電話してちゃんとした話なんですかって確認したもん」
さすが先生。警戒心の高さ凄い。俺だったら面倒臭くて相手にしないかもしれない。
「多分、キョウヤくんの対応の方がいいと思う。それでも僕が反応しちゃったのは……ちょっとだけ、キョウヤくんみたいに表に出てみたかったから
かもだけど……」
「そういえば、良かったんすか。その。結構、叩く奴も居たみたいだけど」
イセジョーの放送後、案の定ネット上では嘲笑というか、揶揄するかの様な書き込みが散見された。その辺は無法地帯に近い場所ならではと言った
ところだ。個人に対する中傷なら最近は罰される事も多いけれど、それがメディア関連となると中々そうはいかない。その向こう側で誰かが傷ついて
いる事も、傷の大きさも変わらなかったとしても、だ。
先生にこの話を振っていいのか、なんて俺は思ったりもしていたけれど。その辺りは当の先生がこんな風に書かれてたよ、なんて言うので最近は
特に遠慮しなくなっていた。
「それも表に出るって事とセットだからさ。キョウヤくんだって、歌を出す度に色々言われてたんでしょ」
「あー、まあ……今までと違う歌になってつまらなくなった、とか。言われたりもするけど」
「難しいよね、そういうの。意外とさ、ある物を作ってくれる人に対して集まる人達っていうのは、同じような物を求めてるらしいよ。作る方と
してはさ、前と同じだと手に取ってくれる人は嫌かなって考えたり、そもそも似たようなのを連続で作りたくない! って思っちゃうけどさ」
「わかるわかる。すごいわかる」
「まあ、何々料理って食べにいって違うの出てきたからコレジャナイみたいな感じっていうのかな? 別に何々って決めて作ってるつもりはなかった
けど、やってくる人は割とここはそういう店って認識するんだろうし」
「飯屋で例えちゃうと、ほんとそれはわかるわって感じっすね……。ラーメン屋でカレー出されてそれが美味くてもなぁって感じだし」
「それ潰れる前兆じゃん」
けらけらと笑って、先生が残ったポープコーンをもりもりと口に放り込んで。そんな風に鑑賞会は終わりを告げる。
「でも、思ってたよりしっかり作ってあったね。予算も控えめの深夜アニメ枠だし、話が話じゃない? なんていうか、中途半端になって、なんで
こんなのやってるんだってなる気もしてたんだけど。ここってところはしっかりしてて」
「先生に話持ってきてくれた人がその辺は目を光らせてたんすかね」
「キョウヤくんの歌も良かったし」
「それは……毎回オープニングで流れてくると正直ちょっと恥ずかしかったっすね……」
前にやったタイアップはアニメとかじゃなくて、特定の商品に歌を流すって奴だった。なのでそんなに恥ずかしいって気持ちもなかったし、あ、
俺の歌だわってわかるような。もちろん初めての事だったから、飛び上がるくらい嬉しかったけれど。
でもこっちは時間になったらオープニングアニメが始まって、そして躊躇なく俺の歌が流される訳で、ちょっと慣れないと心臓に悪い。
「でも、キョウヤくんの歌すごくよかった。評判もよかったよね」
「あー……そ、そう……すね」
俺は思わず歯切れ悪くなる。歌は、よくできたと思う。先生の世界観に、あの生き生きとした描写から表現される世界がアニメになったものを、
ほんの少しでも彩れるようであれと願って、そして先生も気に入ってくれて。ネットの書き込みもその辺りの反応はよかった。
だけど……。
"キョウヤの無駄遣い""仕事選べよwww""誰こいつ?"
そういう言葉が目に付く時もあった。先生に、見せたくなかった。特に最初は、もしかしたら俺のファンが書いてくれているのかも知れなくて。
俺は先生を傷つけたくないのに、俺のファンは先生を傷つける奴も居る。そんな、世に出してしまえば当然出てくるであろう流れが、実際に
目の当たりにすると辛かった。
あと誰こいつって言った奴。絶対いつか見返してやるからな。その時になってもまた忘れてくれるなよ。
「それだけキョウヤくんの事が好きなんだよ、みんな」
穏やかに微笑んで、先生が言う。なんでそんな事言えるんだ、先生。
少しくらい怒ってくれたらいいのに。
だけど、無論悪い評価ばかりではなかった。全体で見れば、良い悪い以前にそれほど話題に上らない。予算的にも美麗なアニメーションで
あったとか、戦闘シーンが良かったとか、そんな風にもなり得ない。けれどもこういった、プロですらない、それも先生の様な同性愛者の作った
世界を、同性愛の表現をそのまま(もちろんマイルドにした部分は多いが)物がアニメになって流れるというのは、昨今の兆候としては良い物
として受け入れられてもいた。
「まぁ、僕はそういうの好きじゃないんだけどね」
「えっ」
「なんか、マイノリティだから注目させてやろう。みたいで、嫌い。中身で勝負してないから。お膳立てしてもらってるだけじゃない?」
「じゃあ、なんでアニメに許可出したんすか……?」
「"面白かったから"アニメにしたいって言われたから。じゃあ、いいよって」
一歩間違えれば今回の話、なかったのか。でも、その言い方はわかる。俺もその口だ。面白かった。まずこれに尽きる。ホモ小説だとかそういう
所で馬鹿にしたい気持ちも、忌避する気持ちもわかる。俺もそうだから。でも何より、文章の巧みさに舌を巻いたのだった。ただ、映像作品にして
しまうと、その辺りの文章の良さというのは台詞、もしくしナレーションだけになってしまう。到底先生の良さのすべてを表現できないだろう。
「でも、みんなが喜んでくれたのは良かったかな……?」
ちょっと照れたように先生は言う。先生がひっそりと発信しているSNSでは、元から先生の物を手に取っていた人達がかなり湧き上がっていた。
頓挫する可能性もあるし、という事で先生は本当にギリギリのところまで自分から告知はしなかったので、彼らからすれば唐突なアニメ化で
寝耳に水だっただろう。先生がひっそりとアニメを見終わったとメッセージを出すと、ガチ勢の方々からの熱いメッセージが届いていた。熱量凄い。
「うわすご。先生、自分の事そんなでもないみたいに言うけど、人気っすね……」
「んー……でも僕、自分の作ったものがチヤホヤされてほしいけど、僕自身はチヤホヤされたい訳じゃないから。前にも言ったけど、僕は頭の中の
物を書いただけの奴で、凄いのは僕じゃないからね」
なんていうか、その辺の独特の考えただけは今でもちょっと慣れないなと俺は思う。
だって俺はチヤホヤされたい。めっちゃされたい。
「それだから表に出られるんだろうね、キョウヤくんは」
先生のそんな言葉で、鑑賞会は締めくくられた。
そしてその後。
俺は相も変わらず先生と時間を過ごそうとするけれど、先生はそれに少し困った顔をするようになっていた。
「あ、あの。キョウヤくん……もう、アニメも終わったし、キョウヤくんとのお仕事の話も、終わったんだよ」
「そっすね」
「……無理しなくても、いいんだよ?」
最後の最後にブレーキを掛けるかのように。最初に俺を脅かすようにしたのは先生のはずなのに、今の先生は消極的だった。確かに、仕事の上での
関係ではあったのかも知れない。当初の俺は、仕事だからと仕方なく先生に会おうとしていた。だけど今は。
「先生。俺の事、嫌なんすか?」
「ちが……そんなはず、ない。わかってる癖に」
俺が両手を広げて先生に微笑むと、先生はおずおずと俺に身を寄せる。俺を甘やかすために抱き締めたりするのは、先生には慣れた事なのに。それ
以外でこうしようとすると、先生は途端に尻込みをする。
俺達の距離感は、泣きながら抱き合ったあの時から縮まってはいなかった。
「この仕事をしている間は、このままでいい。仕事をしている相手だからって、変な風に忖度したくない」
先生のその言葉に、俺は頷いていたのだ。だから今、ようやく俺と先生は一歩前に進む、はずだった。
だけど、そこに来てからの先生の躊躇いである。
「キョウヤくん、男相手は嫌なんじゃないの?」
「確かにそうだけど。先生とだと……試してみたいなって」
「試して、やっぱり駄目でしたってなったら、辛いのは僕なのに」
「じゃあ……何もしないで、このまま縁も切りますか。俺は先生と、もっと一緒に居たい。先生の事、知りたいよ」
先生が黙り込む。そうしながら、俺の背に腕を回した。
「わかってる。後悔、しない。上手くいかなくても……キョウヤくんが、居てくれた。楽しかった。……きっと、幸せだった。僕の人生、もうそれで
いいって思ったのに。いざってなると、怖くなっちゃうんだなぁ。……キョウヤくんは、怖くないの……?」
「わかんねぇけど、でも……」
先生の頬に、俺も頬を寄せる。先生はキスされるのかと思ったのか、思わず身体を固くしていた。
「先生が、俺の事も、俺の夢も大切にしてくれた……。だったら俺、先生の事、大切にしたい。これで終わりにしたくない」
「うん。……うん。僕も、キョウヤくんとまだ離れたくない」
一度顔を引いてから、じっと先生を見つめる。自信なさげな白熊の顔がそこにあった。いつもの柔和なそれでもなくて。多分俺も、似たような顔を
しているのだろう。
ゆっくり、ゆっくりと先生に近づいて。先生も俺に近づいて。
軽く触れる様に、口づけをした。
★
むせ返る様な雄の臭いに包まれて、俺は目を覚ます。
朝目を覚まして。誰かを抱いて、こんな臭いで目覚めるなんて事、あるんだなぁ、なんて。
そっと視線を向ければ、先生が裸のまま眠っている。当然俺も裸のまま。
「……先生……」
俺は先生を呼ぶ。先生は、眠ったままだ。かなり激しくしてしまった。上手くできるのか、女を抱くのと男を抱くのとは違うだろうとか、色々
考えてたりもしたけれど、結局最後には先生に溺れるように、何度も、何度も。そのせいで、先生だったらこういう時先に目を覚まして何かを用意
したり、この臭いを少しでも軽減しようとしているはずなのに、眠り続けている。
そっと手を伸ばして、頬に触れる。少し硬い白熊の毛が、指先に遊ばれてさらさらと静かな音を立てる。先生の寝息と合わせると、楽器の様だった。
「……キョウヤ……くん……」
先生が俺を呼ぶ。起きたのかと思ったけど、寝息はまた聞こえてくる。夢でも見ているのかも知れない。切ないその呼び方で、俺は昨夜の事を
思い出して。今も夢の中で先生は俺に抱かれているのかも知れなかった。
「……好き」
先生の言葉に、俺は全身の毛が逆立つ。なんでこう、この人はこうなんだろうなぁ。言葉の使い方が巧くて……でもこういう時は物凄くストレートに
気持ちが言えて。
そういう所が、結局俺は先生の事、その。好きなのかも知れない。言葉の緩急に翻弄されて、小難しい言葉で殴られた後に、こういう言葉で一気に
持っていかれるのも一度や二度ではなかった。なんだか先生そのものが、巧みな文章のようだった。
「俺も、好きだよ先生」
それに対してできる俺の返事は、いつもシンプルな物で。だけど、きっとそれで良かったのだろう。先生の身体をまた抱き締める。首筋にキスを
して、背に掌を這わせて。
先生の見ている夢を、正夢にしてやろうと思った。
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