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眼前にたたずんでいるのは[[rb:陸斗 > りくと]]であるはずなのに、陸斗ではなかった。いつものビクビクとした調子はどこにも認められず、むしろなにかの“[[rb:主 > あるじ]]”であるかのごとく堂々たるふるまいをしてこちらを見てくる。
「おっと警戒しているのはわかるがまずは殺気をおさえたまえ。たとえ合理的判断を軽んじる獣を胸のうちに従えようとも、その封を切って起こりうる不毛ないさかいがなにも生まないのは当然の帰結であろうに」
(お前は……何者だ?)
いつの間に僕であるはずの僕が今、一人でに身を低くし全身の毛を逆立たせうなり声をあげ牙を[[rb:剥 > む]]いている事実に気がつく。この血が[[rb:騒 > ざわ]]めく感覚はいったいなんなんだ。己のなかに[[rb:棲 > す]]まう暴力が理性の見えない[[rb:檻 > おり]]へと体当たりを繰り返すけれど、思いのほか[[rb:堅牢 > けんろう]]なのか頑強なのか秩序の格子はビクともしない。
「話を戻そうか。私が君に[[rb:憑 > つ]]いている化け猫をやっと認識できたのは、たしかにあの日がはじめてだった。どうやらこれまで猫又は異様なほど巧妙に自身の[[rb:気配 > けはい]]を外部に漏らさないよう細心の注意を払っていたらしい。しかし君が爪を行使することを決意したとたん、それを解放した。考えるにやがてくる戦いに備えて力を隠すのではなく利用させる方向へ[[rb:舵 > かじ]]をきったのだろう」
「……ッ」
グルル
無理やり[[rb:喋 > しゃべ]]ろうとして喉を震わせようにも出てくるのは[[rb:獰猛 > どうもう]]な大型の肉食獣が発するみたいな、低くて重い声ならざる声ばかりだ。むせるまでの獣臭さと[[rb:饐 > す]]えたような羊水の臭いがあたり一帯を包む。
声をうまく発することができずうろたえるのっぴきならない様子を見かねたのか、陸斗の姿だけを残した謎の存在が近づいてくるなり僕の頭に手を乗せて大きくため息をついた。
「従えるはずのものに主導権を奪われかけているとは……まあいい、君が自覚したのはつい先ほどなのだから。私もちょっとばかし手伝うとしよう」
普段の陸斗らしからぬ人物はやれやれと仕方なさげにそういって勢いよくスッと息を吸う。
「『そなたのうちなる獣と、流るる血の[[rb:契 > ちぎり]]において——“鎮まれ”』」
言の葉がやおら唱えられるなりまるで[[rb:嘘 > うそ]]だったかのごとくこわばりが解け、僕はふたたびその場に崩れ落ちる。
「ほら。しゃんとしたまえ、これですこしは落ち着いただろうか」
「ゲホゲホ、ありがとうございます。あなたはいったい……陸斗ではありませんよね?」
ひとまずは難を逃れたことを感謝するため無意識に敬語で尋ねてしまう。
差し出された手をたどっていけば明らかにいつもの陸斗はそこにはいない。ギラギラとした眼光と、[[rb:泰然自若 > たいぜんじじゃく]]に不敵な笑みをたたえるネズミ獣人が立っていた。小さい身なりがあまりに[[rb:窮屈 > きゅうくつ]]そうで、ここにあるべき器でない風体があけすけにわかる。
「こんな状況になってもまだ己より他人に興味があるとは本当に見上げた根性だね、君は。どっかのビビりな小ネズミくんにも見習っていただきたいものだ」
!! やはりコイツは陸斗じゃない。
「お前、陸斗をどこにやった!?」
降って湧いた激情がとっさに[[rb:身体 > からだ]]を突き動かし、脇目もふらず果敢に飛びかかったものの見事にかわされてずっこけそうになった。
「おうおう最近の若いのは血の気が多くてやんなっちゃうな。君のいう陸斗くんはここにいるさ、そう“ここ”に」
僕が二度目か三度目かつかみかかろうとするのをハラリと避けた誰なのかすら正体不明なソイツは左のほうを指さす。先ほど同様に眼も鼻も耳もヒゲもなんら感じとることは[[rb:叶 > かな]]わず、なにもない空間を息を切らしひたすら[[rb:睨 > ね]]めつける黒猫がおかしいのかふふっと陸斗モドキは軽く笑ってみせた。
なんだろうこの既視感。あたかもヤゲンさんや[[rb:三八 > さんぱち]]を相手取っているような雰囲気がある。けどあの二人とは比べものにならないくらいの威圧感に身体がすくみそうだ。
「からかうのもいい加減にしろと? とんでもない。中学二年生なぞ恋に[[rb:現 > うつつ]]を抜かし追いかけっこしているみたいな年頃であろうに。しかし君がそうでない性分なのはわかる。私が伝えられる範囲であれば、その問いに答えるとしよう」
「だったらお前は——」
「それはおいおい判明するさ。とりあえず“怨霊”とでもいってくれ、時間が惜しい」
怨霊? 陸斗に取り憑くものと僕は現在[[rb:対峙 > たいじ]]しているのか。霊魂が持ち主の人格と入れ替わって喋りかけてくるなんて、マンガやアニメの世界じゃないのだからと自分にも[[rb:解 > げ]]せないあきれを覚えつつ怨霊の指示に従う。
「わかりました、怨霊……さん。話を聞くとしましょう」
「ああ。語るに、猫又が姿とその気配を隠していたというのはついさっき述べたとおりだ。けれど猫又が隠していたのはそれだけではない、もっとおそろしいものが君の奥底に眠っている」
怨霊は陸斗の肉体を近くの岩場に腰かけさせてふうと息を吐く。所作がやたら大人びているせいなのかタバコの紫煙をどこか空目してしまうほどに周囲の空気が醸されている。
「もっとおそろしいもの……とはなんなのですか?」
「正直いって私にも詳しい正体はわからない。いや理解すら不能だ。だがあの日、しかとこの世のものではないおぞましさを目撃してしまった。血と臓物にまみれた化け猫の憎悪さえ遠く及ばないだろう。あれは……極小サイズの“地獄”そのものに他ならない。今にも魂を引きずり込もうとしている」
つむがれた単語のインパクトに思わず表情を注視すれば、ひどく青ざめてガチガチと歯を鳴らし震えていた。一瞬、陸斗本人が戻ってきてくれた期待をしたけれどいまだ羊水の臭いは漂っている。そして僕は理解した。これは怨霊自身がおびえているのだと。
「ご、極小の地獄ってなんですか。怨霊さんはなにを感じとったのですか?」
「そのまんまの意味さ。君は、この世界に地獄はただ一つのみ実在すると信じているかね? 現に地獄への門はそこかしこに点在するがどれも同じ場所に通じている。でも君の“それ”は違う、地獄それ自体複数あるとなれば事情が異なってしまう。異郷の[[rb:神格実体 > しんかくじったい]]か、はたまた別世界の[[rb:形而上 > けいじじょう]]的存在か。いずれにしろ猫又は君に眠る地獄を[[rb:虎視眈々 > こしたんたん]]と狙って我が物にせんとしているのだよ」
「…………」
言葉が浮かんでこない。なにか返そうにも口から出てこようとする単語に納得や同意を表す意はみじんもなく、ひたすら脳内で疑問と当惑が入り乱れるばかりだった。
「おそらく事実全体をのみ込むには相応の時間が必要であろう。しかしまだ問いは残されている、君が嫌だというのであればここで[[rb:止 > や]]めにするが」
僕は化け猫に[[rb:憑依 > ひょうい]]されていて、また極小大の地獄と呼ばれている“なにか”の[[rb:依 > よ]]り代になっていて、さらにはそれを猫又が狙っていて……これ以上なにを述べようとするつもりなのか。でも。
「いいえ。はっきりいって頭が混乱しきっていますけれどこれは自分が知っておきたい真実だともわかりきっています。怨霊さん、どうか最後の一つを教えてください」
僕は覚悟を決める。なぜなら漠然としたイメージがあともうすこしで形になろうとしているのがわかるからだ。猫又も地獄も知ったこっちゃいない。ただ廃病院で起こった不可解な出来事の数々——もう一人の三八、手渡されたヘッドフォン、襲ってきたロボット、ヘッドフォンから聞こえた謎の声——これらへの回答の手がかりがこの先に待っているかもしれないと直感する僕がいた。
「よろしい、なら一つ聞いておこう。……君は三八くんを愛しているか?」
「え」
唐突な質問に煮えたぎっていた脳内はいっきにフリーズして顔に灯がともる。
「予防線をはっておくとこの質問に、特段これといった他意はない。けれども地獄よりよほど苛烈な運命が君たち二人を待ち構えている気がしてならなくてね」
「ど、どういう意図なのですか!?」
「それじゃ単刀直入に言おう。君に憑依する猫又は三八くんの血筋にただならぬ因縁を抱えている、そう遠くない未来その不和は君を置き去りにして爪と刃を交える血戦になるはずだ」
僕と、やっこさんが、殺しあう?
なまぐさい風が僕と怨霊のあいだを滑ってゆく。爽やかな夏とはかけ離れてジメッとした空気の波にあるものが透けて見えた。陸斗の全身を覆い尽くす胎児の群れ、生まれてこれなかった現実を[[rb:哀 > かな]]しむ種族を問わない無念の絶叫。ゾワゾワと[[rb:戦慄 > せんりつ]]する感覚に体毛が意識せずふくらむ。
「いまいち[[rb:腑 > ふ]]に落ちないかな。猫又がなにをたくらんでいるのか知らないがすくなくとも三八くんに危害を加える可能性は極めて高いといえるだろう。[[rb:鍾乳洞 > しょうにゅうどう]]に入ろうとしたとき、かすかに猫又の邪悪な気配と地獄の発する力線のピークが強まった。おそらく鍾乳洞内のなにかしらに反応したと考えられるもののなんにせよ君の安否が危うい」
ハッとして取りなおしたころには錯覚だったかのように目の前にあったおぞましい光景は溶けてなくなっていた。……なるほど、今のが怨霊の正体なのか。
「内容は大方理解しました。そして怨霊さん、あなたがどういった存在なのかもです」
「ほう? いいね、のみ込みが早いのは感心するよ。それで君はどうするんだい?」
ヤツと争うのは[[rb:口喧嘩 > くちげんか]]ぐらいがちょうどいい。化け猫が高みの見物で僕ら二人の命をもてあそぶなど許せるわけもなかった。グッと拳を固くにぎり締め胸を張り、僕は陸斗の姿をした怨霊に向き直って宣言する。
「僕がザッパを守ります。猫又の目的がなんであったとして極小の地獄が奥底で眠っていたとして、[[rb:骨躙 > ほねにじり]]一朔が[[rb:人行潟 > にんぎょうがた]]三八を傷つける何者をも許しません」
ここまで語られてきた内容は、結局なにが憑いていたところで僕の意思自体がなにを望んでいるかの問題に集約される。もし怨霊の助言に従うのならばすぐにでもヤツと[[rb:余市 > よいち]]と[[rb:那仂 > なりき]]をつれ戻してとっとと逃げかえるのが妥当な判断に違いない。けどそれは間近にせまりくる真相から目をそらすふるまいであることも事実らしかった。だったら僕は、必ずや三八を守って、一緒に本当を明らかにしよう。
最高の相棒と、仲間たちと共に。
「ありがとう一朔くん。君がその答えを選ぶのを私は待っていた」
ふたたび西日の光が陸斗の体を包んで、輪郭をゆらゆらと幾重にも[[rb:融 > と]]かしはじめた。
「どうやら時間みたいだ、短い時間だったけど楽しんでもらえたかな……君はそのまま前進するといい」
もはや[[rb:陽炎 > かげろう]]そのものと化した怨霊は岩場よりおもむろに立ち上がりこちらへにじり寄ってくる。
「仕舞際に一つ、ここまで延ばしてきた答え合わせとお願いがある。聞いてもらえるかな?」
その現象に僕はなぜか戸惑わず素直に首を縦に振った。面持ちはうかがい知れないもののどこかいたずらな雰囲気が薄和らいだ気がする。
「なら話すとしよう。私は、陸斗の霊感そのものだ。周囲に幻影を共有する能力も私の特性に依存している」
前に研究所で那仂とヤゲンさんによって行われた実験を思い出す。あのときはサブリミナル照射を用いておそらく無理やり集団幻覚を再現したのだろう。しかし陸斗自身が制御できない段階からして本人のものではない実態を納得する。
「そしてどうか陸斗を守ってやってくれ。この力が原因でどこの誰とも知らぬ集団につけ狙われている。一朔くん、これは生きている君にしかできないことだ……頼んだよ」
いよいよ輝きが強まって怨霊の影は瓦解していく。光の粒が完全に離れていったとき、最後の声が直接脳内に語りかけられる。
「往生際が悪いがさらにもう一つ。地獄の起源と私の正体を知りたいなら君の出生について調べるといい。きっと両親はいろいろひた隠しにしているであろうが真実を知る権利は誰にでもあるはずだ。んじゃ一朔くん、また会おう」
そういって再度[[rb:昏迷 > こんめい]]と複雑に襲われる僕を残し、怨霊は陸斗の身体を抜け出していったのだった。
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