狭い空間内には卓上台が置かれており、それに向かう白いポケモンは眠たそうに欠伸をした。卓上には緑茶の注がれた湯呑みが置かれており、微かに湯気を上げている。湯呑みの側に置いてある木製の椀には煎餅が置かれており、それに手を伸ばした白いポケモンはバリバリと音を上げながら咀嚼した。その目は手元に置いてあるタブレットに向けられており、白いポケモンは時折タブレットに接続してあるキーボードを叩いていた。
ふと、白いポケモンは溜息をこぼすと呆れた様に目を細めた。
『まったく...せっかく死刑にされた命を救ってあげたのに、アイザックスを殺して暴動を唆すとか...』
白いポケモンは不満げな声を漏らすと、『恩知らずな奴め』と呟き、口内の煎餅を飲み込んだ。その言葉を傍で聞いていたギラちゃんは眠たそうに欠伸をすると、身を預けていたクッションから起き上がり、白いポケモンと目を合わせた。
『そもそも自分の罪に関しても無関心なヤツだったからな。捕まり、死刑判決を受けて初めて理解できる程度の知能だったのさ』
ギラちゃんはクスクス笑いながら呟くと、伸びをしながら卓袱台に向かった。そして卓上の煎餅に手を伸ばすと、それを頬張った。
白いポケモンはギラちゃんの指摘に苦渋の表情を浮かべると、不機嫌そうに顔を背けた。
『久しぶりに面白そうな玩具を見つけたのに...新しい玩具を探そうかな』
つまらなそうに白いポケモンは呟くが、その言葉を聞いたギラちゃんはクスクスと愉快そうな笑い声をあげた。
『自分の思い通りにならないとわかった瞬間に捨てるのは、お前の悪い癖だぞ。この間の玩具も暴走したとか何とか言って、結局捨ててしまっただろう』
ギラちゃんの指摘を聞いた白いポケモンは罰が悪そうにそっぽを向くと、親に叱られた子供の様に低い唸り声を漏らした。そして湯呑みに注がれている緑茶を飲み干すと、横目でギラちゃんを見た。
『やっとの思いで見つけた玩具が言う事を聞かない不良品だったんだよ。本当なら初期不良品としてメーカーに返品したいよ』
不満げな白いポケモンの言葉を聴いたギラちゃんは鼻で笑うと、白いポケモンに目を向けて口を開いた。
『メーカーはお前だろう。あの滅びゆく世界も、言う事を聞かない不良品を作り出したのもね』
その言葉を聞いた白いポケモンは不愉快そうに舌打ちすると、手元のタブレットに視線を向けた。その液晶画面には黒々とした煙と赤々とした炎が映し出されていた。
*
水の大陸最大の街、夕暮れのワイワイタウンの市街地には武装したレシラム教の信者や保安官事務所のポケモン達が歩いており、見慣れぬポケモンに対して片っ端から職務質問していた。質問されるポケモンの中にはレシラム教と相反するゼクロム教の信者達の姿もあり、レシラム教の信者達により暗闇に引きずり込まれると、肉を打つ湿った音が聞こえた。その光景を見た保安官達はレシラム教の信者達に自制するように声を上げるが、大司教を殺された信者達の怒りは収まらない。
また1人、薄暗い路地へと引きずり込まれるエレキッドの姿を見た調査団参謀の牝のクチート、ウルスラは苦い表情を浮かべ、顔を背けた。ワイワイタウンの市街地のあちこちには血の染みと何かの破片が落ちているが、通行人は誰も意に介さない。路傍で平然と処刑される光景を見たウルスラは強烈な吐き気を覚えると、眉根を寄せて顔を背けた。
「...狂っているな」
誰にも聞かれない様にウルスラは小声で呟くと、調査団の拠点に戻ろうと足を動かした。やがて市街地を通り抜けたウルスラは噴水のある広場に辿り着くと、広場の一角にある人混みに気がついた。街の住民であるポケモン達が一箇所に集まり、彼らは同じ場所を見つめていた。その光景を見たウルスラは内心嫌な予感を抱くが、彼女の足は自然と人混みに向かっており、彼女は人混みを掻き分け、その先を見た。
広場の一角には木の杭が建てられており、その根元には幾つもの薪が積まれている。杭にはゼクロム教の信者である黒い装飾品を身につけたサンダースやコイル、旅のポケモンであるサワムラーやコジョンドが紐で縛り付けてある。呻き声をあげる彼らの身体には暴行の跡が刻まれており、サワムラーとサンダースは脚の骨を折られている。杭の側には赤い六芒星が刻まれた白い礼服を着たレシラム教の信者達が立っており、彼らの手中には松明が握られている。
信者達の中に体格の良い牝のバシャーモが立っている。
炎タイプでありながら、彼女の目は氷海の如く冷たく、杭に縛り付けられたポケモン達を見ている。彼らを囲う街の住民達は畏怖の眼差しでバシャーモ、いやレシラム教の魔女狩り部隊である異端審問官達を見た。
「...首刈りだ」
誰かが言った。
「...炎の死神だ」
続けて誰かが言った。
「レシラム教の狗め」
誰かが続いた。
それらの声を聞いたバシャーモは微かに溜息を漏らすと、唐突に近くにいた住民達の首根っこを締め上げた。その数は3人であり、抵抗する彼らを引きずるとバシャーモは部下に向かって口を開いた。
「彼らも異教徒です、神罰にかけなさい」
バシャーモの命令を聞いた部下達は冷たい表情のまま、適当に見繕った住民達を杭へと縛り上げる。それに対して彼らは「やめてくれ」「誤解だ」と声を荒げ、暴れようとするが、バシャーモは彼らの足を掴むと躊躇なく折っていった。
広場に野太い悲鳴が響き渡る。
それを聞いたバシャーモは微かに目を細めると、右手を大きく前に突き出した。その手中に焔の塊が練り出さられ、バシャーモはそれを杭に向かって投げつけた。焔は杭に引火すると、瞬く間に燃え出し、縛り付けられたポケモン諸共燃え上がった。赤々と上る焔を見たバシャーモは僅かに目尻を動かし、他の信者達は異端者を血祭りにできたことに対して、狂喜の声をあげた。彼らの声を聞いた街の住民達は恐怖の目を向け、誰もが閉口した。
異端審問官に、レシラム教の幹部に逆らう事の無意味さを如実に表していた。
恐怖による支配を目の当たりにしたウルスラは顔を顰めると、広場を後にした。彼女の後方には黒い煙が立ち上っており、肉の焼ける臭いが微かにした。それを鼻で感じたウルスラは気持ち悪そうに口元を手で覆うと、自ずと目を広場から背けた。
「ウルスラ?」
ふと、彼女の耳に聞き慣れた声が届いた。それを耳にしたウルスラが振り返ると、彼女の視線の先には目元を白い布で覆い、杖を携えた牡のライチュウが立っていた。ライチュウ、ライラは耳と鼻を微かに揺らすと、ウルスラに向かって弱々しい微笑みを浮かべた。その姿を見たウルスラは悲しそうな表情を浮かべたが、すぐに明るい表情へと切り替えた。
「久しぶりだな、ライラ...いつ街に着いたんだ?」
ウルスラの問いにライラは白い布で覆われた目元を微かに動かすと、笑みを浮かべたまま口を動かした。
「つい先ほど着いたばかりですよ。途中で親切な方が馬車に乗せてくれたから...予定より早く着きました」
そう話したライラは杖をつきながら歩くと、右足を引きずりながらウルスラの声を頼りに近寄った。その姿を見たウルスラは微かに目尻を揺らしたが、ライラに気取られぬ様に目を逸らした。
ウルスラの目に、ライラが首から下げている革袋が映り込んだ。その中には銅貨の代わりに一目で粗悪な品とわかる鉄屑が詰められていた。ライラの話した親切なポケモンが、駄賃の代わりに目の見えない彼から銅貨を掠め取ったのは明白だ。それを瞬時に理解したウルスラはどの様な言葉を彼に掛けるべきかわからず、ただ閉口するだけであった。
そんなウルスラの反応を気配で感じ取ったライラはクスリと笑うと、白い布越しにウルスラを見た。
「わかっていますよ、彼が私に何をしたのか」
ライラの言葉を聞いたウルスラは怪訝そうな表情で「何?」と問い返すと、彼の笑みを見た。ライラは愉快そうな笑い声をあげると、首元の革袋を触った。
「こんな事もあろうかと、袋の中身を盗賊団が使っていた偽の硬貨とすり替えておきました。本物はこっちです」
愉快そうな声でライラは話すと、着ている外套の中から別の革袋を取り出した。その中を満たす大量の金貨・銀貨・銅貨を見たウルスラは感心した様に口笛を鳴らすと、強かなライラの笑い声を聞いていた。
やがて笑い終えたライラは白い布越しにウルスラを見ると、口を開いた。
「ところで団長はお元気ですか?」
彼の質問にウルスラは「あぁ」と返すと、苦い表情を浮かべた。それを声色から感じ取ったライラは不思議そうに首を傾げると、疑問の目を向けた。それを見たウルスラは数時間前に見た団長の姿を思い出し、苦虫を噛み締めた様な顔をみせた。
「実は...外注した仕事が失敗したせいで...凄く機嫌が悪いんだ」
数時間前、レシラム教の拠点である教会から死に物狂いで脱出したルカリオのオズワルドとゾロアークのニコルは、調査団の拠点である城に逃げ込むと、ようやく一息つけた。既に街中にはアイザックス大司教殺しの犯人を捜すべく、レシラム教の信者達が武器を手に闊歩していた。
1人、また1人と異教徒が捕まる光景を思い出したオズワルドは、口内に込み上げる酸味を堪えるように俯くと、微かに息を吐き出した。その背中をニコルは優しく撫で、血に濡れたオズワルドの手を洗ってあげた。
ニコルの目に、辛そうな表情を浮かべるオズワルドが映り込む。
「大丈夫?」
優しげな彼女の言葉を聞いたオズワルドはゆっくりと頷くと、床に座り込んだまま手を伸ばした。震えるオズワルドの手はグラスを掴むと、冷水を口内に注ぎ込んだ。冷たい水が酸味を胃の奥に流し込み、微かな心地良さをオズワルドに与えた。それを堪能したオズワルドは閉じていた目を僅かに開くと、横目でニコルの顔を見上げた。オズワルドの視線に気がついたニコルは微笑み返すと、彼の頭を優しく撫でた。
頭上に広がるニコルの体温を感じたオズワルドは目を細め、小さな唸る声をあげた。
教会の地下の一室で、オズワルドは激昂するアイザックスを誤って刺してしまった。彼は遠くから響いたマスケット銃の銃声を聞き、ナイフを手にした。そして、その銃声が黒衣のバクフーンと奴隷商人であるエンペルトの仕業である事は、ニコルが見ていた。
(私は未来の世界のポケモン...マスケット銃が何かも知っている...)
オズワルドはバクフーンの将校、ゴウカザルのヴィレム、ヨノワールのフランツ、セレビィのエミル、そしてキモリのカフカを知っている。だが、己自身が何者であるかを思い出せずにいた。
(私は誰なんだ...)
アイザックスの血の臭いがオズワルドの記憶を蘇らせた。鼻腔を満たす生々しい血と精液の臭い、床に倒れるエビワラーの死体、微笑むバクフーンの将校。
それらを思い出したオズワルドは再び吐き気を催し、ニコルの差し出したバケツに嘔吐した。
室内に酸っぱい臭いと異音が広がるが、ニコルは嫌な顔を見せずにオズワルドの背中を撫でていた。オズワルドはニコルの優しさに感謝するが、込み上げる吐き気のせいでそれを言葉にできずにいた。ニコルはそんなオズワルドの心の内を見抜いていると言わんばかしに彼の背中を撫で続けた。
扉が開かれた。
室内に入ってきたデンリュウの団長は眉根を下げており、困りきった表情でオズワルド達を見た。彼の顔を見たオズワルドとニコルは仕事を失敗した事もあり、思わず顔を背けてしまった。2人の反応を見た団長は小さく溜息をこぼすと、部屋に置いてある椅子に腰かけた。彼に続いて室内に入ってきたウルスラは横目で団長の表情を見ると、腹の底が見えない彼の言葉を待った。
室内に沈黙が広がり、その場に居る者達に居心地の悪さを与えた。
時計の針が一周した頃、団長がゆっくりと口を開いた。
「まったく困った事になりましたよ...予定通りに行けば私達が手引きした保安官が教会内部に突入したのに...まさかアイザックス本人を殺してしまうとは」
「おかげで魔女狩りの再来ですよ」と呟いた団長は眉根を寄せたまま呟き、ウルスラも微かに頷いた。彼らの言葉を聞いたオズワルドは顔を伏せると、絞り出す様な声を出した。
「すみません...」
叱られた仔犬の様に落ち込むオズワルドを見たニコルは一瞬、口を開こうとしたが直ぐに閉口した。しかし、数秒後に再度口を開くと団長とウルスラの顔を見て口を動かした。
「アイザックスの件は不可抗力です、オズワルドは自分の命を護るために反撃しただけです」
「その結果、無関係な街の住民達が魔女狩りの犠牲となった。そういう事ですか?」
団長の指摘に対してニコルは閉口した。そのやり取りを見ていたオズワルドは顔を俯かせたまま身体を小さく震わしていた。気のせいか、窓の外からは異端審問にかけられる街の住民達の叫び声が響いているように感じた。
そんなオズワルドを見て団長は僅かに目を細めると、再び口を開いた。
「加えて、エレキ平原とキザキの森でゼクロムの呪いが広がっている...それに加えてレシラム教の重鎮が殺害されたとなると...住民の不安感は天井知らずでしょうね」
団長の言葉を聞いたオズワルドは顔をあげると、不思議そうな表情で「ゼクロムの呪い?」と呟き、その意味を知っているニコルは顔を背けた。オズワルドは苦い表情を浮かべる団長とウルスラ、そして悲しそうな表情をみせるニコルを見ると、首を傾げた。彼の尋ねるような視線を受けたニコルは、戸惑うように口を開くと話し出した。
「ゼクロムの呪いは字名だよ、本当の名前はペスト、虫や小動物を媒介に感染する病気だ」
「...それは、命にかかわる病ですか?」
オズワルドの問いにニコルは頷くと、悲しそうな表情で顔を伏せた。それは団長とウルスラも同じであり、ウルスラはオズワルドの顔を見ると口を開いた。
「黒死病の治療法はまだ見つかっていない...今のところは病人に食事と水分を与えるくらいしか対象法がないんだよ」
「ただでさえエレキ平原とキザキの森は暴動により物資が不足し怪我人が大勢いる。そこに黒死病が広がれば、どの様な結果になるか想像は容易い...」
彼らの言葉を聞いたオズワルドは背筋に冷たい物が伝わる感覚を抱き、思わず顔を背けてしまった。少し前に目撃したキザキの集落、そこに更なる病が広がっている事を想像したオズワルドの顔色は悪く、怯える目を浮かべていた。
そんなオズワルドを見た団長は考え込む様に口を閉ざすと、隣のウルスラと目を合わせた。ウルスラもまた、閉口したまま考え込むと、やがて口を開いた。
「調査団の団員から聞いた話だが、何でも風の大陸にいるポケモンが黒死病の治療法を見つけたらしいぞ」
ウルスラの言葉を聞いたオズワルドとニコルは驚きの表情を浮かべ、団長は小さく頷いた。彼はオズワルドとニコルに目を向けると、口を開いた。
「正直な話、今回の失態の責任として貴方達をレシラム教に差し出しても良いとワタシは考えておりますが...ヘンデル氏の知人である方を粗末に扱えば、ギルドの関係性に支障をきたす可能性も否めない...」
そう呟いた団長は困りきった表情のままオズワルドとニコルに目を向けると、続けてウルスラと目を合わせた。彼女は団長の顔を見て小さく頷くと、オズワルド達に目を向けた。
「街の住民の不安を取り除くためにも、黒死病の治療法は何としても欲しいところだ。だが、現状で大陸間を安易に動くのはレシラム教にも目をつけられるから危険だ。そんな仕事を調査団の仲間達に依頼する訳にもいかない」
「...つまり、代わりに私達に調べに行けと」
団長とウルスラの意図を汲み取ったオズワルドはそう呟き、ニコルは厳しい表情を浮かべた。そんな彼らとは反対に団長は困りきった表情から余裕のあるものへと顔色を変えており、ウルスラは狡猾な団長を横目で見ていた。
「もちろん、ワイワイタウンの魔女狩りは我々が抑止しますが...負傷者が多過ぎます。そこでヘレンさんには此処に残ってもらい、負傷者の手当てを手伝っていただきます」
戸惑いの表情をみせるオズワルドとニコルを見た団長は、まるで畳み掛ける様に話した。その魂胆を見抜いたニコルは眉根を微かに寄せたが、自分達に拒否権がない事も理解していた。
ヘレンはアイザックス大司教の許嫁であり、彼女の両親はレシラム教の金を横領した罪で処刑された。そんな身の上のヘレンが魔女狩りの広がる街でレシラム教に見つかれば、彼女もまた異端審問にかけられる可能性が十分にある。団長の言葉にはオズワルドとニコルが今度こそ仕事を全うしなければ、ヘレンをレシラム教に渡すという意味も含まれていた。それを理解しているオズワルドとニコルは何とか反論しようと口を開き掛けるが、即座に名案が思いつく訳もなく、静かに口を閉じた。
彼らの反応を見た団長は満足そうに微笑むと「問題ありませんね」と声を出し、ウルスラを見た。彼の視線から意図を汲み取ったウルスラは廊下に向かって口笛を鳴らすと誰かに合図を送った。
直後、扉がゆっくりと開かれ、室内に牡のライチュウ、ライラが入ってきた。
目元を白い布で覆ったライラは杖で足先をトントンと叩きながら入ってくると、室内の匂いを嗅いだ。そして頰を僅かに緩めると、団長の方を向きお辞儀をした。
「お久しぶりです、団長」
ライラの言葉を聞いた団長は柔和な笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がりライラの側へと歩み寄った。そしてライラの手を取ると、彼を椅子へと座らせた。その両肩に団長は手を置くと、穏やかな表情のまま口を開いた。
「長旅で疲れたでしょう、おだやか村はどうでしたか」
団長の言葉を聞いたライラは口角を緩めたまま頷くと、ウルスラの差し出したグラスを受け取った。その中を満たす水を口に含むと、乾いた口内を潤した。そして団長に顔を向けると、口を開いた。
「久しぶりに学友やおじいと過ごせましたよ」
団長はライラの返事を聞き、「それは良かった」と応え、横目でオズワルド達をチラリと見た。その目はライラに向けた物と違い、氷の様に冷たい目であった。それを一瞬のうちに見抜いたオズワルドは背筋を震わせ、ニコルは微かに歯を噛み締めていた。
そんなオズワルド達を一瞥した団長は再度ライラに笑みを向けると、口を開いた。
「本来ならば、ライラには今すぐに休息を取って貰いたいところですが...住民達の不安の種を払拭するために、彼らと一緒に風の大陸に行き、黒死病の治療法のノウハウを会得してきてください」
「行ってくれますか」という団長の問いに対して、ライラは大きく頷くと笑みを浮かべた。そしてオズワルドとニコルに顔を向けると口を動かした。
「私はライラ、よろしくお願いします」
彼の挨拶に対してオズワルドとニコルは続けて「よろしく」と声に出したが、彼らの表情は決して穏やかなものではなかった。彼がオズワルドとニコルに対する監視役である事は明白である。加えて、目と足が不自由なライラを同行させるという事は、彼が並外れた実力を持つポケモンである事を暗に示していた。言葉にしない団長からのプレッシャーを肌で感じたオズワルドとニコルは背筋を震わせると、自ずとライラから視線を外した。
そんな彼らの反応を気配のみで察したライラはクスクスと笑い声を漏らすと、グラスの水を飲み干した。底知れぬ不安感を目の前のライチュウから感じ取ったオズワルドであったが、何とか彼と仲違わぬ様に握手した。
オズワルドの手中に冷たいライラの体温が広がる。
握手するオズワルドとライラを見た団長は僅かに笑みを浮かべ、口を動かした。
「ライラは風の大陸に詳しいから、何かと助けになるでしょう。それでは今度こそ、お願いしますね」
丁寧な口調だったが、団長の言葉には見えない圧力が潜んでおり、オズワルドとニコルの緊張を強めた。彼らの心情を見抜いている団長はにこやかな笑みをライラとウルスラに向けたが、オズワルドとニコルは一瞥もせずに部屋を後にした。
室内には仕事を全うできない無能な人影があった。
*
カピンタウンを離れたジュプトルのカフカは、街道沿いに進むとトレジャータウンを目指した。未来の世界では時の守護者達に占領された街だが、過去の世界ではまだ平和な場所であった。加えて、共に過去の世界に向かったリオルのグレーゴルは「流刑地で待つ」という伝言をカフカに残した。そのため、カフカはトレジャータウンを次の目的地とすると、街道沿いにある宿や集落で商品の布地を売り続けていた。
元は偽りの身分として旅の商人ザムザを名乗っていたが、カピンタウンの酒場でザングースのコールマンに褒められて以来、カフカの胸には充足感が広がっていた。
(考えてみれば...未来の世界では生き残るのに必死だったからな)
かつてのカフカは厳しい環境下で生き残ろうと、懸命にもがいていた。そんな彼が過去の世界に辿り着き、他の物事に目を向ける余裕が始めて生まれた。素晴らしい食事と文学、音楽などを通じて身体的、精神的に満たされたカフカは、己の仕事を褒められた事により、このザムザという偽りの身分を気に入りつつあった。
少しずつ己が変わりつつある事を自覚したカフカは、心の内で微かに笑みを浮かべると、眼前で布地を吟味しているニドクインに向かって口を開いた。
「それはカピンタウンの東にある村で仕入れた糸から俺が編んだ布地です、柔らかい触感の割には丈夫な品ですよ」
たまたまカフカと同じ宿に宿泊していたニドキングとニドクインの夫婦は、彼の差し出した布地を見て感嘆の息を漏らすと、うっとりとした目でそれを見ていた。ニドクインは夫であるニドキングと目を合わせると、ねだるような甘い声を出した。
「ねぇ貴方、この生地を使って新しいカーディガンでも作らない」
妻の言葉を聞いたニドキングは「うん...」と声を漏らし考え込むと、カフカの顔を見た。
「見たところ、どれも素晴らしい布地だが、君が編んだ物もあるかい?」
ニドキングの問いにカフカは拍子の抜けた表情を一瞬だけ見せたが、すぐに手元の布地に目を向け、口を動かした。
「えと...この生地が俺の作った物です」
カフカはそう言いながら一枚の布地を差し出すと、ニドキングはそれを受け取り、メガネのレンズ越しに見た。布地の手触り、編目、きめ細かさを見たニドキングは嘆息を漏らすと、ニドクインとカフカの顔をそれぞれ見た。
「その生地も素晴らしいが、君が編んだ生地も更に素晴らしい...両方貰おうかな」
ニドキングの褒め言葉にカフカは恥ずかしそうに後頭部を掻くと、「恐縮です」と返した。彼の言葉を聞いたニドキングとニドクインは嬉しそうに微笑むと、代金である金貨を差し出し、代わりに布地を2枚受け取った。
たまたま出会った豪商と思わぬ取引ができたことにより、カフカは嬉々とした笑みをこぼすと、代金である金貨を革財布にしまった。その姿を見たニドキングは受け取った布地を使用人であるラッタに渡すと、カフカの顔を見て口を開いた。
「君は...まるで純粋無垢な少年のようだな」
その言葉を聞いたカフカは間の抜けた表情を見せ、不思議そうに小首を傾げた。彼の反応を見たニドキングとニドクインはクスクスと楽しそうに笑うと、窓の外に目を向けた。
「君も聞いているだろうが、キザキの森の暴動にエレキ平原の虐殺、人買いが横行し魔女狩りも広がっている...まるで世界の終わりを見ているようだよ」
「...」
ニドキングの言葉を聞いたカフカは閉口すると、自身の目的である星の停止の阻止、そして先に過去へ向かったグレーゴルとの再会を思い出し、微かに苦い表情を浮かべた。そんなカフカの心情を知らないニドキングとニドクインは窓の外に広がる穏やかな光景を見て、目を細めた。
「最近ではレシラム教とゼクロム教の対立も激化している...こんな状況でも君のような青年に会えたことは、私達にとっても嬉しい事だよ」
「...ありがとうございます」
穏やかな目を見せるニドキングとニドクインに向かってカフカは感謝を述べると、ニコリと微笑み腰をあげた。去り行く夫婦の背中を見届けたカフカは小さくお辞儀をすると、窓の外に目を向けた。
(そうだ...俺は星の停止を阻止するために来たんだ...呑気に過ごす訳にもいかないな)
自身の目的を再認識したカフカは小さな溜息をつくと、脳裏に仲間の顔を過ぎらせた。
(グレーゴル...エミル...ノア...)
カフカを過去に送り出すために、グレーゴルは時の守護者達に捕まった。彼の願いを達成させるためにも、カフカは足を止める余裕などなかった。
それを思い出したカフカはゆっくりと腰をあげると、次なる時の歯車の情報を集めるべく、宿を後にしようとした。
夫婦の座っていた椅子に、新たな影が現れた。
視界の端でそれを捉えたカフカは自然と視線を向けた。直後、彼の表情は凍り付き、背筋を冷たい汗が流れた。一つ目のポケモン、ヨノワールのフランツはカフカの顔を見つめると、嬉しそうに目を細めた。
「久しぶりだな、キモリ...いや、今はカフカと呼んだ方が良いかな」
フランツの言葉を聞いたカフカは一瞬のうちに乾ききった喉を潤そうと、無意識に唾を飲み込んだ。喉の奥に独特の感覚が広がり、カフカは絞り出すような声を漏らした。
「フランツ...」
彼の声を聞いたフランツは微かな笑い声を漏らすと、以前より低い声を発する彼を見た。
「お前やあのリオル、エミル、ノアと手を組んで何をするつもりなのかは知っている。当然だが、私はそれを看過する事はできない」
「...俺を殺すのか」
フランツの言葉を聞いたカフカは震える声で尋ねた。彼の質問を聞いたフランツは首を左右に振ると、懐かしむように彼の顔を見つめ、口を開いた。
「ディアルガ様を排除すれば私達は消える運命だが、それを防ぐ為に私は友を手にかけたくない...あのリオルを見捨て、私達の手を取ってくれないか?」
周囲を警戒しながらフランツは小さな声で話した。その言葉を聞いたカフカは僅かに目を逸らすと、未来の世界を思い出した。理不尽に命を奪われ、食う物も満足に得られない地獄の様な世界、そんな世界を迎合し、他者を喰い物にする側に回りたいのか。カフカの脳裏にその様な疑問が浮かんだが、直後にグレーゴルの顔が横切り、疑問はすぐに消えた。
カフカは吹っ切れた様な表情でフランツを見上げ、彼の視線にフランツは物悲しそうに目を細めた。
「...すまない、やはり俺はあの世界で生きていくのはゴメンだよ」
「...ならば、次に会う時は敵だな」
カフカの返事に対してフランツはそう返すと、続けて「今回は友の顔を立てるよ」と呟いた。その言葉を聞いたカフカは悲しそうな表情を浮かべると、口を閉ざしたまま俯いた。
「最後に言っておこう」
俯くカフカの耳にフランツの声が届いた。
「既に星の調査団は壊滅した...この世界には私の他にも将校様やヴィレム、Kや彼らの同士もいるぞ」
その言葉が意味する事を理解したカフカは頰を引きつらせた。彼の表情の変化はフランツの目に映らなかったが、彼はその心情を気配で察していた。
「...さようなら」
フランツは小さな声で言った。
「あぁ、さようならだ」
その言葉に対して、カフカもまた小さな声で言った。
カフカの視界から、見知った友の姿はすぐに消えた。