霧の大陸ノエタウン、レシラム教教会。
ロビーを制圧したモロー達遊撃隊は、教会内に潜む時の守護者達の残党を狩るために、地下や上層階へと移動している。人質を救い出したカフカとフランツも彼らに同行し、教会の上層階へと移動する。
道中、時の守護者の残党と遭遇するが、武装した騎士団を目の当たりにした守護者達は誰もが降伏し、自ら武装解除した。いくつかのフロアを移動したカフカとフランツ達は、やがて上層のフロアへと到着した。
上層フロアの通路の床は一部が傾いており、中には大きな亀裂が走っている箇所もある。床の亀裂は脇にある部屋へと続いており、それを見たカフカとフランツは視線を部屋の中へ向ける。
室内の天井には大きな穴が開いており、部屋の中央付近には巨大な台と機械が倒れていた。機械の下には剥き出しとなった馬鍬に突き刺された牡のバクフーン、将校の身体があり、彼は絶命している。
室内の光景を見たカフカとフランツは驚きの顔を浮かべ、後続の騎士達に向かって大声を上げる。
「カウフマンが居たぞ‼︎既に死んでいる‼︎」
目標であるカウフマンを発見したカフカの叫び声を聞き、第五小隊の騎士達が駆けつける。彼らもまた、室内で絶命しているカウフマンの姿を見て、驚きの顔を浮かべた。
カウフマンの死体と天井を見比べたフランツは、静かな声で呟いた。
「処刑台の重さに耐え切れず…床が抜けた、か…」
フランツの呟きを聞き、カフカは頷く。
「あぁ…だが、問題は誰を処刑しようとしたのか…」
カフカの疑問の声を聞き、フランツは「簡単な事だ」と返事をした。
「処刑は歯向かうものに行うのが常套手段だ。教会内は人質と時の守護者しかいないが…わざわざ処刑台を使う必要があるまい…」
「…まさか、オズワルドか?」
カフカの推測を聞き、フランツは頷く。彼の話を聞いたカフカは乾いた笑い声をあげ、虚空を見上げる。カフカは疲れた目で笑い、やがて視線をカウフマンの死体へ向ける。
カフカの目に、寂しさの色が滲み出ている。
「…俺の両親の仇だったが…死に際は呆気ないな…」
憎き仇である将校の死体を目の当たりにして、カフカは言葉に表せられない感情を抱く。憎悪を抱く相手を失い、喜びと寂しさが混ざり合った、相反する感情が胸の中に広がり、カフカは目に浮かぶ涙を腕で拭った。カフカの肩をフランツは優しく撫で、フランツもまた寂しそうな目で将校の死体を見る。
かつて、フランツは将校から『あなたの力が必要です』と声をかけられ、助力を請われた事がある。それは存在息を求めるフランツにとって、乾いた大地に染み込む水のように、彼の心に入り込むものであった。将校の言葉に従い、彼に付き従ってきたフランツにとっても、眼前の将校の死体には、思うところがある。
フランツは見開かれた将校の目を閉じさせた。
彼らは静かに黙祷を捧げ、やがてカフカは目を開いた。
「…窓辺に血痕が続いている。もしかすると、オズワルドが負傷したまま、外に出たかもしれない」
カフカは推測を話し、「俺はオズワルドを追う‼︎」とフランツに声をかける。カフカはそのまま駆け出し、通路の奥にある窓に近づき、残された最後の一つの滑車を使い、ワイヤーロープを伝い降りる。フランツはカフカを追おうとするが、やるべき事が残っているため、彼は脚を止める。
「…カウフマンが使っていた部屋がある筈だ」
将校やグレーテが時渡りを使うには、ディアルガの秘宝と時の歯車が必要になる。元時の守護者であるフランツは、時の歯車の管理者が将校である事を知っているため、彼らがこれ以上の時渡りを行えないようにするために、時の歯車の確保を優先した。
フランツの言葉を聞き、第五小隊の騎士達は頷く。騎士達はカウフマンの死体確保のために2名の騎士を残し、残りの騎士達は上層階を目指し、移動を再開した。
*
ノエタウンにあるレシラム教教会の裏手には雪原があり、その先には雪山が鎮座している。足跡が一つもない雪原を駆ける牝のヒスイゾロアーク、グレーテの左肩と左脚には傷があり、血が流れ出ている。
暖かい血液が冷気に冷やされ、雪の上に落ちていく様は、まるで散りゆく椿のようである。
肩越しにその光景を見たグレーテは、焦燥した表情で雪原を駆ける。彼女の傍には2名の時の守護者の姿があり、グレーテを守りつつ、雪山の麓にある洞窟を目指している。
モロー達が突撃する直前、ノエタウンから放たれた支援砲撃は、教会周囲に煙幕を張った。発煙弾は非殺傷兵器とは言われるが、炸裂時には破片が周囲に飛び散る。
グレーテもまた、窓辺の椅子に座っていたタイミングで発煙弾が撃ち込まれ、炸裂した破片が窓を破壊した。窓ガラスや発煙弾の破片に晒されたグレーテは負傷し、更に教会内部で轟音が聞こえ、音が聞こえた部屋に様子を見に行ったところ、室内には処刑台に潰された将校の死体と負傷したオズワルドの姿があった。
室内の光景から何が起きたかを即座に理解したグレーテは、ワイヤーロープと滑車を使い、急いで教会から脱出し、同じく教会から逃げ出した守護者達と合流した。
「…クソッ、クソがぁ…」
かつて、自身が檻から救い出した『サンプル02号』、いやオズがグレーテを止めるために目と鼻の先まで接近してきている。加えて資金と武力面で頼りにしていた将校は死亡し、レシラム教との繋がりが途切れた状態である。
将校は死亡、Kはオズワルドとしてグレーテを追っている。
残る幹部はフランツとヴィレムのみであるが、フランツは連絡を断ち、ヴィレムはグレーテの脱出の準備のために先行している。
明らかに状況が不利になりつつある事を理解し、グレーテの口から呪詛の言葉が漏れる。
教会は騎士団に制圧され、頼みの綱である人質は時の守護者達が自ら虐待し、多くの者が衰弱死している。生存している人質は皆、騎士団に保護されており、グレーテの手元に残った切札は、ヴィレムに預けた牝のゾロアーク、ニコルとディアルガの秘宝だけである。
時の歯車は全て将校が管理しており、それらは教会内の彼の自室にある金庫に保管してある。時の歯車を持ち出す猶予がなかったグレーテではあるが、ディアルガの秘宝を使えば、軍団規模の時渡りは不可能ではあるが、単身での時渡りは可能である。
故に、グレーテはノエタウンから脱出し、安全な場所で別の時間軸へと逃げるべく、ヴィレムの待つ帆船が停泊している岬を目指して駆けている。
ディアルガの秘宝は帆船にある金庫に保管されている。
その力を頼みの綱としているグレーテは、騎士団やオズワルド達に追いつかれる前に到着すべく、負傷した脚を鼓舞し、洞窟を目指す。
雪原に銃声が響く。
それに驚いたグレーテと時の守護者達の脚が一瞬止まり、彼女らは後方を振り向く。グレーテ達が走ってきた雪原には足跡とグレーテの流した血痕が続いており、彼女らの2メートルほど脇の雪面にはマスケット銃の弾丸が埋まっている。
吹雪で視界が確保できない状況下、しかも射手とグレーテ達は互いに見えない距離に立っている。
それでも間近に弾丸が命中し、グレーテ達の表情に焦りの色が浮かぶ。護衛の守護者の口からは低い唸り声が漏れ、グレーテは憎悪の眼差しで見えない射手のいる方向を睨みつける。
「…オズワルドっ‼︎」
グレーテは吹雪の中、オズワルドが居るであろう方向を睨み、怯える守護者達に「行くぞっ‼︎」と発破をかける。グレーテに命じられた守護者達もまた、脚を動かし、眼前にある洞窟へと入る。
吹雪で荒れる雪原とは違い、洞窟内は水の滴り落ちる音と微かな風音が聞こえるのみであり、オズワルドの気配は感じられない。口から吐き出す息は白くなっており、左肩と左脚から流れ出る血により、グレーテは体温が急激に下がっている事を実感する。彼女は近くにある岩に座り、護衛の守護者の差し出した包帯を受け取る。それを肩と股関節に巻き、太い動脈を圧迫し、止血を試みる。
純白の包帯に赤黒い血が染み出している。
それを見たグレーテは傷口の上に更に包帯を巻き、強引に止血していく。グレーテの姿を見た守護者達は不安そうな表情を浮かべるが、脂汗を浮かべたグレーテは彼らを睨みつけ、強い口調で話す。
「…船に行けば医療設備がある。そこまで持てば良い…」
痛みを堪えつつ、グレーテは話す。有無を言わせない彼女の口調に、時の守護者達は思わず閉口し、沈黙を貫いた。
銃声が響いた。
洞窟内に反響した銃声に驚き、グレーテ達は身を竦めた。直後、彼女らの近くの壁にマスケット銃の弾丸が命中し、岩の破片がグレーテの足下に落ちた。
それを見たグレーテは、銃弾が先ほどよりもグレーテに近づきつつある事に気づき、息を呑んだ。オズワルドの姿は吹雪の中に溶け込んでおり、互いに見えない筈である。しかし、波導の力を有するオズワルドは吹雪の中、グレーテの波導を頼りにマスケット銃を放った。球場の弾丸は軌道が不安定で、かつ吹雪の中での発砲だが、オズワルドの放った銃弾は少しずつ接近している。
グレーテ達はその事を理解し、顔を強張らせた。
「…行くぞ」
グレーテは怯みつつある守護者達に声をかけ、洞窟の奥へと進む。奥からは氷で冷やされた風が吹き、グレーテ達の体温と体力を奪う。口から吐き出される息も白くなり、グレーテは身体を震わせながら脚を進める。
天井の氷柱を伝い、水滴が落ちてくる中、グレーテ達は濡れた地面に脚を取られぬように駆け足で移動し、洞窟の奥を目指す。凹凸と水溜りが彼女らの脚を遅くさせるが、グレーテ達は意に介さずに移動し続け、やがて洞窟の途中にある開けた空間へと辿り着く。
空間の横には大きな穴が空いており、そこから外気が入り込む。穴の先は崖の中腹に面しており、崖の下に降りて、その先にある岬へと移動すれば、ヴィレムの待つ帆船が停泊している。
空間まで辿り着いたグレーテは安堵の息を吐き出し、脚を止める。出血と痛みと寒さで体力を奪われているグレーテは、僅かな時間で休憩を取り、息を整える。護衛の2人の守護者達も立ち止まり、息を整える。
グレーテの視界の端を影が通過する。
グレーテと守護者が影を視線で追った先にはマスケット銃が転がっており、彼女らの注意を引く。その間、影はもう1人の守護者に飛びかかり、喉笛に噛み付く。影、いやオズワルドは弾切れになったマスケット銃を囮に使い、隙を見せた守護者の喉笛を己の牙で噛み千切る。ナイフや剣、マスケット銃などの武装がないオズワルドだったが、守護者の1人の喉を潰し、そのまま地面に叩きつける。
辺りに鮮血が舞い、オズワルドの口内に鉄の味が広がる。
オズワルドは口内に広がる血の味を無視し、守護者の喉の肉に噛み付き、守護者の体重を利用し肉を噛み千切る。ブチブチと筋が千切れる音が聞こえる、頸動脈を噛み切られた守護者は地面をのたうち周り、声にならない悲鳴を漏らす。
オズワルドは守護者の肉を吐き捨て、守護者が落としたマスケット銃を拾おうとする。だが、もう1人の守護者がそれを蹴り飛ばし、岩盤の裂け目へと落とす。
「殺せぇ‼︎」
空間内にグレーテの叫び声が響く。護衛の守護者は彼女の命令に従い、剣を構えてオズワルドに斬りかかる。武装のないオズワルドは背中の傷と火傷の痛みに耐えつつ、鋼の力を宿した拳で剣を受け止め、力任せに剣を弾き飛ばそうとする。守護者は巧みなステップでオズワルドから距離を取り、改めて斬りかかる。
その光景を見たグレーテは、左脚を引きずりながら穴の方へと逃げる。グレーテが肩越しにオズワルドに目を向けた際、彼は囮に使ったマスケット銃を拾い、銃身で守護者の剣を受け止め、応戦している。
「…クソ野郎がぁ…‼︎」
応戦している守護者を見捨て、グレーテは穴を通り、外へと出る。穴の出口は崖の中腹に面しており、ヴィレム達が事前に縄梯子を設置していた。
だが、穴から外に出たグレーテは、縄梯子の縄が切断され、崖下に落ちている事に気がついた。
「な、ぜ…」
冷たい海風が吹き込む中、グレーテは唖然とした表情で崖下を見ていた。縄の断面は綺麗なものであり、自然に切れたのではなく、何者かがナイフを使い切断したとわかる。この場所に縄梯子がある事を知っているのは、時の守護者だけである。
グレーテの視界に、崖下の岬が映る。
岬に帆船は停泊しておらず、沖合を見たグレーテの目に、既に出航した帆船の影が映る。
それを見たグレーテは呆然とした表情で立ち尽くし、目を開いたまま、息を吐き出す。
後方から悲鳴が聞こえる。
グレーテが振り向いた先には守護者の姿があり、彼の右の首筋にはオズワルドの牙が食い込んでいる。オズワルドの牙は守護者の頸動脈を切断しており、守護者の身体は痙攣を繰り返していた。やがて、絶命した守護者の身体は地面に倒れ、オズワルドは口内に溜まった血を吐き出す。
口から血を吐き出すオズワルドの姿を見たグレーテは、カチカチと歯を鳴らした。
これまでのグレーテは将校やヴィレム、時の守護者達が傍におり、警護や武力に困らなかった。しかし、今のグレーテの周りには誰も居らず、彼女の眼前には血塗れのオズワルドが立っている。
オズワルドは手にしたマスケット銃を投げ捨てる。
守護者との戦いで折れ曲がったマスケット銃は崖から落下し、下の岩盤に叩きつけられる。バラバラになるマスケット銃を横目で見たグレーテは息を呑み、オズワルドに視線を向ける。
背中の『裏切者』という文字の傷は焼き潰されているが、激しい動きにより出血しており、オズワルドの背中を伝い、地面へと垂れている。拘束具から逃れるために手の肉も裂けてしまい、地面に血溜まりができている。オズワルドの口の端からは守護者達の血が垂れており、オズワルドは不快そうな顔で血混じりの唾を吐き捨てる。
それでもなお、オズワルドは冷たい眼差しでグレーテを見つめ、静かな声で尋ねる。
「満足ですか?⚪︎⚪︎⚪︎を苦しめる事ができて…」
オズワルドの問いにグレーテはニヤリと笑い、挑発的な笑みで彼を見返す。
「あぁ、満足だよ…私の愛を拒絶した⚪︎⚪︎⚪︎が苦しむ様は…見ていて快感だったよ」
グレーテはカラカラと笑い声をあげ、オズワルドと目を合わせる。オズワルドは怒りの色を目に宿し、グレーテを凝視する。
やがて、オズワルドは静かな声で尋ねる。
「…他の者達は?危害を加えて苦しめたのは、なぜですか?」
オズワルドに尋ねられたグレーテは薄笑いを浮かべ、無意識に左肩の傷を右手で抑える。
「…お前と同じだよ、サンプル02号…この世界の連中は皆、私にとっての実験体さ」
強気な口調で話すが、グレーテの出血量は相当なものであり、グレーテの顔は少しずつ青ざめている。失血により手脚は震え、額には汗を流している。
グレーテの姿を見たオズワルドは、静かな声で話す。
「⚪︎⚪︎⚪︎も私も、×××には幸せになってほしいと思います…あなたの味方です…ですが、あなたは実験の数値を改竄し、多くの者を死へと追いやった罪がある…」
オズワルドは静かな声で話し、視線をグレーテへと向ける。オズワルドの目から憎悪の色は消えており、悲しみの色が滲み出ている。
グレーテもまた、オズワルドの言葉を聞き、目を伏せる。
「あなたのこれまでの所業を考えても…罪を償いきれるとは思えません…でも、⚪︎⚪︎⚪︎と私はあなたに罪を償ってもらい、罰を受けてほしいと思います」
オズワルドの静かな声が海風に溶け込む。彼の声を聞いたグレーテは閉口し、伏せていた視線を彼に向ける。
オズワルドはグレーテの目の色が変わっている事に気がついた。普段のグレーテの目は狂気に満ちた色であるが、今のグレーテはオズワルドの記憶に残る×××と同じ目の色である事に。
グレーテは戸惑うように口を開き、静かに話し出す。
「…オズワ」
オズワルドの名前を呼ぼうとした瞬間、グレーテの足下の地面が崩れた。重力に引かれ、グレーテの身体は下に落下していき、彼女の目にバラバラになったマスケット銃が映る。沖には航行する帆船の影、前方には驚いたオズワルドの顔があり、グレーテは視界が揺らぐのを感じる。
崖の下には、剥き出しの岩盤が控えている。
*
ノエタウンの岬に停泊していた帆船は、グレーテの到着を待たずに出港した。追い風に恵まれた帆船は沖合まで瞬く間に航行し、穏やかな海風に包まれている。
帆船の船体には『ヴォセク』と刻まれている。
『ヴォセク』が出航したノエタウンは吹雪に覆われており、船の甲板から街の方向を眺めている牡のゴウカザル、ヴィレムはにやにやと笑みを浮かべ、タバコの煙を吐き出す。
甲板上にはヴィレムの他に、船員として働く時の守護者達の姿があり、彼らは帆をコントロールしたり、荷物を運んだりしている。甲板の後方にある操舵室では、船長と航海士が舵輪を操っており、船は順調に沖合へと航行している。
現状、この『ヴォセク』における最高指揮官はヴィレムであった。
オズワルド達が教会に攻め込む前にヴィレムは密かに行動に移し、教会内にある監禁室から『ヴォセク』へとニコルを移した。同時に食料や燃料、財宝、武器、人員も可能な限りで教会から『ヴォセク』へと移し、カウフマンやグレーテに気取られぬように努めていた。もっとも、カウフマンとグレーテはレシラム教とゼクロム教に対する攻撃と暴動に意識が向いており、ヴィレムの動向など歯牙にもかけていなかった。
ヴィレムは日頃から売春宿に出入りしており、円卓のメンバーやカウフマン、グレーテは『ヴィレムはいつも通り、売春宿に行っている』と考えていた。だが、実際は帆船で脱出する手筈を整えており、ヴィレムはカウフマンやグレーテの裏をかくことに成功した。
想像通りに事が運び、ヴィレムは嬉々とした表情でノエタウンの方角を見ている。
やがてヴィレムは首から下げた双眼鏡を使い、ノエタウンの郊外にある岬の付近を見た。『ヴォセク』の停泊していた岬にはグレーテの姿はなく、代わりに近くの岸壁に立つ人影が見えた。
双眼鏡の拡大率を調整したヴィレムの目に、断崖に追い詰められたグレーテの姿が映り込む。彼女の足下には、本来ならば縄梯子があるはずだが、事前にヴィレムがナイフで切断しているため、グレーテは崖下に降りられずにいる。それを見たヴィレムは嬉しそうに口角を歪め、双眼鏡の下の目を細める。
やがて、ヴィレムは満足した顔で双眼鏡から目を離し、視線を甲板へと向ける。甲板上では船員達が絶えず動き回り、それぞれの役割を果たしている。忠実に働く自身の配下を見たヴィレムは、満足そうな表情でタバコの煙を吐き出し、吸殻を海へと捨てた。
波の合間に浮く吸殻は瞬く間に波に飲まれ、それを見たヴィレムは視線を動かし、航海士を見る。
航海士でもある時の守護者、牝のウェーニバル、ティトレリはヴィレムの側に立ち、耳触りの良い声で報告する。
「ヴィレム様の配下は全員乗船済みです。現在は追い風、物資と食料も確保できているため、いつでも航海に出れます」
ティトレリの報告を聞いたヴィレムは「ご苦労」とだけ返し、視線をノエタウンの方角に向ける。
レシラム教の教会でオズワルド達や騎士団と交戦した守護者達は、全員がカウフマンとグレーテの配下であった。ヴィレムは自身の配下を教会で交戦させずに、共に脱出を図っていた。
ヴィレムは白煙に包まれる教会を一瞥し、視線をティトレリへと戻す。
「…我々もこの時間軸から脱出する。未来の世界へ帰るぞ」
過去の世界で欲望の限りに行動し、思う存分楽しんだヴィレムは口角を歪めながら話す。彼の言葉を聞き、ティトレリは微かに笑みを浮かべ、視線をヴィレムに合わせる。
「…ようやく、グレーテとグレーゴルに一矢報いる事ができましたね」
ティトレリの言葉を聞き、ヴィレムは「あぁ」と返す。
「…思い上がったクソどもにやり返す事ができて、俺は満足さ。お前もそうだろう?」
ヴィレムに尋ねられたティトレリはクスリと笑い、目を細める。ティトレリの目には憎悪の炎が宿っており、彼女はくすくすと笑い声をあげながら応える。
「あの時の恨み…ようやく晴らす事ができました…私の中の皆が喜んでいますよ」
ティトレリの返事を聞き、ヴィレムは「俺もだよ」と応え、愉快そうに笑い声をあげる。彼は手の平で目を覆いながら空を仰ぎ、高々と笑い声を上げ続ける。ヴィレムに続き、ティトレリもまた笑い声をあげ、甲板上で働いている時の守護者達は不思議そうな顔で彼らを見る。
やがて、笑いを止めたヴィレムは微かに乾いた喉から、絞り出すように声を発する。
「…俺たちは永遠の兄妹、だな」
ヴィレムの呟きを聞き、ティトレリは微かに頷く。
2人の目には憎悪と狂気の色が宿っており、彼らの視線は船内へ続く扉へと向けられる。扉の向こうには通路があり、その奥には監禁されたニコルがいた。
*
足下の地面が崩れ、グレーテは崖下へと落下した。
そのまま地面に衝突する事を予感し、グレーテは思わず目を閉じる。だが、いつまで経っても彼女は地面にぶつからず、グレーテは恐る恐る目を開く。
グレーテの視界に、崖から身を乗り出してグレーテの右手首を掴むオズワルドの姿が映る。
「ぐっ…」
背中に傷と火傷を負い、肉の裂けた手でグレーテの右手首を掴むオズワルドは苦しそうな声をあげている。普段の彼ならば、腕力を使い、強引にグレーテを引き上げる事ができた。しかし、負傷し疲弊しきったオズワルドの身体はグレーテの重さを支えきれず、上半身が崖から飛び出していた。
オズワルドはなんとかグレーテの手首を掴んでいるが、オズワルドの腹の下にある地面が少しずつひび割れし、細かな破片が崖下へと落ちていく。
彼らのいる崖は、2人分の体重を支えるには、強度不足であった。
それでもオズワルドはグレーテの手を離さずに、なんとか引き上げようと試みるが、背中の傷が痛み、思うように力が入らない。代わりに地面が細かく崩れていき、オズワルドは自身の身体が下方に引きずられているのを実感する。
「放せ‼︎お前も落ちるぞ‼︎」
グレーテはオズワルドに向かって叫び声を上げるが、オズワルドは何も言わずにグレーテを支えようとする。
地面にひび割れが走る。
眼前で地面が崩れつつあるのを視認し、グレーテは再びオズワルドに向かって叫び声をあげる。だが、オズワルドは彼女の声を無視し、代わりに大声で応えた。
「黙れ‼︎お前は⚪︎⚪︎⚪︎に謝る必要がある‼︎生きて⚪︎⚪︎⚪︎に会って、謝れ‼︎」
オズワルドは自身を鼓舞するかのうように大声をあげ、腕に力を入れようとする。しかし、背中の傷と火傷、手の傷の痛みにより、思うように力が入らない。
なにより、オズワルド自身も相当量の失血をしており、彼の視界も大きく揺らいでいる。それでもグレーテを救うために、オズワルドは全身に力を込める。
地面のひび割れが大きくなる。
砂に混じり、小石も落下していき、崖周囲の地面が崩落し、オズワルド共々落下する危険性がある。グレーテはその事に気づいており、乾いた笑いをこぼした。
グレーテの笑みに気がついたオズワルドは、彼女の顔を凝視する。
グレーテの笑みには狂気の色が微塵も存在せず、オズワルドの覚えている×××のみせる笑みであった。
「ねぇ、オズ」
グレーテの声色が変わっている。それはオズワルドの記憶の奥底に残る×××の声であり、オズワルドはグレーテの顔を見つめる。
グレーテは優しい笑みを浮かべ、オズワルドを見上げる。
「⚪︎⚪︎⚪︎とオズが私のために一生懸命になってくれて、凄く嬉しいよ…救われたよ…」
グレーテは優しい口調で話し、微笑んだ。
×××を見たオズワルドの動きが止まる。
「ありがとう」
×××はオズワルドに笑いかけた直後、左腕をオズワルドに向かって振った。左肩の傷から滴り落ちる血液は×××の左手首を血で濡らしており、腕を振った勢いで飛んだ血液が、オズワルドの目元に当たる。
突然の出来事にオズワルドは怯み、腕の力が抜ける。
直後、×××はオズワルドの手を振り払い、身体を空に泳がせる。重力に身を任せた×××は、オズワルドに向かって微笑んだまま、崖下へと落ちていく。それを見たオズワルドは彼女の名前を叫ぶが、×××の耳に届くことはなく、その身体は岩盤に叩きつけられた。
鈍く湿った音が広がる。
崖下に赤い染みが広がり、四肢があり得ない方向に捻じ曲がったグレーテの死体が転がっていた。
その光景を見届けたオズワルドは、大きな瞳から大粒の涙をこぼし、頭が潰れたグレーテの死体を見下ろした。オズワルドの涙はグレーテの死体へと落下し、彼女の頬を濡らした。
直後、オズワルドの背後の穴から姿を現したカフカは、守護者達の死体とオズワルド、そして崖下の光景を見て、全てを理解した。
「…グレーテも死んだ、のか…」
カフカの呟きはオズワルドの耳に届く。彼は大粒の涙を流し、声を押し殺して泣いている。かつて、自身を檻から救い出してくれた恩人を救えず、目の前で死なせてしまったオズワルドは、大声で泣き続けた。
その背中を見たカフカは、オズワルドの肩を優しく撫で、彼の顔を自身の胸に抱き寄せた。
オズワルドの涙がカフカの胸を濡らした。