「焦るんじゃないわよ。あんたは言われたことだけをすればいいの」
柴崎圭子(しばさき けいこ)は電話で指示する。彼女は闇バイト組織の中間管理職として、多くの若者を犯罪に引きずり込んできた。
SNS上で「誰でも簡単に稼げる」などと勧誘し、彼らを違法薬物や銃器の運搬、果ては振り込め詐欺や強盗と言った犯罪行為を行わせている。
「で、でも、もし捕まりそうになったら...」
電話の向こうでは若い男性が声を震わせている
「あんた、”覚悟”を決めなさいよ。そもそもこの仕事を申し込んだのも自分じゃない。無職で金に困っているあなたを雇って、今では毎日ウーバーイーツを頼める身分にさせたのは誰のおかげだと思ってるの?あんたの代わりなんていくらでもいるんだから。もし、警察に自首なんてしたら、あなたと家族の個人情報をばらまいて、社会的に抹殺するから。それとも今夜、あなたの家にウチの組の者が...」
「やめてください!後生だからやめてください...」
電話の主は圭子が提示した”制裁”を聞いて号泣している。
「分かったならそれでいいの。私だって鬼じゃない。もしヤバくなったら、封筒に入っている”アレ”を飲みなさい。絶対に逃げられるわ。」
男は机の上にある封筒を開ける。中から白い粉が入っているビニール袋が出てきた
「これを...いざという時に飲めばいいんですね....」
「そう。絶対に警察の追手から逃れられるわ」
そう言って圭子は電話を切った。
数日後...
「麻田飛馬(あさだ ぺがさす)!警察だ!」
柴崎と電話で話していた麻田の家に警察が押し寄せてきた。
「あの粉を....あの粉を飲まないと..」
麻田は洗面所に行き鍵をかけた後、洗濯機や洗面所のラックをドアの前に置き、風呂場の窓を開ける。圭子から渡された白い粉を一気に飲む。
「うっう...がぁっ、がぁ.....」
麻田は飲んだ瞬間、言葉では言い表せないような衝撃に襲われる。麻田の身体がボキボキと不吉な音を立てる。
「麻田!お前を振り込め詐欺の”受け子”として関わった容疑で....ってあれ?」
刑事たちが麻田のドアをこじ開け突入するも、麻田の姿はどこにも見えなかった。
「洗面所にカギがかけられています!」
後輩の女性刑事が取り仕切っていた年配の刑事に報告する。
「もしかして自殺でもしたんじゃ...」
年配の刑事は急いで洗面台のドアに突進し、蹴破る。洗濯機やラックが邪魔をして突入するのに時間がかかる。
「くそっ、逃げられたか!」
麻田はおらず、洗面所の窓から風が吹いていた。
一方、麻田が住んでいたアパートのすぐそばで、一匹の兎が震えていた。
[newpage]
闇バイトの実行役が失踪している事実に警察は違和感を覚えた。
「あれだけの短い期間で逃亡なんてできるんでしょうか...」
麻田の家宅捜索を行った刑事、宇佐美京子(うさみ きょうこ)は疑問を呈する。
「数日前から逃げていたんじゃないの?」
京子の同僚である小熊啓二(おぐま けいじ)は推測する
「いや、それにしてもおかしいんじゃねぇか。たとえ数日前から逃げていたとしても、すぐ逮捕されているはずだ。これだけ監視カメラが町中にあふれているのに、麻田の目撃証言すら上がってこない」
今回の事件を担当する刑事たちのリーダー、馬主大五郎(ばぬし だいごろう)が小熊の見立てを否定する。馬主はぼさぼさ髪に頭にあざができ、いかにもベテランと言う風貌をしていた。
「じゃ、既にこの世にいないとか...」
「それもねぇな。麻田の姿は俺たちが家宅捜索をする一日前に近くのコンビニの監視カメラに映っている。仮に、闇バイトの黒幕たちが始末したとしても、現時点で疑わしい車両や人物に関する目撃証言はない」
「じゃ、麻田は一体...もう分かりませんよ」
小熊は頭を抱える。
「わからねぇ。とりあえず、次の事件では闇バイトの実行犯を生身で捕まえよう」
馬主は仲間たちに指示を出した。
数日後。
とある駅のロータリーでスーツを着た若者がうろうろしている。
「君、ちょっといいかな」
馬主が声をかける。すると、若者はすぐ走り去ろうとする。すると、ポケットから例の白い粉が入ったビニール袋を落とした。
「おい、待て!」
馬主と宇佐美、そして小熊が追いかける。馬主がビニール袋を拾い、小熊が取り押さえる
「署でゆっくり話してもらおうか」
若者は最寄りの警察署に連行された。
[newpage]
「おい、お前。振り込め詐欺の”受け子”をやってたそうじゃないか。お前のバッグから偽装された銀行の名刺とキャッシュカードが出てきたぞ」
馬主が逮捕した若者、河口に問いかける。受け子とは振り込め詐欺などで金融機関の職員を装い、キャッシュカードや印鑑などを預かる行為だ。もちろん、詐欺罪に該当するれっきとした犯罪だ。しかし、河口は黙ったままだ
「それに、あの粉は何だ?麻薬か?闇バイトの他に薬物の所持だと罪はさらに重くなるぞ」
河口は石のように表情が硬かった。
「何か言ったらどうなんだ!ああ?」
馬主が机をたたいて恫喝するも河口は何も話さなかった。
「これ、何の粉でしょうか...」
小熊は不思議がる。警察の鑑識が河口から押収した白い粉を何度も検査した。しかし、どの薬物検査でも反応は出なかった。
すると、京子がビニール袋を手に取った。京子は今にも嘗めたいという表情をしていた。そして、宇佐美はビニール袋を開け、舌で嘗めた
「宇佐美さん!」
小熊が止めようとするも時すでに遅しだった。
「ッ……!」
一瞬、口の中に広がる奇妙な甘さ。
それと同時に、全身に熱が走る。
「な、に……? ……う、あぁぁ……!!」
立っていられないほどの強烈な眩暈。京子の身体は床にたたきつけられる。
両手が震え、指先がビリビリと痺れていく。
「ッ!? うそ……私の指が……!」
指が縮み、ふわふわの毛が生える。爪が黒く硬く変化していく。
まるで内側に吸い込まれるように、一本一本の指が短くなり、関節が埋もれていく。
「う、うわっ……!!」
親指が後退し、次第に手のひらの一部に溶け込んでいく。京子はなんとか動かそうとするが、もう人間のように器用に動かすことはできなかった。
「ミチっ、ミチっ」
次第に、手のひら全体が盛り上がり、柔らかく厚みを増していく。
皮膚がざらついた質感へと変わり、小さな肉球が膨らんできた。
「ひぃっ……!!」
指先が完全に短縮し、代わりに硬くなった爪が黒く変色する。
関節の動きが制限され、次第に丸みを帯びた前足へと変わっていく。
「ちょ……ちょっと待って、これ……!!」
京子の両手は紛れもなく、ふわふわとしたウサギの前足に変わっていった。
「ダメ……これ、何かおかしい……!!」
京子はそばにあった鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、鼻が前に突き出し始めた自分の顔だった。
「や、やめて……!!!」
鼻がひくひくと震え始める。嗅覚が異常に鋭くなり、周囲の匂いが鮮明に感じ取れる。
「いやぁ、いやぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
鼻が押し広げられ、ぴくぴくと敏感に震えた。
それまで平坦だった人間の顔立ちは、徐々にウサギの口吻(こうふん)へと変わり、皮膚が引き伸ばされていく感覚に耐えられず、京子は目を強く瞑った。
歯がチクチクと疼き始める。
口の中で門歯が異様な速度で成長し、上下の前歯が異常な長さにまで伸びていた。前歯が一気に巨大化し、あの「かじるための歯」に変わっていく。
「ぁぁ……!?」
口を閉じようとしても、歯が邪魔で閉じられない。上唇が割れ、兎特有の“割れた口元”が形作られる。
自分の口の中にあるものが、すでに「人間のものではない」と理解してしまった。
口元の皮膚が痺れたと思うと、顔全体がチクチクとした痛みに襲われる。しばらくすると、茶色の毛が大きくなった毛穴からゆっくりと生える
「ビリっ、ビリっ」
皮膚が破られるような音がすると同時に、顔中が茶色の体毛で覆われる。
「ピクリ」
頭の横で、何かが生え始めた。柔らかい、毛に包まれたもの。
耳だ。長く、垂直に伸びた兎の耳。耳がこめかみから頭頂部に立ちピーンと立つ。
黒く艶のある目が大きくなり、横に広がった視界が急に「人間ではない見え方」に切り替わる。
「俺、馬主さんに知らせてきます!」
小熊が鑑識を飛び出す。しかし、京子の変化は止まらなかった。
「く、クゥッ……!!」
腰の奥がズキズキと痛む。
もはや「兎面人」と化した京子は恐る恐る後ろを振り向いた。
臀部が丸くなり、やがて突起物、尻尾が生える。尻尾は茶色の毛で覆われていた。尻尾が形成されるとズボンが自然に脱げる。
そこには、ふわふわの白い尻尾がぴくぴくと動いていた。
「いや……こんなの、嘘!!」
だが、もう人間の姿はほとんど残っていなかった。
「バキッ、バキッ」
「コキッ、コキッ」
明らかに尋常ではない音を立てながら、骨同士がこすれあう。全身に茶色の毛が生え、痒みが止まらない
「いやっ...あう...あ....っ....」
叫んでいた京子の声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。京子の身体は空気を抜いた風船のように萎んでいく。そして、スーツの中に埋もれた。
「宇佐美っ!」
馬主が小熊と河口を連れて鑑識室に駆けつける。
布切れと化したスーツの中から出てきたのは一匹の茶色の兎だった。兎には声帯が無い。宇佐美だった兎は馬主たちを見つめるだけだった。
「宇佐美、さん...?」
小熊は目の前に広がる光景が信じられなかった。
「あっ、あっ....嫌だ....嫌だぁ!!!!!!」
渡された粉の正体を知った河口はパニックになる。馬主は冷静になり、河口の身体を押さえつける。
「あの粉は何だ!?中身について知らされていたのか?」
馬主は問いかける。河口は頭を横に振る。
「指示役の人から、”警察に捕まりそうなときはこれを飲め。そうすれば逃げ切れるぞ”って言われたんです!」
河口は泣きながら答える
「いいか、お前を雇っていた連中はお前を動物にして口封じをしようとしたんだ。しょせん、使い捨てとしか思っていないんだ。それでもまだ奴らを庇う気か?」
馬主は静かな口調で河口に問いかける
「たしかに君は罪を犯した。もしかしたら刑務所に何年も入るかもしれない。しかし、今なら間に合う。他にも口封じをされた者がいるかもしれない。是非協力してくれないか」
小熊は兎と化した宇佐美を抱きかかえながら問いかける。宇佐美の瞳も河口に訴えていた。
河口は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷いた。
[newpage]
「闇バイト組織の指示役は実行犯に兎に変身させる薬物を渡し、口封じをしていた」
馬主たちから送られた報告は警視庁を震撼させた。警察上層部は闇バイト組織の解明と、例の「白い粉」の謎を解明するため、闇バイト実行犯を生身で確保するよう指示を行った。
そして、闇バイト指示役である柴崎の居場所を突き止めた。
その情報は、警察内の情報屋を通じて、柴崎の元にも届いた。
「今月もたくさん稼いじゃったわ」
柴崎は上機嫌だった。本当は闇バイトで得た売り上げの6割を組織に渡すルールなのだが、柴崎は「指示役の教育費」と称して4割しか送っていなかった。そろそろ独立するのも悪くない。そう思えてきた。
そんな中、柴崎に速達の封筒が届く。
「明日10時に警察がやってくる。もし踏み込まれたらこの錠剤を飲め。そして、〇〇川の河川敷に逃げろ」
柴崎は不敵に笑った。
「最後の最後まで用意がいいじゃない。」
柴咲は早く来たときに備えて玄関に椅子や机、ソファを並べてバリケードを作った。
翌日の朝10時
「警察だ!! 開けろ!!」
柴崎は机の引き出しから、封筒に入っていた小さな青い錠剤を取り出した。
「……本当にこれを飲めば、大丈夫なんだな……?」
警察がドアを叩く音が響く。
「柴崎圭子! おとなしく投降しろ!!」
警察がドアを開けようとするもドアチェーンと家具のバリケードが侵入を阻む。
「チッ……うるさいわね……!」
柴崎は最後の賭けに出る。
迷わず錠剤を口に放り込んだ。
「ミシ……ミシミシ……!!」
飲むやいなや骨同士が擦りあう音がする。
「ぐっ……!?」
腹の奥から熱がこみ上げ、全身の筋肉が縮む。
「ッ……!!」
柴崎は、まるで自分がどんどん小さくなっていくような感覚を覚えた。“体の重心”がどんどん低くなっていく。天井や照明より高くなり、机やクローゼットと言った家具類が大きく見える。
「う、ううん..」
腕が痺れる。すると、皮膚の表面に黒い毛が浮かび上がり、ざらりとした感触に変わる。両腕中の毛穴と言う毛穴が大きくなり、開いた毛穴から黒い体毛がびっしりと生える。
「や……やめろ……!!」
指同士が互いに密着する。同時に指が短くなり、均等の長さとなり、指関節が消滅する。爪が黒く鋭く変化する。
気づけば、手は完全に前足へと変わり、肉球が形成されていた。
「ビリビリっ!」
両腕と両脚が短く、肥大化し、シャツとズボンが悲鳴を上げる。太ももがねじれるように縮み、筋肉が四つ足の形に再配置されていく。肩幅が狭まり、肘の位置が変わる。やがて、前脚と後脚に完全に分かれた“犬の骨格”が完成した。
「グルルル……ッ!!」
喉の奥から本能的な唸り声が漏れる。
柴崎の鼻が湿り気を帯び、口元が突き出す。三角形の鼻は黒ずみ、丸形に形を変え、顎と共に前へ前へ突き出る。
顔の皮膚がマヒしたような感覚を覚えると、黒い毛が一斉に生え、ゆっくりと覆いつくす。瞳は黒一色になり、視界が変わる。次第に色が薄れ、モノクロの世界へと切り替わる。
長い金髪は顔や身体を覆う短い毛に置き換わり、バサバサと床に落下する。
鏡に映ったのは、黒い犬の顔をした自分だった。
「クッ……ウゥゥ……!!」
耳が丸形からたれ耳になり、頭頂部に移動する。
両足も、両手と同じく互いの指が短く、密着し、小さくなっていく。踵の半分が床から起き上がる。背中が伸びるにつれ、四足で立つのが自然になる。
両腕と両脚はさらに短くなり、身長がぐんぐんと縮んでいく。一方、身体中の毛穴と言う毛穴から黒い体毛が一斉に噴き出す。
大きな胸が小さくなり、代わりに複数の小さな胸が腹部付近に形成される。
最後に、尾てい骨から黒い毛で覆われた箒のような尻尾がするすると伸びた。
布と化した服を柴崎は抜け出す。そこにいたのは一匹の黒い雌犬だった。
「バリンっ!」
本能に突き動かされるように、柴崎は窓から飛び出した。
[newpage]
犬と化した柴崎は裏口から脱出した。
しかし、”ある者”が行く手を防ごうとした
「(なんだ、この兎は...)」
柴崎の目の前にいたのは茶色の兎、そう宇佐美だった。
...「宇佐美!どこにいく!」
数秒前前、捜査員たちが柴崎の自宅を正面突破する中、宇佐美は単身で向かった。野生の勘が働きかけている。
その兎は震えながらも、前足を踏みしめ、闇バイトの元締めであった柴崎に向かって睨みつけていた。
「(犯人はまだいるはず...)」
宇佐美は小熊の静止を聞かず、裏口へかけていく。
果たして宇佐美の「野生の勘」は当たっていた。一匹の黒犬が今まさに逃げようとしていた
「(もしかして、この犬も...)」
宇佐美は柴崎も変身させられた可能性を感じ取っていた。しかし....
「(怖い……逃げたい……どこか暗くて狭いところに隠れたい……!)」
宇佐美の脳内には、とてつもない恐怖感が襲う。目の前にいる犬がモンスターに見える。兎の本能が警察官としてのプライドを覆い隠そうとしていた。
...「ワンッ!!」
柴崎は吠える。宇佐美はビクッと身体を震わせる。
「(怖い...怖い...でも、逃げちゃだめだ...)」
柴崎の咆哮は宇佐美にとっては死刑宣告に等しかった。
しかし、驚いたのは柴崎本人だった。
「(……今、吠えたの……?)」
柴崎は驚いた。
柴崎の意識に犬の本能が出始めていた
「キーキー」
宇佐美が声を震わせて行く手を塞ごうとする。
「(あっ....)」
宇佐美の身体が空中に舞う。肩から腹部にかけて切り傷が広がり、血があふれた。空中を舞ったのもつかの間、宇佐美は重力によってアスファルトに叩きつけられた。
「(邪魔しやがって)」
動かなくなった宇佐美を、柴崎は軽蔑したような眼差し見つめ、足早に立ち去った。
「宇佐美....宇佐美ぃーーーーーー!!!!!!!」
しばらくして小熊と馬主が駆けつける。そこにはしおれた草木のような一匹の兎が血を流して倒れていた。
「(今、兎を殺しちゃったよね..)
逃げる最中に、柴崎は今更ながら後悔する。
しかし、この時、柴崎は「警察が来て自分を確保すべきだった」と思う由もなかった。
柴崎は街を駆けぬけ、河川敷を目指した。犬ならではの四足歩行とスピードを生かし、表通りも路地裏も風のように駆け抜ける。
やがて目的地の河川敷に到着した。
「(私は助かる……組織の仲間がいるはずだ……)」
しかし、目的地の河川敷で柴崎が目にしたのは想像もしない光景だった。
「はぁっ、はぁっ」
河川敷の茂みから多くの犬がこちらに向かってくる。そして、後ろから緑の作業着を着た男性たちが追いかけてくる。作業着には「○○市保健所」と書かれている。
この河川敷では保健所による野犬狩りの真っ最中だった。
「(逃げないと...)」
柴崎は本能から逃げようとする。しかし、気づいたときは後の祭りだった。
「よし、あの黒い犬も捕まえろ!」
リーダーらしき人物が部下たちに指示する。すぐに網が柴崎の頭上を覆った。
「ワンッ!! ワンッ!!!(違う、私は人間よ!)」
だが、どれだけ吠えても、柴崎の言葉を理解できる人間はいなかった。
「ワンッ、ワン!!!!!!」
柴崎は必死の思いで網を破ろうとする。網を食いちぎろうとしたその時だった。
「プスッ」
柴崎の身体が重くなり、瞼が閉じる。麻酔薬を投与した柴崎はドスンと地面にたたきつけられ、意識を失った。
[newpage]
2か月後、保健所の檻の中で、柴崎は日に日に「犬」として馴染んでいった。
最初は、必死に元の自分に戻ろうとした。この「牢獄」の中から出ようとした。しかし、やがて無理だと悟った。
最初は嫌ったドッグフードも今では食べるのも平気になった。臭いにおいもすっかり慣れた。
「人間」とは?「自分」とは?考えるのも煩わしくなった。
代わりに浮かんでくるのは、
「匂いを嗅ぎたい」
「外に出たい」
「群れに戻りたい」
「縄張りを守りたい」
そして
「子孫を残したい」
といった犬の感覚的な欲求ばかり。
床に垂れた水を舐めてしまう自分に気づいたとき、柴崎はふと首を傾けた。
「なぜ、今の行動を恥じる必要があるの?」
そんな思考が、本能によってかき消された。
耳が音に反応してピクリと動く。
保健所職員の足音。
首輪の音。
小さな犬の鳴き声。
「アォーン!!!!!!」
ある夜、ある犬が吠える
「アゥーーー!!!!」
柴崎も呼応する。恥じらいなどなかった。
しかし、「その日」はやってくる
「今日の処分対象、これで最後か……。」
記された処分リストが、飼育員の手で確認される。すでに成長済みの柴崎には引き取り手はいなかった。
「じゃ、85号の処分をお願い」
男性職員は85号ごと、柴崎をケージから取り出す。人間の思考が難しくなった柴崎は何が起きるか知らず、笑顔で職員に抱きかかえられた。
大勢の犬たちが部屋に集められた。職員がドアを閉めるとスイッチを押した。
天井から白い蒸気が霧のように吹き出し、部屋中に充満していく。白い蒸気の正体は二酸化炭素ーー犬たちを「安楽死」させる物質だった。
「ぐわっ、ぐぁあ....」
安楽死とはいえ、死ぬのが楽であるはずは無い。直前まで笑顔だった柴崎の表情が苦しくなる。
「あんたの代わりなんていくらでもいるんだから」
あの時、麻田に言った一言が柴崎の脳内にフラッシュバックしていた。
「(私も、しょせん”代わり”でしかなかったんだな)」
やがて柴崎が見る世界は黒一色になり、パタリと倒れた。
一方、香港のとある高層マンションの最上階。100万ドルの夜景を見つめながら、スーツ姿の男たちが高級ワインを片手に歓談していた。
「日本のアホな警察はここまで追ってこないでしょう。」
サングラスの男が語り掛ける。
「ええ、香港と日本には犯罪人引き渡し条約が無いですし」
手のひらに竜のタトゥーをした男が返す
「そういえば、おたくの柴崎ってどうなりました?」
タトゥーの男が尋ねる
「ああ、アイツですか...もう”処分”済みですよ」
サングラスの男がほほ笑む
「えっ、以前”優秀な部下だ”と言っていたじゃないですか」
タトゥーの男は驚きを隠せない
「優秀すぎるからですよ。それを知ってか、最近は闇バイトの”売上”をかなり中抜きし始めてね。ただでさえ日本国内で摘発が進んでいるというのに迷惑にもほどがある」
「なるほど、ご主人様にたてつく犬はいらないってことですか」
そうタトゥーの男が言うと、二人は大笑いした。
「狡兎死して、走狗烹らる(こうとしして、そうくにらる)」
ーー彼女もまた「犬」だったのかもしれない。
完