狼の番人

  十五を迎えて初めての満月の夜だった。

  月が南の空の頂点に達する頃、身体がカッと熱くなった。

  痛み?苦しみ?そんな生温いモンじゃない。

  あれは地獄だ。

  骨と筋肉が割れて砕けて、自分が全く別の『何か』に作り変えられていくのが分かった。

  吐き気と頭痛が収まらない。垂れ下がった舌からは涎が溢れ落ち、喉の奥からはまるで自分のものとは思えないような呻き声が漏れる。

  寒気と共に言い知れぬ恐怖が這い上がってくる。それは黒い獣の毛皮となって顕れた。

  永遠と思われるような最悪の時間を経て、俺は獣に___馬鹿でかい狼のような姿になっていた。

  「グ、ウウゥゥ………」

  俺は胃の底に蠢くような不快感を抑えられず、先程までより幾倍も重くなったような身体を引き摺って、近場の湖のほとりへと向かった。

  眼に映る世界は白黒で、しかし匂いも気配もずっと濃くはっきりと感じられる。

  倒れ込むように湖を覗けば、想像した通り、いや想像以上に凶悪な顔つきの魔物が居た。

  (信じられるかよ、こんなの)

  今見たものを掻き消すように、鉤爪の生えた両の手を水面に突っ込んでバシャバシャと顔を洗う。

  触れた鼻先が普段と違う位置にあるのすら気持ち悪い。

  祈るような思いで夜空に浮かぶ満月を見上げた。

  それは冷たく冴え冴えと輝いているだけだった。

  [newpage]

  あれから七年ほど経っただろうか。

  正直、死んだように過ごす毎日だったのでまともに数えていない。

  俺はあの日、自らが人狼である事実に絶望した。

  人狼。

  元を正せば狼顔の人喰い魔物だ。

  人の姿にも化けられるが、大抵は強さの象徴としての獣の姿を好む。

  中には昼間は人間の振りをして獲物を物色し、夜になれば喰らうような外道もいるらしい。

  故郷の村は長らくそれを『大神』と呼び祀っていた。

  村の者たちは大神が代替わりする度に一人生贄たる花嫁を差し出す決まりとなっていた。

  母は当代の花嫁だった。

  花嫁は代々大神の子を身籠る。

  その姿は生まれた時から狼のようであるのが通例だった。

  しかしその子供は、俺は違った。

  年頃になっても俺は人間の姿のままだった。

  連れ出されたのは五歳の頃だったか……当時の記憶は殆どない。

  ただ馬鹿でかい狼の姿をした父親から毎日のように受けた暴力の記憶だけが脳裏に焼き付いている。

  母はそんな俺の様子を見て、逃亡を図った。

  仮初の穏やかな生活は最初こそ上手くいったように思えた。

  ある日、悲劇は起きた。

  故郷の村では狼が痺れを切らして村に新しい花嫁を要求したが、いつまでも叶わないのを見て村人たちを襲撃したのだ。

  村はあっという間に壊滅状態に追い込まれた。

  母は噂を耳にしたのか、ある日家を出て、崖の下で死体として見つかった。

  それ以上のことは知らない。

  ただ俺は十五になるまで、自らを人間と信じ切ってのうのうと生きてきたのだ。

  何も知らない気のいい村人たちを結果的にとはいえ騙す形になってしまった。

  初めての変身を経て次の朝、俺は人の姿に戻るや否や、荷物を纏めて村を出た。

  今すぐにこの世界から消えてしまいたかった。

  その気持ちは今でも変わらない。

  今日は何度目とも分からない満月の夜だ。

  普段極力人の姿で在ろうとしている俺も、満月にだけは弱かった。

  魔の力を満たし正体を秘匿することを困難にさせる。

  不幸中の幸いか、俺は理性を失くし暴れ回るような化け物にはならない。

  変身のために体力を酷く消耗するおかげか。

  とにかく俺はその忌まわしい呪いの時を物陰でただ蹲って過ごしていればいい。

  森の奥に居れば人間が入り込むこともないのだから。

  [newpage]

  だがその夜は違った。

  何もかもが普段と違う夜だった。

  月が昇るのを待たずして変化が始まったのだ。

  寝床としている小屋で支度をしていた時、胸の痛みを覚えて俺は転がるように外へ出た。

  始まる。

  早く奥深くへ逃げ込まなければ、早く、誰にも見つからない処へ。

  徐々に荒くなっていく呼吸をどうにか戻そうと胸を押さえながら、身体中の体毛が逆立っていくような感覚を覚えた。

  まずいまずいマズイ!

  軋みながら骨ごと盛り上がった筋肉と共にシャツがブチブチと音を立てて破れていく。

  鼻と口が前へと突き出してゆき、歯は犬歯に換わる。

  「ウッ………」

  足がもつれる。

  背骨が曲がり脚の形が変化してきたせいで、二足で駆けるのもままならないのだ。

  「はアっ、ハアッ、ハアッ」

  汗と涙と血液とが混じって咽せ返るような不快感を、吹きつけた秋の風が取り払っていく。

  大分走っただろうか、俺はとうとう耐え切れなくなって地面に倒れ込んだ。

  背中がゾワゾワする。

  心臓の鼓動と共鳴するように伸びだした毛髪とみるみるうちに身体を覆っていく獣毛とが混ざり合う。

  「う、アア、あああッ」

  キーンと耳鳴りがして、次にごうごうと嵐のような音が響くと、耳が引き千切られるような痛みを訴える。

  「ガああああアアアアアーーーッ!!!!」

  自分がどれほどの声量で叫んでいるのかもわからない。

  ただ意志に反して肥大化していく肉体を絶望的な思いで見遣る。

  何でこうなっちまったんだろう。

  違う、俺は元々こうなのだ。

  認めたくないが、あの忌まわしいクソ親父の血を半分受け継いでいる。

  しかし何故、と苦痛の中でどこか冷静に俺は頭を巡らせる。

  見上げた位置にまだ月はない。

  太陽が沈んだばかりの暗い空は、真夜中よりも陰鬱な雰囲気を醸し出してはいるものの、満月が輝いている時の魅入られるような『あの感じ』には程遠い。

  単純に俺がもう人の姿を保てなくなってきているということなら話は早いが、それも気が滅入るものだ。

  [newpage]

  ようやく静けさが戻ってきた頃。

  遠くの茂みがコソリと揺れるのを獣耳は敏感に捉えた。

  仰向けになっていた頭を思わずもたげてそちらを見る。

  何か、居る。

  身体中の毛が逆立つような感覚がある。

  それは暫くじっとその場から動かなかったが、俺が身体を起こすと、風のような速さで飛び出し____そのまま姿を消した。

  (見られたか?)

  この街に来てまだ3日目だ。

  森がすぐ隣にある故郷と似通った地形で、しかもこの森は帰らずの森と恐れられて人が近付かないというので、俺のような身には好都合な場所だった。

  だが事の次第によっては早々に出て行かねばならないかもしれない。

  ただの動物だったら良いが、あの匂いは人間のものだった。

  俺はよろよろと立ち上がって、森のさらに奥の方へと足を進めた。

  気休めでも何でも、もっと落ち着ける場所に居たかった。

  次の朝。

  人の姿に戻った俺は、身体の節々の痛みに悩まされていた。

  劇的な変化を短時間のうちに二度も経験するのだから当たり前ではあるのだが、今日のそれはいつもより強烈に感じられた。

  汗が噴き出して止まらないし、熱もあるような気がする。

  風邪でも引いたか?

  だとしても戻ったばかりの不安定なこの状態で医者にかかるなどもってのほかだ。

  最近の医療は発達していると聞くし、体内の魔素の割合を調べられて俺が魔物であるとバレたら元も子もない。

  とにかくこの洞窟を出て、小屋へ戻らなくては。

  フラフラと昨晩来た道を引き返していると、視界までぼやけていくようだった。

  (痛ってぇ……もう限界、か………)

  目の前が一気に暗くなっていく。

  …………。

  …………………。

  [newpage]

  「大丈夫かな……」

  鈴の鳴るような声で目が覚めた。

  フカフカのベッド、良い匂いのする毛布。

  窓からは木漏れ日が射し込んでいる……。

  「はっ!?」

  俺は慌てて起き上がった。

  どこだここは!?

  比較的新しく見える木の壁、若葉色の布が掛けられたテーブルに小洒落た花瓶が置いてあり、その隣には背の高い本棚、そして俺のすぐ隣には______焦茶色の髪を肩のあたりで結った、青い瞳の少女。

  「わっ、えーと……大丈夫?」

  少女は控えめに口を開いた。

  「森の中で倒れていたから、その……服着てなかったけど、追い剥ぎにやられた?」

  そうだった。変身直後ということもあって下しか履いていなかった。

  「違う、が、そんな感じ。手間掛けさせて悪い、もう平気だ、それじゃあ」

  「あ待って、まだ治療が途中なの」

  起き上がろうとする俺を少女は見た目に似合わず強い力で押さえつけた。

  「口の端が切れているのと、手首足首を捻ったのかな、ほら赤くなってるでしょ?一番大きいのは背中あたりの……あれ。さっきはもう少し酷いように見えたんだけど。とにかく一度裂けたの?みたいな長い切り傷があったから、そこに薬を塗ってるの。光の薬草を配合したものが一番効くんだけど、非適合反応を起こしてたから対抗の闇属性の薬草で……」

  冷静に、しかし早口で捲し立てる彼女に俺は目を白黒させた。

  薬師か何かなのだろうか。それとも魔女の類か?

  何やら分からないが、面倒な奴に見つかったのかもしれない。

  それほど細かに傷を診られたら正体なんてすぐにバレちまう。

  もし……バレたら。

  「ありがとう、でも本当に大丈夫だ、傷はどうせ癒えるし治らなくたって構わない。それよりお前みたいな女の子が俺のような得体の知れない男を家に置いとくべきじゃない」

  今度は少女の方が目をぱちくりさせた。

  「得体知れなくなんかないよ。あなたはきっといい人だもの」

  そして柔らかく微笑んだ。

  何てお人好しだ。

  心臓の奥がチリチリと震えるような、妙な感覚があった。

  [newpage]

  丁重に感謝と別れを告げ、それから俺は彼女と会わないように拠点を森の奥の洞窟に移した。

  この前変身した時に時間を潰していた場所だ。

  金と着替えとリリィに貰った痛み止めの薬、あとは……何も無い。

  狼の姿で過ごすのも悪くないかも知れない。

  荷物は少なくて済むし狩りもしやすい。

  しかし人間に見つかった場合に厄介なことになりそうだ。無駄に恐怖を与えるようなことは避けたい。

  などと考えていた矢先のことだった。

  「おーい!昨日のひとー!」

  最近聞いたばかりの声がする。

  「なんで」

  俺は戸惑っていた。

  ここは森の奥も奥、昼間ですら木に囲まれて薄暗く普通の人間は立ち入らないような地帯だ。

  何故彼女がここに居る?

  「薬の匂いを追ってきたの。まだ完治してなかったから大丈夫かなって気になって」

  「匂いって、そんなものわかるのか」

  「自分が調合した薬のことだもの。そういえばあなたの名前聞いてなかったね、なんて言うの?」

  「……忘れた」

  名前で呼ばれたのなんてそれこそ母が生きていた頃くらいのものだった。

  少女は顔を曇らせる。

  「そうなの?残念。じゃあとりあえずラルフでいいや。ねえラルフ」

  この少女、あまりに距離が近い。

  いっそ正体を明かしてしまおうか。

  そうすればこの転がるような笑顔も瞬時に恐怖へと塗り替えられるだろう。

  満月の夜俺と運悪く出会した人間たちと同じように。

  彼女もこの姿を見て震え上がり、死の淵まで追いやられたかのような絶望的な表情を見せるのだろうか。

  「ね、聞こえてる?」

  リリィの声で俺ははっと我に返った。

  彼女は洞窟の中を指差している。

  「ここがあなたのお家なの?」

  「まさか、人がこんなところに住んでるわけないだろ」

  反射的に誤魔化した。

  「じゃあ街の方に家があるのね」

  「ない、根無草だよ。ここにも偶々立ち寄っただけで」

  「そっか。そういう生活もいいね」

  リリィは相変わらずニコニコと微笑んでいる。

  心が痛い。

  「早く帰った方がいい。この辺りは魔物が出る」

  「大丈夫だよ。私、森での生活は慣れてるから」

  「じゃあもしも」

  俺は意を決して口を開く。

  「もしも俺が、魔物だったらどうするんだ。今のお前は無防備だろ」

  心臓が早鐘を打っている。

  それは変身の予兆のようだった。

  まさかこんな真っ昼間に、そんなはずないのに。

  精神が乱れているせいか?

  しかし少女は態度をこれっぽちも変えなかった。

  「そうやって心配してくれる人が恐ろしい魔物のはずないから、やっぱり大丈夫だよ」

  ……罪悪感とちょっとばかりの嬉しさに、押し潰されそうになった。

  [newpage]

  次の日、俺は街の外れにある書庫に居た。

  木を隠すなら森の中と言うし(状況的には真逆だが)街中に居た方がかえって彼女と出会しにくいのではないかと考えてのことだ。

  個人的に調べたいことがあったのもある。

  (大神の番人……番人……)

  あの惨劇にも生き残りはいた。

  運良く逃げ仰せたのかそれとも、誰か逃がした人間が他にいたのか。

  俺は後者だと考えている。

  狼は村の人間と契約を交わし、花嫁を捧げることで他の者には危害を加えないとしてきた。

  それを確かに遂げるための監視役として、村は『番人』と呼ばれる存在を置いたのだ。

  監視役の人間は両者に中立であるように、花嫁が逃げ出そうとした時に身体を張って止める役割も担っていた。

  これが七年ほどの間に、故郷と村の廃屋を漁ったり近隣の情報屋を頼ったりなどして文字通り必死で掻き集めた情報の全てだ。

  しかし肝心の狼による襲撃の際の番人の動向については誰も知らなかった。

  村人たちも全くの無抵抗だったわけではなく、何人かは勇敢に立ち向かったらしいとは聞いている。

  その中に番人が居たのだろうか、それとも考えにくいが、狼の味方をしていた可能性すらある。

  いま重要なのは、番人を務めるからには狼と互角とはいかずともそれに近い力を有しており、もしそいつが生きているならば……

  (俺のことを殺せるかもしれない)

  俺は不死身だった。

  これまで自分の知っている限りの方法で死を試みたが結局死に切れることはなく、どんな大怪我を負っても満月の光の下で見る間に回復していった。

  だから俺はその、生きているのかいないのかも分からないような番人に希望を託した。

  俺が御伽話にあるような悪役なら、その大抵の結末通り、一刻も早くこの世界から消し去ってほしかった。

  (これか?)

  『リュネー地方に伝わる古き守り人の記録』……地方とはいささか範囲が広すぎる気もするが、ただでさえ情報不足なのだ、贅沢は言っていられない。

  上から二段目の隅っこの方にある埃被ったその表紙に手を掛けた。

  [newpage]

  「あっ」

  誰かの指と当たった。

  俺以外に人が居たのか?

  「ごめんなさい、お先にどう……あ、ラルフ!」

  ……偶然と言うのは二度も三度もあるものらしい。

  隣で背伸びして同じ書物に手を伸ばしていたのは、他でもないリリィだった。

  「ラルフも読書家なの?奇遇ね、私もなんだ」

  屈託なく微笑むリリィに俺はばつの悪い思いだった。

  「暇だったからちょっと立ち寄っただけだ。お前は、民俗学にでも興味あるのか?」

  「うん、そんな感じ。ほら歴史と薬学って深く結びついているものでしょ?」

  そういうものなのか。

  生憎学問にかけてはサッパリだった。

  そういう人間らしい学びをしてみたいと思った時期がなかったわけじゃないが、夢物語としてとうに諦めていた。

  …‥待てよ。

  「お前はフェンガロ村の惨劇について何か知ってるか?」

  リリィはすると表情を一瞬固くした、ように見えた。

  「知ってる。村で祀っていた神様が、約束を破ったんで人間に罰を与えた話でしょう」

  それは確かに他の地方で伝えられている話だ。

  神の裁き。そう捉えることで、一匹の魔物が村を滅ぼしたという悲劇的な事実から目を逸らすことができる。

  魔物はどの村や街の近郊にも当たり前にいるもので、真実が広まれば誰もが他人事と楽観視することはできなくなり、その後の混乱も想像するに余りある。

  「そう、だな。……俺はあの事件で身内が死んでいる。だから真実を知りたくてずっと旅をしてる」

  これも半分は本当。

  リリィはしばらく曇った表情でこちらを見つめていた。

  間違いない。彼女はこの件について何か知っている。

  さらに暫しの沈黙が流れた後、少女は口を開いた。

  「わかった、知ってることを話すね。場所を移動しよう。……でも、聞かない方がいいこともあるかも」

  俺は固く頷いた。

  [newpage]

  「祖母が、あの村に住んでいたの。代々薬屋をやって、母も継ぐはずだったんだけど、すごく仲が悪くて。私を連れて森の中の小屋で暮らすようになった」

  一昨日来たばかりの小綺麗な少女の家で、俺はベッドに腰掛けていた。

  リリィは食卓で隣に腰掛けるように促したが、これ以上距離を詰めるのは躊躇われた。

  「驚くかもしれないけど、神様は……狼はその時まで大人しかったんだよ。私たちを襲うなんて考えもしなかった。狼のおかげで魔物が近寄ることもなかったし、私たちは何の不安もなく森の中で暮らしていた」

  「だがある日、事件は起こった」

  リリィは頷く。

  「突然狼が襲ってきたの。大人たちはそれまでずっと何か話し合ってたみたいだったけど、私にはわからなくて……その日の満月が昇る前に、母さんは私を逃がした。村に戻ればいつもいたはずのおばあちゃんも居なくて、私はとにかく逃げて、逃げて」

  そこで言葉を詰まらせ、顔を歪める。

  これ以上話させるべきではないだろう。

  「分かった。悪い、辛いことを話させたな」

  「ううん。生き残った私が話さなきゃいけないのは当然だから。それで、何が知りたいんだっけ」

  見た目以上に気丈な様子で少女は尋ねかける。

  俺はどう言うべきか思いあぐねた末に口を開いた。

  「番人、という存在が村には居たと聞いた。その人間の行方を知ってるか?」

  「……死んじゃったよ。私は何も知らないけど、死んじゃったってことだけは言える」

  何かを思い起こすようにリリィは目線を遠くへ向けた。

  (やはりか。まだ希望はあるかと思ってたが)

  内心の落胆を見せないように努めながら俺は礼を言う。

  ならばやはり、死ぬための方法は自分で探すしかないということか。

  「でもどうして、番人なんて探してるの?」

  「そいつなら狼を倒せるかもしれないと思っただけだ。まあ奴がまだ生きていればの話だが」

  慌てて付け足すとリリィは目を見開く。

  「狼がまだ生きてると思ってるの?」

  「可能性の話だ、忘れてくれ」

  「ううん。私も、私もそう思う」

  突然立ち上がって、彼女はそれまでとは全く異なる険しい表情をこちらに向けた。

  「狼はまだ生きてる。最近も聞こえたの、人の悲鳴と狼の咆哮が。あれと同じとは限らないけど、もしかしたらあいつが生きてて他の人間を襲っているのかもって。ねえラルフは何も知らない?」

  「……知らないな」

  俺のことだ。

  やはり見られていたのか。

  人の悲鳴も狼の咆哮も同じ奴から発せられていると知ったらきっとたまげるだろう。

  「狼が憎いか?」

  俺は反射的に質問を投げかけた。

  答えなど分かっているくせに。

  リリィは眉を下げる。

  「憎い、のかな。ただあの時みたいな悲劇が起こってほしくないの」

  雫のようにこぼれ落ちた言葉。

  胸が抉られる思いだった。

  (俺は……やはり死んだ方がいい)

  この無垢な少女をこれ以上の悲しみに晒さないためにも。

  [newpage]

  『リュネー地方に伝わる古き守り人の記録』には予想通りというか何というか、目新しいことは何も書かれていなかった。

  一応『番人』について触れてはあっただけでも収穫だが、表面的なことで、俺の知っている以上の情報は得られなかった。

  俺は本を岩壁に寄せるように置いて、少し辺りを散策することにした。

  と言ってもこんな森の奥深くでは何も面白いものなどないが。

  (また会ったりしてな)

  つい思考の端で彼女のことを考えている。

  置かれている状況を思えばもう二度と会わないのが正解だろう。

  なのに何故か、また一目見たいと思っている。

  木々の上では鳥たちが囀っていた。

  その下を歩いているのが獰猛な狼だとも知らずに。

  一度狼の姿で闊歩すれば、森の生き物たちは皆死に絶えたように姿を消してしまう。

  人の姿をしている間は通常どおりの営みをしている。おかしなものだ。

  気配が変わるのだろうか。

  なら今この瞬間の俺は人間と言えるのか?

  (勘違いするな、俺は人間じゃない)

  虚しい幻想は七年前に捨て去ったはずだろう。

  自分に言い聞かせるように拳を握り締める。

  結局、その日彼女に出会すことはなかった。

  もうこのまま再会することのないように強く願っている。

  [newpage]

  *

  私が森の奥で傷だらけの男性を発見したのは、つい数日前の出来事。

  一瞬、森のほうで聞こえた人の悲鳴は彼のものではないかと疑ったけど、彼は否定していたし、疑う理由もないと思う。

  私はあの夜、あの場所を通っていたのだから。

  満月の晩、魔の力の満ちる夜。

  狼が暴れるのにこれほど適した時期はない。

  悲鳴を聞いたとき、私は出遅れたと思った。

  すぐさまそちらへ向かってランプ片手に方々を探したけれど、結局人の姿は見当たらなかった。

  もう食べられてしまったかもしれないと失意に暮れていたとき____狼の姿を見た。

  あの場で殺すべきだったのかもしれない。

  でも私は動けなかった。

  『それ』は満月に向かって吠え猛るわけでもなく、動物を襲って肉を喰らうわけでもなく、地面に仰向けに倒れていたのだった。

  何があったのかわからないけど、あの様子ではきっと人どころか小動物すら捕まえられないだろう。

  ……なんて、それは自分を守るための言い訳に過ぎない。

  単純に恐ろしかったのだ。ものすごく。

  狼が身体を起こして私の方を見たその瞬間、私は駆け出していた。

  本当に弱虫だ。あの頃から何も変わっていない。

  昨夜の行動を反省して、やはりもう一度狼を探そうと森へ赴く途中で行き倒れていたラルフを見つけた。

  やがて目を覚ました彼と話しているうちに、この人は良い人だと直感的に思った。

  それにしてもまさかあの村の関係者だったなんて不思議な縁を感じる。

  (また会えるかな)

  どうしてだろう、彼と会ったときからずっと気になって仕方がない。

  口数少なくてぶっきらぼうで、その瞳はいつも哀しげで、だけどとても、優しい。

  三回会えたのだからきっとまた次も会える。

  でも……今度会ったときがもし狼に襲われたあとだったら。

  何かが起こる前に何とかしなくちゃいけない。

  狼を倒さないと。

  悲劇を防げなかった『番人』の末裔として。

  [newpage]

  *

  「あ、よかった!生きてた」

  次にリリィと再会したのは街から森へ向かう道の半ばだった。

  「大袈裟だな。五日ぶりくらいだろ」

  「そうだけど、こうやって顔を合わせられるのって尊いことなんだよ」

  今日の彼女は髪を結う位置がいつもよりも高く、格好も男のするような軽装だった。

  というか、狩人の格好に近い。

  「狩りに行くのか」

  話すつもりなど無かったのだが、気付けば俺は問うていた。

  どうせ行く場所が同じなら強引に振り切るのも不自然だろう。

  「そんな感じ。あなたは?」

  「俺は……散歩」

  「いいね、散歩。ここの森は空気がおいしいもんね」

  「違いがわかるのか」

  「うん。だってずっと森に住んでたんだもん」

  鈴の音のような少女の声は不思議と耳に心地良く、このまま話していたいと思ってしまう。

  駄目だ、関係を深めるべきじゃない。

  「じゃあ俺はこの辺で」

  ちょうど分かれ道に来たので俺は彼女と別の方に行こうと踵を返す。

  と、その時。

  「待って、一緒にいて」

  ぐいと腕を掴まれた。

  存外強い力で、そういえば最初の時もこの怪力に驚かされたなと思い出す。

  「言ったでしょう?この辺りにはまだ狼が居るかもしれないの。まだ病み上がりのあなたが一人で入るには危険すぎる。一緒にいたほうがいいよ」

  青色の瞳が強く訴えかける。

  とても年端もいかぬ少女から成人済みの男に対する態度ではないな、と俺は苦笑した。

  「大丈夫だ、それを言うならお前の方が危険だろ。今はまだ日が高いが、この時間から活動する魔物も居ないわけじゃない。狩りなら新月の時にやることだ」

  「私は……いいの。理由を教えてあげる。私の手を触ってみて」

  何をするつもりだろうか。

  俺は一度腕から離れた彼女の手に恐る恐る触れる。

  「熱ッ!」

  何だこれ、死ぬほど熱い。彼女の手が一瞬にして溶岩に変わったようだ。

  「あ、熱い?そっか。うん、私の体内魔素は極端に光属性に偏ってるの。魔物は闇属性で構成されているから、いざという時はこうやって手に力を集めれば……」

  「分かった、成る程な、それなら魔物にも抵抗できるだろう」

  じゃあ俺は正真正銘の魔物だから熱としてこれを感じ取ったということか。

  待てよ、それなら今の反応で正体がバレるんじゃ……。

  「ごめんなさい、そういえばラルフは光属性に非適合反応が出てたよね。人間にもたまにそういう人がいるの」

  一先ず安心した。

  やはり騙している感じがして申し訳がないが。

  「悪いな」

  「ん?どうして謝るの?」

  「いや。……やっぱり俺は一人で行くよ。ちょっと野暮用もあるしな」

  「そっか。わかった。じゃあ、気をつけてね」

  哀しげに微笑むリリィを置いて、俺は逃げるようにその場を後にした。

  [newpage]

  変化が起きたのは、それから数十分ほど経った後だ。

  鼓動が早い。

  変身の予兆……まただ。

  太陽は南の空からギラギラと照りつけていて、これほど光が強いところでまさか変身などするはずがない。

  そのはずなのに、身体がガクガクと震えて立っていられなくなる。

  「はあっ………はぁっ………」

  今度の理由には心当たりがあった。

  リリィの強すぎる光の魔素に触れたからだ。

  あれは魔物にとっては確かに毒だ。

  自然な防衛反応として本来の姿に戻ろうとしているのだ。

  思えば彼女と会った前の日、あれもそのせいだったのかもしれない。

  そう遠くないところに彼女がいて、その影響を強く受けたのかもしれない。

  (このままじゃそのうちあいつに会うだけで変身するようになっちまうかもな)

  何としてもそれだけは避けなければ。

  彼女はこんな俺を介抱し、声を掛け、心配までしてくれた。

  その優しさを裏切るようなことなどあってはならない、あっては……

  「う……グ……ああアアアアアアアッ!!!」

  どうか彼女がこの叫びを聞くことのないように。

  柄にもなく心から、神に祈った。

  [newpage]

  *

  (やっぱり彼を一人にしちゃいけなかった!)

  私は確かに、獣の叫ぶような咆哮を聞いた。

  『この時間から活動する魔物も居ないわけじゃない』、彼の言う通りだ。

  狼。無尽蔵と言えるほど闇の魔素を体内に抱え、それだけでも恐ろしいのに、巨大な体躯、鉤爪をひとつ振るえばただの人間などひとたまりもない。

  (お願い、どうか生きていて、どうか)

  必死に駆けていると口の中が鉄のような味がしてきて、もう息も絶え絶えで、自分がどこに向かっているのかも分からなくなって。

  それでも私は魔素の気配の満ちる方へと走るしかなかった。

  森の奥に入ってしまえば、今が昼間などわからないくらいに暗く、薄気味悪いくらいだ。

  でもそんなことは今は気にならなかった。

  草むらを掻き分けて、その先にあいつがいる。

  私は確信していた。

  「……ゥゥ……グルルッ………」

  低い唸り声が聞こえる。

  もう全てが遅いかもしれないという最悪の想像をどうにか振り払う。

  片手には小銃を持っている。こんなもの護衛用でしかないけれど、中に詰まっているのは銀の弾丸。

  私の知っている限りでの、狼に対抗するための唯一の武器。

  意を決して私は一歩踏み出した。

  居た。

  _____夜の闇よりも深い漆黒の体毛。口元には銀色に光る牙。普通の狼のそれよりずっと大きな耳と手足。

  蹲るような体勢で座っていたが、やがてこちらに気づいたのかゆっくりと頭を擡げる。

  一瞬、その瞳が金色にぎらりと光った。

  私は思わず唾を呑み込んだ。

  (こんなの勝てっこない……)

  生物としての本能が、この獣と相対することを拒絶している。

  今すぐにすべてを放り投げて逃げ出してしまいたい。

  でもそんなこと許されないしするわけがない。

  素早く辺りを見回すが、そこに人の姿らしきものはなかった。けれど少し血の匂いがする。

  恐る恐る目を上げると、狼はじっと固まったようにこちらを見つめていた。

  威嚇しているのか、獲物として狙われているのか。

  いやとにかく隙ができた。

  今しか機会はない。

  私は震える手でどうにか銃を持ち上げた。

  だが引き金にかけようとした指が滑ってどうにもならない。

  「動かないで。銀の弾丸よ。あなた苦手でしょう?」

  一瞬、狼の目が大きく見開かれた……ように見えた。

  「やっぱりこれが弱点なのね」

  「……グ…ゥ……」

  狼は蹲ったような体勢のまま一歩後ろへ下がる。

  今しかない、なのにどうしても上手く握れない。

  何だか気が遠くなってきた。

  (駄目、早く殺らなきゃ、早く……)

  そうだ、闇の魔素があまりに強すぎるのだ。

  私は闇属性には非適合反応を起こしてしまう……

  [newpage]

  *

  彼女は確かに俺を殺そうとしていた。

  銀の弾丸。

  銀というのは高価な代物で、それこそ教会専属の魔物祓いくらいしか扱えないと聞いた。

  それ故に試そうにも試せなかったのだが、聖なる光の満ちた金属であるそれをまともに喰らえば、確かに一発で死ねるかもしれなかった。

  それは喜ばしいことのはずなのに、いざ死を目の前にするとどうしようもなく恐怖に駆られた。

  「ん………」

  目の前のベッドに横たわるリリィが少し身じろぎした。

  まさに引き金を引く寸前に彼女は倒れてしまった。

  それは俺の身体に満ちる闇の魔素のせいだろう。

  俺はどうにか人の姿に戻っていた。

  あのままでは看病もままならないし、気合いでどうにかした。

  (それも限界があるだろうが)

  彼女を寝かせているのは少し前まで寝ぐらにしていたボロ小屋だ。

  寝心地が悪いかもしれないが我慢してほしい。

  「ラ……ルフ……?」

  寝ぼけ眼の少女が俺を見る。

  ラルフ。悪くない名前だと思う。

  だがその名で呼んでもらうのもこれが最後だろう。

  「ラルフ!無事だったんだ」

  リリィは飛び起きるなり俺の手を握った。

  「よかった、狼に喰べられちゃったかと思った、本当によかった」

  今にも泣き出しそうな彼女の手を俺は静かに振り払う。

  「触らない方がいい。お前、闇の魔素は苦手なんだろ」

  「それは……魔物とか極端な場合の話で、人間だったら大丈夫だよ」

  「なら俺は駄目だ」

  理解しかねるようにリリィは俺を見つめている。

  何の疑いもない、心の底から信じ切った瞳で。

  「リリィ」

  俺はたまらずに口を開く。

  「俺はお前に感謝してる。この先何があろうと、恩を仇で返すような真似はしない。絶対にだ。だから、……悪かった……」

  ああ、限界が来た。

  あの忌まわしい姿に戻ってしまう。

  彼女はあまりに綺麗で、それは光の魔素によるものなのかもしれなかった。

  今なら分かる、どんな魔物も彼女の前に平伏すだろう。

  そうきっと彼女は、彼女こそが『番人』だ。

  俺を、殺せる。

  「あああああアアアアアア」

  「ラルフ!」

  リリィはさっと青ざめて俺の手を握り直した。

  馬鹿だな、逆効果だよ。

  それは変化を早めるだけだ。

  [newpage]

  *

  目の前で人が、魔物に変わっていく。

  そんなのありえないと思った。

  あの村にいた大神は、身体こそ大きいけれど見た目はただの狼で……人の姿なんて見たことがなくて……

  でもいま目の前で起こっていることが全てだった。

  ラルフは天を仰いで絶叫に近い悲鳴を上げながら、身につけていたシャツを滅茶苦茶に破いているところだった。

  鍋がぐつぐつと煮えるように、筋肉が盛り上がって、骨ごと形を変えていく。

  「おおっ、おおおおオオオオッ」

  声が低く野太く変化してゆくのは、鼻と口先が引っ張られるように引き伸ばされているから。

  鼻は黒ずみ形を変えて萎んでいく。

  「ウオオッ、ウウウ、ぐルルルルッ」

  喰いしばった口も、急激に発達した犬歯によって徐々に開かれて、涎がだらだらと溢れてくる。

  気付けば耳も元の位置にはなく頭の上に移動していた。

  その間に下半身の変化も進行していて、靴を破って出てきた足は踵を失くし爪先立ちのようになっていた。

  「ガアアアアアッ」

  ひと際大きく咆哮すると両の手と足から鉤爪が伸びてきた。

  既にうっすらと毛で覆われていた身体を重ねるように黒い獣毛が覆ってゆく。

  なおも響く骨の鳴る音と共に、息を荒げながら手を地面に付けると、ズボンを突き破って細長い何かが出てくるところだった。

  「ゥ……グウ、オ………」

  それもあっという間に毛に覆われていく。尻尾だった。

  「アオオオオオオオオオーー……」

  狼。認めるしかない。これは紛れもなく、先ほど相対したばかりの狼だった。

  「ハァッ、ハッ、ハッ」

  床には血がボタボタと垂れている。

  茶色から金色に変化した瞳からも何かが流れているように見えたが、それが血液なのか涙なのかはわからない。

  ただ一連の変化を終えた狼は、ぶるりと身体を震わせて、その場にへたり込んだ。

  私は絶句して、動くことなどできずにいた。

  触らないほうがいい___と彼は言った。

  それはきっと彼のためでもあった。

  彼は私の光の魔素にあてられてこうなってしまったのだ。

  狼は顔を上げない。

  それはまるで私の表情を見るのを恐れているようにも思えた。

  (彼こそが狼で、私は狼を助けていたのね。……じゃあ彼が番人を探していたのは、確実に殺すため?)

  どうもそういうふうには思えない。

  出会ってまだ少ししか経っていないけど、彼はどこか自虐的で、私と関わることも避けているように見えた。

  あの惨劇の生き残りだと知った時点で口封じのため私を殺すこともできたはずだ。

  そしてさっきも……私を介抱などしないで、魔素にあてられて倒れたあの瞬間に殺していればよかった。

  でもそうはしなかった。

  彼の言葉が蘇る。

  『俺はお前に感謝してる。この先何があろうと、恩を仇で返すような真似はしない。絶対にだ』

  本当、なのだろうか。

  彼は今も、鉤爪の生え揃った手を胸にあてて、ぜえぜえと呼吸している。

  それはとても苦しげに見えた。

  私は意を決して立ち上がり、彼のそばにしゃがみこむ。

  「ラルフ、大丈夫?」

  ぴくりと耳が動いた。

  やっぱり怖い。この手が私のほうに伸びてくれば一瞬でミンチになってしまう。

  でもここで挫けるわけにはいかない。

  「あの……ありがとう、助けてくれて。私あなたを殺そうとしたのに、介抱してくれたんだよね」

  狼はウゥ、と呻くような声を上げた。

  「それとごめんなさい。私のせいで苦しい思いをさせちゃった」

  狼は___ラルフはようやく顔を上げた。

  金色の瞳が射抜くように私を見て、口を開ける仕草をした。

  喰べられるかな、とちょっと身構える。

  「オ……レ、ハ………」

  何か言おうとしているようだった。

  「アイ、ツ……ノ……ムス、コ、ダ」

  「え?」

  「コロ……セ………」

  俺はあいつの息子だ、殺せ。

  意味が汲み取れた瞬間、胸がズキリと痛んだ。

  村を襲った狼の息子。

  その話はうっすらだけど記憶にある。

  大神様は花嫁が逃げたのでお怒りになっている______

  村のお年寄りたちが話しているのを聞いたのだ。

  そして花嫁は、人間として生まれてきた彼女の息子を連れて逃げたと。

  まさか彼が狼と人間の二つの姿を持っていたなんて考えもしなかった。

  (ずっとそれを背負ってきたの?)

  彼の纏う深い哀しみの気配の意味が分かった。

  それは生まれながらにして十字架を背負わざるを得なかった者の悲哀。

  私は思わず彼を抱き締めた。

  「ア……ツ……」

  「ごめん、熱いよね。私もちょっとクラクラしてきた」

  相反する魔素が拒絶し合う、わかってるけど、しばらく離してあげる気にはなれなかった。

  [newpage]

  *

  気付けば翌朝になっていた。

  俺たちは本当に抱き合った体勢のまま(他にナニをすることもなく)、互いに眠りこけてしまっていたようだった。

  俺は自分の姿が人間に戻っているのを見て、リリィを起こさないようにゆっくりと壁にもたれかからせると、予備にその辺にしまっていたはずの自分の衣服を探しに行った。

  戻ってきた頃には、彼女も目を覚ましていた。

  「あ、ラルフ、戻ったんだぁ。おはよう」

  寝ぼけ眼で微笑む彼女に俺は多少どころでなく面食らった。

  「おは、よう……何で昨日、俺を殺さなかったんだ?」

  「だって、あなたはいい人だもの」

  「昨日のあれを見てもそう言えるのか」

  「見たから言えるんだよ。機会ならいくらでもあったのに、あなたは私を殺そうとしなかった」

  どこまでもお人好しだ。

  そしてそのお人好し加減に、正直救われている俺がいる。

  「ふふ。怖かったけど、優しかった。あなたを用心棒にしたらとっても心強そう」

  「な……」

  言葉を返そうとした時、背中が痛み出したので俺は思わず膝をついた。

  「だ、大丈夫?」

  「いつものことだ。変身のあとは身体がきつい……この前は、ありがとな」

  「また手当てするよ。何度でも」

  リリィは立ち上がって手早く髪を纏めると俺のもとに近づいてくる。

  一切の躊躇なく、恐れる様子もなく。

  こんな日など永遠に来ないと思っていた。

  俺は誰の理解を得ることもないまま、最期のときまで一人なのだと。

  そんな深い絶望が、こんなか弱い少女のおかげで和らぐことになろうとは。

  十五の俺では考えもつかなかっただろう。

  [newpage]

  「あ、気になってたんだけど。狼の目撃情報とか人間の悲鳴って、ラルフの仕業だったの?」

  リリィは俺の背中に湿布を貼りながら問いかけてきた。

  「ああ。昨日お前が見た通り、その……変身は大分痛いから、いつも叫んでしまう。もっと声抑えようとは思ってるんだが。それが断末魔か何かに聞こえるみたいで、時々ああいう風に噂になる」

  「なるほど。それで狼になっても叫んじゃうから、側から聞けば狼が人間を喰べてるみたいだよね」

  「悪い……」

  「ううん、違うの。それ聞いて安心した。やっぱりラルフはいい人だよ」

  はい終わり、とリリィはひと通り処置を終えたようだった。

  「ありがとう」

  「これくらい何てことないよ。ね、良ければこれからも治療させてほしいな」

  「は……?」

  少女は小悪魔的に微笑む。

  「満月の晩も一緒に居たいってこと。だめかな」

  「何言ってるんだ、危ないぞ」

  「それは私を襲いますってこと?」

  「いや……それはないが……」

  「じゃあ決まり。これは他にも目的があってね」

  そうしてリリィが語ったのは、彼女はずっとあの村を襲った『狼』が生きている可能性を考えて探し続けていること、自分が『番人』の末裔であり、先代の悲劇を防げなかった過ちを償うためにも彼を完全に倒すことが責務であるということだった。

  「ならやっぱり俺を殺したほうがいいんじゃないか」

  と言うとリリィは起こったように光の魔素に満ちた手を俺の顔に押し付けようとしてきた。

  折角治療してもらったばかりなのに、また変身するのは流石に勘弁だ。

  「私が相手にするのは悪い人だけなの。でもやっぱり、私ひとりでは力不足な場面も多くてね。それで……もし、あなたが抵抗なければだけど……目的を果たすための手伝いをしてほしい」

  「親父を殺すことに抵抗はない。俺もそのために生きていたようなものだしな。でも、ただでさえ光の魔素に反応しやすいこの身体でお前のそばに居るというのは」

  「大丈夫大丈夫、世の中には猛獣使いって居るでしょう。私もそういう感じでやっていくから」

  「……何だよ、そういう感じって……」

  俺は苦笑した。

  でもまあ、案外悪くないかもしれない。

  狼の姿の俺でも許されるというのは。

  「また死にたがったりしたら光のパンチしちゃうからね」

  「それは勘弁してくれ」

  こうして俺たちは契約を交わすこととなった。

  フェンガロ村の悲劇が完全な終息を迎えるまでの、期限付きの旅路。

  何も変わったわけじゃない。

  相変わらず俺は満月の夜になれば狼になるし、リリィはその姿にいつまで経っても慣れないようだ。

  それでも______

  お互いに、一人だった時よりずっとマシだった。

  きっとこれからもっとマシになっていく。

  それだけで十分だった。