夜空に一つ、大きな花火が打ち上がる。そこは誰もいない穴場の海浜公園。屋台で買った焼きそばの匂いがしつこく鼻の周りに漂っている。
「⋯⋯あのさ、いきなりこんなこと言って驚くかもしれないけど」
右隣で花火を見ていた幼馴染の俊太が、珍しく大きな三角の耳を傾けながら口を開く。それは狼獣人のくせに人見知りだった昔によく見せた仕草だった。
——花火の音が一面に広がる。
それは告白だった。誤魔化しも言い訳もできない、あまりにも真っ直ぐすぎた言葉。
「⋯⋯冗談、でしょ?」
ただ、その真っ直ぐすぎた言葉を受け止めるほど僕は強くなかった。柄にもなく高鳴った心臓の音。それが目の前の[[rb:俊太 > しゅんた]]に聞こえてしまうのではないか心配しながら空笑いをする。
その不誠実な態度が、どれほど彼を傷つけてしまったか。それに気づくのに多くの時間は必要じゃなかった。
「⋯⋯なんて、な! いや、ごめん。なんか、こんな⋯⋯へんな空気にして。⋯⋯あ、ごめん! 今日そろそろ帰るわ!」
逃げるように去ってしまった背中を掴もうとしたが、その手は空を切った。
海の波の間をキラキラと光る花火を眺めながら、お揃いのスマートフォンの電源をつけてアルバムアプリを起動し、指を滑らせる。この夏休みは今までにないくらい俊太と色々なところに行った気がする。小学生の頃も、中学生の頃も、どの夏休みも楽しかった。
でも、この夏休みは特に特別なもののように感じたのだ。
映画館の目の前、噴水から水が飛び出す瞬間に撮った写真。ショッピングモールでお互いの組んだ服を買って、撮った写真。僕の部屋で、参考書を目の前に倒れたように眠る俊太の寝顔。そしてさっき撮った、二人でクレープを並べた写真。
その写真に背中を押されたような気がして、僕はメッセージアプリのアイコンに震える指を触れた。
『ありがとう、さっきはごめん。よろしくおねがいします。嬉しかった』
なんていうツギハギのメッセージを送信しかけて、結局全て消してしまう。そして肺から押し出されるようにため息が不意に漏れた。
「⋯⋯周りはなんて言うんだろ」
両親は『好きに生きなさい』と言った。でも、それは自分の子供が周りと違って同性が好きだってことを知らないから言えることだと思う。実際に『彼女いないの?』だとかを聞かれることもあるし、きっとこれは両親だけじゃない。
理解が広まってきている時代とはいえ、皆他人事のように思っているから『受け入れます』とか言えるのだろう。実際に自分が関係のある立場であると知ったら容易くこの考えは変わる可能性の方が高い。
これも、僕があの告白を素直に受け取るのを躊躇った理由の一つだった。
「⋯⋯帰ろう」
なんだか暗い心象になった僕は、花火が全て打ち上がるのを待つまでもなく踵を返す。とりあえず送った謝罪のメッセージ。それに既読がつくことはないようだった。
目を覚ますと何か慌ただしい様子で母は僕をひどく揺さぶっていた。眠い目を擦りながら指を指す眩しいスクリーンを見てみると、そこには近くで起きたらしい交通事故のニュースだった。痛ましい飲酒運転が原因の人身事故。歩行者は死亡、運転手は逃走中。
「⋯⋯何? こんなに早く起こして。疲れてるから寝かせてよ〜⋯⋯」
「昨日俊太君とお祭り行ってたでしょ、一緒に帰ってきてない!?」
確かに昨日は彼と一緒に夏祭りに行ってきた。高校二年の夏休みも残り少ないということで、花火でも見に行こうと誘われたのがきっかけだ。
ただ、一緒には帰ってきていない。理由は正直に言えるわけもなく、取り繕いつつなんとか不審がられないように話すと母はため息を吐いた。
「⋯⋯いい、落ち着いて聞いて」
唇を震わせて僕の肩に両手を乗せる、今までに見たことのない母の姿。躊躇うように、しかし芯を持った声が僕の鼓膜を震わせた。
家を飛び出して寝癖も直さずに、パジャマのまま炎天下を駆ける。サンダルを通して反射するアスファルトの熱で足のひらが焼けそうなことも、頬を伝う汗のことも気にならないくらい走る。
角を数回曲がった先に、人集りがあった。彼の家まで数メートル。車通りのそこそこ多い道。通学路として何度も彼と往復したその道は、大きく形を変えていた。その光景を目の前に、最後に見た大きな背中がフラッシュバックする。視界が歪み倒れ込むと、ホワイトノイズのようなアブラゼミの鳴き声が酷くうるさく感じて耳を覆った。
学校が始まって開口一番担任が口にしたのは、俊太のことだった。机の上には一輪の白い菊が活けてあって、クラスの雰囲気は酷く重苦しかった。
その日は何をするわけでもなく、ただ虚空を眺めていた。そして脳裏には、いつもあの光景が脳裏で反復して流れていた。
誰もいない部屋の中、一人で静かに折り紙を折る狼の獣人。柔らかな体毛と、アンバランスな手足、短いマズル。テレビで見るような獣人とは全然違うというのが最初のイメージだった。
「ね、何してんの?」
「⋯⋯お母さんに折り紙折ってんの。お仕事大変だから」
手元を見てみると、そこにあったのはシワだらけになった赤い折り紙。その隣には、決して難しくない折り紙の折り方。本来であれば、午前のうちに完成させておくはずのものだった。
「折り紙折るの苦手?」
何も考えずに尋ねると堰を切ったように涙を落としてしまう。目の前の狼は、あまりにも弱くて脆い存在のようだった。
「⋯⋯獣人になんて、生まれなきゃよかった」
「そう? 触ってみてもいい?」
目を潤ませながらもコクリと縦に首を振る。それを了承の合図と捉えて、恐る恐る彼の額に触れてみる。毛布のように柔らかな、心地の良い感触がした。
「⋯⋯気持ちいい」
「⋯⋯もっと撫でていいよ」
嫌がるようなそぶりは見せず、むしろもっとねだるように手に頭を押し付けられる。それに僕は何も言わずに応えた。
これが多分、初めて俊太と話した時だと思う。
[[rb:瀬名俊太 > せなしゅんた]]、狼獣人として生まれた男の子。幼稚園の頃に父親の借金を理由に両親が離婚し、こんな田舎まで引っ越してきた。
家も近くでお互いよく遊んでいたこともあって、小学生の頃までは家族ぐるみでの付き合いが多く、外から見たらほぼ兄弟のように見える関係だった。
そこまで距離が近いからか、なんとなくお互い好きなんじゃないか? という予感を感じていた。あくまでも確実なものではなくてなんとなく程度のものだけど、当時の僕からしたら間違いないと信用するに値するものだった。
それは最近じゃなくて、結構前から。僕が幼稚園児の頃に彼は都会から引っ越してきて、この辺りじゃあまり見かけない獣人で。あまり友達が居なそうだったから声をかけてみたら、それ以来意気投合して。そんな流れで、一回小学校を卒業する直前に僕から彼に告白をしたことがあった。
⋯⋯その結果は、失敗に終わるのだけど。
ただ、それで彼は僕のことを無視したりとかすることはなくいつものように接してくれたから僕は特に気にしていなかった。⋯⋯その現場を見ていた人が、周りに言いふらしてしまったというのが問題なだけで。
中学時代は地獄だった。小学生の頃の生徒も多い学校だから、噂はあっという間に広まってしまっていて、もちろん他の小学校からの生徒もそれを知って最終的にはほぼ全生徒がそれを知っていたような気がする。
俊太は獣人ということで珍しい上に運動神経も良く、みんなから人気があったから、僕に言い寄られた可哀想な人という扱いだったのがせめてもの救いだった。もしも僕のせいで酷い目に遭わされていたら、それこそ耐えられなかったと思う。
だから、この学校じゃほとんどの生徒が行かないような県一番の進学校に受験した。ただ一つ想定外だったのは、俊太もそこを受験して合格したこと。
そうして、晴れて誰からも邪魔されることはない学校生活にはなったけど、僕としては中学時代の二の舞にはなりたくなかったから極力彼だけに関わるようなことはしないようにしていた。
それなりに友達を作って、色々な人と家に帰って。たまに告白されたけど、それは受験を理由に断って。そうやっていたけど、やはりどこか俊太との時間だけは特別なように感じてしまって、その度にどうしようもなく彼のことが好きだということに気付かされて死にたくなっていた。
ビクッと身体が跳ねて目を覚ます。ガヤガヤと浮き足だった様子の教室。そんな様子の僕を見てクラスメイトはクスクスと笑った。
「[[rb:間宮 > まみや]]〜、夏休み前だぞ〜。勉強も結構だがしっかり休むように」
「⋯⋯あ、はい」
カレンダーは七月を開いていた。キョロキョロと辺りを見渡してみると、教室の後ろの方で俊太と目があって、彼はニヤリと笑って軽く手を振る。
それを僕にちょっかいをかけていると思われて担任に注意されているのが、どこか懐かしい気持ちになった。⋯⋯なんてことない日常の風景なはずなのに。
「⋯⋯なあなあ、今日は帰れるか?」
「無理、今日は勉強教える約束してるから」
図書室に向かう僕の腕を引いて、駄々っ子のように足をバタバタとさせる。図体のでかい狼獣人がやると、なんだか滑稽だ。
「それなら俺にも教えてくれよ〜、な? それならいいじゃん?」
「⋯⋯俊太には難しすぎるよ。ほら、二宮さんが帰りたそうにしてるよ。行ってきなよ」
「え〜、俺は晴也と帰りたいんだけど」
ブーブーと文句をいう彼を引き剥がして、壁に隠れてチャンスを伺っている様子の[[rb:二宮 > にのみや]]さんに突き渡す。一つ下の学年で才女の二宮さんと、少しおバカな俊太。バランスが取れてお似合いじゃないか。
夏休み初日、机に向かいながら参考書に向かう。高校二年生でもある程度は解ける問題があるので、それをせっせと解いて見ている状態だ。
⋯⋯そんな中、一つのインターホンが鳴る。
「はーい⋯⋯って、何、俊太か」
「何とは何だよ! てかさ、今暇?」
ピョコンと動いた三角の耳。いつの間にか背丈も大きく離されてしまったが、それでも中身の方はそこまで変わっていないようだった。
「参考書解いてた」
「じゃ、暇だな! これから一緒に映画行かね?」
「いや、暇じゃないんだけど⋯⋯」
「いいだろほら! 夏休みは始まったばかりだぞー!」
腕を引っ張られ半ば強制的に家から引き摺り出そうとするのを制止し、部屋のエアコンを消しに一度部屋に戻る。⋯⋯まあ、確かに夏休みは初日。それなら簡単に取り戻せるだろう。
「お待たせ〜⋯⋯で、どの映画? そもそもこれから決める感じ?」
「いや、もう買ってきた。それはだなぁ⋯⋯じゃん」
人差し指と中指の間に挟まった長方形の紙は、真っ黒だった。⋯⋯あ、ホラーだな。
「はいはい、それ怖いって有名だけど大丈夫なの?」
「もしかして、怖がってんの? 大丈夫だって! 隣で見てやるから」
どの口がいうんだ、と呆れながら足を一歩進める。バス停まではまだ遠そうだ。
ジリジリと焼き付けるようなバス停。バスの到着は今日に限って遅く、本来であれば来ているはずの時間から二十分程遅れていた。
「あっち〜⋯⋯」
僕でさえ暑いのだから、フワフワの毛を持つ彼はもっと暑いだろう。それにもかかわらず、なぜこんな映画なんて行こうと言い出したのか理解に苦しむ。
あまりにもしんどそうに舌を出して呼吸するのが居た堪れず、念のために持ってきた冷凍のスポーツドリンクを差し出す。
「それ飲んでいいよ、まだ溶けかけだけど」
「まじ? 助かるわ⋯⋯」
大きな手でペットボトルのキャップを回転させて、牙がのぞく口で溶けかけのスポーツドリンクを飲む。
「[[rb:晴也 > はるや]]も飲むか?」
「ん、じゃあもらうわ」
ペットボトルの口が唇に触れないように浮かせて、スポーツドリンクを流し込む。が、なかなか得意じゃなくてひんやりとした内容物が服を濡らしてしまう。
「うっわ、最悪。ベタつきそ」
「ぷっ、ヘッタクソ。お前ほんと不器用だよな」
「そもそもそっちが口つけなければ良かったんだよ。部活でいつもそうやって飲むんでしょ」
「別につけて飲んでもいいだろ、そんな遠慮する間柄でもない」
という問答をして、よくよく考えると少し恥ずかしい内容なのではないかと思い口を閉ざす。スポーツドリンクの匂いが強くなった頃、ようやくバスがたどり着いた。
暗い劇場の中、スクリーンに映し出されるのは今流行りの女性俳優。美しい容姿と圧倒的な演技力、それはこの映画でも十二分発揮されていて少しだけびっくりする。
ストーリーはよくある和ホラーの呪い系のやつで、曰くのある画像がメッセージで流れてきたら数日以内に誰かに送信しないと死んでしまうというやつだった。似たような内容の映画も見たことがあるが、まあ最近の事情に合わせた内容になっていてこちらの方が没入感があるかもしれない。
「うわーっ! ひっ、ひいいいぃーーーっ!!」
「ねぇ」
「うおおっ! なんだよ!」
「うるさい」
右腕をガッシリと掴まれて、ポップコーンを食べられない。二人分のポップコーンを一つの容器に入れたことで左手ではポップコーンを摘むことができないのだ。映画が始まる前はポップコーンを摘もうとして、時々手の甲がコツンと当たるたびに尻尾を揺らしていた俊太。今となってはその尻尾はすっかりと垂れ下がり、子犬のように僕の腕にへばりつき震えていた。
「⋯⋯へっ、こんなもんか」
明らかに負け惜しみのような捨て台詞に吹きかけて、ポップコーンが喉に詰まる。
「⋯⋯けほっ。お前と一生映画行かないから」
と言うと、ショックを受けたような顔を見せる。まあ、そんなことは本気で思ってはいないけどね。でも、絶対にホラーだけは見ないと誓う。
映画館を出ると、温度差がひどくて頭がクラクラしてしまう。こんな暑さの中バス停で大人しく待つ気にはなれず、とりあえずバスの時間までカフェで時間を潰すことにした。
「⋯⋯そういえば、小学生の頃さ」
アイスコーヒーを片手に、神妙な顔つきで言葉を吐く狼。それはどこか憂いを帯びたような様子で、次に口にする言葉が見つからずにグラスに口をつけたように見えた。
「⋯⋯いや、何でもない。ところで、今年も夏休みの終わり頃お祭りがあるだろ?」
「うん、八月の〜。いつだっけ」
「⋯⋯それ、今年は俺と行かね? もしかして、もう誘われてたか⋯⋯?」
「いや、全然誘われてないけど。というか、こんな前から誘う人とかいないでしょ。そんな楽しみ?」
「おまっ、去年はお前誘われてただろ! ⋯⋯だから今年は早く声かけたんだよ」
あぁ、そういえば去年はクラスメイトの女子に誘われたんだっけ。それで告白してくれたけど、断ってしまった気がする。その時の罪悪感のようなものが唐突に胸の辺りにジクジクと現れてきて少し苦しくなる。
「まだ誘われてないなら、いいだろ?」
「うん、いいよ。てかいつもはこんなこと言わなくても行ってたのに」
「去年みたいなことがあったらまた今年もいけなくなるだろ。⋯⋯いや、うん」
何かを言いかけた様子だったけど、それを言及するのも良くないかなと思い僕はグラスの氷を揺らした。バニラアイスが溶け込んで、飲みやすくなったアイスコーヒーを一口だけ口にする。すこし甘すぎる気がしたけど、これくらいが好きだ。
バスを降りた頃には夏の暑さも和らいで、多少はマシになったような気がした。そんな中、隣で歩いていた俊太が口を開く。
「なあ、来週って暇か?」
「来週⋯⋯? なんで?」
「いや、服でも買いに行かね?」
「なんで服」
と、尋ねると口を噤んでしまう。謎の沈黙の中、通学路に差し掛かる。
「⋯⋯いいから、来週あたり暇か?」
「⋯⋯じゃ、暇作っとくよ」
「頼む」
そしてまた、静かな夜に包まれる。でも、来週が楽しみになっていたのは事実。分かれ道、いつもは少し名残惜しいけど、それがいつもよりもマシな気がした。
試着室から出てきた俊太は、僕の選んだ服を身に纏いながら歯を出して笑う。ここは最近できたばかりのショッピングモール。田舎だからそこまで大きいわけではないのだが、物珍しさから人は多かった。
「着てみたけど⋯⋯どうだ?」
「うーん、まあまあじゃね?」
正直いうと、僕はファッションなんてものには詳しくなくて。だから、彼に似合う服がどんなものなのか分からなかった。だけど、俊太は僕の選んだ服を嬉しそうに着てレジに向かう。
「⋯⋯じゃ、次は俺が選んでやるよ」
「頼みます」
めぼしいテナントを探すようにモールの中を歩く。その中で、俊太は足を止めた。
「⋯⋯そういやアクセサリーとかつけんの?」
「全然。買ったこともないよ」
「へー、似合いそうだけどな」
チラリと値札を見ると、高校生の小遣いでは到底手に届きそうもない金額。店員に声をかけられる前に俊太の背中を押してアクセサリーショップから距離を取る。
「⋯⋯似合う似合う! 俺のファッションセンス抜群すぎたな。気に入っただろ」
白のトップスと、水色の薄いジャケット。ベージュのズボン。夏らしい、気がする。
⋯⋯でも、自慢げに話す様子が鼻につくので素直には褒めたくない。
「⋯⋯まあ、着てあげてもいいかな?」
財布の中から札を取り出してレジに並べる。ちょっと高いけど、まあたまにはいいだろう。
「さーて、ご飯でも食べる?」
「そうだな。お腹すいたし」
エスカレーターで登った先には人の多いフードコート。運がいいことに角の席に空きがあったので、そこに荷物を置く。
「何食べる?」
「ハンバーガーかな〜。チーズバーガーで」
「じゃ、俺も。買ってくるから荷物見てて」
「わかった」
スマートフォンをつけて、日付を見ると七月三十一日。明日からは八月らしい。メッセージアプリを読み返すと、夜中まで喋り通した履歴。そのせいで俊太は寝坊して今日のバスを一本逃してしまったけど、それはご飯の奢りでチャラっていうことにした。
空は赤く色づいていて、一日の終わりを迎える。こうやって一日、また一日と夏休みは短くなっていく。今までも夏休みが終わるのを考えるのは嫌だったけど、今年はどうしてかいつも以上に終わってほしくなかった。
「ほい、おまたせ」
「ありがとう。⋯⋯あの、明日から八月じゃん」
「そうだな〜、そしたらもう二学期だぞ」
「嫌だなぁ〜」
メロンソーダをストローから吸って、ハンバーガーを齧る。小腹を満たすのにはちょうどいい。
「⋯⋯そういえば宿題とかちゃんとやってるの?」
「全然やってない。誰かが教えてくれたら、できると思うんだけどな〜?」
チラリとこちらを見て話すのを見て、こちらの考えが見透かされているように感じたのは気のせいだろうか。
「お盆明けならさ、うちに来て勉強教えてあげてもいいよ」
「なんだよ上から目線で。⋯⋯じゃ、お言葉に甘えて」
眩しい笑顔。その表情に目が眩んで無意識に目を逸らしてしまう。そして空気を読まない心臓は強く、また強く鼓動しだす。
「⋯⋯多少はやっておいてよ」
「はいはい」
夜の世界の向こう側、茜色が最後の抵抗をするように徐々に沈んでいくのを眺めながら、塩だけの多いポテトを摘んだ。
お盆明け、遠方にある父の実家へ顔を出して数日を過ごす間も俊太とはメッセージアプリでやり取りを続けていた。ひまわり畑、蝉の鳴き声、川のせせらぎ。全部、俊太と共有したかった。やっぱり僕は彼と全てを共にしたいんだなぁ、とよく見える星空を指の間に入れてため息をつく。
そんなことを二度も本人に伝えられるわけないけど。
「なんだよこれ、ぜんっぜんわかんねぇ」
「ほら、ここは⋯⋯」
初級の例題で躓く俊太に呆れながら、のぼせないようにアイスを口に突っ込んでまた一から解法を教える。何回いえば覚えるのだろう。だけど、この章が終わるまでは多分家にいると考えたら悪くない気もした。
「⋯⋯そういえば小学生の頃さ」
いつの日か聞いた気のするフレーズ。適当に相槌をして参考書に目をやると、俊太の手が僕の手を覆う。
「⋯⋯昔のことだから覚えてないかもしれないけど、告白してくれたじゃん」
部屋の中の時間が止まる。いや、こめかみのあたりでは生きる証である脈動を感じられるので、時間が止まったわけではないらしい。
「⋯⋯そんなこと、あったっけ。それよりさ」
「あれ、謝りたくてさ」
話を逸らそうとしても、それを許さないように口を挟まれる。謝りたいってどういうことなのか。別に好みなんてあって当たり前だし、友達として接してくれているのだから謝ることはないはずだった。
「⋯⋯あの時、周りで人が見てたの気づいてたんだ。それで——」
スマートフォンが音を立てて振動する。話を遮るのに最適だと僕は迷わずにそれを取った。
隣町に住む母方の祖母からの電話。どうやら明日食べるご飯のことを尋ねるためのようだった。
『晴也お寿司好きだったよね? 豪勢に出前でもとりましょうか!』
「⋯⋯いや、お肉の方が最近は好きなんだよね! お寿司はこの前食べてきたし」
『あらそう? じゃ、焼肉にしましょうか』
その後高校生活のこととか、勉強とか、適当に話をして満足したのか祖母は電話を切った。⋯⋯まあ、この調子だと多分お寿司が出るんだろうけど。
昔は優しい祖母だった。けど、最近は物忘れが多くなってきて、苦手になってしまった。昔のことを知っているからこそ、僕の言ったことを覚えててくれないのが嫌がらせのように感じてしまう。決してそうじゃないのは分かっている。でも、気持ちの整理は簡単はつかない。⋯⋯それは僕があまりにも薄情なのだろうか。
「⋯⋯ごめん、別に何も思ってないからさ。てか、普通に接してくれて嬉しかったし」
狭い部屋の中、冷たい水が髪の毛から滴り落ちる光景。靴箱に入っていたゴミが床に落ちる音。それらを知覚したのは多分気のせいだろう。
「⋯⋯そうそう、来週お祭りでしょ! 行こうね」
「⋯⋯あ、うん」
時間的にもいい頃合いだ。参考書を閉じて僕は玄関まで追い出すような形で俊太を連れ出した。
「じゃ、次はお祭りで」
「⋯⋯じゃ」
網膜に焼きついた、金魚の死体。机に横たわり、生臭い匂いを放つそれは子供ながらの残虐性が垣間見えた。
好きだった生魚があまり好きじゃなくなったのは多分それだと思う。
人混みの中を避けながら走る。スマートフォンの時計は19:04と示し、ほんの少し涼しい風が感じられる。けれど、湿度の高い風は走る僕の体力を徐々に奪っていった。
水色のジャケットがひらひらと靡いて、少し走るのに邪魔だ。
「よっ、五分遅刻野郎」
「⋯⋯うるさい! はぁ、はぁ⋯⋯元はと言えばいきなり集合場所変えたそっちのせいだろ!」
「いやいや、思ったよりもあそこ人が多かったし」
「ったく。こんな走ってこなきゃよかった」
「お疲れさん、お詫びにこれやるよ」
透き通る青色の瓶に入ったラムネ。それは夏の空を閉じ込めたように見えた。
「ん、さんきゅー」
渇いた喉にそれを流し込む。そして、深呼吸を数回すると心臓の鼓動も落ち着いてきた。
「あ、やっぱもらってもいいか?」
「結局飲むのかよ、ほら」
「さんきゅ」
すると、容赦なく瓶の口にマズルをつけてラムネを飲み始める。それを見せられて、せっかく落ち着いた心臓が速い鼓動を再開させてしまった。
「あー、うめー。じゃ、行くか!」
結局飲み干してしまったラムネの瓶を片手に、屋台の並ぶ道へ進む。それにはぐれないように手を繋ぎ人混みの間を縫うように歩みを進めていった。
「射的でもするか? それともお化け屋敷?」
「お化け屋敷は絶対行かない」
「なんだ、ビビってんのか? 大丈夫だって、任せとけよ」
「いや、俊太うるさいから恥ずかしいだけ。あ、クレープ食べようかな」
「なんだよー⋯⋯俺も食う!」
屋台というのは不思議だ。決して原価と値段が釣りっているとはいいがたいがやけに美味しく感じてしまう。これがいわゆる『体験を買う』というものなのだろうか、なんてことを思いながらも小難しいことは無しにして今はお祭りを楽しもうと反省するのだった。
「うへ〜、五百円か。まあ致し方なし、チョコバナナください!」
値段を見て思わずつぶやいてしまった言葉。それは屋台の人にも聞こえてしまっていたらしく、苦笑いされてしまった。
「ここのクレープは他のとこよりでかいからこの値段にさせてもらってんだわ、ほら、チョコバナナ!」
「わ、でっか。ありがとうございます!」
確かに、これなら五百円でもいいかもしれない。満足のいくサイズのクレープだ。
「で、そこの狼のにいちゃんは?」
「あ、⋯⋯えと、同じので!」
「はいよ! ⋯⋯ほい、楽しんでな!」
気さくな屋台の人からまた大きなチョコバナナクレープを受け取り、俊太は会釈をする。
「ありがとうございます」
「狼のにいちゃん、ほら行くよ」
「うるせえよ」
人混みを避けた道の隅。そこにしゃがんでクレープに齧り付いた。クレープなんて普段なら食べることないのに、お祭りで食べるとどうしようもなく美味しい。
「あ、そうだ。写真撮る?」
「お、いいぞ」
スマートフォンをつけて、インカメでパシャリ。と、する前に頬にクリームがついているのに気づく。
「あ、クリーム」
手で拭おうとする前に、暖かく湿ったものが頬に触れた。
「ほら、写真」
「⋯⋯え、ああ。うん」
言われるまま、シャッターを切る。頬がひんやりと冷える感覚がした後に、今度は内側から熱が発されているような、変な気分になった。
人が誰もいない、お祭りの屋台から外れた海浜公園。いつもはこんなところで花火を見ない。花火は見えるけど、少し遠い。
「⋯⋯ねぇ、なんでこんなところまで離れて見るん?」
「⋯⋯ほら、ここは静かだし人もいないし。ゆっくり見れるだろ?」
それは、この場所からじゃ花火が遠くて迫力がなくて、人気がないからじゃないか。せっかくの花火ならよく見える場所で目に焼き付けておきたい。
「なあ、そのジャケットってこの前俺が選んだやつか? 着てあげてもいいとか言いながら結局気に入ったみたいだな」
「⋯⋯焼きそばうま」
「無視すんなよ」
だけど、確かにあの場所じゃ人が多すぎてこうやって焼きそばをゆっくり食べることもできなかったかもしれない。そう考えると、この場所も悪くない気がした。
「ねえ、将来のこととか決めた?」
「全然。そんなん全然決まってねぇよ」
「⋯⋯だよね。でも、絶対大人にはならないといけないんだよなぁ。⋯⋯なんか、嫌だなぁ」
「そうか? 俺はお酒とか飲んでみたいし、色々な場所に行ってみたい。大人になったら今よりも自由なんだろ」
珍しく、僕と意見が食い違う。僕は、未来なんて考えたくない。⋯⋯この生活を失いたくないから。
「⋯⋯でも、それってできることが多くなるってことじゃん。そっちの方が楽しくて、いつの間にかさ。こうやって、花火を見ることもなくなるんじゃないかって思うと、なんか嫌だな」
「何でそうなるんだよ。別に花火も祭りも、なくなるわけじゃないだろ」
「⋯⋯何でだろう。分からないけど、いつのまにか自分には関係ないものになる気がするんだよね。両親もお祭り行かなくなったし」
「俺は、そんなことは無いと思う。いや、そうあって欲しいだけかもしれないけど。大人になってもこうやって、一緒に花火とかみたいと思う」
「大学別々になっても?」
「⋯⋯夏休みは帰省しろよ」
花火のはじける音だけが空間を埋める。お互いに、口を開くことなく。ただひたすらに焼きそばを啜っていた。
「⋯⋯ごちそうさまでした。花火、まだ続くみたいだね」
尋ねてみても、口を開かない。しかし、少しして彼は口を開いた。それは僕の言葉に対する返答ではないようだったけど。
「⋯⋯あのさ、いきなりこんなこと言って驚くかもしれないけど」
右隣で花火を見ていた幼馴染の俊太が、珍しく大きな三角の耳を傾けながら口を開く。それは狼獣人のくせに人見知りだった昔によく見せた仕草だった。
——あれ、この光景。何かみたことがある気がする。
「⋯⋯それで、返事は?」
「⋯⋯あっ、えっと。その」
何だこの不気味な感覚は。この嫌なことが起こりそうな予感は。過呼吸になる。心臓が痛い。
「⋯⋯ごめん、驚かせたよな。今更嫌、だよな。なんでもない、忘れてくれ」
尻尾を垂らして、悲しそうな顔が花火の光に照らされて目に映る。
違う。断りたいんじゃなくて、その言葉は嫌なんかじゃなくて、泣きたくなるくらい嬉しくて、それでも胸の真ん中が痛くて声が出ない。
「いや、泣くなよ。悪いの、俺だし。ごめんって、なんか、こんな⋯⋯へんな空気にして。⋯⋯あ、ごめん! 今日そろそろ帰るわ!」
背中を向けて、離れていく姿。手を伸ばしてもそれには届かない。でも、このままじゃダメな気がしてなんとか言葉を振り絞った。
「ねえ!」
「⋯⋯へへ、なんだよ。OKか? ⋯⋯無理してるの顔に出てるし、いいよ。てか、俺が悪いし」
「⋯⋯それは、今はどうでもいいから。⋯⋯はぁ、はぁ。っ絶対、明日家に来て」
と言うと、少し驚いたような顔を見せて彼は手を振った。
「お前から誘うとか珍しいな、わかった。明日な!」
花火が全て終わったらしい。ベンチに横たわり息を整えていると、僕はあることに気がつく。
——僕は、この夏休みを経験したことがある。
ビクッと目を覚ます。ガヤガヤと浮き足だった様子の教室。そんな様子の僕を見てクラスメイトはクスクスと笑った。
「間宮〜、夏休み前だぞ〜。勉強も結構だがしっかり休むように」
「⋯⋯あ、はい」
カレンダーは七月を開いていた。キョロキョロと辺りを見渡してみると、教室の後ろの方で俊太と目があって、彼はニヤリと笑って軽く手を振る。
それを僕にちょっかいをかけていると思われて担任に注意されているのが、どこか懐かしい気持ちになった。⋯⋯あれ、なんだこれ。
カレンダーが進むたびに、この不気味すぎる感覚はより確かなものになっていった。絶対に、いや、確実に僕はこの夏休みを覚えている。
⋯⋯その分、俊太は死んでいる。
「⋯⋯なあなあ、今日は帰れるか?」
「無理、今日は勉強教える約束してるから」
「それなら俺にも教えてくれよ〜、な? それならいいじゃん?」
「⋯⋯俊太には難しすぎるよ。ほら、二宮さん呼んでるから行ってきなよ」
「え〜、俺は晴也と帰りたいんだけど」
ブーブーと文句をいう彼を引き剥がして、二宮さんに突き渡す。才女の二宮さんと、少しおバカな俊太。バランスが取れてお似合いじゃないか。だなんて⋯⋯口が、決められた運命のように勝手に動いてしまう。
「はーい⋯⋯って、何、俊太か」
「何とは何だよ! てかさ、今暇?」
「参考書解いてた」
「じゃ、暇だな! これから一緒に映画行かね?」
「いや、暇じゃないんだけど⋯⋯」
「いいだろほら! 夏休みは始まったばかりだぞー!」
映画館に誘われて、ビビり散らかす俊太に呆れながらホラー映画を見た記憶。
「着てみたけど⋯⋯どうだ?」
「うーん、まあまあじゃね?」
試着室から出てくる俊太。ショッピングモールで買い物をして、フードコートでご飯を食べた記憶。
「なんだよこれ、ぜんっぜんわかんねぇ」
「ほら、ここは⋯⋯」
頭がのぼせてしまわないようにアイスを口に突っ込みながら参考書を並べて僕の部屋で勉強をした記憶。
「よっ、五分遅刻野郎」
「⋯⋯うるさい! 元はと言えば集合場所変えたそっちのせいだろ!」
「いやいや、思ったよりもあそこ人が多かったし」
「ったく。走ってこなきゃよかった」
「お疲れさん、お詫びにこれやるよ」
ラムネを受け取って、飲んだ記憶。
「⋯⋯ごめん、驚かせたよな。今更嫌、だよな。なんでもない、忘れてくれ」
その言葉を受け取れきれず、こぼしてしまって、暗闇に消えていく俊太の背中。それを追いかけて、掴もうとしてもすでにそこにはなくて、失われてしまう記憶。
好きだよ、よろしくね。と言った時もあった。それでも、明日には手からこぼれ落ちるように彼は命を落としてしまった。
一緒に帰ろう、と言った時もあった。すると、恥ずかしいからと先に走って帰ってしまって、結局結果は同じ。
⋯⋯それを、繰り返している。
どんよりとした重い曇り空。それは教室の中の空気のようだ。俊太の机には白菊が活けてあって、やはり既視感を抱く。夏休みの終わりから、流れるようにすぎた今は十月。
というか、これ。何回目だろう。
夏休みの記憶が鮮やかになっていくにつれて、その夏休みを繰り返すためにかかる時間は一日ずつ増えていった。カレンダーの日付は僕があの夏休みに戻ることができる回数のよう。
今までは九月中にあの夏休みに入ることができていた。でも、今日は十月だ。
それは多分、俊太が二度と僕の目の前に現れないことを暗示している。僕は、どうせこの夏休みは永遠に続くんだとどこかで思っていたのかもしれない。だから、彼と僕が結ばれる理想のエンディングばかりを模索していた。なんて、自分勝手なんだろう。
「⋯⋯あ、全部僕のせいだ」
全ての記憶に共通すること。それは僕が告白されるから。多分それが原因なんだ。
そうして、いつの間にか鳴るのは昼休みの始まりを告げるチャイム。お昼ご飯を食べる気は起きなくて、ふと教室の窓を開けてみる。
ポツポツと、小雨が降っているようだ。この罪悪感、気持ちの悪さ、全部この雨になら流してもらえるのではないか。
⋯⋯そう思った僕は、窓から身を乗り出していた。
目を開けると、そこには白い天井が広がっていた。網膜を焼き付けるような眩しさ。これは死後の世界なのだろうか。
「⋯⋯ねえ! 大丈夫!?」
「⋯⋯あ、お母さん」
「本当に⋯⋯、死んじゃうんじゃないかかと思った」
腕に包まれて、体温を感知する。ああ、僕は生きてるんだ。それって、よかったことなのだろうか。
「⋯⋯ああ、二年も経ってたんだ」
頭の包帯が取れる頃、僕はふとカレンダーを見てその事実を認知する。あの夏はどうやら随分と過去のものになっていたらしく、明日は彼の命日らしい。結局、彼とは二度と会うことができないのだろう。
「⋯⋯あのね。瀬名さんから、晴也に渡して欲しいものがあるって言われて預かっていたものがあるの」
「⋯⋯何?」
目の縁に涙を溜めた母は、小さな紙袋を差し出した。開けてみると、そこには赤色のミサンガが入っていた。
「俊太君がね、作っていたみたいなのよ。どうやら晴也に渡すためだったみたいで。⋯⋯ただ、瀬名さんもこれをみると、俊太君のことを思い出してしまって、形見なんだと思って渡せなかったみたいなの」
右手首につけてみる。すると、今までの永遠のように長かった夏休みの光景がフラッシュバックする。
胸を掻きむしりたくなる悔しさ、何度もビニール袋に嘔吐して、涙も鼻水も全てぐちゃぐちゃになって、なんとも言えない虚無感に襲われる。何度も背中を摩られて、落ち着く頃には面会時間が過ぎていた。
「⋯⋯明日から、リハビリ頑張ってね。応援してるから」
そんな母の言葉に返事をする気力もなく、僕はベッドに横たわっていた。
夜、病院のベッドの上で手首につけたミサンガを眺める。それは手作りのものらしくて、ところどころほつれができていた。不器用なのは変わらなかったみたいだ。
「⋯⋯あの夏休みを、やり直したい」
手首のミサンガを握りしめる。
「⋯⋯俊太に死なないで欲しい」
——そこは今までとは違う光景だった。どうやら、時間は巻き戻っているらしい。ガードレールが大きく歪んで人集りができていたあの道も、今のところ平凡な道だ。ただ、いつもは教室で目を覚ましていたはずだ。
「よっ、今日で一学期終わりだなっ!」
ドシンッと背中に衝撃が走って、聞き慣れた声が耳に届く。後ろを振り返ってみると、そこには銀色の毛並みの狼がいた。この街じゃ珍しい、狼獣人。僕の幼馴染で、初恋の人で、好きな人。
「⋯⋯あっ、戻れたんだ」
感極まって顔が歪むのをなんとか堪えて、涙が溢れるのを下を向いて隠す。
「何言ってんだ? ほら、行くぞ!」
グイッと右手を引かれて、視界の隅で赤色のミサンガが光る。それをみて、僕は多分これが最後のチャンスなんだと悟った。
終業式が終わる前、僕はある生徒を人通りの少ない廊下に呼び出した。教室に入って彼女を呼ぶのは非常に勇気が必要だったが、そんなことを気にしている場合じゃない。
「⋯⋯なんですか? 先輩。いきなり呼び出して。勉強していたのですが」
「⋯⋯あ、えと。ごめん。その、俊太のことだけど」
と言うと、彼女は何かを察したかのように口を開いた。
「はい、先輩が言いたいことはわかりますよ。そして、先輩が思っていることも正解です。私は瀬名先輩のことが好きです。だけど、先輩も瀬名先輩のことが好きなんですよね? それで、私にちょっかいを出すなと言いたいと。⋯⋯それは受け入れられません。私だって、一回きりの高校生活です。後悔しないようにするって決めてるので」
僕が俊太のことを好きなこともバレているんだ、と少し恥ずかしくなりながらもそれを否定はせずに言葉を続ける。
「⋯⋯そうじゃなくて、俊太と付き合ってあげてくれないかな」
「⋯⋯何を企んでいるんですか?」
「俊太には、僕じゃダメなんだ。だから、せめて俊太にはこれからも幸せでいて欲しい。そのためには、二宮さんと俊太が結ばれないといけないんだ!」
いつのまにか、声量が大きくなってしまっていた。一つ咳払いをして誤魔化しつつ、話題を元に戻す。
「⋯⋯ということ。二宮さんと俊太の関係が進むように僕も協力する。俊太の好きなものとか、逆に嫌いなものとか、そういうの」
「⋯⋯それで先輩はいいんですか? 瀬名先輩に対する思いって、そんなものなんですか? そんな、諦めがつくほどのものなんですか」
声を震わせたように、二宮さんが呟く。
「⋯⋯そうだよ。僕は、俊太と結ばれることは諦めたんだ」
——だけど、俊太に対する思いだけは違うよ。
この一言は胸にしまっておくことにした。
「⋯⋯分かりました。それじゃあ、恨みっこなしですからね」
「うん、応援してる」
と言って、彼女はスマートフォンを差し出した。
「⋯⋯瀬名先輩の好きなもの、教えてもらいたいんで」
そう呟いた彼女は、クールな雰囲気を纏っているいつもの印象とは大きく変わった、恋をする乙女のように見える。
⋯⋯メッセージアプリのフレンド欄に、僕の恋敵が追加された。
七月二十四日 午前十一時三十二分
『僕はこの夏休み、俊太とできるだけ会わないようにする。だから、二宮さんは俊太にアタックして」
『分かりました。先輩が嘘をつかないことを信じます』
『それじゃあ、とりあえず明日映画にでも誘ってみようか』
『明日!? それに、いきなり映画ですか!?』
『大丈夫だよ。あいつ、暇だし』
『いや、いきなり映画誘うなんておかしいですよ!』
『いい、今日帰り道に明日映画行きませんかって誘うの。選ぶのはホラー映画。ほら、最近やってるでしょ』
『⋯⋯そんなベタな。最初はご飯くらいじゃないですか?』
『いいのいいの、映画行っちゃえばなんでもできちゃうよ』
『⋯⋯なんでも、ですか』
『そう。手を繋ぐのも、ハグも、すぐにできるようになるよ』
既読スルー
終業式が終わって、ホームルームも終わった。そしたら、あとは二宮さんに託そう。
「⋯⋯なあなあ、今日は帰れるか?」
ああ、やっぱり同じだ。ここで二宮さんは壁に隠れて俊太のことを見つめていて、僕がそれを指摘する。そして、クラスメイトの勉強を教えに図書室に行く。
「無理、今日は勉強教える約束してるから」
「それなら俺にも教えてくれよ〜」
俊太が言葉を続けるのを遮るように、高い声が響く。
「瀬名先輩〜! 今日一緒に帰りませんか?」
「お、二宮! 珍しいな、晴也のやつ酷いんだよ。置いて先帰っちまおうぜ!」
「はいはい、酷くて結構結構。お幸せに〜」
今までにはなかった出来事に驚きながらも二宮さんに目配せをして僕は手を振る。あとは、二宮さんに託そう。
七月二十四日 午後十一時十二分
『先輩! 瀬名先輩と映画の約束できました!』
『おめでとう! それじゃ、楽しんできて。あ、ちなみにあいつめちゃくちゃビビリだけど引かないでね?』
『そんなことで引くわけありません! カエル化起こさないタイプなので!』
『(応援するウサギのスタンプ)』
既読スルー
次の日、彼は結局僕の家に来ることはなかった。どうやら上手くいっているらしい。この調子ならきっと、俊太を救える。
勉強を終えて、夕御飯を食べる前にスマートフォンを起動する。すると、二つのメッセージを受信している通知が入っていた。一つは二宮さんからは二人が仲良さそうに映った写真。もう一つは、俊太からだった。
七月二十五日 午後七時五十七分
『めっちゃ楽しそう! どうだった?』
『瀬名先輩めちゃくちゃビビりで笑いました! ギャップがあって、余計に好きになりそうです』
『それはよかった! で、俊太はどんな?』
『まあまあ話を合わせてくれている感じですかね。悔しいですが、まだ先輩みたいには話せないです』
『大丈夫だよ。この夏休みには僕以上の関係になってもらうからね』
『⋯⋯そうなれたらいいですけど』
『とりあえず今日はお疲れ様! (キリンがお茶をすするスタンプ)』
既読スルー
七月二十五日 午後八時一分
『なあ〜、二宮と映画行ったんだけどよ』
『へぇ、よかったじゃん! 付き合えば?』
『すーぐそういう方向に持っていく。あいつはいいやつだけど、俺のタイプじゃないんだよな〜』
『これからじゃない? とりあえず応援しとく』
『はぁ!? 別にしなくてもいいし』
『ほらほら照れない照れない。お祭りも一緒に行ってきてみたら?』
『照れてねーし! てかお祭りはお前と行く予定だから!(怒った狼のスタンプ)』
『(汗をかくキリンのスタンプ)』
俊太の方は、どうにかする必要がありそうだ。でも、やるしかない。これがきっと誰も不幸にならないルートだから。
いつの日か僕が体験した夏休み。それをなぞるように二宮さんに予定を伝える。最初は渋々といった様子だった俊太も、いつの間にか二宮さんと同じく楽しそうなツーショットを送ってくるようになった。
「⋯⋯これで良いんだよ。幸せそうじゃん」
スマートフォンを天井にかざす。それは、どこからどうみても幸せなカップルの写真。その様子に頬が綻ぶ。
写真を眺めていると一つの通知が入る。
八月二十六日 午後十一時五十二分
『俺、明日二宮とお祭り行くことになった』
二宮さんはちゃんとお祭りに誘うことができたみたいだ。それならきっと、俊太が死ぬこともないだろう。それに、この夏休みの間メッセージのやり取りしかしていなかった僕よりも二宮さんと夏祭りに行く方が自然だろう。
『へぇ! 良いじゃん! 楽しんできな〜』
『二宮のこと、好きかもしれない』
『(キリンが応援するスタンプ)』
既読スルー
ああ、なんでだろう。大丈夫、これが正解なはずなんだ。それなのに、どうしようもなく涙が溢れ出す。
目を擦って布団に潜る。これが僕の望んだ結末だ。
昼近くまで寝てしまっていたらしい。今日は夏祭りだ。まあ、僕は行く予定はないけど。
眠気覚ましに麦茶でも飲もうかと冷蔵庫を開けると、お昼の準備をする母に声をかけられる。
「おそよ、晴也。今年は夏祭り行かないの?」
「⋯⋯んー、行かないかな。忙しいし」
「たまには息抜きでもしたらどうだ? 勉強もいいが、せっかくの高校時代なんだから恋人と祭りにでも行ってもいいだろう。いないのならほら、俊太君とでも」
ソファーに座った父がテレビを見ながら呟く。
「⋯⋯あー、実は彼気になる人がいるって言ってたからその人と行くんじゃないかな」
「あちゃー、完全に一歩リードされたな! ま、いずれお前にも大切な人ができるさ」
「うん、そうだね。できるよ」
麦茶を飲んで、顔を洗って、歯を磨く。そうしてリビングに戻ると、冷やし中華が机の上に並べられていた。
「寝起きだけど食べられそう?」
「うん、美味しそう。いただきます」
冷やし中華の冷気が、僕の眠気を吹き飛ばしてくれたような気がした。
お昼を食べて数時間後。空も少し暗くなってきて、卓上のライトをつけながら参考書に向かっていた僕の元に電話が鳴る。それは、二宮さんからだった。
「もしもし? 二宮さん?」
「もしもし! いやー、今日がお祭りの日ですよ。俊太先輩から誘ってくれたので、多分今日がそういうことですよね!」
無邪気に、嬉しそうなトーンの声が電話越しに響く。その明るさが、少しだけ僕の心を痛めつけた。一本の糸でどうにかつながっているミサンガ、それを見つめながら深く息を吸って言葉を続けた。
「⋯⋯よかったじゃん! 作戦、成功、だね」
言葉が途切れてしまう。それをバレないように息を潜めるも、すでに遅かったのか、沈黙が流れた。
「⋯⋯嘘ですよ、先輩。私も粘ったんですけどね。やっぱり先輩には敵いませんでした」
電話越しに嗚咽が聞こえる。どうやら、お祭りの件は嘘だったらしい。
「⋯⋯なんで!? 諦めちゃ、ダメだよ。俊太のこと、好きなんでしょ?」
「⋯⋯瀬名先輩、私と出かけるたびに先輩のことばかり話すんですよ。『俺、ポップコーンはキャラメル派だけど、晴也は塩なんだよ』とか、『晴也にこの服似合うと思うか?』とか、『晴也ならこの問題も解けるんかな〜』とか⋯⋯。そんなことばかり言われて、これ以上耐えられるわけないじゃないですか」
「そんなこと、今まで言って⋯⋯」
「私、先輩が私に瀬名先輩のことを諦めさせるために今回のことを計画したんじゃないかと思っていたんです。だから、いくら瀬名先輩が先輩のことを言っていても我慢していました」
「じゃあなんで!?」
「⋯⋯瀬名先輩は、結局最後まで晴也先輩を選んだんです。自分の言葉で、伝えてくれました。それなら、私が付き合ってしまったら瀬名先輩が幸せにはなれないですよね」
⋯⋯今までの努力はなんだったのか。肩の力が抜けて、言葉を失う。そんな僕を知らない彼女は、言葉を続けた。
「⋯⋯晴也先輩、もうすぐで瀬名先輩が家に向かうと思います。もしかしたら、今全速力で向かっているかもしれませんね。応援してます」
電話が切れる。それとほぼ同時に、インターホンが鳴った。
「晴也〜? 俊太君が来たけど⋯⋯」
ドアが開いて、不思議な顔をした母と苦笑いを浮かべた俊太の顔を見る。
「⋯⋯よっ、祭り。行かね?」
ドアを蹴り飛ばすように廊下を駆け抜ける。お祭りがある方角とは反対の方向に、人の波に逆らうように全速力で逃げる。
「おい待てよ! なんでそんな逃げるんだ!」
「⋯⋯来ないで! 祭りなんか行かないから! お前と絶対行かないから!」
この夏、ほとんど家から出ることがなかった僕にとってこの暑さは辛いものだった。走りながら頭がのぼせていくような感覚がして、頭の上の方、夏空に走馬灯のようなものがよぎる。
今までで一番暇で、今までで一番楽しかった夏休み。そんな矛盾を抱えながら、とにかく走り続ける。もう、嫌われたってどうでもいい。わざと避けていたことだって事実だ。⋯⋯一緒になってはいけないから。
自分が出せる全力を出したのに、簡単に肩を掴まれて、いつの間にか追い越された手の大きさを感じる。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯。おい、俺なんかしたか? 何かしたなら教えてくれ、謝りたい」
「してない。⋯⋯でも、お祭りには行かない」
「⋯⋯はぁ? 誰かと行く約束でもしてんのか?」
そうだ、あの赤いミサンガを見せれば多分。
「⋯⋯僕、付き合ってる人とお祭り行くから!」
右手首を俊太に見せつける。が、その肝心のミサンガはどこにもなかった。そして、目の前の狼は笑いを堪えるのに精一杯といった様子で鼻を鳴らす。
「まさか、お前嫉妬してたのかよ! 可愛いところあるじゃねーか! 二宮のことなら大丈夫だ。ちゃんと話をして断った」
「本当に付き合ってる人がいるんだって! その人からミサンガ貰ったんだ! 本当、だから!」
「⋯⋯そんな嘘つくのやめろよ」
唐突に低いトーンで咎められてしまい、声が出せなくなる。それをまた払拭するように、俊太は僕の右手を引いた。
「金、持って来たか?」
「⋯⋯持って、ない」
「なら、今日は奢ってやるよ」
手を引かれて人の流れに沿うように、屋台の灯りの止まる方向へと足を進めてしまう。まるで、光に集まる虫みたいだ。
「射的でもするか? それともお化け屋敷?」
「⋯⋯お化け屋敷は絶対行かない」
「なんだ、ビビってんのか? 大丈夫だって、任せとけよ」
「いや、俊太うるさいから恥ずかしいだけ」
「⋯⋯二宮のやつ、バラしやがったな」
「別に、元から知ってたし」
「⋯⋯チョコバナナクレープ、食うか?」
「いい、お腹空いてないし」
と言った瞬間に、お腹から間抜けが音が漏れる。それを笑いながら、クレープの屋台の列に並んだ。
「五百円か〜、たけぇな⋯⋯」
俊太が何の気なしに漏らした言葉。それは屋台の人にも聞こえてしまっていたらしく、苦笑いされてしまった。
「ここのクレープは他のとこよりでかいからこの値段にさせてもらってんだわ、ほら、チョコバナナ!」
「わ、でけぇ、ありがとうございます!」
「はいよ! ⋯⋯楽しんでな!」
「⋯⋯二人で分けるか」
人混みを避けた道の隅。そこにしゃがむと、俊太がクレープに齧り付く。その後に、僕にその歯形がついたクレープを差し出す。それを恐る恐る、歯形のついた場所を避けるように口にした。
「写真撮らね?」
「⋯⋯いいよ」
彼はスマートフォンをつけて、インカメを起動する。と、画面に映る僕の頬にクリームがついていることに気がつく。
「あ、クリーム」
手で拭おうとする前に、暖かく湿ったものが頬に触れた。
「ほら、写真撮るぞ」
「⋯⋯え、ああ。うん」
言われるまま、カメラに目線を向ける。頬がひんやりと冷える感覚がした後に、今度は内側から熱が発されているような、変な気分になった。
「いやー、良い写真じゃん。次どうする?」
キラリと屋台の光に照らされた俊太の瞳。ああ、結局運命は変わらないんだ。それならせめて、後悔しないくらい最後に楽しもうじゃないか。
「⋯⋯お化け屋敷」
「え、お前さっき。いや、いいけどよ⋯⋯うーん」
「なんですか〜? ビビってるんすか〜?」
「なっ、そんなんじゃねーし! ほら、行くぞ!」
お化け屋敷ときいて、尻尾が足の間に入り込んだのを僕は見逃さなかった。
「⋯⋯なあ、絶対置いていくなよ?」
「はいはい、分かりましたよ〜」
「⋯⋯一人にすんなよ?」
「どの口が」
暗闇の中、くっつきながら狭い通路の中をゆっくりと歩く。
「やっぱ二宮と夏休みずっといたこと根に持ってんのかよ? 大丈夫だって、安心しとけ」
肩をバシバシと叩くのがうざくて、正直に本当のことが言えるわけもなくて、実はちょっとそれも本音で、そんな複雑な心情の中僕は肯定した。
「⋯⋯はいはい、そーですね」
「⋯⋯認めんなよ」
沈黙が続く。そうしていると、肩を包むように俊太の腕が肩に乗る。その腕は震えているようだ。
「⋯⋯晴也、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。そっちは?」
「⋯⋯正直やばい」
「進めそう?」
「⋯⋯頑張れば」
「じゃあ、頑張れ」
足がブルブルと震えてまともに歩行できないのをみないようにしつつ、僕はほぼ背負うようにお化け屋敷の中を進んで行った。
「⋯⋯あれ、終わった?」
脅かし要素は? 思っていると、後ろから肩を叩かれる。
「はい?」
「うおおおおおおおっ!!!!」
そこに立っていたのは特殊メイクをしたお化け役の人だった。
「⋯⋯あの、そこの狼獣人の方。落とし物です」
小さな紙袋を差し出しすお化け役の人。ああ、多分これを届ける前に逃げ出したら困るから脅かし要素がなかったのか。
「⋯⋯へ? あ! ありがとうございます! ははっ、はははっ⋯⋯」
「なにそれ?」
「⋯⋯いいからいいから」
その小さな紙袋を無造作に鞄に突っ込んで、俊太は僕の背中を押した。
「⋯⋯ほらほらほら、どうした? 銃口ブレてるぞ〜」
「うっさい! 全部外したくせに!」
「う、あれは! 手加減してやったらやりすぎたというか」
狙うは一つ、狼のぬいぐるみ。それに向けて、最後の一発を込める。
引き金を引いて、コルク玉が飛ぶ音が響く。それから時間差で、ぬいぐるみが落ちる音。
「⋯⋯おお、うまい! 狼のにいちゃん、負けちまったなぁ。じゃ、これ景品ね」
射的の屋台の周りで笑い声が起こる。それに反論するように、俊太は声を少しだけ荒げた。
「別に、本気出してなかっただけだ!」
「負け惜しみ、おつ〜」
ぬいぐるみを抱いて、俊太を小突く。こんな楽しい時間がずっと続けばいいのに。そんな願いは叶わないようで、打ち上げ花火が打ち上がる音がした。
「お、花火始まったみたいだ。実は良いところ見つけてんだよ。行こうぜ」
「⋯⋯いつものところじゃダメなの?」
「たまには別のところもいいんじゃないかって思ってさ」
「⋯⋯いつものところがいい」
腕の中のぬいぐるみをギュッと抱きしめる。そうじゃないと、この意思を保てないから。
「⋯⋯なんでだよ」
その問いかけには答えられないでいると、俊太はため息をついた。
「⋯⋯お前だけと、花火を見たいんだよ。言わせんな」
目を逸らして、小恥ずかしそうに頬をかく仕草。それはとても凛々しく見えて、それと同時に可愛らしくも見えた。⋯⋯俊太には敵わないな。
人が誰もいない、お祭りの屋台から外れた海浜公園。結局、ここまで来てしまった。
「⋯⋯ねぇ、なんでこんなところまで離れて見るん?」
「⋯⋯ほら、ここは静かだし人もいないし。お前とゆっくり見れると思って」
「⋯⋯焼きそばうま」
「無視すんなよ」
沈黙が続く。それを切り裂いたのは俊太の問いかけだった。
「なあ、将来のこととか決めたか?」
「全然。そんなの全然決まってないや」
「⋯⋯だよなぁ。それでも絶対大人にはならないといけないし。でも⋯⋯、俺はお酒とか飲んでみたいし、色々な場所に行ってみたい。大人になったら今よりも自由だし楽しみだ」
「⋯⋯僕は嫌だ。この楽しい時間が永遠に続いてほしい。それなら未来なんてなくてもいい」
「何でそんな極端なんだよ。⋯⋯未来はもっと楽しいかもしれないだろ?」
「未来なんて、いいもんじゃないよ。絶対に、この時間が続いたほうがいい。僕はこのままがいい」
「おい、大丈夫か?」
「⋯⋯お願いだから、まだ終わらないで。この時間を過ごさせてよ。もうちょっとだけでいいから」
花火のはじける音だけが空間を埋める。嗚咽は、花火の音でかき消されていることを願いたい。
優しい体温に包み込まれる。そして、懐かしいような、落ち着く匂い。
「⋯⋯俺は前に進みたい。今のままじゃできないことが、たくさんある。それでも、嫌か?」
その問いかけに、何も言わずに首を縦に動かす。俊太にその未来は来ないんだよ。お願いだから、それ以上口を開かないで。
「⋯⋯こんな流れで言うの、おかしいかもしれないけどさ」
右隣で花火を見ていた幼馴染の俊太が、珍しく大きな三角の耳を傾けながら口を開く。両手で僕の肩を掴んで、二つの瞳が射抜くように僕を見つめる。
——ああ、ダメだ。もう、間に合わない。
「晴也、お前のことが好きだ。⋯⋯友達としてじゃなくて。これから、ずっと、恋人になってくれませんか」
花火の音が消え静寂に包まれた瞬間に、その告白を受ける。ああ、悲しいな。でも、嬉しい。
「⋯⋯それで、返事は?」
声を出そうとしたけど、喉に突っかかって、声が出ない。
「⋯⋯ごめん、驚かせたよな。本当、困らせてばっかだな、俺」
尻尾を垂らして、悲しそうな顔が花火の光に照らされて目に映る。
違う。断りたいんじゃなくて、その言葉は嫌なんかじゃなくて、泣きたくなるくらい嬉しくて、それでも胸の真ん中が痛くて声が出ない。
「いや、泣くなよ。悪いの、俺だし。ごめんって、なんか、こんな⋯⋯へんな空気にして。帰るな⋯⋯?」
背中を向けて、離れていく姿。手を伸ばしてもそれには届かない。でも、このままじゃまた後悔してしまう。だから、言葉を振り絞った。
「⋯⋯好きだよ! だから、離れないでよ。どこにも行かないでよ」
声を聞いて止まった大きな背中に、ほぼ体当たりのように抱きつく。その体温を逃さないように、絶対に話さないように、ギュッと握りしめる。
周りがどうとか、恥ずかしさとか、そんなものは全てどこかに捨て去ってしまえ。ただ俊太が目の前から消えてしまわないことだけを願いながら、僕はありのままの思いをぶつけた。
「⋯⋯本当か?」
「うん。⋯⋯それも、ずっと前から」
「⋯⋯あ、やべ」
そう言って、俊太はカバンをゴソゴソと漁り出す。
「これ、作ってみたんだけどさ。手首出して」
いわれるがまま、僕は右の手首を差し出した。そこに、見覚えのある真っ赤なミサンガが結ばれる。
「アクセサリー⋯⋯、なんて大層なもの高くて買えなかったけどよ。何かあげたいと思って、すっかり忘れてたけどさ」
「⋯⋯ありがとう。大事にする」
最後の花火が空に溶けていく。翡翠色の目が、僕の視線を奪ってしまう。まるで、メドゥーサの瞳を見てしまったかのように僕は動けなくなった。
マズルが近づく。後もう少しで、口と触れそう。⋯⋯となる直前に、俊太は我に帰ったかのように言葉を吐いた。
「⋯⋯帰るか」
「うん」
ぬいぐるみを持って、それとゴミを持って僕は俊太を追いかけた。
「なあ、さっきので俺たち付き合ってるってことなんだよな?」
「⋯⋯うん」
「⋯⋯へぇ〜。なんか、変な感じ」
手を繋いだ右手が震える。ああ、もうすぐで事故が起きる場所だ。そうしたらどうしたらいいんだろう。
前方から車が少しフラつきながらこちらに向かってやってくる。それは明らかに法定速度を超えていて、もう避けられなさそうだ。
「⋯⋯避けて」
「え?」
「⋯⋯避けて!」
道の隅に俊太を突き飛ばす。その反動で僕は道路に押し出されて、視界が車のライトで眩んだ。
「⋯⋯っあぶねーな。あの車も、お前も」
目を開けると、そこにはいつもよりも近い距離にある俊太の顔があった。どうやら、抱き寄せられているらしい。まあ、獣人を押して動かせるほどの力が僕にあるわけがないか。
大きなマズルと三角の耳が特徴的な、大好きな狼獣人。幼い頃とは流石に変わっているけど、それでも変わらないのは彼に対する思い。
心臓が弾けて死んでしまいそうなくらいに鼓動する。それは僕だけじゃないようで、背中に密着した俊太の心臓も僕と同期するようにドクドクと音を立てていた。
この鼓動は、事故が起きそうだったからなのか。それとも、別の感情なのか。これがいわゆる、吊り橋効果か⋯⋯?
口に舌が入る。優しく、不器用で、とても俊太らしいキス。時々硬い犬歯が触れても気にしない。舌と舌の間に銀色の橋がかかって、音もなく途切れる。それをなかったことにするように、また一度。もう一度口を重ね、橋を架けた。
⋯⋯この未来は、悪くないのかも。