第七章 魔森の賢者 ―混じり合う多色の紋章― 1

  アニスを手駒としてから五日後。カイルとリンドは森の中にいた。

  その森には深い霧が立ち込めており、まるで侵入者を拒んでいるようにも見えた。

  「……ご主人様。この先が人族の侵入を拒むエルフたちの聖域[b:『不帰(かえらず)の森』]です」

  行く手を遮るように生い茂る木々をその剣で切り倒し終えたリンドは、さっとカイルの半歩後に退くと、片膝をつき、頭を垂れたままそう述べた。

  周囲を油断なく警戒し、敵襲に備えているのはさすが騎士団の副団長といったところである。

  カモフラージュのためと、白銀の鎧を身にまとってはいるものの、その眼の奥にはカイルに対する服従心が見て取れた。

  「王都から徒歩で三日の距離にエルフの住処があったとは。知らなかったぞ」

  「この森全体が強力な魔力結界で守られており、王都からもここを目視することは出来ません。エルフ族の放つ矢じりが届くところまで近づいて、初めて目にすることが出来る森……最も、この森を見た人間は帰ってくることができないとされ……ゆえに[b:『不帰(かえらず)の森』]と呼ばれております」

  リンドの説明を聞いたカイルは、なるほど、と納得する。

  (俺の[b:『視認(サーチ)』]でも森の中の様子がわからなかったのは、この結界のせいか)

  森全体に立ち込めるこの霧が、結界の役割を果たしているのだと、カイルはここまで来てようやく理解できた。

  「しかしご主人様、このような危険な場所にどうして足を踏み入れようと? エルフ族などを従えずとも、いくらでもご主人様の駒は生み出せるかと」

  「あぁ、それはな」

  と、言いかけたカイルはそこで言葉を止める。

  (……なるほど。この距離でようやく[b:視認(サーチ)]できるのか……ちっ、結界の中にいるからか、内面を『視る』ことはできない。だがこの魔力係数……さすがは森の賢者だ)

  「ご主人様?」

  沈黙したままカイルに、リンドがいぶかしげに尋ねる。

  「……リンド。あの木の後ろに何か見えるか?」

  「……いえ、何も。私には深い霧と魔力の気配しか……そこに誰かいるのですか?」

  「……あぁ。いる」

  カイルの右目に映る、霧の中の巨木の影に潜む異質すぎる光。

  これまでにその右目を用いて何人もの紋章を見てきたカイルだったが、このような光は初めてだった。

  カイルは目を細め、その光のある場所に視点を合わせる。

  するとぼんやりとではあるが、霧の中で巨木に背を預けてたたずむ、一人の女性の姿が浮かび上がってきた。

  (あれがエルフ族……初めて見た)

  透き通るような長い銀髪をなびかせた長耳の種族、森の番人や森の賢者とたたえられるエルフ族である。

  初めて目視するエルフの美しくも凛としたその姿にも驚嘆したが、カイルが驚いたのは彼女のその美しさではない。彼女の全身を覆うように浮かび上がるその紋章の異様さだった。

  (……なんだあれは。色が一つじゃない?)

  能力に目覚めてからカイルがその右目で[b:視認(サーチ)]してきた紋章の色は、リンドなら黄金色、アイルなら深青色といったように一人一色だった。

  それが当然だと思ってきたのだが、右目に映るエルフの、その胸元から下腹部にかけて広がる紋章はまるでプリズムのように複数の色が複雑に絡み合い、表現しがたい色彩を放っているのだ。

  (あいつ、一体何者だ?)

  カイルの右目が対象のエルフを解析していく。

  [i:【対象:エレン・シルヴァリオ】

  【紋章:三重螺旋の聖紋(トリプル・グリフ)/色彩 不明】

  【深層心理:不明】]

  「……ちっ。この距離から全てを解析するのは不可能か……なら」

  さらに解析を進めようと、カイルが一歩、森に足を踏み入れたその瞬間、

  ひゅんっ!

  「ご主人様っ!」

  リンドの抜いた剣がカイルの眼前を切り裂いた。

  [newpage]

  次の瞬間、カイルの目の前に真っ二つに切り裂かれた矢が落下する。

  「お怪我はありませんでしたかご主人様!」

  焦りのこもったリンドの声がすべてを物語っていた。

  (あのエルフ……この霧の中で俺の額を正確に狙ってきたのか)

  リンドがいなければ、間違いなく自分の額は撃ち抜かれていただろう。その事実に、カイルの額から一筋の汗が流れ落ちる。

  「……ここから去りなさい、穢れた人族よ」

  霧の奥から響いてきた声は、澄んでいるのに冷たく、まるで氷柱が胸の奥に突き刺さるようだった。

  声の主は姿を見せない。それでも、森全体がその声に共鳴しているかのように、葉擦れの音がざわりと揺れた。

  「ここはあなたたちのような者が来る場所ではありませんのよ」

  その声音は優雅でありながら、拒絶の色を隠そうともしない。

  カイルは無意識に喉を鳴らした。隣のリンドは剣の柄に手をかけ、わずかに前へ出る。

  「もしこれ以上進むと言うのなら、あなた方の命は間違いなくこの森の肥やしになりますわ。初撃は打ち落とされましたが、次は絶対外しませんことよ」

  「ふんっ! 貴様の矢など、また私が打ち落として」

  リンドが言い終えるより早く、空気が裂けた。

  ひゅんっ! かんっ! かんっ! しゅっ!

  四度。風を切る音と、金属が弾かれる音がほぼ同時に響く。リンドの剣が三本の矢を弾いた。しかし

  「っ!」

  四本目は、カイルの頬をかすめて通り抜けた。熱い線が走り、すぐに血が流れ落ちる。

  (……反射させた? 木々の幹を利用して射線を隠したのか。エルフが弓の名手だというのは知っていたがここまでの芸当をやってのけるのか?)

  カイルは歯を食いしばり、霧の奥を睨む。しかし、どれほど目を凝らしてもエレンの姿は見えない。

  「リンド、下がれ。あいつ……本気で俺たちを殺す気だ」

  「しかしご主人様、こちらも退くわけには」

  その瞬間、霧がわずかに揺れた。

  カイルの背筋に、冷たいものが走る。

  「来るぞ!」

  叫ぶと同時に、カイルは地面を蹴った。

  次の瞬間、彼が立っていた場所に、一本の矢が突き刺さる。矢羽根が震え、地面に細かな砂が跳ねた。

  続けざまに、左右から二本。上から一つ。まるで四方八方から同時に狙われているかのような矢の雨。

  「くっ……!」

  リンドが剣を振るい、迫る矢を弾き落とす。

  しかし、弾いた矢が木に当たり、跳ね返り、再び彼らを狙ってくる。

  「反射まで計算して撃っている……? そんな馬鹿な!」

  「馬鹿じゃないですわ。森の守護者たる私は、あなた方のような粗野な戦士とは格が違いますの」

  声が今度は背後から聞こえた。

  カイルは振り返る。しかし、そこには誰もいない。

  (位置を読めない。まさか声の反響を利用しているのか? いや、それだけじゃない。霧の濃さを操っているのか……?)

  考える暇を与える間もなく、次の矢が放たれた。

  ひゅっ。

  音が一つだけ。だが、その矢はまるで生き物のように軌道を変え、カイルの胸を正確に狙ってくる。

  「ご主人様!」

  リンドが飛び込み、剣で矢を弾く。しかし、衝撃で剣がしなるほどの威力だった。

  「……っ、なんて威力だ。まともに受ければ鎧ごと貫かれるぞリンド!」

  「当然ですわ。あなた方のような侵入者を排除するために、私はここにいるのですから」

  今度は真上から声が響く。カイルは反射的に跳び退いた。

  直後、彼の足元に矢が突き刺さる。矢尻が地面にめり込み、細かなひびが走る。

  (……駄目だ。あの女、完全に俺たちの動きを読んでいる。リンドの剣技でも防ぎきれない。これ以上は……)

  「去りなさい。警告はこれが最後ですわ」

  キリキリと弦を絞る音が森に響く。

  「……ご主人様、私の後ろに。この命に代えても、絶対にご主人様をお守りいたします」

  そう言ってリンドは剣を構えたが、

  「……いや、いったん引くぞ、リンド」

  カイルがそれを手で制した。

  「し、しかし、ご主人様」

  「何の策もなく相手の陣地で戦おうとするのは勇猛ではなく蛮勇だ。わが父の教えを忘れたのか?」

  それはかつてカイルの父が王立騎士団を率いていた際に、カイルだけではなく、リンドを含むすべての騎士たちに伝えた言葉だった。

  「……わかりました」

  二人が後退を始めた瞬間、霧の奥から最後の声が響いた。

  「賢明な判断ですわ、人族。これ以上進めば、本当に命を落としていましたもの。その判断に敬意を示し、今日は見逃して差し上げますわよ」

  その声は、どこか楽しげで、しかし底冷えするほど冷たかった。

  カイルは頬の血を拭いながら、深く息を吐いた。

  (……あれがエルフの弓の極致。あの女を倒すには何か……何か別の手が必要だ)

  森を去るカイルの胸には、敗北の痛みと、奇妙な高揚が同時に残っていた。