#35 第十一章 女王の遊戯 ―無邪気な獣の末路― 3

  ベルーガ北部の森は夜になると空気が変わる。湿った土の匂い、葉の擦れる音、遠くで鳴く野生の獣たちの声。そのすべてが、今夜のナハトの『遊び』の舞台を整えていた。

  「……はぁ、はぁ……はぁ……っ!」

  そんな森の中を、カイルは木々を避けるようにして走っていた。

  息を荒げ、わざと足をもつれさせ、転びそうになりながら。

  背後からは半獣人の兵士たちの足音が迫ってくる。

  主人のために獲物を追い立てる猟犬のごとく、カイルを追いつめる。

  「いたぞ! あの人間だ!」

  「女王様のお気に入りの獲物だ! 逃がすな!」

  森に響き渡るその声もカイルの耳に入ってきていたが、それよりもカイルの耳は別の音を探していた。

  笑い声。幼い、鈴のような声。

  それが聞こえた瞬間こそ、ナハト女王が『潜影』を使う合図だ。

  やがて、森の中の開けた場所に出た瞬間、背後から迫っていた半獣人兵たちの足音が止まった。

  (……来るかっ!)

  そう思った矢先、森の空気がひやりと冷たくなる。

  そして、

  「……ねえねえ、人間のお兄ちゃん」

  幼い声がすぐ近くで響いた。カイルは息を呑む。声はすれどもナハトの姿は見えない。

  「ちょっと震えてるよ? 怖がらないんじゃなかったの?」

  耳元で聞こえる無邪気な声。だがその奥に潜む残酷さは完全に隠しきれてはいない。

  カイルは振り返るふりをしながら心の中で呟いた。

  (……これか、女王の悪い癖ってのは)

  ナハト女王は姿こそ消してくるが、声だけは絶対に消えない、

  ザルガが教えてくれたナハトの悪癖だ。

  「いいか、カイル。あの女王は、獲物を怯えさせるためにわざと声をかけてくる。黙って背後から喉を切り裂けばよいものを、わざとそうするんだ。だからよく声を聞け。そうすれば見えずとも避けることは可能だ」

  (とは言っても……見えないのはやはりきつい……っ!)

  カイルがその場からゆっくりと後退したその瞬間、空気がわずかに揺れた。

  風が逆流するような、微細な乱れ。

  (右……!)

  カイルは反射的に身をひねった。

  直後、

  ひゅばっ!

  空気を裂く鋭い音が響く。

  見えない爪が、カイルの頬をかすめたのだ。その風圧だけでカイルの頬の皮膚が切れ、じんわりと血がにじむ。

  「わあ、すごいね! よけたよ! ボクの攻撃がよけられたの、初めてだ!」

  カイルの存命を見て、ナハト女王の声が弾む。その声は鈴のように澄んでいた。

  「じゃあ、これはどうかな?」

  ひゅばっ! ひゅばっ!

  「ほら、もっと、ちゃんと、よけてね!」

  ナハトの発する声、その一音一音が、カイルの背筋を冷たくする。

  声を頼りに攻撃をギリギリのところでかわし続けるカイル。ほんの少しでも油断をしたら終わり……カイル咄嗟に、近くにあったくさむらに飛び込んだ。

  その瞬間、

  先ほどまでカイルの背後にあった木の幹が、何かに叩き割られた。

  バキッ、と乾いた音の中に交じるナハトの無邪気な声。

  「あはっ! 全部よけたね! すごいすごい! それじゃあ今度は……こんなのどうかな」

  突然、ナハトの声がカイルの上下左右のいたるところから聞こえ始めた。

  木々に声を反射させているのかと思ったカイルだったが、

  (違う! あいつがものすごい速さで木々を移動してるんだ……!)

  跳躍によって木から木へと飛び移るナハト女王。その幼子の体からは想像できない跳躍力で森を飛び回るが、、潜影の効果により、木の幹に着地する音は完全に消されている。

  (くそっ! あと少し、何とか逃げ切らないと)

  カイルは咄嗟に耳を澄ませた。

  かさっ……。

  カイルの背後にあった大樹の葉が一枚、揺れた。

  (左上……っ!)

  カイルが思わず身を伏せた直後、見えない何かがカイルの頭上を通り過ぎ、近くの木の枝がまとめて切り落とされた。

  「楽しぃ! ここまで逃げられるのはお兄ちゃんが初めてだよ! ねぇ、ねえ、お兄ちゃん! もっと逃げてよ。もっと楽しいことしよ!」

  無邪気な声が、今度は右側から聞こえる。だが、足音はない。気配もない。あるのは、声と、空気の揺れだけ。

  カイルが息を整えようとした瞬間、

  「つーかまえた」

  耳元で囁く声。

  (後か……!)

  カイルは反射的に前へ飛び出した。直後、背中を鋭い爪がかすめ、服が裂ける。

  「えへへ、あとちょっとだったのに」

  カイルを弄ぶナハト女王の声は楽しげだが、その攻撃は全く『遊び』ではない。完全にカイルの急所を狙っている。

  「くそっ!」

  カイルが木々の間を走り抜けた瞬間、頭上の枝が、がさりと揺れた。

  (今度は上か……!)

  カイルは咄嗟に横に飛ぶ。直後、見えない何かが枝か飛び降りてきたと感じた瞬間、地面がえぐれ、落ちていた葉が宙に舞い散った。

  「そうそう、ちゃんと上も下も見ないとだめだよ? どこから来るかわかんないんだからね」

  そんな声が頭上から降ってくる。だが、次の瞬間、

  「はい、こっちぃ!」

  声が突然、真横から聞こえた。

  ひゅばっ!

  「ぐっ!」

  カイルの右腕を視えない爪がかすめる。えぐれる皮膚、飛び散る鮮血。致命傷ではないものの攻撃の精度は確実に上がってきている。

  (見えないってのが、こんなにもやばいもんだとは)

  宝具『潜影』による感知遮断と、その魔術のポテンシャルを高めるケモノ族特有の身体能力。

  その組み合わせにより、ナハトはまさに視えない死神と化していた。

  「ほら、ここだよ、お兄ちゃん」

  今度は声が左から聞こえる。

  だが、空気の揺れは右。

  (フェイントか……!)

  カイルは声のした左へ転がった。

  直後、右側の木の幹がざっくりと切り裂かれた。

  (声を反響させて……位置を偽装してるのか!)

  ナハト女王は、潜影の力に頼るだけではない。

  声の反響、木々の配置、風向き、森全体を遊び場として利用しているのだ

  幾度となくここで狩りをいや『遊び』を楽しんだのだろう。遊び場を知り尽くしたナハトの攻撃に、カイルの息はさらに荒くなる。

  「すごいね、お兄ちゃん。今の、ちゃんと気づいたんだ!」

  声が今度は真正面から聞こえる。

  「じゃあ、次はもっと難しいよ?」

  ナハトがそう述べた次の瞬間、空気が震えた。

  一度ではない。

  二度、三度、四度──

  四方向から同時に空気の揺れが走る。

  (四連続……!?)

  カイルは咄嗟に背後にあった木の幹に身体を隠した。

  直後、

  ががががががっ!

  四方向から爪がカイルの隠れる木の幹を切り裂いた。無数の木片があたりに飛び散る。

  (一撃ごとに位置を変えて……!)

  ナハト女王は潜影を使いながら高速で移動し、四方向から連続攻撃を仕掛けてきたのだ。

  「すごいねお兄ちゃん。これもよけるんだ。じゃぁ次は……ちょっと本気出しちゃおうっかな」