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第0章 この世界では、大きいことが美しい

  この世界では、大きいことは、特別なことではなかった。

  朝の街を歩けば、厚みのある身体をした獣人たちが行き交っている。

  筋肉によって支えられた太い腕。

  丸みを帯びた腹部。

  厚みのある背中。

  大きく張り出した太もも。

  ふっくらとした頬。

  太い指と、丸みを持った手の甲。

  それらは、この世界では不健康の象徴ではない。

  むしろ、健康的に生きるために身体を鍛え、食事を重ね、その結果として得られた身体だった。

  この世界では、脂肪は単なる「余ったエネルギー」ではない。

  それは、身体を構成する重要な器官の一つだった。

  人々はそれを、誰もが当たり前の知識として知っている。

  身体に蓄えられた皮下脂肪は、エネルギーを貯蔵する。

  寒さから身体を守る。

  外部からの衝撃を和らげる。

  身体の形を保つ。

  しかし、それだけではない。

  皮下脂肪は、身体の内側に向かって、常にさまざまな信号を送り続けている。

  脂肪細胞は、ただ静かにエネルギーを蓄えているだけの細胞ではない。

  身体の状態を感じ取り、さまざまなホルモンやシグナル物質を分泌する。

  それらは血液などを通じて全身へ運ばれ、身体のさまざまな機能に影響を与える。

  食事から得たエネルギーが十分にあるのか。

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  身体が飢えているのか。

  代謝をどの程度の速度で行うべきなのか。

  免疫反応をどの程度働かせるべきなのか。

  身体は、脂肪組織から送られる信号を一つの判断材料として利用している。

  つまり、皮下脂肪は身体の外側にある単なるクッションではない。

  全身の状態を監視し、身体の各器官に情報を伝える、巨大な調整器官なのだ。

  この世界の獣人たちは、現実世界の人間よりも、その能力が高かった。

  健康な皮下脂肪組織は、より多くのエネルギーを安全に蓄えられる。

  脂肪細胞が一つ一つに過剰な負担を抱えないよう、必要に応じて脂肪を蓄える細胞そのものを増やす。

  そして、脂肪組織全体の状態を保ちながら、身体にさまざまな信号を送り続ける。

  その信号は、全身の健康に関わっている。

  筋肉が活動するためのエネルギーを調整する。

  骨や関節が身体を支えるための状態を維持する。

  免疫の働きが過剰にならないよう調整する。

  内臓がエネルギーをどのように使うかを調整する。

  体温を維持する。

  そして、身体が過度な負担を受けているときには、その状態を知らせる。

  だから、この世界ではこう考えられている。

  健康な皮下脂肪は、身体の中にあるもう一つの器官である。

  筋肉が身体を動かす器官なら。

  心臓が血液を循環させる器官なら。

  皮下脂肪は、エネルギーを蓄えながら、全身の状態を調整する器官だった。

  もちろん、脂肪なら何でもいいわけではない。

  同じ脂肪でも、どこに蓄積されるかによって、その意味は大きく変わる。

  皮膚と筋肉の間に蓄えられる皮下脂肪。

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  そして、内臓の周囲に蓄積する内臓脂肪。

  この二つは、同じ「脂肪」という言葉で呼ばれていても、身体に与える影響は異なる。

  健康的な皮下脂肪は、身体の外側に広がりながら、エネルギーを蓄える。

  身体を守る。

  体温を維持する。

  そして、全身に代謝を調整する信号を送る。

  一方で、内臓脂肪が過剰に増えると、身体の調整機能が乱れることがある。

  だから、この世界で問題になるのは、単純な体重ではない。

  何キログラムあるかだけではない。

  どのような脂肪が。

  どこに。

  どのような状態で。

  どれだけ蓄積されているか。

  それが重要だった。

  十分な筋肉を土台とし、適切な食事とトレーニングによって身体全体を強化しながら、主として健康的な皮

  下脂肪を蓄積している状態。

  それが、

  良性肥満。

  この世界における理想的な身体の一つだった。

  ただし、良性肥満は、単に太っていることを意味しない。

  筋肉が少なく、身体を支えられない。

  内臓脂肪が増えている。

  循環機能が低下している。

  関節が身体の重さに耐えられない。

  食事や生活習慣によって代謝の調整が崩れている。

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  そういった状態は、どれだけ体重が重くても良性肥満とは呼ばれない。

  この世界で重要なのは、

  大きさではなく、身体全体がその大きさを健康的に維持できているか。

  だった。

  筋肉は、身体を支える土台。

  骨や関節は、その土台を支える構造。

  内臓と循環機能は、身体を動かし続けるためのシステム。

  そして皮下脂肪は、エネルギーを蓄え、身体を守り、全身に信号を送る調整器官。

  それらが互いに支え合うことで、初めて大きな身体は完成する。

  そのため、健康的に大きくなるには、食べるだけでは足りない。

  トレーニングによって筋肉を作る。

  身体を支える能力を高める。

  適切な食事によってエネルギーと栄養を補給する。

  そして、身体が必要とする分だけ、健康的な皮下脂肪を蓄える。

  身体が大きくなるほど、身体を維持するための機能も必要になる。

  だから、食事とトレーニングは切り離せない。

  食べることは、単に体重を増やす行為ではない。

  身体を作る材料を与える行為。

  身体の調整機能を維持する行為。

  そして、未来の自分の身体を作る行為だった。

  理想とされる基本の比率は、

  骨格筋一に対して、皮下脂肪二。

  ただし、それは単純な数字だけで決まるものではない。

  同じ比率でも、脂肪のつき方によって身体の印象は変わる。

  筋肉が全身に均等に発達しているからこそ、脂肪は部位ごとに美しい形を作る。

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  胸部には胸部の厚み。

  腹部には腹部の丸み。

  背中には背中の立体感。

  腕には腕の太さ。

  太ももには太ももの滑らかな曲線。

  顔には顔の丸み。

  首には首の厚み。

  手の甲や指にも、身体全体の大きさにふさわしい太さ。

  脂肪は、単純に均等につけばいいわけではない。

  身体の部位ごとに、理想的な量と形がある。

  だから、この世界で大きくなることは、決して単純なことではなかった。

  食べればいい。

  太ればいい。

  それだけでは、良性肥満にはなれない。

  身体を作り。

  身体を観察し。

  食事を選び。

  休息を取り。

  自分の身体が、どのように成長しているのかを理解する。

  そのすべてが必要だった。

  そんな世界で、ひとりの狼族の少年が暮らしていた。

  名前は、透。

  身長は百九十センチ。

  同年代の中では、決して小さくない。

  むしろ、大型級に分類される体格だった。

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  けれど、透は自分の身体に満足していなかった。

  鏡の前に立つ。

  長い手足。

  狼族らしい骨格。

  大きな身体。

  しかし、その身体には、まだ十分な厚みがなかった。

  周囲の獣人たちは、少しずつ身体を大きくしていた。

  筋肉が増える。

  その上に皮下脂肪が蓄積する。

  肩が広がる。

  腕が太くなる。

  腹部に丸みが生まれる。

  背中に厚みが出る。

  頬がふっくらする。

  身体が、少しずつ大きくなっていく。

  透は、そんな姿を見ていた。

  羨ましいと思った。

  自分も、あんなふうになれたらいいと思った。

  子どもの頃から、透は良性肥満に憧れていた。

  大きくなりたかった。

  健康的に太りたかった。

  筋肉だけが目立つ身体ではなく、筋肉があるからこそ生まれる、厚みのある柔らかさが欲しかった。

  脂肪は、この世界では身体の敵ではない。

  健康に蓄えることができれば、身体を守り、エネルギーを蓄え、全身を支える。

  身体全体を調整する器官の一部になる。

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  だから透にとって、太ることは、ただ体重を増やすことではなかった。

  それは、身体を完成させることだった。

  けれど――。

  食べることが、苦手だった。

  すぐに満腹になる。

  一度にたくさん食べられない。

  長い時間をかけて食事を続けることも苦手だった。

  同じ食材を大量に食べることもできない。

  そして、透にはもう一つ理由があった。

  幼い頃、身体が小さかった透は、何度も周囲から言われてきた。

  「もっと食べなさい」

  「食べないと大きくなれないよ」

  「どうしてそんなに食べられないの?」

  誰も、透を傷つけようとしていたわけではない。

  みんな、透のことを心配していた。

  大きくなってほしかった。

  健康になってほしかった。

  けれど、何度も繰り返される言葉は、少しずつ透の中に残っていった。

  食べなければならない。

  残してはいけない。

  もっと食べなければならない。

  食事は、楽しむものではなくなっていった。

  食事は、試験のようだった。

  どれだけ食べられるか。

  どこまで食べれば褒められるか。

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  食べられなければ、失望されるのではないか。

  だから透は、食べることが苦手になった。

  そして、それが一番苦しかった。

  大きくなりたいのに。

  良性肥満になりたいのに。

  そのために必要な食事が、苦手だった。

  そんな透の隣には、幼い頃から一緒に育ってきた豚族の少年がいた。

  蓮。

  透とは、正反対の存在だった。

  蓮は、よく食べた。

  食べることが苦にならない。

  身体も大きくなりやすい。

  食べたものを身体に蓄える能力にも恵まれている。

  周囲の大人たちは、昔から蓮を見て言っていた。

  「将来が楽しみだな」

  「きっと大きくなるぞ」

  「大会選手を目指せるかもしれない」

  蓮自身も、それを当然のように受け止めていた。

  自分は大きくなれる。

  自分は強くなれる。

  自分は、良性肥満の選手になれる。

  透は、そんな蓮の背中を見ていた。

  いつか追いつきたいと思った。

  いつか、隣に立ちたいと思った。

  そしていつか――。

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  同じ大会で、勝負したいと思った。

  けれど、その時の透はまだ知らなかった。

  大きくなれる才能があることと、理想の身体を作れることは、同じではない。

  食べられることと、正しく食べることも同じではない。

  そして、健康的に大きくなるためには、ただ食事量を増やせばいいわけではない。

  身体の状態を知り。

  筋肉を作り。

  食事を選び。

  休息を取り。

  自分の身体が、何を求めているのかを理解する。

  それが必要だった。

  透がそのことを知るのは、もう少し先のことになる。

  彼が、ひとりのトレーナーと出会うまでは。

  食べられない自分を、否定しないトレーナー。

  「もっと食べろ」と命令するのではなく、

  「どうすれば、お前は食べられるようになるのか」

  を考えるトレーナー。

  そして透自身も、まだ知らなかった。

  自分の身体には、生まれつき、特別な才能が眠っていることを。

  筋肉を土台として発達させたあと。

  その上に、健康的な皮下脂肪を蓄える能力。

  脂肪を、ただ増やすのではない。

  身体全体を支えながら、健康的に、理想的に蓄える能力。

  食べることが苦手だった少年は、まだその才能を使えていなかった。

  身体が太れないのではない。

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  身体が成長できないのでもない。

  ただ、必要な材料が届いていなかった。

  そして、透の物語は始まる。

  食べることが苦手な少年が。

  大きくなりたいという願いを抱えたまま。

  自分の身体と向き合い。

  幼馴染の蓮を追いかけ。

  やがて追い越し。

  そして再び追いかけられながら。

  世界で最も大きく、健康的で、美しい身体を競う舞台へ向かっていく物語が。

  これは、ただ太る物語ではない。

  脂肪を敵とする物語でもない。

  身体の一部である脂肪を理解し、自分の身体を理解し、自分自身の理想を探していく物語だ。

  誰かに決められた理想の身体を目指すのではない。

  自分は、どんな身体になりたいのか。

  何を食べたいのか。

  どこまで大きくなりたいのか。

  そして――。

  自分の身体を、自分自身で好きになれるのか。

  その答えを探す物語だ。

  少年はまだ、知らない。

  いつか自分が、世界の頂点で幼馴染と向かい合うことを。

  そのとき、二人は同じ身体を目指していないことを。

  そして、世界で最も大きな舞台に立ったとき。

  透はきっと、こう思うことになる。

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  ――もっと食べたい。

  その言葉を、自分の意思で口にできる日が来ることを。

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