ティトとジーン

  いつも思い出すのは、黒髪の男の子の笑顔。家の中で本を読んでいた私のもとに遊びに来る男の子。名前も知らない男の子は青いポケモンをいつも抱いており、嬉しそうにその頭を撫でていた。

  私は、そんな彼の笑顔が好きだった。

  私の両親は仕事のため、家には居なかった。たまに帰ってきたとしても、すぐに仕事に出かけて行った。

  私の世話をしてくれたのは、おばあちゃんだった。

  いつも優しい笑顔のおばあちゃん、私と男の子のためにクッキーを焼いてくれて、両親の居ない寂しさを打ち消してくれた。男の子の連れてくる青いポケモンもおばあちゃんのクッキーを嬉しそうに食べており、とても幸せで楽しい記憶であった。

  男の子に連れられて、庭や野原も駆け回った。男の子の連れた青いポケモンも嬉しそうに走り回り、私たちはその跡を追った。共に駆け、共に草原を転がり、広い青空を見上げていた。

  男の子はとても正義感が強かった。困っている人がいたら助けに行き、怪我をしたポケモンがいたら、ポケモンセンターまで抱えて行った。小さな背中に宿る大きな正義、私はとても好きだった。

  ある日、男の子と青いポケモンの背を追いかけていた私は、足を滑らせて転けてしまった。突然の衝撃と両膝に広がる痛みのため、私の目には大粒の涙が溜まっていった。私の声を聞いた男の子と青いポケモンは足を止めて振り返ると、驚いた表情で駆け寄ってきた。私の両膝の擦り傷は、今思えば大したものではなかった。しかし、幼児期の私は驚きと痛みで状況を理解しきれず、ただ涙を溢すことしかできなかった。大声を上げて泣く私を見た男の子と青いポケモンは、共に困り顔のまま、互いの顔を見ていた。そして、私を泣き止ませようと男の子は両手で自分の頬を押しつぶし、青いポケモンは舌を大きく出しながら、指で目尻を引き下げた。彼らの行為を見た私だが、泣き止むことができず、ただひたすらに声を上げていた。

  やがて、困り果てた顔をした男の子は、ポケットの中から小さな物を取り出した。

  

  それは、玩具の指輪だった。

  男の子は私の手を取ると、私の人差し指に指輪を嵌めた。太陽の光を浴びて、キラキラと輝く指輪を見た私は瞬く間に泣き止み、指輪をつけた人差し指を太陽に翳した。男の子もまた、ニコニコしながら私を見ると、私に向かって口を開いた。

  「僕が君を守るよ。だから、泣かないでね」

  指輪は薬指に嵌めるものだが、私も男の子もその事を知らない。ただ、私を泣き止ませようと男の子は綺麗な指輪を私に贈ってくれただけに過ぎないと思う。

  青いポケモンは突然泣き止んだ私を見上げると、同じように笑顔になり、黒い房を揺らしながら足下で小躍りしていた。その姿を見た私と男の子もまた、共に嬉しくなり、互いの手を握るとクルクルと回り出した。広い青空の下、涼しげな風が吹き抜ける草原で私と男の子と青いポケモンは笑い声を上げる。夏の草木の放つ匂いが私の脳に刻まれ、思い出として残っていく。

  「また来るよ」

  家に帰った際、男の子は言った。男の子の両親もまた、仕事で多忙な身のため、男の子は親戚の家に身を寄せていたのだ。男の子が両親の下に帰る時期が近づいていたのだ。幼い私は男の子の言葉を聞くと再び泣き出してしまい、男の子とおばあちゃんを困らせてしまった。

  時刻は夕方を過ぎた頃、陽光で指輪を輝かせて私を喜ばせるには、いささか時が遅すぎる頃だった。

  私は男の子の服にしがみ付くと、わんわんと大声を上げながら泣いた。おばあちゃんが私の背中を撫でるが、まるで効果がなかった。そんな私を見た男の子は、少し笑うと指先で自身の頬を掻きながら口を開いた。

  「約束しよ、大人になったら僕のお嫁さんになってね」

  子供同士の約束、玩具の指輪で繋ぎ合う約束、しかし私は男の子の言葉を聞いて飛び上がって喜び、おばあちゃんも微笑ましそうに私達を見ていた。

  その晩、おばあちゃんは「おまじないをかけてあげる」といい、私の指輪を磨いてくれた。

  次の日、男の子は両親の下に帰っていった。

  男の子と再会したのは、暑い夏が過ぎ去り、木枯らしが吹く時期だった。私の両親は、やはり仕事が忙しく、ほとんど私の傍には居なかった。おばあちゃんが私の事を見守っていてくれていたが、それでも寂しさを感じずにはいられなかった。そんな私を見かねたのか、「ポケモンを探しに行こう」と男の子が提案してきた。おばあちゃんも家事で忙しそうにしており、暇を持て余していた私は男の子の提案に同意し、青いポケモンと共に森へ向かった。

  森の中には野生のポケモンが数多くいた。徐々に近づきつつある冬に向けて、木の実や食べ物を貯蔵するために走り回るものもいれば、冬眠のための巣作りに懸命に励むものもいた。冷たい風が吹き抜ける森の中を、私と男の子と青いポケモンは手を繋いで歩いていた。

  夏場の明るい時間帯ならば、そこまで怖くはなかっただろう。しかし、冬が近づきつつある森の中は、いくら見知った場所とはいえ不気味な雰囲気に包まれていた。

  薄暗い森は、大きく口を開いたゲンガーのように見えた。

  私たちに向かってゲンガーが大きく口を開いてる場面を想像した私は、思わず男の子と青いポケモンの手を強く握ってしまった。私の反応に気がついた男の子は「大丈夫、ポケモン達が動き回っているだけだよ」と優しげな口調で私を諭し、歩を進めた。

  冷たい風が私の背中に吹き付けた。

  まるで、森の奥に誘うかのように吹く風の影響で、私の身体は小さく震えた。それが寒さだけによるものでないことは、私自身が一番理解していた。震える私に目を向けた男の子は、自身が着ていたジャンパーを脱ぐと、私の肩にかけてくれた。青いポケモンは立ち止まった私の足下に密着して、「大丈夫だよ」と鼓舞するようであった。ジャンパーの暖かさと青いポケモンの温もりに私は自然と顔を緩め、再度足を動かそうとした。

  左側の草木が揺れた。

  その音を耳にした私は再び身体を震わせ、男の子は私の前に立ち、私を背中に隠すようにした。青いポケモンも男の子の前に立ち、私と男の子を守るように腕を構えた。

  再び草木が揺れた。

  正体不明の存在に私は小さく震えるが、男の子は「大丈夫だよ」と私に声をかけた。青いポケモンも横目で私と男の子を見ると、腕を構えたまま、草木を睨みつけた。少しの間を置き、草木の合間から何かが姿を現した。黒い体毛、靴下のように四肢の先端を彩る青い毛、額には黒と青の入り混じった毛の生えた、狐のようなポケモンだった。そのポケモンの前脚には金属製の棘が刺さっており、ポケモンは歩く度に痛そうな悲鳴を上げていた。

  「…ゾロアだ!」

  ポケモン、いやゾロアの姿を見た男の子が嬉々とした声を上げた。男の子の呼んだ名前を復唱した私は、未だに血が滴り落ちているゾロアの前脚に目を向けると、痛々しそうな生傷のついた前脚を引きずりながら、ゾロアは近づいてきた。私は傷ついたゾロアに同情し、両膝を曲げ屈むと、ゾロアに手を伸ばした。私の姿を見たゾロアは弱々しい鳴き声を上げた。

  次の瞬間、私の手の甲に赤い線が走った。

  ゾロアの前脚に付いていた生傷は一瞬のうちに消え去り、私に素早く接近したゾロアは、私のズボンのポケットに入っていたクッキーを奪い去った。その際にゾロアの爪が私の手の甲に触れ、わずかに皮膚が切れてしまった。男の子は「あっ」と驚いた声を上げ、青いポケモンも握り拳を振るい、ゾロアを追い払った。しかし、ゾロアはケラケラと甲高い笑い声を上げると、そのまま草木の中に姿を消した。

  ゾロアの見せた幻影に男の子は「やられた」と呟いた。そして私の手の甲に目を向けると、大丈夫かと尋ねてきた。

  手の甲に広がるジンジンとした痛みに私の目尻は歪むが、私の口からは安堵の溜息が漏れた。傷付いたゾロアが居なくて良かったからだ。以前は転んだだけで大泣きしていた私が泣き出さなかった事に、男の子と青いポケモンは目を丸くした。存外、強かな私の振る舞いに男の子もまた、安心したように溜息を溢すと、私の手の甲にハンカチを巻いてくれた。

  「野生のポケモンは凶暴だから、あんまり近づいたらダメだよ」

  「エコーは大人しいけどね」と続けて言うと、男の子は青いポケモン、リオルのエコー頭を撫でた。男の子の手の感触に、エコーは嬉しそうに目を細めると、小さな鳴き声を上げた。男の子は私の手を掴むと、「帰ろう」と声を掛けて歩き出した。男の子に手を引かれた私もつられて歩き出したが、肩越しに振り返ると草木の中から覗き見るゾロアの顔が見えた。

  次に男の子と再会したのは、クリスマスの前の日だった。

  子供にとっては一大イベントとも言えるクリスマスを前にして、男の子はそわそわと落ち着かない様子であり、そんな男の子を見ていたエコーも感化されたのか、落ち着かない様子だった。私もサンタクロースにプレゼントをお願いしていたため、次の日に何が貰えるのか、落ち着かず過ごしていた。加えて、その日は両親のスケジュールの調整が効いており、おばあちゃんと共に過ごせる日でもあった。

  その日も庭に積もった雪に塗れて、私と男の子とエコーは遊んでいた。雪だるまを作り、雪玉を投げ合い、冬の1日を楽しんでいた。時には私の顔面に雪玉が当たり、大泣きする私に男の子とエコーは揃って謝っていた。その前日には両親が飲んでいたであろう、苦味の強いコーヒーを誤って飲んでしまい、大泣きしたことなどを、私はすっかり忘れていた。

  冬の思い出となる楽しい光景、そうなるはずだった。

  ふと、男の子が顔を上げると庭先にゾロアが居た。ゾロアは私と男の子の顔を見るとニシシッと意地悪そうな笑みを見せ、ゾロアの姿を見た男の子とエコーは嫌そうな表情をした。少し前にゾロアが私を騙した事を、2人は忘れていなかったのだ。しかし、私はそんなゾロアに嫌な感情を持てずにいた。ゾロアも野生のポケモンなのだ、生きていくために食べ物を集める必要がある。ましてや、冬直前ならば尚更だ。

  私はゾロアに向かって「おいで」と声をかけると、ポケットに入れていたクッキーを差し出した。あの日から、ゾロアに再会したらプレゼントしてあげようと考えていたのだ。ゾロアは唐突な私の動きに目を丸くさせたが、鼻を鳴らすと恐る恐る近づいてきた。食べ物に困る冬の季節、鼻腔を満たすクッキーの甘い香りにゾロアは誘い出されると、私の下に近づいてきた。そして、クッキーを食べると、以前のように引っ掻くこともなく、静かに食べていた。大人しくクッキーを食べるゾロアの姿に男の子とエコーは目を丸くさせると、口を開いた。

  「逃げない野生のポケモンは珍しいよ、好かれたのかな?」

  男の子の言葉に私は笑い顔を浮かべると、ゾロアの顎下を指先で撫でながら「一緒にくる?」と尋ねた。

  私の問いにゾロアは首を傾げると、嬉しそうな声で鳴いた。

  ゾロアの鳴き声に私も口元を緩めると、その黒と青の身体を抱き上げた。私の腕に抱かれたゾロアは甘えるような鳴き声を上げると、私の胸に顔を寄せた。

  大きな音と悲鳴が聞こえた。

  *

  声にならない呻きが漏れた。

  夢から覚醒した私の視界には、寝る前に読んでいた本が映り込んだ。ドキドキっと鼓動の鳴る心臓の動きが体内で広がり、苦味と酸味が喉の奥に広がった。それを意識した直後、私は跳ね起きると近くの袋を手に取り、その中に胃の中身をぶちまけた。プラスチックの匂いで満たされた空間に、胃液が落ちていく。喉の奥に焼けるような痛みが広がり、同時に据えた臭いが微かに漂った。ひとしきり吐いた私はティッシュで口元を拭うと、それを袋に入れて口を閉じた。枕元に置いてあるミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばし、口をつけた。

  口内に温い液体が広がる。

  苦味と酸味が薄くなっていく。

  頭蓋の中に、心臓の動悸の音が木霊する。

  音と共に広がる頭痛に私は顔を顰めると、ゆっくりと身体を起こした。最悪な目覚めにより、二度寝する気など毛頭に無かった。痛みが響く頭に手を当てると、私は寝心地の悪い寝台から身体を起こした。

  狭い室内には寝台とテーブルしかなく、寝台の足下には昨晩脱ぎ捨てた衣服が散らばっていた。

  あまりの惨状に私は溜息を溢すと、寝台に腰掛けたまま、部屋に備え付けてある鏡に目を向けた。鏡面には銀髪のショートカットに褐色の肌、蒼い瞳の見慣れた私の顔が反射していた。吐いた直後ということもあり、私の顔はやつれており、疲れたものであった。

  床が軋む音が聞こえた。

  『大丈夫か?』

  痛みが反響する頭蓋内に男の声が響いた。声の主に目を向けると、そこには黒と紫の体毛に覆われたキツネのような大柄のポケモン、色違いのゾロアークが立っていた。ゾロアークの体重がかかった床板は軋み、情けない音を立てている。長年の相棒であるゾロアーク、ジーンは切れ長の目を細めると、テレパスの力で私に問いかけてきた。ジーンの質問に私は小さく頷くと、ペットボトルに残されたミネラルウォーターを一気に煽った。冷たさを失い、温くなったミネラルウォーターが口内に広がり、胃酸でやられた食道に流れ込んでいく。

  さらさらとした感覚が口内の不快感と酸味を押し流していき、私の気分を慰めてくれる。口内が洗われた私は溜息をつくと、寝台の傍に立つジーンを見上げた。

  「また、あの日の夢を見たわ」

  私の返事を聞いたジーンは辛そうに目尻を下げると、何も言わずに私の頭を撫でた。かつては私が抱き上げることができたジーンの身体は、逆に私が抱き抱えられるほどまでに進化している。ジーンの長い爪が私の視界の端を過ぎり、ふと視線を手の甲に向けた。

  ジーンの爪による傷痕は、既に消え去っていた。

  あの日の記憶が過去のものである事を再認識した私は、寝台からゆっくりと立ち上がるとジーンの身体にもたれかかった。平均的なゾロアークよりも大柄なジーンの身体は、私を軽々と支えることができる。ジーンの体温を肌で感じながら、私は目を閉じた。

  狭い室内に、壁掛け時計の針が動く音のみが響く。

  悪夢のために消耗しきっている私を見下ろしたジーンは苦い表情を浮かべると、大きな口を動かした。

  『…とりあえず、服を着ろ。ティト』

  ジーンから名前を呼ばれた私、ティターニアは身体を起こすと、改めて自身の格好を見た。外気温の高さにより、下着しか身に付けていないため、褐色の肌が大胆にも露出していた。ティトはジーンに目を向けると、ジーンの胴体に抱きついた。

  「…変態」

  ティトの言葉を聞いたジーンは溜息を溢すと、『ほざいてろ、小娘』と言い放った。そしてジーンは寝台に放置されている薄手のカーディガンを手に取ると、それをティトの肩にかけた。

  『肌を出し過ぎだ』

  ジーンの小言を聞いたティトは苦笑すると、カーディガンを羽織り、ショートパンツを履いた。そしてビニール袋をゴミ箱に捨てると、化粧ポーチを手に取り、洗面台へと向かった。身だしなみを手早く整えるティトの後ろ姿を見届けたジーンは呆れ顔で微かな笑みを浮かべると、彼女が散らかした室内を手早く片付け始めた。

  *

  身だしなみを整えて、黒いカッターシャツとロングのパンツを身に纏い、黒いカラーコンタクトと黒髪のウィッグを身につけて、更に帽子を深く被ったティトは、通常色のバシャーモに化けたジーンを連れて、ポケモンセンターの受付でチェックアウトの手続きをしていた。受付のスタッフにルームキーを渡し、チェックイン時に預けていたトレーナーカードを受け取ると、お決まりの言葉を聞いていた。

  「…では手続きは完了しました。部屋の物品紛失や破損などがあれば、トレーナーカードに登録してある銀行口座から後日、代金が支払われます。また忘れ物などがございましたら、着払いにて指定の宛先に送るか有償処理となります。ご了承ください」

  受付スタッフの言葉にティトは「わかりました」と短く応えると、ジーンを連れてソファに腰掛けた。センター内の総合ラウンジには宿泊していたトレーナーやポケモンを回復させに来たトレーナーの姿が少しづつ増えてきている。そのほとんどは10-20歳前後の旅のトレーナーが占めている。中には20代以上のトレーナーもいるが、仕事をしている社会人ばかりだ。ポケモンセンター内にはシンプルな簡易宿泊施設と入浴設備、レストランなどがある。それらは旅のトレーナーの手助けになるし、社会人トレーナーのホテル代わりにもなる。

  ティトの近くに座っているスーツ姿のビジネスマンも手にした缶コーヒーを飲み干すと、こいぬポケモンのガーディを引き連れて歩いて行った。ビジネスマンが座っていたスペースにジーンも腰掛けると、ティトの差し出したペットボトルに口をつけた。自販機でキンキンに冷やされた緑茶が、ジーンの喉を潤す。

  「なにか食べる?」

  ティトの問いに対して、ジーンは首を左右に振った。周囲には人目もあるため、ジーンはテレパスを使わないで応えた。その返答にティトは「そう」と小さく応えると、彼の手からペットボトルを奪い去り、自身の喉を潤した。

  【…では次のニュースです】

  総合ラウンジに設置してあるテレビから全国の天気予報に続いて、ニュース速報が流れ始めた。

  【現地時間20時ごろ、カロス地方ミアレシティのノースサイドストリート付近にあるカロス劇場にて、発砲事件がありました】

  理知的な眼鏡を掛けた女性アナウンサーの言葉が総合ラウンジに広がるが、旅のトレーナーの多くは見向きもしない。社会人などの大人はニュースを横目で見て、我関せずといった表情で視線を手元のスマートフォンに向けた。

  【現地警察とメディアによると、武装した複数人とポケモンがオペラの公演中であった劇場を襲撃し、来訪客や劇場関係者などに向かって発砲したとのことです。現状の被害状況は死者95名、負傷者148名とのことです。犯行グループは警察により全員射殺されたとのことです】

  ペットボトルの緑茶を飲み干したティトは、空き容器をゴミ箱に捨てようと立ち上がった。

  【…え〜、ただいま入りました速報です。どうやら犯行グループのポケモンが現場から逃走したようですが、カロス地方ポケモンレンジャーにより捕獲されたとの事です】

  ティトの動きが止まった。しかし、彼女はすぐに歩き出した。

  【…ポケモンレンジャーが犯行グループの連れたポケモンを捕獲したとなると、身柄は警察に渡るのでしょうか】

  【どうでしょうね…警察や軍はテロ攻撃に対する初動が遅れたとの話も聞きますからね…現に100人近い死者が出た以上、彼らにポケモンの管理までできるかは甚だ疑問ですね】

  女性アナウンサーの質問に肥満体型の男性コメンテーターは応えると、警察軍を批難し、ポケモンレンジャーを擁護するような言葉を自然と口に出した。コメンテーターの言葉を聞いた女性アナウンサーは頷くと、視線をカメラに戻した。

  【昨今ではドローンやポケモンに爆弾を持たせた自爆攻撃をするテロ組織も現れていると聞きますが…どう思われますか?】

  【そういった手合いに対処するのが警察や軍の仕事ですが、昨今の状況を見ていると…彼らが十分に対応できる能力を有するかは疑問を抱きますね。今回の件にしても、結局はレンジャーが逃げたポケモンを捕獲している以上、彼らの尻拭いをしている訳でしょう。そろそろポケモンレンジャーにも治安維持に関する権限拡大が必要な時代なのではないですかね】

  根拠のない、個人の感想を男は口に出した。しかし、それはコメンテーターの言葉として電波に乗り、全国に広がっていく。ティトはテレビに映るコメンテーターと女性アナウンサーを横目で見ると、小さく舌打ちした。ジーンも同様の感情を抱いているのか、目を細めるとテレビの画面を睨みつけていた。

  「まったく、海外は怖いねぇ」

  ティトの近くに座っている40代くらいの女性はそう呟くと、子供の手を引いて、表通りへと出て行った。その後ろ姿を目で追ったティトは、空のペットボトルをゴミ箱に捨てた。

  

  女性と子供とすれ違うように、人影がセンター内に入ってきた。災害救助などで目立つようにデザインされたオレンジ色の制服で身体を包んだ男女、ポケモンレンジャーの隊員達は慣れた足取りでセンター内を歩くと、総合受付に居るスタッフに声をかけた。

  彼らが傍を通る直前、ティトはゴミ箱の下に落ちていた誰かが捨てた空き缶を捨てるために、屈んだ。それはごく自然な動作であったが、なにも空き缶を捨てるために屈んだのではない。

  ポケモンレンジャーの隊員達の視界から消えるために、わざわざ空き缶を拾っていたのだ。

  そうしてレンジャー隊員達の視界から自然と消えたティトは、空き缶を捨てながら彼らの会話を盗み聞きしていた。「ちょうしはどうですか?」「いつも通りですよ」というレンジャー隊員と老齢のセンター職員の会話、続けて隊員はスマートフォンを取り出すと、老齢のセンター職員に画面を見せた。

  「ところで、この少女を見た事はありますか?」

  男性隊員の差し出したスマートフォンの画面、それを見た老齢のセンター職員は老眼のためか、目を細めた。彼の反応を見た女性隊員は「あぁ」と納得したように声を漏らすと、画面に記載された情報を口ずさんだ。

  「ティターニア・ノーマン博士、ウイルスと遺伝子が専門のポケモンレンジャー医療部門の化学者です。年齢は16歳、身長170cm、体重55kg、痩せ型。銀髪と褐色の肌、蒼い眼が特徴です。この近くのポケモンセンターで似た人物を見たと情報があったのですが…」

  女性隊員の言葉を聞いたティトは「人の体重を漏らすな」と心の中で毒づいた。背後にいるティトに気づきもしない隊員達は、老齢のセンター職員に話し続けた。

  「1番の特徴は首の左側に古傷があり、また色違いのゾロアークを連れている点です」

  男性隊員の言葉を聞いたバシャーモ姿のジーンは目を伏せると、傍に歩み寄ってきたティトの姿を彼らの視界から隠すように歩き出した。背後で歩き去るティトとジーンの姿に気づきもしない隊員達と老齢のセンター職員は会話を続ける。

  「別嬪さんだねぇ…この子がどうかしたのかい?」

  職員の質問に女性隊員は澱みなく答えた。

  「実はレンジャー施設から行方不明になり…家族からの捜索願いが出ています」

  「そこで…こちらのセンターにも捜索願いを掲示したいのですが…」

  女性隊員に続けて、男性隊員が説明した。彼らの話に納得したのか、老齢のセンター職員は「いいですよ」と応えた。

  「それじゃあ、掲示板の1番目立つところに貼っておきますよ」

  偽造のトレーナーカードを受け取り、さらに彼らの会話を聞いたティトとジーンは、慌てた様子もなくセンターを後にした。センターに隣接する交番の掲示板にも同様の捜索願いが掲示されていた。

  『…ティト』

  交番を通り過ぎ、表通りの歩道を歩いているティトに向かって、ジーンはテレパスで話しかけた。彼の声にティトは小さく頷くと、小声を漏らした。

  「…交番にまで手が回っている…レンジャーが警察庁に働きかけたのか」

  『或いは、警察庁に干渉できる政治家を使ったか』

  どちらにせよ、ティトとジーンには好ましくない状況であった。徐々に包囲網が張られつつある事を実感した2人は、人混みに溶けつつ歩いて行った。

  彼らが去った後のポケモンセンター総合ラウンジに設置してあるテレビ、そこに映る眼鏡を掛けた女性アナウンサーが口を開いた。

  【次のニュースです。ポケモンレンジャー極東本部管轄下の施設で起きたガス爆発事故について、本日ポケモンレンジャー極東本部にて記者会見が…】

  *

  『で?』

  表通りに面したカフェのテラス席に座った私は、グラスに注がれたミネラルウォーターを飲みながらジーンの問いかけに「で?」と同じように返した。パンケーキとカプチーノで朝食を済ませた私は、器用にナイフとフォークを使い、パンケーキを食べているジーンの顔を見た。

  私の反応にジーンは苦い表情を浮かべ、テレパスの声を低くした。

  『連中の言葉を借りると、お前の目撃情報があるみたいだが…』

  ジーンの質問の意図を理解したティトは「あぁ」と短く応えると、残りのパンケーキを小さく切り分けながら答えた。

  「今から慌てて逃げ出したとしても、逆に目立つでしょう。それに…さっきの二人組も私のことを見落としていたようだし…」

  『今は沈黙に徹するべき、か』

  「ん…なにより、私がピンチになったらアンタが助けてくれるでしょう?」

  ニヤリと笑いながら尋ねてくるティトに対して、ジーンは呆れたように息を吐くと、『当たり前だ』と返した。彼の返答を聞いたティトは満足そうに微笑むと、残りのパンケーキを口に含んだ。

  店内に設置されているテレビの画面がCMを映し出した。

  【君もポケモンレンジャーになろう!】

  大きな文字と共に、日焼けした健康的な青年が、白い歯を見せながら親指を立て、ウインクする映像が映し出された。オレンジ色の制服と日焼けした肌、刈り込まれたヘアが見ている者に好印象を与えるが、映像を見たティトは不愉快そうな表情でミネラルウォーターを飲み干した。それはジーンも同様であり、侮蔑の眼差しをテレビに向けた。

  ポケモンレンジャー。

  元は民間のNPOとして始めた活動が、少しずつ評価され、今では国連傘下のNGOとして活動している。もっとも、権限や予算案などの重要事項はポケモンレンジャーが独自に決めることができるため、実質的な独立機関としての色が強い。【ポケモンと自然を保護する】ことをお題目としており、各国の企業や民間団体、政府の支援の下、成立している組織である。災害救助でも活躍することがあり、オレンジ色の制服がその目的を如実に表している。加えて、ポケモンレンジャーにはポケモン保護を名目とした戦闘部隊もあり、こちらは青と白の迷彩服を身につけている。

  テレビに映っている隊員はオレンジ色の制服のため、一般的なポケモンレンジャー隊員といえる。子供達の憧れ、正義のヒーロー、暴力的な面のある軍や警察とは異なり、保護するための組織。一般大衆からは憧れと尊敬の眼差しを贈られる組織である。

  しかし、その内部に居たティトは知っていた。

  どんなに綺麗事を並べようとも、組織には闇の部分があるという事を。

  カフェの傍の歩道をポケモンレンジャーの別の隊員が歩いていた。周囲にはオレンジ色の制服がちらほら見えるようになり、パンケーキを食べ尽くしたジーンはチラリとティトを見た。

  「…潮時ね」

  ティトはそう呟くと、伝票を片手に店内を歩き、会計を済ませた。周囲には旅のトレーナーや働くサラリーマン、学生などの姿もあり、ティトとジーンの姿は自然と溶け込んでいた。

  ここは日本、カントー地方ヤマブキシティ。この国の首都にして、特別行政区である霞ヶ関のすぐ近くである。ポケモンレンジャー極東本部も近くにあり、彼らのお膝元ともいえる場所だ。それなのに、ティトとジーンは威風堂々とした足取りで街中を歩き、ポケモンレンジャーの隊員達とすれ違っていた。

  『灯台下暗し、だな』

  ポツリと呟いたジーンの一言に、ティトはクスリと笑うとバシャーモの姿に化けている彼の手を握った。ジーンもまた、ティトの手を握り返すと、彼女の首元を見た。

  ティトの左側の首元には、化粧で隠された古い傷があった。

  『…アイツに、会えると良いな』

  ジーンのテレパスに対して、ティトは小さく頷いた。

  *

  大きな音と悲鳴が聞こえた。

  それを耳にしたティトと黒髪の男の子は、後のジーンと呼ばれるゾロアとリオルのエコーと共に、雪の降り積もった庭先で足を止めた。家の中から聞こえた音と悲鳴を聞いた男の子は怯えた目を浮かべたが、すぐにティトとジーンを見下ろすと、「隠れていて」と雪だるまの陰を指さした。ティトは彼の言葉に素直に応じると、ジーンを抱き抱えて雪だるまの陰に隠れた。男の子はそれを見届けると、エコーを引き連れてゆっくりと歩き出した。

  サクッ、サクッと雪を踏みつける音が庭に響く。

  男の子とエコーは緊張した表情で家に近づくと、庭に面している勝手口をゆっくりと開けた。つい先ほどまで、家の中にはティトの両親と祖母の声が聞こえていたが、何も聞こえない。だが、台所から流れてくる赤い線に男の子は気がついた。赤い線の先を恐る恐る見ると、そこにはティトの祖母が倒れていた。背中に赤い染みが広がっており、火薬の臭いが微かに漂っていた。

  その光景を見た男の子は絶句し、思わず後ずさった。

  男の子の背中が勝手口のドアにぶつかり、ガチャンと金属音が響いた。直後、ダイニングに置いてあるテーブルの陰に屈み込んでいた人影が姿を現した。覆面を被り、黒い金属製の物体を手にした人影は、男の子の存在に気がつくと、ゆっくりと歩み寄ってきた。

  覆面の人影の向こう、ダイニングの床にはティトの両親の姿があった。2人とも頭部から出血しており、床には大量の血痕と白い何かが飛び散っている。

  まだ幼い男の子には、何が起きたか理解する事ができなかった。

  人影は固まっている男の子に向かって黒い金属製の物体、消音器の付いた拳銃を構えると、躊躇なく引き金を引いた。しかし、リオルのエコーが男の子を押し倒したことで、男の子に銃弾は当たらず、庭の方に飛んでいった。火薬の臭い、そして銃声から人影が敵だと判断したエコーは男に向かって駆け出した。

  「エコーっ‼︎」

  男の子は思わず大声でエコーの名前を呼んだが、彼女は止まらずに駆けると、人影の持つ拳銃を叩き落とそうとした。エコーの拳が人影に届く寸前、2発目の銃弾が放たれた。銃弾はエコーの頭部の右側を掠めると、壁に命中した。エコーの右目が鮮血で覆われるが、彼女は一向に気にせず、人影の持つ拳銃を叩き落とした。人影は右手に走る痛みに小さな呻き声を漏らしたが、左手でエコーの首を掴むと、彼女を床に叩きつけた。

  キッチンに、エコーの悲鳴が響いた。

  人影は右手を腰に回すと、肉厚なナイフを取り出して、それを高く掲げた。そして、ナイフの切先をエコーに向けると、それを勢いよく振り下ろした。

  銃声が響いた。

  右肩に衝撃が走り、人影は大きく仰け反り、エコーの首から左手を離してしまった。その隙にエコーは人影の胴体を蹴り飛ばすと、勝手口に立っている男の子の傍に駆け寄った。

  男の子の傍には、エコーの叩き落とした拳銃と空薬莢が落ちており、それらを見た人影は右肩を抑えながら立ち上がった。まだ小さな男の子が見様見真似で拳銃を使い、それを命中させるとは。震える男の子の手が落とした拳銃を握り、再度人影に銃口を向けた。それを見た人影は踵を返すと、右肩の傷口を圧迫したまま走り去った。

  キッチンにエコーの唸り声が微かに響いた。

  突然の出来事に男の子は膝から崩れ落ち、目尻から大粒の涙を溢した。そんな彼を見上げたエコーは右目が血塗れになっているのを無視し、彼を励まそうと鳴き声をあげた。それでも男の子は泣き止む事ができず、涙と鼻水で顔面を汚していた。

  ゾロア、ジーンの鳴き声が聞こえた。

  男の子とエコーが鳴き声が聞こえた方を見ると、庭先にある雪だるまの付近が赤く染まっていた。雪だるまの赤い染み、そして雪だるまの向こうに誰が居たのかを思い出した男の子は、泣きっ面のまま、半狂乱になりながら勝手口から飛び出した。雪の中を駆け抜けると、雪だるまの傍まで行き、そこに隠れていたティトに目を向けた。

  ティトは左の首から出血しており、雪に倒れたまま、震えていた。彼女の傍にはジーンが立っており、心配そうに大声をあげていた。人影が放った1発目の銃弾は雪だるまを貫通すると、隠れていたティトの首を掠めたのだ。溢れ出すティトの血液と赤く染まる雪を見た男の子は悲鳴を上げると、助けを求めようと周りを見回した。

  しかし、家の中に居たティトの両親と祖母は人影により命を奪われており、周囲は雪が降り、人影すらなかった。涙と鼻水で顔面を汚した男の子はひたすらに悲鳴を上げ続けた。

  救急や警察に助けを求める方法も、救命処置の方法も男の子は知らなかったのだ。それゆえに、男の子は年相応の子供のように泣き叫び、己の無力を噛み締めていた。

  ティトの呼吸が弱くなる。

  その光景を目の当たりにした男の子は、何もできずに、大声を上げていた。

  男の子の視界の端に、光が見えた。

  *

  微かな呻き声を漏らし、青年は目を覚ました。

  座席は微かに揺れており、甲高い電子音が響いてくる。青年の座る座席の脇を客室乗務員が歩いて行き、シートベルトの締め直しや座席の背もたれテーブルを元の位置に戻すように声掛けしている。青年は微かに汗ばんだ首元をハンカチで拭うと、それをポケットにしまった。そしてグラスに入ったアイスコーヒーを飲み干すと、客室乗務員にグラスを手渡した。

  カロス地方ミアレ国際空港から離陸し、カントー地方ヤマブキ国際空港に着陸する国際線のフライトは、ようやく終わりを迎えようとしていた。

  長時間のフライトに青年は疲れた表情をしていた。柔らかな座席と充実した機内サービスが無ければ、より疲労が蓄積していたのは明らかだった。青年は仕事とはいえ、経費でビジネスクラスに乗れた事に感謝しつつ、夢の内容を思い出した。

  10年前のクリスマスの記憶だった。

  幼馴染の女の子と遊んでいたところ、強盗に襲われた時の記憶。当時は無我夢中で強盗に逆らい、なんとか命は助かった。しかし、女の子は流れ弾に当たり、重傷を負った。

  助けを呼ぶ方法も、手当の方法も知らなかった。

  ただ泣く事しかできなかった青年だったが、直後に父親が車で迎えに来たため、女の子を病院へ運ぶ事ができた。それから後のことは、あまり覚えていなかった。たくさんの警察官が女の子の家を捜査し、テレビでも連日報道された。しかし、時間の経過と共に人々の記憶から薄れていき、覚えている人も一握りである。

  青年は微かに震える手で目元を拭うと、首から下げたセキュリティポーチに触れた。ポーチ内には財布やパスポート、身分証明書が入っており、その中には青年のIDカードも入っていた。

  国際警察組織犯罪対策課分析補佐官、シド。

  それが青年の名前だった。もっとも、組織犯罪対策課という危険な仕事に就いているため、【シド】は国際警察から与えられた偽名であり、その偽名を元にIDとパスポートも作られていた。シドはセキュリティポーチ内の物品を確認すると、小さく息を吐き、機内を見渡した。

  客室はほぼ満席、多くがカロス地方からカントー地方に渡るビジネスマンが乗っており、後方のエコノミークラスには家族連れや学生など多種多様な人の姿がある。周囲に怪しい人影が無いことを確認したシドは、着陸準備に入ったという機内アナウンスを耳にすると、隣からの呼びかけに反応した。

  「シド君」

  シドの左隣のワイドシートには国際警察組織犯罪対策課主任捜査官を務める黒髪と太眉、大きな黒い瞳が特徴の中年男性、コードネーム【ハンサム】が座っていた。もっとも、ハンサムというコードネームは国際警察内部で使われるものであり、現在は【サトウ】という対外的な偽名を使っている。

  ハンサムの問いかけにシドは「はい」と応えると、彼の顔を見た。角張った頬骨がうっすらと浮かぶハンサムは、目を閉じたまま口を動かした。

  「あまり緊張しない方がいい、飛行機酔いするよ」

  そう言いながらハンサムは左指で自身の目元をトントンと叩き、続けて耳をトントンと叩いた。彼の右人差し指は周囲から見えないように座席後方を向き、続けて2本の指でVサインをした。

  それを視認したシドは「酔い止めを飲んできます」とハンサムに声をかけて、席を立った。シートベルト着用サインはまだ点灯しておらず、着陸前にトイレを済ませたい2-3人の搭乗客達の列が、トイレ前にできていた。

  前方のトイレが混んでいることを視認したシドは溜息をこぼすと、後方のトイレに向かって歩き出した。揺れる機内でシドは座席毎の敷居に掴まりながら、ハンサムの座る座席の2列後ろ、そこには1人の白人男性が座っており、手には英字新聞があった。彼は新聞越しにシドを見ていたが、彼がトイレに行くために歩いてきたため、視線を新聞に落とした。白人男性の脇を通り抜けたシドはトイレに入り用を足すと、酔い止めを飲んでから座席に戻った。

  その際、白人男性の座席テーブルに置いてあるタバコが見えた。機内にタバコとライターの持ち込みは可能だが、全席禁煙の長時間のフライトは、喫煙者にとっては生殺しであった。現に白人男性も着陸後はすぐに喫煙所に行けるようにテーブル上にタバコとライターを置いており、近くにはコーヒーの空きグラスもあった。

  タバコは、カロス地方で販売されている銘柄であった。

  シドは座席に戻ると、目を閉じているハンサムに向かって口を開いた。

  「離陸前に食べたバゲット、酷い味でしたね」

  シドの言葉にハンサムは目を閉じたまま、眉根を寄せて「そうだろう」と答えた。

  「私はバゲットが嫌いでね、やはりおにぎりと梅干しが良い」

  「…沢庵とお味噌汁も欲しいですね」

  シドの同意に対してハンサムは「ククッ」と小さな笑い声を漏らした。彼は閉じていた目を開くと、右隣のワイドシートに腰掛けるシドを横目で見た。

  シドの指はテーブル上を滑っており、それを盗み見たハンサムはシドからの4文字のアルファベットの問いに対して、微かに頷いた。

  「それなら、美味しいおにぎりを出す店があるから、そこに行こうか。店内は清潔で掃除が行き届いているから、衛生面も安心だ」

  ハンサムの提案にシドは「良いですね」と応えると、彼の懐に目を向けた。ハンサムの左懐には搭乗手続きの際に申請して、シーリングテープの貼られた拳銃が収められていた。弾数と拳銃の種類を申請し、黄と黒の2色で塗られたシーリングテープは、トリガーと弾倉に封をしており、緊急時以外で機内で封を破った際には、高額の罰金が課せられることになっている。

  シドは知っていた、ハンサムがポケモンを引き連れず、拳銃と体術、己の頭で戦ってきたことを。

  かつてはハンサムも相棒といえるポケモンを連れていたが、ある任務で殉職した。一方、シドもまた、雌のルカリオのエコーを連れているが、拳銃に関してはからっきしだめであった。10年前のクリスマスイブの記憶が忘れられず、拳銃を握るだけで吐き気と眩暈がしたのだ。

  片やポケモンを連れていないベテラン捜査官、片や拳銃を扱えない若手分析官、ちぐはぐなコンビの乗る飛行機の機内で、シートベルトの着用サインが点灯した。

  *

  カフェを後にしたティトとジーンはヤマブキシティの中心街を抜けると、港湾都市クチバシティに繋がる道を徒歩で歩いていた。川沿いの草地を歩き、頭上に広がる青空を仰いだバシャーモ、いやゾロアークのジーンは隣を歩くティトの手を握った。彼の手の感覚にティトは「くすぐったいよ」と返すと、そのまま手を繋いで歩き続けた。

  川の流れに身を任せて、何匹もの水ポケモンが泳いでいる。草地の中には草タイプのポケモンの姿もあり、夏の太陽を満遍なく浴びていた。ティトは帽子越しに暑い夏の陽光を見上げると、目を細めた。

  「あっつぃ…」

  ティトの言葉を聞いたジーンは『だろうなぁ』と言いながら彼女を見た。ティトの全身は黒いシャツに黒いパンツ、黒い帽子に黒いウィッグと、熱を吸収しやすい格好をしていた。全身真っ黒な、まるで影のような姿にジーンは苦笑いを浮かべると、彼女の手を引いて、自身の陰に入るように促した。ティトはジーンの好意に甘えると、彼の隣を歩き続けた。

  ティトの腰に巻かれているボールホルダーが微かに揺れた。

  心地よい夏の光に誘われたのだろうか、ボールの中のポケモンは自身を外に出すように訴えるが、ティトは「トランスは目立つから我慢よ」と言い、指先でボールを撫でた。彼女の言葉を理解したボールの中のポケモン、トランスは大人しくなり、ホルダーが揺れるのが収まった。

  『…ティト』

  ふと、ジーンが声をかけた。彼の呼びかけに反応したティトは、続けてジーンの視線を追うと、クチバシティに続く道に多くの人影が見えた。

  多くの人影、地元警察とポケモンレンジャーが敷設した簡易の検問所の待機列だった。

  ヤマブキシティと同様にポケモンレンジャーが警察庁に圧力をかけたのだろうか。多くのトレーナーは素直にトレーナーカードやIDカードを提示し、検問所を通過している。ポケモンレンジャーの隊員だけなら反感を買ったかもしれないが、公的機関である警察官の姿がある以上、反抗する者はほとんどいない。

  その光景を見たティトは、ポケットに入れてある偽造のトレーナーカードを握り締め、待機列の最後尾に並んだ。ティトの背後にジーンも続き、その姿を見た若いトレーナーが「バシャーモだ」と憧れの視線を向けていた。

  待機列は少しずつ前に進み、道中でティトの視界にある人物が映り込んだ。日焼けした肌に引き締まった体躯、赤い髪に赤い瞳の隊員は検問所を指揮しており、近くの隊員にてきぱきと指示を出している。そして、検問に協力したトレーナーには一人一人に感謝の言葉を述べて、礼儀良く送り出している。

  20代後半から30代前半くらいの見覚えのある赤髪の隊員、その姿を見たティトは自ずと目を伏せると、指先が微かに震えるのを感じた。

  『あの男はレンジャー教官の…』

  ポケモンレンジャー戦闘部隊の教官にして凄腕のトレーナーでもある隊員、コウサカを目の当たりにし、ティトとジーンの警戒心は急激に強くなった。一般隊員だけでなく、警察や教官クラスを投入していることからも、ポケモンレンジャーがティトの追跡に本気を出しているのが伺える。

  「次の方、どうぞ」

  ポケモンレンジャーの若い隊員がティトを呼んだ。彼女はゆっくりと歩き出し、コウサカの前に立った。青と白の迷彩服を着ているコウサカは、差し出されたトレーナーカードを受け取ると、ティトに向かって「帽子を取ってください」と低めの声を発した。ティトとコウサカは互いのことを知っているため、黒いウィッグと黒いカラーコンタクトで誤魔化せられるはずもない。かといって、帽子を被ったままでは怪しまれる。

  覚悟を決めたティトは、ゆっくりと帽子を取った。

  「…」

  帽子の下にあるティトの顔とトレーナーカードの顔写真を比較したコウサカは、やがてティトに対して深くお辞儀をすると、「失礼しました」と謝罪した。彼の目の前に立つティトの顔には火傷の痕があり、トレーナーカードの写真にも同じ傷痕が付いている。

  ティトの帽子を火傷の痕を隠すためと誤認したコウサカは素直に謝罪し、それに対してティトは閉口したまま小さく頷いた。

  そして、ティトとジーンは検問所を抜けると、クチバシティに向けて歩き出した。

  検問所から離れ、人の声が聞こえなくなる距離まで来た時、ティトは小さく呟いた。

  「…ナイス」

  彼女の声にジーンはニヤリと笑うと、ティトの顔とトレーナーカードに刻まれた火傷の痕、いやジーンの生み出した幻影を消した。阿吽の呼吸でコウサカやポケモンレンジャーの隊員、警察官の目を騙したジーンは『楽勝だ』と応えると、ティトと拳をぶつけ合った。

  クチバシティは、目の前だった。

  ジーン『ところで、トランスの飯は?』

  ティト「あっ」