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俺——根古屋 湊(ねこや みなと)は実家に続く、田舎道を一人歩いていた。
何年ぶりの帰省だろうか。
まばらにしか街灯がない田舎の夜道は、どこまでも暗くて静かだ。耳が拾うのは、風に揺れる木々のざわめきと、自分の靴がアスファルトを叩く音だけ。鼻を掠めるのは都会のコンクリートの匂いではなく、湿った土と青臭い草の匂い。
どれだけの月日が経っても、この町に漂う空気は俺を息苦しくさせる。逃げるように上京して以来、ずっと帰ることを避けてきた。ここにいると、どうしても「あの時」のことを思い出してしまうからだ。
晴真(はるま)兄ちゃん。
俺より二つ年上の、バーニーズ・マウンテン・ドッグの獣人。太陽みたいによく笑って、いつも俺の後ろをついて歩いて、甘やかしてくれた。俺にとって、絶対の味方であり、一番大好きな「お兄ちゃん」だった。
あの日までは。
歩きながら、ふと見上げた夜空には星が痛いほど瞬いていた。あの夜も、こんな風に晴れた夜だった。
あの時期、晴真兄ちゃんは自分の身体に訪れた初めての発情期に戸惑い、俺を傷つけないように必死に遠ざけようとしていた。でも、当時の俺にはそんな知識はなくて、ただ急に冷たくなった彼が理解できず、寂しかったんだ。「なんで避けるの」と、嫌がる彼にしつこく付きまとって、無理やりちょっかいを出し続けてしまった。
それが、ギリギリで保っていた彼の理性をぶっ壊してしまった。
いつも優しかった彼が、突然獣のようなうなり声を上げて俺を床に押さえつけた。圧倒的な体格差と、怒っているのか苦しんでいるのかもわからない、ひどく熱に浮かされたような瞳。
当時の俺には、同性に対する恋愛感情はおろか、発情期ついての理解も足りていなかった。突然の暴力的な力と得体の知れない恐怖にパニックに陥った俺は、「やめて、気持ち悪い!」と叫んで、必死に抵抗して大好きなはずの彼の顔に思いきり爪を立てたのだ。
運が悪かったとしか言いようがない。衣服が乱れ、濃密な獣のフェロモンが充満する凄惨な現場を、相手の親に見られてしまった。
混乱した俺と、放心状態になった晴真兄ちゃん。結局、その場は親によって引き離され、その日のうちに俺の両親にも事態が知れ渡ってしまった。
両親同士の話し合いは重苦しいものだった。だが、「何も知らずにしつこくちょっかいを出したこっちも悪かった」と俺の両親が頭を下げたことで、大人たちの間ではなんとか折り合いはついた。
けれど、ここは狭くて閉鎖的な田舎町だ。
人の口に戸は立てられない。「あの家の息子が、同性の幼馴染を襲ったらしい」という尾鰭のついた噂は、あっという間に町中に広まった。
好奇の目と心無い陰口に晒され、晴真兄ちゃんは完全に孤立してしまった。
俺自身も、ひどい混乱の中にいた。彼が向けた熱の正体も、自分が彼をどう思っていたのかもわからないまま、ただ傷つけてしまったことへの恐怖と罪悪感に苛まれていた。顔を合わせることもできないまま、彼は部屋に引きこもるようになり、俺は逃げるようにこの町から進学して地元を離れた。
今ならわかる。あれは彼なりの、不器用で必死な愛情表現だったのだと。彼が必死に俺を遠ざけようとしていたのは、俺を守るためだったのに。
俺の無知と激しい拒絶が、大好きな晴真兄ちゃんの心を決定的に壊してしまった。彼にあんな事をさせてしまったのは、他でもない俺だ。
ここに帰ると、何度も思い出してしまう。後悔と自責の念に押し潰されそうになる。行き場のない感情が胸の奥でドロドロと渦を巻く。
どんなに悔やんでも、もうあの太陽みたいな笑顔には二度と会えない。胸を掻き毟りたいほどの痛みに、俺はただギュッと目を閉じた。
——カサッ。
背後の空気が不自然に揺れた。
とっさに振り返るよりも早く、脇腹に熱くて鈍い衝撃が走った。
「がっ……!」
何が起きたのか理解する間もなく、俺は無様な姿勢で地面に叩きつけられていた。直後、凄まじい重量がのしかかってくる。
「お前のせいだ……お前の、せいでっ!!」
馬乗りになった黒い影が、泥を吐くような声で叫びながら、俺の腹に何度も何度も刃物を突き立ててきた。
街灯の頼りない光が、フードの奥の顔を照らし出す。
息を呑んだ。
不摂生で膨れ上がった輪郭。不自然に荒い息を吐きながら揺れる、手入れのされていないボサボサの、黒や茶色が混ざった毛並み。いつも俺を安心させてくれた、あの優しい笑顔はどこにもなかった。
けれど、どれだけ姿形が変わり果てていても、俺にはすぐに彼だと分かった。
「……ひ、さし……ぶり……だ、ね……晴真、にぃ……ちゃん……」
口の中に込み上げた血を吐き出しながら微笑むと、凶行に及んでいた巨体がビクリと跳ね、狼狽えたように動きを止めた。
自分でも内心驚いていた。思わず口から出たのは、叫び声でも、罵倒でもなく、久しぶりに会えた幼馴染への何気ない挨拶だった。
腹を何度も刺されているというのに、激しい痛みは感じない。ただ、変わり果ててしまったかつての「兄ちゃん」に対する途方もない罪悪感と、どうしようもない愛おしさだけが、俺の胸をぎゅうぎゅうと締め付けていた。
震える手を伸ばし、晴真兄ちゃんの頬に触れる。
(……ごめん……全部、俺のせいだ……)
謝罪の言葉は口には出さなかった。これまで何もしてこなかったのだ。今更、死に際に謝るのは自分勝手過ぎると思った。
あの時、逃げずに会いに行っていれば、こんな事にはならなかっただろうか。いろんな「たられば」が頭に浮かんでは消えていく。
大量の血が流れ出たせいか、急速に視界の端が黒く塗りつぶされていく。腕の力が抜けて地面に落ちる。
「……っ、ああああっ!!」
晴真兄ちゃんがパニックを起こしたように俺の腹の傷を両手で塞ぎ、獣のような鳴き声をあげてボロボロと涙をこぼしている。しかし、その声はもう遠くのほうで反響しているようにしか聞こえなかった。
泣かないで欲しかった。こんな自分勝手で、兄ちゃんの人生を滅茶苦茶にしてしまった俺のために、後悔なんてして欲しくなかった。
「恨みを晴らしたぞ」って、それでよかったのだ。
ああ、出来ることなら。
やり直したい。晴真兄ちゃんのあの笑顔がもう一度みたい。
深い未練と共に、俺の意識は暗い底へと沈んでいった。
[newpage]
——カチッ、カチッ、と。
規則的な秒針の音が耳を打つ。
「……っ!」
弾かれたように目を覚ますと、俺はベッドの上で上体を起こしていた。
荒い息を吐きながら、慌てて自分の腹部をまさぐる。傷はない。血も出ていない。
顔を上げると、視界に広がったのはひどく懐かしい景色だった。
とうの昔に離れたはずの、実家の自分の部屋だ。
(……夢だった?)
でも、そんなはずは……
ふと、身体に強い違和感を覚えた。自分の手を見下ろすと、大人の男のものとは思えない、未発達で華奢な少年の手だった。
スマホを探して、代わりに見つかったのは中学時代に使っていた携帯電話。
ピンと立ったネコの耳が、階下から聞こえる母親の若い声と、包丁がまな板を叩く音を拾う。
机の上の卓上鏡を手に取る。
写り込んだのは、幼い黒猫の少年の顔。
間違いない。
俺は——中学生の自分へと戻っていた。
「湊ー! 晴真くん、もう来てるわよ!」
階下から響いた母の声に、俺は弾かれたように部屋を飛び出した。
スリッパも履かず、階段を転がるように駆け下りて玄関へと走る。息が上手く吸えない。心臓が早鐘のように鳴っている。
勢いよく玄関のドアを開けると、そこには——
「おっ、やっと起きたか」
朝日を背に受けて、黒を基調に茶色と白が混ざった豊かな毛並みを揺らす少年が立っていた。
記憶の中のままの、健康で、真っ直ぐで、太陽みたいに明るい晴真兄ちゃんが。バーニーズ特有の、中学生とは思えないほどがっしりとした体躯と、太くて立派な尻尾が、俺の姿を認めてパタパタと嬉しそうに揺れている。
「なんだ湊、まだ着替えもできてないじゃないか。寝坊か? しょうがないなぁ、待っててやるから早く着替えてこいよ」
呆れたように笑う声も、記憶の通りだった。
つい先ほど、俺の腹に刃物を突き立てながら泥を吐くように叫んでいた、あのしゃがれた声とは違う。優しくて、温かくて、俺がずっとずっと、もう一度聞きたかった声。
ああ、生きてる。暗い部屋に引きこもる前の、元気な晴真兄ちゃんだ。
安堵、罪悪感、悲しみ、嬉しさ——。
十数年分のあらゆる感情が一気に爆発して、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。視界が急速に歪んだかと思うと、ボロボロと大粒の涙が溢れ出してきた。
「え……っ、ちょ、湊!?」
俺は訳も分からず飛び出し、自分より頭一つ分以上大きな晴真兄ちゃんのちょうどお腹のあたりに、強く顔を押し付けた。
彼の制服から、お日様みたいな匂いがする。温かい体温がある。それがたまらなくて、俺は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「ど、どうしたんだよ!? なんか怖い夢でも見たのか?」
突然泣きつかれた晴真兄ちゃんは、狼狽えていた。
「うわっ、ちょっと、鼻水が制服に……!」
そんな文句を口にしながらも、彼は決して俺を引き剥がそうとはしなかった。それどころか、大きくて温かい手が、俺の背中を「よしよし」と不器用になでてくれる。
自分が汚れることよりも、俺が泣いていることのほうを心配してくれる、根っからの「優しいお兄ちゃん」なのだ。俺は彼のそんな優しさに甘えて、その心を無惨に踏みにじった最低な奴だというのに。
(……ごめん。ごめんなさい)
心の中で何度も謝罪を繰り返し、俺は彼のお腹に顔を埋めたまま、強く、強く決心した。
今度こそ、絶対に間違えない。
何をしてでも、どんな犠牲を払ってでも。俺が、この優しい少年を幸せにしてみせる。
[newpage]
結局、あの後……感情の整理が全くつかず、俺は学校を休むことにした。
突然泣きじゃくった俺の尋常じゃない様子に、母さんもひどく驚いていた。晴真兄ちゃんは「どうした、何かあったのか?」と犬耳をぺたんと伏せて心底心配してくれたが、「大丈夫だから」と無理やり笑って送り出した。
一人になった部屋のベッドで、深く息を吐き出す。
パカパカと開く二つ折りの携帯電話を取り出し、画面の日付を確認した。
――「あの出来事」まで、まだ数日ある。
あの夜さえ乗り越えれば、晴真兄ちゃんは狂うことなく、普通の幸せな生活を送っていけるはずだ。
強く意気込んではみたものの、やるべき事は拍子抜けするほど簡単だ。いつも通りに過ごして、その日の放課後、晴真兄ちゃんの家に行かなければいい。それだけで済む。
「今日は体調が悪いから帰る」と言えば完了だ。その後のことは、歴史が変わってからゆっくり考えればいい。
***
そうして迎えた、運命の当日の夜。
ここまでの数日間は、急に口調が大人びてしまったり、未来の流行り言葉をうっかり口走ってしまったりして、周りの同級生たちから不思議な顔をされたが、なんとか誤魔化してやり過ごすことができた。十年以上前の記憶だ、子供の頃の喋り方なんて完璧に覚えてるわけがない。
予定通り、俺は放課後に晴真兄ちゃんと別れ、今は自室のベッドで寝転がっていた。
胸にずっと居座っていた重い暗雲が、少し晴れたような気分だった。
……なんだ、簡単じゃないか。これで晴真兄ちゃんは普通の生活を送れるはずだ。
明日からの、誰も傷つかない新しい未来に思いを巡らせていると――コンコン、と。部屋のドアをノックする音が聞こえた。
ドアを開けると、そこには血の気を失い、真っ青な顔をした母さんが立っていた。
嫌な予感がした。
母さんの震える唇が開く。
(――いやだ。聞きたくない)
「湊……晴真くんが……亡くなったって。帰り道で、交通事故に……」
そこからの記憶は、ひどく曖昧だ。
消毒液の匂い。搬送された病院の、冷たい廊下。
泣き崩れる晴真兄ちゃんの両親が、「湊ちゃんは特別仲がよかったから」と、霊安室の亡骸に立ち合わせてくれた。
白い布をめくられた晴真兄ちゃんの顔は、ひどく綺麗だった。傷ひとつなく、ただ穏やかに眠っているようにしか見えなかった。
いつの間に実家の自分の部屋に戻っていたのか、まったく記憶がない。
気がつくと、俺は自室の学習机の椅子に座り、手にしたカッターナイフの銀色の刃をぼーっと眺めていた。
確証なんて、どこにもない。
でも、もう一度死ねば、またあの朝からやり直せる――そんな気がした。それに、晴真兄ちゃんがいない世界で俺だけが生き残ったって、過去に戻ってきた意味が全くない。
カッターの刃を繰り出し、自分の首筋に当てる。
手がガタガタと無様に震え、呼吸が浅くなる。ゆっくりと刃を滑らせると、首の皮が切れてツーッと熱い血が滲んだ。
「……痛っ」
これじゃ死ねない。痛い、怖い。でも……。
脳裏に、あの太陽みたいな晴真兄ちゃんの笑顔が蘇る。
(『なんだ湊、まだ着替えもできてないじゃないか』)
彼が生きているなら、この程度の痛み、どうってことない。
「待っててよ、晴真兄ちゃん……」
首に刃を深く突き立て、思い切り横へとスライドさせた。
ドクンッ、と熱い血液が噴き出す。激痛と共に、急速に視界が黒く塗りつぶされ、意識が遠のいていく。
***
——カチッ、カチッ、と。
規則的な秒針の音が耳を打つ。
「湊ー! 晴真くん、もう来てるわよ!」
階下から俺を呼ぶ母親の声と、包丁がまな板を叩く音。
俺は、再びあの朝に戻ってきた。
[newpage]
晴真兄ちゃんの部屋。小さなテレビ画面で安っぽいゲームの電子音が鳴り響いている。
俺は、あぐらをかいた彼の中にすっぽりと収まり、コントローラーを握っていた。
頭の上から、荒く、辛そうな息遣いが降ってくる。
「ねえ、晴真兄ちゃん。聞いてる?」
「さっきから全然集中できてないじゃん」
「ん……? ああ……」
心ここにあらずの生返事。俺の背中の下の方、腰のあたりに、晴真兄ちゃんの異常な熱を感じていた。
彼の理性を焼き尽くす、発情の熱だ。
「大丈夫?」俺はわざとらしく振り返り、彼を見上げる。「具合、悪いの?」
そのまま彼の手からコントローラーを取り上げ、ベッドへと誘導して寝かせる。
「ここ、すごく熱いよ」
ズボンの上から彼の下半身に手を添えると、晴真兄ちゃんはビクッと肩を跳ねらせ、ひどく狼狽えた。
俺は躊躇いなく彼のベルトを外し、ズボンのホックに手をかける。
部屋の鍵はすでにかかっている。それに、晴真兄ちゃんの両親が帰ってくるまでにはまだたっぷりと時間があることは、これまでの幾つものループの中で学習済みだった。
チャックを下ろし、ボクサーパンツをずらして、隠されていた熱の塊を取り出す。
犬獣人特有の、ふかふかとした毛に覆われた鞘から、赤味を帯びたピンク色の先端が顔を覗かせていた。
「だめだ……湊……」
拒絶する言葉とは裏腹に、その声はとても弱々しい。俺を見つめる彼の瞳は、熱に浮かされ、何かを期待するように潤んでいた。
「大丈夫だよ、晴真兄ちゃん」
俺は彼を安心させるように微笑み、鞘に手をかけて、ゆっくりと根元に向かって下ろしていく。
少しの抵抗感があり、それを抜けると、大きく膨れ上がった亀頭球が姿を現した。先端からは、すでに涎のように透明な液が溢れ出している。
俺は顔を寄せ、その先端をぱくりと咥え込んだ。
汗と、少しのアンモニア臭。そして、大好きな晴真兄ちゃんの濃密な匂いが口腔いっぱいに広がり、俺の頭をドロドロに蕩けさせていく。背筋にゾクゾクとした快感が走り、身体がびくりと震えた。
大きすぎて、全部はとても咥えきれない。できる限り深く口に含みながら、根本で脈打つ亀頭球を両手で包み込み、ゆっくりと扱く。
「……っ! あ……湊、だめだ……離せ……っ」
晴真兄ちゃんが苦しげな呻き声を上げ、身体を震わせる。
「……いくっ」
ビクンッ、と晴真兄ちゃんの大きな身体が大きく跳ねた。直後、俺の口の中で激しい射精が始まる。
犬の獣人の射精は長い。
俺は、まだビクビクと脈動を続け、白濁を吐き出し続けているそれから、あえてゆっくりと口を離した。
「あ……」
射精の途中でふいに放り出され、晴真兄ちゃんは呆けたような、物足りなそうな表情で俺を見つめてくる。
その視線を真っ向から受け止めながら、俺は彼の目の前で自分の服を脱ぎ捨てた。
そのまま彼を跨ぐようにして立ち、ゆっくりと腰を下ろしていく。
俺の秘所に、晴真兄ちゃんの熱い先端が触れる。深い息を吐き出しながら、俺は自ら進んで彼の中身を受け入れていった。
「……っ!!」
晴真兄ちゃんがギリッと強く歯を食いしばる。
流石に根本の亀頭球までは入らなかったが、それでも彼の大半が、俺の身体の中にみっちりと飲み込まれた。内側から押し広げられる圧倒的な質量と熱。痛いほどの充実感に、俺の目から生理的な涙が滲む。
俺がゆっくりと腰を振るたび、晴真兄ちゃんの口から言葉にならない獣のような呻き声が漏れた。
「晴真兄ちゃん……俺も、いきそう……」
熱と快感に意識が白く染まる中、俺は彼にすがりつくようにして、彼の上で射精した。
全身の力が抜け、そのまま晴真兄ちゃんの広く温かい胸の上に横たわる。
俺の身体の中にあるモノは、まだ硬く、脈動を続けながら熱を注ぎ込んでいる。
晴真兄ちゃんの長い射精が完全に終わるまで、俺はずっと、愛しい彼に身体を預けていた。
このタイムリープの世界では、俺は晴真兄ちゃんよりも年下だ。
でも、精神年齢で言えば、今の俺は彼よりも年上の大人だ。何も知らない無防備な彼を騙し、発情期の熱につけ込んで身体を重ねている自分に、吐き気がするほどの激しい自己嫌悪を感じていた。
でも、そうでもしないと自我が崩壊してしまいそうなほど、俺は自暴自棄になっていた。
これが何度目のループなのか、もう数えることすらやめてしまった。
最初のループの後、「あの日」が来る前に自分の気持ちを打ち明けてみた。晴真兄ちゃんは嬉しそうに『俺も好きだ』と受け入れてくれた。
――でも、ダメだった。その日の帰り道、歩道に突っ込んできた車から俺を庇って、彼はあっさりと死んでしまったのだ。
次は逆に、きっぱりと拒絶した。『そういう関係にはなれない、ただの友達でいよう』と。
――ダメだった。その夜、彼の家で火事が起きた。
電車に乗って、誰も知らない遠くの街へ連れ出した。
――ダメだった。降りた駅のロータリーで、通り魔に刺されて死んだ。
ならいっそ、タイムリープする前の元の状況を完全に再現しようともした。あの夜の通りにすれば、少なくとも彼は死なない。心が壊れて引きこもってしまっても、歴史さえ戻れば、その後で俺が全力でフォローして立ち直らせればいい。
そう思って、血の涙を流す思いであの凄惨な拒絶を繰り返した。
――でも、ダメだった。俺に拒絶され絶望した彼は、その日のうちに自ら命を絶ってしまった。
何度も、何度も、何度も繰り返した。少しずつ色々な選択を変えて、結末が訪れるたびに俺は自らの首を掻き切って、この狂った時間を巻き戻し続けた。
でも、何をどう変えても、晴真兄ちゃんは死んでしまう。
やがて、俺は気づいてしまった。これは、人生をやり直すための温かな奇跡なんかじゃない。最愛の人が様々な形で死にゆく姿を、特等席で繰り返し見せられるだけの無間地獄だ。
彼の人生を滅茶苦茶にして逃げ出した卑怯な俺に与えられた、終わらない罰だったのだ。
いつしか俺は、どう足掻いても明日には死んでしまう彼に縋るように、このループの中で晴真兄ちゃんと身体を重ねるようになっていた。
「晴真兄ちゃん……好きだ」
広く温かい胸の上に耳を当て、その規則的な心音を聞きながら呟く。
「俺も好きだ」
彼が優しく俺の頭を撫でながら、甘い声で応えてくれる。
……もう十分だ。俺には、これだけで。
ゆっくりと身を起こし、床に散らばった衣服を身につけて帰る準備をする。
「送っていくよ」と、晴真兄ちゃんが当たり前のように立ち上がった。
***
家までの暗い夜道。俺たちは、誰にも見られないようにそっと手を繋いで歩いていた。
彼の大きな手が、俺の手をすっぽりと包み込んでいる。その温もりを、一生分記憶に刻み込むように強く握り返した。
ふと、前方からエンジンを異常に吹かした、挙動のおかしい車がこちらへ向かってくるのが見えた。
蛇行しながら、猛スピードで迫ってくる二つのヘッドライト。
(ああ、これは知っている)
内心で、冷静に呟いた。一度見た光景だ。
あの車は一瞬の後に歩道へ乗り上げ、俺たちを轢き殺しに来る。
キキィィィッ!と甲高いスキール音が夜の静寂を引き裂いた。車体がコントロールを失い、こちらへ突っ込んでくる。
前は、ここで彼が死んだ。俺の身代わりになって。
「湊ッ!!」
前回と同じように晴真兄ちゃんが叫び、その巨大な体躯で俺に覆い被さって庇おうと飛び込んできた。
でも、もう手遅れだ。俺は今日、この瞬間、答えを見つけたから。
俺は――持てるすべての力を込めて、両手で彼の分厚い胸をドンッと押し返した。
「えっ――」
不意を突かれた晴真兄ちゃんの身体が後ろへ弾き飛ばされる。
直後、凄まじい衝撃と轟音が俺の身体を打ち抜いた。
視界がぐるぐると回転し、空を舞う。アスファルトに叩きつけられ、全身の骨が砕けるようなどす黒い音が響いた。
激しい痛みすら通り越し、ただ熱くて、息ができない。
「湊ぉおおおぉぉッ!!」
晴真兄ちゃんの、血を吐くような絶叫が聞こえる。
足音。彼が俺のそばに走り寄り、ボロボロと涙をこぼしながら何かを叫んでいる。
微かに開いた視界に映る彼の顔には、傷ひとつなかった。ちゃんと、生きている。
(ああ……良かった。やっと、これで……)
俺が身代わりになればよかったんだ。
薄々勘づいていたのかもしれない。でも彼と一緒に生きる未来を想像して欲張ってしまっていたのだ。
彼が生きている未来と引き換えに、俺の意識は深い、深い闇の底へと落ちていった。
[newpage]
ピッ、ピッ、ピッ……と、一定の間隔で無機質な電子音が耳を打つ。
重い瞼をなんとかこじ開けると、白く掠れた視界が、瞬きを繰り返すたびに次第に明瞭になっていった。
無機質な白い天井。鼻を突く消毒液の匂い。
(……なんだか、ドラマとかで見た事がある光景だな)
ぼんやりとした頭でそんな呑気な感想を抱きながら、誰かを呼ぼうと声を出そうとして――喉の奥で「ゴボッ」と空気が鳴り、むせた。
息苦しい。視線を下げると、俺の口から喉の奥深くへと、透明で太い管が挿し込まれていた。
シューッ、シューッという機械音に合わせて、俺の意志とは無関係に胸が上下させられている。
腕には何本もの点滴のラインがテープで固定され、指先には心拍を測るクリップが挟まれている。全身が鉛のように重く、あちこちが固定されていて身動き一つ取れなかった。
でも、確かな感覚がある。痛くて、苦しくて、熱い。
俺は、生きているのだ。
「……っ、湊……!?」
不意に、右手のほうから掠れた声が聞こえた。
温もりを感じて視線を動かすと、ベッドの手すりに突っ伏すようにしていた大きな身体が、弾かれたように顔を上げた。
黒をと茶色と白が混ざった、見慣れた毛並み。特徴的な垂れ耳が、今はピンと跳ね上がっている。
(晴……真、にぃ、ちゃん……)
管のせいで声にはならなかったが、口の動きで伝わったらしい。
目の下にひどい隈を作った晴真兄ちゃんは、信じられないものを見るように目を大きく見開き、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「湊……ああ、よかった……っ、本当によかった……っ!!」
彼は俺の右手にすがりつき、顔を埋めて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
痛々しいほど強く握りしめられた手から、彼がどれほどの恐怖と絶望の中で俺の目覚めを待っていたのかが伝わってくる。俺は動かない身体の代わりに、指先でそっと彼の手の甲を撫で返した。
後から聞いた話によると、俺はあの事故の後、三週間も意識不明のまま生死の境を彷徨っていたらしい。
致命傷だったが、奇跡的に一命を取り留めた。そして当然ながら、あの「死の運命」の日付は、俺が眠っている間にとうの昔に過ぎ去っていた。
ついに、俺たちはあの無間地獄のようなループを抜け出したのだ。
口の管が抜け、まともに会話ができるようになるまでにはさらに数日かかった。
入院中、晴真兄ちゃんは憑りつかれたように毎日病室に通い詰めた。学校が終わると真っ先に駆けつけ、面会時間が終わるギリギリまで俺の傍を離れようとしなかった。
「俺を庇うなんて、二度としないでくれ……湊が死んだら、俺も生きていけない」
「……ごめん。でも、晴真兄ちゃんが生きててくれてよかった」
「馬鹿っ……俺の台詞だろ、それ……」
ボロボロと泣きながら怒り、そして何度も何度も、俺の額や頬に祈るようにキスを落としてくれた。
もう、後悔も罪悪感もない。
彼の太陽みたいな笑顔と、真っ直ぐな愛情だけが、そこにはあった。
***
――それから、数年の月日が流れた。
「湊ー、朝ご飯できてるぞ。早く起きないと遅刻するぞ」
キッチンから漂ってくるベーコンの焼ける匂いと、甘く優しい声。
俺はベッドの中でんーっと伸びをしてから、のそのそとリビングへ向かった。
「おはよう、晴真兄ちゃん」
すっかり大人の男の体格になった晴真兄ちゃんが、エプロン姿でフライパンを煽っている。俺たちはあの田舎町を出て、今はこうして都内のマンションで二人きりで暮らしていた。
「おはよう、湊」
火を止めた彼が振り返り、山のように大きな体躯で、のしかかるように俺を力強く抱きしめてくる。後ろでは、立派な尻尾がちぎれんばかりにパタパタと揺れていた。
退院してからの彼の過保護っぷりと甘やかしぶりは、年々拍車がかかっている気がする。
「ちょっと、重いってば」
「いいだろ、減るもんじゃないし。……んっ」
文句を言いながらも大人しく受け入れていると、俺の首筋に顔を埋め、深いキスを落としてきた。
あの日、絶望の中で縋るように重ねた身体の熱とは違う。今はただ純粋に、お互いを愛おしむための温かい熱だ。
「……朝からくっつきすぎだよ」
「いいだろ。こうして湊の体温を感じてないと、不安になるんだから」
「大袈裟だなぁ」
晴真兄ちゃんは嬉しそうに目を細め、サワサワと俺の猫耳を撫でた。
首筋をなぞる冷たいカッターナイフの感触も。
幾度となく見た、最愛の人が血に染まる凄惨な記憶も。
それらはすべて、俺たちを繋ぐ強固な絆の礎として、過去の彼方へと置き去りにしてきた。
窓から差し込む朝の光が、俺たちの部屋を明るく照らしている。
人生をやり直すチャンスなんてもういらない。俺の隣には今、世界で一番大好きな人が、太陽みたいな笑顔で笑っているのだから。
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