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18

  夏は、獣人にとって危険な季節だった。

  それは昔から変わらない、理だった。

  太陽が高く昇り、空気が乾き、匂いが強くなる。

  身体が、理屈よりも先に「繋がること」を思い出す時期だ。

  だが同時に、夏は祝福の季節でもある。

  子が生まれる機会に恵まれ、結果群れが増え、村に活気が戻る。

  怪我が癒え、狩りの成果が上がり、冬に向けた備えが進む。

  危険と祝福は、獣人にとって切り離せないものだった。

  忌むべきものではない。

  ただ、力の扱いを誤れば、すべてを壊しかねないだけだ。

  とりわけ熊の力を持つガレンは、そのことを誰よりも知っていた。

  だから毎年、夏が近づくと生活を変えた。

  見回りは最低限に抑え、狩りも短時間で切り上げる。

  村の中心には、ほとんど近づかない。

  理由を問われれば、ただ一言で済ませてきた。

  「夏だからだ」

  それで十分だった。

  誰も深入りしない。

  誰も、無理に踏み込まない。

  それが、これまでの夏だった。

  ——だが、今年は違った。

  身体の奥にある熱が、引かなかった。

  発情期の熱は、本来、波のようなものだ。

  強くなる日もあれば、落ち着く日もある。

  抑えれば治まり、時間が経てば抜ける。

  それが、獣人としての常識だった。

  だが今年は、熱が留まり続けている。

  下がらない。

  薄まらない。

  静かに、だが確実に、身体の内側で膨張し続けている。

  理由は、分かっていた。

  エリアスの匂いだ。

  交わったあとも、それは消えなかった。

  洗っても、時間を置いても、身体の内側に残る。

  欲を煽る匂いではない。

  発情を刺激するだけのものでもない。

  むしろ、それは安心に近かった。

  ——もう、ここにいる。

  ——逃げない。

  ——受け入れられている。

  そう囁くような匂い。

  だからこそ、余計に厄介だった。

  守りたいものがある発情期ほど、獣人にとって危険なものはない。

  衝動を抑える理由が、同時に衝動を強めてしまう。

  ガレンは、その矛盾を身をもって知ることになった。

  ――

  エリアスは、すぐに異変に気づいた。

  「……ガレン、最近、寝てない?」

  問いかけは、何気ないものだった。

  責めるでも、疑うでもない。

  火を起こす背中。

  ほんの少し遅れる返事。

  夜更けまで消えない気配。

  積み重なった違和感。

  「…問題ない」

  返ってくる答えは、いつも同じだった。

  だが、エリアスはもう、以前のエリアスではなかった。

  体を重ねたからか、一緒にいる時間が増えていったからなのか。

  触れた身体。

  重なった呼吸。

  耐えるときの沈黙。

  それらを知ってしまったあとの「問題ない」は、

  大抵ガレンにとって問題があるときにしか使われない言葉だと、分かってしまった。

  「……身体、つらい?熱い?」

  慎重に選ばれた言葉。

  ガレンは、一瞬だけ手を止めた。

  「……ああ」

  それだけだった。

  エリアスは、それ以上追及しなかった。

  だが、視線は離さなかった。

  「……前は、こんなじゃなかった」

  責める調子ではない。

  ただ、確かめるように。

  ガレンは、しばらく黙ってから言った。

  「……ああ、今年は、少し、長い」

  嘘ではない。

  だが、それがすべてでもない。

  エリアスは、その言葉を受け取って、少しだけ考えた。

  「……我慢、しすぎてない?」

  その一言で、空気がわずかに張った。

  ガレンは、ゆっくりと息を吐いた。

  「……我慢しているのは、いつものことだ」

  「でも、今回は……」

  言葉を探す間。

  「……違う、感じがする」

  それはエリアスの勘だった。

  だが、当たっている。

  ガレンは、答えなかった。

  その沈黙が、答えだった。

  ――

  夜が深くなるころ。

  ガレンは、ひとり洞穴の奥にいた。

  エリアスは眠っている。

  規則正しい呼吸が、背後から聞こえる。

  その音だけで、胸の奥がざわつく。

  ——近づくな。

  ——触れるな。

  理性が命じる。

  だが、身体は別のことを知っている。

  距離を取るほど、匂いは濃くなる。

  抑えれば抑えるほど、意識は一点に集まる。

  矛盾だった。

  逃げれば追ってくる。

  抑えれば溜まる。

  ガレンは、壁に手をついた。

  次の瞬間、歯が自分の腕に食い込んだ。

  反射だった。

  熱を、別の痛みで上書きするための。

  「……っ」

  短い息。

  血の匂いが、わずかに広がる。

  だが、それでいい。

  この痛みは制御できる。

  誰も傷つけない。

  噛み跡は深い。

  フェロモンが邪魔して、きっと治るのに時間がかかるだろう。

  ——だが、それでいい。

  エリアスを守れるなら。

  ――

  翌朝。

  エリアスは、ガレンの腕を見て、すぐに分かった。

  「……噛んだ?」

  問いではなかった。

  ガレンは、視線を逸らす。

  「…問題ない」

  同じ言葉。

  だが、今度は通じなかった。

  「……それ、治りにくい、深そうだ、」

  指先が、そっと触れる。

  熱を持った皮膚。

  ガレンの身体が、わずかに強張る。

  「……エリ、」

  「……だめ」

  短い制止。

  「……私のために、傷つくのは」

  一拍。

  「……それは、違う」

  ガレンは、何も言えなかった。

  「……交尾したら、楽になるんだろう」

  声は震えていない。

  「……発情期だから、じゃなくて、」

  視線が合う。

  「……ガレンに求められるなら、私は、いつでも嬉しい」

  それは差し出す言葉ではなかった。

  選ぶ言葉だった。

  ガレンの喉が鳴る。

  「……エリ、それは……」

  「わかってないから、じゃない」

  即座に被せる。

  「……一緒に選んだって、言ったから」

  その一言で、ガレンは完全に黙った。

  今回の発情期は歪んでいる。

  それは事実だ。

  だが、その歪みの中心にあるのは、もはや衝動だけではなかった。

  ——関係。

  ——選択。

  ——責任。

  そして、ひとつの確信。

  愛は隠せても、存在は隠せない。

  匂いも、熱も、傷も、沈黙も。

  すべてが、今までと違い誤魔化せない。

  ガレンは、ゆっくりと目を閉じた。

  「……考える」

  それだけ言った。

  エリアスは、頷いた。

  この時点で、二人はまだ知らない。

  この歪みが、村の外からも、王都の外からも、

  別の視線と気配を引き寄せ始めていることを。

  洞穴の外。風の向こうで、

  別の獣の匂いが、ほんの一瞬、立ち止まったことを。

  世界はもう、「秘密」を見逃す段階を、過ぎつつあった。

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