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「普通」の在処 壱

  姿見の前に立ち、ブラシでふさふさの尻尾の毛並みを整える。

  アカギツネの獣人である僕の尻尾は、同年代の他のキツネたちと比べてもひと回り太くて、ボリュームがある。昔はそれがコンプレックスだった時期もあったけれど、今では立派な武器だ。

  少しオーバーサイズのざっくりとしたニットを選び、鎖骨がわずかに覗くように襟元を崩す。細身のパンツを合わせれば、僕の『ぽっちゃり』とした体型は、だらしない脂肪ではなく、思わず触りたくなるような『柔らかさ』として演出できる。

  自分の需要と、それに合わせた見せ方は痛いほどわかっていた。

  スマホの画面をタップし、見慣れたマッチングアプリを開く。

  メッセージの履歴の一番上にある『ユウ』という名前。アイコンは顔写真ではなく、どこかの適当な風景画。年齢は38歳、種族はタヌキ、体型は『痩せ型』。

  彼とのメッセージのやり取りをスクロールしながら、僕はふっと鼻で笑った。

  『初めまして。マッチングありがとうございます。不慣れですが、よろしくお願いします。』

  『アサです!よろしくー!今度飲み行かない?』

  『お誘いいただいて光栄です。ぜひご一緒させてください。』

  何度見返しても、ビジネスメールにしか見えない。

  僕がわざと絵文字を多用したり、甘えたような文面を送ったりしても、返ってくるのは「承知しました」「お気遣い痛み入ります」といった堅苦しい言葉ばかりだった。

  たぶん既婚者の火遊びか、身バレを極端に恐れているクローゼット(ゲイであることを隠している)のおっさんだ。こういうタイプは、いざホテルに入ると普段の抑圧を晴らすかのように、やたらと激しかったり、自分勝手な性癖を押し付けてきたりする。

  まあ、いい。ホテル代と飯代さえ出してくれるなら、数時間の我慢だ。

  待ち合わせ場所に指定したのは、駅前の繁華街にある大衆居酒屋だ。

  安くて、適度に騒がしくて、何よりすぐ近くにホテル街がある。僕みたいな『ぽっちゃりキツネ』をわざわざ指名してくるような男の目的は一つしかない。お互い手っ取り早く済ませるには、この辺りが一番効率がいいのだ。

  「あ、あの……『アサ』くん、ですか?」

  スマホをいじりながら待っていると、不意に上から声をかけられた。

  顔を上げると、そこに立っていたのは、プロフィール写真から勝手に想像していた「遊び慣れたおっさん」のイメージとはかけ離れた、ガチガチに緊張した様子の男だった。

  「『ユウ』さん? はじめまして。アサです」

  僕は愛嬌のある笑顔を作って首を傾げる。わざとらしくふっくらした尻尾を揺らしてみせると、ユウさんは目を泳がせながら「は、はじめまして」とペコペコ頭を下げた。

  痩せ型のタヌキ獣人のおっさん。落ち着いた色合いのシャツに、スラックス。休日のカフェにでもいそうな小綺麗な格好だ。

  (……なんだこの人、すっごい挙動不審)

  「お店、僕が勝手に決めちゃってよかったです? ユウさん、こういうガヤガヤしたとこ平気ですか?」

  「えっ、あ、はい! 全然! むしろ、男同士なら最初はこういう普通に飲み交わす場所がいいなって思ってて……あ、お店探してくれてありがとうございます」

  ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべるユウさんに、僕は内心で盛大に呆れていた。

  あのマッチングアプリで出会って、最初は普通に飲み交わす?

  本気で言ってるなら相当な天然だし、そうじゃないなら随分と回りくどい手口だ。まあいいや。

  「じゃあ、入りましょっか」

  僕は人懐っこいキツネの仮面を被って、居酒屋の暖簾をくぐった。

  ***

  「とりあえず、生二つでいいですか?」

  「あ、それでお願いします」

  ジョッキが運ばれてくると、ユウさんは「乾杯」と控えめにグラスを合わせた。一口だけビールを飲むと、彼は両手を膝の上に置き、まるでお見合い写真のように背筋を伸ばして僕を見つめてきた。

  居心地が悪いことこの上ない。僕は適当に枝豆をつまみながら、探りを入れることにした。

  「ユウさんは、アプリ長いんですか? 普段はどんな人と遊んでるんですか?」

  「えっ!? あ、いや、その……最近は全然で。仕事ばかりというか、職場と家の往復みたいな毎日でして……」

  「へえ、お仕事忙しいんですね。何されてるんですか?」

  「あ、普通のメーカーの事務です。本当に、特にお話しするような面白いこともなくて……」

  見え透いた嘘、あるいは都合のいい誤魔化しだと思った。

  僕は内心鼻で笑いながら、わざと少し身を乗り出した。テーブルの下で、僕のふさふさの尻尾が彼の足にわざとらしく触れる。

  「そんなことないですよ。僕なんか、高校出てからずっとフラフラしてるフリーターですから。ユウさんみたいにちゃんと働いてる大人、尊敬しちゃいます」

  上目遣いで甘えた声を出す。いつもなら、ここで「なら今夜は俺が甘えさせてあげるよ」とか、下心丸出しの台詞を返してくるはずだ。

  しかし、ユウさんの丸いタヌキの耳が、ピクッと真面目な角度に立ち上がった。

  「尊敬なんて……そんな大層なものじゃないです。ただ、流されるままに生きてきちゃっただけで」

  「……」

  「アサくんは、えっと……その、自分のペースで生きてるってことですよね。色んなしがらみとか気にせずに。それって、俺にはない強さだから……すごいことだと思いますよ」

  おだてているわけでも、下心から出た言葉でもない。僕を真っ直ぐに見つめるその目は、ひどく本気だった。

  (……何この人。やりにくっ)

  結局、二時間近く居酒屋にいて、核心に触れるような話題は一切出なかった。

  業を煮やした僕は、店を出た足でネオンの光る路地へと彼を誘導した。

  「この後、どうする? 近くにいい場所あるけど」

  振り返り、僕はホテル街の入り口を顎でしゃくった。

  「えっ」

  ユウさんが文字通り、目を丸くして立ち止まった。細いタヌキの尻尾がピーンと逆立っている。

  「あ、そういう……えっ、今日、初めて会ったのに!?」

  「……は?」

  思わず素の声が出た。

  「いや、あのアプリで会って、飲みに行って、次って言ったらホテルでしょ? もしかしてユウさん、ヤリモクじゃないの?」

  「ヤリ……!? いや、あの、実は、こういうアプリ使うのも、男の人とこういう風に会うのも本当に初めてで……!」

  顔を真っ赤にして狼狽えるユウさんに、僕は絶句した。

  38歳で、マッチングアプリ初心者? 居酒屋でのあの真面目な受け答えも、全部、ただの不器用な天然だったってことか。

  一瞬、このまま帰ろうかとも思った。けれど、ここまで来て手ぶらで帰るのも癪だったし、何より、こんなに初心な年上の男を前にして、少しだけ意地悪をしてみたい衝動に駆られた。

  「いいからいいから。何もしないで少し休むだけでもいいし。ね?」

  強引に腕を引くと、ユウさんはオロオロしながらも、結局ズルズルと僕のペースに巻き込まれてホテルへと足を踏み入れた。

  ***

  「先にシャワー浴びてくるね」

  ホテルの部屋に入るなり、僕は手慣れた動作でバスルームへ向かった。

  内心、今日ヤルことは半ば確定していた。僕自身の変なプライドもあったし、何より、こんな初々しい(しかもちょっとタイプの顔の)おっさんとヤルなんてレアな経験だと思ったからだ。

  準備を終えて部屋に戻ると、ユウさんは服も脱がず、ベッドの端に腰掛けてどこか上の空だった。

  僕は隣に腰を下ろし、彼の太ももにそっと手を置く。

  「ここまで来たんだし、やっちゃおうよ。……それとも僕、タイプじゃない?」

  「そ、そんなことは……!」

  ユウさんが慌てて否定する。

  そりゃそうだ。僕のプロフィールにはちゃんと写真も載せてある。体型も顔もわかっているのだから、わざわざタイプじゃない奴にメッセージなんて送らない。

  その証拠に。

  僕は、ユウさんの股間にそっと手を添えた。

  ズボンの上からでもわかる。彼のそこは、すでに硬くなっていた。

  「ほら」

  僕がクスッと笑ってベルトに手をかけようとした瞬間、ユウさんの大きな手が僕の手首を掴んだ。

  「だ、だめだ。やっぱりこういうことは、普通は何回か会ってからじゃ……」

  必死に世間の「普通」にすがろうとするその言葉に、僕は鼻で笑った。

  「何それ。僕たち普通じゃないでしょ?」

  その一言だった。

  ユウさんの肩から、スッと力が抜けた。彼を縛っていた見えない糸がプツンと切れたように、掴まれていた僕の手首が解放される。

  踏ん切りのつかない彼を強引にその気にさせるため、僕はそのまま手早くベルトを外し、ズボン越しに奥からユウさんのモノを取り出した。

  (……うわ、予想外におっきい。被ってるけど)

  ゲイとしての経験値がゼロだという証明みたいなそれに、少しだけ優越感を覚える。

  いざ、本当にこれから行為に及ぶのだと視覚で突きつけられた途端、ユウさんはハッと我に返ったようにオロオロと視線を彷徨わせた。

  「ま、待って! や、やっぱり俺も、ちゃんとシャワー浴びてくるから……っ!」

  「いいってば。僕に任せて。綺麗にしてあげるから」

  慌ててバスルームへ逃げ出そうとするユウさんをベッドに押し留め、僕はそれに口付けた。

  「っ……ぁ、」

  咥え込んだ瞬間、ユウさんの大きな身体がビクンと跳ねて震える。初心な反応が面白くて、僕はわざと舌を這わせ、じっくりと彼を味わった。

  しばらくして口を離すと、ユウさんは荒い息を吐きながらシーツをギュッと握りしめていた。

  「この先も、いいよね?」

  答えを待たずに、僕は彼の服を脱がしていく。

  手っ取り早く済ませるため、僕はサイドテーブルにあったローションを手に取り、自身の準備をさっさと終わらせた。そして、仰向けになっているユウさんの上に跨り、彼の熱く硬いモノを自身の入り口へとあてがう。

  「入れるよ」

  「あっ、アサくん、でも……っ」

  戸惑うユウさんの声を遮るように、僕はゆっくりと腰を沈め、彼を奥深くまで咥え込んでいった。

  「んっ……ぁ、」

  経験のなさを補って余りあるほどの大きさと、真っ直ぐな熱が、内側の粘膜をいっぱいに満たしていく。予想以上の充実に、僕の口から思わず甘い声が漏れた。

  最初は僕が主導権を握り、上に乗って彼を気持ちよくさせようと動くつもりだった。痩せ型とはいえ、タヌキ獣人の雄の身体だ。触れてみると予想以上に骨格がしっかりしていて、無駄な肉がない分、筋肉の硬さが直に伝わってくる。

  彼の中の熱を掻き立てるように、僕が本格的に腰を動かそうとした時だった。

  「……待って」

  不意に、ユウさんの大きな手が僕の腰を掴み、ふわりと天地がひっくり返された。

  ベッドに背中を沈められ、上に覆い被さってきたユウさんと視線が絡む。先ほどまでの怯えたようなタヌキの面影はなく、深い熱を帯びた瞳が僕を真っ直ぐに射抜いていた。

  ユウさんの大きな手が、ベッドと僕の腰の隙間に差し込まれ、僕の身体をわずかに持ち上げる。繋がったままの浅い角度が、一番深く入り込む位置へとすっぽりと収まった。

  「……あ、んっ、ぁ……!」

  ユウさんの手が、僕の脇腹から、背中へと回る。

  今まで出会ってきた男たちは、僕のこの脂肪のついた体を面白がって、貪るように揉みしだいたり、おもちゃのように乱暴に扱ったりした。「柔らかくて気持ちいい」という言葉の裏には、いつも性的な消費の匂いがこびりついていた。

  でも、ユウさんの手つきも、腰の動きも、まるで違った。

  僕の息遣いや表情をじっと観察し、どの角度で突けば僕が一番感じるのか、まるで複雑なパズルを解くように、ひどく丁寧で的確なストロークを繰り返す。

  内側の最も熱い部分を、逃げ場がないほど深く擦り上げられる。同時に、空いた彼の手が僕の弱点であるキツネの耳の付け根を優しく撫で回し、僕の背筋にゾクゾクとした強烈な快感が走り抜けた。

  「ひゃ、あっ……ユウ、さん、それ、奥っ……!」

  「ここ、気持ちいい? アサくんの体、柔らかくて……すごく、温かいね」

  至近距離から、ユウさんの匂いがした。

  かすかに混じる大人の男の汗の匂いと、どこか土の匂いを思わせるような、深く安心する体臭。その温もりに包まれて、奥を甘く突き上げられ続けていると、僕の中の本能が「この人に委ねていい」と警鐘を鳴らすのをやめてしまう。

  ただの肉塊として消費されているんじゃない。僕の『ぽっちゃりした体』も、『空っぽな僕自身』も、すべてを労わり、肯定してくれるような甘い熱。

  (なんだこれ、全然、僕のペースじゃない……)

  気づけば僕は、今まで感じたことのない深い快感と、泣きたくなるほどの安心感に飲み込まれ、「ユウさん、ユウさん」と声を上げて子供のように彼にしがみついていた。

  ***

  乱れたシーツから離れ、服を着終えたユウさんが、おもむろに鞄から加熱式のタバコを取り出した。かすかに甘い煙が吐き出される。

  「へえ、タバコ吸うんだ。なんか意外だね」

  僕がベッドの上から何気なく声をかけると、ユウさんの肩がビクッと跳ねた。

  「あ……ごめん。苦手だった?」

  彼は慌てて吸うのを止めると、鞄の奥にしまい込んだ。

  その顔には、先ほどまで僕を蕩けさせていた熱も、あの雄としての包容力もない。ただ「気のいいおじさん」の愛想笑いが、ぴったりと張り付いていた。

  (……何か、いま)

  さっきまで自分の中をめちゃくちゃに掻き乱していた男が、突然、分厚い仮面を被って遠くへ行ってしまったような感覚。

  僕は、スッと目の前に壁を作られたような違和感を覚えていた。

  ***

  ネオンが眩しい駅の改札前でユウさんと別れ、僕は一人、帰りの電車に揺られていた。

  深夜の車内はガラガラで、窓ガラスには気怠げな自分の顔が反射している。

  いつもなら、男と別れた後のこの時間は、「あーあ、今日も空っぽだ」という重たい虚無感が押し寄せてくるはずだった。体の奥に残る熱さえも、ただの摩擦の残骸みたいで虚しくなるのがオチだ。

  でも今日に限って、胸の奥がじんわりと温かく、むず痒いような落ち着かなさがずっと居座っている。

  自分の服の襟元をこっそり嗅ぐと、ユウさんのあの土っぽい、安心する匂いが身体に残っている気がした。

  ブブッ、とズボンのポケットでスマホが震えた。

  ホテルを出てから一時間。どうせ、もうアプリのブロックでもされた頃合いだろう。遊び目的でないなら尚更、僕みたいなスレた若者とは関わりたくないはずだ。

  そう自嘲気味に息を吐きながら画面を開くと、そこには新着メッセージが表示されていた。

  『今日は本当にありがとうございました。アサくんが無事に家に着くことを祈っています。夜風が冷たいので、温かくして休んでくださいね。また、連絡してもいいですか?』

  ヤリモクの男たちが使う常套句でも、自己満足のテンプレでもない。

  そこにあるのは、さっき改札越しに振り返った時の、あの不器用で真っ直ぐなユウさんの瞳そのものだった。

  (……なんだよ、それ)

  誰もいない車内で、僕は思わず両手で顔を覆った。

  顔が熱い。それだけじゃない。座席に敷かれた僕の尻尾が、自分の意思とは裏腹に、パタパタ、パタパタと小刻みに揺れてしまっている。

  両手で押さえつけても、その尻尾の揺れをごまかすことは、もうできそうになかった。

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