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週末の夜。リビングには穏やかな時間が流れていた。
少しだけ照明を落とした部屋の中では、テレビから流れるバラエティ番組の陽気な笑い声がBGMのように響いている。
俺はソファにだらしなく寝転がり、クッションに顎を乗せてぼんやりと画面を眺めていた。ふと視線を横に向けると、少し離れたダイニングテーブルでは、凪が静かに温かいお茶を飲んでいる。
手に持った湯呑みからは、白い湯気が細く立ち上っていた。ふうふうと息を吹きかける凪の姿を視界の端に捉えながら、俺もゆっくりとまばたきをして、あくびを一つ吐き出した。
のんびりとした空気を破るように、テーブルの上が短く震えた。
ブブッ、とくぐもった振動音と共に、置かれていたスマートフォンの画面が明るく光る。
湯呑みから口を離し、画面に目を落とした凪の動きが、ふと止まった。サルーキの長い垂れ耳がスッと後ろに下がる。
「……どうした? なんか嫌な連絡か?」
画面を見つめたまま固まっている凪が気になり、俺はのそりと上体を起こして尋ねた。
凪はスマートフォンを見つめたまま、小さく首を横に振った。
「……ううん。来週、温泉旅館の予約を入れてたのをすっかり忘れてて。確認のメッセージが来たんだ」
「温泉?」
「うん。母さんの誕生日に合わせて、親孝行のつもりで予約してたんだよね。……色々あったせいで、頭からすっぽり抜け落ちてた」
凪はスマートフォンを裏返しにしてテーブルに置くと、寂しそうに微笑んだ。
「勿体ないけど、キャンセルするよ。今からなら、まだキャンセル料も半分で済むし」
「待て待て、キャンセルなんかするな。俺が代わりに行く!」
「……えぇっ?」
俺の提案に、凪が目を丸くする。
「だって勿体ないだろ! それに、おばさんだって、お前が予定をキャンセルして家に引きこもってるより、温泉に入って美味いもん食ってる方が絶対喜ぶって」
少しお節介過ぎるかもしれないと思った。でも、ここで凪に「おばさんと行くはずだった旅行」を悲しい思い出としてキャンセルさせてはいけない気がしたのだ。
凪はじっと俺の顔を見つめていたが、やがて観念したようにふっと目元を和ませた。
「……陽ちゃんには敵わないね。うん、そうだね。せっかくだし、一緒に行こうか」
「おう! 任せとけ!」
尻尾をパタパタと振って喜ぶ俺に、凪は少しだけ申し訳なさそうに付け足した。
「でも、元々休みを取っていくつもりだったから平日だよ? しかも二泊三日なんだけど、陽ちゃんの仕事は大丈夫?」
「たぶん平気だと思う。今は繁忙期も抜けて落ち着いてるし、むしろ休みを取らなすぎて、有給消化しろって上司から言われてるくらいだから。明日、会社で聞いてみるよ」
そう請け負った翌日。
昼休みのオフィスで、俺は隣のデスクの外屋敷(ほかやしき)さんに声をかけた。
「外屋敷さん、すいません。急なんですけど来週、水木金と三日休んでもいいですか?」
両手でマグカップを包み込むようにしてコーヒーを飲んでいた外屋敷さんは、こちらへ顔を向けると、丸い目をぱちくりと瞬かせた。
「ん? 何かあったの? スケジュールは調整できるから別に大丈夫だけど」
「いや、ちょっと旅行に行くことになりまして」
「旅行? 誰と行くの?」
途端に、外屋敷さんの猫耳がピンと立ち、両目がらんらんと光った。
「えっと……前に話してた、うちに居候してる幼馴染です」
「はぁっ! 新婚旅行だ!」
「いや、だから違いますって」
両手で口元を覆って身悶える先輩に、呆れた溜め息をつく。
「元々、あいつが別の人と行く予定だったんですけど。その人が行けなくなって、代わりに行くことになっただけで」
職場で家庭の事情を深く話すわけにもいかず、少しだけ言葉を濁して説明した。
すると、外屋敷さんは「なるほど」と深く頷き、ふさふさの尻尾をゆらりと揺らした。
「……別れた恋人の代わりに、傷心旅行へついて行くことになったんだね。落ち込んでいる幼馴染を慰めているうちに、そこから新しい恋が……」
「いったいその妄想はどこから湧いてくるんですか」
ジト目を向けると、外屋敷さんは「ふふっ」と意味深に笑った。
「まあ、冗談はおいといて。気をつけて行っておいで。最近の楠君、仕事頑張ってたから、ゆっくり楽しんでくるといいよ」
「はい、ありがとうございます」
呆れながらも、外屋敷さんの温かい気遣いに俺は深く頭を下げた。
その日の夕方。定時を迎えるやいなや、俺はそそくさと会社を後にした。
無事に休みが取れたことを早くあいつに報告したくて、気が付くとかなりの早足で自宅へと向かっていた。
ガチャリと玄関を開け、靴を脱いで廊下を進む。
リビングのドアに手をかけた瞬間、扉の隙間から食欲をそそる強烈なニンニクとバターの香りがふわりと漂ってきた。俺の胃袋が、その匂いに反応してぐうっと盛大に鳴る。
たまらずドアを開け放つと、キッチンに立つエプロン姿の凪がこちらを振り返った。
「ただいま! 凪、休みバッチリ取れたぞ!」
「おかえりなさい。よかった、それなら予定通り旅館に連絡しておくね。ご飯もすぐできるよ。ちょっと待ってて」
「おう、着替えて、手洗ってくる」
部屋着に着替えリビングに戻ると、凪がテーブルの鍋敷きの上に深皿をコトッと置いた。そこからは、グツグツと美味しそうな音が鳴っている。
「おっ、美味そう! ……シチューか? でも、すっげえニンニクの匂いがするな」
「ふふ、これは『シュクメルリ』。ジョージアの郷土料理だよ。鶏肉をたっぷりのニンニクと牛乳で煮込むんだ」
凪が切り分けたバゲットをカゴに入れて添えてくれる。
さっそくスプーンで大きな鶏肉をすくい、とろみのあるソースごと口に放り込んだ。
「あっつ! ……うっま!! なんだこれ、ニンニクがガツンと効いてて美味しい! パンにソースつけると無限に食えそう!」
「よかった。お肉は皮目をパリッと焼いてから煮込んでるから、香ばしいでしょ」
凪はそう言って微笑むと、皿の横にガラスの小鉢をそっと置いた。
「はい。無限に食べるのもいいけど、こっちの野菜もちゃんと食べてね」
「お、これも美味そうじゃん」
「トマトとパプリカのマリネだよ。口がさっぱりするから」
言われた通りに色鮮やかなマリネを口に放り込むと、ほどよい酸味で口の中がすっきりとリセットされる。
「うまっ! これ、またシュクメリクリ? が食いたくなるやつだ! 完全に無限ループ完成だな!」
「ふふっ。シュクメルリ、だよ。火傷には注意してね」
ハフハフと冷ましながら、次々と口に運ぶ。
ジョージアだのギリシャだの、凪はたまに俺の知らない料理を作ってくれる。
おばさんから教わったらしいが、こんな手の込んだ異国の料理を家で当たり前のように食えるなんて、本当に幸せな話だ。
空腹が一段落したところで、パンをかじりながら顔を上げて尋ねた。
「そういえば、聞いてなかったけど……どんな旅館なんだ?」
俺の言葉に、凪はガラスの小鉢をコトッと置いて答えた。
「露天風呂がある旅館を取ったんだけどね、周りも温泉街になってて、いろんな外湯を回れるみたいなんだ」
「おおっ! 外湯めぐり! 温泉街ってことは、射的とか温泉まんじゅうとか、そういうのもあるのか?」
「うん、お店もいっぱいあるみたい。食べ歩きも充実してるみたいだから、陽ちゃんの胃袋でも安心だね」
目の前でシュクメルリを無限ループしている俺を見て、くすくすと笑いながらからかってくる凪。
俺は「失礼な!」と言いつつも、無意識のうちに尻尾を揺らしてしまっていた。
「でも、よかった。母さんがそういうレトロな雰囲気が好きだったから、ここを選んだんだけど……陽ちゃんも楽しめそうで」
「当たり前だろ! 温泉入って美味いもん食って、最高じゃんか。やばい、今から楽しみになってきた」
目を輝かせる俺を見て、凪も柔らかく微笑み返してくれた。
悲しみを忘れるためじゃなく、ちゃんと前を向くための旅行。
来週は、あいつに美味いものを腹いっぱい食わせて、たくさん笑わせてやろう。
そんなことを考えながら、残りのパンにたっぷりとソースを絡めて、大きな口で放り込んだ。
[newpage]
「よし、戸締まりオッケー! 忘れ物はないか?」
「うん、大丈夫だよ」
玄関でスニーカーの紐を結びながら、陽ちゃんが弾んだ声で振り返る。肩には旅行用のボストンバッグ。まるで遠足の朝の子供みたいに目を輝かせていて、見ているこちらまで口元が緩んでしまう。
「いやー、楽しみだな! 温泉旅館なんて何年ぶりだろう」
「ふふっ、そうだね。ええと、新幹線の発車時刻まであと……」
スマートフォンを取り出して、画面に表示された乗り換え案内を確認した。
「予定通りだね。これなら乗り継ぎ駅でも、少し余裕を持って乗り換えできそうだよ」
「おっしゃ! じゃあ出発するか!」
陽ちゃんが勢いよくドアを開けると、まぶしい朝の光が玄関に差し込んできた。
見上げた空は、雲一つない見事な快晴。抜けるような青空がどこまでも高く広がっていて、心地よい風が通り抜けていく。
少しひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、僕たちは並んで歩き出した。
駅へ向かう道すがら、陽ちゃんは「駅弁は何にするか」「現地で最初に何を食べるか」と、気が早い話題でずっと尻尾を揺らしていた。その弾むような足取りに引きずられるようにして、僕たちは予定通り新幹線に乗り込み、目的の乗り継ぎ駅へとたどり着いた。
しかし、いざ駅に着くと、コンコースにある大きな駅弁屋の前で陽ちゃんが本気で悩み始めてしまった。
「陽ちゃん、急いで! 特急の発車まであと少ししかないよ!」
「わ、わかってる! でも、どうしてもこのカニめしか和牛弁当で迷って……ああ、この蛸壺のやつもうまそう。ええい、全部だ!」
陽ちゃんを急かして、僕たちはホームへ続く階段を駆け上がった。
滑り込みで指定席に倒れ込むと、すぐにプルルルと発車ベルが鳴り、列車がゆっくりと動き出す。
「はあ、はあ……間に合ってよかった……」
心臓をバクバクさせながら息を切らす僕の横で、陽ちゃんはホクホク顔で大きなビニール袋を座席のテーブルに置いた。カサカサと音を立てて中から出てきたのは、宣言通り、三つの駅弁だった。
「……陽ちゃん、本当にそんなに食べられるの?」
「当たり前だろ! 電車旅はこれが醍醐味なんだから!」
尻尾をご機嫌に揺らしながら、陽ちゃんはさっそく一つ目の、和牛弁当の蓋を外し始める。
「旅館でも豪華な夕食が出るんだよ? 夕食、ちゃんと食べられる?」
「大丈夫だって。旅館に着くころには、絶対お腹減ってるから!」
自信満々に胸を張り、陽ちゃんは大きな口を開けてお肉を頬張った。その幸せそうな横顔を見ていると、心配するだけ無駄なような気がしてきて、僕は呆れたように小さく笑った。
ガタン、ゴトンと規則的な揺れが車内に響く。窓の外へ視線を向けると、景色は背の高いビル群から少しずつ、のどかな緑と山あいの風景へと変わっていくところだった。
遠くに連なる青い山々を眺めながら、ふと、本来ならこの席には母さんが座っているはずだったのだという事実が頭をよぎる。胸の奥が冷たく強張り、思考の底へ引きずり込まれそうになる。
「次はこっちのタコ壺に入ったやつだな!」
「もう一つ目食べ終わったの!?」
「お腹が空いてたんだよ! あっ、凪! 今すげえデカい川あったぞ!」
すぐ隣で、陽ちゃんが目を輝かせながらタコ壺の包みを開け、窓の外を指さしてはしゃいでいる。
次から次へと飛んでくる言葉と、美味しそうにご飯を食べる音、そしてパタパタと揺れる尻尾。
賑やかな幼馴染と一緒にいると、暗い感傷に浸るどころか、息をつく暇さえない。けれど、無理やりこちらの世界に繋ぎ止めてくれるようなその騒がしさが、今の僕にはひどくありがたかった。
結局、三つの駅弁を一人で平らげた陽ちゃんは、「満腹になったら眠くなってきた……」と呟き、やがて本当に静かな寝息を立て始めた。
少しずつ傾いていく日差しの中、こてん、と肩に重みが乗る。陽ちゃんの頭だ。柔らかい垂れ耳が、僕の腕に触れていた。
少し重たくて、陽ちゃんの温かい体温が伝わってくる。その心地よい重みを起こさないように、僕はそっと窓枠に頭を預け、流れる景色を眺め続けた。
時折、レールの継ぎ目を踏む音がリズムを変え、列車の速度がゆっくりと落ち始める。
「まもなく、終点です」という静かな車内アナウンスに、肩に乗っていた重みがふっと浮いた。
「……ん、着いたか?」
目をこすりながら体を起こす陽ちゃんと共に、僕たちは少しずつ傾き始めた春の日差しの中、ホームへと降り立った。
「うおおっ、着いたー! すっげえ、駅前からもう風情があるな!」
改札を抜けた瞬間、陽ちゃんが大きく伸びをして声を上げた。
駅前には、木造のレトロな商店が軒を連ね、街の真ん中を流れる川沿いには、立派な柳の木が並んでいる。
穏やかな春の午後の空気に、どこからか硫黄の匂いと、カラン、コロンという下駄の音が響いてきた。
「旅館まで歩いていける距離みたいだから、少し散策しながら向かおうか」
「おう! 食べ歩きもできそうだし、温泉まんじゅうとか食べたいな!」
「あんなに食べたのに、まだ入るの……?」
「甘いのは別腹だろ!」
底なしの胃袋に呆れる僕をよそに、陽ちゃんがずんずんと歩き出した。
楽しそうに前を歩く、丸くて頼もしい背中。弾むようなその足取りを追いかけながら、温泉街の石畳をゆっくりと歩き始めた。
温泉街の奥へと進むにつれて、周囲は少しずつ静かで落ち着いた雰囲気になっていく。やがて、川沿いに建つ、趣のある木造三階建ての宿が見えてきた。玄関先にはガス灯風の街灯が立っている。今日から二泊お世話になる旅館だ。
「……おい、凪。なんかすごい風格のある立派な宿なんだけど」
陽ちゃんが、片手に食べかけの温泉まんじゅうを持ったまま、ぽかんと口を開けて立派な木造建築を見上げている。
「そうだね。母さんがこういう雰囲気が好きだったから選んだんだけど……想像以上に素敵でよかった」
和服姿の仲居さんに案内されて通されたのは、広々とした和室だった。窓からは先ほどの柳並木と小さな太鼓橋、そして穏やかに流れる川が綺麗に見下ろせる。
荷物を下ろし、い草の香りに包まれながら座椅子に腰を下ろすと、陽ちゃんが少しそわそわした様子で周りを見渡した。
「なあ、ここって、結構高いんじゃ……?」
「ふふっ。普段あまりお金使わないから、ちょっと奮発しちゃったんだよね」
「えっ、マジでいくらしたんだ?」
少し考えてから、「言わないでおくよ」と悪戯っぽく微笑んだ。
申し訳なさそうに耳を下げる陽ちゃんを見て、つい笑ってしまう。
「冗談だよ。シーズンから外れた平日だし、早割みたいなのもあったからね。せっかくの旅行なんだし、お金の事は忘れて楽しんでよ」
そう言うと、陽ちゃんはホッとしたように「そっか! なら甘えさせてもらうわ!」と、すぐにいつもの明るい笑顔に切り替わった。
「よーし、さっそく風呂行くか!」
浴衣を広げながら立ち上がった陽ちゃんに、僕は時計を指差して首を振る。
「もう直ぐ夕食の時間だから、食べてからにしよう。部屋に持ってきてくれるみたいだから、ゆっくりできるよ」
「おおっ、部屋食か! 最高だな!」
「でも……」
駅弁を三つも平らげて、つい先ほど温泉まんじゅうまで食べていた陽ちゃんの丸いお腹に視線を落とした。
「……夕食、少し早めの時間にしちゃってたけど、食べられそう?」
「任せとけ! バッチリお腹空いてる!」
ドン、と自分の胸を叩いて自信満々に笑う陽ちゃん。
本当に、この胃袋はどうなっているんだろう。僕はまたしても呆れながら、それでも声に出して笑っていた。
[newpage]
部屋に運ばれてきた夕食は、目にも鮮やかな春の味覚で彩られていた。
仲居さんが手際よく火をつけてくれた陶板の上で、霜降りのブランド牛がじゅわじゅわと音を立てて脂を躍らせている。
「うお、豪華だな! ……あ、でもカニじゃないんだな」
並んだ小鉢を覗き込みながら、少しだけ残念そうに呟くと、向かいに座る凪がくすくすと笑った。
「この時期だとカニの漁期はもう終わってるからね。その代わり、お肉もあるし、春が旬の桜鯛やホタルイカも、今の時期にしか食べられない美味しいものばかりだよ。奮発したんだから、しっかり食べてね」
「あー、そっか。そうだよな。……おっ、確かにこの肉、めちゃくちゃ美味そうじゃん! いただきます!」
俺はすぐに切り替えて、一番いい焼き色のついた肉をタレにくぐらせ、白米と一緒に大きな口で頬張った。
噛んだ瞬間に肉の脂がジュワッと溶けて、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
「んっんま! なにこれ、溶けたぞ! 白飯がいくらでもいける!」
「ふふっ、よかったね。ほら、陽ちゃん、僕のお肉もあげるよ」
「えっ、マジで!? いや、でも凪もちゃんと食えよ」
「僕は他のおかずで十分お腹いっぱいになりそうだから。陽ちゃんが美味しそうに食べてるのを見るのが好きなんだ」
そう言って、凪はころころと楽しそうに笑った。
最近ずっと無理をして笑っていた凪の、その自然な笑顔を見られただけで、俺は心底ホッとしていた。
食後、少しお腹を落ち着かせてから、俺たちは一階にある大浴場へと向かった。
平日の、しかも他の宿泊客がちょうど夕食をとり始めている時間だったからか、脱衣所に人の気配はない。
「よし、貸切っぽいな」
鼻歌交じりに、手早く服を脱いで籠に放り込んだ。
ふと隣を見ると、凪もゆっくりと浴衣を脱いでいるところだった。
改めてこうして目の前で裸になると、凪の身体はやはり細い。
「お前、相変わらず細いな。……毎日一緒にあんなに美味い飯食ってるのに、なんでそんなに細いんだよ」
「食べてる量が陽ちゃんと全然違うし。それに、陽ちゃんは間食しすぎなんだよ」
凪は振り返りながら、事も無げに答えた。
それから凪の視線が、値踏みするように俺の身体を上から下へとゆっくり降りていく。
そして、股間のあたりでぴたっと止まった。
「陽ちゃんは、……なんて言うか、本当に陽ちゃんっぽいね」
「……あ? ……ど、どこ見て何言ってんだよ!」
意味深な凪の呟きと視線に気づいて、思わず顔を熱くして声を上げた。
お返しとばかりに、俺も凪の方へと視線を投げ返す。
……が。
俺は、自分の股間と凪のそれを、二度、三度と見比べた。
……俺より、でかい。
いや、まぁ自分のモノが控えめサイズだという自覚はあるのだが。
なんだか自分のコンプレックスを正面から指摘されたような気分になり、一気に顔が火照っていくのを感じた。
「そ、……それよりも、風呂だ! 早く行くぞ!」
いたたまれなくなった俺は、凪を急かすようにして、逃げるように浴場への扉を押し開けた。
湯気が立ち込める広々とした大浴場。
狙い通り、高い天井の下には俺たち二人の他には誰もいなかった。
「うおおっ、マジで貸切だ! 贅沢だな!」
先ほどの動揺をかき消すように、わざとらしく大きな声を上げた。
並んでシャワーを浴び、それぞれ身体を洗い始める。
「お前、濡れると余計に細く見えるな。なんか、心配になるっていうか……」
「陽ちゃんは濡れても変わらないね」
「うるせぇ、余計なお世話だ!」
軽口を叩き合っているうちに、少しだけさっきの気まずさが薄れていく。
「よし、身体も洗ったし。……凪、せっかくだから露天風呂行こうぜ!」
立ち上がり、浴場の奥にある、外へと続く扉を指差した。
浴場から続く重い扉を押し開けると、ひんやりとした夕方の空気が肌を撫でた。
ちょうど太陽が山端に沈もうとしている時間だった。視界が開けた先には、燃えるような朱色の空が広がっている。風呂を囲う目隠しの塀越しに、木々の梢が夕日に照らされて黄金色に輝いているのが見えた。
「ふーっ……。やっぱり露天は最高だな」
先に湯船に浸かった俺は、ふちに頭を預けて大きく息を吐いた。熱いお湯がじんわりと芯まで染み込んで、身体の強張りがほどけていく。
「本当だね。空気が冷たいから、ずっと入っていられそう」
「お前はすぐのぼせるんだから気をつけろよ? ……っていうか、そんな端っこにいないでもっとこっち来いよ。広いんだし」
広い湯船の隅の方に縮こまっている凪を呼ぶと、あいつは「陽ちゃんが場所取りすぎなんだよ」と苦笑しながらも、ゆっくりとお湯をかき分けて隣まで寄ってきた。
並んでお湯に浸かっていると、不意にカラン、コロン、と遠くから下駄の音が聞こえてきた。
「……いい音だね」
凪が目を閉じて、耳を澄ますように呟く。
「ああ。なんか、本当に旅行に来たんだなーって感じがするわ。……なあ、凪。ここ、気に入ったか?」
「うん。すごく。……一緒にきてくれて、ありがとう。陽ちゃん」
凪が目を開け、湯気に濡れた瞳で俺を見た。その真っ直ぐな視線に、なんだか急に照れ臭くなって、わざとらしくお湯をバシャバシャと跳ね上げた。
「よせやい。俺も休みたかっただけだって。……それより、明日は何食うか決めたか? コロッケに肉まん、美味そうなジェラート屋もあったぞ」
「ふふっ。陽ちゃん、さっきの夕飯もあんなに食べてたのに、まだ食べ物の話? 明日の朝ごはんまでにお腹空くの?」
「バカ言え。寝て起きたら腹なんてペコペコだよ。お前も、明日はもっと食えよな。身体に肉をつけろ! ……せっかくの旅行なんだから、遠慮すんなよ」
そう言うと、凪は少しだけ意外そうに目を丸くしてから、柔らかく微笑んだ。
「……そうだね。陽ちゃんに負けないくらい、頑張って食べるよ」
「おう。あ、でも、あんまり食いすぎてお腹壊すなよ?」
「あはは! 陽ちゃんには言われたくないよ」
声を上げて笑う凪の顔に、沈んでいく夕日のオレンジ色の光が反射して、とても綺麗に見えた。
本当は、ずっと不安があった。
傷心のあいつを無理やり連れ出してしまったこと。凪を余計に傷つけているのではないかという迷い。
けれど、湯気に濡れた瞳を細めて笑う今の凪を見て、ようやく胸のつかえが下りた思いがする。
凪に対する「放っておけない」という焦燥感。それが、じわじわと温かいものに変わっていくのを感じていた。
「……そろそろ上がるか。あんまり長湯して、お前が倒れたら俺が担いで帰らなきゃいけなくなるし」
「心配しすぎだよ。……でも、そうだね。明日に備えて、ゆっくり休もうか」
名残惜しさを感じつつも熱いお湯から上がり、ひんやりとした夜風を浴びながら、温まった身体で脱衣所へと戻った。
[newpage]
障子戸越しに差し込む柔らかな春の陽光が、まぶたの裏を淡く照らした。
布団から抜け出し、そっと障子と窓を開け放つと、朝の爽やかな空気と一緒に、川のせせらぎが部屋の中に流れ込んできた。
澄んだ空気に肺を満たしてから、まだ布団の山がこんもりと盛り上がっている方へと振り返る。
大きな体で器用に丸まり、微かな寝息を立てている陽ちゃんは、まるで冬眠中の熊のようだ。
その枕元に膝をつき、肩を優しく揺らした。
「陽ちゃん、起きて。朝だよ」
呼びかけると、布団の中から「うぅーん……」と低く唸るような声が返ってくる。けれど、それだけでまた静かになってしまった。
「ほら、窓も開けたよ。今日もいい天気だよ」
川音と鳥の声が、開け放たれた窓から心地よく入り込んでくる。陽ちゃんは一度、重そうな瞼をわずかに持ち上げたものの、眩しそうに目を細めると、すぐさま反対側を向いて布団を頭から被り直してしまった。放っておけば、このまま二度寝の深い眠りに落ちてしまうのは目に見えている。
苦笑しながら、今度はもう少しだけ声を張って、布団越しにその背中をぽんぽんと叩いた。
「陽ちゃん、もうすぐ朝ごはんだから。旅館の美味しいご飯、冷めちゃうよ。頑張って起きて」
朝ごはんという言葉に、被せられた布団がピクリと動く。
美味しいものの誘惑と、春の朝のまどろみ。その間で葛藤する様子を見守りながら、僕はもう一度、彼に微笑みかけた。
朝食の席で、陽ちゃんは「寝て起きたら腹ペコだ」という昨夜の宣言通り、お櫃のご飯を空にする勢いでおかわりを重ねていた。
その見事な食べっぷりを見ていると、こちらまでつられてなんだかお腹が空いてくるから不思議だ。
朝食を終えた僕たちは、旅館の浴衣に丹前を羽織り、カランコロンと下駄を鳴らしながら外湯巡りへと出かけた。
朝の温泉街は、午後のゆったりとした雰囲気とはまた違い、澄んだ青空の下で柳の緑が鮮やかに揺れている。
そんな清々しい空気の中、陽ちゃんはガイドマップを片手に興奮気味に声を上げた。
「よし、まずはあの一番デカいところから攻めようぜ!」
陽ちゃんに背中を押されるようにして、川沿いにあるひときわ立派な構えの浴場へと足を踏み入れた。
広々とした脱衣所で帯を解き、浴衣を脱ぐ。
ふと視線を横に向けると、隣では陽ちゃんもすっぽんぽんになって、のびのびと背伸びをしているところだった。
昨夜の露天風呂ではあまり直視しないようにしていたけれど、明るい場所で改めて見ると、ラブラドールの獣人である陽ちゃんの身体は、ひょろりとした僕とは正反対だ。
背は僕より低いものの、生まれつきの骨太な骨格を、たっぷりの柔らかそうな肉が覆っている。
ぽってりと前に突き出た大きなお腹に、丸みを帯びた厚い胸板、そして肉付きのいいどっしりとした腰回り。
思い切り抱きついたらもっちりと受け止めて甘やかしてくれそうな、彼自身のような温かさと安心感が詰まっているように見えた。
なんだか、すごく……柔らかくて、気持ちよさそう……。
無防備なその身体にそっと手を伸ばす自分の姿が頭をよぎり、カァッと耳の先まで熱くなるのを感じた。
慌てて、ブルブルと頭を振る。
いけない、いけない。相手は幼馴染で、大切な恩人だ。こんな不純な思いを抱いて見つめるなんて。
「ん? どうした凪。頭なんか振って」
不思議そうに柔らかい垂れ耳を揺らす陽ちゃんに、誤魔化すように引きつった笑いを向けた。
「う、ううん! なんでもないよ。ちょっと、お湯に入る前の準備運動みたいなものかな」
「なんだそれ。のぼせないようにちゃんと水分とっとけよ? ほら、行くぞ」
あっけらかんと笑う大きな背中を追いかけながら、悟られなかったことに密かに安堵の息を吐き出して、浴場への扉をくぐった。
けれど、昨夜からの長湯が祟ったのか、それとも今の動揺のせいか。
二つ目の外湯を出る頃には、すっかりのぼせてしまい、足元がふわふわと覚束なくなっていた。
「ほら言わんこっちゃない! 凪、そこに座ってろ」
陽ちゃんが慌てて僕を近くのベンチに座らせ、どこからか冷たいラムネを買ってきてくれた。シュワッという音と共に弾ける冷たい刺激が、熱を持った身体に染み渡っていく。
「……ごめん、陽ちゃん。せっかくの観光なのに」
「謝んなって。お前が倒れたら俺が楽しくないだろ」
陽ちゃんは大きな手で背中をさすりながら、自分の顔まで真っ赤にして心配そうに覗き込んでくる。その過保護なまでの優しさが、今の僕には何よりも心地よかった。
少し落ち着いてから、温泉街の散策を再開した。
陽ちゃんは宣言通り、昨夜言っていたコロッケに肉まん、串焼き、そしてジェラートまで、次々と「美味そう!」と目を輝かせて買い食いしていく。
「凪、これ一口食ってみ、マジで美味いぞ」
差し出されたジェラートを一口貰うと、冷たい甘さが口いっぱいに広がった。
春の陽射しを浴びながら、下駄の音を響かせて歩く。
そんな陽ちゃんと過ごす日常の断片が、奇跡のように幸せなことに思えて、自分でも驚くほど、心の底から楽しんでいることに気がついた。
***
食べ歩きを満喫し、夕暮れの温泉街を眺めてから旅館に戻ったその日の夜。
道中で買い込んで来たお酒やおつまみを広げ、ささやかな晩酌を楽しんでいたはずなのに。
ふと背後の静けさに気づいて振り返ると、陽ちゃんはすっかり酔っ払って、畳に敷かれた布団の上で大の字になって寝ていた。だらしなくはだけた浴衣からは、丸みのある大きなお腹が無防備に覗き、規則的な寝息に合わせて上下している。
「……もう、風邪引くよ」
呆れたようなため息が、静かな部屋に吸い込まれる。その無防備な体に、ふわりと掛け布団を掛け直した。
部屋の奥、障子戸で仕切られた広縁へと足を向ける。
ひんやりとした空気が漂う中、籐で編まれた椅子に深く腰を下ろした。小さな丸テーブルに残っていた、飲みかけの檸檬酎ハイのグラスを手に取る。指先に伝わる水滴の冷たさに小さく息を吐きながら、すっかり氷の溶けたそれを一口だけ含んだ。
ほんのりとした苦味と薄くなったアルコールが喉の奥をゆっくりと滑り落ちていく。
古いすりガラスがはめ込まれた大きな窓の外には、夜の帳に包まれた温泉街の景色が静かに広がっていた。
昼間の賑わいが嘘のように静まり返った川沿いでは、等間隔に並んだ柳の葉が、風を孕んでさわさわと黒い影を揺らしている。夜霧がうっすらとかかった藍色の空には鋭い上弦の月が浮かび、穏やかに流れる川面にぼんやりとした光の筋を落としていた。
もし母さんとここへ来ていたら、どんな反応をしていただろう。
この窓辺からの景色を見て、きっといつものように、ころころと鈴を転がすような声で楽しそうに笑ってくれただろうか。
……よくよく思い返してみると、記憶の中にある母さんは、笑っている顔ばかりだ。
父さんが亡くなって以来、母さんが暗く落ち込んでいる姿を見た記憶がない。僕を不安にさせないために、一人でずっと気を張ってくれていたのだろうか。それとも、泣きたい夜を隠して朝を迎えていたのだろうか。
今となっては、もう答えてくれる人はいない。
じわりと、胸の奥のやわらかい部分が疼いた。
このどうしようもない痛みが恐ろしくて、嫌で、ずっと心の奥底に閉じ込めて、見ないふりをしてきたのだ。母のことも、父のことも。
それは、昔からの僕の悪い癖だった。
何かを失うたびに、思い出を、大事なものを、全部まとめて手放して忘れようとしてしまう。そうでもしなければ、立っていられなかったから。
『僕がわがままを言ったから、父は死んでしまった』
ただの不運な偶然だと、頭では分かっている。けれど、幼い頃に自分自身にかけてしまった呪いは、どれだけ月日が流れても消えてはくれなかった。
そして、母までもが死んでしまった。
親孝行をしようと、この旅行の計画を立てた矢先のことだった。
ここまで来ると、もうどうしようもなかった。
やっぱり自分は厄病神なのだ。幸せを予感した瞬間に、大切な人から順番に、僕の前から消えていく。
だから、未来に何かを期待するのはもうやめよう。大事なものは持たないようにしよう。
そうやって、心を空っぽにして生きていくのが一番正しいのだと考えていた。
——それなのに。
窓から視線を外し、背後の部屋を振り返る。
そこには、微かな月明かりに照らされながら、気持ちよさそうに寝息を立てている陽ちゃんがいた。時折、耳がピクッと動き、平和そのものといった顔で微睡んでいる。
幸せそうに寝息を立てるこの幼馴染だけは、いつだって僕を一人にはしてくれない。
どれだけ冷たくあしらっても、泣いて拒絶しても、僕を放っておいてはくれないことを僕は昔から知っていた。
その強引なお節介さが、どれだけ僕を苦しめて、そしてどれだけ僕を救ってくれたか。彼は、自分が僕の心にどれほどの光を投げ入れているのか、知っているのだろうか。
彼の底抜けの陽気に当てられていると、押し固めて隠していたはずのものが、春先の雪解けのようにいとも簡単にほつれていってしまう。
父の、目尻に深いシワを寄せたくしゃくしゃの笑顔。
母と並んでキッチンに立ち、包丁の持ち方を教わったときの少し焦げた匂い。
母と陽ちゃんと三人で、テーブルに乗り切らないほどのおかずを並べて賑やかに囲んだ食卓の風景。
次々と鮮明に蘇る記憶の波に比例して、胸の奥の痛みは確かな輪郭を持って強くなっていく。
けれどそれは、覚悟していたよりも耐えられないものではなかった。
……いや、違う。彼のお陰でいつの間にか耐えられるようになっていたのだ。
悲しくないわけではない。寂しくないわけでもない。
ただ、鋭い痛みとともに胸の奥底からとめどなく湧き上がってくるこの温かい感情は、きっと、痛くても手放してはダメなのだと今は思えた。
「……ん、凪?」
不意に、静寂を破るくぐもった声がして、肩が小さく跳ねた。
「……ごめん、俺、酔って寝ちゃってた?」
布団の上で上半身を起こした陽ちゃんが、ぽりぽりと頭を掻きながら寝ぼけ眼で呟く。そのままのそのそと重たい足音を立てて立ち上がり、広縁までやってくると、向かいの椅子にどっこいしょと腰を下ろした。
「なんか、考え事か?」
「……ううん。ちょっと、昔の事を思い出してたんだ」
「へー、どんなこと?」
まだ少しトロンとした目で、無防備に首を傾げる陽ちゃん。その気の抜けた顔を見つめていると、先ほど胸の奥に宿った温もりが、そのまま優しい形になって溶けて広がっていくような気がした。込み上げる愛おしさを少しだけ茶化すように口角を上げる。
「昔さ、母さんと陽ちゃんの家族で一緒に海にいったでしょ。ほら、陽ちゃんが海の家でカキ氷食べすぎて、お腹壊して帰りに漏らしそうになった……」
「なっ、なんでよりによってそれなんだよ!」
途端に顔を真っ赤にして、身を乗り出して抗議してくる陽ちゃんを見て、たまらず声を上げて吹き出した。
静かな夜の部屋に、飾らない二人の笑い声がぽとんと落ちる。
あんなに恐ろしかったはずの過去も、今は胸の奥にそっと抱えて生きていける。
そんな確かな手応えがあった。陽ちゃんが隣にいてくれるなら、僕はもう、独りきりの静寂に怯えることはないのだと思う。
けれど。胸を満たしたこの温もりが大きくなればなるほど、僕の心には、それと同じくらい深い影が落ちていく。
これまでもそうだった。僕の人生は、幸せを予感し、未来を期待した瞬間に、すべてが指の間から零れ落ちていく。
この先もずっと陽ちゃんと一緒にいたい。明日も、来年も、その先も、この眩しい笑顔を隣で見ていたい――。そんな当たり前の願いが喉元までせり上がってくるたびに、幼い頃にかけた自らの呪いが、冷たく心臓を締め付ける。
僕が厄病神であるという事実は、きっと一生変わることはない。
陽ちゃんのことが、あまりにも大事になりすぎてしまった。
もし僕がここに居続け、身勝手な幸福に浸り続ければ、いつか僕の呪いが彼にまで及んでしまうかもしれない。この太陽のような輝きを、僕のせいで失うことだけは、何があっても耐えられないのだ。
陽ちゃんのおかげで、僕は一度死んだ心に体温を取り戻すことができた。
だからこそ、僕はもうすぐ、自分の足でここを去らなければならない。
温まり始めた胸の奥に、わざと冷たい風を流し込むようにして。僕は窓の外、夜の雲に溶けていく朧月を見つめていた。
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「……ふぅー、着いたー!」
ガチャリと玄関のドアを開け、ずっしりと重くなった旅行カバンを床に下ろす。
ほんの三日間空けていただけなのに、しんと静まり返った部屋の中は少しだけ空気がひんやりとしていた。けれど、靴を脱いで廊下に上がると、奥の方から微かに漂ってくる凪の淹れる紅茶や、いつかの夕飯のスパイスの微かな残り香が鼻をかすめる。ここが俺たちの帰る場所なのだと主張してくるようで、肩の力がふっと抜ける。
「陽ちゃん、荷解きは後でいいから、先にお風呂入ってきなよ。長旅で疲れたでしょ。夕飯、簡単なものでいいならすぐ作るから」
「おお、悪いな。じゃあお言葉に甘えて」
脱いだ靴を揃えながら言う凪の気遣いにありがたく従うことにして、俺は着替えを持って洗面所へと向かった。
熱いシャワーを浴びて長旅の汚れと疲れを洗い流し、火照った体で脱衣所を出る。すると、リビングの方からカチャカチャと食器の鳴る音と、出汁のいい香りが漂ってきた。
髪をタオルで拭きながら扉を開けると、すでにテーブルには湯気を立てる温かいうどんが二つ並んでいた。温泉で散々ご馳走を食べてきた胃袋に、この親しみのある優しい匂いはたまらなく食欲をそそる。
「……あー、沁みるな」
ズズッと汁をすすると、じんわりとした温かさが五臓六腑に染み渡っていく。
「やっぱり旅館の料理とは、また別の美味しさがあるよね」
向かいの席で、凪もふうふうと息を吹きかけながらうどんを口に運んでいる。箸を動かしながら、話題は自然と旅行の思い出へと移っていった。
「でも、あの射的は凄かったね。陽ちゃん、最後の方は顔が本気だったもん」
くすくすと笑う凪の視線の先、テーブルの端には射的で手に入れたアヒルの人形がちょこんと置かれている。狙っていたわけじゃなく、俺がムキになって弾を撃ち込んだ結果、最後の一発で転がり落ちてきた戦利品だ。
「うるせえ。あのコルク銃、微妙に芯がズレてたんだよ。……まぁ、最終的に落とせたし、俺的には大満足だけどな」
うどんをすすりながら、二泊三日の出来事を一つずつ手繰り寄せる。列車での駅弁、食べ歩いた温泉饅頭、冷たかったジェラート。露天から見た夕焼けと、窓から眺めた夜の温泉街の景色。
「陽ちゃんは、食べ物ばっかだね」
「旅行の楽しみって、ご当地グルメが一番だろ?」
「本当に、陽ちゃんらしいね」
「なんだよっ、お前は何がよかったんだ?」
「……僕はあの川沿いの柳の景色が、すごく綺麗だなって思った。柳が揺れてて、川に月が映ってて。……母さんにも見せたかったな、なんて一瞬思っちゃった」
そう言って少し寂しそうに微笑む凪の顔には、以前のような暗い影はもうなかった。
「……ああ、そうだな。……また行こうぜ。今度は別の季節にさ。雪が積もってる頃なんかも、きっと風情があるだろうし。今度はカニも食べたいしな!」
「ふふっ、また食べ物の話? ……そうだね、また、行けたらいいな」
凪は嬉しそうに目を細め、最後の一口を飲み込んで「ごちそうさま」と静かに手を合わせた。
食後の食器を二人で片付け、テーブルを拭き終える頃には、すっかり夜も更けていた。
新しく淹れ直した温かいお茶を持って、リビングのソファに腰を下ろす。
テレビもつけず静まり返った部屋の中には、少し開けた窓から入り込む春の夜風がサワサワと微かな音を立てて通り抜けていくだけだった。
「陽ちゃん。今回の旅行、本当にありがとうね」
湯呑みを両手で包み込みながら、凪がどこか思案するように口を開いた。その声のトーンに、俺は手にしていた湯呑みを止める。
凪は視線を落とし、ただ手元をじっと見つめている。
「なんだよ改まって。俺も行きたかったから行っただけだって」
「ううん。陽ちゃんが強引に連れ出してくれなかったら、僕はずっと塞ぎ込んだままだったと思う。……あのね、道中で色々と考えてたんだ」
湯呑みから上がる細い湯気越しに、凪がこちらに視線を上げる。それから、しっかりと俺の目を見て微笑んだ。
「僕、もう大丈夫な気がする。まだ少し寂しくなる時はあるかもしれないけど……でも、ちゃんと前を向いて歩いていけそうだよ」
その言葉は、凪が完全に立ち直ったことを意味していた。
俺がずっと望んでいたゴールだ。
「……そっか。よかったな」
俺は短くそう返して、凪に向かって笑いかけた。凪が嬉しそうに長い耳を揺らして「うん」と頷く。
「でも、焦ることなんてないさ。これからのことは、ゆっくり考えていこうぜ。お前が本当に納得できるまで、ここに居ればいいんだから」
不意に出た自分の声に、自分自身で驚いた。
意識して出したつもりはないのに、俺はなんであいつを引き止めるようなことを口にしているんだろう。
「……ダメだよ、陽ちゃん」
ややあって、凪がぽつりとこぼした。
見れば、凪は膝の上で両手をきつく握りしめている。
「そんなこと言われたら、僕、ずっとここにいたくなっちゃう。……でも、それは、いけないことなんだ」
消え入りそうな声だった。その言葉は俺に向けられたものというより、自分自身に必死に言い聞かせているようだった。
「行かなきゃいけない理由なんて、どこにあるんだよ。無いだろ? だったら、もう少しだけいればいい」
「陽ちゃん、でも……」
「……言ったろ、『俺が安心するまで、俺の側にいろ』って」
縋るように、あの時の言葉を口にしていた。
凪は驚いたように目を丸くして俺を見つめ返し、やがて、小さく息を吐き出した。
「……そう、だったね。陽ちゃんがそう言うなら、もうちょっとだけ、この家でお世話になろうかな」
「……おう。そうしろ。そのほうがいい」
凪は困ったように此方を見つめていたが、俺はそれ以上何も言えず、気まずさを誤魔化すように、ただ残ったお茶を喉に流し込んだ。
***
深夜。
自室のベッドに横たわって暗い天井を見つめていた。
時計の秒針が進む音だけがやけに大きく響く中、ぐるぐると同じ思考が頭の中を繰り返し巡っている。
凪は立ち直った。
それはつまり、俺が凪をこの家に無理やり囲い込んでおく大義名分が、もう無くなってしまったということだ。
あいつには帰るべき家があって、あいつの人生がある。俺の役目は、あいつが元気を取り戻すまでの「一時的な避難所」を提供することだけだったはずだ。
それなのに。
この生活にやがて終わりが来るという当たり前の事実に気づいた瞬間、足元が崩れるような感覚に襲われた。
俺の生活はすっかり凪の色に染まっていた。朝のコーヒーの匂い、「おかえり」と出迎えてくれる声、休日の穏やかな空気。
「……俺は、何考えてんだろ」
暗闇の中で、誰にともなく呟く。
こんなのは子供じみた感傷だ。友達と遊ぶのが楽しくて、家に帰るのを嫌がる子供と変わらない。
立ち直った凪の背中を、笑って押してやるのが正解だとわかっているのに。
俺の心は、どうしようもなく自分勝手に、この騒がしくて温かい日々が終わってほしくないと願ってしまっていた。
……もう少しだけ。……まだ安心できない。
立ち直ったように見えるのも、一時的なものかもしれない。
あいつが本当に大丈夫になるまで、もう少しだけ様子を見る必要がある。
自分にそう言い聞かせるようにして強く目を閉じても、布団の中で丸まった身体の奥深く、得体の知れないモヤモヤだけが朝になっても消えることはなかった。
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