【第八話:咎火の絆 中編】

  暗がりの中、遠くの方にぼんやりとした明かりが見える。その中心に佇む、夕陽の影が、灯籠の灯りに照らされて揺らめいていた。

  目の前の光景に、朱雀は思わず息を呑んだ。

  夕陽が、刀を手に、立っていた。

  足元には血塗れの死体が横たわる。それは――

  夕陽とよく似た面影の、父、母。そして、幼い弟の亡骸だった。

  視界の端で銀郎が息を呑む気配がした。

  朱雀の胸を、怒りとも恐怖ともつかぬ感情が焼いた。

  いや、違う。これは――幻覚だ。夕陽様の見られたくない記憶を俺たちに見せてるんだ……!

  「見ないでくれ……」

  ぽつりと、夕陽が呟いた。

  手にした刀が、かすかに震える。夕陽の目には、涙すら浮かんでいる。

  その姿に、朱雀も銀郎も、声を失った。

  「夕陽様!!」

  二人の叫びが重なった瞬間、世界が砕けた。

  ハッとして、朱雀が跳ね起きた。

  だが、両腕には冷たい拘束の感触。鉄の手枷が、壁の鉄具に繋がれている。

  「ちっ……!」

  銀郎もまた目を覚まし、同じように拘束されていた。

  夕陽の姿を探して視線を彷徨わせると――その姿は、遠く、部屋の奥。

  静かに横たわっている。昏睡状態のまま、まるで人形のように、眠っていた。

  その傍に立っていたのは、先ほどまで丁寧な口調で応対していた狩谷晴継だった。

  彼は、嬉しそうに目を細め、ふたりに語りかけた。

  「お目覚めですね。安心なさい。彼は今、とても穏やかで、美しい夢を見ておられる」

  冷たい石の床に、打ち捨てられるように座らされた銀妖たちを、狩谷は愉悦の滲む目で見下ろした。

  朱雀の目が細められ、銀郎の声が静かに落ちる。

  「……お前、“狩谷”ではないな。――篠宮だろう」

  一瞬、場が静まり返る。だが次の瞬間、狂気すら滲む笑みを浮かべて、男は言った。

  「ご名答。でも……気づくのが遅すぎましたね? 主ひとりすら守れないとは……無力で愚かですね。その鋭い牙も爪も、縛られていてはただの飾り物」

  その声音は優雅に微笑んでいるのに、言葉の端々には嘲りと侮蔑が濃く滲む。

  朱雀は怒りを剥き出しにして睨み返すが、銀郎は無言のまま伏し目がちに座り、口を閉ざしていた。

  篠宮はゆっくりと銀郎の前に歩み寄ると、面を寄せて覗き込む。

  「……ああ、その顔。どこかで見たと思ったら――なるほど。お前の母親は、実に良い素材でしたよ。あの銀色の髪、清らかな霊気。加工に少々手間はかかりましたが……結果は上々だった」

  静寂が、場を支配した。

  朱雀が「てめえ……!」と声を上げるより早く、銀郎の身体が音もなく動いた。

  両手に嵌められた封印付きの手枷が、ミシ、と軋む。

  俯いたままの銀郎の表情は見えない。ただ、重く垂れた長髪の隙間から覗く金の双眸が、すでに怒りを通り越した冷たい殺意に染まっていた。

  「……貴様……絶対に、許さない」

  篠宮はその視線に微笑を深めると、背後の薄闇に一つの気配が蠢いた。

  それはかつて彼らが討ち滅ぼしたはずの、夢喰いの瘴気――しかし、今や篠宮の気配と溶け合い、まるで影のように従っている。

  「……ふふ、あの子には“居場所”を与えてやったのですよ。役に立つでしょう? 私の眷属としては、なかなか優秀でしてね」

  篠宮は、前方の石造りの祭壇を見つめていた。

  その祭壇の上には、夕陽が静かに横たえられている。昏睡したままの身体には、薄布のような白い衣がかけられ、その上から丁寧に外套が被せられている。

  まるで神聖な供物のように扱われながらも、そこにあるのは生ける人間だ。

  篠宮は恍惚とした表情で、夕陽の頬に手を添え、狂おしいほど甘やかな声で囁く。

  「……美しい。ようやく私の手に戻ってきてくれた……。これからは、永遠に私の傍にいるんですよ、夕陽君……あなたは、飾られているだけでいい」

  その頬に指を這わせ、口元に唇を寄せた――

  「やめろっ!!」

  朱雀が吠えるように叫ぶ。壁に繋がれた手枷が、軋みをあげた。

  「……ッ貴様、何をしている……!」

  銀郎もまた感情を隠しきれずに睨みつける。静かな怒気がその瞳に宿る。

  「滑稽ですね。喚くことしかできない獣は。これが“銀妖”ですか。いや、“素材”と呼ぶべきか……」

  篠宮は薄く笑い、夕陽の頬に口づけを落とした。

  「ご安心を。貴方たちもいずれ、我が最高傑作の一部として生き続けるのです。美の殉教者として、ね」

  朱雀の目が、猛る獣のように爛々と光る。

  「このッ……このクソ野郎おおぉぉ……ッ!」

  全身の力を込め、朱雀が鎖を引きちぎろうとする。鉄の軋みと共に、壁の石が砕け、手枷がぐらついた。

  次の瞬間――バァン!と、鋭い破砕音が響いた。

  「朱雀……?」

  銀郎が目を見開いた。

  鎖に縛られていた朱雀の腕が、壁ごと吹き飛ばされていたのだ。紅蓮のような髪が逆巻き、瞳は燃えるような深紅に染まっている。

  朱雀の全身から、黒紫の瘴気が立ち昇る。

  それは本来の霊力に、夕陽から分け与えられた呪詛の一端が混ざり合った、異質で強大な力。

  「ッ……ッあああああああっ!!」

  叫びと共に、背後に生えた尻尾が膨れ上がる。まるで蛇のようにくねりながら、獰猛な刃となって空を裂いた。爪は野獣のように変異し、牙も僅かに伸びる。

  理性が、意識の底に沈んでいく。

  「夕陽様に、指一本……触れてみろよ……」

  低く唸るような声。

  朱雀は、祭壇の前に立ちはだかると、主人を護る獣のように背を丸め、牙を剥いた。獣性に呑まれながらも、ただ一つ――夕陽を守るという意思だけが、辛うじて彼を繋ぎ止めていた。

  その様子に、篠宮は眉をひそめ、忌々しげに舌打ちした。

  「これだから、品のない獣は嫌いなんですよ」

  懐から取り出したのは、漆黒の[[rb:経巻 > きょうかん]]。それは夕陽すらも一目置いた、古の祓い師の道具。

  篠宮が呪を唱えると、経巻に宿った禍々しい気が黒き刃となり、朱雀の爪を弾き返した。

  「だが、それだけの力……美しさを否定してなお得た力か。滑稽ですねえ、実に哀れだ」

  その刹那、獣のように跳躍する朱雀。爪が風を裂き、篠宮の頬をかすめた。流れる血に、朱雀の瞳がギラリと光る。

  ――まだ、自我は残っている。

  だが、このままでは朱雀がまずい。

  完全に自我を失ってしまったら、何をしでかすか分からない――。

  篠宮の呪詛と、それを受け止めた夕陽から分け与えられた“力”。

  性質の異なる二つの呪が朱雀の身を通して共鳴し、彼を獣の咆哮と共に染め上げていく。

  暴れ狂う力は、壁を穿ち、結界を揺らす。

  ――だがそれは、朱雀自身を破壊する衝動でもあった。

  銀郎は唇を噛みしめ、拳をぎゅっと握り込んだ。

  (このままでは、本当に──)

  視線は、台座に横たわったままの夕陽へと向かう。

  夕陽様を目覚めさせることが出来れば、あるいは。……しかし、どうやって? 夢結びの符はここには無い。通常の手段では精神世界へ接触できない。

  ――だが。

  自らの胸にそっと手を当てる。

  まだ微かに残る、あの人の気配──呪詛の余韻が、心の奥を温かく揺らした。

  一度でも魂が触れ合ったのなら、きっともう一度、辿り着けるはず。

  銀郎は静かに目を閉じ、深く、意識を沈めていく。

  (行ける……これは、“導き”だ)

  光も音も届かない、深淵の闇。

  その奥に──懐かしい匂いと、優しい気配が待っていた。

  ――揺れる障子の影。

  座敷の奥、縁側には小さな夕陽が、誰かの膝枕で眠っている。

  父も、母も、兄も弟も、皆が揃っていた。

  穏やかすぎるほどの幸福。

  それが、夕陽の“最も大切な夢”。

  銀郎は、ただ立ち尽くしていた。

  なぜだか分からない。

  けれど、目の奥が熱くて、頬に伝う涙が止まらなかった。

  戸を開け、近づくと、夕陽がゆっくりと目を開ける。

  まだあどけない表情。茶色の瞳が、まっすぐ銀郎を見つめた。

  「……誰……?」

  銀郎は夕陽の前に片膝をつき、震える声で答えた。

  「……銀郎です。夕陽様」

  「ぎんろう……?」

  「……はい。貴方を、迎えに来ました……」

  「……? どうして泣いてるの?」

  「……ここが、とても綺麗で、尊くて……私が守りたかった場所だからです」

  幼い夕陽が小さな手を伸ばす。

  そして、ふわりと銀郎の頭を撫でた。

  「泣かないで……僕は大丈夫だから」

  伏せたままの銀郎の目から溢れた涙が地面を濡らす。その時、銀郎の頭を撫でていた手がピタリと止まった。

  「……あれ? 変なの……。前にもあなたの頭を撫でたことがあるような気がする……」

  その瞬間――周囲の空気が、ぱちりと弾けるように変わった。

  光が揺れ、夢の輪郭がゆっくりと歪んでいく。

  ふと見上げると、目の前の子どもが、今の夕陽へと変わっていた。

  「――ああ、こんなところにまで……来てくれたのか?」

  銀郎は言葉を返すこともできず、ただ頷いた。

  その目にはまだ涙が滲んでいたが、今度は、安堵に似た微笑を浮かべていた。

  銀郎は、そっと手を差し出した。

  「お戻りください、夕陽様。先ほどの男、やはり篠宮でした。朱雀が戦っていて、朱雀が危ない」

  「分かった、すぐ行く。迎えに来てくれて、ありがとう」

  夕陽がその手を取った瞬間、夢が砕ける音がした。

  夢喰いの呪縛が解けた瞬間、篠宮の放った禍々しい気配が、再び強く満ち始めていた。

  だが、その中心に立つ朱雀の動きが止まる。

  「朱雀」

  夕陽の声に応じて、朱雀の目に宿っていた赤黒い光が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。

  それは、意識を取り戻すための、わずかな隙だった。

  「朱雀……もういい」

  その一言が、朱雀の暴走を止める。

  苦しげに息を吐き、荒ぶる妖気が、わずかに鎮まった。

  そして――。

  「ああ、忌々しいッ、役立たずの夢喰いがッ……!!」

  篠宮の苛立った声が響く。腕に巻いた数珠と手にした経巻が再び禍を纏って唸る。

  しかし、夕陽は朱雀を庇うように、静かにその前へと立ちはだかった。

  「……私を怒らせたな、篠宮」

  その声音は、低く、静かで――ひどく冷たい。

  「そこをどいてください、夕陽君。君はその獣に惑わされている……!」

  懐から取り出した護符が、淡く輝く。

  主の手に呼応するかのように光を纏う。

  「朱雀を痛めつけ、銀郎の母を奪い……、私の家族を、弄んだ」

  その言葉と同時に、夕陽が護符を投げる。

  まっすぐ、銀郎の手枷へ。

  「――破ッ!」

  符が焼けるように光り、銀郎の手枷を締めつけていた呪縛を一瞬で砕く。力の奔流が弾け、銀郎の身体がぐらりと揺れた。

  「夕陽様……!」

  朱雀は呆然としながらも、夕陽の背に隠れるように動く。なおも震える指先が爪を立てようとするのを、夕陽が静かに手を添えて抑えた。

  「もう、いい。私が、戻った。これ以上、おまえたちを傷つけさせはしない」

  静かに、けれど確かな光をその瞳に宿して、夕陽は二人の前に立つ。

  篠宮は、唇を震わせ、恍惚にも似た笑みを浮かべた。

  「……やっぱり……やっぱりだ。君は“美しい”。あの時と、寸分も違わない……いや、今のほうが、もっと……」

  血のにじむほどに握られた手が、経巻をきしませる。

  「私だけがわかっているんだ。君がどれほど純粋で、壊れやすい存在か……。他の誰にも触れさせたくなかった。なのに……」

  夕陽の背後の朱雀と銀郎を、汚いものを見るような目で睨みつける。

  「――あんな穢れたものどもに、君を穢されるくらいなら……いっそ……」

  その言葉を、夕陽が静かに遮った。

  「もうやめてくれ、篠宮。……私は、もう君の幻想ではいられない」

  朱雀と銀郎を振り返り、穏やかな笑みを浮かべて言う。

  「私は……もう、一人じゃないんだ」

  夕陽がそう答えた瞬間、篠宮の唇が歪んだ。笑っているのか、泣いているのかも判然としない。

  ぴん、と張り詰めた沈黙が空を切る。次の一瞬には、すべてが動き出す――そんな予感だけが、場に残った。

  決着のときは、すぐそこにあった。

  続く