【第九話:こころ花、こぼれて】

  季節の境も分からないまま、ただ日が昇っては沈む日々だった。

  食事の味も、誰かの声も、すべてが遠く感じられた。

  けれどその日は、雨音の合間に、かすかな泣き声が混じった。

  家の裏手。竹の葉を濡らす雨音に紛れて、小さな泣き声が聞こえた。

  音のするほうへ近づくと、竹の根元に竹で編まれた籠が置かれていた。

  中を覗くと、濡れた布にくるまれた赤子が、か細く泣いていた。

  朱い髪。朱い尻尾。

  あまりに小さな体が、雨に濡れて震えていた。

  そっと抱き上げると、泣き止んだ。

  小さな小さな手が、夕陽の指をきゅっと握る。

  「……なんで、そんな目で見るんだ……」

  まっすぐだった。生まれたばかりのくせに、人の目をしていた。

  懐かしい温もりが指先から胸にまで広がる。

  思い出すのは、あの日、最後に抱き締めた弟の体温だった。

  何も守れなかった。自分の手で、壊してしまった。

  なのにまた、命を拾ってしまった。

  涙が止まらなかった。

  朱い小さな命にすがるように、夕陽はしゃがみこんで泣いた。

  ***

  銀妖の子を拾って三日目の朝。

  久々に炊いた粥の香りが静かな台所に満ちていた頃、朝影がふらりと顔を出した。

  「おい、夕陽……って、なんだそりゃ。小猿かと思ったぞ」

  夕陽が抱く赤髪の銀妖の子を見て、朝影は目を丸くした。

  「裏の藪に捨てられていた。……銀妖の子だ」

  「はは、まさかおまえが嫁もとらずに子持ちになるとはな。でも……夜白、末の弟が生まれたときのことを思い出すよ。おまえ、あの時と同じ顔をしてる」

  からかうような声音だったが、夕陽は微笑を返せなかった。

  胸の奥に広がる痛みは、まだ鈍く残っている。

  だが、その腕の中の小さな命は、違った。

  まだ細く頼りないが、朱い髪は熱を宿し、ちいさな指が夕陽の指をしっかりと握って離さない。

  昔――夜白が熱を出して泣いた夜を思い出す。

  冷えた手を包んでやると、すこしだけ落ち着いて、甘えるように袖を握って眠った。

  この子も、同じように震えていた。熱を奪われ、ひとりで、声もなく泣いていた。

  ぽたり、と、涙がその子の髪に落ちた。

  ――置いて、いけない。

  「……で、そいつの名前は?」

  湯呑みを手にした朝影が、不意に問うた。

  夕陽は言葉に詰まる。まだ、名はつけていなかった。

  その時、開け放った障子の向こう――朝の光のなか、庭の雀がチュン、と鳴いて羽ばたいた。

  赤い羽毛のような光が、ひときわ眩しく瞬いた気がした。

  「……朱雀にしようと思う」

  「おお、四神か。いいじゃねぇか。なんか強そうだしな」

  冗談めかして笑った朝影の声の奥に、ほんの僅かな安堵がにじんでいた。

  その変化に気づいて、夕陽はやっと小さく微笑む。

  止まっていた時が、ほんの少しだけ、動いた気がした。

  ***

  朱雀が夕陽と暮らしはじめて、幾日が過ぎた。

  最初は一言も喋らなかった子が、少しずつ声を出すようになり、指差しや笑い声が増えてきた頃――。

  ある日、町に下りた夕陽は朱雀を背負い、いつもの乾物屋に立ち寄った。

  子どもの背負い紐からちょこんと顔を覗かせた朱雀に、女将さんがにこやかに声をかける。

  「あらまあ、可愛らしい坊や。……夕陽様のお子さん?」

  夕陽は少し戸惑いながらも、「私の子ではないが、今は一緒に暮らしている」と答えた。

  「まぁまぁ、それでも夕陽様に育てられてるなら、立派な子になるに決まってますよ」

  女将さんは笑い、向かいの豆腐屋の主も、通りがかった子どもたちも、皆「夕陽様」「夕陽様」と口にする。

  背中で、朱雀がじっとしていた。

  帰り道、夕陽がふと気になって、「どうした?」と振り返ると、朱雀は夕陽をじっと見つめたまま、小さな声でつぶやいた。

  「……うーい、たま?」

  それは、初めて朱雀が夕陽を名前で呼んだ瞬間だった。

  夕陽は、少しだけ驚いて、すぐに表情を和らげる。

  「そうか、皆がそう呼ぶからな。……うん、好きに呼びなさい」

  朱雀は少し考えるようにして、もう一度、ぽつりと囁く。

  「……ゆういたま……」

  拙くも真剣な声音だった。

  それ以来、朱雀は一貫して、夕陽のことを「夕陽様」と呼び続けている。

  それが「名づけ親」でもあり、初めての「主」でもある夕陽への、幼いながらの敬意と、深い愛情の証であることに――夕陽は、まだ気づいていなかった。

  ***

  朝影が久々に家に戻ってきたのは、季節の変わり目のことだった。

  珍しく手土産などを持って、ふらりと現れた兄は、言いたいことだけ言うと満足げに煙管をくゆらせた。

  「なぁ夕陽、母方の縁続きのとこで婿を探してるらしいぞ。で、年頃の男といえばお前しかいないってさ」

  「それを、私に言うのですか?」

  「うん。お前、真面目だし。断れないだろ? ほら、俺はこの通り適当だし?」

  他人事のように笑う兄に、返す言葉もなく、ため息をついた。

  その夜。

  さりげなくその話を朱雀に伝えたとき、朱雀の反応は明らかだった。

  「見合いって……何で、今さらそんなもんを……」

  唇を噛むようにしながら、視線をそらす朱雀。

  普段なら軽口のひとつでも飛ばすはずの朱雀が、それ以上何も言わなかったことが、逆に印象に残った。

  (……そんなに、嫌だったか?)

  あの子の胸の内が、少しだけわかったような気がして、そして、わかりたくない自分にも気づいてしまう。

  夜。

  寝所で横になっても、朱雀の伏せた睫毛が頭から離れなかった。

  ずっと、あどけない弟のように思っていたのに。

  どこかで、そうではなくなっていることに、気づいていた。

  (気づかないふりをしていたのは……私のほうだ)

  自分の胸が、痛んだ。

  けれど、それが後悔なのか、期待なのか。

  まだ、夕陽自身にもわからなかった。

  ***

  夕陽様に見合い話が舞い込んだ。

  聞いたときは、正直、胸がズキリと痛んだ。でも俺は――祝福するつもりでいた。夕陽様が幸せになるなら、それでいい、と。

  (……俺なんかが、夕陽様の隣にいるより、きっとそのほうが……)

  相手は、隣町の由緒ある家の娘で、才色兼備だと噂だった。

  夕陽様も、特別嫌そうではなかった。

  (きっと、ああいう人が、夕陽様には似合ってるんだ)

  それなのに――見合いの翌日、先方から手紙が届いた。

  「……あちら、兄上の方が気に入っていたそうでな。『夕陽殿はやさしすぎて頼りがいがない』と、婉曲に断られてしまったよ」

  夕陽様は苦笑交じりにそう言って、肩をすくめてみせたけれど。

  ――その瞬間、俺の中にふっと風が通ったようだった。

  胸が軽くなった。張り詰めていたものが、ほどけていくように。

  (……なんでだ。俺、こんなに……ホッとしてる)

  自分でも驚くほど、安堵していた。

  夕陽様が誰かに取られないとわかっただけで、心の底から嬉しくて――

  (……ああ、そうか)

  俺は、夕陽様が幸せになるならそれでいいなんて、嘘だったのかもしれない。

  本当は――夕陽様の幸せを、自分が与えられるものだと信じたかっただけで。

  (……俺、夕陽様のこと……)

  その先の言葉を、まだ口にはできないまま。

  ただ、遠くで笑っている夕陽様を見つめていた。

  夕陽様の見合い話が流れた日を境に、俺の中で何かが変わった。

  ふとした瞬間に、夕陽様の姿を目で追ってしまう。

  声が聞こえると、心臓が跳ねる。

  朝、寝ぼけた顔で欠伸をしている姿にさえ、妙にどぎまぎして目を逸らしたくなるようになった。

  (……なにやってんだ、俺)

  自分で自分がよくわからなかった。

  だけど、気持ちは隠せない。

  夕陽様が誰かに優しくするだけで、胸がざわつく。

  俺に向けられる笑みと、他の誰かに向けるそれが同じに見えるたび、不安になる。

  そうしてある日、ついに我慢ができず、夕陽様に訊いてしまった。

  「……なぁ、夕陽様って、さ。誰かと一緒になりたいって思ったこと、ある?」

  夕陽様は不思議そうに俺を見たあと、ふっと微笑んだ。

  「昔はあったかもしれないな。でも、今は……お前がいてくれる。それで充分、幸せだよ」

  ――ずるい。

  そんなことを言われたら、もうどうしたらいいかわからない。

  この人は、俺の知らない哀しみを抱えて、それでも誰かの幸せのために笑う人だ。

  そんな人を、俺は――

  (守りたい。ずっと、傍にいたい。……この人を、俺のものにしたい)

  気づいてしまった。

  きっとこれはもう、ただの恩や憧れじゃない。

  ――恋だ。

  ***

  人間は皆、野蛮だから、近づいてはいけない――母様から、そう教わってきた。それが、銀妖にとっての常識だった。

  けれど、あの人は違っていた。

  なぜ、そんなことをするのか。それが、理解できなかった。

  だから、解ろうとした。

  ──昔、どうしてあいつがあの人にあんなになついているのか、私には分からなかった。

  だから直接聞いてみた。

  同じ部屋で、布団を並べて寝転びながら。

  同じ天井を見上げ、ふと問いかけた。

  「お前にとって、あの人ってなんなの?」

  朱雀は少し黙ってから、あっけらかんと笑った。

  「わかんねぇ。考えたこともなかった」

  その時、ますます分からなくなった。

  けれど──今なら、少しだけ分かる気がする。

  

  あの人のそばにいるようになって、どれほどの時が経っただろう。

  朱雀と夕陽を、じっと見つめる。

  二人で仲良く洗濯物を干していた。

  風に揺れる布の向こう、見えたのはあの人の横顔と、屈託なく笑う朱雀だった。

  ──親子のようだな、と思った。

  その時、ふと、あの人がこちらを振り返って微笑んだ。

  「おいで」

  胸の奥が、きゅっと軋んだ。

  どうしてだろう、呼ばれただけなのに。

  嬉しかった。けれど、それ以上に……どうしようもなく、切なかった。

  最初はただ、命を救われたことへの恩だった。

  振りほどいても、なお抱きしめようと手を差し伸べてくれたこと。

  居場所をくれたこと。

  傍にいてくれたこと――。

  雪のような人だと思った。

  触れようとすれば、ふわりと離れ、けれど決して冷たくはない。

  静かで優しく、でも、その奥底に決して触れられない寂しさを抱えている。

  その寂しさを、ずっと傍で見ていた。

  何もできず、ただ見つめるしかできなかった。

  ある冬の日。

  雪の中、あの人がふと手を差し出してきた。

  「寒くないか」と言いながら、自分の袖を私の肩にかけた。

  ただ、それだけのことだった。

  けれど――その一瞬、胸の奥が、静かに熱を帯びた。

  白い吐息の中、私ははじめて、自分の中にあった感情の正体に気づいた。

  これは、憧れなんかじゃない。

  尊敬でもなければ、恩でもない。

  (……私は、この人を、愛している)

  雪のように、知らぬ間に積もっていた想い。

  気が付けば、身動きができないほど深く、そしてそれは、もう簡単には融けそうになかった。

  ***

  朱雀と銀郎、二人の心の丈を打ち明けられたクチナシの香る庭に、茜色の風がそっと吹き抜けてゆく。

  言葉を返すことも、手を伸ばすこともできず、私はただそこに立ち尽くしていた。

  空はゆるやかに暮れかけ、光と影が交じり合う時間。白い花の香りが、夕暮れの空気にほのかに溶け込んでいた。

  私はその場に立ち尽くしたまま、二人の背をただ見送ることしかできなかった。

  ――追えなかった。

  「私より、もっと相応しい人を見つけてほしい」

  そう口にした自分の声は、思いのほか穏やかだった。心とは裏腹に。

  手のひらにまだ、朱雀が触れてきた温もりが残っている。銀郎の真摯な瞳も、焼きついて離れなかった。

  木々の間に立ち尽くし、茜色の空の下でそっとしゃがみ込む。

  ――どうして、こんなに胸が痛むんだろう。

  膝を抱え、顔を伏せる。じんわりと頬に熱が広がるのを止められなかった。

  「……まいったな」

  小さな声が漏れた。誰に届くでもない独白。

  愛されていることは、わかっていた。

  けれど――あの真っ直ぐな告白に、心が強く揺れた。

  でも。

  (私が応えられるはずがない)

  この身に巣食う呪いは、愛する者を喰らう。

  抱きしめたその腕の中で、大切な命を蝕んでしまう――。

  そんな未来を、私はもう二度と繰り返したくなかった。

  だから、拒んだ。嘘をついた。二人の気持ちに気づかないふりをした。

  本当は、ただ……怖かった。

  けれど、心はずっと叫んでいた。

  ――触れたい、と。

  それでも、あの手を取ることはできない。

  過去に壊してしまった温もりが、まだこの掌に焼きついているから。

  (……ごめん。私には、やはりあれが精一杯だ)

  微笑むことさえ、もう罪のようで。

  ただ、願うことしかできなかった。

  あの手に、もう一度だけ――触れられたならと。

  けれど風は通り過ぎ、朝日はただ静かに昇る。

  何も知らぬままに、優しく、残酷に。

  第九話:こころ花、こぼれて 完