【第十一話:八咫の契り 後編】

  淡い光に包まれた治癒の間。その静寂を破るように、夕陽のまつげがかすかに震えた。

  (……生きてる)

  意識がぼやける中、ゆっくりと目を開くと、傍らに黒耀の姿があった。心配そうに覗き込んでいる彼は、目が合った瞬間、わずかに表情を緩めた。

  そして、そっと夕陽の手を取り、甲に唇を落とす。

  「……すまなかった」

  低く押し殺すような声。けれど、それは確かな懺悔の色を帯びていた。

  「そう思っているなら、私たちを――人間界に帰してください」

  夕陽の目は、微熱を宿しながらも真っ直ぐ黒耀を見据えていた。

  黒耀はわずかに眉を動かし、長く息を吐いた。

  「……それはできない」

  「……なぜです?」

  しばしの沈黙の後、黒耀は静かに口を開いた。

  「この八咫には、[[rb:白蛇連 > はくじゃれん]]という敵対勢力がいる。先の抗争で、我らの結界は傷つき、歪みを生じた。――このままでは、里ごと崩れる危険がある」

  言葉の一つ一つが重くのしかかる。

  「結界を保つには、“光の楔”が必要だ。外から来た魂を――贄として捧げなければならない」

  黒耀の声に、かすかな痛みが滲んだ。

  夕陽の瞳が揺れる。

  「俺は未来視を持つ。未来の断片が時折、夢のように見える。その中に……お前がいた。光の中で、全てを救っていた。俺は……惚れた相手を、自ら捧げるなどしたくなかった」

  黒耀は拳を握る。

  「だから、お前を光の楔にせずに済む方法を、ずっと探していた。……だが、もう、時間がない」

  「……光の楔、ですか」

  夕陽はゆっくりと身を起こそうとするが、黒耀がそれを制するように肩へ手を添えた。

  「無理をするな。まだ……安静が必要だ」

  その優しさすら、今は痛かった。

  「私が……すべてを救う鍵になる未来……」

  ぽつりと呟き、視線を天井へ向ける。柔らかな光が揺れているはずなのに、心の中はざわついていた。

  「夕陽……」

  呼びかける黒耀の声に、夕陽は静かに目を閉じた。

  「貴方は、私を好きになったと言いました。……なら、せめて最後まで私を人として扱ってください」

  再び目を開いたその瞳は、穏やかで、どこか決意を秘めていた。

  「命を差し出すか否か、その選択をするのは――私です」

  黒耀は目を見開き、そして、苦悶を滲ませながら顔を伏せた。

  「……それが、できればどんなに良かったか」

  ふと、夕陽は黒耀の顔に手を伸ばす。その頬にそっと触れた。

  「……もう少しだけ、時間をください。決めるのはそれからです」

  その時、扉の向こうで衣擦れの音がし、控えめに襖が叩かれた。

  「……失礼します。鴉宮です」

  黒耀の頷きを確認してから、鴉宮が静かに治癒の間へ入ってくる。手には文書らしき巻物、顔は沈痛な面持ちだ。

  「夕陽殿の容態が落ち着いたと聞き、状況のご報告に参りました」

  夕陽は鴉宮に軽く頭を下げ、「ご迷惑をおかけしました」と言った。だが鴉宮は首を横に振り、静かに口を開く。

  「銀郎殿と朱雀殿は、今も離れにて待機しております。……銀郎殿は、すぐにでもここへ駆けつけたがっていましたが、夕陽殿の静養を優先すべきと説得いたしました」

  その言葉に、夕陽の胸がきゅっと締め付けられた。あの二人の顔が脳裏に浮かぶ。

  ……咄嗟の事で、護符を使う猶予さえなかったが――守れて良かった。

  「……私が目覚めたことを、彼らに伝えてください。安心させてあげてほしい」

  「かしこまりました」

  鴉宮が静かに頭を下げると、ふと、黒耀が言葉を挟んだ。

  「……鴉宮。結界の歪みは、どうなっている?」

  「……依然として、広がりを見せています。今のところは私と有志で応急の術を重ねておりますが、時間の猶予は……長くはありません」

  室内に再び重苦しい沈黙が落ちた。

  夕陽は静かに視線を落とし、自らの胸元にそっと手を当てた。

  (本当に、私が鍵なのだとしたら……もしかしたら、他になにか出来ることがあるのかもしれない……)

  ***

  日が少し傾きかけた頃、夕陽のもとを訪れたのは、銀郎と朱雀だった。

  襖が静かに開き、二人の姿が差し込む光の中に浮かび上がる。

  最初に入ってきた銀郎は、夕陽の姿を目にするや否や、寝台の傍らに跪き夕陽の手を握った。

  「……申し訳ありません。私が、あの場で止めきれなかったせいで……!」

  「いや、私が咄嗟にしたことだ。お前のせいじゃない。お前を守れなかったら、きっともっと後悔していた」

  穏やかな夕陽の声に、銀郎の肩がわずかに震えた。彼が顔を上げると、瞬きした瞬間、瞳に溜めた大粒の涙がぽろりと零れた。

  続いて入ってきた朱雀は、部屋の敷居で立ち止まったまま、微動だにしなかった。夕陽の姿を見つめたまま、ずっと動かない。

  「……朱雀?」

  その名を呼ばれた瞬間、朱雀の身体がぴくりと揺れた。いつものように穏やかに微笑む夕陽を見て、ぶわっと涙がこぼれ落ちる。

  「夕陽様……ッ! 本当に……生きてる……!」

  朱雀は佇んだまま子供のように涙を拭う。

  「俺が……俺が、俺のせいで……ッ。夕陽様があんな目に遭って、血が、止まんなくて……!」

  「……朱雀。こっちおいで」

  朱雀はしゃくりあげながらも、一歩、また一歩と近づき、膝をついて夕陽の胸に顔を押し当てた。

  「私の声が聞こえるだろう? こうして、手もあたたかい。……私はここにいるよ」

  その言葉に、朱雀は目を真っ赤にして頷き、また泣いた。

  その頭にそっと手を添えながら、夕陽は目を閉じた。

  ――どれほどこの温もりに、救われてきただろう。

  そしてその温もりを、もう二度と失ってはならないと、深く、心に誓った。

  ***

  明くる日。

  治癒の間には朝の光が差し込み、白布に覆われた部屋をやさしく照らしていた。枕元には朱雀が座ったまま眠っており、少し離れた壁際では銀郎が目を閉じて静かに佇んでいた。

  その中で、夕陽はゆっくりと身を起こした。まだ体は重かったが、意識ははっきりしている。彼は傍らに控えていた従者に声をかけた。

  「……黒耀殿を、呼んでいただけますか」

  程なくして現れた黒耀は、疲労と安堵の混じるような顔つきで夕陽のそばに跪いた。夕陽はそんな彼に、少し微笑んで言う。

  「ひとつ、お願いがあります。……結界の要。実際に、目で見せていただけませんか」

  黒耀の表情がわずかに曇る。だが、夕陽の瞳に宿る真剣な光を見て、何かを悟ったように小さく頷いた。

  「……わかった。だが、あれは“見せるだけ”でも、魂に負荷がかかる可能性がある。完全には近づかせられないが……案内しよう」

  夕陽はそっと寝台から身を起こす。朱雀が目を覚まし、慌てて止めようとしたが、夕陽は優しく手を重ねて制した。

  「大丈夫、少し見るだけだ。……その目で確かめないと、前に進めそうにない」

  黒耀の案内で、夕陽たちは八咫の深奥へと向かう。白蛇連との抗争の傷跡、歪み始めた結界の気配、そして――そこに存在する「要」。

  それは、見る者に“未来を選ばせる”試練のようでもあった。

  ***

  連れて行かれたのは、八咫の外れ、静かな風が吹き抜ける広大な草原だった。

  そこに忽然と現れたのは、巨大な石柱が環状に並ぶ、まるで異界の祭壇のような空間。石はすべて黒く、深い亀裂が走っている。その中心には、他とは異なる一本の柱――漆黒の塔がそびえていた。

  「……これが、“要”」

  夕陽が呟くと、風が一瞬止み、空気が張りつめた。

  ただの石ではない。その塔の中には、人の輪郭をかすかに感じさせる光の影が沈んでいた。

  「過去にこの里を救った、外の魂だ」

  黒耀の声は低いが、どこか祈るようだった。

  「この場所は、大地の霊脈が交わる特異点。そこに外から来た魂を“光の楔”として捧げることで、結界は均衡を保つ……。だが、それは同時に“戻れぬ者”となることを意味する」

  夕陽は、足元に広がる草の感触と、空の広さを感じながら黙っていた。

  草原には命の気配が満ちているのに、この中心だけが異様に冷たい。結界を維持する代償が、どれほど重いか――この場に立つだけで理解できた。

  「ここに、私を捧げるつもりだったのですか」

  夕陽の問いに、黒耀は答えなかった。否定も肯定もせず、ただ静かに目を伏せる。

  「……未来視で見えたのでしょう? 私がここに立つ姿を」

  「――そうだ」

  絞り出すような声には、哀しみが滲んでいた。

  「だが、お前が目覚めた今……俺は、別の道を探す。お前を、この場所に閉じ込めたくはない。二度と」

  夕陽はわずかに目を細め、風に揺れる草原の先を見つめる。

  そして、そっと口を開いた。

  「……あの方も、黒耀殿にとって、大切な人だったのですね」

  黒耀の瞳が微かに揺れた。だが、すぐに視線を逸らし、言葉を返さない。

  その沈黙が、何よりも雄弁だった。

  過去に従うしかなかった後悔が、ひしひしと伝わってくる。

  夕陽はそれ以上を問わず、ただ結界の向こうに広がる風景を見つめていた。

  ひときわ強い風が吹き抜け、草原を揺らす。

  夕陽は静かに目を閉じ、胸に手を当てる。

  やがて黒耀の方へと顔を向け、柔らかな声で告げた。

  「――もしかしたら、なんとかなるかもしれません」

  夕陽は懐から、一体の紙の人形を取り出した。白く、簡素な形のそれは、まさしく夕陽の式神《しきがみ》。 けれど今のままでは、力が足りない。

  夕陽は静かに振り返り、朱雀と銀郎にまっすぐ視線を向けた。

  「……頼みがある。お前たちの血を、私に分けてほしい」

  朱雀と銀郎が目を見開いた。夕陽は微笑む。

  「これは命を削るものではない。けれど……お前たちとの絆を、力に変えたい」

  朱雀はすぐに懐から小刀を抜くと、左の手首を迷いなく横に引いた。赤い筋が浮かび、そこから滴る血が草原に垂れる。

  「そんなの、どうだっていい。俺は、夕陽様のためなら――命ごと全部、差し出す」

  銀郎も無言で刀の鞘を外し、自らの手の甲に刃を当てて切り裂いた。傷口から、鮮やかな銀妖の血がボタボタと流れ出す。

  「……命を削る儀ではなくとも、私はこの血に誓います。貴方が命を救ってくれた日から、私の命は貴方のものです」

  ふたりの血は風に乗って式神の紙へと吸い込まれていく。薄く揺れていた白い紙は、血を受けた瞬間、ぴたりと動きを止めた。

  そして――夕陽もまた、自らの指を切った。祈るように、そっと両手で包み込むと、三者の血がひとつに混ざり合い、霊力が式神に注ぎ込まれる。

  眩い光が炸裂する。紙は姿を変え、深紅の羽を持つ一羽のカラス――[[rb:赤烏 > せきう]]となって空へと舞い上がった。

  赤烏は天高く舞い上がると、空の頂で一際眩く輝きを放った。やがてその身は、燃ゆるような閃光となって弾け、無数の光の粒となって空へと散ってゆく。

  花火のように降り注いだ光は、草原一帯をやわらかに照らし、空気ごと温かく包み込む。光の粒はゆっくりと結界へと吸い込まれ、その歪みを穏やかに、確かに正していった。

  「……美しい」

  黒耀は、思わず息を呑んだ。己の意志を退け、なおこの力を放つ夕陽の背に、言葉では言い尽くせぬ感情が込み上げる。光に染まる横顔が、まるで神そのもののように見え、胸の奥が軋んだ。

  (……これが、本当に“人”の力なのか)

  鴉宮もまた、沈黙のまま光に見入っていた。忌まわしき役目を背負い、なお誰かを守ろうとする姿――その力の本質に、心のどこかを強く揺さぶられていた。

  ***

  全てが終わった時、夕陽は崩れるようにして意識を失っていた。

  血を媒介に顕現させた式神。それが結界の歪みを正した代償は、確かに夕陽の身を削っていた。

  強力な霊力を注ぐたび、命の蝋燭はわずかずつ燃え縮んでいく。

  夕陽が再び目覚めたのは、柔らかな布団の中だった。

  天井を見つめたまま、しばし呼吸を整える。手足に力は入らず、心臓の鼓動もどこか遠い。

  式神との契約は、肉体だけでなく魂にも負担をかける――その鈍い痛みが、体の芯から伝わってきた。

  夕陽の目覚めに気づいた黒耀は、静かに歩み寄る。周囲の視線を意にも介さず、寝台の傍らに立つと、すっと片膝をつき、その手をとった。

  膝をついたまま、黒耀はゆっくりと顔を上げた。

  「……我が目を曇らせていたのは、お前の強さだった」

  己の非を認めた瞳には、もはや慢心も見下しもなかった。ただ、揺るぎない決意の色だけが宿る。

  「夕陽――やはりお前は、俺の伴侶に相応しい。共に在る者として、並び立つに足る器だ」

  そして、言葉を選ぶように息を整えると、真摯な声音で続けた。

  「このまま八咫に留まり、里の為に……そして、俺の為に傍にいて欲しい。これは、俺の心からの願いだ」

  跪く黒耀の姿は、王の威厳を持ちながらも、一人の男としての想いに満ちていた。

  その声に、夕陽はただ静かに耳を傾けていた。

  部屋の隅からその様子を見ていた朱雀が、小さく舌打ちをする。

  「あのバカガラス、また……!」

  隣で黙っていた銀郎が、そっと朱雀の肩に手を置く。それだけで、朱雀は言葉を飲み込んだ。

  黒耀のその瞳には揺るぎない敬意と誠意が映っている。だからこそ、夕陽は静かに、しかし曖昧さのない声で応えた。

  「……黒耀殿。ありがたいお言葉、痛み入ります」

  そっと視線を落とし、笑みを浮かべる。

  「ですが、私はやはり――毎朝、庭を掃き、季節の草花に水をやるような暮らしの方が、性に合っております」

  冗談めかさず、穏やかな断りの言葉。

  「貴方の隣に立てる器かどうかも、私にはわかりません。けれど、命を張ってでも守りたい者が、既に私にはおりますので……」

  そう言って、夕陽は朱雀と銀郎を見据える。その声に、嘘も迷いもなかった。

  黒耀は、ほんのわずかに眉を動かすと、夕陽の言葉を噛み締めるように静かに頷いた。

  「……そうか。わかった」

  低く抑えた声には、どこか名残惜しさと、しかし相手の意思を尊重する潔さが同居している。視線を伏せ、そっと夕陽の手を離す。

  「だが――心変わりしたら、いつでも来てくれ。八咫の門は、おまえのために開いている」

  立ち上がった黒耀は、それ以上言葉を重ねることなく一礼し、ゆっくりとその場を後にした。

  残された空間に、かすかな風が吹き抜ける。朱雀と銀郎がいる方向へと目を向けた夕陽は、小さく息をついて笑った。

  ***

  帰路に就く三人を見送るため、鴉宮が一人、里の門へと姿を現した。

  「夕陽殿、主の無礼、重ねてお詫び申し上げます」

  真面目な顔を崩さずに、鴉宮は深々と頭を下げる。

  「黒耀様は……顔を見ると、帰したくなくなる、とのことで。私が見送るよう仰せつかってきました」

  思わず苦笑を漏らしそうになったが、夕陽はそれを堪え、静かに会釈する。

  「……黒耀殿によろしくお伝えください。“お心遣い、感謝しております”と」

  それだけを残し、夕陽は銀郎と朱雀を連れて、ゆるやかに道を歩き始めた。

  鴉宮は深く息を吐くと、どこか安堵の色を滲ませながら、三人の後ろ姿に静かに手を合わせる。

  「……まったく、惚れた弱みというものは、厄介なものですね」

  そして――

  その後しばらく、夕月庵の周辺では“とばっちり”が話題となった。

  それはある日、庭に降り立った一羽のカラスが、いきなり竹箒を持った朱雀に全速力で追いかけられるという出来事から始まる。

  「てめぇの顔見ると、ムカつくんだよッ!! そっち帰って伝えとけ、バカガラスがッ!!!」

  カラスが「カァー」と鳴いたかと思うと、すぐさま朱雀の蹴りが地面を抉る。通りがかった近隣住民が目撃したのは、銀妖の青年と鳥の一方的な戦争である。

  「朱雀、それはただのカラスだ」と銀郎が呆れ顔で言えば、

  「そんなの、わかんねぇだろ? あいつの手先かもしれねぇし……、似てんだよ! 特に目がなッ!!」

  「目って……おまえ、どこ見てるんだ」

  「うるさい!! 庭荒らされたら困んだろッ!!」

  夕陽はというと、そんな様子を見ながら黙々と花に水をやっていたが、ふと小さく呟いた。

  「……あの竹箒、今月三本目だな……」

  日常が戻ってきた証として、今日も庭には元気な朱雀の怒声と、銀郎の嘆息、そして夕陽の静かな笑みがあった。

  【第十一話:八咫の契り】 完