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小さな背が、懸命に走っていた。
草履が脱げそうになるのも構わず、茜色に染まる庭を駆けていく。
頬に残る涙の跡が、夕焼けにきらめいていた。
朱雀は、まだ子供だった。
夕陽に拾われて数年。赤い髪と尻尾のせいで、町では「禍の子」と陰口を叩かれることもあった。
けれど今日のそれは――あまりにも、ひどすぎた。
夕陽の使いで薬種屋に向かった帰り道。
朱雀はいつも通る裏通りで、町の子供たちに出くわした。
「ねえ見て、あれ……あの赤いやつ」
「ほんとだ。あれ、あの銀妖の……捨てられっ子だよね」
「……四條のとこの若旦那、なんであんなの匿ってるんだろうね?」
「さあてなぁ……家族を亡くして、気がふれたんじゃねぇのか。それとも、若ぇ男のほうがお好みって話かもなぁ」
「嫁も取らずに、小僧なんぞにご執心じゃあ……人のいい面してても、裏じゃ何してるかわかったもんじゃねえな」
笑いながら口々に言う声が、どれも針のように刺さった。
胸がぎゅっと詰まって、喉が痛くなる。叫びたくても、言い返せなかった。
家に着いた朱雀は、玄関へ向かわず庭の井戸に足を向けた。
桶で水を汲み、顔をばしゃりと洗う。冷たい水が目に染みて、さらに涙が零れそうになるのを、必死でこらえる。
そこへ、縁側から声がした。
「朱雀?」
夕陽が、ゆるやかな微笑みを浮かべて立っていた。
「……おかえり」
その笑顔を見た瞬間、こらえていた涙が、とめどなく溢れた。
必死に顔を洗って、泣いたことを隠そうとしたのに。
誰にも見せたくなかったのに。
夕陽の、あの人の優しさだけが、心の壁を一瞬で崩してしまった。
朱雀は言葉にならない嗚咽を飲み込み、ぎゅっと目を伏せた。
夕陽は何も問わなかった。
朱雀が時々、町の子供たちに何か言われていることを、薄々知っていたからだ。
けれど今日の涙の理由は、きっとそれだけじゃない。
自分の出自を嘲る声よりも、自分のせいで夕陽という人を、知らない誰かが侮辱したこと――
それが何よりも悔しかった。
「……家にお入り」
夕陽は、いつもと同じ穏やかな声でそう言って、部屋の中へと戻っていった。
少しして、箪笥の引き出しを探っていた夕陽が、何かを手にして戻ってきた。
縁側の近くで、しょんぼりと立ち尽くす朱雀の前に、それをそっと差し出す。
「ちょうど、お前に渡したいものがあったんだ」
それは、細やかな刺繍が施された、手作りの御守りだった。
小さな布袋には、花のような模様と、夕陽の丁寧な針目が揃っている。
「強くなれる、おまじないだよ」
朱雀は、涙で濡れた手のひらで、その御守りをそっと受け取った。
けれど、手が震えて、涙があとからあとからこぼれて止まらない。
「……あれ?」
自分でも驚いたように目を瞬かせる朱雀を、夕陽は少し困ったように見つめた。
優しく微笑んだまま、けれど、どうしたものかと小さく息をつく。
「……そんなに泣かれると、私が困るよ」
そう言いながらも、夕陽の手が、そっと朱雀の頭に触れる。
その手の温もりが、朱雀の心にじんわりと沁みていった。
***
夜半。虫の音も遠のき、しんと静まり返った屋敷。
朱雀は、ふと目を覚ました。
すごく懐かしい夢を見ていた気がする。けれど、目が覚めた途端に、輪郭が曖昧になって思い出せない。
けれど、あたたかくて、優しくて――胸の奥がじんわりと疼いた。
寝返りを打った拍子に、隣の布団が空っぽなのに気づく。
(……銀郎、[[rb:厠 > かわや]]か?)
特に気にすることもなく、自分も身体を起こす。
ひと息ついたあと、朱雀も厠へ向かう。
そして、帰り道。
ふと、視線の端に見えた。廊下の向こう――
夕陽様の部屋の、少し開いた障子のすき間。
(……いねぇ)
一瞬、何かが胸の奥をかすめた。
それは風でもなく、虫の気配でもなく――
言葉にならない、冷たい予感。
思わず足が止まる。
無意識に拳を握っていた。
どこか、奥の方で、目を逸らしていた感情が目を覚ましかけていた。
何気なく目を向けた縁側の先――
暗がりの中、屋敷の端にある離れの障子越しに、うっすらと灯りが滲んでいた。
その瞬間、朱雀の胸がドクンと大きく脈打った。
いやな鼓動だった。
奥底でずっと鳴っていた警鐘が、今さらになって本気を出している。
(まさか……)
理性が引き留める。
行くな。見るな。
だけど――気持ちが止められなかった。
吸い寄せられるように、朱雀は音も立てず、慎重に中庭を渡る。
冷たい風が襟元を抜けても、足は止まらなかった。
離れの外壁にそっと背を寄せる。
そして、耳を澄ませた。
……夕陽様の声。
……銀郎の声。
やさしくて、哀しくて、触れてはいけない音色が、夜気の向こうに揺れていた。
「……やっと、お前に触れられた……」
その言葉に、朱雀は拳をぎゅっと握りしめた。
爪が掌に食い込むのも気づかずに。
ひとことも声を発さず、そのまま踵を返す。
音もなく、気配もなく、朱雀は自室へ戻った。
布団に身体を沈めても、眠れるはずがなかった。
閉じたまぶたの奥に焼き付いていたのは――
あの人の声と、笑みと、触れていた誰かの影だった。
――しばらくして。
廊下の向こうから、そっと足音が近づいてくる。
軽やかに、慎重に、気配を殺した気遣いが、逆に鋭く胸を刺した。
銀郎だった。
戻ってきたのだ、あの離れから。
朱雀は、目を閉じたまま動かなかった。
寝息さえ整えて、まるで深く眠っているかのように。
けれど、内心は荒れ狂う嵐だった。
(……夕陽様と、同じ匂いがする)
銀郎の纏う香の気配が、はっきりと鼻腔をくすぐった。
――それは、あの離れで焚かれていた香。
かつて夕陽が好んでいた、あの香りだった。
何も言えなかった。
何も聞きたくなかった。
銀郎が布団に潜り込む気配を感じても、背を向けたまま、朱雀はただひたすら寝たふりを続けた。
目を開ければ、心が壊れそうだった。
だから、朱雀はそのまま、朝が来るのを待ち続けた。
眠れぬ夜が、静かに、酷く長く――過ぎていった。
***
朝、縁側に座る夕陽と銀郎。その姿はいつものように穏やかで、昨夜の事が嘘のようだった。
夕陽が銀郎に湯呑を渡すと、銀郎がほんの少し、指先でその手に触れた。
その光景を、朱雀は遠巻きに見ていた。
胸の奥がじくじくと痛む。笑っている場合じゃないのに、あの人は、もう――。
食事の席でも、朱雀の箸は進まなかった。
そしてその不機嫌さに銀郎が気づきながらも、何も言わないまま時間が過ぎていく。
我慢の限界が来たのは、夕陽が席を外したあとだった。
「……なあ、昨日のこと。何もなかったって顔してんの、どういうつもりだよ」
静かに、だが怒気を含んだ声で朱雀が切り出す。
「……何を言ってる」
「とぼけんな。昨晩、夕陽様と離れにいただろ」
銀郎の目が見開かれる。
「黙ってたら知らん顔して通り過ぎられると思ったのかよ? ……舐めんな!」
朱雀の激しい言葉に、銀郎はしばし目を伏せ、そしてゆっくりと口を開く。
「……勝手なことを言うな」
声は低く、静かで、けれど確かな棘があった。
「は? 勝手なことしてんのはそっちだろ! ふざけんじゃねぇ」
語気を強め、荒々しく立ち上がった朱雀が銀郎の胸ぐらを掴む。抑えきれない怒りと焦りが、その指先に滲んでいた。
だが銀郎は動じず、静かに朱雀を睨みつけるように見据える。
「……私は――夕陽様の苦しみに気づいた。気づいてしまったから、手を伸ばした。それだけだ。 お前は……誰よりも近くにいたはずなのに、見ようとしなかったんだろう?」
その言葉に、朱雀は一瞬、息を呑む。まるで、心の奥底を抉られたような感覚だった。
「……は? なんだよ、それ……」
「八咫の里で使った式神は、夕陽様の――命を削って召喚されたものだった。
儀式のあと倒れたのも、ただの病み上がりじゃない。……私が知ったのは、それだけだった」
銀郎の胸ぐらを掴む手が微かに震えた。
胸の奥に鋭い杭を打ち込まれたような痛みが、朱雀を襲う。
銀郎は、知っていた。自分の知らない夕陽様のことを。 ずっと傍にいたのに。誰よりも見ていたと思っていたのに。
気づけなかった。見逃していた。気づこうとすら、しなかった。
あの式神は、ただの術じゃなかった。
――夕陽様が、自分を削ってまで人を救おうとした、自己犠牲の結晶だった。
命を、削ってまで。誰にも気づかれないまま。
それを笑って、「いつものことだ」とでも言うように、あの人は――。
――なのに、自分は何を誇っていた?
「だから私は、夕陽様に命の欠片を渡した。それが、私にできることだったから」
「……命の……欠片?」
朱雀は思わず聞き返した。けれど銀郎は、ただ静かに頷いた。
「私の魂の一部だ。夕陽様がこれ以上、己の命を削らずにすむように……」
その言葉の重みが、朱雀の胸にのしかかる。
「鬼灯を通して、夕陽様に繋いだ。お前は、知らなかったようだが――あの方の中には、式神がいる。名を、鬼灯という」
初めて聞くその名に、朱雀の胸がざわつく。
式神。鬼灯。
夕陽様の身体に宿るそれは、銀郎の魂と結びついた、守りの術――。
知らなかった。
そんな大事なことすら、自分は何ひとつ知らなかった。
掴んでいた拳が震え、抵抗するようにしがみついていたのに、ふいに力が抜けた。
銀郎の胸ぐらから手を離すと、そのまま掌を下ろし、唇を噛みしめた。
朱雀の視界がにじむ。見下ろした銀郎の姿が、にわかに滲んだ。
ずっと守ってきたと思っていた夕陽を、少しも守れていなかった事実に、朱雀の中の何かが音を立てて崩れた。
自分は、ただ傍にいただけだった。笑ってくれることに甘えて、傷つく姿から目を背けて――守ったつもりになっていただけだったのだ。
噛みしめた唇から滲んだ血の味がしても、それを拭う余裕なんてなかった。
「……ッ……!」
掠れた吐息と共に、朱雀は席を蹴って一気に縁側を飛び越え、屋敷の外へと駆け出した。
「……朱雀!」
背後から銀郎の呼ぶ声が追ってきたが、もう振り返ることはできなかった。
風が木の葉を揺らし、遠くで雷鳴が低く鳴っていた。
森の奥、古い大木の枝に腰かけて、朱雀は項垂れていた。空は雲に覆われ、今にも雨が落ちてきそうだった。
指先が、首元の紐をそっと探る。そこには、子供の頃――泣きながら家に帰った日に、夕陽からもらった小さな御守りがぶら下がっていた。
ずっと肌身離さず持っていた。守られている気がして、大切にしていた。
それなのに――
(……俺じゃ、駄目だったんだな)
唇を噛みしめる。
銀郎の言葉が、頭の奥にこびりついて離れない。
――夕陽様は、命を削って式神を使っていた。
――それに気づいたのは、自分ではなく銀郎だった。
――命の欠片を渡したのも、自分ではなく銀郎だった。
誰よりも長く一緒にいたはずなのに。
一番そばで見ていたはずなのに。
何も気づけなかったのは、自分だった。
(だったら、俺は……なんのために、ここにいたんだ)
小さく嗤う。胸が、じくじくと痛む。
自分はただ甘えていただけだった。夕陽様の隣にいることが当然で、何も疑いもしなかった。
夕陽様が、銀郎を選んだんだ。
苦しみに気づき、命を繋ぎとめたのは――俺じゃなかった。
掌に収めた御守りを見つめる。
朱雀は、強くそれを握りしめて、首の紐を引きちぎった。
そして振りかぶる。思いきり、遠くへ投げ捨てようと。
……けれど、できなかった。
手が震えた。腕が止まった。
どうしても、できなかった。
(夕陽様……)
目を閉じた。御守りに刻まれたあたたかい記憶が、胸の奥に浮かんでくる。
雪の日に、ぎゅっと手を握ってくれたこと。
夜中に泣いた自分を抱きしめてくれたこと。
ただ「大丈夫だよ」と笑ってくれた、あの声――。
「……う、あ……っ……夕陽様……っ」
ぐしゃ、と御守りを胸に抱きしめて、肩を震わせる。
遠くで、またひとつ雷が鳴った。
***
日が暮れ、夜遅くになっても朱雀は戻らなかった。
外は、いつのまにか土砂降りになっていた。
屋敷の軒を叩く雨音が強まり、空気は冷え、空には雷鳴もちらつき始めている。
「……遅いな」
夕陽は静かに呟いた。
その声音に、銀郎はふと顔を上げる。
廊下の灯りが揺れる中、夕陽は窓の外を見つめていた。
「銀郎。朝から朱雀を見てないんだが、なにか知らないか?」
問いかけられた銀郎は、わずかに眉を曇らせる。
そして、ほんの短い沈黙のあと――観念したように口を開いた。
「……今朝、口論になりました。朱雀が……昨晩のことを知っていて。私も……感情的に言葉を返してしまって……」
「……そうか」
短く応じた夕陽は、そのまま踵を返す。
「迎えに行ってくる」
その背に、銀郎の手が咄嗟に伸びた。
濡れた木戸を開ける前、思わずその手首を掴んでいた。
「……!」
銀郎の表情は、苦しげだった。
言いたい言葉が喉元まで上がっているのに、それを呑み込んでしまう顔だった。
「朱雀の……居場所、わかるんですか……?」
「――ああ。心当たりがある」
銀郎は、わずかに目を伏せ、名残を惜しむように手を離した。
「……行ってあげてください。きっと朱雀も、貴方を待っています」
夕陽はふっと微笑み、何も言わずに雨の中へと歩き出す。
朱の番傘が、静かに雨に滲みながら遠ざかっていった。
止めたかった。行かせたくなかった。
けれど――朱雀もまた、あの人を待っている。
胸の奥にわだかまる葛藤を抱えたまま、銀郎はただ、雨の中に消えていった背を見送った。
今はまだ、願うことしかできない。
その再会が、どうか傷ではなく、灯火となりますように。
続く