セーフハウス

  薄汚れた部屋にインターホンの音が響いた。日付が変わる直前のことだった。

  玄関のドアの前に立つと、厚い金属の向こう側に誰かの気配を感じた。こんな時間に約束もなしで部屋を訪れる相手は、残念なことに、心当たりが一つしかない。

  できるだけ音を立てないようにしながら、僕は覗き穴に目を当てた。魚眼レンズの向こうに歪んで映ったのは、大柄な虎の男だった。黄褐色に黒の縞模様が狭い視界の中でもよく目立っている。それと、派手な[[rb:刺繍 > ししゅう]]が施されているジャンパーが、レンズ越しに無言の圧力をかけてきた。

  「おるんやろ、開けてくれや」

  扉の向こうから、その来訪者の低い声が響いた。

  玄関に立つ僕の気配を感じ取ったらしい。諦めたようにため息を吐く。どうせ開けなければ、朝までインターホンを鳴らし続けるか、ドアを叩き続けるかのどちらかだ。近所迷惑を考えれば、選択肢は一つしかなかった。

  チェーンロックを外し、ドアノブを回す。錆びついた音とともに扉が開くやいなや、虎の男はするりと隙間に身体を滑り込ませた。中年太りの腹を引っ掛けないその動きに、半ば呆れながらも感心してしまう。男は後ろ手にドアを閉めると、手慣れた動作で鍵をかけた。まるで自分の家に帰ってきたかのような自然さだった。

  「[[rb:山谷 > やまや]]さん……こんな時間に何ですか」と僕は疲れの滲んだ声で訊いた。

  見上げる虎の顔に、にやりと笑みが浮かんだ。特徴的な模様も相まって[[rb:厳 > いかめ]]しいその顔付きは、笑顔で和らぐことのない鋭さを帯びている。同じような縞模様の毛並みでも、猫の僕にはこいつのような威圧感は備わっていない。

  「ちょっと置いてくれへん?」と山谷は言った。[[rb:痰 > たん]]が絡んでいるようなざらついた声だった。

  片手に提げられているビニール袋が揺れて、がさがさと乾いた音が玄関に響いた。袋の口から覗いているのは、見覚えのある焼酎のペットボトルだった。

  「前に来たときのやつ、まだ残ってるんですけど」

  「へっ、オカンみたいなこと言わんといてや」

  山谷は僕の肩に腕を回し、ぐいと引き寄せた。大きな顔が近付き、酒臭い息が鼻を突く。僕は隠そうともせずに顔をしかめる。

  「で? 上がってええんか?」

  「今日は何から逃げてるんですか」

  返答を遅らせるように訊ねると、山谷は含み笑いを漏らす。

  「言うたら可愛い[[rb:琴吹 > ことぶき]]くんが危ない目ぇ遭うからな。教えたらん」

  身体に舌を這わせるような声色で山谷は言った。その答えに、僕は二度目のため息を吐く。既視感のあるやり取りだった。訊いたところで本当のことを言うはずもないことは、最初からわかっていることだった。

  組まれている肩から、山谷の体温と濃い匂いが伝わってくる。それと同時に、ドアの開閉で入り込んだ外気が、僕の素足を冷やしていた。このまま立ち話を続けるわけにもいかない。僕は疲れていたし、ここで押し問答を繰り広げる気力は湧かなかった。

  「……まあ、上がってください」と僕は言った。

  山谷は目を細めて満足気に頷き、靴を脱ぎ散らかしながら我が物顔で部屋に上がり込んだ。薄汚れた大きなスニーカーが横を向いて転がる。それを揃え直しながら、これから始まる夜のことを思った。

  

  のしのしと巨体を揺らしながら、山谷はまるで定位置のように座卓の前に腰を下ろした。狭苦しい部屋にこいつが上がると、その圧迫感はひときわ大きなものになる。

  「明日もバイト入ってるんですけど」

  僕は立ったまま、山谷を見下ろしてそう言った。黒い耳がぴくりと動くのが見えた。

  「どうせいつもの日雇いやろ? んなもんバックれたらええねん」

  「行かなきゃ飢え死ぬだけなので」

  僕の言葉に、山谷は鼻で笑った。そしてジャンパーのポケットから煙草を取り出し、一本取り出して[[rb:咥 > くわ]]えた。ライターを探そうと再びポケットに腕を突っ込んだ瞬間、僕は素早く手を伸ばし、その口から煙草を取り上げる。

  「何度も言ってますけど、うちは禁煙です」

  「ケチなやっちゃなぁ」

  山谷は大げさに肩をすくめた。でも、本気で怒っているわけではない。これも、もはや儀式のようなやり取りだった。僕は取り上げた煙草を、こいつの手の届かない座卓の端に置く。

  「まあ……適当に時間でも潰してください」と僕は言った。「さっき帰ったばかりなんで、僕はシャワー浴びますから」

  「おう、じゃあ存分に[[rb:寛 > くつろ]]がせてもらうわ」

  「煙草は本当にやめてくださいね」

  わかったわかったと言いたげに、山谷は手をひらひらと振った。それをじっと見つめてから、僕は浴室へ向かう。背後で何か声が聞こえたが、聞こえなかったふりをして、僕は部屋を後にした。

  水圧の弱いシャワーを浴びながら目を[[rb:瞑 > つむ]]る。熱い湯が毛並みを伝って排水溝に流れていく。汗や埃とともに、今日の疲れがわずかに溶け出していくのを感じた。深く息をしながら、僕は部屋にいる男のことを考える。

  山谷が来るのは、決まって何かから逃げているときだ。警察かもしれないし、別の誰かかもしれない。前者の方がいくらかましだろうか。けれど詳しくは知らないし、別に知りたくもない。そもそも、何かから逃げているというのが本当なのかもわからない。

  ただ、時折こうして僕の部屋に──安酒を抱えて──転がり込んでくる。そして朝になれば、何事もなかったかのように消えていく。そんなことが何度か繰り返されていくうちに、またいつものか、と思うようになっていた。

  濡れた身体を乾かして部屋着に着替え、僕は部屋に戻った。山谷は透明な液体が入っているガラスのコップを片手に、僕を[[rb:一瞥 > いちべつ]]した。その[[rb:巨躯 > きょく]]の[[rb:傍 > かたわ]]らには、今しがた開栓したばかりの焼酎のボトルがでんと置かれている。

  残っているボトルがまだあると言ったのに、と僕は内心で舌を打つ。こういう風にして、中身の残った巨大なボトルが僕の部屋に増えていく。興味本位で中身を舐めたことはあるが、僕にとってはただの苦い液体だった。もうすぐ酒が飲める年齢を迎えるが、あれを嬉々として口に含むようになるとは思えなかった。

  僕はコップに水道水を汲み、山谷の正面に腰を下ろした。派手なジャンパーは脱いで放り投げられていた。下に着ていた白いTシャツは、サイズが合っていないのか、厚い胸やでっぷりと肉の付いた腹ではち切れそうになっている。

  座卓の隅に置いた煙草はそのままだった。室内にも臭いはない。この男にも一応、頼みを聞いてくれる程度の温情はあるらしい。

  「琴吹くんに土産や」と山谷は言い、持ってきたビニール袋を僕に突き出した。

  中を覗くと、スナック菓子やレトルトなどすぐに食べられる食品が詰まっていた。適当に手に取ってパッケージを見ると、賞味期限がすぐに訪れそうだった。たぶん、袋の中身は全てそうなのだろう。

  「こんなんでも腹の足しにはなるやろ」

  「……ありがとうございます」と僕は素直に礼を言った。

  「家には見つかってへんか」

  山谷の言葉に、僕は小さく頷く。

  「ええ、おかげさまで」

  皮肉のつもりで言ったが、山谷は気にした様子もない。ただ適当に作ったであろう水割りをすすっている。

  僕の視線は、ふと窓の外に向かった。薄っぺらいカーテン越しに、向かいのアパートの明かりが見える。そこには普通の家族の普通の生活がある。

  家を出て、もう数年が経っていた。それは同時に、山谷との付き合いの長さも表していた。家を出る手引きをしてくれたのが目の前にいる虎の男だった。僕にアパートの一室をあてがい、[[rb:仕 > ﹅]][[rb:事 > ﹅]]の探し方を教え、独りで生きていくための術を与えた。

  僕は山谷に[[rb:気 > ﹅]][[rb:持 > ﹅]][[rb:ち > ﹅]][[rb:ば > ﹅]][[rb:か > ﹅]][[rb:り > ﹅]][[rb:の > ﹅]][[rb:お > ﹅]][[rb:礼 > ﹅]]を渡している。こいつにとっては大したものではないのだろうが、僕にとっては死活問題になる金額だ。だが、生活が立ち行かなくなるほどではない。僕が生きていくためのぎりぎりのところを、山谷は見極めている。恐らく、こういう風に転がり込む場所を確保しておく方が目的なのではないか思う。

  家を飛び出した未成年がまともな暮らしを築けるわけもなく、お世辞にも幸せな生活を送れているとは言い難い。地獄から抜け出したと思ったら、また別の地獄に足を踏み入れていたようだ。けれど、刃物が飛んでこないだけ、今の地獄の方がいくらかましかもしれない。

  コップに組んだ水道水を一息に飲み干した。気温が下がって水も冷たくなっているせいか、消毒剤の臭いは普段よりも気にならなかった。

  「もう横になります」と僕は言って立ち上がった。

  「ほな、ワシも風呂使わせてもらうわ。ええか?」

  僕が頷くと山谷も腰を上げた。縞模様の尻尾を揺らしながら、勝手知ったる様子で浴室へ向かう後ろ姿を、僕はぼんやりと見送った。

  パイプベッドに横になり、薄い布団を口元まで引き上げた。背後から、シャワーの水音が聞こえてくる。そこに山谷の鼻歌も混じっている。調子外れで能天気な歌声だった。

  瞼を下ろすと、電灯の光が闇をうっすらと白ませた。まどろみながら、明日の仕事のことを考える。早朝に集合し、会話もなくバンに詰め込まれて、どこかへ連れて行かれる。何をさせられるかは行ってみなければわからないし、そもそも何をさせられているのかもわからない時だってある。

  眠りの[[rb:淵 > ふち]]へ意識が沈んでいく。背後から聞こえていた水音はいつの間にか止んでいた。

  

  沈みかけていた意識は、ベッドが[[rb:軋 > きし]]む音で浮かび上がった。

  それと同時に、背中に温かいものが触れた。柔らかな肉の感触が布越しに伝わり、酒と石鹸の混ざった匂いが鼻先に滞留する。山谷だ、と理解すると同時に、布団の中に大きな身体が潜り込んできた。

  「……何してるんですか」

  寝ぼけた声でそう言うと、背後から低い笑い声が響いた。薄目を開けると、電灯は消えて、部屋は薄暗くなっていた。

  「起こしてしもたか」

  謝罪の言葉はなく、むしろ楽しんでいるような口調だった。僕は身体を起こそうとしたが、太い腕が腰に回されていて動けなかった。

  「ほとぼりが冷めるまで、飲んで時間でも潰してればいいじゃないですか」

  苛立ちを隠そうともせずに僕は言った。だが、山谷は僕の言葉など聞いていないかのように、ぴったりと身体を寄せてきた。伝わってくる熱や感触から、山谷は下着姿になっているのだろう。風呂上がりの体温が、薄いシャツ越しに僕の背中を熱くする。

  「寝間着持ってきてへんから寒いねん。一緒にあったまろうや」

  子供じみた言い訳だった。この男が寒さなんて気にするはずがない。

  「明日早いって言いましたよね」

  「聞いてたで」

  僕は息を吐いて、もう一度身体を起こそうとした。だが、山谷の腕に力が込められて、僕は再びベッドに引き戻された。耳元に湿った息がかかり、毛が逆立つのを感じた。

  「……そんなこと言って、期待してたんとちゃうか?」

  囁くような声に、僕の身体は反射的に震えた。否定の言葉を探したが、喉が詰まったように声が出ない。

  横になった身体の下から潜り込んできた山谷の手が、僕の胸元に伸びてきた。シャツの上から、ゆっくりと円を描くように撫でられる。その動きは、普段からは考えられないほど妙に丁寧で、だからこそいやらしさを感じた。

  「──やめてください」

  ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

  山谷は答える代わりに、太い指先で胸の突起を探り当て、そこを執拗に弄り始めた。薄い布越しに伝わる刺激に、僕は身体に力を込めて固く目を瞑る。身体の奥からじわじわと這い上がってくる熱を、認めたくなかった。

  「琴吹くん、こうされるの好きやろ?」

  山谷の声には、[[rb:下卑 > げび]]た笑いが混じっていた。僕は首を振ったが、それは嘘だった。シャツの下で存在を主張し始めている突起が、僕の行動の意味を失わせていた。

  「っ──」

  膨らんだそこを指先でつままれて、僕の身体が布団の中で跳ねた。漏れそうになる声を喉奥で押し留める。けれど、吐き出される息までは抑えることができなかった。その様子を見て、山谷は満足そうに酒臭い息を吐いた。

  「我慢せんでええのに」

  僕の尻に押し当てられている山谷の下腹部は、次第に熱を帯びて、その硬さを僕に伝えてくる。腰のあたりが疼くように痺れて、僕のものも下着の中で膨らんでいるのがわかった。やるせない気持ちの行き場を見付けられずに、僕は太ももを擦り合わせる。

  僕を背後から抱く山谷は、胸元を[[rb:執拗 > しつよう]]に弄り続けていた。布地に浮き上がっている突起を指の腹で撫でて、つまみ、時に強く引っ張る。そのたびに、くぐもった息が喉奥から漏れた。

  切なさに耐えかねて、僕は自分で下腹部に手を伸ばそうとした。だが、その腕を山谷に掴まれてしまう。

  「琴吹くん、あかんよ」

  低い声でそう言われ、腕をがっしりと押さえつけられた。片手で両方の手首を固定され、もう片方の手は相変わらず胸を弄り続けている。

  「どうしてほしいん? 言ってみ?」

  山谷が耳元で囁いた。鼓膜を震わせる低い音と、耳の周りを撫でていく生温い息に、僕の身体は反応してしまう。山谷の声には、明らかな愉悦が含まれていた。自分から手を出しておいて、肝心なところでは僕から求めるようにしてくる。この男の[[rb:常套 > じょうとう]]手段だ。

  せめてもの抵抗として答えずにいると、山谷は胸への愛撫を止めた。急に刺激がなくなり、宙に放り投げられてしまったような不安が足元を伝ってくる。何もされなければされなかったで、物足りなさを感じてしまう自分が嫌だった。

  「はあ……したくないんなら、このまま寝させてもらうわ」と山谷は退屈そうな声色に切り替えて言った。「せや、子守唄でも歌ってやろか?」

  僕は拳を強く握りしめた。けれど、身体の奥で[[rb:燻 > くすぶ]]る熱は、もう無視できないほど大きくなっていた。

  「し、下も……触ってください」と僕は言った。紙を裂くような声だった。

  「それだけでええんか?」

  山谷はそう言うと、僕の尻に押し付けている硬いものを、これ見よがしに脈動させた。

  「……[[rb:挿入 > い]]れて、ほしいです」

  喉がからからに乾いていた。掠れた声は、衣擦れに混ざって消えていく。

  「何や? はっきり言ってもらわんとわからんなぁ」

  山谷は全てわかっていて訊いている。僕は悔しさを噛み殺しながら、震える手を後ろに伸ばした。山谷の下腹部に触れると、そこは熱を帯びて膨らんでいた。布越しにそれを握ると、山谷の喉から低い唸り声が漏れた。

  「これ……です……。山谷さんのが、欲しい……です」

  「ふ……まあ、今日はそれで許したるか」

  楽しげな声が後ろから聞こえた。口元を歪めて、目元をいやらしく細めているのが、見なくてもわかった。まるで僕が頼み込んで、仕方なく付き合ってやっているような物言いだった。訂正したところで意味もなく、僕はただ口を[[rb:噤 > つぐ]]む。

  山谷は僕の[[rb:口吻 > こうふん]]を無遠慮に掴み、転がすように身体を仰向けにした。顔を山谷の方に向けさせられて、薄闇の中に浮かび上がる虎の表情が視界を覆った。

  ぶつけるように口元が重ねられた。ざらざらとした舌が僕の口内に侵入してきて、否応なくそれを受け入れさせられる。

  後頭部を押さえつけられて、逃げ場のない状態で唾液を流し込まれた。酒の味がした。安い焼酎の、あの独特な匂いが口の中に広がる。粘膜に染み付いているような煙草の苦味がそこに混ざっている。舌が絡められ、敏感な口内を犯すように熱が這っていく。息苦しさに喘いでも、山谷は逃がしてくれない。

  ようやく口元が離れたとき、僕は荒い息を吐いた。山谷は満足そうに僕の顔を見ていた。

  「口、開けや」

  有無を言わせない口調だった。僕が躊躇していると、山谷は僕の鼻先をまた握った。

  「はよせんか」

  頷くと、鼻先を覆っている手が離れた。仕方なく口を開けると、二本のずんぐりとした指が突っ込まれて、口の中を探るように動く。まるで山谷のものを咥えるかのように、僕は舌を動かした。指の隙間に舌を這わせ、唾液で濡らしていく。

  「何も言わんでもしゃぶってくれるなんて、琴吹くんはやらしいなあ」

  僕は目を伏せて頷く。その様子を、山谷は値踏みするような目で見つめていた。

  たっぷりと肉の付いた山谷の手首を両手で握り、無心でその指を舐め回した。ベッドの上に響く水音は、この行為が卑猥なものであることを伝えている。山谷の目には獰猛な色が浮かびつつあり、口元が歪んで鋭い牙が見え隠れしていた。

  「んぐっ──⁉︎」指が喉奥まで侵入してきて、舌をぐいと押さえ込まれる。僕の身体はそれを反射的に吐き出そうとして、せり上がってくるものにえずいた。「う、おぇっ……!」

  気持ちとは関係なく流れる涙でぼやけた視界に、粘ついた笑みを浮かべる山谷の顔が浮かんだ。抗議の声を上げることはできない。吐き気を押し戻しながら、僕は必死でやに臭い指を湿らせていく。そうしなければ、この後の自分が辛くなるだけだった。

  十分に濡れたと判断したのか、山谷は指を引き抜いた。糸を引く唾液が、口の端から[[rb:滴 > したた]]り落ちる。

  次の瞬間、部屋着のズボンを乱暴に下ろされた。下着も一緒に引きずり下ろされ、下半身が露わになる。冷たい空気が下半身を包み、僕は身を縮めた。芯の入っている僕のものが、ウエストのゴムに押さえつけられて、勢いよく跳ねて腹を打った。

  山谷は僕の太ももの間に手を差し入れて、濡れた指を尻の谷間に這わせた。抵抗したところで、それを跳ね除ける力は僕にはない。すべてを諦めて、その指先が辿り着く場所の力を緩めた。

  「力抜きや」と山谷は言った。ぬるぬるとした指先が、僕のそこに触れた。

  遠慮など微塵も感じさせない動きで、僕の内側に指が侵入してくる。異物感に息を詰めたが、思ったよりも抵抗なくそれは中に入っていく。一本、二本と増やされても、するりと受け入れてしまう自分の身体に、僕は顔が熱くなった。

  「ほぉ」

  山谷が感心したような声を上げた。その意味を理解して、僕は慌てて口を開く。

  「違っ──」

  「さっき風呂で慣らしてたんとちゃうか?」

  くぐもった笑い声が、薄暗い部屋に響いた。その言葉を否定したかったが、山谷の指が中で動き始めて叶わなかった。

  内側の空間を押し広げ、擦り上げる動きが繰り返される。ときおり、ある一点を押されると、腰が跳ねそうになる。山谷は微かな反応も見逃さず、そこを執拗に責め立てる。頬の内側や舌を噛んで声を殺そうとしたが、喉奥から漏れる鳴き声は抑えきれなかった。

  「なんや、ええ声出せるやん」

  山谷は[[rb:愉 > たのし]]しそうに言いながら、指の動きを早めた。湿ったものが付いては離れるような音が下腹部から響いてくる。四肢の先が痺れたように感じて、腰のまわりに熱の浮き輪を[[rb:嵌 > は]]められたような感覚を抱く。

  「我慢せんでええからなあ?」と山谷は背筋が寒くなるような甘ったるい声で言った。「琴吹くんが気持ちよくならへんと、ワシも楽しないねん」

  「き、気持ちっ、いいです……っ」

  「ほんまに? フリだったら悲しむで?」

  僕の中にある山谷の指が折り曲げられて、とある部分を圧迫する。下腹部が痺れるようにちりちりとして、僕は何かにすがるように山谷の腕にしがみついた。それで気分が良くなったのか、この男は再び口元を重ねながら、僕の内側を指で掻き回した。

  肺の中の空気は吐き出されるばかりで、吸い込むだけの余裕がなかった。だんだんと意識がぼんやりしていき、下腹部に感じる異物感も薄れていく。頃合いだと思ったのか、山谷は指を引き抜き、僕の意識はそれで焦点を取り戻す。

  「うぁっ──!」

  指を抜かれた刺激でまた声が漏れた。[[rb:解 > ほぐ]]された箇所は僕の唾液でしっとりと濡れており、部屋の冷気を感じるようになっていた。深く息を吐き、目を瞑る。だが、束の間の休息はすぐに破られた。

  「今日は疲れててしんどいねん。悪いけど、琴吹くんが動いてくれへん?」

  山谷は仰向けになってそう言った。両手を頭の下に敷き、悠々とした態度で僕が動くのを待ち始める。投げやりな口調だったが、それは命令だった。

  僕は震える手で身体を起こし、山谷の下着に手をかけた。薄汚れたトランクスはその中身で持ち上げられて、布地の山を作っている。重たい身体の下に手を差し込んで尻尾穴のホックを外してから、僕はそれを下ろした。

  薄布に収められていた山谷のものが、跳ねるように飛び出す。薄暗い部屋の中で、その存在感はずんぐりと太短いシルエットに浮かび上がる。しっかりと剥けていて、ぱんぱんに張り詰めている赤黒い先端は、他の雄が放ったものを掻き出すような形をしている。

  トランクスを下ろされると、山谷は上に着ていたランニングシャツも脱ぎ、何も身に付けていない状態で大の字になった。腹回りに蓄えられた肉が広がり、ベッドの上を埋め尽くすように巨体が広がる。大きな腹は薄い白色の毛に覆われており、そこにも縞模様が浮かんでいる。

  僕は山谷のものをそっと握り、ゆっくりと上下に動かした。昂りを形に現しているそれは、すでに十分に硬く、微かに脈打っていた。カーテン越しに入り込む街灯の光が、先端に浮かんだ透明な滴に反射していた。

  山谷の上に[[rb:跨 > またが]]り、張り詰めているそれを尻にあてがう。濡れそぼっている僕のそこが熱の塊に触れて、身体がびくりと震えた。細く息を吐きながら、ゆっくりと腰を沈めていく。だが、唾液と先走りだけでは滑りが足りず、山谷のものは逃げるようにそこから逸れた。

  僕は仕方なく、身を屈めて山谷のものを口に含んだ。顎が外れそうなほど太くて、根元まで口に含むのに苦労する。それでもすべてを収めると、被毛の茂みから立ち上る雄の濃い匂いが鼻先を包んだ。シャワーを浴びたばかりのはずなのに、石鹸の匂いは薄れ、汗の匂いが強かった。それと、先端に浮かぶ滴の塩気が舌の上に広がった。

  「お、サービスええなぁ」

  山谷はそう言うと、僕の頭を撫でた。目線を上げると、金褐色の鋭い[[rb:双眸 > そうぼう]]が僕の痴態を映していた。山谷はいやらしく口元を歪め、舌なめずりを僕に見せ付けてくる。それに身を震わせながら、僕は懸命に舌を使い、指にしたのと同じように全体を湿らせていった。

  十分だと思えるまで舐め回してから、僕は再び腰を上げた。再び、ゆっくりと腰を下ろしていく。熱いものが僕の後ろに触れ、今度はそれが逃げずに内側へ侵入してくる。

  「そんな緊張せんで、力抜きや」

  山谷の手が、僕の腰に添えられた。導かれるように、少しずつ沈んでいく。内側が押し拡げられ、ひりひりとした熱と痛みが走る。身体の力を抜く代わりにぎゅっと目を瞑り、糸のように細い息を吐きながら、慎重に山谷のものを呑み込んでいく。

  「んっ、は……ぁ……」

  抑えきれずに甲高い声が漏れる。それを恥じる余裕はなく、僕は無心で腰を沈めていった。異物感を覚える部分が広がっていき、圧迫されるような息苦しさが次第に強くなっていく。

  尻が何かに触れて、それが山谷の脚の付け根であることに気が付いた。そこに手を伸ばすと、僕の身体は山谷のものを根元まで受け入れていた。山谷の下腹部に提げられている袋に触れると、内側にある熱が微かに脈動した。

  地鳴りのような低いうめき声が下から聞こえてきた。うっすらと瞼を上げると、山谷は口をだらしなく開き、自身を包む快楽に耽るような表情を浮かべていた。

  呼吸を整えながら、動くための覚悟を決める。けれど、身体は動いてくれなかった。内側を擦られた痛みと、常に感じている圧迫感は僕の許容量をとうに超えていた。

  「ほら、動かんか」

  こちらの感覚など気にする様子もなく、山谷はそう言って僕の尻を叩いた。

  「も、もう少し、待ってください……」

  「ああ? ワシを焦らせるほど偉くなったんか」

  刺々しい声でそう言いながら、山谷は僕の尻尾を強く握った。

  「っ──ぁ、やっ──⁉︎」

  その刺激に、僕は声にならない声を上げる。そこは敏感で、反射的に全身が強張ってしまう。だが、それによって締め付けが増したのか、山谷は満足そうな笑みを浮かべた。

  「尻尾千切られんのと、一緒に気持ちようなるの……琴吹くんはどっちがええ?」

  「う、動きますっ……動きますから、そこから手を離してくださいっ」

  懇願に、山谷は尻尾から手を離した。初めからそうしておけばいいと言うように。

  僕はおそるおそる腰を上げて、山谷のものを引き抜いていく。そしてまた腰を沈めて、その熱を内側に受け入れていく。どちらの感覚も強烈で、動くたびに視界が白く染まりそうになった。それでもゆっくりと上下する内に、少しずつ慣れてきた。痛みが麻痺していき、それを補うように別の感覚が生まれてきた。

  腰を落とすたびに、奥の方で何かが擦れる。その感覚が、じわじわと快感に変わっていく。縮こまっていた僕のものが、少しずつ形を取り戻していくのを感じた。

  僕は山谷のでっぷりとした腹に手をついた。汗ばんだ手のひらが、縞模様の毛並みに吸い付く。その下には厚い脂があり、しっかりとした筋肉がある。体重をかけると、水枕のように手が沈んでいくのを感じた。

  指先に、何か硬いものが触れた。それは傷跡だ。脇腹のあたりにある、刃物で付けられたような直線の傷だった。その部分だけ毛が生えておらず、生々しく肉が盛り上がって硬くなっている。手を滑らせると、また別の傷跡に触れた。山谷の身体には、そういうものがあちこちにあるのを僕は知っている。

  僕はそんな傷だらけの身体の上で、懸命に腰を振っていた。望むと望まざるにかかわらず、僕の下腹部は快感を受けて昂り始めていた。それが情けなく上下に揺れて、自身と山谷の腹を叩いては滑稽な音を立てている。

  「ああ、ええ具合や……」

  山谷は口をだらしなく開き、僕を見上げていた。その視線は、獲物を見るような、所有物を確認するような、そんな色を帯びている。

  腰の動きが早くなる。もう痛みはほとんどない。代わりに、奥を突かれる度に、甘い痺れが背筋を駆け上がっていく。自分でも気付かない内に、甘い声が漏れ始めていた。押し殺そうとしても、完全には抑えられない。

  「琴吹くんはいつやっても締まりがええなあ」と山谷は甘ったるい声で言った。「他の男に抱かれたりせえへんの?」

  「こ、こんなことっ、山谷さん以外と……しませんっ……」

  「へえ、嬉しいこと言ってくれるやないの」

  山谷は満足そうに言って、下から腰を突き上げてきた。不意を突かれ、僕は大きく声を上げてしまった。

  「ぅあっ、やめ──っ」

  制止の言葉は最後まで言えなかった。山谷は僕の腰を掴み、激しく下から突き上げ始めた。

  受け身になることしかできず、僕は山谷の腹にしがみついた。そのまま身体を前に倒し、厚い胸元に顔を埋める。規則的なリズムで、深いところまで[[rb:穿 > うが]]たれる。その度に、頭の中で火花が散った。

  「あっ──や、山谷さんっ、だ……っ、め──っ!」

  「だめぇ? 何がや、こんなガチガチにおっ立ててっ、ああ?」

  息を荒げながら、山谷は僕のものを強く握った。ごつごつとした手のひらに包まれて、そこは何かを求めるように脈動してしまう。その反応がこの男の悦びを加速させるとわかっていても、身体は僕の意識から遠く離れたところにいた。

  「──ワシやないと満足できへんくせに」

  頭上で響いたその掠れ声に、僕の身体はびくりと跳ねた。

  これは正しい関係じゃない。そんなことはわかっている。こういう風に欲望をぶつけられているのは、きっと僕だけではないのだろう。山谷には他にも、この部屋と同じような場所がある。そしてそこには、同じような相手がいる。僕はその中の選択肢の一つでしかない。

  それでも止めることはできない。流れるように重ねてしまった身体でも、久しく感じていなかった他者の温もりに抗えるほど、僕は強くいられなかった。言い訳なんてものはこれっぽっちも存在できない。

  あの頃の僕はずっと「ここではないどこか」を求めていた。地獄のような家を出たいと願い続けていた日々。そして今、僕はあの時に願った場所にいる。けれど結局、僕はまた、[[rb:こ > ﹅]][[rb:こ > ﹅]][[rb:で > ﹅]][[rb:は > ﹅]][[rb:な > ﹅]][[rb:い > ﹅]][[rb:ど > ﹅]][[rb:こ > ﹅]][[rb:か > ﹅]][[rb:に > ﹅]][[rb:行 > ﹅]][[rb:き > ﹅]][[rb:た > ﹅]][[rb:い > ﹅]]と願っている。

  この部屋も、この男も、この関係も、全部仮初めのものだ。いつか終わるしいつか壊れる。その時が来たら、僕はまた「ここではないどこか」を探すのだろう。そう思う限り、永遠に辿り着けない場所だと知りながら、手を伸ばし続ける。

  山谷の動きが激しくなった。眉間の影を濃くして、息を荒げている。余裕がなくなってきているその表情を見るに、もう限界が近いらしい。僕の腰を強く掴み、自分のペースを貫いたまま腰を上下に突き動かしている。

  二匹の男が身体を揺らし、その振動でパイプベッドがぎしぎしと悲鳴を上げている。山谷がどこかから「拾ってきた」というこのベッドは、僕がここに来た時から部屋にあった。いつ壊れてもおかしくないと思うが、激しい行為を幾度となく繰り返しても、しぶとく生きている。

  山谷が身体を起こした。骨が折れそうなほどにきつく抱き締められて、山谷は僕の首筋に顔を埋めた。そして、そのまま前のめりに倒れ込んだ。汗ばんだ身体からは、歳を重ねた男の匂いがした。

  体位が変わり、僕は山谷の下敷きになった。まるで道具でも使うかのように僕を回して、背面から抱くような体位を取らされる。中を掻き回される刺激に情けない声を上げても、山谷は僕をいたわるようなことをしてくれない。

  背面から激しく突かれて、シーツをぎゅっと掴んだ。声を抑える余裕はなく、それでも隣室に響かないように、僕は薄い枕に咬みついた。山谷のものが僕の内側を抉るたび、視界が滲んで悲鳴に近い喘ぎ声が喉奥からすり抜けていく。

  「ああ……琴吹くん、気持ちええよぉ……」

  耳元で舌足らずな声を出しながら、山谷は容赦なく腰を打ち付けてくる。優しさなど欠片もない、ただ自分の欲望を満たすだけの行為だった。

  内側が擦れて、熱い。痛みと快楽の境界が曖昧になる。それでも──いや、だからこそ──僕は心地よさを感じてしまう。

  山谷は僕の首筋に顔を埋めた。鋭い牙がそこに触れる。尖った先端が、毛並みを押し除けてその下の皮膚を押す。少し力を入れれば、簡単に貫通して血が滲むだろう。生温くて酒臭い息が、首筋を湿らせていく。獰猛な唸り声が耳を震わせる。

  どこにも行けないなら、いっそ毛皮の下に、牙を深く突き刺してほしい。身体に流れている血をすべて出して、この場所に縛り付けてほしい。そうすれば、もう「ここではないどこか」を探さなくて済む。

  だが、そんなことは口にできない。山谷は僕の願いなど知らず、ただ首筋を甘噛みするだけだ。むず痒さを感じさせるだけの行為に、苛立ちを覚えてしまう自分がいた。

  山谷の動きが不規則になった。荒い息遣いに混ざって、くぐもった喘ぎ声が耳に届く。僕の中にある山谷のものが、これ以上なく膨らんでいるのがわかった。

  「ああ……あかん、気持ちええわ……もう出してええか? ええな?」

  山谷は独り言のようにぶつぶつと言いながら、僕に体重をかけた。そこに僕の返答が入る余地がないのはとっくに知っている。されるがままに、この男の欲望を受け止めるしかない。

  「っ、出すぞ……っ──」

  掠れた声でそう言って、山谷は最後の力を込めて腰を打ち付けた。一際大きな水音が、薄闇の部屋に響いた。奥の奥まで届く一撃に、僕の視界は白く染まった。

  僕にのしかかっている山谷の巨体が、絶頂とともに震えた。内側にある硬いものが脈打つ感覚とともに、熱いものが僕の中に放たれていく。おお、と快楽を音にしたような声を漏らしながら、山谷は腰を震わせている。汗で湿っている腹の被毛が、僕の背中を濡らしていく。

  同時に、僕も限界を迎えた。下腹部の内側だけでなく、外側にも熱を感じた。シーツの上に、自分の白濁が広がっていくのが分かった。快感はほとんどなく、突かれて中身を押し出されたような感覚だけが下腹部を覆っていた。

  山谷の動きが止まり、僕とベッドはその体重に身体を軋ませた。汚れたシーツは余韻など無視して冷えていく。明日は仕事に行かなければいけない、なら、これはいつ洗えばいいのだろうか。そんなことをぼんやり考える。

  山谷はまだ僕の上に覆い被さったまま、苦しそうに荒い息を吐いていた。繋がったままの下半身から、この男のものが少しずつ萎えていくのが分かる。やがて、それは僕の中から音もなく抜け落ちた。液体が溢れ出してくる感覚が伝わってくるが、もうどうでもよかった。注がれた白濁は太ももを滑り落ち、シーツをさらに汚していく。

  満足したのか、山谷は僕をベッドの端に押し除けてから、転がって仰向けになった。萎えて縮こまったものが、茂みの中に頭を隠しているのが見えた。

  「ふう……ええ思いさせてもろたわ」

  煙草を吸った後のような、気だるい口調だった。僕は何も言わずに、ただ目を瞑った。

  ほどなくして、隣から寝息が聞こえ始めた。あっという間に眠りに落ちたらしい。この男の図太さには、ある意味感心する。地鳴りのようないびきを響かせて、無防備に腹を掻いたりしている。

  行為を終えたあとの疲労が、どっと押し寄せてくる。身体の痛み、精神的な疲弊、すべてが限界だった。僕もさっさと眠ろうと思った。何も考えず、ただ意識を手放したかった。

  けれど、身体のあちこちに残る感覚が、それを許さない。山谷の指の跡、唾液の匂い、僕と山谷が放ったものの青い匂い。すべてが、今しがたの行為を想起させる。

  それでも、瞼は重かった。考えることに疲れた頭は、これ以上なく休息を求めていた。

  パイプが軋み、山谷は大きないびきをかいている。カーテンの向こうから、どこかで響くサイレンの音が聞こえてくる。安普請のアパートは、上下左右から住民の生活音を伝えてくる。

  ここは騒がしい地獄だ。

  そんな地獄の一部になった僕は、すぐに眠りに沈んでいく。

  

  物音が、僕を眠りの泥から引き上げた。

  衣擦れの音、重い足音、そして誰かが動き回る気配。うっすらと目を開けると、カーテンの向こう側から明け方の光が差し込んでいた。空は白み始めていて、夜と朝の境界線にある、あの曖昧な時間帯だった。

  身体を動かそうとして、下腹部に鈍い痛みが走った。昨夜の行為の記憶が、身体の感覚とともに蘇ってくる。山谷の体温、酒と煙草の味、唾液や白濁の匂い、軋むベッドの音。すべてが生々しく、まだ全身に跡を残している。

  僕は薄目を開けたまま、動かずに部屋の様子を[[rb:窺 > うかが]]った。山谷が身支度をしているのが、ぼんやりとした視界の端に映る。派手な刺繍のジャンパーを羽織り、ズボンのベルトを締めている。慣れた手つきで煙草を一本取り出し、口に咥えたが、思い直したように箱に戻していた。

  大きな身体が、こちらに向かって動いてくる。僕は反射的に目を閉じた。寝たふりを続けながら、近づいてくる足音に耳を澄ます。

  ベッドの傍で、山谷の動きが止まったのが気配でわかった。しばらくの沈黙が続いた。何を考えているのか、何を見ているのか、僕にはわからない。ただ、視線を感じる。重く、粘つくような視線が、僕の身体を撫でているのがわかった。

  そして、頭に何かが触れた。山谷の手だった。大きくて、ごつごつとした手が、そっと僕の頭を撫でる。まるで、小さな子供にするような触れ方だった。

  言葉はないまま、山谷の手はふいに離れた。足音が遠ざかり、玄関のドアが開く音がした。そして、静かに閉まった。僕はしばらくそのまま横になっていた。山谷の気配が完全に消えるまで、身体を動かさなかった。アパートの廊下を歩く足音が遠ざかり、階段を下りる音が聞こえなくなってから、ようやく目を開けた。明け方の静寂が、アパートの部屋に訪れていた。

  僕は起き上がり、頭の触れられた場所にそっと手を置いた。まだあの男の熱が残っているような気がしたが、それは錯覚だった。

  去っていく背中に手を伸ばしたくなる時がある。一度別れたら、また顔を合わせられるかわからない。僕たちはそういう世界に生きている。だが、そんなことはできないまま、正しくない行為に溺れては朝を迎え、言葉を交わすこともなく別れる。それはもしかしたら、正しくない関係の正しい終わり方なのかもしれない。

  ため息を吐いてベッドから降りると、下腹部に残る[[rb:疼痛 > とうつう]]が強くなった。歩くたびに、昨夜の痕跡を思い知らされる。粘ついたもので固まった毛並みが、不快感を増していた。シーツを見ると、予想通りひどい有様だった。白い布地に、いくつもの染みが広がっている。

  汚れた布を洗濯しなければならない。でも、今はその時間もない。僕はベッドからシーツを剥ぎ取り、部屋の隅に丸めて放り投げた。

  時計を見ると、もうすぐ家を出なければならない時間だった。日雇いの仕事は、遅刻すれば即座に別の誰かに取って代わられる。這ってでも行かなければ、僕は野垂れ死ぬだけだ。

  シャワーを浴びる時間はなかった。濡れタオルで汚れた身体を拭き、目立たない服装に身を包んだ。鏡を見ると、疲れ切った猫の顔が映っていた。縞模様の毛並みは乱れ、寝不足で目がうつろになっている。

  朝食を摂る余裕もなかった。山谷が置いていった、賞味期限の近い食品を眺めたが、胃が受け付けそうになかった。あるかわからない休憩時間に詰め込めばいいかと思い、温めなくても食べられそうなものを鞄に放り込む。代わりに、水道水をコップ一杯だけ飲み干した。冷たい水が、空っぽの胃に染み込んでいく。

  玄関に向かおうとして、ふと座卓に目が止まった。昨夜、山谷から取り上げた煙草が、そこに置かれたままだった。一本だけ置き去りにされた孤独な煙草は、どこか居心地が悪そうに転がっていた。

  それを手に取り、しばらく眺めた。安物の、どこにでも売っているような銘柄だった。こだわりがあるのか知らないが、山谷はいつもこれを吸っている。

  僕は煙草を口に咥えてみた。火はつけずに、ただ口で挟んでみただけだ。鏡を見ると、煙草を咥えた幼さを残す猫が映っていた。その組み合わせは滑稽なほど似合っておらず、乾いた笑いが漏れた。僕は煙草を上着のポケットに突っ込んだ。

  部屋を出ると、[[rb:霞 > かす]]んだ陽光が顔を照らした。眠りから覚めたばかりの街は静かで、往来は少ない。アパートを後にして、僕は日雇いの集合場所へ向かって歩き始めた。

  朝の澄んだ冷気に身を晒す。冬が近づいている。吐く息が、白く濁って消えていく。

  <了>