第二章 子猫と主人

  大きな浴槽の中で、ティオは居心地の悪さに肩を縮めた。

  張られたお湯は温かく、信じられないことに次々と足されていく。

  昨晩床に寝た冷えで固まっていた身体が少しずつほどけていくのが、自分でも分かる。

  だから余計に落ち着かない。

  いつもは井戸水だった。冬場なんて冷たさに歯を食いしばる方が先だった。下働きの頃も、風呂は主人一家の後。湯が残っていれば運が良い程度で、急かされながら済ませる。

  こんなの、初めてだ。

  この屋敷の主人は、隣で椅子に座ったまま、書籍に目を落としている。「十分に温まるまで出てくるな」と言いつけられた手前、すぐに湯船から出ていくのも主人の命令に反する。

  主人にてづから洗ってもらった腕を見る。何年もこびりついた垢と汚れが綺麗に洗い流された。

  そして、今や石鹸の甘い香りさえ漂っている。

  昔、主人一家が通ったあとだけ漂っていた匂いだ。近づくなと言われる場所の匂い。自分には関係ない世界の匂い。

  変だ。

  変すぎる。

  「……こんな高い石鹸、俺なんかに使ったら怒られんだろ?」

  ぼそりと出た声に、屋敷の主人の手が止まる。蜂蜜色の毛並みが朝風呂のプリズムで七色に揺らめいていた。

  「怒られる? なぜ? 誰が?」

  彼は、本気で何を言っているのか分からない顔を見せる。いつも眠そうな半目をくりくりと見開き、キョトンとした顔で見つめてくる。

  「家の人とか」

  「いない」

  即答だった。

  「本家の使用人は来るが、私の判断に口は出さない。君のことも伝えてある」

  伝えてあっても奴隷とは言ってないんじゃないだろうか。完全に扱いが雑な保護対象だ。

  頭の中でむくむくと嫌な想像ばかりが膨らんでくる。

  標本にされるのかな?

  それなら、汚れてほしくないし、使用人に了解を得ていても納得だ。

  ティオは唇を尖らせた。

  「俺、ちゃんと働くから」

  靴でも磨く。庭でも掃く。重い荷物でも運ぶ。奴隷育ちだ。力仕事なら慣れている。

  捨てられない理由が欲しかった。それと、できれば死なないですむ理由が。

  「そうか。まあ、いずれは頼むだろう」

  いずれって何だよ。奴隷だぞ、買ったその日から働かせるもんだろ。

  いずれって、やっぱりアレか、用済みになったら処分ってことか? 剥製か? 俺の仕事って、やっぱり剥製にされるのか? 怖ぇんだよ。

  目を泳がせながら何も言い返せず、二人の間にまた沈黙が流れると、少し考えてから、貴族男のほうが口を開いた。

  「教養。労働の話は後だ、君の生活指導が先だ」

  教養? 生活指導? なんだそれ?

  ティオが眉を寄せて主人を見上げると、彼は真面目な顔で続けた。

  「当たり前の生活を正しく送りなさい。ベッドで寝る。風呂へ入る。石鹸を使う。あと、粗相したら隠さない」

  難しい言葉ではないのに、内容が理解できず、ティオは顔をしかめる。

  そんな簡単に言えるわけがない。「おねしょしました」なんて大人が言ったら、嫌な顔をされる。怒られて、また捨てられる。

  「質問は? 何か、困ったことでも?」

  「な、無い」

  無さすぎて困る。

  それが、怖い。

  「慣習、あるいは訓練。知らない場所に連れてこられて気が張るだろう。少しずつ慣れてもらいたい」

  「意味が、わかんない」

  風呂の中で唇を尖らせながらが言い返す。本当に、意味が分からない。

  奴隷にそんなことさせる必要があるか?

  「慣習とは、長い間生活のうちに積み重なる経験で。訓練とは、それを意識的に反復することで習得する意図で口にした」

  「……へ?」

  そこじゃないんだけど?

  言葉の意味が掴めなかったわけじゃない。なんとなく分かる。あんたがそれを言う意味が分からないんだよ。意味じゃないか? 意図か? 言葉を間違えた? それでも、何か……こう、伝わってない感じ……

  視線を上げるとまた困ったような顔で見つめてくる。怒鳴りつけるでもなく、「どうやったら伝わるだろうか」と考えあぐねている顔だ。

  いつもの沈黙。決まって主人から先に口を開いた。

  「郷愁あるいは望郷。突然知らない場所に連れて行かれたら、どんな子だって不安だろう?」

  「そりゃ、何度もあるけど。そんなの奴隷の身分なら、誰だってそうだろ……?」

  「幼い子供なら、尚更だ」

  ティオは困惑する。幼い子供? この人は何を言っているんだ?

  他種族の年齢って、よく分からないことがたまにあるけど、見た目はティオと対して変わらない年頃に見える。もしかして、意外と結構年上なのだろうか?

  「世話役。だから、しばらくは僕が面倒を見よう」

  「面倒って……俺は奴隷だぞ」

  「そうだが? 私が購入したときに、立ち会っていただろう?」

  また、わからないことを言う。

  噛み合わない会話のくらくらしてきた所、頭が重たくなってきた。

  俺、頭良くねーし、無理に色々考えたから、おかしくなったのか?

  視界が歪む。あれ? 身体が重たい。

  「おい、顔が赤いぞ」

  主人の瞳が心配そうに覗き込んで来る。

  大丈夫。体だけは丈夫だから……

  あれ、頭が重い。くらくら……くらくら……

  「捕まりなさい。長湯で、のぼせてしまったね」

  滑らかな腕でがっしりと抱き上げられる。

  くらくらする。

  知らない言葉だ。のぼせるって何だ?

  お湯に入ることさえ、初めてなんだよ……

  揺れたてぼやけた視界のまま、主人に抱きかかえられて浴室を出た。

  涼しい風に吹かれて、少し、気分が戻ってきた。

  のぼせるって何だ?

  ま、まさか、これが……毒?

  くらくらした頭で、嫌な考えが頭を巡る。

  体に柔らかな感触、ふわふわの肌触り……高級な拭き布で体を拭われている。

  屋敷の主人が自ら、服だって、びしょ濡れだ。

  まるで、裏町で見かけた、死体洗いみたいに……

  「やっ、嫌だ……」

  半ばパニックになって暴れるが、ズシンと体が重く、視界もぐらぐらする。

  あれが、毒だったんだ

  俺みたいな奴隷をお湯に漬けるなんて、考えられない。

  きっと、体全体に漬け込むような。あるいは香りか、何かで……

  「ごめんなさい、ごめんなさい、やっぱり、死にたくない。死にたくないよ」

  涙ながらに懇願する。怖くて、ちょっと漏らしたかも。

  「謬見! のぼせた程度で、死にはしない」

  重く暴れる体を主人が押さえ込む。

  死なない?

  まさか、これから死ぬ?

  体が動かない。もしかして、生きたまま解剖される。

  俺、動かないまま……刃物で切られる?

  嫌だ、死にたくない。

  荒い呼吸に嗚咽が交じる。

  さっきまで「役に立って死にたい」なんて、思っていたのに。

  眼前に迫る死の恐怖を前にしたら、ヒトの心なんて、こんなにも脆い。

  チョロチョロと、股間から暖かい体液が流れる。

  お漏らしは、しないって、約束したのに……

  でも、死にたくない。やっぱり死にたくない。

  バシャッ

  冷たい水が頭にかかる。

  撫でるように水滴を拭き取られ、「大丈夫。大丈夫だ」と何度も声をかけられた。

  次第に頭が冴えてきて、意識が戻ってくる。

  「し、死ぬかと思ったぁ」

  じわりと視界に涙が浮かぶ。

  「見ていて良かった。怖い思いをさせたね」

  主人は本当に悲しんだ顔を浮かべ、丁寧に体を拭いてくれる。

  死んでない?

  殺す気じゃない……の?

  視界は涙で滲み、もう何がなんだか分からない。ただ、今はまだ俺を殺さないってことだけは、本心みたいだ。

  今はそれでいい。

  「安静。急に動いてはいけない」

  ひたひたと冷たい水で冷やした布を頭に置かれ、濡れた体を丁寧に拭かれていく。

  冷たい感覚が徐々に落ち着いてくる。

  「怖かった……俺…死ぬって……」

  「剣呑だった。のぼせるくらいは、誰にでもある。まさかパニックを起こすとは……」

  のぼせる? 誰でも? あんな経験、初めてだ

  濡れた髪を拭かれていると、気のせいかもしれないが、ふんわりと頭が軽くなる気がした。

  重たい頭を持ち上げて、なんとか上体を起こす。

  「安静」

  「だ、大丈夫。大丈夫だから」

  手足に感覚が戻ってきた。まだ体が重たいけど、少しずつ意識が鮮明になる。

  この屋敷に来てから、奴隷の分際で主人に世話を焼かせっぱなしで、何もかもが色々おかしい。

  「承諾。だが、まだ座ったままでいろ」

  主人が短く言うと、変えの洋服を持ってきた。

  それを見て、ティオはまた別の意味で固まった。

  明らかに子供向けのデザインの服、上質な生地で、しっかりとした綿の服だ。

  「軽失禁。昼間はトレーニングパンツにするぞ」

  厚手の綿で作られた下着が広げられる。ちょっとしたお漏らしな受け止められる幼児向けのパンツ。

  見た目の明らかに子供向けのデザインだ。

  「そ、そんなもん……穿けねーよ」

  二重の意味で、ティオは言った。

  パステルカラーの子供向けの下着なんて、俺の歳を考えれば絶対に似合わない。そのうえ、あんな上質な綿、身につけるなんて考えられねえ。

  「体質に合わないか? かぶれる素材があれば教えてくれ」

  本気でキョトンとした顔で、困ったように除きこんでくる。

  「いや、その。子供っぽすぎるし、そんなの、慣れなくて」

  「困った。先程も少し漏らしていたし、いやいやしないで、着てくれないか」

  この人、何もわかってない。

  そもそも、俺のこと、子供だと勘違いしてる?

  何歳だと思ってんだよ……あれ? ちゃんと年齢も言ってない気がするし、俺も数えてないからよく覚えてないけど……

  「お、俺、奴隷だぞ。もっと安い服でいい」

  裸のまま、散々世話になりっぱなしで、これ以上の贅沢は、頭がおかしくなりそうだ。

  「反論。肌理の荒い素材は吸収した尿でかぶれやすくなる。君の健康も鑑み、なるべく良い服装を与えたい」

  うう……、これはダメかも。

  また本気で言っている顔だ。

  しかも、ついさっきパニックを起こして、目の前でお漏らしした矢先だ。

  「わ、わかった」

  諦めて大人しく、服を着せてもらう。

  「では、足を上げて、右足から」

  「は? え、なに?」

  「あし、えーっと、あんよ」

  わかんないのは、言葉の意味じゃーよ。

  しかし、くらくらする頭で、無理に立ち上がることも危ない。

  そこに置いておいてくれれば、後で穿くけど、いつまでも主人を待たせるのも悪いよな。

  渋々と脚を上げると、子供向けの下着が通される。

  誰かのお下がりだろうか。随分と体の大きな子供が居たんだな。

  いいや、子供向けの服は大きめに作っておくものだ。身分が高くても、そこは変わらないんだろ。

  クシュ

  見るからに子供用の生地だが、サイズはティオの体にピッタリとフィットした。布地は柔らかく、肌触りは抜群に良い。

  ウエスト周りにもゴムが入っていて、分厚い吸収布を支えている。ふっくらとした綿に股間を包まれて、温かくさらさらしたつけ心地が、逆に落ち着かない。

  「サイズは? 動きづらくないか」

  「だ、大丈夫。こんなの、着たことないだけ……」

  下着の上に、淡い青と白の縞模様が入ったシャツ、前面に大きなボタンがついて、丸い襟、可愛らしく膨らんだ袖。

  紺色の短いズボン。短パンと言えるくらい短い。動きやすいよう、太もも周りは余裕を持たせてあり、隙間からパンツが見えてしまいそうだ。

  どれを見ても子供用のデザインだ。

  なのに全部が、ティオにピッタリのサイズで用意されていた。

  黒豹は頭を抱え、また悶々と考えを巡らせる。

  昨日買ってた服か? 新調した? なんで、奴隷なんかのために?

  わけがわからない。さっきは、殺されなかったし、信用していいんだよな?

  「外見。可愛らしいと、僕は思う。動きやすいだろう?」

  可愛いって、どこがだよ。鏡とかねーけど

  明らかに年齢に沿わないデザインだし、どう考えても似合わねえ。しかも、こんな良い生地。何年もボロい麻みたいな服しか着たことないから、何が何やらわかんねえ。

  でも、肌触りは抜群に良いし、動きやすくは、あるな

  「あ本当に、こんな良い服……パンツも、俺が着て良いのか?」

  「当然。漏らしたらすぐに言ってくれ、尿汚れを放置しては、かぶれてしまうからな」

  「あ、ああ。大丈夫だから。昼間は、平気」

  「保険だ。君のことは、信頼している」

  信頼? 信頼って何だ?

  知らない言葉じゃないけど、そんなこと言われたことねーぞ。

  さっきも、俺を殺さなかった? 殺さない? 死なせないでくれたの?

  あー、言葉が出てこない。俺、頭悪いから

  「えっと、お湯から出してくれたのは、良いこと……だよな?」

  モヤモヤしたまま、疑問をそのまま口に出す。目の前の男は、驚きながらも真摯に答えてくれた。

  「のぼせた時か? そうだな、一般的な処置だ」

  「ええっと、言葉が分からない。何て言うんだ? その、俺を出してくれた」

  「助けた。助けることを言いたいのか?」

  「それだ、多分それ。でも、言葉が、使ったことない言葉で、うまく頭に浮かばない」

  それだ、助ける。

  言葉は知ってる、意味も分かる。でも、そんなこと、されたことない。

  「ありがとう。とは違うのか?」

  当然そうな顔で、貴族の男は言う。

  全てが繋がった。言いたい言葉は出てきたけど、奴隷の身分で、ほとんど使ったことが無い言葉。

  「た、助ける。ありがとう。風呂で、助けてくれて、ありがとう」

  口から出た途端、暖かい気持ちが胸に湧いてきた。

  「当然だが? あ、いや。どういたしまして。だな、うん」

  男も男で、言葉を探している様子だった。互いに、またぎこちなく沈黙する。

  「朝食。時間は遅くなったが、食事にしよう」

  「あ、うん」

  主人を先頭に風呂場をあとにする。

  大きな体躯で子供服を着せられているのは少し恥ずかしいが、さらさらとした綿の肌触りは、触れるだけで笑みが零れそうなくらいに心地良い。

  連れてこられた場所は、食堂というより、小さな居間だった。

  大きな窓に、昼に差し掛かる陽光が高い角度から差し込み、磨かれた木床へ淡く影を落としている。

  壁際には本棚。乾燥させた植物が逆さに吊られ、見たことのない骨格標本がさりげなく置かれていた。昨夜荷台で見た骨と似ている。

  やっぱり、まともな趣味じゃない。

  「座って」

  主人に言われるまま席に着く。ふかふかのクッションに包まれ、尻が椅子にくっついてしまいそうだ。

  台所もちらりと見えた。

  魔法式の加熱炉だろうか、青い魔石が埋め込まれた竈が静かに熱を放っている。金持ちの家でしか見ない類だ。寒村の薪火とは別物だった。

  鍋に火を入れながら、蜂蜜色の毛皮が聞いてくる。

  「食べれないものはある?」

  「ない。好き嫌いもしない」

  ティオは身を乗り出して答えた。幼い見た目も相まって、ちょっと子供っぽい。

  それから慌てて言葉を繋げる。

  「手伝うこと、あるか?」

  「座っていてくれ。厨房は危ない道具が多い」

  渋々とティオは席に座り直した。何もしないで待つのは、なんだか落ち着かない。

  そうは言っても、魔法式の道具は使い方が分からないし、下手に壊したりしたら、多分ティオの値段よりも高価に違いない。

  落ち着かない様子で待っていると、主人に様子された朝食を見て、またティオは固まった。

  「……これ、誰の?」

  深皿には湯気の立つ白い豆と根菜のスープ。乳で煮込まれているような、やわらかな香りがする。

  パリっと焼かれた黒麦パン。薄く切られた燻製肉。茹でた卵。柑橘らし果物からは、蜜のような匂いがした。

  「朝食だ」

  主人はティーポットを置いてから椅子を引いた。

  陶器のポットからは、薬草に花の香りを混ぜた茶の湯気が上がっている。

  「だから……誰の?」

  半目を開いた眠そうな顔のまま、貴族は首を傾げる。

  「君と私だが?」

  当たり前みたいな声だった。

  男は席について、紅茶へ口をつけながら、少しだけ目を細める。

  何を考えているか分からない主人だが、今すぐティオを殺すつもりはないことは分かる。

  わざわざ風呂に入れたということは、やはり男娼目当て?

  やっぱり、実験動物の可能性のほうが高いな。記録のために、身体は清潔な方が良いはず……

  新しい薬の実験とかかな?

  苦しくないと良いけど……

  ティオがぐるぐると疑念を混ぜ返していると、また、彼が困った顔を見せる。

  「食事だ。何か気になるものでもあったか?」

  「ない。大丈夫。緊張してるだけ」

  「そうか」

  少なくとも、毒殺の先は消して大丈夫。

  ティオは慎重にスープへ手を伸ばした。

  温かく、舌へじんわり染みる。

  豆はほろほろ崩れ、根菜は柔らかい。乳の甘さが少しある。パンは香ばしく、燻製肉の塩気が合う。気づけば手が止まらない。

  そこで、ふと怖くなる。

  食べ過ぎたら怒られる。余計な分を食うな、と昔よく怒鳴られた。

  ティオの手が止まった。

  「どうした」

  「……全部食っても、怒んないんだよな?」

  ぽろっと出る。言ってから少し恥ずかしくなった。

  主人は紅茶から口を離して、いつもどおりの口調で言った。

  「食いすぎないようにな」

  食いすぎないように。そりゃ、そうだよな……

  ティオの耳がしょんぼりと垂れた。

  奴隷の身分で、食いすぎてたよな。

  「……ごめんなさい」

  木さじを置いて、手に持ったパンも、皿に戻す。

  お腹はまだ空いてたけど、そんな贅沢は許されない。

  「ど、どうした? 食べられないものでもあったか? 気分は、吐き気はあるか?」

  プラチナ色の瞳が心配そうにな顔で覗き込んで来る。眠たそうな目をくりくりと見開いて、本気で心配そうな顔だ。

  「ごめん。食いすぎちゃって」

  本当はもっと食べたい。さっきだって、もう少しだけ食べたくて、迷って、結局パンを戻した。

  いつもの沈黙。主人はまた難しそうな顔をしながら、数秒考えてから、口を開く。

  「疑問。そのようには見ないが? むしろ、君は痩せ気味だ。もっと食べなさい」

  「だって、さっき、食いすぎるなって……」

  「それは……確かに言ったが……」

  二人でおずおずと言葉を出し合って、なんとか誤解が溶けた。

  貴族に「食いすぎるな」と言ったら、「食べすぎて腹を壊すな」と言ってるくらいの意味だ。

  奴隷に「食いすぎるな」なんて言ったら、「食いすぎだぞ、もう食うな」と言ってるようなものだ。

  午後は屋敷を軽く案内してもらった。

  時折使用人とすれ違うが、誰もが素っ気ない。一方で、誰からも奴隷扱いされることがなく、ティオは少し落ち着かない気持ちでいた。

  最後に案内された場所は、奥まった温室だった。

  ガラス張りのドーム型の天井、曇ったガラス越しに朝日が差し込み、空気全体がぼんやりと明るい。鉄骨の梁へ蔦が絡み、見たことのない植物が並んでいた。

  薬草。珍しい植物。野生では見られない花。

  枯れている区画がいくつかあり、生育状況は不安定に見える。

  それでも、どの花美しく、神秘的だ。

  「綺麗……」

  ティオの口から素直な感嘆が漏れる。

  主人は、眠そうな半目で嬉しそうに微笑んでいた。

  「良かった。気に入った?」

  「すっごく」

  「重畳。実験机以外は、好きに見て歩いていいが、毒草もある。決して勝手に触らないでくれ」

  「分かった」

  綺麗な温室だが、全体を見回すと半分くらいは枯れていた。手入れはされているようだが、育てる草とは生育環境が合わないようだ。

  ふらふらと歩いて、ティオは一つの花の前で止まった。

  薄い黄金色で、花弁が細く、くしゃくしゃしている。

  表面は硝子細工みたいに艷やかで、例えるなら蜂蜜みたいな色。主人の毛並みを思い出す。

  よく見ると、少し葉先が弱っていた。

  立て札に文字が見えるので、頑張って読んでみる。

  「アルヴ……アルーヴェ。アルヴェイン」

  意味はよくわからない。多分何かの名前、この花の名前だろうか?

  「呼んだか?」

  草木の間から屋敷の主人が顔を出す。

  「いいえ。何でもないよ。ここに書かれている文字を、読もうとして……」

  「文字が読めるのか?」

  「少しだけ、日用品の買い物くらいなら」

  「感嘆。確かに、その札にはアルヴェインと書いてある」

  よかった、合ってた。

  久しぶりに文字なんて読んだから、少し自信がなかった。

  「これは、北方の海域から来た、崖地帯に咲く花。花弁が薄いのは、日照が少ない土地でも光を集めるためだと言われている。崖沿いだから根も深い」

  温室の主は、スラスラと説明を諳んじた。彼の頭の中には全部入っているらしい。

  「風が強い地帯らしく、花粉を媒介する生き物も居ない。種は小さな帆をつけたカイトのような形で、海風だけで遠くまで飛んでいく」

  説明するその仕草は、相変わらず眠たそうな顔をしながら、すごく生き生きとしていた。

  一通りの解説が終わると、一瞬待って、はっと気づく。

  「失態。白熱してしまって、すまない。そういう花だ」

  「ううん。聞きたい。聞かせて」

  主人は目をまんまるにして驚いていた。

  奴隷が草に興味を持つなんて、珍しかったか。

  「そ、そうか。どの話をする? なるべく短いほうが良いな。退屈だろうから」

  退屈? こんなに面白いのに?

  一瞬待って、自分の失態に気づく。

  「い、嫌ならいい! 俺、自分で見るよ。ちょっとなら、文字、読めるから」

  短くしてくれって、早く終われ意味だよ。主人の時間をむやみに奪って良いはずがないだろ。

  慌てて近くの棚へ並んだ本を見る。

  自分で見るとは言ったものの、簡単な字くらいしか分からない。仕事で荷札を覚えた程度だ。何から手を付けて良いのか、さっぱり分からない。

  ティオの耳がぺたりと伏せる。

  「それは、『沿岸植物誌』か」

  隣から蜂蜜色の顔が覗き込んで来る。そして、本を手に取るでもなく、そのまま話し始めた。

  「最初は潮風へ強い植物の紹介からだったな。海沿いは塩分が高いから、葉が厚いものが多い」

  「え?」

  彼はそのまま続ける。

  「例えば塩花草と呼ばれる分類は、葉の表面に水分を溜めこむ構造を持っている。これは海洋からの潮風から水を受け止め、塩分を葉上で分解し、根への流入を防いでいるとされている」

  説明が止まらない。

  特徴、咲く場所、葉の形、薬効、毒性。全て何も見ずにスラスラと述べあげていく。

  ティオはぽかんとした顔で、全部聞いていた。

  「……とまあ、こんな具合だ。まだ聞きたいか」

  「き、聞くっ! 聞きたい!」

  ティオは自分の立場も忘れてせがんだ。

  「図録がある方が良いだろう。そこの本を手に取って開いてくれ」

  ずっしり重たい図鑑を手に取り、恐る恐る開く。図録付きの書籍なんて高級品、触ることさえ恐れ多いが、好奇心は止められなかった。

  「1ページ目から、始めよう」

  本の文字を一つも見ずに、主人が内容を語り始める。

  色彩豊かな四色刷のイラストが並び、世界が急に広くなる。

  知らない花、知らない土地、海岸、砂漠、湿地、森。

  楽しかった。

  びっくりするほど。

  そして、一冊が中程まで進む頃には窓の光が橙色になっていた。

  ティオはそこでようやく我に返る。

  「……やば」

  顔から血の気が引いた。

  主人の時間を、丸一日使わせた。

  「ご、ごめんなさい!」

  反射みたいに声が出た。

  ティオは慌てて立ち上がる。本が膝から滑りかけて、あわてて抱え直す。耳がぺたりと伏せたまま、視線だけが落ち着かない。

  「し、仕事しなきゃいけなかったよね。邪魔だよね。本当に、ごめんなさい」

  口は早口にまくしたてているのに、手足は動いていない。読書が楽しすぎて、完全に没入していた。

  それでも、主人の時間を使いすぎたことに気づき、途端に頭の中がパニックになる。

  「あ、あの、えっと……本、ありがとうございました。俺、今すぐ……仕事しますから!」

  混乱して何を言ってるのか、自分でも分からない。仕事なんて何も任されていない。

  それを見て、蜂蜜色の彼は軽く手を挙げた。

  「頓着。私も夢中になりすぎた」

  「え、あ、はい……。いや、俺のほうこそ、せがんじゃって」

  ティオは戸惑いながら、小さく頷いた。

  「夕食ができている頃だろう、食堂へ戻ろう」

  「は、はい……」

  シュンと肩を小さくして、図鑑を戸棚に戻す。楽しかった時間だけに、手を離すのが名残惜しい。

  またしてもティオには分不相応な夕食を済ませ、自室に戻る。

  屋敷の主人も現れ、手には大きな袋を携えている。

  「着替え。そこに横になれ」

  「え? あ、はい」

  ティオはためらうことなく、床に仰向けて寝転ぶ。貴族の男はベッドを指さした手を下ろした。

  「意外。まあ良いか」

  主人が隣に座り、包を広げる。昨日の帰り際に見た、紙おむつだった。

  「お、おむつ……」

  「そうだ。どうか嫌がらず着けてくれ」

  テープタイプのおむつが目の前での広げられる。

  「懸念。また今夜もベッドを使わないつもりではないだろうね。眠るならこれをつけてから寝ること」

  正直に言えば、すごく恥ずかしい。

  それでも、主人に反論するわけには行かなかいし、元はと言えば自分の撒いた種だ。

  「うぅ……分かったよ……」

  主人の命令には逆らえない。

  スルリ、スルリとズボンとトレーニングパンツが抜き取られる。幸い、日中のお漏らしはなかったみたいで、少し胸を撫で下ろす。

  可愛いサイズのおちんちんに、乾燥した香草を混ぜた化粧粉がぱらぱらとまかれる。

  ふわっと甘い香りに包まれる。

  「手はここ、お尻、持ち上げて」

  シャツの裾を掴んで胸のあたりまでたくし上げる。おへそまで無防備に晒した姿に、顔が赤くなる。

  床についたお尻を持ち上げると、カサカサと広げた紙おむつが敷かれ、腰を下ろしすと、ふんわりと柔らかい吸収布の感触が伝わる。

  股間を覆い隠すように、紙おむつのサイド部分がペタペタと粘着し、最後に腰の両脇のテープが貼られる。

  「完了。動きにくくは、無いかね?」

  「うん。大丈夫」

  ふっくらとして滑らかな布におちんちんを包まれる。温かいものに包まれる感じがして、ほんの少しだけ気持ち良さを覚える。

  分厚い吸水紙のせいで足を閉じることができないが、それ以外に動きが阻害されるようなことはなかった。

  それでもやはり、子供の衣服である恥ずかしさは残る。

  「似合っているよ。さあ、こっちへ」

  主人がベッドの横に座るので、一緒に隣に座る。

  「今日から、ここが寝床だ」

  肩を捕まれ、視界が揺れる。枕に頭を置かれ、ベッドに寝かされていた。

  生まれて初めてのベッドだ。

  ふかふかで、背中に沈んでいく。暖かく、手触りはさらさらで、まるで夢の中みたいだった。

  甘い石鹸の香り、香草の爽やかな芳香。温かく包み込む布団。

  どれも、夢でさえ手に入らないと思っていたものばかりだ。

  「それで、今日の昼の件なのだが……」

  寝転がる隣で、ベッド縁に腰掛けた主人が、おずおずと口を開く。

  「すみません。余計な時間を……」

  「時間と節度。私も、その少し我を忘れてしまった。次からは、時間を定めてやることにしよう」

  「また、やってくれるの」

  寝っ転がりながら、子供のように目を輝かせた。

  「勿論。何か、気に入ったものはあったかな?」

  今日一度に聞いた、幾多の植物の名前を思い浮かべる。塩草花、砂漠の薄花、岩蔭の朝顔。

  全部は覚えていないけど、やっぱり最初に頭を過るのは、あの蜂蜜色の薄い花弁だった。

  「俺、アルヴェインが、好き」

  「そ……それは。光栄だな」

  主人は目をぱちくりさせて、じっと見つめてきた。

  「アルヴェインが自然に咲いた姿は、何かで見れないの?」

  「暗喩? すぐには飲み込めないな」

  「じゃあ、種はどんな感じ? 見てもいい?」

  「た、種? そんなもの、好きなのかい?」

  キョトンとした顔で、いくらかうろたえた様子を見せる。

  「ええっと……玉くらいなら」

  玉?

  少し困った顔をしながら、主人がカチャカチャと、ベルトのバックルを外し始める。

  いきなりズボンを脱ごうとしてきたので、ティオは一瞬面食らったが、色々思案していたパターンの一つに引っかかる。

  やっぱり、ソッチ目的か。

  うーん。嫌じゃないし……

  むしろ、お返しができるなら、嬉しいかも。

  「脱がしてあげる」

  とっさにティオは気を利かせ、シュルルッと、主人のズボンとパンツを脱がせた。

  蜂蜜色の体から、同じ色の艷やかな陰茎が伸びる。ふっくらと大きく、ティオと比べると二周りくらいは大きい立派なモノだ。勃起してもないのに、包んだ皮にも無駄がなく、鬼頭もしっかり見えていた。

  「は、恥ずかしいな。これで満足か?」

  「や、やったことないけど、口でヤるくらい、できるから」

  ティオは率先して、彼の性器に口を近づける。

  下半身はおむつ一丁で、すごくアンモラルな雰囲気だ。

  おむつの中で自分のモノが先に勃ってるのが分かる。吸水紙を突き上げ、おちんちん全体が、ギュッと布に包まれた感触がする。

  俺、男でも大丈夫かも。このヒトなら……

  「止まれ。なんの真似だ?」

  頭を捕まれ、押し戻される。

  蜂蜜色の彼は、また困惑した顔で、くりくりの目で見つめてきた。怒ってないけど、混乱している様子だった。

  「えっと、ごめん。間違えた? 俺、全然、こういう経験とかなくって」

  「唐突、疑問。急にどうした? 好色家かね?」

  「それは、いきなり脱ごうとしてたから、えーっと」

  「発端。そもそも、君が、私の種を視たいなど、ヘンテコなことを言い始めたからだろう」

  「えっ……えっ!? 俺、そんなこと言った?」

  カチャ、カチャ

  落ち着き払って、屋敷の主人は、パンツとズボンをもどす。そしてベルトのバックルについた文字を見せてくれた。

  「名前。読めるだろ?」

  「アルヴェイン。あんた、アルヴェインって名前だったの」

  「そうだが?」

  「あの花は?」

  「太陽草の一種で、新種と目されている。正式な名前は討論中だ。あの札は、管理者の名前が書いてあった」

  「い、言えよ!」

  「雇用主の名前が読めるのは、助かると思った」

  「違う! 名前、初めて聞いたんだけど」

  「えっ、あ、あれー?」

  貴族男が、くりくりの目をくるくると回している。本当に名乗り忘れていたらしい。

  とりあえず、主人の名前は知れた。でも、やっぱり変な奴だ。

  眉をしかめながら、ティオは頭のなかで顛末を整理した。

  つまり、俺が言ったのは、「アルヴェインの種を視たい」。それがつまり、彼の子種が視たいってことになって……それから、ヘンな話になってしまったらしい。

  これじゃあ、俺って淫乱奴隷じゃん。凹むなー。

  こっちはこっちで、下着の中で勃起しちゃってるけど、そのうち収まるだろう。

  あれ?

  っていうか、「アルヴェインが好き」とか口走った気がする。まあ、いいや

  「すまない。早合点して申し訳ない」

  「いや、こっちも……、何かお返しがしたくて……」

  また沈黙が、流れる。

  「僕はアルヴェイン。フルラン家次男、アルヴェイン•ルフランだ。よろしく頼むよ」

  「遅いよ。自己紹介が」

  ついに突っ込んだ。

  「すまない」と、蜂蜜色の体が縮まる。

  「俺、ティオ。家とか覚えてないし、これが本名なのかも知らねー。よろしく」

  ベッドの上で、二人は握手を交わした。

  「さあ、もう寝たまえ。図鑑の話は、また日を改めよう」

  ポスン

  驚くほど柔らかい枕に、再度頭を沈める。

  「ね、眠れるかな……」

  人生で初めてのベッド、慣れないシーツの上で、緊張して目をパチパチとさせていた。

  何より、こんな綺麗な寝具、汚してしまわないかばかり心配してしまう。

  すると、隣に座るアルヴェインが、ティオの股間に腕を伸ばした。

  「今日ばかりは、ベッドで寝てもらうからな。ちゃんとおむつもつけていることだし」

  ポンポン……

  おむつの上から股間部を優しく叩かれる。ついさっきまて勃起していたこともあって、敏感な所がひくひくと反応してしまう。

  気恥ずかしいが振り払えるはずもなく、大股に開いたまま、おむつの股間を撫で回された。

  「だ、大丈夫なんだよね……? 失敗しても、お、怒らないでよ? 返品とか、嫌だからね」

  「当然。君はずっとそれを心配していたのか」

  「そ、そうだよ。いつもは床で寝てる。毛布とか、汚しちゃうから」

  「そうか。大変だったね」

  くしゃくしゃと頭を撫でられる。

  「この家では、そんな心配は必要ない。ほかに要るものがあれば、言ってくれ」

  今までの苦労を労われ、視界に涙が浮かぶ。

  「ほんとに、本当に、こんな所で寝てもいいんだよね? こんなの、生まれて初めてで、俺……」

  「家人に行って、下に防水帆も敷いてもらっている。おむつもちゃんとつけた。安心しておやすみなさい」

  ポンポンと、またおむつが叩かれる。

  「うぅ……うん」

  バサッ

  信じられないくらい滑らかな毛布を上からかけられる。

  ベッドに体が沈み込んで、飲み込まれてしまいそうだ。

  「や、やっぱり俺、床で寝るよ」

  「棄却。夜尿症は精神疲弊や慢性的な疲労が原因と考えられている。しっかりとベッドで寝てもらう」

  眉を寄せていると、またくしゃくしゃと頭を撫でられる。

  「あるいは命令。明日の朝、私が良いと言うまで、このベッドから出ることを禁ずる。これならどうだ?」

  「わ、わかったよ。ね、寝るよ。頑張って寝るよ」

  「おやすみ、ティオ」

  「おやすみ、アルヴェイン」

  館の主人が自室戻り、部屋の中が暗く静まり返る。

  人生で初めてベッドで眠る。

  それも、今まで見てきたどのベッドよりも豪華だ。

  アルヴェインに買われてから、信じられないことばかりだ……。

  身に余るような美味しい料理を、いくつも食べさせてもらった。たっぷりと湯を貼った風呂、面白い図鑑の話……

  どれもこれも、嬉しくて仕方ない。

  それなのに、まだ、彼の真意が見えない。

  本当に、いったい……

  なんの……つもり……

  ぼんやりとした不安を抱えながらも、ティオは人生で味わった中で、一番柔らかい眠りに落ちていった。