ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活2

  目が覚めると、いつも通りの天井に、いつも通りの時間、いつも通りの格好で寝ていたことに気がついた。

  朝の五時、俺の身体は目覚まし時計も無しに勝手に起きてきてしまう。男子高校生にしてはずいぶん早起きだし、珍しいとも思うが、人は染み付いてしまった習慣をなかなか変えられないものだ。

  島にいた頃、もっと早くから起きてくるじぃちゃんの畑仕事を手伝うために、小学生のころから朝の五時きっかりに起きていた。じぃちゃんは別に手伝わなくてもいいって言ってたんだけど、八十越えた唯一の家族であるじぃちゃんを何とか手伝いたくて、早朝から体を働かせていた。小学生の頃はキツかったけど、中学にもなればかなり慣れたし、体力もだいぶついた。高校一年生のときはじぃちゃんだけじゃなく、他の近所の人の畑にも手伝いに行ってたくらいだ。

  その名残でもあって、寮に入ってからも毎朝五時に目が覚めて、体を動かしたくてウズウズする。俺は早朝が一番元気だった。

  ふと、俺の腕の中で眠っているこーすけを見る。昨夜は色んなことが起こってだいぶごたついたが、とりあえず一番いい形に収まったんじゃないだろうか。こーすけと仲直りもできたし、篠崎にも気持ちが伝わった。全然諦める気はない、って言ってたから、今後もアプローチはされるんだろうけど。

  こーすけとはこれからも友達の関係でいるつもりだ。別に俺のことが好きだって分かったところで、俺からの気持ちは変わらない。今までみたいな関係が一番ベストだろうから。

  誰かと寝たのは久しぶりだった。小さい頃はじぃちゃんと一緒に寝てたが、わりとすぐ一人で寝るようになった。寝るとき寂しいなんて思ったこともないし、添い寝したいだなんて感じたこともなかったのだけど。

  こーすけに抱き締められている感触には、それほど悪い気もしなかった。狭いし暑苦しいが、たまにだったら添い寝もいいかもしれない。毎朝この時間は少しだけホームシックになるが、それを紛れさせてくれるような気がして。

  「………………あーーー」

  天井に向かって、特に理由もなく声を出す。別に普通だ、普段通りの俺の声で、寝起きで少し掠れている程度だ。

  こうやってこれが自分だってことを再認識しなきゃいけないくらい、昨日は色々なことを考えさせられた。何回も何回も鈍感って言われたし、理由もわからず怒られもした。俺はもっと他人の気持ちを理解しようと努力するべきだ。考えてわからなくても、聞けば教えてくれる人もいるんだし。

  こーすけを起こさないようにこっそりベッドから起きて、顔を洗いにトイレへ向かった。

  トイレは各階一ヶ所ずつあって、小便器と個室が数個ある程度の、いわゆる公衆トイレだ。男子寮のトイレってけっこう汚そうなイメージがあったんだけど、毎朝の掃除の時間で頑張ってるらしく、少なくとも三階のトイレは綺麗なままだった。消臭剤もちゃんと置いてあるし。

  トイレに入ると、俺と同じように顔を洗ってる人がいて、思わずビックリする。この時間の寮はとても静かで、基本的に誰もいないんだけど。

  向こうも同じようにビックリしたらしく、パッと顔を上げてこっちを見た。シュッとした印象の狐獣人だ。

  「あっ…………渡嘉敷先輩、おはようございます」

  狐獣人は水に濡れた顔をタオルで拭きながら、ぺこりと軽く頭を下げた。先輩、と呼ばれたってことは一年生だと思うけど、何で三階のトイレにこんな時間からいるんだろうか。

  「えっ…………と………………ごめん誰だ?」

  「あっ、一年生の上柴です。篠崎くんとルームメートの」

  多分ほぼ初対面くらいだった。いや、入寮日に顔を合わせてるはずだけど、あまり記憶には残ってない。そういえばいたかな、くらいの認識だ。

  それにしても、篠崎とルームメートってことは……色々と大変だろうな。

  黄金色の毛が水分を飛ばしてふわっと広がる。その様子をボーッと見ていた。

  「……すみません、勝手に三階のトイレ使っちゃって…………」

  「あっいや全然いいぞ。ただビックリしたから」

  「三階のトイレは一番キレイだから、こっそり使ってるんです。二階のトイレの掃除当番、篠崎くんだから…………」

  はは、と苦笑いを浮かべる上柴に、思わず同情の気持ちが芽生える。きっとサボってばっかいるんだろう、掃除だってまともにやりそうにないし。

  上柴はもう顔を洗い終わっているんだろうけど、俺と話したいのかそのままそこに突っ立っていた。

  「そういや何で俺のこと知ってるんだ?」

  こっちは上柴の印象ほとんど無かったのに、向こうは俺のことを前から知ってるみたいだった。入寮したのは同日なのに、よく覚えててくれるな。

  「失礼がないように、先輩たちの顔と名前はいち早く覚えたんです。それに、先輩の名前って珍しいし」

  上柴はニコニコと笑っている。とても真面目な良い子のようだ。話してるこっちまで、心が穏やかになっていくのを感じた。

  上柴の隣の水道の蛇口をひねって、じゃぶじゃぶと顔を洗う。冷水が顔に浸って気持ちいいし、体に気合いが入るような気がした。

  「渡嘉敷先輩は早起きなんですか?まだ五時過ぎとかですけど……」

  「……あぁ、実家で畑仕事手伝ってたから……その名残で」

  「農家なんですか?」

  「いや…………じぃちゃんの趣味みたいなもんだよ。無農薬で色んな野菜育ててた」

  「へぇ……なんだか憧れますね、そういう生活。僕都会生まれなので、畑とかちゃんと見たことなくて…」

  「大したことないぞ……土があって植物が埋まってるだけだ」

  上柴は、はははっと柔らかく笑うと、さりげなく俺の肩に手を伸ばした。

  「…………どうかしたか?」

  「……糸くずついてました……毛かな?ほら…………」

  上柴が何かをつまんで、俺の目線にそれを持ってくる。白色の細い、獣人の毛だ。おそらく昨日こーすけと寝てる間に付いたんだろう。軽く礼を言うと、上柴はいえいえと微笑む。

  「…………お前こそ、何でこんな早起きなんだ?」

  「昨日点呼のあとすぐ寝ちゃって……起きたらこんな時間でした。二度寝する気にもなれなくて」

  「こんな時間に起きても、暇なだけだけどな……」

  とても穏やかな時間だった。何も変なことはおきないし、心を荒げる心配もない。何をしていても自由な時間のなかで、普通の後輩と普通に喋っている。そうだ、俺はこういう普通の学園生活を望んでいたはずだった。

  再び蛇口をひねって、軽く寝起きの口をすすいだ。上柴はまだ同じところに立っていて、俺のことを見ている。

  「……先輩、なんか…………今居心地いいです」

  「…………ん?どういうことだ……?」

  「なんですかね……トイレの洗面台の前で、立って喋ってるだけなんですけど……なんか落ち着くんです」

  ちょうど俺も同じ事を思っていたところだったので、少しだけ驚いた。昨日みたいなややこしい騒ぎとはかけ離れた和みの時間。早朝だからなのか、トイレだからなのか、上柴といるからなのか、その全部か。とにかくこの平和な時間が貴重なものに感じて嬉しくなってくる。

  「………俺も、同じ事考えてた。しばらくボーッとしてるのもいいかもな」

  「あっ、先輩僕のタオル……良かったら使ってください」

  「あぁ……ありがとう…………」

  顔を洗った直後、まだずぶ濡れの状態で、差し出されたタオルで顔を拭く。さっき上柴が使ったところを見ていたけど、嫌悪感は全く沸いてこなかった。

  つくづく気の回る後輩だ。こんな良い子と同室だなんて、篠崎が羨ましい。めちゃくちゃ気遣ってくれそうだ。

  「…………はい、ありがと…………」

  「いえ……なんかお役に立てて嬉しいです」

  「……召し使いじゃないんだから………………」

  タオルを返して、ポンポンと頬を叩く。今日はこれから何をしようか。宿題は終わってるから、出掛けようが何しようが自由ではあるんだけど。せっかくの休日だから、体を動かした方がいいだろう。

  すると、上柴は一歩俺に近寄ってきた。背が高いわけじゃないから、目線が合わなくなるんだけど。

  「先輩……これ大丈夫ですか……?」

  上柴は俺の右手をとって、そっと手の甲の傷痕をなぞる。そういえば昨日、こーすけと喧嘩した拍子に爪を突き立てられたんだった。その時の痕はまだ残ってて、全然痛みもなかったのだけど。

  上柴は心配そうな表情だ。

  「………大丈夫だ。ちょっと引っ掛かれただけだから」

  「まだ痛みます?部屋に救急箱ありますけど……」

  「いや全然もう痛くねぇよ……ありが………………」

  そのとき、思わず言葉を途切れさせてしまった。

  上柴が近寄ってきたおかげで、仄かに上柴から香る匂いを嗅ぐことになったのだが、その匂いに思わず驚いて、体が固まってしまう。

  「…………どうしました?」

  「…………………………ハイビスカス…………」

  「……え?ハイビスカス……って南の島の?」

  上柴から香っている匂いは明らかにハイビスカスだった。間違いない、俺が住んでいた島にはたくさん咲いていたし、じぃちゃんが庭に植えていたくらいだ。

  ハイビスカスの花の匂いは、特別強いわけでもないし、特殊なわけでもない。いわゆる普通の花の良い匂いだったんだけど、俺は毎日のようにそれを嗅いでいたから、懐かしい匂いに思わずもっと鼻を近づける。

  「……っ、あ、あの…………先輩…………?」

  「…………やっぱりハイビスカスだ…………」

  スンスン、とまたその匂いを頭に届ける。きっと仄かに香っているだけだし、これは上柴の体臭なんだろう。洗剤の臭いで少し紛れてはいるものの、ハイビスカスの香りが俺を懐かしい気持ちで満たしてくれた。特に、少しホームシック気味の今嗅ぐと、頭に実家の風景が浮かび上がる。

  もっともっとと鼻を近づけて、少し遠ざかろうとする上柴の肩を掴んで逃がさない。首元が一番強く匂っている感じがして、マズルの先を押しつける。

  「……っ!ん………………と、渡嘉敷先輩…………?」

  「………………………………………………」

  「…………せ、せんぱい…………っ、」

  「………………………………………………………」

  「……先輩は……っ、臭いフェチなんですか?」

  上柴の言葉がぼんやりと頭の片隅を漂っていくなか、最後の言葉を言われて不意に我にかえった。ほぼ初対面の後輩の肩を掴んで、首の臭いをひたすら嗅いでる先輩って、普通に考えたらかなりヤバい人だ。

  バッと手を放して、勢いよく首を横にふる。

  「っ!!!違う違う違う違う………いや、その、上柴からハイビスカスの匂いがしたから…………つい夢中になっただけだ、悪いっ!!」

  「……あ、いえ…………そんな………………」

  「…………別に変な、なんか性癖とかはないから!!」

  「…………何でハイビスカスの匂いが、僕からしたんですか?」

  上柴は特に怒っている様子でも、気持ち悪がってる様子でも、怖がっている様子でもなかった。不思議そうな顔をして、首を傾げている。

  その態度に一度安心したのと、上柴の質問の答えを模索してみる。確かに植物の匂いが獣人からするってのは、変なことなんだろうけど。

  「……上柴の体臭が、ハイビスカスに似てたってだけだ。実家でじぃちゃんが庭に植えてたから、懐かしくなってつい嗅いじまった……ごめんな?」

  「いえ、全然……嫌じゃなかったですし。ビックリはしましたけど……」

  上柴は微笑みながら、俺の奇行を許してくれた。もしかしたら俺に気を遣っているだけかもしれないし、これ以上嗅ぐのは失礼だ。自分から一歩ドアに後ずさって、匂いの届かない位置に立つ。

  「……初めて言われました、そんなこと」

  「…………まぁ、ハイビスカスに過剰反応すんのは……俺くらいだし」

  「でもなんか、先輩に言われると嬉しいです……今度からシャンプーは匂い薄めの使ってみようかな……」

  上柴はニコニコと微笑んでいた。いきなりほぼ初対面の先輩に、首の臭いを嗅がれたわりにはずいぶんとおおらかな反応だった。慣れているわけでもないと思うし、もしかしたらこの子も、俺と同じように鈍感な節があるのかもしれない。

  「先輩は、毎朝何をされてるんですか?点呼まで一時間半くらいありますけど……」

  「あー……えっと、」

  ここ数日は、部屋でじっとしていたり寮の電話を借りて実家に電話してたり……特にこれといってやることもなかった。本当はジョギングでもしに行きたいところなんだが、寮監だってまだ寝ているだろうし、外には出歩かせてもらえないだろう。実際体は運動したがってるのに何も出来ないから、フラストレーションがたまる。

  「…………特に何もしてない……っていうか暇つぶししてる」

  「確かに暇ですよね……あ、じゃあ良かったら一緒に散歩でも行きませんか?」

  「散歩?外は出歩けねぇだろ……?」

  「玄関の鍵は開いてますよ。毎朝寮監が早起きして、ジョギングしに行ってるらしいです。ほらあの人体育会系だし」

  それは初耳だった。てっきりこんな時間には寮監も寝てるだろうから、訪ねてみたことは一回も無かった。良いことを聞いた。外に出てもいいのなら、この毎朝の退屈な時間もましになるだろうし、体も動かせるというわけだ。急に体がウズウズとしてきて、早く運動したいと訴えてきた。

  「行きましょう?先輩ともっと、おしゃべりしたいです」

  そう言ってにこりと微笑む上柴に、また少し心が解きほぐされたような気がした。

  勝手に外に出るのは寮則違反だとは百も承知で、玄関のドアからこっそりと外に出る。両側から施錠できるようになっているこのガラス扉の鍵は、寮監しか持っていないため、夜になったら誰も外を出歩くことはできない。ただその寮監も、朝ジョギングに行く際に鍵を開けたまま出ていってしまうのだから、なかなか無用心だと思った。正直ちゃんと閉めとかない寮監が悪い気がする。

  外に出ると、まだ早朝の涼しげな風と昇りきっていない太陽が、俺たちを出迎えた。まだ四月だし少し寒いくらいだけど、体を動かすならちょうどいい。

  同じように上柴も、黄金色の毛を靡かせながら心地良さそうに尻尾を緩やかに振っていた。

  「涼しくて気持ちいいですね……たまには早起きもしてみようかな」

  「ちょっと寒いくらいだな。上柴は平気か?」

  「狐の毛皮は寒さに強いので。さっきだってちょっと暑かったくらいでした」

  そういえば狐は元々北の方の先住民が祖先だと、授業で習ったような気がする。毛がふわふわで分厚く、特に寒さに強い種族だ。反対に暑いのには苦手で、ジメジメした蒸し暑い日本の夏は、狐獣人にとって天敵だ。熱中症患者の三分の一くらいは狐獣人だって聞くし。

  適当に歩きだした上柴につられて、その隣を歩く。寮の周りをあまりじっくりと散策したことがなかったから、この機会に学園の様子を観察してみようかとも思う。

  寮を出てすぐは一本道の道路があって、それをまたいだ反対側に、第三体育館の壁が見える。確かバドミントン部とかはここで練習してるって聞いた。一本道の道路沿いに向かって右側に歩いていけば、学園の正門と接する大通りにぶつかって、みんなそこから登校するようになってる。

  向かって左側に行くと学園とは反対に、野球部やサッカー部のグラウンドがある方向へ行ってしまう。この辺は部活動生しか使わないから、ほとんどの生徒はどうなっているかも知らないだろう。

  上柴はそっちに行ってみるそうで、ゆっくりとした歩調のまま左に向かって足を進めた。

  「渡嘉敷先輩は、二年生の……何組ですか?」

  「2組だ。こーすけと一緒」

  「あっえと、利根川先輩?ですよね」

  「そう。部屋からクラスまで一緒にされたんだよな」

  「いいじゃないですか。先輩たち仲良いですもんね」

  仲が良い。それも正直昨日の一件で微妙になったところだ。俺からは友達としてこれからも普通に接していきたいんだけど、こーすけ側がどう考えているのか、まだ具体的な気持ちを聞いてない。昨晩はこーすけを泣き止ませてそのまま寝ただけだから。あいつが起きたら久郷田先輩とのことについても聞きたかった。二人は付き合ってるわけでもないのに、発情期の相手だけしてるようだし。

  「ルームメートと友達なんて……羨ましいです」

  「……篠崎と仲悪いのか?」

  少し不安そうな顔の上柴。篠崎は誰とでも仲良くやれる社交的なタイプだし、上柴も素直で良い子だ。二人が仲が悪い様なんて想像つかないけど。

  「仲が悪いわけじゃないですよ。でも篠崎くんすぐに先輩たちの部屋に行っちゃうから、まともに喋ったことすらないんです。なんか同級生のこと眼中にない、って感じです」

  「あぁ…………なるほど」

  確かにあいつが同級生と喋ってるとこ見たことがない気がする。先輩たちの部屋で寝泊まりすることも多いみたいだし、それこそ俺のとこにもしょっちゅう訪ねてきてる。上柴も多少は寂しいんだろうか。

  「あと篠崎くんすっごい部屋汚いんですよ!洗濯物とか脱ぎっぱなしにするし、お菓子のゴミとか布団の上に散らかすし、掃除とか全然しないし……」

  ここ一週間で苦労してきたのか、溜まってた愚痴がわっと溢れだした。さっき俺の肩に付いてたこーすけの毛にも反応してたけど、もしかして。

  「上柴って潔癖症なのか?」

  「潔癖……症とまではいかないですけど、キレイ好きですね。特に自分の部屋が汚いままなのは許せなくて」

  少し怒っているような表情を見せる上柴に、少なからず同情してしまう。というか寮内で一番ルームメートとして相性が悪い奴に当たってしまったんじゃないだろうか。アイツのだらしなさは折り紙つきだし。

  「……それに、毎日部屋掃除して洗濯もしてるのに、篠崎くんに礼も言われたことないんです。それが一番腹立たしくて」

  上柴はしょんぼりとした顔に尻尾を垂れ下げて、見るからに落ち込んでいた。自分の頑張りが評価されないのって嫌だと思うし、モチベーションも低下するだろう。篠崎は無神経な奴だから、そんなこと気にもかけてないんじゃないだろうか。

  ……いや、そういえば、

  「昨日篠崎が俺の部屋来たとき、ルームメートの子のおかげで部屋が綺麗だって言ってたぞ」

  風呂場に行く前かなんかに、そんな話になった気がする。本人の口調から感謝の気持ちはあまり伝わってこなかったけど、言ってたのは事実だ。

  「ホントですか?」

  「あぁ、感謝してるって言ってた。直接言うのは恥ずかしかったんじゃねぇか?」

  後輩を元気づける為だし、ちょっとくらい盛ってもいいだろう。その証拠に、上柴の尻尾はゆらゆらと揺れ始めていた。

  「……そうでしたか。ならよかったです……ちょっと篠崎くんのこと嫌いになりそうでしたから」

  「俺からももっと同級生と仲良くしろって言っとく。あんまり先輩とばっか一緒にいんのも良くないだろ」

  今は一年生だから良いけど、来年再来年には自分が一番先輩になるんだから。同級生の友達がいるってのは大事だ。

  ……ていうか何で俺篠崎の心配してるんだろうか。あいつは放っといても上手いことやってけるタイプだ。どっちかっていえば俺の方が、この新しい環境の中で早々にホームシックになってるとこだった。自分の生活の方がよほど心配だ。明日は数学の小テストが待ってるし。

  「そういえば先輩って篠崎くんと仲良いですもんね。付き合ってるんですか?」

  上柴の何気ない直球の質問に、ビクッと体が動く。当人は何となく聞いたつもりだろうけど、ちょうど昨日告白されてフッたところだ。まだ何だか記憶が生々しくて、冷静でいられない。

  「…………付き合ってねぇよ……………」

  「じゃあ先輩……今恋人はいないんですね」

  「う、うん……………まだ一週間だしな」

  別に俺がノンケだって隠す必要はない。この学園にいるからって、同性愛者じゃないといけないっていうルールはないんだから。だけどおおっぴらに言いふらすのも、何だか悪目立ちしそうでできなかった。この学園ではイレギュラーは俺の方だ。普通の学園生活を送るためにも、周囲に溶け込んでいたいから。だから聞かれたら答えるってくらいにしとこうと思っている。

  「そっか…………いないんですね………………」

  「ん?何か言ったか? 」

  「なんでもないです。あっ、あっちに行ってみましょうよ」

  上柴は俺の手を引っ張って、早めの歩調で歩きだした。

  いくら点呼まで時間があって、気の向くままに散歩をしてもいいからといって、あまり遠くに行くつもりはなかった。まだ二人とも土地勘もないし、帰れなくなってしまうと本当に困る。だからどこかで軽く休憩して帰ろう、ということになった。

  そのときたまたま見つけたのは、道沿いに急に現れた、小さな鳥居だった。鳥居の先には石の階段が続いていて、小高い丘の上に神社があるようだ。

  「…………稲光神社………………」

  「昔はここら辺が稲光って地名だったらしいですよ?学校の名前もそこから取ってるらしくて」

  「詳しいな……」

  「おじいちゃんが稲光の出身なんです。開拓される前は一面畑だったみたいです」

  一面畑か。ふと実家の風景を思い出した。島はそんなに面積が広くなかったし山が多かったから、サトウキビ畑もそんなに広くなかった。でも豊かな自然があったという点はどこも同じで、稲光は開拓されて今は見る影もない。自分勝手な話ではあるけども、実家の島だけは、あのままの自然がずっと残っていてほしい。

  上柴はちらりとこちらを見た。

  「行ってみませんか?お参りしましょう」

  「……そうだな」

  きっと昔からある古い神社なんだろう。それこそ上柴のじぃちゃんもお参りに来たかもしれない。

  鳥居をくぐって石の階段に足をかけると、年季の入った凹凸の感触が伝わってくる。多くの人が往復してきた証拠だ。何だか感慨深い。

  上柴がどんどん上に登っていくのを追いかけて、一段飛ばしで階段を駆け上がる。最近はあまり体を動かしていなかったから、これくらいの運動が心地いい。

  気づけば上柴も追い越して、かなり上の方の段まで飛ばしてきてしまったようだった。階段からはさっき歩いてた道路や学園は見えなくて、全て生い茂る木が覆い隠してしまっていた。何だか全然別の場所に来てしまったような錯覚を覚えて、不思議とワクワクが芽生える。

  頂上が見え始めていたので、走るのはやめて上柴を待ちつつゆっくりと歩いてみる。大体五、六十段くらいだっただろうか。もっと長かったようにも思えるが、体力を持て余していた俺には苦に感じなかった。

  「……先輩朝から元気ですね」

  「あぁ。もう何往復かしたいくらいだ」

  「面倒なので勘弁してください……あ、また鳥居がありますね」

  上柴の言葉につられて上を見上げれば、元々は赤かったんだろう、今は少し色褪せて朱色になりつつある鳥居が、俺たちを迎え入れる。あまり掃除されている様子もなく、境内は所々落ち葉が散っていて、何だか物悲しい印象を覚える神社だった。

  鳥居をくぐると正面に小さな拝殿がひとつだけポツンと置いてある。賽銭箱も無ければ鈴もついていないし、立派な鳥居に反してかなりこじんまりとしていた。

  「……なんか、淋しい神社ですね」

  「人が来てる感じでもねぇしな……神主もいないんだろ」

  「何の神様が祀ってあるんですかね……注意書きとかもないし」

  昔からある神社にしては、あまりに何もなかった。何か災害とかが起こって色々と壊れてしまったんだろうか。そのまま修復されずに忘れられているんだろうか。そういう悲観的な妄想が、この神社にいると触発される。

  すると上柴が、

  「先輩!こっちの方スゴくいい眺めですよ!」

  声の方を見ると、この背の高い木々に囲まれた境内で、唯一木が植えられていないスペースがあるようだった。そこからなら綺麗な景色が見えそうだ。

  近づいていくと、その木一本分の隙間から、学園の外の街の様子が眺められた。といってもこの場所もそれほど高い位置にあるわけでもないので、少し目を凝らせば立ち行く人の姿もしっかりと確認できる。早朝は車も人も少なくて、昇りきっていない朝日が、薄暗くぼんやりと街を照らしていた。

  近くに小さめの岩があったので、腰かけて上柴を見てみる。遠くの方にじっと目を凝らしていて、何かを探しているようだった。

  「……あっちの方に僕の家があるんですよ。ちょっと高さが足りなくて見えませんけど」

  「ホームシックか?」

  「はい……なんか寮生活って思ってた以上に大変で、なにもしなくて良かった家の暮らしが懐かしいです」

  確かに寮は自分のことは全部自分でしなければならないし、一年生の上柴は寮での仕事だって多い。先輩からパシられることもあるだろうし、篠崎の分の掃除や洗濯だってやってあげてるのだ。土曜日の点呼後に思わず寝てしまうくらい、体が疲れているのだろう。

  そっと、上柴の背中をポンポンと叩く。

  「すぐ慣れるだろ。寮も悪いことばっかじゃねぇしな」

  

  「先輩はホームシックにはならないんですか?先輩の実家とはだいぶ環境も違いますよね?」

  正直毎日なってるところだった。特にこの早朝の何もない時間は、島の自然や生活に思いを馳せて、ボーッと考え込んでいることが多かった。都会は空気が汚いし、夜になっても星が見えない。海も山も畑もない。違和感だらけだ。

  「毎日なってる。でもさっき上柴の匂い嗅いだら、実家の匂い思い出してちょっと平気になったぞ」

  「あぁ……ハイビスカスの匂いでしたっけ。自分じゃよくわからないんですけど」

  「分かんなくてもいい。たまに勝手に嗅いでもいいか?」

  「えっ……まぁ、はい…………」

  何気なく言ったつもりだったが、たまに体の匂いを嗅がせてくれ、なんて頼む先輩怖くて仕方ないだろうな。困り顔をする上柴に何だか申し訳なくなって反省する。

  すると上柴は、俺の座っている岩の空いたスペースに無理やり座ろうとしてきた。俺が半分スペースを空けると、そこにぴったりと収まる。正直狭いしめっちゃ密着してるから、どうしたのか聞こうと思ったのだけど。

  そのとき上柴は、俺の首もとにマズルを押しつけてきた。少し湿った感触に戸惑いながらも、横目で上柴の様子を見る。目を閉じて、クンクンと匂いを嗅いでいるようだ。

  「…………おい、どうした?」

  「先輩も嗅いできたじゃないですか。お返しです」

  「俺の臭いなんか嗅いでもしょうがないだろ……」

  「いえ……なんか落ち着く匂いがしますよ。何の匂いに近いのかは分かりませんけど」

  誰かに至近距離で匂いを嗅がれるのは、あまりいい気分じゃないんだと始めて知った。何だか首筋がぞわっとするし、あまり落ち着かない。心地いいのは嗅いでる方だけみたいだ。

  上柴は相変わらず俺の臭いを嗅ぎ続けている。自分の臭いは自分ではわからないものだし、どんな臭いがしてるのかは少し興味がある。あんまり臭くないといいけど。

  「……どんな臭いなんだ?」

  「うーーん…………お日様の匂いですかね。あとは森と海と……色々混ざったような感じです」

  「全然想像つかねぇな……」

  「そんなものですよ。先輩が良かったら、また嗅いでもいいですか?」

  「……まぁお互い様だ。人のいないとこだったら良い」

  「人のいないところでお互いの匂いを嗅ぎ合うって……なんだか変態くさいですね」

  そう言って上柴はにこにこと笑った。表情は清々しいけど、言ってることは的を射ている。ほんとに変態臭いし、誰かに見られたら誤解を招くだろうな……。それでも嗅ぎたいと思うほど、俺にとってハイビスカスの匂いは大切なものだった。今度花屋に売っていないか見に行ってみようか。

  上柴が近くにいればいるほど、ハイビスカスの匂いが俺の鼻を刺激する。懐かしい気持ちになると共に、自然ともっと嗅ぎたくなって、無意識に鼻をひくつかせ、マズルを近づける。

  「……ハイビスカス……って、どんな花なんですか?」

  首を傾げる上柴に尋ねられて、ハッとして匂いを嗅ぐのを止めた。さりげなく顔を遠ざけて、匂いに夢中になっていたことを悟られないようにする。

  「春から秋くらいの、暖かい季節によく咲いてる。一度咲いたら一日で萎んじまって、またすぐ別のが咲くんだ」

  「一日しか咲いてられないんですか……なんか悲しいですね」

  「アサガオとかカラスウリとかもそうだ。サボテンにも一晩しか咲かない種類がある」

  「先輩詳しいんですね……」

  「じぃちゃんがガーデニング好きだったからな。話されてる内に自然と覚えた」

  じぃちゃんはとにかく植物が大好きな人だった。畑で野菜も育ててたし、庭にはミカンやすももの木が植えてあったりした。よく小さい頃は山に連れていかれて、そこら中の植物について講義を受けたもんだ。あのときは面倒くさくて聞いてるフリだけしてたけど、きっとじぃちゃんはあの時間がとても楽しかったんだろう。

  「じゃあハイビスカスの花言葉ってなんですか?」

  「花言葉?知らねぇ……」

  そういえばじぃちゃんは花言葉が嫌いだった。植物に勝手に意味や言葉をつけるなんて、と怒っていたような気がする。別にいいじゃん、と宥めようとした日は、じぃちゃんなりの植物愛について何時間も説教されたのを覚えている。だから花言葉は全然詳しくなかったんだけど。

  上柴を見ると携帯を取り出して、ポチポチいじり始めた。俺は携帯を持ってないから、具体的に何をしてるのか分からないけど……恐らく花言葉を調べてるんだろう。ぐーぐる?だっけ。

  「あっ、ありました……えっと花言葉は…………」

  滑らかに指を動かす上柴をじっと見ていた。よくそんなに器用に扱えるもんだ。こーすけがパソコンを使っている時もそうだけど、手際が良くて感心する。

  すると、上柴は動かしていた指を急に止めて、俺とは反対の方を向いた。見つけたんじゃないだろうか?

  「…………どうした?なんだよ花言葉」

  「……繊細な美、と…………あ、新しい恋です…………」

  言い終えた後上柴は一瞬だけこっちをちらりと振り返った。その顔は黄金色の毛の上からでもわかるくらい赤面していて、耳と尻尾も忙しなく動いている。

  「ふーん……ずいぶんロマンチストだな」

  「な、何が……ですか?」

  「花言葉を決めた奴って、絶対雌だろうな。大体どの花言葉も美とか愛とか入ってる気がするから」

  「そ、そうですね………………」

  上柴の様子はずいぶんぎこちなかった。どうかしたんだろうか。体調が悪いならさっさと帰った方がいいし、どっちみちだいぶ時間は潰れただろう。のんびり帰っても点呼には間に合う。

  顔を真っ赤にしたまま俯いている上柴の顔を覗き込む。

  「……大丈夫か?体調悪いのか?」

  「大丈夫……です。先輩ってけっこう鈍感なんですね……」

  「……え?何が?」

  「なんでもないです。そろそろ帰りましょう」

  上柴は揺れている尻尾で俺の背中を軽めに叩くと、その場で立ち上がった。この行動の意味も謎だし、また鈍感だと後輩に言われてしまった。何がどう鈍感なのか一向に分からないまま、上柴は俺の腕を引っ張って立ち上がらせようとする。その間も一回も目が合わなかった。

  「なんで鈍感なんだよ?」

  「なんでもないですって。早く行きましょう」

  本人はとにかくなんでもないことにしたいようだった。無理に言わせるのも申し訳ないので、あまり追及はしないことにするけど。

  上柴は俺の前を歩きながら、やはり顔を合わせようとしないけど、尻尾だけは嬉しそうに揺らしていた。

  「先輩は、部活動とか入ってるんですか?」

  帰り道の途中で沈黙に耐えられなくなったのか、上柴の方から話題を持ちかけてきた。

  部活動は、転校してくる前から入りたいとは思っていた。新しい高校生活への期待の中には、甘酸っぱい恋や、清々しく汗を流す部活だって含まれていた。ただ二年生からの転入ってこともあるし、俺はスポーツの経験がほとんどないから、運動部のハードルはかなり高くて、要するには。

  「入ろうと思ってるけど、保留中だな」

  二年生からでも楽しめるような、そして女子と仲良くなれるような、ちょうど良い感じの部活はないだろうか。

  「この学園めちゃくちゃ部活の種類ありますもんね……入るなら運動部ですか?」

  「……いや、別に考えてねぇかな…………」

  口でははぐらかしたが、運動部は少しだけ抵抗があった。基本的には縦社会って言うし、そうなると二年から入った俺は中途半端な立場になる。寮でも似たような気持ちは感じてて、入寮した日は一緒なのに一年生から先輩って呼ばれるのは違和感があって少し落ち着かない。

  隣を歩く上柴にも、先輩って呼ばせているのがなんだか申し訳なく思っている。

  「上柴はなんか入ってんのか?」

  「僕は演劇部です。中学生の頃から続けてるので」

  演劇部なんかもあるのか。文化祭のときとかに、皆の前で劇を披露したりするんだろうか。上柴がホールの壇上で、踊りながら歌を歌っている様子が目に浮かんだ。いや、これはミュージカルか?

  「先輩も良かったらどうですか?けっこうアットホームで楽しいですよ?」

  「いや……俺演技とかやったことないから大丈夫……」

  ふと頭の中でイメージしていた上柴の劇が、自分に置き換わる。とてもじゃないが上手くできる気がしないし、人前に出るのは全く似合わない。テレビで映画やドラマなんかを見てるとき、役者の演技力に驚かされたのと同時に、自分じゃない誰かになりきるなんて、俺は絶対に無理だろうなと割りきっていた。

  「高校生から始める人も多いですよ?」

  「…………やめとくわ」

  上柴は俺を演劇部に勧誘したいようで、何度か俺の顔をチラチラと伺いながら、自分自身も残念そうな顔をしていた。それから顔を逸らすようにふと上を見上げると、とっくに太陽が昇っていて、朝の冷たい空気を散らすように街を明るく照らしていた。

  「……あれ、今何時だ?」

  「えっと……6時45分です。ちょっと急ぎます?」

  「あぁ……ギリギリかもしれねぇな」

  まさかそんなに時間が経っているとも思わなかった。点呼は7時からだから、とりあえずそれに間に合えばいいんだけど、外出していたことが寮監にバレたら面倒だ。ちょっと早めに帰っておいた方がいい。

  上柴は歩くペースをだいぶ速めて、早歩きで寮への道を進んでいく。その後ろを小走りで着いていくと、ちょうどいい運動になった。

  追いついたくらいで、そっと上柴に声をかける。

  「上柴…………」

  「……っなんですか?」

  「お前と散歩してて楽しかった。ありがとうな」

  こんなに朝の時間が刺激的で、短いと思ったのはこの一週間初めてだった。やはり散歩に行けたのが何よりいいし、普通の後輩と普通の会話ができて嬉しかった。

  そのままの言葉で上柴に微笑みかけると、上柴はちらりとこっちを見て、すぐに顔を逸らしてしまった。

  尻尾は嬉しそうに揺れている。

  「……先輩ほんとズルいです………………」

  「ズルい?何が?」

  「そういうとこです。早く帰りましょう」

  そう言った上柴の耳は真っ赤だった。

  寮に帰ってきたとき、壁掛けの時計を見ると6時55分だった。そんなに遠くまで行ったつもりはなかったけど、案外長いこと外をぶらぶらしていたらしい。おかげで運動もできたし、いい散策にはなった。

  点呼五分前ってことで一階の玄関の周りには、ちょっと早めに起きてきた寮生たちが食堂に向かっていて、目立たないようにこっそりと靴箱に向かう。既に何人かの目線はちらちらと感じてはいたけど、特に話しかけてくる気もないようだし、寮監にさえバレなければいいと思っていたが。

  靴箱に自分の靴を入れたところで、何か大きな気配を後ろに感じて、恐る恐る振り返る。

  「…………朝っぱらから外出か?」

  「久郷田先輩…………おはようございます」

  少々寝癖のついた頭に、ヨレヨレのタンクトップ。俺よりも10センチ近く背の高い久郷田先輩は、眠そうでも十分強面で存在感があった。

  久郷田先輩はわりとルールを大事にする人だ。もしかしたら怒られるかもしれない、と身構える。

  「おはよう。寮則で朝7時までは寮監の許可がないと外出できねぇのは知ってるな?」

  「……はい、すみません」

  出れるとわかって嬉しくなって外出したのは間違いなく俺が悪い。言い訳なんかする気もなかったし、素直に謝ることにした。

  なんだか睨まれている気がして、目が合わせられずに下を向く。

  「何しに行ってたんだ?散歩か?」

  「散歩です。朝早く起きてしまったので」

  「ホントに散歩かよ……コンビニでも行ってこいよ」

  「え?」

  呆れたような久郷田先輩の声が聞こえて、思わず顔を見上げる。なんか怒ったような、困ったような、中途半端な顔をしていた。

  そういえば、風呂場以外で久郷田先輩と喋るのはほとんど初めてだったような気がする。昨日の食堂のときも、実際はこーすけとしか喋っていなかったし。

  改めて先輩を観察してみると、色々なことに気づく。寝起きは眠そうな分目が細くて顔が怖い、とか。尻尾は短めでそんなに揺れるタイプじゃない、とか。風呂場で喋るときは大体毛が濡れてるから、意外と普段は毛がふわふわしてるんだ、ってとことか。

  「…………出たのは一人か?」

  「はい……玄関の鍵が開いてたので……つい」

  上柴は、二年生の靴箱を挟んだ真反対にいる。久郷田先輩からは見えてないから、このまま隠しておいた方がいいだろう。わざわざ上柴まで怒られる必要はないし。

  久郷田先輩は腕を組んだまま、小さくため息をついた。そして大きな掌で、俺の頭をガシッと鷲掴みにする。思わず体がビクリと跳ねて、久郷田先輩の顔色を伺う。

  「…………………………………………………」

  「……………………?あの………………」

  久郷田先輩は俺の頭をガシガシと乱雑に撫でる。人に頭を撫でられることなんか何年ぶりで、久しぶりの感覚に困惑する。それにどっちかっていうと誉められてるときにするもので、怒られてるときに撫でられるのはどうなんだろう。

  久郷田先輩はニヤニヤと笑いながら、強い力で俺の頭の毛をボサボサにするまで撫でると、ポンっと肩に手を置いた。

  「まぁほどほどにしろよ。寮監にバレたら休日の外出禁止になるからな」

  「は、はい…………」

  久郷田先輩は満足げな顔をして、そのまま食堂に向かって歩いていってしまう。尻尾はさっきより大きめに振れていて、なんだか急に上機嫌になったようだ。

  ……いや、なんだったんだ?

  すると、

  「……先輩、すみません。僕のせいで怒られてしまって…………」

  上柴が靴箱からこっそり顔だけ出して、申し訳なさそうに耳を垂れていた。

  「あぁいや、なんか怒られた……ってわけじゃねぇから…………」

  「そうなんですか?先輩頭掴まれて脅されて…………」

  「いや脅されてはねぇよ…………何なのかわかんないけど」

  子供みたいに頭を撫でられただけ、って言おうとしたが、自分でも訳が分からないので口にするのはやめておいた。

  壁掛けの時計をふと見ると、もう一分前だった。急いで履き替えて、ぞろぞろと食堂に向かう寮生の波に飲まれる。無断外出したのがバレたのは多分久郷田先輩と他数人だし、告げ口するような奴もいないだろう。寮監は既に食堂で人数確認をしていたし。

  「もう一分前よー!!さっさと席につきなさい!」

  さすがに早朝からジョギングに行っていただけ、寮監はシャキッとした声で眠そうな寮生たちに指示を飛ばす。昨日は土曜日だったし結構夜更かしした人達も多かっただろう。席についたらしんどそうに机に突っ伏している姿を何人も見かける。

  一番奥のテーブルを見ると、こーすけが退屈そうに欠伸をしているのが目に入った。昨日のこともあるし少し気まずかったが、どうやら空いてる席が隣しかないようなので、神妙な気持ちで丸椅子に腰かける。

  こーすけは俺が座った直後に、

  「おはよう。好きだよ」

  「っ、!!!???」

  いつも通りの無表情で、唐突に告白をされる。突然のことにビックリして少し椅子から落ちそうになる。

  俺の反応を見て、こーすけはニヤニヤと笑みを浮かべる。

  「めっちゃ驚いてんじゃん。ドッキリ成功」

  「…………あのなぁ……………………」

  「起きたら居なくなってたけどどこ行ってたの?散歩?」

  何食わぬ顔でいつも通り接してくるこーすけに、俺の方が羞恥心が生まれる。散々泣いたり怒ったりした次の日は、案外平気なことはあるけど、昨日の出来事はどちらにとっても重大な出来事だったはずだ。顔を合わせたらちゃんと真面目にお断りしようと思っていた矢先、こうもケロッと態度を変えられると、困惑してしまう。

  「…………散歩だ」

  「あー無断外出したんだ。バレなかった?」

  「バレなかった…………つーかさ、」

  やっぱり無理だ、何もなかったかのように接するのは違和感があるし、こーすけの顔を見るたび昨日の泣き顔が頭にちらつく。 ちゃんと整理をつけてからじゃないと、前みたいにはいかない。

  「……分かってるよ。俺フラれたんでしょ?でも一回断られたくらいで諦めないよ、俺往生際悪いから」

  「…………篠崎と同じ事言うなよ」

  こーすけの表情には全く変化がない。普段通りのポーカーフェイスに、人を小バカにしたような口調、飄々とした態度。言ってることはさっぱりしてて、本人も振り切ったんだろう。俺に対して恋愛感情を清々しいくらいぶつけ続けて、応えるまでやると。ほんとに篠崎と同じじゃねぇか。

  「篠崎くんとは恋のライバルになっちゃうね。どっちが先にセックスできるか」

  「ッッ!!!すぐえっちな事言うのやめろ!!」

  「はいはい。今日の朝食ごはんだって」

  こーすけは相変わらずだ。俺をからかって楽しんで、昨日の朝と何も変わらない。もしかしたら変に気まずくならないように、こーすけなりの気遣いなのかもしれない。ものすごく分かりづらいけど。

  まぁでもこうやって友達同士でいる方が圧倒的に楽しい。昨日は精神的にかなり疲弊した。

  話は変わるけど、寮の朝食は基本的に週四で菓子パン、週三でごはんと味噌汁が出る。朝ごはんを食べないって人も多いから、ちょっと重ためのごはんの日は 何も食べずに部屋に帰る人がかなり多い。俺は実家にいた時から朝はじぃちゃんの味噌汁を毎日飲んでたから、ごはんの日は貴重で、ちょっと嬉しい日だ。こーすけもそれを知ってるから、俺に教えてくれるんだけど。

  「おかずは?」

  「明太子ふりかけだよ。俺も食べようかな」

  「……珍しいな」

  「明太子この世で二番目に好きだから」

  「一番は?」

  「お前」

  意地悪く微笑むこーすけに、何だか納得した。あぁこういうことか。これからこんな感じでこーすけに冗談めかした好意をぶつけられ続けるんだろう。まぁ前と大して変わらないかもしれない。やり方は違えど、結局こーすけに振り回されることになるんだろうから。

  すると、

  「はい皆さん静かに!!今日は日曜日です、連絡事項は特にありません。休日なので昼ごはんがないから各自で済ませること!それと昨日のパンツは誰も取りに来ないのでさっき捨てました。以上!!!」

  寮監がいつもより少し声を張って、気持ち口調も早めに連絡を済ませて食堂から出ていった。なんか急いでるようにも見えたな。

  「寮監も日曜日は出掛けられるからわくわくしてんだよ。ずっと寮に缶詰めだしね」

  俺の心を読んだかのように、こーすけが疑問を教えてくれた。寮監もまだ二十代だし、男子寮にずっといるより友達とかと遊びに行きたいんだろう。あの厳しい寮監が、外でどんなことをするのかは想像つかないけど。意外と普通の女子なのかもしれない。

  寮監がさっさと出ていったのに続いて、朝ごはんより二度寝したい人たちが続々と食堂からいなくなっていった。朝からちゃんとごはんを食べる人って、高校生には少ないのだろうか。お腹空かねぇのかな。

  「トーカちゃんたちおはよう。仲直りしたみたいで良かったわ」

  ふと声をかけられて前を見ると、あやめ先輩がいち早く朝食のトレイを持って、俺たちのテーブルの真向かいに座った。俺とこーすけも適当におはようございます、と返す。

  そういえばあやめ先輩には昨日相談に乗ってもらったんだった。俺とこーすけと篠崎のいざこざは、ある程度知ってるはずだ。

  「あやめ先輩、昨日はありがとうございました」

  「いいのよ。それより二人の関係が気になっちゃって………告白したのにその距離感、つまりそういうことよね?」

  目をキラキラと輝かせて、俺とこーすけを交互に見るあやめ先輩。食べるのも忘れて好奇に満ちた視線を送ってくる。

  「え?どういうことですか?」

  「…………あやめ先輩、そういうことじゃないです。結局今のところは友達に戻りました」

  何も分かっていない俺に対して、何もかも分かっているような口調のこーすけが、あやめ先輩とやり取りをする。こーすけが文を言い終える前から、あやめ先輩は残念そうな顔になって、小さめのため息をつく。

  「あら………ドンマイこーすけちゃん。でも一回フラれたくらいじゃ諦めちゃダメよ?」

  「そのつもりです」

  「……あぁ、そういうことってそういうことか」

  俺もようやく二人の言ってる意味が分かった。俺たちが付き合い始めたんじゃないかと、あやめ先輩は早とちりしていたんだ。やっぱり俺はそういうのに鈍感なんだろう。

  「寮内で三角関係が見れるなんて、ワクワクするわねぇ………しかもなんか同人誌みたいな設定じゃない?」

  「あやめ先輩同人誌読むんですか?」

  「たまに気に入ったやつ買うのよ。有村先生って人のが好きで――――――」

  「有村先生読んでるんですか!?意外です」

  「え?こーすけちゃんも知ってるの? 」

  「もちろん。ていうか相互フォローしてもらってます」

  「何それ羨ましいっ!!!」

  あやめ先輩とこーすけが、俺には分からない話で盛り上がっているので、水を差さないように朝食を取りに行く。こーすけとあやめ先輩が楽しそうに喋っているのなんか滅多に見ないだろうし、ちょっと奇妙にも思ったが、そっとしておくことにする。

  他のテーブルを見ると、あちこちに寝てたり朝食を食べてる人がいる。一年生のテーブルには、味噌汁を飲んでる上柴の向かい側に、机に突っ伏している篠崎の姿があった。

  味噌汁とご飯をよそってトレイに乗せて、その一年生のテーブルに足を運ぶ。本当は学年ごとに座らないといけないけど、特に注意してくるような先輩はいないだろう。

  「あ、先輩一緒に食べましょう」

  「あぁ……つーかこいつ寝てんのか?」

  「寝てますね……昨晩も他の先輩の部屋に行ってみたいですけど」

  篠崎の隣にトレイを置いて、顔を軽く覗き込む。牙を剥き出しにして、目を固く閉じたまま、寝息と低い唸り声を同時に鳴らしている。悪夢でも見てんのか?

  上柴も篠崎のことをチラチラと気にしているけど、特に起こす気もないようだ。

  「さっきネットで調べたんですけど、朝行った稲光神社って豊作の神様を祀っているらしいですよ。昔は社殿も立派だったみたいですが、大正3年の震災で無くなってしまったそうです」

  「へぇ…………だからあれしか建物もなかったんだな」

  あの神社は街中にポツンとあって、酷く寂しい印象を持った。木々に囲まれてる分明かりも届かないと思うし、夜中に行ったら暗くてかなり怖そうだ。

  そんなことを考えながら、ボーッと明太子ふりかけをご飯にかける。さらさらと落ちていく粒が、真っ白な米に落ちていく様子が綺麗だなと思った。

  「また今度行きましょうよ。けっこう景色綺麗でしたし」

  「そうだな……散歩にはいいとこだった」

  食堂の窓から差し込む朝日に暖められて、もう中身のなくなったふりかけの袋を振っていたことに気づくのが遅れた。休日の朝っていつもよりゆっくりと時間が進んでいる気がする。寝ながらも隣の篠崎が緩やかにふっている尻尾が目に入って、あることを思い出す。

  「……篠崎、お前今日部活だろ。八時集合なら起きとかねぇとヤバイだろ」

  寝息を立てる篠崎に、気持ち大きな声で話しかける。着替えたり移動時間も合わせて、もうそろそろ起きないと部活に遅刻しそうだ。

  声をかけても微動だにしない篠崎の、頭を軽く叩く。

  「おい篠崎!遅刻するぞ」

  「……篠崎くん一度寝たら全然起きないんですよね。授業中もよく先生が格闘してますよ」

  「ホントだらしねぇなこいつ…………」

  きっとマンガかなんかだったら、鼻ちょうちんを膨らませてzzzと背景に書いてあるだろう。それくらい気持ち良さそうに熟睡していた。

  それにしても起きなかったらまた遅刻して久郷田先輩に怒られるだろうな。俺には関係ない話なんだけど、あまりに遅刻が多いと部内でも問題になるだろう。自業自得だが気の毒にもなってきた。

  「おーーい、起きろ!!」

  篠崎の頭を掴んでグラグラと揺らす。普通はこんなことされたら寝るどころじゃなくなるとは思うけど、篠崎は全然起きる様子もなかった。

  どうしたら起きるのか、いっそ尻尾を思いっきり引っ張りでもしないと起きないんじゃないだろうか。

  「……ダメっぽいですね。久郷田先輩怒るだろうなぁ……」

  「こいつちゃんと登校できてんのか……?」

  「よく登校時間ギリギリまで寝てますよ。そこからダッシュで間に合うか間に合わないか、って感じです」

  ルームメートの上柴も呆れた口調で話すくらい、篠崎のだらしなさは折り紙つきだった。

  何だか段々と起きないことに腹が立ってきて、意地でも起こしたくなってきた。放っといたところで俺には何も被害がないんだけど。

  「何やってんの?」

  するとこーすけが、篠崎を挟んで俺とは反対側に立っていた。あやめ先輩との話も終わったらしく、あやめ先輩はとっくに流しで自分の食器を洗っていた。

  こーすけは篠崎の顔を覗き込むと、指先でツンツンと篠崎の顔をつつく。もちろんそんなんじゃ起きる気配すらない。

  「全然起きねぇだろ?八時から部活なのにこれじゃ絶対遅刻すんだろ」

  「うわー、狼獣人の牙大きいね……ちょっとゾクゾクする」

  「聞いてんのかよ…………」

  こーすけは篠崎の顔とか体とかを観察し始めているし、上柴も諦めた様子で白米を口に運んでいる。多分もう何やっても無理なのかもしれねぇな。諦めて篠崎をサンドバッグにでもしようか。

  「篠崎くーん!」

  こーすけは篠崎の耳にマズルを突っ込むほど押し付けて、大きめの声で叫ぶ。かなりうるさいと思うけど、それでもやっぱり気持ち良さそうに寝たままだ。

  「こんなに寝たら起きないやついるんだな……酒でも飲んでんじゃねぇか?」

  「寝込み襲われ放題じゃん。寝てる間にヤれるんじゃないの?」

  「っ、すぐえっちなこと言うなよ!!!」

  するとこーすけは、篠崎の耳を口に入れて、くちゅくちゅと厭らしい水音を立てながら舐め始めた。それを見て思わず体がビクッと跳ねて、ドン引きする。

  「な、何やってんのお前……?」

  「愛撫。耳が性感帯の人はこれだけで結構喘ぐけど………篠崎くんは効果ないか」

  「いやホントに何やってんだよお前……後輩だぞ?」

  「いーじゃんちょっと味見したって。それとも哲也もやってほしいの?」

  「んなわけねぇだろはっ倒すぞ!!」

  ニヤニヤと笑うこーすけにため息をつきつつ、ぐーぐー寝てる篠崎を見る。こーすけの作戦も失敗か、何なら起きるんだ?ていうかいつもどうやって起きてるんだ?

  ふと上柴を見ると、顔を俯けたまま耳まで真っ赤に染めている。こーすけの間接的なセクハラに羞恥心を覚えたんだろう。俺もその気持ちがよく分かる。

  「じゃあ篠崎くんの耳元で、今すぐ起きたらえっちさせてあげる、って言ってみ?飛び起きるんじゃない?」

  「え!?先輩そういう関係なんですか?」

  「違う違う違う違うっ!!こーすけは変なこと言うな!!!」

  もうなんだかややこしくなってきた。上柴に俺と篠崎とこーすけの関係性を正しく説明するのも面倒だし、こーすけの発言で余計な誤解を招きかねない。ホント意地悪だなこいつ。

  「いや、でも冗談抜きで。俺たち耳塞いでるからさ、言ってみてよ。それで起きたら万歳なわけだし」

  「はぁ?そんなんでこいつが起きるわけねぇだろ。大体寝てんだから言葉を聞き取れるわけ――――」

  「先輩やりましょうよ。そろそろ起きないと本当に遅刻しちゃいますし」

  俺の言葉を遮って、上柴が時計を見ながら言う。確かにあと四十分くらいで部活が始まってしまうし、急がなきゃいけないことは分かってるんだけど。

  ……でもそれとこれとは別だろ。

  「顔面殴れば起きるんじゃねぇか?」

  「これから部活なのに痣でも出来てたら大事ですよ」

  「じゃ、じゃあ蹴るとか…………」

  「暴力で解決するのはよくないと思うなぁ」

  「っ、お前は言わせたいだけだろ!!」

  「うん」

  何なんだよこの流れ。上柴もこーすけも、もういいから早く言えよ、みたいな顔でこっちを見てくる。言ったところで起きる保証もないんだし、何だったらぶん殴った方が確実だというのに、まるで俺のせいで長引いてるみたいじゃねぇか。俺は悪く……ないよな。

  「大丈夫、俺ら以外聞いてないから。アレだったら耳塞ぐし」

  「……篠崎が聞いてんのが一番の問題だろ」

  「寝てるので大丈夫ですよ」

  「何で上柴ものり気なんだよ!!」

  「もういいから早く。あと三十分しかないよ」

  「うるせぇよ!!言えばいいんだろっ!!」

  あっ。

  勢いに任せて言えばいいなんて言ってしまった。こーすけと上柴も聞いたぞ、と耳をピンと立ててこっちを見ている。

  いや待て!っと二人を止めようとした時には、二人はそっと自分の耳を手で塞いで、俺から目線をそらす。

  「っ、……………………………………」

  「「………………………………………………」」

  不意に訪れた静寂の中で、篠崎の寝息だけが強調して聞こえてくる。こーすけと上柴は息も止めるくらい黙りこくっていて、力の込められた両手で固く耳を押さえている。

  机に突っ伏している篠崎を見る。数分前と、寝相も寝息のペースも、何一つ変わらない。熟睡というのはこの状態のことを言うんだろう。午前中の一番眠たい時間に熟睡できるのは、何より気持ちいいだろうな。俺の気も知らないで。

  そっと篠崎の耳に口元を近づける。万が一こーすけと上柴が耳を押さえる手を外していたとしても、絶対に聞こえることがないくらいの小声で言ってやる。まぁでもあれだけ大きな声を出しても起きなかった篠崎が、小声で囁かれたくらいで起きるわけがないと、高を括っていた。

  「…………おい篠崎………………起きろよ」

  「…………………………………………………………」

  試しに小声で起こしてみるが、もちろん反応はない。これくらいの声で言えば、絶対聞かれることはないだろう。大丈夫だ、羞恥心さえ乗り越えれば。

  マズルの先から吸い込んだ息が、篠崎の匂いで溢れかえって。

  「…………篠崎、今すぐ起きたら…………その、えっちなことしてやってもいいぞ」

  「はいっ!分かりましたすぐ起きますッ!!」

  俺が言葉を切る瞬間に篠崎はくるッと俺の方を向いて、にこにこと笑いながら元気よく言い放った。

  ……………………え?

  「っ、!!!?いやお前起きてたのかよ!!!」

  「寝てたっすよ。でもセンパイの愛の告白を聞いて一瞬で目が覚めました!!!」

  「んなわけ――――――――」

  「篠崎くん起きれて良かったね。部活まで時間ないから急いで支度してきな?」

  「了解っす!!いやー渡嘉敷センパイがどんなえっちなことしてくれるのか楽しみだなぁッ!!!!」

  そう言いながら逃げるように篠崎は食堂からダッシュで出ていって、俺が弁明の言葉を吐く余裕すらくれないまま、螺旋階段を上っていってしまった。

  頭の中が一瞬パニックになったあと、すぐに冷静な思考を取り戻して、今しがた起きたことの理由を考えてみる。

  明らかにあの小声で起きたとは思えない。でもたまたま目が覚めたにしてはタイミングが良すぎるし、つまりは。

  「ッッッ!!あいつ狸寝入りしてやがったな!!!」

  「篠崎くん途中からガッツリ起きてたよ。俺が耳舐めたくらいのとき」

  「お前気づいてたのかよ!?じゃあなんでわざわざんなこと――――――」

  「だって面白いじゃん。顔真っ赤にしてえっちって言う哲也めちゃくちゃ可愛いし。ねぇ上柴くん」

  「ま、まぁ…………そうですね………………」

  こーすけはニヤニヤ笑いが止まらないらしく、終始口角を上げながら俺をからかってくる。篠崎も狸寝入りをしてたし、こーすけは俺に変なこと言わせようとしたし、上柴もそれに乗っかってたし……。

  「…………みんなして俺のことからかうなよ」

  「ごめんごめん。でも哲也って純粋で可愛いから、ついみんなからかいたくなっちゃうの。ホントに篠崎にえっちなことしなくていいからね?冗談だから」

  「………………………………………………………………」

  こういうところが、こーすけのズルい所だと思う。散々からかった後にめちゃくちゃ優しくなって、ちゃんと謝ってくる。だから単純に嫌いになれなくて、憎めない奴なのだ。それに毎回騙されてる俺もどうかと思うけど。

  ふと上柴を見ると、申し訳なさそうに耳と尻尾を垂らしている。さっき久郷田先輩に注意された後のときと同じ表情だ。怒りたくても怒れない、しゅんとした態度。

  「………………はぁ……なんか疲れたから部屋帰って寝るわ。こーすけ俺の食器片付けとけ」

  「はーい。あ、洗濯物出しといて。後で洗ってくるから」

  「あぁ」

  本当にズルい奴だと考えてしまう。俺もあれくらい器用に飄々と生きれたらなと、少し憧れのようなものを持っているのは事実だ。こうも毎回騙されたりからかわれたりするのは癪だ。かといって俺にはこーすけたちの弱点なんかわかんないんだけど。

  食堂から出て、玄関のガラス扉を挟んだ外を眺める。

  今日は快晴のようで、春先の暖かい日差しが向かいの道路を和やかに照らしている。きっとサッカー部も練習日和だろう。

  そこでふと、とある事実が頭に浮かんだ。

  「……そうか。アイツら俺のこと好きなんだっけ」

  ポツリと呟いた言葉は誰に聞かれたわけでもないだろう。

  弱点、ではないかもしれないけど、前提として忘れてはいけない事実なんだから。

  窓の外の日差しに背を向けて、そっと螺旋階段の一段目に足をかけた。

  [newpage]

  自然に目が覚めると、頭がすぐにハッキリしてきて、寝起きの倦怠感も無いままにスムーズに起き上がることができた。上半身を軽く起こして部屋を見渡すと、明るい部屋の中に勉強机に向かうこーすけの姿があった。椅子の上に胡座をかいて、時折カチカチとパソコンの音を立てながら、きっとまたマンガを描いているんだろう。なんか締め切りがどうのこうの言ってた気がするし。

  そっとベッドから起きて、音をたてないように立ち上がる。こーすけはイヤホンをしているようで、俺が起きたことには気がついてないようだ。パソコンに集中していて、こっちを見もしない。背もたれの後ろから飛び出た尻尾が、ゆらゆら揺れている。

  ゆっくりとこーすけの背後に忍び寄る。こーすけはかなり大きい音で音楽を聴くタイプだから、音でバレることはないだろう。

  すぐ背中の後ろまで来ることができた。尻尾にぶつからないように立って、こーすけの後ろ姿をじっと見つめる。猫獣人はほとんどが猫背だ。というか猫背という言葉は猫獣人みたいな背中、って意味から出来た言葉だし。しなやかな体と柔らかい毛並み、小柄な背は、どの猫獣人にも共通している。スポーツ界ではあまり活躍していないが、童顔で可愛らしい外見から、アイドルやモデル、俳優や女優などの芸能人を数多く輩出している。こーすけもかなり細身で小柄だし、こう見ると中学生だと言われても納得してしまいそうだ。

  未だに俺に気がつかないこーすけの肩を、後ろから抱き締める。首元にマズルを埋めると、ここ一週間で嗅ぎ慣れたこーすけの匂いが広がった。こーすけが細いせいで抱き締めると腕が余って、自分の腕まで抱えるような形になった。

  腕の中のこーすけが、ピクッと跳ねて、すぐに耳のイヤホンを外した。

  「…………おはよう、寝ぼけてんの?」

  「いや、起きてる。レモンみてぇな匂いすんな」

  「う、うん……シャンプーだと思うけど……どうしたの急に」

  「……………逃げんなよ……………もっと嗅がせろ」

  俺の顔を見ようと身をよじるこーすけを、ますます強めに抱き締めて動けないように固定する。俺が匂いを嗅いでいるのがくすぐったいのか、弱い力で抵抗しようとしてくる。

  「何俺のこと急に好きになったの?」

  「別に」

  「なにそれ……っ、くすぐったいんだけど……」

  鼻腔まで届くこーすけの匂いは、本人の体臭とシャンプーの匂いが混ざりあった、一言では言い表せない複雑な匂いをしていた。そうか、朝に上柴が言っていたことの意味が分かったような気がした。

  右手をゆっくりこーすけの胸元に近づける。ちょうど心臓がある部分をシャツ越しに触ってみると、すごい早さで脈動しているのが分かる。俺に急に抱き締められてドキドキしているんだろう。ざまぁみろ。

  「……心臓うるせぇな」

  「…………そうだね、めっちゃドキドキしてる」

  「雄に抱きつかれてんだぞ、変態野郎」

  「その変態野郎に抱きついてるんだよ、変態くん」

  するとこーすけは、自分の尻尾をするすると俺の足に絡ませ始める。俺の両腕を上から被せるように掴むと、緩慢な動作で引き離しにかかる。

  こーすけを抱き締める腕が外されたところで、椅子をくるりと180度回し、ちょうどお互い向かい合う。

  こーすけは俺の腰回りに手をかけると、滑らせるようにズボンに手をかけ、あくまでゆっくりと、下着ごと降ろそうと力を加える…………手を阻止してこーすけの両腕を掴んで体からふりほどき、二歩分迅速に距離を とってこーすけを睨みつつ、

  「あれ?セックスしないの?」

  「しねえぇよッ!!!!!!」

  少し顔が赤くなるのを感じながら、すぐえっちな雰囲気に持っていきたがるこーすけに改めて警戒心を示す。普段は耳とか尻尾とか、乳首とか触ってくる程度だったのに、今のはガッツリと下半身を狙ってきていた。あまりに自然な手つきだったから見逃しそうになったけど。

  こーすけはニヤニヤと笑いながら俺に厭らしい目線を送り、椅子の上で体育座りしながら自分の尻尾を撫でる。

  「ていうか今、俺のことからかおうとしたでしょ?急に抱き締めたら俺がドキドキして、なんかボロを出すって思ってたでしょ?」

  「……ッ………………………… 」

  くそ。やっぱり見透かされてたか。

  普段からかわれてばっかりなのが嫌で、寝る前にどうしたらこーすけをバカにできるか考えていた中で、一番アイツの余裕顔を無くせる作戦を思い付いたつもりだった。こーすけは俺のことが好きなんだから、俺から抱き締めたりなんだりすれば、恥ずかしがって余裕も無くなるとは思ったんだけど。

  「めちゃくちゃ効果あったよ。もっと嗅がせろ、のとこスゴくイケボだったし、めっちゃ背中ゾクゾクした。普通に嬉しいよ、ありがとう」

  「…………てめぇ…………ッ」

  効果があるとは言っているけど、多分嘘だろう。相変わらず飄々とした余裕の態度は崩せないし、またいつものからかわれている気分だ。俺なりにこーすけがドキドキするだろう言葉とか行動とか考えた結果だったので、何だかいつもより余計に悔しい。

  「でも今さらドキドキさせたくらいじゃ大してボロは出ないと思うよ?」

  「…………何でだよ」

  するとこーすけは、バカにしたような表情から一変して清々しい程の満面の笑みを浮かべた。

  「だって俺お前と居る時ドキドキしっぱなしだもん。流石に慣れたよ」

  「………………………………ッ…………」

  またそうやって純粋な好意をぶつけてこないで欲しい。あまり邪険にするのに罪悪感が芽生えてしまうからだ。

  こーすけはまた椅子を回転させると、置いていたペンを持ってカチカチと作業を再開させた。何事もなかったかのような態度に少し苛立ちが募る。

  「……お前どんだけ俺のこと好きなんだよ」

  「めちゃくちゃ好き。自分でも引くくらい頭の中にずっといるよ」

  「何でそういうこと平然と言えんだよ……」

  「恥ずかしがってたら伝わんないじゃん。それに何か悔しいし」

  「意味わかんねぇよ」

  いつも通りのこーすけに呆れながらも、部屋の壁掛け時計を見ると、まもなく十一時を回ろうとしていた。思ったより長く寝ていなかったみたいだ。午前中だけでも色々な出来事があったけど、総じて主にこーすけのせいで、疲れてしまっている。

  ふと扉の側を見ると、洗濯かごが空になっていた。きっとこーすけが洗ってきてくれたんだろう。

  「洗濯物ありがとな」

  「いや全然いいよ。何なら俺が毎回やってもいいし」

  「それは申し訳ねぇから俺もやる。今日は俺の当番の日だったろ?」

  「うん。でも好きな人の身の回りの家事とかできるの幸せなんだ。なんか結婚してるみたいじゃん」

  こーすけは嬉しそうに首だけこっちを向けて笑いかけてくる。本当に恥ずかしげもないし、ためらいもないようだ。今日何度めかの好意の右ストレートに、少し頭が混乱した。いくら雄とはいえこれだけ好き好き言われたら不思議と嫌な気持ちはしなかった。

  こーすけは俺から顔を逸らして、再びパソコンに向かう。

  「……それに哲也の一日中履いたパンツをどうしようが洗濯する人の勝手でしょ?」

  「ッッッ!!!!???」

  とんでもないことをボソッと呟いたこーすけの言葉に、背筋がゾワッとする。体中の毛が逆立っている。

  「こっそり匂い嗅ごうが、頭に――――――」

  「ちょっっっと待てお前ッ………………マジか?」

  こーすけの肩を爪が食い込むくらい掴んで、背中をきつく睨み付ける。

  「…………………………何が?」

  「いやっ…………え、マジで!?お前それは流石に……」

  ふと頭に、具体的なイメージが浮かんでしまう。俺が寝ている間に、俺が履いていたパンツの臭いを嗅いでるこーすけの姿。いや、それはほんとに。

  「……気持ち悪い………………」

  「冗談だって。一回しかやってないし」

  「一回やってんのかよ!!?もう二度とお前に洗わせない!!!」

  「だって気になっちゃうじゃん。年頃の男子高校生が一週間一発も抜かずに過ごしてたら、夢精でもしてんじゃないかなって」

  「してねぇわっ!!ほんとキモい殺すぞ!!!」

  これはもうさっきまでの清々しい好意とはかけ離れた、ただの雄の性欲だ。行為も行為なだけ余計に気持ち悪い。やめて欲しい、切実に。

  現に今履いているパンツも、明日にはこーすけに嗅がれていたかもしれないと考えると、ゾワゾワが止まらない。

  「俺も篠崎くんに比べたらマシな方だよ。この間一枚持ってったし」

  「篠崎もかよ…………だから一枚無くなってたのか……」

  「返してもらう?」

  「…………いやいい。そんなの履きたくない」

  そういえばそうだ忘れていた。コイツらは、俺のことが好きなド変態野郎共だった。ここ一週間で何度もセクハラにあってきたのに、昨日の告白とかで忘れてしまっていた。所詮は性欲旺盛な男子高校生で、その矛先は俺に向いている。服を脱がすとか、恥ずかしいことを言わせるとか、その程度で終わるはずがない。

  こーすけから離れて、またベッドの上に脱力して寝転がる。どれだけ俺の精神をすり減らしたら気がすむんだこいつらは。

  「まぁそんな拗ねないでよ。溜まってるんでしょ?俺とセックスする?」

  「しねぇわ…………俺はお前らみたいに性欲モンスターじゃねぇんだよ」

  「狼獣人って大体絶倫だって知ってた?ウルフドッグも性欲は強い方でしょ」

  「うっせぇ俺は変態じゃねぇ。次セクハラしてきたら高校中退する」

  冗談めいた口調で言ったが、わりと本気だった。少なくとも、今すぐ島に帰って漁師に弟子入りして真面目に働こう、と思えるくらいには心が疲れていた。

  こーすけも流石に言いすぎたと思ったのか、それ以上は特に話しかけてこなかった。どんなにやめたくてもじぃちゃんの意向で高校はやめられないんだけどな。

  一度横になったはいいけど、また寝てしまうのは何だか休日を無駄にしてしまうような気がして、今日何をしようか考えてみる。まだ入寮して一週間だし、大抵の日用品はちゃんと買い揃えてある。特に買い物に行く必要はないだろう。宿題は全部終わってるし、都心のど真ん中に一人で行くのは気が引ける。大体路線図とか電車のシステムもよくわかってないのに、ごちゃごちゃした都会に行ったらすぐに迷子になるだろう。

  だとしたら外出するにしても近場を散策するくらいしかない。ただ特に予定はない。

  きっとこういうのを、暇だと言うんだろう。島にいた頃は休みの日は一日中海に潜っていたけど、都会じゃそうもいかない。都会って不便だな。

  「……あ、昼ごはんどうする?どっか食べに行かない?」

  「いいけど…………どこ行くんだ?」

  「大通りの向かいにラーメン屋とトンカツ屋と……クレープ屋もあるよ」

  「んじゃラーメン屋がいい。もう行くか?」

  「ちょっとしたら混むから早めに行こうか。支度するから待ってて」

  そう言ってこーすけは立ち上がり、洋服箪笥を漁り始めた。服なんて何でもいいと思うけど、都会の人はちょっと外に出るだけでも気にするようだ。

  休日は寮で昼食が用意されない。理由は知らないけど、流石に作る人も休まないとダメなんだろう。大体みんな外食したり、コンビニで買ってきてる様子を見るけど、みんなむしろそっちの方が寮食より好きなようだ。

  こーすけもすぐにカップ麺を食べようとするので、金はかかるけど外食の方がいいだろう。

  「ラーメン屋って縞縞軒のことか?」

  「そう。知ってるの?」

  「いや、行ったことはねぇけど。旨いの?」

  「ラーメンはそこそこ。餃子がめちゃくちゃ美味しいよ」

  ちょっと田舎のラーメン屋あるあるだ。ラーメンよりも他の中華料理の方がめちゃくちゃ美味しかったりするやつ。

  それはともかく、急に湧いてきた食欲が、早くラーメン食わせろとうるさいので、財布だけ握ってさっさと寮を出ることにした。

  学園に面している大通りは、休日だからということもあってなかなか車も人も多い。特に今日はいい天気だし、家族でどっか遊びに行ったりしているんだろうか。思えばじぃちゃんと旅行に行ったことは一度もなかった。早く大人になって、じぃちゃんを温泉とか連れていきたいと思った。

  あまりにも車通りが多くて横断歩道がなかなか変わらないのにイライラしたこーすけと、少し遠回りだけど歩道橋に進もうかと歩きだした途端に信号が変わるのはよくあることだ。何だかツイてないなと青空を見上げている間に、学園から徒歩30秒のラーメン屋『縞縞軒』に到着した。

  外観はよく見るちょっと古びたラーメン屋、という印象。赤い暖簾に縞模様が描かれていて、電飾のついた看板には達筆な字で店の名前が書いてある。達筆過ぎてちょっと読みづらいくらいだ。

  ガラスの引き戸は店内の油で少し汚れていて、色褪せた壁のペンキと共に、店の年季を表している。どれくらい前からあるのか知らないけど、中はそこそこ繁盛しているようで、七割くらいの席は客で埋まっていた。

  「すいま――――――」

  「へぃらっっっしゃいッッ!!!!!!」

  こちらが声をかけるのを遮って、雄々しい声が店内にこだまする。その圧力でこーすけは耳をぺたりとつけると、ボソッと二人です、と呟いた。

  声の主はこの店の店長らしく、背が高くて厳つい縞馬獣人だった。だから店の名前も縞縞軒なんだと、改めて納得する。

  店長はカウンター越しに忙しなくラーメンを湯切りしていて、てきぱきと太い腕を巧みに動かしていた。ちらりと顔を見ると、目のところにばつ印の傷痕がある。湯切りの道具を持っていなかったらヤクザかなんかと勘違いしてしまいそうだ。

  俺の様子を見てか、こーすけも俺に囁く。

  「店長めっちゃ厳ついでしょ」

  「いや……カタギじゃねぇだろあの傷痕……」

  「十五年前に脱サラしてラーメン屋始めたらしいよ」

  「じゃああの傷はいつ付いたんだよ…………」

  こそこそ話しながら、奥の方の適当なテーブルに座る。木製の黒テーブルはずいぶん使い古しているようで、所々焦げあとも見える。なんか年季が入ってていい雰囲気のお店だ。なんか安心感があるというか、居心地がいい。人気があるのも納得だろう。

  メニューを広げて見てみると、白い紙に黒い印字で淡々とメニューの名前だけが書いてある。写真なんか載せる気もないんだろう。

  「何食べる?餃子は絶対食べた方がいいけど、あとラーメンとか炒飯とか」

  「んじゃ五個入り二皿頼んで……このラーメンセットA頼むわ」

  メニューを見ると、当店イチオシの縞縞ラーメンとエビ炒飯のセットって書いてある。量のわりにセットだと値段が安く、学生にはありがたい。

  こーすけもパラパラとページを捲ったあと、即決したらしく、手を上げてすみませーんと店員さんを呼び出した。

  声を聞いて奥から小走りで来てくれたのは。雌の縞馬獣人さん。もしかしてここの店員は全員縞馬なんだろうか。

  「はいはーい…………って利根川くんじゃん!!久しぶりーー!!!」

  テーブルまで近づいてきた店員さんは、こーすけの顔を見るやいなや顔を輝かせて、にこにことこーすけに笑いかける。何だよそれ、ちょっと羨ましい。

  「久しぶり。元気だった?」

  「店は忙しいけど全然元気よ。それより春休み中に読んだ有村先生の新刊の話したかったのよー!!」

  「まぁまた今度ね。それより注文いい?」

  「どうせネギ塩ラーメンと餃子でしょ?」

  「そう。あとこの人にセットAと餃子」

  こーすけに指を差されて、店員さんは俺に初めて気がついた様子だった。そんなに存在感ないのか?俺。

  店員さんは慌てた様子で、

  「あっ!!ごめんなさい今気づきました!!こちらお冷です。えっとセットAと餃子ね……少々お待ちくださいっ!!!」

  早口で急に接客を始めると、叩くようにお冷をテーブルに置くと、また小走りで厨房の方に走っていってしまった。その様子が何だか可愛らしくて、こーすけの前でにやつきそうになるのを堪える。

  「……彼女は島村さん。店長の一人娘で、休日はよく店を手伝ってるの。ちなみに隣のクラスだよ」

  「稲光の生徒なのか…………お前とはどういう関係?」

  「一年の頃よくここのラーメン屋来てたの。俺の描いた同人誌読んだらしくて、そっから仲良くなった腐女子友達」

  「…………よくわかんねぇけど、要はオタクか?」

  「雄同士の恋愛を見るのが好きなオタクだよ。そのために稲光に入学したらしいし……そういう人稲光には結構いるよ」

  雄同士の恋愛が好き?雌なのに?

  新たな価値観で頭をぶん殴られた気がして、少しクラクラした。まぁでも雄同士の恋愛が好きだと言うなら、それが当然である稲光に入ったのは頷ける。気持ちは全く理解できないけど。

  ただ雌の友達がいる、ということに少し羨ましさを感じつつも、頭を冷やすため水を飲み干した。

  「でも親の店手伝うなんて偉いな。多分無給だろ?」

  「うん……まぁ小遣いはもらってると思うけど。でもそれ以上に、この店で働くってのは腐女子にとって重要なことだってのは間違いないね」

  「……?どういうことだよ。重要って」

  「例えば俺の隣の隣の席にいる雄二人は付き合ってる。部活後の稲光の生徒でしょ」

  こーすけに言われるがまま、チラリと横目で席を確認する。稲光の制服を着た雄二人が、テーブルの下でこっそり手を繋いでいる。横から見たらバレバレなんだけど、本人たちは気にしていないようだ。

  確かに恋人同士っぽいけど、こーすけもよく気がついたな。

  「ああいう三次元のホモって、稲光の近くの飲食店じゃないと間近で見られないじゃん?島村さんはそれ目当てで働いてるらしいよ。だから厨房じゃなくて接客なの」

  「…………あぁ…………そういうことか」

  こーすけの簡潔な説明で理解をすることはできた。決して共感はできないけど。でもまぁ好きならとやかく考えるのは止めておこう。別に誰の迷惑にもなってないんだから。

  そっとカップルから目を逸らして、店内を忙しく歩き回っている島村さんを目線で追いかける。注文を取ったり、お冷を運んだり、レジで会計していたり。常に何かしら作業をしているし、てきぱきと手際よく働いている。お父さんからしても助かるだろうな。

  「この店って家族だけでやってんのか?」

  「いや、島村さん家は父子家庭で、それと厨房にもう一人いるらしいけど……姿は見たことない。多分三人で回してると思う」

  「学校ある日は二人だろ?めちゃくちゃ大変そうだな」

  「バイト雇わないのって聞いたことあるんだけど、店長が縞模様の奴しか雇わないって決めてるんだって」

  「どんだけ縞にこだわり持ってんだよ」

  学校からすぐ近くにあるラーメン屋だし、バイト先としては好条件の職場だとは思うから、働きたいという学生はいっぱいいるだろう。その中に縞馬獣人がいれば雇うんだろうけど。

  するとその時、

  「お待たせしましたエビ炒飯ですっ!!」

  どん!と豪快に机の上に叩きつけられたお皿には、香ばしい匂いのする炒飯が山盛りになっている。

  声の主を見ると、若い虎獣人の雄がにこにこと笑いながら皿を配っていた。

  「……ってあれ!?利根川と渡嘉敷じゃん!!お前らも食べにくんだな!!」

  「あ、高田くんか!ここでバイトしてるの?」

  「おう!!四月からな!!あそっかお前ら寮生だもんな!!」

  やたらとデカい声に猫科っぽい性格、どこかで見たことがあるかと思えば、クラスメイトの高田だった。何回か話しかけられたことはあるけど、そんなに親しい仲ではなかった。俺の中の印象としては、うるせぇやつ、って程度だったんだけど。

  ていうかここでバイトしてるということは……そっか、虎獣人だから縞縞だ。店長もそれで許したんだろう。

  「うん、昼ごはん食べにきた。ラーメン屋のエプロン似合ってるよ」

  「へっへーそうだろそうだろっ!!!俺元気だけが取り柄だからさ、ラーメン屋向いてると思うんだよな!!!」

  こーすけのお世辞に見るからに上機嫌になる高田。きっとこーすけは去年から一緒だから、扱い方も熟知しているんだろう。ちなみに俺から見ても高田の白いエプロン姿は本当に普通だった。

  長い縞模様の尻尾をゆらゆら揺らしながら、嬉しそうに喋る高田。

  「そういやお前らよく一緒にいるけど付き合ってんのか!?」

  「いや、ただの友達。なんで?」

  「こうして至近距離から見ると渡嘉敷可愛いなって思ったからだよ!!!彼氏いんのか!?」

  「ッッ!!!いねぇよ!!」

  「そっかじゃあ今度遊び行こうぜ!!俺のバイト休みな日!!」

  ガハハハっと豪快に笑う高田を、思わずぶん殴りたくなった。バカみたいに大きな声で人のこと可愛いとか彼氏いんのかとか言わないで欲しい。いくら稲光学園の目の前とはいえ、ここは普通のラーメン屋なんだから。うるせぇやつ、から無神経なバカに印象が変わったところで、厨房から野太い怒声が聞こえきた。

  「高田ァアアア!!!サボってんじゃねぇぶち殺すぞっ!!!!」

  「お父さん怖いこと言わないで!!」

  「さーせん今行きまーすっ!!!んじゃまた明日な!!!」

  高田はドスの聞いた脅迫に怯える様子もなく、颯爽とカウンターの方へ走っていった。きっと怒られ慣れているんだろう。

  「……あいつ神経ず太すぎるだろ」

  「悪い子じゃないよ。バカなだけ」

  「遊び行くって……本気かよ」

  「大丈夫、高田くんすぐ約束忘れちゃうから。俺も五回くらい遊び行くことになってるけど、次の日には忘れてるよ」

  「てきとーな奴だな……」

  それを聞いて少しホッとした自分がいる。篠崎もそうだけど、ああいう社交性がありすぎる奴とは関わるのが苦手だ。向こうの圧に押されて、慣れるまで時間がかかる。

  それはともかく、今きた炒飯をれんげで掬ってじっと見つめる。パラパラと溢れる米が湯気を立てて、ごま油の香ばしい匂いが強くなる。ほどよい火加減で炒められた具材が、それぞれ主張し合いながら絡まり合って、食欲をぐっと刺激してきた。

  いただきます、と呟いて、熱々の炒飯を頬張ると、味とか香りとかそれらを全部ひっくるめて、頭に二文字の言葉が漠然と浮かぶ。

  「…………旨い………………」

  「でしょ?大衆ウケする味っていうか、食べたらみんな美味しいって言うよ。ほんと学生向けって感じ」

  ぐびぐびと水を飲みながら、次々と炒飯を口に運ぶ俺を微笑みながら見つめるこーすけ。その評論も的を射ていて、これだけ繁盛しているのも納得できる味だった。

  俺の住んでいた島には飲食店がなかったから、たまに島の外に出た時に外食に行くと、嬉しくてめちゃくちゃがっついていたのを思い出す。流石にこーすけの前でがっつくのは恥ずかしいから、ある程度セーブしながら食べるけど、普段の寮食より手の込んだ、圧倒的に旨い料理に、幸せが頭を包み込んだ。

  すると、

  「ほいっ!!ネギ塩ラーメンと、縞縞ラーメン一丁ッ!!!熱いからふーふーして食えよっ!!!」

  テーブルのど真ん中に、勢いよく熱々のラーメンを置いた高田は、相変わらずのデカい声で子供みたいな注意をしてくる。一緒にいるとほんとに恥ずかしい奴だ。

  「渡嘉敷、ウマイだろ??」

  黙々と食べている俺の顔を覗き込んで、嬉しそうに微笑んでくる高田。そのニヤケ面には腹が立ったけど、炒飯がめちゃくちゃ美味しいのは事実だ。

  「あぁ、ウマイ」

  「だろだろっ!!??たくさん食えよ!!」

  「……お前が作ってんじゃないだろ」

  ますます顔を近づけてきて喜ぶ高田の頭を小突きながら、炒飯の最後の一口を掬って口に入れた。そこそこボリュームもあったけど、あっという間に食べてしまった。それくらい旨かったんだろう。

  「ラーメンもウマイからな!!おかわりしてもいいんだぜっ!!!」

  高田は大声でそう言い放つと、店長に怒られる前にさっさと仕事に戻っていった。声のボリュームが調整できないのだろうか、あのバカは。

  こーすけを見ると、れんげの上にミニラーメンを作って遊んでいた。小さい頃よくやってたなそれ。

  「気に入られちゃったね」

  「は?……え、なにが?」

  「高田くんに気に入られたねって。さっき俺のこと見もしなかったし」

  淡々とラーメンを食べながら、冷静な分析をするこーすけ。今ので高田に気に入られたってことになるのか?アイツは誰にでもあんな感じだろうと思うけど。

  「……いや、そうでもないだろ」

  「ふーん……まぁ別に俺はどうでもいいけど」

  そう言って話を区切ると、こーすけは黙って麺をすすり始めた。その言い方と口調には、何だか見覚えがある。昨日の脱衣所で、篠崎に告白されたときだ。あの時はめちゃくちゃ怒りながらどうでもいいけど、と何度も口にしていて、全然どうでもよくねぇじゃん、と思ったところだった。

  こーすけは特に怒っている様子はない。けどなんか多少は不機嫌になったんだろう。もしかして俺が高田に好かれているのが気に食わないんだろうか?

  「……何拗ねてんだよ」

  「拗ねてないよ。ただみんな哲也のことが大好きなのがストレスなだけ」

  「みんな大好き……?んなわけねぇだろ」

  「ハイハイそうだね。ほんっと鈍感…………」

  こーすけはウンザリしたような口調だった。それにまた鈍感って言われたし。俺は何が感じ取れてないんだよ。教えてくれなきゃわからない。

  「ほいっ!!餃子!!!めっちゃウマイぞ!!」

  「ありがと。ねぇ高田くん、働いてる人って、なんかカッコいいね」

  「ホントか!?いややっぱそうだよな!!俺も店長とか見て思うし!!」

  「うん。じゃあお仕事頑張ってね」

  「おうっ!!」

  尻尾をぶらぶら揺らしながら、厨房の方へ歩いていく高田の背中を、こーすけはじっと見つめていた。

  ……あ、そうか、もしかして。

  「お前高田のこと好きなのか?」

  カッコいいって言ってたし、俺が高田と喋ってるのが気に食わないっぽいし。

  「……そうやって同じ間違い何度も繰り返すから一生鈍感なの。俺が好きなのは哲也だけだから」

  呆れたような表情で、俺の頭を軽くはたくこーすけ。どうやらまた間違えたらしい。じゃあ今の会話は、何の意味があったんだろう。

  「ラーメン食べないの?冷めちゃうよ」

  俺が考え込んでいると、ずずっと俺の前に縞縞ラーメンを押し出すこーすけ。確かに今は難しいことを考えるよりも、有り余る食欲をどうにかした方が賢いだろう。チャーシューの上に縞模様に盛り付けられた具材を見て、箸を手に取る。

  「………………………………ウマイな」

  「………………………………そうだね」

  そこからは二人とも、何も喋らずに黙々と箸を進めて、たまに至福のため息をついてから、また食べることの繰り返しだった。沈黙が気にならないくらい、ラーメンも餃子も、ウマイの一言につきる。

  それから普通に店を出て、特に寄り道をすることもなく、雑談を交わしながら寮に帰った。その間こーすけは俺をからかったり、セクハラをしてきたりすることもなく、穏やかな時間が過ぎていく。普段からこんな感じで、何も起こらない普通の都会の高校生活を望んでいるのだ、俺は。

  寮に帰ってからはぐーたらしていて、俺は寝転がりながら時折こーすけに話しかけて、こーすけはマンガを描きながらそれに答える、という休日っぽいだらだらした時間を過ごした。そういう日に限って時間というのはあっという間に過ぎていくもので、気づけば夕方になり、部屋に藤原が来て、二年生で風呂掃除をするとかなんとか。めんどくさく思いながら一階まで降りていくと、全部で五、六人くらいの二年生が集まって、談笑しながら脱衣所に集合していた。そこには相田先輩の姿もあって、俺たちの様子をのほほんと眺めていた。

  「相田先輩、連れてきました」

  「うん、ありがとー。今日風呂場掃除休んでるもう半分は来週やらせるから、一週交代でやればいいよー」

  どうやら相田先輩は二年生に風呂場掃除を教えるために居るらしい。去年まで担当していたんだから、そりゃそうか。今年の二年生も何も分かってないわけだし。

  相田先輩は靴下を脱いでポケットに詰め込むと、よし、と手を叩いた。

  「まず脱衣所は二人くらいで、床のモップがけ。マットは古いやつをこのかごに入れて、新しいやつを寮監からもらってきて。古いやつは寮監が洗ってくれるからー」

  いつものんびりとした口調の相田先輩が、今は普通くらいの速度で喋っている。そのことに驚いた二年生が数名いた。

  それに構わず相田先輩は風呂場の扉を開けて、中に入る。慌てて全員靴下を脱いで、それに続く。

  「残りは風呂場で、床をブラシで擦って掃除。ちゃんと浴槽もブラシで洗ってねー。お湯出しながらでいいからー」

  言葉と共に相田先輩が、端にあったデッキブラシを手にとって、床を擦る。と同時に、メキッとブラシの柄の部分から軋む音がして、背中がゾワッとする。どんだけ力込めてんだよ。

  相田先輩はこっちを向いて、微笑む。

  「こんな感じー。俺はブラシ折っちゃうから、ずっと脱衣所担当だったんだけどなーー」

  ニコニコと笑いかけられても、恐怖にしか変わらないのが相田先輩のスゴいところだ。現に二年生の何人かは完全にビビっちゃってるし。

  「まぁのんびりでもいいから綺麗にしてー。ちゃんと掃除しないと久郷田が怒るからーー」

  そう言って相田先輩は一番近くにいた二年生にデッキブラシを手渡した。そいつも恐る恐る受け取ると、デッキブラシが折れてないか確認していた。

  相田先輩がのっそのっそと脱衣所に戻ると、真ん中にいた藤原が少し大きな声で二年生に呼びかける。

  「……じゃ、じゃあ渡嘉敷と利根川は脱衣所で……他は風呂場に分担しよう。それでいい?」

  他の二年生たちはまばらに、あぁ、とかうんとか返事をする。こーすけを見ると、フン、と小さく鼻を鳴らしていた。勝手に脱衣所担当にされたことが不満なのかもしれない。俺は別にどっちでもいいけど、なんでこの分け方にしたのか聞いてみようか。

  「藤原、何で俺とこーすけを脱衣所にしたんだ?」

  「い、いや……なんとなく。二人仲良いからいいでしょ?」

  少し動揺した様子の藤原が、視線を宙に向けながら言いよどむ。どうした?と聞こうとしたとき、俺の左腕をこーすけの手が引っ張った。

  「その能無しのラム肉に何言っても無駄だよ。さっさと掃除終わらせよう」

  「っ、んな言い方ねぇだろ!何でお前らそんなに仲悪いんだよ!!」

  今度はこーすけの方を向いて強めに叱責する。昨日藤原が言っていた通り、こーすけは藤原に対してあたりがキツく、態度も悪い。俺と喋るときはそんな素振りないのに、何でこんな険悪なんだ。

  こーすけは一瞬目を瞑った後、うんざりとした口調で俺に懇願する。

  「……お願いだから、後にさせて。部屋帰ったらいくらでも説明するから」

  「自分本位の説明をね」

  「事実を言うだけ。黙ってろラム肉」

  こーすけは藤原をキツく睨み付けると、強く俺の腕を脱衣所まで引っ張っていく。後にしたいなら仕方ないけど、俺を挟んでケンカするんじゃねぇよ。

  こーすけは風呂場の扉を閉めると、俺に向き直ってため息をつく。

  「……色々複雑なの。とにかく今は掃除終わらせよう。俺寮監のとこ行ってくる」

  暗い顔のこーすけに、鈍感な俺が余計なことを言うと怒らせてしまう、というのは昨日学んだ。事情を聞きたいところだけど、今は大人になって様子を見るか、と脱衣所から出ていくこーすけの背中を見送った。

  なら俺は古いマットを片付けないと、と屈もうとしたとき、壁際にいる巨人が目に入る。

  「……二年生と利根川の関係は……まぁ仲悪いからなぁーー」

  「相田先輩……なんで仲悪いんですか?」

  「俺の口からは言えないなーー。ほんとのところは本人しか分からないしなー」

  「三年生も介入できないんですか?」

  「できるけど、面倒だからしたくないんだよみんな。良い意味でも悪い意味でも、利根川は普通じゃないからなぁーー」

  いつも通りにこにこと笑っている相田先輩の表情からは、先輩自身がどう思っているのかは推察できなかった。のっしのっしと脱衣所を出ていく相田先輩の背中に、喋りかけんな、みたいなオーラを感じた気がして、それ以上の質問はしないことにした。上級生も介入したがらない事情ってなんなんだよ。普通に生活してて、なんであんなに仲が悪いんだろうか。いじめとも違うようだし。

  「……関わらない方がいいことある……けど、何も知らないまま二年間もこんな気持ちになるのは嫌だな」

  誰もいない脱衣所で、自分の気持ちを再確認する。部屋に帰ったら速攻問い詰めてやろう。床のマットを拾い上げて、叩きつけるようにかごに押し込んだ。

  その後脱衣所の掃除も無事に終わり、風呂場の二年生が出てくる前に逃げるようにこーすけと部屋に帰った。六時の点呼までは三十分ある。話をするにも聞くにも、最適な分の時間だ。

  部屋の鍵をかけてすぐ、こーすけは俺を自分のベッドまで引っ張っていって、隣に座らせた。こーすけのベッドの上には物がけっこう置いてあるので、踏まないように座ると、自然とこーすけの真隣になる。

  普段だったら俺を押し倒してえっちなことをしようと企むのがこーすけだが、今は全くそんな様子もない。まぁ今そんなことされたら俺もかなり怒ると思うけど。耳を垂れるこーすけを、促すように咳払いする。

  「……それで、何で仲悪いんだよ」

  「…………やっぱり聞きたい?」

  「あぁ。複雑な話なんだろ?時間あるし、今聞きたい」

  「……ちょっとえっちな話にもなるけど」

  「っ、それは……我慢する」

  「そう…………わかった」

  こーすけの表情は暗い。何か話すのも辛い内容なんだろうか。そういう時は、慰めるような言葉をかけるのが適切かもしれない。ただ自分でもイライラするくらい、俺は不器用でそういうのが苦手だ。

  こーすけは一度深呼吸すると、まるで他人の話のような口調で語り始める。俺はずっと黙っておくことにした。

  「……まぁきっかけから話すと、中2の時なんだけど………………」

  当時気が弱くて、普通の中学生だった俺は、シンプルにクラスの女の子に恋をして、告白した。結果はダメだったんだけど、その女の子が学校の三年生の不良と付き合ってたらしくて、勘違いした不良が俺のことボコりに来て……んでしばらくいじめられてた。なんだけどそのいじめの内容が、二度と変な気起こさないように俺を雌にするって言い出して、レイプされたの。それも結構な回数。それであろうことか俺はそれが気持ちよすぎて、その不良とのセックスが大好きになって……それ以来俺はゲイになった。中2の間ずっとその不良とはセフレで、それきっかけで稲光に入ることにしたんだけどね。

  「ちなみにその不良がウルフドッグだったの。それもあって哲也のことが入寮日から気になってた」

  「…………マジかよ」

  稲光に入って数ヶ月したあと、もう卒業した三年生の先輩に誘われてセックスしたら、その先輩がめちゃくちゃ上手いって言いふらして、発情期の度に色んな雄に言い寄られるようになったの。まぁ俺は気持ちいいこと好きだったし、気分がのってる時は了承してたんだけど。

  ある日その先輩とヤッてるときに、久郷田先輩が間違って部屋に入ってきちゃって、結局3Pすることになったのね。そのせいで三年生の先輩が、『利根川は大人数にレイプされるのが好きなビッチだ』って噂流しちゃって、誤解とくのが大変なときがあって。その時ホントに実行したバカどもが今の二年生たち。先輩がいないときを見計らって急に部屋に押しかけてきて、真っ暗な部屋で何時間もレイプされてたの。一人一人顔見てないから、二年生全員だったのかは分からないけど。

  終わったあとめちゃくちゃキレた俺は寮監に告げ口して、俺以外の二年生全員を停学処分にしたの。それから俺は今の二年生が大っ嫌いだし、全員死ねばいいと思ってる。哲也以外。それで向こうも停学にされたってことで怒ってて、それからずっと、

  「死ぬほど仲悪いよ」

  「っ、…………めちゃくちゃだな、ほんと」

  こーすけから聞けた話は本当にカオスだ。ちょっとどころじゃなくて終始えっちだったし、二年生がこーすけをレイプしたってのも衝撃的で、頭に入ってこなかった。そんなドロドロした関係のままよく同じ寮に住んでられるなコイツら。

  話終えたこーすけは、当時のことを思い出したのか、苦虫を噛み潰したような顔をしている。合意の上でじゃない性行為なんて、最低にもほどがある。しかもまだ全員未成年なのに。学校も寮の制度を失くそうとは思わなかったんだろうか?

  「…………だから、もうアイツらと仲良くする気はないよ。今年から嫌いな先輩は卒業したし、今の一年と三年はいい人ばっかりだから、問題ない」

  「なんか……ツラいこと聞いて悪かったな」

  「全然いいよ。俺が喋りたくなかったのは、この話を哲也が聞いてドン引きして口も聞いて貰えなくなったらどうしよう、って思ってたから」

  「……いや引いてはいるけど……こーすけも一応被害者だもんな」

  誰が一番悪いとか、そういう話じゃない。ちゃんとした善悪があるわけじゃなくて、全員悪いっちゃ悪いのだ。その度合いが違うだけで、こーすけにも十分落ち度がある。

  ただ強姦は性犯罪だ。二年生はちゃんと反省してこーすけに謝ったのだろうか。それが気になるところだけど。

  「まぁ元はと言えば噂流した先輩が一番悪いんだし、ソイツのせいにして全部水に流してやってもいいんだけど……」

  「でも無理だろ?」

  「うん。あの時はほんとに苦しかったから。ほんの少しも好きでもないやつに犯されるのって、最高に嫌で気持ち悪いんだよ。哲也には分かんないと思うけど」

  けろりとした態度で、いつも通りの様相で、こーすけは言ってのけるけど、まだ高校一年のときに出来た傷は深いだろう。そっと、こーすけの肩を抱き寄せる。

  「……辛かったな」

  「っ、慰めてくれてるの?いいよ、とっくに立ち直ってるし」

  「いや、俺の自己満だ。抱き締めていいか?」

  「…………え、うん………………別にいいのに」

  こーすけの戸惑う声を聞きながらも、俺はまたこーすけを腕の中に閉じ込めていた。昨日と同じだ。違うのは、こーすけが泣いてないってとこだけど。

  こーすけの鼓動が伝わってきた。ずいぶんと早いペースで脈動していて、肌越しに音が伝わってくるくらいだ。

  「……心臓うるせぇな」

  「だって好きな人に抱き締められてるんだもん」

  「……俺がお前をレイプしたら、俺のこと嫌いになんのか?」

  「さぁ、試してみる?」

  こーすけは顔を上げて、俺と目を合わせる。いつものような飄々とした、いたずらっ子のような顔つき。緩やかに微笑むそれは少し妖艶で、尻尾をゆらりとくねらせている。

  「………………いや、やめとく」

  「だろうね。俺も哲也のそういうとこ好きだよ」

  自分から抱き締めといてあれだけど、そろそろ離れたくなってきた。なんかやっぱり恥ずかしいし、抱き締めてるのは紛れもなく雄の友達なんだから。

  これじゃ恋人同士みたいで、嫌な気分だ。こーすけとは友達でいたいから。

  「…………でも多分、哲也には何されても嫌いにはならないよ」

  「………………俺がウルフドッグだから?」

  「ううん、哲也だから……」

  こーすけはさらに俺に強く抱きついてきて、俺から離れる余地もくれなかった。こうなると多分、点呼まではこのままなんだろうな。段々気まずくなるから、もうそろそろ離れたいんだけど。

  ふと、こーすけの頭が目に入る。少し寝ている耳は真っ赤に染まっていて、時折ピクリと空気の震えに反応している。あぁそうか、こいつ今照れてんのか。それを悟られたくなくて、一向に離れようとしないのか。

  数時間前、俺はこーすけを照れさせようとして失敗した。照れたところをいじって、いつもの仕返しをしてやろうかと思ってたんだけど、こんな形で成功するとは思ってもみなかった。

  ただなんだか、バカにする気は微塵も起こらなくて、俺は点呼の呼びかけの放送が鳴るまでの間、ずっと今日の晩御飯のことを考えていた。

  [newpage]

  時刻は飛んで午後七時だ。点呼が終わった後さっさと晩御飯を食べて綺麗になった風呂にも入って、あまり二年生と顔を合わせないようにして部屋に帰ってきた。あんな話聞いた後に、今まで通り顔を合わせるのがなんだか怖くなってしまって、きっと二三日はぎこちない日々が続くんだろう。学校でもできたら寮生とは会いたくないな、と考えながらぼーっとしていた矢先、こーすけからとある提案をされる。

  「ねぇ久郷田先輩の部屋行かない?」

  風呂上がりの火照った体を、網戸越しの夜風で冷やしながら、こーすけは言った。いや久郷田先輩にはさっきまた風呂場で会ったところだから、特に用事もないんだけれど。

  「……なんでだ?」

  「昨日のこと謝りに行かないといけなくて。風呂場は人が多かったから言えなかったから」

  「昨日のこと?」

  ……昨日は、確か発情期の久郷田先輩の性欲処理に付き合っていた、と思っていた。

  「昨日久郷田先輩の相手する直前に泣き出しちゃって……結局しなかったんだ」

  「そうなのか……そういや部屋帰って来たときも泣いてたな」

  その辺はあまり深く考えていなかった。そういうえっちな妄想は極力したくなかったし、知ってる人同士だと余計に生々しいから、避けるようにしていた。何もなかったならいいんだけど。

  涼しい風に目を細めながら、こーすけは言う。

  「だから事情も説明しなきゃいけないし……哲也も一緒にいた方が分かりやすいかなって。今なら風呂上がりだし部屋にいるでしょ?」

  「……まぁ……そうだな」

  でもなんて説明するんだ?こーすけは俺に片思い中で俺はフッたけど諦める気はなくてそれは篠崎も同じで……説明がめちゃくちゃ面倒だな。

  「毛が乾いたら行こ。ついでにアイス貰お」

  「アイス?」

  「久郷田先輩部屋に小さい冷蔵庫置いてるから。よくアイス入れてるんだよね」

  こーすけはにやりと笑って窓を閉めた。こういう子供っぽい一面を、ギャップと言うらしい。いやこーすけの描いたマンガの受け売りだけど。

  四階にはあまり来たことがなかった。そもそも三年生の部屋しかないから行く必要もないし、屋上にもあまり登らない。というか入寮日に寮監に案内されて以来だ。

  対してこーすけは通い慣れている様子で、四階の一番奥の扉の前で立ち止まる。扉の横には部屋の番号と、表札のようにその部屋の生徒名札がかかっているのだけど、久郷田と書かれた名札の下に、

  「…………土橋?」

  「あぁそれあやめ先輩だよ。めっちゃ厳ついでしょ?」

  どうやらあやめ先輩は土橋あやめと言うらしい。そういえば名字を聞いたことがなかったのと、土橋っぽくないキャラクターのせいで困惑する。名字と名前がこんなにかけ離れることってあるんだな。

  「でも土橋先輩って言うと怒るから、みんな下の名前で呼んでる。可愛くないから嫌いなんだって名字」

  「……まぁ、あやめ先輩らしいな」

  とことん雌を追求するあの人なら、自分の名字すら後輩には伝えないだろうな。それくらいストイックだし。

  こーすけはコンコンコン、と三回軽快なノックをならすと、開いてるぞ、と中から久郷田先輩の声が聞こえて、ドアノブを捻った。

  そして扉が開くと、そこには自分の布団で寝転がる久郷田先輩と、その反対側のベッドの上にあやめ先輩、その隣にドレスを着た雌の狐獣人が座っていた。

  俺もこーすけも、一瞬立ち止まってえ?となる。

  確か男子寮に女子生徒は立ち入り禁止だったはずだけど、どうやってこっそり入ってきたんだろうか。

  「あらこーすけちゃんとトーカちゃんっ!見て見て可愛いくない!?」

  「せ、せんぱい見ないでくださいっ!!」

  雌の狐獣人を無理やり立たせるあやめ先輩と、恥ずかしそうに顔を隠す狐獣人。その仕草に一瞬可愛いなと思ったけれど、その聞き覚えのある声に頭に疑問が浮かぶ。

  部屋に入って狐獣人にマズルを近づける。香ってきたのは、あやめ先輩と同じラベンダーの香水と、その下に紛れて僅かに匂う、ハイビスカスの香り。

  「っ、お前上柴か!?」

  「あ、ほんとだ……今年は完成度高いですね、あやめ先輩」

  「でしょう!?シバちゃん顔整ってるから、絶対可愛くなると思ったのよ!!」

  まじまじと顔を真っ赤にする上柴を観察してみる。桃色のドレスを着て、化粧でまつげを伸ばして、朝見たときよりも毛色が綺麗な黄金色に光っている。香水のせいで雄の匂いはかなり紛れてるし、街で見かけたら絶対雌だと思い込む。

  「そ、そんなまじまじと見ないでください……」

  「あぁ、いや……可愛いかったから」

  「っ、…………もう…………………………」

  一瞬だけ俺と目を合わせて、すぐに顔を手で覆い隠す上柴。いや、雄だと分かってなかったら俺も普通にドキドキしていただろう。

  「でもまだ完成じゃないのよ。ここら辺の毛がボサボサだから、軽くブラッシングしてパーマにしたいなぁって」

  「いいですねそれ。上柴くん毛長いからいけそう」

  「や、やめてください…………」

  こーすけとあやめ先輩があれこれ話し始めたので、久郷田先輩側の布団に寄る。女装にしてもずいぶん手が混んでるし、完成度も高い。でもなんでこんなことしてるんだろうか。

  あくびをしながらその様子を眺めている久郷田先輩の近くに寄って、話しかけてみる。

  「……先輩、隣いいですか?」

  「ん?あぁ………………」

  あやめ先輩とは対照的に、完全に雄の臭いを漂わせて、タンクトップと半ズボンの久郷田先輩。起き上がって、俺に座るスペースを作ってくれた。

  ここで改めて、部屋全体を見渡してみる。

  まずあやめ先輩側のスペースは、机や壁紙まで着飾っていて、ピンク色が強く主張している。机には香水や化粧品、女性誌がきっちりと並べられていて、とてもじゃないが勉強机には見えない。ベッドシーツも何やらブランドのロゴみたいなのが描かれた、ほんとに雌の部屋っぽい印象だ。洋服箪笥も数が足りなかったのか、窓際に小さめのが一つ置いてあるし。

  対して久郷田先輩側のスペースは真逆で、何も手を加えていない壁紙や机。乱雑に教科書や参考書が散らばっていて、こっちも真面目に勉強しているようには見えない。久郷田先輩はベッドを分解してしまったようで、敷布団が床の上に敷かれている。その布団の上にも洋服や携帯が投げ散らかされていて、壁にはサッカーチームのポスターが貼ってあった。窓際には小さな冷蔵庫と、その上に古いサッカーボールが飾ってある。

  こうも真逆な趣味の二人を、よく一緒の部屋にしたものだ。もめたりはしないんだろうか。

  まだ眠そうな久郷田先輩の横に、同じくあぐらをかいて座る。

  「……あやめ先輩は、後輩を女装させるのが趣味なんですか?」

  「いや、毎年新入生が来ると一番女装が似合いそうなやつを連れてきて遊ぶんだよ。去年は利根川だったしな」

  こーすけも女装させられていたのか。だから飲み込みが異常に早かったんだろう。今もノリノリで上柴をいじくってるし。

  久郷田先輩は上柴の女装姿にはあまりピンと来ていないようで、何か他のことを考えているようだった。

  「……そういやお前らは何の用だ?女装を見に来たんじゃねぇんだろ?」

  「あ、それなんですけど…………」

  急にこーすけがこっちを向いて、床にしゃがんで久郷田先輩と目線を合わせる。そうだそういえば、こーすけが謝りに来たんだった。

  「……昨日のこと、本当にすみません」

  「いや別にいい。事情はあやめからほとんど聞いた。んでややこしい関係なんだろ?」

  「まぁ……はい。でも今は友達です」

  「そういう寮だし、色恋沙汰は好きにしろ。次の発情期は篠崎にでも頼むわ」

  そう言って気だるそうに、久郷田先輩は俺のあぐらの上に脚を乗せて寝転んだ。言い方は乱暴だけど、寛容で優しい先輩だ。強面のわりに後輩から好かれるのも、なんとなく理由がわかる。

  それはともかく、次は篠崎か。あいつ変態だから意外とあっさり受け入れるのかもしれない。この寮の人は不純同性交遊という言葉を知らないらしい。

  「こーすけちゃんここ持っててっ!!」

  「あ、はい」

  こーすけは立ち上がって、あやめ先輩の方を手伝いに行った。上柴の耳にリボンが付けられている。

  ちらりと久郷田先輩を見ると、目が合ってなんか気まずくなった。まさか先輩も俺の方を見ているとは思わなかった。

  「久郷田先輩、足…………」

  「来週の月曜。暇か?」

  「え?」

  俺の言葉を遮るように、久郷田先輩は被せて聞いてきた。来週の月曜日?あぁそうか、確か祝日だったはずだ。学校が休みなら、特に用事はないと思うけど。

  「祝日だろ。用事は?」

  「特にないです…………」

  「んじゃ出かけるぞ。服買いに行きてぇ」

  「お、俺とですか?」

  急な遊びの誘いに、少し驚いてしまった。入寮してから遊びに誘われたことは……高田を除いて一回もなかった。まさか久郷田先輩に誘われるとは思ってなかったんだけど。

  きょとんとした俺の顔を見て、久郷田先輩はにやりと微笑む。

  「お前以外誰に言ってんだよ。お前田舎者なんだろ?都会案内してやるよ」

  「……まぁ……そうですけど…………あの…………」

  なんで急に久郷田先輩が誘ってきたのかも謎だった。一言で言えば、俺たちそんなに仲良くないだろ、っていう話だ。風呂場でセクハラされたことがあるくらいで、個人的な話は何一つしたこともないのに。

  それを失礼がないように伝えるにはどうしたら良いのか、頭を悩ませる。

  「んだよ断る気か?」

  久郷田先輩は急に起き上がって、俺を見下ろす。足は俺の膝の上に置いたまま、大きな手は俺の頭を掴んでいた。

  「……断ったら犯すぞ」

  「っ、い、いきます…………」

  ギロリと強面で睨まれながら、恐ろしい脅しの言葉を吐かれたら、断れるわけもない。それにさっき用事はない、って言っちゃったから、嘘もつけないしな。

  「そうか、じゃ楽しみにしとけ」

  久郷田先輩は俺の頭をわしゃわしゃと掻き乱すように撫でると、満足げな顔でまた寝転がった。どこが寛容で優しい先輩だ、めちゃくちゃ身勝手じゃねぇかこの人。

  少し気を使う予定が入ってしまった。せめて篠崎とかも連れていければ、多少気が楽になるかもしれない。後で頼んでみようか。

  でも今はそれよりも、

  「…………久郷田先輩、行くのでアイスください」

  「あ?利根川から聞いたのか」

  「はい。喉渇きました」

  ちょっと篠崎を見習って、図々しくお願いしてみる。これくらいの方が、先輩としては接しやすかったりするんだろうか。それとも失礼だって怒られるか。

  久郷田先輩はどちらでもない様子で、数秒間考え込むような素振りを見せる。ダメならダメでいいんだけどな。そこまで食べたいわけじゃないし。

  「……なら、先輩のアイスしゃぶらせてくださいって頼めよ」

  久郷田先輩はニヤニヤと悪人面で笑うと、尻尾で俺の背中を軽く叩いた。

  「?先輩のアイスしゃぶらせてください……」

  何の気なしに、俺がそのままの言葉を繰り返すと、先ほどまでワイワイと楽しそうに女装していた三人も急に黙りこみ、俺のことを凝視する。

  え?なんか俺変なこと言ったのか?

  「…………え、何?…………」

  「……あーそっか、お前オブラートな下ネタわかんねぇんだもんな」

  久郷田先輩は寝転がりながら冷蔵庫に手を伸ばして、中から棒アイスを一本取り出した。爽やかな青色のソーダ味のアイスが、キラキラと光っている。

  「オラ、ちゃんと丁寧にしゃぶって食えよ?」

  「……あっ、はい…………いただきます……」

  こーすけは呆れた顔をしているし、上柴は顔を赤くしてよそ見しているし、あやめ先輩は頭を抱えている。

  久郷田先輩はというと、ニヤニヤ笑いながら俺がアイスをしゃぶっている様子を、嬉しそうに見ていた。

  ほんとに何なんだ……この人たち。

  数分間静かな部屋の中に、俺がアイスを舐める音だけがこだましていた。

  九時の点呼が終わると、皆一斉に動き出して、気だるそうに食堂から出ていく。一年生は晩御飯の片付けがあるし、他の寮生も明日が学校だからか、終わっていない宿題に嘆いていたり、部活の不満を口にしたりと、各々のテンションが下がっている。俺も明日の準備を済ませて、さっさと寝てしまおうか。どうせ起きるのは明日の早朝五時だし、睡眠時間は多い方がいい。

  ……ただ俺には、やらないといけないことがあった。

  食器を洗う狼獣人の肩を叩いて、後ろを振り向かせる。揺れる尻尾が相変わらずうるさい。

  「あれ?センパイどうしたんすか?」

  「……ちょっと来てくれ」

  篠崎は食器を洗う手を止めて、パッパッと水気を払うと、黙って食堂を出る俺に着いてきた。昨日は篠崎に引っ張っていかれたけど、今日は俺が先導して、もう電気も消えて薄暗い、脱衣所の前で立ち止まる。当然誰もいないし、誰かに聞かれることもないだろう。

  「センパイ?またなんかあったんすか?」

  篠崎は不安そうな顔だ。そういえば昨日は、俺の疑問や悩みを、篠崎がアドバイスして解決してくれたんだった。一年生のだらしない狼のくせに、人付き合いは誰よりも上手だ。

  暗い廊下に、ポツリと声が響きわたる。

  「いや、そうじゃなくて…………約束だろ…………?」

  「…………約束?なんのすか?」

  まだピンと来ていない篠崎に、イライラが募りつつも、もうさっさと済ましてしまおうという気持ちが先行して、アホ面の狼に、一歩近寄った。

  篠崎とは身長がほとんど変わらない。篠崎の姿勢が悪いせいで、いつも俺の方が少し目線が高いけれど、本当は篠崎の方がちょっと高い。それに気づいたときは、なんだか負けたような気がして嫌だった。

  でも今は、そんなことどうでもよく感じた。篠崎の肩を掴んで、顔を近づけていく。篠崎は背筋をピンと伸ばしたまま、尻尾以外は微動だにしない。うるさい尻尾だ、今度足に縛ってやろうか。

  鼻先から、篠崎の匂いが広がる。少しの汗と、ミントのシャンプーと、形容できない温かい香り。それがこいつの匂いだ。それを嫌に思っていない自分も、嫌だった。

  篠崎の頬にマズルを近づけて、先端が触れた。

  その数秒間が、何時間にも感じられるほど、俺は人生で一番緊張していた。こんなこと、自分からしたの初めてだ。

  そっと口を離して、顔を背ける。まともに顔を見れるほど、俺は冷静じゃなかった。

  「……え、えっちなことする…………約束だったろ?」

  「………………………………………………………………」

  ちらりと篠崎の様子を見ると、ポカーンと口を開けて、俺をガン見していた。そのあまりにもバカっぽい表情に、口元が緩む。

  そして、次の瞬間、篠崎は俺をめちゃくちゃな力で抱き締めてきた。

  「っ、センパイぃぃいいいい!!!!!可愛すぎますよホントっ!!!」

  「ッッ!?やめろ離れろっ!!!」

  「そんなの俺も忘れてたくらいの冗談なのに律儀にしてくれて!!しかもえっちなことって言われてほっぺちゅーーって!!!可愛いにもほどがありますよあーもうセンパイ大好き!!結婚してくださいっ!!!」

  「誰がするかっ!!!離れろよ気持ち悪い…………」

  「いやもう一生離したくないっす……」

  ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、篠崎はしばらくの間ずっと俺を抱き締めていた。あまりにも強い力に抵抗する気力も失せて、人形のように揺すられながら、篠崎の愛の言葉を聞かされ続けていた。

  まぁでも、これも良かったかもしれない。

  抱き締められてるおかけで、耳まで真っ赤な俺の顔は、篠崎に見られずに済んだのだった。